明史

列傳第四十六 黃宗載 顧佐 段民 章敞 吳訥 魏驥 魯穆 耿九疇 軒輗 黃孔昭

列傳第四十六 黃宗載 顧佐 段民 章敞 吳訥 魏驥 魯穆 耿九疇 軒輗 黃孔昭

原文列傳第四十六 黃宗載 顧佐 段民 章敞 吳訥 魏驥 魯穆 耿九疇 軒輗 黃孔昭

○黃宗載顧佐(邵玘陳勉賈諒嚴升)段民(吾紳)章敞(徐琦劉戩)吳訥(朱與言)魏驥魯穆耿九疇軒輗(陳復)黃孔昭

原文○黃宗載顧佐(邵玘陳勉賈諒嚴升)段民(吾紳)章敞(徐琦劉戩)吳訥(朱與言)魏驥魯穆耿九疇軒輗(陳復)黃孔昭

黃宗載は、一名を垕、字あざなを厚夫といい、豊城の人である。洪武三十年の進士。行人に任じられた。四方に使者として赴き、一度も贈り物を受け取らず、累進して司正となった。

原文黃宗載,一名垕,字厚夫,豐城人。洪武三十年進士。授行人。奉使四方,未嘗受饋遺,累遷司正。

永楽初年、推薦により湖広按察司僉事となった。大奸物や老獪な者は多く銅鼓・五開の間に流刑となり、ひそかに官吏の短所を握っていた。宗載はその罪を数え上げて掲示し、「改めなければ、必ず法に置く」と言った。誰も敢えて犯す者はなかった。武陵には軍籍の者が多く、民家は彼らと婚姻すれば徭役ようえきや賦税が累がることを憂慮し、男女が四十歳になってもまだ結婚しない者がいた。宗載は道理を説いて諭すと、皆理解し悟り、一時に三百余家が結婚した。隣県もこれに倣い、その風俗は変わった。文淵閣に召し出されて『永楽大典』の編纂に従事した。書が完成すると、賜物を受けて任に戻った。海運用の巨艦数十艘の建造を監督し、事は成り民は煩わされなかった。皇帝が北征した時、湖広で兵を徴発したが、使者が貪暴で期限に遅れた。宗載はこれを弾劾しなかった罪で、楊青驛の驛夫に左遷された。

原文永樂初,以薦為湖廣按察司僉事。巨奸宿猾多謫戍銅鼓、五開間,陰持官吏短長。宗載榜數其罪,曰:「不改,必置之法。」眾莫敢犯。武陵多戎籍,民家慮與為婚姻徭賦將累己。男女至年四十尚不婚。宗載以理諭之,皆解悟,一時婚者三百餘家。鄰邑效之,其俗遂變。征詣文淵閣修《永樂大典》。書成,受賜還任。董造海運巨艦數十艘,事辦而民不擾。車駕北征,征兵湖廣,使者貪暴失期。宗載坐不舉劾,謫楊青驛驛夫。

まもなく御史に起用され、出向して交阯を巡察した。当時交阯は新たに平定されたばかりで、州県官には多く両広・雲南の挙人や歳貢生員で遠方に仕えようとする者が用いられ、皆よく民を治め撫でることはなかった。宗載は言上した。「地方官は概ね職にふさわしくない。もし九年の考課を待って罷免・昇進すれば、ますます廃れる恐れがある。二年以上在任した者について、巡按御史及び両司が実情を調べて推挙・弾劾し上奏することを請う。」帝はこれをよしとした。帰還する時、行李は寂として、交阯の物を一つも携えなかった。尚書の黄福は人に言った。「私はここに長く居たが、接した御史は多い。ただ宗載のみが大筋を知っている。」祖母の喪に服し、喪が明けて起復し、詹事府丞に改任された。

原文尋起御史,出按交阯。時交阯新定,州縣官多用兩廣、雲南舉人及歲貢生員之願仕遠方者,皆不善撫字。宗載因言:「有司率不稱職。若俟九年黜陟,恐益廢弛。請任二年以上者,巡按御史及兩司核實舉按以聞。」帝是之。及歸,行李蕭然,不攜交阯一物。尚書黃福語人曰:「吾居此久,所接御史多矣,惟宗載知大體。」丁祖母憂,起復,改詹事府丞。

洪熙元年、行在吏部侍郎に抜擢された。少師の蹇義が部の事務を統括し、宗載は一貫して正しさをもって補佐した。宣徳元年、浙江で軍籍の整理を命じられた。三年、湖湘で木材の採集を監督した。英宗の初め、侍郎の羅汝敬が陝西巡撫となったが、事に坐して罪を戴きながら事務を執った。汝敬が妄りに詔書を引き合いに出して復職し、吏部がこれを言わなかったため、御史に弾劾され、宗載及び尚書の郭琎は共に獄に下された。まもなく釈放され、南京吏部尚書に転じた。九年間在職し、休職を請うた。上奏文を四度上って、ようやく許された。九年七月、家で卒去した。七十九歳。

原文洪熙元年擢行在吏部侍郎。少師蹇義領部事,宗載一輔以正。宣德元年奉命清軍浙江。三年督采木湖湘。英宗初,以侍郎羅汝敬巡撫陜西,坐事戴罪辦事。汝敬妄引詔書復職,而吏部不言,為御史所劾,宗載及尚書郭琎俱下獄。未幾,得釋,遷南京吏部尚書。居九年,乞休,章四上,乃許。九年七月卒於家,年七十九。

宗載は廉潔を保ち正道を守り、偽らず従わず、学問文章ともに当時の声望を負っていた。公卿大夫の中で年齢と徳行の盛んな者として、宗載が推されたという。

原文宗載持廉守正,不矯不隨,學問文章俱負時望。公卿大夫齒德之盛,推宗載雲。

顧佐は、字を礼卿といい、太康の人である。建文二年の進士。荘浪知県に任じられた。端午の日、守将が官僚を集めて弓術を競った。佐が文士であるため、難題を出した。佐は弓矢を持って一発で命中させ、守将は大いに敬服した。

原文顧佐,字禮卿,太康人。建文二年進士。除莊浪知縣。端陽日,守將集官僚校射。以佐文士,難之。持弓矢一發而中,守將大服。

永楽初年、入朝して御史となった。七年、成祖が北京におられた時、吏部に命じて才能ある御史を行在に赴かせ、佐はその中に選ばれた。慶遠の蛮族を招撫することを命じられた。四川で木材の採集を監督した。北征に従い、関隘を巡視した。江西按察副使に転じ、召されて応天尹となった。剛直で屈せず、吏民は畏服し、人々は包孝肅(包拯)に比した。北京が建設されると、順天尹に改められた。権貴の多くはこれを快く思わず、貴州按察使として出された。洪熙元年、召されて通政使となった。

原文永樂初,入為御史。七年,成祖在北京,命吏部選御史之才者赴行在,佐預焉。奉命招慶遠蠻。督采木四川。從北征,巡視關隘。遷江西按察副使,召為應天尹。剛直不撓,吏民畏服,人比之包孝肅。北京建,改尹順天。權貴人多不便之,出為貴州按察使。洪熙元年召為通政使。

宣徳三年、都御史の劉観が貪欲で罷免され、大学士の楊士奇・楊栄が佐が公明で廉潔、威厳があり、歴任した官職で皆その風采を顕著にし、京尹として政治は清く弊害は革められたと推薦した。帝は喜び、直ちに右都御史に抜擢し、勅書を賜って褒め励ました。諸御史で不適格な者を調査して罷免することを命じ、御史に欠員があれば推挙して吏部に送り補選させた。佐が職務に就くと、直ちに厳豈・楊居正ら二十人を罷免するよう上奏し、遼東の各衛で吏とするよう流刑にし、八人を降格、三人を罷免した。そして進士の鄧棨、国子生の程富、謁選知県の孔文英、教官の方瑞ら四十余人が御史に堪えると推挙した。帝は彼らに三ヶ月間実務を経験させてから任用した。居正ら六人が弁解を申し立てた。帝は怒り、諸々の吏とされた者を全て辺境の守備に送った。まもなく豈が流刑地から密かに京に戻り、他人を脅して賄賂を取ったため、佐に上奏され、また豈が自分を謀害しようとしているとも言った。詔して豈を市中で処刑した。帝が北巡した時、尚書の張本らと共に留守を命じられた。帰還後また勅書を賜り、諸御史を統制するよう命じた。ここにおいて貪欲で勝手な者を糾弾罷免し、朝廷の綱紀は厳粛となった。

原文宣德三年,都御史劉觀以貪被黜,大學士楊士奇、楊榮薦佐公廉有威,歷官並著風采,為京尹,政清弊革。帝喜,立擢右都御史,賜敕獎勉。命察諸御史不稱者黜之,御史有缺,舉送吏部補選。佐視事,即奏黜嚴豈、楊居正等二十人,謫遼東各衛為吏,降八人,罷三人;而舉進士鄧棨、國子生程富、謁選知縣孔文英、教官方瑞等四十餘人堪任御史。帝使歷政三月而後任之。居正等六人辨訴。帝怒,並諸為吏者悉戍之。既而豈自戍所潛還京,脅他賄,為佐所奏,且言豈謀害己。詔戮豈於市。帝北巡,命偕尚書張本等居守。還復賜敕。令約束諸御史。於是糾黜貪縱,朝綱肅然。

一年余り経った時、奸吏が佐が下僕から金を受け取り、私的に帰郷させたと上奏した。帝は密かに士奇に示して言った。「お前はかつて佐が廉潔だと推挙したのではないか。」答えて言った。「中朝官の俸給は薄く、従者や馬の薪や飼料の費用は下僕に頼り、下僕の半分を出資させて役を免じさせます。下僕は帰って耕作でき、官は費用を得ます。中朝官は皆そうしており、臣も同様です。先帝はこれをご存知で、故に中朝官の俸給を増やされました。」帝は嘆いて言った。「朝臣がかくも貧しいとは。」そして訴えた者を怒って言った。「朕は今まさに佐を用いようとしているのに、小人が敢えて誣告するとは、必ず法司に下して処罰せよ。」士奇が答えて言った。「些細な事で陛下の怒りを煩わせるには及びません。」帝はそこで吏の訴状を佐に渡して言った。「汝が自分でこれを処置せよ。」佐は頓首して謝し、その吏を呼んで言った。「上は私に汝を処置せよと命じられた。汝が行いを改めるなら、私は汝を許そう。」帝はこれを聞いてますます喜び、佐が大筋を得ていると言った。ある者が佐が冤罪の訴えを処理しないと告げた。帝は言った。「これは必ず重罪の囚人が教唆したのだ。」法司に命じて会審させると、果たして千戸の臧清が無罪の三人を殺して死罪に当たるのに、人を使って佐を誣告させていた。帝は言った。「清を誅しなければ、佐の法は行われない。」清を市中で磔刑に処した。

原文居歲餘,奸吏奏佐受隸金,私遣歸。帝密示士奇曰:「爾不嘗舉佐廉乎?」對曰:「中朝官俸薄,仆馬薪芻資之隸,遣隸半使出資免役。隸得歸耕,官得資費,中朝官皆然,臣亦然。先帝知之,故增中朝官俸。」帝嘆曰:「朝臣貧如此。」因怒訴者曰:「朕方用佐,小人敢誣之,必下法司治!」士奇對曰:「細事不足幹上怒。」帝乃以吏狀付佐曰:「汝自治之。」佐頓首謝,召吏言:「上命我治汝,汝改行,吾當貸汝。」帝聞之益喜,謂佐得大體。或告佐不理冤訴。帝曰:「此必重囚教之。」命法司會鞫,果千戶臧清殺無罪三人當死,使人誣佐。帝曰:「不誅清,則佐法不行。」磔清於市。

八年の秋、佐は病気になり、帰郷を請うた。許されなかった。南京右都御史の熊概にその職務を代行させた。一年余りして概が卒去した。佐の病気はすっかり良くなり、入朝して謁見した。帝は慰労し、朝賀を免除し、以前通り職務を執るよう命じた。

原文八年秋,佐有疾,乞歸。不許。以南京右都御史熊概代理其事。逾年而概卒。佐疾良已,入見。帝慰勞之,令免朝賀,視事如故。

正統初年、御史で不適格な者十五人を査察し、降格・罷免した。邵宗は九年の任期が満ち、吏部がすでに考課で適格としていたが、これにも加えられた。宗が弁明を上奏し、尚書の郭琎も宗は在任者と同様に考課されるべきではないと言った。帝はそこで佐を責めた。そして御史の張鵬らがまた宗の些細な過失を弾劾した。帝は鵬らが徒党を組んで欺いているとして、佐をも厳しく責めた。佐は上章して致仕して去った。勅書を賜って褒め慰め、紙幣五十貫を賜り、戸部に命じてその家の賦役を免除した。十一年九月に卒去した。

原文正統初考察御史不稱者十五人,降黜之。邵宗九載滿,吏部已考稱,亦與焉。宗奏辨,尚書郭琎亦言宗不應與在任者同考。帝遂責佐。而御史張鵬等復劾宗微過。帝以鵬朋欺,並切責佐。佐上章致仕去。賜敕獎慰,賚鈔五十貫,命戶部復其家。十一年九月卒。

佐は孝行で友愛に厚く、操行は清廉で、性格は厳しく剛毅であった。毎朝出勤する時、小さな外側の部屋に立ち、二本の藤を戸外に立てた。百官が通り過ぎる者は、皆迂回して避けた。内側の直廬に入ると、一人で小さな仕切りの部屋に居り、政事を議するのでなければ諸司と群れて座らなかった。人々は「顧独坐」と呼んだという。しかし法を厳格に運用しすぎ、論者はこれを欠点とした。

原文佐孝友,操履清白,性嚴毅。每旦趨朝,小外廬,立雙藤戶外。百僚過者,皆折旋避之。入內直廬,獨處小夾室,非議政不與諸司群坐。人稱為「顧獨坐」雲。然持法深,論者以為病。

時に雩都の陳勉、嶧縣の賈諒が先後に副都御史となり、段佐と共に臺職を挙げ、また蘭溪の邵玘は南京に官し、段佐と齊名し、繁昌の嚴升の名も亦た邵玘に亞いだ。

原文時雩都陳勉、嶧縣賈諒先後為副都御史,與佐同舉臺職,而蘭溪邵玘官南京,與佐齊名,繁昌嚴升名亦亞於玘。

邵玘は、字は以先、永樂年間の進士である。御史に任ぜられた。仁宗が監國の時、その廉直を知った。法司に官が缺ける度に、即ち邵玘に署せしめ、重い獄があれば輒ちこれを付した。内外に歴任し、過ぎる所で人敢えて犯す者無し。宣德三年、福建按察使より入りて南京左副都御史となる。御史で職に堪えざる者十三人を奏して罷め、諸司の庸懦不肖なる者八十餘人を簡び罷め、風紀大いに振るう。二年居りて、疾を以て官に卒す。邵玘は氣を負い、同列を侮るを好み、獄を治むるに頗る刻深であった。然れども身を保つに廉潔で、內行修め、母に事うるに孝を以て聞こえた。

原文玘,字以先,永樂中進士。授御史。仁宗監國,知其廉直。每法司缺官,即命玘署,有重獄輒付之。歷仕中外,所過人不敢犯。宣德三年由福建按察使入為南京左副都御史。奏黜御史不職者十三人,簡黜諸司庸懦不肖者八十餘人,風紀大振。居二年,以疾卒官。玘負氣,好侮同列,治獄頗刻深。然持身廉潔,內行修,事母以孝聞。

陳勉は、邵玘と同年の進士である。仁宗の初め、楊士奇の薦めにより、廣東副使より擢て左副都御史となる。信、豐等の諸縣に盜賊起こり、命じて陳勉をしてこれを撫せしむ。三千六百餘人を招徠し、亂遂に定まる。景泰の初め、官は南京右都御史に至り、院事を掌る。致仕し、卒す。陳勉は外和內剛で、法律に精通し、吏敢えて欺かず。

原文陳勉,與玘同年進士。仁宗初,以楊士奇薦,由廣東副使擢左副都御史。信、豐諸縣盜起,命勉撫之。招徠三千六百餘人,亂遂定。景泰初,仕至南京右都御史,掌院事。致仕,卒。勉外和內剛,精通法律,吏不敢欺。

賈諒は、字は子信である。永樂年間に郷挙により太學に入り、選ばれて皇太孫に侍し書を說き、擢て刑科給事中となる。宣德四年、清軍侍郎金庠の賄賂を受けたことを劾し、これを罷む。郎中胡玨、蕭翔等十一人、御史方鼎三人は、職に堪えざるを以て劾せられる。帝未だ信ぜず、賈諒及び張居傑に命じて密かにこれを察せしむ。實を得て、悉く官を貶す。明年また陽武侯薛祿の朋比して敬せざるを劾す。廷中肅然たり。尋いで右副都御史を拝す。錦衣指揮王裕、參議黃翰、中官張義等と偕に四川、江西、湖廣を巡視し、豪強を按治して少しも假さず。正統二年、江北、河南に大水有り、賈諒及び工部侍郎鄭辰に命じて往きて振恤せしむ。芒山、碭山の盜賊患いを為し、賈諒捕獲すること甚だ衆し。四年德州に還り至りて卒す。賈諒は內行修め、官に當たって風采有り。

原文賈諒,字子信。永樂中由鄉舉入太學,選侍皇太孫說書,擢刑科給事中。宣德四年劾清軍侍郎金庠受賄,罷之。郎中胡玨、蕭翔等十一人,御史方鼎三人,以不職被劾。帝未信,命諒及張居傑密察之。得實,悉貶官。明年又劾陽武侯薛祿朋比不敬。廷中肅然。尋拜右副都御史。偕錦衣指揮王裕、參議黃翰、中官張義等巡視四川、江西、湖廣,按治豪強不少假。正統二年,江北、河南大水,命諒及工部侍郎鄭辰往振。芒、碭山盜為患,諒捕獲甚眾。四年還至德州,卒。諒內行修,當官有風采。

嚴升は、建文時の進士である。歴官して大理寺右少卿となる。蘇州、松江で清軍し、法を執って撓まず。南京僉都御史に調じ、邵玘と同心して事を治む。剛果自信し、嘗て《神羊賦》を著して以て志を現わす。

原文嚴升,建文時進士。歷官大理寺右少卿。清軍蘇、松,執法不撓。調南京僉都御史,與玘同心治事。剛果自信,嘗著《神羊賦》以見誌焉。

段民は、字は時舉、武進の人である。永樂二年の進士。庶吉士に選ばれる。章敞、吾紳らと共に文淵閣で書を読み、又共に刑部主事に授けられる。段民は旋って郎中に進む。

原文段民,字時舉,武進人。永樂二年進士。選庶吉士。與章敞、吾紳輩俱讀書文淵閣,又俱授刑部主事。民旋進郎中。

山東の妖婦唐賽兒亂を作す。三司官は寇を縱ちたる罪に坐して誅せられ、段民を擢て左參政とする。是の時に唐賽兒を索むること急にして、山東、北京の尼及び天下の出家婦女を盡く逮え、先後幾ばくも萬人に及ぶ。段民力を盡くして矜み宥し、人情始めて安んず。

原文山東妖婦唐賽兒作亂,三司官坐縱寇誅,擢民左參政。當是時索賽兒急,盡逮山東、北京尼及天下出家婦女,先後幾萬人。民力為矜宥,人情始安。

車駕北征し、餉舟は濟寧より潞河に達し、陸路挽いて居庸より出でて塞外に至る。段民深く計り曲く算し、下擾さずして事集まる。還りて後、敕して巡按御史と共に過ぎたる府縣の吏の廉墨を考へて以て聞かしむ。

原文車駕北征,餉舟由濟寧達潞河,陸挽出居庸至塞外。民深計曲算,下不擾而事集。既還,敕與巡按御史考所過府縣吏廉墨以聞。

宣德三年召されて京に入り、命じて南京戶部右侍郎を署せしめ、年を踰えて實授す。又明年刑部に改む。初め、二部は皆治まらざるを以て聞こえた。段民至りて、紀綱修め舉がり、宿弊以て革まる。上元の人に侄に毆たれたる者有り、憤り甚だしく、通政司に詣りて告ぐ。時に方に米を納めて罪を贖わしむるを令し、而して越訴は禁甚だ嚴しく、犯す者は遼東に戍す。段民上言して曰く、「定例に依れば、卑幼の罪は贖うを得るに、尊長反って遠く竄せらるるは、理に揆うに未だ安からざる有り、請う更に擬せんことを」と。帝是れとす。帝は段民の廉介端謹なるを以て、特に敕を賜い、南京の百官を考察せしむ。八年、詔書して罪囚を十惡の外より並びに一等を減ず。重囚三十餘人有り、例赦を得ず、段民亦た其の罪を減ず。後に旨有りて決を報ずるに及び、乃ち復た追い還すも、而して逃げたる者已に數人。段民自ら狀を陳す。給事中年富等、段民を劾す。帝は段民の賢なるを知り、問わず。

原文宣德三年召入京,命署南京戶部右侍郎,逾年實授。又明年改刑部。初,二部皆以不治聞。民至,紀綱修舉,宿弊以革。上元人有為侄毆者,憤甚,詣通政司告。時方令納米贖罪,而越訴禁甚嚴,犯者戍遼東。民上言:「依定例,卑幼之罪得贖,而尊長反遠竄,揆於理有未安,請更擬。」帝是之。帝以民廉介端謹,特賜敕,令考察南京百官。八年,詔書罪囚自十惡外並減一等。有重囚三十餘人,例不得赦,民亦減其罪。後有旨報決,乃復追還,而逃已數人。民自陳狀,給事中年富等劾民。帝知民賢,不問。

九年二月官に卒す。年五十九。貧しくして殮うること能わず、都御史吳訥衣衾を以て裞す。帝聞き、命じて有司に營葬せしむ。成化年間、葉盛褒恤を請うも果たさず。其の後百有餘年を経て、始めて追謚して襄介とす。

原文九年二月卒於官,年五十九。貧不能殮,都御史吳訥裞以衣衾。帝聞,命有司營葬。成化間,葉盛請褒恤不果。其後百有餘年,始追謚襄介。

吾紳は、字は叔縉、衢州の人である。官は刑部主事、獄を治むるに聲有り。郎中を歴て、禮部侍郎を拝す。成祖、呂震に謂いて曰く、「吾紳は翰林より出づ、卿を佐けて典禮すべし」と。既にして震に擠せられ、出でて廣東參政となる。尋いで召されて南京刑部侍郎と為り、敕を奉じて兩廣、福建の方面官を考察す。故人に參政に官する者あり、素より貪黷にして、權要多く其の地を為す。吾紳至りて、竟にこれを黜す。時に其の公を稱す。復た禮部に改む。正統六年官に卒す。

原文吾紳,字叔縉,衢州人。官刑部主事,治獄有聲。歷郎中,拜禮部侍郎。成祖謂呂震曰:「紳出自翰林,可佐卿典禮矣。」既而為震所擠,出為廣東參政。尋召為南京刑部侍郎,奉敕考察兩廣、福建方面官。有故人官參政,素貪黷,權要多為之地。紳至,竟黜之,時稱其公。復改禮部。正統六年卒於官。

吾紳は清強にして執ること有り、榮利に淡し。初めて侍郎を拝する時、賀する者畢く集まる。而して一室蕭然として、了て供具無し。衆笑いて起つ。

原文紳清強有執,淡於榮利。初拜侍郎,賀者畢集。而一室蕭然,了無供具,眾笑而起。

章敞は、字は尚文、會稽の人である。庶吉士より刑部主事に授けられる。山西に盜賊起こり、捕らえ逮うること數百人。章敞其の冤を察し、詞色異なる者一人を留め、余は悉く遣い出す。明日これを訊くに、留めし者は盜賊、余は非なり。郎中に遷り、吏部に改む。

原文章敞,字尚文,會稽人。由庶吉士授刑部主事。山西盜發,捕逮數百人。敞察其冤,留詞色異者一人,余悉遣出。明日訊之,留者盜,余非也。遷郎中,改吏部。

宣德六年擢て禮部侍郎となる。徐琦と偕に安南に使いし、黎利に國事を權せしむるを命ず。利人を遣わして相見の禮を白す。章敞曰く、「汝使者を敬するは、以て朝廷を尊ぶ所以なり。奚ぞ白さんや」と。利命を聽き、趨りて拜して下坐す。聲色を以て啖わすも、動かされず。還るに厚き贐を致すも、受けず。利以て貢使に付す。關に及びて、貢物を悉く閱し、其の贐を封じて關吏に付す。利死し、子の麟嗣ぐ。章敞復た詔を奉じて往き、贐を卻くること初めの如し。

原文宣德六年擢禮部侍郎。偕徐琦使安南,命黎利權國事。利遣人白相見禮,敞曰:「汝敬使者,所以尊朝廷,奚白為?」利聽命,趨拜下坐。啖以聲色,不為動。還致厚贐,不受,利以付貢使。及關,悉閱貢物,封其贐,付關吏。利死,子麟嗣,敞復奉詔往,卻贐如初。

正統の初め、洪武以来の條格を纂し、諸司をして參酌せしめ、吏奸を為す能わず。尚書胡濙は寬大、章敞は嚴肅を以てこれを佐く。二年十二月卒す。子の章瑾も累官して禮部侍郎に至る。

原文正統初,纂洪武以來條格,使諸司參酌,吏無能為奸。尚書胡濙寬大,敞佐以嚴肅。二年十二月卒。子瑾亦累官至禮部侍郎。

徐琦は字を良玉という。先祖は銭塘の人であったが、その祖父が罪を得て寧夏に戍辺し、遂にそこに家を定めた。幼少より学問に励み、経史に通じた。永楽十三年に進士に挙げられ、行人に任じられた。兵部員外郎を歴任した。明敏にして決断力があり、官に在っては大綱を保持することを務めた。宣徳六年に右通政に抜擢された。李敞に副えて安南に使いし、やはり贈り物を受けなかった。帰還して南京兵部右侍郎に任じられた。八年、帝は安南の貢賦が定額に満たず、南征の士卒が未だ全て帰還していないことを以て、琦に再び往かせた。時に黎利は既に死んでおり、その子の麟は疑って決断しなかった。琦は禍福を以て諭し、麟は恐れ、身代わりの金人を鋳造し、地方の産物を貢いで謝罪した。帝は喜び、琦の戍籍を削除するよう命じ、宴を賜り賞与は甚だ厚かった。

原文徐琦,字良玉。先世錢塘人,其祖謫戍寧夏,遂家焉。幼力學,通經史。永樂十三年舉進士,授行人。歷兵部員外郎。明敏有斷,居官務持大體。宣德六年擢右通政。副敞使安南,亦不受饋。還拜南京兵部右侍郎。八年,帝以安南貢賦不如額,南征士卒未盡返,命琦復往。時黎利已死,其子麟疑未決。琦曉以禍福,麟懼,鑄代身金人,貢方物以謝。帝悅,命落琦戍籍,宴賚甚厚。

正統初め、工部侍郎の鄭辰と共に南畿の官吏を考察し、不法の者三十人を罷免した。時に災異が屡々現れ、琦は災害を消す十事を上奏した。全て嘉納された。五年、南京の機務に参賛するよう命じられた。十四年に尚書に進み、参賛は元の通りとした。往年南京の軍を分調した際、その家族は全て北へ移すべきだという意見があり、朝廷でその実行が議された。琦は上奏して言った、「郷土に安んじて移住を重んじるのは、人の情である。今突然数万の衆を移せば、人心が一旦揺らげば、事態は測り難いことになろう」。事は中止となった。軍衛には学校が無かったが、琦は天下の衛所が府州県の例に倣い皆学校を設立するよう請うた。従われた。

原文正統初,與工部侍郎鄭辰考察南畿有司,黜不法者三十人。時災異屢見,琦陳弭災十事。悉嘉納。五年命參贊南京機務。十四年進尚書,參贊如故。有言往年分調南京軍,家屬悉宜北徙,朝議欲行之。琦奏:「安土重遷,人之情也。今驟徙數萬眾,人心一搖,事或叵測。」事得寢。軍衛無學校,琦請天下衛所視府州縣例皆立學。從之。

景泰元年、靖遠伯の王驥が機務を参賛し、琦は専ら部の事務を処理した。驥が解任されると、琦は依然として参賛した。四年三月に卒去、六十八歳。諡は貞襄。

原文景泰元年,靖遠伯王驥贊機務,琦專理部事。驥解任,琦仍參贊。四年三月卒,年六十八。謚貞襄。

李敞と徐琦は皆、安南に使いして命を辱めなかったことで称えられた。安南には宝貨が多く、後の使者は概ね水路から商人を連れて行き利を得ようとしたため、交趾人は彼らを軽んじた。

原文敞、琦皆以使安南不辱命著稱。安南多寶貨,後使者率從水道挾估客往以為利,交人頗輕之。

弘治の時、侍講の劉戩が詔を頒布するため赴き、南寧から駅伝に乗ってその国に至ると、交趾人は大いに驚いた。戩は旧制に従い、陪臣の拝謁を受け、一言も交わさず、一晩過ごして即座に出発し、贈り物は一切受け取らなかった。使いの者が途中で引き留め、固く贈ろうとしたが、遂に手を振って去り、李敞・徐琦と共に交趾人に重んじられた。戩は字を景元といい、安福の人である。

原文弘治時,侍講劉戩往頒詔,由南寧乘傳抵其國,交人大驚。戩依舊制,受陪臣拜謁,不交一語,越宿即行,饋遺一無所受。使人要於途,固致之,卒麾去,與敞、琦皆為交人所重。戩,字景元,安福人。

呉訥は字を敏徳といい、常熟の人である。父の遵は沅陵の主簿に任じられ、事に坐して京師に拘禁された。訥は上書して身代わりとなることを請うた。事が明らかにならないうちに父が亡くなり、訥は感激奮発して学問に励んだ。

原文吳訥,字敏德,常熟人。父遵,任沅陵簿,坐事系京師。訥上書乞身代。事未白而父歿,訥感奮力學。

永楽年間、医者として推薦されて京に至った。仁宗が監国していた時、その名を聞き、功臣の子弟を教えるよう命じた。成祖が召して応対させるとその意に適い、日に禁廷に侍らせ、顧問に備えさせた。

原文永樂中,以醫薦至京。仁宗監國,聞其名,命教功臣子弟。成祖召對稱旨,俾日侍禁廷,備顧問。

洪熙元年、侍講学士の沈度が訥は経学に明るく品行を修めていると推薦し、監察御史に任じられた。敬慎廉直で、矯飾を務めなかった。宣徳初め、浙江を巡察に出て、風紀を振るい綱常を立てることを務めた。時に軍の罪人が逃亡すると、往々にして家族に妄りに訴えさせ、千人もが逮捕拘禁された。訥は厳禁を請い、即ち冤罪であっても越訴してはならないとした。従われた。続いて貴州を巡察し、恩威を並行し、蛮人は畏服した。交代して帰還しようとした時、部民が宮廷に赴き留任を請うた。許されなかった。五年七月、南京右僉都御史に進み、間もなく左副都御史に進んだ。

原文洪熙元年,侍講學士沈度薦訥經明行修,授監察御史。敬慎廉直,不務矯飾。宣德初,出按浙江,以振風紀植綱常為務。時軍犯逃者,往往令家人妄訴,逮系至千人。訥請嚴禁,即冤不得越告。從之。繼按貴州,恩威並行,蠻人畏服。將代還,部民詣闕乞留。不許。五年七月,進南京右僉都御史,尋進左副都御史。

正統初め、光禄丞の董正らが官物を盗み、訥がこれを発覚させ、四十四人を戍辺に貶した。右通政の李畛という者が、蘇州・松江に使いし、行い多く謹ましくなかった。訥が密かに戒めたが、畛は喜ばず、訥が詔書を滞らせたなどと誣告した。訥は上疏して弁明した。互いに台省に弾劾され、共に獄に下されたが、後に釈放された。英宗が初めて経筵を開いた時、編集した『小学集解』を録して献上した。四年三月、老齢を以て致仕し、朱与言が代わった。

原文正統初,光祿丞董正等盜官物,訥發之,謫戍四十四人。右通政李畛者,奉使蘇、松,行事多不謹。訥微誡之,畛不悅,誣訥稽延詔書等事。訥疏辯。互為臺省所劾,俱逮下獄,既而釋之。英宗初禦經筵,錄所輯《小學集解》上之。四年三月,以老致仕,以朱與言代。

訥は博覧で、議論には根拠があった。性理の奥義について、多く発明するところがあり、著した書は皆後世に伝えられるべきものであった。家に帰り、布衣に蔬食、家は質素で寂しかった。周忱が江南を巡撫した時、その住居を新しくしようとしたが、受けなかった。家に居ること十六年で卒去、八十六歳。諡は文恪、郷人は言偃の祠に祀った。

原文訥博覽,議論有根柢。於性理之奧,多有發明,所著書皆可垂於後。歸家,布衣蔬食,環堵蕭然。周忱撫江南,欲新其居,不可。家居十六年而卒,年八十六。謚文恪,鄉人祀之言偃祠。

朱与言は字を一鶚といい、万安の人である。永楽九年の進士、湖広按察僉事に任じられた。宣徳年間に四川副使に遷った。合州で盗賊が起こり、吏目の熊鼎を督いて六十余人を斬り、賊の勢いは衰えた。事が聞こえ、鼎は合州同知に抜擢された。雅州で妖人が乱を起こすと、与言は捕らえて京師に送り、境内は平穏となった。正統元年に召されて南京右副都御史となり、入朝して呉訥に代わり院事を統轄した。年老いて致仕し、卒去した。与言は剛直方正で廉潔慎重、政務では大綱を務めた。数度建議し、多くは時弊に切実であった。家に居ては門庭清らかで厳粛、郷人に不善があれば、与言に知られることを恐れた。

原文朱與言,字一鶚,萬安人。永樂九年進士,授湖廣按察僉事。宣德中遷四川副使。合州盜起,督吏目熊鼎斬六十餘人,賊勢遂衰。事聞,擢鼎合州同知。雅州妖人為亂,與言執送京師,境內以寧。正統元年召為南京右副都御史,入代訥領院事。年老致仕,卒。與言剛方廉慎,為政務大體。數建白,多切時弊。家居門庭清肅,鄉人有不善,惟恐與言知之。

魏驥は字を仲房といい、蕭山の人である。永楽年間、進士の副榜により松江訓導に任じられた。常に夜分に茶粥を持って諸生を労った。諸生は感激奮発し、多く成就した者がいた。召されて『永楽大典』の編修に当たった。書が完成し、任に還った。師逵の推薦により、太常博士に還任した。帝が言った、「劉履節が御史を九年務め、高皇帝が初めてこの官を授けた、人に軽々しく与えるものではない」。

原文魏驥,字仲房,蕭山人。永樂中,以進士副榜授松江訓導。常夜分攜茗粥勞諸生。諸生感奮,多成就者。召修《永樂大典》。書成,還任。用師逵薦,還太常博士。帝謂曰:「劉履節為御史九年,高皇帝方授是官,不輕予人也。」

宣徳初め、吏部考功員外郎に遷り、南京太常寺少卿を歴任した。正統三年、行在吏部左侍郎として試用され召され、一年余りで実授された。屡々命を受けて畿甸の蝗害こうがいを巡視し、民の疾苦を問うた。八年に礼部に改められ、間もなく老齢を以て致仕を請うた。吏部尚書の王直は驥は衰えていないと言い、もしその老いを慮るなら、繁を去り簡に就かせるべきだと述べた。そこで南京吏部に改めた。再び老齢を以て辞したが、許されなかった。十四年に尚書に進んだ。英宗が北狩すると、驥は諸司を率いて時務を条陳し、多く施行された。景泰元年、七十七歳で致仕した。

原文宣德初,遷吏部考功員外郎,歷南京太常寺少卿。正統三年,召試行在吏部左侍郎,逾年實授。屢命巡視畿甸遺蝗,問民疾苦。八年改禮部,尋以老請致仕。吏部尚書王直言驥未衰,如念其老,宜令去繁就簡。乃改南京吏部。復以老辭,不允。十四年進尚書。英宗北狩,驥率諸司條上時務,多施行。景泰元年,年七十七,致仕。

驥は官に在って大綱を務めた。太常に在った時、山川壇で白兎が二匹獲られ、畿内に瑞麦が生じたが、皆退けて進上しなかった。吏部に在った時、進士で喪に服し終えていない者が、考功を求めた。同僚が許そうとしたが、驥は認めなかった。法司が旱魃のため刑を恤んだ時、王綱という者がおり、悪逆で死刑に当たったが、或る者がその若さを哀れみ、緩めようとした。驥は言った、「これは婦人の仁である、天道が時に合わないのは、正にこのようなことの故である」。獄が決すると雨が降った。

原文驥居官務大體。在太常,山川壇獲雙白兔,圻內生瑞麥,皆卻不進。在吏部,有進士未終制,求考功。同官將許之,驥持不可。法司因旱恤刑,有王綱者,惡逆當辟,或憫其少,欲緩之。驥曰:「此婦人之仁,天道不時,正此故也。」獄決而雨。

正統年間、王振が寵を恃み、公卿を凌いだが、独り魏驥を厳重に扱い、「先生」と呼んだ。景泰初め、老齢を以て退職を請うて京師に至った。大学士の陳循は、驥の門生であったが、隙を請うて言った、「公は冢宰の位に在りましたが、未だ朝廷に立ったことはありません。少し待たれよ、事は我々にあります」。驥は厳しい顔色で言った、「君は輔臣として、天下のために賢才を進めるべきであり、一人の座主のために私してはならない」。退いて人に語って言った、「彼は朝廷の事を己が事としている、どうして善終できようか」。遂に致仕して去った。

原文正統中,王振怙寵,淩公卿,獨嚴重驥,呼「先生」。景泰初,以請老至京師。大學士陳循,驥門生也,請間曰:「公雖位冢宰,然未嘗立朝。願少待,事在循輩。」驥正色曰:「君為輔臣,當為天下進賢才,不得私一座主。」退語人曰:「渠以朝廷事為一己事,安得善終。」竟致仕去。

魏驥は端厚で慎み深く、剛直で、君子と小人を区別することを好んだ。常に「是非の心なきは、人に非ず」と言った。家に居ては国と民を憂い、老いてますます篤かった。蕭山はもとより水害が多く、宋代の県令楊時の湖堤の遺跡があった。驥は螺山・石巖・畢公などの塘堰を修築することを提唱し、江潮を防ぎ、湖の利を興した。郷人はこれを頼った。平素は布衣に粗食で、産業を殖やさなかった。兄の教諭魏騏に仕え、老いてもますます恭しかった。時に笠をかぶり田畑を歩いたことがあり、錢塘主簿に出会い、従卒が彼を叱責した。答えて「蕭山の魏驥なり」と言うと、主簿は慌てて謝罪し慰めて去った。

原文驥端厚祗慎。顧勁直,好別白君子、小人。恒曰:「無是非之心,非人也。」家居,憂國憂民,老而彌篤。蕭山故多水患,有宋時縣令楊時湖堤遺跡。驥倡修螺山、石巖、畢公諸塘堰,捍江潮,興湖利。鄉人賴之。居恒布衣糲食,不殖生產。事兄教諭騏,雖耄益恭。時戴笠行田間。嘗遇錢塘主簿,隸訶之。答曰「蕭山魏驥也」。主簿倉皇謝慰而去。

成化七年、御史梁昉が言上した。「臣が先に蕭山に任じた時、致仕した尚書魏驥が郷里に住み、里人と共に暮らし、子孫に孝弟と農業に励むことを教え、堤防を増築し湖を浚渫して、災害を防いでいるのを見ました。その行動は礼法に応じ、理學を提唱し、後進を励ましています。林野にあっても、治化を補うものがあります。驥の平生の学問と行いは醇厚篤実で、心術は正大です。世事に通じ、国体を明らかにしています。致仕して二十余年、年九十八歳、四方がその徳を仰ぎ、卿雲の如きものです。百年の化育が、この人瑞を育みました。臣が前史を読むと、帰老して禄を賜りその身を終わらせた者、三老五更を尊養した者、安車蒲輪で召した者、几杖を賜った者があり、上は歯徳を尊んだのです。驥は歯徳に余りあり、爵は上卿にあり、達尊と称すべきです。どうか所司に下し、前代の故事を斟酌して施行してください。」帝は奏疏を覧て賞賛し、行人を遣わして慰問させ、羊と酒を賜い、役所に命じて月に米三石を給することとした。使者が到着する前に驥は卒去した。礼に従って祭葬を賜い、諡して文靖とした。その子魏完が驥の遺言を奉じて朝廷に赴き葬儀を辞し、その金で飢民を救済するよう請うた。帝は憮然として「驥は臨終の遺命においてすら、民を労することを恐れた。純臣と言えよう」と言い、これを許した。蕭山の民は驥の徳を忘れず、朝廷に赴き徳恵祠に祀り、楊時に配することを請うた。詔して「可」とした。

原文成化七年,御史梁昉言:「臣先任蕭山,見致仕尚書臣魏驥裏居,與裏人稠處,教子孫孝弟力田,增堤浚湖,捍禦災患。所行動應禮法,倡理學,勖後進。雖在林野,有補治化。驥生平學行醇篤,心術正大。諳世事,瞭國體。致仕二十餘年,年九十八歲,四方仰德,有如卿雲。百年化育,滋此人瑞。臣讀前史,有以歸老賜祿畢其身者,有尊養三老五更者,有安車蒲輪召者,有賜幾仗者,上齒德也。驥齒德有餘,爵在上卿,可稱達尊。乞下所司,酌前代故事施行。」帝覽奏嘉嘆。遣行人存問,賜羊酒,命有司月給米三石。使命未至而驥卒。賜祭葬如禮,謚文靖。其子完以驥遺言詣闕辭葬,乞以其金振饑民。帝憮然曰:「驥臨終遺命,猶恐勞民,可謂純臣矣。」許之。蕭山民德驥不已,詣闕請祀於德惠祠,以配楊時。制曰「可」。

魯穆は、字を希文といい、天臺の人である。永楽四年の進士。家に居る時は、粗衣に粗食で、足跡を州府に入れなかった。任官のため謁選する際、役人が餞別を贈ったが、穆は言った。「私は今から官に就こうとしているのに、まだ民に利益をもたらせず、どうして先に郷里を苦しめようか」受け取らなかった。御史に任じられた。仁宗が監国していた時、たびたび封事を上奏した。漢王の官校は不法が多く、誰も敢えて言う者がいなかった。穆が上章してこれを弾劾したが、回答はなかった。しかしその直声は朝廷に響き渡った。

原文魯穆,字希文,天臺人。永樂四年進士。家居,褐衣蔬食,足跡不入州府。比謁選,有司饋之贐,穆曰:「吾方從仕,未能利物,乃先厲州裏乎?」弗受。除御史。仁宗監國,屢上封事。漢王官校多不法,人莫敢言。穆上章劾之,不報,然直聲振朝廷。

福建僉事に転じた。冤罪や濫刑を正し、豪強を挫いた。泉州の李某が広西に転任する時、その姻戚の富豪林某が僕を遣わして道中で李を殺害し、その妻を我が物とした。李の一族が官に訴えたが、役人は林の賄賂を受け、訴えた者を罪に問い、長く獄に繋いだ。穆はその実情を察知し、直ちに林の罪を正した。漳州の民周允文には子がなく、甥を後継ぎとしたが、晚年に妾が子を産んだため、財産を甥と分け、妾の子を託した。允文が死ぬと、甥はその子は叔父の子ではないと言って追い出し、その財産を全て奪った。妾が訴えると、穆は県の父老と周の一族を召集し、密かに妾の子を多くの子供たちの中に置いた。皆がその子は允文に似ていると指摘したので、遂にその財産を返還させた。民は「魯鉄面」と呼んだ。当時楊栄が国政を執っていたが、その家人が法を犯した時、穆は少しも容赦せずに処罰した。栄はかえって穆を賢人と認め、朝廷に推薦した。

原文遷福建僉事。理冤濫,摧豪強。泉州人李某調官廣西,其姻富民林某遣仆冘李於道,而室其妻。李之宗人訴於官,所司納林賂,坐訴者,繫獄久。穆廉得其實,立正林罪。漳民周允文無子,以侄為後,晚而妾生子,因析產與侄,屬以妾子。允文死,侄言兒非叔子,逐去,盡奪其資,妾訴之。穆召縣父老及周宗族,密置妾子群兒中。鹹指兒類允文,遂歸其產。民呼「魯鐵面」。時楊榮當國,家人犯法,穆治之不少貸。榮顧謂穆賢,薦之朝。

英宗が即位すると、右僉都御史に抜擢された。翌年、大名で蝗害を鎮めるよう命じられた。帰還後、病気で卒去した。船を与えてその遺骸を帰郷させるよう命じられた。

原文英宗即位,擢右僉都御史。明年奉命捕蝗大名。還,以疾卒。命給舟歸其喪。

初め穆が僉都御史として朝廷に入った時、携えたものは袋と衣類だけであった。尚書呉中が器物を贈ったが、受け取らなかった。この時、呉中が棺と衾を整えて、ようやく葬儀を行うことができた。子の崇誌は、応天府尹を歴任し、廉直で父の風があった。

原文始穆入為僉都御史,所載不過囊衣,尚書吳中贈以器用,不受。至是中為治棺衾,乃克殯。子崇誌,歷官應天尹,廉直有父風。

耿九疇は、字を禹範といい、盧氏の人である。永楽末年の進士。宣徳六年に礼科給事中に任じられた。議論は大綱を堅持し、清望があった。

原文耿九疇,字禹範,盧氏人。永樂末進士。宣德六年授禮科給事中。議論持大體,有清望。

正統初年、大臣が両淮の塩政が久しく乱れていると上言し、名声と品行の重い者を得てこれを治めるべきだとし、そこで推挙されて塩運司同知となった。積年の弊害を徹底的に改革し、便宜五事を条奏して令とした。母の喪で官を去ると、塩場の民数千人が朝廷に赴き留任を請願した。十年正月、都転運使として起用された。節倹で他の嗜みがなく、公務の後は香を焚いて書を読み、廉潔の名声はますます高まり、婦人子供までその名を知った。

原文正統初,大臣言兩淮鹽政久壞,宜得重名檢者治之,於是推擇為鹽運司同知。痛革宿弊,條奏便宜五事,著為令。母喪去官,場民數千人詣闕乞留。十年正月起為都轉運使。節儉無他好,公退焚香讀書,廉名益振,婦孺皆知其名。

事に連座して誣告され、吏に逮捕されたが、後に冤罪が晴れ、直ちに刑部右侍郎として留任された。たびたび疑獄を審理し、屈することはなかった。礼部侍郎章瑾が獄に下ると、九疇と江淵らはその官を貶すことを議した。瑾の婿である給事中王汝霖はこれを恨み、同官の葉盛・張固・林聰らと共に刑部の不公正を論じた。九疇と淵は遂に盛らを弾劾し、さらに汝霖の父王永和が土木の変で死んだのに、汝霖が平然と笑っていたとして、職に留まるべきではないと述べた。当時景帝が新たに即位し、人材任用に急であったため、汝霖らを問わず、瑾については上奏通りに処した。鳳陽で凶作が続き、盗賊が起こらんとしたため、巡視招撫を命じられた。英武・飛熊などの諸衛軍を留めて耕作・守備させ、流民七万戸を招き寄せることを上奏し、境内は安寧となった。

原文以事見誣,逮下吏,已,得白,即留為刑部右侍郎。屢辨疑獄,無所撓屈。禮部侍郎章瑾下獄,九疇及江淵等議貶其官。瑾婿給事中王汝霖銜之,與同官葉盛、張固、林聰等論刑部不公。九疇、淵遂劾盛等,且言汝霖父永和死土木,嬉笑自如,不宜居職。時景帝新立,急於用人,置汝霖等不問,瑾如奏。鳳陽歲兇,盜且起,敕往巡視招撫。奏留英武、飛熊諸衛軍耕守,招來流民七萬戶,境內以安。

両淮は九疇が去ってから、塩政が再び弛緩した。景泰元年、再び兼理を命じられた。まもなく諸府の重囚を審録するよう命じられ、多くを平反した。十月、江北諸府の巡撫を兼ねるよう命じられた。

原文兩淮自九疇去,鹽政復弛。景泰元年仍命兼理。尋敕錄諸府重囚,多所平反。十月命兼撫江北諸府。

三年三月、陳鎰に代わって陝西を鎮守した。都指揮楊得青らが兵卒を私的に使役したため、九疇がこれを弾劾した。詔してこれを取り調べるよう命じ、さらに諸辺で得青のようである者は、全て弾劾して報告するよう命じた。辺将が臨洮などの諸衛の守備兵を増やすよう請うたが、九疇は言った。「辺城の士卒は不足していない。将帥が厳しく紀律を正し、賞罰を明らかに信実にすれば、人は皆自ら奮い立つ。そうでなければ、ただ冗食するだけである。」そこで守備兵は増やさなかった。辺民は春夏に田畑に出て耕作し、秋冬になると塞内に移住していた。九疇は言った。「辺将が寇を防ぐのは、民を衛るためである。今、民に寇を避けさせて生業を失わせるなら、将帥は何の用があろうか。」そこで民の移住を禁じた。寇に襲われた者がいれば、守備の将帥を罪に問うた。

原文三年三月代陳鎰鎮陜西。都指揮楊得青等私役操卒,九疇劾之。詔按治,且命諸邊如得青者,具劾以聞。邊將請增臨洮諸衛戍,九疇言:「邊城士卒非乏。將帥能嚴紀律,賞罰明信,則人人自奮。不然,徒冗食耳。」乃不增戍。邊民春夏出作田,秋冬輒徙入塞。九疇言:「邊將所以禦寇,衛民也。今使民避寇失業,安用將帥?」因禁民入徙。有被寇者,治守帥罪。

四年、布政使許資が上言した。「侍郎が出鎮すると、巡按御史と統属関係がなく、事が滞りがちです。憲職に改めて授けるのが便利です。」そこで右副都御史に転じた。大臣が鎮守・巡撫する時に皆都御史を授けるのは、九疇から始まった。旨があり羊の角を灯り用に買い上げようとしたが、九疇は宋代の蘇軾が神宗に浙燈を買うことを諫めた故事を引き合いに出し、事は中止された。災異が起こり意見を求めた時、皇帝に儒者の碩学を招き、賞罰を公正にし、守令を選び、将帥を簡抜するよう請うた。優詔で回答があった。

原文四年,布政使許資言:「侍郎出鎮,與巡按御史不相統,事多拘滯,請改授憲職便。」乃轉右副都御史。大臣鎮守、巡撫皆授都御史,自九疇始。有旨市羊角為燈,九疇引宋蘇軾諫神宗買浙燈事,事乃寢。災異求言,請帝延儒碩,公賞罰,擇守令,簡將帥。優詔報焉。

天順初年、京師で議事した。帝は侍臣を見て言った。「九疇は廉正な人である。」右都御史として留任させた。罪人が都察院の獄に繋がれている者に米が給されていなかった。九疇が上言したため、日に一升を給することとなり、これが令となった。後に、廉恥を崇め、刑獄を清め、農桑を勧め、軍の賞賜を節し、台憲を重んずる五事を上疏して陳べた。帝は皆嘉納した。この年六月、御史張鵬らが石亨・曹吉祥を弾劾した。亨らは九疇が実際にこれをさせたと言い、遂に共に獄に下された。江西布政使に左遷され、まもなく四川に転じた。

原文天順初,議事京師。帝顧侍臣曰:「九疇,廉正人也。」留為右都御史。罪人系都察院獄者不給米。九疇為言,乃日給一升,遂為令。已,上疏陳崇廉恥、清刑獄、勸農桑、節軍賞、重臺憲五事。帝皆嘉納。是年六月,御史張鵬等劾石亨、曹吉祥。亨等謂九疇實使之,遂並下獄。謫江西布政使,尋調四川。

翌年、礼部に尚書が欠員した。帝が李賢に問うと、賢は言った。「老成で清介な者は、九疇に及ぶ者はいません。」そこで召還した。到着すると、その老齢を憐れみ、南京刑部尚書に改めた。四年に卒去した。諡して清恵とした。子の耿裕は、別に伝がある。

原文明年,禮部缺尚書。帝問李賢。賢曰:「老成清介,無如九疇。」乃召還。既至,憐其老,改南京刑部尚書。四年卒。謚清惠。子裕,自有傳。

軒輗は、字を惟行といい、鹿邑の人である。永楽末年の進士。行人司副に任じられた。宣徳六年、推薦により御史に改めた。福建を巡察し、弊害を取り除き奸悪を鋤き、風采は甚だ峻厳であった。

原文軒輗,字惟行,鹿邑人。永樂末年進士。授行人司副。宣德六年用薦改御史。按福建,剔蠹鋤奸,風采甚峻。

正統元年、浙江を清軍し、不職の官四十余人を弾劾した。五年に言う、「祖宗が御史官を設けたのは、その職が甚だ重いからである。今内外の諸司は事あるごとに、多く勝手に御史を派遣するが、これは制度に非ず、これを禁ずることを請う」。直ちに許可された。この年、超擢して浙江按察使となった。前任の使は奢侈であったが、輗は力を尽くしてこれを矯めた。寒暑を通じて一つの青布袍、補綴ほぼ遍く、平素は蔬食、妻子自ら井臼を操った。僚属と約す、三日ごとに俸銭を出して肉を買うも、一斤を過ぎてはならぬと。僚属多く堪えられなかった。故旧至れば、食はただ一豆。あるいは鶏黍を具えると、人は驚いて異と為した。時に鎮守内臣の阮随、布政使の孫原貞、杭州知府の陳復、仁和知県の許璞、居官皆廉で、一方大いに治まった。

原文正統元年清軍浙江,劾不職官四十餘人。五年言:「祖宗設御史官,為職綦重。今內外諸司有事,多擅遣御史,非制,請禁之。」立報可。是年,超擢浙江按察使。前使奢汰,輗力矯之。寒暑一青布袍,補綴殆遍,居常蔬食,妻子親操井臼。與僚屬約:三日出俸錢市肉,不得過一斤。僚屬多不能堪。故舊至,食惟一豆。或具雞黍,則人驚以為異。時鎮守內臣阮隨、布政使孫原貞、杭州知府陳復、仁和知縣許璞居官皆廉,一方大治。

温州・処州に銀場があり、洪武年間の歳課は僅か二千八百余両であった。永楽時に増じて八万二千両となり、民は命に堪えなかった。帝即位し、大臣の議によりこれを罷めた。ここに至り参政の俞士悦が復開を請い、利が上に帰すれば、則ち鉱盗自ずから絶つと謂う。三司に下して議せしめ、輗は力持して不可とし、乃ち止んだ。既にして給事中の陳傅がまた請う、朝廷遽かにこれに従い、遂に葉宗留の変を致した。

原文溫、處有銀場,洪武間歲課僅二千八百餘兩。永樂時增至八萬二千兩,民不堪命。帝即位,以大臣議罷之。至是參政俞士悅請復開,謂利歸於上,則礦盜自絕。下三司議,輗力持不可,乃止。既而給事中陳傅復請,朝廷遽從之,遂致葉宗留之變。

会稽の趙伯泰は、宋の苗裔である。孝宗・理宗及び福王の陵墓が、俱に豪民に侵奪されたと奏上した。御史の王琳は、福王は元に降り北去したので、山陰にどうして墓があろうかと謂う。伯泰不平で、また訴えた。帝は輗及び巡按御史の欧陽澄に命じて覆按せしめた。輗は福王は蓋し衣冠の蔵であると言い、伯泰の言は誣いに非ずと。詔して豪民を辺に戍らせ、琳らの俸を停めた。親喪に遭い、起復した。十三年に四事を奏陳し、俱に時弊に切実で、帝悉くこれに従った。

原文會稽趙伯泰,宋苗裔也。奏孝宗、理宗及福王陵墓,俱為豪民侵奪。御史王琳謂福王降於元,北去,山陰安得墓?伯泰不平,復訴。帝命輗及巡按御史歐陽澄覆按。輗言福王蓋衣冠之藏,伯泰言非誣。詔戍豪民於邊,停琳等俸。遭親喪,起復。十三年奏陳四事,俱切時弊,帝悉從之。

景帝立つと、右副都御史として浙江を鎮守した。景泰元年、両浙の塩課を兼理することを命ぜられた。閩賊の呉金八らが流劫して青田諸県を荒らし、輗は原貞と共にこれを討平した。賊首の羅丕・廖寧八がまた閩より浙に抵る。輗らが防遏して功があり、秩一等を進めた。明年、南京糧儲を督することを改めた。五年、また左副都御史に改め、南院事を掌った。御史で不職の者数人を考黜した。

原文景帝立,以右副都御史鎮守浙江。景泰元年命兼理兩浙鹽課。閩賊吳金八等流劫青田諸縣,輗與原貞討平之。賊首羅丕、廖寧八復自閩抵浙。輗等防遏有功,進秩一等。明年改督南京糧儲。五年復改左副都御史,掌南院事。考黜御史不職者數人。

天順元年二月、召して刑部尚書に拝した。数月後、疾を引いて帰ることを乞うた。帝召見し、問うて曰く、「昔浙江の廉使が考満して帰る時、行李は僅か一簏、乃ち卿か」。輗頓首して謝した。白金を賜い慰めて遣わした。明年、南京の督理糧儲に官缺け、帝が李賢に問う、大臣の中で誰か曾てこの職に居た者はと。賢は輗を以て対え、且つその廉を称えた。乃ち左都御史を以て行かしむることを命じた。八年夏、老いて骸骨を乞う、報を待たずに径ちに帰った。家に抵り急ぎ浴を具えさせ、欠伸して卒した。

原文天順元年二月召拜刑部尚書。數月,引疾乞歸。帝召見,問曰:「昔浙江廉使考滿歸,行李僅一簏,乃卿耶?」輗頓首謝。賜白金慰遣之。明年,南京督理糧儲缺官,帝問李賢,大臣中誰曾居此職者。賢以輗對,且稱其廉。乃命以左都御史往。八年夏以老乞骸骨,不待報徑歸。抵家趣具浴,欠伸而卒。

輗は孤峭で、人に遇うに賢否を問わず、拒んで接しなかった。按察使として、嘗て同僚の家で飲み、帰ってその腹を撫でて曰く、「此の中に贓物あり」と。南都において、都御史の張純が酒を置き客を延いた。輗はその汰を悪み、往かなかった。饌を徹して遺しても、また納めなかった。歳時に礼部に詣でて表を拝し慶賀するも、屏居一室し、燭を撤して端坐し、事竣るや竟に帰り、嘗て僚友と一語も交わさなかった。僚友その来るを聞けば、も亦輒ち避けて去り、之と処ることを楽しまなかった。量頗る偏隘であった。御史で人の陰私を訐る者がいれば、輒ちその能を奨めた。嘗て御史に命じて南京祭酒の呉節を劾せしめ、節も亦輗の私事を発し、衆頗る輗を直しとせず。然し清操天下に聞こえ、耿九疇と斉名し、廉吏を語れば必ず軒・耿と曰う。

原文輗孤峭,遇人無賢否,拒不與接。為按察使,嘗飲同僚家,歸撫其腹曰:「此中有贓物也。」在南都,都御史張純置酒延客。輗惡其汰,不往。徹饌遺之,亦不納。歲時詣禮部拜表慶賀,屏居一室,撤燭端坐,事竣竟歸,未嘗與僚友一語。僚友聞其來,亦輒避去,不樂與之處。量頗遍隘。御史有訐人陰私者,輒獎其能。嘗令御史劾南京祭酒吳節,節亦發輗私事,眾頗不直輗。然清操聞天下,與耿九疇齊名,語廉吏必曰軒、耿。

陳復は、福建懐安の人である。輗の同年進士で、戸部主事より杭州を知った。廉静私無く、獄訟大いに省く。日端坐堂皇し、曹掾と律令を講読するのみであった。喪に遭い、部民留まることを乞い、詔して起復したが、未幾卒した。輗が僚属に倡えてこれを助け、乃ち克く斂することができた。吏民相率いて賻を致すも、その子尽くこれを却け、貸しを称えて帰った。

原文陳復,福建懷安人。輗同年進士,由戶部主事知杭州。廉靜無私,獄訟大省。日端坐堂皇,與曹掾講讀律令而已。遭喪,部民乞留,詔起復,未幾卒。輗倡僚屬助之,乃克斂。吏民相率致賻,其子盡卻之,稱貸歸。

黄孔昭は、黄巖の人である。初め名は曜、後に字を以て行い、字を世顯と改めた。十四歳の時、父母の喪に遭い、哀毀骨立した。天順四年の進士に挙げられ、屯田主事を授かった。江南に奉使し、饋りを却けて受けず、都水員外郎に進んだ。

原文黃孔昭,黃巖人。初名曜,後以字行,改字世顯。年十四,遭父母喪,哀毀骨立。舉天順四年進士,授屯田主事。奉使江南,卻饋弗受,進都水員外郎。

成化五年、文選郎中の陳雲らが吏に訐られ、尽く獄に下り官を貶せられ、尚書の姚夔は孔昭の廉を知り、之を文選に調した。九年、郎中に進んだ。故事に、選郎は率い閉門して客を謝す。孔昭曰く、「国家が才を用いるは、猶お富家が粟を積むが如し。粟素より積まざれば、豈に饑を贍うに足らんや。才預め儲けざれば、安んぞ用を済すことができよう。苟も深居して客を絶つを高しと為せば、何由ぞ天下の才俊を知らん」。公退して、客の至るに遇えば、輒ち延見し、人才を訪ねて、これを冊に書いた。官を除くに、その才の高下を以て地の繁簡に配した。ここにより銓叙平允であった。私を以て幹する者は、悉くこれを拒んだ。嘗て尚書の尹旻と争い、推案して盛怒するに至った。孔昭は拱立し、その怒りの止むを俟ち、またこれを言った。旻も亦その諒直を信じた。旻は通政の談倫に昵し、侍郎に用いんと欲したが、孔昭は執って不可とした。旻卒いにこれを用い、倫果たして敗れた。旻は故人を推して巡撫と為さんと欲したが、孔昭応じなかった。その人入都して孔昭を謁し、屈膝するに至り、孔昭益ますますこれを鄙んだ。旻が推挙せよと令すと、孔昭曰く、「彼の少なき所は、大臣の体のみ」。旻その人に謂いて曰く、「黄君銓曹を離れざれば、汝遷ることを得ず」。

原文成化五年,文選郎中陳雲等為吏所訐,盡下獄貶官,尚書姚夔知孔昭廉,調之文選。九年進郎中。故事,選郎率閉門謝客。孔昭曰:「國家用才,猶富家積粟。粟不素積,豈足贍饑;才不預儲,安能濟用?茍以深居絕客為高,何由知天下才俊。」公退,遇客至,輒延見,訪以人才,書之於冊。除官,以其才高下配地繁簡。由是銓敘平允。其以私幹者,悉拒之。嘗與尚書尹旻爭,至推案盛怒。孔昭拱立,俟其怒止,復言之。旻亦信其諒直。旻昵通政談倫,欲用為侍郎,孔昭執不可。旻卒用之,倫果敗。旻欲推故人為巡撫,孔昭不應。其人入都謁孔昭,至屈膝,孔昭益鄙之。旻令推舉,孔昭曰:「彼所少者,大臣體耳。」旻謂其人曰:「黃君不離銓曹,汝不能遷也。」

郎中として満九載、始めて右通政に擢げられた。久しくして、南京工部右侍郎に遷った。官地十余区あり勢家に侵されていたが、奏してこれを復した。詔を奉じて方面を薦挙せよとあり、知府の樊瑩・僉事の章懋を以て応えた。後皆名臣となった。郎官で主蔵する者が羨銀数千を進めたが、斥退した。地を掘って古鼎を得ると、急ぎ工に命じて文廟の二字を鐫らせ、これを廟中に送った。俄かに中貴がこれを朝に献ぜんと欲したが、鐫字を見て止めた。

原文為郎中滿九載,始擢右通政。久之,遷南京工部右侍郎。有官地十餘區為勢家所侵,奏復之。奉詔薦舉方面,以知府樊瑩、僉事章懋應。後皆為名臣。郎官主藏者以羨銀數千進,斥退之。掘地得古鼎,急命工鐫文廟二字,送之廟中。俄中貴欲獻諸朝,見鐫字而止。

孔昭は学を嗜み行いを敦くし、陳選・林鶚・謝鐸と友善で、並びに士類の宗と為された。弘治四年卒した。嘉靖中、礼部尚書を贈られ、文毅と謚された。子の俌も亦進士に挙げられ、文選郎中となった。俌の子の綰は、大礼を議して礼部尚書に至り、自ら伝有り。

原文孔昭嗜學敦行,與陳選、林鶚、謝鐸友善,並為士類所宗。弘治四年卒。嘉靖中,贈禮部尚書,謚文毅。子俌,亦舉進士,為文選郎中。俌子綰,以議大禮至禮部尚書,自有傳。

賛して曰く、国家盛んなる時、士大夫多く廉節を以て自ら重んずるは、豈に刻意に行いを励まし、矯飾して名誉を好むならんや。亦その嗜欲淡く、営競を恥じ、介特の性然り。仁宗・宣宗の際、吏道の貪墨を懲らし、公廉剛正の士を登進した。宗載は銓衡を佐け、顧佐は邦憲を掌り、風紀一たび清し。段民・呉訥・魏驥・魯穆は爵然として羔羊素絲の節を秉る。軒輗・耿九疇・黄孔昭は矯厲絶俗し、物能くこれを幹すこと能わず。章敞・徐琦・劉戩は己を律すること厳正で、異域も心を傾けた。廉の尚ぶに足ることは卓なるかな。

原文贊曰:國家盛時,士大夫多以廉節自重,豈刻意勵行,好為矯飾名譽哉。亦其淡嗜欲,恥營競,介特之性然也。仁、宣之際,懲吏道貪墨,登進公廉剛正之士。宗載佐銓衡,顧佐掌邦憲,風紀為之一清。段民、吳訥、魏驥、魯穆爵然秉羔羊素絲之節。軒、耿、孔昭矯厲絕俗,物不能幹。章敞、徐琦、劉戩律己嚴正,異域傾心。廉之足尚也卓矣。