○黃宗載顧佐(邵玘陳勉賈諒嚴升)段民(吾紳)章敞(徐琦劉戩)吳訥(朱與言)魏驥魯穆耿九疇軒輗(陳復)黃孔昭
黃宗載は、一名を垕、字を厚夫といい、豊城の人である。洪武三十年の進士。行人に任じられた。四方に使者として赴き、一度も贈り物を受け取らず、累進して司正となった。
永楽初年、推薦により湖広按察司僉事となった。大奸物や老獪な者は多く銅鼓・五開の間に流刑となり、ひそかに官吏の短所を握っていた。宗載はその罪を数え上げて掲示し、「改めなければ、必ず法に置く」と言った。誰も敢えて犯す者はなかった。武陵には軍籍の者が多く、民家は彼らと婚姻すれば徭役や賦税が累がることを憂慮し、男女が四十歳になってもまだ結婚しない者がいた。宗載は道理を説いて諭すと、皆理解し悟り、一時に三百余家が結婚した。隣県もこれに倣い、その風俗は変わった。文淵閣に召し出されて『永楽大典』の編纂に従事した。書が完成すると、賜物を受けて任に戻った。海運用の巨艦数十艘の建造を監督し、事は成り民は煩わされなかった。皇帝が北征した時、湖広で兵を徴発したが、使者が貪暴で期限に遅れた。宗載はこれを弾劾しなかった罪で、楊青驛の驛夫に左遷された。
宗載は廉潔を保ち正道を守り、偽らず従わず、学問文章ともに当時の声望を負っていた。公卿大夫の中で年齢と徳行の盛んな者として、宗載が推されたという。
一年余り経った時、奸吏が佐が下僕から金を受け取り、私的に帰郷させたと上奏した。帝は密かに士奇に示して言った。「お前はかつて佐が廉潔だと推挙したのではないか。」答えて言った。「中朝官の俸給は薄く、従者や馬の薪や飼料の費用は下僕に頼り、下僕の半分を出資させて役を免じさせます。下僕は帰って耕作でき、官は費用を得ます。中朝官は皆そうしており、臣も同様です。先帝はこれをご存知で、故に中朝官の俸給を増やされました。」帝は嘆いて言った。「朝臣がかくも貧しいとは。」そして訴えた者を怒って言った。「朕は今まさに佐を用いようとしているのに、小人が敢えて誣告するとは、必ず法司に下して処罰せよ。」士奇が答えて言った。「些細な事で陛下の怒りを煩わせるには及びません。」帝はそこで吏の訴状を佐に渡して言った。「汝が自分でこれを処置せよ。」佐は頓首して謝し、その吏を呼んで言った。「上は私に汝を処置せよと命じられた。汝が行いを改めるなら、私は汝を許そう。」帝はこれを聞いてますます喜び、佐が大筋を得ていると言った。ある者が佐が冤罪の訴えを処理しないと告げた。帝は言った。「これは必ず重罪の囚人が教唆したのだ。」法司に命じて会審させると、果たして千戸の臧清が無罪の三人を殺して死罪に当たるのに、人を使って佐を誣告させていた。帝は言った。「清を誅しなければ、佐の法は行われない。」清を市中で磔刑に処した。
八年の秋、佐は病気になり、帰郷を請うた。許されなかった。南京右都御史の熊概にその職務を代行させた。一年余りして概が卒去した。佐の病気はすっかり良くなり、入朝して謁見した。帝は慰労し、朝賀を免除し、以前通り職務を執るよう命じた。
正統初年、御史で不適格な者十五人を査察し、降格・罷免した。邵宗は九年の任期が満ち、吏部がすでに考課で適格としていたが、これにも加えられた。宗が弁明を上奏し、尚書の郭琎も宗は在任者と同様に考課されるべきではないと言った。帝はそこで佐を責めた。そして御史の張鵬らがまた宗の些細な過失を弾劾した。帝は鵬らが徒党を組んで欺いているとして、佐をも厳しく責めた。佐は上章して致仕して去った。勅書を賜って褒め慰め、紙幣五十貫を賜り、戸部に命じてその家の賦役を免除した。十一年九月に卒去した。
佐は孝行で友愛に厚く、操行は清廉で、性格は厳しく剛毅であった。毎朝出勤する時、小さな外側の部屋に立ち、二本の藤を戸外に立てた。百官が通り過ぎる者は、皆迂回して避けた。内側の直廬に入ると、一人で小さな仕切りの部屋に居り、政事を議するのでなければ諸司と群れて座らなかった。人々は「顧独坐」と呼んだという。しかし法を厳格に運用しすぎ、論者はこれを欠点とした。
時に雩都の陳勉、嶧縣の賈諒が先後に副都御史となり、段佐と共に臺職を挙げ、また蘭溪の邵玘は南京に官し、段佐と齊名し、繁昌の嚴升の名も亦た邵玘に亞いだ。
陳勉は、邵玘と同年の進士である。仁宗の初め、楊士奇の薦めにより、廣東副使より擢て左副都御史となる。信、豐等の諸縣に盜賊起こり、命じて陳勉をしてこれを撫せしむ。三千六百餘人を招徠し、亂遂に定まる。景泰の初め、官は南京右都御史に至り、院事を掌る。致仕し、卒す。陳勉は外和內剛で、法律に精通し、吏敢えて欺かず。
嚴升は、建文時の進士である。歴官して大理寺右少卿となる。蘇州、松江で清軍し、法を執って撓まず。南京僉都御史に調じ、邵玘と同心して事を治む。剛果自信し、嘗て《神羊賦》を著して以て志を現わす。
山東の妖婦唐賽兒亂を作す。三司官は寇を縱ちたる罪に坐して誅せられ、段民を擢て左參政とする。是の時に唐賽兒を索むること急にして、山東、北京の尼及び天下の出家婦女を盡く逮え、先後幾ばくも萬人に及ぶ。段民力を盡くして矜み宥し、人情始めて安んず。
車駕北征し、餉舟は濟寧より潞河に達し、陸路挽いて居庸より出でて塞外に至る。段民深く計り曲く算し、下擾さずして事集まる。還りて後、敕して巡按御史と共に過ぎたる府縣の吏の廉墨を考へて以て聞かしむ。
九年二月官に卒す。年五十九。貧しくして殮うること能わず、都御史吳訥衣衾を以て裞す。帝聞き、命じて有司に營葬せしむ。成化年間、葉盛褒恤を請うも果たさず。其の後百有餘年を経て、始めて追謚して襄介とす。
吾紳は、字は叔縉、衢州の人である。官は刑部主事、獄を治むるに聲有り。郎中を歴て、禮部侍郎を拝す。成祖、呂震に謂いて曰く、「吾紳は翰林より出づ、卿を佐けて典禮すべし」と。既にして震に擠せられ、出でて廣東參政となる。尋いで召されて南京刑部侍郎と為り、敕を奉じて兩廣、福建の方面官を考察す。故人に參政に官する者あり、素より貪黷にして、權要多く其の地を為す。吾紳至りて、竟にこれを黜す。時に其の公を稱す。復た禮部に改む。正統六年官に卒す。
吾紳は清強にして執ること有り、榮利に淡し。初めて侍郎を拝する時、賀する者畢く集まる。而して一室蕭然として、了て供具無し。衆笑いて起つ。
章敞は、字は尚文、會稽の人である。庶吉士より刑部主事に授けられる。山西に盜賊起こり、捕らえ逮うること數百人。章敞其の冤を察し、詞色異なる者一人を留め、余は悉く遣い出す。明日これを訊くに、留めし者は盜賊、余は非なり。郎中に遷り、吏部に改む。
宣德六年擢て禮部侍郎となる。徐琦と偕に安南に使いし、黎利に國事を權せしむるを命ず。利人を遣わして相見の禮を白す。章敞曰く、「汝使者を敬するは、以て朝廷を尊ぶ所以なり。奚ぞ白さんや」と。利命を聽き、趨りて拜して下坐す。聲色を以て啖わすも、動かされず。還るに厚き贐を致すも、受けず。利以て貢使に付す。關に及びて、貢物を悉く閱し、其の贐を封じて關吏に付す。利死し、子の麟嗣ぐ。章敞復た詔を奉じて往き、贐を卻くること初めの如し。
正統初め、工部侍郎の鄭辰と共に南畿の官吏を考察し、不法の者三十人を罷免した。時に災異が屡々現れ、琦は災害を消す十事を上奏した。全て嘉納された。五年、南京の機務に参賛するよう命じられた。十四年に尚書に進み、参賛は元の通りとした。往年南京の軍を分調した際、その家族は全て北へ移すべきだという意見があり、朝廷でその実行が議された。琦は上奏して言った、「郷土に安んじて移住を重んじるのは、人の情である。今突然数万の衆を移せば、人心が一旦揺らげば、事態は測り難いことになろう」。事は中止となった。軍衛には学校が無かったが、琦は天下の衛所が府州県の例に倣い皆学校を設立するよう請うた。従われた。
李敞と徐琦は皆、安南に使いして命を辱めなかったことで称えられた。安南には宝貨が多く、後の使者は概ね水路から商人を連れて行き利を得ようとしたため、交趾人は彼らを軽んじた。
弘治の時、侍講の劉戩が詔を頒布するため赴き、南寧から駅伝に乗ってその国に至ると、交趾人は大いに驚いた。戩は旧制に従い、陪臣の拝謁を受け、一言も交わさず、一晩過ごして即座に出発し、贈り物は一切受け取らなかった。使いの者が途中で引き留め、固く贈ろうとしたが、遂に手を振って去り、李敞・徐琦と共に交趾人に重んじられた。戩は字を景元といい、安福の人である。
呉訥は字を敏徳といい、常熟の人である。父の遵は沅陵の主簿に任じられ、事に坐して京師に拘禁された。訥は上書して身代わりとなることを請うた。事が明らかにならないうちに父が亡くなり、訥は感激奮発して学問に励んだ。
永楽年間、医者として推薦されて京に至った。仁宗が監国していた時、その名を聞き、功臣の子弟を教えるよう命じた。成祖が召して応対させるとその意に適い、日に禁廷に侍らせ、顧問に備えさせた。
正統初め、光禄丞の董正らが官物を盗み、訥がこれを発覚させ、四十四人を戍辺に貶した。右通政の李畛という者が、蘇州・松江に使いし、行い多く謹ましくなかった。訥が密かに戒めたが、畛は喜ばず、訥が詔書を滞らせたなどと誣告した。訥は上疏して弁明した。互いに台省に弾劾され、共に獄に下されたが、後に釈放された。英宗が初めて経筵を開いた時、編集した『小学集解』を録して献上した。四年三月、老齢を以て致仕し、朱与言が代わった。
訥は博覧で、議論には根拠があった。性理の奥義について、多く発明するところがあり、著した書は皆後世に伝えられるべきものであった。家に帰り、布衣に蔬食、家は質素で寂しかった。周忱が江南を巡撫した時、その住居を新しくしようとしたが、受けなかった。家に居ること十六年で卒去、八十六歳。諡は文恪、郷人は言偃の祠に祀った。
魏驥は字を仲房といい、蕭山の人である。永楽年間、進士の副榜により松江訓導に任じられた。常に夜分に茶粥を持って諸生を労った。諸生は感激奮発し、多く成就した者がいた。召されて『永楽大典』の編修に当たった。書が完成し、任に還った。師逵の推薦により、太常博士に還任した。帝が言った、「劉履節が御史を九年務め、高皇帝が初めてこの官を授けた、人に軽々しく与えるものではない」。
驥は官に在って大綱を務めた。太常に在った時、山川壇で白兎が二匹獲られ、畿内に瑞麦が生じたが、皆退けて進上しなかった。吏部に在った時、進士で喪に服し終えていない者が、考功を求めた。同僚が許そうとしたが、驥は認めなかった。法司が旱魃のため刑を恤んだ時、王綱という者がおり、悪逆で死刑に当たったが、或る者がその若さを哀れみ、緩めようとした。驥は言った、「これは婦人の仁である、天道が時に合わないのは、正にこのようなことの故である」。獄が決すると雨が降った。
正統年間、王振が寵を恃み、公卿を凌いだが、独り魏驥を厳重に扱い、「先生」と呼んだ。景泰初め、老齢を以て退職を請うて京師に至った。大学士の陳循は、驥の門生であったが、隙を請うて言った、「公は冢宰の位に在りましたが、未だ朝廷に立ったことはありません。少し待たれよ、事は我々にあります」。驥は厳しい顔色で言った、「君は輔臣として、天下のために賢才を進めるべきであり、一人の座主のために私してはならない」。退いて人に語って言った、「彼は朝廷の事を己が事としている、どうして善終できようか」。遂に致仕して去った。
魏驥は端厚で慎み深く、剛直で、君子と小人を区別することを好んだ。常に「是非の心なきは、人に非ず」と言った。家に居ては国と民を憂い、老いてますます篤かった。蕭山はもとより水害が多く、宋代の県令楊時の湖堤の遺跡があった。驥は螺山・石巖・畢公などの塘堰を修築することを提唱し、江潮を防ぎ、湖の利を興した。郷人はこれを頼った。平素は布衣に粗食で、産業を殖やさなかった。兄の教諭魏騏に仕え、老いてもますます恭しかった。時に笠をかぶり田畑を歩いたことがあり、錢塘主簿に出会い、従卒が彼を叱責した。答えて「蕭山の魏驥なり」と言うと、主簿は慌てて謝罪し慰めて去った。
成化七年、御史梁昉が言上した。「臣が先に蕭山に任じた時、致仕した尚書魏驥が郷里に住み、里人と共に暮らし、子孫に孝弟と農業に励むことを教え、堤防を増築し湖を浚渫して、災害を防いでいるのを見ました。その行動は礼法に応じ、理學を提唱し、後進を励ましています。林野にあっても、治化を補うものがあります。驥の平生の学問と行いは醇厚篤実で、心術は正大です。世事に通じ、国体を明らかにしています。致仕して二十余年、年九十八歳、四方がその徳を仰ぎ、卿雲の如きものです。百年の化育が、この人瑞を育みました。臣が前史を読むと、帰老して禄を賜りその身を終わらせた者、三老五更を尊養した者、安車蒲輪で召した者、几杖を賜った者があり、上は歯徳を尊んだのです。驥は歯徳に余りあり、爵は上卿にあり、達尊と称すべきです。どうか所司に下し、前代の故事を斟酌して施行してください。」帝は奏疏を覧て賞賛し、行人を遣わして慰問させ、羊と酒を賜い、役所に命じて月に米三石を給することとした。使者が到着する前に驥は卒去した。礼に従って祭葬を賜い、諡して文靖とした。その子魏完が驥の遺言を奉じて朝廷に赴き葬儀を辞し、その金で飢民を救済するよう請うた。帝は憮然として「驥は臨終の遺命においてすら、民を労することを恐れた。純臣と言えよう」と言い、これを許した。蕭山の民は驥の徳を忘れず、朝廷に赴き徳恵祠に祀り、楊時に配することを請うた。詔して「可」とした。
魯穆は、字を希文といい、天臺の人である。永楽四年の進士。家に居る時は、粗衣に粗食で、足跡を州府に入れなかった。任官のため謁選する際、役人が餞別を贈ったが、穆は言った。「私は今から官に就こうとしているのに、まだ民に利益をもたらせず、どうして先に郷里を苦しめようか」受け取らなかった。御史に任じられた。仁宗が監国していた時、たびたび封事を上奏した。漢王の官校は不法が多く、誰も敢えて言う者がいなかった。穆が上章してこれを弾劾したが、回答はなかった。しかしその直声は朝廷に響き渡った。
福建僉事に転じた。冤罪や濫刑を正し、豪強を挫いた。泉州の李某が広西に転任する時、その姻戚の富豪林某が僕を遣わして道中で李を殺害し、その妻を我が物とした。李の一族が官に訴えたが、役人は林の賄賂を受け、訴えた者を罪に問い、長く獄に繋いだ。穆はその実情を察知し、直ちに林の罪を正した。漳州の民周允文には子がなく、甥を後継ぎとしたが、晚年に妾が子を産んだため、財産を甥と分け、妾の子を託した。允文が死ぬと、甥はその子は叔父の子ではないと言って追い出し、その財産を全て奪った。妾が訴えると、穆は県の父老と周の一族を召集し、密かに妾の子を多くの子供たちの中に置いた。皆がその子は允文に似ていると指摘したので、遂にその財産を返還させた。民は「魯鉄面」と呼んだ。当時楊栄が国政を執っていたが、その家人が法を犯した時、穆は少しも容赦せずに処罰した。栄はかえって穆を賢人と認め、朝廷に推薦した。
英宗が即位すると、右僉都御史に抜擢された。翌年、大名で蝗害を鎮めるよう命じられた。帰還後、病気で卒去した。船を与えてその遺骸を帰郷させるよう命じられた。
初め穆が僉都御史として朝廷に入った時、携えたものは袋と衣類だけであった。尚書呉中が器物を贈ったが、受け取らなかった。この時、呉中が棺と衾を整えて、ようやく葬儀を行うことができた。子の崇誌は、応天府尹を歴任し、廉直で父の風があった。
耿九疇は、字を禹範といい、盧氏の人である。永楽末年の進士。宣徳六年に礼科給事中に任じられた。議論は大綱を堅持し、清望があった。
正統初年、大臣が両淮の塩政が久しく乱れていると上言し、名声と品行の重い者を得てこれを治めるべきだとし、そこで推挙されて塩運司同知となった。積年の弊害を徹底的に改革し、便宜五事を条奏して令とした。母の喪で官を去ると、塩場の民数千人が朝廷に赴き留任を請願した。十年正月、都転運使として起用された。節倹で他の嗜みがなく、公務の後は香を焚いて書を読み、廉潔の名声はますます高まり、婦人子供までその名を知った。
事に連座して誣告され、吏に逮捕されたが、後に冤罪が晴れ、直ちに刑部右侍郎として留任された。たびたび疑獄を審理し、屈することはなかった。礼部侍郎章瑾が獄に下ると、九疇と江淵らはその官を貶すことを議した。瑾の婿である給事中王汝霖はこれを恨み、同官の葉盛・張固・林聰らと共に刑部の不公正を論じた。九疇と淵は遂に盛らを弾劾し、さらに汝霖の父王永和が土木の変で死んだのに、汝霖が平然と笑っていたとして、職に留まるべきではないと述べた。当時景帝が新たに即位し、人材任用に急であったため、汝霖らを問わず、瑾については上奏通りに処した。鳳陽で凶作が続き、盗賊が起こらんとしたため、巡視招撫を命じられた。英武・飛熊などの諸衛軍を留めて耕作・守備させ、流民七万戸を招き寄せることを上奏し、境内は安寧となった。
四年、布政使許資が上言した。「侍郎が出鎮すると、巡按御史と統属関係がなく、事が滞りがちです。憲職に改めて授けるのが便利です。」そこで右副都御史に転じた。大臣が鎮守・巡撫する時に皆都御史を授けるのは、九疇から始まった。旨があり羊の角を灯り用に買い上げようとしたが、九疇は宋代の蘇軾が神宗に浙燈を買うことを諫めた故事を引き合いに出し、事は中止された。災異が起こり意見を求めた時、皇帝に儒者の碩学を招き、賞罰を公正にし、守令を選び、将帥を簡抜するよう請うた。優詔で回答があった。
天順初年、京師で議事した。帝は侍臣を見て言った。「九疇は廉正な人である。」右都御史として留任させた。罪人が都察院の獄に繋がれている者に米が給されていなかった。九疇が上言したため、日に一升を給することとなり、これが令となった。後に、廉恥を崇め、刑獄を清め、農桑を勧め、軍の賞賜を節し、台憲を重んずる五事を上疏して陳べた。帝は皆嘉納した。この年六月、御史張鵬らが石亨・曹吉祥を弾劾した。亨らは九疇が実際にこれをさせたと言い、遂に共に獄に下された。江西布政使に左遷され、まもなく四川に転じた。
翌年、礼部に尚書が欠員した。帝が李賢に問うと、賢は言った。「老成で清介な者は、九疇に及ぶ者はいません。」そこで召還した。到着すると、その老齢を憐れみ、南京刑部尚書に改めた。四年に卒去した。諡して清恵とした。子の耿裕は、別に伝がある。
軒輗は、字を惟行といい、鹿邑の人である。永楽末年の進士。行人司副に任じられた。宣徳六年、推薦により御史に改めた。福建を巡察し、弊害を取り除き奸悪を鋤き、風采は甚だ峻厳であった。
温州・処州に銀場があり、洪武年間の歳課は僅か二千八百余両であった。永楽時に増じて八万二千両となり、民は命に堪えなかった。帝即位し、大臣の議によりこれを罷めた。ここに至り参政の俞士悦が復開を請い、利が上に帰すれば、則ち鉱盗自ずから絶つと謂う。三司に下して議せしめ、輗は力持して不可とし、乃ち止んだ。既にして給事中の陳傅がまた請う、朝廷遽かにこれに従い、遂に葉宗留の変を致した。
輗は孤峭で、人に遇うに賢否を問わず、拒んで接しなかった。按察使として、嘗て同僚の家で飲み、帰ってその腹を撫でて曰く、「此の中に贓物あり」と。南都において、都御史の張純が酒を置き客を延いた。輗はその汰を悪み、往かなかった。饌を徹して遺しても、また納めなかった。歳時に礼部に詣でて表を拝し慶賀するも、屏居一室し、燭を撤して端坐し、事竣るや竟に帰り、嘗て僚友と一語も交わさなかった。僚友その来るを聞けば、も亦輒ち避けて去り、之と処ることを楽しまなかった。量頗る偏隘であった。御史で人の陰私を訐る者がいれば、輒ちその能を奨めた。嘗て御史に命じて南京祭酒の呉節を劾せしめ、節も亦輗の私事を発し、衆頗る輗を直しとせず。然し清操天下に聞こえ、耿九疇と斉名し、廉吏を語れば必ず軒・耿と曰う。
陳復は、福建懐安の人である。輗の同年進士で、戸部主事より杭州を知った。廉静私無く、獄訟大いに省く。日端坐堂皇し、曹掾と律令を講読するのみであった。喪に遭い、部民留まることを乞い、詔して起復したが、未幾卒した。輗が僚属に倡えてこれを助け、乃ち克く斂することができた。吏民相率いて賻を致すも、その子尽くこれを却け、貸しを称えて帰った。
黄孔昭は、黄巖の人である。初め名は曜、後に字を以て行い、字を世顯と改めた。十四歳の時、父母の喪に遭い、哀毀骨立した。天順四年の進士に挙げられ、屯田主事を授かった。江南に奉使し、饋りを却けて受けず、都水員外郎に進んだ。
成化五年、文選郎中の陳雲らが吏に訐られ、尽く獄に下り官を貶せられ、尚書の姚夔は孔昭の廉を知り、之を文選に調した。九年、郎中に進んだ。故事に、選郎は率い閉門して客を謝す。孔昭曰く、「国家が才を用いるは、猶お富家が粟を積むが如し。粟素より積まざれば、豈に饑を贍うに足らんや。才預め儲けざれば、安んぞ用を済すことができよう。苟も深居して客を絶つを高しと為せば、何由ぞ天下の才俊を知らん」。公退して、客の至るに遇えば、輒ち延見し、人才を訪ねて、これを冊に書いた。官を除くに、その才の高下を以て地の繁簡に配した。ここにより銓叙平允であった。私を以て幹する者は、悉くこれを拒んだ。嘗て尚書の尹旻と争い、推案して盛怒するに至った。孔昭は拱立し、その怒りの止むを俟ち、またこれを言った。旻も亦その諒直を信じた。旻は通政の談倫に昵し、侍郎に用いんと欲したが、孔昭は執って不可とした。旻卒いにこれを用い、倫果たして敗れた。旻は故人を推して巡撫と為さんと欲したが、孔昭応じなかった。その人入都して孔昭を謁し、屈膝するに至り、孔昭益ますますこれを鄙んだ。旻が推挙せよと令すと、孔昭曰く、「彼の少なき所は、大臣の体のみ」。旻その人に謂いて曰く、「黄君銓曹を離れざれば、汝遷ることを得ず」。
郎中として満九載、始めて右通政に擢げられた。久しくして、南京工部右侍郎に遷った。官地十余区あり勢家に侵されていたが、奏してこれを復した。詔を奉じて方面を薦挙せよとあり、知府の樊瑩・僉事の章懋を以て応えた。後皆名臣となった。郎官で主蔵する者が羨銀数千を進めたが、斥退した。地を掘って古鼎を得ると、急ぎ工に命じて文廟の二字を鐫らせ、これを廟中に送った。俄かに中貴がこれを朝に献ぜんと欲したが、鐫字を見て止めた。
孔昭は学を嗜み行いを敦くし、陳選・林鶚・謝鐸と友善で、並びに士類の宗と為された。弘治四年卒した。嘉靖中、礼部尚書を贈られ、文毅と謚された。子の俌も亦進士に挙げられ、文選郎中となった。俌の子の綰は、大礼を議して礼部尚書に至り、自ら伝有り。
賛して曰く、国家盛んなる時、士大夫多く廉節を以て自ら重んずるは、豈に刻意に行いを励まし、矯飾して名誉を好むならんや。亦その嗜欲淡く、営競を恥じ、介特の性然り。仁宗・宣宗の際、吏道の貪墨を懲らし、公廉剛正の士を登進した。宗載は銓衡を佐け、顧佐は邦憲を掌り、風紀一たび清し。段民・呉訥・魏驥・魯穆は爵然として羔羊素絲の節を秉る。軒輗・耿九疇・黄孔昭は矯厲絶俗し、物能くこれを幹すこと能わず。章敞・徐琦・劉戩は己を律すること厳正で、異域も心を傾けた。廉の尚ぶに足ることは卓なるかな。