○宋禮(藺芳)陳瑄(王瑜)周忱
初め、帝が北京を営もうとしたとき、宋礼を命じて川蜀で材木を採らせた。宋礼は山を伐って道を開き、奏上して言った。「大木数株を得たが、みな一丈ほどである。ある夜、ひとりで谷中から江上に出て、声は雷のようであったが、一本の草も倒さなかった。」朝廷はこれを瑞祥とした。河工が完成すると、また材木を採るために蜀に入った。十六年に江西で獄事を治めることを命ぜられた。翌年に番舟を造った。蜀から召還され、老病のため朝参を免ぜられ、奏事があるときは侍郎に代行させた。二十年七月に官で卒した。
宋礼の性質は剛直で、下を駆使するのに厳しく急であったので、事を集めるのは容易であったが、このため人に親しまれることもなかった。卒した日、家に余財はなかった。洪熙に改元すると、礼部尚書呂震が葬祭を制の如く与えることを請うた。弘治年間に、主事王寵が初めて祠を立てることを請うた。詔して南旺湖上に祀り、金純・周長を配享させた。隆慶六年に宋礼に太子太保を贈った。
藺芳は、夏県の人である。洪武年間に孝廉に挙げられた。累遷して刑部郎中となった。永楽年間に、出て吉安知府となった。寛厚で廉潔であり、民は大いにその徳を慕った。吉水の民が闕に詣でて県に銀鉱があると言い、使者を遣わして再調査させた。父老が藺芳を遮って訴えて言った。「宋の末年にかつてこれを言った者があったと聞くが、ついに妄言の罪を得た。今はみな樹木や作物を植える地であり、どうして銀鉱を得られようか。」藺芳が告げた者を詰問すると、その誣告であることを知った。獄が決すると、同官は署名を敢えてせず、藺芳は独りでこれを担当することを請うた。奏上すると、帝は「我れもとより妄りであると知っていた」と言い、取りやめになった。やがて、事に坐して辦事官に貶謫され、宋礼に従って会通河を治め、また工部都水主事となった。
十年に、河が陽武で決壊し、中牟・祥符・尉氏を灌漑したので、藺芳を遣わして巡視させた。藺芳は言った。「中塩堤は暴流の衝に当たるので、築塞を加えることを請う。」また言った。「中灤から河流を分導し、故道によって北に海に入らせれば、まことに万世の利である。」また言った。「新しく築く岸の埽は、ただ草索を用いるのみでは、堅く長持ちしない。木を編んで大きな囷とし、その中に樁を貫き、瓦石で実填し、また木で横に樁の表を貫き、堤上に牽き築くのが、水勢を殺ぎ堤を固める長策である。」詔してすべてこれに従わせた。その後堤を築く者はその法を遵用した。宋礼の推薦により、工部右侍郎に抜擢された。まもなく、行太僕卿楊砥が言った。「呉橋・東光・興済・交河及び天津の屯田は、雨水が堤を決して農作物を傷つける。徳州良店東南の黄河故道を開き、水勢を分かつことを乞う。」また藺芳を命じてこれを治めさせた。経過する郡邑で、民に不便なことがあれば、すなわち疏を以て聞かせた。事が竣って還った。十五年十一月に官で卒した。
藺芳は自らは倹約し、布衣に蔬食であった。母に事えること至孝であった。母は甚だ賢明であった。藺芳の治める事は、夕方には必ず母に告げた。不適当なことがあれば、すなわち教誡を加えた。藺芳は命を受けるとただ謹んで従い、これによって良吏と称された。
陳瑄は、字を彦純といい、合肥の人である。父の聞は、義兵千戸として太祖に帰順し、累官して都指揮同知となった。陳瑄は父の職を代わった。父が事に坐して遼陽に戍せられると、陳瑄は闕に伏して代わることを請い、詔してその父子をともに赦した。陳瑄は若くして大将軍の幕に従い、雁を射ることで称された。たびたび征南番に従い、また越巂を征し、建昌の叛番月魯帖木児を討ち、梁山を越え、天星寨を平らげ、寧番の諸蛮を破った。また塩井を征し、進んで卜水瓦寨を攻めた。賊は甚だ熾んであった。陳瑄は中軍を将い、賊はこれを数重に囲んだ。陳瑄は馬から下りて射ると、足を傷つけ、創を包んで戦った。巳の時から酉の時まで戦い、全師して還った。また賈哈剌を征することに従い、奇兵を率いて打沖河を渡り、間道を得て、浮梁を作って軍を渡した。渡り終わると、梁を撤き、士卒に帰らぬことを示し、連戦して賊を破った。また雲南兵と会して百夷を征し功があり、四川行都司都指揮同知に遷った。
建文の末、右軍都督僉事に遷る。燕兵が逼るに及び、舟師を総べ江上を防がしむるを命ぜらる。燕兵浦口に至り、瑄舟師を以て迎へて降る。成祖遂に江を渡る。既に即位し、平江伯に封じ、禄一千石を食み、誥券を賜ひ、指揮使を世襲せしむ。
九年、豊城侯李彬と共に浙・閩の兵を統べ海寇を捕へしむるを命ぜらる。海溢れて堤圮つ。海門より塩城に至る凡そ百三十里。瑄に四十万卒を以て築治せしめ、捍潮堤一万八千余丈と為す。明年、瑄言す「嘉定は海に瀕する地、江流沖会す。海舟此に停泊するも、高山大陵依る可き無し。請ふ青浦に土山を築き、方百丈、高さ三十余丈、堠を立て表識せん」。既に成り、宝山と名づけ賜ふ。帝親ら文を為して之を記す。
仁宗即位の九月、瑄上疏して七事を陳ず。一に曰く、南京は国家の根本、厳に守備せんことを乞ふ。二に曰く、推挙は実を核すべく、資格に循ふ無く、朝臣公正なる者を選び天下を分巡せしむべし。三に曰く、天下歳運の糧餉、湖広・江西・浙江及び蘇・松諸府並びに北京より遠く去り、往復年を逾ゆ。上は公租に逋り、下は農事を妨ぐ。転じて淮・徐等の処に至らしめ、別に官軍を令して接運して京に至らしむるを乞ふ。又快船・馬船の載する所五六十石に過ぎず、毎船官軍足用す。有司軍民を添差し遞送し、拘集して聽候せしめ、凍餒する有るに至る。請ふ革罷せん。四に曰く、教職多く其人に非ず、職にたらざる者を考へて之を黜し、俊秀を選び生員に補ひ、而して軍中の子弟も亦た入学せしむるを乞ふ。五に曰く、軍伍竄亡す、其の老疾なる者を核し、子弟を以て代へ、逃亡する者は追補し、戸絶する者は験除すべくを乞ふ。六に曰く、開平等の処、辺防の要地、兵食虚乏す。鋭士を選練し、屯守兼務せんことを乞ふ。七に曰く、漕運の官軍、毎歳北上し、帰れば即ち船を修め、勤苦終年す。該衛所又其の隙に於て、雑役を以て重く之を困す。加へて禁絶せんことを乞ふ。帝奏を覧て曰く「瑄の言皆当たり」。司をして速に行はしむ。遂に勅を降して獎諭し、尋ひて券を賜ひ、平江伯を世襲せしむ。
宣宗即位し、淮安を守り、漕運を督むることを命ず。宣徳四年言す「済寧以北、長溝より棗林に至る淤塞す。計ふらく十二万人を用ひて疏浚すれば、半月にして成る可し」。帝瑄の久しく労するを念ひ、尚書黄福をして往きて同に經理せしむ。六年、瑄言す「歳運糧に軍十二万人を用ふ。頻年労苦す。蘇・松諸郡及び江西・浙江・湖広に別に民丁を僉し、又軍多き衛所に軍を僉し、通じて二十四万人と為し、分番して叠運せんことを乞ふ。又江南の民、糧を運びて臨清・淮安・徐州に赴くも、往復一年、農業を失誤す。而して湖広・江西・浙江及び蘇・松・安慶の軍士、毎歳空舟を以て淮安に赴き糧を載す。若し江南の民に糧を撥して附近の衛所に与へ、官軍運載して京に至らしめ、耗米及び道里費を量りて給すれば、則ち軍民交ひに便ならん」。帝黄福及び侍郎王佐に議して之を行はしむ。民運を更めて兌運と為す、此より始まる。八年十月官に卒す。年六十有九。平江侯を追封し、太保を贈り、恭襄と謚す。
初め、瑄河を浚ひて民に徳有り。民祠を清河県に立つ。正統中、有司をして春秋致祭せしむ。
再従子の圭が嗣いだ。推薦により出鎮して両広を治めた。封川に賊が起こると、圭は諸将を督して討伐に向かい、その首魁を擒え、数千を俘斬し、太子太保を加えられた。さらに柳慶及び賀連山の賊を平定し、太保を加えられ、一子を蔭した。安南の範子儀らが欽州・廉州を寇し、黎岐の賊が瓊厓を寇し、互いに掎角の勢いをなした。圭は安南に移文し、利害を説いて子儀を縛らせ、急ぎ出兵して黎岐を攻撃し、これを敗走させた。功を論じ、再び一子を蔭し、歳禄四十石を加えられた。圭は士卒と甘苦を共にすることができ、賊の所在を聞けば、直ちに甲を擐げて先登した。深い笹藪や絶えた谷、瘴毒を衝き冒して、避けるところなく、この故に向かうところ克捷した。広東にて十年近く在り、諸小賊を殲滅すること数え切れず。召還されて後軍府を掌った。圭の妻の仇氏は、鹹寧侯仇鸞の妹である。圭は鸞を深く嫉み、鸞はしばしば世宗に圭を短く言い、幾らか罪を得そうになった。鸞が敗れると、帝はますます圭を重んじ、京営の兵を総べることを命じた。寇が紫荊関に入ると、圭は出戦を請い、盧溝に営したが、寇が退いたので止んだ。明年、寇がまた古北口に入ると、或る者は九門に列営して備えとすることを議したが、圭は徒らに弱みを示すだけで益がないとし、寇もまた間もなく退いた。京師の外城を築くことを董じ、太子太傅を加えられた。卒すと、太傅を贈られ、武襄と謚された。
子の王謨が嗣いだ。後軍の僉書となり、出鎮して両広を治めた。賊の張璉が反し、数郡を屠掠した。王謨は提督の張臬と会してこれを討平し、三万余を擒斬した。功を論じて太子太保を加えられ、一子を蔭した。万暦年間に淮安に出鎮し、漕運を総べ、入って前軍府事を掌った。卒すと、少保を贈られ、武靖と謚された。伝わって明の滅亡に至り、爵は絶えた。
王瑜は、字を廷器といい、山陽の人である。総旗として趙王府に隷した。永楽末、常山護衛指揮の孟賢らが宦官の黄儼と結び、帝を弑し、太子を廃して趙王を立てようと謀った。その党の高正という者は、王瑜の舅であり、密かに王瑜に告げた。王瑜は大いに驚いて言うには、「どうしてこのような族滅の計を為すのか」と。涙を垂れて諫めたが、聞き入れられなかった。高正は謀が泄れることを恐れ、王瑜を殺そうとしたので、王瑜は遂に闕に詣でて変事を告げた。按治して証拠があり、孟賢らはことごとく誅せられ、王瑜は遼海衛千戸に任ぜられた。仁宗が即位すると、錦衣衛指揮同知に擢げられ、厚く賜り、併せて同官に戒めて、事は必ず王瑜に白状してから行うようにさせた。王瑜は大體を堅持し、苛細を為さず、朝廷でその賢を称された。
宣徳八年に都指揮僉事に進み、左副総兵に充てられ、陳瑄に代わって淮安を鎮め、漕運を董じ、累進して左軍都督僉事となった。淮安は王瑜の故郷であり、人は栄誉と思った。淮安に数年おり、陳瑄の成法を守って変えず、善政があった。民で親がいるのに弟と産を訟うる者がいた。王瑜は言うには、「弟を訟うるは友ならず、親無きは孝ならず」と。杖打ってこれを斥けた。また金を負って償うことができず、ついに翁婿兄弟が互いに訟うるに至った者がいた。王瑜は言うには、「どうして財の故に恩を傷つけるのか」と。即ち代わって償い、その敦睦を勧めた。二卒が敗れた舟の板一枚を盗んだ。有司は官物を盗んだとして、卒を死罪に坐した。王瑜は言うには、「両卒の命が、敗れた舟の板一枚に抵するのか」と。ついに末減を得た。凶歳には、官廩を発して振恤した。しかし性は貨を好み、英宗に切責されたが、前に発した不軌の事に枉られた者があった。正統四年、議事で京に入った。疾を得て、両手を束ねて高く懸けたる状の如く、号救して解を求めたが卒した。
周忱は経世の才があり、郎署に浮沈すること二十年、人に知る者無かったが、夏原吉のみがこれを奇とした。洪熙に改元すると、稍々遷って越府長史となった。宣徳初、郡守に推薦する者があった。原吉は言うには、「これは常調である。どうして周君を尽くすことができようか」と。五年九月、帝は天下の財賦が多く理まらず、江南が特に甚だしく、蘇州一郡では積逋が八百万石に至ることを以て、才力ある重臣を得て往きてこれを厘正しようと思った。そこで大学士楊栄の推薦を用い、周忱を工部右侍郎に遷し、江南諸府を巡撫させ、税糧を総督させた。
初めて到着すると、父老を召して逋税の故を問うた。皆、豪戸が加耗を肯んぜず、これを細民に併せて徴し、民は貧しく逃亡し、税額がますます欠けると言った。周忱はそこで平米法を創め、出耗は必ず均しからしめることを令した。また工部に鉄斛を頒ち、諸県に下して式に準ぜしめ、糧長の大入小出を革めることを請うた。旧例では、糧長正副三人が、七月に南京戸部に赴いて勘合を領した。終わると、また部に賫送した。往反の資費は、皆科斂でこれを充てた。周忱は正副各一人を設けるのみとし、循環して赴領させた。事が終わると、有司が類収して部に上った。民は大いに便とした。周忱は諸県が糧を収めるに団局が無く、糧長が即ち家にこれを貯えるのを見て、言うには、「これが逋を致す由である」と。遂に諸県に令して水次に囤を置かせ、囤ごとに糧頭・囤戸各一人を設け、「轄収」と名付けた。六七万石以上に至って、初めて糧長一人を立ててこれを総べ、「総收」と名付けた。民は貼を持って囤に赴き、官が監納し、糧長はただ期会を奉ずるのみであった。撥運・綱運の二簿を置いた。撥運は支撥起運の数を記し、運ぶところの京師・通州諸倉の耗を予計し、次第に支給を定めた。綱運はその剝浅諸費を填註するに任せ、帰ってこれに償わせた。支撥の羨余は、倉に存貯し、「余米」と言った。次年に余が多ければ則ち六分を加徴し、また次年には五分を加徴した。
初め、太祖が呉を平らげ、その功臣子弟の荘田をことごとく籍して官に没入し、後、富民の豪併を憎み、罪に坐して没入した田産は、皆これを官田と言った。その家の租籍に按じてこれを徴したので、故に蘇州の賦は他の府より独り重かった。官民田租合わせて二百七十七万石であるが、官田の租は二百六十二万石に至り、民は堪えることができなかった。
時に宣宗はしばしば詔を下して官田租を減じたので、周忱は知府の況鍾と曲算を累月行い、七十二万余石に減じ、他の府も次第に減じ、民は初めて少し蘇った。七年、江南は大いに稔り、詔令して諸府県に官鈔で平糴して振貸に備えさせ、蘇州は遂に米二十九万石を得た。旧時、公侯の禄米・軍官の月俸は皆南戸部より支給された。蘇州・松江の民が南京に転輸するものは、石ごとに六斗の費を加えた。周忱は奏して各府で支給することを令し、船価米一斗を与え、余る五斗は、通計して米四十万石有余となり、併せて官鈔で糴ったものと共に、米七十万余石を得たので、遂に倉を置いてこれを貯え、「済農」と名付けた。振貸の外、歳に余羨があった。凡そ綱運で風に漂い、盗に奪われたものは、皆ここから借給し、秋の収穫時に、数に抵して官に還した。圩を修し、岸を築き、河を開き、湖を浚うるに支給した口糧は、償いを責めなかった。耕作者が借貸するには、必ず中下の事力及び田の多少を験してこれを給し、秋に糧と併せて賦し、凶歳には再び振恤した。その奸頑で償わない者は、後には再び給さなかった。条約を定めて聞かせた。帝はこれを嘉奨した。周忱の在任中、江南の数大郡では、小民は凶荒を知らず、両税は嘗て逋負することが無かったのは、周忱の力によるものであった。
当時、漕運は軍と民が半分ずつ担っていた。軍船は官から支給されるが、民は船を借り、雑費を加えると、およそ三石で一石を運ぶことになり、往復に一年を費やして農業を失う。周忱は平江伯陳瑄と協議し、民は淮安または瓜洲の水辺まで運んでそこで漕運軍に引き渡し、漕運軍が通州まで運ぶこととした。淮安では一石につき五斗を加え、瓜洲ではさらに五升を加える。その付近および南京の軍でまだ長江を渡っていない者は、即座に倉庫で引き渡し、長江を渡る米に二斗を加える。敷物の蘆席は、米五合に換算する。漕運軍が遅れて風に阻まれた場合は、州県に余剰米を支給させる。瓜洲の水辺に倉庫を設け、米を移して貯蔵し、余剰米を計って守衛者に支給する。これにより漕運の費用は大いに節減された。
民間の馬草は毎年両京に運ばれ、労費は計り知れなかった。周忱は一束につき銀三分に換算するよう請願し、南京では軽い荷物で現地で購入納入することとした。京師の百官の月俸は、皆俸給証を持って南京へ赴いて受け取った。米が安い時は、俸給証七、八石で銀一両と交換するに過ぎなかった。周忱は、重い税額の官田と極めて貧しい下戸の両税を調査し、金花銀に準じて折納し、一両を米四石に相当させ、京師に送って俸給と交換するよう請願した。民は非常に少なく出し、官の俸給は常に充足した。嘉定・昆山などの県は毎年布を納め、一匹が三斤で糧一石に相当した。納入する際、糸が粗いとして退けられるものが十のうち八、九あった。周忱は言う、「布の糸が細ければ必ず軽くなるが、価格はより高くなる。今は既に重く貴ばれているので、細い糸を使うことはできない。今後は軽重にかかわらず、必ず長さと幅が規定通りであることを求めるよう願う」と。これに従った。各郡の駅馬およびすべての供応設備は、以前はすべて馬頭が管理していた。損耗があれば、馬頭が横暴に科して補い購入した。周忱は田畝一畝につき米一升九合を出させ、秋の税糧とともに徴収し、馬の上中下の等級に応じて米を支給するよう命じた。
正統初年、淮安・揚州に災害があり、塩税が不足したので、勅命で周忱に巡視させた。蘇州などの府に余剰米一、二万石を揚州の塩場に送り、来年の田租に充当することを認め、竈戸が塩を納めて米を受け取れるよう奏上した。当時は米が高く塩が安かったので、官は塩を蓄積し、民は米を食べることができ、公私ともに大いに助かった。まもなく勅命で松江の塩税も兼ねて管理することとなった。華亭・上海の二県の滞納税は六十三万余引に達し、竈丁は逃亡していた。周忱は、田賦は農夫を養うべきであり、塩税は竈丁を養うべきであると言った。そこで便宜的な四つの事柄を上奏し、速やかに実行するよう命じられた。周忱は竈戸の運搬損耗を節減し、米三万二千余石を得た。また済農倉の法にならい、贍塩倉を設置し、逃亡による欠額をさらに補った。これにより塩税は大いに増えた。浙江で海船五十艘を建造することになり、周忱に計画を立てさせた。周忱は都匠を召して尋ねると、一艘に千石の米が必要だと言った。周忱は大事を成すには費用を惜しむべきでないと考え、ただ二十石を減らし、朝廷に奏上したところ、ついに許可された。九年の任期が満了し、左侍郎に進んだ。六年、湖州・嘉興二府の税糧を兼ねて管理するよう命じられ、また刑科都給事中郭瑾とともに南京の刑獄を記録するよう命じられた。
周忱は平素から楽天的で気さくであった。以前、大理卿胡槩が巡撫であった時、法を厳格に運用した。周忱はすべてを簡易な方法で治め、告発する者は省みなかった。ある者が面と向かって周忱を非難して言った、「貴公は胡公に及ばない」と。周忱は笑って言った、「胡卿の勅旨は、民害を取り除くことにあり、朝廷が私に命じたのは、ただ軍民を安撫せよと言うのみである。委任された任務が正に異なるのだ」と。江南に長く在任し、官吏や民衆と慣れ親しんで家族や父子のようであった。毎回村落を行く時は、護衛の者を退け、農夫や食事を運ぶ婦人と向き合い、ゆったりと苦しみを尋ね、彼らのために相談して処置した。部下を統率するにも、卑官や冗吏であっても、すべて心を開いて訪問し受け入れた。長官に有能な者、例えば況鍾や松江知府趙豫、常州知府莫愚、同知趙泰などがいれば、心を推し量って相談し、必ずその長所を尽くさせたので、何事も成し遂げられなかったことはなかった。かつて松江へ行って水利を視察した時、嘉定・上海の間で、長江沿いに茂った草が生え、多くの流れが沈澱しているのを見て、その上流を浚渫し、昆山・顧浦などの場所の水が速やかに流れ下るようにし、堰はついにすべて洗い流された。暇な時には一頭の馬で長江のほとりを往来し、見た者は彼が巡撫であることを知らなかった。宣徳・正統の二十年間にわたり、朝廷の委任はますます専らとなった。二度親の喪に遭ったが、いずれも復職して政務を見た。周忱はこれによってますます意気を伸ばし、利害を見れば必ず言上し、言上は聞き入れられなかったことはなかった。
初め、松江の官田の税額を減らし、民田に準じて課税しようとした。戸部の郭資・胡濙がその成法を変乱させたと奏上し、その罪を請うたが、宣宗は郭資らを厳しく責めた。周忱はかつて言った、「呉淞江の畔に沙塗柴場が百五十頃あり、水草が茂盛で、その中に虫や蝗が多く発生する。民を募って開墾させれば、国課を充足させ、虫害を消すことができる」と。また言った、「丹徒・丹陽の二県で長江に没した田は、賦税がまだ免除されていない。国初に免税された家の田は、多く富室に併合されているので、その租を徴収すべきであり、長江に没したものは免除すべきである。そうすれば税額は損なわれず、貧富が均しくなる。無錫の官田の賦税である白米は重すぎるので、租米に改めて徴収するよう請う」と。すべて許可された。災害による免除や貸付を請願し、また述べたその他の利害は数えきれない。小さなことは便宜的に実行し、顧慮することはなかった。長くして財賦が充溢しているのを見て、ますます広大な事業に務めた。官舎や学校、先賢の祠墓、橋梁や道路を修繕し、および寺観を崇飾し、朝廷の官に贈り物をし、通行人に資金や食糧を与え、少しも吝嗇しなかった。胥吏がその中で漁利し貪っても、あまり詮索しなかった。このためしばしば人々の非難を招いた。
九年、給事中李素らが周忱が妄りに変更を加え、専断的に賦税を徴収したと弾劾した。周忱は上書して自ら訴えた。皇帝は余剰米が既に公用に供されているとして、問わなかった。以前、奸民の尹崇礼が周忱の法を妨害しようとし、周忱が過剰に耗米を徴収すべきでないと奏上し、倉庫の管理者を究明するよう請願したので、周忱は以前の法を廃止した。その後、両税が再び滞納し、民は頼るものがなく、皆不便だと称した。周忱はそこで尹崇礼の罪を追及するよう奏上し、以前の法を以前通り施行した。再び九年の任期が満了し、戸部尚書に進んだ。まもなく江西人は戸部の官に就けないということで、工部に改められ、依然として巡撫を務めた。
しかし当時、理財を論ずる者で、周忱より優れた者はなかった。その治世は民を愛することを根本とした。済農倉を設置した時、民と期約を結んだが、時期が来ても多くは追及しなかった。毎年徴収が終わると、正月中旬を過ぎると、すぐに檄を下して食糧を放出し、言った、「これは百姓が朝廷に納めた余剰の数である。今、百姓に返して用いさせ、朝廷の田を努力して耕し、秋にはまた朝廷に税を納めるのだ」と。その弛張変通は、すべて後世の法とすることができた。諸府の余剰米は、数が多くて校勘できないほどであり、公私ともに豊かで、外郡にも及んだ。景泰初年、江北で大飢饉があり、都御史王竑が周忱から米三万石を借りた。周忱は来年の麦の収穫までに十万石を与えるよう計算した。
性質は機敏にして警戒心が強く、銭穀巨万も一指を屈するに遺算なし。嘗て陰に冊を為して陰晴風雨を記す。或る者言う、某日江中に風に遇い米を失えりと。忱言う、是の日江中に風無しと。其の人驚き服す。奸民有りて故に其の旧案を乱して之を嘗む。忱曰く、「汝某時に就き我に事を決せしめ、我汝が為に断理せり、敢えて相い紿かんや」と。三殿重建の時、詔して牛膠万斤を征し、彩絵の用に供す。忱適に京に赴き、言う、庫に貯うる牛皮、歳久しく朽腐す、請う出だして膠を煎じ、帰りを俟ちて皮を市い庫に償わんと。土木の変に当たり、国を当つる者議い、通州倉を焚きて寇の資を絶たんと欲す。忱適に議事の為に至り、言う、倉米数百万、京軍一歳の餉を充たす可く、令して自ら往き取りしめば、則ち立ちて尽きん、何ぞ遂に煨燼に付せんに至らんやと。頃くして、詔して盔甲数百万を造るを趣す。忱計るに明盔は鉄を浴する工多し、令して且く錫を沃せしめ、数日にして畢く辦ず。
忱既に劾せらるるや、帝李敏を命じて之に代えしめ、忱の法を輕易せざるを敕す。然れども是より戸部積む所の余米を括して公賦と為し、儲備蕭然たり。其の後呉大いに饑え、道に堇相い望み、課逋旧の如し。民益々忱を思いて已まず、即ち生祠処々に之を祀る。景泰四年十月卒す。謚して文襄と曰う。況鍾等は自ら伝有り。
賛に曰く、宋礼・陳瑄は河を治め運道を通じ、国家の為に経久の計を為し、生民其の沢を被ること窮まり無し。周忱は財賦を治め、民擾わされずして廩に余羨有り。此れ他故無く、公心を殫くして以て国を体し、而して才力以て之を済うに足るなり。誠に造端して事を興し、一時の功を僥倖し、智を籠めて巧に取り、科斂の術を為す者に異なる。然れども河渠の利は、世其の成を享く。而して忱の良法美意は、未だ幾ばくもあらずして澌滅して余無く、民用重ねて困す。豈に成功の跡有る者は以て循り易く、而して法を用うる人の因る者は其の継ぐを難くするに非ずや。然りと雖も、小利を見て紛更を楽む、能く当日の嘵嘵たる者の為に惜しまざるを得ず。