姚廣孝
姚廣孝は長洲の人で、もとは医者の子であった。十四歳の時、剃髪して僧となり、名を道衍、字を斯道といった。道士の席応真に師事し、その陰陽術数の学を会得した。かつて嵩山寺を遊歴した時、相者袁珙がこれを見て言うには、「これは何たる異僧か。目は三角で、形は病虎の如く、性質は必ず殺戮を好むであろう。劉秉忠の流れである」と。道衍は大いに喜んだ。
十六年三月、入朝した。八十四歳で、病は甚だ重く、朝参できなかったが、依然として慶寿寺に住んだ。帝の車駕が二度見舞いに訪れ、語らいは甚だ歓びに満ち、金の唾壺を賜わった。何か言いたいことがあるかと問うと、広孝は言った、「僧の溥洽が長く拘束されています。どうか赦免して下さい」と。溥洽とは、建文帝の主録僧であった。初め、帝が南京に入った時、建文帝が僧となって逃げ去ったという話があり、溥洽がその様子を知っている、あるいは溥洽の所に匿われていると言う者がいた。帝はそこで別の事を理由に溥洽を拘禁した。そして給事中胡濙らに建文帝を広く探させたが、長く経っても見つからなかった。溥洽は連座して十数年拘束されていた。この時、帝は広孝の言葉により、直ちに釈放を命じた。広孝は頓首して謝した。まもなく死去した。帝は大いに悼み、二日間朝政を止め、役所に喪を治めさせ、僧礼をもって葬らせた。推誠輔国協謀宣力文臣・特進栄禄大夫・上柱国・栄国公を追贈し、諡して恭靖といった。房山県東北に葬ることを賜わった。帝は自ら神道碑を撰してその功績を記した。養子の継を尚宝少卿に任じた。
広孝は若くして学問を好み、詩をよくした。王賓・高啓・楊孟載と親しく交わった。宋濂・蘇伯衡もまた推奨した。晩年に『道余録』を著し、先儒をかなり誹謗したので、識者はこれを卑しんだ。長洲に至った時、同腹の姉を訪ねたが、姉は受け入れなかった。友人王賓を訪ねたが、王賓も会おうとせず、ただ遠くから言葉をかけて言うには、「和尚は誤りました、和尚は誤りました」と。再び姉に会いに行くと、姉は罵った。広孝は茫然とした。
張玉
張玉は、字を世美といい、祥符の人である。元に仕えて枢密知院となった。元が滅亡すると、従って漠北に走った。洪武十八年に帰順した。大軍に従って塞外に出、捕魚児海に至り、功により済南衛副千戸に任じられ、安慶衛指揮僉事に遷った。また遠順・散毛などの諸洞に征伐に従った。北辺を侵す元の者を追って鴉寒山に至り、引き返し、燕山左護衛に転任した。燕王に従って塞外に出、黒松林に至った。また野人諸部の征伐に従った。驍勇果断で謀略に長けていたため、王に親任された。
江陰侯呉高、遼東の兵を以て永平を囲む。曹国公李景隆、数十万の衆を引きて将に北平を攻めんとす。成祖、玉と謀り、先ず永平を援く。至れば則ち高遁走す、玉追撃して斬ること甚だ衆し。遂に間道より大寧を襲い、その衆を抜きて還り、会州に次ぐ。初めて五軍を立て、玉を以て中軍を将とす。時に李景隆は既に北平を囲み、成祖は師を旋し、鄭村壩に大戦し、景隆敗る。成祖は勝に乗じて城下に抵る。城中の兵は鼓噪して出で、内外より夾攻し、南軍大いに潰る。
明年、広昌・蔚州・大同を攻むるに従う。諜報す、景隆潰卒を収め、百万と号し、且つ復た至らんとす。玉曰く、「兵は神速を貴ぶ、請う先ず白溝河を拠り、以て逸を待ち労すべし」と。河上に三日駐す、景隆至る。精騎を以て馳せ撃ち、復た大いにこれを敗る。進みて德州を抜き、奔を追って済南に至り、その城を三月囲み、囲みを解きて還る。尋いで再び出で、滄州を破り、徐凱を擒う。進みて東昌を攻め、盛庸の軍と遇う。成祖は数十騎を以てその後を繞り出づ。庸これを数重に囲む、成祖奮撃して出づるを得。玉は成祖の所在を知らず、陣中に突入して力戦し、格殺すること数十人、創を受けて死す。年五十八。
子三人、長は輔、次は輗、次は軏、従子に信。輔は自ら伝有り。
子 輗等
朱能
朱能、字は士弘、懐遠の人。父亮、太祖に従い江を渡り、功を積みて燕山護衛副千戸に至る。能職を嗣ぎ、成祖の藩邸に事う。嘗て北征に従い、元の太尉乃児不花を降す。
燕王の兵が起こると、張玉と共にまず張昺・謝貴を殺し、九門を奪った。指揮同知を授けられた。兵を率いて薊州を抜き、馬宣を殺し、遵化を下した。雄県攻略に従い、月漾橋で戦い、楊松・潘忠を捕らえ、その兵を鄚州で降した。長駆して真定に至り、耿炳文軍を大いに破った。ただ三十騎の敢死士と共に追撃して滹沱河に至り、馬を躍らせて大呼し南軍に突撃し、数万の軍は皆なびき、踏み躙られて死ぬ者甚だ多く、三千余人を降した。成祖は手紙を以て労い、都指揮僉事に進めた。永平救援に従い、呉高を走らせ、大寧を襲って陥れた。帰還し、左軍を将いて、鄭村壩で李景隆を破った。広昌・蔚州・大同攻略に従い、白溝河で戦い、前鋒として、再び平安の軍を破った。済南を攻め、鏵山に駐屯した。南軍が高所に陣を布いたが、奇兵を以てその背後を回り、襲撃して破り、万余りを降した。滄州攻略に従い、東門を破って入り、首級万余りを斬った。東昌の戦いでは、盛庸・鉄鉉が成祖を数重に囲んだ。張玉は戦死した。事態急を告げ、周長らを率いて死闘を繰り広げ、成祖を翼護して包囲を突破させた。また夾河の戦いに従い、譚淵が死に、燕師は挫けた。能が到着し、再戦して再び勝利し、軍勢は再び振るった。平安と槁城で戦い、これを破った。追撃して真定に至り、彰徳・定州の地を略し、西水寨を破った。軽騎千人を率いて衡水を掠め、指揮賈栄を捕らえた。東阿・東平を陥れ、汶上の諸寨をことごとく破った。やがて王真が淝河で戦死し、燕軍はたびたび敗れた。諸将が退却を議論すると、能ひとり剣を按じて言った、「漢の高祖は十戦九敗して、終に天下を得た。今挙事して連勝を得ている。小敗してすぐに帰るならば、さらにどうして北面して人に仕えられようか」。成祖もまた諸将を叱って言った、「任せよ、諸卿の行くところに」。諸将はそこで敢えて言わなかった。そこで兵を率いて南進し、平安の銀牌軍を破った。都督陳暉が来援したが、またこれを破った。そこで霊璧の軍を抜き、平安らを生け捕りにし、十万の兵を降した。累進して右軍都督僉事となった。泗州を陥れ、淮を渡り、盛庸の兵を破った。盱眙を抜き、揚州を下し、江を渡り、金川門に入った。
能は諸将の中で最も年少で、戦を善くし、張玉は謀略に長け、帝は左右の手として頼りにした。玉の没後、軍中の進退は全て能に諮った。能は身長八尺。雄毅で開豁、家にあっては孝友であった。上公の位に列しながら、富貴を以て人に驕ることなかった。士卒を善く撫でた。卒去の日、将校は皆涙を流した。勅して昌平に葬り、東平王を追封し、諡して武烈とした。洪熙の時、成祖廟廷に配享された。
さらに三伝して希忠に至り、世宗に従って承天に幸し、行在の左府の事を掌った。衛輝に至り、行宮が夜中に火災となったが、希忠は都督陸炳と共に帝を翼護して脱出させ、これにより恩遇を受け、西苑に入って直した。後・右の両府を歴任し、神機営を総べ、十二団営及び五軍営を提督し、累進して太師に加えられ、歳禄七百石を加増された。郊天を代行すること三十九回、賞賜は数えきれなかった。卒し、定襄王を追封し、諡して恭靖とした。万暦十一年、給事中余懋学の上言により、王爵を追奪された。弟の希孝も都督に至り、太保を加えられた。卒し、太傅を贈られ、諡して忠僖とした。
希忠より五伝して曾孫の純臣に至り、崇禎の時に倚任された。李自成が京師に迫ると、帝は自ら純臣を刺して中外諸軍の総督とし、太子を輔けさせた。勅が下らぬうちに、城は既に陥落し、賊に殺された。
邱福
邱福、鳳陽の人。卒伍より起こり、成祖の藩邸に仕えた。多年の労により、燕山中護衛千戸を授けられた。燕師が起こると、朱能・張玉と共にまず九門を奪った。真定で大戦し、子城に突入した。白溝河で戦い、勁卒を以て中堅を衝いた。夾河・滄州・霊璧の諸大戦では、皆軍鋒となった。盛庸の兵が淮を扼し、戦艦数千艘が淮岸を蔽った。福は朱能と共に数百人を率い、西へ二十里行き、上流より密かに渡河し、不意に南軍に迫った。庸は驚いて逃走し、その戦艦を全て奪い、軍はようやく渡河できた。累進して中軍都督同知に至った。
漢王高煦はたびたび兵を将いて功があり、成祖はこれを愛した。福は武人で、彼と親しく、たびたび太子に立てるよう勧めた。帝は長らく躊躇したが、ついに仁宗を立てた。福を太子太師とした。六年、歳禄千石を加増した。まもなく蹇義・金忠らと共に皇長孫を輔導することを命じられた。翌年七月、大軍を将いて塞外に出で、臚朐河に至り、敗れて没した。
先に、本雅失里が使臣郭驥を殺害したので、帝は大いに怒り、兵を発してこれを討つことを命じた。邱福に征虜大将軍の印を佩かせ、総兵官を充てさせた。武城侯王聰・同安侯火真を左・右副将とし、靖安侯王忠・安平侯李遠を左・右参将として、十万騎を率いて出陣させた。帝は福が敵を軽んじることを憂慮し、諭して言った。「軍事は慎重を要する。開平より以北は、すなわち敵を見ないであろう。常時敵に対するが如くし、機を見て進退すべく、一つの方策に固執してはならない。一度の挙兵で勝利しなければ、再挙を待て。」既に出発した後も、さらに続けて勅を賜い、軍中に敵は容易に取れると言う者がいても、慎んでこれを信じてはならないと述べた。福は塞外に出て、千余人を率いて先ず臚朐河の南に至った。遊騎と遭遇し、これを撃破して、遂に河を渡った。その尚書一人を捕らえ、酒を飲ませて、本雅失里の所在を尋ねた。尚書は言った。「大軍の来襲を聞き、恐れ慌てて北へ逃走し、ここからおよそ三十里のところに去りました。」福は大いに喜んで言った。「直ちに疾駆してこれを捕らえるべきである。」諸将は諸軍が集結するのを待ち、虚実を偵察してから進むよう請うた。福は従わなかった。尚書を案内役として、まっすぐに敵営に迫った。二日間戦い、戦うごとに、敵はいつも偽って敗走し、退いていった。福は鋭意これに乗じようとした。李遠が諫めて言った。「将軍は軽率に敵の間者を信じ、孤立した軍を率いて転戦している。敵は弱さを示して我々を深く誘い込んでおり、進めば必ず不利であり、退けば逆に乗じられることを恐れる。ただ陣営を結んで自らを固守するのみである。昼は旗を揚げ鼓を伐ち、奇兵を出して挑戦し、夜は多く炬火を燃やし砲を鳴らし、軍勢を張り、彼らに測り知らせぬようにすべきです。我が軍が全て到着するのを待ち、力を合わせてこれを攻めれば、必ず勝利するでしょう。そうでなくとも、全軍を率いて帰還することもできます。そもそも上(皇帝)が将軍に言われたことは如何なることであったか、どうして忘れてしまわれたのですか。」王聰もまた強く不可であると言った。福は皆聞き入れず、声を厲して言った。「命令に違う者は斬る。」即ち先ず駆け出し、士卒に従うよう指揮した。馬を制する者も皆涙を流した。諸将は已むなくこれに従った。間もなく敵が大挙して到来し、これを数重に包囲した。聰は戦死し、福及び諸将は皆捕らえられて害され、六十七歳、一軍は皆没した。敗報を聞き、帝は震怒した。諸将に任に足る者がいないとして、親征を決意した。福の世襲の爵位を剥奪し、その家族を海南に移した。
李遠、王忠、王聰、火真
遠は沈毅で胆略があり、言論は慷慨であった。既に邱福に従って塞外に出、臚朐河に至った。福を諫めたが、聞き入れられず、軍は敗れた。遠は五百騎を率いて敵陣を突破し、数百人を殺したが、馬が躓いて捕らえられ、罵りを絶やさずに死んだ。四十六歳。追封して莒国公とし、諡して忠壮といった。
王忠は、孝感の人である。李遠とともに蔚州で降伏した。戦うごとに、精騎を率いて奇兵となり、多く斬獲を得た。累進して都督僉事となり、靖安侯に封ぜられ、禄千石。塞外に出て戦死し、五十一歳、爵は除かれた。
王聰は、蘄水の人である。燕山中護衛百戸として挙兵に従った。薊州を奪い、遵化を攻め、涿州を巡行した。転戦して茌平・滑口で、南軍を破り、千五百匹の馬を獲た。戻って保定を守った。江上に駐屯することに従い、南軍の舟を略奪して兵を渡した。累進して都指揮使となった。武城侯に封ぜられ、禄千五百石。同安侯火真とともに宣府に備え防禦した。たびたび詔を受けて辺境を巡視した。邱福に従って塞外に出て、戦死し、五十三歳。追封して漳国公とし、諡して武毅といった。子の琰が嗣いだ。聰及び遠はかつて福を諫めたので、褒賞と撫恤を受けることができた。
火真は、蒙古の人で、初名は火裏火真といった。洪武の時に帰順し、燕山中護衛千戸となった。真定攻めに従い、先駆けて耿炳文の陣に突撃し、大軍がこれに乗じ、遂に勝利した。大寧襲撃に従い、鄭村壩で戦った。日が暮れ、天候は甚だ寒く、真は古びた鞍を集めて火を焚き成祖の前に供した。甲士数人が火に駆け寄ろうとしたが、衛士がこれを止めた。成祖は言った。「我は重ねた裘を着ていてもなお寒い。これらは皆壮士である。止めてはならない。」聞いた者は感動して泣いた。真はかつて騎兵を率い、戦うごとに斬獲があり、勝ち鬨をあげて帰営し、衆はその勇を服した。累進して都督僉事となり、同安侯に封ぜられ、禄千五百石。塞外に出て戦死し、六十一歳。爵は除かれた。子孫は世襲で観海衛千戸となった。
末裔の孫の斌は、嘉靖年間に武挙に及第した。倭寇が浙東を寇すると、海舟を率いて賊と戦った。賊が火球を燃やして斌の舟に投げつけると、斌はいつも手でこれを受け止め、返して賊の舟を焼いた。賊が補陀山に屯すると、斌は直ちにその営を攻め、多く殺傷した。後続の軍が続かず、捕らえられた。屈せず、賊は彼を八つ裂きにした。官は祠を建てて「忠勇」と称した。
譚淵
譚淵は、清流の人である。父の職を嗣ぎ燕山右護衛副千戸となった。燕兵が起こると、これに従って九門を奪った。雄県を破った。潘忠・楊松が鄚州から来援し、淵は壮士千余人を率い、月漾橋の水中に伏せ、人は茭草一束を持ち、頭を覆って鼻息を通じた。南軍が既に通過すると、即ち出て橋を占拠した。忠等は戦いに敗れ、橋に向かったが渡ることができず、遂に捕らえられた。累進して都指揮同知となった。
淵は驍勇で戦を善くし、二石の弓を引き、射て当たらぬことはなかった。しかし性質は殺戮を好んだ。滄州が陥落した時、成祖は牒を与えて降卒を解散させよと命じた。未だ遣わされていない者三千余人が、明朝に牒を与えるのを待っていた。淵は一夜のうちにこれを皆殺しにした。王(成祖)は怒った。淵は言った。「これらは皆壮士です。釈放すれば後の患いとなります。」王は言った。「お前の言う通りならば、敵を皆殺しにすべきであろう。敵を尽くすことができようか。」淵は慚じて退いた。
夾河の戦いで、南軍の陣が動き塵が上がった。淵は急いで前進して戦いを交え、馬が躓いて殺された。成祖はこれを悼み惜しんだ。即位すると、都指揮使を追贈し、追封して崇安侯とし、諡して壮節といった。祠を立ててこれを祀った。
王真
王真は咸寧の人である。洪武年間、卒伍より起り、功を積んで燕山右護衛百戸に至った。燕兵起こり、九門を攻め、永平・真定に戦い、広昌を下し、雁門を徇った。滄州を破るに従い、南兵を滑口まで追撃し、七千余人を俘獲した。累遷して都指揮使となった。淝河の戦いにおいて、真は白義・劉江と各々百騎を率いて平安の軍を誘った。草を縛って囊中に置き、束帛の状と為し、安が追撃すると、真らは偽って囊を棄てて走り、安の軍士は競ってこれを取った。伏兵発し、両軍鏖戦す。真は壮士を率いて直ちに前進し、斬馘数を知らず。後軍続かず、安の軍はこれを数重に囲んだ。真は重創を受け、連ねて数十人を格殺し、左右を顧みて言うには「我は義をもって敵の手に死せず」と。遂に自刎した。成祖即位し、金郷侯を追封し、諡して忠壯という。
真は勇健にして智略あり。成祖は毎度これを追悼して言うには「王真の如く奮武すれば、何の功か成らざらん。死せずんば、功は諸将の冠たるべし」と。仁宗の時、寧国公を追封し、号を加えて效忠と為す。子の通は自ら伝あり。
陳亨
燕師起こり、亨は劉真・卜万と大寧を守った。兵を移して松亭関を出、沙河に駐し、遵化を攻めんと謀った。燕兵至り、退いて関を保つ。当時、李景隆が五十万の衆を率いて北平を攻めんとす。北平は勢弱く、大寧行都司の領する興州・営州二十余衛は皆西北の精鋭なり。朵顔・泰寧・福余の三衛は、元の降将の統ぶる番騎広卒、特に驍勇なり。卜万は将に景隆の軍と合わんとす。成祖懼れ、計をもって亨を紿いて万を囚え、遂に劉家口の間道より疾く大寧を攻む。亨及び劉真は松亭より回救す。中道にて大寧破れたるを聞き、乃ち指揮徐理・陳文等と謀りて燕に降らんとす。夜二鼓、劉真の営を襲う。真は単騎にて広寧に走り、亨等は衆を率いて降る。成祖は諸軍及び三衛の騎卒を尽く抜き、寧王を挟んで帰る。ここより沖鋒陷陣多くは三衛の兵なり。成祖の天下を取るは、大寧を克つより始まる。
亨・理既に降り、累ねて南軍を破るに従う。白溝河の戦い、亨は創を受け幾くも死す。已にして済南を攻め、平安と鏵山に戦い、大敗す。創甚だしく、輿にて北平に還る。都督同知に進む。成祖還軍し、親しく亨の第に詣りて労問す。その年十月卒す。成祖自ら文を為して以て祭る。即位に比し、涇国公を追封し、諡して襄敏という。長子の恭、都督同知を嗣ぐ。
子 懋
懋は髯を修め貌偉く、声洪鐘の如し。胸次磊落にして、士大夫を敬礼す。「靖難」の功臣、天順の時に至りて在る者無し。惟だ懋久しく禄位を享け、数度廃され数度起き、卒に功名を以て終わる。
長子の晟は罪有り。弟の潤嗣ぐ。潤卒し、弟の瑛嗣ぐ。禄の半を減じ、侯を嗣ぐ。十六年にして晟の子の輔既に長ず。乃ち輔をして嗣がしめ、瑛は免じて勲衛と為す。輔後ち事に坐して侯を失う。卒し、子無し。復た瑛の孫の継祖を封じて侯と為し、爵を伝えて明の亡ぶるに至る。
徐理 陳文 房寛 劉才
徐理は西平の人。洪武の時、永清中護衛指揮僉事となり、営州衛に改めた。降った後、右軍副将となる。戦うごとに先鋒を務め、功績があった。成祖が滄州を襲おうとした時、理と陳旭に命じて直沽に密かに浮橋を造らせ、軍を渡した。累進して都指揮僉事となり、武康伯に封ぜられた。後に北平を守った。理は部下を寛大に扱い、士卒の心を得た。永楽六年に卒去。再び伝わって孫の勇に至り、子がなく封は絶えた。
陳文は、降った後、前軍左副将となった。小河で戦い、陣中にて死す。
房寛は陳州の人。洪武中、済寧左衛指揮として徐達に従い北平で練兵し、北平都指揮同知となり、大寧を守るに移った。寛は辺境に長く在り、山川の要害、異域の実情をことごとく知ったが、士卒を慰撫することはできなかった。燕兵が急に至ると、城中で寛を縛って降った。成祖はこれを釈放し、その衆を率いさせた。白溝河で戦い、右軍を率いたが、敗れた。広昌・彰徳を攻略するに従い、都督僉事に進んだ。旧臣であることを以て、その過失を大目に見た。思恩侯に封ぜられ、禄八百石、世襲で指揮使とした。永楽七年に卒去。
劉才は字を子才といい、霍丘の人。元末に元帥となり、明が興って帰順し、営州中護衛指揮僉事を歴任した。燕師が大寧を襲うと、才は降った。戦いに従い功績があり、広恩伯に封ぜられ、禄九百石、世襲で指揮同知とした。永楽八年、北征に従い、右掖を督した。軍律を失い罪に問われたが、後にこれを赦した。二十一年、隆平侯張信とともに永平・山海の辺務を処理した。翌年また北征に従い、懐来に至り、病により帰還した。才は誠実で飾り気がなく、軽々しく迎合せず、また人を軽々しく誹謗せず、仁宗に大いに重んぜられた。宣徳五年に卒去。
賛
賛に曰く、恵帝は太祖の遺威余烈を承け、国勢は初めて張り、仁聞は昭かに宣べられ、衆心は悦んで附した。成祖は方隅より奮起し、天下を争うに不韙を冒して、未だ万全の計有らざりき。ここに道衍がまず密謀を賛し、機を発して策を決す。張玉・朱能の輩は力を間に行間に戮し、転戦して前に向かい、身を隕とすも顧みず。ここに勁旅を収め、雄師を摧き、四年にして帝業を成す。意うらくは天の興すところ、群策群力、時に応じて並び済う。諸人の功臣の首たるを得るは、厚幸と謂わざるべけんや。