明史

列傳第三十七 蹇義 夏原吉

○蹇義夏原吉(俞士吉李文郁鄒師顏)

蹇義は、字を宜之といい、巴の人である。初めの名は容であった。洪武十八年の進士。中書舎人に任じられ、奏事が帝の意にかなった。帝が問うて、「汝は蹇叔の後裔か」と。容は頓首して敢えて答えなかった。帝はその誠実篤実さを嘉し、名を義と改め、手ずから書してこれを賜った。満三年で昇進すべきところ、特に満九年を命じ、「朕はまさに義を用いんとす」と言った。これにより朝夕左右に侍し、小心敬慎、未だ忤色を見せなかった。恵帝が即位すると、太祖の意を推し、吏部右侍郎に超擢した。この時、斉泰・黄子澄が国政を執り、外には大軍を興し、内には制度を改め、義は建白するところがなかった。国子博士王紳が書を遺してこれを責め、義は答えることができなかった。

燕師が入ると、迎えて帰附し、左侍郎に遷った。数か月後、尚書に進んだ。時に建文の政を反転させることに務め、変更したものは悉く罷めようとした。義は従容として言うに、「損益は時宜に適うことを貴ぶ。前に改めたものは固より当たらず、今必ず尽く復そうとするものも、また悉く当たるとは言えぬ」と。そこで数事を挙げて本末を陳説した。帝は善しとし、その言に従った。

永楽二年、太子詹事を兼ねた。帝が太子に伝諭することがあると、常に義を遣わし、よく委曲として意を導いた。帝と太子ともにこれを愛重した。七年、帝が北京に巡幸し、皇太子を輔けて監国せしむることを命じた。義は典故に熟達し、治体に通暁し、軍国事は皆これに倚って行われた。時に旧臣で親用される者では、戸部尚書夏原吉が義と斉名し、中外は「蹇・夏」と称した。満三考すると、帝は自ら二人を便殿に宴し、褒揚すること甚だ至った。数度命を受けて他部の事を兼理し、職務は充満委積したが、これを処すること裕如であった。十七年、父の喪により帰郷した。帝及び太子ともに官を遣わして祭を賜った。詔して起復を命じた。十九年、三殿が災に遭い、廷臣二十六人に勅して天下を巡行させた。義及び給事中馬俊は応天諸府を分巡し、軍民の疾苦を問い、文武の長吏で民を擾す者数人を罷免し、興革すべき事数十条を条奏して行わせた。還って部事を治めた。翌年、帝が北征より還り、太子が呂震の婿である主事張鶴の朝参失儀を曲げて宥したことを以て、義が匡正しなかったことを罪とし、義を捕えて錦衣衛の獄に繋いだ。また翌年の春に釈放を得た。

仁宗が即位すると、義・原吉はともに元老として中外に信ぜられた。帝はまた義が監国時の旧労を思い、特に厚くこれを倚頼した。まず義を少保に進め、冠服・象笏・玉帯を賜い、兼ねて二禄を食ませた。歴進して少師となり、銀章一つを賜い、文は「繩愆糾繆」とあった。後にまた璽書を賜って曰く、「曩に朕が監国せし時、卿は先朝の旧臣として、日々左右に侍した。両京の肇建、政務方に殷なるに、卿は心を労し思を焦がし、身家を恤みせず、二十余年、夷険一節なり。朕が大統を承け、治理を賛襄するに、懈らず益々恭し。朕篤く念い忘れず、茲に已が意を以て、『蹇忠貞印』を創制し卿に賜う。家に蔵めしめ、後世に伝え、朕と君臣艱難を共に済し、相与に成る有りしことを知らしめん」と。時に楊士奇のみもまた「貞一」の印及び勅書を賜わるを得た。まもなく英国公張輔及び原吉とともに『太宗実録』の監修を命ぜられた。義は原吉より特に重厚であったが、周慎に過ぎた。士奇は嘗て帝の前で義に謂って「何ぞ過慮する」と。義は曰く「鹵莽にして後憂と為らんことを恐るるのみ」と。帝は両者を是とした。楊栄が嘗て義を毀った。帝は栄を直さず。義は頓首して言うに「栄に他なし。即ち左右に栄を讒る者あらば、願わくは陛下慎んで察せられよ」と。帝は笑って曰く「吾固より信ぜず」と。宣宗が即位すると、委寄益々重くなった。時に献陵を修営するに当たり、帝は遺詔に従い儉約に従おうと欲し、義・原吉に問うた。二人力賛して曰く「聖見高遠、至孝より出で、万世の利なり」と。帝自ら規画し、三月にして陵成る。宏麗は長陵に及ばず、その後諸帝これに因り以て制と為した。世宗が永陵を営むに至り、始めて益々崇侈を加うるという。

帝が楽安に征するに、義・原吉及び諸学士は皆従い、軍中の機務に預かり、鞍馬甲冑弓剣を賜った。還るに及び、賚予甚だ厚かった。三年、辺境巡視より還る。帝は義・原吉・士奇・栄の四人が皆既に老いたことを以て、璽書を賜って曰く「卿等は皆祖宗の遺老、朕が身に付して輔けしむ。今黄髮危歯、復た冗劇を典むるに宜しからず、朝廷の老を優れ賢を待つ礼を傷つく。務めを輟め、朝夕朕が左右に在りて至理を討論し、共に邦家を寧んぜしむべし。官禄は悉く旧の如し」と。翌年、郭璡が代わって尚書となった。まもなく胡濙の言により、義ら四人に天下の官吏軍民の建言章奏を議することを命じた。また義に銀章を賜い、文は「忠厚寬宏」とあった。七年、有司に詔して文明門内に義の為に新第を営ませた。

英宗が即位すると、斎宿して疾を得た。医を遣わして往診させ、言いたいことを問うた。対えて曰く「陛下初めて大宝を嗣ぎたまう。敬って祖宗の成憲を守り、終始渝らざらんことを望むのみ」と。遂に卒す。七十三歳。太師を贈られ、諡して忠定といった。

義は人となり質直孝友、僚友の間を善く処し、未だ一語も物を傷つけることがなかった。士奇は常に言う「張詠の玩好を飾らざる、傅堯俞の人に遇うに誠を以てする、範景仁の城府を設けざる、義はこれを兼ね備う」と。子の英は詩名有り、蔭により尚宝司丞となり、歴官して太常少卿となった。

夏原吉は字を維喆といい、その先祖は徳興の人である。父の時敏は湘陰教諭に任ぜられ、そこに住みついた。原吉は早く孤児となり、学問に励み母を養った。郷薦により太学に入り、禁中の書制誥に選ばれた。諸生の中には騒ぎ笑う者もいたが、原吉は端座して厳然としていた。太祖はこれを探り聞きして異才と認めた。戸部主事に抜擢された。曹務は煩雑であったが、処理することすべて条理があり、尚書の郁新は大いに重んじた。劉郎中という者がおり、その才能を妬んだ。郁新が諸司の怠慢を弾劾した時、帝はこれを許そうとしたが、郁新は許さぬと主張した。帝は怒り、「誰がお前に教えたのか」と問うた。郁新は頓首して「堂後の書算生です」と答えた。帝は書算生を獄に下した。劉郎中は言った、「尚書に教えたのは原吉です」。帝は「原吉は尚書を補佐して部務を処理できる。汝は彼を陥れようとするのか」と言い、劉郎中と書算生はともに棄市に処せられた。建文初年、戸部右侍郎に抜擢された。翌年、采訪使を充てられ、福建を巡行し、通過する郡邑ごとに吏治を検核し、民の苦しみを諮問した。人々は皆喜んで服した。しばらくして蘄州に移駐した。成祖が即位すると、ある者が原吉を捕らえて献じた。帝はこれを釈放し、左侍郎に転じた。ある者が原吉は建文の時に権勢を用いたので信用できないと言ったが、帝は聞き入れず、蹇義とともに尚書に進めた。義らとともに賦役の諸制度を詳細に定めた。三十余事を建議し、いずれも簡便で遵守しやすかった。「実行して継続が難しいものは、民を重く苦しめるので、私は忍びない」と言った。浙西で大水があり、有司の治水は効果がなかった。永楽元年、原吉にこれを治めさせた。まもなく侍郎の李文郁を副使とし、さらに僉都御史の俞士吉に水利書を賜って派遣した。原吉は禹の三江入海の旧跡に従い、呉淞下流を浚渫し、上流は太湖に接続し、地を測って閘を設け、時に応じて蓄泄するよう請うた。帝はこれに従った。役夫十余万人を動員した。原吉は布衣で徒歩し、日夜計画を練った。盛夏でも傘を張らず、「民が労苦しているのに、どうして私だけが安楽にしていられようか」と言った。工事が完了し、京師に戻ると、水は旧河道から海に入るが、支流がまだ十分に疏泄されておらず、長久の計ではないと上言した。翌年正月、原吉は再び出向き、白茆塘・劉家河・大黄浦を浚渫した。大理少卿の袁復が副使となった。その後、さらに陝西参政の宋性にこれを補佐させた。九月に工事が完了し、水が泄れ、蘇州・松江の農田は大いに利益を得た。三年に帰還した。その夏、浙西で大飢饉が起こった。原吉に命じて俞士吉・袁復および左通政の趙居任を率いて救済に向かわせ、粟三十万石を発し、牛と種を給した。水が引いた後の淤泥田を民に耕作させて賦税を増やそうとする者があったが、原吉は急ぎ上疏してこれを止めさせた。姚広孝が浙西から戻り、原吉を評して「古の遺愛である」と言った。まもなく郁新が卒去したので、召還されて部務を処理した。まず冗食を削減し、賦役を公平にすること、塩法・銭鈔の禁令を厳格にすること、倉場を清め、屯種を広めて辺境を支え民を蘇らせ、かつ商賈を便利にすることを請うた。いずれも許可された。内外の戸口・府庫・田賦の増減の数は、それぞれ小さな簡札に書いて懐中に置き、時々検閲した。ある日、帝が「天下の銭・穀はどれほどか」と問うと、非常に詳細に答え、それによってますます重んじられた。当時は兵革が初めて定まり、「靖難」の功臣の封賞を論じ、諸藩を分封し、武衛百司を増設した。その後、さらに卒八十万を発して安南に問罪し、中官が巨艦を造って海外諸国に通じ、北都の宮闕を大いに造営した。供給と輸送の費用は巨万の計に上り、すべて戸曹から支給された。原吉は心を尽くして計画し対応したので、国用は不足しなかった。

六年、軍民に命じて材木を北都に輸送させ、錦衣官校を従わせて怠慢な者を処罰するよう詔した。原吉は犯す者が多いことを慮り、戒告してから実行し、人々は皆感激し喜んだ。

七年、帝が北巡し、行在の礼部・兵部・都察院の事務を兼ねて摂るよう命じた。指揮二人が月廩を詐取し、帝はこれを斬ろうとした。原吉は「律に合いません。もし本当に盗みを働いたなら、どうしてこれ以上に加えられましょうか」と言い、やめさせた。

八年、帝が北征し、太孫を補佐して北京を留守とし、行在の九卿の事務を総括した。当時は諸司が草創期で、毎朝、原吉は入朝して太孫を補佐し庶務を参決した。朝が退くと、諸曹の郎官や御史が取り囲んで事を請うた。原吉は口で答え手で書き、声色を動かさなかった。北は行在に達し、南は監国に啓し、京師は粛然とした。帝が戻ると、鈔幣・鞍馬・牢醴を賜り、慰労を加えた。まもなく従って南京に戻り、太孫に侍して郷落を巡行し、民間の疾苦を観察させた。原吉は漬物と黍を取って進め、「殿下にこれを食していただき、民の艱難を知っていただきたい」と言った。九年が満ち、蹇義とともに便殿で宴せられ、帝は二人を指して群臣に「高皇帝が賢者を養って朕に遺された。古の名臣を見たいと思えば、この人たちである」と言った。これ以来たびたび太孫に侍し、両京を往来し、道中で事に随って忠言を納め、裨益するところ多かった。

十八年、北京の宮室が完成し、原吉をして南に下り太子・太孫を召還させた。戻ると、原吉は「連年の営建が今完成した。流亡を撫で、逋負を蠲免して民力を寛ぐべきです」と上言した。翌年、三殿が災害に遭い、原吉は前の請願を重ねて申し上げ、急ぎ所司に実行させた。初め殿災により直言を求める詔を下すと、群臣の多くは北京に都するのは便利でないと言った。帝は怒り、主事の蕭儀を殺し、「遷都の時、大臣と密議し、久しくして後に定めたのであって、軽挙ではない」と言った。言う者は大臣を弾劾した。帝は午門外に跪かせて質辨させた。大臣は争って言う者を罵ったが、原吉だけが奏上して「彼らは詔に応じたので罪はありません。臣らは大臣の員を備えながら、大計を協賛できず、罪は臣らにあります」と言った。帝の怒りは解け、双方を許した。ある者が原吉が当初の議論に背いたと責めた。原吉は「我々は長く事に歴任し、言うことがたとえ誤っても、幸いに上は憐れんでくださる。言官が罪を得れば、損なうところ小さからぬ」と言った。衆は初めて嘆服した。

原吉は戸部に居ながらも、国家の大事にはしばしば詳細に議論させた。帝はたびたび便殿の闕門に臨み、長時間召して語らせ、左右も聞くことができなかった。退くと、謹んでいて何事にも関わらないかのようであった。交阯が平定され、帝が「官を遷すのと賞を与えるのとどちらが便利か」と問うと、「賞は一時の費用で有限ですが、官を遷すことは後日の費用となり、無限です」と答えた。帝はこれに従った。西域の法王が来朝し、帝は郊外で慰労しようとしたが、原吉は不可と言った。法王が入ると、原吉は会っても拝礼しなかった。帝は笑って「卿は韓愈に倣おうとするのか」と言った。山東で唐賽児が反乱を起こし、事が平定されると、脅従者三千余人が捕虜として連行されてきた。原吉は帝に請うて、すべてこれを赦した。谷王〓が叛き、帝は長沙に通謀する者がいるのではないかと疑った。原吉は一族百人の命を賭けて保証し、やっと取りやめさせた。

十九年の冬、帝は大挙して沙漠を征討せんとし、原吉に命じて礼部尚書呂震・兵部尚書方賓・工部尚書呉中らと議わせたが、皆兵を出すべからずと述べた。未だ奏上せざるうちに、帝が賓を召すと、賓は軍興の費用が乏しいと力説したので、帝は快からず、原吉を召して辺境の儲蓄の多寡を問うた。対して「近年師を出して功なく、軍馬の儲蓄は十に八九を喪い、災害が重なって起こり、内外ともに疲弊しております。況や聖躬(帝の御体)も少し安らかならず、なお調養を要します。将を遣わして征討させ、車駕(帝)を労することなきを乞います」と答えた。帝は怒り、直ちに原吉を出して開平の糧食儲蓄を管理させた。一方、呉中が入朝して賓と同じことを言うと、帝はますます怒り、原吉を召して内官監に拘禁し、併せて大理丞鄒師顔をも拘禁した(かつて戸部を署理したため)。賓は恐れて自殺した。そこで原吉の家も没収したが、賜わった鈔以外は布衣と瓦器のみであった。翌年、北征したが糧食が尽きたため引き返した。その後、連年塞外に出たが、皆敵を見なかった。帰還して榆木川に至り、帝は病に伏せ、左右を顧みて「夏原吉は我を愛す」と言った。崩御の報が届いて三日目、太子が拘禁所に駆けつけ、原吉を呼んで泣きながら告げた。原吉は地に伏して泣き、起き上がれなかった。太子は獄から出し、喪礼を議させ、また赦詔に何を載せるべきか問うた。飢饉の救済、賦役の軽減、西洋宝船採取及び雲南・交阯での諸道金銀課の採買を罷めること、と答えた。全て従った。

仁宗が即位すると、その官を復した。原吉が獄中にあった時、母の喪に遭い、この時終制(喪に服すること)を乞うた。帝は「卿は老臣、朕と共に艱難を済すべきである。卿に喪あり、朕に独り喪無きや」と言い、厚く賜物を与え、家人に喪を護送させ、駅伝で帰葬させ、役人に喪事を執り行わせた。原吉は敢えて再び言わなかった。間もなく太子少傅を加えられた。呂震が太子少師として原吉の上に班列したが、帝は鴻臚に命じて震を導き、その下に列ばせた。少保に進み、兼ねて太子少傅・尚書は元の如く、三つの禄を食んだ。原吉は固辞したので、太子少傅の禄を辞することを許した。「繩愆糾繆」の銀章を賜り、両京に邸宅を建てた。

やがて仁宗が崩じ、太子が南京から到着した。原吉は遺詔を奉じて盧溝橋で迎えた。宣宗が即位すると、旧輔臣としてますます親しく重用された。翌年、漢王高煦が反乱を起こし、やはり「靖難」を口実とし、檄を飛ばして諸大臣を罪状とし、原吉を筆頭とした。帝は夜に諸臣を召して議した。楊栄がまず帝の親征を勧めた。帝は難色を示した。原吉は「独り李景隆の往事を見ざるか。臣が昨日遣わされた将を見るに、命令が下れば即ち顔色を変え、事に臨んで如何なるか知るべし。且つ兵は神速を貴ぶ。甲を巻き趨れば、所謂先人たる者は人の心を奪うなり。栄の策は善し」と言った。帝の決意は固まった。軍が帰還すると、賞賜は一等加えられ、門番三人を賜わった。原吉は無功として辞したが、聞き入れられなかった。

三年、北巡に従った。帝は原吉の携帯食糧を取って嘗め、笑って「何ぞ悪しき」と言った。対して「軍中にはなお飢えている者もおります」と答えた。帝は命じて大官の料理を賜り、且つ将士を犒労させた。兔児山で武閲に従った時、帝は諸将の怠慢に怒り、その衣を剥いだ。原吉は「将帥は国の爪牙、どうして凍え死なせようとするのか」と反復力諫した。帝は「卿のために釈放しよう」と言った。再び蹇義と共に銀印を賜り、文は「含弘貞靖」であった。帝は絵をよくし、嘗て自ら『寿星図』を描いて賜わった。その他の図画・服食・器用・銀幣・玩好の賜物は、虚日無かった。五年正月、両朝実録が完成し、再び金幣・鞍馬を賜わった。朝に謝恩し、帰宅して卒した。六十五歳。太師を追贈し、諡は忠靖。戸部に命じてその家を復し、世々賦役を課さないこととした。

原吉には雅量があり、人はその際限を測ることができなかった。同僚に善きことがあれば、即ち採り入れた。或いは小過があれば、必ずこれを覆い隠した。役人が彼の賜わった金織の衣を汚した。原吉は「恐れるな、汚れは洗える」と言った。また精密な文書を汚した役人がおり、叩頭して死を請うた。原吉は問わず、自ら朝に入り咎を引き受け、帝は取り替えるよう命じた。呂震は嘗て原吉を陥れようとした。震が子に官を乞うた時、原吉は震が「靖難」の時に守城の功があるとして、そのために請願した。平江伯陳瑄も初めは原吉を憎んでいたが、原吉はかえって時々瑄の才能を称えた。或る人が原吉に「度量は学べるか」と問うと、「我が幼少の時、犯されれば怒らぬことはなかった。初めは顔色に耐え、中ごろは心に耐え、久しければ耐えること無くなる」と言った。嘗て夜に判決文書を閲し、机を撫でて嘆き、筆を下そうとして止めた。妻が問うと、「これは歳末の死刑奏上である」と言った。同僚と他所で飲み、夜帰りに雪に遭い、禁門を過ぎる時、下馬しない者がいた。原吉は「君子は冥々として行いを堕とさず」と言った。その慎みはこのようであった。

原吉と義は共に太祖の時に起家した。義は選任の政務を執り、原吉は財政を管掌し、共に二十七年に及び、名声と地位は三楊に先んじた。仁宗・宣宗の世には、外は臺省を兼ね、内は館閣に参じ、三楊と心を合わせて政を輔けた。義は謀略に優れ、栄は決断に優れ、原吉と士奇は特に大綱を堅持し、古の大臣の風格と功業があった。

子の瑄は、蔭官により尚宝司丞となった。兵事を談ずるのを好んだ。景泰の時、数度上章して兵事を論じたが、阻む者がいて用いられなかった。終に南京太常少卿に至った。

俞士吉、字は用貞、象山人。建文中、兗州訓導となった。時政について上書し、御史に抜擢された。出て鳳陽・徽州及び湖広を巡察し、冤獄を弁明釈放できた。成祖が即位すると、僉都御史に進んだ。詔を奉じて水利書を原吉に賜るため赴き、そのまま留まって浙西の農政を監督した。湖州の未納租税は六十万石に達し、同僚はその数を減じて上奏しようとした。士吉は「君を欺き民を害すること、我は為さない」と言い、全て実情を奏上し、悉く免除された。間もなく都御史陳瑛に弾劾され、大理少卿袁復と共に獄に繋がれた。復は獄中で死に、士吉は事官に貶謫され、蘇州・松江で治水に当たった。後に復職し、帰朝して『聖孝瑞応頌』を献上した。帝は「爾は大臣たり、民間の利害を言わず、却って諂諛を献ずるか」と言い、投げ返した。宣徳初、南京刑部侍郎に至り、致仕した。

李文郁、襄陽人。永楽初、戸部侍郎として原吉に副って治水に功労があった。後に事に坐して遼東に二十年流された。仁宗が即位すると召還され、南京通政参議となり、致仕した。

鄒師顔、宣都人。永楽初、江西参政となり、事に坐して免官された。間もなく推薦により御史に抜擢され、直諫の名声があった。大理丞に遷り、戸部を署理した。原吉と共に獄に下された。仁宗が立つと釈放され礼部侍郎となった。墓参りに帰り、通州に戻る途中で卒した。貧しくて帰葬できなかった。尚書呂震が朝廷に奏上すると、宣宗は駅舟で送るよう命じた。詔して京官が卒した者は皆駅伝を与えることとし、令として定めた。

賛して曰く、『書経』に「哲人をあまねく求めて、爾が後嗣を輔けしめよ」とある。蹇義・夏原吉は筮仕の初めから、誠実篤実で事を為す才をもって太祖に知られ、成祖に至っては益々繁劇な任に用いられた。而して二人は実に政体に通達し、章程に諳練して、股肱の任に称した。仁宗・宣宗が継承すると、委任と寄託は優渇で、徳を同じくし心を合わせて、令主を匡輔した。用いて吏治を修明ならしめ、民風を和楽ならしめ、成績は著しく、宗臣とった。人をてる効果、遠大なるかな。