明史

列傳第四十九 周新 李昌祺 陳士啟 應履平 林碩 況鍾 陳本深 彭勖 夏時 黃潤玉 楊瓚 劉實 陳選 夏寅 陳壯 張昺 宋端儀

○周新李昌祺(蕭省身)陳士啟應履平林碩況鐘(朱勝)陳本深(羅以禮莫愚趙泰)彭勗(孫鼎)夏時黃潤玉楊瓚(王懋葉錫趙亮)劉實陳選夏寅陳壯張昺宋端儀

周新は南海の人である。初めの名は志新、字は日新といった。成祖が常に単に「新」と呼んだので、遂に名とし、それによって志新を字とした。洪武年間に諸生として貢挙され太学に入った。大理寺評事に任じられ、善く獄を決することに称された。

成祖が即位すると、監察御史に改めた。敢えて言い、多く弾劾した。貴戚は震え恐れ、「冷面寒鉄」と目した。京師の中ではその名で小児を怖がらせると、皆走り隠れた。福建を巡按し、都司衛所が府州県を凌駕してはならず、府衛の官は相見えるに均しい礼とすべきことを奏請し、武人のためにこれを収めた。北京を按ずることに改めた。当時、吏民で徒流の罪ある者に北京の閑田を耕させたが、監禁して詳しく擬議し、往復して報を待つ間に多く獄死した。周新は北京行部あるいは巡按が詳しく允可して就いて派遣するに従うよう請い、滞留を免れさせた。これに従った。また、畿内の罪人で決すべき者は収贖を許すよう命じた。帝は周新を知り、奏する所は允可されないことはなかった。

朝廷に還ると、即ち雲南按察使に抜擢された。赴任せず、浙江に改めた。冤罪の民が長く繋がれ、周新の到着を聞き、喜んで言った、「我生き得るなり」。到着して果たしてこれを雪いだ。初め、周新が境に入ると、群がる蚋が馬の頭を迎え、跡を辿って榛莽の中に死人のあることを得た。身に小木印を繋いでいた。周新が印を検め、死者がもと布商であることを知った。密かに広く布を買わせ、印文の合う者を見て捕らえ鞠問し、諸盗をことごとく捕らえた。ある日、政務を見ていると、旋風が葉を吹き落として案前に墜ちた。葉は他の樹と異なっていた。左右に尋ねると、ただ一つの僧寺にこれがあった。寺は城から遠く、周新は僧が人を殺したと推した。樹を発くと、果たして婦人の屍を見た。鞠問して実を確かめ、僧を磔にした。ある商人が暮れに帰り、劫掠に遭うのを恐れ、叢祠の石の下に金を隠し、帰って妻に語った。朝になって金を求めに行ったが得られず、周新に訴えた。周新は商人の妻を召して訊問した。果たして商人の妻に私通する者があった。商人が急に帰ったので、私通する者は尚妻の所に隠れており、商人の言葉を聞いて夜にこれを取ったのである。妻と私通する者はいずれも死罪に論じられた。その他の奸悪を発き隠伏を摘むことは、皆この類であった。

周新は微服で部内を行き、県令に逆らった。県令は拷問して治めようとしたが、廉使が将に至ると聞き、獄に繋いだ。周新は獄中から諸囚に尋ね、県令の貪汙の状を得た。獄吏に告げて言った、「我は按察使なり」。県令は驚いて謝罪し、弾劾して罷免した。永楽十年、浙西に大水があり、通政趙居任は隠して聞かせなかったので、周新がこれを奏した。夏原吉が居任のために弁解した。帝は覆視を命じ、周新の言う如く蠲免と賑済を得た。嘉興の賊倪弘三が傍郡を劫掠し、党数千人、累ねて官軍を敗った。周新は兵を督してこれを捕らえ、諸港汊に木柵を列ねた。賊は陸路を走り、桃源に追い躡いて、縛して献上した。この時、周廉使の名は天下に聞こえた。

錦衣衛指揮紀綱が千戸に浙江で事を緝めさせ、賄賂を攫い威福をなした。周新はこれを按治しようとしたが、遁走した。間もなく、周新が文冊を携えて京に入り、涿州で千戸に遇い、捕らえて州獄に繋いだ。脱走して紀綱に訴え、紀綱は周新の罪を誣奏した。帝は怒り、周新を逮捕するよう命じた。旗校は皆錦衣の私人で、道中で榜掠して完膚なきまでにした。既に至り、陛前に伏して抗声して言った、「陛下は按察司の行う事を詔し、都察院と同じくせしめられました。臣は詔を奉じて奸悪を擒えました。如何にして臣を罪せられるのですか」。帝は愈々怒り、これを戮すよう命じた。臨刑に大呼して言った、「生きて直臣と為り、死して直鬼と作らん」。遂にこれを殺した。

他日、帝は後悔し、侍臣に問うて言った、「周新は何許の人ぞ」。答えて言った、「南海です」。帝は嘆いて言った、「嶺外に乃ちこの人あり、枉くこれを殺したるかな」。後に帝は緋衣の人日の中立つを見るが如く、「臣周新は既に神と為り、陛下のために奸貪の吏を治む」と言ったという。後に紀綱は罪に坐して誅せられ、事は益々明らかになった。

妻は節操があった。周新が未だ遇わざる時、縫紉して自ら給した。貴くなってから、偶々同官の妻の内宴に赴いたが、荊布の身なりは田家の婦の如かった。諸婦は慚じ、その衣飾をことごとく改めた。周新の死に子がなかった。妻は帰り、甚だ貧しかった。広東巡撫楊信民が言った、「周志新は当代第一の人なり。その夫人をして終日餒えしむべけんや」。時時これを賙給した。妻が死ぬと、浙江の人で広東に仕える者は皆会葬した。

李昌祺は名を禎といい、字をもって行われ、廬陵の人である。永楽二年の進士。庶吉士に選ばれた。『永楽大典』の編修に預かり、僻書疑事は人多く就いて質した。礼部郎中に抜擢され、広西左布政使に遷った。事に坐して役に謫せられ、間もなく宥されて還った。洪熙元年、故官の河南に起用された。右布政使蕭省身と共に豪猾を縛り、貪残を去り、滞りを疏き廃れたるを挙げ、災を救い貧を恤い、数月にして政化大いに行なわれた。憂いにより帰ったが、宣宗は既に侍郎魏源を代わりに命じていた。而してこの時河南に大旱があり、廷臣は昌祺が廉潔寛厚で、河南の民がこれを懐いているとして、昌祺を起用するよう請うた。喪を奪って官に赴き、撫恤すること甚だ厚いことを命じた。正統に改元し、三事を上書して言い、皆報可された。四年に致仕した。家に居ること二十余年、跡を屏して公府に入らず、故廬はただ風雨を蔽うのみで、伏臘も充たさなかった。景泰二年に卒した。

蕭省身は泰和の人である。昌祺と同挙の進士。洪熙元年、布政の考課が満ち、誥命を与うべき時、父が八十余歳であることを奏し、父に給することを願った。帝は嘉んでこれを許し、後遂に例となった。河南に居ること十二年、治行は昌祺と等しかった。

陳士啓は名を雷といい、字をもって行われ、泰和の人である。永楽二年の進士。庶吉士に選ばれ、礼部郎中に抜擢された。尚書呂震は険しく忮み、属吏は皆これを憚り、承奉して唯謹むのみであったが、士啓独り少しも徇わなかった。

十二年三月、吏部が布政・按察の二司に多く官が欠けていると言った。帝が言った、「布政・按察は我が方嶽の臣なり。方数千里の地を数人の手に懸けている。その廷臣の賢能なる者を簡び、分別してこれを用いよ」。ここにおいて諸曹郎・給事中が出て監司となる者二十余人、而して士啓は山東右参政を得た。吏事に心を尽くし、察察たる名を為さなかった。徭賦を督めるに、峻しく期約せず。青州が饑饉に遭い、粟を以てこれを賑すよう疏請した。使者が至った時、飢民は倍加していた。士啓は再び上疏し、先ず粟を出して民に与え、使者に謂って言った、「罪あれば我独り任せん」。廷議は竟にこれに従った。

唐賽児の乱に坐して獄に下され、数月して釈放され職に還った。高煦が謀反を謀り、士啓は青州より暮れに馳せ帰って三司に語り、密かに朝廷に聞かせた。高煦が既に捕らえられると、薛祿・張本に従って余党を録し、人民を撫安した。事が竣うと、山東の軍籍を清理するよう命じられた。宣徳六年に官において卒した。

応履平は奉化の人である。建文二年に進士となり、徳化知県に任ぜられた。吏部郎中を歴任し、常徳知府として出向した。

宣宗の初め、貴州按察使に抜擢された。赴任先では奸悪を除き、しばしば時政を論じた。旧制では、都督ととく府が使者を派遣する際は必ず内勘合を携え、都司に下し、衛に直接下すことはなかった。この頃になると軍府が次第に横暴となり、使者が関文を携えて四方に馳せ、諸衛を歴訪し、軍兵を削った。宣徳七年、履平は抗疏して言う、「勘合を設けたのは、詐偽を防ぐためである。今、右軍府が貴州に派遣する者は故事に従わず、小人が勢いに乗じて横暴に求め、詐冒をどうして省みようか」。宣宗はその言を善しとし、都督陳政は罪を認めた。帝は諸司に永くこれを守らせ、軍府はこれにより収まった。

山雲が広西を鎮めて蛮に備え、毎年貴州の軍兵一万人を徴発し、春秋に交代させたが、帰還する者は多く逃亡し、原衛の軍兵を取って補い、逃亡者を追わなかった。履平が上奏した、「貴州は四方みな苗蛮であり、軍伍が空虚では、急事があれば誰と戦い守ろうか。今、衛軍は広西に逃亡し、衛にいる者で補っている。数年も経たぬうちに貴州の軍伍は尽く空となり、辺境の争いが起こるであろう」。帝は山雲に命じて広西の諸衛を厳しく責め、逃亡軍を追還させ、足りるようになったら即ち帰還させ、貴州の戍卒を罷めさせた。山雲は名将で、粤を鎮めて功績があったが、履平を書生と軽んじた。正統元年、履平は山雲が権を弄し、威福を擅にしたと弾劾した。帝は山雲に自ら陳述させた。山雲は大いに驚き、罪を認めた。帝はこれを宥した。

翌年、四つの事を上書して言った。一つ、鎮遠など六府は湖広から貴州に改属したので、川塩を食すべきであるが、しょくへの道が遠いので、やはり淮塩を食するのが便利である。一つ、軍衛の糧は重慶から支給されるが、舟楫が通ぜず、軽い財貨に換えれば多く消耗するので、鎮遠の秋糧で湖広に輸送する分を就近で支給するよう請う。一つ、黎平諸府の歳辦する黄白蠟を停止する。一つ、貴州は開かれたばかりで、三司の月俸は一石に過ぎなかったが、今は糧が漸く充裕となったので、増給を請う。全て従われた。

当時、方面の官が公事で部内を行く者は、例として駅伝を与えられなかった。履平は車舟を借りれば必ず民を擾すと言い、駅伝を与えるよう便利を請うた。また軍伍が不足しているので、衛所の官・旗で雑犯死罪及び徒流に当たる者は、全て鎮将の下に送って功を立てさせ、期限が満ちれば軍伍に還すこと、辺軍で盗を犯した者及び土官・民と官・旗で罪の軽い者は、欠儲所に粟を納れて罪を贖うことを請うた。全て従われた。三年、雲南左布政使に遷った。当時麓川で用兵があり、しばしば労績を奏上した。八年、致仕して帰った。

林碩は字を懋弘といい、閩県の人である。永楽十年に進士となり、御史に任ぜられ、山東を巡察した。

宣徳の初め、浙江を巡察した。治め方は厳粛で、そのまま按察使に抜擢された。千戸の湯某が中官裴可烈と結んで奸利を図り、碩は法でこれを糾そうとした。中官が碩が詔書を毀ったと誣告し、逮捕された。碩は叩頭して言う、「臣は以前御史であり、官は七品であった。今按察使に抜擢され、官は三品である。日夜淬勵し、上恩に報いようと考える。小人にとって都合が悪く、臣を去らせようとしているだけです。唯陛下に裁察を願う」。帝は顔色を動かして言う、「朕は固より信じておらず、汝を召して面訊しただけである」。直ちに碩を釈放し、官に復し、可烈を責めるよう勅した。碩は浙江に長く在任し、人々はその恵みを懐いた。

正統三年、誤って赦例を引用して人を死罪から出したため、僉事の耿定がこれを弾劾した。逮捕され訊問され、贖罪を納れて職に還った。その冬、広東布政使に遷ったが、任に就かぬうちに卒した。その後、寧波知府の鄭珞が可烈の不法を弾劾し、可烈はついに罷免されて去った。

況鐘は字を伯律といい、靖安の人である。初め吏として尚書呂震に仕え、その才能を奇として、儀制司主事に推薦され任ぜられた。郎中に遷った。

宣徳五年、帝は郡守が多く職に称しないことを以て、蘇州など九府が欠員で、いずれも雄劇の地であるので、部・院の臣にその属官で廉能な者を挙げて補うよう命じた。鐘は尚書蹇義・胡濙らの推薦により、蘇州知事に抜擢され、勅を賜って派遣された。

蘇州は賦役が繁重で、豪猾が文書を弄んで奸利を図り、最も治め難いと号されていた。鐘は駅伝に乗って府に至った。初めて政務を視ると、群吏が環立して判牒を請うた。鐘は佯って省みず、左右を顧み問うて、唯吏の欲する行止に任せた。吏は大いに喜び、太守は暗愚で欺き易いと言った。三日を過ぎて、召し詰めて言う、「先日の某の事は行うべきであったのに、汝は私を止めた。某の事は止めるべきであったのに、汝は強いて私に行わせた。汝らは長く文書を弄び、罪は死に当たる」。直ちに数人を捶殺し、属僚の貪虐で庸懦な者を尽く斥けた。一府大いに震え、皆法を奉じた。鐘は煩苛を蠲免し、条教を立て、民に不便な事があれば直ちに上書して言った。

清軍御史の李立が軍を勾するのに暴虐で、同知の張徽がその風指を受け、動もすれば酷刑で平民を抑え配した。鐘は上疏して百六十人を免じ、役が本人限りで終わる者を千二百四十人止めた。属県の逋賦は四年にわたり、凡そ七百六十余万石に及んだ。鐘は量りに応じて鈔に折納するよう請うたが、部議に阻まれた。しかしこれより頗る蠲減された。また言う、「近く詔を奉じて官民の荒田を佃う人を募り、官田は民田に準じて科し、人種のない者は賦額を除くとされた。昆山諸県の民で死没・移徙・従軍により籍を除かれた者は、凡そ三万三千四百余戸、遺された官田二千九百八十余頃、減税すべきは十四万九千余石である。その他の官田で海に没したものは、賦額が猶存するので、宜しく皆詔書の如く従うべきである。臣の領する七県の秋糧は二百七十七万九千石有奇である。そのうち民糧は十五万三千余石に過ぎず、官糧は二百六十二万五千余石に至り、一畝あたり三石を征するものもあり、軽重不均この如しである。洪熙・永楽の間、北方の諸駅に馬役を出すよう命じ、前後四百余匹、期限は三年で遣還としたが、今や三十余年を経た。馬が死ねば補い、休む時がない。工部が三梭闊布八百匹を徴発し、浙江十一府は百匹に過ぎないのに、蘇州は七百匹に至る。乞う、所司に処置せしめられよ」。帝は悉く報じて許した。

当時、しばしば詔して蘇州・松江の重賦を減じた。鐘は巡撫周忱と心を悉くして計畫し、七十余万石の免除を奏上した。凡そ忱の行う善政は、鐘が皆協力して成し遂げた。積み立てた済農倉の粟は毎年数十万石で、凶荒を救済するほか、民間の雑辦及び逋租に代えた。その為政は細やかで周密であった。嘗て二つの簿を置いて民の善悪を記し、勧懲を行った。また通関勘合簿を置き、出納の奸偽を防いだ。綱運簿を置き、運夫の侵盗を防いだ。館夫簿を置き、非理な需求を防いだ。利を興し害を除くに余力を遺さず、豪強を鋤き良善を植え、民は神の如く奉じた。

先に、中使の織造采辦及び花木禽鳥を購う者が踵を接して至った。郡佐以下は、動もすれば笞縛に遭った。また衛所の将卒は、時として小民を淩虐した。鐘が在任すると、跡を敛めて敢えて放肆しなかった。上官及び他省の吏でその地を過ぎる者も、皆心に畏れた。

鐘は刀筆より起ったが、学校を重んじ、文儒を礼し、単門の寒士は多く振贍された。鄒亮という者が鐘に詩を献じた。鐘がこれを推薦しようとすると、或る者が匿名の書を以て亮を毀った。鐘は言う、「これは私に亮の名を速やかに成させようとするのだ」。直ちに朝廷に奏上した。召されて吏部・刑部の司務に授けられ、御史に遷った。

初め、況鐘が吏であった時、呉江の平思忠もまた吏から身を起こし、吏部司務となり、況鐘に恩を施した。この時、況鐘はしばしば彼を招いて会い、礼を尽くして恭しく接し、また二人の息子に給仕させて言った。「僕隷がいないわけではないが、これによって貴公に報いたいのである。」思忠の家は元より貧しく、かつて旧誼に縁って何かを求めることはなかった。人々は二人をともに賢人と称えた。

況鐘はかつて母の喪に服したが、郡民が宮廷に赴いて留任を請願した。詔によって喪中起復が命じられた。正統六年、任期が満ちて転任すべき時、管下の民二万余人が走り出て巡按御史張文昌に訴え、再任を乞うた。詔によって正三品の俸禄を進められ、なお知府の職務を執ることとなった。翌年十二月、官において卒した。官吏と民衆は集まって哭し、祠堂を建立した。

況鐘は剛直で廉潔、孜々として民を愛し、前後蘇州を守った者で彼に及ぶ者はなかった。況鐘の後、李従智、朱勝が相次いで蘇州知府となったが、皆勅命を受けて職務に当たった。しかし、勅書に委ねられた信任は況鐘には及ばなかった。李従智は宜賓の人である。

朱勝は金華の人である。朱勝は廉潔で静粛、精細で敏速、下僚は欺くことができなかった。かつて言った。「吏が貪れば、私は多く牒を受け取らない。隷が貪れば、私は杖刑を行わない。獄卒が貪れば、私は囚人を拘禁しない。」これによって公庭は清く粛とし、民は安んじてその教化を受けた。七年在任し、超擢されて江南左布政使となった。

初め況鐘とともに推薦された者、戸部郎中羅以禮は西安知府となり、兵部郎中趙は松江知府となり、工部郎中莫愚は常州知府となり、戸部員外郎邵旻は武昌知府となり、刑部員外郎馬儀は杭州知府となり、陳本深は吉安知府となり、御史陳鼎は建昌知府となり、何文淵は温州知府となり、皆勅書を賜わり駅伝を利用して赴任した。

陳本深、字は有源、鄞県の人。永楽初年、郷挙によって国子監に入る。刑部主事を授かる。奸悪を暴くことを得意とした。畿内で盗賊が人を殺し、逃亡潜伏した。役所は無辜の十八人を獄に繋いだ。本深は計略をもって盗賊を捕らえ、十八人を皆免じた。員外郎に遷る。

況鐘らとともに勅を受けて知府となったが、本深は吉安を知った。吉安には豪強が多く、好んで告訴・訴訟を行った。大悪党の彭摶ら十九人が里巷に横行した。本深は人を遣わして彼らと交わりを結ばせた。酒宴を設けて招き飲ませ、壮士を後堂に伏せさせ、引きずり出して殺し、皆その屍を引きずり出した。一府大いに驚く。楽安の大盗曾子良が大盤山を占拠し、徒党一万余を擁した。本深は伏兵を設けて大いにこれを破り、子良を斬った。

本深は政務を行うに大綱を挙げ、細かいことにはこだわらなかった。大悪党が既に殲滅されると、府中に事無く、朝起きて太鼓を打って堂に昇り、吏が報告すべきことが無ければ、すぐに太鼓を打って退いた。時に訴訟があれば、榻前まで呼び寄せ、曲直を分析して帰らせ、また訴状も受け取らなかった。抑圧されて訴え出られない者がいれば、三尺の童子であっても、皆往って訴えることができた。久しくして、民は争訟を恥じるようになった。特に士人に対して礼を尽くし、学宮を修飾し、先儒欧陽修、周必大、楊邦乂、胡銓、楊万里、文天祥の祠廟を新たにすることを奏上した。正統六年、九年の任期が満ちて転任すべき時、郡民が留任を乞い、詔によって正三品の俸禄を与えられた。官舎の前で民が娘を嫁がせる時、本深は鼓楽の声を聞いて笑い、「私が来た時は、乳飲み子であった。今や嫁ぐというのに、私はまだここに留まっているのか」と言った。そこで致仕を請うた。前後吉安を守ること十八年、去った後、郡人はその肖像を描いて祀った。

羅以禮は桂陽の人。永楽十三年の進士。郎中から西安知府となる。喪に遭い、補われて紹興知府となる。再び喪に遭って去る。後任者が職に適わず、管下の民が追慕し、朝廷に羅以礼を乞うた。詔によって喪中起復して職務を執らせた。任期満了後、位階を進めて再任させた。後に、建昌知府に転じる。赴任した所々で皆恵みと慈愛があった。三郡を歴任すること凡そ二十七年、乃ち致仕した。

莫愚は臨桂の人。郷挙によって、郎中から出て常州知府となる。宜興の歳進茶の数を減ずることを奏請し、公差の官が役所を凌辱虐待することを禁じ、上官の推薦・弾劾の実状を厳しく審査することを上奏し、皆許可された。郡民陳思保は十二歳で、代々漁業を営んでいた。その父兄が強盗を行い、思保は舟中にいた。役所は従犯として論じ、斬刑に当たるとした。莫愚が上疏して言う。「小児がその父兄に従っているのは、従犯に比すべきではない。もし一家が舟に住んでいれば、一家皆を連座させるのか。」宣宗は彼を釈放するよう命じ、廷臣に言った。「太守としてこのように言えるのは、仁心があると言えよう。」正統六年に任期が満ち、郡民が留任を乞い、巡撫周忱がこれを上聞した。詔によって二階進めて再任させた。

莫愚と同時に同知となった者に、潞城の趙泰、字は熙和がいる。郷挙によって国子監に入る。都察院で実務を歴任し、常州同知を授かる。孟瀆・得勝の二河を疏浚し、魏村閘を築く。周忱・況鐘が蘇州の重い税糧を減ずることを議すると、趙泰もまた常州の官田租を検査し、併せて減ずることを請うた。工部郎中に遷り、東昌の決壊した黄河を塞ぐことを命じられる。周忱が推薦して協同都運とし、ますますその職務に勤勉であった。間もなく、病没した。

彭勗、字は祖期、永豊の人。七歳の時、仏寺に入って拝礼しなかった。僧が強要すると、叱って言った。「彼らは衣冠もせずに裸足でいるのに、何を拝するというのか。」

永楽十三年、進士に挙げられる。親が老いているため、近地を乞うて養い、南雄府教授に除される。学舎の後に祠があり、しばしば光怪な現象が現れた。学官と弟子たちは祈祷祭祀を行っていたが、彭勗はこれを撤去して焼き捨てた。任期満了の考課を経て、建寧教授に補される。副使王増が病気になった時、医者の許宗道が諸生の游亨が魘魅を行ったと誣告し、学舎の傍の童五郎祠を証拠とした。王増は怒り、游亨の家族七人を重罪に処し、祠に近い住民四百家を獄に下した。彭勗が抗論して、游氏は巫者ではなく、五郎は邪神ではなく、元は土地を寄付して城を築いた人物であり、事績は郡誌に載っていると述べた。王増は愕然とし、図経を求めて証拠とし、大いに慚愧後悔し、事件は解決した。建寧の朱子の旧宅には祠はあるが祭祀がなかった。彭勗は春秋の祭祀を行うよう上疏して請い、子孫の徭役を免除させた。また尊賢堂を創建し、胡安国、蔡沈、真徳秀を祀った。諸生は一致して学問に志した。

正統元年、楊士奇の推薦により、召されて御史を授かる。当時初めて提学官が設置され、命を受けて南畿の学校を督学した。詳細に教条を立て、士風は大いに振るった。上疏して言う。「国朝の祠祭は、礼官に記載されている。修斎は梁武帝に始まり、設醮は宋徽宗に始まる。これらは一切除くべきである。庵院の建立を禁じ、僧尼への度牒給付を罷めるべきである。」また言う。「真定、保定、山東の民が鳳陽、潁州に逃れること万を数えるが、皆守令が災害を隠し暴斂を行ったことによる。厚く軫恤することを乞う。守令の考課は、戸口の増減を以て最下位・最上位とすべきである。」また南京諸衛の武学を設置することを請うた。皆許可された。赴任した所々で先賢の墳墓・祠堂を修復した。母の喪に服して帰郷し、孫鼎が代わった。彭勗は起復し、吏部考功郎中に改められ、出て山東副使となる。土木の変の時、しばしば軍事について上言した。直諫のため時に容れられず、致仕して帰郷した。

孫鼎、字は宜鉉、廬陵の人。永楽年間の挙人。松江教授を歴任。正統八年、楊溥の推薦により御史となり、南畿の学政を管掌した。「本源録」を設け、諸生の善行を記録した。巡察する時は人に知らせず、一台の輿で突然到着した。諸生が謁見すると、すぐに門を閉めて試験を行い、即日に甲乙を定めた。諸生が試験から帰ると、既に榜が大通りに掲示されており、請託する者は手の下しようがなかった。通州が旱魃で飢饉となると、三千四百余石の税糧免除を奏上した。英宗が北狩(土木の変での捕虜)となった時、孫鼎は試験を終え、諸生に言った。「故事では簪花の宴を行うべきだが、今は臣子が戈を枕とする秋である。諸君を不義に陥れることはできない。」茶を設け、歩いて諸生を門まで送った。既にして宮廷に赴き上書し、任用に従って死を効いたいと請うた。返答はなかった。間もなく、親が老いていることを理由に致仕した。知府張瑄が上疏して言う。「孫鼎の孝行は曾子・閔子騫に迫り、学問は朱子・程子を継ぐ。起居や論思の職に就かせるべきである。」帝は允さなかった。天順元年、家で卒した。

夏時、字は以正、錢塘の人。永楽十六年の進士。戸科給事中に任ぜられる。

洪熙元年、鈔法改定が議せられる。時に力説してその市肆を擾わし、国用に益なきを言い、上疏は留中となる。鈔は果たして大いに沮み、民多く禁を犯す。議はついに寝る。帝、時の言を思い、皇太子に命じて孝陵を祀らせ、過ぐる所に災傷あれば、すなわち太子に白し、粟を発して振恤せしむ。南京戸科を留署す。

宣徳初、一日に三たび封事を上る。旨に称し、尚宝司を署せしめ、兼ねて吏・礼・兵・刑の四科を理し、七つの篆を視て、留まる事なし。後湖の黄冊を核せしめ、便宜十四事を陳ぶ。邳・徐・済寧・臨清・武清旱魃あり、時に請うて、官を遣わしてこれを振恤せしむ。尋いで江西僉事に擢てられる。

正統三年、奏す。「今、守令多くは無辜を刻刑し、和を傷ぎ紀を幹く。御史・按察司の官に命じて罪囚を遍く閲し、冤滞を釈せしめ、枉法の官吏を逮按せんことを乞う。」これに従う。参議に遷る。七年、民を恤む六事を奏し、多く議行せらる。十二年、大臣の薦により、超擢して広西左布政使となる。前後上ることまた十余疏、尽く用いられざるも、天下その敢言を壮とす。年未だ七十ならず、致仕して帰り、卒す。その僉事たりし時、知州柯暹の撰する所の『教民条約』及び『均徭冊式』を進め、令として刊し、人皆これを便とす。

時は人となり廉潔にして義を好む。親歿し、墓に廬り異征あり。歿して郷人これを祀り、その祠を名づけて「孝廉」と曰う。

黄潤玉、字は孟清、鄞の人。五歳、母の疾に侍り、夜寝につかず。十歳、道に遺金を見て拾わず。永楽初、南方の富民を徙して北京を実す。潤玉、父に代わりて行かんことを請う。官、これを少なしとす。対えて曰く、「父去れば、日に益々老ゆ。児去れば、日に益々長ず。」官その言を異とし、これを許す。

十八年、順天郷試に挙げらる。建昌府学訓導に授けらる。父喪除き、官を改めて南昌とす。宣徳中、薦により擢てられて交阯道御史となる。出でて湖広を按し、両司以下職ならざる者を斥くこと百二十人に至る。

正統初、詔して提学官を推挙せしむ。楊士奇の薦により、擢てられて広西僉事となり、学政を提督す。時に寇起こり軍興す。都指揮有りて妄りに子女万余口を掠む。潤玉これを劾して帰す。副使李立、民をして死罪に入ること数百人に至らしむ。またこれを弁釈す。南丹衛は万山中に処り、戍卒瘴気を冒して多く死す。奏して夷曠の地に徙さしむ。

母憂により帰り、起官して湖広となる。巡撫李実の親故二人を論じて罷めしむ。実憤り、潤玉の刑律に諳ならざるを奏す。坐して含山知県に謫せらる。年老いて帰る。帰ること二十年、年八十有九にして卒す。学者「南山先生」と称す。

楊瓚、蠡県の人。永楽末の進士。趙城県を知り、課績は山西の最と為り、超擢して鳳陽知府となる。正統十年、天下の群吏を大計し、始めて治行卓異なる者を挙げることを命ず。瓚及び王懋・葉錫・趙亮等これに与る。鳳陽は帝郷、勲臣及び諸将の子孫多く令を犯す。瓚、戸を立てて出入を稽ることを請う。ここより始めて約束に遵う。瓚言う、民間の子弟造るべきもの多し、生員を増広して額を限るなからんことを請う。礼部瓚の言を采り、附学を考取す。天下の学校に附学生有るは、瓚の議より始まる。

浙江右布政使に擢てられる。鎮守侍郎孫原貞と共に陶得二の乱を平ぐ。景泰二年、瓚、湖州諸府の官田の賦重きを以て、これを民田の賦軽きに均し、詭寄の弊を厳禁せんことを請う。詔して原貞とこれを督せしむ。田賦平なりと称す。久しくして、官に卒す。

王懋、修武の人。永楽末の進士、海豊知県と為る。後、超擢して西安知府となり、また声有り。

葉錫、永嘉の人。宣徳五年の進士。呉県知県と為り、卓異に挙げられて遷る。奸民、朝に訐る。将に逮系せんとす。呉の人、群をなして闕に詣り錫を頌す。ここにおいて事を視ること故の如くせしめ、誣る者を罪に抵す。尋いで寧国知府に擢てられる。而して趙亮は慶雲典史と為り、また挙中に在り、同じく宴賚を被る。時人これを栄と以為う。秩満し、本県の知県に擢てられる。

劉実、字は嘉秀、安福の人。宣徳五年、進士に挙げらる。三年居り、庶吉士に選ばる。正統初、金華府通判に授けらる。仍て歳荒旱し、租を蠲免し、かつ饑民の子女を贖還せんことを請う。義門鄭氏は族大にして自給できず、また馬を買い丁を出し、山西の郵伝に供し、困窮甚だし。また実の言によりて免かる。母喪に帰り、墓に廬すること三載、起官して順天府治中となる。

景泰時、侍臣その文学を薦む。召して『宋元通鑑綱目』を修めしむ。実は人となり耿介、意の不可とする所は、達官貴人と雖も稍も遜らず。然れども頗る自是す。同曹の纂する所の当らざるを見れば、輒ち大笑し、声廷陛に徹す。人またこれを以て忌む。

天順初年、原任に復した。四年、南雄府知府に抜擢された。商税は巨万に上り、旧来はすべて知府の私囊に入った。張実は私せず。宦官が南雄に至り、讒言を入れ、府の僚属が参謁すると、張実を引き留めて辱しめた。民衆が競って前に出て彼を擁し出したので、宦官は慚じ、召して謝ろうとしたが、張実は行かなかった。宦官が去り、韶州に至って、韶州の人の言う「南雄の知府が朝廷に訴訟を起こそうとしている」と聞き、懼れて馳せて奏上し、張実が詔勅を毀り大不敬であると誣告した。詔獄に逮捕投獄された。張実は獄中から上書して言う、「臣は官に三十年、未だ嘗て妻子を従えず、粗食に衣は破れ、国家のために小民を愛養し、彼らを困窮させるに忍びず、これをもって朝使に忤った」。帝は書を覧て、意少し解け、且つ釈放しようとしたが、張実はついに獄死した。

張実は苦節を以て自らを保ち、政務紛雑としても未だ嘗て書を廃さず、士大夫はその学行を重んじた。その歿するや、南雄の人哀しんで祠を建てた。孫の張丙は、別に伝がある。

陳選、字は士賢、臨海の人。父の員韜は、宣徳五年の進士。御史となり、出て四川を按察し、貪吏を罷め廉吏を奨め、死囚四十余人の冤罪を晴らした。正統末、大軍が鄧茂七を征討するに当たり、その民を撫し、賊と誣られた者千余家を釈放した。都指揮の蔣貴が部下に賄賂を求め、都督の範雄が病んで軍を治められず、皆これを弾劾して罷免させた。広東右参政、福建右布政使を歴任した。広東は黄蕭養の乱の後であり、福建もまた寇盗がようやく鎮まったばかりで、員韜の至る所、撫循教養し、士民の心を得た。

陳選は幼少より端愨で寡言笑、聖賢を以て自ら期した。天順四年、会試で第一となり、進士に及第した。御史に授けられ、江西を巡按し、貪残の吏をことごとく罷免した。当時の人の言葉に「前に韓雍あり、後に陳選あり」という。広東の賊が贛州に流入したと奏聞し、返答を待たず、兵を遣わしてこれを平定した。

憲宗が即位すると、嘗て尚書の馬昂・侍郎の吳復・鴻臚卿の齊政を弾劾し、修撰の羅倫、学士の倪謙・錢溥を救った。言は尽く行われることはなかったが、一時その風采を憚らせた。已にして、南畿の督学となる。学宮に冠・婚・祭・射の儀礼を頒ち、諸生に時を以てこれに習わせた。『小学集註』を作り以て諸生を教えた。部を按ずるに常に学宮に止宿し、夜に両廡を巡り、諸生の誦読を察した。試牘の糊名の陋習を除き、曰く「己れ信ぜずんば、何を以て人に信ぜられん」。

成化六年、河南副使に遷る。尋いで督学政に改め、南畿の如く教えを立てた。汪直が巡察に出ると、都御史以下皆拝謁したが、陳選のみ長揖した。汪直が問う「何の官か」。陳選曰く「提学副使なり」。汪直曰く「都御史より大なるか」。陳選曰く「提学何ぞ都御史に比すべけんや、但だ人師を忝くし、敢えて自ら詘辱せざるのみ」。陳選の詞気厳正、而して諸生もまた群れ集って署外にいた。汪直気を懾し、好語を以てこれを遣わした。

久しくして、按察使に進む。軽い罪の者数百人を決して遣わし、重囚多く平反せられ、囹圄空しとなる。治めは簡易を尚び、独り贓吏に対しては容赦しなかった。然しながら賄賂百金以上を受けた者でも、六七環の刑に止めた。或る人がこれを問うと、曰く「奸人は財を惜しみ命もまた惜しむ。若し賄賂の全てを以て要人に買えば、即ち法撓ぐ」。広東左・右布政使を歴任した。肇慶に大水あり、返答を待たず、直ちに穀物を発してこれを賑った。

二十一年、詔して貢献を減省すとし、而して市舶中官の韋眷が均徭戸六十人を乞い、方物を添えて調達するよう奏上した。陳選は詔書を以て争い、帝はその半ばを与えよと命じ、韋眷はここにおいて陳選を怒った。番人の馬力麻が蘇門答剌の使臣と偽称し入貢しようとし、私的に交易した。韋眷はその厚賄を利し、将にこれを許さんとしたが、陳選は直ちにこれを追い払った。撒馬児罕の使者が甘肅より獅子を貢ぎ、広東を経て海路で帰還しようとし、また満喇加に往って更に買い求めて進上したいと言った。陳選は許すべからざるを上疏し、外番に笑われ、中国を軽んぜらるるを恐れると。帝はその言を容れたが、韋眷は陳選を甚だ恨んだ。

先に、番禺知県の高瑤が韋眷の通番の巨万の資財を没収した。陳選は移檄してこれを賞し、且つ朝廷に聞かせた。ここに至り韋眷は陳選と高瑤が朋比して貪墨したと誣奏した。詔して刑部員外郎の李行を遣わし、巡按御史の徐同愛と会してこれを訊問させた。陳選に罷免された吏の張褧がおり、韋眷は彼が陳選を怨んでいると思い、引き入れて陳選を誣証させようとした。張褧は堅く従わず、張褧を執って拷掠したが異なる言葉はなかった。李行・徐同愛は韋眷を畏れ、竟に韋眷の奏上通りに陳選を罪に坐し、高瑤と共に召還された。士民数万号泣して遮り留め、使者が排除してようやく出発できた。南昌に至り、病が発した。李行はその医薬を阻み、竟に卒した。年五十八。

編修の張元禎が陳選のために喪を治め、殮した。張褧は陳選の死を聞き、哀悼し、乃ち上書して曰く、

臣聞く、口は金を鑠かし、毀は骨を銷すと。窃かに見るに、故罪人陳選は孤忠を抱き、孑然として群邪の中に処り、独り衆憎の地に立つ。太監韋眷の通番が敗露し、知県高瑤が法に按じてこれを執った。陳選は移文して賞励し、以て貪懦を激したるは、固より賢き監司の事なり。都御史の宋旻及び徐同愛は勢いに怯み奸を養い、韋眷をして横行胸臆せしめ、清流を穢蔑せしむ。勘官の李行は頤指して鍛錬し、竟に左証無し。臣は本小吏、詿誤して法に触れ、陳選に罷免されしは、実に臣の自ら取るところなり。韋眷は臣が陳選を憾むと思い、厚賂を以て臣を啖わんとす。臣は胥役と雖も、敢えて素心を昧ますべからず。韋眷は臣が誘われざるを知り、李行等を嗾して臣を逮えて理に致し、拷掠すること一月に及ぶ。臣は死を忍び天に籲すも、終に異なる口なし。李行等は乃ち韋眷の語に依傍し、文を以てその詞を致す。陳選を勘災不実、擅に便じて倉を発し、属官を曲庇し、報謝を図るを劾す。必ずその云う如くならば、是れ共姜を毀って夏姬と為し、伯夷を詬って莊蹻と為すなり。

近年嶺外に地震水溢し、民の廬舎を漂わす。属郡交えて牒を報じて災を告げ、老弱領を引いて哺を待つ。而るに撫・按・藩臬は之を聞知せざるが若し。陳選独り隠憂を抱き、食も下咽せず。展転して行勘すれば、則ち民命垂絶すと謂い、便宜を以て振恤を議する所以は、志救民に在り、他に有るに非ざるなり。陳選は故より剛正、屈辱に堪えず、憤懣旬日、疾を嬰いて殂す。李行はその身の殞るるを幸い、その医療を陰にす。命を訖るの日、密かに走りて韋眷に報ず。小人の佞毒、一にここに至る。臣は擯黜の罪人、耒を秉りて田野にあり、百に図る所無し。誠に忠良の冤を銜むを痛み、聖朝の累となるを為すなり。報いられず。

員韜父子は皆操を保持すること甚だ潔し。而して員韜は量能ありて物を容れ、陳選は務めて己に克ち、因って自ら克菴と号し、物に遇うも稍峻し。人は員韜の徳性は四時皆備わり、陳選はその秋を得たりという。嘗て田百四十畝を割きてその族人を贍い、及び卒すや、族人は陳選の子の陳戴が貧しいを以て、これを還そうとしたが、陳戴は不可として止んだ。弘治初、主事の林沂が上疏して陳選の冤罪を雪ぎ、詔して官を復し礼を以て葬らしめた。正徳中、光禄卿を追贈し、諡して忠湣と曰う。

夏寅、字は正夫、松江華亭の人。正統十三年、進士に挙げられる。南京吏部主事に授けられる。力学し、文を為すに宏奥を以て称せられる。郎中に進む。

成化元年、考満して都に入り、上言す、「徐州に旱澇あり、民聊生すべからず。饑餒身に切れば、必ず盗賊と為らん。乞うらくは特に大臣を遣わし鎮撫せしめ、租を蠲め廩を発せしめよ。沿途の貢船は、丁夫足らず、役は老稚に及ぶ。而して載する所の官物は僅かに一箱、余は皆私賫なり、乞うらくは厳に禁絶せよ。淮・徐・済寧の軍士は、京に赴き操練す、然れどもその地は実に南北の要衝、宜しく各文武官を設けて鎮守せしめ、兵を訓じ田を屯し、常に両京の声勢を聯絡せしめ、倉猝に変を制すべし」。章は所司に下してこれを行わしむ。唯だ文武官を設けざるのみ。

江西副使に遷り、学校を提督す。その教務は先ず德行を務む。浙江右參政に進む。処州の民は虐政に苦しみ、山谷に走る。寅は檄を発してこれを招き、衆みな解散す。久しくして、山東右布政使に進む。弘治初め、致仕して帰る。

寅は清直にして党援無し。嘗て人に語りて曰く、「君子に三つの惜しむところあり。この生学ばざるは、一に惜しむべし。この日閑かに過ぐすは、二に惜しむべし。この身一たび敗るるは、三に惜しむべし」と。世に伝わりて名言と為す。

陳壮、字は直夫、その先は浙江山陰の人なり。祖父は事に坐して交阯に謫戍せられ、後に京衛に調せられ、遂にここに家す。壮は天順八年の進士に挙げられ、南京御史に授けらる。編修の章懋ら建言して罪を得たり、抗疏してこれを救う。帝は中官を遣わして花木を采らしむ、復た疏を上りて諫む。尚書の陳翌は馬豆をもって百官の俸に代えんことを請う、壮は馬を飼うものは、以て士大夫を養うべからずと言う。事ここにて止む。

壮の家は素より貧しく、常禄の外は一も取るところ無し。父母歿き、墓側に廬し、喪に居ること一に古礼に循う。江西僉事を歴て、致仕して帰る。家に居ること十余年。弘治の中、尚書の張悦の薦めにより、官に起きて福建に赴く。二年居りて、また致仕を乞う。時に倪嶽は吏部に在り、素よりこれを賢とし、河南副使に擢ぐ。歳凶饑を振い、民その恵を懐く。僉都御史の林俊は病を謝し、挙げて自らに代えんとす。未だ遷らざるに、而して壮また致仕を乞う。巡撫の孫需は奏してこれを留む。また二年、ついに致仕して去る。

張昺、字は仲明、慈渓の人、都御史の楷の孫なり。成化八年の進士に挙げられ、鉛山知県に授けらる。性剛明にして、よく獄を治む。嫁女する者あり、婿の門に及びて女を失い、互いに官に訟うも、決すること能わず。昺は邑の界を行き、大樹が稼を妨ぐるを見て、これを伐たんと欲す。民は樹に神ありてその頂に巣くうと言う。昺は聴かず、衆を率いて往きて伐つ。衣冠の三人、道の左に拝す。昺これを叱す、忽ち見えず。樹を伐つに及びて、血が樹の間より流れ出づ。昺怒り、手に斧を執ってこれを伐ち、ついにその樹を仆す。巣の中より二人の婦人堕ち、狂風に吹かれて楼上に至ると言う。その一つは即ち前に嫁がしめし女なり。巫ありて形を隠す能く、人の婦女を淫す。昺は巫を執りて痛くこれを杖す、苦しむところ無し。已にして、巫とともに失す。昺は馳せて縛して帰り、巫の背に印を押してこれを鞭ち、立ちどころに死す。乃ち諸の淫祠を尽く毀つ。寡婦ただ一子あり、虎にぜいわれ、昺に訴う。昺は婦と期すること五日、乃ち斎戒して城隍神を祀る。期に及びて、二虎庭下に伏す。昺これを叱して曰く、「孰れか吾が民を傷つくる、法当に死すべし。罪無き者は去れ」と。一虎起ち、尾を斂めて去る。一虎伏して動かず、昺これを射殺し、以て節婦に畀う。一県神と称す。鉛山の俗、婦人は夫死すればすなわち嫁ぐ。病ありて未だ死せざるに、先ず聘を受けて湯薬を供する者あり。昺はその俗を変えんと欲し、寡婦みな牒を具えて判を受けしむ。二つの木を署す。曰く「羞」、嫁ぐ者はこれに跪く。曰く「節」、嫁がざる者はこれに跪く。民の傅四の妻の祝は死を誓いて守らんとし、舅姑は紿して「羞」の木の下に跪かしむ。昺は判してこれに従う。祝は後園の池中に投じて死す。邑大いに旱す。昺は婦人の泣き拝するを夢み、覚めてその里居姓氏を識り、往きてその状を詰む。土を啓くに及びて、貌生きるが如し。昺これを哭して慟しみて曰く、「婦を殺す者は、吾なり」と。文を為もって祭り、改めて葬る。天ここに大雨す。諸の異政多くこれに類す。

南京御史に擢ぐ。弘治元年七月、同官とともに上言す。「近く臺諫交えて章を上りて事を論ずるも、而して扈蹕糾儀する者は錦衣の捶楚の辱めを免れず、これは言路将に塞がらんとする漸なり。経筵既に挙げらるるも、而して封章累進するも、卒には寒暑停免の説を回らすこと能わず、これは聖学将に怠らんとする漸なり。内幸は梁芳を斥くるも、而して賜祭なお便辟に及び、これは復た寵幸を啓かんとする漸なり。外戚は万喜を罪するも、而して庄田また皇親に賜い、これは姻婭を驕縦せんとする漸なり。左道は斥くるも、而して符書なお官禁に掲げられ、番僧旋って京師に復す、これは異端復興の漸なり。伝奉は革むるも、而して千戸また張質を除し、通政は張苗を去らず、これは伝奉復た啓かんとする漸なり。織造は停むるも、なお蟒衣牛鬥の織りあるを聞き、淫巧その漸く作らんとするか。宝石は廃するも、また戚裏の不時の賜いあるを聞き、珍玩その漸く崇からんとするか。『詩』に云う『初め有らざるは靡し、克く終わり有るは鮮なし』と。願わくは陛下以て戒めと為せ」と。帝嘉してこれを納る。

先に、昺は雷が孝陵の柏樹を震うを以て、同官とともに大学士の劉吉ら十余り人を劾し、給事中の周纮もまた同官とともに吉を劾す。吉これを銜む。その冬、昺・纮は命を受け軍を閲す。軍多く缺伍す。両人は守備中官の蒋琮を劾奏せんと欲す。琮は事に先んじて両人を劾す。章内閣に下る。吉は隙を修め、これを外に黜さんと擬す。尚書の王恕は抗章して曰く、「失伍の罪を治めずして、法を執るの臣を罪す、何を以て天下を服せしめんや」と。再び疏を上りて争い、言官もまた論じて救う。乃ち昺を南京通政司経歴に調じ、纮を南京光禄寺署丞に調ず。

久しくして、昺は薦めを用いて四川僉事に遷る。富豪人を殺し、屡々賄をもって免る。御史は昺に檄して治めしむ、果たしてその情を得。尋いで副使に進む。守備中官の某、将に術士の周慧を朝に進めんとす。昺は慧を擒え、これを極辺に徙すことを論ず。歳余り、疾を引いて帰る。環堵蕭然として、経史を擁して自ら娯しむ。都御史の王璟は荒を振うに至り、昺に百金を饋る。堅く拒みて得ず、下戸の饑民に粟を授けてその意に答う。知県の丁洪は、昺が鉛山に令たりし時に取れる士なり、旦夕起居を候い、為に蔬食を具う。昺曰く、「吾誠に自ら給せず、奈何ぞこれをもって令君を煩わさんや」と。卒に受けず。炊煙屡々絶ゆるも、これを淡如として処す。及び卒す、含斂具わらず、洪その喪を経紀す。

宋端儀、字は孔時、莆田の人。成化十七年の進士。礼部主事に官す。雲南提学官を缺く。部議は端儀に属す。吏は期に先んじてこれを泄らす。端儀曰く、「啓事未だ登らず、已に衆口に喧し、人その我を幹乞せんと謂わんや」と。力を尽くしてこれを辞す。已にして、主客員外郎に進む。貢使は贄を以て見えんとす、悉くこれを却して納れず。

初め国学に在りて、祭酒の丘濬に知らる。及び濬政を柄とす、未だ嘗て一たびその門を造らず。広東提学缺く。部は端儀の名を上る。濬竟にこれを沮む。濬卒し、始めて按察僉事として広東の学校を督む。官に卒す。

端儀は建文朝の忠臣湮没するを慨し、乃ち遺事を捜輯し、『革除録』を為す。建文の忠臣の録有るは、端儀より始まる。

賛して曰く、明の初めは監司守牧の任を重んず。尚書出でて布政使と為り、而して侍郎は参政と為る者あり。監司の入りて卿貳と為る者、比比なり。守牧職に称えば、秩を増し或いは二品に至る。天順而して後、巡撫の寄せ専らにし、而して監司守牧自ら展布するを得ず。内を重んじ外を軽んずるの勢成る。夫れ政を外に賦するは、民に最も親し。李昌祺・陳本深の属は、静以て民を愛し、況鐘・張昺はその職に能くす。所謂ち徳化を承宣し、天子の憂いを分かつ者、非ずや。周新・陳選は冤死して哀しむべし。張褧の書を読み、また以て公正の人を服するの至りを見る。而して直道の終に泯びざるなり。