明史

列傳第三十九 茹瑺 厳震直 張紞 王鈍 鄭賜 郭資 呂震 李至剛 方賓 呉中 劉觀

○茹瑺 厳震直 張紞(毛泰亨) 王鈍 鄭賜 郭資 呂震 李至剛 方賓 呉中 劉觀

茹瑺は衡山の人である。洪武年間、監生から抜擢されて承敕郎となり、通政使を歴任した。職務に勤勉で、太祖は彼を賢しとした。二十三年に右副都御史に任じられ、さらに兵部尚書を試みられ、まもなく実授され、太子少保を加えられた。恵帝が即位すると、吏部に改められたが、黄子澄と折り合いが悪く、刑部尚書暴昭がその贓罪を発覚させたため、出向して河南布政司事を掌った。まもなく再び召されて兵部尚書となった。

燕軍が龍潭に至ると、帝は茹瑺及び曹国公李景隆、都督ととく同知王佐を遣わして燕軍に赴き、和議を講じさせた。茹瑺らが成祖に会うと、地に伏して流汗し、一言も発することができなかった。成祖は言った、「公らは言うべきことを言えばよい、どうしてここまで恐れるのか。」しばらくして、ようやく詔を奉じて地を割き講和する旨を言上した。成祖は笑って言った、「我は罪なくして庶人に削られた、今は死を救わんとするのみで、何のために地を要しようか。しかも皇考(太祖)が諸子を封じた時、すでにそれぞれ分地があったのだ。奸臣を縛って来い、そうすれば我は直ちに甲を解き孝陵に謁して藩に帰ろう。」茹瑺らは唯々として頓首して帰還した。

成祖が京師に入ると、茹瑺を召した。茹瑺は真っ先に即位を勧めた。成祖が即位すると、詔を下して李景隆、茹瑺、王佐及び陳瑄が太祖に仕えて忠であり、功績が甚だ重いと述べた。茹瑺を忠誠伯に封じ、禄一千石を食み、終身とした。引き続き兵部尚書、太子少保とした。その子の茹鑒を選んで秦府長安ちょうあん郡主の儀賓とした。即座に茹瑺に命じて出向させ、郡主の府第を営ませた。

朝廷に戻ると、趙王を見送らなかった罪に坐し、郷里に帰るよう遣わされた。その後、家人に訴えられ、京師に逮捕された。釈放されて帰還した。長沙を通る際に谷王に謁見せず、谷王がこれを言上した。当時は藩王の礼を重んじており、谷王はまた金川門を開いた功績があったため、帝の意向は彼に傾いていた。陳瑛はそこで茹瑺が祖制に違背したと弾劾し、逮捕して錦衣衛の獄に下した。茹瑺は免れられぬと悟り、子の茹銓に命じて毒薬を買わせ、服毒して死んだ。時は永楽七年二月である。法司は茹銓が父を毒殺したと弾劾し、父母殺害の罪で論ずるよう請うた。後に茹銓が実は父の命を承けたものであるとして、死罪を減じ、兄弟家族二十七人とともに広西河池に流罪とした。仁宗が立つと、釈放して帰還させた。宣宗は没収した田宅を返還した。

茹瑺は官に在って謹慎し、謙和で包容力があった。その死は、人々に惜しまれた。

厳震直は字を子敏といい、烏程の人である。洪武時、富民から選ばれて糧長となり、毎年一万石の糧を京師に運び、遅滞することがなかったため、帝はその才能を認めた。二十三年に特に通政司参議を授けられ、再び遷って工部侍郎となった。二十六年六月に尚書に進んだ。当時朝廷は営造事業が多く、天下の工匠二十万余戸を京師に集めていた。震直は戸ごとに一人を役とし、その姓名と職業を官に記録させ、役務がある時は籍に従って順番に召集するよう請うた。役務に就く者は便利だと称した。郷民がその弟と甥の不法を訴えたので、帝は震直に訊問させた。獄案を具えて上奏すると、帝は欺かないと認め、その弟と甥を赦した。後に事に坐して御史に降格となったが、数々の冤獄を雪いだ。

二十八年に龍州を討つにあたり、震直を尚書任亨泰とともに安南に諭させた。帰還後、利害を条奏して、旨に適った。まもなく広西興安県の霊渠を修築するよう命じられた。地勢を審らかに測り、湘・漓の二江を導き、渠を五千余丈浚渫し、渼潭及び龍母祠の土堤百五十余丈を築き、さらに中江の石堤を高く増築し、陡閘三十六を建て、舟の妨げとなる灘石を鑿ち去り、漕運がすべて通じるようにした。帰還して奏上すると、帝は善しと称えた。

三十年二月に上疏して言った、「広東は以前、塩八十五万余引を広西に運び、商人を召して中買させていた。現在、年間に運ぶのはわずか十分の一である。三十万八千余引を広東に貯蔵し分け、別に商人を募って広西の糧衛所に粟を納入させ、広東で塩を支給し、江西の南安・贛州・吉安・臨江の四府で売却するのが便利です。」帝はこれに従った。広塩が江西で行われるようになったのはこれが始まりである。

その年四月に右都御史に抜擢され、まもなく再び工部尚書となった。建文中、山東で糧餉を督したことがあり、その後致仕した。成祖が即位すると、召見され、元の官で山西を巡視するよう命じられた。沢州に至り、病没した。

張紞は字を昭季といい、富平の人である。洪武年間、明経に挙げられた。東宮侍書となり、累進して試左通政となった。十五年、雲南が平定されると、出向して左参政となった。陛辞の際、帝は詩二章を賦して賜った。左布政使を歴任した。二十年春に入覲し、治績が天下第一であったため、特に吏部に考課させないよう命じた。璽書を賜って言った、「かつて西南を討平し、命じて官を撫守させたが、爾張紞は実に先んじて往き、今に至るまで五年である。諸蛮は服従し、誠信が互いに通じ、よくその職に恭しく、考課を待たずして朕はその功が天下の十二牧の上に出ることを知る。故に爾の績を嘉し、爾に命じてなお滇南を治めさせる。往け、欽せよ。」張紞は滇に在ること凡そ十七年、土地の貢賦、法令条格はすべて彼が裁定した。民間の喪祭冠婚にもすべて定められた制度があり、その習俗を変えようと務めた。滇人はこれに従って用いた。朝士の董倫、王景らがその地に謫された時、皆礼意をもって接した。

恵帝が即位すると、召されて吏部尚書となった。詔して遺逸の士を徴して闕下に集めさせた。張紞が選抜任用した者は、皆その才に適っていた。時に『太祖実録』を修するにあたり、翰林編纂官を試すよう命じられ、張紞は楊士奇を第一と奏上した。士奇はこれによって知名となった。

成祖が京師に入ると、朝中の奸臣二十九人を記録したが、張紞もその中に含まれていた。茹瑺の言により、赦されて元の職に留まった。まもなく、帝が臨朝して嘆き、建文時の官制を改めた者を咎めた。そこで張紞及び戸部尚書王鈍に職務を解かせ、月に半俸を与え、京師に居住させた。張紞は恐れ、吏部の後堂で自縊し、妻子は相次いで池に投身して死んだ。

張紞が吏部に在った時、官制の変更に際し、小吏の張祖が言うには、「高皇帝は法を立て制を創り、規模は甚だ遠大である。今これを改めても、必ずしも勝るとは限らず、徒に人の口実を増やすのみである。願わくは公が力を以てこれを堅持せられよ」と。紞はこれを用いることができなかったが、心の中で張祖を賢しとし、京衛知事に奏任した。後に紞が死ぬと、配下の吏で敢えて見舞う者なく、ただ張祖のみがその喪を経紀した。世間では、燕師が京師に入ると、紞は即座に自縊して死んだと伝え、厳震直は奉使して雲南に至り、建文君に遇って悲愴のあまり金を呑んで死んだと伝える。諸国の史を考証するに、それは事実ではない。

時に毛泰亨という者がいた。建文の時に吏部侍郎となり、張紞と同僚であった。紞が死ぬと、泰亨もまた死んだ。

王鈍は、字を士魯といい、太康の人である。元末に猗氏県尹となった。洪武年間に召されて礼部主事に任じられ、歴任して福建参政となり、廉潔で慎重であることで知られた。麓川に諭旨を伝えるため派遣されると、その贈り物を退けた。ある者が「受け取らないと、遠方の人が疑いを抱く恐れがある」と言ったので、鈍はそれを受け取った。帰還して雲南に至ると、それを官庫に納めた。二十三年に浙江左布政使に転じた。浙江に十年在任し、その名声は張紞と並んだ。帝はかつて朝廷でこれを称え、諸官を励ました。

建文初年、戸部尚書に拝された。成祖が入京すると、城を越えて逃走したが、巡邏の兵卒に捕らえられた。詔により元の官職に留まった。間もなく、張紞と共に罷免された。まもなく工部尚書厳震直らと共に分かれて山西・河南・陝西・山東を巡視することを命じられ、また新昌伯唐雲と共に北平の屯田を管理した。詔命を受けて再び上疏して事を言上し、いずれも実行を許された。永楽二年四月に勅書を賜わり、布政使として致仕した。帰郷した後、鬱々として死んだ。

子の王淪は、永楽四年の進士である。仁宗の時に鄭王府左長史に転じ、たびたび礼を以て王を諫めた。かつて荀卿の『成相篇』にならって十二章を撰して献上した。言葉が率直であったため、王と合わなかった。召されて戸部郎中に改められた。英宗が即位すると、戸部右侍郎に抜擢され、浙江を巡撫して、善政があった。母の喪に服した後、起復して入朝し、留まって部の事務を代行した。まもなく老齢を理由に帰郷を請い、死去した。

鄭賜は、字を彦嘉といい、建寧の人である。洪武十八年の進士。監察御史に任じられた。当時、天下の郡県の官吏は多く罪に坐して流戍に処せられ、賜はかつて龍江で命を受けて行伍を編成した。時は夏の盛りで、諸囚は甚だ疲弊していた。賜は彼らの枷を外し、宿舎を借りて休息させ、飲食を周旋し、病む者には医薬を与え、多くを全活させた。任期が満ちて昇任すべき時、湖広布政司参議に欠員があり、命により賜と検討官呉文がこれに任じた。二人は心を合わせて弊害を除去し、民は安寧を得、苗や獠は畏れて懐いた。母の喪に服し、去職した。喪が明けると、北平参議に改められ、成祖に仕えて甚だ謹直であった。再び連座して罪を得、安東屯に流戍された。恵帝が即位すると、成祖及び楚王朱楨はいずれも賜を長史に推挙したが、許されず、召されて工部尚書となった。燕兵が起こると、河南の軍を督率して燕を扼した。成祖が京師に入ると、李景隆が賜の罪は斉泰・黄子澄に次ぐと告発した。捕らえられて至ると、帝は「我は汝をどう遇したというのか、それなのに背いたのか」と言った。賜は「臣の職分を尽くしたまでです」と答えた。帝は笑って釈放し、刑部尚書に任じた。

永楽元年、都督孫嶽が太祖の建立した寺を擅に破壊したことを弾劾し、詔により海南に安置させた。孫嶽は、建文の時に鳳陽を守り、かつて寺の材木を破壊し、戦艦を修造して燕軍を防いだ。燕はその備えがあることを知り、別の道を取って南下したので、賜はこれを弾劾したのである。二年に李景隆が密かに亡命者を養い、不軌を謀っていることを弾劾した。また陳瑛と共に耿炳文が奢侈を僭することを弾劾し、炳文は自縊して死んだ。いずれも帝の意にそって憎んでいる者を推し量ったのである。祁陽の教諭康孔高が京師に朝して帰る途中、わざわざ道をそれて母を省問した。折しも母が病気になり、九ヶ月間留まって侍し、出発しなかった。賜は孔高を逮捕して尋問するよう請い、その罪は杖刑に当たるとした。帝は「母子が数年も離れていたのに、一度会ったからといていきなり捨て去るのは難しく、まして病気であれば、哀れむべきである」と言い、その官職を復するよう命じた。

三年の秋、李至剛に代わって礼部尚書となった。四年正月、西域が仏舎利を貢ぐと、賜はこれに因んで囚人を釈放するよう請うた。帝は「梁の武帝や元の順帝が仏教に溺れ、罪ある者を刑せず、紀綱が大いに乱れた。これをどうして倣えようか」と言った。この年の六月朔、日食があるはずであったが、陰雲で見えず、賜は祝賀を請うた。許されなかった。賜は「宋の盛時にかつてこれを行いました」と言った。帝は「天下は広大である。京師で見えなくても、天下で見えたらどうするのか」と言い、ついに許さなかった。

賜は人となり頗る温和で篤実であったが、大礼を弁えず、帝は軽んじた。同官の趙羾に離間され、六年六月に憂い恐れて卒した。帝はその自尽を疑った。楊士奇が「賜は数日間病気で、惶恐して退くことを求めませんでした。昨日右順門に立っていた時、力尽きて倒れ、口鼻には吐く息はあっても吸う息がありませんでした」と言うと、言葉が終わらないうちに帝は「汝の言葉がなければ、ほとんど賜を疑うところであった。賜は確かに善人であるが、才が短いだけだ」と言い、葬祭を行うよう命じた。洪熙元年に太子少保を追贈され、文安と諡された。

郭資は、武安の人である。洪武十八年の進士。累官して北平左布政使となり、密かに成祖に附いた。兵が起こると、張昺らが死ぬと、資は左参政孫瑜・按察司副使墨麟・僉事呂震と率先して降伏し、万歳を叫んだ。成祖は喜び、世子を輔佐して居守させるよう命じた。

成祖が三年にわたって転戦する間、資は軍糧の供給を主管した。即位すると、資を戸部尚書とし、北平布政司を掌らせた。北京が建設されると、行部尚書に改め、六曹の事務を統轄した。都が定まると、再び戸部に改めた。当時、城郭宮殿を営み、官吏を置き、塞外に出て北征するなど、工役が頻繁に起こり、資は職務を挙げて廃れる事がなかった。仁宗が立つと、旧功により太子賓客を兼ねた。まもなく老病のため、太子太師を加えられ、勅書を賜わって致仕した。宣徳四年、再び起用されて戸部尚書となり、職務に奉じてますます勤勉であった。八年十二月に卒し、七十三歳であった。湯陰伯を追贈され、忠襄と諡された。その子の郭佑を戸部主事に任じた。

資は銭穀を治めるのに有能と称され、仁宗はかつて楊士奇にこれを問うた。対えて「資の性質は強毅で、人は私情をもって干渉することができません。しかし、租税免除の詔が数度下っても奉行せず、陛下の恩沢を行き渡らせないのは、資であります」と言った。

呂震は、字を克声といい、臨潼の人である。洪武十九年に郷挙で太学に入った。時に太学生に命じて郡邑の田地を調査させ、貢賦を均しくした。震は檄を受け両浙に赴き、帰還して奏上すると旨に叶い、山東按察司試僉事に抜擢された。入朝して戸部主事となり、北平按察司僉事に転じた。燕兵が起こると、震は成祖に降り、世子に侍して居守するよう命じられた。永楽初年、真定知府に転じ、入朝して大理寺少卿となった。三年に刑部尚書に転じた。六年に礼部に改めた。皇太子が監国すると、震の女婿である主事張鶴が朝参で儀を失い、太子は震の故をもってこれを宥した。帝はこれを聞いて怒り、震及び蹇義を錦衣衛の獄に下した。後に、復職した。仁宗が即位すると、太子少師を兼ねるよう命じ、まもなく太子太保兼礼部尚書に進んだ。宣徳元年四月に卒した。

震はかつて三度命を受けて親を省み、二度は関中が飢饉に遭い、所司に命じて粟を出して救済し、帰還してから初めて報告した。しかし学術がなく、礼官として大礼を知らなかった。成祖が崩御し、遺詔で二十七日後に縗服を脱ぐとあった。その期日に、震は群臣が皆烏紗帽・黒角帯に改めるよう建議した。近臣が「仁孝皇后が崩御された時、縗服を脱いだ後、太宗は素冠と布の腰绖に改められました」と言うと、震は勃然と色を変え、異を唱える者を誹謗した。仁宗は震の議を退け、素冠と布の腰绖に改めた。洪熙元年、群臣を分遣して嶽鎮海瀆及び先代帝王の陵を祀らせると、震は周の文王・武王・成王・康王を祀ることを乞うた。便道で母を省みる際、私的に妻の喪柩を香帛と同車に載せた。太廟を祀るために致斎する際、西番僧の舎で酒を飲み、大醉して帰り、一晩で卒した。

呂震は人となり佞諂で、傾き険悪であった。永楽年間、曹県が騶虞を献上し、榜葛剌国・麻林国が麒麟を進貢したとき、震は祝賀を請うた。帝は言った、「天下が治安であれば、麒麟がいなくても何の害があろうか」。貴州布政使の蔣廷瓚が言うには、「帝が北征より凱旋されたとき、詔書が思南の大巖山に至ると、万歳を呼ぶ声が三度あった」。震は言った、「これは山川が霊験を現したものである」。帝は言った、「山谷の声は、空虚が相応じて起こるもので、理屈としてはあるかもしれない。震は国の大臣でありながら、その非を弁えず、またこれに乗じて媚びを進めようとするとは、君子が君に仕える道であろうか」。郎中の周訥が封禅を請うと、震は力を込めて賛成したが、帝はその誤りを責めた。震はたびたび面と向かって叱責を受けたが、ついに改めることができなかった。金水河・太液池の氷が、楼閣・龍鳳・花卉の形状を具えていた。帝は群臣を召してこれを見せた。震はこれにより祝賀を請うたが、許されなかった。一方、隆平侯の張信が太和山に五色の雲が見えたと奏上し、侍郎の胡濙が瑞光・榔梅・霊芝の図を献上すると、震は群臣を率いて先後して表を奉って祝賀したという。

成祖が初めて北京に巡幸したとき、太子留守の事宜を定めるよう命じた。震は、常事は太子の処分に聴き、章奏は南京の六科に分けて貯蔵し、還鑾の日に一括して奏上するよう請うた。許可された。十一年・十四年、震は再び前の制度の通りにするよう請うた。十七年、帝が北京におられたとき、事により章奏を求められたが、侍臣が南京に留めていると言った。帝は震の以前の請願を忘れ、「章奏は行在に達すべきであり、礼部が別に議したことがあろうか」と言い、震に問うた。震は罪を恐れ、「ありません。奏章は行在に達すべきです」と言った。三度問うても、前と同じように答えた。そこで、勝手に奏章を留めた罪で、右給事中の李能を殺した。人々は李能が冤罪であると知っていたが、震を恐れて敢えて言う者はいなかった。尹昌隆の禍は、震がこれを構えたものである。事は『昌隆伝』に詳しい。夏原吉・方賓が北征の糧秣不足を言って罪を得たため、震に戸部・兵部の事務を兼ねて領させた。震もまた自ら危うく思った。帝は官校十人を付き従わせ、「もし震が自尽したら、お前たち十人も皆死ぬ」と言った。

震は精力があり、強記で、その才はその人となりを助けるのに足りた。凡そ奏事するとき、他の尚書は皆副本を執り、また左右侍郎と交代で進み出て重ねて奏上した。震は既に三部を兼ね、奏牘がますます多くなったが、皆自ら進み出て奏上し、侍郎は関与しなかった。情状の委曲、千緒万端を、流れるように暗誦し、誤りがあったことはなかった。かつて北狩に扈従したとき、帝が砂磧の中に立つ碑を見て、従臣を率いてその文を読まれた。後一年、諸文学の臣と碑の話をされたとき、礼部に官を遣わしてこれを書き写すよう詔された。震は使者を遣わす必要はなく、筆札を帝の前で授かり書き下すよう請うた。帝は密かに人を遣わしてその拓本を取らせて校合させたが、一字も脱落誤りはなかった。

子に熊がいた。宣宗が即位した初め、震はたびたび帝の前で官を乞い、涙を流すに至った。帝はやむなく、兵科給事中に任じた。

李至剛は、名は鋼、字をもって行われる。松江華亭の人。洪武二十一年に明経に挙げられた。懿文太子に侍することを選ばれ、礼部郎中に任じられた。累を坐して辺境に謫戍されたが、まもなく召されて工部郎中となり、河南右参議に遷った。黄河が汴の堤を決壊したとき、至剛は王府の積み木を借りて筏を作り、これで済ませることを議した。建文中、湖広左参議に転じ、事に坐して獄に繋がれた。

成祖が即位すると、側近がその才能を称えたため、右通政とした。『太祖実録』の編修に参与し、朝夕帝の左右にあり、洪武年間の事を称説して、甚だ親信された。まもなく礼部尚書に進んだ。永楽二年に皇太子を冊立すると、至剛は左春坊大学士を兼ね、東宮の講筵に直し、解縉と先後して進講した。後に、また事に坐して獄に下され、久しくして釈放され、礼部郎中に降格された。解縉を恨み、中傷した。縉が獄に下されると、供述が至剛に連座し、また十数年繋がれた。仁宗が即位し、釈放され、また左通政とした。給事中の梁盛らが至剛ら十余人を弾劾し、大行皇帝(成祖)が晏駕されたとき、公署に宿直せず、酒を飲み肉を食らい、恬として悲しみの容色がなかったと訴えた。帝は至剛が先朝の旧人であることを思い、興化知府として出させた。時に年は既に七十であった。二年後、官で没した。

至剛は人となり敏捷で、繁劇な事務を処理でき、よく傅会した。真っ先に北平に都を建てる議を発し、事を言う者が私を挟むことを禁ずるよう請うた。成祖はこれに従った。既に上心を得ると、ひたすら佞諂に務めた。かつて太祖の忌辰には、宋の制度に倣い、僧道に経を誦めさせるべきだと言った。山東で野蚕が繭を作ると、至剛は祝賀を請うた。陝西が瑞麦を進上すると、至剛は百官を率いて祝賀した。帝は皆聞き入れなかった。宦官が真臘に使いしたとき、従者が三人逃亡し、国王が国中の三人で補った。帝は返還させるよう命じたが、至剛は言った、「中国の三人が、彼らが私かに匿ったものでないとどうして知れましょう」。帝は言った、「朕は至誠をもって内外を待つ。どうして逆詐を用いようか」。建白したことは多く用いられなかった。

妻の父が重法に罹ったとき、至剛が免罪を乞うた。帝は言った、「獄の軽重を、外の者がどうして知るのか」。至剛は言った、「都御史の黄信が臣に言いました」。帝は怒り、黄信を誅した。初め、至剛は解縉と交わり甚だ厚かった。帝が大臣の姓名十人を書いて、縉にその人柄を疏上させたとき、至剛は不端であると言った。縉が広西に謫されたとき、至剛は遂にその怨望を奏上し、交阯に改謫させた。

方賓は、銭塘の人。洪武年間に太学生から兵部郎中に試用された。建文中、応天府事を署理した。罪に坐して広東に戍された。茹常の推薦により、召されて官に復した。成祖が京師に入ると、賓は侍郎の劉俊らと迎え附き、特に委用され、兵部侍郎に進んだ。四年、俊が尚書として黎利征討に出征すると、賓が部事を処理し、幹才があり、応務に滞りがなかった。性、警敏で、上意を推し量ることができ、帝に知られ、寵を恃んで貪欲恣肆であった。七年に尚書に進み、北京に扈従し、行在の吏部事を兼掌した。翌年北征に従い、学士の胡広・金幼孜・楊栄、侍郎の金純と共に機密に参与した。その後、帝が北巡するたびに、賓は常に扈従した。

十九年、親征が議された。尚書の夏原吉・呉中・呂震と賓が共に議し、兵を休め民を養うべきであるとした。未だ奏上しないうちに、帝が賓を召されると、賓は糧秣が不足すると言い、原吉を召されると、また供給できないと答えた。帝は怒り、原吉を開平の糧秣視察に遣わし、まもなく召還して獄に下した。賓は丁度霊済宮を提調していた。中使が進香に来て、帝の怒りを賓に語った。賓は懼れ、自縊死した。帝は実は賓を殺す意はなく、賓の死を聞いて、却って怒りを増し、その屍を戮した。

呉中は、字は思正、武城の人。洪武末、営州後屯衛の経歴となった。成祖が大寧を取ると、迎えて降った。糧秣輸送と防禦の功により、累遷して右都御史に至った。永楽五年、工部尚書に改めた。北征に従い、父母の喪で帰った。起復して、刑部に改めた。十九年、夏原吉・方賓らと共に北征の糧秣不足を言って、旨に忤い獄に繋がれた。仁宗が即位し、これを出獄させ、官に復し、詹事を兼ね、太子少保を加えた。宣徳元年、楽安征討に従軍した。三年、官の木石を宦官の楊慶に与えて宅を造らせた罪に坐し、獄に下され、宮保を落とし、俸禄を一年奪われた。正統六年、宮殿の工事が完成し、少師に進んだ。翌年卒し、年七十。茌平伯を追封され、諡は栄襄。

中は勤勉敏捷で計算に長けた。先後して工部に二十余年おり、北京の宮殿、長陵・献陵・景陵の三陵は、皆中が営造した。職務は山積したが、規画は整然としていた。しかし工匠を恤れまず、また声色に湛溺し、当時の論はこれを卑しんだ。

劉観は、雄県の人。洪武十八年の進士。太谷県丞に任じられ、推薦により抜擢されて監察御史となった。三十年に左僉都御史を署理するよう遷った。事に坐して獄に下されたが、まもなく釈放された。出て嘉興知府となったが、父の喪で去職した。

永楽元年、雲南按察使に抜擢されたが、赴任せず、戸部右侍郎に任じられた。二年、左副都御史に転じた。当時、左都御史陳瑛は残忍で苛烈、右都御史呉中は寛容で温和であり、劉観は二人の間を巧みに立ち回り、ひたすら迎合して歓心を買った。四年、北京で宮殿を造営するに当たり、観は浙江に派遣されて木材を徴発したが、まもなく帰還した。翌五年冬、帝は山西の旱魃を理由に、観を駅伝で急行させ、木材徴発に動員された軍民を解散・帰還させた。六年、鄭賜が没すると、礼部尚書に昇進した。十二月、刑部尚書呂震と官職を交換した。事件に連座して皇太子の譴責を受けた。帝は北京でこれを聞き、大臣に小過があっても急に屈辱を与えるべきでないとして、特に詔書を賜って太子を諭した。八年、都督僉事費瓛が涼州の叛羌を討つに当たり、観は軍事に参与するよう命じられた。帰還後、事件に連座して、本部(刑部)の吏に降格された。十三年に原職に復帰し、左都御史に改められた。十五年、河運の疏浚を監督した。十九年、陝西巡撫を命じられ、官吏を考察した。

仁宗が帝位を継ぐと、太子賓客を兼ね、まもなく太子少保を加えられ、二つの官職の俸給を受けた。当時、大理少卿弋謙がたびたび上奏して意見を述べたため、帝はその煩瑣さを嫌った。尚書呂震と大理卿虞謙は帝の意向を忖度して弾劾上奏し、観もまた十四道の御史に命じてその虚偽と妄言を論じさせた。このため、世論から軽蔑された。

当時は官妓を禁ずる規定がなかった。宣徳初年、臣僚は宴会や享楽にふけり、奢侈を競い、歌妓が満ちていた。観は私的に賄賂を受け取り、諸御史もまた貪欲で放縦、憚るところがなかった。三年六月、朝議が終わると、帝は大学士楊士奇と楊栄を文華門に召し出し、諭して言った。「祖宗の時代、朝臣は謹み深く行いを整えていた。近年、貪濁が風潮となっているのは、どうしたことか。」士奇が答えて言った。「永楽の末にはすでにありましたが、今は特に甚だしいのです。」栄が言った。「永楽の時、方賓を超える者はいませんでした。」帝が問うた。「今日では誰が最も甚だしいか。」栄が答えた。「劉観です。」また問うた。「誰が代わりを務められようか。」士奇と栄は通政使顧佐を推薦した。帝はそこで観を河道視察に出向かせ、佐を右都御史に任じた。これにより、御史張循理らが相次いで上奏して観を弾劾し、その子の劉輻の諸々の汚職・不法行為をも併せて告発した。帝は怒り、観父子を逮捕し、弾劾文書を見せた。観は上疏して弁明した。帝はますます怒り、廷臣が先後して密奏した文書を提示したが、中には枉法して千金もの賄賂を受けたというものもあった。観は罪を認めたため、錦衣衛の獄に下された。翌年、重い刑罰に処そうとしたが、士奇と栄がその死罪を免除するよう請うた。そこで劉輻を遼東に流罪とし、観にはそれに随行するよう命じた。観はついに客死した。七年、士奇が風憲官(監察官)に命じて貪汙した役人を調査・罷免するよう上奏すると、帝は言った。「その通りだ。以前、劉観を罷免しなかったならば、風憲はどうして粛清できたであろうか。」

賛に曰く。成祖が茹常を封じたのは、太祖に仕えて功績があったからである。しかしこれを考証すると、特に表立った事績は見当たらない。はたして史書が散逸したのであろうか。厳震直の広西における治績、張紞の雲南における治績は、効果が卓然としている。王鈍と鄭賜は地方長官・監司として、名声と実績は頗る顕著であった。しかしその晩節に至っては、皆みずから奮起することができなかった。惜しいことである。郭資、呂震の徒は、事を成し遂げる才幹はあったが、操行には取るべきところがない。李至剛の邪悪、呉中・劉観の貪墨は、また論ずるに足りない。