明史

列傳第五十 尹昌隆 耿通 戴綸 陳祚 劉球 陳鑑 鍾同 章綸 廖莊 倪敬 楊瑄

○尹昌隆耿通(陳諤)戴綸(林長懋)陳祚(郭循)劉球(子鉞釪)陳鑒(何觀)鐘同(孟玘楊集)章綸(子玄應)廖莊倪敬(盛灊等)楊瑄(子源盛颙等)

尹昌隆は、字を彥謙といい、泰和の人である。洪武年間に進士及第した。修撰に任じられ、監察御史に改めた。

惠帝が即位したばかりの頃、朝見が遅かった。昌隆が上疏して諫めて言うには、「高皇帝は鶏鳴と共に起き、夜明け前に朝廷に出て、日の出ないうちに百官に臨まれた。故に諸々の政績が皆盛んで、天下は安寧であった。陛下は大業を嗣ぎ守られるにあたり、祖の行跡を追い継ぎ、兢兢業業として、万機を憂い勤められるべきである。今、安楽に耽り、日が数刻も上っても、まだ朝廷に臨まれない。群臣や宿衛は伺候に疲れ、職を空け業を廃し、上下共に弛緩している。これを天下に伝え、四方の外夷に伝わるならば、社稷の福ではない。」帝は言った、「昌隆の言は切直である。礼部はこれを天下に宣示し、朕の過ちを知らしめよ。」間もなく、地震について上言したことで、福寧知県に左遷された。燕兵が迫ると、昌隆は北からの奏章が動輒して周公が成王を輔佐した故事を引き合いに出しているのを以て、帝に兵を罷め、王の入朝を許すよう勧めた。もし過ちがあれば、直ちに位を譲って彼に与えるべきであると。もし沈吟して決断せず、進退の拠り所を失えば、丹徒の布衣たることを求めることさえ叶わなくなるであろうと。成祖が京師に入ると、昌隆の名は奸臣の中にあった。以前の上奏により死罪を免じられ、北平で世子の傅となることを命じられた。

永楽二年、世子が皇太子に冊立されると、昌隆を左春坊左中允に抜擢した。事に随って匡正諫言し、太子は彼を大いに重んじた。解縉が罷免された同日、昌隆を礼部主事に改めた。尚書の呂震がちょうど権勢を振るっており、性格は苛酷で嫉み深かった。彼が独りで精思する時、指で眉尻を掻く仕草をすれば、必ず密謀深計があるものだった。官属は互いに戒め合い、敢えて事を報告する者はいなかった。昌隆が前に出て事を報告すると、震は怒って応じず、しばらくしてまた報告すると、震はますます怒り、衣を払って立ち上がった。昌隆は退いて太子に報告し、令旨を取ってこれを実行させた。震は大いに怒り、昌隆が宮僚を仮託し、陰に結びつきを樹立しようとし、密かに君無き心を蓄えていると上奏した。捕らえて獄に下した。まもなく赦令に遇い官に復した。父の喪で服喪中に起復した。震に謁見すると、震は穏やかな言葉で彼を迎えた。以前の上奏を審理に入れると、再び錦衣衛の獄に下し、その家を没収した。帝が巡幸する度に、詔獄の囚人は概ね車に乗せて従わせ、これを随駕重囚と呼んだが、昌隆もその中にいた。

数年後、谷王の謀反が発覚した。王が以前に昌隆を長史に推挙していたことを以て、同謀の罪に坐し、公卿をして雑問させよとの詔があった。昌隆は弁明を止めなかったが、震がこれを屈服させた。獄が決し、極刑に処して死に、その一族を誅滅した。後に震が病で死に臨む時、「尹相」と号呼し、昌隆が守って自分を殺そうとしていると言ったという。

耿通は、斉東の人である。洪武年間に郷挙された。襄陽教授に任じられた。永楽初年、刑科給事中に抜擢され、左右給事を歴任した。剛直で敢えて言うところがあった。かつて都御史陳瑛、御史袁綱、覃珩が朋比して蒙蔽し、無辜を陥れ構えたことを弾劾し、綱と珩は既に獄に下されたが、瑛は長官であるから独り赦されるべきではないと言った。また言うには、ぎょう騎諸衛の倉庫が壊れ、工部侍郎陳寿が予め修繕せず、糧食が至っても受け入れられず、多くが損耗して民を苦しめている。工部尚書宋礼は下を恤れまず、匠役の任期が満ちても直ちに帰さず、多くが行き場を失っていると。瑛らは皆譴責を受けた。当時、給事中で敢えて言う者は、通と陳諤であった。挙朝その風采を憚った。久しくして、大理寺右丞に抜擢された。

帝が北巡し、太子が国を監した。漢王高煦が嫡子の地位を奪おうと謀り、陰に帝の左右と結んで讒言し間隙を生じさせ、宮僚の多くが罪を得た。監国の行う事は、多くが変更された。通は従容として帝に諫めて言った、「太子の事に大過誤はなく、変更する必要はありません。」と。これを数度言うと、帝は悦ばなかった。十年秋、通が請託を受けて故意に人を罪から出したという者があった。帝は震怒し、都察院に命じて文武大臣と共に午門で審問させ、「必ず通を赦さず殺せ」と言った。群臣は詔の趣旨の通り、通の罪を斬と断じた。帝は言った、「罪を軽く出したのは細事である。通が東宮のために関説し、祖法を壊し、我が父子を離間させたことは、恕すべからず。極刑に置け。」廷臣は敢えて争わず、ついに奸党と論じ、磔刑に処して死に至らしめた。

陳諤は、字を克忠といい、番禺の人である。永楽年間、郷挙によって太学に入り、刑科給事中に任じられた。事に遇って剛果で、弾劾に避けるところがなかった。毎度奏事する時、声が鐘のようであった。帝は数日間飢えさせたが、奏対は以前の通りであった。帝は「これは天性である」と言い、毎度会うと「大声秀才」と呼んだ。かつて事を言って旨に逆らい、奉天門に穴を掘って埋めさせ、首だけ出させた。七日間死なず、赦されて職に復した。その後、また旨に逆らい、象房の修築を罰せられた。貧しくて人夫を雇えず、自ら作業した。ちょうど帝の駕が至り、誰かと問うた。諤が匍匐して進み出て、その所以を詳しく述べた。帝は彼を憐れみ、官に復することを命じた。

順天府尹を歴任し、政は厳鷙を尚んだ。執政は彼を忌み、湖広按察使として出した。山西に改めたが、事に坐して落職した。仁宗が即位し、赦令に遇って故官に還るべきであった。帝は諤が以前湖広で楚王の些細な事柄を摘発したことを以て、海塩知県に左遷した。荊王長史に遷ったが、王府に厭苦された。宣徳三年、鎮江同知に遷った。致仕して帰り、卒した。

戴綸は、高密の人である。永楽年間、昌邑訓導から礼科給事中に抜擢され、編修林長懋と共に皇太孫の説書に侍った。中允、諭徳を歴任した。仁宗が即位し、太孫が太子となると、洗馬に遷り、依然として講読に侍った。初め成祖は太孫に武事を習わせたが、太孫もまた大いにこれを好み、時折出て騎射した。綸と長懋は太孫が年齢がまだ若いので、学問を疎かにして遊猟に事えるべきではないと、時々進諫した。綸はまた上疏を具して帝にこれを言った。ある日、太孫が侍っている時、帝が「宮臣で仲の良い者は誰か」と問うと、太孫は綸と答えた。そこで綸の奏文を取り出して彼に渡すと、太孫はこれによって綸を怨むようになった。

長懋は、莆田の人である。郷薦によって青州教授を歴任し、編修に抜擢された。仁宗の初め、中允に進んだ。人となり剛厳で、累ねて直言を進め、綸と親善であった。

宣宗が即位し、宮僚に恩を加え、綸を兵部侍郎に抜擢した。間もなく、また狩猟を諫めて旨に逆らい、交阯軍務の参賛を命じられた。一方、長懋は南京から来て、後から到着したが、やはり出されて郁林知州となった。まもなく、怨望の罪に坐し、共に京師に逮送され、錦衣衛の獄に下された。帝が臨んで審問すると、綸は抗弁し、帝の怒りに触れ、直ちに箠打ちして死に至らしめ、その家を没収した。諸父の河南知府戴賢、太僕寺卿戴希文も皆連座して捕らえられた。

一方、長懋は獄中に十年いたが、英宗が立つと、ようやく釈放された。その官を復し、郁林を守ることに戻り、恵政があった。その卒するや、州人が廟を立てて祀った。

陳祚は、字を永錫といい、呉の人である。永楽年間に進士となり、河南参議に抜擢された。十五年、布政使周文褒・王文振とともに上疏し、北京に都を建つるは便ならずと述べ、ともに均州太和山の佃戸に貶謫された。自ら耕作に励み、これを泰然として処した。仁宗が即位すると、遷謫された諸臣を選抜任用せんとの詔があり、陳祚はその選中にあった。ちょうど帝が崩御したため、結局任用されなかった。

宣徳二年、憲臣に命じて均州において群臣を試させたところ、陳祚の策問が第一となった。吏部で試みると、また第一となった。そこで御史に抜擢され、福建を巡按した。方面の大吏多く弾劾を受け、和買を禁止したので、閩人はその徳を慕った。還朝して奏上し、白塔河は上流は邵伯湖に通じ、下流は大江に注ぎ、蘇州・松州の舟楫多く往来するが、浅狭で湮塞しているので、開浚を請うた。これに従い、転漕は果たして便利となった。まもなく出て江西を按察した。

当時天下は太平を享受していたが、帝はしばしば遊猟や珍玩に耽っていた。陳祚は馳疏して聖学に勤しむよう勧めた。その大意は、「帝王の学はまず理を明らかにするにあり、理を明らかにするは読書に在り。陛下には聖徳あれども、経筵は甚だ興挙されず、講学には程度なく、聖賢の精微、古今の治乱を、どうして周知洞徹できようか。真徳秀の『大学衍義』一書には、聖賢の格言ことごとく載せられております。願わくは、聴政の暇に、儒臣を命じて講説せしめ、大故なき限り、間断なからしめられたい。古今いかにして治まるか、政事いかにして得るかを知らしめ、必ずや聡明を開き広げ、徳業に光を増すでしょう。そして奇巧をもって聖心を蕩かす邪佞の輩は、おのずから疎遠となるでしょう。天下人民は限りなき福を受けるでしょう」というものであった。帝は上疏を見て大いに怒り、「小僧めが朕は『大学』を読まぬというのか。朕をここまで軽んずるとは、誅せざるべからず」と言った。学士陳循が頓首して、「俗士は遠方にあり、上に読まざる書なきを知らぬのです」と言うと、帝の怒りはやや解けた。陳祚を獄に下し、その家族十余人を逮捕し、別々に禁錮すること五年、その父はついに獄死した。この時、刑部主事郭循が西内皇城を拓いて離宮を修めることを諫め、逮捕されて面詰された。郭循は抗弁して屈せず、これもまた獄に下された。英宗が即位すると、陳祚と郭循はともに釈放され官に復した。

陳祚は再び湖広を按察した。遼王貴烚の罪を奏上するに際し隠蔽があったとして、巡撫侍郎呉政とともに京師に逮捕され、獄に下された。まもなく赦されて出獄した。当時王振が権力を握り、法務は厳峻を極めていた。陳祚は上言した。「近ごろ法司が獄を論ずるに、多く定律に違反している。たとえば侍郎呉璽が主事呉軏を誤って推挙した件は、貢挙非其人の律に坐すべきところ、奏事に規避有りの律に坐して斬罪とした。また呉軏が自経して死んだとき、獄官・獄卒の罪は応に逓減すべきところ、不応為の重罪を援用し、一概に杖刑に処した。一事この如きあり、その余は推して知るべし。天時順わず、災害しばしば見るは、これに非ざるは未必なり」。帝はこれを是とし、その上章を法司に示した。まもなく南京に改められ、福建按察使僉事に遷った。威厳と恵みがあり、祀典に載らぬ神祠はことごとく撤去した。久しくして、病により帰郷し、卒した。

陳祚は天資厳毅であり、子弟といえどもその言笑に接すること稀であったが、ただ同郷の邢量を重んじた。邢量は博学の士で、卜筮に隠れ、数間の粗末な家に住み、ある日は終日かまどに火を起こさぬこともあった。陳祚はしばしば書冊を抱えて質疑に赴き、往々にして日暮れに至った。

郭循は、字を循初といい、廬陵の人である。官に在って才誉があった。職を復した後、郎中に進み、尚書魏源の推薦により、広東参政に抜擢され、寇を剿滅する功があった。景泰初年に卒した。

劉球は、字を廷振といい、安福の人である。永楽十九年に進士となった。家に居て十年読書し、従う学者甚だ多かった。礼部主事に授けられた。胡濙が経筵侍講に推薦し、『宣宗実録』の編修に参与し、翰林侍講に改められた。従弟の劉玭が莆田県知事となったとき、夏布一匹を贈った。劉球はこれを封じて返し、書を送って戒めた。正統六年、帝は王振の言により、大挙して麓川を征討した。劉球は上疏して言った。

帝王が四裔を馭するには、必ずその小なるを宥し、その大なるを防ぐ。これにより緩急の宜しきに適い、天下の久安を計るのである。周は崇を伐って克たず、退いて徳教を修め、その降るを待った。玁狁に至っては、南仲に命じて朔方に城を築き、これを備えさせた。漢は南越を征して利あらず、すなわち兵を罷め書を賜って通好した。匈奴に至っては、すでに和親したといえども、なお民を募って塞下に徙居させ、粟を入れて辺を実にし、また魏尚に命じて雲中を守らせてこれを拒がせた。

今、麓川の残寇思任発はもとより羈縻に属するもの、辺将の制御を失い、大兵を動かすに至った。渠魁未だ殲滅せずといえども、また多く群醜を戮し、誅するも捨つるも、軽重に関わることなし。璽書はその罪釁を原き、自新するを得しめるは、甚だ盛徳なり。辺将は聖意を達せず、また大挙を議す。十二万の衆を雲南に屯せんと欲し、これをもってその降伏を促し、降らざればこれを攻めんとす。王師の軽々に出づべからざるを慮らず、蛮性の驟に馴らし難きを慮らず、地険にして衆を用い難きを慮らず、客兵の久しく淹留すべからざるを慮らぬ。況んや南方は水旱相継ぎ、軍民ともに困窮している。もしまた衆を動かせば、紛擾憂いとならん。臣は窃かに天誅を緩めるべしと謂う。周・漢の崇・越に対するが如くである。

瓦剌に至っては、終に辺患とならん。その未だ騒動に即かざるに及び、正に時に防禦すべきである。しかるに甘粛の守将を移して南征に事えんと欲するは、卒然として警有らば、何をもってか禦がん。臣は窃かに防遏を慎むべしと謂う。周・漢の玁狁・匈奴に対するが如くである。

伏して願わくは陛下、大挙の議を罷められんことを。智謀の将帥を推選し、才識の大臣を以て輔け、官軍を量り調え、金歯などの諸要害に分屯せしめられたい。木邦などの諸蛮を結んで援と為し、間隙に乗じて進攻し、便宜に因りて撫諭すれば、寇はおのずから服すべし。西北の障塞に至っては、まさに辺臣をして巡視せしむべし。溝垣を浚築し、城堡を増繕し、訓練を勤め、守望を厳にし、以て不虞に備えよ。これ有備無患の道なり。

上章は兵部に下った。南征はすでに成命ありとして、劉球の言を用いなかった。八年五月、雷が奉天殿を震わせた。劉球は詔に応じて、先ず為すべき十事を上言した。その大意は以下の通りである。

古の聖王は無益を作さず、故に心正しくして天これに違わず。臣は願わくは皇上、経筵に御することを勤め、しばしば儒臣を進めて、至道を講求せられたい。務めて学問の功至り、理欲判然たらしめ、すなわち聖心正しくして天心おのずから順わん。政は己より出ずれば、則ち権は下に移らず。太祖・太宗は日に三朝を視し、時に大臣を便殿に召して庶政を裁決し、権は上に総べて帰した。皇上臨御すること九年、事体日に熟す。願わくは二聖の成規を守り、また親決の故事を復し、権を一に帰せしめられたい。

古の大臣を択ぶ者は、必ず左右・大夫・国人にこれを諮った。その犯す有るに及びては、大辟に至るといえどもまた刑を加えず、ただこれを死に賜うた。今、大臣を用うるに、いまだかつて皆公論より出ずることをせず。小失有るに及びては、輒ち桎梏箠楚を加える。しかし未だ幾時もせず、またその職を復す。甚だ大臣を待する所以に非ざるなり。今より大臣を択任するには、宜しく衆論に允愜すべし。小犯は則ちこれを措く。果たして容れ難きは、法司に下して罪を定め、自ら計いを為さしむべし。軽々しく拘繫することなかれ。庶幾くは天職を共にするの意に乖かざらん。

今の太常は、即ち古の秩宗なり。必ず清慎にして礼に習いし臣を得て、然る後に神明に交わるべし。今、卿・貳ともに欠く。宜しく儒臣を選択し、その職を領せしむべし。

古えにくにを省み、巡狩するは、もって吏の得失を察し、民の疾苦を問う所以なり。両漢・唐・宋の盛時に、数たび使を遣わして郡県を巡行せしめ、洪(洪武)・永(永楽)の間もまた嘗てこれを行えり。今久しく挙げず、故に吏多く貪虐にして、民聊いささかも生くべからず、而して軍衛ぐんえいは特に甚だし。公明廉幹の臣を択び、天下に分行すべし。

古人君は刑獄に親しまず、必ず理官に付す。蓋し喜怒にしたがいて軽重あることを恐るるなり。邇来じらい法司の上る獄は、多く勅を奉じて軽重を増減し、法司は執奏すること能わず。及び他囚をうるに、また軽重を為すを観望し、民多く冤を用う。宜しく各その職を挙げしむべし。せんを運び米を輸する諸例に至りては、均しく古法に非ず、特にこれを罷むべし。

『春秋』は営築を悉く書す、民を労するを戒むるなり。京師の興作五六年なり。曰く「民を煩わさずして軍を役す」と。軍は独り国家の赤子に非ずや?況んや営作多くおわるを、宜しく工を罷めてその力をよみがえらすべし。

各処の水旱に、有司既に振救せず、租税を減ずるを請うも、或いはまた徒らに虚文を事とす。宜しく戸部をして時に振済し、量りに加減免除せしめ、して失業せざらしむべし。

麓川は連年兵を用い、死者十の七八、軍貲爵賞はげて計うべからず。今また蒋貴を遣わして遠く緬甸を征し、思任発を献ずるを責む。果たしてとらえて以て帰るも、通衢にさらすに過ぎず。緬は将に挟みて以て功と為し、必ず木邦と共にその地を分かつを求む。与えざれば則ち怒を致し、これとすれば則ち両蛮坐して大いとなり、是れ一麓川を減じて二麓川を生ずるなり。もし蹉跎さだあらば、兵事已むこと無し。臣、皇上の毎に重囚を録し、多く宥して軍に従わしむるを見る。仁心此の若し。今、一の失地の竄寇を生得せんと欲して、数万の無罪の衆を駆りて死地に就かしむるは、豈に好生の仁にそむかざらんや?況んや思機発は已に嘗て人を遣わして来貢し、悔過乞免の意無きに非ず。若し緬を勅して任発の首を斬り来献せしめ、なお思機発を勅して四境の地を尽く削り、各寨新附の蛮に分かたしむれば、則ち一方寧んずべし。

疏入り、廷議に下す。球の奏する所を言うに、惟だ太常官を択ぶの宜しく従うべしとし、吏部に推挙せしむ。修撰董璘、遂に乞うて官を太常に改め、享祀の事を奉ぜんとす。

初め、球の麓川の事を言うや、振固より已にこれをふくむ。欽天監正彭徳清なる者は、球の郷人なり。素より振の腹心と為る。凡そ天文に変有れば、皆匿して奏せず、振の勢に倚りて奸を為し、公卿多く趨謁す。球は絶えてこれと通ぜず。徳清これを恨み、遂に疏中の権をる語を摘み、振に謂いて曰く「此れ公を指すなり」と。振ますます大いに怒る。たまたま璘の疏上るに及び、振遂に球を同謀と指し、並びに逮して詔獄に下し、指揮馬順に属して球を殺さしむ。順深夜に一小校を携え刀を持ちて球の所に至る。球方に臥す、起立し、大いに太祖・太宗を呼ぶ。頸断たるるも、体猶植つ。遂にこれを支解し、獄戸の下にうずむ。璘、かたわらよりひそかに血の裙を球の家に遺す。後その子鉞、一臂を求得し、裙をつつみて以てれんす。順に子有り病久し、忽ち起きて順の髪をり、こぶしを以て且つ蹴りて曰く「老賊、なんじをして他日我が禍をえしめん!」「我は劉球なり」と。順驚悸す。しばらくして子死す。小校も亦死す。璘、字は徳文、高郵の人。孝行有り。獄解け、遂に帰り、復た出でず。

球死して数年、瓦剌果たして入寇す。英宗北狩し、振殺さる。朝士立ちて順を撃ち、これを斃す。而して徳清は土木より遁還し、獄に下して斬を論じ、まもなく瘐死す。詔してその屍を戮す。景帝、球の忠を憐れみ、翰林学士を贈り、諡して忠湣と曰い、郷に祠を立つ。

球二子、長は鉞、次は釪。皆篤学し、躬耕して母を養う。球既にじゅつを得て、兄弟乃ち出でて挙に応じ、先後進士となる。鉞は広東参政、釪は雲南按察使。

陳鑒、字は貞明、高安の人。宣徳二年進士。行人を授かる。正統中、御史にく。

順天を按ずるに出でて言う。京師の風俗澆漓ぎょうりなるは、その故五有り。一、仏をつかうること過甚。二、喪を営みて家を破る。三、服食靡麗びれい。四、優倡蠹と為る。五、博塞風を成す。章礼部に下り、とどめて行わず。

改めて貴州を按ず。時に麓川酋思任発の子思機発、孟養に遁れ、しばしば上書して罪をゆるし貢を通ずるを求む。許さず。復た大挙遠征し、兵連りて解けず。雲・貴の軍民疲敝す。苗機に乗じて煽動し、閩・浙の間盗賊大いに起こる。挙朝皆その不可なるを知るも、劉球の禍をり、敢えて諫むる者無し。十四年正月、鑒抗疏して言う。賊酋遠く遁れ、辺患と為さず、宜しく専ら雲南の守臣に責めて相機剿滅せしめ、禁旅を遠く労する無きべしと。王振怒り、これをくるしめんと欲し、鑒を雲南参議に改め、騰沖に赴きて賊を招かしむ。やがて、復た鑒が巡按たりし時嘗て四川播州宣慰司を改めて貴州に隷せしめんことを請えりとするをり、鑒の罪と為し、兵部にこれを劾せしめ、死を論じて獄に繫ぐ。景帝嗣位し、乃ち赦を得。尋いで河南参議を授かる。致仕して帰り、卒す。

正統中より、劉球王振にさからいて冤死し、鑒継いで獄に下り、中外敢えて事を言う者無きこと数年。景帝の時に至り、言路始めて開け、争い憤発して上書す。何観なる者有り、復た言いて罪を得て去る。

観は善書を以て中書舎人と為る。景泰二年、尚書王直輩が正統時に権奸に阿附せしを劾し、左右に在るべからずとす。中貴「権奸」の語を見て、已を侵すと為し、帝を激怒せしめ、科道に参議を下す。吏科毛玉奏稿を主り、力を観をそしり、林聰・葉盛これを持す。乃ち削りて奏上す。会御史の疏も亦上り、中に「観考満してうつらず、私に吏部を憾む」の語有り。帝怒り、観を詔獄に下し、これを杖ち、九溪衛経歴に謫す。

鐘同は字を世京といい、吉安府永豊県の人である。父の復は宣徳年間に進士及第した。修撰を歴任し、劉球と親しくしていた。劉球が封事を上奏しようとしたとき、一緒に行こうと約束したが、復の妻がそれを止めた。劉球が復の邸を訪れ、同行を誘った。復はすでに他へ出かけており、妻が屏風の間から罵って言った。「あなたが自分で上疏するのに、どうして他人を巻き込むのか!」劉球は出てきて嘆いて言った。「彼は婦人にまで相談したのか。」遂に独りで上奏し、ついに死んだ。しばらくして、復も病死した。妻は深く後悔し、泣くたびに言った。「早く知っていたなら、劉君と一緒に死んだほうがましだった。」鐘同は幼い頃に母の言葉を聞き、すぐに感奮し、父の志を成し遂げようと思った。かつて吉安の忠節祠に入り、祀られている欧陽修・楊邦乂らを見て、嘆いて言った。「死してここに入らざるは、丈夫にあらず。」

景泰二年に進士に挙げられ、翌年に御史に任じられた。懐献太子が既に薨去すると、朝廷内外は沂王を東宮に復位させることを望んだ。鐘同は郎中章綸と早朝に出仕し、沂王のことに言及すると、ともに涙を流し、そこで約束して上疏して儲君を復位させるよう請うた。五年五月、鐘同は時政を論じる上疏をした際、ついで儲君復位のことに言及した。その要旨は以下の通りである。

近ごろ賊の間諜を得て、也先が京師と臨清の虚実を偵察させ、初秋に大挙して深く侵入し、まっすぐ河南を下ることを期しているという。臣はこれを聞いて寒心に堪えず、しかるに廟堂の大臣は皆恬然として意に介さない。昔、秦が趙を伐ったとき、諸侯は平然としていたが、孔子順だけがこれを憂え、人々は狂気と思った。臣が今言うことは、これとどう違うのか。臣が草茅の身であったとき、寺人が悪を構え、直臣劉球を殺害し、ついに朝廷の臣を箝口させたと聞いた。もし当時、顔を犯して諫める者がいたならば、必ずや上皇の行幸を諫め止めることができ、蒙塵の禍いがあるに至らなかったであろう。

陛下は赫然として中興し、奸党を鋤き、忠直を表彰された。六師を命じて郊外で敵を防がせ、戦わずして三軍の気勢は自ら倍加した。臣は陛下がまさに四裔を鞭撻し、坐して太平を致さんとしていると思った。どうして辺境の気配がようやく収まり、瘡痍がまだ回復しないのに、侈心が急に生じ、天下の望みを失うのか。伏して願わくは前車の鑑とし、厚く自ら奮励せられたい。貨色に従わず、嬉遊を甘んじず、庶政に親しんで威権を総べ、倫理を敦厚にして風俗を厚くし、邪正を弁別して委任を専らにし、賞罰を厳しくして善悪を顕彰し、風憲を崇めて紀綱を正し、浮費を去り冗員を罷め、僧道の民を蠹することを禁じ、賢将を選んで士を訓え、それから群臣を率いて郊廟に過ちを謝し、成湯の六事の自責や唐太宗の十漸即改のごとくせられたい。そうすれば天意を回らし、国勢を振るうことができよう。

また言う。

父が天下を持つときは、固より子に伝えるべきである。先の太子が薨逝したことは、天命の在る所を知るに足る。臣は窃かに上皇の子は即ち陛下の子であると思う。沂王は天資厚重で、宗社の託するに足る。伏して願わくは天地の量を拡げ、友于の仁を敦くし、吉日を選んで儀礼を整え、儲位を復建され、実に祖宗の無疆の慶びとなさることを。

また言う。

陛下は将帥に命じて各々方略を陳べさせた。十日余り時を過ぎても、互いに責任を委ね合っている。石亨・柳溥が言うことがあっても、また庸人孺子の計に過ぎない。平時でさえこうである。一旦急事があれば、どういう策でこれを制するのか。敵を防ぐ方策は、まず賢を用いるに如くはない。陛下は賢を求めて渇のごとくであるが、大臣の排抑は甚だしく、挙げる者は率ね親旧富厚の家が多い。たとえ長材が屈抑されても、誰が敢えて言おうか。朝臣がこのように欺瞞するので、臣は胸を撫でて流涕し、今日賢を妨げ国を病む者を醜とするのである。

上疏が入ると、帝は快く思わなかった。廷臣を下して集議させた。寧陽侯陳懋・吏部尚書王直らは帝にその言を容れるよう請い、ついで罪を引いて罷免を求めた。帝は慰留した。数日後、章綸もまた上疏して儲君復位のことを言い、遂にともに詔獄に下された。翌年八月、大理少卿廖莊もまた沂王のことを言って杖罰を受けた。左右が言うには、事は鐘同が唱導した由と。帝はそこで巨梃を封じて獄中で彼を杖ち、鐘同はついに死んだ。時に三十二歳。

鐘同が上疏したとき、馬に策を加えて出ると、馬が地に伏して起きようとしなかった。鐘同が叱って言った。「我は死を畏れない。お前はどうしたというのか!」馬はなお四たび盤辟して、ようやく行った。鐘同が死ぬと、馬は長く数声号えてやはり死んだ。

英宗が復位すると、鐘同に大理左寺丞を追贈し、その子啓を国子生に録用し、まもなく咸寧知県に任じた。啓は父の遺骸を帰葬することを請い、詔して舟車の路費を給した。成化年間に、次子越を通政知事に任じ、鐘同の妻羅氏に月廩を給した。まもなく鐘同に恭湣の諡を賜い、忠節祠に従祀し、劉球と位を連ね、ついに鐘同の初志の通りとなった。

鐘同が獄に下されたとき、礼部郎の孟玘という者もまた上疏して儲君復位のことを言った。帝は罪に問わなかった。進士楊集が于謙に上書して言った。「奸人黄矰が易儲を献議したのは、ただ逃死の計に過ぎないのに、公らは急いでこれを成した。公は国家の柱石である。どうして善後策を考えないのか。今、鐘同らがまた獄に下された。もし諸人が杖下に死し、公らが坐して崇高を享けたなら、清議にどうするのか。」于謙は書簡を王文に見せた。王文は言った。「書生は忌諱を知らないが、要するに胆がある。一官を進めて処遇すべきだ。」そこで楊集を安州知州にした。孟玘は閩の人、楊集は常熟の人である。

章綸は字を大経といい、楽清県の人である。正統四年に進士となり、南京礼部主事に任じられた。

景泰初年に召されて儀制郎中となった。章綸は国家に多難なことがあるのを見て、常に慷慨として事を論じた。かつて太平十六策を上奏し、反復して万余言に及んだ。也先が和議を結んだ後、力を図り修攘してその変に備えるよう請うた。宦官興安が帝に大隆福寺の完成を請い、臨幸しようとした。章綸は上疏して諫め、河東塩運判官済南の楊浩は任官されてまだ赴任せず、また上章して諫めたので、帝はすぐに臨幸をやめた。楊浩は後に累進して副都御史となり、延綏を巡撫した。章綸はまた災異によって変を致す由を求め、言葉は頗る切至であった。

五年五月、鐘同が上奏して儲君復位を請うた。二日後、章綸もまた抗疏して修徳消災の十四事を陳べた。その大なるものは、「内官は外政に干与すべからず、佞臣は事権を仮すべからず、後宮は声色を盛んにすべからず。凡そ陰盛の類は、悉く禁罷せられたい。」と言い、また言うには、「孝弟は百行の本である。願わくは退朝後、両宮の皇太后に朝謁し、問安視膳の儀を修められたい。上皇は天下に君臨すること十四年、これ天下の父である。陛下は親しく冊封を受けられた、これ上皇の臣である。陛下と上皇は、形は異なれど、実は同一人である。伏して奉迎還宮の詔を読むに、『礼は惟だ加えて替えず、義は以て卑くして尊に奉ず』とある。陛下がこの言葉を允に践まれることを望む。あるいは朔望に、あるいは節旦に、群臣を率いて延和門に朝見し、以て友于の情を展べられ、実に天下の至願である。更に汪後を中宮に復し、天下の母儀を正し、沂王を儲位に還し、天下の大本を定められたい。このようにすれば和気充溢し、災沴自ら消えよう。」上疏が入ると、帝は大怒した。時に日は既に暮れ、宮門は閉じていた。そこで旨を伝えて門の隙間から出し、直ちに章綸と鐘同を捕らえて詔獄に下した。榜掠は惨酷で、主使者と南宮との交通の状を引き出そうと迫った。死に瀕しても、一言もなかった。ちょうど大風が砂を揚げ、昼が晦くなったので、獄はやや緩められ、錮するよう命じた。翌年、廖莊を闕下で杖った。そこで杖を封じて獄中で章綸・鐘同を各々百回杖った。鐘同はついに死に、章綸は長く繋がれたまま従前の通りであった。

英宗が復位すると、郭登は章綸と廖莊・林聰・左鼎・倪敬らはいずれも直言して時流に逆らい、表彰抜擢すべきであると上言した。帝はただちに章綸を釈放し、内侍に命じて以前の上疏を探させたが見つからなかった。内侍が傍らで数語を暗誦すると、帝は再三嘆息し、礼部右侍郎に抜擢した。

章綸はすでに大節をもって帝に重んじられていたが、性質は高直で、世俗に調和することができなかった。石亨は貴幸して公卿を招いて酒宴を催したが、章綸は辞して赴かず、またしばしば尚書楊善と事を論じて合わなかった。石亨と楊善はともに章綸の短所を言った。そこで南京礼部に転じ、そのまま吏部に改めた。

憲宗が即位すると、有司が遺詔を根拠に大婚を請うた。章綸は言上した。「山陵(先帝の陵)の土もまだ新しく、元号も改まらないうちに、百日で吉事に従うのは、心がどうして安らかでありえましょう。陛下が践祚された初めに、孝をもって天下を治めるべきであり、三綱五常はまさにここに源を発します。来春まで待って挙行されるよう乞います。」議は採用されなかったが、天下はその言を重んじた。

成化元年、両淮が飢饉となり、救荒の四事を奏上した。いずれも許可された。四年の秋、子の玄応が籍を冒して京闈(順天郷試)に挙げられた。給事中朱清・御史楊智らがこれにより章綸を弾劾し、侍郎葉盛に調査を命じた。翌年、章綸と僉都御史高明が庶官を考察したが、両人の議は合わなかった。上疏がすでに上った後、章綸はさらに単独で、給事中王讓が考察に赴かなかったことを奏し、かつ高明が剛愎自用で、自分の言うことが多く採用されないと述べ、高明とともに罷免されるよう請うた。上章はともに葉盛らに下された。そこで王讓および下考となった諸臣が相次いで上章して章綸を弾劾した。章綸もまたたびたび上疏して罷免を求めた。帝は聞き入れなかった。まもなく葉盛らが調査を上奏し、玄応が実際に籍を冒していたことがわかった。帝は章綸を赦し、奏上した他の事柄もすべて問わなかった。間もなく、再び礼部に転じた。温州知府範奎が弾劾を受けて転官となった。章綸は言上した。「温州は臣の故郷の郡であり、範奎は大いに民心を得ています。官を解かれる日、士民三万人が泣いて車轅にすがり、十八日間留めてようやく去ることができました。彼を還任させて民の望みを慰められるよう請います。」上章は所管の役所に下されたが、結局取り上げられなかった。

章綸の性質は愚直で、直言を好み、当事者に喜ばれなかった。侍郎の位に二十年いて昇進できず、老齢を理由に退去を請うた。久しくして卒去した。数年後、その妻の張氏が彼の奏稿を献上し、かつ恩典を乞うた。帝は賞賛嘆息し、南京礼部尚書を追贈し、諡を恭毅とし、一子を鴻臚寺典簿に任じた。

玄応は後に進士に挙げられ、南京給事中となった。同官とともに陳鉞の罪を論じて、旨に逆らい俸給を停められた。孝宗が嗣位すると、治本五事を上奏した。官は広東布政使で終わった。

廖莊は、字を安止といい、吉水の人である。宣徳五年の進士。八年に庶吉士に改められ、知県孔友諒ら七人とともに六科で実務を歴任した。

英宗の初め、刑科給事中に任じられた。正統二年、御史元亮が詔書の通りに辺境の軍が侵没した糧餉を免除するよう請うたが、許可されなかった。按察使龔鐩もまた詔書の通りに未逮捕の盗犯を赦すよう請うたが、法司もまた取り上げて実行しなかった。廖莊は詔書は信ずべきであるとして、上章して争った。五年、詔して京官を出して荒政を修めさせ、兼ねて民の滞納を徴収させた。廖莊は使者の督促が民を困窮させることを慮り、災害を受けた州県を寛容に扱い、秋の収穫を待つよう請うた。従われた。陝西で飢饉救済を行い、多くを全活させた。還朝して寛恤の九事を奏上し、多くが議されて実行された。楊士奇の家人が法を犯したので、同官とともに論列した。ある人が言った。「ひとり楊公の立場を考えないのか」と言うと、「まさにそれゆえに楊公のためなのだ」と答えた。八年、御史張驥とともに大理寺の事務を共同で執るよう命じられた。一ヶ月余りして、左寺丞に任じられた。

十一年、南京大理寺少卿に遷った。二年余りして、奸人の陳夫という者が、親族の賈福と指揮職の世襲を争った。南京刑部侍郎の齊韶が陳夫の賄賂を受け取り、賈福の官職を奪って陳夫に与えようとしたが、廖莊に駁された。齊韶は賈福を殴打して死に至らしめ、逮捕された。陳夫もまた廖莊を誣告し、ともに詔獄に召し下された。折しも齊韶の他の罪が併せて発覚し、棄市(斬罪)となり、廖莊はようやく釈放された。

景泰五年七月、上疏して言った。「臣が以前朝廷にいた時、上皇(英宗)が使者を遣わして陛下を冊封され、慶節の度ごとに必ず群臣に東廡で朝謁させられ、恩礼が厚く行き渡り、群臣は皆感嘆し、上皇の兄弟友愛がこのようであると言いました。今、陛下は天下を奉じて上皇に仕えられますが、時々南宮に朝見され、あるいは家法を講明され、あるいは治道を商略され、歳時の令節には群臣に朝見させて、上皇の心を慰められるならば、祖宗の在天の神も安らぎ、天地の心もまた安らぐでしょう。太子は天下の根本です。上皇の子は、陛下の猶子(甥)です。儒臣に親しませ、書策を習わせて、皇嗣の生まれるのを待たせ、天下の臣民に明らかに陛下が天下を公とする心があることを知らしめれば、美しいことではありますまいか。そもそも天下は、太祖・太宗の天下です。仁宗・宣宗が継体守成したのも、この天下です。上皇が北征されたのも、この天下のためです。今、陛下がこれを撫有されるにあたり、祖宗の創業の艱難を念じ、天下の人心を繋ぎ止める方法を思うべきであり、災いを消し祥瑞を招く道はこれに過ぎるものはありません。」疏が入ったが、返答がなかった。翌年、廖莊は母の喪に服し、京に赴いて勘合(通行証)を受け、東角門で朝見した。帝は廖莊の以前の上疏を思い出し、廷杖八十を命じ、定羌駅丞に左遷した。

天順初年、召還された。当時母の喪が終わらず、さらに父の喪に遭ったが、特に祭葬を賜り、起復を命じられ、依然として南京の官に任じられた。天順五年、そのまま礼部右侍郎に抜擢され、刑部に改めた。成化初年、召されて刑部左侍郎となった。一年余りして卒去した。尚書を追贈され、諡を恭敏といった。

廖莊の性質は剛直で、人の過ちを面と向かって指摘するのを好んだが、実は胸襟が開けてわだかまりがなかった。細かい礼儀作法にこだわらず、賓客を謝して歓び親しむことを好んだ。法司の官に就くと、ある人がやや賓客との往来を控え、嫌疑を遠ざけるよう勧めた。廖莊は笑って言った。「昔の人が『臣が門は市の如く、臣が心は水の如し』と言った。私はわが心に愧じないだけだ。」卒去の日、葬るためのものがなく、衆人が金を出し合ってその葬儀を助けた。

初め、景帝の時、英宗は南宮におられ、左右の者が離間を図った。懐憲太子が薨じると、群小は沂王が再び立てられることを恐れ、讒言による陥れがますます甚だしくなった。それゆえ鐘同・章綸と廖莊が相次いで力説し、いずれも罪を得た。しかし帝はかなり感覚した。六年七月辛巳、刑科給事中徐正が隙を見て事を言うことを請うた。急いで召し入れると、言うには、「上皇は臨御の年久しく、沂王はかつて儲副の位にあり、天下の臣民は仰ぎ戴いています。その封じられた地に移し置いて、人望を絶つべきです。別に親王の子を選んで宮中で養育されますように。」帝は驚愕し、大いに怒り、ただちに叱りつけて退出させた。その罪を正そうとしたが、衆を驚かせることを慮り、遠方への左遷を命じたが、帝の怒りは解けなかった。その後、さらにその淫穢の事を得て、鉄嶺衛への流罪に左遷した。おそらく帝は鐘同らの言ったことが過激であることを怒りながらも、小人の言もすぐには聞き入れなかったのであろう。英宗が復辟に及んで、于謙・王文が外藩を立てようと謀ったとして誅殺され、その事はついに明らかにならなかったという。

倪敬は、字を汝敬といい、無錫の人である。正統十三年の進士。御史に抜擢された。景泰初年、畿輔が飢饉となり、命を受けて視察に出た。田租の免除を請うたが、戸部が認めなかった。再び上疏して争い、ついに許可を得た。山西を巡按した。当時、粟を納めて官を補う法令があり、倪敬は奏上してこれを廃止させた。戍将で餉を侵した者は、すべて取り調べて処断し、豪猾な者は行跡をひそめた。再び福建を按察した。当時、銀の採掘を復活させようという議論があり、倪敬は出発前に、抗疏して論じ、廃止させた。到着後、諸司の器物で民から濫りに取り立てるものを奏上して廃止させた。鎮守内臣の戴細保が貪欲で横暴であったので、倪敬はその罪状を列挙して上聞した。帝は戴細保を召還し、倪敬に命じてその党を捕らえて処断させた。吏民は互いに慶賀した。交代して還朝する際、四ヶ月家に留まったが、逮捕処分を受け、まもなく復職した。

六年七月、時に災異多く、同官の呉江盛昶・江陰杜宥・蕪湖黄譲・安福羅俊・固始汪清と共に上言す。「府庫の財は、故なくして与うべからず。遊観の事は、時に非ずして行うべからず。曩に僧を斎すに、屡々帑金を出して米を易えり。風に櫛し雨に沐す辺卒、事に趨き公に急ぐ貧民を、また何をもってか済さん。近く龍舟を造り、燕室を作り、営繕日増し、嬉遊少なからず。聖躬を養う所以に非ず。章綸・鐘同直言して忤わるを見、幽錮逾年。聖徳を昭かにする所以に非ず。願わくは桑門の供を罷め、宴佚の娛を輟め、興作の役を止め、直臣の囚を寛にせん」。帝疏を得て悦ばず、之を礼部に下す。部臣其の忠愛を称す。帝報聞すと、然れども意終に解けず。未幾、都御史蕭維禎に詔して其の属を考察せしめ、去らしむるを諭令す。御史罷黜する者十六人、而して敬等預かる。皆典史に謫せられ、敬は広西宜山を得。英宗復辟し、詔して皆知県を授けよと、乃ち敬を以て祥符を知らしむ。安遠侯柳溥敬を器とし、西征し、以て自らに随わんことを請い、都督ととく府都事に改む。逾年師還り、卒す。士類之を惜しむ。

盛昶等五人、皆進士。昶は雋爽にして気を負う。嘗て広東を按じ、巡撫侍郎掲稽の職せざるを劾し、稽坐して左遷せらる。昶後羅江知県と為り、叙州知府に擢げられ、並びに寇を禦ぐ功有り。杜宥は英徳知県と為る。鄰境寇多く、県城を創立す。嘗て囲まれ糧尽き、宥死守して下らず。夜死士を縋りて其の営を焚く、賊始めて驚潰す。韶州通判に移り、病を謝して帰る。黄譲は安嶽を知り、中府都事に遷る。錦衣衛の隷を撻つを以て、門達の譖る所と為り、広西に戍す。赦されて還り、復た冠帯す。貧甚だしく、耕を課して自給す。羅俊嘗て四川を巡按し、廉声有り。仕えて終に南雄知府と為る。

楊瑄、字は廷献、豊城の人。景泰五年進士。御史を授かる。剛直にして気節を尚ぶ。景帝せず、廷臣東宮を立てんことを請う、帝允さず。瑄は同官の銭琎・樊英等と疏を争わんことを約す、会すに「奪門」の事起こり、乃ち已む。

天順初、畿内に印馬す。河間に至り、民曹吉祥・石亨の其の田を奪うを訴う。瑄以て聞かしめ、並びに二人の寵を怙り権を専らにする状を列す。帝大学士李賢・徐有貞に語りて曰く、「真の御史なり」。遂に官を遣わして按核せしめ、而して吏部に命じて瑄の名を識しめ、将に擢用せんとす。吉祥之を聞きて懼れ、帝に訴えて之を罪せんことを請う。許さず。

未幾、亨西征より還る、適に彗星見ゆ。十三道掌道御史張鵬・盛颙・周斌・費広・張寛・王鑑・趙文博・彭烈・張奎・李人儀・邵銅・鄭冕・陶復及び御史劉泰・魏翰・康驥、将に亨・吉祥の諸の違法の事を劾せんとす。先んずること一日、給事中王鉉亨に泄らす。亨と吉祥泣いて帝に訴え、鵬等を誣いて已に誅せられたる内官張永の従子と為し、党を結びて排陥し、永が為に仇を報ぜんと欲すとす。明日疏入る、帝大いに怒り、鵬及び瑄を収む。文華殿に御し、諸御史を悉く召し、弾章を擲ちて、自ら読ましむ。斌読み且つ対し、神色自若たり。功を冒し職を濫るに至り、帝之を詰えて曰く、「彼将帥士卒を帥いて駕を迎え、朝廷功を論じ賞を行う。何を以てか冒濫と云う」。斌曰く、「当時駕を迎うるは数百人に止まり、光禄酒饌を賜い、名数具に在り。今超遷すること数千人に至る。冒濫に非ずして何ぞ」。帝黙然たり。竟に瑄・鵬及び諸御史を獄に下す。榜掠備至り、主使する者を詰う。瑄等引く所無し。乃ち都御史耿九疇・羅綺を主謀と坐し、亦獄に下す。瑄・鵬を死と論じ、余は戍に遣わす。亨等復た諸の言官を譖す。帝吏部に諭し、給事・御史年三十を逾ゆる者は之を留め、余は悉く外に調せよと。尚書翺上に列して給事中何玘等十三人、御史呉禎等二十三人とす。詔して玘等を州判官と為し、禎等を知県と為す。会すに大風震雷有り、木を抜き屋を発し、須臾にして大雨雹有り。亨・吉祥家の大木倶に折る。二人亦懼る。欽天監を掌る礼部侍郎湯序本亨の党、亦言う上天示警す、宜しく刑獄を恤れむべしと。ここにおいて帝感悟し、瑄・鵬を鉄嶺衛に戍し、余は知県に貶し、泰・翰・驥三人は復職し、而して玘・禎等も亦調を免る。玘・鵬行くこと半道、適に承天門災に会い、肆赦して放還す。或いは亨・吉祥に詣で謝すべしと謂うも、二人卒に往かず。復た南丹に謫戍せらる。

憲宗即位し、並びに故官に還す。瑄尋ち浙江副使に遷る。海道を按行し、将校の戍卒を私に縱するを禁ず。捍海塘を修め、海塩の堤岸二千三百丈を築き、民奠居を得。副使と為ること十余年、政績卓然たり。按察使に進む。西湖の水旧は諸県の田四十六万頃を溉ぐべく、時に堙塞過半す。瑄之を浚わんことを請う。防を設け閘を置き、以て灌溉に利せんとす。功未だ就かずして卒す。海塩の人祠祀す。

子源、字は本清、幼より天文を習い、五官監候を授かる。正徳元年、劉瑾等政を乱す。源上言す。「八月初より、大角及び心宿中星動揺して止まず。大角は天王の坐、心宿中星は天王の正位なり。倶に安静なるべきに、今乃ち動揺す。其の占いに曰く、『人主安からず、国に憂有り』。意うらくは陛下軽挙逸遊し、弋獵度無く、以て然らしむるか。又北斗第二第三第四星、常の如く明らかならず。第二は天璇と曰い、后妃の象なり。后妃其の寵を得ざれば則ち明らかならず、広く宮室を営み妄りに山陵を鑿てば則ち明らかならず。第三は天機と曰い、百姓を愛せざれば則ち驟に征徭を興せば明らかならず。第四は天権と曰い、号令当たらずば則ち明らかならず。伏して願わくは陛下天戒を祇畏し、深宮に安居し、嬉戯を絶ち、遊畋を禁じ、騎射を罷め、工作を停め、号令を申厳し、軽く出入せず、寵幸を抑えて遠ざけ、賜与を裁節し、元老大臣に親しみ、日に講習を事とし、克く厥の徳を修め、以て災変を弭がん」。疏礼部に下る。尚書張升等源の忠愛を称す。報聞す。

迨う十月、霾霧時に作る。源言う。「此れ衆邪の気、陰陽に冒す。臣其の君を欺き、小人権を擅にし、下将に上に叛かんとす」。引譬甚だ切なり。瑾怒り、旨を矯って三十を杖し、之を釈す。又上言す。「正徳二年より以来、占いて火星の太微垣帝座前に入るを得。或いは東或いは西、往来一ならず。乞う政柄を収攬し、患を思いて予防せん」。蓋し専ら瑾を指す。瑾大いに怒り、召して之を叱りて曰く、「若何の官ぞ、亦た忠臣と為らんと学ぶ」。源厲声して曰く、「官大小異なるも、忠は一なり」。又旨を矯って六十を杖し、肅州に謫戍す。河陽驛に行き至り、創を以て卒す。其の妻蘆荻を斬りて之を覆い、驛の後に葬る。

楊氏父子忠諫を以て天下に名有り、士論に重んぜらる。而して源小臣節を抗し、尤も人の難くする所なり。天啓初、謚を賜いて忠懷と曰う。

盛顒は字を時望といい、無錫の人である。周斌は字を國用といい、昌黎の人である。王鑒おうかんは太原の人である。趙文博は代州の人である。彭烈は峽江の人である。李人儀は隆昌の人である。邵銅は閩縣の人である。鄭冕は樂平の人である。皆進士となり、御史に任ぜられた。顒は降格して束鹿知縣となり、斌は江陰、鑒は膚施、文博は淳化、烈は江浦、人儀は襄陽、銅は博羅、冕は衡山にそれぞれ任ぜられ、皆善政を施した。

束鹿では徭役が不公平で苦しんでいたので、顒は九則法を定め、後任者はこれを改めることができなかった。母の喪に服して官を去った。喪が明けると、民衆は相率いて朝廷に赴き、顒の復帰を請願した。顒が再任すると、ますます鞭撲を用いず、訴訟を起こす者には諭すと、たちまち叩頭して再び弁明しなかった。隣県で訴訟が決着しない場合も、皆赴いて訴え出ると、一言でこれを裁断し、それぞれ心服して去った。郊外に空地があり、争って来て家屋を築いて住み、ついに市となり、「清官店」と号された。

斌は江陰において、恵みある政治を行った。民は歌った。「旱魃が災いとなれば、周公が祈ると甘露が降る。水害が患いとなれば、周公が祈ると陰雨が散る」と。天順七年、先に推薦により開封知府に抜擢された。一方、顒らは憲宗が位を継ぐに至り、所管の役所がその治績を奏上した。帝は言った。「諸臣は直言諫めて権幸に排斥されたが、またよく職務に適っている。皆、郡守に任ぜよ」と。そこで顒を邵武知府に、鑒を延安知府に、文博を衛輝知府に、烈を河南知府に、人儀を荊州知府に、銅を溫州知府に、冕を衡州知府にそれぞれ抜擢した。顒はさらに政務繁劇の地に適任として、延平に転任した。巡按御史が顒の政績を上奏し、陝西・湖廣の守臣もまた鑒と人儀が県令在任時の治績を上奏した。皆、特に封誥を賜った。

顒は累進して陝西左布政使となった。当時、三辺に警報多く、年また飢饉が重なった。顒は糧秣の輸送を計画して欠けることなく、軍民ともに安堵した。成化十七年、召されて刑部右侍郎となった。二年在任した後、山東が旱魃と飢饉に見舞われ、盗賊が起こったため、顒を左副都御史に改めて巡撫として派遣した。顒が到着して露天で祈ると、大雨が潤い、枯れた禾は再び蘇った。救荒の政策を実施し、既に救済した後も、余った穀物はなお百余万石あった。また九則法を諸府に推し広め、暴虐を退け苛政を除き、民は大いにその恩徳を感じた。三年在任し、老齢を理由に致仕した。弘治年間に卒した。

斌は、広東右布政使を歴任した。初めて江陰を去る時、民は生祠を建立した。また開封から転任して去る時も、民は涙を流して追い送った。鑒は、初め御史となり、かつて左順門において中官の非礼を面と向かって叱責した。中官は大いに怒り、考察に際して都御史蕭維禎に属して鑒を罷免させようとしたが、維禎は同意せず、やむを得ず止めた。文博は、ついに河南巡撫右副都御史に至った。烈は、広東左布政使となった。費廣らについては、考証すべき資料がない。

賛して言う。直言敢諫の士は、事変に激発され、身を顧みず奮い立ち、罪を得ることはもとより甘んじて受け入れるところである。しかし、尹昌隆が呂震のために死に、耿通が高煦に陥れられ、劉球の殺害と陳鑒の投獄は王振によるものであり、楊瑄の流刑は石亨・曹吉祥に阻まれ、さらには戴綸が遊猟を諫め、陳祚が勤学を請い、鐘同・章綸・廖莊が儲君復位を唱え、倪敬らが時事を直言し、皆これによって禍を買ったのを見る。忠臣の志が抑えられて伸びず、また悲しむべきことである。