明史

列伝第三十四 張武 陳珪 孟善 鄭亨 徐忠 郭亮 趙彝 張信 徐祥 李濬 孫巖 陳旭 陳賢 張興 陳志 王友

張武・陳珪・孟善・鄭亨・徐忠・郭亮(趙彜)・張信(唐雲)・徐祥・李浚・孫巖(房勝)・陳旭・陳賢・張興・陳誌・王友

張武は瀏陽の人である。豁達にして勇力あり、少し書史に通じた。燕山右護衛の百戸となった。成祖に従い挙兵し、薊州を克ち、雄県を取り、月漾橋で戦い、勝に乗じて鄚州に至った。諸将とともに耿炳文を真定で破った。夾河の戦いでは、壮士を率いて前鋒となり、陣を突き、偽って敗走した。南軍がこれを追うと、武は還って撃ち、南軍は遂に潰えた。西水寨を攻め、前軍が夜に道を失うと、南軍が追撃してきた。武は兵を率いて要路に伏せ、これを撃退した。小河で戦い、陳文が陣に斃れた。武は敢死の士を率いて林間より突出し、騎兵と合流し、南軍を大破し、首級二万を斬り、溺死者数えきれず。累ねて都督ととく同知に任ぜられた。成祖即位し、功を論じて成陽侯に封ぜられ、禄千五百石、位は朱能の次となった。この時侯となった者は、陳珪・鄭亨・孟善・火真・顧成・王忠・王聰・徐忠・張信・李遠・郭亮・房寬の十三人、武が第一であった。還って北平を守った。永楽元年十月卒す。内廄の馬を出して賻い、潞国公を贈られ、諡は忠毅。子なく、爵は除かれた。

陳珪は泰州の人である。洪武初め、大将軍徐達に従い中原を平定し、龍虎衛百戸を授かり、燕山中護衛に改めた。成祖に従い塞外に出て前鋒となり、副千戸に進んだ。後に挙兵に従い、功を積んで指揮同知に至った。還って世子を輔け居守した。累ねて都督僉事に遷り、泰寧侯に封ぜられ、禄千二百石。以前の如く世子を輔け居守した。永楽四年、北京宮殿の建造を監督し、経画に条理あり、甚だ賞重された。八年、帝北征し、駙馬都尉袁容とともに趙王を輔け北京を留守した。十五年、繕工の印を鋳造して珪に給し、併せて官属を設け、行在後府を兼ねて掌らせた。十七年四月卒す、年八十五。靖国公を贈られ、諡は忠襄。

子の瑜が嗣いだ。二十年、北征に従う。軍律を失い、獄に下され死す。兄の子の鐘が嗣いだ。再び伝わり瀛に至り、土木にて歿し、寧国公を贈られ、諡は恭湣。弟の涇が嗣いだ。天順六年、広西を鎮守す。明年九月、瑤賊乱を起こす。涇は数千人を将いて梧州に駐屯した。この冬、大藤の賊数百人が夜に城に入り、多くを殺掠した。涇は兵を擁して救わず。召還され、獄に下され斬罪と論ぜられた。尋ねてこれを宥された。卒す。子の桓が嗣いだ。弘治初め、寧夏を鎮守す。中貴人の多くは親しい者を以て功賞を冒そうとしたが、桓はこれを拒絶し、讒せられて召還された。卒す。数代伝わり延祚に至り、明亡び、爵は除かれた。

孟善は海豊の人で、元に仕えて山東枢密院同僉となった。明初め帰附し、大軍に従い北征し、定遠衛百戸を授かった。雲南平定に従い、燕山中護衛千戸に進んだ。燕師起こり、松亭関を攻め、白溝河で戦い、皆功あり。後に保定を守る。南軍数万城を攻め、城中の兵は僅か数千、善は固く守り、城は全うされた。累ねて右軍都督同知に遷り、保定侯に封ぜられ、禄千二百石。永楽元年、遼東を鎮守す。七年、北京に召還され、鬚眉皓白たり。帝これを憫れみ、致仕を命じた。十年六月卒す。滕国公を贈られ、諡は忠勇。

子の瑛が嗣いだ。左軍を将い、再び北征に従い、糧餉の運送を監督した。仁宗即位し、左参将となり、交阯を鎮守した。庶兄の常山護衛指揮賢が永楽中に趙王を立てんと謀った事に坐し、併せて爵を奪われ、その券を毀ち、雲南に謫せられた。宣徳六年放還され、事官として宣府に充てられた。英宗即位し、京衛指揮使を授かった。卒す。子の俊が官を嗣いだ。天順初め、恩詔により伯爵を与えられた。卒す。子の昂が嗣いだ。卒す。爵は除かれた。

鄭亨は合肥の人である。父の用は、洪武時、功を積んで大興左衛副千戸となった。老いを請い、亨が職を嗣いだ。洪武二十五年、応募して檄を持ち韃靼を諭し、斡難河に至った。還り、密雲衛指揮僉事に遷った。

燕師起こり、配下を率いて降った。真定で戦い、先登し、指揮使に進んだ。大寧を襲い、劉家口に至り、諸将は関を攻めんとしたが、成祖は関を守る卒が大寧に走り報いて備えを得ることを慮り、乃ち亨に勁騎数百を将いて旆を巻き山に登り、潜に関後に出て、その帰路を断たしめた。急に関を攻め、守関者を悉く縛り、遂に大寧に奄至した。北平都指揮僉事に進んだ。夜に衆を帥いて鄭村壩の兵を破り、西に紫荊関を破り、広昌を掠め、蔚州を取り、直ちに大同に抵った。還って白溝河で戦い、北に逐って済南に至り、都指揮同知に進んだ。滄州を攻め、軍を北門に置き、餉道を東昌で扼した。戦いに敗れ、散卒を収め、軍を深州に還した。明年、夾河・槁城で戦い、地を略して彰徳に至り、兵を河上に耀かした。還って完県に屯した。明年、東平・汶上を破るに従い、軍を小河に置く。戦いに敗れ、王真死す。諸将は皆北還を欲したが、亨と朱能のみは不可とした。京師に入り、歴ねて中府左都督に遷り、武安侯に封ぜられ、禄千五百石、世券を与えられた。北京を留守した。時に父の用は猶在り、封爵を受けて亨に準じた。

永楽元年、総兵官に充てられ、武成侯王聰・安平侯李遠を帥いて宣府に備えた。亨は辺境に至り、宣府・万全・懐来の形便を度り、数堡ごとに相距せしめ、中に一堡を選びて数堡の士馬を容れうるものとし、高城深池を築き、井を浚い水を蓄え、瞭望を謹んだ。寇至れば、夜は火を挙げ、昼は砲を鳴らし、力を併せて堅守した。規画周詳にして、後もこれを改めえなかった。三年二月召還され、直ちに之を鎮守に遣わした。七年秋、開平に備辺した。

明年、帝北征し、亨に運送を監督せしめた。塞外に出て、右哨を将い、本雅失裏を追撃して破った。大軍は阿魯臺と遇う。亨は衆を帥いて先んじ、これを大破した。功を論じて諸将の冠となった。その冬、仍って出て宣府を鎮守した。十二年、再び北征に従い、中軍を領した。忽失温で戦い、敵を追って流矢に中り退くも、復た大軍と合してこれを破った。二十年、再び塞外に出るに従い、左哨を将い、卒万人を帥い、龍門の道を治めて軍を通し、屈裂河において兀良哈を破った。輜重を将いて還り、追躡する寇を撃破し、仍って開平を守った。成祖凡そ五度塞外に出るも、亨は皆行中に在った。

仁宗即位し、大同を鎮守す。洪熙元年二月、制諭及び将軍印を各辺の総兵官に頒った。亨は征西前将軍印を佩いた。鎮において田を墾き穀を積み、辺備完固、ここより大同は寇患稀となった。宣徳元年、行後府事を掌るべく召された。後に、仍って大同を鎮守し、宣府に転餉した。迤北の部長四十九人を招降し、朝廷に請い、厚くこれを撫し、帰附する者相属した。九年二月、鎮において卒す。

亨は厳粛にして重厚、士卒を撫するに善く、掊克を恥じた。大同時、鎮守の中官が軍政を撓めたが、亨は理を以てこれを裁し、その人は悦ばなかったが、その卒するや、深く悼惜した。漳国公を贈られ、諡は忠毅。妾の張氏は、自経して殉じ、淑人を贈られた。子の能が嗣ぎ、爵は明の滅亡まで伝わった。

徐忠は合肥の人で、父の爵位を継いで河南衛副千戸となった。たびたび大軍に従って北征し、多くを捕虜・鹵獲し、済陽衛指揮僉事に進んだ。洪武末、開平を鎮守した。燕兵が居庸・懐来を破ると、忠は開平をもって降った。灤河に従って転戦し、陳旭とともにその城を抜いた。李景隆が北平を攻めると、燕師は大寧より還って救援した。会州に至り、五軍を置く。張玉は中軍を将とし、朱能は左軍を将とし、李彬は右軍を将とし、房寛は後軍を将とし、忠はぎょう勇と号し、前軍を将とさせた。かくて陳暉を白河に破り、景隆を鄭村壩に破った。白溝河の戦いでは、忠は単騎で陣を突いた。一指に流れ矢が当たり、鏃を抜く暇もなく、急いで刀を抽いてこれを断った。弓を引き絞って疾駆し、殊死の戦いをした。燕王が高みに乗ってこれを見て、左右に謂いて曰く、「真の壮士なり」と。進んで済南を攻め、滄州を克ち、東昌・夾河で大戦した。彰徳を攻め、西水寨を破り、東阿・東平・汶上を克ち、霊璧で大戦した。かくて従って江を渡り京師に入った。指揮同知より累進して都督僉事に至った。永康侯に封ぜられ、禄一千一百石、世券を賜う。

忠は戦うごとに、鋒を摧き跳蕩し、諸将に先んじた。しかして軍を馭すること甚だ厳しく、過ぐる所擾れること無し。降附を撫するに善く、その死力を得た。継母に事えること孝をもって聞こえた。夜帰れば必ず家廟に揖して後に入った。倹約恭謹、未だ過ち有ること無し。成祖が北巡するに、忠の老成を以て、留めて太子を輔け監国させた。永楽十一年八月卒す。蔡国公を贈られ、諡して忠烈という。

爵位は裔孫の錫登に伝わり、崇禎末、賊に死す。従兄の錫胤は嘗て侯を襲い、卒し、子無し。その妻朱氏は、成国公純臣の女なり。夫歿し、楼居すること十余年、地を履かず。城陥ち、廟主を捧げて自ら焚死す。

郭亮は合肥の人で、永平衛千戸となった。燕兵が永平に至ると、指揮の趙彜とともに城をもって降り、即ち命ぜられて守備となった。時に燕師は初め起ち、先ず旁の郡邑を略定す。既に居庸・懐来を克ち、山後の諸州は皆下る。而して永平の地は山海関に接し、遼東を障隔す。既に降り、北平は益々患い無く、成祖は遂に南して耿炳文を真定に敗る。既にして遼東鎮将の江陰侯呉高・都督楊文等が永平を囲むと、亮は拒守すること甚だ固し。援師至り、内外合撃し、高は退走す。未だ幾ばくもせず、高は讒に中り罷められ、楊文が代わって将となり、復た衆を率いて来攻す。亮及び劉江合撃し、これを大いに敗る。累進して都督僉事となる。成祖即位し、守城の功を以て成安侯に封ぜられ、禄千二百石、世伯爵を賜う。永楽七年開平を守り、不検をもって聞こゆ。二十一年三月卒す。興国公を贈られ、諡して忠壮という。妾の韓氏は自ら経して殉じ、淑人を贈られる。

子の晟は伯を嗣ぐべきところ、仁宗特に命じて侯を嗣がしむ。宣徳五年、扈駕して先に帰った罪により爵を革めらる。尋いてこれを復す。子無し。弟の昂が伯を嗣ぎ、爵を伝えて明の亡ぶに至る。

趙彜は虹の人。洪武の時、燕山右衛百戸となる。傅友徳に従って北征し、宣府・万全・懐来に城し、永平衛指揮僉事に擢でられる。燕に降り、歴戦すること皆功有り、累遷して都指揮使となる。成祖帝を称し、忻城伯に封ぜられ、禄千石。永楽八年、宣府を鎮守し、嘗て北征に従う。餉を盗んだ罪により獄に下る。釈放を得る。尋いて呂梁洪の湍険を以て、彜を命じて徐州に鎮しこれを經理せしむ。復た運丁を擅に殺し、官糧を盗んだことを以て、都御史李慶に劾せらる。法司を命じて論治せしむ。復た釈放を得る。仁宗立ち、召還さる。宣徳初め卒す。子の栄が嗣ぐ。数伝して之龍に至る。崇禎末、南京を協守し、大清兵江南に下り、之龍は迎えて降る。

張信は臨淮の人。父の興は永寧衛指揮僉事。信は官を嗣ぎ、普定・平越に移り守り、功を積んで都指揮僉事に進む。

恵帝初め即位し、大臣信の謀勇を薦め、北平都司に調ず。密詔を受け、張昺・謝貴とともに燕王を謀らしむ。信は憂懼してなす所を知らず。母怪しみてこれを問う。信以て告ぐ。母大いに驚きて曰く、「不可なり。汝の父は毎に王気燕に在りと言えり。汝妄りに挙げること無かれ、家族を滅ぼさん」と。成祖は病と称す。信三たび燕邸に造り、辞して見えず。信固く請う。入りて床下に拝す。密かに情を以て成祖に輸す。成祖戄然として立ち上がり、諸将を召して計を定め、兵を起こし、九門を奪う。成祖京師に入り、功を論ずること諸戦将に比し、都督僉事に進む。隆平侯に封ぜられ、禄千石、世伯券を賜う。

成祖は信を徳すること甚だしく、「恩張」と呼ぶ。信の女を納れて妃とせんと欲す。信固く辞す。これにより益々重んぜらる。凡そ藩王の動静を察する諸の密事は、皆信に命ず。信は寵を怙って頗る驕る。永楽八年冬、都御史陳瑛が言うに、信は「汗馬の労無く、侯爵を忝くし冒し、恣肆貪墨し、丹陽の練湖八十余里・江陰の官田七十余頃を強占す。請う下して有司に験治せしむべし」と。帝曰く、「瑛の言是なり。昔、中山王に沙洲一区有り、耕農の水道経る所、家僮これを阻みて以て利を擅にす。王聞き、即ちその地を官に帰す。今、信何ぞ敢えて爾るや」と。法司を命じて雑治せしむ。尋いて旧勛を以て問わず。二十年北征に従い、餉運を督す。隰寧に大閲す。信は疾を辞して至らず。謫せられて辦事官に充つ。已にして復職す。

仁宗即位し、少師を加え、並びに二俸を支え、世侯券を賜う。宣徳元年、楽安征伐に従う。三年、帝辺境を巡り、兀良哈を征し、命じて居守せしむ。明年、軍一万五千人を督して河西務の河道を浚う。正統七年五月、南京にて卒す。鄖国公を贈られ、諡して恭僖という。

子の鏞は自ら功を立てて指揮僉事となる。先に卒す。子の淳が嗣ぎ、爵を伝えて明の亡ぶに至る。

唐雲という者あり。燕山中護衛指揮なり。その起こりを知らず。成祖既に張昺・謝貴等を殺し、将士猶九門に拠り、甕城を閉じ、戈戟を陳べて内向す。張玉等夜襲す。既にその八を克つ。惟だ西直門下らず。成祖雲に命じて甲を解き、馬に騎り導従すること平時の如くせしめ、守る者に諭して曰く、「天子既に王の一方を自制するを聴す。汝等急ぎ退け、後るる者は戮す」と。雲は諸指揮の中に年最も長く、素より信謹、将士以て欺かずと為し、遂に散ず。時に衆心未だ附かず。雲以て天意の向かう所を告ぐ。衆乃ち定まる。雲は成祖に従うこと久しく、出入り左右し、甚だ倚任せらる。先後出師し、皆世子を輔けて留まる。南兵数たび城を攻む。拒守すること甚だ力め、戦いて未だ敗北せず。累遷して都指揮使となる。成祖帝を称し、新昌伯に封ぜられ、世指揮使を賜う。明年七月卒す。賜賚甚だ厚し。

徐祥は大冶の人。初め陳友諒に仕え、江州において太祖に帰し、功を積んで燕山右護衛副千戸に至る。成祖その謹直を以て、命じて左右に侍らしむ。起兵に従い、転戦すること四年、皆功有り、累進して都指揮使となる。成祖即位し、功を論じて興安伯に封ぜられ、禄千石。時に伯に封ぜられる者は、祥及び徐理・李浚・張輔・唐雲・譚忠・孫巌・房勝・趙彜・陳旭・劉才・茹常・王佐・陳瑄十四人、祥は第一なり。祥は諸将の中に年稍長ず。及び封ぜられ、益々勤慎なり。永楽二年五月卒す。年七十三。

孫亨が嗣いだ。十二年、北征に従い、中軍副将となる。土剌河に至り、馬三千を獲る。還って開平を守り、軽騎を率いて興和・大同を往来し辺備に当たる。後にしばしば従って塞外に出る。宣徳元年、右副将として交阯を征し、功なく、爵を奪わる。英宗即位し、これを復す。正統九年、兀良哈を征し、界嶺口・河北川より出で、侯に進む。出鎮して陝西にあり、召還さる。天順初めに卒す。武襄と謚す。

子の賢が伯を嗣ぐ。跛行のため朝謁を免ぜられ、半禄を給され、卒す。子の盛が嗣ぐ。卒し、子なし。再従弟の良が嗣ぐ。良の祖母は、もと小妻なり。継祖母は、定襄伯郭登の女なり。この時その孫が襲封を争う。朝議は郭氏が初め嘗て人に適していたため、法として正嫡と為すべからずとし、良ついに嗣ぐを得る。良は時に年五十、家貧しく、大中橋に傭われて水を汲む。都督府が興安伯の後を求め、良は乃ちその隣に謝して去り、南京中府に僉書す。劉瑾に忤い、禄二百石を革まる。爵を伝えて明の亡ぶに至る。

李濬は、和州の人なり。父の旺は、洪武中に燕山左護衛副千戸となる。濬は官を嗣ぎ、起兵に従い、九門を奪う。薊州・永平の壮勇数千人を募り、南軍を真定に破る。大寧を収むるに従う。鄭村壩の戦い、精騎を帥いて陣を突き、衆は鼓噪してこれに乗じ、大捷す。転戦して山東に至り、前鋒となる。小河に至り、猝かに南軍と遇い、敢死の士を帥いて先んじて河橋を断つ。南軍は争う能わず。成祖至り、遂にこれを大いに敗る。累遷して都指揮使となり、襄城伯に封ぜられ、禄千石。永楽元年、出鎮して江西にあり。永新に盗起こり、その魁を捕誅す。尋いで召還さる。三年十一月卒す。

子の隆、字は彦平、年十五で封を嗣ぐ。雄偉にして将略あり。数たび北征に従い、奇を出し敵を料り、成祖これを器す。即ち都を遷すや、南京を根本の地として、隆に命じて留守せしむ。仁宗即位し、命じて山海関を鎮守せしむ。未だ幾ばくもなく、復た南京を守る。隆は書を読み文を好み、事を論じて侃侃たり。清慎にして法を守り、特に士大夫を敬礼す。南京に在ること十八年、前後璽書二百餘を賜わる。及び召還さるるや、南都の民流涕してこれを江上に送る。正統五年、入りて禁軍を総べる。十一年、大同辺を巡り、宝刀一を賜わり、戒備を申飭す。内外凛然たり。終に還るまで、一人も僇さず。明年卒す。子の珍が嗣ぐ。土木に歿し、侯を贈られ、悼僖と謚す。子なし。

弟の瑾が嗣ぐ。成化三年、四川都掌蛮叛き、征夷将軍印を佩び、総兵官に充てて往きて討たしむ。兵部尚書程信これを督す。師は永寧に至り、六路に分かれて進む。瑾と信は中に在りて節制し、諸蛮の寨を尽く破る。前後斬首四千五百有奇、鎧仗・牲畜を獲ること算なし。都掌の地を分ち、官を設け治を建ててこれを制す。師還り、侯に進み、累ねて太保を加う。弘治二年卒す。芮国公を贈られ、壮武と謚す。瑾は性寛弘にして、能く士に下る。兄の璉は貌寝のため、嗣ぐを得ず。瑾は甚だ厚く敬礼す。璉卒すや、その子の鄌を己が子の如く撫育す。瑾の子の黼が伯を嗣ぎ、数年にして卒す。子なし、鄌が嗣ぐを得る。

四伝して守锜に至る。累ねて営務を典し、太子少保を加う。崇禎初め、京営を総督す。営卒の盗を為すに坐し落職し、憂憤して卒す。子の国禎が嗣ぐ。口弁あり。嘗て召対せられ、兵事を指陳すること甚だ悉く、帝は才あるものと信ず。十六年、命じて京営を総督せしめ、倚任す。然れども国禎は実に他に能なし。明年三月、李自成京師を犯す。三大営の兵戦わずして潰ゆ。再宿して城陥つ。賊は国禎を勒して降らしむ。国禎は甲を解きて命を聴く。賄を責むるに足らず、拷せられて踝を折られ、自縊死す。

孫巖は、鳳陽の人なり。太祖に従い江を渡り、累官して燕山中護衛千戸となり、致仕す。燕師起こるや、通州守将の房勝、城を以て降る。王は巖を宿将とし、勝と協力して守らしむ。南軍至り、城を攻むること甚だ急なり。楼堞皆毀る。巖・勝は多方に捍禦す。已にして、復た門を突いて力戦し、奔を追うて張家湾に至り、餉舟三百を獲る。累擢して都指揮僉事となる。功を論じ、旧臣として守城の功あるを以て、応城伯に封ぜられ、禄千石。永楽十一年、開平に備え、旋って通州に移る。私憾を以て千戸を椎殺し、爵を奪われ、交阯に安置さる。已にしてこれを復す。十六年卒す。侯を贈られ、威武と謚す。子の亨が嗣ぎ、明の亡ぶに伝わる。爵除かれる。

房勝は、景陵の人なり。初め陳友諒に従う。来帰し、累功して通州衛指揮僉事に至る。燕兵北平に起こるや、勝は首として通州を以て降る。成祖即位し、守城の功を以て、富昌伯に封ぜられ、禄千石、世襲指揮使。永楽四年卒す。

陳旭は、全椒の人なり。父の彬は、太祖に従い指揮僉事となる。旭は官を嗣ぎ、会州衛指揮同知となり、挙げて城を降し燕に属す。従って灤河を徇り、功多し。真定に力戦す。德州を守る。盛庸の兵至り、城を棄てて走る。置いて問わず。従って京師に入り、雲陽伯に封ぜられ、禄千石。永楽元年、命じて中都及び直隸衛所の軍馬城池を巡視す。四年、英国公張輔に従い交阯を征し、右参将となる。豊城侯李彬と偕に西都を破る。師還り、彬と各々禄五百石を加う。已にして陳季拡叛く。復た輔に従い往きて剿す。輔還るや、又命じて沐晟を副わしむ。八年、疾を以て軍中に卒す。子なし、封絶つ。

陳賢は、寿州の人なり。初め太祖に従い功を立て、雄武衛百戸を授かる。従って西番・雲南を征し、北征して捕魚児海に至る。皆功あり。歴て燕山右護衛指揮僉事となる。燕師起こるや、諸将に従い転戦し、常に陣を突き堅を陥す。軍中その驍勇を称す。累遷して都督僉事となる。永楽元年四月、成祖は功臣の封に遺闕あるを慮い、邱福等に議せしむ。福等言う、都督僉事李彬の功は房寛に下らず、涇国公の子の懋・金郷侯の子の通は倶に未だ爵を襲わず、而して陳賢・張興・陳誌・王友の功は劉才等と同じしと。ここに於いて彬を豊城侯に封じ、懋・通と賢等四人を並びに伯に封じ、禄皆千石。賢は栄昌伯に封ぜらる。八年、神機将軍に充て、北征に従う。十三年十一月卒す。

子の智は、前に功を立てて常山右護衛指揮となり、父の爵を嗣ぐ。宣徳中、参将として征夷将軍印を佩び、交阯を鎮守す。怯懦にして戦に任えず、又都督方政と相失う。黎利の勢盛んなり、禦ぐ能わず、敗績す。爵を奪われ、事官に充てらる。王通に従い功を立てる。尋いで地を棄てて還り、獄に下る。釈放を得る。正統初め、復た指揮使となる。

張興は、寿州の人なり。卒伍より起り、燕山左護衛指揮僉事となる。起兵に従い、功多く、累遷して都指揮同知となる。甥の勇は、力あり敢えて戦い、興に従い行陣に在りて肘腋となる。興は嘗て単騎で敵を追い、数十創を受け、傷重くして戦に任えず。勇に指揮使を嗣がしめ、代わってその兵を将す。再び功を論じ、興は安郷伯に封ぜらる。永楽五年正月卒す。子なし。

勇が嗣ぐ。永楽八年、北征に従い、律を失い、交阯に謫せらる。赦されて爵を復し、卒す。子の安が嗣ぐ。正統十三年、広東を鎮守す。黄蕭養が広州を寇す。安は舟師を帥い、賊と戙船澳に遇う。安は方に酔って臥す。官軍は支えられず、退いて沙角尾に至る。賊これに薄る。軍潰ゆ。安は溺死す。爵を伝えて光燦に至り、流寇に死す。

陳誌は巴の人。洪武年間に燕山中護衛指揮僉事となる。挙兵に従い、累進して都指揮同知に至り、遂安伯に封ぜられる。陳誌は平素より恭謹をもって知られ、軍務に尽力し、終始怠ることがなかった。永楽八年五月に卒す。

孫の陳瑛が嗣ぐ。しばしば塞外に従軍し、永平・山海・薊州を鎮守し、雲州・独石を築城す。爽闓にして将材あり。然れども貪残にして、これを怨む者多し。卒し、子の陳塤が嗣ぐ。土木にて歿し、諡して栄懐と曰う。弟の陳韶が嗣ぐ。卒す。孫の陳鏸が嗣ぐ。薊州の兵を総べる。朵顔が寇すも、これを防ぎ退ける。嘉靖初年、奉迎の功を叙し、太子太保を加えられ、少保に進み、委任の重さは武定侯郭勛に次ぐ。伯を嗣いで六十余年にして卒す。さらに五伝して明は亡ぶ。

王友は荊州の人。父の職を襲い燕山護衛百戸となる。挙兵に従い、京師を平定す。功を論ずれば侯に当たるが、驕縱の故を以て、都指揮僉事を授かる。及びて丘福等の議上るに及び、乃ち清遠伯に封ぜられる。明年、総兵官を充て、舟師を帥いて沿海に倭を捕らしむ。倭数たび海上を掠むるも、王友は功無く、帝切にこれを責む。已にして、大いに倭を破る。帝喜び、勅を降して褒労し、尋いで召還す。四年、交阯征伐に従い、指揮柳琮と兵を合して籌江柵を破り、枚・普頼諸山を困し、首級三万七千余を斬る。六年七月、侯に進み、禄五百石を加えられ、世券を与えらる。明年、再び交阯を征し、副総兵となる。八年還り、北征に従い、中軍を督す。別に劉才と飲馬河上に城を築く。知院失乃幹の降らんと欲するに会い、帝、王友に将卒を率いて先んずるを令し、敵に遇えば機に相い剿滅すべしと諭す。王友等至るも、敵と一程を距て、迂路を以て応昌を避く。軍中食乏しく、死する者多し。帝震怒し、屡たび旨を切責し、その軍を張輔に属せしむ。還りて群臣に罪を議せしむ。已にしてこれを赦す。十二年、妾が王友夫婦の誹謗を告げるに坐す。験有り、爵を奪わる。未幾にして卒す。仁宗即位し、その子の王順を指揮僉事に官す。

賛に曰く、張武・陳珪ら諸人は、或いは藩封より挙兵に従い、或いは率先して帰附し、皆偏裨の列校に過ぎず、勇略智計を以て大将の材と称せられるものではない。一旦風雲の会に遭い、符を剖ち功を策し、佐命と号され、太祖の開国諸臣と並び、庸を酬うるの義、厚からずや。