明史

列傳第三十六 楊士奇 楊榮 楊溥

楊士奇

楊士奇は名を寓といい、字をもって行われる。泰和の人である。早く孤となり、母に従って羅氏に嫁ぎ、後に復宗した。甚だ貧しかった。力学し、徒を授けて自ら給した。多く湖・湘の間を遊び、江夏に館する事最も久しかった。建文の初め、諸儒を集めて『太祖実録』を修め、士奇は既に推薦により教授に徴用され当行しようとしたが、王叔英がまた史才を以て推薦した。遂に召されて翰林に入り、編纂官を充てた。尋いで吏部に命じて史館の諸儒を考第せしめた。尚書張紞が士奇の策を得て言う、「これは経生の言ではない」と。奏して第一とした。呉王府審理副に授け、仍って館職に供した。成祖即位し、編修に改めた。後に、簡抜されて内閣に入り、機務を典した。数ヶ月にして侍講に進んだ。

永楽二年に宮僚を選び、士奇を以て左中允とした。五年に左諭徳に進んだ。士奇は職を奉じて甚だ謹み、私居では公事を言わず、最も親厚な者であっても聞くことができなかった。帝の前では、挙止恭慎にして、善く応対し、事を言えば輒ち中った。人の小過有れば、嘗てこれを揜覆した。広東布政使徐奇が嶺南の土産を載せて廷臣に饋ったが、或る者がその目録を得て進上した。帝が閲して士奇の名無きを見て、召して問うた。対えて言う、「奇が広に赴く時、群臣詩文を作って贈行したが、臣は丁度病みて預からず、故を以て独り及ばなかった。今受けているか否かは未だ知らず、且つ物は微かで、当に他の意は無いでしょう」と。帝は遽かに籍を毀つことを命じた。

六年、帝北巡し、命じて蹇義・黄淮と共に留まって太子を輔けしめた。太子は文辞を喜び、賛善王汝玉が詩法を以て進めた。士奇は言う、「殿下は当に『六経』に留意し、暇あれば則ち両漢の詔令を観るべきです。詩は小技にて、為すに足りません」と。太子は善しと称した。

初め、帝が兵を起こした時、漢王は数たび力戦して功有り。帝は事成れば太子と為すことを許した。既に立たれずして、怨望した。帝はまた趙王の年少を憐れみ、寵異した。ここより両王合して太子を間し、帝は頗る心動いた。九年に南京に還り、士奇を召して監国の状を問うた。士奇は孝敬を以て対え、且つ言う、「殿下は天資高く、即ち過有れば必ず知り、知れば必ず改め、心を存して人を愛し、決して陛下の託に負かず」と。帝は悦んだ。十一年の正旦、日食有り。礼部尚書呂震は朝賀を罷めざることを請うた。侍郎儀智は不可を堅持した。士奇もまた宋仁宗の事を引きて力言した。遂に賀を罷めた。明年、帝北征す。士奇は仍って太子を輔けて居守した。漢王は太子を譖する事益々急であった。帝還り、迎駕緩やかなりと以て、東宮官黄淮等を尽く徴して獄に下した。士奇は後至し、これを宥した。召して太子の事を問うた。士奇は頓首して言う、「太子の孝敬は初めの如し。凡そ稽遅した所は、皆臣等の罪なり」と。帝の意解けた。行在の諸臣交章して士奇を劾し、独り宥すは当たらずとし、遂に錦衣衛の獄に下し、尋いで釈した。

十四年、帝京師に還り、微かに漢王の嫡を奪う謀及び諸の不軌の状を聞き、以て蹇義に問うた。義は対えず、乃ち士奇に問うた。対えて言う、「臣と義は俱に東宮に侍り、外人敢えて臣等二人に漢王の事を言う者無し。然れども漢王は両たび籓に就くことを遣わされ、皆肯て行かず。今陛下都を徙うるを知り、輒ち留守して南京を請う。惟だ陛下其の意を熟察せられよ」と。帝は黙然とし、起って還宮した。数日居て、帝は漢王の事を尽く得、両護衛を削り、之を楽安に処した。明年、士奇を翰林学士に進め、故官を兼ねしめた。十九年に左春坊大学士に改め、仍って学士を兼ねた。明年、復た輔導に闕有りと坐し、錦衣衛の獄に下し、旬日にして釈した。

仁宗即位し、礼部侍郎兼華蓋殿大学士に擢げた。帝便殿に御し、蹇義・夏原吉が事を奏して未だ退かず。帝士奇を見て、二人に謂う、「新華蓋学士来る、必ず讜言有らん、試みに共にこれを聴かん」と。士奇入りて言う、「恩詔歳供を減ずること甫に二日下る、惜薪司旨を伝えて棗八十万斤を徴す、前詔に戾る」と。帝直ちに其の半を減ずることを命じた。服制二十七日期満し、呂震は即ち吉を請うた。士奇は不可とした。震は厲声して之を叱した。蹇義は兼ねて二説を取りて進めた。明日、帝は素冠麻衣絰して朝を視た。廷臣は惟だ士奇及び英国公張輔の服之の如し。朝罷りて、帝は左右に謂う、「梓宮殯に在り、服を易うるは豈に臣子の忍んで言う所ならん、士奇の執るは是なり」と。少保に進め、同官の楊栄・金幼孜と並び「繩愆糾繆」の銀章を賜わり、密封して事を言うを得た。尋いで少傅に進んだ。

時に籓司守令朝に来たり、尚書李慶は軍伍の余馬を発して有司に給し、歳に其の駒を課することを建議した。士奇は言う、「朝廷賢を選び官を授くるに、乃ち牧馬せしむ、是れ畜を貴びて士を賤しむなり、何を以て天下後世に示さん」と。帝は中旨を許して之を罷め、已にして寂然たり。士奇復た力言す。又報いず。有る頃、帝思善門に御し、士奇を召して謂う、「朕向者は豈に真に之を忘れんや。呂震・李慶の輩は皆卿を喜ばずと聞く、朕卿の孤立を念い、恐らくは傷つけられんとし、卿の言に因りて罷むるを欲せざりしのみ、今辞有り」と。手ずから陝西按察使陳智の養馬不便を言う疏を出し、勅を草して之を行わしめた。士奇は頓首して謝した。群臣正旦の儀を習い、呂震は楽を用いることを請うた。士奇は黄淮と疏を以て止めた。未だ報いず。士奇復た奏し、庭中に待つこと夜漏十刻に至る。報いて可とす。越日、帝召して謂う、「震は毎事朕を誤る、卿等の言に非ざれば、悔ゆるも及ばざらん」と。兵部尚書を兼ねることを命じ、並びに三祿を食らわしむ。士奇は尚書の祿を辞した。

帝監国の時、御史舒仲成を憾み、ここに至りて之を罪せんと欲した。士奇は言う、「陛下即位し、詔して向忤旨する者を皆宥すを得しむ。若し仲成を治めば、則ち詔書信ならず、懼るる者衆し。漢景帝の衛綰を待つが如く、亦た可ならずや」と。帝は即ち罷めて治めず。或いは大理卿虞謙の事を言うに密ならずと云う者有り。帝怒り、一官を降した。士奇は其の罔を為に白し、復秩を得しめた。又大理少卿弋謙は事を言うことを以て罪を得た。士奇は言う、「謙は詔に応じて言を陳う。若し之に罪を加うれば、則ち群臣ここより舌を結ばん」と。帝は直ちに謙を副都御史に進め、而して勅を下して過を引いた。

時に上書して太平を頌する者有り、帝は以て諸大臣に示し、皆以て然りと為す。士奇独り曰く、「陛下は雖も天下に澤被うと雖も、然れども流徙未だ帰らず、瘡痍未だ復せず、民尚だ食に艱し。更に数年休息し、庶幾くは太平期す可し」と。帝曰く、「然り」と。因りて顧みて蹇義等に謂う、「朕卿等を待つに至誠を以てし、匡弼を望む。惟だ士奇は曾て五たび章を上す、卿等は皆一言無し。豈に果たして朝に闕政無く、天下太平なるや」と。諸臣慚謝した。是の年の四月、帝は士奇に璽書を賜いて曰く、「往者朕監国の命を膺け、卿左右に侍り、同心合徳し、国に徇いて身を忘れ、屡たび艱虞を歴て、曾て志を易えず。及び朕位を嗣ぐ以来、嘉謨入告し、予を治に期し、正固不二、簡に朕心に在り。茲に『楊貞一印』を創製して卿に賜う、尚お克く交修し、以て明良の誉を成せ」と。尋いで『太宗実録』を修め、黄淮・金幼孜・楊溥と俱に総裁官を充てた。未だ幾くもせず、帝せず、士奇と蹇義・黄淮・楊栄を召して思善門に至らしめ、士奇に命じて勅を書かしめ南京に於て太子を召した。

宣宗が即位し、『仁宗実録』を編修するにあたり、引き続き総裁を務めた。宣徳元年、漢王朱高煦が反乱を起こした。帝は親征してこれを平定した。軍が帰還する途中、献県の単家橋に駐屯したとき、侍郎の陳山が迎えに出て謁見し、漢王と趙王は実は同心であると述べ、勢いに乗じて彰徳を襲撃し趙王を捕らえるよう請うた。楊栄は決行を強く支持した。楊士奇は言った、「事には実証がなければならない。天地鬼神を欺くことができようか」。楊栄は声を荒げて言った、「お前は大計を妨げようとするのか。今、逆党は趙王も実際に謀議に加わったと言っている。どうして証拠がないと言えよう」。楊士奇は言った、「太宗皇帝には三人の御子がおられたが、今上には叔父がお二人しかいらっしゃらない。罪ある者は赦すことはできないが、罪なき者は厚く遇すべきである。疑わしければこれを防ぎ、憂いなきようにするだけでよい。どうして急いで兵を加え、皇祖の在天の御心を傷つけようとするのか」。この時は楊溥のみが楊士奇に同意した。諫言に入ろうとしたが、楊栄が先に入り、楊士奇が続いた。門番は入れなかった。まもなく蹇義と夏原吉が召し入れられた。二人は楊士奇の言葉を帝に申し上げた。帝には初め趙王を罪に問う意図はなく、出兵の件は取りやめとなった。都に戻ると、帝は楊士奇の言葉を思い出し、彼に言った、「今、議する者たちは多く趙王のことを言っているが、どうしたものか」。楊士奇は言った、「趙王は最もご親族であられます。陛下は彼を保全なさるべきで、群臣の言葉に惑わされてはなりません」。帝は言った、「群臣の上奏文を封じて趙王に見せ、自ら処置させるのはどうか」。楊士奇は言った、「結構です。さらに璽書を賜われば幸甚です」。そこで使者を発して書を趙王に届けさせた。趙王は書を受け取って大いに喜び、泣いて言った、「私は生き延びられる」。すぐに上表して謝意を表し、さらに護衛を献上したので、言い立てる者たちはようやくやんだ。帝は趙王をますます親しく遇し、陳山を疎んじるようになった。楊士奇に言った、「趙王が全うできたのは、卿の力である」。金幣を賜った。

この時、交阯がたびたび反乱を起こした。たびたび大軍を発して征討したが、皆敗没した。交阯の黎利が人を遣わし、偽って陳氏の後裔を立てるよう請うた。帝もまた兵役に倦み、これを許そうとした。英国公張輔、尚書蹇義以下は皆、これを許すのは名分がなく、ただ天下に弱みを見せるだけだと述べた。帝は楊士奇と楊栄を召して相談した。二人は力説して言った、「陛下が民命を憐れんで荒遠の地を安んじられるのは、名分がないことではありません。漢が珠崖を放棄したことは、前史が美談としており、弱みを見せたことにはなりません。許されるのがよろしいでしょう」。まもなく交阯への使者を選ぶよう命じられた。蹇義は伏伯安の弁舌を推薦した。楊士奇は言った、「言葉が忠信でなければ、蛮貊の国であっても行うことはできません。伯安は小人であり、行かせれば国辱となるでしょう」。帝はこれを正しいと認め、別の使者を派遣した。こうして交阯を放棄し、兵を罷め、毎年軍費の巨額を節減した。

五年の春、帝は皇太后に供奉して陵墓に参拝し、英国公張輔、尚書蹇義および楊士奇、楊栄、金幼孜、楊溥を召し、行殿で太后に朝見させた。太后は彼らを慰労した。帝はまた楊士奇に言った、「太后が朕に言われるには、先帝が東宮におられた時、卿のみが憚ることなく逆らい、先帝はそれに従って事を誤らなかった。また朕に直言を受けるべきだと教えられた」。楊士奇は答えて言った、「これは皇太后の盛徳のお言葉です。願わくは陛下これを心に留められますように」。まもなく鴻臚寺に勅を下した。楊士奇は老いて病があり、朝参が遅れることがあっても、奏上して論じないようにと。帝はかつて微行し、夜に楊士奇の邸宅に行幸した。楊士奇は慌てて出迎え、頓首して言った、「陛下はどうして社稷宗廟の御身を軽んじられるのですか」。帝は言った、「朕は卿と一言話したくて、来たのだ」。数日後、二人の盗賊を捕らえ、異なる謀議があることが分かった。帝は楊士奇を召し、その経緯を告げた。そして言った、「今にして卿が朕を愛してくれていることが分かった」。帝は四方でたびたび水害旱魃があったため、楊士奇を召して詔を下し寛大な措置をとることを議し、災害による損傷分の租税および官馬の不足分を免除させた。楊士奇はこれに因んで、併せて滞納の賦税と薪草代を免除し、官田の額を減らし、冤罪や滞った事件を処理し、工役を淘汰して、徳意を広めるよう請うた。民は大いに喜んだ。二年余り経って、帝は楊士奇に言った、「民を恤う詔が下されて久しいが、今さらに恤うべきことはあるか」。楊士奇は言った、「以前の詔で官田の租を減らしましたが、戸部は以前通り徴収しております」。帝は不満げに言った、「今すぐにこれを実行せよ。廃止して妨げる者は法に照らして論ぜよ」。楊士奇はさらに逃亡民を撫で、汚職官吏を監察し、文学・武勇の士を推挙し、極刑に処せられた者の子孫も皆官途に就けるよう請うた。また朝廷の臣で三品以上および二司の官に、各々知る者を推挙させ、方面や郡守の選任に備えるよう請うた。皆許可された。この時、帝は精励して政治に励み、楊士奇らは心を合わせて補佐したので、海内は治平と称された。帝はそこで古の君臣が予め遊ぶ故事に倣い、毎年のはじめに百官に十日間の休暇を賜った。車駕も時折西苑の万歳山に行幸し、諸学士は皆従った。詩を賦し唱和し、ゆったりと民間の疾苦を問うた。論奏することがあれば、帝は皆虚心に聞き入れた。

帝が即位した当初、内閣の臣は七人であった。陳山と張瑛は東宮時代の旧恩によって入閣したが、任に堪えず、他の官に出された。黄淮は病気のため致仕した。金幼孜が卒去した。閣中には楊士奇、楊栄、楊溥の三人のみとなった。楊栄は度量が広く果断で、事に遇えば敢然と行動した。たびたび成祖に従って北征し、辺境の将の賢否、要害の険易遠近、敵情の順逆を知ることができた。しかしかなり贈収賄に通じており、辺将は歳時に良馬を贈った。帝はかなりこれを知っており、楊士奇に問うた。楊士奇は力説して言った、「楊栄は辺務に通暁しており、臣らは及びません。小さな過失を気にされるべきではありません」。帝は笑って言った、「楊栄はかつて卿と夏原吉の短所を言ったことがある。卿は彼のために地歩を築こうとするのか」。楊士奇は言った、「願わくは陛下が臣を曲げてお許しになるように、楊栄をもお許しください」。帝の心はようやく解けた。その後、その言葉が少しずつ聞こえるようになり、楊栄はこれによって楊士奇を恥じ、互いに気心が合って甚だ歓んだ。帝もますます彼らを親しく厚遇し、前後して賜った珍果、牲肉と酒、金糸の衣、幣帛、書器は数えきれなかった。

宣宗が崩御し、英宗が即位した。年は九歳であった。軍国の大政は太皇太后に報告して裁可を仰いだ。太后は心を開いて楊士奇、楊栄、楊溥の三人を信任し、事があるごとに宦官の使者を閣に遣わして諮問議させ、それから裁決した。三人もまた自ら信じ、侃々として己の意志を行った。楊士奇はまず士卒を訓練し、辺防を厳重にし、南京に参賛機務大臣を設置し、文武の官を分遣して江西・湖広・河南・山東を鎮撫させ、偵察を行う校尉こういを罷めるよう請うた。また順次租税を免除し、刑獄を慎重にし、百官を厳しく査察するよう請うた。皆許可されて実行された。正統の初め、朝政が清明であったのは、楊士奇らの力によるものであった。三年、『宣宗実録』が完成し、少師に進んだ。四年に致仕を願い出たが、許されなかった。勅を下して墓参りに帰ることを許した。間もなく、戻った。

この時、宦官の王振が帝の寵愛を受け、次第に外朝の政事に関与するようになり、帝を導いて厳しく臣下を統御させたため、大臣はしばしば獄に下された。靖江王朱佐敬がひそかに楊栄に金を贈った。楊栄は先に墓参りに出ており、帰ってきてもこれを知らなかった。王振はこれによって楊栄を失脚させようとしたが、楊士奇が力説してこれを解き、事なきを得た。楊栄はまもなく卒去し、楊士奇と楊溥はますます孤立した。その翌年、ついに大軍を興して麓川を征討し、国庫は消耗し、兵士や馬匹で死亡した者は数万に及んだ。さらにその翌年、太皇太后が崩御すると、王振の勢力はますます盛んになり、大いに威福を振るい、百官が少しでも逆らうと、すぐに捕らえて拘禁した。廷臣は皆恐れおののき、楊士奇もまたこれを制することができなかった。

楊士奇は既に老齢で、子の楊稷が傲慢で強情で、かつて侵害して暴行し人を殺した。言官が相次いで上奏して楊稷を弾劾した。朝廷の議論ではすぐに法を加えることはせず、その上奏文を封じて楊士奇に見せた。さらに楊稷の横暴な行い数十件を告発する者がおり、ついに獄に下された。楊士奇は老病のため休暇を取っていた。天子は楊士奇の心情を傷つけることを恐れ、詔を下して慰労し励ました。楊士奇は感激して泣き、憂いて起き上がれなかった。九年三月に卒去した。八十歳であった。太師を追贈され、諡は文貞といった。役所はついに楊稷を処刑した。

初め、正統初め、士奇は言う、瓦剌が次第に強くなり、やがて辺境の患いとなろう、しかるに辺軍は馬を欠き、恐らく防げないであろうと。近くの太僕寺に赴いて領することを請い、西番の貢馬もまた悉くこれに給することを求めた。士奇が没して間もなく、也先が果たして侵入し、土木の難があり、識者はその言葉を思った。また大いに人を知ることに長け、寒士を推挙することを好み、推薦して達した者には初めて面識のない者もあった。そして于謙・周忱・況鍾の類は、皆士奇の推薦を用いられ、官に居ること一二十年に至り、廉潔・才能天下に冠たり、世の名臣となったという。

次子の䆃(または「䆃」と作る)、蔭により尚宝丞を補う。成化年中、太常少卿に進み、司事を掌る。

楊榮

楊榮、字は勉仁、建安の人、初名は子栄。建文二年の進士。編修を授かる。成祖が初めて京に入る時、栄は馬首に迎え謁して言う、「殿下は先に陵を謁するか、先に即位するか」と。成祖は急ぎ駕を促して陵を謁した。ここより遂に知遇を受く。即位した後、選んで文淵閣に入り、名を栄と改めさせられる。同値七人、栄は最も年少で、機敏であった。ある日の晩、寧夏より包囲されたと報ず。七人を召すと、皆既に出ており、独り栄が在り、帝は奏を以て示す。栄曰く、「寧夏の城は堅く、人皆戦いに習熟し、奏が上がってより既に十余日、包囲は解けたであろう」と。夜半、果たして包囲解除の奏あり。帝は栄に謂う、「何とよく見通したことか」と。江西に盗賊起こり、使いを遣わして撫諭させ、都督ととく韓観に兵を率いてその後を継がしむ。賊が帰順したとの奏が至り、帝は勅を賜って韓観を労わろうとする。栄曰く、「奏を発した時を計れば、韓観は未だ至らず、功を論ずるを得ず」と。帝はますますこれを重んじ、再び遷って侍講に至る。太子が立てられ、右諭徳に進み、仍って前職を兼ね、直中の諸臣と共に二品の服を賜わる。諸司の事宜を評議し、旨に称し、また衣幣を賜わる。帝は威厳あり、諸大臣と事を議して未だ決せず、或いは怒りを発するに至る。栄が至れば、輒ち顔を和らげ、事もまた遂に決する。

五年、甘肅に往きて軍務を経画することを命じられ、過ぐる所に山川の形勢を覧し、軍民を察し、城堡を閲す。還りて武英殿に奏す。帝大いに悦び、盛暑に当たり、自ら瓜を割きてこれを啖わしむ。尋いで右庶子に進み、職を兼ねること前に如し。明年、父の喪により伝を給して帰る。葬り終えてより、起復して視事す。又明年、母の喪により帰ることを乞う。帝は北行の期迫るを以て許さず、胡広・金幼孜と共に扈従することを命ず。甘肅総兵官何福言う、脱脱不花等降ることを請い、亦集乃に命を需むと。栄を甘肅に往かしめ何福と共に降を受けしめ、節を持ちて即ち軍中に福を寧遠侯に封ず。因って寧夏に至り、寧陽侯陳懋と辺務を規画す。還りて便宜十事を陳ぶ。帝嘉納す。

八年、塞に出るに従い、臚朐河に次す。勇士三百人を選び衛と為し、諸将に隷せず、栄にこれを領せしむ。師旋するに、糧秣続かず。栄は供御の余りを尽くして軍に給し、軍中に余りある者相い貸すことを得しめ、塞に入れば、官倍いて償うことを請う。軍これに頼りて済う。明年、喪に奔ることを乞い、中官に命じ護行せしむ。還りて閩中の民情及び歳の豊凶を詢う、栄具に以て対す。尋いで諸皇孫に侍り文華殿に読書することを命ず。

十年、甘肅守臣宋琥言う、叛寇の老的罕、赤斤蒙古に逃れ、且つ辺患と為らんとす。乃ちまた栄を陝西に遣わし、豊城侯李彬と会して進兵の方略を議せしむ。栄還りて奏し言う、「隆冬は用兵の時ならず、且つ罪ある者数人に過ぎず、兵を出すべからず」と。帝その言に従い、叛者もまた降る。明年また広・幼孜と共に北巡に従う。又明年、瓦剌を征し、太孫侍行す。帝は栄に命じ間を以て経史を陳説せしめ、尚宝事を兼ねて領せしむ。凡そ詔を宣し令を出すこと、及び旗志符験は、必ず栄の奏を得て乃ち発す。帝嘗て晩に行幄に坐し、栄を召して兵食を計る。栄対して曰く、「将を選び屯田し、訓練方あり、耕耨時に当たれば、即ち兵食足る」と。十四年、金幼孜と共に翰林学士に進み、仍って庶子を兼ね、京師に還るに従う。明年また北征に従う。

十六年、胡広卒す、栄に命じ翰林院事を掌らしめ、益々親任を見る。諸大臣多く栄を忌み、これを疎まんと欲し、共に挙げて祭酒と為す。帝曰く、「吾固にその可なるを知る、第に栄に代わる者を求めよ」と。諸大臣乃ち敢えて言わず。十八年、文淵閣大学士に進み、学士を兼ねること前に如し。明年、北京に都を定む。時に三殿災いに会い、栄は衛士を麾いて図籍制誥を出だし、東華門外に舁かしむ。帝これを褒む。栄と幼孜、便宜十事を陳ぶ。報じて可とす。

二十年、また塞に出るに従い、軍事は悉く参決を令し、賚予優渥なり。師還り、将士を労い、四等に分かち宴を賜い、栄・幼孜皆前席に列し、上賞を受く。已にして、また詔を下して阿魯台を征す。或いは建文の時江西に集めた民兵を調発することを請う。帝、栄に問う。栄曰く、「陛下は民に復業を許して且つ二十年、一旦これを復征すれば、天下に信を示さず」と。これに従う。明年、塞に出るに従い、軍務は悉く栄に委ね、昼夜時に無く見ゆ。帝時に「楊学士」と称し、名を呼ばず。又明年、また北征に従う。当の時、帝凡そ五たび塞に出で、士卒飢凍し、饋運続かず、死亡十二三に及ぶ。大軍、答蘭納木児河に抵るも、敵を見ず。帝、群臣に当に復た進むべきかと問う、群臣唯唯す、惟だ栄・幼孜従容として班師すべしと言う。帝これを許す。

還りて榆木川に次す、帝崩ず。中官の馬雲等、措く所を知らず、密かに栄・幼孜と御幄に入り議す。二人議す:六師外に在り、京師を去ること尚遠し、秘して喪を発せず。礼を以て斂め、錫を熔かして椑と為し、輿中に載す。至る所朝夕膳を進むること常の儀の如く、益々軍令を厳にし、人測る莫し。或いは他事に因りて勅と為し、馳せて皇太子に報ぜんことを請う。二人曰く、「誰か敢えてかくの如くせん!先帝在すときは則ち勅と称し、賓天して勅と称すれば、詐りなり、罪小さからず」と。衆曰く、「然り」と。乃ち大行の月日及び遺命伝位の意を具し、太子に啓す。栄と少監海寿、先ず馳せて訃す。既に至り、太子は蹇義・楊士奇と命じ議せしむ、諸の行うべき所宜を。

仁宗即位し、太常卿に進み、余官前に如し。尋いで太子少傅・謹身殿大学士に進む。既にして言有り、栄が大行の時、行いし喪礼及び軍事を処分した状を。帝は勅を賜い褒労し、賚予甚だ厚し。工部尚書に進み、三祿を食む。時に士奇・淮皆尚書の禄を辞す、栄・幼孜もまた固く辞す。允さず。

宣徳元年、漢王高煦反す。帝、栄等を召して計を定む。栄首めて帝の親征を請い、曰く、「彼は陛下の新立、必ず自ら行わずと謂う。今出でて意表に出ず、天威を以てこれに臨めば、事成らざる無し」と。帝その計に従う。楽安に至り、高煦出でて降る。師還り、決策の功を以て、上賞を受け、銀章五を賜い、褒予甚だ至れり。

三年、帝の辺境巡視に従い、遵化に至る。兀良哈将に辺を寇すと聞き、帝は扈行の諸文臣を大営に留め、独り栄に従うことを命ず。自ら軽騎を将いて喜峰口より出で、敵を破りて還る。五年、少傅に進み、大学士の禄を辞す。九年、また辺境巡視に従い、洗馬林に至りて還る。

英宗即位し、委寄前に如し。正統三年、士奇と共に少師に進む。五年、帰り墓を展ぶることを乞い、中官に命じ護行せしむ。還りて武林駅に至りて卒す、年七十。太師を贈り、諡して文敏と曰い、世襲の都指揮使を授く。

楊榮は四朝に仕え、謀略に優れ決断力があった。永楽末、浙江・福建の山賊が蜂起し、出兵が議論された。帝は当時塞外におり、奏上を楊榮に見せた。楊栄は言った、「愚民は役人の苦しみに耐えかね、やむなく集まって自衛している。兵を出せば、ますます集まって収拾がつかなくなる。使者を派遣して招撫すれば、兵を用いるまでもない」。これに従うと、賊は鎮まった。安南放棄について、諸大臣は多く不可と唱えたが、楊栄と楊士奇のみが力説して、荒服の地で中国を疲弊させるべきでないと主張した。その老成持重はこのようなものであった。事を論ずるには激しく発奮し、人の過ちを容れることができなかった。しかし、人が帝の怒りに触れて不測の事態に陥る時は、往々にして微言をもって帝の意を導き、たちまち解決させた。夏原吉・李時勉が死を免れ、都御史劉観が辺境への流刑を免れたのは、皆その力による。かつて人に語って言った、「君に仕えるには礼法があり、諫言を進めるには方法がある。剛直を以て禍を招くことは、私はしない」。故にその恩遇も終始衰えなかった。『太祖実録』及び太宗・仁宗・宣宗の三朝『実録』の重修に当たり、いずれも総裁官となった。先後賜与されたものは数え切れない。性来賓客を喜び、貴盛であっても少しも傲慢でなく、士人の心は多く彼に帰した。ある者は楊栄が国家の大事を処するにあたり、唐の姚崇に恥じず、しかも細事に拘らない点もまた彼によく似ていると言う。

家は富み、曾孫の楊曄は建寧指揮となり、財貨のことで失敗した。詳しくは『宦官伝』にある。

曾孫 楊旦

楊曄の従弟の楊旦、字は晋叔、弘治年間の進士。歴任して太常卿となった。劉瑾に逆らって左遷され、温州府知府となり、治績は最上で、やがて浙江提学副使に昇進した。劉瑾が誅殺されると、累進して戸部侍郎に至り、京倉・通州倉を監督し、出向して甘肅の兵糧を管理した。帰還後、右都御史に進み、両広軍務を総督した。番禺・清遠・河源の諸瑶を討伐平定した。嘉靖初年、南京吏部尚書に転じた。張璁・桂萼が急激に登用されると、楊旦は九卿を率いて強く不可を主張した。ちょうど吏部尚書喬宇が罷免され、楊旦を召して代わらせようとしたが、着任前に給事中陳洸に弾劾され、致仕を命じられた。七十余歳で没した。

楊溥

楊溥、字は弘済、石首の人。楊栄と同科の進士となった。編修に任じられた。永楽初年、皇太子に侍して洗馬となった。太子がかつて『漢書かんじょ』を読み、張釈之の賢を称えた。楊溥は言った、「釈之は確かに賢人ですが、文帝の寛仁がなければ、その志を行うことはできなかったでしょう」。文帝の事績を採り集めて分類し献上した。太子は大いに喜んだ。しばらくして、喪に服して帰郷した。当時太子が監国しており、出仕するよう命じた。十二年、東宮が帝を迎える使者を遅らせたため、帝は怒った。黄淮は北京に連行され獄に繋がれた。金問が到着すると、帝はますます怒って言った、「問は何者か、太子に侍することができようか」。法司に下して取り調べさせ、楊溥にも連座し、錦衣衛の獄に逮捕投獄された。家族の食糧供給は幾度も絶えた。しかも帝の意は測りがたく、旦夕のうちに死ぬかもしれなかった。楊溥はますます奮起し、読書を怠らなかった。十年間獄中にあって、経書・史書・諸子の書を数回読み通した。

仁宗が即位すると、獄から釈放され、翰林学士に抜擢された。かつて密かに上疏して事を奏上した。帝は褒めて答え、紙幣を賜った。やがて、楊溥が自分のために長く苦しんだことを思い、特に憐れんだ。翌年、思善門の左に弘文閣を建て、諸臣の中から学行ある者を選んで侍直させた。楊士奇は侍講王進・儒士陳継を推薦し、蹇義は学録楊敬・訓導何澄を推薦した。詔により陳継を博士に、楊敬を編修に、何澄を給事中に任じ、毎日閣中に侍直させた。楊溥に閣の事務を掌らせ、自ら閣印を授け、言った、「朕が卿を側近に用いるのは、学問だけのためではない。広く民事を知り、治道の補助としたい。何か建議があれば、封をして進上せよ」。まもなく太常卿に進み、兼職は元の通りであった。

宣宗が即位すると、弘文閣は廃止され、楊溥は内閣に召し入れられ、楊士奇らと共に機務を司った。四年間在職し、母の喪で去官したが、起復した。九年、礼部尚書に転じ、学士として内閣に侍直するのは元の通りであった。

英宗が初めて即位すると、楊士奇・楊栄と共に経筵の開講を請うた。あらかじめ講官を選び、必ず学識平正・言行端謹・老成して大體に通じた者数人を職に就かせた。また宮中で朝夕侍従する宦官の選任を慎重にするよう請うた。太后は大いに喜んだ。ある日、太后が便殿に座り、帝は西に向かって立ち、英国公張輔及び楊士奇・楊栄・楊溥・尚書胡濙を召し入れた。諭して言った、「卿らは老臣である。嗣君は幼い。幸いに心を一つにして社稷を安んじよ」。また楊溥を前に召して言った、「仁宗皇帝は卿の忠を思い、幾度も嘆息された。今なお卿に会えるとは思わなかった」。楊溥は感激して泣き、太后も泣き、左右の者も皆悲しんだ。初め仁宗が太子の時、讒言を受け、宮僚の多くが詔獄で死んだ。楊溥と黄淮は一度投獄されて十年、死に瀕すること数度であった。仁宗は常々宮中で諸臣を思い、太后も長く彼らを憐れんでいたので、このように楊溥に言ったのである。太后はまた帝を顧みて言った、「この五臣は、三朝に選任され、後人を輔けしめた。皇帝は万機、宜しく五臣と共に計らうべし」。正統三年、『宣宗実録』が完成し、少保・武英殿大学士に進んだ。楊溥は楊士奇・楊栄より二十余年遅れて内閣に入ったが、この時になってようやく楊士奇・楊栄と並んだ。六年、墓参りのため帰郷し、まもなく還った。

この時、王振はまだ横暴ではなく、天下は清平で、朝廷に失政なく、中外の臣民はこぞって「三楊」と称賛した。居宅によって楊士奇を「西楊」、楊栄を「東楊」と呼び、楊溥はかつて自らの郡望を南郡と署したため、これにより「南楊」と号された。楊溥は質朴で正直、廉潔で静か、腹に一物がなかった。性恭謹で、毎朝入るときは、壁に沿って歩いた。諸大臣が事を論じて可否を争い、時に激しい言葉に至ることがあった。楊溥は平心に処し、諸大臣は皆感服した。当時、楊士奇には学行があり、楊栄には才識があり、楊溥には高雅な操行があり、いずれも人の及ばぬところと言われた。楊栄・楊士奇が相次いで没すると、内閣にいる者では馬愉・高谷・曹鼐はいずれも後進で声望が軽かった。楊溥は孤立し、王振はますます権勢を振るった。十一年七月、楊溥は没した。七十五歳。太師を追贈され、諡は文定。孫の楊寿を尚宝司丞に任じた。三年後、王振はついに英宗を導いて北征し、土木に陥り、大乱に至らんとした。当時の人はこの三人が生きていたならば、ここまでには至らなかっただろうと追想した。しかし後になって台頭した者は競って彼らの短所を暴き立て、中旨に従って日和見し、賊奄の禍を醸成したとし、これもまた過酷な非難の端緒となった。

付録 馬愉

馬愉、字は性和、臨朐の人。宣徳二年の進士第一。翰林修撰に任じられた。九年秋、特に史官及び庶吉士三十七人を選び文淵閣で学ばせ、馬愉を筆頭とした。正統元年、経筵講官を充て、再び転じて侍読学士となった。当時王振が権勢を振るい、ある日、楊士奇・楊栄に言った、「朝廷の事は長らく公らを煩わせている。公らは皆高齢で、お疲れであろう」。楊士奇は言った、「老臣は国に報いるために力を尽くし、死して後已む」。楊栄は言った、「我々は衰え残っており、効力する術がない。後進で任に堪えうる者を選び、聖恩に報いるべきである」。王振は喜んで退いた。楊士奇は楊栄が失言したと咎めた。楊栄は言った、「彼は我々を疎ましく思っている。一旦内中から一片の紙で某人を内閣に入れよと命じられたら、どうしよう。今のうちに一二の賢者を進め、同心協力すれば、まだやれる」。楊士奇はもっともだと思った。翌日、侍読学士苗衷・侍講曹鼐及び馬愉の名を挙げて進めた。これにより馬愉は抜擢任用された。五年、詔により本官のまま内閣に入り、機務に参与し、まもなく礼部右侍郎に進んだ。十二年、没した。尚書兼学士を追贈された。贈官が兼職を帯びるのは、馬愉から始まった。

楊溥は端重で簡黙、門に私謁なし。論事は寛厚を旨とした。かつて天下の獄で長く拘禁された者は多く獄死するので、使者を選んで分道して決遣すべしと奏した。帝はこれを容れた。辺境に警報あり、将を命ぜんとしていたところ、別部の使者が至り、衆議はこれを捕らえんとした。溥は言う、「善を賞し悪を罰するは、治の本なり。善に波及するは、法に非ず。人の来たるに乗じてこれを捕らうるは、武ならず」。帝はこれを然とし、厚くその使者を遣わした。

賛に曰く、成祖の時、士奇・楊榮と解縉ら同じく内閣に直し、楊溥もまた仁宗の宮僚たりしが、三人は四朝に事え、時に耆碩たり。溥の入閣は後なれども、徳望は相亜ぎ、ここをもって明に賢相を称すれば、必ず三楊を首とす。均しく能く儒術を本とし、事幾に通達し、協力して相資け、靖共して懈らず。史に房・杜は衆美を持してこれを君に効し、輔贊彌縫して諸用に蔵すと称し、また姚崇は応変に善くして以て天下の務を成し、宋璟は文を守るに善くして以て天下の正を保つと称す。三楊は其れ庶幾からんか。