張武・陳珪・孟善・鄭亨・徐忠・郭亮(趙彜)・張信(唐雲)・徐祥・李浚・孫巖(房勝)・陳旭・陳賢・張興・陳誌・王友
陳珪は泰州の人である。洪武初め、大将軍徐達に従い中原を平定し、龍虎衛百戸を授かり、燕山中護衛に改めた。成祖に従い塞外に出て前鋒となり、副千戸に進んだ。後に挙兵に従い、功を積んで指揮同知に至った。還って世子を輔け居守した。累ねて都督僉事に遷り、泰寧侯に封ぜられ、禄千二百石。以前の如く世子を輔け居守した。永楽四年、北京宮殿の建造を監督し、経画に条理あり、甚だ賞重された。八年、帝北征し、駙馬都尉袁容とともに趙王を輔け北京を留守した。十五年、繕工の印を鋳造して珪に給し、併せて官属を設け、行在後府を兼ねて掌らせた。十七年四月卒す、年八十五。靖国公を贈られ、諡は忠襄。
子の瑜が嗣いだ。二十年、北征に従う。軍律を失い、獄に下され死す。兄の子の鐘が嗣いだ。再び伝わり瀛に至り、土木にて歿し、寧国公を贈られ、諡は恭湣。弟の涇が嗣いだ。天順六年、広西を鎮守す。明年九月、瑤賊乱を起こす。涇は数千人を将いて梧州に駐屯した。この冬、大藤の賊数百人が夜に城に入り、多くを殺掠した。涇は兵を擁して救わず。召還され、獄に下され斬罪と論ぜられた。尋ねてこれを宥された。卒す。子の桓が嗣いだ。弘治初め、寧夏を鎮守す。中貴人の多くは親しい者を以て功賞を冒そうとしたが、桓はこれを拒絶し、讒せられて召還された。卒す。数代伝わり延祚に至り、明亡び、爵は除かれた。
子の瑛が嗣いだ。左軍を将い、再び北征に従い、糧餉の運送を監督した。仁宗即位し、左参将となり、交阯を鎮守した。庶兄の常山護衛指揮賢が永楽中に趙王を立てんと謀った事に坐し、併せて爵を奪われ、その券を毀ち、雲南に謫せられた。宣徳六年放還され、事官として宣府に充てられた。英宗即位し、京衛指揮使を授かった。卒す。子の俊が官を嗣いだ。天順初め、恩詔により伯爵を与えられた。卒す。子の昂が嗣いだ。卒す。爵は除かれた。
鄭亨は合肥の人である。父の用は、洪武時、功を積んで大興左衛副千戸となった。老いを請い、亨が職を嗣いだ。洪武二十五年、応募して檄を持ち韃靼を諭し、斡難河に至った。還り、密雲衛指揮僉事に遷った。
燕師起こり、配下を率いて降った。真定で戦い、先登し、指揮使に進んだ。大寧を襲い、劉家口に至り、諸将は関を攻めんとしたが、成祖は関を守る卒が大寧に走り報いて備えを得ることを慮り、乃ち亨に勁騎数百を将いて旆を巻き山に登り、潜に関後に出て、その帰路を断たしめた。急に関を攻め、守関者を悉く縛り、遂に大寧に奄至した。北平都指揮僉事に進んだ。夜に衆を帥いて鄭村壩の兵を破り、西に紫荊関を破り、広昌を掠め、蔚州を取り、直ちに大同に抵った。還って白溝河で戦い、北に逐って済南に至り、都指揮同知に進んだ。滄州を攻め、軍を北門に置き、餉道を東昌で扼した。戦いに敗れ、散卒を収め、軍を深州に還した。明年、夾河・槁城で戦い、地を略して彰徳に至り、兵を河上に耀かした。還って完県に屯した。明年、東平・汶上を破るに従い、軍を小河に置く。戦いに敗れ、王真死す。諸将は皆北還を欲したが、亨と朱能のみは不可とした。京師に入り、歴ねて中府左都督に遷り、武安侯に封ぜられ、禄千五百石、世券を与えられた。北京を留守した。時に父の用は猶在り、封爵を受けて亨に準じた。
亨は厳粛にして重厚、士卒を撫するに善く、掊克を恥じた。大同時、鎮守の中官が軍政を撓めたが、亨は理を以てこれを裁し、その人は悦ばなかったが、その卒するや、深く悼惜した。漳国公を贈られ、諡は忠毅。妾の張氏は、自経して殉じ、淑人を贈られた。子の能が嗣ぎ、爵は明の滅亡まで伝わった。
徐忠は合肥の人で、父の爵位を継いで河南衛副千戸となった。たびたび大軍に従って北征し、多くを捕虜・鹵獲し、済陽衛指揮僉事に進んだ。洪武末、開平を鎮守した。燕兵が居庸・懐来を破ると、忠は開平をもって降った。灤河に従って転戦し、陳旭とともにその城を抜いた。李景隆が北平を攻めると、燕師は大寧より還って救援した。会州に至り、五軍を置く。張玉は中軍を将とし、朱能は左軍を将とし、李彬は右軍を将とし、房寛は後軍を将とし、忠は驍勇と号し、前軍を将とさせた。かくて陳暉を白河に破り、景隆を鄭村壩に破った。白溝河の戦いでは、忠は単騎で陣を突いた。一指に流れ矢が当たり、鏃を抜く暇もなく、急いで刀を抽いてこれを断った。弓を引き絞って疾駆し、殊死の戦いをした。燕王が高みに乗ってこれを見て、左右に謂いて曰く、「真の壮士なり」と。進んで済南を攻め、滄州を克ち、東昌・夾河で大戦した。彰徳を攻め、西水寨を破り、東阿・東平・汶上を克ち、霊璧で大戦した。かくて従って江を渡り京師に入った。指揮同知より累進して都督僉事に至った。永康侯に封ぜられ、禄一千一百石、世券を賜う。
忠は戦うごとに、鋒を摧き跳蕩し、諸将に先んじた。しかして軍を馭すること甚だ厳しく、過ぐる所擾れること無し。降附を撫するに善く、その死力を得た。継母に事えること孝をもって聞こえた。夜帰れば必ず家廟に揖して後に入った。倹約恭謹、未だ過ち有ること無し。成祖が北巡するに、忠の老成を以て、留めて太子を輔け監国させた。永楽十一年八月卒す。蔡国公を贈られ、諡して忠烈という。
爵位は裔孫の錫登に伝わり、崇禎末、賊に死す。従兄の錫胤は嘗て侯を襲い、卒し、子無し。その妻朱氏は、成国公純臣の女なり。夫歿し、楼居すること十余年、地を履かず。城陥ち、廟主を捧げて自ら焚死す。
郭亮は合肥の人で、永平衛千戸となった。燕兵が永平に至ると、指揮の趙彜とともに城をもって降り、即ち命ぜられて守備となった。時に燕師は初め起ち、先ず旁の郡邑を略定す。既に居庸・懐来を克ち、山後の諸州は皆下る。而して永平の地は山海関に接し、遼東を障隔す。既に降り、北平は益々患い無く、成祖は遂に南して耿炳文を真定に敗る。既にして遼東鎮将の江陰侯呉高・都督楊文等が永平を囲むと、亮は拒守すること甚だ固し。援師至り、内外合撃し、高は退走す。未だ幾ばくもせず、高は讒に中り罷められ、楊文が代わって将となり、復た衆を率いて来攻す。亮及び劉江合撃し、これを大いに敗る。累進して都督僉事となる。成祖即位し、守城の功を以て成安侯に封ぜられ、禄千二百石、世伯爵を賜う。永楽七年開平を守り、不検をもって聞こゆ。二十一年三月卒す。興国公を贈られ、諡して忠壮という。妾の韓氏は自ら経して殉じ、淑人を贈られる。
子の晟は伯を嗣ぐべきところ、仁宗特に命じて侯を嗣がしむ。宣徳五年、扈駕して先に帰った罪により爵を革めらる。尋いてこれを復す。子無し。弟の昂が伯を嗣ぎ、爵を伝えて明の亡ぶに至る。
趙彜は虹の人。洪武の時、燕山右衛百戸となる。傅友徳に従って北征し、宣府・万全・懐来に城し、永平衛指揮僉事に擢でられる。燕に降り、歴戦すること皆功有り、累遷して都指揮使となる。成祖帝を称し、忻城伯に封ぜられ、禄千石。永楽八年、宣府を鎮守し、嘗て北征に従う。餉を盗んだ罪により獄に下る。釈放を得る。尋いて呂梁洪の湍険を以て、彜を命じて徐州に鎮しこれを經理せしむ。復た運丁を擅に殺し、官糧を盗んだことを以て、都御史李慶に劾せらる。法司を命じて論治せしむ。復た釈放を得る。仁宗立ち、召還さる。宣徳初め卒す。子の栄が嗣ぐ。数伝して之龍に至る。崇禎末、南京を協守し、大清兵江南に下り、之龍は迎えて降る。
張信は臨淮の人。父の興は永寧衛指揮僉事。信は官を嗣ぎ、普定・平越に移り守り、功を積んで都指揮僉事に進む。
恵帝初め即位し、大臣信の謀勇を薦め、北平都司に調ず。密詔を受け、張昺・謝貴とともに燕王を謀らしむ。信は憂懼してなす所を知らず。母怪しみてこれを問う。信以て告ぐ。母大いに驚きて曰く、「不可なり。汝の父は毎に王気燕に在りと言えり。汝妄りに挙げること無かれ、家族を滅ぼさん」と。成祖は病と称す。信三たび燕邸に造り、辞して見えず。信固く請う。入りて床下に拝す。密かに情を以て成祖に輸す。成祖戄然として立ち上がり、諸将を召して計を定め、兵を起こし、九門を奪う。成祖京師に入り、功を論ずること諸戦将に比し、都督僉事に進む。隆平侯に封ぜられ、禄千石、世伯券を賜う。
成祖は信を徳すること甚だしく、「恩張」と呼ぶ。信の女を納れて妃とせんと欲す。信固く辞す。これにより益々重んぜらる。凡そ藩王の動静を察する諸の密事は、皆信に命ず。信は寵を怙って頗る驕る。永楽八年冬、都御史陳瑛が言うに、信は「汗馬の労無く、侯爵を忝くし冒し、恣肆貪墨し、丹陽の練湖八十余里・江陰の官田七十余頃を強占す。請う下して有司に験治せしむべし」と。帝曰く、「瑛の言是なり。昔、中山王に沙洲一区有り、耕農の水道経る所、家僮これを阻みて以て利を擅にす。王聞き、即ちその地を官に帰す。今、信何ぞ敢えて爾るや」と。法司を命じて雑治せしむ。尋いて旧勛を以て問わず。二十年北征に従い、餉運を督す。隰寧に大閲す。信は疾を辞して至らず。謫せられて辦事官に充つ。已にして復職す。
子の鏞は自ら功を立てて指揮僉事となる。先に卒す。子の淳が嗣ぎ、爵を伝えて明の亡ぶに至る。
唐雲という者あり。燕山中護衛指揮なり。その起こりを知らず。成祖既に張昺・謝貴等を殺し、将士猶九門に拠り、甕城を閉じ、戈戟を陳べて内向す。張玉等夜襲す。既にその八を克つ。惟だ西直門下らず。成祖雲に命じて甲を解き、馬に騎り導従すること平時の如くせしめ、守る者に諭して曰く、「天子既に王の一方を自制するを聴す。汝等急ぎ退け、後るる者は戮す」と。雲は諸指揮の中に年最も長く、素より信謹、将士以て欺かずと為し、遂に散ず。時に衆心未だ附かず。雲以て天意の向かう所を告ぐ。衆乃ち定まる。雲は成祖に従うこと久しく、出入り左右し、甚だ倚任せらる。先後出師し、皆世子を輔けて留まる。南兵数たび城を攻む。拒守すること甚だ力め、戦いて未だ敗北せず。累遷して都指揮使となる。成祖帝を称し、新昌伯に封ぜられ、世指揮使を賜う。明年七月卒す。賜賚甚だ厚し。
子の賢が伯を嗣ぐ。跛行のため朝謁を免ぜられ、半禄を給され、卒す。子の盛が嗣ぐ。卒し、子なし。再従弟の良が嗣ぐ。良の祖母は、もと小妻なり。継祖母は、定襄伯郭登の女なり。この時その孫が襲封を争う。朝議は郭氏が初め嘗て人に適していたため、法として正嫡と為すべからずとし、良ついに嗣ぐを得る。良は時に年五十、家貧しく、大中橋に傭われて水を汲む。都督府が興安伯の後を求め、良は乃ちその隣に謝して去り、南京中府に僉書す。劉瑾に忤い、禄二百石を革まる。爵を伝えて明の亡ぶに至る。
子の隆、字は彦平、年十五で封を嗣ぐ。雄偉にして将略あり。数たび北征に従い、奇を出し敵を料り、成祖これを器す。即ち都を遷すや、南京を根本の地として、隆に命じて留守せしむ。仁宗即位し、命じて山海関を鎮守せしむ。未だ幾ばくもなく、復た南京を守る。隆は書を読み文を好み、事を論じて侃侃たり。清慎にして法を守り、特に士大夫を敬礼す。南京に在ること十八年、前後璽書二百餘を賜わる。及び召還さるるや、南都の民流涕してこれを江上に送る。正統五年、入りて禁軍を総べる。十一年、大同辺を巡り、宝刀一を賜わり、戒備を申飭す。内外凛然たり。終に還るまで、一人も僇さず。明年卒す。子の珍が嗣ぐ。土木に歿し、侯を贈られ、悼僖と謚す。子なし。
四伝して守锜に至る。累ねて営務を典し、太子少保を加う。崇禎初め、京営を総督す。営卒の盗を為すに坐し落職し、憂憤して卒す。子の国禎が嗣ぐ。口弁あり。嘗て召対せられ、兵事を指陳すること甚だ悉く、帝は才あるものと信ず。十六年、命じて京営を総督せしめ、倚任す。然れども国禎は実に他に能なし。明年三月、李自成京師を犯す。三大営の兵戦わずして潰ゆ。再宿して城陥つ。賊は国禎を勒して降らしむ。国禎は甲を解きて命を聴く。賄を責むるに足らず、拷せられて踝を折られ、自縊死す。
孫巖は、鳳陽の人なり。太祖に従い江を渡り、累官して燕山中護衛千戸となり、致仕す。燕師起こるや、通州守将の房勝、城を以て降る。王は巖を宿将とし、勝と協力して守らしむ。南軍至り、城を攻むること甚だ急なり。楼堞皆毀る。巖・勝は多方に捍禦す。已にして、復た門を突いて力戦し、奔を追うて張家湾に至り、餉舟三百を獲る。累擢して都指揮僉事となる。功を論じ、旧臣として守城の功あるを以て、応城伯に封ぜられ、禄千石。永楽十一年、開平に備え、旋って通州に移る。私憾を以て千戸を椎殺し、爵を奪われ、交阯に安置さる。已にしてこれを復す。十六年卒す。侯を贈られ、威武と謚す。子の亨が嗣ぎ、明の亡ぶに伝わる。爵除かれる。
房勝は、景陵の人なり。初め陳友諒に従う。来帰し、累功して通州衛指揮僉事に至る。燕兵北平に起こるや、勝は首として通州を以て降る。成祖即位し、守城の功を以て、富昌伯に封ぜられ、禄千石、世襲指揮使。永楽四年卒す。
子の智は、前に功を立てて常山右護衛指揮となり、父の爵を嗣ぐ。宣徳中、参将として征夷将軍印を佩び、交阯を鎮守す。怯懦にして戦に任えず、又都督方政と相失う。黎利の勢盛んなり、禦ぐ能わず、敗績す。爵を奪われ、事官に充てらる。王通に従い功を立てる。尋いで地を棄てて還り、獄に下る。釈放を得る。正統初め、復た指揮使となる。
張興は、寿州の人なり。卒伍より起り、燕山左護衛指揮僉事となる。起兵に従い、功多く、累遷して都指揮同知となる。甥の勇は、力あり敢えて戦い、興に従い行陣に在りて肘腋となる。興は嘗て単騎で敵を追い、数十創を受け、傷重くして戦に任えず。勇に指揮使を嗣がしめ、代わってその兵を将す。再び功を論じ、興は安郷伯に封ぜらる。永楽五年正月卒す。子なし。
陳誌は巴の人。洪武年間に燕山中護衛指揮僉事となる。挙兵に従い、累進して都指揮同知に至り、遂安伯に封ぜられる。陳誌は平素より恭謹をもって知られ、軍務に尽力し、終始怠ることがなかった。永楽八年五月に卒す。
孫の陳瑛が嗣ぐ。しばしば塞外に従軍し、永平・山海・薊州を鎮守し、雲州・独石を築城す。爽闓にして将材あり。然れども貪残にして、これを怨む者多し。卒し、子の陳塤が嗣ぐ。土木にて歿し、諡して栄懐と曰う。弟の陳韶が嗣ぐ。卒す。孫の陳鏸が嗣ぐ。薊州の兵を総べる。朵顔が寇すも、これを防ぎ退ける。嘉靖初年、奉迎の功を叙し、太子太保を加えられ、少保に進み、委任の重さは武定侯郭勛に次ぐ。伯を嗣いで六十余年にして卒す。さらに五伝して明は亡ぶ。
賛に曰く、張武・陳珪ら諸人は、或いは藩封より挙兵に従い、或いは率先して帰附し、皆偏裨の列校に過ぎず、勇略智計を以て大将の材と称せられるものではない。一旦風雲の会に遭い、符を剖ち功を策し、佐命と号され、太祖の開国諸臣と並び、庸を酬うるの義、厚からずや。