○蹇義夏原吉(俞士吉李文郁鄒師顏)
燕師が入ると、迎えて帰附し、左侍郎に遷った。数か月後、尚書に進んだ。時に建文の政を反転させることに務め、変更したものは悉く罷めようとした。義は従容として言うに、「損益は時宜に適うことを貴ぶ。前に改めたものは固より当たらず、今必ず尽く復そうとするものも、また悉く当たるとは言えぬ」と。そこで数事を挙げて本末を陳説した。帝は善しとし、その言に従った。
仁宗が即位すると、義・原吉はともに元老として中外に信ぜられた。帝はまた義が監国時の旧労を思い、特に厚くこれを倚頼した。まず義を少保に進め、冠服・象笏・玉帯を賜い、兼ねて二禄を食ませた。歴進して少師となり、銀章一つを賜い、文は「繩愆糾繆」とあった。後にまた璽書を賜って曰く、「曩に朕が監国せし時、卿は先朝の旧臣として、日々左右に侍した。両京の肇建、政務方に殷なるに、卿は心を労し思を焦がし、身家を恤みせず、二十余年、夷険一節なり。朕が大統を承け、治理を賛襄するに、懈らず益々恭し。朕篤く念い忘れず、茲に已が意を以て、『蹇忠貞印』を創制し卿に賜う。家に蔵めしめ、後世に伝え、朕と君臣艱難を共に済し、相与に成る有りしことを知らしめん」と。時に楊士奇のみもまた「貞一」の印及び勅書を賜わるを得た。まもなく英国公張輔及び原吉とともに『太宗実録』の監修を命ぜられた。義は原吉より特に重厚であったが、周慎に過ぎた。士奇は嘗て帝の前で義に謂って「何ぞ過慮する」と。義は曰く「鹵莽にして後憂と為らんことを恐るるのみ」と。帝は両者を是とした。楊栄が嘗て義を毀った。帝は栄を直さず。義は頓首して言うに「栄に他なし。即ち左右に栄を讒る者あらば、願わくは陛下慎んで察せられよ」と。帝は笑って曰く「吾固より信ぜず」と。宣宗が即位すると、委寄益々重くなった。時に献陵を修営するに当たり、帝は遺詔に従い儉約に従おうと欲し、義・原吉に問うた。二人力賛して曰く「聖見高遠、至孝より出で、万世の利なり」と。帝自ら規画し、三月にして陵成る。宏麗は長陵に及ばず、その後諸帝これに因り以て制と為した。世宗が永陵を営むに至り、始めて益々崇侈を加うるという。
英宗が即位すると、斎宿して疾を得た。医を遣わして往診させ、言いたいことを問うた。対えて曰く「陛下初めて大宝を嗣ぎたまう。敬って祖宗の成憲を守り、終始渝らざらんことを望むのみ」と。遂に卒す。七十三歳。太師を贈られ、諡して忠定といった。
義は人となり質直孝友、僚友の間を善く処し、未だ一語も物を傷つけることがなかった。士奇は常に言う「張詠の玩好を飾らざる、傅堯俞の人に遇うに誠を以てする、範景仁の城府を設けざる、義はこれを兼ね備う」と。子の英は詩名有り、蔭により尚宝司丞となり、歴官して太常少卿となった。
六年、軍民に命じて材木を北都に輸送させ、錦衣官校を従わせて怠慢な者を処罰するよう詔した。原吉は犯す者が多いことを慮り、戒告してから実行し、人々は皆感激し喜んだ。
七年、帝が北巡し、行在の礼部・兵部・都察院の事務を兼ねて摂るよう命じた。指揮二人が月廩を詐取し、帝はこれを斬ろうとした。原吉は「律に合いません。もし本当に盗みを働いたなら、どうしてこれ以上に加えられましょうか」と言い、やめさせた。
八年、帝が北征し、太孫を補佐して北京を留守とし、行在の九卿の事務を総括した。当時は諸司が草創期で、毎朝、原吉は入朝して太孫を補佐し庶務を参決した。朝が退くと、諸曹の郎官や御史が取り囲んで事を請うた。原吉は口で答え手で書き、声色を動かさなかった。北は行在に達し、南は監国に啓し、京師は粛然とした。帝が戻ると、鈔幣・鞍馬・牢醴を賜り、慰労を加えた。まもなく従って南京に戻り、太孫に侍して郷落を巡行し、民間の疾苦を観察させた。原吉は漬物と黍を取って進め、「殿下にこれを食していただき、民の艱難を知っていただきたい」と言った。九年が満ち、蹇義とともに便殿で宴せられ、帝は二人を指して群臣に「高皇帝が賢者を養って朕に遺された。古の名臣を見たいと思えば、この人たちである」と言った。これ以来たびたび太孫に侍し、両京を往来し、道中で事に随って忠言を納め、裨益するところ多かった。
十八年、北京の宮室が完成し、原吉をして南に下り太子・太孫を召還させた。戻ると、原吉は「連年の営建が今完成した。流亡を撫で、逋負を蠲免して民力を寛ぐべきです」と上言した。翌年、三殿が災害に遭い、原吉は前の請願を重ねて申し上げ、急ぎ所司に実行させた。初め殿災により直言を求める詔を下すと、群臣の多くは北京に都するのは便利でないと言った。帝は怒り、主事の蕭儀を殺し、「遷都の時、大臣と密議し、久しくして後に定めたのであって、軽挙ではない」と言った。言う者は大臣を弾劾した。帝は午門外に跪かせて質辨させた。大臣は争って言う者を罵ったが、原吉だけが奏上して「彼らは詔に応じたので罪はありません。臣らは大臣の員を備えながら、大計を協賛できず、罪は臣らにあります」と言った。帝の怒りは解け、双方を許した。ある者が原吉が当初の議論に背いたと責めた。原吉は「我々は長く事に歴任し、言うことがたとえ誤っても、幸いに上は憐れんでくださる。言官が罪を得れば、損なうところ小さからぬ」と言った。衆は初めて嘆服した。
原吉は戸部に居ながらも、国家の大事にはしばしば詳細に議論させた。帝はたびたび便殿の闕門に臨み、長時間召して語らせ、左右も聞くことができなかった。退くと、謹んでいて何事にも関わらないかのようであった。交阯が平定され、帝が「官を遷すのと賞を与えるのとどちらが便利か」と問うと、「賞は一時の費用で有限ですが、官を遷すことは後日の費用となり、無限です」と答えた。帝はこれに従った。西域の法王が来朝し、帝は郊外で慰労しようとしたが、原吉は不可と言った。法王が入ると、原吉は会っても拝礼しなかった。帝は笑って「卿は韓愈に倣おうとするのか」と言った。山東で唐賽児が反乱を起こし、事が平定されると、脅従者三千余人が捕虜として連行されてきた。原吉は帝に請うて、すべてこれを赦した。谷王〓が叛き、帝は長沙に通謀する者がいるのではないかと疑った。原吉は一族百人の命を賭けて保証し、やっと取りやめさせた。
十九年の冬、帝は大挙して沙漠を征討せんとし、原吉に命じて礼部尚書呂震・兵部尚書方賓・工部尚書呉中らと議わせたが、皆兵を出すべからずと述べた。未だ奏上せざるうちに、帝が賓を召すと、賓は軍興の費用が乏しいと力説したので、帝は快からず、原吉を召して辺境の儲蓄の多寡を問うた。対して「近年師を出して功なく、軍馬の儲蓄は十に八九を喪い、災害が重なって起こり、内外ともに疲弊しております。況や聖躬(帝の御体)も少し安らかならず、なお調養を要します。将を遣わして征討させ、車駕(帝)を労することなきを乞います」と答えた。帝は怒り、直ちに原吉を出して開平の糧食儲蓄を管理させた。一方、呉中が入朝して賓と同じことを言うと、帝はますます怒り、原吉を召して内官監に拘禁し、併せて大理丞鄒師顔をも拘禁した(かつて戸部を署理したため)。賓は恐れて自殺した。そこで原吉の家も没収したが、賜わった鈔以外は布衣と瓦器のみであった。翌年、北征したが糧食が尽きたため引き返した。その後、連年塞外に出たが、皆敵を見なかった。帰還して榆木川に至り、帝は病に伏せ、左右を顧みて「夏原吉は我を愛す」と言った。崩御の報が届いて三日目、太子が拘禁所に駆けつけ、原吉を呼んで泣きながら告げた。原吉は地に伏して泣き、起き上がれなかった。太子は獄から出し、喪礼を議させ、また赦詔に何を載せるべきか問うた。飢饉の救済、賦役の軽減、西洋宝船採取及び雲南・交阯での諸道金銀課の採買を罷めること、と答えた。全て従った。
仁宗が即位すると、その官を復した。原吉が獄中にあった時、母の喪に遭い、この時終制(喪に服すること)を乞うた。帝は「卿は老臣、朕と共に艱難を済すべきである。卿に喪あり、朕に独り喪無きや」と言い、厚く賜物を与え、家人に喪を護送させ、駅伝で帰葬させ、役人に喪事を執り行わせた。原吉は敢えて再び言わなかった。間もなく太子少傅を加えられた。呂震が太子少師として原吉の上に班列したが、帝は鴻臚に命じて震を導き、その下に列ばせた。少保に進み、兼ねて太子少傅・尚書は元の如く、三つの禄を食んだ。原吉は固辞したので、太子少傅の禄を辞することを許した。「繩愆糾繆」の銀章を賜り、両京に邸宅を建てた。
やがて仁宗が崩じ、太子が南京から到着した。原吉は遺詔を奉じて盧溝橋で迎えた。宣宗が即位すると、旧輔臣としてますます親しく重用された。翌年、漢王高煦が反乱を起こし、やはり「靖難」を口実とし、檄を飛ばして諸大臣を罪状とし、原吉を筆頭とした。帝は夜に諸臣を召して議した。楊栄がまず帝の親征を勧めた。帝は難色を示した。原吉は「独り李景隆の往事を見ざるか。臣が昨日遣わされた将を見るに、命令が下れば即ち顔色を変え、事に臨んで如何なるか知るべし。且つ兵は神速を貴ぶ。甲を巻き趨れば、所謂先人たる者は人の心を奪うなり。栄の策は善し」と言った。帝の決意は固まった。軍が帰還すると、賞賜は一等加えられ、門番三人を賜わった。原吉は無功として辞したが、聞き入れられなかった。
原吉には雅量があり、人はその際限を測ることができなかった。同僚に善きことがあれば、即ち採り入れた。或いは小過があれば、必ずこれを覆い隠した。役人が彼の賜わった金織の衣を汚した。原吉は「恐れるな、汚れは洗える」と言った。また精密な文書を汚した役人がおり、叩頭して死を請うた。原吉は問わず、自ら朝に入り咎を引き受け、帝は取り替えるよう命じた。呂震は嘗て原吉を陥れようとした。震が子に官を乞うた時、原吉は震が「靖難」の時に守城の功があるとして、そのために請願した。平江伯陳瑄も初めは原吉を憎んでいたが、原吉はかえって時々瑄の才能を称えた。或る人が原吉に「度量は学べるか」と問うと、「我が幼少の時、犯されれば怒らぬことはなかった。初めは顔色に耐え、中ごろは心に耐え、久しければ耐えること無くなる」と言った。嘗て夜に判決文書を閲し、机を撫でて嘆き、筆を下そうとして止めた。妻が問うと、「これは歳末の死刑奏上である」と言った。同僚と他所で飲み、夜帰りに雪に遭い、禁門を過ぎる時、下馬しない者がいた。原吉は「君子は冥々として行いを堕とさず」と言った。その慎みはこのようであった。
原吉と義は共に太祖の時に起家した。義は選任の政務を執り、原吉は財政を管掌し、共に二十七年に及び、名声と地位は三楊に先んじた。仁宗・宣宗の世には、外は臺省を兼ね、内は館閣に参じ、三楊と心を合わせて政を輔けた。義は謀略に優れ、栄は決断に優れ、原吉と士奇は特に大綱を堅持し、古の大臣の風格と功業があった。
子の瑄は、蔭官により尚宝司丞となった。兵事を談ずるのを好んだ。景泰の時、数度上章して兵事を論じたが、阻む者がいて用いられなかった。終に南京太常少卿に至った。
俞士吉、字は用貞、象山人。建文中、兗州訓導となった。時政について上書し、御史に抜擢された。出て鳳陽・徽州及び湖広を巡察し、冤獄を弁明釈放できた。成祖が即位すると、僉都御史に進んだ。詔を奉じて水利書を原吉に賜るため赴き、そのまま留まって浙西の農政を監督した。湖州の未納租税は六十万石に達し、同僚はその数を減じて上奏しようとした。士吉は「君を欺き民を害すること、我は為さない」と言い、全て実情を奏上し、悉く免除された。間もなく都御史陳瑛に弾劾され、大理少卿袁復と共に獄に繋がれた。復は獄中で死に、士吉は事官に貶謫され、蘇州・松江で治水に当たった。後に復職し、帰朝して『聖孝瑞応頌』を献上した。帝は「爾は大臣たり、民間の利害を言わず、却って諂諛を献ずるか」と言い、投げ返した。宣徳初、南京刑部侍郎に至り、致仕した。
李文郁、襄陽人。永楽初、戸部侍郎として原吉に副って治水に功労があった。後に事に坐して遼東に二十年流された。仁宗が即位すると召還され、南京通政参議となり、致仕した。
鄒師顔、宣都人。永楽初、江西参政となり、事に坐して免官された。間もなく推薦により御史に抜擢され、直諫の名声があった。大理丞に遷り、戸部を署理した。原吉と共に獄に下された。仁宗が立つと釈放され礼部侍郎となった。墓参りに帰り、通州に戻る途中で卒した。貧しくて帰葬できなかった。尚書呂震が朝廷に奏上すると、宣宗は駅舟で送るよう命じた。詔して京官が卒した者は皆駅伝を与えることとし、令として定めた。
賛して曰く、『書経』に「哲人を敷く求めて、爾が後嗣を輔けしめよ」とある。蹇義・夏原吉は筮仕の初めから、誠実篤実で事を為す才をもって太祖に知られ、成祖に至っては益々繁劇な任に用いられた。而して二人は実に政体に通達し、章程に諳練して、股肱の任に称した。仁宗・宣宗が継承すると、委任と寄託は優渇で、徳を同じくし心を合わせて、令主を匡輔した。用いて吏治を修明ならしめ、民風を和楽ならしめ、成績は著しく、宗臣と蔚った。人を樹てる効果、遠大なるかな。