明史

列傳第三十六 楊士奇 楊榮 楊溥

列傳第三十六 楊士奇 楊榮 楊溥

原文列傳第三十六 楊士奇 楊榮 楊溥

楊士奇

原文楊士奇

楊士奇は名を寓といい、字あざなをもって行われる。泰和の人である。早く孤となり、母に従って羅氏に嫁ぎ、後に復宗した。甚だ貧しかった。力学し、徒を授けて自ら給した。多く湖・湘の間を遊び、江夏に館する事最も久しかった。建文の初め、諸儒を集めて『太祖実録』を修め、士奇は既に推薦により教授に徴用され当行しようとしたが、王叔英がまた史才を以て推薦した。遂に召されて翰林に入り、編纂官を充てた。尋いで吏部に命じて史館の諸儒を考第せしめた。尚書張紞が士奇の策を得て言う、「これは経生の言ではない」と。奏して第一とした。呉王府審理副に授け、仍って館職に供した。成祖即位し、編修に改めた。後に、簡抜されて内閣に入り、機務を典した。数ヶ月にして侍講に進んだ。

原文楊士奇,名寓,以字行,泰和人。早孤,隨母適羅氏,已而復宗。貧甚。力學,授徒自給。多游湖、湘間,館江夏最久。建文初,集諸儒修《太祖實錄》,士奇已用薦徵授教授當行,王叔英復以史才薦。遂召入翰林,充編纂官。尋命吏部考第史館諸儒。尚書張紞得士奇策,曰:「此非經生言也。」奏第一。授吳王府審理副,仍供館職。成祖即位,改編修。已,簡入內閣,典機務。數月進侍講。

永楽二年に宮僚を選び、士奇を以て左中允とした。五年に左諭徳に進んだ。士奇は職を奉じて甚だ謹み、私居では公事を言わず、最も親厚な者であっても聞くことができなかった。帝の前では、挙止恭慎にして、善く応対し、事を言えば輒ち中った。人の小過有れば、嘗てこれを揜覆した。広東布政使徐奇が嶺南の土産を載せて廷臣に饋ったが、或る者がその目録を得て進上した。帝が閲して士奇の名無きを見て、召して問うた。対えて言う、「奇が広に赴く時、群臣詩文を作って贈行したが、臣は丁度病みて預からず、故を以て独り及ばなかった。今受けているか否かは未だ知らず、且つ物は微かで、当に他の意は無いでしょう」と。帝は遽かに籍を毀つことを命じた。

原文永樂二年選宮僚,以士奇為左中允。五年進左諭德。士奇奉職甚謹,私居不言公事,雖至親厚不得聞。在帝前,舉止恭慎,善應對,言事輒中。人有小過,嘗為揜覆之。廣東布政使徐奇載嶺南土物饋廷臣,或得其目籍以進。帝閱無士奇名,召問。對曰:「奇赴廣時,群臣作詩文贈行,臣適病弗預,以故獨不及。今受否未可知,且物微,當無他意。」帝遽命毀籍。

六年、帝北巡し、命じて蹇義・黄淮と共に留まって太子を輔けしめた。太子は文辞を喜び、賛善王汝玉が詩法を以て進めた。士奇は言う、「殿下は当に『六経』に留意し、暇あれば則ち両漢の詔令を観るべきです。詩は小技にて、為すに足りません」と。太子は善しと称した。

原文六年,帝北巡,命與蹇義、黃淮留輔太子。太子喜文辭,贊善王汝玉以詩法進。士奇曰:「殿下當留意《六經》,暇則觀兩漢詔令。詩小技,不足為也。」太子稱善。

初め、帝が兵を起こした時、漢王は数たび力戦して功有り。帝は事成れば太子と為すことを許した。既に立たれずして、怨望した。帝はまた趙王の年少を憐れみ、寵異した。ここより両王合して太子を間し、帝は頗る心動いた。九年に南京に還り、士奇を召して監国の状を問うた。士奇は孝敬を以て対え、且つ言う、「殿下は天資高く、即ち過有れば必ず知り、知れば必ず改め、心を存して人を愛し、決して陛下の託に負かず」と。帝は悦んだ。十一年の正旦、日食有り。礼部尚書呂震は朝賀を罷めざることを請うた。侍郎儀智は不可を堅持した。士奇もまた宋仁宗の事を引きて力言した。遂に賀を罷めた。明年、帝北征す。士奇は仍って太子を輔けて居守した。漢王は太子を譖する事益々急であった。帝還り、迎駕緩やかなりと以て、東宮官黄淮等を尽く徴して獄に下した。士奇は後至し、これを宥した。召して太子の事を問うた。士奇は頓首して言う、「太子の孝敬は初めの如し。凡そ稽遅した所は、皆臣等の罪なり」と。帝の意解けた。行在の諸臣交章して士奇を劾し、独り宥すは当たらずとし、遂に錦衣衛の獄に下し、尋いで釈した。

原文初,帝起兵時,漢王數力戰有功。帝許以事成立為太子。既而不得立,怨望。帝又憐趙王年少,寵異之。由是兩王合而間太子,帝頗心動。九年還南京,召士奇問監國狀。士奇以孝敬對,且曰:「殿下天資高,即有過必知,知必改,存心愛人,決不負陛下託。」帝悅。十一年正旦,日食。禮部尚書呂震請勿罷朝賀。侍郎儀智持不可。士奇亦引宋仁宗事力言之。遂罷賀。明年,帝北征。士奇仍輔太子居守。漢王譖太子益急。帝還,以迎駕緩,盡徵東宮官黃淮等下獄。士奇後至,宥之。召問太子事。士奇頓首言:「太子孝敬如初。凡所稽遲,皆臣等罪。」帝意解。行在諸臣交章劾士奇不當獨宥,遂下錦衣衛獄,尋釋之。

十四年、帝京師に還り、微かに漢王の嫡を奪う謀及び諸の不軌の状を聞き、以て蹇義に問うた。義は対えず、乃ち士奇に問うた。対えて言う、「臣と義は俱に東宮に侍り、外人敢えて臣等二人に漢王の事を言う者無し。然れども漢王は両たび籓に就くことを遣わされ、皆肯て行かず。今陛下都を徙うるを知り、輒ち留守して南京を請う。惟だ陛下其の意を熟察せられよ」と。帝は黙然とし、起って還宮した。数日居て、帝は漢王の事を尽く得、両護衛を削り、之を楽安に処した。明年、士奇を翰林学士に進め、故官を兼ねしめた。十九年に左春坊大学士に改め、仍って学士を兼ねた。明年、復た輔導に闕有りと坐し、錦衣衛の獄に下し、旬日にして釈した。

原文十四年,帝還京師,微聞漢王奪嫡謀及諸不軌狀,以問蹇義。義不對,乃問士奇。對曰:「臣與義俱侍東宮,外人無敢為臣兩人言漢王事者。然漢王兩遣就籓,皆不肯行。今知陛下將徙都,輒請留守南京。惟陛下熟察其意。」帝默然,起還宮。居數日,帝盡得漢王事,削兩護衛,處之樂安。明年進士奇翰林學士,兼故官。十九年改左春坊大學士,仍兼學士。明年復坐輔導有闕,下錦衣衛獄,旬日而釋。

仁宗即位し、礼部侍郎兼華蓋殿大学士に擢げた。帝便殿に御し、蹇義・夏原吉が事を奏して未だ退かず。帝士奇を見て、二人に謂う、「新華蓋学士来る、必ず讜言有らん、試みに共にこれを聴かん」と。士奇入りて言う、「恩詔歳供を減ずること甫に二日下る、惜薪司旨を伝えて棗八十万斤を徴す、前詔に戾る」と。帝直ちに其の半を減ずることを命じた。服制二十七日期満し、呂震は即ち吉を請うた。士奇は不可とした。震は厲声して之を叱した。蹇義は兼ねて二説を取りて進めた。明日、帝は素冠麻衣絰して朝を視た。廷臣は惟だ士奇及び英国公張輔の服之の如し。朝罷りて、帝は左右に謂う、「梓宮殯に在り、服を易うるは豈に臣子の忍んで言う所ならん、士奇の執るは是なり」と。少保に進め、同官の楊栄・金幼孜と並び「繩愆糾繆」の銀章を賜わり、密封して事を言うを得た。尋いで少傅に進んだ。

原文仁宗即位,擢禮部侍郎兼華蓋殿大學士。帝御便殿,蹇義、夏原吉奏事未退。帝望見士奇,謂二人曰:「新華蓋學士來,必有讜言,試共聽之。」士奇入言:「恩詔減歲供甫下二日,惜薪司傳旨徵棗八十萬斤,與前詔戾。」帝立命減其半。服制二十七日期滿,呂震請即吉。士奇不可。震厲聲叱之。蹇義兼取二說進。明日,帝素冠麻衣絰而視朝。廷臣惟士奇及英國公張輔服如之。朝罷,帝謂左右曰:「梓宮在殯,易服豈臣子所忍言,士奇執是也。」進少保,與同官楊榮、金幼孜並賜「繩愆糾繆」銀章,得密封言事。尋進少傅。

時に籓司守令朝に来たり、尚書李慶は軍伍の余馬を発して有司に給し、歳に其の駒を課することを建議した。士奇は言う、「朝廷賢を選び官を授くるに、乃ち牧馬せしむ、是れ畜を貴びて士を賤しむなり、何を以て天下後世に示さん」と。帝は中旨を許して之を罷め、已にして寂然たり。士奇復た力言す。又報いず。有る頃、帝思善門に御し、士奇を召して謂う、「朕向者は豈に真に之を忘れんや。呂震・李慶の輩は皆卿を喜ばずと聞く、朕卿の孤立を念い、恐らくは傷つけられんとし、卿の言に因りて罷むるを欲せざりしのみ、今辞有り」と。手ずから陝西按察使陳智の養馬不便を言う疏を出し、勅を草して之を行わしめた。士奇は頓首して謝した。群臣正旦の儀を習い、呂震は楽を用いることを請うた。士奇は黄淮と疏を以て止めた。未だ報いず。士奇復た奏し、庭中に待つこと夜漏十刻に至る。報いて可とす。越日、帝召して謂う、「震は毎事朕を誤る、卿等の言に非ざれば、悔ゆるも及ばざらん」と。兵部尚書を兼ねることを命じ、並びに三祿を食らわしむ。士奇は尚書の祿を辞した。

原文時籓司守令來朝,尚書李慶建議發軍伍餘馬給有司,歲課其駒。士奇曰:「朝廷選賢授官,乃使牧馬,是貴畜而賤士也,何以示天下後世。」帝許中旨罷之,已而寂然。士奇復力言。又不報。有頃,帝御思善門,召士奇謂曰:「朕向者豈真忘之。聞呂震、李慶輩皆不喜卿,朕念卿孤立,恐為所傷,不欲因卿言罷耳,今有辭矣。」手出陝西按察使陳智言養馬不便疏,使草敕行之。士奇頓首謝。群臣習朝正旦儀,呂震請用樂,士奇與黃淮疏止。未報。士奇復奏,待庭中至夜漏十刻。報可。越日,帝召謂曰:「震每事誤朕,非卿等言,悔無及。」命兼兵部尚書,並食三祿。士奇辭尚書祿。

帝監国の時、御史舒仲成を憾み、ここに至りて之を罪せんと欲した。士奇は言う、「陛下即位し、詔して向忤旨する者を皆宥すを得しむ。若し仲成を治めば、則ち詔書信ならず、懼るる者衆し。漢景帝の衛綰を待つが如く、亦た可ならずや」と。帝は即ち罷めて治めず。或いは大理卿虞謙の事を言うに密ならずと云う者有り。帝怒り、一官を降した。士奇は其の罔を為に白し、復秩を得しめた。又大理少卿弋謙は事を言うことを以て罪を得た。士奇は言う、「謙は詔に応じて言を陳う。若し之に罪を加うれば、則ち群臣ここより舌を結ばん」と。帝は直ちに謙を副都御史に進め、而して勅を下して過を引いた。

原文帝監國時,憾御史舒仲成,至是欲罪之。士奇曰:「陛下即位,詔向忤旨者皆得宥。若治仲成,則詔書不信,懼者眾矣。如漢景帝之待衛綰,不亦可乎?」帝即罷弗治。或有言大理卿虞謙言事不密。帝怒,降一官。士奇為白其罔,得復秩。又大理少卿弋謙以言事得罪。士奇曰:「謙應詔陳言。若加之罪,則群臣自此結舌矣。」帝立進謙副都御史,而下敕引過。

時に上書して太平を頌する者有り、帝は以て諸大臣に示し、皆以て然りと為す。士奇独り曰く、「陛下は雖も天下に澤被うと雖も、然れども流徙未だ帰らず、瘡痍未だ復せず、民尚だ食に艱し。更に数年休息し、庶幾くは太平期す可し」と。帝曰く、「然り」と。因りて顧みて蹇義等に謂う、「朕卿等を待つに至誠を以てし、匡弼を望む。惟だ士奇は曾て五たび章を上す、卿等は皆一言無し。豈に果たして朝に闕政無く、天下太平なるや」と。諸臣慚謝した。是の年の四月、帝は士奇に璽書を賜いて曰く、「往者朕監国の命を膺け、卿左右に侍り、同心合徳し、国に徇いて身を忘れ、屡たび艱虞を歴て、曾て志を易えず。及び朕位を嗣ぐ以来、嘉謨入告し、予を治に期し、正固不二、簡に朕心に在り。茲に『楊貞一印』を創製して卿に賜う、尚お克く交修し、以て明良の誉を成せ」と。尋いで『太宗実録』を修め、黄淮・金幼孜・楊溥と俱に総裁官を充てた。未だ幾くもせず、帝豫せず、士奇と蹇義・黄淮・楊栄を召して思善門に至らしめ、士奇に命じて勅を書かしめ南京に於て太子を召した。

原文時有上書頌太平者,帝以示諸大臣,皆以為然。士奇獨曰:「陛下雖澤被天下,然流徙尚未歸,瘡痍尚未復,民尚艱食。更休息數年,庶幾太平可期。」帝曰:「然。」因顧蹇義等曰:「朕待御等以至誠,望匡弼。惟士奇曾五上章,卿等皆無一言。豈果朝無闕政,天下太平耶?」諸臣慚謝。是年四月,帝賜士奇璽書曰:「往者朕膺監國之命,卿侍左右,同心合德,徇國忘身,屢歷艱虞,曾不易志。及朕嗣位以來,嘉謨入告,期予於治,正固不二,簡在朕心。茲創製『楊貞一印』賜卿,尚克交修,以成明良之譽。」尋修《太宗實錄》,與黃淮、金幼孜、楊溥俱充總裁官。未幾,帝不豫,召士奇與蹇義、黃淮、楊榮至思善門,命士奇書敕召太子於南京。

宣宗が即位し、『仁宗実録』を編修するにあたり、引き続き総裁を務めた。宣徳元年、漢王朱高煦が反乱を起こした。帝は親征してこれを平定した。軍が帰還する途中、献県の単家橋に駐屯したとき、侍郎の陳山が迎えに出て謁見し、漢王と趙王は実は同心であると述べ、勢いに乗じて彰徳を襲撃し趙王を捕らえるよう請うた。楊栄は決行を強く支持した。楊士奇は言った、「事には実証がなければならない。天地鬼神を欺くことができようか」。楊栄は声を荒げて言った、「お前は大計を妨げようとするのか。今、逆党は趙王も実際に謀議ぼうぎに加わったと言っている。どうして証拠がないと言えよう」。楊士奇は言った、「太宗皇帝には三人の御子がおられたが、今上には叔父がお二人しかいらっしゃらない。罪ある者は赦すことはできないが、罪なき者は厚く遇すべきである。疑わしければこれを防ぎ、憂いなきようにするだけでよい。どうして急いで兵を加え、皇祖の在天の御心を傷つけようとするのか」。この時は楊溥のみが楊士奇に同意した。諫言に入ろうとしたが、楊栄が先に入り、楊士奇が続いた。門番は入れなかった。まもなく蹇義と夏原吉が召し入れられた。二人は楊士奇の言葉を帝に申し上げた。帝には初め趙王を罪に問う意図はなく、出兵の件は取りやめとなった。都に戻ると、帝は楊士奇の言葉を思い出し、彼に言った、「今、議する者たちは多く趙王のことを言っているが、どうしたものか」。楊士奇は言った、「趙王は最もご親族であられます。陛下は彼を保全なさるべきで、群臣の言葉に惑わされてはなりません」。帝は言った、「群臣の上奏文を封じて趙王に見せ、自ら処置させるのはどうか」。楊士奇は言った、「結構です。さらに璽書を賜われば幸甚です」。そこで使者を発して書を趙王に届けさせた。趙王は書を受け取って大いに喜び、泣いて言った、「私は生き延びられる」。すぐに上表して謝意を表し、さらに護衛を献上したので、言い立てる者たちはようやくやんだ。帝は趙王をますます親しく遇し、陳山を疎んじるようになった。楊士奇に言った、「趙王が全うできたのは、卿の力である」。金幣を賜った。

原文宣宗即位,修《仁宗實錄》,仍充總裁。宣德元年,漢王高煦反。帝親征,平之。師還,次獻縣之單家橋,侍郎陳山迎謁,言漢、趙二王實同心,請乘勢襲彰德執趙王。榮力贊決。士奇曰:「事當有實,天地鬼神可欺乎?」榮厲聲曰:「汝欲撓大計耶!今逆黨言趙實與謀,何謂無辭?」士奇曰:「太宗皇帝三子,今上惟兩叔父。有罪者不可赦,其無罪者宜厚待之,疑則防之,使無虞而已。何遽加兵,傷皇祖在天意乎?」時惟楊溥與士奇合。將入諫,榮先入,士奇繼之,閽者不納。尋召義、原吉入。二人以士奇言白帝。帝初無罪趙意,移兵事得寢。比還京,帝思士奇言,謂曰:「今議者多言趙王事,奈何?」士奇曰:「趙最親,陛下當保全之,毋惑群言。」帝曰:「吾欲封群臣章示王,令自處何如?」士奇曰:「善,更得一璽書幸甚。」於是發使奉書至趙。趙王得書大喜。泣曰:「吾生矣。」即上表謝,且獻護衛,言者始息。帝待趙王日益親而薄陳山。謂士奇曰:「趙王所以全,卿力也。」賜金幣。

この時、交阯がたびたび反乱を起こした。たびたび大軍を発して征討したが、皆敗没した。交阯の黎利が人を遣わし、偽って陳氏の後裔を立てるよう請うた。帝もまた兵役に倦み、これを許そうとした。英国公張輔、尚書蹇義以下は皆、これを許すのは名分がなく、ただ天下に弱みを見せるだけだと述べた。帝は楊士奇と楊栄を召して相談した。二人は力説して言った、「陛下が民命を憐れんで荒遠の地を安んじられるのは、名分がないことではありません。漢が珠崖を放棄したことは、前史が美談としており、弱みを見せたことにはなりません。許されるのがよろしいでしょう」。まもなく交阯への使者を選ぶよう命じられた。蹇義は伏伯安の弁舌を推薦した。楊士奇は言った、「言葉が忠信でなければ、蛮貊の国であっても行うことはできません。伯安は小人であり、行かせれば国辱となるでしょう」。帝はこれを正しいと認め、別の使者を派遣した。こうして交阯を放棄し、兵を罷め、毎年軍費の巨額を節減した。

原文時交阯數叛。屢發大軍征討,皆敗沒。交阯黎利遣人偽請立陳氏後。帝亦厭兵,欲許之。英國公張輔、尚書蹇義以下,皆言與之無名,徒示弱天下。帝召士奇、榮謀。二人力言:「陛下恤民命以綏荒服,不為無名。漢棄珠厓,前史以為美談,不為示弱,許之便。」尋命擇使交阯者。蹇義薦伏伯安口辨。士奇曰:「言不忠信,雖蠻貊之邦不可行。伯安小人,往且辱國。」帝是之,別遣使。於是棄交阯,罷兵,歲省軍興巨萬。

五年の春、帝は皇太后に供奉して陵墓に参拝し、英国公張輔、尚書蹇義および楊士奇、楊栄、金幼孜、楊溥を召し、行殿で太后に朝見させた。太后は彼らを慰労した。帝はまた楊士奇に言った、「太后が朕に言われるには、先帝が東宮におられた時、卿のみが憚ることなく逆らい、先帝はそれに従って事を誤らなかった。また朕に直言を受けるべきだと教えられた」。楊士奇は答えて言った、「これは皇太后の盛徳のお言葉です。願わくは陛下これを心に留められますように」。まもなく鴻臚寺に勅を下した。楊士奇は老いて病があり、朝参が遅れることがあっても、奏上して論じないようにと。帝はかつて微行し、夜に楊士奇の邸宅に行幸した。楊士奇は慌てて出迎え、頓首して言った、「陛下はどうして社稷宗廟の御身を軽んじられるのですか」。帝は言った、「朕は卿と一言話したくて、来たのだ」。数日後、二人の盗賊を捕らえ、異なる謀議があることが分かった。帝は楊士奇を召し、その経緯を告げた。そして言った、「今にして卿が朕を愛してくれていることが分かった」。帝は四方でたびたび水害旱魃があったため、楊士奇を召して詔を下し寛大な措置をとることを議し、災害による損傷分の租税および官馬の不足分を免除させた。楊士奇はこれに因んで、併せて滞納の賦税と薪草代を免除し、官田の額を減らし、冤罪や滞った事件を処理し、工役を淘汰して、徳意を広めるよう請うた。民は大いに喜んだ。二年余り経って、帝は楊士奇に言った、「民を恤う詔が下されて久しいが、今さらに恤うべきことはあるか」。楊士奇は言った、「以前の詔で官田の租を減らしましたが、戸部は以前通り徴収しております」。帝は不満げに言った、「今すぐにこれを実行せよ。廃止して妨げる者は法に照らして論ぜよ」。楊士奇はさらに逃亡民を撫で、汚職官吏を監察し、文学・武勇の士を推挙し、極刑に処せられた者の子孫も皆官途に就けるよう請うた。また朝廷の臣で三品以上および二司の官に、各々知る者を推挙させ、方面や郡守の選任に備えるよう請うた。皆許可された。この時、帝は精励して政治に励み、楊士奇らは心を合わせて補佐したので、海内は治平と称された。帝はそこで古の君臣が予め遊ぶ故事に倣い、毎年のはじめに百官に十日間の休暇を賜った。車駕も時折西苑の万歳山に行幸し、諸学士は皆従った。詩を賦し唱和し、ゆったりと民間の疾苦を問うた。論奏することがあれば、帝は皆虚心に聞き入れた。

原文五年春,帝奉皇太后謁陵,召英國公張輔、尚書蹇義及士奇、榮、幼孜、溥,朝太后於行殿。太后慰勞之。帝又語士奇曰:「太后為朕言,先帝在青宮,惟卿不憚觸忤,先帝能從,以不敗事。又誨朕當受直言。」士奇對曰:「此皇太后盛德之言,願陛下念之。」尋敕鴻臚寺。士奇老有疾,趨朝或後,毋論奏。帝嘗微行,夜幸士奇宅。士奇倉皇出迎,頓首曰:「陛下奈何以社稷宗廟之身自輕?」帝曰:「朕欲與卿一言,故來耳。」後數日,獲二盜,有異謀。帝召士奇,告之故。且曰:「今而後知卿之愛朕也。」帝以四方屢水旱,召士奇議下詔寬恤,免災傷租稅及官馬虧額者。士奇因請並蠲逋賦薪芻錢,減官田額,理冤滯,汰工役,以廣德意。民大悅。逾二年,帝謂士奇曰:「恤民詔下已久,今更有可恤者乎?」士奇曰:「前詔減官田租,戶部征如故。」帝怫然曰:「今首行之,廢格者論如法。」士奇復請撫逃民,察墨吏,舉文學、武勇之士,令極刑家子孫皆得仕進。又請廷臣三品以上及二司官,各舉所知,備方面郡守選。皆報可。當是時,帝勵精圖治,士奇等同心輔佐,海內號為治平。帝乃仿古君臣豫游事,每歲首,賜百官旬休。車駕亦時幸西苑萬歲山,諸學士皆從。賦詩賡和,從容問民間疾苦。有所論奏,帝皆虛懷聽納。

帝が即位した当初、内閣の臣は七人であった。陳山と張瑛は東宮時代の旧恩によって入閣したが、任に堪えず、他の官に出された。黄淮は病気のため致仕した。金幼孜が卒去した。閣中には楊士奇、楊栄、楊溥の三人のみとなった。楊栄は度量が広く果断で、事に遇えば敢然と行動した。たびたび成祖に従って北征し、辺境の将の賢否、要害の険易遠近、敵情の順逆を知ることができた。しかしかなり贈収賄に通じており、辺将は歳時に良馬を贈った。帝はかなりこれを知っており、楊士奇に問うた。楊士奇は力説して言った、「楊栄は辺務に通暁しており、臣らは及びません。小さな過失を気にされるべきではありません」。帝は笑って言った、「楊栄はかつて卿と夏原吉の短所を言ったことがある。卿は彼のために地歩を築こうとするのか」。楊士奇は言った、「願わくは陛下が臣を曲げてお許しになるように、楊栄をもお許しください」。帝の心はようやく解けた。その後、その言葉が少しずつ聞こえるようになり、楊栄はこれによって楊士奇を恥じ、互いに気心が合って甚だ歓んだ。帝もますます彼らを親しく厚遇し、前後して賜った珍果、牲肉と酒、金糸の衣、幣帛、書器は数えきれなかった。

原文帝之初即位也,內閣臣七人。陳山、張瑛以東宮舊恩入,不稱,出為他官。黃淮以疾致仕。金幼孜卒。閣中惟士奇、榮、溥三人。榮疏闓果毅,遇事敢為。數從成祖北征,能知邊將賢否、厄塞險易遠近、敵情順逆。然頗通饋遺,邊將歲時致良馬。帝頗知之,以問士奇。士奇力言:「榮曉暢邊務,臣等不及,不宜以小眚介意。」帝笑曰:「榮嘗短卿及原吉,卿乃為之地耶?」士奇曰:「願陛下以曲容臣者容榮。」帝意乃解。其後,語稍稍聞,榮以此愧士奇,相得甚歡。帝亦益親厚之,先後所賜珍果、牢醴、金綺衣、幣、書器無算。

宣宗が崩御し、英宗が即位した。年は九歳であった。軍国の大政は太皇太后に報告して裁可を仰いだ。太后は心を開いて楊士奇、楊栄、楊溥の三人を信任し、事があるごとに宦官の使者を閣に遣わして諮問議させ、それから裁決した。三人もまた自ら信じ、侃々として己の意志を行った。楊士奇はまず士卒を訓練し、辺防を厳重にし、南京に参賛機務大臣を設置し、文武の官を分遣して江西・湖広・河南・山東を鎮撫させ、偵察を行う校尉を罷めるよう請うた。また順次租税を免除し、刑獄を慎重にし、百官を厳しく査察するよう請うた。皆許可されて実行された。正統の初め、朝政が清明であったのは、楊士奇らの力によるものであった。三年、『宣宗実録』が完成し、少師に進んだ。四年に致仕を願い出たが、許されなかった。勅を下して墓参りに帰ることを許した。間もなく、戻った。

原文宣宗崩,英宗即位,方九齡。軍國大政關白太皇太后。太后推心任士奇、榮、溥三人,有事遣中使詣閣諮議,然後裁決。三人者亦自信,侃侃行意。士奇首請練士卒,嚴邊防,設南京參贊機務大臣,分遣文武鎮撫江西、湖廣、河南、山東,罷偵事校尉。又請以次蠲租稅,慎刑獄,嚴核百司。皆允行。正統之初,朝政清明,士奇等之力也。三年,《宣宗實錄》成,進少師。四年乞致仕。不允。敕歸省墓。未幾,還。

この時、宦官の王振が帝の寵愛を受け、次第に外朝の政事に関与するようになり、帝を導いて厳しく臣下を統御させたため、大臣はしばしば獄に下された。靖江王朱佐敬がひそかに楊栄に金を贈った。楊栄は先に墓参りに出ており、帰ってきてもこれを知らなかった。王振はこれによって楊栄を失脚させようとしたが、楊士奇が力説してこれを解き、事なきを得た。楊栄はまもなく卒去し、楊士奇と楊溥はますます孤立した。その翌年、ついに大軍を興して麓川を征討し、国庫は消耗し、兵士や馬匹で死亡した者は数万に及んだ。さらにその翌年、太皇太后が崩御すると、王振の勢力はますます盛んになり、大いに威福を振るい、百官が少しでも逆らうと、すぐに捕らえて拘禁した。廷臣は皆恐れおののき、楊士奇もまたこれを制することができなかった。

原文是時中官王振有寵於帝,漸預外庭事,導帝以嚴御下,大臣往往下獄。靖江王佐敬私饋榮金。榮先省墓,歸不之知。振欲藉以傾榮,士奇力解之,得已。榮尋卒,士奇、溥益孤。其明年遂大興師征麓川,帑藏耗費,士馬物故者數萬。又明年,太皇太后崩,振勢益盛,大作威福,百官小有牴牾,輒執而系之。廷臣人人惴恐,士奇亦弗能制也。

楊士奇は既に老齢で、子の楊稷が傲慢で強情で、かつて侵害して暴行し人を殺した。言官が相次いで上奏して楊稷を弾劾した。朝廷の議論ではすぐに法を加えることはせず、その上奏文を封じて楊士奇に見せた。さらに楊稷の横暴な行い数十件を告発する者がおり、ついに獄に下された。楊士奇は老病のため休暇を取っていた。天子は楊士奇の心情を傷つけることを恐れ、詔を下して慰労し励ました。楊士奇は感激して泣き、憂いて起き上がれなかった。九年三月に卒去した。八十歳であった。太師を追贈され、諡は文貞といった。役所はついに楊稷を処刑した。

原文士奇既耄,子稷傲很,嘗侵暴殺人。言官交章劾稷。朝議不即加法,封其狀示士奇。復有人發稷橫虐數十事,遂下之理。士奇以老疾在告。天子恐傷士奇意,降詔慰勉。士奇感泣,憂不能起。九年三月卒,年八十。贈太師,諡文貞。有司乃論殺稷。

初め、正統初め、士奇は言う、瓦剌が次第に強くなり、やがて辺境の患いとなろう、しかるに辺軍は馬を欠き、恐らく防げないであろうと。近くの太僕寺に赴いて領することを請い、西番の貢馬もまた悉くこれに給することを求めた。士奇が没して間もなく、也先が果たして侵入し、土木の難があり、識者はその言葉を思った。また大いに人を知ることに長け、寒士を推挙することを好み、推薦して達した者には初めて面識のない者もあった。そして于謙・周忱・況鍾の類は、皆士奇の推薦を用いられ、官に居ること一二十年に至り、廉潔・才能天下に冠たり、世の名臣となったという。

原文初,正統初,士奇言瓦剌漸強,將為邊患,而邊軍缺馬,恐不能御。請於附近太僕寺關領,西番貢馬亦悉給之。士奇歿未幾,也先果入寇,有土木之難,識者思其言。又雅善知人,好推轂寒士,所薦達有初未識面者。而于謙、周忱、況鍾之屬,皆用士奇薦,居官至一二十年,廉能冠天下,為世名臣云。

次子の䆃(または「䆃」と作る)、蔭により尚宝丞を補う。成化年中、太常少卿に進み、司事を掌る。

原文次子⿰禾道,或作「䆃」。,以廕補尚寶丞。成化中,進太常少卿,掌司事。

楊榮

原文楊榮

楊榮、字は勉仁、建安の人、初名は子栄。建文二年の進士。編修を授かる。成祖が初めて京に入る時、栄は馬首に迎え謁して言う、「殿下は先に陵を謁するか、先に即位するか」と。成祖は急ぎ駕を促して陵を謁した。ここより遂に知遇を受く。即位した後、選んで文淵閣に入り、名を栄と改めさせられる。同値七人、栄は最も年少で、機敏であった。ある日の晩、寧夏より包囲されたと報ず。七人を召すと、皆既に出ており、独り栄が在り、帝は奏を以て示す。栄曰く、「寧夏の城は堅く、人皆戦いに習熟し、奏が上がってより既に十余日、包囲は解けたであろう」と。夜半、果たして包囲解除の奏あり。帝は栄に謂う、「何とよく見通したことか」と。江西に盗賊起こり、使いを遣わして撫諭させ、都督韓観に兵を率いてその後を継がしむ。賊が帰順したとの奏が至り、帝は勅を賜って韓観を労わろうとする。栄曰く、「奏を発した時を計れば、韓観は未だ至らず、功を論ずるを得ず」と。帝はますますこれを重んじ、再び遷って侍講に至る。太子が立てられ、右諭徳に進み、仍って前職を兼ね、直中の諸臣と共に二品の服を賜わる。諸司の事宜を評議し、旨に称し、また衣幣を賜わる。帝は威厳あり、諸大臣と事を議して未だ決せず、或いは怒りを発するに至る。栄が至れば、輒ち顔を和らげ、事もまた遂に決する。

原文楊榮,字勉仁,建安人,初名子榮。建文二年進士。授編修。成祖初入京,榮迎謁馬首曰:「殿下先謁陵乎,先即位乎?」成祖遽趣駕謁陵。自是遂受知。既即位,簡入文淵閣,為更名榮。同值七人,榮最少,警敏。一日晚,寧夏報被圍。召七人,皆已出,獨榮在,帝示以奏。榮曰:「寧夏城堅,人皆習戰,奏上已十餘日,圍解矣。」夜半,果奏圍解。帝謂榮曰:「何料之審也!」江西盜起,遣使撫諭,而令都督韓觀將兵繼其後。賊就撫奏至,帝欲賜敕勞觀。榮曰:「計發奏時,觀尚未至,不得論功。」帝益重之,再遷至侍講。太子立,進右諭德,仍兼前職,與在直諸臣同賜二品服。評議諸司事宜,稱旨,復賜衣幣。帝威嚴,與諸大臣議事未決,或至發怒。榮至,輒為霽顏,事亦遂決。

五年、甘肅に往きて軍務を経画することを命じられ、過ぐる所に山川の形勢を覧し、軍民を察し、城堡を閲す。還りて武英殿に奏す。帝大いに悦び、盛暑に当たり、自ら瓜を割きてこれを啖わしむ。尋いで右庶子に進み、職を兼ねること前に如し。明年、父の喪により伝を給して帰る。葬り終えてより、起復して視事す。又明年、母の喪により帰ることを乞う。帝は北行の期迫るを以て許さず、胡広・金幼孜と共に扈従することを命ず。甘肅総兵官何福言う、脱脱不花等降ることを請い、亦集乃に命を需むと。栄を甘肅に往かしめ何福と共に降を受けしめ、節を持ちて即ち軍中に福を寧遠侯に封ず。因って寧夏に至り、寧陽侯陳懋と辺務を規画す。還りて便宜十事を陳ぶ。帝嘉納す。

原文五年,命往甘肅經畫軍務,所過覽山川形勢,察軍民,閱城堡。還奏武英殿。帝大悅,值盛暑,親剖瓜啖之。尋進右庶子,兼職如故。明年以父喪給傳歸。既葬,起復視事。又明年,母喪乞歸。帝以北行期迫不許,命同胡廣、金幼孜扈從。甘肅總兵官何福言脫脫不花等請降,需命於亦集乃。命榮往甘肅偕福受降,持節即軍中封福寧遠侯。因至寧夏,與寧陽侯陳懋規畫邊務。還陳便宜十事。帝嘉納之。

八年、塞に出るに従い、臚朐河に次す。勇士三百人を選び衛と為し、諸将に隷せず、栄にこれを領せしむ。師旋するに、糧秣続かず。栄は供御の余りを尽くして軍に給し、軍中に余りある者相い貸すことを得しめ、塞に入れば、官倍いて償うことを請う。軍これに頼りて済う。明年、喪に奔ることを乞い、中官に命じ護行せしむ。還りて閩中の民情及び歳の豊凶を詢う、栄具に以て対す。尋いで諸皇孫に侍り文華殿に読書することを命ず。

原文八年從出塞,次臚朐河。選勇士三百人為衛,不以隸諸將,令榮領之。師旋,餉不繼。榮請盡以供御之餘給軍,而令軍中有餘者得相貸,入塞,官為倍償。軍賴以濟。明年乞奔喪,命中官護行。還詢閩中民情及歲豐歉,榮具以對。尋命侍諸皇孫讀書文華殿。

十年、甘肅守臣宋琥言う、叛寇の老的罕、赤斤蒙古に逃れ、且つ辺患と為らんとす。乃ちまた栄を陝西に遣わし、豊城侯李彬と会して進兵の方略を議せしむ。栄還りて奏し言う、「隆冬は用兵の時ならず、且つ罪ある者数人に過ぎず、兵を出すべからず」と。帝その言に従い、叛者もまた降る。明年また広・幼孜と共に北巡に従う。又明年、瓦剌を征し、太孫侍行す。帝は栄に命じ間を以て経史を陳説せしめ、尚宝事を兼ねて領せしむ。凡そ詔を宣し令を出すこと、及び旗志符験は、必ず栄の奏を得て乃ち発す。帝嘗て晩に行幄に坐し、栄を召して兵食を計る。栄対して曰く、「将を選び屯田し、訓練方あり、耕耨時に当たれば、即ち兵食足る」と。十四年、金幼孜と共に翰林学士に進み、仍って庶子を兼ね、京師に還るに従う。明年また北征に従う。

原文十年,甘肅守臣宋琥言,叛寇老的罕逃赤斤蒙古,且為邊患。乃復遣榮至陝西,會豐城侯李彬議進兵方略。榮還奏言:「隆冬非用兵時,且有罪不過數人,兵未可出。」帝從其言,叛者亦降。明年復與廣、幼孜從北巡。又明年征瓦剌,太孫侍行。帝命榮以間陳說經史,兼領尚寶事。凡宣詔出令,及旗志符驗,必得榮奏乃發。帝嘗晚坐行幄,召榮計兵食。榮對曰:「擇將屯田,訓練有方,耕耨有時,即兵食足矣。」十四年與金幼孜俱進翰林學士,仍兼庶子,從還京師。明年復從北征。

十六年、胡広卒す、栄に命じ翰林院事を掌らしめ、益々親任を見る。諸大臣多く栄を忌み、これを疎まんと欲し、共に挙げて祭酒と為す。帝曰く、「吾固にその可なるを知る、第に栄に代わる者を求めよ」と。諸大臣乃ち敢えて言わず。十八年、文淵閣大学士に進み、学士を兼ねること前に如し。明年、北京に都を定む。時に三殿災いに会い、栄は衛士を麾いて図籍制誥を出だし、東華門外に舁かしむ。帝これを褒む。栄と幼孜、便宜十事を陳ぶ。報じて可とす。

原文十六年,胡廣卒,命榮掌翰林院事,益見親任。諸大臣多忌榮,欲疏之,共舉為祭酒。帝曰:「吾固知其可,第求代榮者。」諸大臣乃不敢言。十八年進文淵閣大學士,兼學士如故。明年定都北京。會三殿災,榮麾衛士出圖籍制誥,舁東華門外。帝褒之。榮與幼孜陳便宜十事。報可。

二十年、また塞に出るに従い、軍事は悉く参決を令し、賚予優渥なり。師還り、将士を労い、四等に分かち宴を賜い、栄・幼孜皆前席に列し、上賞を受く。已にして、また詔を下して阿魯台を征す。或いは建文の時江西に集めた民兵を調発することを請う。帝、栄に問う。栄曰く、「陛下は民に復業を許して且つ二十年、一旦これを復征すれば、天下に信を示さず」と。これに従う。明年、塞に出るに従い、軍務は悉く栄に委ね、昼夜時に無く見ゆ。帝時に「楊学士」と称し、名を呼ばず。又明年、また北征に従う。当の時、帝凡そ五たび塞に出で、士卒飢凍し、饋運続かず、死亡十二三に及ぶ。大軍、答蘭納木児河に抵るも、敵を見ず。帝、群臣に当に復た進むべきかと問う、群臣唯唯す、惟だ栄・幼孜従容として班師すべしと言う。帝これを許す。

原文二十年,復從出塞,軍事悉令參決,賚予優渥。師還,勞將士,分四等賜宴,榮、幼孜皆列前席,受上賞。已,復下詔征阿魯台。或請調建文時江西所集民兵。帝問榮。榮曰:「陛下許民復業且二十年,一旦復征之,非示天下信。」從之。明年從出塞,軍務悉委榮,晝夜見無時。帝時稱「楊學士」,不名也。又明年復從北征。當是時,帝凡五齣塞,士卒飢凍,饋運不繼,死亡十二三。大軍抵答蘭納木兒河,不見敵。帝問群臣當復進否,群臣唯唯,惟榮、幼孜從容言宜班師。帝許之。

還りて榆木川に次す、帝崩ず。中官の馬雲等、措く所を知らず、密かに栄・幼孜と御幄に入り議す。二人議す:六師外に在り、京師を去ること尚遠し、秘して喪を発せず。礼を以て斂め、錫を熔かして椑と為し、輿中に載す。至る所朝夕膳を進むること常の儀の如く、益々軍令を厳にし、人測る莫し。或いは他事に因りて勅と為し、馳せて皇太子に報ぜんことを請う。二人曰く、「誰か敢えてかくの如くせん!先帝在すときは則ち勅と称し、賓天して勅と称すれば、詐りなり、罪小さからず」と。衆曰く、「然り」と。乃ち大行の月日及び遺命伝位の意を具し、太子に啓す。栄と少監海寿、先ず馳せて訃す。既に至り、太子は蹇義・楊士奇と命じ議せしむ、諸の行うべき所宜を。

原文還次榆木川,帝崩。中官馬雲等莫知所措,密與榮、幼孜入御幄議。二人議:六師在外,去京師尚遠,秘不發喪。以禮斂,熔錫為椑,載輿中。所至朝夕進膳如常儀,益嚴軍令,人莫測。或請因他事為敕,馳報皇太子。二人曰:「誰敢爾!先帝在則稱敕,賓天而稱敕,詐也,罪不小。」眾曰:「然。」乃具大行月日及遺命傳位意,啟太子。榮與少監海壽先馳訃。既至,太子命與蹇義、楊士奇議諸所宜行者。

仁宗即位し、太常卿に進み、余官前に如し。尋いで太子少傅・謹身殿大学士に進む。既にして言有り、栄が大行の時、行いし喪礼及び軍事を処分した状を。帝は勅を賜い褒労し、賚予甚だ厚し。工部尚書に進み、三祿を食む。時に士奇・淮皆尚書の禄を辞す、栄・幼孜もまた固く辞す。允さず。

原文仁宗即位,進太常卿,餘官如故。尋進太子少傅、謹身殿大學士。既而有言榮當大行時,所行喪禮及處分軍事狀。帝賜敕褒勞,賚予甚厚。進工部尚書,食三祿。時士奇、淮皆辭尚書祿,榮、幼孜亦固辭。不允。

宣徳元年、漢王高煦反す。帝、栄等を召して計を定む。栄首めて帝の親征を請い、曰く、「彼は陛下の新立、必ず自ら行わずと謂う。今出でて意表に出ず、天威を以てこれに臨めば、事成らざる無し」と。帝その計に従う。楽安に至り、高煦出でて降る。師還り、決策の功を以て、上賞を受け、銀章五を賜い、褒予甚だ至れり。

原文宣德元年,漢王高煦反。帝召榮等定計。榮首請帝親征,曰:「彼謂陛下新立,必不自行。今出不意,以天威臨之,事無不濟。」帝從其計。至樂安,高煦出降。師還,以決策功,受上賞,賜銀章五,褒予甚至。

三年、帝の辺境巡視に従い、遵化に至る。兀良哈将に辺を寇すと聞き、帝は扈行の諸文臣を大営に留め、独り栄に従うことを命ず。自ら軽騎を将いて喜峰口より出で、敵を破りて還る。五年、少傅に進み、大学士の禄を辞す。九年、また辺境巡視に従い、洗馬林に至りて還る。

原文三年從帝巡邊,至遵化。聞兀良哈將寇邊,帝留扈行諸文臣於大營,獨命榮從。自將輕騎出喜峰口,破敵而還。五年進少傅,辭大學士祿。九年復從巡邊,至洗馬林而還。

英宗即位し、委寄前に如し。正統三年、士奇と共に少師に進む。五年、帰り墓を展ぶることを乞い、中官に命じ護行せしむ。還りて武林駅に至りて卒す、年七十。太師を贈り、諡して文敏と曰い、世襲の都指揮使を授く。

原文英宗即位,委寄如故。正統三年,與士奇俱進少師。五年乞歸展墓,命中官護行。還至武林驛而卒,年七十。贈太師,諡文敏,授世襲都指揮使。

楊榮は四朝に仕え、謀略に優れ決断力があった。永楽末、浙江・福建の山賊が蜂起ほうきし、出兵が議論された。帝は当時塞外におり、奏上を楊榮に見せた。楊栄は言った、「愚民は役人の苦しみに耐えかね、やむなく集まって自衛している。兵を出せば、ますます集まって収拾がつかなくなる。使者を派遣して招撫すれば、兵を用いるまでもない」。これに従うと、賊は鎮まった。安南放棄について、諸大臣は多く不可と唱えたが、楊栄と楊士奇のみが力説して、荒服の地で中国を疲弊させるべきでないと主張した。その老成持重はこのようなものであった。事を論ずるには激しく発奮し、人の過ちを容れることができなかった。しかし、人が帝の怒りに触れて不測の事態に陥る時は、往々にして微言をもって帝の意を導き、たちまち解決させた。夏原吉・李時勉が死を免れ、都御史劉観が辺境への流刑を免れたのは、皆その力による。かつて人に語って言った、「君に仕えるには礼法があり、諫言を進めるには方法がある。剛直を以て禍を招くことは、私はしない」。故にその恩遇も終始衰えなかった。『太祖実録』及び太宗・仁宗・宣宗の三朝『実録』の重修に当たり、いずれも総裁官となった。先後賜与されたものは数え切れない。性来賓客を喜び、貴盛であっても少しも傲慢でなく、士人の心は多く彼に帰した。ある者は楊栄が国家の大事を処するにあたり、唐の姚崇に恥じず、しかも細事に拘らない点もまた彼によく似ていると言う。

原文榮歷事四朝,謀而能斷。永樂末,浙、閩山賊起,議發兵。帝時在塞外,奏至,以示榮。榮曰:「愚民苦有司,不得已相聚自保。兵出,將益聚不可解。遣使招撫,當不煩兵。」從之,盜果息。安南之棄,諸大臣多謂不可,獨榮與士奇力言不宜以荒服疲中國。其老成持重類如此。論事激發,不能容人過。然遇人觸帝怒致不測,往往以微言導帝意,輒得解。夏原吉、李時勉之不死,都御史劉觀之免戍邊,皆賴其力。嘗語人曰:「事君有體,進諫有方,以悻直取禍,吾不為也。」故其恩遇亦始終無間。重修《太祖實錄》及太宗、仁、宣三朝《實錄》,皆為總裁官。先後賜賚,不可勝計。性喜賓客,雖貴盛無稍崖岸,士多歸心焉。或謂榮處國家大事,不愧唐姚崇,而不拘小節,亦頗類之。

家は富み、曾孫の楊曄は建寧指揮となり、財貨のことで失敗した。詳しくは『宦官伝』にある。

原文家富,曾孫曄為建寧指揮,以貲敗。詳《宦官傳》。

曾孫 楊旦

原文曾孫 旦

楊曄の従弟の楊旦、字は晋叔、弘治年間の進士。歴任して太常卿となった。劉瑾に逆らって左遷され、温州府知府となり、治績は最上で、やがて浙江提学副使に昇進した。劉瑾が誅殺されると、累進して戸部侍郎に至り、京倉・通州倉を監督し、出向して甘肅の兵糧を管理した。帰還後、右都御史に進み、両広軍務を総督した。番禺・清遠・河源の諸瑶を討伐平定した。嘉靖初年、南京吏部尚書に転じた。張璁・桂萼が急激に登用されると、楊旦は九卿を率いて強く不可を主張した。ちょうど吏部尚書喬宇が罷免され、楊旦を召して代わらせようとしたが、着任前に給事中陳洸に弾劾され、致仕を命じられた。七十余歳で没した。

原文曄從弟旦,字晉叔,弘治中進士。歷官太常卿。以忤劉瑾,左遷知溫州府,治最,稍遷浙江提學副使。瑾誅,累擢至戶部侍郎,督京、通倉,出理餉甘肅。還,進右都御史,總督兩廣軍務。討平番禺、清遠、河源諸瑤。嘉靖初,遷至南京吏部尚書。張璁、桂萼驟進,旦率九卿極言不可。會吏部尚書喬宇罷,召旦代之,未至,為給事中陳洸所劾,勒致仕。年七十餘卒。

楊溥

原文楊溥

楊溥、字は弘済、石首の人。楊栄と同科の進士となった。編修に任じられた。永楽初年、皇太子に侍して洗馬となった。太子がかつて『漢書』を読み、張釈之の賢を称えた。楊溥は言った、「釈之は確かに賢人ですが、文帝の寛仁がなければ、その志を行うことはできなかったでしょう」。文帝の事績を採り集めて分類し献上した。太子は大いに喜んだ。しばらくして、喪に服して帰郷した。当時太子が監国しており、出仕するよう命じた。十二年、東宮が帝を迎える使者を遅らせたため、帝は怒った。黄淮は北京に連行され獄に繋がれた。金問が到着すると、帝はますます怒って言った、「問は何者か、太子に侍することができようか」。法司に下して取り調べさせ、楊溥にも連座し、錦衣衛の獄に逮捕投獄された。家族の食糧供給は幾度も絶えた。しかも帝の意は測りがたく、旦夕のうちに死ぬかもしれなかった。楊溥はますます奮起し、読書を怠らなかった。十年間獄中にあって、経書・史書・諸子の書を数回読み通した。

原文楊溥,字弘濟,石首人。與楊榮同舉進士。授編修。永樂初,侍皇太子為洗馬。太子嘗讀《漢書》,稱張釋之賢。溥曰:「釋之誠賢,非文帝寬仁,未得行其志也。」採文帝事編類以獻。太子大悅。久之,以喪歸。時太子監國,命起視事。十二年,東宮遣使迎帝遲,帝怒。黃淮逮至北京繫獄。及金問至,帝益怒曰:「問何人,得侍太子!」下法司鞫,連溥,逮系錦衣衛獄。家人供食數絕。而帝意不可測,旦夕且死。溥益奮,讀書不輟。系十年,讀經史諸子數周。

仁宗が即位すると、獄から釈放され、翰林学士に抜擢された。かつて密かに上疏して事を奏上した。帝は褒めて答え、紙幣を賜った。やがて、楊溥が自分のために長く苦しんだことを思い、特に憐れんだ。翌年、思善門の左に弘文閣を建て、諸臣の中から学行ある者を選んで侍直させた。楊士奇は侍講王進・儒士陳継を推薦し、蹇義は学録楊敬・訓導何澄を推薦した。詔により陳継を博士に、楊敬を編修に、何澄を給事中に任じ、毎日閣中に侍直させた。楊溥に閣の事務を掌らせ、自ら閣印を授け、言った、「朕が卿を側近に用いるのは、学問だけのためではない。広く民事を知り、治道の補助としたい。何か建議があれば、封をして進上せよ」。まもなく太常卿に進み、兼職は元の通りであった。

原文仁宗即位,釋出獄,擢翰林學士。嘗密疏言事。帝褒答之,賜鈔幣。已,念溥由己故久困,尤憐之。明年建弘文閣於思善門左,選諸臣有學行者侍值。士奇薦侍講王進、儒士陳繼,蹇義薦學錄楊敬、訓導何澄。詔官繼博士,敬編修,澄給事中,日值閣中。命溥掌閣事,親授閣印,曰:「朕用卿左右,非止學問。欲廣知民事,為治道輔。有所建白,封識以進。」尋進太常卿,兼職如故。

宣宗が即位すると、弘文閣は廃止され、楊溥は内閣に召し入れられ、楊士奇らと共に機務を司った。四年間在職し、母の喪で去官したが、起復した。九年、礼部尚書に転じ、学士として内閣に侍直するのは元の通りであった。

原文宣宗即位,弘文閣罷,召溥入內閣,與楊士奇等共典機務。居四年,以母喪去,起復。九年遷禮部尚書,學士值內閣如故。

英宗が初めて即位すると、楊士奇・楊栄と共に経筵の開講を請うた。あらかじめ講官を選び、必ず学識平正・言行端謹・老成して大體に通じた者数人を職に就かせた。また宮中で朝夕侍従する宦官の選任を慎重にするよう請うた。太后は大いに喜んだ。ある日、太后が便殿に座り、帝は西に向かって立ち、英国公張輔及び楊士奇・楊栄・楊溥・尚書胡濙を召し入れた。諭して言った、「卿らは老臣である。嗣君は幼い。幸いに心を一つにして社稷を安んじよ」。また楊溥を前に召して言った、「仁宗皇帝は卿の忠を思い、幾度も嘆息された。今なお卿に会えるとは思わなかった」。楊溥は感激して泣き、太后も泣き、左右の者も皆悲しんだ。初め仁宗が太子の時、讒言を受け、宮僚の多くが詔獄で死んだ。楊溥と黄淮は一度投獄されて十年、死に瀕すること数度であった。仁宗は常々宮中で諸臣を思い、太后も長く彼らを憐れんでいたので、このように楊溥に言ったのである。太后はまた帝を顧みて言った、「この五臣は、三朝に選任され、後人を輔けしめた。皇帝は万機、宜しく五臣と共に計らうべし」。正統三年、『宣宗実録』が完成し、少保・武英殿大学士に進んだ。楊溥は楊士奇・楊栄より二十余年遅れて内閣に入ったが、この時になってようやく楊士奇・楊栄と並んだ。六年、墓参りのため帰郷し、まもなく還った。

原文英宗初立,與士奇、榮請開經筵。豫擇講官,必得學識平正、言行端謹、老成達大體者數人供職。且請慎選宮中朝夕侍從內臣。太后大喜。一日,太后坐便殿,帝西向立,召英國公張輔及士奇、榮、溥、尚書胡濙入。諭曰:「卿等老臣,嗣君幼,幸同心共安社稷。」又召溥前曰:「仁宗皇帝念卿忠,屢加嘆息,不意今尚見卿。」溥感泣,太后亦泣,左右皆悲愴。始仁宗為太子,被讒,宮僚多死詔獄,溥及黃淮一系十年,瀕死者數矣。仁宗時時於宮中念諸臣,太后亦久憐之,故為溥言之如此。太后復顧帝曰:「此五臣,三朝簡任,俾輔後人。皇帝萬幾,宜與五臣共計。」正統三年,《宣宗實錄》成,進少保、武英殿大學士。溥後士奇、榮二十餘年入閣,至是乃與士奇、榮並。六年歸省墓,尋還。

この時、王振はまだ横暴ではなく、天下は清平で、朝廷に失政なく、中外の臣民はこぞって「三楊」と称賛した。居宅によって楊士奇を「西楊」、楊栄を「東楊」と呼び、楊溥はかつて自らの郡望を南郡と署したため、これにより「南楊」と号された。楊溥は質朴で正直、廉潔で静か、腹に一物がなかった。性恭謹で、毎朝入るときは、壁に沿って歩いた。諸大臣が事を論じて可否を争い、時に激しい言葉に至ることがあった。楊溥は平心に処し、諸大臣は皆感服した。当時、楊士奇には学行があり、楊栄には才識があり、楊溥には高雅な操行があり、いずれも人の及ばぬところと言われた。楊栄・楊士奇が相次いで没すると、内閣にいる者では馬愉・高谷・曹鼐はいずれも後進で声望が軽かった。楊溥は孤立し、王振はますます権勢を振るった。十一年七月、楊溥は没した。七十五歳。太師を追贈され、諡は文定。孫の楊寿を尚宝司丞に任じた。三年後、王振はついに英宗を導いて北征し、土木に陥り、大乱に至らんとした。当時の人はこの三人が生きていたならば、ここまでには至らなかっただろうと追想した。しかし後になって台頭した者は競って彼らの短所を暴き立て、中旨に従って日和見し、賊奄の禍を醸成したとし、これもまた過酷な非難の端緒となった。

原文是時,王振尚未橫,天下清平,朝無失政,中外臣民翕然稱「三楊」。以居第目士奇曰「西楊」,榮曰「東楊」,而溥嘗自署郡望曰南郡,因號為「南楊」。溥質直廉靜,無城府。性恭謹,每入朝,循牆而走。諸大臣論事爭可否,或至違言。溥平心處之,諸大臣皆嘆服。時謂士奇有學行,榮有才識,溥有雅操,皆人所不及云。比榮、士奇相繼卒,在閣者馬愉、高谷、曹鼐皆後進望輕。溥孤立,王振益用事。十一年七月,溥卒,年七十五。贈太師,諡文定。官其孫壽尚寶司丞。後三年,振遂導英宗北征,陷土木,幾至大亂。時人追思此三人者在,當不至此。而後起者爭暴其短,以為依違中旨,釀成賊奄之禍,亦過刻之端也。

付録 馬愉

原文附 馬愉

馬愉、字は性和、臨朐の人。宣徳二年の進士第一。翰林修撰に任じられた。九年秋、特に史官及び庶吉士三十七人を選び文淵閣で学ばせ、馬愉を筆頭とした。正統元年、経筵講官を充て、再び転じて侍読学士となった。当時王振が権勢を振るい、ある日、楊士奇・楊栄に言った、「朝廷の事は長らく公らを煩わせている。公らは皆高齢で、お疲れであろう」。楊士奇は言った、「老臣は国に報いるために力を尽くし、死して後已む」。楊栄は言った、「我々は衰え残っており、効力する術がない。後進で任に堪えうる者を選び、聖恩に報いるべきである」。王振は喜んで退いた。楊士奇は楊栄が失言したと咎めた。楊栄は言った、「彼は我々を疎ましく思っている。一旦内中から一片の紙で某人を内閣に入れよと命じられたら、どうしよう。今のうちに一二の賢者を進め、同心協力すれば、まだやれる」。楊士奇はもっともだと思った。翌日、侍読学士苗衷・侍講曹鼐及び馬愉の名を挙げて進めた。これにより馬愉は抜擢任用された。五年、詔により本官のまま内閣に入り、機務に参与し、まもなく礼部右侍郎に進んだ。十二年、没した。尚書兼学士を追贈された。贈官が兼職を帯びるのは、馬愉から始まった。

原文馬愉,字性和,臨朐人。宣德二年進士第一。授翰林修撰。九年秋,特簡史官及庶吉士三十七人進學文淵閣,以愉為首。正統元年充經筵講官,再遷至侍讀學士。時王振用事,一日,語楊士奇、榮曰:「朝廷事久勞公等,公等皆高年,倦矣。」士奇曰:「老臣盡瘁報國,死而後已。」榮曰:「吾輩衰殘,無以效力,當擇後生可任者,報聖恩耳。」振喜而退。士奇咎榮失言。榮曰:「彼厭吾輩矣,一旦內中出片紙令某人入閣,且奈何?及此時進一二賢者,同心協力,尚可為也。」士奇以為然。翼日,遂列侍讀學士苗衷、侍講曹鼐及愉名以進。由是愉被擢用。五年詔以本官入內閣,參預機務,尋進禮部右侍郎。十二年卒。贈尚書兼學士。贈官兼職,自愉始。

楊溥は端重で簡黙、門に私謁なし。論事は寛厚を旨とした。かつて天下の獄で長く拘禁された者は多く獄死するので、使者を選んで分道して決遣すべしと奏した。帝はこれを容れた。辺境に警報あり、将を命ぜんとしていたところ、別部の使者が至り、衆議はこれを捕らえんとした。溥は言う、「善を賞し悪を罰するは、治の本なり。善に波及するは、法に非ず。人の来たるに乗じてこれを捕らうるは、武ならず」。帝はこれを然とし、厚くその使者を遣わした。

原文愉端重簡默,門無私謁。論事務寬厚。嘗奏天下獄久者多瘐死,宜簡使者分道決遣。帝納焉。邊警,方命將,而別部使至,眾議執之。愉言:「賞善罰惡,為治之本。波及於善,非法。乘人之來執之,不武。」帝然之,厚遣其使。

賛に曰く、成祖の時、士奇・楊榮と解縉ら同じく内閣に直し、楊溥もまた仁宗の宮僚たりしが、三人は四朝に事え、時に耆碩たり。溥の入閣は後なれども、徳望は相亜ぎ、ここをもって明に賢相を称すれば、必ず三楊を首とす。均しく能く儒術を本とし、事幾に通達し、協力して相資け、靖共して懈らず。史に房・杜は衆美を持してこれを君に効し、輔贊彌縫して諸用に蔵すと称し、また姚崇は応変に善くして以て天下の務を成し、宋璟は文を守るに善くして以て天下の正を保つと称す。三楊は其れ庶幾からんか。

原文贊曰:成祖時,士奇、榮與解縉等同直內閣,溥亦同為仁宗宮僚,而三人逮事四朝,為時耆碩。溥入閣雖後,德望相亞,是以明稱賢相,必首三楊。均能原本儒術,通達事幾,協力相資,靖共匪懈。史稱房、杜持眾美效之君,輔贊彌縫而藏諸用。又稱姚崇善應變,以成天下之務;宋璟善守文,以持天下之正。三楊其庶幾乎。