楊士奇
六年、帝北巡し、命じて蹇義・黄淮と共に留まって太子を輔けしめた。太子は文辞を喜び、賛善王汝玉が詩法を以て進めた。士奇は言う、「殿下は当に『六経』に留意し、暇あれば則ち両漢の詔令を観るべきです。詩は小技にて、為すに足りません」と。太子は善しと称した。
初め、帝が兵を起こした時、漢王は数たび力戦して功有り。帝は事成れば太子と為すことを許した。既に立たれずして、怨望した。帝はまた趙王の年少を憐れみ、寵異した。ここより両王合して太子を間し、帝は頗る心動いた。九年に南京に還り、士奇を召して監国の状を問うた。士奇は孝敬を以て対え、且つ言う、「殿下は天資高く、即ち過有れば必ず知り、知れば必ず改め、心を存して人を愛し、決して陛下の託に負かず」と。帝は悦んだ。十一年の正旦、日食有り。礼部尚書呂震は朝賀を罷めざることを請うた。侍郎儀智は不可を堅持した。士奇もまた宋仁宗の事を引きて力言した。遂に賀を罷めた。明年、帝北征す。士奇は仍って太子を輔けて居守した。漢王は太子を譖する事益々急であった。帝還り、迎駕緩やかなりと以て、東宮官黄淮等を尽く徴して獄に下した。士奇は後至し、これを宥した。召して太子の事を問うた。士奇は頓首して言う、「太子の孝敬は初めの如し。凡そ稽遅した所は、皆臣等の罪なり」と。帝の意解けた。行在の諸臣交章して士奇を劾し、独り宥すは当たらずとし、遂に錦衣衛の獄に下し、尋いで釈した。
十四年、帝京師に還り、微かに漢王の嫡を奪う謀及び諸の不軌の状を聞き、以て蹇義に問うた。義は対えず、乃ち士奇に問うた。対えて言う、「臣と義は俱に東宮に侍り、外人敢えて臣等二人に漢王の事を言う者無し。然れども漢王は両たび籓に就くことを遣わされ、皆肯て行かず。今陛下都を徙うるを知り、輒ち留守して南京を請う。惟だ陛下其の意を熟察せられよ」と。帝は黙然とし、起って還宮した。数日居て、帝は漢王の事を尽く得、両護衛を削り、之を楽安に処した。明年、士奇を翰林学士に進め、故官を兼ねしめた。十九年に左春坊大学士に改め、仍って学士を兼ねた。明年、復た輔導に闕有りと坐し、錦衣衛の獄に下し、旬日にして釈した。
仁宗即位し、礼部侍郎兼華蓋殿大学士に擢げた。帝便殿に御し、蹇義・夏原吉が事を奏して未だ退かず。帝士奇を見て、二人に謂う、「新華蓋学士来る、必ず讜言有らん、試みに共にこれを聴かん」と。士奇入りて言う、「恩詔歳供を減ずること甫に二日下る、惜薪司旨を伝えて棗八十万斤を徴す、前詔に戾る」と。帝直ちに其の半を減ずることを命じた。服制二十七日期満し、呂震は即ち吉を請うた。士奇は不可とした。震は厲声して之を叱した。蹇義は兼ねて二説を取りて進めた。明日、帝は素冠麻衣絰して朝を視た。廷臣は惟だ士奇及び英国公張輔の服之の如し。朝罷りて、帝は左右に謂う、「梓宮殯に在り、服を易うるは豈に臣子の忍んで言う所ならん、士奇の執るは是なり」と。少保に進め、同官の楊栄・金幼孜と並び「繩愆糾繆」の銀章を賜わり、密封して事を言うを得た。尋いで少傅に進んだ。
時に籓司守令朝に来たり、尚書李慶は軍伍の余馬を発して有司に給し、歳に其の駒を課することを建議した。士奇は言う、「朝廷賢を選び官を授くるに、乃ち牧馬せしむ、是れ畜を貴びて士を賤しむなり、何を以て天下後世に示さん」と。帝は中旨を許して之を罷め、已にして寂然たり。士奇復た力言す。又報いず。有る頃、帝思善門に御し、士奇を召して謂う、「朕向者は豈に真に之を忘れんや。呂震・李慶の輩は皆卿を喜ばずと聞く、朕卿の孤立を念い、恐らくは傷つけられんとし、卿の言に因りて罷むるを欲せざりしのみ、今辞有り」と。手ずから陝西按察使陳智の養馬不便を言う疏を出し、勅を草して之を行わしめた。士奇は頓首して謝した。群臣正旦の儀を習い、呂震は楽を用いることを請うた。士奇は黄淮と疏を以て止めた。未だ報いず。士奇復た奏し、庭中に待つこと夜漏十刻に至る。報いて可とす。越日、帝召して謂う、「震は毎事朕を誤る、卿等の言に非ざれば、悔ゆるも及ばざらん」と。兵部尚書を兼ねることを命じ、並びに三祿を食らわしむ。士奇は尚書の祿を辞した。
帝監国の時、御史舒仲成を憾み、ここに至りて之を罪せんと欲した。士奇は言う、「陛下即位し、詔して向忤旨する者を皆宥すを得しむ。若し仲成を治めば、則ち詔書信ならず、懼るる者衆し。漢景帝の衛綰を待つが如く、亦た可ならずや」と。帝は即ち罷めて治めず。或いは大理卿虞謙の事を言うに密ならずと云う者有り。帝怒り、一官を降した。士奇は其の罔を為に白し、復秩を得しめた。又大理少卿弋謙は事を言うことを以て罪を得た。士奇は言う、「謙は詔に応じて言を陳う。若し之に罪を加うれば、則ち群臣ここより舌を結ばん」と。帝は直ちに謙を副都御史に進め、而して勅を下して過を引いた。
時に上書して太平を頌する者有り、帝は以て諸大臣に示し、皆以て然りと為す。士奇独り曰く、「陛下は雖も天下に澤被うと雖も、然れども流徙未だ帰らず、瘡痍未だ復せず、民尚だ食に艱し。更に数年休息し、庶幾くは太平期す可し」と。帝曰く、「然り」と。因りて顧みて蹇義等に謂う、「朕卿等を待つに至誠を以てし、匡弼を望む。惟だ士奇は曾て五たび章を上す、卿等は皆一言無し。豈に果たして朝に闕政無く、天下太平なるや」と。諸臣慚謝した。是の年の四月、帝は士奇に璽書を賜いて曰く、「往者朕監国の命を膺け、卿左右に侍り、同心合徳し、国に徇いて身を忘れ、屡たび艱虞を歴て、曾て志を易えず。及び朕位を嗣ぐ以来、嘉謨入告し、予を治に期し、正固不二、簡に朕心に在り。茲に『楊貞一印』を創製して卿に賜う、尚お克く交修し、以て明良の誉を成せ」と。尋いで『太宗実録』を修め、黄淮・金幼孜・楊溥と俱に総裁官を充てた。未だ幾くもせず、帝豫せず、士奇と蹇義・黄淮・楊栄を召して思善門に至らしめ、士奇に命じて勅を書かしめ南京に於て太子を召した。
この時、交阯がたびたび反乱を起こした。たびたび大軍を発して征討したが、皆敗没した。交阯の黎利が人を遣わし、偽って陳氏の後裔を立てるよう請うた。帝もまた兵役に倦み、これを許そうとした。英国公張輔、尚書蹇義以下は皆、これを許すのは名分がなく、ただ天下に弱みを見せるだけだと述べた。帝は楊士奇と楊栄を召して相談した。二人は力説して言った、「陛下が民命を憐れんで荒遠の地を安んじられるのは、名分がないことではありません。漢が珠崖を放棄したことは、前史が美談としており、弱みを見せたことにはなりません。許されるのがよろしいでしょう」。まもなく交阯への使者を選ぶよう命じられた。蹇義は伏伯安の弁舌を推薦した。楊士奇は言った、「言葉が忠信でなければ、蛮貊の国であっても行うことはできません。伯安は小人であり、行かせれば国辱となるでしょう」。帝はこれを正しいと認め、別の使者を派遣した。こうして交阯を放棄し、兵を罷め、毎年軍費の巨額を節減した。
帝が即位した当初、内閣の臣は七人であった。陳山と張瑛は東宮時代の旧恩によって入閣したが、任に堪えず、他の官に出された。黄淮は病気のため致仕した。金幼孜が卒去した。閣中には楊士奇、楊栄、楊溥の三人のみとなった。楊栄は度量が広く果断で、事に遇えば敢然と行動した。たびたび成祖に従って北征し、辺境の将の賢否、要害の険易遠近、敵情の順逆を知ることができた。しかしかなり贈収賄に通じており、辺将は歳時に良馬を贈った。帝はかなりこれを知っており、楊士奇に問うた。楊士奇は力説して言った、「楊栄は辺務に通暁しており、臣らは及びません。小さな過失を気にされるべきではありません」。帝は笑って言った、「楊栄はかつて卿と夏原吉の短所を言ったことがある。卿は彼のために地歩を築こうとするのか」。楊士奇は言った、「願わくは陛下が臣を曲げてお許しになるように、楊栄をもお許しください」。帝の心はようやく解けた。その後、その言葉が少しずつ聞こえるようになり、楊栄はこれによって楊士奇を恥じ、互いに気心が合って甚だ歓んだ。帝もますます彼らを親しく厚遇し、前後して賜った珍果、牲肉と酒、金糸の衣、幣帛、書器は数えきれなかった。
この時、宦官の王振が帝の寵愛を受け、次第に外朝の政事に関与するようになり、帝を導いて厳しく臣下を統御させたため、大臣はしばしば獄に下された。靖江王朱佐敬がひそかに楊栄に金を贈った。楊栄は先に墓参りに出ており、帰ってきてもこれを知らなかった。王振はこれによって楊栄を失脚させようとしたが、楊士奇が力説してこれを解き、事なきを得た。楊栄はまもなく卒去し、楊士奇と楊溥はますます孤立した。その翌年、ついに大軍を興して麓川を征討し、国庫は消耗し、兵士や馬匹で死亡した者は数万に及んだ。さらにその翌年、太皇太后が崩御すると、王振の勢力はますます盛んになり、大いに威福を振るい、百官が少しでも逆らうと、すぐに捕らえて拘禁した。廷臣は皆恐れおののき、楊士奇もまたこれを制することができなかった。
楊士奇は既に老齢で、子の楊稷が傲慢で強情で、かつて侵害して暴行し人を殺した。言官が相次いで上奏して楊稷を弾劾した。朝廷の議論ではすぐに法を加えることはせず、その上奏文を封じて楊士奇に見せた。さらに楊稷の横暴な行い数十件を告発する者がおり、ついに獄に下された。楊士奇は老病のため休暇を取っていた。天子は楊士奇の心情を傷つけることを恐れ、詔を下して慰労し励ました。楊士奇は感激して泣き、憂いて起き上がれなかった。九年三月に卒去した。八十歳であった。太師を追贈され、諡は文貞といった。役所はついに楊稷を処刑した。
初め、正統初め、士奇は言う、瓦剌が次第に強くなり、やがて辺境の患いとなろう、しかるに辺軍は馬を欠き、恐らく防げないであろうと。近くの太僕寺に赴いて領することを請い、西番の貢馬もまた悉くこれに給することを求めた。士奇が没して間もなく、也先が果たして侵入し、土木の難があり、識者はその言葉を思った。また大いに人を知ることに長け、寒士を推挙することを好み、推薦して達した者には初めて面識のない者もあった。そして于謙・周忱・況鍾の類は、皆士奇の推薦を用いられ、官に居ること一二十年に至り、廉潔・才能天下に冠たり、世の名臣となったという。
次子の䆃(または「䆃」と作る)、蔭により尚宝丞を補う。成化年中、太常少卿に進み、司事を掌る。
楊榮
五年、甘肅に往きて軍務を経画することを命じられ、過ぐる所に山川の形勢を覧し、軍民を察し、城堡を閲す。還りて武英殿に奏す。帝大いに悦び、盛暑に当たり、自ら瓜を割きてこれを啖わしむ。尋いで右庶子に進み、職を兼ねること前に如し。明年、父の喪により伝を給して帰る。葬り終えてより、起復して視事す。又明年、母の喪により帰ることを乞う。帝は北行の期迫るを以て許さず、胡広・金幼孜と共に扈従することを命ず。甘肅総兵官何福言う、脱脱不花等降ることを請い、亦集乃に命を需むと。栄を甘肅に往かしめ何福と共に降を受けしめ、節を持ちて即ち軍中に福を寧遠侯に封ず。因って寧夏に至り、寧陽侯陳懋と辺務を規画す。還りて便宜十事を陳ぶ。帝嘉納す。
八年、塞に出るに従い、臚朐河に次す。勇士三百人を選び衛と為し、諸将に隷せず、栄にこれを領せしむ。師旋するに、糧秣続かず。栄は供御の余りを尽くして軍に給し、軍中に余りある者相い貸すことを得しめ、塞に入れば、官倍いて償うことを請う。軍これに頼りて済う。明年、喪に奔ることを乞い、中官に命じ護行せしむ。還りて閩中の民情及び歳の豊凶を詢う、栄具に以て対す。尋いで諸皇孫に侍り文華殿に読書することを命ず。
十年、甘肅守臣宋琥言う、叛寇の老的罕、赤斤蒙古に逃れ、且つ辺患と為らんとす。乃ちまた栄を陝西に遣わし、豊城侯李彬と会して進兵の方略を議せしむ。栄還りて奏し言う、「隆冬は用兵の時ならず、且つ罪ある者数人に過ぎず、兵を出すべからず」と。帝その言に従い、叛者もまた降る。明年また広・幼孜と共に北巡に従う。又明年、瓦剌を征し、太孫侍行す。帝は栄に命じ間を以て経史を陳説せしめ、尚宝事を兼ねて領せしむ。凡そ詔を宣し令を出すこと、及び旗志符験は、必ず栄の奏を得て乃ち発す。帝嘗て晩に行幄に坐し、栄を召して兵食を計る。栄対して曰く、「将を選び屯田し、訓練方あり、耕耨時に当たれば、即ち兵食足る」と。十四年、金幼孜と共に翰林学士に進み、仍って庶子を兼ね、京師に還るに従う。明年また北征に従う。
十六年、胡広卒す、栄に命じ翰林院事を掌らしめ、益々親任を見る。諸大臣多く栄を忌み、これを疎まんと欲し、共に挙げて祭酒と為す。帝曰く、「吾固にその可なるを知る、第に栄に代わる者を求めよ」と。諸大臣乃ち敢えて言わず。十八年、文淵閣大学士に進み、学士を兼ねること前に如し。明年、北京に都を定む。時に三殿災いに会い、栄は衛士を麾いて図籍制誥を出だし、東華門外に舁かしむ。帝これを褒む。栄と幼孜、便宜十事を陳ぶ。報じて可とす。
二十年、また塞に出るに従い、軍事は悉く参決を令し、賚予優渥なり。師還り、将士を労い、四等に分かち宴を賜い、栄・幼孜皆前席に列し、上賞を受く。已にして、また詔を下して阿魯台を征す。或いは建文の時江西に集めた民兵を調発することを請う。帝、栄に問う。栄曰く、「陛下は民に復業を許して且つ二十年、一旦これを復征すれば、天下に信を示さず」と。これに従う。明年、塞に出るに従い、軍務は悉く栄に委ね、昼夜時に無く見ゆ。帝時に「楊学士」と称し、名を呼ばず。又明年、また北征に従う。当の時、帝凡そ五たび塞に出で、士卒飢凍し、饋運続かず、死亡十二三に及ぶ。大軍、答蘭納木児河に抵るも、敵を見ず。帝、群臣に当に復た進むべきかと問う、群臣唯唯す、惟だ栄・幼孜従容として班師すべしと言う。帝これを許す。
還りて榆木川に次す、帝崩ず。中官の馬雲等、措く所を知らず、密かに栄・幼孜と御幄に入り議す。二人議す:六師外に在り、京師を去ること尚遠し、秘して喪を発せず。礼を以て斂め、錫を熔かして椑と為し、輿中に載す。至る所朝夕膳を進むること常の儀の如く、益々軍令を厳にし、人測る莫し。或いは他事に因りて勅と為し、馳せて皇太子に報ぜんことを請う。二人曰く、「誰か敢えてかくの如くせん!先帝在すときは則ち勅と称し、賓天して勅と称すれば、詐りなり、罪小さからず」と。衆曰く、「然り」と。乃ち大行の月日及び遺命伝位の意を具し、太子に啓す。栄と少監海寿、先ず馳せて訃す。既に至り、太子は蹇義・楊士奇と命じ議せしむ、諸の行うべき所宜を。
仁宗即位し、太常卿に進み、余官前に如し。尋いで太子少傅・謹身殿大学士に進む。既にして言有り、栄が大行の時、行いし喪礼及び軍事を処分した状を。帝は勅を賜い褒労し、賚予甚だ厚し。工部尚書に進み、三祿を食む。時に士奇・淮皆尚書の禄を辞す、栄・幼孜もまた固く辞す。允さず。
楊榮は四朝に仕え、謀略に優れ決断力があった。永楽末、浙江・福建の山賊が蜂起し、出兵が議論された。帝は当時塞外におり、奏上を楊榮に見せた。楊栄は言った、「愚民は役人の苦しみに耐えかね、やむなく集まって自衛している。兵を出せば、ますます集まって収拾がつかなくなる。使者を派遣して招撫すれば、兵を用いるまでもない」。これに従うと、賊は鎮まった。安南放棄について、諸大臣は多く不可と唱えたが、楊栄と楊士奇のみが力説して、荒服の地で中国を疲弊させるべきでないと主張した。その老成持重はこのようなものであった。事を論ずるには激しく発奮し、人の過ちを容れることができなかった。しかし、人が帝の怒りに触れて不測の事態に陥る時は、往々にして微言をもって帝の意を導き、たちまち解決させた。夏原吉・李時勉が死を免れ、都御史劉観が辺境への流刑を免れたのは、皆その力による。かつて人に語って言った、「君に仕えるには礼法があり、諫言を進めるには方法がある。剛直を以て禍を招くことは、私はしない」。故にその恩遇も終始衰えなかった。『太祖実録』及び太宗・仁宗・宣宗の三朝『実録』の重修に当たり、いずれも総裁官となった。先後賜与されたものは数え切れない。性来賓客を喜び、貴盛であっても少しも傲慢でなく、士人の心は多く彼に帰した。ある者は楊栄が国家の大事を処するにあたり、唐の姚崇に恥じず、しかも細事に拘らない点もまた彼によく似ていると言う。
家は富み、曾孫の楊曄は建寧指揮となり、財貨のことで失敗した。詳しくは『宦官伝』にある。
曾孫 楊旦
楊曄の従弟の楊旦、字は晋叔、弘治年間の進士。歴任して太常卿となった。劉瑾に逆らって左遷され、温州府知府となり、治績は最上で、やがて浙江提学副使に昇進した。劉瑾が誅殺されると、累進して戸部侍郎に至り、京倉・通州倉を監督し、出向して甘肅の兵糧を管理した。帰還後、右都御史に進み、両広軍務を総督した。番禺・清遠・河源の諸瑶を討伐平定した。嘉靖初年、南京吏部尚書に転じた。張璁・桂萼が急激に登用されると、楊旦は九卿を率いて強く不可を主張した。ちょうど吏部尚書喬宇が罷免され、楊旦を召して代わらせようとしたが、着任前に給事中陳洸に弾劾され、致仕を命じられた。七十余歳で没した。
楊溥
仁宗が即位すると、獄から釈放され、翰林学士に抜擢された。かつて密かに上疏して事を奏上した。帝は褒めて答え、紙幣を賜った。やがて、楊溥が自分のために長く苦しんだことを思い、特に憐れんだ。翌年、思善門の左に弘文閣を建て、諸臣の中から学行ある者を選んで侍直させた。楊士奇は侍講王進・儒士陳継を推薦し、蹇義は学録楊敬・訓導何澄を推薦した。詔により陳継を博士に、楊敬を編修に、何澄を給事中に任じ、毎日閣中に侍直させた。楊溥に閣の事務を掌らせ、自ら閣印を授け、言った、「朕が卿を側近に用いるのは、学問だけのためではない。広く民事を知り、治道の補助としたい。何か建議があれば、封をして進上せよ」。まもなく太常卿に進み、兼職は元の通りであった。
宣宗が即位すると、弘文閣は廃止され、楊溥は内閣に召し入れられ、楊士奇らと共に機務を司った。四年間在職し、母の喪で去官したが、起復した。九年、礼部尚書に転じ、学士として内閣に侍直するのは元の通りであった。
付録 馬愉
楊溥は端重で簡黙、門に私謁なし。論事は寛厚を旨とした。かつて天下の獄で長く拘禁された者は多く獄死するので、使者を選んで分道して決遣すべしと奏した。帝はこれを容れた。辺境に警報あり、将を命ぜんとしていたところ、別部の使者が至り、衆議はこれを捕らえんとした。溥は言う、「善を賞し悪を罰するは、治の本なり。善に波及するは、法に非ず。人の来たるに乗じてこれを捕らうるは、武ならず」。帝はこれを然とし、厚くその使者を遣わした。
賛に曰く、成祖の時、士奇・楊榮と解縉ら同じく内閣に直し、楊溥もまた仁宗の宮僚たりしが、三人は四朝に事え、時に耆碩たり。溥の入閣は後なれども、徳望は相亜ぎ、ここをもって明に賢相を称すれば、必ず三楊を首とす。均しく能く儒術を本とし、事幾に通達し、協力して相資け、靖共して懈らず。史に房・杜は衆美を持してこれを君に効し、輔贊彌縫して諸用に蔵すと称し、また姚崇は応変に善くして以て天下の務を成し、宋璟は文を守るに善くして以て天下の正を保つと称す。三楊は其れ庶幾からんか。