董倫(附王景)儀智(子銘)鄒濟(附徐善述・王汝玉・梁潛)周述(弟孟簡)陳濟(附陳繼・楊翥・俞山・俞綱・潘辰)王英 錢習禮 周敘(附劉儼)柯潛(附羅璟)孔公恂(附司馬恂)
董倫、字は安常、恩県の人。洪武十五年、張以寧の推薦により、賛善大夫に任じられ、懿文太子に侍し、懇切に説いた。太祖はこれを嘉し、左春坊大学士に進めた。太子が薨ずると、出て河南左参議となった。肇州吏目の蘭溪人諸葛伯衡は廉潔であり、董倫がこれを推薦した。帝は直ちに陝西参議に抜擢した。また儒学訓導は冠帯を与え、士子と区別すべきと上言した。劉導が初めて選注を受けた。三十年、事に坐して雲南教官に貶謫された。雲南に学校が初めて設けられると、董倫は身をもって教え、人々は皆学問を志した。
建文初年、召されて礼部侍郎兼翰林学士に拝され、方孝孺とともに経筵に侍した。御筆で「怡老堂」の額を賜わり寵遇され、さらに漆塗りの机と玉鳩杖を賜わった。解縉が河州に貶謫されたが、董倫の言上により召還された。董倫は質朴で篤実であり、かつて帝に親藩と睦まじくするよう勧めたが、聞き入れられなかった。成祖が即位した時、董倫はすでに八十歳で、致仕を命じられ、まもなく卒した。
董倫と同時に礼部侍郎であった者に、王景がいる。字は景彰、松陽の人。洪武初年、懐遠教諭となった。博学をもって詔に応じた。朝享楽章を作り、藩王朝覲の儀礼を定めるよう命じられた。累進して山西参政となり、董倫に先後して雲南に貶謫された。建文初年、翰林院に召され、『太祖実録』を編修した。張紞の推薦により、礼部侍郎兼翰林侍講に任じられた。成祖が即位すると、学士に抜擢された。帝が建文帝の葬儀の礼について問うと、王景は頓首して言上した。「天子の礼を用いるべきです。」従われた。永楽六年、官において卒した。
儀智、字は居真、高密の人。洪武末、耆儒に挙げられ、高密訓導に任じられ、莘県教諭に遷った。高郵州知州に抜擢され、農事を督励し学校を興し、吏民に愛された。
郕王が国事を監理し、午門で朝政を視た。廷臣が王振を弾劾し、叫び声で人声が判別できないほどであった。儀銘だけが膝を進めて近づき、冠を脱いで奏上した。王振の一族を誅する旨を下すと、衆人の騒ぎがようやく収まった。景帝が即位すると、征伐などの大事を力強く補佐した。まもなく潜邸の恩により、礼部右侍郎を授けられた。翌年、経筵官を兼ねた。帝は毎回講幄に臨むと、宦官に命じて金銭を地面に撒かせ、講官に拾わせた。これを「恩典」と号した。文臣でこれに与った者は、内閣の高谷らのほか、儀銘と俞山、俞綱、蕭鎡、趙琬の数人だけであった。まもなく南京礼部尚書に進んだ。懐献太子が立てられると、太子太保を加えられ、召されて兵部尚書兼詹事となった。
蘇州、淮安などの諸郡に積雪があり、民は凍え餓えて死体が累々としていた。沙湾で黄河の堤防を築く工事に、山東、河南から九万人を徴発し、民間から鉄器数万具を徴発した。儀銘は帝に請い、多くを寛恤した。災異に因り、天を敬い祖に法り、刑を省き租を薄くし、用を節して人を愛することによって消滅すべきと上言した。『皇明祖訓録』を抄録して進呈し、深く賞賛され採用された。卒し、諡は忠襄。
儀銘は若くして呉訥に学んだ。天性孝友であり、平易で率直な父の風があった。長子の海は、錦衣衛百戸。末子の泰は郷挙され、礼科給事中となった。ともに父の恩蔭により授けられた。
鄒済、字は汝舟、余杭の人。母に仕えて孝行で知られた。博学で記憶力が強く、特に『春秋』に長じた。余杭訓導となり、師法は厳格であった。累進して国子学録、助教となり、推薦により平度州知州となった。永楽初年、『太祖実録』の編修に預かり完成すると、礼部郎中に任じられた。安南征伐に従軍し、幕府に属して奏記を司った。還って広東右参政となり、再び左春坊左庶子に遷り、皇孫に経を授けた。
徐善述は、字を好古といい、天台の人である。洪武年間、歳貢法が行われ、善述は最初に貢挙されて太学に入った。桂陽州学正に任じられた。永楽初年、国子博士から春坊司直郎に擢られた。皇太子に重んじられ、常に「先生」と称され、書を致し酒及び詩を賜わったことがあった。左賛善に遷り、連座して死んだ。鄒済と同日に太子少師を贈られ、諡は文粛。祠が立てられ、春秋の祭祀も鄒済と同様であった。
子の楘は、進士より刑部主事となり、冤獄を弁じるのに優れていた。推薦により用いられて広西副使に擢られ、布政使に進んだ。将兵が多く良民を殺して功に報いるので、梁楘はその帥に諭し、難民一人を生け捕りにすれば、功一級に準ずるとし、全活すること数えきれなかった。田州の土官岑鑒兄弟が互いに仇敵となったので、梁楘はこれを和解させ、その厚い饋り物を退けた。梗化する女土官を撫服させ、民夷その信義に服した。ついに浙江布政使で終わった。
周述はかつて北巡に扈従し、累進して左春坊諭徳となった。仁宗が即位すると、皇太子に従って南京に謁陵することを命じられた。榻前に召し至り、儲君を匡弼する所以を問うと、その答えは旨にかなった。宣宗の時、左庶子に進んだ。正統初年、官に卒した。
孟簡は翰林に二十年いて、初めて詹事府丞に遷り、出て襄王府長史となった。留めて顧問に備えるべきであると言う者があったが、帝は言った、「朕の弟を輔けることは、特に朕を輔けるよりも勝っている」と。周述は温厚で簡静、かつて疾言遽色したことがなく、文章は雅贍であった。孟簡は謙退して自ら誇らず、生平人に睚眥するところがなかった。ともに世に重んじられたという。
陳済は、字を伯載といい、武進の人である。読書は過目誦した。かつて父の命により銭塘に行き、家人が貨を携えて従った。帰るに及んで、その資の半ばをもって書を買い、口で誦し手で写した。十余年で、経史百家の言をことごとく通じた。成祖が詔して『永楽大典』を修させ、大臣の推薦により、布衣の身で召されて都総裁とし、修撰曾棨らをその副とした。詞臣の纂修者及び太学の儒生数千人、秘庫の書数百万巻を繙き、浩瀚で端倪がない。陳済は少師姚広孝ら数人と、凡例を発し起し、区分して鉤考し、秩序整然として法があった。執筆者に疑いがあると、常に陳済に就いて質問し、口を応じて弁析し滞ることがなかった。書が成ると、右賛善を授かった。謹慎して過ちがなく、皇太子は甚だ礼重した。凡そ稽古纂集の事は、ことごとく陳済に属した。事に随って敷奏し、裨益するところ多かった。五人の皇孫は皆経を受けた。職に居ること十五年で卒した。年六十二。
陳済は若い頃酒の過ちがあり、母が戒めたので、終生かつて酔うに至らなかった。弟の洽は兵部尚書となり、陳済を父のように事えた。陳済は盛満を深く懼れ、いよいよ自ら謙抑した。住まいは蓬戸葦壁で、ただ風雨を蔽うのみ、終日危坐し、手から巻を釋さなかった。文を為すには経史に拠り、葩藻を事としなかった。かつて言うには、「文は布帛菽粟の如く貴び、世に益あるのみである」と。その後、陳継・楊翥という者があり、また布衣で経を通じた。楊士奇の推薦により、陳継は博士より翰林に入った。そして楊翥はついに景帝の潜邸の恩により、俞山・俞綱らとともに皆大官に至った。天順以後、初めて漸く資格に拘るようになった。編修馬升・検討傅宗は科目によらなかったが、李賢は皆これを出して参議とした。布衣で館閣に預かる者はなく、弘治年間に潘辰のみが才望をもってこれを得、一時その異数たるを詫異とした。
陳継は、字を嗣初といい、呉の人である。幼くして孤となり、母の呉氏は、みずから織って誦読の資とした。長ずるに及んで、経学を貫穿し、人は「陳五経」と呼んだ。母に奉じて至孝であり、府県交えて推薦したが、母老いるを以て就かなかった。母が卒すると、哀毀人に過ぎた。永楽年間、また孝行を挙げられ、その母を「貞節」と旌った。仁宗が即位し、弘文閣を開いた。帝が臨幸し、問うて言うには、「今山林にも名士はあるか」と。楊士奇は初め陳継を知らなかった。夏原吉が蘇・松で治水し、その文を得て、帰って楊士奇に示すと、楊士奇は心にこれを識った。帝が問うに及んで、遂に陳継をもって答えた。召されて国子博士とし、まもなく翰林五経博士に改め、弘文閣に直った。宣宗の初め、検討に遷った。疾いを引いて帰り、卒した。
俞山、字は積之、秀水の人である。郷挙によって郕府の伴読となった。景帝の時、吏部右侍郎拝した。而して嘉興の俞綱は諸生より『実録』を繕写し、中書舎人に試され、郕府の審理を授かった。景帝の時、兵部右侍郎として内閣に入り機務に預かった。三日居て、固く辞し、本官を守った。景帝が東宮を易えようとすると、山は密かに疏を上て諫めた。聴かれず。懐献太子が立つと、太子少傅を加えられたが、山は意自ら安からず、致仕して去った。綱は太子少保を加えられた。英宗が復辟すると、山は致仕していたので免れた。而して綱は景泰の時、能く二帝の間を周旋したので、故に南京礼部に転じることができた。成化初めに致仕し、卒した。
潘辰、字は時用、景寧の人である。幼くして孤となり、従父に従って京師に家し、文学をもって名を知られた。弘治六年、天下に山林に隠れたる才徳の士を挙げることを詔した。府尹唐恂が辰を挙げたが、吏部は辰が京師で生長したことを理由にこれを寝かせた。恂が再び奏し、給事中王綸・夏昂もまた交えて章を上て推薦したので、乃ち翰林待詔を授けた。久しくして、典籍の事を掌った。『会典』の修撰に預かり完成し、五経博士に進んだ。正徳年中、劉瑾が『会典』の小疵を摘発し、再び典籍に降とし、俄かに故官に還した。南京に祭酒が欠け、吏部は石缶及び辰を推挙した。帝は缶を命じ、而して辰を編修に抜擢した。九年居て、超擢して太常少卿とし、致仕して帰り、卒した。特に祭葬を賜う。辰は官に居て勤勉慎重、朝に入り夜に帰った。制誥を典する時、幣をもって酬いる者があっても、堅くこれを退けた。士大夫はその学行を重んじ、「南屏先生」と称した。
二十年、扈従して北征した。師が凱旋し、李陵城を過ぎた。帝は城中に石碑があると聞き、英を召して往き視させた。既に至ると、碑の在り処を知らなかった。而して城の北門に石が土より尺余出ている。これを発くと、乃ち元の時の李陵台駅令謝某の徳政碑であり、碑の陰に達魯花赤等の名氏を刻していた。具に以て奏した。帝曰く、「碑に蒙古の名あり、異日且つ己が地と為し、争端を啓かん。」命じて再び往きてこれを撃ち砕かしむ。諸河に沈め、還って奏した。帝はその詳審なるを喜び、曰く、「爾は是れ二十八人中の読書者なり、朕且つ爾を用いん。」因って北伐の事を問う。英曰く、「天威親征すれば、彼必ず遠く遁れ、願わくは窮追せざらんことを。」帝笑って曰く、「秀才朕を黷武と謂うか?」因って曰く、「軍中の動静、聞く有れば即ち入奏せよ。」且つ中官に諭して阻むること勿からしむ。功を立てた官軍に過ち有り、糧を与えること勿からしめ、相集まって泣いた。英の奏により、復たこれを給与す。仁宗即位し、累進して右春坊大学士となり、省親を乞うて帰った。
英は端凝持重、四朝に歴仕す。翰林に四十余年、屡々会試の考官と為り、朝廷の制作多く其の手より出で、四方銘誌碑記を求むる者絶えず。性直諒、人の過ちを規するを好み、三楊皆喜ばず、故に柄用を得ず。裕後累官して四川按察使と為る。
銭習礼、名は幹、字を以て行わる、吉水の人。永楽九年の進士。庶吉士に選ばれ、尋いで検討を授かる。習礼は練子寧と姻戚なり。既に仕え、郷人以って奸党として之を挟み、恒に惴惴たり。楊栄間を乗じて帝に言う、帝笑って曰く、「子寧をして在らしめば、朕猶お之を用いん、況んや習礼をや。」仁宗即位し、侍読に遷り、制誥を知り、省親を以て帰る。
周叙、字は公叙、吉水の人。年十一にして詩を能くす。永楽十六年の進士。庶吉士に選ばれ、『黄鸚鵡賦』を作り、旨に称し、編修を授かる。侍読を歴官し、経筵に直る。正統六年、疏を上て事を言い、帝嘉納す。八年夏、又上言す、「比来天旱し、陛下躬を責め虔に祷るも、臣下効忠補過の言を聞かず、徒に情を陳し用いを乞うのみ。銓選を掌る者は賢否を論ぜず、第に資格に循う。国計を司る者は耕桑を問わず、惟だ賦斂に勤む。軍士は役作に困し、刑罰は重軽を失い、風憲は激揚無く、言官は務めて緘黙す。僧道数万、日に戸口を耗し、流民衆多、矜恤するもの莫し。」帝章を以て諸大臣に示す。王直等皆罪を引き罷を求む。十一年、南京侍講学士に遷る。
周敘は気節を負い、行誼に篤かった。曾祖父の以立は、元の時に宋・遼・金の三史の体例が当を得ないとして、重修を欲した。周敘は先人の志を継ごうと思い、正統末に朝廷に請うた。詔して自ら撰することを許し、数年をかけて銓次したが、完成せずして卒した。
柯潛は文学に深く、性は高潔で狷介であった。学士の時、早くも院中の後圃に清風亭を構え、池を穿ち芙蓉を植え、後堂に二本の柏を植えた。人はその亭を「柯亭」と称し、柏を「学士柏」と呼んだ。院中に井戸あり、学士劉定之の穿ったものである。柯亭・劉井は、翰林の中で美談とされたという。
羅璟、字は明仲、泰和の人。天順末、進士及第。編修を授かり、修撰に進む。『宋元通鑑綱目』の編修に預かる。累官して洗馬。孝宗が太子の時、選ばれて侍講読に侍る。母喪により帰郷。羅璟は尚書尹旻の子で侍講の尹龍と共に孔氏に娶る。尹旻が罪を得ると、李孜省が羅璟を尹旻の党と指弾し、南京礼部員外郎に左遷。孝宗が位を嗣ぐと、王恕らが羅璟の才を言上し、福建提学副使を授かる。弘治五年に召されて南京祭酒となる。久しくして卒す。
孔公恂、字は宗文、先聖孔子の五十八世孫である。景泰五年に会試に挙げられるが、母の疾を聞き、廷対に赴かず。帝が礼部に問うと、その故を具に言上したので、使者を遣わして召した。日は既に午に及び、試験の準備に及ばず、命じて翰林院に筆札を与えさせた。及第すると、直ちに母の憂いに服して帰郷した。
衍聖公孔彦縉が卒すと、孫の弘緒が幼弱であったため、詔して礼部郎を遣わして喪を治めさせ、孔公恂がその家事を処理した。天順初、礼科給事中を授かる。弘緒は既に封を襲い、大学士李賢が娘を娶せたため、孔公恂はこれにより李賢と交わるを得た。李賢が言うには、「孔公恂は大聖人の後、賛善司馬恂は宋の大賢温国公司馬光の後である。太子を輔導させるに宜しい」と。帝は喜び、同日に超えて少詹事に拝し、東宮に侍って講読した。入って孝粛皇后に語って言うには、「我今日に聖賢の子孫を得て汝が子の傅と為す」と。孝粛皇后とは、憲宗の生母で、当時皇貴妃として寵遇されていた。ここに冠服を具えて拝謝し、宮中に伝えて盛事とされたという。
司馬恂、字は恂如、浙江山陰の人。正統末、挙人より刑科給事中に抜擢され、累遷して少詹事。憲宗立つと、命じて国子祭酒を兼ねる。卒し、礼部左侍郎を贈られる。司馬恂は強記で敦厚、物と忤わず、官に居て特に表立った事績は無かった。
賛して曰く、「建文の初め、尊賢敬老の節を修めた。董倫は宿儒として重んぜられ、表立った事績は少ないが、苟且な者ではなかった。儀智父子は代々儒術をもって進み、従容として輔導した。その賢なることよ。鄒済ら諸人は、東宮官僚として遇せられながら讒構を免れず。陳済らは布衣より起り、禁近に列して善く終始した。固より幸不幸があったか。二周(周敘・周恂か)、王英、錢習禮、周敘、柯潛は謙和で直諒、各々その美を著わし、浮華で博習なる徒とは異なっていた。」