明史

列傳第四十五 金純 張本 郭敦 郭璡 鄭辰 柴車 劉中敷 張鳳 周瑄 楊鼎 黃鎬 胡拱辰 陳俊 林鶚 潘榮 夏時正

列傳第四十五 金純 張本 郭敦 郭璡 鄭辰 柴車 劉中敷 張鳳 周瑄 楊鼎 黃鎬 胡拱辰 陳俊 林鶚 潘榮 夏時正

原文列傳第四十五 金純 張本 郭敦 郭璡 鄭辰 柴車 劉中敷 張鳳 周瑄 楊鼎 黃鎬 胡拱辰 陳俊 林鶚 潘榮 夏時正

金純、字あざなは德修、泗州の人。洪武年間に國子監生となる。吏部尚書杜澤の推薦により、吏部文選司郎中に任ぜられる。三十一年、出向して江西布政司右參政となる。成祖即位の際、蹇義の推薦により召されて刑部右侍郎となる。時に北京を営繕せんとし、湖廣に木材を採ることを命ぜられる。永楽七年、北京巡幸に従う。八年、北征に従い、左侍郎に遷る。

原文金純,字德修,泗州人。洪武中國子監生。以吏部尚書杜澤薦,授吏部文選司郎中。三十一年出為江西布政司右參政。成祖即位,以蹇義薦,召為刑部右侍郎。時將營北京,命采木湖廣。永樂七年從巡北京。八年從北征,遷左侍郎。

九年、宋禮とともに會通河を治めることを命ぜられ、また徐亨・蔣廷瓚とともに魚王口の黄河故道を浚渫する。初め、太祖が梁・晉の間で用兵する際、大将軍徐達に命じて塌場口を開き、河を泗に通ぜしめた。また濟寧西の耐牢坡を開いて曹・鄆の河水を引き、中原の運送を通ぜしめた。その後、故道は次第に塞がり、ここに至って純がこれを疏治した。開封の北より水を引き鄆城に達せしめ、塌場に入り、穀亭の北十里に出て永通・廣運の二閘となす。十四年、禮部左侍郎に改める。二月を経て、尚書に進む。十五年、北京巡幸に従う。十九年、給事中葛紹祖とともに四川を巡撫する。仁宗即位の際、工部に改める。数ヶ月を経て、また刑部に改める。明年、太子賓客を兼ねる。

原文九年命與宋禮同治會通河,又同徐亨、蔣廷瓚浚魚王口黃河故道。初,太祖用兵梁、晉間,使大將軍徐達開塌場口,通河於泗。又開濟寧西耐牢坡引曹、鄆河水,以通中原之運。其後故道浸塞,至是純疏治之。自開封北引水達鄆城,入塌場,出穀亭北十里為永通、廣運二閘。十四年改禮部左侍郎。越二月,進尚書。十五年從巡北京。十九年同給事中葛紹祖巡撫四川。仁宗即位,改工部。居數月,又改刑部。明年兼太子賓客。

宣德三年、純に疾あり、帝は医を命じて視療せしむ。稍々癒え間あり、その朝参を免じ、疾を護りて視事せしむ。暑さに会い、法司に滞囚を理することを敕す。純は数度朝貴と飲み、言官に弾劾される。帝怒りて曰く、「純は疾を以て朝せずして私に燕す、可ならんや」と。錦衣獄に繋ぐことを命ず。既にして純が老臣なるを思い、これを釈し、太子賓客を落とす。八月、致仕を許されて去る。

原文宣德三年,純有疾,帝命醫視療。稍間,免其朝參,俾護疾視事。會暑,敕法司理滯囚。純數從朝貴飲,為言官所劾。帝怒曰:「純以疾不朝而燕於私,可乎?」命系錦衣獄。既念純老臣,釋之,落太子賓客。八月予致仕去。

純が刑部に在る時、仁宗嘗て純に諭して曰く、「法司近頃尚お羅織を好み、言う者は輒ち誹謗を以て罪を得、甚だ謂れ無し。今より誹謗を告ぐる者は論ずるなかれ」と。純も亦た寛大を務め、毎に属吏に誡めて妄りに人を椎撃することを得ざらしむ。故に純の時に当たり、獄に瘐死する者無し。正統五年卒す。山陽伯を贈られる。

原文純在刑部,仁宗嘗諭純:「法司近尚羅織,言者輒以誹謗得罪,甚無謂。自今告誹謗者勿論。」純亦務寬大,每誡屬吏不得妄椎擊人。故當純時,獄無瘐死者。正統五年卒。贈山陽伯。

張本、字は致中、東阿の人。洪武年間、國子生より江都知縣に授かる。燕兵が揚州に至るや、御史王彬は城に拠って抗し、守将に縛られる。本は父老を率いて迎え降る。成祖、滁・泰二州の知州房吉・田慶成が率先して帰附したことを以て、本とともに揚州知府と為し、見任の知府譚友德とともに府事に涖らしむ。尋いで本を擢て江西布政司右參政と為す。

原文張本,字致中,東阿人。洪武中,自國子生授江都知縣。燕兵至揚州,御史王彬據城抗,為守將所縛。本率父老迎降。成祖以滁、泰二知州房吉、田慶成率先歸附,命與本並為揚州知府,偕見任知府譚友德同涖府事。尋擢本江西布政司右參政。

永楽四年、召されて工部左侍郎と為る。事に坐して免官されるも、冠帯のまま事を辦ず。明年五月、復官す。尋いで奏牘に書く銜に誤って左を右と為し、給事中に弾劾される。帝、命じて改めて本部右侍郎を授け、その罪を宥す。

原文永樂四年召為工部左侍郎。坐事免官,冠帶辦事。明年五月復官。尋以奏牘書銜誤左為右,為給事中所劾。帝命改授本部右侍郎而宥其罪。

七年、皇太子監国、奏して刑部右侍郎と為す。奸を摘むに善し。北河の運を督することを命ぜられる。躬自ら相視し、程度を立て、舟行滞ること無く得る。疾作るに会い、太子これに狐裘冠鈔を賜い、医を馳せて視せしむ。十九年、北征せんとし、本及び王彰に命じて両直隸・山東・山西・河南に分かれて往き、有司に督いて車を造り挽運せしむ。明年、即ち本に命じて北征の餉を督せしむ。

原文七年,皇太子監國,奏為刑部右侍郎。善摘奸。命督北河運。躬自相視,立程度,舟行得無滯。會疾作,太子賜之狐裘冠鈔,遣醫馳視。十九年將北征,命本及王彰分往兩直隸、山東、山西、河南,督有司造車挽運。明年即命本督北征餉。

仁宗即位、拝して南京兵部尚書兼ねて都察院事を掌らしむ。召見され、時政の得失を言い、且つ武備を厳しく飭うことを請う。帝嘉してこれを納れ、遂に行在の兵部に留めしむ。

原文仁宗即位,拜南京兵部尚書兼掌都察院事。召見,言時政得失,且請嚴飭武備。帝嘉納之,遂留行在兵部。

宣德初め、工部侍郎蔡信、軍匠の家口を征して錦衣衛に隷せしむることを乞う。本言う、「軍匠二万六千人、二百四十五衛所に属し、匠たる者は暫くその一丁を役す。若し尽く取り来たらば、家を以て三四丁と計えば、数は十万に近し。軍伍既に缺け、人情驚駭すべし、不可なり」と。帝、本の言を善しとす。

原文宣德初,工部侍郎蔡信乞征軍匠家口隸錦衣衛。本言:「軍匠二萬六千人,屬二百四十五衛所,為匠者暫役其一丁。若盡取以來,家以三四丁計之,數近十萬。軍伍既缺,人情驚駭,不可。」帝善本言。

漢庶人を征するに、兵食を調えるに従う。庶人擒えられ、その衆を撫輯し、その余党を録することを命ぜられる。還りて軍政久しく敝れ、奸人貸を用いて籍を脱し、平民を援けて伍を実にするを以て、帝に言う。廷臣を択びて四出し厘正せしむ。時に馬大いに孳息し、畿内の軍民は畜牧に困せらる。本、山東・河南及び大名諸府に分牧することを請う。山東・河南の養馬はここに始まる。晉王濟熿、不軌に坐して爵を奪わる。本、命を受けてその護衛軍を辺鎮に散ぜしむ。

原文征漢庶人,從調兵食。庶人就擒,命撫輯其眾,而錄其餘黨。還以軍政久敝,奸人用貸脫籍,而援平民實伍,言於帝。擇廷臣四出厘正之。時馬大孳息,畿內軍民為畜牧所困。本請分牧于山東、河南及大名諸府。山東、河南養馬自此始。晉王濟熿坐不軌奪爵,本奉命散其護衛軍于邊鎮。

四年、太子賓客を兼ねることを命ぜられる。戸部、官田の租減じて度支給せず、外官の俸及び生員軍士の月給を減ずることを請う。帝、軍士の艱しきを以て、減ずることを聴かず。余は廷議に下す。本等は不可を堅持し、乃ち止む。陽武侯薛祿、獨石諸戍を城し成る。本、往きて守禦の宜を計る。還りて奏し旨に称し、戸部を兼ねて掌ることを命ぜられる。本、辺食の足らざるを慮り、諸辺比年稔るを以て、絲麻布帛を出して辺に輸し穀に易えしむることを請う。多きは三四十万石、少きも亦た十万石、儲偫頓に充つ。六年、病に卒す。賻を三万緡賜い、葬祭甚だ厚し。

原文四年命兼太子賓客。戶部以官田租減,度支不給,請減外官俸及生員軍士月給。帝以軍士艱,不聽減。餘下廷議,本等持不可,乃止。陽武侯薛祿城獨石諸戍成,本往計守禦之宜。還奏稱旨,命兼掌戶部。本慮邊食不足,而諸邊比歲稔,請出絲麻布帛輸邊易穀,多者三四十萬石,少者亦十萬石,儲偫頓充。六年病卒,賜賻三萬緡,葬祭甚厚。

本は廉介にして執持有り、尚お刻にして恕少なし。高煦の党を録するに、脅従する者は多く免れず。成祖、近臣に宴し、銀器を各一案ずつ、因ってこれを賜う。独り本の案に陶器を設け、諭して曰く、「卿は『窮張』と号す、銀器用いる所無し」と。本頓首して謝す。その上に知らるること此の如し。

原文本廉介有執持,尚刻少恕。錄高煦黨,脅從者多不免。成祖宴近臣,銀器各一案,因以賜之。獨本案設陶器,諭曰:「卿號『窮張』,銀器無所用。」本頓首謝,其為上知如此。

郭敦、字は仲厚、堂邑の人。洪武年間、郷挙により太学に入り、戸部主事に授かる。衢州知府に遷り、恵政多し。衢の俗、貧者は死して葬らず、輒ちその屍を焚く。敦はこれを厳禁し、且つ義阡を立て、俗遂に革まる。民の淫祠に聚まるを禁ず。敦疾え、民はその禁を弛むるを勧むるも、聴かず、疾も亦た瘳ゆ。衢に在ること七年。永楽初め、累に坐して征せらる。耆老数百人、闕に伏して留まることを乞うも、得ず。後、廷臣敦の廉正なるを言い、召して監察御史を補す。河南左參政に遷り、陝西に調う。十六年春、胡濙、敦に大臣の体有りと言い、擢て禮部右侍郎兼太僕寺卿と為し、給事中陶衎とともに順天を巡撫す。二十年、北征の餉を督す。

原文郭敦,字仲厚,堂邑人。洪武中,以鄉舉入太學,授戶部主事。遷衢州知府,多惠政。衢俗,貧者死不葬,輒焚其屍。敦為厲禁,且立義阡,俗遂革。禁民聚淫祠。敦疾,民勸弛其禁,弗聽,疾亦瘳。在衢七年。永樂初,坐累征,耆老數百人伏闕乞留,不得。後廷臣言敦廉正,召補監察御史。遷河南左參政,調陝西。十六年春,胡濙言敦有大臣體,擢禮部右侍郎兼太僕寺卿,偕給事中陶衎巡撫順天。二十年督北征餉。

仁宗が即位すると、大行皇帝の喪に際して斎戒宿直しなかったことを理由に、太僕卿に降格された。まもなく戸部左侍郎に進み、詹事府少詹事を兼ねた。宣徳二年に尚書に進んだ。陝西が旱魃に見舞われると、隆平侯張信とともに、行うべき諸般の事務を整え、三司の官と計議して奏上して実行するよう命じられた。敦は遂に逋賦(滞納租税)の免除、貧困者への救済、貪吏の考査・罷免、不急の事業の停止など、十数項目を請うた。すべて従われた。一年余りして召還された。戸部在任中は多くの興革を行い、民業を奪う王田を廃止し、民に開墾を許して新田課税を起こさないようにした。漕運の改革案を建て、民運を瓜洲・儀真までとし、衛卒に委ねて京師まで運ばせた。民は大いに便利とした。

原文仁宗即位,以大行喪不齋宿,降太僕卿。旋進戶部左侍郎,兼詹事府少詹事。宣德二年進尚書。陝西旱,命與隆平侯張信整飭庶務當行者,同三司官計議奏行。敦乃請蠲逋賦,振貧乏,考黜貪吏,罷不急之務,凡十數事。悉從之。歲餘,召還。在部多所興革,罷王田之奪民業者,令民開荒不起科。建漕運議,民運至瓜洲、儀真,資衛卒運至京。民甚便之。

敦は親に孝行で、身を清廉に保った。同僚で不義を行う者がいれば、厳しい顔色で接し、その人が悔い謝罪して初めて許した。性来学問を好み、公務を退くと手から書物を離さなかった。六年、在官のまま卒した。享年六十二。

原文敦事親孝,持身廉。同官有為不義者,輒厲色待之,其人悔謝乃已。性好學,公退,手不釋卷。六年,卒官,年六十二。

郭璡、字は時用、初名は進、新安の人。永楽初年、太学生として抜擢され戸部主事となった。歴任して吏部左・右侍郎となった。仁宗が即位すると、詹事府少詹事を兼ねるよう命じられ、名を璡と改めた。

原文郭璡,字時用,初名進,新安人。永樂初,乙太學生擢戶部主事。曆官吏部左、右侍郎。仁宗即位,命兼詹事府少詹事,更名璡。

宣宗の初め、行在詹事府を掌った。吏部尚書蹇義が老齢のため部務を止めると、帝は璡を代わらせようとした。璡は重厚で勤勉敏速であったが、学術に乏しかった。楊士奇が、璡では任に足りない恐れがあり、経術に通じ古今を知る大臣を巧みに選ぶべきだと進言したので、帝は取りやめた。一年余りして、結局尚書となった。呂蒙正の夾袋や虞允文の材館録の故事を以て諭された。璡はこれにより人材に留意するようになった。進士李賢が輔相の器であると見抜き、吏部主事に授けた。後、果たして名相となった。当時、外官が九年の考課を満了すると、管下の民が宮廷に赴いて留任を請うことがあり、その場合は官秩を増して再任させた。璡は虚偽の者があることを懸念し、実情を覆査するよう請うた。従われた。

原文宣宗初,掌行在詹事府。吏部尚書蹇義老,輟部務,帝欲以璡代。璡厚重勤敏,然寡學術。楊士奇言恐璡不足當之,宜妙擇大臣通經術知今古者,帝乃止。逾年,卒為尚書。諭以呂蒙正夾袋,虞允文材館錄故事。璡由是留意人才。識進士李賢輔相器,授吏部主事,後果為名相。時外官九年考滿,部民走闕下乞留,輒增秩復任。璡慮有妄者,請覆實。從之。

璡は六卿の長ではあったが、声望は軽かった。また政務は内閣に帰し、布政使から知府の欠員については、京官三品以上に薦挙させ、後にまた御史・知県についても、京官五品以上に薦挙させることとした。要職の選抜はいずれも吏部に関わらなかった。正統初年、左通政陳恭が言うには、「古くは庶官を選任するには、すべて選部(吏部)によるもので、職任は専一で事体は統一されていた。今、朝臣に各々知る者を挙げさせれば、私謁の門を開き、奔競の風を助長する恐れがある。これを杜絶し、吏部に帰一させることを乞う」と。下吏部に議させた。璡は辞退して敢えて当たらず、事は遂に止んだ。

原文璡雖長六卿,然望輕。又政歸內閣,自布政使至知府闕,聽京官三品以上薦舉;既又命御史、知縣,皆聽京官五品以上薦舉。要職選擢,皆不關吏部。正統初,左通政陳恭言:「古者擇任庶官,悉由選部,職任專而事體一。今令朝臣各舉所知,恐開私謁之門,長奔競之風,乞杜絕,令歸一。」下吏部議。璡遜謝不敢當,事遂寢。

正統六年、御史曹恭が災異を理由に、職務に適わない大臣を罷免するよう請うた。帝は科道官に参議させた。璡及び尚書呉中、侍郎李庸ら弾劾された者は二十人に及んだ。璡らは自ら陳弁したが、帝は厳しく責めて許した。璡の子の亮が賄賂を受け取って他人の官職を求めた。事が発覚し、御史孫毓らが璡を弾劾した。そこで璡を致仕させ、王直を代わりとした。

原文正統六年,御史曹恭以災異請罷大臣不職者。帝命科道官參議。璡及尚書吳中、侍郎李庸等被劾者二十人。璡等自陳,帝切責而宥之。璡子亮受賂為人求官。事覺,御史孫毓等劾璡。乃令璡致仕,而以王直代。

鄭辰、字は文樞、浙江西安の人。永楽四年の進士、監察御史に授けられた。江西安福の民が謀逆の事を告げると、辰を派遣して調査させ、誣告の情状をことごとく得た。福建の蕃客が人を殺害したので、再び辰を派遣した。首悪のみを罰し、残りは釈放した。南京で詔により報恩寺を建立する際、囚人一万人を役夫とした。流言蜚語として役夫が誹謗しているとの噂があり、変事を恐れて辰を派遣して検証させた。事実無根で、罪に問われた者は一人もいなかった。谷庶人が謀反を企てたので、再び辰にこれを察させ、その跡をことごとく得た。帝は方賓に言った、「これは真に国家の耳目たる臣である」と。十六年、超遷して山西按察使となり、貪濁を糾弾・処治して少しも容赦しなかった。潞州で盗賊が起こり、有司が反乱と報告したため、詔して兵を発して討伐・捕縛させようとした。辰はちょうど用事で京師に朝していたが、奏上して言った、「民は徭役ようえきに苦しんでいるだけです。兵を発さないよう請います」と。帝はこれをよしとした。帰還すると騶従を退け、自ら山谷に入り撫諭した。盗賊は皆感激して泣き、再び良民となった。礼部侍郎蔚綬が糧食を山海の軍に輸送する際、辰が山西の民を統率して車で運搬させた。民は疲労し、多くが逃散・消耗したので、綬は即座に山海で借りて償わせようとした。辰は言った、「山西の民は貧しくて悍猛です。急せば変事を生じる恐れがあります。緩やかにして、自ら有無を通じさせる方が良いでしょう」と。その言を用いたところ、遂に逃散する者はなかった。母の喪に服して帰郷すると、軍民が御史のもとに赴いて留任を請うた。御史がこれを上聞し、喪明け後に旧任に戻った。

原文鄭辰,字文樞,浙江西安人。永樂四年進士,授監察御史。江西安福民告謀逆事,命辰往廉之,具得誣狀。福建番客殺人,復命辰往。止坐首惡,釋其餘。南京敕建報恩寺,役囚萬人。蜚語言役夫謗訕,恐有變,命辰往驗。無實,無一得罪者。谷庶人謀不軌,復命辰察之,盡得其蹤跡。帝語方賓曰:「是真國家耳目臣矣。」十六年超遷山西按察使,糾治貪濁不少貸。潞州盜起,有司以叛聞,詔發兵討捕。辰方以事朝京師,奏曰:「民苦徭役而已,請無發兵。」帝然之。還則屏騶從,親入山谷撫諭。盜皆感泣,復為良民。禮部侍郎蔚綬轉粟給山海軍,辰統山西民輦任。民勞,多逋耗,綬令即山海貸償之。辰曰:「山西民貧而悍,急之恐生變。不如緩之,使自通有無。」用其言,卒無逋者。丁內艱歸,軍民詣御史乞留。御史以聞,服闋還舊任。

宣徳三年、南京工部右侍郎として召された。初め、両京の六部堂官に欠員が生じると、帝は廷臣に方面官で内任に堪える者を推挙させた。蹇義らが九人を推薦した。辰と邵玘、傅啓譲だけは、帝が平素からその名を知っており、即座に真除したが、残りは試職のみであった。

原文宣德三年召為南京工部右侍郎。初,兩京六部堂官缺,帝命廷臣推方面官堪內任者。蹇義等薦九人。獨辰及邵玘、傅啟讓,帝素知其名,即真授,餘試職而已。

英宗が即位すると、大臣を分遣して天下の方面官を考察させた。辰は四川・貴州・雲南に赴き、職務に適わない者をことごとく奏上して罷免した。雲南布政使周璟が妻の喪中に再婚した。辰は風教を傷つけるものと弾劾し、璟は罪に坐して免官となった。正統二年、南畿・河南の飢饉を救済するよう命じられた。当時黄河の堤防が決壊していたので、即座に辰に適宜修復・堵塞させるよう命じた。ある者が大名から渠を開き、諸水を引き衛河に通して輸送を便利にしようと建議した。辰は民を労するだけで不便であると述べ、事は遂に止んだ。兵部左侍郎に転じ、豊城侯李彬とともに宣府・大同に兵糧を輸送した。鎮守都督譚廣が命令を妨害したので、これを弾劾し、事は遂に成就した。八年、中風の疾を得て、帰郷を願い出た。翌年卒した。

原文英宗即位,分遣大臣考察天下方面官。辰往四川、貴州、雲南,悉奏罷其不職者。雲南布政使周璟居妻喪,繼娶。辰劾其有傷風教,璟坐免。正統二年,奉命振南畿、河南饑。時河堤決,即命辰伺便修塞。或議自大名開渠,引諸水通衛河,利灌輸。辰言勞民不便,事遂寢。遷兵部左侍郎,與豐城侯李彬轉餉宣府、大同。鎮守都督譚廣撓令,劾之,事以辦。八年得風疾,告歸。明年卒。

辰は人となり、義を重んじ財を軽んじた。初めて進士に及第した時、財産をすべて兄弟に譲った。山西で同僚の杜僉事と意見を違えたことがあった。杜が卒すると、喪を治め、その妻子に旅費を与えて送り出した。

原文辰為人重義輕財。初登進士,產悉讓兄弟。在山西與同僚杜僉事有違言。杜卒,為治喪,資遣其妻子。

柴車、字は叔輿、銭塘の人。永楽二年、挙人として兵部武選司主事に授けられ、員外郎を歴任した。八年、帝が北征すると、尚書方賓に従って扈従した。帰還後、江西右参議に遷った。事に坐して左遷され兵部郎中となり、岳州府知府として出向し、再び郎中として召された。

原文柴車,字叔輿,錢塘人。永樂二年,以舉人授兵部武選司主事,曆員外郎。八年,帝北征,從尚書方賓扈行。還遷江西右參議。坐事,左遷兵部郎中,出知岳州府,復入為郎中。

宣徳五年、兵部侍郎に抜擢された。翌年、山西巡按御史張勖が、大同の屯田が多く豪右に占拠されていると上言したので、車を派遣して査察させた。田地約二千頃を得て、軍に返還した。

原文宣德五年擢兵部侍郎。明年,山西巡按御史張勖言,大同屯田多為豪右佔據,命車往按。得田幾二千頃,還之軍。

英宗の初め、西辺が平穏でなかった。車が廉潔で有能であるとして、甘粛軍務を協賛するよう命じられた。軍を調達し糧餉を給すること、すべて事態に適った。初め、朶児只伯が涼州を寇掠し、副総兵劉広が軍を喪った。劉広は実情を報告せず、かえって功績を飾って賞を求めた。車はその罪を弾劾し、劉広を械にかけて京師に送った。車に金幣を賜り、その直諫を表彰した。岷州土官の後能が功績を詐称して昇進・恩賞を得たので、車は加罪するよう奏請した。後能が再び請うと、宥すよう命じられた。車は繰り返しそれが不可であると論じ、「後能のような詐称者は、実に多くいます。臣は順次按核しようとしています。今、後能を宥せば、どうして衆を鎮めましょうか。もし功なくして官を得るならば、命を捨てて敵に死する者を、どうして待遇しましょうか」と言った。朝廷は後能の請いには従ったが、車の賢明さを嘉し、使者を遣わして労い賜物を与えた。

原文英宗初,西鄙不靖。以車廉幹,命協贊甘肅軍務。調軍給餉,悉得事宜。初,朵兒只伯寇涼州,副總兵劉廣喪師。不以實聞,顧飾功要賞。車劾其罪,械廣至京。賜車金幣,旌其直。岷州土官後能冒功得升賞,車奏請加罪。能復請,命宥之。車反覆論其不可,曰:「詐冒如能者,實繁有徒,臣方次第按核。今宥能,何以戢眾?若無功得官,則捐軀死敵者,何以待之?」朝廷雖從能請,然嘉車賢,遣使勞賜之。

正統三年、朶児只伯を破った功績により、俸給一級を増された。辺境にあって、数十回上奏し、すべて時弊を突いていた。同僚の多くは快く思わなかったが、車はますます堅固に持した。嘗て建言した、「漠北の降人を朝廷が京師に留め置くのは、厚く爵賞を与えても、その心は結局異なっています。長脱脱木児のような者は、昔その長に随って帰順しましたが、間もなく叛去しました。今また来ていますが、どうして他日に再び叛かないと分かりましょうか。江南に移し、その党類から離すべきです」と。事は兵部に下り、河間・德州に処置するよう請うた。帝は許可した。後に降る者はすべてこの命令に従って処置された。屯田を豪族が占拠しているものを稽核し、ことごとく清め出して、六百余頃を得た。四年、兵部尚書に進み、参贊は従前の通りとした。まもなく陝西屯田を兼ねて管理するよう命じられた。翌年召還され、僉都御史曹翼と毎年交代で出鎮するよう命じられた。交代の時期に病が重くなった。詔して大理寺少卿程富を派遣して曹翼の代わりとし、車には帰って療養するよう命じた。出発に及ばず、六年六月に卒した。

原文正統三年,以破朵兒只伯功,增俸一級。在邊,章數十上,悉中時病。同事多不悅,車持益堅。嘗建言:「漠北降人,朝廷留之京師,雖厚爵賞,其心終異。如長脫脫木兒者,昔隨其長來歸,未幾叛去。今乃復來,安知他日不再叛,宜徙江南,離其黨類。」事下兵部,請處之河間、德州。帝報可。後降者悉以此令從事。稽核屯田豪占者,悉清出之,得六百餘頃。四年進兵部尚書,參贊如故。尋命兼理陝西屯田。明年召還,命與僉都御史曹翼歲更代出鎮。及期病甚。詔遣大理寺少卿程富代翼,而命車歸治疾。未及行,六年六月卒。

車が江西にいた時、木材を採るために福建に入り、広信を経由した。広信の太守は旧知であったので、蜜一甕を贈った。開けて見ると、それは白銀であった。笑って言うには、「公は旧友を知らぬのか」と、受け取らなかった。辺境で同僚の者は多く宴楽を豪挙とした。車はこれを嫌い、酒肉を断った。その狷介なところは多くこの類であった。

原文車在江西時,以采木入閩,經廣信。廣信守,故人也,饋蜜一罌。發視之,乃白金。笑曰:「公不知故人矣」,卻不受。同事邊塞者多以宴樂為豪舉。車惡之,遂斷酒肉。其介特多此類。

劉中敷は大興の人で、初めの名は中孚といった。燕王が兵を挙げた時、諸生として城を守った功績により陳留の丞に任じられた。工部員外郎に抜擢された。仁宗が監国となると、部の事務を代行するよう命じられ、今の名を賜った。江西右参議に転じた。宣徳三年に山東右参政に転じ、左布政使に進んだ。質朴で正直、清廉で静かであり、官吏や民衆は畏敬し慕った。大凶作の年、巡撫に言上して、租税を三分の二減じた。

原文劉中敷,大興人,初名中孚。燕王舉兵,以諸生守城功,授陳留丞。擢工部員外郎。仁宗監國,命署部事,賜今名。遷江西右參議。宣德三年遷山東右參政,進左布政使。質直廉靜,吏民畏懷。歲大侵,言于巡撫,減賦三之二。

正統と改元し、父の喪で服喪中であったが、情を奪われてすぐに召されて戸部尚書に任じられた。帝は幼くして即位し、臣下が自分を欺くことを憂慮し、政治は厳格を尊んだ。そして宦官の王振がこれに乗じて威を立てようとし、しばしば大臣の些細な過失を摘発し、帝を導いて重い刑罰を用いさせたので、大臣が獄吏に下される年はなかった。三年、給事中や御史に勧めて中敷と左侍郎の呉璽らを弾劾させ、獄に下したが、釈放されて職務に復帰した。

原文正統改元,父憂奪情,俄召拜戶部尚書。帝沖年踐阼,慮群下欺己,治尚嚴。而中官王振假以立威,屢摭大臣小過,導帝用重典,大臣下吏無虛歲。三年諷給事御史劾中敷與左侍郎吳璽等,下獄,釋還職。

六年、言官が中敷の専権を弾劾した。詔により法司が内廷で雑治した。流罪に当たるとされたが、贖罪を許された。帝は特にこれを赦した。その冬、中敷・璽および右侍郎の陳瑺が、供御の牛馬を民間に分けて牧養することを請うた。言官が成法を変乱したと弾劾し、ともに獄に下して斬罪と論じた。詔により長安門外で枷を付けられ、十六日目に釈放された。瓦剌が入貢すると、詔で馬や駱駝の飼料の数を問われ、答えられなかったため、再び璽・瑺とともに斬罪と論じられて獄に繋がれた。中敷は母の病気のため、特に帰省を許された。翌年の冬、囚人を処刑することになり、法司が上奏した。命により璽と瑺は辺境に戍り、中敷は母の死を待って上奏するよう命じられた。後に、釈放されて民とされた。

原文六年,言官劾中敷專擅。詔法司於內廷雜治。當流,許輸贖。帝特宥之。其冬,中敷、璽及右侍郎陳瑺請以供禦牛馬分牧民間。言官劾其變亂成法,並下獄論斬。詔荷校長安門外,凡十六日而釋。瓦剌入貢,詔問馬駝芻菽數,不能對,復與璽、瑺論斬繫獄。中敷以母病,特許歸省。明年冬,當決囚,法司以請。命璽、瑺戍邊,中敷俟母終其奏。已,釋為民。

景帝が即位すると、戸部左侍郎兼太子賓客として起用された。当時はちょうど戦争中で、功績を論じて賞を行う日がなかった。中敷は言うに、府庫の財は限りがあるので、節約して緩急に備えるべきだと。帝はこれを嘉納した。景泰四年に卒した。尚書を追贈された。

原文景帝立,起戶部左侍郎兼太子賓客。時方用兵,論功行賞無虛日。中敷言府庫財有限,宜撙節以備緩急。帝嘉納。景泰四年卒。贈尚書。

中敷の性質は淡泊で、食事は二品を重ねず、官に仕えて五十年、家に余財がなかった。

原文中敷性淡泊,食不重味,仕宦五十年,家無餘資。

子の璉は、正統十年の進士である。刑科給事中に任じられ、累進して太僕寺卿となった。華美を恥じ、官に在っては剛直果断であった。左遷されて遼東苑馬寺卿となり、卒した。

原文子璉,正統十年進士。授刑科給事中,累官太僕寺卿。恥華靡,居官剛果。左遷遼東苑馬寺卿,卒。

子の機は、幼い頃から孝行があった。成化十四年の進士である。庶吉士に改められた。正徳年間、張彩に代わって吏部尚書となったが、人言のために帰郷を請うた。南京兵部尚書として起用され、機務に参賛した。流賊が長江を侵犯すると、衆議して将を選んだ。ちょうど都督の李昴が貴州から罷官して来たので、機はすぐに召してこれを任じた。昴は朝廷の命令がないと辞した。機は言う、「機が奉じた勅書に『勅に載せざるところは、便宜を聴く』とある。これが朝廷の命令である」と。衆はその胆識に服した。致仕して帰郷し、卒した。

原文子機,幼有孝行。成化十四年進士。改庶起士。正德中,代張彩為吏部尚書,以人言乞歸。起南京兵部尚書,參贊機務。流賊犯江上,眾議擇將。適都督李昴自貴州罷官至,機即召任之。昂以無朝命辭。機曰:「機奉敕有雲,『敕所不載,聽便宜』。此即朝命也。」眾服其膽識。致仕歸,卒。

張鳳は、字を子儀といい、安平の人である。父の益は、給事中を官とした。永楽八年に漠北征伐に従軍し、陣中で没した。鳳は宣徳二年の進士に及第した。刑部主事に任じられた。江西の反乱事件を審理し、数百人を平反した。

原文張鳳,字子儀,安平人。父益,官給事中。永樂八年從征漠北,歿於陣。鳳登宣德二年進士。授刑部主事。讞江西叛獄,平反數百人。

正統三年十二月、法司が事に坐してことごとく獄に繋がれたため、鳳を本省の右侍郎に抜擢した。主事から侍郎に抜擢されたのは、それ以前にはなかったことである。翌年、京倉を提督するよう命じられた。六年に戸部に改められ、まもなく南京に転じた。ちょうど尚書が長く欠員であったため、鳳は部の事務を掌った。貴州から軍衛の食糧不足を奏上し、龍江倉の米と両淮の塩を鎮遠府に運んで米と交換することを請うた。鳳は、龍江の塩は泥沙が混じり、軍に給する米と交換するに堪えないとして、すべて淮塩を与え、その後で上奏した。帝はこれを賞賛した。また言うには、留都は重要な地であるから、毎年二百万石を貯蔵し、根本の計とすべきだと。これに従い、遂に令となった。南京の糧食貯蔵は、以前は都御史が監督していたが、十二年冬に鳳に兼理を命じた。廉潔で謹厳、法を執るに善く、「板張」と号された。

原文正統三年十二月,法司坐事盡繫獄,遂擢鳳本部右侍郎。以主事擢侍郎,前時未有也。明年命提督京倉。六年改戶部,尋調南京。適尚書久闕,鳳遂掌部事。貴州奏軍衛乏糧,乞運龍江倉及兩淮鹽於鎮遠府易米。鳳以龍江鹽雜泥沙,不堪易米給軍,盡以淮鹽予之,然後以聞。帝嘉賞。又言留都重地,宜歲儲二百萬石,為根本計。從之,遂為令。南京糧儲,舊督以都御史,十二年冬命鳳兼理。廉謹善執法,號「板張」。

景泰二年に尚書に進んだ。四年に兵部に改め、軍務に参賛した。戸部尚書の金濂が卒すると、召されて鳳が代わった。当時は四方の兵事が収まり、災害が特に甚だしかった。帝はしばしば詔を下して寛恤した。鳳は廷臣とともに十事を議して上奏し、翌年さらに先後して八事を議して上奏し、いずれも許可された。鳳は災害による租税免除が多く、国用がますます不足するのを以て、上奏して言うには、「国初には天下の田は八百四十九万余頃あったが、今は数が半減し、これに水害旱害による徴収停止が加わり、国用はどうして賄えようか。京畿および河南・山東には定額のない田があり、甲が開墾すると、乙がすぐにその賦税漏れを告発する。軽い税率で租税を徴収することを基準とし、争いを永く絶つだけでなく、軍国を少しでも助けるべきである」と。許可された。給事中の成章らが鳳が勝手に祖制を変更したと弾劾し、楊穟らもまたこれに争った。帝は言う、「国初は江南に都し、輸送は容易であった。今は極北に居る、常制を守ることができようか」と。四方から凶作を報告する者について、鳳は御史に実情を調査させるよう請うた。議者はこれを非とした。

原文景泰二年進尚書。四年改兵部,參贊軍務。戶部尚書金濂卒,召鳳代之。時四方兵息,而災傷特甚。帝屢詔寬恤。鳳偕廷臣議上十事,明年復先後議上八事,鹹報可。鳳以災傷蠲賦多,國用益詘,乃奏言:「國初天下田八百四十九萬餘頃,今數既減半,加以水旱停征,國用何以取給。京畿及河南、山東無額田,甲方墾辟,乙即訐其漏賦。請准輕則征租,不惟永絕爭端,亦且少助軍國。」報可。給事中成章等劾鳳擅更祖制,楊穟等復爭之。帝曰:「國初都江南,轉輸易。今居極北,可守常制耶?」四方報凶荒者,鳳請令御史勘實。議者非之。

英宗が復位すると、南京戸部に転じ、引き続き糧食貯蔵を監督した。五年二月に卒した。

原文英宗復辟,調南京戶部,仍兼督糧儲。五年二月卒。

鳳には孝行があった。性質は淳朴であった。旧友が死ぬと、その娘を息子の嫁に迎え、その子を教え、その母を終生養った。学友の蘇洪は鳳の過ちを面と向かって責めるのを好み、鳳の属官となっても依然としてそうであった。鳳は以前と同様に彼を遇し、その貧しさを聞けばすぐに救済した。

原文鳳有孝行。性淳樸。故人死,聘其女為子婦,教其子而養其母終身。同學友蘇洪好面斥鳳過,及為鳳屬官猶然。鳳待之如初,聞其貧,即賙給之。

周瑄は、字を廷玉といい、陽曲の人である。郷挙によって国学に入った。正統年間、刑部主事に任じられ、獄事を治めるのに優れていた。十三年に員外郎に転じた。翌年、帝が北征した。郎中で扈従すべき者は多く病気を口実にしたが、瑄は行くことを請うた。六軍が覆没し、瑄は傷を負って帰還し、署郎中に抜擢された。校尉が賄賂を受けて盗賊を逃がし、仇敵を代わりにした。瑄はこれを弁明して雪冤し、校尉を罪に当てた。外郡から囚人が送られてきて、一日に八百人に達した。瑄は暑さに触れることを慮り、三日でほとんど全てを判決して送り返した。

原文周瑄,字廷玉,陽曲人。由鄉舉入國學。正統中,除刑部主事,善治獄。十三年遷員外郎。明年,帝北征。郎中當扈從者多托疾,瑄請行。六師覆沒,瑄被創歸,擢署郎中。校尉受賕縱盜,以仇人代。瑄辨雪之,抵校尉罪。外郡送囚,一日至八百人。瑄慮其觸熱,三日決遣之殆盡。

景泰元年、尚書の王直の推薦により、破格で刑部右侍郎に任じられた。しばらくして、順天・河間の飢饉を救済するために出向した。完了しないうちに、英宗が復位した。有司が召還を請うたが、聞き入れられなかった。さらに勅書を賜り、便宜を以て処置するよう命じられた。瑄は管轄区域を遍歴し、大いに救荒政策を実施し、先後して飢民二十六万五千人を救済し、牛と種子をそれぞれ一万余り給与し、利民八事を奏上して実施した。事が完了して帰還し、翌年に左侍郎に転じた。帝はちょうど門達・逯杲を任用し、しばしば大獄を起こした。瑄は委曲を尽くして諭し、多くを救正し、さらに諸郎官に禍を避けぬよう戒めた。このため、部に移送されて罪を定める者も、冤罪や濫刑に至らなかった。刑部に長く在官し、属吏は欺くことができなかった。意は寛恕を主とし、深文を弄さなかった。同じく部を輔佐した安化の孔文英は、御史の時に黄岩の妖言事件を審理し、罪に当たる者三千人について、すべてその誣告を明らかにし、ただ首謀者と従犯者一人だけを械にかけて罪に論じた。この時部に在って、瑄とともに長者と称された。七年、瑄に工部の事務を署掌するよう命じた。

原文景泰元年,以尚書王直薦,超拜刑部右侍郎。久之,出振順天、河間饑。未竣,而英宗復位。有司請召還。不聽。復賜敕,令便宜處置。瑄遍曆所部,大舉荒政,先後振饑民二十六萬五千,給牛種各萬餘,奏行利民八事。事竣還,明年轉左。帝方任門達、逯杲,數興大獄。瑄委曲開諭,多所救正,復飭諸郎毋避禍。以故移部定罪者,不至冤濫。官刑部久,屬吏不敢欺。意主寬恕,不為深文。同佐部者安化孔文英,為御史時按黃岩妖言獄,當坐者三千人,皆白其誣,獨械首從一人論罪。及是居部,與瑄並稱長者。七年命瑄署掌工部事。

瑄は恬靜にして榮利を淡くした。成化の改元の時、侍郎となって十六年が経ち、ようやく右都御史に遷った。南京の糧儲を督理し、奸をなす者数輩を捕らえて懲らしめ、宿弊は清まった。鳳陽・淮・徐が饑饉となったので、瑄の言により廩四十萬を発して賑済した。久しくして、南京刑部尚書に遷った。諸司に、勘を須いざる事は五日を出でざるべしと令した。獄に滞囚無し。暑疫の時、軽い繫がれた者を悉く遣わし、曰く「汝らを召せば則ち至れ」と。囚は歓呼して去り、期を失する者無し。

原文瑄恬靜淡榮利。成化改元,為侍郎十六年矣,始遷右都御史。督理南京糧儲,捕懲作奸者數輩,宿弊為清。鳳陽、淮、徐饑,以瑄言發廩四十萬以振。久之,遷南京刑部尚書。令諸司事不須勘者,毋出五日。獄無滯囚。暑疫,悉遣輕系者,曰:「召汝則至。」囚歡呼去,無失期者。

尚書となって九載、屡疏を上して休を乞うた。久しくしてようやく請いを得た。家に田園無く、南京に卜居した。卒し、太子少保を贈られ、諡して莊懿といった。

原文為尚書九載,屢疏乞休。久之乃得請。家無田園,卜居南京。卒,贈太子少保,諡莊懿。

長子の経は尚書となり、自ら傳がある。次子の紘は進士となり、南京吏科給事中となった。二度、災異を以て事を言上した。帝は共に嘉して納れた。未だ幾ばくもせず、御史張昺と軍を閲し、中官蔣琮に誣奏せられ、南京光祿署丞に貶せられた。仕えて終に山東參議となった。

原文長子經,尚書,自有傳。次子紘,進士,為南京吏科給事中。兩以災異言事。帝並嘉納。未幾,與御史張昺閱軍,為中官蔣琮誣奏,貶南京光祿署丞。仕終山東參議。

楊鼎は、字を宗器といい、陝西咸寧の人である。家貧しくして力學し、郷試・會試に第一で挙げられた。正統四年、殿試第二となった。編修を授かった。久しくして、侍講杜寧ら十人と共に、簡抜されて東閣に入り肄業した。鼎は侍従の位にあり、雅に功名を以て見られんことを欲した。嘗て戎備を修飭し、三邊に漕を通ずる二事を建言した。同輩は其の迂を誚したが、鼎は益々自信を強くした。也先が京師を寇せんとするに及び、詔して監察御史の事を行い、兗州に兵を募った。

原文楊鼎,字宗器,陝西咸寧人。家貧力學,舉鄉會試第一。正統四年,殿試第二。授編修。久之,與侍講杜寧等十人,簡入東閣肄業。鼎居侍從,雅欲以功名見。嘗建言修飭戎備、通漕三邊二事。同輩誚其迂,鼎益自信。也先將寇京師,詔行監察御史事,募兵兗州。

景泰三年、侍講兼中允に進んだ。五年、超擢して戸部右侍郎となった。天順初めに左に転じた。陳汝言が之を譖えたが、帝は聴かなかった。三年冬、陵寢に陪祀して謹まずとて獄に下され、杖を贖って職に還った。帝は嘗て中官牛玉に諭旨を命じ、江南の折糧銀を取って内帑に実し、他の税物を以て武臣の俸に充てんとしたが、鼎は不可とした。馬牛の芻が乏しいので、什二を征することを議したが、また民の艱を以て力沮した。皆報罷となった。七年、尚書年富が疾を病み、詔して鼎に部事を掌らせた。

原文景泰三年進侍講兼中允。五年超擢戶部右侍郎。天順初轉左。陳汝言譖之。帝不聽。三年冬以陪祀陵寢不謹下獄,贖杖還職。帝嘗命中官牛玉諭旨,欲取江南折糧銀實內帑,而以他稅物充武臣俸。鼎不可。馬牛芻乏,議征什二,又以民艱力沮。皆報罷。七年,尚書年富有疾,詔鼎掌部事。

成化四年、馬昂に代わって戸部尚書となり、翁世資を侍郎とした。六年、鼎は疏を上して言う、「陝西は外患に四寇あり、内患に流民あり。然れども寇害は辺塞に止まるも、流民は則ち疾腹心に在り。漢中は僻居して萬山にあり、川蜀の襟喉たり、四方の流民数萬、急にすれば変を生じ、置けば則ち後憂有り。暫く監司一人を設け、専ら其の事を領せしむべし。其の籍に附かんことを願う者は之を聴き、願わざる者は資を以て遣わす。兼ねて守臣と士馬を練り、城池を修め、庶幾くば他日の患を弭すべし」と。詔して之に従った。湖廣は頻年に饑饉となり、廩を発し尽くした。是に及び秋有り、鼎の言を用い、庫貯の銀布を発し、米に易えて災に備えた。淮・徐・臨・徳の四倉は、旧く糧百余萬石を積みしも、後餉乏しく民饑え、輒ち移用を請い、粟且に匱えたり。鼎は贖罪・中塩・折鈔・征逋の六事を議上して之を行った。是より諸倉に儲蓄有り。尋いで太子少保を加えられた。

原文成化四年,代馬昂為戶部尚書,而以翁世資為侍郎。六年,鼎疏言:「陝西外患四寇,內患流民。然寇害止邊塞,流民則疾在腹心。漢中僻居萬山,襟喉川蜀,四方流民數萬,急之生變,置之有後憂。請暫設監司一人,專領其事。其願附籍者聽之,不願者資遣。兼與守臣練士馬,修城池,庶可弭他日患。」詔從之。湖廣頻歲饑,發廩已盡。及是有秋,用鼎言,發庫貯銀布,易米備災。淮、徐、臨、德四倉,舊積糧百餘萬石,後餉乏民饑,輒請移用,粟且匱。鼎議上贖罪、中鹽、折鈔、征逋六事行之。由是諸倉有儲蓄。尋加太子少保。

鼎は戸部に居り、廉を保ったが、然し性頗る拘滞であった。十五年秋、給事御史が鼎を劾し、経国の才に非ずとす。鼎は再疏を上して去るを求めた。賜敕して馳驛に帰し、命じて有司に月に米二石を給し、歳に役四人を給し、其の身の終わりまでとせしめた。大臣の致仕に給賜有るは、鼎より始まる。卒し、太子太保を贈られ、諡して莊敏といった。

原文鼎居戶部,持廉,然性頗拘滯。十五年秋,給事御史劾鼎非經國才。鼎再疏求去。賜敕馳驛歸,命有司月給米二石,歲給役四人,終其身。大臣致仕有給賜,自鼎始也。卒,贈太子太保,諡莊敏。

子の時畼は進士となり、累官して侍講学士となった。典故を多く識り、用世の才有り。時敷は挙人となり、廬墓して旌せられ、官は兵部司務となった。

原文子時畼,進士,累官侍講學士。多識典故,有用世才。時敷,舉人,廬墓被旌,官兵部司務。

翁世資は、莆田の人である。正統七年進士。戸部主事を除かれ、郎中を歴任した。天順元年、工部右侍郎に拝された。四年、中官を命じて蘇・松・杭・嘉・湖に往き、彩幣七千匹を増織せしめんとした。世資は東南に水潦有り、民食に艱しとし、其の半を減ずるを議した。尚書趙榮・左侍郎霍瑄は之を難じたが、世資は身を以て其の咎を任んことを請い、乃ち連署して諫めた。帝果たして怒り、主議者を詰めた。榮らは之を世資に委ね、遂に詔獄に下し、衡州知府に謫せられた。成化初め、江西左布政使に擢げられた。事に坐して吏に下されたが、尋いで白きを得た。大軍が両広を征するに、江西の餉を転じ、十萬人を需めた。世資は直を齎して就きて嶺南の米に易うるを議した。民は擾されずして済んだ。右副都御史を以て山東を巡撫した。歳饑え、倉儲五十余萬石を発して賑済し、流亡百六十二萬人を撫した。召されて戸部右侍郎となり、鼎を佐けた。久しくして、薛遠に代わって倉場を総督し、尚書に進んだ。十七年、還って部事を理した。二年を閲て、致仕した。

原文翁世資者,莆田人。正統七年進士。除戶部主事,曆郎中。天順元年拜工部右侍郎。四年命中官往蘇、松、杭、嘉、湖增織彩幣七千匹。世資以東南水潦,民艱食,議減其半。尚書趙榮、左侍郎霍瑄難之,世資請身任其咎,乃連署以諫。帝果怒,詰主議者。榮等委之世資,遂下詔獄,謫衡州知府。成化初,擢江西左布政使。坐事下吏,尋得白。大軍征兩廣,轉江西餉,需十萬人。世資議齎直就易嶺南米。民得不擾。以右副都御史巡撫山東。歲饑,發倉儲五十餘萬石以振,撫流亡百六十二萬人。召為戶部右侍郎,佐鼎。久之,代薛遠總督倉場,進尚書。十七年還理部事。閱二年,致仕。

黃鎬は、字を叔高といい、侯官の人である。正統十二年、進士として都察院に試事した。半歳に満たず、法律に明習するを以て御史を授かった。

原文黃鎬,字叔高,侯官人。正統十二年以進士試事都察院。未半歲,以明習法律授御史。

十四年、貴州を按じた。群苗尽く叛き、道梗塞せり。靖遠伯王驥らが麓川より還り、軍に紀律無く、苗其の後を襲い、官軍大敗した。鎬は平越に赴き、賊に遇って幾くばくもなく死せんとした。夜に跳入して城に入り、賊之を囲んだ。議者城を棄てて走らんと欲したが、鎬曰く「平越は貴州の咽喉なり、平越無きは是れ貴州無きなり」と。乃ち諸将と偕に固守した。密疏を竹筒の中に置き、土人を募り間行して朝に援を乞い、且つ驥らの覆師の状を劾した。景帝は保定伯梁珤らに命じ、川・湖の軍を合わせて之を救わしめ、囲み始めて解けた。城は囲まれて已に九月、草根を掘り弩鎧を煮て之を食い、死者相枕籍せり。城卒く全うし、鎬の功最も多し。復た留まって一年を按じた。久しくして、廣東僉事に遷り、浙江に改めた。

原文十四年按貴州。群苗盡叛,道梗塞。靖遠伯王驥等自麓川還,軍無紀律,苗襲其後,官軍大敗。鎬赴平越,遇賊幾死。夜跳入城,賊圍之。議者欲棄城走,鎬曰:「平越,貴州咽喉,無平越是無貴州也。」乃偕諸將固守。置密疏竹筒中,募土人間行乞援於朝,且劾驥等覆師狀。景帝命保定伯梁珤等合川、湖軍救之,圍始解。城被困已九月,掘草根煮弩鎧而食之,死者相枕籍。城卒全,鎬功為多。復留按一年。久之,遷廣東僉事,改浙江。

成化初め、大臣の会薦により、廣東左參政に擢げられた。高・雷・廉は海に負いて盗多く、鎬之を討平した。再び遷って廣西左布政使となった。右副都御史を以て南京糧儲を総督し、吏部左・右侍郎を歴任した。十六年、南京戸部尚書に拝された。

原文成化初,以大臣會薦,擢廣東左參政。高、雷、廉負海多盜,鎬討平之。再遷廣西左布政使。以右副都御史總督南京糧儲,曆吏部左、右侍郎。十六年拜南京戶部尚書。

鎬は才識有り、吏事に敏で、鹽政を理め、厘剔すること多く、時論之を称した。十九年致仕し、道中に卒した。太子少保を贈られ、諡して襄敏といった。

原文鎬有才識,敏吏事,理鹽政,多所厘剔,時論稱之。十九年致仕,道卒。贈太子少保,諡襄敏。

胡拱辰は、字を共之といい、淳安の人である。正統四年進士。黟縣知縣となり、恵政有り、御史に擢げられた。時弊八事を疏陳した。父の艱にて帰った。

原文胡拱辰,字共之,淳安人。正統四年進士。為黟縣知縣,有惠政,擢御史。疏陳時弊八事。父艱歸。

景帝即位し、詔して科道官で憂居する者は悉く起復せしめた。拱辰至り、屡疏を以て選将・保邦・修徳・弭災を言とし、出でて貴州左參政となった。白水堡の仡佬頭目沈時保は素より化に梗みしが、拱辰は総兵官方瑛に言して将を遣わし之を擒えた。一方遂に寧んず。畢節に至り、宣慰使隴富の乱を平げ、威邊徼に行わる。母の憂にて去り、御史其の賕を受けたる事を追劾し、浙江の按臣に下して執訊せしめた。事白きを得、廣東に調ぜられた。廣西・四川の左・右布政使を歴任し、皆平寇の功有り。

原文景帝即位,詔科道官憂居者悉起復。拱辰至,屢疏以選將、保邦、修德、弭災為言,出為貴州左參政。白水堡仡佬頭目沈時保素梗化,拱辰言于總兵官方瑛遣將擒之。一方遂寧。至畢節,平宣慰使隴富亂,威行邊徼。母憂去,御史追劾其受賕事,下浙江按臣執訊。事白,調廣東。曆廣西、四川左、右布政使,皆有平寇功。

成化八年に南京右副都御史に任じられ、操江を提督した。十一年にそのまま兵部右侍郎に転じた。皇太子の位が空位のまま久しく、尚書崔恭らと共に冊立を請うたが、その言は甚だ切実であった。その年またそのまま左副都御史に改めて糧儲を総理し、そのまま工部尚書に進んだ。財を節し事を省き、人皆これを便とした。年齢が至ったことを理由に帰郷を乞うた。

原文成化八年拜南京右副都御史,提督操江。十一年就遷兵部右侍郎。儲位虛久,與尚書崔恭等請冊立,言甚切。其年復就改左副都御史總理糧儲,就進工部尚書。節財省事,人皆便之。以年至乞歸。

弘治年間、巡按御史陳銓が言上した。「拱辰は退休して十余年、生来の清操は一日の如し、礼遇を加えて臣節を励ますことを乞う。」詔して有司に月に廩二石を給し、歳に隷四人を付す。正徳元年、年九十。行人を遣わし勅を齎して存問し、羊酒を賜い、さらに廩・隷を加賜した。三年正月卒す。太子少傅を贈られ、諡して荘懿という。

原文弘治中,巡按御史陳銓言:「拱辰退休十餘年,生平清操如一日,乞加禮異以勵臣節。」詔有司月給廩二石,歲隸四人。正德元年,年九十。遣行人齎敕存問,賚羊酒,加賜廩、隸。三年正月卒。贈太子少傅,諡莊懿。

陳俊、字は時英、莆田の人。郷試に第一で挙げられる。正統十三年進士。戸部主事に任じられる。天津諸衛の軍を督いて草を採らせ、新たに増額された三十五万束を減ずるよう奏上した。豪猾が蘇州・松江の改折銀七十余万両を侵していたが、俊が往きて督すると、数ヶ月もせずに全て輸納された。尚書金濂は能あるものと認め、諸曹の章奏を掌らせた。郎中を歴任した。

原文陳俊,字時英,莆田人。舉鄉試第一。正統十三年進士。除戶部主事。督天津諸衛軍采草,奏減新增額三十五萬束。豪猾侵蘇、松改折銀七十餘萬兩,俊往督,不數月畢輸。尚書金濂以為能,俾典諸曹章奏。曆郎中。

天順五年、両広で用兵があり、俊が糧餉を督した。当時州県は残破し、帑蔵は殫き虚しく、塩商の越境令を弛め、引に米二斗を加え、軍興はこれに頼って欠乏することがなかった。母の喪に遭うが、帰郷を許されず、蛮が平定して初めて還った。初め、俊が主事の時、父の喪に奔るとき、賻する者は皆これを退けた。この時、文武の将吏が金を醵して賻したが、これも受け取らなかった。

原文天順五年,兩廣用兵,俊督餉。時州縣殘破,帑藏殫虛,弛鹽商越境令,引加米二斗,軍興賴以無乏。母喪,不聽歸,蠻平始還。初,俊為主事,奔父喪,賻者皆卻之。至是文武將吏醵金賻,亦不納。

成化初め、南京太常少卿に抜擢された。四年に召されて戸部右侍郎に任じられた。俊は銭穀に練達していた。四方に災傷があり、辺鎮では芻餉が急を要した。奏請が遝々と至ったが、裁決は全て適切で、尚書楊鼎は深くこれを頼りにした。京師に大饑饉があり、先後して太倉の粟八十万石を発して平糶した。石の値は六銭で、豪猾が時乗じて利を射た。俊は升斗を単位として糶し、一石を超える者には与えないよう請うた。飢民は救済を得た。まもなく河套に用兵する議があり、勅して俊を河南・山西・陝西に赴かせ、巡撫諸臣と会して芻餉を図り、帑金二十万を発してこれを助けさせた。俊は辺境の倉庫が空竭し、その年また不作であり、かつ榆林の道は険遠で転輸が難しいとして、金を内地で発して市易させた。西安・韓城・同官の径道を修築し、飛輓の便を図った。還朝して俸一級を進められ、吏部左・右侍郎を歴任した。

原文成化初,擢南京太常少卿。四年召拜戶部右侍郎。俊練習錢穀。四方災傷,邊鎮急芻餉。奏請遝至,裁決咸當,尚書楊鼎深倚之。京師大饑,先後發太倉粟八十萬石平糴。石值六錢,豪猾乘時射利。俊請糴以升鬥為率,過一石勿與。饑民獲濟。尋議用兵河套,敕俊赴河南、山、陝,會巡撫諸臣畫芻餉,發帑金二十萬助之。俊以邊庾空竭,歲又不登,而榆林道險遠,轉輸難,乃發金于內地市易。修西安、韓城、同官徑道,以利飛輓。還朝,進俸一級,曆吏部左、右侍郎。

九年の任期が満ちて、南京戸部尚書に任じられた。まもなく兵部に改められ、機務に参賛した。これより先、参賛の任は兵部に専属せず、薛遠の後に俊が継いだことにより、遂に定制となった。久しくしてそのまま吏部に改められた。二十一年、星変があり、九卿を率いて時弊二十事を陳べたが、皆極めて痛切であった。帝は多くこれを採納した。しかし権幸に不都合なものは、結局阻まれて行われなかった。翌年致仕を乞うた。詔して太子少保を加え、勅を賜い馳伝して還らせた。卒す。諡して康懿という。

原文九載滿,拜南京戶部尚書。尋改兵部,參贊機務。先是,參贊之任,不專屬兵部,自薛遠後,繼以俊,遂為定制。久之,就改吏部。二十一年,星變,率九卿陳時弊二十事,皆極痛切。帝多採納。而權幸所不便者,終格不行。明年乞致仕。詔加太子少保,賜敕馳傳還。卒,諡康懿。

林鶚、字は一鶚、浙江太平の人。景泰二年進士。御史に任じられ、京畿郷試を監臨した。陳循らが考官を訐ると、鶚の同郷の子林挺が予め推薦に預かっていたため、鶚に私心ありと疑い、挺を捕らえて考訊した。挺は実に他意なく、冤罪が晴れた。

原文林鶚,字一鶚,浙江太平人。景泰二年進士。授御史,監京畿鄉試。陳循等訐考官,鶚邑子林挺預薦,疑鶚有私,逮挺考訊。挺實無他,得白。

英宗が復辟すると、先朝の故事に倣い、廷臣を出して知府とした。鶚は鎮江を得た。召見され、膳及び道里費を賜り、擢用の意を諭された。鶚は感激し、弊を革め廃を挙げ、治績甚だ声高かった。漕運は従来孟瀆を経たが、甚だ険しかった。巡撫崔恭が河を鑿ち、七里港から金山の上流を引き丹陽に通してこれを避けることを議した。鶚が言うには、「道里遠く、石多く、かつ民の廬墓を損なう。京口閘・甘露壩の故跡に按じ、これを浚って舟を通さしめることを請う。春夏は閘を啓き、秋冬は壩を渡らせれば、功力省便である。」恭はその議に従い、遂に永利となった。五年居て、才をもって劇務を治めるに任じられ、蘇州に転じた。

原文英宗復辟,仿先朝故事,出廷臣為知府。鶚得鎮江。召見,賜膳及道里費,諭所以擢用意。鶚感激,革弊舉廢,治甚有聲。漕故經孟瀆,險甚。巡撫崔恭議鑿河,自七里港引金山上流通丹陽避之。鶚言:「道里遠,多石,且壞民廬墓。請按京口閘、甘露壩故跡,浚之令通舟。春夏啟閘,秋冬度壩,功力省便。」恭從其議,遂為永利。居五年,以才任治劇,調蘇州。

成化初め、超遷して江西按察使となった。大辟に犯した者が達官に賄賂して生き延びようとしたが、鶚の執り方はますます堅かった。広東の寇が贛州を急剽した。兵を調えてこれを防ぎ、遁走させた。広信の妖賊が妄りに天神と称して衆を惑わしたが、その魁を捕らえて誅戮し、たちまち解散した。左・右布政使を歴任した。凶年に、民租十五万石を減ずるよう奏上した。

原文成化初,超遷江西按察使。有犯大辟賄達官求生者,鶚執愈堅。廣東寇剽贛州急。調兵禦之,遁去。廣信妖賊妄稱天神惑眾,捕戮其魁,立解散。曆左、右布政使。歲饑,奏減民租十五萬石。

成化六年、南京刑部右侍郎に抜擢された。母の憂いに服し除喪後、召されて刑部右侍郎となった。法を執るに撓まず。十二年、疾を得て卒した。

原文成化六年,擢南京刑部右侍郎。母憂服除,召為刑部右侍郎。執法不撓。十二年得疾卒。

鶚は母に事えて孝謹で、妻子に対しても惰慢な容色がなかった。妄りに交わり与せず、公務の余りには常に端坐して書を読んだ。歿するに棺斂を具えることができず、友人がその喪を経紀した。鶚が蘇州にいた時、先聖の像が剥落していた。鶚は言った。「塑像は古の制にあらず、昔太祖は国学で木主を用いられた。」命じてこれに改めさせた。嘉靖年間、御史趙大佑がその節行を上奏し、刑部尚書を贈られ、諡して恭肅という。

原文鶚事母孝謹,對妻子無惰容。不妄交與,公餘輒危坐讀書。歿不能具棺斂,友人為經紀其喪。鶚在蘇州,先聖像剝落。鶚曰:「塑像,非古也,昔太祖于國學用木主。」命改從之。嘉靖中,御史趙大佑上其節行,贈刑部尚書,諡恭肅。

潘栄、字は尊用、龍渓の人。正統十三年進士。広東で師を犒い、還り、吏科給事中に任じられた。

原文潘榮,字尊用,龍溪人。正統十三年進士。犒師廣東,還,除吏科給事中。

景泰初め、起復を停め奔競を抑える数事について疏を論じた。帝はこれを納れた。まもなく右給事中に進んだ。四年九月上言した。「治を致す要は、諫を納れるより切なるはない。近ごろ言う者が聖意に忤ることを以て、礼部に諭し、凡そ建言に遇うごとに、務めて審察を加え、仮りて報復するあらば、具して奏しこれを罪せよと。この令一下、廷臣は喪気し、言うことを諱いみなむ。国家の利害、生民の得失、大臣の奸慝、何由にして知らん。況んや今巨寇陸梁し、塞上多事なるに、奈何ぞ反って言う者の路を塞がん。明詔を台諫に下し、知る所を言わざるなく、黙する者を罪せられんことを望む。併せて閣部大臣に勅し、参駁を捜求して治体を虧傷せしむることなからんことを。」疏入り、報聞された。

原文景泰初,疏論停起復、抑奔競數事。帝納之。尋進右給事中。四年九月上言:「致治之要,莫切於納諫。比以言者忤聖意,諭禮部,凡遇建言,務加審察。或假以報復,具奏罪之。此令一下,廷臣喪氣,以言為諱。國家有利害,生民有得失,大臣有奸慝,何由而知?況今巨寇陸梁,塞上多事,奈何反塞言者路。望明詔台諫,知無不言,緘默者罪。並敕閣部大臣,勿搜求參駁,虧傷治體。」疏入,報聞。

天順六年、琉球に使いし、還り、都給事中に遷った。成化六年三月、同官と共に上言した。「近ごろ雨雪期に愆り、災異重ねて見ゆ。陛下詔を降して自ら責め、躬ら祈祷を行い、大臣に尽く言わしむる詔を下されば、宜しく上天感格すべし。然るに今乃ち風霾晝晦し、沴気赤くして復た黒し、豈に天に応ずるの道尽くさざるあるに非ずや。夫人君の天を敬うは、斎戒祈祷のみに在らず。政令乖宜し、下民所を失い、珍玩を崇尚し、費用経せず、後宮序なく、恩沢均しからず、爵賤工に濫施し、賞非分に妄りに及ぶは、皆な天を敬うの道に非ず。願わくは陛下日々便殿に御し、大臣を召して極く缺失を陳べしめてこれを厘革せられ、庶くは災変を弭ぐべし。」当時万妃が寵を専らにし、群小夤縁して宝玩を進め、官賞冗濫であったので、栄らは懇ろに言ったのである。帝は用いることができなかった。この年南京太常少卿に遷った。

原文天順六年使琉球,還,遷都給事中。成化六年三月偕同官上言:「近雨雪愆期,災異迭見。陛下降詔自責,躬行祈禱,詔大臣盡言,宜上天感格。而今乃風霾晝晦,沴氣赤而復黑,豈非應天之道有未盡歟?夫人君敬天,不在齋戒祈禱而已。政令乖宜,下民失所;崇尚珍玩,費用不經;後宮無序,恩澤不均;爵濫施於賤工,賞妄及於非分,皆非敬天之道。願陛下日禦便殿,召大臣極陳缺失而厘革之,庶災變可弭。」時萬妃專寵,群小夤緣進寶玩,官賞冗濫,故榮等懇言之。帝不能用。是年遷南京太常少卿。

また七年を経て、そのまま戸部右侍郎に抜擢された。まもなく右副都御史・総督南京糧儲に改められた。奇羨の数万石を積みて備荒に供した。十七年召されて戸部左侍郎となり、まもなく部事を署した。英国公張懋ら四十三人が自ら陳べて、先世が大功をもって爵を錫られ、子孫が承継するに、所司輒ち歳禄を減ずるは、祖宗の功に報いるの意に非ずと言った。栄らは言った。「懋らは無事の時に妄りに禄の増加を請う、若し功あらば何を以て賞を勧めん。況んや頻年の水旱、国用未だ充たず、請う所は許すべからず。」事は遂に止んだ。宦官趙陽らが両淮塩十万引を乞うたが、帝は既にこれを許していた。栄らは言った。「近ごろ勢家の中塩を禁じ、詔旨甫に頒つに、陽ら輒ち違犯す、宜しくその罪を正すべし。」帝は陽らを切責した。

原文又七年,就擢戶部右侍郎。尋改右副都御史、總督南京糧儲。積奇羨數萬石以備荒。十七年召為戶部左侍郎,尋署部事。英國公張懋等四十三人自陳先世以大功錫爵,子孫承繼,所司輒減歲祿,非祖宗報功意。榮等言:「懋等於無事時妄請增祿,若有功何以勸賞?況頻年水旱,國用未充,所請不可許。」事乃寢。中官趙陽等乞兩淮鹽十萬引,帝已許之。榮等言:「近禁勢家中鹽,詔旨甫頒,而陽等輒違犯,宜正其罪。」帝為切責陽等。

南京戸部尚書黄鎬を罷免し、栄を以てこれに代えた。孝宗が位を継ぐと、政事を謝して帰郷した。月々の禄米と毎年の人夫を定めに従って賜った。九年に卒し、年七十八であった。太子太保を追贈された。

原文南京戶部尚書黃鎬罷,以榮代之。孝宗嗣位,謝政歸。賜月廩、歲夫如制。九年卒,年七十有八。贈太子太保。

夏時正、字は季爵、仁和の人である。正統十年に進士となり、刑部主事に任じられた。景泰六年、郎中として福建に囚徒を録囚し、死罪六十余人を出した。中には死罪を減じて詔により所在の沿海衛所の軍士とする者もあったが、時正は彼らが海島に入って変乱を起こすことを憂い、山東に転送してから上聞した。これにより言上して、「凡そ福建の死罪を減じた囚徒は、皆北方に戍らせるべきである」とした。法司はその言を是とし、違詔の罪を治めるよう請うた。帝は特にこれを宥した。時正はまた言上して、「通番及び劫盗などの諸獄は、会讞を待つ間に月日を引き延ばし、囚徒多く獄死する。所司に断決せしむるよう請う」とした。詔してこれに従い、かつ天下にこれを推行した。

原文夏時正,字季爵,仁和人。正統十年進士。除刑部主事。景泰六年以郎中錄囚福建,出死罪六十餘人。中有減死、詔充所在濱海衛軍者,時正慮其入海島為變,轉發之山東,然後以聞。因言:「凡福建減死囚,俱宜戍之北方。」法司是其言,而請治違詔罪。帝特宥之。時正又言:「通番及劫盜諸獄,以待會讞。淹引時月,囚多瘐死。請令所司斷決。」詔從之,且推行之天下。

天順初め、大理寺丞に抜擢された。久しくして、便養のため、南京大理少卿に遷った。成化五年、本寺の卿に遷った。明年の春、命を受けて江西の災害損傷を巡視した。無名の税十余万石を除き、諸司の冗役数万を淘汰し、不職の吏二百余人を奏罷し、南昌の濱江堤及び豊城諸県の陂岸を増築し、民はその利に頼った。嘗て上奏するに、齎奏人の姓名を具えず、吏科がその簡恣を論じた。帝はその罪を宥し、弾劾の上章を録して示した。遂に乞休して帰郷した。民家を借りて住んだが、布政使張瓚が西湖書院を築いて住まわせた。家に閑居すること三十年、年近く九十にして卒した。

原文天順初,擢大理寺丞。久之,以便養,遷南京大理少卿。成化五年遷本寺卿。明年春命巡視江西災傷。除無名稅十餘萬石,汰諸司冗役數萬,奏罷不職吏二百餘人,增築南昌濱江堤及豐城諸縣陂岸,民賴其利。嘗上奏,不具齎奏人姓名,吏科論其簡恣。帝宥其罪,錄彈章示之。遂乞休歸。僦居民舍,布政使張瓚為築西湖書院居之。家食三十年,年近九十而卒。

時正は雅に学を好んだ。閑居すること久しく、著述多く、稽古礼文の事に於いて特に詳しかった。

原文時正雅好學。閒居久,多所著述,于稽古禮文事尤詳。

賛して曰く、金純らは黽勉として公に奉じ、官に当たり職に称した。これに禔躬清白を加え、操行に虧け無く、固より列卿の良なり。鄭辰の廉事、周瑄の治獄は、皆仁人の用心有り、君子なるかな。

原文贊曰:金純等黽勉奉公,當官稱職。加之禔躬清白,操行無虧,固列卿之良也。鄭辰之廉事,周瑄之治獄,皆有仁人之用心,君子哉。