明史

列傳第四十三 宋晟 薛祿 劉榮 朱榮 費瓛 譚廣 陳懷 蔣貴 任禮 趙安 趙輔 劉聚

○宋晟薛祿(郭義金玉)劉榮朱榮費瓛譚廣陳懷(馬亮)蔣貴(孫琬)任禮趙安趙輔劉聚

宋晟、字は景陽、定遠の人。父は朝用、兄は國興、共に渡江に従い、皆功を積んで元帥に至る。集慶を攻め、國興は戦死し、晟はその職を嗣ぐ。既にして朝用は老を請う、晟は鄧愈に従い徽州を克つ。召還され、父の官を襲う。累進して都指揮同知となり、歴鎮して江西・大同・陝西に任ず。洪武十二年、法に坐して涼州衛指揮使に降る。十七年五月、西番の叛酋を討ち、亦集乃路に至り、元の海道千戶也先帖木兒・國公吳把都剌赤等を擒え、俘獲一萬八千人、酋長を京師に送り、その精銳千人を簡抜して卒伍に補い、余は悉く放遣す。召還され、復た都指揮となり、右軍都督ととく僉事に進み、仍た涼州に鎮す。

二十四年、總兵官を充たし、都督劉真と共に哈梅裏を討つ。その地は肅州より千余里。晟は軍中に多く糧糗を具えさせ、倍道疾馳し、夜に乗じて城下に至る。質明、金鼓の聲地を震わし、闔城股栗し、遂にこれを克つ。その王子別兒怯帖木兒、及び偽國公以下三十余人を擒え、その部落の輜重を収めて帰る。是より番戎慴服し、兵威西域に極まる。明年五月、藍玉に従い罕東を征し、阿真川を徇い、土酋哈昝等遁去す。師還り、中軍都督僉事に調ず。

二十八年六月、總兵官周興に従い開原より出で、忽剌江に至る。部長西陽哈遁ぐ、甫答迷城に追い至り、人畜を俘えて還る。明年、征南右副將軍を拝し、廣西帡幪諸寨の苗を討ち、擒斬七千余人。又明年、羽林八衛の兵を総べ、五開・龍裏の苗を討平す。三十一年、出でて開平に鎮し、燕王に従い塞に出で、還りて萬全諸衛を城す。建文改元、仍た甘肅に鎮す。

成祖即位し、入朝し、後軍左都督に進み、平羌將軍を拝し、還鎮を遣わす。永樂三年、把都帖木兒・倫都兒灰等の部落五千人を招降し、馬駝牛羊一萬六千を獲る。西寧侯に封ぜられ、祿千一百石、世指揮使。

晟は凡そ四たび涼州に鎮し、前後二十余年、威信絕域に著る。帝は晟を旧臣とし、大將の材有りとして、邊事を以て專任し、その奏請は輒ち報可す。御史、晟の自專を劾す。帝曰く、「人を任じて專ならざれば則ち功を成す能わず、況んや大將一邊を統制す、寧くんぞ盡く文法に拘らんや」と。即ち晟に敕し、便宜を以て事に従わしむ。晟嘗て入朝を請う。報えて曰く、「西北の邊務、一以て卿に委ぬ、召命に非ざれば、輒ち來る毋れ」と。尋いで河西の牧地を営し、及び塞に出ずる方略を図ることを命ず。會い病卒す、五年七月なり。

晟に三子有り。長は瑄、建文中に府軍右衛指揮使となり、靈璧に戦い、先登し、数級を斬り、力鬥して死す。

瑄の弟は琥、成祖の女安成公主を尚び、侯を嗣ぐことを得、世券を予う。八年、前將軍印を佩び、甘肅に鎮す。十年、李彬と叛酋の老的罕を捕え、俘斬甚だ衆し。召還さる。洪熙元年、不敬に坐して爵を奪われ、並びに駙馬都尉の官を削らる。宣德中に都尉を復す。

琥既に廢せられ、弟の瑛嗣ぐ。瑛は鹹寧公主を尚ぶ。正統中、歴掌して左軍前府の事。瓦剌の也先入寇し、瑛は總兵官を充たし、大同の守將朱冕・石亨等を督して陽和に戦い、全軍敗沒し、瑛及び冕皆戦死す。鄆國公を贈られ、謚して忠順。

子の傑嗣ぐ。景泰中に禁兵を典し宿衛し、謹慎を以て称さる。卒し、子の誠嗣ぐ。右府の事を署し、復た平羌將軍印を佩び、甘肅に鎮す。誠は材武有り、嘗て出獵して涼州に至り、寇に遇い牛馬を掠めて北去す。誠は三矢にして三人を殪し、寇驚き散じ、掠めし所を盡く驅りて還る。九傳して孫の裕德に至り、流寇の難に死す。

薛祿、膠の人。行は六、軍中に呼びて「薛六」と曰う。既に貴ぶに及び、乃ち名を「祿」と更む。祿は卒伍を以て燕に従い起兵し、首めて九門を奪う。真定の戦い、左副將軍李堅迎え鬥う。鋒始めて交わるや、祿は槊を把りて堅を刺し馬より墜ち、これを擒う。指揮僉事に擢でらる。永平を援けんに従い、大寧・富峪・會州・寬河を下す。還りて北平を救い、先驅して南軍の遊騎を敗る。指揮同知に進む。大同を攻め、先鋒と為る。白溝河に戦い、奔を追いて濟南に至り、指揮使に遷る。東昌に戦い、五十騎を以て南兵数百を敗る。時に成祖は盛庸に敗られ、還り走りて北平に至る。庸は檄を真定の諸將にし、威縣・深州に屯し、燕の帰路を邀う。祿は皆これを撃ち走らしむ。滹沱河に戦い、右軍卻く。祿は馳せて陣に赴き、出入り数十戦し、これを破る。奔を追いて夾河に至り、斬馘算うる無し。單家橋に戦い、平安に執えらる。奮い縛を脱し、刀を抜きて守卒を殺し、馳せ還りて復た戦い、大いに安軍を敗る。順德・大名・彰德を掠む。西水寨を攻め、都指揮花英を生擒す。乗勝して東阿・東平・汶上を下し、連戦して淝河・小河・靈璧に及び、功最も上る。京師に入り、都督僉事に擢でらる。

永樂六年、同知に進む。八年、驃騎將軍を充たし、北征に従い、右都督に進む。十年上言す、「古より人を用うるは、必ず教に資す。今武臣の子弟閑暇にして教えず、緩急に使うべき者無からんことを恐る」と。帝その言を韙とす。會い四方より幼軍数萬を送り至る、悉く祿に隷してこれを操習せしむ。十五年、行在の後軍都督として営造を董ず。

十八年十二月、北京に定都し、奉天靖難推誠宣力武臣を授け、陽武侯に封ぜられ、祿千一百石。二十一年、右哨を将いて北征に従う。還り、長興の盗を討平す。二十二年、再び右哨を領して北征に従う。

仁宗が即位すると、左府を管掌するよう命じられ、太子太保を加えられ、世券を賜った。洪熙元年、総兵官に充てられ、塞外に備え防禦した。まもなく敵寇を捕らえた功績により、禄を五百石増やされた。この年、諸将軍の印を各辺境の鎮に頒布し、薛祿は鎮朔大将軍の印を佩用し、開平を巡り、大同の辺境に至った。

宣宗が即位すると、召還され、辺境防備に関する五つの事柄を上奏した。まもなく再び辺境巡察に派遣された。宣徳元年、楽安征討に従軍し、前鋒を務めた。高煦が捕らえられると、薛祿と尚書張本を留めてその地を鎮撫させた。翌年春、詔を奉じて畿内南部の諸府の城池を巡視し、軍士に厳しく戒めて民を擾乱させぬよう命じ、違反者は軍法で処断するとした。この夏、再び大将軍の印を佩用し、北へ開平を巡察し、帰還して宣府に駐屯した。敵が開平を侵犯したが、何も得られず退却し、城から三百余里離れた。薛祿は精兵を率いて昼は潜伏し夜に行軍し、三晩で到着した。軽騎兵を放って敵営を蹂躙し、これを撃破し、人畜を多く捕獲した。軍が帰還する際、敵がその後を追跡したが、再び奮撃してこれを破り、敵はこれにより遠く遁走した。召還された。三年、北征に従い、敵を寛河で破り、薊州・永平に留まって鎮守した。再び数度にわたり鎮朔の印を佩用し、辺境を巡察し糧餉を護衛し、開平・宣府の間を出撃した。五年、鳳凰嶺で敵に遭遇し、多くを斬り捕らえ、太保を加えられた。上奏して永寧衛の団山及び雕鶚・赤城・雲州・独石に城堡を築き、守禦に便利であると述べた。詔により軍民三万六千を動員して工事に赴かせ、精騎一千五百を護衛に当たらせ、すべて薛祿の節制に従わせた。出発に際し詩を賜り、山甫・南仲に比された。薛祿は武人で書を読まず、楊士奇に問うた。士奇は言った、「上は古の賢人をもって君を持てなされているのです」。薛祿は胸を打って言った、「祿どうして前賢を望みえましょうか、しかしどうして万一にも上恩に報いようと努めないでいられましょうか」。その年六月に病気になり、召還された。一ヶ月余り後に卒去した。鄞国公を追贈され、諡は忠武。

薛祿は勇気があり謀略を好み、謀略が定まってから戦い、戦えば必ず勝った。紀律は厳明で、秋毫も犯さなかった。士卒をよく撫で、苦楽を共にし、人々は喜んで彼に用いられた。「靖難」の諸功臣では、張玉・朱能及び薛祿の三人が最も優れ、薛祿は三朝に仕え、巍然として時の宿将であった。

孫の薛詵が嗣いだ。曾孫の薛翰に至って卒去し、子がなく、族人が襲封を争い、長い間請願が認められず、田宅はともに官に没収され、世が絶えて三十余年経った。万暦五年になってようやく薛翰の族子の薛鋹を侯に封じた。再び伝わって薛濂に至った。崇禎末、京師が陥落し、被害に遭った。

永楽年間に北平で起兵に従い、後に功績を積み重ねて大将に至り、侯伯に封ぜられた者で「靖難」の功績によらない者は、薛祿及び郭義・金玉・劉栄・朱栄の凡そ五人であり、郭義・金玉と薛祿は同日に封ぜられたという。

郭義は、済寧の人である。洪武年間、功績を積んで燕山千戸となった。成祖に従って京師に入り、累進して左都督となった。永楽九年、職務怠慢の罪で交阯に流罪となり、功を立て、まもなく赦免された。数度にわたり塞外に出撃し、功績があり、安陽侯に封ぜられ、禄千一百石、また奉天靖難武臣の称号を授けられた。当時郭義は南京におり、病が重く、任官の命を聞いて卒去した。

金玉は、江浦の人である。父の官職を襲い羽林衛百戸となり、燕山護衛に転任した。起兵に従って功績があり、累進して河南都指揮使となった。永楽三年、都督僉事に進んだ。八年、鷹揚将軍に充てられ北征に従った。軍が凱旋する際、殿軍を務めた。長秀川に至り、敵が放棄した牛羊雑畜を数十里にわたって収集した。十四年、山西の妖賊劉子進を討って平定した。前後の功績を論じ、恵安伯に封ぜられ、禄九百石。十九年に卒去した。妾の田氏が自経して殉死し、淑人を追贈された。

劉栄は、宿遷の人である。初め父の名である江を冒した。魏国公徐達に従って灰山・黒松林で戦った。総旗となり、燕邸に給事した。雄偉で智略に富み、成祖は深く器重し、密雲衛百戸を授けた。起兵に従って前鋒となり、屡々戦功を立てた。山東を攻略し、朱栄と精騎三千を率い、夜間に滑口で南軍を襲撃し、数千人を斬り、馬三千を捕獲し、都指揮唐礼等を生擒した。累進して都指揮僉事を授けられた。滹沱河で戦い、浮橋を奪い、館陶・曹州を掠め、大いに捕獲した。軍を返して北平を救援し、平村で平安の軍を破った。楊文が遼東の兵を率いて永平を包囲すると、劉江は救援に向かい、楊文は退却した。劉江は北平に帰還すると声言し、二十余里進んだところで、甲を巻き夜間に永平に入った。楊文は劉江が去ったと聞き、再び攻撃してきた。劉江は突出して掩撃し、これを大破した。数千の首級を斬り、指揮王雄等七十一人を生擒した。都指揮使に昇進した。淝河に至り、白義・王真と軽騎を率いて平安を誘致し、これを破った。

当時南軍は宿州に駐屯し、食糧を蓄積して持久の計を立てていた。成祖はこれを憂い、その糧道を断つことを議した。劉江に三千人を率いて行かせようとしたが、ためらって進まなかった。成祖は大いに怒り、斬ろうとした。諸将が叩頭して請うたので、ようやく免じた。渡江後の功績策定で、以前の罪により封ぜられず、ただ都督僉事を授けられた。中府右都督に昇進した。

永楽八年、北征に従い、遊撃将軍として前哨を督した。夜間に乗じて清水源を占拠し、敵を斡難河で破り、また靖虜鎮で阿魯臺を破った。軍の帰還時に殿軍を務め、即座に軍中で左都督に進み、遼東鎮守に派遣された。敵が侵入して官軍を殺害した。帝は怒り、劉江を斬るよう命じたが、まもなく赦免した。九年、再び遼東を鎮守した。十二年、再び北征に従い、依然として前鋒となり、勁騎を率いて飲馬河で敵を偵察した。敵騎が東へ逃走するのを見て、康哈裏孩まで追撃し、数十人を撃ち斬った。再び大軍と合流して忽失温で馬哈木を撃ち、馬から下りて短兵を持ち陣を突破し、多くを斬り捕らえ、上賞を受けた。再び総兵官に充てられ、遼東を鎮守した。

倭寇が数度海上を寇掠し、北は遼に至り、南は浙・閩に至り、沿海の郡邑は多く被害を受けた。劉江は形勢を推し量り、金線島西北の望海堝に城堡を築き、烽堠を設け、厳重に兵を配置して待つよう請願した。十七年六月、偵察者が東南の海島で火が上がったと報告した。劉江は急いで兵を率いて堝上に赴いた。倭寇三十余隻が到着し、馬雄島に停泊し、岸に上陸して望海堝へ奔った。劉江は山に依って伏兵を設け、別に将を遣わしてその帰路を断ち、歩卒で迎え撃ち、偽って退却した。賊が伏兵の中に入ると、砲を挙げ伏兵が起ち上がり、辰の刻から酉の刻までかかり、賊を大破した。賊は桜桃園の空堡の中へ逃走したが、劉江は西壁を開いて逃走させた。再び両路に分かれて挟撃し、これを全滅させ、千余級の首級を斬り、百三十人を生擒した。これ以降倭寇は大いに打撃を受け、再び遼東に入ることを敢えてしなくなった。詔により広寧伯に封ぜられ、禄千二百石、世券を賜り、この時初めて名を栄と改めた。まもなく還鎮に派遣された。翌年四月に卒去した。

劉栄は将として、常に軍の先鋒となり、向かうところ堅陣なく、士卒を統御するに紀律があり、恩信は厳明であった。塞に降伏して来る者には、撫輯を極めて行き届かせた。卒去後、人々は皆彼を懐かしんだ。侯を追贈され、諡は忠武。

子の劉湍が嗣いだ。卒去し、子がなく、弟の劉安が嗣いだ。正統十四年、郭登とともに大同を鎮守した。也先が英宗を擁して城下に至り、郭登に出て会うよう求めたが、郭登は承諾しなかった。劉安が出て会い、帝の前に伏して泣いた。景帝が勅を下して厳しく責めた。劉安は馳せて京師に至り、上皇の命を奉じて敵情を告げに来たと述べ、また自分を侯に進めるよう言った。群臣が相次いで弾劾し、獄に下して死罪と論じられた。ちょうど京師が戒厳となったため、劉安を釈放して総兵官に充て、東直門に陣した。敵寇が退くと、都督同知に進み、白羊口を守備し、再び伯爵に復した。英宗が復位すると、世襲の侯爵を賜り、さらに禄三百石を増やされた。曹欽の反乱では、劉安は傷を負い、太子少傅を加えられた。成化年間に卒去した。嶧国公を追贈され、諡は忠僖。爵位は明が滅亡するまで伝わった。

朱榮は、字を仲華といい、沂の人である。洪武十四年、総旗として西平侯沐英に従い雲南を征討した。累進して副千戸となった。大寧を守備していたが、成祖に降った。滑口で孫霖を襲撃し、定州を包囲し、南軍の糧道を断ち、大小二十余戦に及び、功績により都督僉事を授けられた。

永楽四年、新城侯張輔に従い交阯を征討し、鶏陵関を破り、白鶴で沐晟と会合した。張輔らは嘉林江の上流で軍を渡すことを議し、朱榮を下流十八里に陣取らせ、日ごとに兵数を増やして賊を惑わせた。また舟筏を作って渡河しようとする様子を見せ、牽制した。賊は果たして兵を分けて江を渡り岸に上陸した。朱榮らは奮撃し、これを大破した。大軍が進んで多邦城を陥落させると、朱榮の功績が最も多かった。帝は朱榮がかつて怠慢な事があったとして、軍の帰還後に功績を論じ、わずかに右都督に昇進させ、白金と鈔幣を賜った。七年、再び張輔に従い賊の残党を討ち、平定した。

翌年、右掖を督し、阿魯臺征討に従軍し、劉榮とともに左都督に進んだ。十二年、再び北征に従い、劉榮とともに前鋒となった。その冬、総兵官に充てられ、大同を鎮守した。忙牛嶺、兎毛河、赤山、榆楊口、来勝の諸城を修築し、寇は近づくことができなかった。三年在任し、召還された。

十八年、劉榮に代わって遼東を鎮守した。二十年、再び北征に従い、前鋒となった。雕鶚に駐屯して寇を偵察し、五千騎で敵の動向を探った。大軍は玉沙泉に駐屯した。朱榮は精鋭三百人を率い、一人に三馬を与え、二十日分の食糧を持って深く侵入した。敵はすでに牛羊馬駱駝を捨てて北へ逃走しており、これをすべて収容し、その輜重を焼き、軍を移して兀良哈を撃破した。軍が帰還すると、武進伯に封ぜられ、禄千二百石を賜り、引き続き遼東を鎮守した。二十二年、再び北征に従った。その後、鎮守に戻った。洪熙元年、征虜前将軍の印を佩び、鎮守は従前の通りとした。その年七月、任地で卒去した。侯を追贈され、諡は忠靖といった。

子の朱冕が嗣いだ。晋王朱済熿が新たに廃されたため、山西を鎮守するよう命じられ、まもなく召還された。六年、独石に糧秣を輸送するよう命じられ、それに伴いその地を巡察した。正統四年、征西将軍の印を佩び、大同を鎮守した。十四年、北征に従い、陽和で戦い、戦死した。諡は忠愨といった。子の朱瑛が嗣いだ。爵位は明の滅亡まで伝わった。

費瓛は、定遠の人である。祖父の費愚は、洪武の時に燕府左相となり、改めて燕山中護衛指揮使を授けられた。子の費粛に伝わった。費瓛に至り、成祖に従い起兵して功績があり、累進して後軍都督僉事となった。

永楽八年春、涼州衛千戸の虎保、永昌衛千戸の亦令真巴らが反乱し、数千の衆が駅路を占拠して屯した。新たに帰附した伯顔帖木児らがこれに応じた。西辺は震動した。都指揮の李智がこれを撃ったが勝てなかった。賊は永昌・涼州城を攻めると言いふらした。皇太子は費瓛に討伐に向かうよう命じた。涼州に至ると、李智及び都指揮の陳懐が軍を率いて合流し、進軍して鎮番に至った。双城で賊と遭遇した。費瓛はその左を撃ち、陳懐らはその右を撃った。賊は大敗して逃走し、三百余級を斬首した。追撃して黒魚海に至り、賊千余人を捕らえ、馬・駱駝・牛・羊十二万を獲得した。虎保らは遠くへ逃げ去った。そこで軍を返した。

十二年、総兵官に充てられ、甘粛を鎮守した。費瓛は、粛州は兵が多く食糧が少ないため、もし調発があれば、急な措置が難しいとして、臨鞏の税糧を辺境近くの軍丁に付して転運させることを請願した。また涼州には多くの閑田があるとして、軍に給して屯田開墾させることを請願した。従われた。洪熙元年、平羌将軍の印を賜った。永楽の時、諸辺境は概ね宦官を用いて協同鎮守させ、ほしいままに軍務を専断し、費瓛もまた彼らに制約された。仁宗はこれを知り、璽書を賜って責めて言った、「汝は名臣の後裔として、国の重い任を受けているのに、どうして人に制約されて俯首するのか、これが大丈夫のなすべきことか!痛く自ら懲らしめ改め、後の功績を図れ。」費瓛は書を得て陳謝した。

宣宗が位を嗣ぐと、右府左都督に進んだ。元年七月、入朝し、崇信伯に封ぜられ、禄千一百石を賜った。高煦征討に従い、流河駅に駐屯した。帝は前鋒の薛祿の軍が少ないのを思い、費瓛に兵を率いて増援するよう命じた。帰還すると、世券を賜り、再び甘粛を鎮守した。二年、沙州衛の賊がたびたび撒馬児罕及び亦力把裏の貢使を掠奪したので、費瓛はこれを討ち破った。翌年、任地で卒去した。

費瓛は人となり温和で、士卒をよく慰撫した。鎮守すること十五年、境内は平穏であった。子の費釗が嗣いだ。鄧茂七征討に従い、帰還して都督府を掌った。天順年中、武定侯郭英の次孫の郭昭の賄賂を受け、嫡孫の郭昌が不孝であると誣告し、その爵位を奪おうとした。法司が逮捕処罰を請うたが、詔により府の職務を解かれた。卒去し、子の費淮が爵を嗣いだ。明の滅亡に至って絶えた。

譚広は、字を仲宏といい、丹徒の人である。洪武初年、兵卒から身を起こし、金山征討に従い、燕山護衛百戸となった。成祖に従い起兵し、百騎を率いて涿州を掠め、将校三十人を生け捕りにした。白溝、真定、夾河の戦いでいずれも功績があり、累進して指揮使となり、保定を留守した。都督韓観が十二万の軍を率いて攻めてきた。譚広は孤軍で四十余日力戦し、隙を見てこれを撃破し退けた。

永楽九年、大寧都指揮僉事に進んだ。北京の造営を監督した。その後、神機営を領し、北征に従い、ぎょう騎将軍に充てられた。十一年、山西で軍を訓練した。翌年、九龍口征討に従い、前鋒となった。賊数万が岸辺に拠った。譚広は強弓を引く兵士に射させた。万矢一斉に発し、死者は数えきれなかった。乗勝して挟撃し、賊は大敗した。功績により、都督僉事に進んだ。

仁宗が位を嗣ぐと、左都督に抜擢され、鎮朔将軍の印を佩び、宣府を鎮守した。宣徳三年、軍衛も郡県の例のごとく、風雲雷雨山川社稷の壇を立てることを請願した。六年、宣府は食糧が少ないとして、開平・独石のように商人に塩を給付して粟を納めさせ、兵糧を充足させることを請願した。いずれも従われた。翌年、帝が戸部の議に従い、他の衛の軍で宣府に戍守する者は、すべて帰還させて屯田耕作させようとした。譚広が上奏して言った、「臣の守る辺境は一千四百余里に及び、敵人が窺い、いつ密かに発するかわからない。もし警報があれば、数百里外から兵を徴発しても、その勢いで間に合うでしょうか。屯田耕作の議は、臣の愚見では妥当とは思えません。」帝は辺境の兵卒は戍守に余裕があるとして、ただ永楽年中に調発されて戍守している者は帰還させないよう命じた。

正統初年、朝廷の議論では、脱歓は和親を申し出てはいるが、狡猾な謀りごとは測りがたいとして、譚広及び他の鎮の総兵官陳懐、李謙、王彧に方策を図上するよう命じた。譚広らはそれぞれ意見を上奏し、大要は次のようであった、「辺境の寇は出没が常ならず、ただ守り防ぐことが上策である。要害を分兵して扼し、間には精鋭を派遣して塞外を巡らせ、敵に遭遇すれば力に応じて戦い守り、間諜を用いて偵察し、軽兵で追跡すべきである。寇が来ても得るものなく、去るにも恐れるものがあれば、辺境の患いは少しは和らぐであろう。」帝はその意見を容れた。六年十一月、敵を防いだ功績により、永寧伯に封ぜられ、禄千二百石を賜り、引き続き宣府を鎮守した。八年、致仕を願い出た。優詔で許されなかった。翌年十月、召還されて謁見した。帝はその老齢を哀れみ、常朝を免じた。その月に卒去した。八十二歳であった。諡は襄毅といった。

譚広は背が高く力が強く、兵卒から奮起して大将に至り、大小百余戦に及び、一度も敗北したことがなかった。宣府で二十年、屯堡を修築し、守備を厳しくし、駅伝を増設し、また各辺境に火器を頒給するよう請願した。将校が軍律に違反すれば、ただちに上奏して罪に処するよう請願し、士卒を慰撫するには恩があった。辺境は平穏で、名将と称された。かつて憤りを逞しくして都司経歴を杖殺し、また私怨で百戸を杖打ち、ともに言官に弾劾されたが、問わなかった。卒去後、吏部が世券ではないと上言したため、その子の譚序に指揮使を授けた。

陳懷は合肥の人である。父の職を襲い真定副千戸となった。永楽初年、功を積み重ねて都指揮僉事に至った。平安南に従い、都指揮使に進み、山西都司事を蒞んだ。再び張輔に従い安南の賊簡定を擒え、都督費瓛に従い涼州の叛人虎保を征し、いずれも功があった。仁宗が立つと、都督同知に進んだ。

宣徳元年、梁銘に代わり総兵官となり、寧夏を鎮守した。時に官軍が交阯を征する者は屡々敗れ、詔して松潘の軍を発してこれを援けしむるに、将士は行くを憚った。千戸銭宏は衆と謀り、詐って番の叛くを言い、兵を帥いて麦匝諸族を掠めた。番人は震恐し、遂に反した。指揮陳傑等を殺し、松潘・疊溪を陥とし、威・茂諸州を囲んだ。指揮呉玉・韓整・高隆相次いで敗績し、西鄙騒然とした。詔して鴻臚丞何敏・指揮呉瑋を遣わしてこれを招かしめ、陳懷に命じ劉昭・趙安・蒋貴を統べ師数万を帥いてその後に随わしめた。呉瑋等が至ると、賊は命に順わず。呉瑋は龍州知州薛継賢と賊を撃ち、松潘を復した。陳懷の至るに及び、仍く呉瑋を前鋒とし、遂に疊溪を復し、二十余寨を降した。復業を招撫する者一万二千二百余戸、掠められた軍民二千二百余人を帰し、事遂に定まった。左都督に進み、金幣を厚く賚したが、呉瑋の功を絀して録さず。陳懷は留まって四川を鎮守した。鎮中に在って驕縦にして法に違い、民事に干預し、賕を受け罪人を庇い、屯田を侵奪し、僉事柴震等を笞辱し、数えしばしば言官に劾された。帝は勅を降して責め譲り、また御史王礼の弾劾の章をこれに示した。陳懷は罪を引いた。置いて問わず。

六年、松潘の勒都・北定諸族及び空郎・龍溪諸寨の番が再び叛いた。陳懷は兵を遣わして戦いに敗れ、指揮安寧等の死者三百余人。陳懷は乃ち親しく兵を督して深く入り、革児骨寨を破り、空郎乞児洞に進攻した。賊は敗れ、斬首し崖に墜ちて死する者算うるに遑あらず。革児骨の賊は再び聚まり生苗をして戦いを邀えしめた。これを撃破し、剿戮すること殆んど尽きた。ここにおいて任昌・牛心諸寨の番は風を聞きて降を乞い、群寇悉く平らぐ。久しくして、巡按御史及び按察使が復た奏す、「陳懷は僭侈にして分を逾えたり。毎朝、三司の官に分班して立たしめ、事あれば跪いて白せしむ。陳懷は中に坐し、旨を称して行遣す。且つ日に酒に荒み、辺備を飭さず、城寨の失陷を致せり」と。宣宗怒り、陳懷を召し還し、文武の大臣に命じてこれを鞫かしめ、罪は斬に当たる。都察院の獄に下し、死を宥して職を落とす。

正統二年、原官を以て大同を鎮守す。時に北人の来貢する者は日に廩餼を給し、軍民の累と為る。陳懷、朝に言いて、減省を得たり。二年居りて、老を以て召し還され、中府の事を理するを命ぜらる。九年春、中官但住とともに古北口を出で、兀良哈を征す。還りて馬亮等とともに封ぜられ、陳懷は平郷伯を得たり。十四年、駕に扈従して北征し、土木に死す。侯を贈り、諡して忠毅と曰う。

子の輔、爵を襲うことを乞う。吏部は世券に非ずと言い、執って許さず。景帝は陳懷の死事を以て、これを許す。輔卒す。子の政、襲うことを請う。吏部は初めの如く執る。中旨、嗣ぐことを許す。政は両広を鎮すること久しく、自ら軍功を陳べ、世券を乞う。吏部復た執して不可とす。詔してこれを予う。政卒す。子の信、嗣ぐ。弘治中に卒す。子無し。弟の俊、指揮使を嗣ぐ。

馬亮は淇の人である。燕山衛の卒を以て成祖の起兵に従い、功を累ねて都指揮僉事に至る。宣宗の時、官は左都督に至る。兀良哈の役、中官劉永誠とともに劉家口を出で、黒山・大松林・流沙河諸処に至り、賊に遇いてこれを勝つ。還りて招遠伯に封ぜらる。この役は、王振これを主とす、故に諸将の功少なきも率ね封を得たり。

馬亮は騎射に善く、毎戦士卒に身を先んじ、向かうところ克捷し、時に驍将と称せらる。伯となること三年にして卒す。諡して栄毅と曰う。

蒋貴は字を大富と曰い、江都の人である。燕山衛の卒を以て成祖の起兵に従う。雄偉にして力多く、騎射に善く、功を積みて昌国衛指揮同知に至る。大軍に従い交阯及び沙漠を征し、都指揮僉事に遷り、彭城衛事を掌る。

宣徳二年、四川松潘諸番叛く。右参将に充て、総兵官陳懷に従いこれを討つ。郷導を募り、険を絶ちて進み、その巣に薄る。一日十数戦、これを大いに敗る。都指揮同知に進み、密雲を鎮守す。七年、復た参将と為すを命ぜられ、陳懷を佐けて松潘を鎮す。明年、都督僉事に進み、副総兵に充て、方政を協けて鎮守す。又明年、諸番復た叛く。方政等は分道進討す。蒋貴は兵四千を督し、任昌大寨を攻破す。時に都指揮趙得・宮聚の兵は以て次第に龍溪等三十七寨を討平し、斬首一千七百級、崖に投じ水に墜ちて死する者算うるに遑あらず。捷を聞き、都督同知に進み、総兵官に充て、平蛮将軍印を佩び、方政に代わりて鎮守す。

英宗即位す。統ぶる所皆極辺の地なるを以て、軍士の月糧を増すを奏す。正統元年召し還され、右都督と為る。阿台、甘・涼を寇す。辺将急を告ぐ。平虜将軍印を佩ぶるを命ぜられ、師を帥いてこれを討つ。賊、荘浪を犯す。都指揮江源戦死し、士卒百四十余人を亡う。侍郎徐晞、蒋貴を劾す。朝議、蒋貴は方に甘州に軍を選ぶ、勢相及ばず。而して荘浪は徐晞の統ぶる所、徐晞に罪を委するを責む。蒋貴を置いて問わず。

明年春、諜報す、敵賀蘭山後に駐す。詔して大同総兵官方政・都指揮楊洪は大同迤西より出で、蒋貴は都督趙安とともに涼州塞より出で会剿す。蒋貴、魚児海子に至る。都指揮安敬、前途に水草無しと言い、引き還る。陝西を鎮守する都御史陳鎰、状を言う。尚書王驥、辺務を理めに出で、安敬を斬り、蒋貴に功を立てしむるを責む。蒋貴感奮し、時に朵児只伯は罪を懼れ、連ねて使を遣わし入貢す。敵勢稍々弱し。蒋貴は軽騎を帥いてこれを狼山に敗り、石城に追い抵る。已にして、朵児只伯の阿台に依るを兀魯乃の地に聞く。蒋貴は二千五百人を将いて前鋒と為し往きて襲う。副将李安これを沮む。蒋貴は剣を抜き厲声して李安を叱して曰く、「敢えて軍を阻む者は死す」と。遂に鎮夷を出づ。間道疾馳すること三日夜、その巣に抵る。阿台方に馬を牧す。蒋貴猝かに馬群に入り、士卒に令して鞭を以て弓韣を撃ちて馬を驚かしめ、馬尽く佚す。敵は馬を失い、弓を挽きて歩闘す。蒋貴は騎を縦して蹂撃し、指揮毛哈阿奮いてその陣に入り、これを大いに敗る。復た軍を分かちて両翼と為し、別に百騎を遣わし高きに乗じて疑兵と為し、転戦八十里。時に任礼も亦た敵を追いて黒泉に至る。阿台と朵児只伯は数騎を以て遠く遁る。西辺悉く平らぐ。三年四月、王驥は捷を以て聞く。功を論じて定西伯に封じ、禄一千二百石を食み、世券を与う。明年、任礼に代わりて甘粛を鎮す。又明年冬、麓川蛮思任発を征するを以て、京に召し還さる。

六年、平蛮将軍印を佩ぶるを命ぜられ、総兵官に充て、王驥とともに師を帥いて金歯に抵る。分路進みて麓川の上江寨を搗き、杉木籠山七寨及び馬鞍山の象陣を破り、功皆第一なり。事は詳しく『王驥伝』に在り。明年、師還り、侯に進封し、禄三百石を益す。

八年夏、復た平蛮将軍印を佩び、王驥とともに思任発の子思機発を討ち、その寨を攻破す。明年、師還り、賞賚甚だ渥く、歳禄五百石を加う。この役、蒋貴の子雄は敵の敗るるに乗じ、三十人を帥いて深く入る。敵その後を扼す。自ら刎して江に沈む。懐遠将軍・彭城衛指揮使を贈る。

十四年正月、蒋貴卒す。年七十。涇国公を贈り、諡して武勇と曰う。

蒋貴は兵卒から身を起こし、文字を知らず、天性朴実であった。己を忘れて人に下り、士卒と苦楽を共にすることができた。境外に出て賊を討つときは、衣糧・器械を常に自ら袋に負い、一人も使役せず、戦陣に臨めば必ず自ら先頭に立ち、このゆえに向かうところ功があった。

子の蒋義は病のため嗣ぐことができず、養子の蒋琬が侯を嗣いだ。天順末年、平羌将軍印を佩び、甘肅に総兵し、甘州・沙河などの屯堡を築いた。

成化八年に召還され、南京を協守し、兼ねて操江を督した。十年に召されて十二団営を督し、まもなく神機営兵を兼総した。上言して言う、「太祖は南京を肇建し、京城の外にさらに土城を築いて住民を衛したのは、まことに万世の業である。今の北京にはただ内城があるのみである。己巳の変に、敵騎が長駆して直ちに城下に迫ったことは、鑑とすべきである。今西北隅に故址なお存する。急ぎ勧募の令を行い、工罰をもって補い、成功は難くない」。また言う、「大同・宣府などの塞下には、沃田数十万頃とおぼしきもの、すべて豪右に占められている。畿内八府では、良田の半ばは勢要の家に属する。細民は失業している。もし辺関に警あれば、内郡は何を資とすべきか。運道もし梗まれれば、京師は何を給すべきか。給事・御史を遣わして塞下の田を按核し、その科額を定めよ。畿内の民田は、豪右を厳しく戒めて侵奪せしむるなかれ。これにより兵民は食に足り、内外に備えあらん」。章は所司に下った。尽く行われなかったが、時の論はこれを是とした。十三年に京軍を帥いて大同・宣府で防秋し、機宜十余事を陳べた。皆報可された。十五年に汪直とともに遼東の辺事を按した。

二十年に将軍印を佩び、出でて辺寇を禦した。寇退きて班師し、累ねて太保兼太子太傅を加えられた。卒し、涼国公を贈られ、諡は敏毅。

子の蒋驥が嗣ぎ、京営兵を典した。弘治中に総兵官に充てられ、薊州・遼東・湖廣を歴鎮した。内外の官に二十年、家に余資なし。再伝して孫の蒋傅に至る。嘉靖中、累ねて軍府を典し、征蛮将軍印を佩び、両廣を鎮めた。海賊及び慶遠の瑶を平らげた功により、太子太保を加えられた。明亡びて、爵絶つ。

任礼、字は尚義、臨漳の人。燕山衛の兵卒として成祖に従い起兵し、功を積んで山東都指揮使に至る。永楽二十年に都督僉事に擢げられた。北征に従い、前行して敵を偵察し、還って厚賞を受けた。仁宗即位し、広西都司事を掌ることを命ぜられた。まもなく遼東に改まる。宣宗立つと、都指揮同知に進んだ。楽安平定に従い、また兀良哈征討に従い、還って後衛を為した。英宗立つと、左都督に進んだ。

正統元年に平羌将軍印を佩び、左副総兵として甘肅に鎮した。阿臺・朵児只伯がしばしば肅州を犯し、璽書をもって譙譲された。二年にまた莊浪を寇した。都指揮魏栄が撃ち退け、朵児只伯の甥把禿孛羅を擒えた。礼はこれを聞かせた。三年に王驥・蒋貴とともに塞に出で、石城で朵児只伯を敗った。さらに分道して梧桐林・亦集乃に至り、進んで黒泉に至って還った。斬獲多く、寧遠伯に封ぜられ、禄千二百石。明年に還朝した。また明年に蒋貴に代わって甘肅を鎮した。八年、赤斤蒙古衛都督且旺失加は也先の暴横を苦しみ、也洛卜剌に移駐せんとした。礼はその地が肅州に近きを以て、執って許さず。已にして、その地に寺を建てんことを奏請した。礼はまた言う、その建寺を許せば、彼必ず移居し、後患を遺すと。事ついに寝た。時に辺将の家僮が塞上の田を墾く者は、毎頃糧十二石を輸した。礼は連ねて朝に請い、四石を減ずるを得た。この時辺塞に警なく、礼は巡撫曹翼とともに屯田して粟を積み、甲を繕い兵を訓え、辺備甚だ固かった。

十一年、沙州衛都督喃哥兄弟争い、部衆離貳す。礼はその饑窘に乗じ、内地に遷さんと欲した。会に喃哥もまた肅州境内に居らんことを請う。礼はよって都指揮毛哈剌を遣わしてその衆を撫せしめ、みずから兵を帥いてその後に継いだ。至るに及んで、喃哥また両端を持す。その部下は瓦剌に奔らんと欲し、礼は進兵してこれを逼り、遂にその全部千二百余人を収めて還った。事聞こえ、賜賚甚だ厚し。時に瓦剌の也先まさに盛んで、喃哥の弟鎖南奔を祁王に封ず。礼は二寇合すれば勢いますます制し難しとし、人を遣わしてこれを招いた。鎖南奔は従わんと欲して未だ決せず、礼は潜かに師を率いて直ちに罕東に抵り、これを縶して帰った。帝大いに喜び、礼に鉄券を賜い、世襲せしめた。

十四年、也先分道して入寇し、肅州に抵る。礼は裨将を遣わしてこれを禦せしめ、再戦再敗し、士馬を失うこと万計に及んだ。征還され、伯のまま邸に就く。景泰初め、三千営を提督し、老いて致仕した。久しくして、また起用され南京を守備し、召されて中府を掌った。

礼は兵卒より起り、大将に至るまで、恪謹として法を奉じた。成化初めに卒す。侯を贈られ、諡は僖武。子の任寿が嗣ぎ、総兵して陜西に鎮した。満四征討に失律の罪に坐し、死を宥められて辺に戍す。子の任弘に世指揮使を予う。

趙安、狄道の人。従兄の趙琦は土指揮同知、罪に坐して死し、安は甘州に謫戍された。永楽元年に馬を進め、臨洮百戸に除され、西域に使した。北征に従い功あり、累進して都指揮同知となる。

宣徳二年、松潘の番叛く。左参将に充てられ、総兵陳懷に従い討ち平げ、都督僉事に進む。時に兀良哈を討たんと議し、詔して安と史昭に所部を統べさせて京師に赴かしむ。兀良哈まもなく来朝し、原衛に回ることを命ぜられる。烏思蔵に使い、四年にして還る。明年また左参将として史昭に従い曲先を討ち、斬獲多し。九年、中官宋成ら烏思蔵に使い、安に兵千五百人を帥いてこれを畢力術江まで送らしむ。まもなく侍郎徐晞とともに塞に出でて阿臺・朵児只伯を討ち、これを敗る。正統元年に都督同知に進み、右副総兵官に充てられ、任礼に協力して甘肅を鎮す。明年蒋貴とともに塞に出で、寇を剿るも功なし。三年、また王驥・任礼・蒋貴と分道進師し、刁力溝に至り右丞・達魯花赤など三十人を執る。功により会川伯に封ぜられ、禄千石。明年涼州に移鎮す。安の家は臨洮にあり、姻党・厮養多く盗を為し、副使陳斌これを聞かす。涼州においてまた多く無頼を招きて僮奴とし、民を擾し、また御史孫毓に劾せられる。詔して皆問わず。

安は勇敢にして将略あり、蒋貴・任礼とともに西辺の良将と称せられた。九年十二月卒す。子の趙英は指揮使となり、功を立てて都督同知に進む。

趙輔、字は良佐、鳳陽の人。職を襲い済寧衛指揮使となる。景帝嗣位し、尚書王直ら将才を以て薦め、署都指揮僉事に擢げられ、左参将に充てられて懐来を守る。天順初め、征入されて右府に蒞事す。

成化元年、中府都督同知を以て征夷将軍に拝され、韓雍とともに両廣の蛮を討ち、大藤峡を克ち、還って武靖伯に封ぜられる。已にして蛮が潯州に入り、言官交えて劾す。広西巡按御史端宏言う、「賊の流毒まさに甚だしいに、輔は妄りに賊尽きたりと言い、封爵を冒し、輔を罪せずんば以て戒めを示すことなし」。輔はすなわち自ら戦閥を陳べ、その罪を守将欧信に委ぬ。帝は皆問わず。三年に総兵して迤東を征し、都御史李秉とともに撫順より深入し、辺戦に功あり、侯に進む。

八年、廷議して大挙して河套を捜索すべしとし、輔を将軍に拝し、陝西・延綏・寧夏の三鎮の兵は皆その節制を聴かしむ。輔、榆林に至るも、寇は既に深く入り大いに掠奪す。輔、制することができず、王越とともに疏を上して兵を罷むるを請う。言官、交々にその罪を論ず。命じて給事中郭鏜をして往きて勘せしむ。還りて言う、「寇は六月に平涼・鞏昌・臨洮に入り、人畜を殺掠す。七月に至りて慶陽の境内を縦横す。輔と越は榆林に至りて進まず、その兵を弛め寇を玩ぶ罪を治むべし」と。帝、納れず。輔還り、猶も京営を督す。言者、攻むること益々力む。詔して姑くこれを置く。輔、侯を辞し、世伯を乞う。帝、その世伯を許し、侯は故の如く、僅かに禄二百石を減ず。言官、力爭す。聴かず。輔、復た疏を上して功を暴き、禄を減ぜられては以て老を贍うことなしと言う。又言う、上命じて内官盧永に南蛮を征せしめ、黄順・汪直に東北を征せしむるも、皆大功あり、宜しく史館に付すべしと。余子俊等、輔を法に置くを請う。終に問わず。十二年、営務を解く。家に居ること十年にして卒す。容国公を贈り、諡して恭肅と曰う。

輔、少より俊辯にして才あり、詞翰を善くし、多く文士と交わり、又権幸を結ぶを好む。故に屡々論劾に遭うも、終に患い無し。

子の承慶、伯を嗣ぎ、南京を協守す。正徳初め、諫官劉郤の疏を伝写するに坐し、劉瑾に悪まれて、半禄を削り閑住す。四伝して玄孫光遠に至り、万暦中に湖広を鎮む。明亡びて乃ち絶つ。

劉聚は、太監永誠の従子なり。金吾指揮同知と為る。「奪門」の功を以て、都指揮僉事に進み、復た超擢して都督同知と為る。曹欽を討つに与り、右都督に進む。

成化六年、右副総兵として朱永に従い延綏に赴き、賊を黄草梁に追う。伏兵に遇い、鏖戦して頬を傷つけ、麾下力めて捍ぎて以て免る。頃にして復た都督範瑾等とともに寇を青草溝に撃ち、これを敗る。永等、寇を牛家寨に追う。聚も亦た南山に拠り力攻す。寇大いに敗れ、境を出づ。功を論じて左都督に進み、内援を以て特に寧晋伯に封ぜらる。

八年冬、趙輔に代わりて将軍と為り、陝西諸鎮の兵を総ぶ。寇、花馬池に入る。率いて副総兵孫鉞・遊撃将軍王璽等をして撃ちてこれを却けしむ。還りて高家堡に至る。寇復た至る。これを敗る。奔を追いて漫天嶺に至る。伏兵起こりて夾撃す。又これを敗る。鉞・璽も亦た別に賊を井油山に破る。捷聞こゆ。世券を予う。

その冬、孛羅忽・満都魯・乚加思蘭、兵を連ねて深入し、秦州・安定・会寧諸州県に至り、数千里を縦横す。賊退く。時に王越、紅塩池より還るに適い、妄りに大捷を以て聞こえしむ。璽書を下し嘉労す。頃にして、功を紀する兵部員外郎張謹、聚及び総兵官範瑾等六将が掠奪されたる者を殺し、功を冒すを劾す。部科及び御史、章を交えて劾す。詔して給事中韓文を遣わして往きて勘せしむ。還りて奏すること謹の言う如し。報ずる所の首功百五十、僅かに十九級なり。帝、寇既に遁ぐるを以て、置きて問わず。聚、尋いで卒す。侯を贈り、諡して威勇と曰う。

子の祿及び福に伝う。福、弘治中に三千営を掌り、太子太保を加う。卒す。子の嶽嗣ぐ。卒す。従子の文、嗣ぐを請う。吏部言う、聚に大功無く、子孫再び襲うべからずと。世宗允さず、命じて文を嗣がしむ。亦た明の亡ぶるに伝わりて乃ち絶つ。

賛に曰う、宋晟は太祖の時に在りて、即ち開国の諸元勛と戎行に跡を参じ、その後涼州に四鎮し、威は西鄙に著わる。両子は主に尚り、世に徹侯を列ね、功名盛んなり。薛祿以下の諸人は、皆「靖難」に与る。祿の東昌・滹沱の戦い、劉栄の永平を守り、譚広の保定を守るは、力を宣ぶること最も著し。策勛の日に、即ち符を剖たずと雖も、各々積閥を以て封を受く。その士卒を善く撫し、封守を慎み固くし、恪謹として職を奉ずるは、尚ぶに足る者有り。趙輔・劉聚は猷績遠く前人に遜り、而して帯礪の盟は国と終始を共にす。誠に厚幸なるかな。諸人並びに勛爵を以て辺陲を鎮禦す。故に類して篇に著す。