○郁新・趙羾・金忠・李慶・師逵・古樸(向寶)・陳壽(馬京・許思溫)・劉季篪・劉辰・楊砥・虞謙(呂升・仰瞻・嚴本)・湯宗
新は総合的な事務処理に長け、細密でありながら煩雑ではなかった。その計画したことは、後世変えることができなかった。
趙羾は、字を雲翰といい、夏の人で、祥符に移住した。洪武年間、郷挙によって太学に入り、兵部職方司主事に任じられた。天下の要害・厄塞と、屯戍に適した場所を図にして進呈した。帝はその才能を認め、員外郎に昇進させた。建文初年、浙江参政に転じ、海賊を捕らえる策を建てて功績があった。
仁宗が嗣位すると、南京刑部に改められた。宣徳五年、御史の張楷が羾と侍郎の俞士吉が怠慢で放縦であると弾劾した。召し出され、致仕を命じられた。
金忠は、鄞の人である。若くして書を読み、『易』による占いをよくした。兄が通州の戍りで亡くなったので、忠がその代わりに戍りに就いた。貧しくて行けず、相見師の袁珙が資金を援助した。到着すると、兵卒の列に編入された。北平の市で占いを売り、多く当たったので、市民は神のようだと伝えた。僧の道衍が成祖に称賛した。成祖が兵を起こそうとした時、病気と称して忠を召して占わせると、鑄印乘軒の卦を得た。忠は言った。「この卦象は貴くて言い表せません。」これ以来、燕王府に出入りし、常に占った結果をもって大事を挙げるよう勧めた。成祖は深く彼を信じた。燕王の兵が起こると、自ら官属を任命し、忠を王府紀善に任じ、通州を守らせた。南軍はたびたび攻撃したが陥落させられなかった。やがて、左右に召し置かれ、疑いがあればただちに問い、その術はますます験があり、また時には謀略を進言した。そこで右長史に任じ、軍務を補佐し、謀臣となった。
成祖が帝位につくと、補佐の功を論じ、工部右侍郎に抜擢し、世子(のちの仁宗)を補佐して北京を守らせた。まもなく召還され、兵部尚書に進んだ。帝が兵を起こした時、次子の高煦は従軍して功績があり、太子にすることを約束していた。この時、淇国公の邱福らが高煦に与し、帝に彼を立てるよう勧めた。ただ忠だけが不可であるとし、帝の前で歴史上の嫡子と庶子の事例を数え上げた。帝はその意見を退けられず、密かに解縉・黄淮・尹昌隆に告げた。縉らは皆、忠の言うところを正しいとした。そこで世子を皇太子に立て、忠を東宮輔導官とし、兵部尚書として詹事府詹事を兼ねた。六年、皇太孫の輔導を兼ねるよう命じられた。
忠には兄の華がおり、志操を守った。忠が通州を守って功績があった時、恩典を推して官にしようとしたが、辞退して就かなかった。かつて召し出されて金や綺を賜ったが、これも受け取らなかった。成祖は彼を迂叟とみなして放還した。ある日、『宋史』を読んで王倫が秦檜に附いた事に至り、声を放って長嘆し、そのまま逝去した。郷里では「白雲先生」と称した。
仁宗が即位すると、兵部に改められ、太子少保を加えられた。弋謙が時事について進言して帝の意に逆らい、呂震らが口を揃えてこれを誹謗したが、ただ慶と夏原吉だけは何も言わなかった。帝はまもなく悟り、詔勅を下して自らを責め、同時に震らをも責めたので、震らはこの二人を甚だ慚愧した。山陵(陵墓造営)の事柄が多く、急いで準備する中で宦官が要求したが、頑として与えず、人々は多く彼を厳しく畏れ、「生李(生き李慶)」と号した。皇太子に随従して孝陵を拝謁するよう命じられ、途上で将士を規律し、秋毫も擾すことがなかった。太子が狩猟を望んだが、慶が諫めて止めさせた。太子が北京に還ると、慶を南京兵部に留めた。
初め、戸部主事劉良が行いを慎まず、権勢ある宦官に求めて上考(最上評価)を得ようとした。樸は許さなかった。良は遂に樸を誣告して罪に陥れ、樸は捕らえられた。成祖はその誣告であることを察し、釈放された。他日、吏部が良に誥命(任命書)を与えるよう上奏した。仁宗が言われた。「この者は元来品行がなく、かつて大臣を誣告した。与えることはできない。」良は後、果たして贓罪で敗れた。樸は朝廷に三十余年おり、郎署から尚書に至るまで、確固として節操を守り、私的な請託に通ぜず、右都御史向宝と共に、清く廉直であると称された。
宝は文学の才があり、寛厚で民を愛し、自らを廉直に持ち、幾度も困窮や苦難に遭っても少しも変えず、平素の言動は利に及ばなかった。仕官すること四十余年、卒した日、家財は寂然としていた。
寿と共に獄中で死んだ者に、馬京と許思温がいる。
思温は字を叔雍といい、呉の人である。国子生として刑部主事を署理し、累官して北平按察副使となった。燕師(燕王の軍)が起こると、思温は城守を補佐して功労があり、刑部侍郎に抜擢され、吏部に改め、賛善を兼ねた。また讒言により獄に下された。皆、獄中で病没した。仁宗が立つと、京に少傅を追贈し、諡を文簡とした。思温には吏部尚書を追贈し、その子の俊を賛礼郎に任じ、翰林で学ばせた。
劉季篪は名を韶といい、字をもって行われる。余姚の人。洪武年間に進士となる。行人に任ぜられる。朝鮮に使いし、その饋贐を退ける。帝これを聞き、衣鈔を賜い、陝西参政に抜擢される。陝西には逋賦あり、有司は峻刑をもって督し、民は輸納できず。季篪到着し、その僚と分かれて郡県を行き、械を着けられた者を悉く放ち、期限を緩める。民その徳に感じ、悉く完納す。陝西は碙砂を産せず、しかるに歳に課あり。季篪朝廷に言上し、これを罷む。洪渠の水溢れ、堰を治めて蓄泄し、遂に永利となる。
建文中、召されて刑部侍郎となる。民に盗賊に引き入れられた者あり、逮至するも、盗賊は既に死す。乃ち盗賊の妻子を召してこれを識らしむ。その辞を聴くに、誣なり。これを釈す。吏が官銭を虧き、千余人を誣す。悉く弁明して免ず。河陽の逆旅に朱・趙の二人、異室に寝る。趙殺され、有司は朱がこれを殺したと疑い、拷掠して誣服させる。季篪独り曰く、「これは夙仇にあらず、かつその装いに利すべきものなし」と。その獄を緩め、遂に趙を殺した者を得る。揚州の民家に、盗賊夜に入り人を殺し、刀を屍の傍らに遺す。刀に記識あり、その隣家のものなり。官捕えてこれを鞫く。隣人曰く、「この刀を失うこと久し」と。掠に勝えず、誣服す。季篪人をして刀を懐きてその里に就き潜かに察せしむ。一童子識りて曰く、「これ吾が家の物なり」と。盗賊ここに得らる。
永楽初め、『大典』を纂修し、姚広孝・解縉及び季篪に命じてその事を総せしむ。八年、失出に坐して下獄し、外任に謫せらる。逡巡して行かず、復た下獄す。久しくして始めて釈さる。儒服をもって翰林院編纂に隷せしむるを命ぜらる。尋いで工部主事を授かり、官にて卒す。
劉辰は字を伯静といい、金華の人。国初、典籤を署して方国珍に使す。国珍二姫を飾りて進む。叱して退ける。李文忠厳州に師を駐め、幕下に辟置す。元帥葛俊広信を守り、盛冬に民を発して城濠を浚う。文忠これを止む。聴かず。文忠怒り、兵を臨まんとす。辰往きて諭すを請う。俊悔い謝し、事遂に已む。親老を以て辞し帰る。
建文中、薦によりて擢て監察御史となり、出でて鎮江府を知る。職事に勤む。江に臨む田八十余頃、久しく水に淪ち、賦は故の如し。辰の言によりて除かる。京口の閘廃れ、漕を転ずる者新河より出て江に至り、舟数えず敗る。辰故閘を修め、公私ともに便なり。漕河は涸れ易く、練湖に仰ぎて水を益す。三斗門久しく廃る。辰これを修築し、運舟既に通じ、湖下の田益々稔る。
楊砥は字を大用といい、沢州の人。洪武末、進士より行人司右司副に授かる。上疏して言う、「揚雄は莽の大夫たり、譏りを万世に貽す。董仲舒の『天人三策』及び正誼明道の言は、以て世教を扶翼するに足る。今孔廟の従祀に雄有りて仲舒無し。是れに非ず」と。帝これに従う。歴官して湖広布政司参議。建文中、言う、「帝堯の徳は九族を親しむに始まる。今宜しく諸藩を惇睦すべく、自ら枝葉を剪る無かれ」と。報いず。父喪に帰る。
成祖即位し、鴻臚寺卿に起き、終制を乞う。服闋し、礼部侍郎に擢でられ、河渠を視ること失職に坐し、工部主事に降り、礼部に改む。永楽十年、北京行太僕寺卿に遷る。時、呉橋より天津に至り大水堤を決し稼を傷む。砥、德州東南の黄河故道及び土河を開き、以て水勢を殺すを請う。帝、工部侍郎藺芳に命じてこれを經理せしむ。牧馬法を定め、民に五丁で種馬一匹を養わしめ、十馬で群頭一人を立て、五十馬で群長一人を立て、養馬の家は歳に租糧の半を蠲すを請う。而して薊州より東は山海諸衛に至るまで、土地広闊、水草豊美、その屯軍人は種馬一匹を養い、租もまた半を免ず。帝、軍租は尽くこれを蠲すを命じ、余は悉くその議に従う。ここに於いて馬大いに蕃息す。
砥は剛介にして守り有り、特に孝行篤し。十六年、母喪に哀毀し、家に至らぬうちに卒す。
虞謙は字を伯益といい、金壇の人。洪武中、国子生より擢て刑部郎中となり、出でて杭州府を知る。
建文中、僧道の田を限るを請い、人十畝を過ぎず、余は以て貧民に均しく給す。従う。永楽初め召されて大理寺少卿となる。時に詔有り。建文中、上言して旧制を改むる者は悉く面陳せよ。謙乃ち前事を言い請罪す。帝謙の怖れるを見て笑い曰く、「これは秀才が老・仏を辟くるのみ」と。釈して問わず。而して僧道の限田制は竟に罷む。都察院誆騙の罪を論じ、洪武の榜例に準じて梟首して以て徇らしむ。謙奏す、「比来詔を奉じて律に準じて罪を断つ。誆騙は杖流に当たり、梟首は詔書の意に非ず」と。帝これに従う。天津衛の倉災し、糧数十万石を焚く。御史言う、主者が盗用多く、火を放ちて自ら蓋うと。逮うること幾八百人、死すべき者百。謙その濫を白し、論じて減ずるを得。
七年、帝北巡し、皇太子謙を右副都御史と奏す。明年、給事中杜欽と偕に淮・鳳より陳州に至る災傷を巡視し、田租を免じ、民の鬻ぎし子女を贖う。明年、謙振済を請う。太子これを諭して曰く、「軍民困窮極まれり。而るに卿等従容として啓を請う。彼の汲黯は何如なる人ぞ」と。尋いで両浙・蘇・松諸府の糧を督め、南・北京及び徐州・淮安に輸するを命ぜらる。富民は有司に賂し、率ね近地を得、而して貧民は多く遠運す。謙四等に分つを建議す。丁多く糧最も少なき者は北京に運び、次に少なき者は徐州に運び、丁糧等しき者は南京・淮安に運び、丁少なく糧多き者は本土に存留す。民これに利頼す。又言う、徐州・呂梁の二洪、舟行多く阻まる。請う、毎洪に挽夫二百を増し、月に廩を給し、官牛一百、暇時に民の耕すを聴き、大舟至れば以て挽かしむ。人便りと為す。嘗て木を督運し、役者大いに疫す。謙散処せしむ。疫遂に息む。未だ幾ばくもせず、給事中許能と偕に浙江を巡撫す。
呂升は山陰の人。永楽初年に溧陽教諭となり、江西・福建按察僉事を歴任し、赴任先ごとに清廉謹慎の評判があった。召されて大理寺少卿となる。宣徳八年に致仕して卒した。
仰瞻は長洲の人。永楽年間に虎賁衛經歷から大理寺丞に遷る。正統年間、宦官王振が権勢を振るい、百官多くはその門に奔走したが、ただ瞻と大理卿薛瑄のみは赴かなかった。ちょうど薛瑄とともに殺夫の冤獄を審理したことで、ますます王振の意に逆らい、獄に下され、大同に謫戍された。景泰初年、召されて右寺丞となり、法を執行することますます堅固で、在職者多くはこれを悦ばなかった。病を理由に帰郷し、大理少卿を加えられた。
厳本は字を誌道といい、江陰の人。若くして諸書に通じ、法律を学び、傅霖の『刑統賦』が文は簡約にして義は広博であるが、注釈する者が一様でないのを見て、『輯義』四巻を著した。永楽十一年に推薦により召され、疑わしい律文について試問されると、明暢に分析して述べた。刑部主事に任じられた。侍郎張本が部の事務を掌ると、官吏でその意にかなう者は少なかったが、ただ本を重んじ、疑わしい獄事はしばしば彼に訊問させた。徽州に使いを命じられた時、工事の督促が期限に遅れ、例によって工事関係者は罰せられることとなったが、本は民を追い詰めるに忍びなかった。ある者がこれを言上すると、本は「私が弁済する」と言い、すでに密かに子に書を送り、田を売って工事の費用を償わせていたのである。
仁宗が即位すると、刑部尚書金純および虞謙の推薦により、大理寺正に改任された。獄を断ずる者は多く「知情故縦」および「大不敬」をもって罪を論じた。本はこれに争って言うには、「律は叛逆の数条を除いて外、『故縦』の条文はない。たとえ『不敬』であっても、情状に重軽があり、どうして一律に重い刑罰に比附できようか」と。虞謙はこれを是とし、すべて駁正した。良郷の民が馬を失い、その隣人を疑って丞に告訴し、拷問して死なせた。丞は決罰法に従わざる罪に坐し、徒刑に当たるが、告訴者は絞罪に坐した。本は言う、「丞の罪は当然である。告訴者は疑いによって訴えたのであり、律を誣告致死に比附するなら、これは丞と告訴者がそれぞれ一人を殺したことになる。それでよいのか」と。これを駁正した。莒県の屯卒が民の田を奪い、民が官に訴訟すると、卒は笞刑を受けた。夜に民の驢を盗み、民がこれを捜索して得た。卒はかえって誣告であるとし、千戸に擒えて送り、民は監禁されて死んだ。法司は千戸を徒刑に坐した。本は言う、「千戸が生きるなら、死者は冤罪である」。そこでその故って人を勘案した罪を正した。蘇州衛の卒十余人が夜に河西務で客舟を劫掠し、一卒が死んだ。事が発覚するのを恐れ、隣の舟の解囚人を盗賊と誣告し、その仲間が救いに来て殺された。皆誣服した。本はこれを疑い、「解人は囚人と同舟である。盗賊を働くなら、囚人は必ず知っているはずだ」と言い、審理して検証すると、果たして実情を得た。そこで卒の罪に当てた。
本は身を立てるに方正厳格で、礼に合わぬことは行わなかった。徽州に使した時も、知府が酒肴を贈っても受け取らなかった。七十八歳で卒した。
湯宗は字を正傳といい、浙江平陽の人。洪武末年に太学生から抜擢され河南按察僉事となり、北平に改任された。建文時に変事を上奏し、按察使陳瑛が燕邸より金銭を受け取り、異謀があると述べた。詔により陳瑛を逮捕し広西に安置し、宗を山東按察使に遷した。事に坐して左遷され刑部郎中となり、出て蘇州府知府を務めた。蘇州は連年水害に遭い、民は流亡し、租税百万余石が滞納した。宗は富民に米を出して代納するよう諭した。富民はその民を愛する心を知り、三月と経たずにすべて完納した。
賛に曰く、永楽・宣徳の際、吏治を厳しく整え、職務は修め挙げられた。郁新の賦税管理、楊砥の馬政、劉季篪・虞謙の獄事処理は、その官に能くあったと言えよう。李慶・師逵らは清廉剛直で節操があり、皆列卿の良材である。陳寿・馬京は讒言に遭い早くに退けられ、その才を用い尽くさなかったのは惜しい。金忠は卒伍の身から奮起し、芸術の末流から進んだが、士君子の行いがあった。文皇(成祖)父子の間で侃侃として論を堅持し、忠直で屈せず、ついに誠信をもって主君を悟らせた。豈に偉大ならずや。