明史

列傳第五十一 李時勉 陳敬宗 劉鉉 邢讓 林瀚 謝鐸 魯鐸

○李時勉・陳敬宗・劉鉉(薩琦)・邢讓(李紹)・林瀚(子に庭㭿・庭機、孫に燫・烴)・謝鐸・魯鐸(趙永)

李時勉は、名を懋といい、字をもって行われる。安福の人である。童児の時、冬の寒さに、衾をもって足を包み桶の中に納れ、誦読を止めなかった。永楽二年の進士に及第した。庶吉士に選ばれ、文淵閣に進学し、『太祖実録』の編修に参与した。刑部主事に授けられ、また再び実録の重修に参与した。書が完成すると、翰林侍読に改めた。

性質は剛直で、慨然として天下を己が任とした。十九年、三殿が災害に遭い、直言を求める詔が下った。時務十五事を条上した。成祖は北京への遷都を決計し、当時は遠人を招来していた。時に時勉は営建の非を言い、また遠国の入貢人を輦下に群居させるべきでないと述べた。帝の意に逆らった。後に、その他の言説を観ると、多く時弊に中り、地に投げつけたが、再び取り上げて見ること再び、ついに多く施行された。まもなく讒言されて獄に下された。一年余りして釈放され、楊栄が復職を推薦した。

洪熙元年、再び上疏して事を言上した。仁宗は甚だ怒り、便殿に召し出して、対して屈せず。武士に命じて金瓜で撲たせ、肋骨を三本折られ、曳き出されてほとんど死に至った。翌日、交阯道御史に改め、日に囚人一人を慮り、一事を言うことを命じた。章を三度上奏して、ようやく錦衣衛の獄に下された。時勉は錦衣千戸の某に恩があり、千戸がたまたま獄を莅むこととなり、密かに医者を召し、海外の血竭で治療して、死なずに済んだ。仁宗の病が大いに篤くなり、夏原吉に言うには、「時勉が朝廷で我を辱めた」と。言い終わると、勃然として怒り、原吉が慰め解いた。その夜、帝は崩御した。

宣帝が即位して既に一年余り過ぎた時、ある者が時勉が先帝に得罪した様子を言上した。帝は震怒し、使者に命じて、「縛って来させよ。朕が親しく審問し、必ず殺す」と。後に、また王指揮に命じて即座に西市で縛り斬りにせよ、入って見せるな、と。王指揮が端西の旁門から出ると、先の使者が既に時勉を縛って端東の旁門から入り、互いに会わなかった。帝は遥かに見て罵って言うには、「なんじ小臣、敢えて先帝に触れるか!疏に何と書いてある?早く言え」と。時勉は叩頭して言うには、「臣は諒闇中に妃嬪を近づけるべからず、皇太子は左右を遠ざけるべからずと申し上げました」と。帝はこの言葉を聞き、顔色がやや晴れた。徐々に六事まで数えて止めた。帝は全て陳べるよう命じた。答えて言うには、「臣は惶懼して悉く覚えておりません」と。帝の意はますます解け、「これはただ言い難いだけだ。草稿はどこにある?」と言うと、答えて「焼いてしまいました」と言った。帝はそこで太息し、時勉の忠を称え、直ちに赦し、侍読の官に復した。王指揮が獄から還って来た時には、時勉は既に冠帯を襲って階前に立っていた。

宣徳五年、『成祖実録』の編修が完成し、侍読学士に遷った。帝が史館に行幸し、金銭を撒いて諸学士に賜った。皆うつむいて拾ったが、時勉だけは正立していた。帝はそこで余った銭を彼に賜った。正統三年、『宣宗実録』の完成により、学士に進み、院事を掌り兼ねて経筵官となった。六年、貝泰に代わって祭酒となった。八年、致仕を乞うたが、許されなかった。

初め、時勉は国学の改築を請うた。帝は王振に命じて視察させたが、時勉は振を待遇するに礼を加えなかった。振はこれを恨み、その短所を探ったが、得る所がなかった。時勉がかつて彜倫堂の樹木の傍枝を刈ったことがあり、振はそこで時勉が官樹をみだりに伐って家に入れたと上言した。中旨を取り、司業の趙琬・掌饌の金鑒と共に国子監の前に枷をはめられた。官校が到着した時、時勉はちょうど東堂に坐って課士の巻子を閲しており、徐々に諸生を呼んで品第の高下を定め、僚属を顧みて甲乙を定め、榜を掲げてから出立した。盛暑の時で、枷を三日間解かなかった。監生の李貴ら千余人が闕に詣でて赦免を乞うた。石大用という者がおり、上章して身をもって代わることを願った。諸生が朝門に集まり、呼び声が殿庭に徹した。振は諸生の不平を聞き、変事を激することを恐れた。また通政司が大用の上章を奏すると、振は内心慚じた。助教の李継が会昌侯孫忠に解くことを請うた。忠は皇太后の父である。忠の誕生日に、太后が人を遣わして忠の家に賜物をした。忠は付けて太后に奏上し、太后が帝に言った。帝は初め知らなかったが、直ちにこれを釈放した。李継は行いを拘束せず、時勉はかつて規切した。李継は全て用いることはできなかったが、心に時勉の言葉を感じ、この時に至って竟にその助けを得た。

大用は、豊潤の人である。朴訥で、初めは六館に知られていなかったが、この時名声が京師に動いた。翌年郷試に及第し、官は戸部主事に至った。

九年、帝が学を視た。時勉が進講して『尚書』を講じ、辞旨は清朗であった。帝は悦び、賜与を加えた。連続して上疏して致仕を乞うたが、許されなかった。十二年春、ようやく請いが聞き届けられた。朝臣及び国子生で都門外で餞別した者は三千人近くに及び、ある者は遠くまで送って舟に乗るまで行き、舟が出るのを待って去った。

英宗が北狩されると、時勉は日夜悲慟した。その孫の驥を遣わして闕に上書させ、将を選び兵を練り、君子を親しみ小人を遠ざけ、忠節を褒め表し、車駕を迎え還し、仇を復し恥を雪ぐことを請うた。景泰元年、旨を得て褒め答えられたが、時勉は既に卒していた。七十七歳。諡は文毅。成化五年、その孫の颙の請いにより、諡を忠文に改め、礼部侍郎を追贈された。

時勉が祭酒となって六年、格・致・誠・正の四号を掲げ、訓励は甚だ切実であった。廉恥を崇め、奔競を抑え、賢否を別ち、勧懲を示した。諸生で貧しくて婚葬ができない者には、餐銭を節約して贍給した。督いて読書を命じ、灯火は夜明けに達し、吟誦の声は絶えず、人才は昔時に盛んであった。

初め、太祖は宋訥を祭酒とし、最も有名であった。その後、寧化の張顯宗が学規を申明し、人はこれを訥に比した。また胡儼は成祖の世に当たり、特に人師と称された。しかし直節と重望をもって士類の依帰するところとなった者は、時勉に如く者はない。英国公張輔及び諸侯伯が奏上し、共に国子監に詣でて講義を聴きたいと願った。帝は三月三日に行くことを命じた。時勉が師席に昇ると、諸生は次第に立ち、『五経』を各一章講じた。事が終わると、酒饌を設け、諸侯伯は譲って言うには、「教えを受ける地では、諸生の列に坐すべきである」と。ただ張輔のみが抗礼した。諸生が『鹿鳴』の詩を歌い、賓主は雍雍として、暮れ尽きて散じ去り、人はこれを太平の盛事と称した。

陳敬宗は、字を光世といい、慈渓の人である。永楽二年の進士。庶吉士に選ばれ、文淵閣に進学し、『永楽大典』の編修に参与した。書が完成すると、刑部主事に授けられた。また『五経四書大全』の編修に参与し、再び『太祖実録』の編修に参与し、翰林侍講に授けられた。母の喪で帰郷した。

宣徳元年に起用されて両朝の実録を修し、翌年南京国子監司業に転じた。帝は諭して曰く、「侍講は清華の選、司業は師儒の席。位は崇くないが、任は重い」と。九年、任期満ちて祭酒に選ばれ、正統三年に上書して言う、「旧制では諸生は在監の久近によって諸司に送って事を歴せしめる。近頃は事によって予告する者があり、累年遷延し、撥送の期に至って初めて赴く。実に奸惰を長ずる。請う、肄業の多寡を以て次第と為さんことを。また近く願って雑職に就くの例あり。士風卑陋、誠に細故に非ず。請う、禁止を加えんことを」と。従う。

敬宗は美しい鬚髯を有し、容儀端整、歩履に定則あり、力を師道に自任す。教条を立て、陋習を革む。六館の士千余人、毎に堂に升って講を聴き、饌を設けて会食するも、整粛として朝廷の如し。稍々容を失すれば、即ち堂下に待罪せしむ。僚属その厳しきを憚り、他事を以て誣い、法司に訟う。周忱は敬宗と善し、曰く、「何ぞ疏を具して自ら理めざる」と。草を属すに、辞稍々遷就す。敬宗驚きて曰く、「君を誑かすこと無からんや」と。果たして上せず、事も亦竟に白し。

満考して京師に入る。王振これを見んと欲し、忱に意を道わしむ。敬宗曰く、「吾れ諸生の師表たり。而して私に中貴を謁せば、何を以て諸生に対せん」と。振屈すべからざるを知り、乃ちこれに文錦羊酒を貽し、程子の『四箴』を書くことを求め、その来謝するを冀う。敬宗書き畢り、署名のみ。その幣を返し、終に見え往かず。王直吏部尚書と為り、従容として謂いて曰く、「先生官司成久し。将に公を薦めて司寇と為さんとす」と。敬宗曰く、「公は我を知る者なり。今天下の英才と終日論議するは、顧みて楽しからずや」と。性酒を善く飲み、数斗に至るも乱れず。襄城伯李隆南京を守備し、毎に留めて飲ましむ。声伎左右に満つ。竟日杯を挙ぐるも、嘗て一たびも盼みず。その厳重此の如し。

十二年冬に休を乞うも、許されず。景泰元年九月、尚書魏驥と同年に引年致仕す。家居して軽々しく出でず。その容接せらるる者有れば、興起せざるは莫し。天順三年五月卒す。年八十三。後に礼部侍郎を贈られ、文定と諡す。

初め、敬宗は李時勉と共に翰林に在り、袁忠徹嘗て相を見る。二人を曳き並べて列し曰く、「二公他日功名相埒たん」と。敬宗は儀観魁梧、時勉は貌稍々寢たり。後二人同時に両京の祭酒と為る。時勉は平恕にして士を得、敬宗は方厳なり。明世を終えて賢祭酒を称するに、南陳北李と曰う。

劉鉉、字は宗器、長洲の人。生まれて弥月にして孤と為る。長ずるに及び、股を刲いて母の疾を療す。母卒し、哀毀し、孝を以て聞こゆ。永楽中、善書を以て翰林に征入され、順天郷試に挙げられ、中書舎人を授かる。宣徳の時、成祖・仁宗の『実録』を修するに預かり、兵部主事に遷り、仍内廷に供事す。正統中、再び『宣宗実録』を修し、侍講に進む。学士曹鼐等の薦めに以て、修撰王振と庶吉士を教習す。

景帝立ち、侍講学士に進み、経筵に直す。三年、高谷の薦めに以て、国子祭酒に遷る。時に国計足らずを以て、諸生を放遣し、帰らんと願わざる者はその月廩を停む。鉉言う、「才を養うは国家の急務なり。今倉廩尚盈つ。奈何ぞ此を靳さん」と。遂に復給を得。また六館生を甄別し、年老いて貌寢、学芸疏浅なる者を斥けて民と為すことを令す。鉉言う、「諸生教沢を荷うこと久し。豈に片長無からんや。況んや親戚を離れ、墳墓を棄て、艱苦備至る。一旦斥せらるるは、朝廷の才を育する意に非ず。年貌衰えて学有る者を揀び、量りてこれに官を授けんことを乞う」と。帝その奏を可す。尋いで母喪に因りて帰る。服闕し、都に赴く。陳詢已に祭酒と為る。帝鉉を重んじ、詢と並任せしむ。天順初め、少詹事に改め、東宮の講読に侍す。明年十月卒す。帝及び太子皆祭を賜い、賻贈加うること有り。憲宗立ち、礼部侍郎を贈り、文恭と諡す。

鉉は性介特にして、言行苟もせず。庶吉士を教え及び国子生を課するに、規条厳整、読書老いに至るも弥篤し。仲子瀚進士を以て南方に使す。行に瀕り、その衣篋を閲す。還るに比し、篋故の如し。乃ち喜びて曰く、「吾が門を玷すこと無し」と。瀚官終に副使、能く父の訓を守る。

薩琦、字は廷珪。その先西域の人、後に閩県に籍を著す。宣徳五年進士に挙げらる。歴官礼部侍郎兼少詹事。天順元年卒す。琦は文徳有り、狷潔にして苟も合わず。名行鉉と相頡頏すと云う。

邢讓、字は遜之。襄陵の人。年十八、郷に挙げられ、国子監に入る。李時勉に器と為られ、劉珝と斉名す。正統十三年進士に登る。庶吉士に改め、検討を授かる。

景泰元年、李実瓦剌より還り、再び使を遣わして上皇を迎えんことを請う。景帝許さず。讓疏して曰く、「上皇は陛下に君の義有り、兄の恩有り。安んぞ迎えざるを得んや。且つ寇に大義を仮りて我を問わしむれば、何の辞を以て応ぜん。若し群臣の請に従い、仍実を命じて敕を賫して往かしめ、且つ迎復の指を述べしむ。上皇還るか否か未だ必ずしも可ならずと雖も、陛下の恩義の篤きは天下に昭然たり。万一迎えて許さざれば、則ち我彼に責直を得て、以て問罪の師を興す。亦善からずや」と。疏入り、帝委曲諭解す。天順末、父憂に因りて帰る。未だ喪終わらず、起用されて『英宗実録』を修し、修撰に進む。

成化二年超遷して国子祭酒と為る。慈懿太后崩じ、廟に祔するの礼を議す。讓僚属を率いて疏諫す。両京国学の教官は例として遷擢を得ず。讓等以為言す。科目に由る者は、満考して銓叙を得。讓太学に在り、亦力を師道に自任し、『辟雍通志』を修し、諸生を督めて小学及び諸経を誦せしむ。謁告の弊を痛く懲らしむ。時に此を以て称せらる。而して謗る者亦衆し。人と為り才を負い中を狭くす。意の軽重する所、輒ち詞色に形す。名位相軋ぐ者は多くこれを忌む。

五年礼部右侍郎に擢でらる。二年を越え、国子監に在りて会饌の銭を用うる事に因り、後祭酒陳鑒・司業張業・典籍王允等と倶に罪を得て死に坐す。諸生闕下に訴え、代わることを請う。復詔して廷臣雑治せしむ。卒に死に坐し、贖いて民と為る。

鑒既に罪を得、吏部尚書姚夔致仕の礼部侍郎李紹を起して祭酒と為さんことを請う。馳召す。而して紹已に卒す。

紹、字は克述、安福の人。宣徳八年進士。庶吉士に改め、検討を授かる。大学士楊士奇病臥す。英宗使を遣わして人才を詢う。士奇紹等五人を挙げて対す。土木の敗に、京師戒厳す。朝士多く家を遣わして南に徙す。紹曰く、「主辱しめば臣死す。奚を以て家を為さん」と。卒に遣わさず。累遷して翰林学士と為る。李賢・王翺の薦めに以て、礼部侍郎に擢でらる。成化二年疾に因りて職を解かんことを求む。紹は学問を好み、官に居ること剛正にして器局有り、能く後進を奨掖す。その卒するや、帝深くこれを惜しむ。

林瀚は、字を亨大といい、閩の人である。父の元美は、永楽末の進士で、撫州知府となった。瀚は成化二年に進士に挙げられ、庶吉士に改められ、編修を授かった。再び諭徳に遷り、急な用事で帰郷した。

弘治初め、召されて『憲宗実録』の編修に当たり、経筵講官を充てられた。やがて国子監祭酒に遷り、礼部右侍郎に進み、監事を掌ることは従前の通りであった。国学を司ることおよそ十年、饌銀は毎年百数に及んだが、すべて官に貯え、順次に署舎を営建した。師儒が賃借居住を免れたのは、瀚に始まる。吏部左侍郎・右侍郎を歴任した。

十三年、南京吏部尚書に拝された。災異により群僚を率いて十二事を上奏した。御史の王献臣が遼東から詔獄に捕らえられ、儒士の孫伯堅らが縁故を頼って中書舎人となった。瀚は上疏して争い、旨に逆らった。罷免を乞うたが、許されなかった。後に、根本を重んずることを奏請した。すなわち、南京を保固すること、皇儲を佑啓すること、百姓を撫綏すること、賢才を増進することである。

正徳元年四月、吏部尚書の馬文升が去職し、言官の丘俊・石介らが瀚を推薦した。帝は侍郎の焦芳を用いたため、瀚を南京兵部に改め、機務に参賛させた。命令が未だ届かぬうちに、瀚は病を理由に休職を乞い、養正心・崇正道・務正学・親正人の四事を陳述した。優詔をもって慰留された。当時災異が頻発したため、瀚および南京の諸臣は時政十二事を条奏した。言葉が近幸の臣に触れたため、多くは留中されて行われなかった。

瀚は元来剛直方正で、守備の中官と合わず、他の内臣で進貢の途上その地を通る者を、瀚は常に抑制したため、ついに劉瑾に讒言された。ちょうど劉健・謝遷が政務を罷めると、瀚はこれを聞いて嘆息した。言官の戴銑らが健・遷を留任させようとして捕らえられると、瀚ひとり餞別を贈った。瑾は聞いてますます恨んだ。翌年二月、銑らの獄詞を口実に、瀚を浙江参政に左遷した。致仕した。まもなく奸党と指弾された。瑾が誅されると、官に復し、致仕した。月給と歳禄を故事に従って与えられた。やがて有司に命じて時節ごとに見舞わせた。瀚は人となり謙虚で温厚であったが、自らの節操は厳然としていた。八十六歳で卒した。太子太保を追贈され、文安と諡された。子は九人、庭㭿・庭機が最も顕著である。

庭㭿は、字を利瞻という。瀚の次子である。弘治十二年の進士。兵部主事を授かった。職方郎中を歴任した。吏部尚書の張彩が御史に改めようとしたが、固く辞したため、蘇州知府とした。連年大水が起こり、上疏して織造を停止し、煩雑な徴収を罷め、関税を割いて救済に充てることを請うた。再上して、ようやく許可された。雲南左参政に遷った。正徳九年、父の老齢を理由に侍養を乞うた。当時、子の炫はすでに進士となり、礼部主事の官にあったが、やはり仮帰郷した。三世一堂、郷里の人はこれを盛事と称えた。

嘉靖初め、父の喪に服し、喪明けの後、江西に起官し、湖広左布政使・右布政使を歴任した。治行卓異として推挙され、右副都御史に抜擢され、保定諸府を巡撫した。工部右侍郎を歴任した。詔に応じて郊壇の大工事、南城・西苑の相次ぐ造営について、倹約をもって天下に率先することを請うた。また災害による損傷を理由に、采木・焼造の諸使節を撤還することを乞うた。左侍郎に進み、尚書に拝され、太子太保を加えられた。当時、帝は大いに土木工事を興しており、庭㭿の規画は多く意にかなった。ちょうど詔して沙河に行宮を建てることとなり、庭㭿は天下の田賦を加えることを議し、御史の桑喬・給事中の管見に弾劾された。罷免を乞い、帰郷して卒した。少保を追贈され、康懿と諡された。炫はついに通政司参議に至った。

庭機は、字を利仁といい、瀚の末子である。嘉靖十四年の進士。庶吉士に改められ、検討を授かり、司業に遷り、南京祭酒に抜擢され、累進して工部尚書に至った。穆宗が即位すると、礼部に転じ、いずれも陪京の官にあった。当時、子の燫はすでに祭酒となっており、ついに致仕して帰郷した。万暦九年に卒し、七十六歳であった。太子太保を追贈され、文僖と諡された。子に燫・烴がある。

燫は、字を貞烜といい、庭機の長子である。嘉靖二十六年の進士。庶吉士に改められ、検討を授かった。景恭王が邸に就くに当たり、燫に侍講読を命じた。三遷して国子祭酒となった。燫の祖父の瀚、父の庭機より、三世祭酒となったのは、これ以前にはなかった。隆慶に改元すると、礼部右侍郎に抜擢され、日講官を充てられた。寇が辺境を犯すと、備辺七事を条上した。吏部に改められ、南京吏部に転じ、礼部事務を署理した。魏国公の徐鵬挙が長子を廃して幼子を立てようとしたが、燫は不可として譲らなかった。万暦元年、工部尚書に進み、礼部に改められた。依然として南京に在った。名位はすべて父の庭機と等しかった。母の喪で官を去った。喪明けの後、庭機が篤老のため侍養し、家居すること七年、父の庭機に先立って卒した。太子少保を追贈され、文恪と諡された。明代に三世尚書となり、いずれも文の諡を得たのは、林氏一家のみである。子の世勤は、性質篤孝であった。芝が三度生え、枯れた竹が再び青くなった。御史がその事を上奏し、表彰された。

烴は、字を貞燿といい、庭機の次子である。嘉靖四十一年の進士。戸部主事を授かり、広西副使を歴任した。兄の燫が卒すると、急な用事で帰郷し養った。久しくして、太僕少卿を歴任した。災異により鉱税の害を極言し、逮捕拘禁された諸臣を釈放することを請うた。回答はなかった。ついに南京工部尚書で致仕した。林氏は三世で五人の尚書を出し、いずれも内行が修潔で、当時に称えられた。

謝鐸は、字を鳴治といい、浙江太平の人である。天順末の進士。庶吉士に改められ、編修を授かり、『英宗実録』の編修に参与した。性質は孤高で、学に励み古を慕い、経世の務めを講求した。

成化九年、『通鑑綱目』を校勘し、上言した。「『綱目』一書は、帝王の鑑である。陛下が重ねて考定を命じられたのは、必ずや経筵に進講し、治を致す資とされるためである。今、天下には太平の形はあれど、太平の実はなく、因循と積習により、実を廃して名に従っている。綱紀を振るうといいながら、小人は畏忌せず、風俗を励ますといいながら、縉紳は廉恥を棄てる。官司を飭めといいながら、汚暴はますます甚だしく、軍民を恤むといいながら、疲弊はますます極まる。減省に制はあれど、興作は毎に奔命に疲れ、蠲免に詔はあれど、征斂は毎に追呼に困る。考察は挙げられないわけではないが、幸門は日に開き、簡練は行われないわけではないが、私的な妨害は日に衆い。賞は府庫の財を尽くしても、功ある者は勧められず、罰は讞覆の案を窮めても、罪ある者は懲らされない。ひいては修省祈祷の命が屡々頒布されても、水旱災傷の来ることが絶えない。禁垣は震動し、城門は災を示す。疏動旋転を思わず、もって天人の望みに大いに答えることがなければ、これはまことに憂うべきことである。願わくは陛下、古を以て今を証し、兢兢業業とされ、然る後に長治久安を得られ、載籍が無用とならないようにせられよ。」帝は従うことができなかった。

当時、塞上に警報があり、備辺事宜を条上し、兵を養い粟を積み、東勝・河套の旧疆を収復することを請うた。また言う。「今の辺将は、晩唐の債帥と異ならない。敗れれば士卒がその殃を受け、勝てば権豪がその賞を蒙る。しかも軍餉を克侵し、月錢を辦納する。三軍はまさに怨憤を胸に満たし、誰が国のために命を効しようとする者があろうか。」言葉はいずれも時弊を切った。任期が満ちて、侍講に進み、経筵に直った。二度の喪に遭い、喪明けの後、親を養うに及ばなかったため、ついに起官しなかった。

弘治初め、言官が相次いで推薦し、原官のまま召されて『憲宗実録』の編修に当たった。三年、南京国子祭酒に抜擢された。六事を上言した。すなわち、師儒を択ぶこと、科貢を慎むこと、祀典を正すこと、載籍を広めること、会饌を復すること、撥歴を均しくすることである。その祀典を正すことにおいて、宋の儒者楊時を進めて呉澄を罷めることを請うた。礼部尚書の傅瀚がこれに異を唱えたため、楊時を進めたが、呉澄の祭祀は従前の通りであった。

翌年、病を理由に辞職して去る。家に居ることおよそ十年、推薦する者がますます多くなる。ちょうど国子監に祭酒が欠員し、部議が彼を起用する。帝はもとより鐸を重んじ、礼部右侍郎に抜擢し、祭酒の事務を管掌させる。たびたび辞退するも、許されず。時に章懋が南祭酒であり、両人ともに人師として、諸生は互いに慶賀し合う。五年在職し、病を理由に帰郷する。

鐸は経術に深く通じ、文章を為すに体要を有す。二度国子監の師となり、課程を厳しくし、請謁を杜絶し、号舎を増築し、堂室を修繕し、廟門を拡張す。公廨三十余を置きその属僚を居住させた。諸生の貧しい者には周済し、死者には官に請うて定めを為し、これを殮らしむ。家に居ては族党を周済することを好み、自らは布衣蔬食を以て奉ず。正徳五年に卒す。礼部尚書を贈られ、文肅と諡される。

魯鐸、字は振之、景陵の人。弘治十五年、会試に第一となる。編修を歴任す。門を閉ざして自ら守り、みだりに人と交わらず。武宗が立つと、安南に使いし、その饋遺を退ける。

正徳二年、国子監司業に遷る。累進して南祭酒に擢げられ、まもなく北祭酒に改まる。鐸はたびたび成均(国子監)を掌り、士を教えるに切実に学を為すことを旨とし、専ら章句に偏せず。士に仮帰して学を廃する者あれば、これを訓飭し、過ちを悔い改めて初めて止む。久しくして、病を理由に辞職して帰郷す。

嘉靖初め、刑部尚書林俊の推薦により、孝宗朝の謝鐸の故事を用い、南祭酒として起用される。一年余りして、再び致仕を請う。累次徴召されても起きず、卒す。文恪と諡される。

鐸は徳望を以て時に重んぜらる。郷里に居る時、盗賊が牛馬を掠奪し、ある者が欺いて言うに「魯祭酒の物なり」と、これを捨てて去る。大学士李東陽の誕生日に、鐸は司業として、祭酒趙永とともに皆その門生なり、相約して二つの手拭いを以て寿ぎとす。笥を検するに、無し、徐に曰く「郷里に乾魚を饋る者あり、何ぞこれを以て往かんや」と。諸庖に詢うに、食すこと過半なり、その余りを以て東陽に詣る。東陽喜び、魚を烹り酒を置き、二人を留めて飲ませ、極めて歓びて乃ち去る。

永、字は爾錫、臨淮の人。鐸と同年の進士、また編修に官す。また鐸と相次いで祭酒となる。まもなく南京礼部侍郎に遷る。大学士楊一清その才を重んじ、引きて自らを助けんと欲し、乃ち他の語を以てこれを挑む。永は正色して曰く「冠纓を以て吾が道を汚すべけんや」と。遂に致仕を請うて去る。人その廉介を服す。

賛に曰く、明の太祖の時、国学の師儒は、体貌優れて重んぜらる。魏観・宋訥が祭酒となり、人材を造就し、よくその職を挙ぐ。諸生が命を奉じて使いする者は、往々にして大官に擢げられ、専ら科目を以て進むに非ず。中葉以降、流品稍々雑に、撥歴もまた具文と為り、成均の師席は、儒臣の序遷の地に過ぎざるに至る。李時勉・陳敬宗ら諸人は、方正廉潔にして鯁直、表範卓然たり、類してこれを伝え、観る者に法とすべき所あらしめん。