明史

列傳第三十五 解縉 黃淮 胡廣 金幼孜 胡儼

解縉

解縉、字は大紳、吉水の人である。祖父の子元は、元の安福州判官であった。兵乱の際、義を守って死んだ。父の開は、太祖がかつて召見して元の事を論じた。官にしようとしたが、辞して去った。

縉は幼くして聡明であった。洪武二十一年に進士に挙げられ、中書庶吉士に授けられ、甚だ愛重され、常に帝の前に侍した。ある日、帝が大庖西室におられ、縉に諭して言われた、「朕と爾とは義においては君臣、恩においては父子の如し、知る所は言わざる無きべきである」。縉は即日に封事万言を上奏し、おおよそ次のように述べた。

臣は聞く、法令が数度改まれば民は疑い、刑罰が余りに繁ければ民は侮る、と。国初より今に至るまで、ほぼ二十年、法の変わらぬ時幾ばくもなく、過ちの無き人一日も無し。かつて陛下が震怒し、根を鋤き蔓を剪り、その奸逆を誅したことは聞くが、一大善を褒め、賞を世に延ばし、さらにその郷里に及び、終始一貫することを聞いたことはない。

臣は陛下が『説苑』、『韻府』などの雑書と、いわゆる『道德経』、『心経』を観られるのを見るが、臣はひそかに甚だ宜しからざるものと考える。『説苑』は劉向に出で、多くは戦国の縦横の論である。『韻府』は元の陰氏に出で、抄輯して穢蕪であり、少しも採るべきところがない。陛下がもしその検閲の便を喜ばれるならば、願わくは一二の志士儒英を集め、臣は筆を執ってその後に随い、上は唐・虞・夏・商・周・孔に遡り、下は関・閩・濂・洛に及ぶ。根本を実にし精妙にし、事に随って類別し、一経を勒して、経史に上接させれば、これ太平の製作の一端ではあるまいか。また今『六経』は残欠している。『礼記』は漢儒に出で、踳駁甚だしい。時を失わず刪改すべきである。楽を審らかにする儒を訪求し、百王の典を大いに備え、楽書一経を作して万世に恵みを与えるべきである。伏羲・神農・黄帝・堯・舜・禹・湯・文・武・皋陶・伊尹・太公たいこう・周公・稷・契・夷・益・傅説・箕子を太学に尊祀する。孔子は則ち天子より庶人に至るまで、通祀して先師と為し、顔子・曾子・子思・孟子を以て配享する。閔子以下は、各々その郷において祭る。魯の闕里には、なお叔梁紇の廟を建て、王爵を贈り、顔路・曾曨・孔鯉を以て配享する。歴代の因循を一洗し、天朝の文献を肇起すれば、盛んなことではあるまいか。天を祀るには掃地の規を復すべく、祖を尊ぶには七廟の制を備うべし。奉天は筵宴の所と為すべからず、文淵は未だ館閣の隆を備えず。太常は俗楽の肄すべきに非ず、官妓は人道の為す所に非ず。倡優を禁絶し、寺閹を易置すべし。戟を執り陛墀に立つは、皆吉士と為し、虎賁・趣馬は悉く俊良を用うべし。山沢の禁税を除き、務鎮の征商を蠲免すべし。木輅に朴居して、土木の工を起こさず、布を以て荒田を墾き、四裔の地を貪らざるべし。釈・老の壮者はこれを駆り、人倫に復せしめ、経咒の妄なる者はこれを火にし、その欺誑を絶たしむべし。鬼巫を絶ち、淫祀を破り、冗官を省き、細県を減ずべし。法外の威刑を痛く懲らしめ、京城の工役を永く革すべし。流刑は十年にして復を聴き、杖刑は八十を以て加うること無からしむべし。婦女は帷薄修まらざるに非ざれば、逮系せしむる毋かれ。大臣に過悪誅すべき有れば、辱しめを加うるに宜しからず。暦を治め時を明らかにし、民に事を作すことを授くるに、但だ播植の宜を申すべく、何ぞ建除の謬を用いん。著すべき所は、日月の行、星辰の次なり。仰ぎ観て俯して察すれば、事は逆順に合う。七政の斉うは、正にこの類いなり。

近年以来、台綱は粛まらず。刑名の軽重を能事と為し、囚を問う多寡を勲労と為すは、甚だ清要を励まし風采を長ずる所以に非ざるなり。御史の糾弾は、皆密旨を承く。上に赦宥有るを聞く毎に、則ち必ず故らに執持を為す。意はこれを謂う、かくの如くすれば則ち上恩愈々重し、と。これ皆小人の媚に趨り労を效うる細術なり。陛下何ぞ肝胆にして鏡照せられざるか。陛下は人を進むるに賢否を択ばず、職を授くるに重軽を量らず。君に用いられざるを為すの法を建つるは、いわゆるこれを取ること錙銖を尽くすなり。朋奸法に倚るの条を置くは、いわゆるこれを用いること泥沙の如し。監生進士は、経明行修にして、多くは下僚に屈し、孝廉人材は、冥く蹈み瞽く趨りて、或いは朝省に布く。椎埋嚚悍の夫、闒茸下愚の輩、朝に刀鑷を捐て、暮に冠裳を擁す。左に筐篋を棄て、右に組符を綰ぶ。是の故に賢者はこれが等列を為すを羞じ、庸人は悉くその風流を習う。貪婪苟免を以て得計と為し、廉潔受刑を以て飾辞と為す。吏部より出づる者は賢否の分無く、刑部に入る者は枉直の判無し。天下皆陛下が喜怒を任せて生殺と為すと謂い、而して臣下の忠良乏しきを知らざるなり。

古は善悪、郷鄰必ず記す。今は申明旌善の挙有りと雖も、党庠郷学の規無し。互知の法は厳しと雖も、訓告の方未だ備わらず。臣は古人の家を治むるの礼、鄰を睦ますの法を求めんと欲す。古の藍田呂氏の『郷約』、今の義門鄭氏の『家范』の如き、これを天下に布く。世臣大族、率先して以て勧め、これを旌しこれを復し、民の表帥と為す。将に見るべし、新たに作り変わり、比屋封する可きに至るは難からざるを。

陛下の天資至高、道微に合す。神怪妄誕、臣は陛下がこれを洞矚するを知る。然れども猶おいわゆる神道設教に免れざるは、臣は必ずしも然らずと謂う。一統の輿図已に定まり、一時の人心已に服し、一切の奸雄已に慴る。天に変災無く、民に患害無し。聖躬康寧、聖子聖孫継継縄縄。いわゆる真符を得る者なり。何ぞ必ずしも師を興して宝を取るを名と為し、衆を諭して神仙を征応と為さんや。

臣は観るに、地には盛衰有り、物には盈虚有り。而して商税の征は、率ね皆定額なり。是れその或いは盈なるをして、奸黠に侵欺を得せしめ、その歉なるをして、良善を補納に困らしむ。夏税は一なり、而して茶椒に糧有り、果絲に税有り。既に産するの地に税し、又過るの津に税す。何ぞ其れ民の利を奪うこと、ここに至るまで密なるや。且つ多くは貧下の家、抛荒の咎を免れず。今日の土地は、前日の生植無く、而して今日の征聚は、前日の税糧有り。或いは産を売りて税を供し、産去りて税存し、或いは賠辦を以て役に当たり、役重くして民困む。土田の高下均しからず、起科の軽重別無し。膏腴にして税反って軽く、瘠鹵にして税反って重し。困を拯い弊を革めんと欲すれば、授田均田の法を行い、兼ねて常平義倉の挙を行うに若くは莫し。積むこと漸を以てし、九年の食有るに至るは難からざるなり。

臣は聞く、仲尼曰く、「王公は険を設けて以て其の国を守る」と。近世は晏安に狃い、名城を堕し、鋒鏑を銷し、兵を禁じ武を諱み、以て太平と為す。一旦測るべからざるの虞有れば、城を連ねて風望みて靡く。今に及んで宜しく有司をして整葺せしめ、歳月を以てこれを寛め、里胥を以てこれを守らしめ、額設の弓手、兼ねて民兵を教うべし。武挙を開きて以て天下の英雄を収め、郷校を広めて以て天下の俊乂を延くべし。古時多くは書院学田有り、貢士に庄有り、義田に族有り。皆宜しく興復し広益すべし。

夫れ罪人は孥せず、罰は嗣に及ばず。連坐は秦法に起こり、孥戮は偽書に本づく。今の善を為す者は妻子必ずしも栄を蒙らず、過有る者は里胥必ず其の罪を陥る。況んや律は人倫を重しと為すに、而して婦女を給配するの条有り、これを不義に聴かば、則ち又何ぞ夫れ節義を取らんや。これ風化の由る所なり。

孔子は言う、「名が正しくなければ言うことが順調でない」と。尚書・侍郎は内侍であるのに、六卿に加えられ、郎中・員外は内職であるのに、六属の名とされた。御史や詞臣は寵遇を受けて台閣に居るものであり、郡守や県令は郷里を回避すべきではない。同僚が恭しく協力し、礼をもって互いに導き合うべきである。しかるに今、内外の諸官庁が属官を鞭打ち杖で打つことは、奴隷よりも甚だしい。これは柔弱な者をして廉恥を失わせ、進退奔走するに肌膚さえ保てなくする。これはまことに孝行を伸ばし節義を励ますものではない。臣は思うに、今後は罪悪を犯して解官されるのでなければ、笞や杖の刑を用いるべきでない。租税の督促や監督において、少し過ちがあれば、蒲の鞭で辱めを示すだけで、十分に懲戒となろう。

臣はただ愚かな忠誠を尽くして、急いで意見を献上することを知るのみで、順序はほとんどなく、ただ陛下が幸いにご覧くださることを願う。上書が奏上されると、帝はその才能を称えた。その後、また『太平十策』を献上したが、文章が多いのでここには記さない。

解縉がかつて兵部に赴き、雑役の下卒を要求し、言葉が傲慢であった。尚書の沈溍がこれを帝に報告した。帝は言った、「解縉は冗員の身で勝手気ままに振る舞っているのか」と。御史に改任するよう命じた。韓国公李善長が罪を得て死んだとき、解縉は郎中王國用に代わって上疏を起草し、その冤罪を弁明した。また同僚の夏長文のために上疏を起草し、都御史袁泰を弾劾した。袁泰はこれを深く恨んだ。当時、近臣の父は皆、入朝して拝謁することができた。解縉の父の解開が来ると、帝は言った、「大器は晩成する。お前の子を連れて帰り、さらに学問を進めさせよ。十年後に来れば、大用するのに遅くはない」。帰郷して八年後、太祖が崩御し、解縉は京師に赴き拝礼した。役人が解縉を詔勅に違背したと弾劾し、さらに母の喪がまだ葬られておらず、父は九十歳で、捨てて行くべきではないと言った。河州衛の吏に左遷された。当時、礼部侍郎の董倫がちょうど恵帝に信任されていたので、解縉は董倫に手紙を送って言った、「解縉は軽率で狂愚であり、避けるところなく忌憚もなく、しばしば封事を上奏し、言うところは、分封された諸侯の勢力が強大であると、万一不幸があれば、必ず厲長・呉濞のような憂いがあると。𨚗哈術が帰順してきたとき、謹んでご下問を承り、礼をもって遇すべきであると述べたが、少しでも権謀に逆らえば、その徒党は必ず離反すると。この類のことは一つではなく、多くは当たっている。またかつて王國用のために諫書を起草し、韓国公のことを述べ、詹徽に憎まれ、危険な法で陥れられようとした。伏して聖恩を蒙り、慰諭の言葉を賜り、さらに金銭を賜り、十年間著述に励み、冠帯を着けて朝廷に参じるよう命じられた。『元史』の誤りを承命して改修し、さらに『宋書』を完成させ、『礼経』を刪定し、凡例はすでに宮中に留め置かれた。親に仕える暇に、門を閉じて著述に励み、次第に成果が上がり、すでに八年近くになる。先帝崩御の報が突然聞こえ、痛切のあまり絶えんばかりである。母の喪は棺に納めたまま、まだ安葬する暇がない。家には九十の老親が、門によりかかって思いを寄せているが、それも顧みる暇がない。ただ一度、山陵を拝し、九泉の下で涙を流したいと願うのみ。どうして過ちを犯し、恩を蒙って遠方に行くことになろうか。揚州・粤の地の者は、寒暑に耐えず、また病気が多い。身を屈めて奔走し、吏や兵卒と伍するのは、誠に耐え難い。昼夜泣き続け、常に不測の事態を恐れている。平生の志を負い、万古の痛みを抱いている。それゆえにしばしば知遇を感じて訴える。京師に戻り、天子の顔を拝し、あるいは南に帰り、父子が再会できれば、それがまさに更生の日である」。董倫はそこで解縉を推薦し、翰林待詔として召し出された。

成祖が京師に入ると、侍読に抜擢した。黄淮・楊士奇・胡広・金幼孜・楊栄・胡儼とともに文淵閣に直し、機密事務に参与するよう命じた。内閣が機密事務に参与するのはここに始まる。

まもなく侍読学士に進み、『太祖実録』および『列女伝』の総裁を命じられた。書物が完成すると、銀貨を賜った。永楽二年、皇太子が立てられると、解縉は翰林学士兼右春坊大学士に進んだ。帝はかつて解縉らを召して言った、「お前たち七人は朝夕朕の側にいる。朕はお前たちの勤勉で慎重なことを嘉み、しばしば宮中で話している。常の情として、初めを慎むのは易しいが、終わりを保つのは難しい。共に努めよう」。そこでそれぞれ五品の官服を賜り、七人の命婦に命じて柔儀殿で皇后に朝謁させ、皇后はねぎらいと賜物をことごとく行った。また立春の日に解縉らに金と綺の衣を賜り、尚書と同等とした。解縉らが入って謝すると、帝は言った、「詔勅を代わる司は、機密に関わる。かつ朝夕朕に侍り、益するところは尚書に劣らない」。ある日、帝が奉天門に臨み、六科の諸臣に直言を諭し、そこで解縉らを顧みて言った、「王珪・魏徴の風は、世に多くはない。もし進言する者に恐れるところがなく、言を聴く者に逆らうところがなければ、天下が治まらないことを何の憂いがあろうか。朕はお前たちと共に努めよう」。その年の秋、胡儼が祭酒として出され、解縉ら六人はゆったりと意見を献上した。帝はかつて虚心に聴いた。

解縉は若くして朝廷に登り、才能が高く、事を任されるとまっすぐに進み、表裏が明らかであった。士類を引き抜き推薦し、一つの善があれば口を極めて称賛した。しかし善悪を批評することを好み、顧みる忌憚がなく、廷臣は多くその寵遇を妬んだ。また皇太子を定める議論のために、漢王朱高煦に憎まれ、ついに敗れた。先に、皇太子の地位が定まっていなかったとき、淇国公邱福が漢王に功績があると言い、立てるべきだと主張した。帝は密かに解縉に問うた。解縉は称えて言った、「皇長子は仁孝であり、天下の人心が帰している」。帝は答えなかった。解縉はまた頓首して言った、「好聖孫(優れた聖なる孫)がおられます」。宣宗のことを指した。帝はうなずいた。太子はそこで定まった。高煦はこれによって解縉を深く恨んだ。ちょうど大軍を発して安南を討つことになり、解縉は諫めた。聞き入れられなかった。ついに平定し、郡県を置いた。そして太子が既に立てられた後も、しばしば帝の意にそぐわないことがあった。高煦の寵愛はますます盛んになり、礼遇と秩禄が嫡子を超えた。解縉はまた諫めて言った、「これは争いを引き起こすものであり、いけない」。帝は怒り、骨肉を離間させようとしていると言い、恩寵と礼遇は次第に衰えた。四年、黄淮ら五人に二品の紗羅の衣を賜ったが、解縉には及ばなかった。しばらくして、邱福らの議論が少しずつ外廷に伝わり、高煦はそこで解縉が禁中の言葉を漏らしたと讒言した。翌年、解縉は廷試の答案を読んで採点するのに不公平があった罪に坐し、広西布政司参議に左遷された。出発した後、礼部郎中李至剛が解縉が恨みを抱いていると言い、交阯に改められ、化州で兵糧の監督を命じられた。

永楽八年、解縉が奏事のために京師に入り、ちょうど帝が北征に出ていたので、解縉は皇太子に拝謁して帰った。漢王が解縉は天子が出たのを窺い、密かに太子に拝謁し、まっすぐ帰った、人臣の礼がないと言った。帝は激怒した。解縉はちょうど検討王偁とともに広東を経由し、山川を見物し、上疏して贛江を開鑿して南北を通すよう請うた。上奏が届くと、解縉を捕らえて詔獄に下し、拷問をことごとく加えた。供述が大理丞湯宗、宗人府経歴高得抃、中允李貫、賛善王汝玉、編修硃紘、検討蔣驥・潘畿・蕭引高および李至剛にまで及び、皆獄に下された。汝玉・貫・紘・引高・得抃は皆獄死した。十三年、錦衣衛指揮の紀綱が囚人の名簿を上奏すると、帝は解縉の名前を見て言った、「解縉はまだ生きているのか」。紀綱はそこで解縉に酒を飲ませて酔わせ、積雪の中に埋め、たちまち死なせた。四十七歳であった。家を没収し、妻子と宗族は遼東に移された。

解縉が翰林にいたとき、宦官の張興が寵を恃んで左順門外で人を鞭打ったので、解縉が叱ると、張興は手を引っ込めて退いた。帝はかつて廷臣の名前を書いて、解縉に命じてそれぞれその短所と長所を述べさせた。解縉は言った、「蹇義は天資が重厚であるが、心中に定見がない。夏原吉は徳量があるが、小人を遠ざけない。劉俊は才幹があるが、義を顧みることを知らない。鄭賜は君子と言えるが、やや才に欠ける。李至剛は虚言を好み勢力に附き、才能はあっても品行が正しくない。黄福は心が平易で正直であり、確かに節操を守る。陳瑛は用法に厳しいが、まだ廉潔を保っている。宋礼は剛直で苛酷であり、人の怨みを顧みない。陳洽は通達して機敏であるが、正しさを失わない。方賓は簿記の才はあるが、仲買人の心がある」。帝はこれを太子に渡し、太子はそこで尹昌隆と王汝玉について問うた。解縉は答えて言った、「昌隆は君子であるが度量が広くない。汝玉の文才は得難いが、惜しいことに商売の心がある」。後に仁宗が即位すると、解縉が述べた上疏を楊士奇に示して言った、「人は解縉を狂っていると言うが、論じたところを見ると、皆定見があり、狂ってはいない」。詔を下して解縉の妻子と宗族を帰郷させた。

解縉は初め胡広と共に成祖の宴に侍した。帝が言うには、「お前たち二人は生まれが同郷、成長して同学、仕えて同官である。解縉には子がある。胡広は娘を娶らせることができる。」胡広は頓首して言った。「臣の妻は今妊娠中で、男女はまだ分かりません。」帝は笑って言った。「必ず女児だ。」果たして後に女児が生まれたので、婚約を結んだ。解縉が失脚すると、その子禎亮は遼東に流され、胡広は離婚させようとした。娘は耳を切り落として誓った。「薄命な縁組みではありますが、皇上がお取り持ち下さり、父上も面と向かって承諾されました。死んでも二心はありません。」赦免されて帰還すると、ついに禎亮に嫁いだ。

正統元年八月、詔して没収した家産を返還させた。成化元年、解縉の官職を復し、朝議大夫を追贈した。初め解縉が漢王及び安南の事を言って禍を得た。後に高煦は反逆を以て誅殺された。安南はたびたび反乱し、官吏を置いても久しからず、再び放棄した。すべて解縉の言う通りであった。

解縉の兄の綸は、洪武年間に御史を務めた。性質は剛直であった。後に応天府教授に改められた。子の禎期は、書の名で知られた。

黄淮

黄淮、字は宗、永嘉の人である。父の性は、方国珍が温州を占拠した時、身を隠して偽りの命令を避けた。黄淮は洪武末年の進士に挙げられ、中書舎人に任じられた。成祖が即位すると、召し出されて応対が帝意に適い、解縉と共に常に御榻の左に立ち、顧問に備えることを命じられた。時に夜分に及び、帝が就寝しても、なお座を賜わり榻前で語り、機密の重務をすべて預かって聞いた。やがて解縉ら六人と共に文淵閣に直し、翰林編修に改め、侍読に進んだ。太子立ての議論で、黄淮は嫡子で年長の者を立てるよう請うた。太子が立てられると、左庶子兼侍読に遷った。永楽五年、解縉が罷免されると、黄淮は右春坊大学士に進んだ。翌年、胡広・金幼孜・楊栄・楊士奇と共に太孫を輔導した。七年、帝が北巡すると、黄淮及び蹇義・金忠・楊士奇に命じて皇太子を輔け国事を監させた。十一年、再び北巡し、やはり留守を命じられた。翌年、帝が瓦剌を征して還ると、太子が使者を迎えに行くのがやや遅れた。帝は再び高煦の讒言を重く受け、東宮の官属をことごとく召し出して詔獄に下し、黄淮及び楊溥・金問は皆連座して十年間拘禁された。

仁宗が即位すると、官職を復した。まもなく通政使に抜擢され、武英殿大学士を兼ね、楊栄・金幼孜・楊士奇と共に内制を掌った。母の喪に服し、喪に終わることを乞うた。許されなかった。翌年、少保・戸部尚書に進み、大学士を兼ねることはもと通りとした。仁宗が崩御し、太子は南京にいた。漢王は久しく異志を抱き、朝廷内外は疑惧し、黄淮は憂慮危惧して血を吐いた。宣徳元年、帝が楽安に親征し、黄淮に命じて居守とした。翌年、病気を理由に休職を乞うと、許された。父の性は九十歳で、奉養して大いに楽しんだ。性が卒すると、葬祭を賜わり、黄淮は宮廷に赴いて謝した。ちょうど灯りの時節で、西苑に遊ぶことを賜り、詔して肩輿に乗って萬歳山に登らせた。会試を主考することを命じ、帰郷を辞する際、太液池で餞別し、帝は長歌を以て送り、かつ言った、「朕の誕生日に、卿はまた来るがよい。」翌年、入朝して賀した。英宗が立つと、再び入朝した。正統十四年六月卒去。八十三歳。諡は文簡。

黄淮の性質は明察果断で、治体に通じていた。永楽年間、長沙の妖人李法良が反乱した。仁宗が監国していた時、豊城侯李彬に討たせようとした。漢王は太子の功績を妬み、詭言して李彬は用いるに足らないと言った。黄淮は言った、「李彬は老将で、必ず賊を滅ぼせましょう。急ぎ派遣されるよう願います。」李彬はついに法良を生け捕りにした。また時に党逆を告げる者があった。黄淮は帝に言った、「洪武末年には既に禁令の勅があり、再び取り上げるのは宜しくありません。」吏部が「靖難」の兵が起こった時、南方人が北方の地で官に就き、直ちに帰順しなかった者を追及して辺境の戍卒に編入すべきと論じた。黄淮は言った、「このようにすると、人に広大さを示さない恐れがあります。」帝は皆従った。アロタイ(阿魯台)が帰順し、吐蕃諸部を役属させることを得たいと請うた。朝廷に金を刻んで誓詞とし、その金を酒の中ですりつぶし、諸酋長に飲ませて盟わせることを求めた。衆議は許そうとした。黄淮は言った、「彼らの勢力が分かれれば制しやすく、一つになれば謀り難いのです。」帝は左右を顧みて言った、「黄淮が事を論ずるのは、高い岡に立つが如く、遠く見えないものはない。」西域僧の大宝法王が来朝し、帝が玉印を刻んで賜ろうとし、璞を黄淮に見せた。黄淮は言った、「朝廷が諸蕃に賜る制勅には、『勅命』・『広運』の二宝を用います。今この玉は大きすぎ、遠人に示し朝廷を尊ぶことにはなりません。」帝は嘉納した。その献替はこのようであった。しかし度量はやや狭かった。同僚に小さな過失があれば、すぐに上聞した。ある者は解縉の左遷には、黄淮の力があったと言う。宣宗に疎まれたのも、楊栄が「黄淮は労咳の病で、人に感染する」と言ったからだという。

胡広

胡広、字は光大、吉水の人である。父の子祺、名は寿昌、字をもって行われる。陳友諒が吉安を陥落させると、太祖が兵を遣わして回復し、脅従者千余人を殺そうとした。子祺は走って帥に謁し、力説して不可とし、免れることができた。洪武三年、文学を以て選ばれ御史となり、上書して関中に都することを請うた。帝は善しとし、太子をして陝西を巡視させた。後に太子が薨じたため、実現しなかった。子祺は出て広西按察僉事となり、彭州知州に改められた。赴任先では冤獄を平らげ、淫祀を壊し、廃れた堰を修復し、民は大いにその徳を慕った。延平知府に遷り、任上で卒した。胡広はその次子である。建文二年、廷試。

当時はちょうど燕を討っており、胡広の対策文に「親藩が跋扈し、人心が動揺する」との語があった。帝は自ら胡広を第一に抜擢し、靖の名を賜い、翰林修撰に授けた。

成祖が即位すると、胡広は解縉と共に迎え従った。侍講に抜擢され、侍読に改め、再び広の名に復した。右春坊右庶子に遷った。永楽五年、翰林学士に進み、左春坊大学士を兼ねた。帝が北征すると、楊栄・金幼孜と従った。たびたび帳殿で召し出されて応対し、夜分に及ぶこともあった。山川の険塞を過ぎる時、馬を立てて議論し、行軍がやや後れると、すぐに騎兵を四方に遣わして探し求めた。かつて道に迷い、衣を脱いで驏馬に乗って河を渡り、水が馬の腰以上まで没した。帝は顧みて労い、苦労をねぎらった。胡広は書を善くし、毎に石に刻む時、皆その書を命じた。十二年、再び北征し、皇長孫が従い、胡広と栄・幼孜に命じて軍中で経史を講じさせた。十四年、文淵閣大学士に進み、兼職はもと通りとした。帝がウーツァン(烏思藏)の僧を征して法会を行い、高帝・高后のために追福し、様々な祥異が見えると言った。胡広はそこで『聖孝瑞応頌』を献じ、帝はこれを仏曲に綴じ、宮中で歌舞させた。礼部郎中周訥が封禅を請うたが、胡広は不可と言い、遂に許されなかった。胡広は『却封禅頌』を上し、帝はますます親愛した。

胡広の性質は緻密であった。帝の前で言ったこと及び担当した職務は、外に出ても人に告げたことはなかった。当時の人はこれを漢の胡広に比した。しかしよく大體を保つことができた。母の喪に服して帰朝すると、帝が百姓の安否を問うた。答えて言った、「安らかでございます。ただし郡県が建文時の奸党を厳しく取り調べ、傍系の親族にまで連座し、民の害となっております。」帝はその言を容れた。十六年五月卒去。四十九歳。礼部尚書を追贈し、諡は文穆。文臣が諡を得るのは、胡広から始まった。遺骸が還る時、南京を過ぎると、太子が祭りを致した。翌年、その子の穜を翰林検討に任官した。仁宗が立つと、胡広に少師を加贈した。

金幼孜

金幼孜、名は善、字をもって行われる、新淦の人である。建文二年の進士。戸科給事中に授けられた。成祖が即位すると、翰林検討に改め、解縉らと共に文淵閣に直し、侍講に遷った。当時、翰林坊局の臣が東宮で書を講ずるには、皆先に経義を具え、閣臣が閲正し、帝に覧せてから、進講した。解縉は『書経』、楊士奇は『易経』、胡広は『詩経』、幼孜は『春秋』を担当し、そこで『春秋要旨』三巻を進めた。

永楽五年、右諭徳兼侍講に遷り、吏部に諭して、内閣に直する諸臣胡広・金幼孜等の考満は、他任に改めざることを命ず。七年、幸に従いて北京に至る。明年、北征し、幼孜は広・栄とともに扈従し、駕は清水源に駐す。泉涌き出づ。幼孜は銘を献じ、栄は詩を献ず。皆、上尊を以て労す。帝、幼孜の文学を重んじ、過ぐる山川の要害、輒ち記すを命ず。幼孜、鞍に拠り草を起し、立って成す。使、瓦剌より来たり、帝、幼孜等を召して輿に傍らに行かしめ、敵中の事を言わしむ。親倚甚だ厚し。嘗て広・栄及び侍郎金純とともに道を失い、谷中に陥る。暮夜、幼孜、馬より墜つ。広・純は去りて顧みず。栄、鞍を結びて行かしめ、行くこと又た輒ち墜つ。栄、己が騎を以て乗せ、明日に至りて始めて行在所に達す。是の夜、帝、使者十余輩を遣わして栄・幼孜を跡せしむも、獲ず。比至るに、帝、喜び顔色を動かす。自ら後、北征皆従う。撰する所に北征前後二録有り。十二年、広・栄等とともに五経四書性理大全を纂するを命ぜられ、翰林学士に遷る。十八年、栄とともに文淵閣大学士に進む。

二十二年、北征に従う。中道、兵疲る。帝、群臣に問う。敢えて対する者莫し。惟だ幼孜のみ深入すべからざるを言うも、聴かず。開平に次ぐ。帝、栄・幼孜に謂いて曰く、「朕、神人の上帝好生を語るを夢みること再びす。是れ何の祥ぞや」と。栄・幼孜対えて曰く、「陛下此の挙、固より暴を除き民を安んずるに在り。然れども火、昆岡に炎れば、玉石倶に毀つ。惟だ陛下留意せられよ」と。帝然りとす。即ち詔を草するを命じ、諸部を招諭す。軍を還して榆木川に至り、帝崩ず。秘して喪を発せず。栄、京師に訃す。幼孜、梓宮を護りて帰る。仁宗即位し、戸部右侍郎兼文淵閣大学士を拝す。尋いで太子少保兼武英殿大学士を加う。是の年十月、幼孜・栄・士奇に命じて罪囚を承天門外に会録せしむ。法司に詔して、重囚を録するには必ず三学士を会せしむ。委寄益々隆し。帝、西角門に御して廷臣の制誥を閲し、三学士を顧みて曰く、「汝ら三人及び蹇・夏の二尚書は、皆先帝の旧臣なり。朕、方に以て自ら輔けんと倚る。嘗て前代の人主の直言を聞くを悪むを見る。素より親信する所と雖も、亦た威を畏れ旨に順い、緘黙して容を取る。賢良の臣、言見えず聴かれず、退いて口を杜つ。朕と卿等、当に深く以て戒めと為すべし」と。因りて五人の誥詞を取り、親しく二語を増して云く、「崇高と謂いて入り難しと勿れ、従違有るを以て或いは怠ると勿れ」と。幼孜等頓首して謝す。洪熙元年、礼部尚書兼大学士・学士は故の如くに進み、併せて三俸を給す。尋いで帰りて母を省るを乞う。明年、母卒す。

宣宗立ち、詔して起復し、両朝実録を修し、総裁官を充つ。三年、節を寧夏に持ち、慶府郡王妃を冊す。過ぐる所、兵民の疾苦を詢ね、還りて之を奏す。帝嘉して納る。辺を巡るに従い、鶏鳴山を度る。帝曰く、「唐太宗、其の英武を恃みて遼を征し、嘗て此の山を過ぐ」と。幼孜対えて曰く、「太宗、尋いで此の役を悔い、故に憫忠閣を建つ」と。帝曰く、「此の山、元順帝の時に崩る。元の亡ぶる徴なり」と。対えて曰く、「順帝は亡国の主なり。山崩れずと雖も、国亦た必ず亡ぶ」と。宣徳六年十二月卒す。年六十四。少保を贈り、文靖と諡す。

幼孜は簡易静黙、寛裕容有り。眷遇隆しと雖も、自ら処すること益々謙なり。其の宴居の室を名づけて「退庵」と曰う。疾革の時、家人、身後の恩を請うを嘱すも、聴かず。曰く、「此れ君子の恥ずる所なり」と。

胡儼

胡儼、字は若思、南昌の人。少しくして学を嗜み、天文・地理・律暦・医卜に至るまで究覧せざる無し。洪武中、挙人を以て華亭教諭に授けられ、師道を以て自ら任ずる能くす。母憂に服し、服除き、長垣に改め、便地を乞いて養に就く。復た余干に改む。学官の便地を乞うは儼に始まる。

建文元年、薦めて桐城知県に授く。桐陂水を鑿ち、田を溉ぎて民の利と為す。県に虎人を傷つく。儼、斎沐して神に告ぐ。虎遁去す。桐人、之を朱邑祠に祀る。四年、副都御史練子寧、朝に薦めて曰く、「儼の学は天人に達するに足り、智は帷幄を資るに足る」と。比して召し至らしむるに、燕師已に江を渡る。

成祖即位し、曰く、「儼は天文を知る。其れ欽天監に試させよ」と。既に試みて、儼実に象緯・気候の学に通ずと奏す。尋いで又た解縉の薦めにより、翰林検討に授けられ、縉等とともに文淵閣に直し、侍講に遷り、左庶子に進む。父喪に起復す。儼、閣に在りて、顧問を承け、嘗て人に先んぜんと欲せず。然れども少しく戇なり。永楽二年九月、国子監祭酒を拝し、遂に機務に預からず。時に法を用うる厳峻なり。国子生、事に托して帰るを告ぐる者は辺に戍するに坐す。儼至りて、即ち之を除くを奏す。七年、帝、北京に幸す。儼を行在に赴かしむ。明年、北征し、祭酒兼侍講を以て命じ、翰林院事を掌り、皇太孫を輔けて北京に留守す。十九年、北京国子監祭酒に改む。

当是の時、海内混一して、五十年を垂る。帝、方に内に礼楽を興し、外に要荒を懐く。公卿大夫彬彬として文学の士多し。儼は館閣の宿儒、朝廷の大著作多く其の手を出づ。太祖実録・永楽大典・天下図志を重修する皆総裁官を充つ。国学に居ること二十余年、身を以て教えに率い、動くに師法有り。洪熙元に改まる。疾を以て休を乞う。仁宗、勅を賜いて獎労し、太子賓客に進め、仍て祭酒を兼ぬ。致仕し、其の子孫を復す。

宣宗即位し、礼部侍郎を以て召すも、辞して帰る。家に居ること二十年、方岳の重臣皆師礼を以て待つ。儼と言うに、未だ嘗て私に及ばず。自ら処すること淡泊、歳時の衣食纔に給す。初め湖広考官と為り、楊溥の文を得て、大いに之を異とし、其の上に題して曰く、「必ずや董子の正言を為す能くし、而して公孫の阿曲を為さざらん」と。世、以て人を知ると為す。正統八年八月卒す。年八十三。

賛に曰く、明初、丞相を罷め、事権を六部に分つ。成祖始めて儒臣を命じて文淵閣に直し、機務に預からしむ。沿いて仁・宣に及び、而して閣権日重く、実に丞相の事を行ふ。解縉以下の五人、則ち詞林の最初に閣に入る者なり。夫れ禁密の地に処るは、必ず公正を以て自ら持ち、而して尤も厚重にして泄らさざるを貴ぶ。縉は少年高才、自ら匡済の大略を負い、太祖十年学を進めしむ。之を愛すること深し。彼其の動くこと輒ち謗を得、令終を克くせず。夫れ豈に尽く賢を嫉み能を害む者の力固より之を然らしむるや。黄淮の功は輔導に在り、胡広・金幼孜の労は扈従に著しく、胡儼は国学に久し。諸臣の従容密勿、事に随いて忠を納るるを観るに、固より僅かに文字翰墨を以て勲績と為すのみに非ざるなり。