○李時勉・陳敬宗・劉鉉(薩琦)・邢讓(李紹)・林瀚(子に庭㭿・庭機、孫に燫・烴)・謝鐸・魯鐸(趙永)
性質は剛直で、慨然として天下を己が任とした。十九年、三殿が災害に遭い、直言を求める詔が下った。時務十五事を条上した。成祖は北京への遷都を決計し、当時は遠人を招来していた。時に時勉は営建の非を言い、また遠国の入貢人を輦下に群居させるべきでないと述べた。帝の意に逆らった。後に、その他の言説を観ると、多く時弊に中り、地に投げつけたが、再び取り上げて見ること再び、ついに多く施行された。まもなく讒言されて獄に下された。一年余りして釈放され、楊栄が復職を推薦した。
宣帝が即位して既に一年余り過ぎた時、ある者が時勉が先帝に得罪した様子を言上した。帝は震怒し、使者に命じて、「縛って来させよ。朕が親しく審問し、必ず殺す」と。後に、また王指揮に命じて即座に西市で縛り斬りにせよ、入って見せるな、と。王指揮が端西の旁門から出ると、先の使者が既に時勉を縛って端東の旁門から入り、互いに会わなかった。帝は遥かに見て罵って言うには、「爾小臣、敢えて先帝に触れるか!疏に何と書いてある?早く言え」と。時勉は叩頭して言うには、「臣は諒闇中に妃嬪を近づけるべからず、皇太子は左右を遠ざけるべからずと申し上げました」と。帝はこの言葉を聞き、顔色がやや晴れた。徐々に六事まで数えて止めた。帝は全て陳べるよう命じた。答えて言うには、「臣は惶懼して悉く覚えておりません」と。帝の意はますます解け、「これはただ言い難いだけだ。草稿はどこにある?」と言うと、答えて「焼いてしまいました」と言った。帝はそこで太息し、時勉の忠を称え、直ちに赦し、侍読の官に復した。王指揮が獄から還って来た時には、時勉は既に冠帯を襲って階前に立っていた。
初め、時勉は国学の改築を請うた。帝は王振に命じて視察させたが、時勉は振を待遇するに礼を加えなかった。振はこれを恨み、その短所を探ったが、得る所がなかった。時勉がかつて彜倫堂の樹木の傍枝を刈ったことがあり、振はそこで時勉が官樹を擅りに伐って家に入れたと上言した。中旨を取り、司業の趙琬・掌饌の金鑒と共に国子監の前に枷をはめられた。官校が到着した時、時勉はちょうど東堂に坐って課士の巻子を閲しており、徐々に諸生を呼んで品第の高下を定め、僚属を顧みて甲乙を定め、榜を掲げてから出立した。盛暑の時で、枷を三日間解かなかった。監生の李貴ら千余人が闕に詣でて赦免を乞うた。石大用という者がおり、上章して身をもって代わることを願った。諸生が朝門に集まり、呼び声が殿庭に徹した。振は諸生の不平を聞き、変事を激することを恐れた。また通政司が大用の上章を奏すると、振は内心慚じた。助教の李継が会昌侯孫忠に解くことを請うた。忠は皇太后の父である。忠の誕生日に、太后が人を遣わして忠の家に賜物をした。忠は付けて太后に奏上し、太后が帝に言った。帝は初め知らなかったが、直ちにこれを釈放した。李継は行いを拘束せず、時勉はかつて規切した。李継は全て用いることはできなかったが、心に時勉の言葉を感じ、この時に至って竟にその助けを得た。
大用は、豊潤の人である。朴訥で、初めは六館に知られていなかったが、この時名声が京師に動いた。翌年郷試に及第し、官は戸部主事に至った。
時勉が祭酒となって六年、格・致・誠・正の四号を掲げ、訓励は甚だ切実であった。廉恥を崇め、奔競を抑え、賢否を別ち、勧懲を示した。諸生で貧しくて婚葬ができない者には、餐銭を節約して贍給した。督いて読書を命じ、灯火は夜明けに達し、吟誦の声は絶えず、人才は昔時に盛んであった。
初め、太祖は宋訥を祭酒とし、最も有名であった。その後、寧化の張顯宗が学規を申明し、人はこれを訥に比した。また胡儼は成祖の世に当たり、特に人師と称された。しかし直節と重望をもって士類の依帰するところとなった者は、時勉に如く者はない。英国公張輔及び諸侯伯が奏上し、共に国子監に詣でて講義を聴きたいと願った。帝は三月三日に行くことを命じた。時勉が師席に昇ると、諸生は次第に立ち、『五経』を各一章講じた。事が終わると、酒饌を設け、諸侯伯は譲って言うには、「教えを受ける地では、諸生の列に坐すべきである」と。ただ張輔のみが抗礼した。諸生が『鹿鳴』の詩を歌い、賓主は雍雍として、暮れ尽きて散じ去り、人はこれを太平の盛事と称した。
敬宗は美しい鬚髯を有し、容儀端整、歩履に定則あり、力を師道に自任す。教条を立て、陋習を革む。六館の士千余人、毎に堂に升って講を聴き、饌を設けて会食するも、整粛として朝廷の如し。稍々容を失すれば、即ち堂下に待罪せしむ。僚属その厳しきを憚り、他事を以て誣い、法司に訟う。周忱は敬宗と善し、曰く、「何ぞ疏を具して自ら理めざる」と。草を属すに、辞稍々遷就す。敬宗驚きて曰く、「君を誑かすこと無からんや」と。果たして上せず、事も亦竟に白し。
満考して京師に入る。王振これを見んと欲し、忱に意を道わしむ。敬宗曰く、「吾れ諸生の師表たり。而して私に中貴を謁せば、何を以て諸生に対せん」と。振屈すべからざるを知り、乃ちこれに文錦羊酒を貽し、程子の『四箴』を書くことを求め、その来謝するを冀う。敬宗書き畢り、署名のみ。その幣を返し、終に見え往かず。王直吏部尚書と為り、従容として謂いて曰く、「先生官司成久し。将に公を薦めて司寇と為さんとす」と。敬宗曰く、「公は我を知る者なり。今天下の英才と終日論議するは、顧みて楽しからずや」と。性酒を善く飲み、数斗に至るも乱れず。襄城伯李隆南京を守備し、毎に留めて飲ましむ。声伎左右に満つ。竟日杯を挙ぐるも、嘗て一たびも盼みず。その厳重此の如し。
初め、敬宗は李時勉と共に翰林に在り、袁忠徹嘗て相を見る。二人を曳き並べて列し曰く、「二公他日功名相埒たん」と。敬宗は儀観魁梧、時勉は貌稍々寢たり。後二人同時に両京の祭酒と為る。時勉は平恕にして士を得、敬宗は方厳なり。明世を終えて賢祭酒を称するに、南陳北李と曰う。
劉鉉、字は宗器、長洲の人。生まれて弥月にして孤と為る。長ずるに及び、股を刲いて母の疾を療す。母卒し、哀毀し、孝を以て聞こゆ。永楽中、善書を以て翰林に征入され、順天郷試に挙げられ、中書舎人を授かる。宣徳の時、成祖・仁宗の『実録』を修するに預かり、兵部主事に遷り、仍内廷に供事す。正統中、再び『宣宗実録』を修し、侍講に進む。学士曹鼐等の薦めに以て、修撰王振と庶吉士を教習す。
鉉は性介特にして、言行苟もせず。庶吉士を教え及び国子生を課するに、規条厳整、読書老いに至るも弥篤し。仲子瀚進士を以て南方に使す。行に瀕り、その衣篋を閲す。還るに比し、篋故の如し。乃ち喜びて曰く、「吾が門を玷すこと無し」と。瀚官終に副使、能く父の訓を守る。
鑒既に罪を得、吏部尚書姚夔致仕の礼部侍郎李紹を起して祭酒と為さんことを請う。馳召す。而して紹已に卒す。
弘治初め、召されて『憲宗実録』の編修に当たり、経筵講官を充てられた。やがて国子監祭酒に遷り、礼部右侍郎に進み、監事を掌ることは従前の通りであった。国学を司ることおよそ十年、饌銀は毎年百数に及んだが、すべて官に貯え、順次に署舎を営建した。師儒が賃借居住を免れたのは、瀚に始まる。吏部左侍郎・右侍郎を歴任した。
瀚は元来剛直方正で、守備の中官と合わず、他の内臣で進貢の途上その地を通る者を、瀚は常に抑制したため、ついに劉瑾に讒言された。ちょうど劉健・謝遷が政務を罷めると、瀚はこれを聞いて嘆息した。言官の戴銑らが健・遷を留任させようとして捕らえられると、瀚ひとり餞別を贈った。瑾は聞いてますます恨んだ。翌年二月、銑らの獄詞を口実に、瀚を浙江参政に左遷した。致仕した。まもなく奸党と指弾された。瑾が誅されると、官に復し、致仕した。月給と歳禄を故事に従って与えられた。やがて有司に命じて時節ごとに見舞わせた。瀚は人となり謙虚で温厚であったが、自らの節操は厳然としていた。八十六歳で卒した。太子太保を追贈され、文安と諡された。子は九人、庭㭿・庭機が最も顕著である。
嘉靖初め、父の喪に服し、喪明けの後、江西に起官し、湖広左布政使・右布政使を歴任した。治行卓異として推挙され、右副都御史に抜擢され、保定諸府を巡撫した。工部右侍郎を歴任した。詔に応じて郊壇の大工事、南城・西苑の相次ぐ造営について、倹約をもって天下に率先することを請うた。また災害による損傷を理由に、采木・焼造の諸使節を撤還することを乞うた。左侍郎に進み、尚書に拝され、太子太保を加えられた。当時、帝は大いに土木工事を興しており、庭㭿の規画は多く意にかなった。ちょうど詔して沙河に行宮を建てることとなり、庭㭿は天下の田賦を加えることを議し、御史の桑喬・給事中の管見に弾劾された。罷免を乞い、帰郷して卒した。少保を追贈され、康懿と諡された。炫はついに通政司参議に至った。
庭機は、字を利仁といい、瀚の末子である。嘉靖十四年の進士。庶吉士に改められ、検討を授かり、司業に遷り、南京祭酒に抜擢され、累進して工部尚書に至った。穆宗が即位すると、礼部に転じ、いずれも陪京の官にあった。当時、子の燫はすでに祭酒となっており、ついに致仕して帰郷した。万暦九年に卒し、七十六歳であった。太子太保を追贈され、文僖と諡された。子に燫・烴がある。
烴は、字を貞燿といい、庭機の次子である。嘉靖四十一年の進士。戸部主事を授かり、広西副使を歴任した。兄の燫が卒すると、急な用事で帰郷し養った。久しくして、太僕少卿を歴任した。災異により鉱税の害を極言し、逮捕拘禁された諸臣を釈放することを請うた。回答はなかった。ついに南京工部尚書で致仕した。林氏は三世で五人の尚書を出し、いずれも内行が修潔で、当時に称えられた。
謝鐸は、字を鳴治といい、浙江太平の人である。天順末の進士。庶吉士に改められ、編修を授かり、『英宗実録』の編修に参与した。性質は孤高で、学に励み古を慕い、経世の務めを講求した。
成化九年、『通鑑綱目』を校勘し、上言した。「『綱目』一書は、帝王の鑑である。陛下が重ねて考定を命じられたのは、必ずや経筵に進講し、治を致す資とされるためである。今、天下には太平の形はあれど、太平の実はなく、因循と積習により、実を廃して名に従っている。綱紀を振るうといいながら、小人は畏忌せず、風俗を励ますといいながら、縉紳は廉恥を棄てる。官司を飭めといいながら、汚暴はますます甚だしく、軍民を恤むといいながら、疲弊はますます極まる。減省に制はあれど、興作は毎に奔命に疲れ、蠲免に詔はあれど、征斂は毎に追呼に困る。考察は挙げられないわけではないが、幸門は日に開き、簡練は行われないわけではないが、私的な妨害は日に衆い。賞は府庫の財を尽くしても、功ある者は勧められず、罰は讞覆の案を窮めても、罪ある者は懲らされない。ひいては修省祈祷の命が屡々頒布されても、水旱災傷の来ることが絶えない。禁垣は震動し、城門は災を示す。疏動旋転を思わず、もって天人の望みに大いに答えることがなければ、これはまことに憂うべきことである。願わくは陛下、古を以て今を証し、兢兢業業とされ、然る後に長治久安を得られ、載籍が無用とならないようにせられよ。」帝は従うことができなかった。
当時、塞上に警報があり、備辺事宜を条上し、兵を養い粟を積み、東勝・河套の旧疆を収復することを請うた。また言う。「今の辺将は、晩唐の債帥と異ならない。敗れれば士卒がその殃を受け、勝てば権豪がその賞を蒙る。しかも軍餉を克侵し、月錢を辦納する。三軍はまさに怨憤を胸に満たし、誰が国のために命を効しようとする者があろうか。」言葉はいずれも時弊を切った。任期が満ちて、侍講に進み、経筵に直った。二度の喪に遭い、喪明けの後、親を養うに及ばなかったため、ついに起官しなかった。
翌年、病を理由に辞職して去る。家に居ることおよそ十年、推薦する者がますます多くなる。ちょうど国子監に祭酒が欠員し、部議が彼を起用する。帝はもとより鐸を重んじ、礼部右侍郎に抜擢し、祭酒の事務を管掌させる。たびたび辞退するも、許されず。時に章懋が南祭酒であり、両人ともに人師として、諸生は互いに慶賀し合う。五年在職し、病を理由に帰郷する。
鐸は経術に深く通じ、文章を為すに体要を有す。二度国子監の師となり、課程を厳しくし、請謁を杜絶し、号舎を増築し、堂室を修繕し、廟門を拡張す。公廨三十余を置きその属僚を居住させた。諸生の貧しい者には周済し、死者には官に請うて定めを為し、これを殮らしむ。家に居ては族党を周済することを好み、自らは布衣蔬食を以て奉ず。正徳五年に卒す。礼部尚書を贈られ、文肅と諡される。
嘉靖初め、刑部尚書林俊の推薦により、孝宗朝の謝鐸の故事を用い、南祭酒として起用される。一年余りして、再び致仕を請う。累次徴召されても起きず、卒す。文恪と諡される。
鐸は徳望を以て時に重んぜらる。郷里に居る時、盗賊が牛馬を掠奪し、ある者が欺いて言うに「魯祭酒の物なり」と、これを捨てて去る。大学士李東陽の誕生日に、鐸は司業として、祭酒趙永とともに皆その門生なり、相約して二つの手拭いを以て寿ぎとす。笥を検するに、無し、徐に曰く「郷里に乾魚を饋る者あり、何ぞこれを以て往かんや」と。諸庖に詢うに、食すこと過半なり、その余りを以て東陽に詣る。東陽喜び、魚を烹り酒を置き、二人を留めて飲ませ、極めて歓びて乃ち去る。
永、字は爾錫、臨淮の人。鐸と同年の進士、また編修に官す。また鐸と相次いで祭酒となる。まもなく南京礼部侍郎に遷る。大学士楊一清その才を重んじ、引きて自らを助けんと欲し、乃ち他の語を以てこれを挑む。永は正色して曰く「冠纓を以て吾が道を汚すべけんや」と。遂に致仕を請うて去る。人その廉介を服す。
賛に曰く、明の太祖の時、国学の師儒は、体貌優れて重んぜらる。魏観・宋訥が祭酒となり、人材を造就し、よくその職を挙ぐ。諸生が命を奉じて使いする者は、往々にして大官に擢げられ、専ら科目を以て進むに非ず。中葉以降、流品稍々雑に、撥歴もまた具文と為り、成均の師席は、儒臣の序遷の地に過ぎざるに至る。李時勉・陳敬宗ら諸人は、方正廉潔にして鯁直、表範卓然たり、類してこれを伝え、観る者に法とすべき所あらしめん。