明史

列傳第四十四 吳允誠 薛斌 吳成 金忠 李英 毛勝 焦禮 毛忠 和勇 羅秉忠

○吳允誠(子克忠孫瑾)薛斌(子綬弟貴李賢)吳成(滕定金順)金忠(蔣信)李英(從子文)毛勝焦禮毛忠(孫銳)和勇羅秉忠

吳允誠は蒙古人である。名は把都帖木兒、甘肅塞外の塔溝の地に居住し、官は平章に至った。永楽三年、その党の倫都児灰と共に妻子及び部落五千、馬駝一万六千を率い、宋晟に因って来帰した。帝は蒙古人は多く同名であるとして、姓を賜って区別すべきであるとした。尚書劉俊が洪武の故事の如く、勘合に編むことを請うた。允誠は姓名を賜わり、右軍都督ととく僉事に授けられた。倫都児灰もまた姓名を賜わり柴秉誠とし、後軍都督僉事に授けられた。その余は官を授け冠帯を賜い、畜産鈔幣を給すること差等があった。その部を領して涼州に居住させて耕牧せしめた。宋晟は招徠の功により、西寧侯に封ぜられた。ここより降附する者益々衆く、辺境日々安寧となり、允誠に始まる。

七年、亦集乃に往きて敵を覘い、哈剌等二十余人を擒え、都督同知に進んだ。翌年、塞外に出るに従い、本雅失里を敗り、右都督に進んだ。まもなく左都督に進んだ。中官王安と共に闊脱赤を追い、把力河に至ってこれを獲た。恭順伯に封ぜられ、禄千二百石を食み、世券を賜わった。允誠に三子あり:答蘭、管者、克勤。允誠は二子と共に軍に従い、その妻及び管者を涼州に留め置いた。番人虎保等が允誠の衆を誘脅し、叛去せんとした。允誠の妻と管者が謀り、部将の都指揮保住、卜顔不花等を召してその党を擒え、これを誅した。帝は喜び、勅を降してこれを奨め、縑鈔羊米を賜わること甚だ厚く、管者を指揮僉事に授けた。保住は姓名を賜わり楊效誠とし、指揮僉事に授けられた。韃靼の可汗鬼力赤がしいせられ、その下多く潰えた。答蘭と別立哥が塞外に出て自ら効せんことを請い、功があった。別立哥は、秉誠の子である。

帝が瓦剌を征するに、允誠父子皆従った。師が還り、命じて仍涼州に居らせて辺備に当たらせた。允誠卒すと、国公を贈られ、諡して忠壮といった。

答蘭に命じて更に名を克忠と改めさせ、その爵を襲わしめた。再び阿魯臺を征するに、従軍した。三たび阿魯臺を征するに、また従った。兄弟ともに功があった。洪熙元年、戚里の恩により、克忠は侯に進んだ。時に管者は既に功を積み都指揮同知に至り、また広義伯に封ぜられた。克忠は嘗て副総兵を充てて辺境を巡った。正統九年、兵を統いて喜峰口より出で、兀良哈を征し、功があり、太子太保を加えられた。

土木の変に、克忠とその弟都督克勤の子瑾が後拒となった。寇が突如至り、驟戦して勝たず。敵兵は山上に拠り、飛矢石雨の如く、官軍死傷略尽きた。克忠は馬を下りて射、矢尽き、なお数人を殺し、克勤と共に陣に歿した。邠国公を贈られ、諡して忠勇といった。克勤は遵化伯を贈られ、諡して僖敏といった。

瑾は捕らえられたが、逃れて帰り、侯を嗣いだ。英宗は嘗て瑾を使いて甘肅を守らせんとしたが、辞して曰く、「臣は外人なり、若し臣を用いて辺境を守らしめば、恐らく外裔中国を軽んずるならん」と。帝はその言を善しとし、乃ち止めた。曹欽の反に、瑾は従弟の琮と変を聞き、長安ちょうあん門を椎いて上告した。門閉ざされ、欽は攻めて入るを得ず、遂に火を放った。瑾は五六騎を将いて欽と力戦して死んだ。涼国公を贈られ、諡して忠壮といい、世券を賜わった。

三伝して曾孫継爵に至る。嘗て南京を守備した。子汝胤、孫惟英に伝え、継爵と共に皆総督京営戎政を務めた。崇禎末、都城陥落し、汝胤の弟勛衛汝征は妻女と共に投繯して死んだ。

管者卒すと、子の玘が嗣いだ。管者の妻早奴もまた智略あり、嘗て親しく入朝して良馬を献じた。朝廷はその忠を多とした。玘卒すと、管者の弟克勤の子琮が嗣ぎ、寧夏を鎮守した。成化四年、満四が反した。琮は激変を坐し、かつ臨陣先退した罪により、獄に下され死を論ぜられた。辺境に謫戍せられ、爵は除かれた。

薛斌は蒙古人、本名は脱歓。父の薛臺は洪武中に帰附し、姓を薛と賜わり、累官して燕山右護衛指揮僉事となった。斌は職を嗣ぎ、起兵に従い、累遷して都督僉事となった。北征に従い功があり、都督同知に進んだ。永楽十八年、永順伯に封ぜられ、禄九百石、世襲の指揮使となった。

斌卒すと、子の寿童わずか五歳。伯父の貴が仁宗に引見し、直ちに伯を嗣ぐことを命じ、名を綬と賜わった。長じて、ぎょう勇善戦であった。正統十四年秋、成国公朱勇等と共に鷂児嶺で敵に遇った。軍敗れ、弦断れ矢尽き、なお空弓を持って敵を撃った。敵は怒り、これを支解した。後にその本蒙古人なるを知り、曰く「これは我が同類なり、宜しく勇健この若きべきなり」と。相与にこれを哭した。諡して武毅といった。子の輔、孫の勛、並びに伯を嗣ぐを得た。勛の子の璽は乃ち指揮使を嗣ぎ、券文の如くであった。

貴は本名脱火赤、斌の弟である。舎人として燕王に従い起兵し、屡々王を険より脱せしめた。積功して都指揮使となった。再び北征に従い、都督僉事に進んだ。永楽二十年、安順伯に封ぜられ、禄九百石。宣徳元年、侯に進み、禄三百石を加えられ、世券を賜わった。卒すと、濱国公を贈られ、諡して忠勇といった。子なく、従子の山が指揮使を嗣いだ。天順改元、復辟の恩により、山の子の忠に伯を嗣がしめた。卒すと、子の珤が嗣いだ。弘治中卒し、子の昂は降襲して指揮使となった。

李賢は初名を醜驢、韃靼人である。元の工部尚書であった。洪武二十一年に来帰し、訳書に通じた。太祖は姓名を賜わり、燕府紀善に授けた。燕世子に侍すること最も恭謹であった。「靖難」の師起こり、労績あり、累遷して都指揮同知となった。凡そ塞外の表奏及び朝廷の降す詔勅は、皆賢に訳せしめた。賢もまた屡々所見を陳べ、成祖は皆これを採納した。仁宗即位し、旧労を念い、後軍都督僉事に進め、再び右都督に進め、賜賚甚だ渥かった。まもなく召見し、その病を憫み、忠勤伯に封じた。禄千一百石を食んだ。まもなく卒した。

吳成は遼陽の人で、初名は買驢といった。父の通伯は、元の遼陽行省右丞であった。太祖の時、観童が降って来ると、通伯父子も共に従った。買驢は今の姓名に改め、総旗となり、しばしば大軍に従って塞外に出た。建文元年に永平衛百戸を授けられた。燕に降り、戦いに従うこと全て功があり、三度昇進して都指揮僉事となり、初めて名を知られた。南軍は吳買驢の名を聞き、多くは陣上で彼を指さして目で追った。淝河に伏兵を設け、小河に進軍し、齊眉山で合戦し、霊璧の軍を攻め破るに当たり、皆決死の戦闘をし、功績が多かった。

成祖が即位すると、都指揮使を授けられた。本雅失里征討に従軍した。激戦し、本雅失里は七騎で遁走した。阿魯臺征討に従い、朱榮の兵と合流して前鋒となり、闊灣海まで追撃した。召還され、都督僉事に進んだ。また三度塞外に出た。洪熙元年に左都督に進んだ。陽武侯薛祿に従って大松嶺を征討し、前鋒となり、功があり、禄米を増やされた。宣宗の初め、吳成がかつて東宮の宿衛を務めたことから、旧功を記録され、清平伯に封ぜられ、禄千一百石、世券を与えられた。楽安征討に従い、再び薛祿と前鋒となった。事が定まると、出向して興和の守備に当たった。吳成は狩猟を好むが武備を整えなかった。賊寇は彼が狩りに出るのを伺い、急に城に入り、その妻子を掠めて去った。帝はこれを聞いたが、罪に問わなかった。やがて阿魯臺が入貢し、その家族を返した。三年、帝が北征し、賊を寬河で破るのに従い、侯に進み、禄は元の通りであった。八年に卒した。渠国公を追贈され、諡は壯勇といった。

子の忠は先に死に、忠の子の英が伯を嗣いだ。卒し、子の璽が嗣いだ。貪淫の罪で爵位を剥奪された。久しくしてようやく復した。卒し、子がなく、従弟の琮が嗣いだ。四代伝わって玄孫の遵周に至った。崇禎末、京師が陥落し、殺害された。

滕定、父の瓚住は、元の枢密知院であった。洪武年間に来降した。会州衛指揮僉事を授けられ、滕の姓を賜った。燕に従って起兵し、燕山右衛指揮使に進んだ。卒し、定が官を嗣ぎ、しばしば塞外に出て従い、功があり、都督僉事まで進んだ。宣徳四年に奉化伯に封ぜられ、禄八百石。正統初めに卒した。子の福が嗣ぎ、指揮使となった。

金順、本名は阿魯哥失里。永楽年間に来降し、大寧都指揮僉事を授けられた。本雅失里を破るのに従い、また阿魯臺を破り、累進して都督僉事となった。宣徳三年に北辺巡視に従い、斬捕の功があった。翌年、順義伯に封ぜられ、禄八百石。卒し、子の忠が嗣ぎ、指揮僉事となった。

金忠は、蒙古の王子也先土干である。平素より桀黠で、阿魯臺に忌まれた。永楽二十一年、成祖が漠北に親征し、上荘堡に至ると、妻子部属を率いて来降した。当時六軍は深く入り、賊寇は既に遠く遁走していた。帝はちょうど無功を恥じていたところ、彼が帰順して来たのを見て、大いに喜んだ。姓名を賜い、忠勇王に封じ、冠帯織金の襲衣を賜い、列侯の下に座することを命じた。御前の珍羞を止めてこれを賜い、また金銀の宝器を賜った。忠は望外の喜びであった。凱旋の途上、忠は騎乗して従い、しばしば賊中の事情を問い、寵愛は日増しに厚くなった。翌年、忠は前鋒となり、阿魯臺を討って自ら効力を尽くすことを請うた。帝は初め許さなかった。ちょうど大同・開平の警報が至り、諸将が忠の言葉に従うよう請うた。帝は再び塞外に出て、忠と陳懋が前鋒となった。しかし阿魯臺は王師が再び出たと聞き、倉皇として答蘭納木児河を渡って遁去した。忠・懋は河に至っても賊寇を見ず、白邙山に抵ってもついに何も遇さず、そこで凱旋した。仁宗が位を嗣ぐと、太子太保を加え、二つの俸禄を支給した。

宣徳三年に兀良哈に親征し、寬河で賊寇を破った。忠と把臺が自ら効力を尽くすことを請うたので、帝はこれを許した。ある者は派遣すべからずと言ったが、帝は「去留はその望む所に任せるのみ。朕は天下を有つも、ただこの二人を欠くことあらんや」と言った。二人は数十人、馬牛数百を獲て献上した。帝は喜び、中官に命じて金の杯で酌をさせ、そこでこれを賜った。翌年、太保を加えた。六年秋に卒した。役所に命じて喪葬を執り行わせた。

把臺は、忠の甥で、忠に従って来降し、都督僉事を授けられた。宣徳初め、姓名を蔣信と賜った。正統年間、忠勇伯に封ぜられた。車駕に従って土木に陥り、也先が賽罕王の帳下に隷させた。信は朔漠に居ながらも、志は常に中国にあった。毎度上皇の御所に詣でて慟哭し、擁衛すること頗る至った。やがて、ついに車駕に従って還り、詔して再びその禄を給する。景泰五年に卒した。侯を追贈され、諡は僖順といった。子の也児索忽が爵を襲った。天順初め、善と改名した。弘治年間に卒した。子がなく、爵は絶えた。

李英は西番の人である。父の南哥は、洪武年間に衆を率いて帰附し、西寧州同知を授けられ、功を重ねて西寧衛指揮僉事に進んだ。英が官を嗣いだ。

永楽十年、番酋の老的罕が叛くと、英はこれを撃った。討来川で、三百六十人を俘斬した。夜雪で、賊は遁走したが、追撃してことごとく捕らえ、都指揮僉事に進んだ。番僧の張答里麻という者は、訳書に通じていた。成祖は左覚義を授けた。西寧に居住し、甚だ恣肆であった。計略をもって西番の貢使の資財を奪い、逃亡者を受け入れ、外域と交通し、十余年にわたり悪事をほしいままにした。英がその事を発覚させると、磔刑に処して死に、その家を没収した。西陲の者はこれを快とした。

末年、宦官の喬来喜・鄧誠らが西域に使いし、安定・曲先を通ると、賊に遇って殺害され、携行した金幣を掠奪された。仁宗は璽書をもって赤斤・罕東及び安定・曲先に諭し、賊の主たる者の名を詰問した。そして英と土官指揮の康寿らに進討を命じる勅を下した。英は偵察して、安定指揮の哈三孫散哥・曲先指揮の散即思が実に使者を殺したことを知り、そこで兵を率いて西に入った。賊は驚いて逃走した。追撃し、崑崙山を越え、数百里深く入った。雅令闊に至り、安定の賊に遇い、これを大破し、千一百余人を俘斬し、馬牛雑畜十四万を獲た。曲先の賊は風聞して遠く遁走し、安定王の桑爾加失夾らは懼れ、宮闕に詣でて罪を謝した。宣宗は英の功を嘉し、使者を遣わして褒め諭し、宴を設けて労い、駅伝を馳せて入朝するよう命じた。既に至ると、右府左都督に抜擢し、賜与は一等を加えた。宣徳二年に会寧伯に封ぜられ、禄千一百石、また南哥も子の爵位の如くに封ぜられた。

英は功を恃んで驕り、行うところ多く不法であった。寧夏総兵官の史昭が、英父子に異志ありと上奏した。南哥は上章して弁明した。勅を賜って慰諭した。英は西寧に家し、逃亡者七百余戸を招き、荘を置き田を墾き、豪勢に人の財産を奪い、また兵部及び言官に弾劾された。帝は英を赦し、逃亡者を追って官に没収させた。七年、西寧指揮の祁震の子の成が父の職を襲うことになった。庶兄の監藏は、英の甥で、これを奪おうとした。成の従祖父の太平が成を連れて京に赴き弁明した。英は人を遣わして太平とその義児を奪い取り杖打ち、義児はついに死んだ。言官が相次いで弾劾し、併せて前の罪に及び、そこで英を詔獄に下し、爵を奪って死罪を論じた。正統二年にようやく釈放した。後、稍々その禄を給した。まもなく卒した。英宗が復辟すると、その子の㫤を錦衣指揮同知に任じた。まもなく都指揮使に進め、推薦により左軍都督僉事に抜擢し、しばしば営務を分掌し、厳格で慎重と称された。

英の従子の文は、宣徳年間に陜西行都司都指揮僉事であった。西番の思俄可が嘗て他部の良馬を盗み、都指揮の穆肅が求めても得られなかった。ちょうど思俄可が畜産を辺境で売ろうとした時、穆肅は盗みと誣い、収監して拷掠し死に至らしめ、番人は惶駭して乱を思った。文がこれを弾劾し、穆肅を逮捕して官吏に下し、西陲はこれによって寧かになった。累官して都指揮使となった。

天順元年、迎駕の功を冒し、都督僉事に進んだ。まもなく、右都督として出鎮して大同に駐屯した。賊寇二千余騎が威遠を犯すと、文は師を率いてこれを破り、高陽伯に封ぜられた。石亨が敗れると、奪門の功を冒した者の官を革奪した。文は自首したが、帝は辺境を守ることをもって問わなかった。

四年の秋、孛来が大挙して侵入し、毛文は兵を押さえて戦わなかった。そこで賊は雁門に入り、忻・代の諸州を大いに掠奪した。京師は震恐した。賊が退くと、毛文を召還して詔獄に下し、斬罪を論じた。帝は毛文の死を宥し、都督僉事に降格し、延綏で功を立てさせた。やがて都督同知に進めた。成化年間、哈密が土魯番に併呑され、朝廷に救援を求めた。詔して毛文と右通政劉文を甘肅に遣わしてこれを経略させたが、功なくして還った。弘治初年に卒した。正徳初年に高陽伯を追贈された。

毛勝、字は用欽、初名は福壽、元の右丞相伯卜花の孫である。伯父の那海は洪武年間に帰附し、「靖難」の功により都指揮同知に至り、子がなかった。毛勝の父安太が嗣いで羽林指揮使となり、子の済に伝えたが、子がなく、毛勝が嗣いだ。毛済の征北の功を論じ、都指揮使に進めた。かつて塞外に逃げ帰ったことがあったが、まもなく自ら還ってきた。

正統七年、麓川征討の功により、都督僉事に抜擢された。靖遠伯王驥が在京の番将の舍人を選び、雲南で苗を捕らえるよう請うた。そこで毛勝と都督冉保に命じて六百人を統率して赴かせた。のち、再び麓川を征討するに当たり、すなわち二人を左右参将に充てた。賊が平定され、都督同知に進めた。

十四年の夏、也先が侵入を謀り、毛勝は平郷伯陳懷らとともに京軍三万を率いて大同を鎮守した。陳懷が賊に遭遇して戦死し、毛勝は脱出して還った。武清伯石亨の推薦により、景帝は毛勝を左都督に進め、三千営の操練を督させた。

貴州の苗が大いに騒擾したので、詔して毛勝を討伐に赴かせた。未だ出発せずして也先が京師に迫った。毛勝は彰義門の北でこれを防ぎ、撃退した。二日後、兵を率いて西直門の外に至り、都督孫鏜の包囲を解いた。翌日、都督武興が彰義門で戦死し、賊は勝に乗じて進んだ。毛勝と都御史王竑が急ぎこれを救援し、賊は遂に退却した。毛勝は追撃して紫荊関に至り、かなりの斬獲があった。事態が収まると、左副総兵として河間・東昌の降夷を統率し貴州に赴くことを命じられた。賊首の韋同烈が香炉山に拠って乱を起こしたので、毛勝は総兵梁珤・右副総兵方瑛らとともに総督王来に従い分道して挟撃した。毛勝は重安江から進軍し、これを大破した。山下で会師し、四面を囲んで攻撃した。賊は窮し、韋同烈を縛って降った。

還って湖広巴馬などの反賊を討ち、二十余りの寨を陥落させ、賊首呉奉先ら百四十人を生擒し、千余級を斬首し、南寧伯に封ぜられ、世券を賜った。上疏して改名を請い、許された。騰冲に移鎮した。金歯芒市の長官刀放革がひそかに麓川の残党思卜発と結んで変を起こしたので、毛勝は策を設けてこれを捕らえた。

巡按御史牟俸がその貪暴不法数十事を弾劾し、かつ毛勝はもと降人であり狡猾で制し難く、今またしばしば外夷と通じているので、恐らく辺患を遺すであろうと上言した。詔して巡撫に実状を覆勘させたが、結局問わなかった。天順二年に卒した。侯を追贈され、諡は荘毅。

子の毛栄が嗣いだ。石亨の党に連座し、広西に発遣されて功を立てさせられた。成化初年、貴州を鎮守し、まもなく両広に移った。卒し、子の毛文が嗣いだ。弘治初年、南京を協守し、爵は明の滅亡に至るまで伝わり、そこで絶えた。

焦礼、字は尚節、蒙古人である。父の把思台は洪武年間に帰附し、通州衛指揮僉事となった。子の焦勝が嗣ぎ、義栄に伝わったが、子がなく、焦勝の弟の焦謙が嗣ぎ、累功して都指揮同知に至った。卒し、子の管失奴が幼かったので、焦謙の弟の焦礼がその職を借襲し、遼東に備禦した。

宣徳初年、焦礼は本来職を返還すべきであった。宣宗は焦礼の辺境守備の労を思い、命じて従前通り職に留まらせ、別に管失奴を指揮使に任じた。焦礼はまもなく年功により、累進して都指揮同知となった。正統年間、積功して右都督に至った。英宗が北狩すると、景帝は左副総兵に充て、寧遠を守らせた。まもなく、也先が京城に迫り、詔して焦礼に師を率いて入衛させた。賊が退くと還って鎮守した。景泰四年、賊二千余騎が興水堡を犯したので、焦礼はこれを撃退した。璽書をもって奨励し、左都督に進めた。

英宗が復辟すると、焦礼が辺境守備に功があったので、召し入れて覲見させた。東寧伯に封じ、世襲とし、賜賚は甚だ厚かった。還って鎮守させた。兵部は焦礼の年齢が八十に近く、単独で任に当たることはできないとし、都指揮鄧鐸を派遣して協同守備させるよう上奏した。しばらくして、焦礼は鄧鐸が欺侮したと上奏し、更迭を請うた。都指揮張俊に命じて鄧鐸に代わらせた。天順七年、鎮所で卒した。侯を追贈され、諡は襄毅。

焦礼は胆略があり、騎射に精妙で、寡をもって衆を撃つのに長じた。寧遠を守ること三十余年、士卒は喜んで用いられ、辺陲は寧謐であった。

孫の焦寿が爵を嗣いだ。卒し、子がなく、弟の焦俊が嗣いだ。成化末年に甘粛・寧夏を歴鎮した。弘治年間、南京前府を掌り、兼ねて操江を督した。出て貴州・湖広を鎮守した。焦俊は若い頃商販に従事し、貴くなってからも士に下ることができたが、折衝はその長じるところではなかった。卒し、子の焦淇が嗣いだ。かつて京営を分掌した。正徳年間、劉瑾に賄賂し、出て両広を鎮守した。一年余りして卒し、弟の焦洵が嗣いだ。焦洵は爵を嗣いだが、先業はすべて焦淇の妻の所有となっていた。生母が卒し、葬るに資なく、哀憤して病を得て卒した。子がなく、再従子の焦棟が嗣いだ。嘉靖年間、五軍営を提督し、兼ねて中府を掌った。十年余りして、湖広総兵に改めた。卒し、太子太保を追贈され、諡は荘僖。爵は明の滅亡に至るまで伝わり、そこで絶えた。

毛忠、字は允誠、初名は哈喇、西陲の人である。曾祖父の哈喇歹は洪武初年に帰附し、行伍より起用されて千戸となり、戦死した。祖父の拜都は哈密征討に従軍し、また戦死した。父の宝は驍勇をもって総旗に充てられ、永昌百戸に至った。

毛忠が職を襲った時、年二十であった。膂力は人に絶し、騎射に長じた。常に太宗の北征に従った。宣徳五年、曲先の叛寇を征討し、功があった。八年、亦不剌山を征討し、偽の少師知院を生擒した。九年に脱歓山に出撃し、十年に黒山の寇を征討し、いずれもその酋長を生擒した。それぞれ一官を進められ、指揮同知を歴任した。

正統三年、都督蔣貴に従って朶児只伯を征し、先登して陣を陥し、大いに獲るところあり、都指揮僉事に抜擢された。十年、辺境を守る功労により、同知に進み、初めて姓を賜う。翌年、総兵官任禮に従って沙州衛都督喃哥の部落を収捕し、これを塞内に移し、都指揮使に進む。十三年、師を率いて罕東に至り、喃哥の弟偽祁王鎖南奔及びその部衆を生け捕りにし、都督僉事に抜擢され、初めて名を忠と賜う。まもなく右参将を充て、甘粛の守りを協力する。

景泰初め、侍郎李実が漠北に使いし、還って忠がしばしば使者を遣わして瓦剌と通じたと奏した。詔して京に赴かせて執らしむ。既に至るや、兵部その罪を論じ、大辟に処することを請う。景帝許さず。官を貶し、福建に発して功を立てしむることを請う。乃ちこれを福建に遣わし、而して官秩はもとの如し。甘粛の守臣に命じてその家属を京師に移す。初め、忠が沙漠を征するとき、番僧加失領真を獲て献ず。英宗これを赦して誅せず。後に逃れて瓦剌に至り、也先に用いられる。忠を憾み、これを陥れんと欲す。遂に忠が也先と交通すと宣言し、而して朝廷これを察せず。英宗塞外に在りて独りこれを知り、復辟に及び、即ち召し還す。而して忠も福建に在りて屡々斬馘の功あり、乃ち都督同知に抜擢し、左副総兵を充て、甘粛を鎮守す。陛見し、慰諭ことのほか至り、玉帯・織金蟒衣を賜う。

天順二年、寇大いに甘粛に入り、巡撫芮釗諸将の失事の罪を劾奏す。部議して忠の功は罪を贖うに足り、問わずに置く。三年、鎮番にて賊を破る功により、左都督に進む。五年、孛来数万騎を以て西寧・莊浪・甘粛諸道を分掠し、涼州に入る。忠一日夜鏖戦し、矢尽き力疲る。賊来ること益々衆く、軍中皆色を失う。忠意気ますます厲しく、将士を拊循し、復た殊死の闘いをなす。賊終に勝つべからざるを見て、而して援軍も亦至る、遂に解き去る。忠竟に全師して還る。七年、永昌・涼州・莊浪塞外の諸番屡々辺患をなす。忠と総兵官衛穎分かってこれを討つ。忠先ず巴哇の諸大族を破る。その昝咂・馬吉思の諸族、他の将下す能わざるもの、忠復たこれを撃破す。功を論ずるに、忠は止むところ禄百石を増し、而して穎は乃ち世券を得たり。忠以て言う、遂に伏羌伯に封ぜらる。

成化四年、固原の賊満四石城に拠りて反す。詔して忠に師を移してこれを討たしめ、総督項忠等と賊の巣を夾攻す。忠木頭溝より直ちに炮架山下に抵り、多く斬獲するところあり、賊稍々卻く。矢石を冒して連ねて山北・山西の両峰を奪い、而して項忠等の軍も亦山の東峰を克つ。及び石城東・西の二門に及び、賊大いに窘し、相対して哭す。忽ち昏霧起こり、他の哨煙を挙げて軍を掣き、賊遂に力を併せて忠を攻む。忠力戦已まず、流矢に中り、卒す、年七十五。從子海・孫鎧前に忠を救う、亦死す。

忠将たりしに厳紀律、士を撫するに善し。その卒するや、西陲の人弔哭する者道に相望む。事聞こえ、侯を贈り、武勇と謚し、世券を予う。弘治中、有司の言に従い、忠義坊を蘭州に建て、以てその里を表す。又た巡撫許進の言に従い、武勇祠を甘州城東に建て、春秋祭を致す。

孫銳、伯爵を襲ぐ。成化中、南京を協守す。弘治初め、出でて湖広を鎮し、両広に改む。蛮賊を平らげ、累ねて功あり、皆璽書を以て獎勵す。九年、広西にて賊を破り、歳禄二百石を増す。言官銳が邸舎を広く置き、私に大舶を造りて番商に通ずるを劾す。問わずに置く。思恩の土官岑浚反し、総督潘蕃とこれを討平す。既にして又た賀県の僮賊を討平す。加官太子太傅に至る。正徳三年、劉瑾尚書劉大夏を殺さんと欲し、処置田州の事失宜に坐し、並びに銳を逮えて詔獄に下す。獄具り、その加官並びに歳禄五百石を革む。已にして瑾に賄し、漕運を督するを起す。年を踰え、瑾誅せられ、劾せられて罷む。六年、盗劉宸等畿甸を擾し、命じて銳と中官谷大用これを討たしむ。統ぶる所の京軍皆驕惰にして戦に習わず。明年正月、賊に長垣に遇い、これと戦い大いに敗れ、身傷つき、将印を亡う。許泰の援軍至るに会い、僅かに免る。言官交々劾す、乃ち召し還す。大用と同事するを以て、竟に罪せず。世宗即位し、復た起きて湖広を鎮す。居ること三年卒す。太傅を贈り、威襄と謚す。

子江及び漢に伝う。漢、嘉靖中南京左府を掌り、操江を提督し、総督漕運に改む。未だ上らず、給事中楊上林その至る所貪墨なるを劾し、詔して職を褫ぎ逮問す。卒し、子無く、從子桓嗣ぐ。卒し、子登嗣ぐ。万暦中、中軍府の事を掌ること垂二十年。又た再伝して明亡ぶ。

和勇、初め名は脱脱孛羅、和寧王阿魯臺の孫なり。阿魯臺既に瓦剌の脱歓に殺され、子阿卜只俺窮蹙し、塞に款して来帰す。宣宗左都督を授け、第を京師に賜う。卒し、勇指揮使を襲ぎ、錦衣衛に帯俸し、功を積みて都督僉事に至る。天順元年詔して同知を加え、姓名を賜う。久しくして両広に寇多きを以て、命じて遊撃将軍を充て、降夷千人を統べて往きて討たしむ。時に総兵顔彪将略無く、賊勢愈々熾なり。広西巡撫呉禎降を殺して功を冒し、優賞を得たり。彪これを效い、亦平民を殺して捷を報ず。朝廷彪の官を進め、勇も亦右都督に進む。既にして師久しく功無く、言官文武将吏の失事なる者を劾す。詔して勇の俸を停め、事官に充つ。

成化初め、趙輔・韓雍大藤峡の賊を征し、詔して勇に所部を以て従征せしむ。その冬、賊大いに破られ、左都督に進み、禄百石を増す。三年召して効勇営の訓練を督す。尋ち上言す「大藤峡の役、臣趙輔と功を同じくす。輔京に還り、余賊復た叛く。臣親しく賊の巣を搗き、その魁を縶え、その党を誅し、還た掠められたる男女四千人を被る。今輔已に伯に封ぜられ、而して臣は止むところ秩を進むるのみ、惟うに陛下憐み察せんことを」。憲宗勇の再び戦功を著すを以て、特ち靖安伯に封ず。十年卒す。武敏と謚し、指揮使を世襲す。

勇性廉謹なり。両広に在りし時、諸将多く私を営み利を漁るも、勇独り取る所無し。時の論これを称す。

羅秉忠、初め名は克羅俄領占、沙州衛都督僉事困即来の子なり。兄喃哥既に父職を襲ぎ、英宗復た秉忠を指揮使に命じ、衛事を協理せしむ。既にして喃哥千二百人を率いて内徙し、詔してこれを東昌・平山の二衛に居らしめ、田廬什器を給し、以て撫恤すること甚だ厚し。喃哥卒し、秉忠都指揮使となり、代わってその衆を領す。

英宗北狩し、塞上多く警あり。朝議降人の機に乗じて変を為さんことを恐れ、これを南方に徙さんと欲す。会す貴州苗乱し、都督毛福寿南征す、即ち秉忠を都督僉事に擢げ、所部を率いて援剿せしむ。戦功を積みて左都督に至る。天順初め、初めて姓名を賜う。曹欽の反するや、番官多くこれに従う者あり。秉忠も亦坐して獄に下り、その家を籍す。久しくして上章自ら弁す、乃ち釈かるるを得たり。成化初め、尚書程信山都掌蛮を討ち、秉忠遊撃将軍を以てこれに従う。既に永寧に抵り、兵を六道に分つ。秉忠金鵝江より進み、大いにこれを破る。功を論ずるに、順義伯に封ず。十六年卒す。榮壯と謚し、子孫世々指揮使たり。

賛に曰く、明が興り、諸蕃部は太祖の功德を懐き、多く内附を楽しみ、姓名を賜り官職を授かる者は数え切れない。続いて成祖が遠図に鋭意し、威武を震耀したので、ここに呉允誠・金忠の徒は、衆を率いて来属し、遂に爵を列ね任を授かり、勲旧と肩を並べた。あるいは戦功をもって自ら奮い、鉄券を賜り封を受けて、世を伝えて絶えなかった。陸梁倔強の者に比すれば、順逆の違いは、まことに明らかであろう。土木の変以後、勢いは競わず、辺政は日に弛み、火篩・俺答諸部は騒動して寧歳なし。盛衰の故は概ね考うべし。