○宋晟薛祿(郭義金玉)劉榮朱榮費瓛譚廣陳懷(馬亮)蔣貴(孫琬)任禮趙安趙輔劉聚
二十四年、總兵官を充たし、都督劉真と共に哈梅裏を討つ。その地は肅州より千余里。晟は軍中に多く糧糗を具えさせ、倍道疾馳し、夜に乗じて城下に至る。質明、金鼓の聲地を震わし、闔城股栗し、遂にこれを克つ。その王子別兒怯帖木兒、及び偽國公以下三十余人を擒え、その部落の輜重を収めて帰る。是より番戎慴服し、兵威西域に極まる。明年五月、藍玉に従い罕東を征し、阿真川を徇い、土酋哈昝等遁去す。師還り、中軍都督僉事に調ず。
二十八年六月、總兵官周興に従い開原より出で、忽剌江に至る。部長西陽哈遁ぐ、甫答迷城に追い至り、人畜を俘えて還る。明年、征南右副將軍を拝し、廣西帡幪諸寨の苗を討ち、擒斬七千余人。又明年、羽林八衛の兵を総べ、五開・龍裏の苗を討平す。三十一年、出でて開平に鎮し、燕王に従い塞に出で、還りて萬全諸衛を城す。建文改元、仍た甘肅に鎮す。
晟は凡そ四たび涼州に鎮し、前後二十余年、威信絕域に著る。帝は晟を旧臣とし、大將の材有りとして、邊事を以て專任し、その奏請は輒ち報可す。御史、晟の自專を劾す。帝曰く、「人を任じて專ならざれば則ち功を成す能わず、況んや大將一邊を統制す、寧くんぞ盡く文法に拘らんや」と。即ち晟に敕し、便宜を以て事に従わしむ。晟嘗て入朝を請う。報えて曰く、「西北の邊務、一以て卿に委ぬ、召命に非ざれば、輒ち來る毋れ」と。尋いで河西の牧地を営し、及び塞に出ずる方略を図ることを命ず。會い病卒す、五年七月なり。
晟に三子有り。長は瑄、建文中に府軍右衛指揮使となり、靈璧に戦い、先登し、数級を斬り、力鬥して死す。
琥既に廢せられ、弟の瑛嗣ぐ。瑛は鹹寧公主を尚ぶ。正統中、歴掌して左軍前府の事。瓦剌の也先入寇し、瑛は總兵官を充たし、大同の守將朱冕・石亨等を督して陽和に戦い、全軍敗沒し、瑛及び冕皆戦死す。鄆國公を贈られ、謚して忠順。
子の傑嗣ぐ。景泰中に禁兵を典し宿衛し、謹慎を以て称さる。卒し、子の誠嗣ぐ。右府の事を署し、復た平羌將軍印を佩び、甘肅に鎮す。誠は材武有り、嘗て出獵して涼州に至り、寇に遇い牛馬を掠めて北去す。誠は三矢にして三人を殪し、寇驚き散じ、掠めし所を盡く驅りて還る。九傳して孫の裕德に至り、流寇の難に死す。
薛祿、膠の人。行は六、軍中に呼びて「薛六」と曰う。既に貴ぶに及び、乃ち名を「祿」と更む。祿は卒伍を以て燕に従い起兵し、首めて九門を奪う。真定の戦い、左副將軍李堅迎え鬥う。鋒始めて交わるや、祿は槊を把りて堅を刺し馬より墜ち、これを擒う。指揮僉事に擢でらる。永平を援けんに従い、大寧・富峪・會州・寬河を下す。還りて北平を救い、先驅して南軍の遊騎を敗る。指揮同知に進む。大同を攻め、先鋒と為る。白溝河に戦い、奔を追いて濟南に至り、指揮使に遷る。東昌に戦い、五十騎を以て南兵数百を敗る。時に成祖は盛庸に敗られ、還り走りて北平に至る。庸は檄を真定の諸將にし、威縣・深州に屯し、燕の帰路を邀う。祿は皆これを撃ち走らしむ。滹沱河に戦い、右軍卻く。祿は馳せて陣に赴き、出入り数十戦し、これを破る。奔を追いて夾河に至り、斬馘算うる無し。單家橋に戦い、平安に執えらる。奮い縛を脱し、刀を抜きて守卒を殺し、馳せ還りて復た戦い、大いに安軍を敗る。順德・大名・彰德を掠む。西水寨を攻め、都指揮花英を生擒す。乗勝して東阿・東平・汶上を下し、連戦して淝河・小河・靈璧に及び、功最も上る。京師に入り、都督僉事に擢でらる。
永樂六年、同知に進む。八年、驃騎將軍を充たし、北征に従い、右都督に進む。十年上言す、「古より人を用うるは、必ず豫教に資す。今武臣の子弟閑暇にして教えず、緩急に使うべき者無からんことを恐る」と。帝その言を韙とす。會い四方より幼軍数萬を送り至る、悉く祿に隷してこれを操習せしむ。十五年、行在の後軍都督として営造を董ず。
薛祿は勇気があり謀略を好み、謀略が定まってから戦い、戦えば必ず勝った。紀律は厳明で、秋毫も犯さなかった。士卒をよく撫で、苦楽を共にし、人々は喜んで彼に用いられた。「靖難」の諸功臣では、張玉・朱能及び薛祿の三人が最も優れ、薛祿は三朝に仕え、巍然として時の宿将であった。
孫の薛詵が嗣いだ。曾孫の薛翰に至って卒去し、子がなく、族人が襲封を争い、長い間請願が認められず、田宅はともに官に没収され、世が絶えて三十余年経った。万暦五年になってようやく薛翰の族子の薛鋹を侯に封じた。再び伝わって薛濂に至った。崇禎末、京師が陥落し、被害に遭った。
永楽年間に北平で起兵に従い、後に功績を積み重ねて大将に至り、侯伯に封ぜられた者で「靖難」の功績によらない者は、薛祿及び郭義・金玉・劉栄・朱栄の凡そ五人であり、郭義・金玉と薛祿は同日に封ぜられたという。
郭義は、済寧の人である。洪武年間、功績を積んで燕山千戸となった。成祖に従って京師に入り、累進して左都督となった。永楽九年、職務怠慢の罪で交阯に流罪となり、功を立て、まもなく赦免された。数度にわたり塞外に出撃し、功績があり、安陽侯に封ぜられ、禄千一百石、また奉天靖難武臣の称号を授けられた。当時郭義は南京におり、病が重く、任官の命を聞いて卒去した。
劉栄は、宿遷の人である。初め父の名である江を冒した。魏国公徐達に従って灰山・黒松林で戦った。総旗となり、燕邸に給事した。雄偉で智略に富み、成祖は深く器重し、密雲衛百戸を授けた。起兵に従って前鋒となり、屡々戦功を立てた。山東を攻略し、朱栄と精騎三千を率い、夜間に滑口で南軍を襲撃し、数千人を斬り、馬三千を捕獲し、都指揮唐礼等を生擒した。累進して都指揮僉事を授けられた。滹沱河で戦い、浮橋を奪い、館陶・曹州を掠め、大いに捕獲した。軍を返して北平を救援し、平村で平安の軍を破った。楊文が遼東の兵を率いて永平を包囲すると、劉江は救援に向かい、楊文は退却した。劉江は北平に帰還すると声言し、二十余里進んだところで、甲を巻き夜間に永平に入った。楊文は劉江が去ったと聞き、再び攻撃してきた。劉江は突出して掩撃し、これを大破した。数千の首級を斬り、指揮王雄等七十一人を生擒した。都指揮使に昇進した。淝河に至り、白義・王真と軽騎を率いて平安を誘致し、これを破った。
当時南軍は宿州に駐屯し、食糧を蓄積して持久の計を立てていた。成祖はこれを憂い、その糧道を断つことを議した。劉江に三千人を率いて行かせようとしたが、ためらって進まなかった。成祖は大いに怒り、斬ろうとした。諸将が叩頭して請うたので、ようやく免じた。渡江後の功績策定で、以前の罪により封ぜられず、ただ都督僉事を授けられた。中府右都督に昇進した。
倭寇が数度海上を寇掠し、北は遼に至り、南は浙・閩に至り、沿海の郡邑は多く被害を受けた。劉江は形勢を推し量り、金線島西北の望海堝に城堡を築き、烽堠を設け、厳重に兵を配置して待つよう請願した。十七年六月、偵察者が東南の海島で火が上がったと報告した。劉江は急いで兵を率いて堝上に赴いた。倭寇三十余隻が到着し、馬雄島に停泊し、岸に上陸して望海堝へ奔った。劉江は山に依って伏兵を設け、別に将を遣わしてその帰路を断ち、歩卒で迎え撃ち、偽って退却した。賊が伏兵の中に入ると、砲を挙げ伏兵が起ち上がり、辰の刻から酉の刻までかかり、賊を大破した。賊は桜桃園の空堡の中へ逃走したが、劉江は西壁を開いて逃走させた。再び両路に分かれて挟撃し、これを全滅させ、千余級の首級を斬り、百三十人を生擒した。これ以降倭寇は大いに打撃を受け、再び遼東に入ることを敢えてしなくなった。詔により広寧伯に封ぜられ、禄千二百石、世券を賜り、この時初めて名を栄と改めた。まもなく還鎮に派遣された。翌年四月に卒去した。
劉栄は将として、常に軍の先鋒となり、向かうところ堅陣なく、士卒を統御するに紀律があり、恩信は厳明であった。塞に降伏して来る者には、撫輯を極めて行き届かせた。卒去後、人々は皆彼を懐かしんだ。侯を追贈され、諡は忠武。
子の劉湍が嗣いだ。卒去し、子がなく、弟の劉安が嗣いだ。正統十四年、郭登とともに大同を鎮守した。也先が英宗を擁して城下に至り、郭登に出て会うよう求めたが、郭登は承諾しなかった。劉安が出て会い、帝の前に伏して泣いた。景帝が勅を下して厳しく責めた。劉安は馳せて京師に至り、上皇の命を奉じて敵情を告げに来たと述べ、また自分を侯に進めるよう言った。群臣が相次いで弾劾し、獄に下して死罪と論じられた。ちょうど京師が戒厳となったため、劉安を釈放して総兵官に充て、東直門に陣した。敵寇が退くと、都督同知に進み、白羊口を守備し、再び伯爵に復した。英宗が復位すると、世襲の侯爵を賜り、さらに禄三百石を増やされた。曹欽の反乱では、劉安は傷を負い、太子少傅を加えられた。成化年間に卒去した。嶧国公を追贈され、諡は忠僖。爵位は明が滅亡するまで伝わった。
朱榮は、字を仲華といい、沂の人である。洪武十四年、総旗として西平侯沐英に従い雲南を征討した。累進して副千戸となった。大寧を守備していたが、成祖に降った。滑口で孫霖を襲撃し、定州を包囲し、南軍の糧道を断ち、大小二十余戦に及び、功績により都督僉事を授けられた。
永楽四年、新城侯張輔に従い交阯を征討し、鶏陵関を破り、白鶴で沐晟と会合した。張輔らは嘉林江の上流で軍を渡すことを議し、朱榮を下流十八里に陣取らせ、日ごとに兵数を増やして賊を惑わせた。また舟筏を作って渡河しようとする様子を見せ、牽制した。賊は果たして兵を分けて江を渡り岸に上陸した。朱榮らは奮撃し、これを大破した。大軍が進んで多邦城を陥落させると、朱榮の功績が最も多かった。帝は朱榮がかつて怠慢な事があったとして、軍の帰還後に功績を論じ、わずかに右都督に昇進させ、白金と鈔幣を賜った。七年、再び張輔に従い賊の残党を討ち、平定した。
子の朱冕が嗣いだ。晋王朱済熿が新たに廃されたため、山西を鎮守するよう命じられ、まもなく召還された。六年、独石に糧秣を輸送するよう命じられ、それに伴いその地を巡察した。正統四年、征西将軍の印を佩び、大同を鎮守した。十四年、北征に従い、陽和で戦い、戦死した。諡は忠愨といった。子の朱瑛が嗣いだ。爵位は明の滅亡まで伝わった。
費瓛は、定遠の人である。祖父の費愚は、洪武の時に燕府左相となり、改めて燕山中護衛指揮使を授けられた。子の費粛に伝わった。費瓛に至り、成祖に従い起兵して功績があり、累進して後軍都督僉事となった。
永楽八年春、涼州衛千戸の虎保、永昌衛千戸の亦令真巴らが反乱し、数千の衆が駅路を占拠して屯した。新たに帰附した伯顔帖木児らがこれに応じた。西辺は震動した。都指揮の李智がこれを撃ったが勝てなかった。賊は永昌・涼州城を攻めると言いふらした。皇太子は費瓛に討伐に向かうよう命じた。涼州に至ると、李智及び都指揮の陳懐が軍を率いて合流し、進軍して鎮番に至った。双城で賊と遭遇した。費瓛はその左を撃ち、陳懐らはその右を撃った。賊は大敗して逃走し、三百余級を斬首した。追撃して黒魚海に至り、賊千余人を捕らえ、馬・駱駝・牛・羊十二万を獲得した。虎保らは遠くへ逃げ去った。そこで軍を返した。
費瓛は人となり温和で、士卒をよく慰撫した。鎮守すること十五年、境内は平穏であった。子の費釗が嗣いだ。鄧茂七征討に従い、帰還して都督府を掌った。天順年中、武定侯郭英の次孫の郭昭の賄賂を受け、嫡孫の郭昌が不孝であると誣告し、その爵位を奪おうとした。法司が逮捕処罰を請うたが、詔により府の職務を解かれた。卒去し、子の費淮が爵を嗣いだ。明の滅亡に至って絶えた。
譚広は、字を仲宏といい、丹徒の人である。洪武初年、兵卒から身を起こし、金山征討に従い、燕山護衛百戸となった。成祖に従い起兵し、百騎を率いて涿州を掠め、将校三十人を生け捕りにした。白溝、真定、夾河の戦いでいずれも功績があり、累進して指揮使となり、保定を留守した。都督韓観が十二万の軍を率いて攻めてきた。譚広は孤軍で四十余日力戦し、隙を見てこれを撃破し退けた。
永楽九年、大寧都指揮僉事に進んだ。北京の造営を監督した。その後、神機営を領し、北征に従い、驍騎将軍に充てられた。十一年、山西で軍を訓練した。翌年、九龍口征討に従い、前鋒となった。賊数万が岸辺に拠った。譚広は強弓を引く兵士に射させた。万矢一斉に発し、死者は数えきれなかった。乗勝して挟撃し、賊は大敗した。功績により、都督僉事に進んだ。
正統初年、朝廷の議論では、脱歓は和親を申し出てはいるが、狡猾な謀りごとは測りがたいとして、譚広及び他の鎮の総兵官陳懐、李謙、王彧に方策を図上するよう命じた。譚広らはそれぞれ意見を上奏し、大要は次のようであった、「辺境の寇は出没が常ならず、ただ守り防ぐことが上策である。要害を分兵して扼し、間には精鋭を派遣して塞外を巡らせ、敵に遭遇すれば力に応じて戦い守り、間諜を用いて偵察し、軽兵で追跡すべきである。寇が来ても得るものなく、去るにも恐れるものがあれば、辺境の患いは少しは和らぐであろう。」帝はその意見を容れた。六年十一月、敵を防いだ功績により、永寧伯に封ぜられ、禄千二百石を賜り、引き続き宣府を鎮守した。八年、致仕を願い出た。優詔で許されなかった。翌年十月、召還されて謁見した。帝はその老齢を哀れみ、常朝を免じた。その月に卒去した。八十二歳であった。諡は襄毅といった。
譚広は背が高く力が強く、兵卒から奮起して大将に至り、大小百余戦に及び、一度も敗北したことがなかった。宣府で二十年、屯堡を修築し、守備を厳しくし、駅伝を増設し、また各辺境に火器を頒給するよう請願した。将校が軍律に違反すれば、ただちに上奏して罪に処するよう請願し、士卒を慰撫するには恩があった。辺境は平穏で、名将と称された。かつて憤りを逞しくして都司経歴を杖殺し、また私怨で百戸を杖打ち、ともに言官に弾劾されたが、問わなかった。卒去後、吏部が世券ではないと上言したため、その子の譚序に指揮使を授けた。
陳懷は合肥の人である。父の職を襲い真定副千戸となった。永楽初年、功を積み重ねて都指揮僉事に至った。平安南に従い、都指揮使に進み、山西都司事を蒞んだ。再び張輔に従い安南の賊簡定を擒え、都督費瓛に従い涼州の叛人虎保を征し、いずれも功があった。仁宗が立つと、都督同知に進んだ。
六年、松潘の勒都・北定諸族及び空郎・龍溪諸寨の番が再び叛いた。陳懷は兵を遣わして戦いに敗れ、指揮安寧等の死者三百余人。陳懷は乃ち親しく兵を督して深く入り、革児骨寨を破り、空郎乞児洞に進攻した。賊は敗れ、斬首し崖に墜ちて死する者算うるに遑あらず。革児骨の賊は再び聚まり生苗をして戦いを邀えしめた。これを撃破し、剿戮すること殆んど尽きた。ここにおいて任昌・牛心諸寨の番は風を聞きて降を乞い、群寇悉く平らぐ。久しくして、巡按御史及び按察使が復た奏す、「陳懷は僭侈にして分を逾えたり。毎朝、三司の官に分班して立たしめ、事あれば跪いて白せしむ。陳懷は中に坐し、旨を称して行遣す。且つ日に酒に荒み、辺備を飭さず、城寨の失陷を致せり」と。宣宗怒り、陳懷を召し還し、文武の大臣に命じてこれを鞫かしめ、罪は斬に当たる。都察院の獄に下し、死を宥して職を落とす。
子の輔、爵を襲うことを乞う。吏部は世券に非ずと言い、執って許さず。景帝は陳懷の死事を以て、これを許す。輔卒す。子の政、襲うことを請う。吏部は初めの如く執る。中旨、嗣ぐことを許す。政は両広を鎮すること久しく、自ら軍功を陳べ、世券を乞う。吏部復た執して不可とす。詔してこれを予う。政卒す。子の信、嗣ぐ。弘治中に卒す。子無し。弟の俊、指揮使を嗣ぐ。
馬亮は淇の人である。燕山衛の卒を以て成祖の起兵に従い、功を累ねて都指揮僉事に至る。宣宗の時、官は左都督に至る。兀良哈の役、中官劉永誠とともに劉家口を出で、黒山・大松林・流沙河諸処に至り、賊に遇いてこれを勝つ。還りて招遠伯に封ぜらる。この役は、王振これを主とす、故に諸将の功少なきも率ね封を得たり。
蒋貴は字を大富と曰い、江都の人である。燕山衛の卒を以て成祖の起兵に従う。雄偉にして力多く、騎射に善く、功を積みて昌国衛指揮同知に至る。大軍に従い交阯及び沙漠を征し、都指揮僉事に遷り、彭城衛事を掌る。
八年夏、復た平蛮将軍印を佩び、王驥とともに思任発の子思機発を討ち、その寨を攻破す。明年、師還り、賞賚甚だ渥く、歳禄五百石を加う。この役、蒋貴の子雄は敵の敗るるに乗じ、三十人を帥いて深く入る。敵その後を扼す。自ら刎して江に沈む。懐遠将軍・彭城衛指揮使を贈る。
十四年正月、蒋貴卒す。年七十。涇国公を贈り、諡して武勇と曰う。
蒋貴は兵卒から身を起こし、文字を知らず、天性朴実であった。己を忘れて人に下り、士卒と苦楽を共にすることができた。境外に出て賊を討つときは、衣糧・器械を常に自ら袋に負い、一人も使役せず、戦陣に臨めば必ず自ら先頭に立ち、このゆえに向かうところ功があった。
子の蒋義は病のため嗣ぐことができず、養子の蒋琬が侯を嗣いだ。天順末年、平羌将軍印を佩び、甘肅に総兵し、甘州・沙河などの屯堡を築いた。
二十年に将軍印を佩び、出でて辺寇を禦した。寇退きて班師し、累ねて太保兼太子太傅を加えられた。卒し、涼国公を贈られ、諡は敏毅。
子の蒋驥が嗣ぎ、京営兵を典した。弘治中に総兵官に充てられ、薊州・遼東・湖廣を歴鎮した。内外の官に二十年、家に余資なし。再伝して孫の蒋傅に至る。嘉靖中、累ねて軍府を典し、征蛮将軍印を佩び、両廣を鎮めた。海賊及び慶遠の瑶を平らげた功により、太子太保を加えられた。明亡びて、爵絶つ。
任礼、字は尚義、臨漳の人。燕山衛の兵卒として成祖に従い起兵し、功を積んで山東都指揮使に至る。永楽二十年に都督僉事に擢げられた。北征に従い、前行して敵を偵察し、還って厚賞を受けた。仁宗即位し、広西都司事を掌ることを命ぜられた。まもなく遼東に改まる。宣宗立つと、都指揮同知に進んだ。楽安平定に従い、また兀良哈征討に従い、還って後衛を為した。英宗立つと、左都督に進んだ。
十一年、沙州衛都督喃哥兄弟争い、部衆離貳す。礼はその饑窘に乗じ、内地に遷さんと欲した。会に喃哥もまた肅州境内に居らんことを請う。礼はよって都指揮毛哈剌を遣わしてその衆を撫せしめ、みずから兵を帥いてその後に継いだ。至るに及んで、喃哥また両端を持す。その部下は瓦剌に奔らんと欲し、礼は進兵してこれを逼り、遂にその全部千二百余人を収めて還った。事聞こえ、賜賚甚だ厚し。時に瓦剌の也先まさに盛んで、喃哥の弟鎖南奔を祁王に封ず。礼は二寇合すれば勢いますます制し難しとし、人を遣わしてこれを招いた。鎖南奔は従わんと欲して未だ決せず、礼は潜かに師を率いて直ちに罕東に抵り、これを縶して帰った。帝大いに喜び、礼に鉄券を賜い、世襲せしめた。
十四年、也先分道して入寇し、肅州に抵る。礼は裨将を遣わしてこれを禦せしめ、再戦再敗し、士馬を失うこと万計に及んだ。征還され、伯のまま邸に就く。景泰初め、三千営を提督し、老いて致仕した。久しくして、また起用され南京を守備し、召されて中府を掌った。
礼は兵卒より起り、大将に至るまで、恪謹として法を奉じた。成化初めに卒す。侯を贈られ、諡は僖武。子の任寿が嗣ぎ、総兵して陜西に鎮した。満四征討に失律の罪に坐し、死を宥められて辺に戍す。子の任弘に世指揮使を予う。
安は勇敢にして将略あり、蒋貴・任礼とともに西辺の良将と称せられた。九年十二月卒す。子の趙英は指揮使となり、功を立てて都督同知に進む。
趙輔、字は良佐、鳳陽の人。職を襲い済寧衛指揮使となる。景帝嗣位し、尚書王直ら将才を以て薦め、署都指揮僉事に擢げられ、左参将に充てられて懐来を守る。天順初め、征入されて右府に蒞事す。
輔、少より俊辯にして才あり、詞翰を善くし、多く文士と交わり、又権幸を結ぶを好む。故に屡々論劾に遭うも、終に患い無し。
子の承慶、伯を嗣ぎ、南京を協守す。正徳初め、諫官劉郤の疏を伝写するに坐し、劉瑾に悪まれて、半禄を削り閑住す。四伝して玄孫光遠に至り、万暦中に湖広を鎮む。明亡びて乃ち絶つ。
劉聚は、太監永誠の従子なり。金吾指揮同知と為る。「奪門」の功を以て、都指揮僉事に進み、復た超擢して都督同知と為る。曹欽を討つに与り、右都督に進む。
成化六年、右副総兵として朱永に従い延綏に赴き、賊を黄草梁に追う。伏兵に遇い、鏖戦して頬を傷つけ、麾下力めて捍ぎて以て免る。頃にして復た都督範瑾等とともに寇を青草溝に撃ち、これを敗る。永等、寇を牛家寨に追う。聚も亦た南山に拠り力攻す。寇大いに敗れ、境を出づ。功を論じて左都督に進み、内援を以て特に寧晋伯に封ぜらる。
八年冬、趙輔に代わりて将軍と為り、陝西諸鎮の兵を総ぶ。寇、花馬池に入る。率いて副総兵孫鉞・遊撃将軍王璽等をして撃ちてこれを却けしむ。還りて高家堡に至る。寇復た至る。これを敗る。奔を追いて漫天嶺に至る。伏兵起こりて夾撃す。又これを敗る。鉞・璽も亦た別に賊を井油山に破る。捷聞こゆ。世券を予う。
その冬、孛羅忽・満都魯・乚加思蘭、兵を連ねて深入し、秦州・安定・会寧諸州県に至り、数千里を縦横す。賊退く。時に王越、紅塩池より還るに適い、妄りに大捷を以て聞こえしむ。璽書を下し嘉労す。頃にして、功を紀する兵部員外郎張謹、聚及び総兵官範瑾等六将が掠奪されたる者を殺し、功を冒すを劾す。部科及び御史、章を交えて劾す。詔して給事中韓文を遣わして往きて勘せしむ。還りて奏すること謹の言う如し。報ずる所の首功百五十、僅かに十九級なり。帝、寇既に遁ぐるを以て、置きて問わず。聚、尋いで卒す。侯を贈り、諡して威勇と曰う。
子の祿及び福に伝う。福、弘治中に三千営を掌り、太子太保を加う。卒す。子の嶽嗣ぐ。卒す。従子の文、嗣ぐを請う。吏部言う、聚に大功無く、子孫再び襲うべからずと。世宗允さず、命じて文を嗣がしむ。亦た明の亡ぶるに伝わりて乃ち絶つ。
賛に曰う、宋晟は太祖の時に在りて、即ち開国の諸元勛と戎行に跡を参じ、その後涼州に四鎮し、威は西鄙に著わる。両子は主に尚り、世に徹侯を列ね、功名盛んなり。薛祿以下の諸人は、皆「靖難」に与る。祿の東昌・滹沱の戦い、劉栄の永平を守り、譚広の保定を守るは、力を宣ぶること最も著し。策勛の日に、即ち符を剖たずと雖も、各々積閥を以て封を受く。その士卒を善く撫し、封守を慎み固くし、恪謹として職を奉ずるは、尚ぶに足る者有り。趙輔・劉聚は猷績遠く前人に遜り、而して帯礪の盟は国と終始を共にす。誠に厚幸なるかな。諸人並びに勛爵を以て辺陲を鎮禦す。故に類して篇に著す。