明史

列傳第三十三 姚廣孝 張玉 朱能 丘福 譚淵 王真 陳亨

姚廣孝

姚廣孝は長洲の人で、もとは医者の子であった。十四歳の時、剃髪して僧となり、名を道衍、字を斯道といった。道士の席応真に師事し、その陰陽術数の学を会得した。かつて嵩山寺を遊歴した時、相者袁珙がこれを見て言うには、「これは何たる異僧か。目は三角で、形は病虎の如く、性質は必ず殺戮を好むであろう。劉秉忠の流れである」と。道衍は大いに喜んだ。

洪武年間、儒学に通じた僧を礼部で試験する詔勅が下った。官職は受けず、僧服を賜わって帰った。北固山を経由した時、詩を賦して古を懐かしんだ。その同輩の宗泐が言うには、「これはまさか仏者の言葉であろうか」と。道衍は笑って答えなかった。高皇后が崩じると、太祖は高僧を選んで諸王に侍らせ、経を誦して福を薦めさせた。宗泐は当時左善世であったが、道衍を推薦した。燕王(後の成祖)が語り合うと大いに意気投合し、従えることを請うた。北平に至り、慶寿寺の住持となった。燕王府に出入りし、その行跡は甚だ密で、時々人を屏いて語り合った。太祖が崩じ、恵帝が立つと、順次諸王の封土を削奪した。周王・湘王・代王・齊王・岷王が相次いで罪を得た。道衍は密かに成祖に挙兵を勧めた。成祖が言うには、「民心は彼(恵帝)に向かっている。どうしたものか」と。道衍は言った、「臣は天道を知ります。民心など論ずるに足りません」と。そこで袁珙と卜者の金忠を進めた。こうして成祖の決意はますます固まった。密かに将校を選び、兵卒を徴発し、材勇異能の士を集めた。燕邸はもと元朝の宮殿で、奥深かった。道衍は後苑で兵を訓練した。地下に穴を掘って重層の屋舎を作り、厚い塀で囲み、密かに甎瓦や瓶甕を積み、日夜軍器を鋳造し、鵞鴨を飼ってその音をかき消した。建文元年六月、燕王府の護衛百戸倪諒が変事を上告した。詔して府中の官属を逮捕させた。都指揮張信が成祖に誠意を伝え、成祖はついに挙兵を決断した。折しも大風雨が至り、檐瓦が地に堕ちた。成祖の顔色が変わった。道衍が言うには、「これは祥瑞です。飛龍天に在り、風雨これに従う。瓦が堕ちるは、将に黄(皇帝の色)に換わらんとする兆しです」と。兵を起こし、齊泰・黄子澄を誅することを名目とし、その衆を「靖難の師」と号した。道衍は世子を輔けて居守を務めた。その年十月、成祖が大寧を襲撃し、李景隆が隙に乗じて北平を包囲した。道衍の守備は甚だ堅固で、攻撃者を撃退した。夜、壮士を縋り下ろして南軍を撃傷させた。援軍が至り、内外合撃して斬首数え切れず。景隆・平安らは先後に敗走した。成祖が済南を三月にわたって包囲したが、陥落させられなかった。道衍が急使を走らせて書を送り、「軍は疲れました。どうか軍を返してください」と言った。そこで引き返した。再び東昌を攻撃したが、戦いに敗れ、大将張玉を失い、また戻った。成祖は少し休養したいと考えたが、道衍は強く促した。さらに勇士を募り、盛庸を破り、房昭の西水寨を陥落させた。道衍は成祖に言った、「城邑を攻め落とすことに拘らず、速やかに京師に向かってください。京師は手薄で弱く、その勢い必ず陥ちましょう」と。これに従った。こうして淝河・霊璧において諸将を連破し、江を渡って京師に入った。

成祖が帝位に即くと、道衍を僧録司左善世に任じた。帝が藩王であった時、接する者は皆武人であったが、ただ道衍のみが起兵の策を定めた。帝が山東・河北を転戦した時、軍中に三年おり、時に帰還し時にせず、戦守の機密事項は全て道衍が決断した。道衍は一度も戦陣に臨んだことはなかったが、帝が用兵して天下を得たのは、道衍の力が多かった。功績を論じて第一とした。永楽二年四月、資善大夫・太子少師に拝された。姓を復し、広孝の名を賜わり、祖父と父に同じ官を追贈した。帝が語りかける時は、少師と呼んで名を呼ばなかった。髪を蓄えるよう命じたが、肯わなかった。邸宅と二人の宮人を賜わったが、いずれも受けなかった。常に僧寺に住み、朝には冠帯し、退くとまた黒衣に戻った。蘇州・湖州の救済に出向き、長洲に至ると、賜わった金帛を宗族や郷人に分け与えた。『太祖実録』を重修し、広孝が監修となった。また解縉らとともに『永楽大典』を纂修した。書が完成すると、帝はこれを褒め称えた。帝が両都を往来し、塞外に出て北征する時、広孝は常に南京に留まって太子を輔佐した。五年四月、皇長孫が出閣して学問を始めると、広孝は侍読を務めた。

十六年三月、入朝した。八十四歳で、病は甚だ重く、朝参できなかったが、依然として慶寿寺に住んだ。帝の車駕が二度見舞いに訪れ、語らいは甚だ歓びに満ち、金の唾壺を賜わった。何か言いたいことがあるかと問うと、広孝は言った、「僧の溥洽が長く拘束されています。どうか赦免して下さい」と。溥洽とは、建文帝の主録僧であった。初め、帝が南京に入った時、建文帝が僧となって逃げ去ったという話があり、溥洽がその様子を知っている、あるいは溥洽の所に匿われていると言う者がいた。帝はそこで別の事を理由に溥洽を拘禁した。そして給事中胡濙らに建文帝を広く探させたが、長く経っても見つからなかった。溥洽は連座して十数年拘束されていた。この時、帝は広孝の言葉により、直ちに釈放を命じた。広孝は頓首して謝した。まもなく死去した。帝は大いに悼み、二日間朝政を止め、役所に喪を治めさせ、僧礼をもって葬らせた。推誠輔国協謀宣力文臣・特進栄禄大夫・上柱国・栄国公を追贈し、諡して恭靖といった。房山県東北に葬ることを賜わった。帝は自ら神道碑を撰してその功績を記した。養子の継を尚宝少卿に任じた。

広孝は若くして学問を好み、詩をよくした。王賓・高啓・楊孟載と親しく交わった。宋濂・蘇伯衡もまた推奨した。晩年に『道余録』を著し、先儒をかなり誹謗したので、識者はこれを卑しんだ。長洲に至った時、同腹の姉を訪ねたが、姉は受け入れなかった。友人王賓を訪ねたが、王賓も会おうとせず、ただ遠くから言葉をかけて言うには、「和尚は誤りました、和尚は誤りました」と。再び姉に会いに行くと、姉は罵った。広孝は茫然とした。

洪熙元年、少師を加贈し、成祖の廟庭に配享された。嘉靖九年、世宗が閣臣に諭して言うには、「姚広孝は天命を輔けて帝業を興し、功労と業績ともにあった。しかし釈氏の徒に属する。功臣の列に並べ、太廟に陪食させるのは、恐らく祖宗を尊敬するに足りないであろう」と。そこで尚書李時が大学士張璁・桂萼らと協議し、大興隆寺に移して祀り、太常寺が春秋に祭祀を行うことを請うた。詔して「よろしい」と言った。

張玉

張玉は、字を世美といい、祥符の人である。元に仕えて枢密知院となった。元が滅亡すると、従って漠北に走った。洪武十八年に帰順した。大軍に従って塞外に出、捕魚児海に至り、功により済南衛副千戸に任じられ、安慶衛指揮僉事に遷った。また遠順・散毛などの諸洞に征伐に従った。北辺を侵す元の者を追って鴉寒山に至り、引き返し、燕山左護衛に転任した。燕王に従って塞外に出、黒松林に至った。また野人諸部の征伐に従った。ぎょう勇果断で謀略に長けていたため、王に親任された。

建文元年、成祖が兵を起こす。張玉は衆を率いて北平の九門を奪い、城内・城外を撫諭し、三日にして平定した。軍が南に向かわんとする時、玉は計を献じ、朱能を遣わして東より薊州を攻め、馬宣を殺し、遵化を降す。兵を分けて永平・密雲を下し、皆その精鋭の甲兵を致して軍を増強した。都指揮僉事に抜擢される。この時、朝廷は大兵を遣わして燕を討つ:都督ととく徐凱は河間に軍す;潘忠・楊松は鄚州に軍す;長興侯耿炳文は三十万の衆を以て真定に軍す。玉は進み説いて曰く、「潘・楊は勇にして謀無し、襲って俘虜とすべし」と。成祖は命じて玉に親兵を将いて前鋒と為らしめ、楼桑に抵る。時に中秋、南軍は宴会中なり。夜半、疾駆して雄県を破る。忠・松来援す、月漾橋に邀撃し、生擒す。遂に鄚州を克つ。自ら軽騎を以て炳文の軍を覘う。還りて言う、「軍に紀律無く、その上に敗気有り、急撃すべし」と。成祖は遂に兵を引き西し、無極に至り、諸将を顧みて向かう所を謀る。諸将は南軍盛んなりとして、新楽に屯するを請う。玉曰く、「彼は衆と雖も、皆新たに集まる。我が軍は勝に乗じて径ちに真定に趨れば、これを破る必ずや」と。成祖喜びて曰く、「吾れ玉に倚りて以て大事を済すに足る!」明日、真定に抵り、大いに炳文の軍を破り、副将李堅・寧忠、都督顧成等を獲、斬首三万。復た安陸侯呉傑の軍を敗る。燕兵はここに由って大いに振るう。

江陰侯呉高、遼東の兵を以て永平を囲む。曹国公李景隆、数十万の衆を引きて将に北平を攻めんとす。成祖、玉と謀り、先ず永平を援く。至れば則ち高遁走す、玉追撃して斬ること甚だ衆し。遂に間道より大寧を襲い、その衆を抜きて還り、会州に次ぐ。初めて五軍を立て、玉を以て中軍を将とす。時に李景隆は既に北平を囲み、成祖は師を旋し、鄭村壩に大戦し、景隆敗る。成祖は勝に乗じて城下に抵る。城中の兵は鼓噪して出で、内外より夾攻し、南軍大いに潰る。

明年、広昌・蔚州・大同を攻むるに従う。諜報す、景隆潰卒を収め、百万と号し、且つ復た至らんとす。玉曰く、「兵は神速を貴ぶ、請う先ず白溝河を拠り、以て逸を待ち労すべし」と。河上に三日駐す、景隆至る。精騎を以て馳せ撃ち、復た大いにこれを敗る。進みて德州を抜き、奔を追って済南に至り、その城を三月囲み、囲みを解きて還る。尋いで再び出で、滄州を破り、徐凱を擒う。進みて東昌を攻め、盛庸の軍と遇う。成祖は数十騎を以てその後を繞り出づ。庸これを数重に囲む、成祖奮撃して出づるを得。玉は成祖の所在を知らず、陣中に突入して力戦し、格殺すること数十人、創を受けて死す。年五十八。

燕兵起こりてより、転闘三年、鋒鋭甚だし。ここに至りて大将を失い、一軍気を奪わる。師は北平に還り、諸将は叩頭して罪を請う。成祖曰く、「勝敗は常の事、計うるに足らず、玉を失いしを恨むのみ。艱難の際、我が良輔を失う」と。因りて泣下して止む能わず、諸将皆泣く。その後、譚淵は夾河に没し、王真は淝河に没すと雖も、悼惜するも玉の如くにはあらず。建文四年六月、成祖帝を称し、玉に都指揮同知を贈る。九月甲申、栄国公を追贈し、諡して忠顕と曰う。洪熙元年三月、河間王を加封し、諡を忠武と改め、東平王朱能・金郷侯王真・栄国公姚広孝と並び成祖廟廷に侑享す。

子三人、長は輔、次は輗、次は軏、従子に信。輔は自ら伝有り。

子 輗等

輗、功臣の子として神策衛指揮使と為る。正統五年、英国公輔、輗が墳墓守護者を殴打し、先臣に及ぶを斥け、詞多く悖慢なりと訴う。帝は錦衣衛に命じて実を鞫かしめ、これを錮し、尋いで釈す。三遷して中府右都督に至り、宿衛を領す。景泰三年、太子太保を加う。英宗復位し、軏の迎立の功を以て、並びに輗を文安伯に封じ、食禄千二百石。天順六年卒す。侯を贈り、諡して忠僖と曰う。子斌嗣ぐ、詛咒に坐し、爵を奪わる。

軏、永楽中に宿衛に入り、錦衣衛指揮僉事と為る。宣宗に従い高煦を征し、また成国公朱勇に従い塞を出でて氈帽山に至る。正統十三年、副総兵として麓川を征す。還り、貴州の叛苗を討つ。功を積みて前府右都督と為り、京営兵を総べる。景泰二年、驕淫不道に坐して獄に下り、尋いで釈す。景帝せず、石亨・曹吉祥と南城にて上皇を迎う。太平侯に封ぜられ、食禄二千石。于謙・王文・範広の死は、軏力有り焉。賄を納れ政を乱すこと、亨に次ぐ。天順二年卒す。裕国公を贈り、諡して勇襄と曰う。子瑾嗣ぐ。成化元年、「奪門」の功を革め、侯を奪い、指揮使を授く。

信、建文二年の郷試第一に挙がる。永楽中、歴て刑科都給事中、数え言事す。工部右侍郎に擢でられる。命を受け開封の決河を視、魚王口より中灤の故道二十余里を疏くを請う。詔してその議の如くす、詳しくは『宋礼伝』に在り。出でて浙江の海塘を治め、事に坐して交阯に謫せらる。洪熙初、召されて兵部左侍郎と為る。帝嘗て英国公輔に謂いて曰く、「兄弟に恩を加うべき者有るか」と。輔頓首して言う、「輗・軏は上恩を蒙り、近侍に備わる、然れども皆奢侈なり。独り従兄の侍郎信賢なり、使うべし」と。帝は信を召見して曰く、「是れ英国公の兄か」と。武冠を趣いてこれを冠せしめ、錦衣衛指揮同知に改め、世襲す。時に開国未だ遠からず、武階重きが故なり。職に居りて平恕を以て称せらる。宣徳六年、四川都指揮僉事に遷る。しょくに在ること十五年、致仕す。

朱能

朱能、字は士弘、懐遠の人。父亮、太祖に従い江を渡り、功を積みて燕山護衛副千戸に至る。能職を嗣ぎ、成祖の藩邸に事う。嘗て北征に従い、元の太尉乃児不花を降す。

燕王の兵が起こると、張玉と共にまず張昺・謝貴を殺し、九門を奪った。指揮同知を授けられた。兵を率いて薊州を抜き、馬宣を殺し、遵化を下した。雄県攻略に従い、月漾橋で戦い、楊松・潘忠を捕らえ、その兵を鄚州で降した。長駆して真定に至り、耿炳文軍を大いに破った。ただ三十騎の敢死士と共に追撃して滹沱河に至り、馬を躍らせて大呼し南軍に突撃し、数万の軍は皆なびき、踏み躙られて死ぬ者甚だ多く、三千余人を降した。成祖は手紙を以て労い、都指揮僉事に進めた。永平救援に従い、呉高を走らせ、大寧を襲って陥れた。帰還し、左軍を将いて、鄭村壩で李景隆を破った。広昌・蔚州・大同攻略に従い、白溝河で戦い、前鋒として、再び平安の軍を破った。済南を攻め、鏵山に駐屯した。南軍が高所に陣を布いたが、奇兵を以てその背後を回り、襲撃して破り、万余りを降した。滄州攻略に従い、東門を破って入り、首級万余りを斬った。東昌の戦いでは、盛庸・鉄鉉が成祖を数重に囲んだ。張玉は戦死した。事態急を告げ、周長らを率いて死闘を繰り広げ、成祖を翼護して包囲を突破させた。また夾河の戦いに従い、譚淵が死に、燕師は挫けた。能が到着し、再戦して再び勝利し、軍勢は再び振るった。平安と槁城で戦い、これを破った。追撃して真定に至り、彰徳・定州の地を略し、西水寨を破った。軽騎千人を率いて衡水を掠め、指揮賈栄を捕らえた。東阿・東平を陥れ、汶上の諸寨をことごとく破った。やがて王真が淝河で戦死し、燕軍はたびたび敗れた。諸将が退却を議論すると、能ひとり剣を按じて言った、「漢の高祖こうそは十戦九敗して、終に天下を得た。今挙事して連勝を得ている。小敗してすぐに帰るならば、さらにどうして北面して人に仕えられようか」。成祖もまた諸将を叱って言った、「任せよ、諸卿の行くところに」。諸将はそこで敢えて言わなかった。そこで兵を率いて南進し、平安の銀牌軍を破った。都督陳暉が来援したが、またこれを破った。そこで霊璧の軍を抜き、平安らを生け捕りにし、十万の兵を降した。累進して右軍都督僉事となった。泗州を陥れ、淮を渡り、盛庸の兵を破った。盱眙を抜き、揚州を下し、江を渡り、金川門に入った。

九月甲申、功績を論じ、邱福に次いだ。奉天靖難推誠宣力武臣・特進栄禄大夫・右柱国・左軍都督府左都督を授けられ、成国公に封ぜられ、禄二千二百石を与えられ、世券を賜った。永楽二年、太子太傅を兼ね、禄千石を加増された。四年七月、詔して能に征夷将軍の印を佩かせ、西平侯沐晟を左副将軍とし、広西・雲南より分道して安南を討たせ、帝は自ら龍江まで送った。十月、行軍して龍州に駐屯中、軍中で卒した。年三十七。

能は諸将の中で最も年少で、戦を善くし、張玉は謀略に長け、帝は左右の手として頼りにした。玉の没後、軍中の進退は全て能に諮った。能は身長八尺。雄毅で開豁、家にあっては孝友であった。上公の位に列しながら、富貴を以て人に驕ることなかった。士卒を善く撫でた。卒去の日、将校は皆涙を流した。勅して昌平に葬り、東平王を追封し、諡して武烈とした。洪熙の時、成祖廟廷に配享された。

子の勇が嗣ぎ、元勲の子として特に任用された。都督府の事を歴任し、南京を留守した。永楽二十二年、北征に従った。宣宗が即位すると、漢庶人平定に従い、兀良哈を征討した。張輔が兵権を解かれると、詔して勇に代わらせた。勇は南北の諸衛所軍が辺境守備と輸送を兼ねるのは互いに不便であるとし、専ら南軍に輸送を、北軍に辺境守備を命ずるよう請うた。また言上した、「京軍は多く遠くに戍守し、重きを居くして軽きを馭するの道ではない。精兵十万を選んでこれを補うことを請う」。また公・侯・伯・都督の子弟を操練させるよう請うた。皆許可された。正統九年、喜峰口より出で、朶顔諸部を撃ち、富峪川に至って還り、兵部尚書徐晞に弾劾された。詔して問わなかった。まもなく功績を論じ、太保を加えられた。

勇は赤面で虬髭、状貌甚だ偉く、勇略は足りなかったが、士大夫を敬礼した。十四年、車駕に従って土木に至り、鷂児嶺で迎え戦い、伏兵に中りて戦死し、率いていた五万騎は皆没した。于謙らが勇の罪を追及して論じ、封を奪った。景泰元年、勇の子の儀が葬祭を乞うた。帝は勇が大将として、軍を喪い国を辱め、乗輿を陷れたとして、許さなかった。後に、襲封を請うた。礼部尚書胡濙がこれを支持し、また東宮冊立の恩典により嗣ぐことを得て、歳禄を千石に減じた。天順初め、勇を平陰王に追封し、諡して武湣とした。儀とその子の輔は共に南京守備を務めた。

さらに三伝して希忠に至り、世宗に従って承天に幸し、行在の左府の事を掌った。衛輝に至り、行宮が夜中に火災となったが、希忠は都督陸炳と共に帝を翼護して脱出させ、これにより恩遇を受け、西苑に入って直した。後・右の両府を歴任し、神機営を総べ、十二団営及び五軍営を提督し、累進して太師に加えられ、歳禄七百石を加増された。郊天を代行すること三十九回、賞賜は数えきれなかった。卒し、定襄王を追封し、諡して恭靖とした。万暦十一年、給事中余懋学の上言により、王爵を追奪された。弟の希孝も都督に至り、太保を加えられた。卒し、太傅を贈られ、諡して忠僖とした。

希忠より五伝して曾孫の純臣に至り、崇禎の時に倚任された。李自成が京師に迫ると、帝は自ら純臣を刺して中外諸軍の総督とし、太子を輔けさせた。勅が下らぬうちに、城は既に陥落し、賊に殺された。

邱福

邱福、鳳陽の人。卒伍より起こり、成祖の藩邸に仕えた。多年の労により、燕山中護衛千戸を授けられた。燕師が起こると、朱能・張玉と共にまず九門を奪った。真定で大戦し、子城に突入した。白溝河で戦い、勁卒を以て中堅を衝いた。夾河・滄州・霊璧の諸大戦では、皆軍鋒となった。盛庸の兵が淮を扼し、戦艦数千艘が淮岸を蔽った。福は朱能と共に数百人を率い、西へ二十里行き、上流より密かに渡河し、不意に南軍に迫った。庸は驚いて逃走し、その戦艦を全て奪い、軍はようやく渡河できた。累進して中軍都督同知に至った。

福は人となり朴直で猛勇、謀画の智計は玉に及ばず、敢戦して深く入ることは能と同等であった。戦に勝つごとに、諸将は争って虜獲を献上したが、福は常に後回しにした。成祖は毎度嘆じて言った、「丘将軍の功は、我自ら知っている」。即位し、功臣を大いに封じるに当たり、福を第一とした。奉天靖難推誠宣力武臣・特進栄禄大夫・右柱国・中軍都督府左都督を授けられ、淇国公に封ぜられ、禄二千五百石を与えられ、世券を賜った。諸功臣の封賞を議することを命じられ、政事を議する命を受けるごとに、常に福を首班とした。

漢王高煦はたびたび兵を将いて功があり、成祖はこれを愛した。福は武人で、彼と親しく、たびたび太子に立てるよう勧めた。帝は長らく躊躇したが、ついに仁宗を立てた。福を太子太師とした。六年、歳禄千石を加増した。まもなく蹇義・金忠らと共に皇長孫を輔導することを命じられた。翌年七月、大軍を将いて塞外に出で、臚朐河に至り、敗れて没した。

先に、本雅失里が使臣郭驥を殺害したので、帝は大いに怒り、兵を発してこれを討つことを命じた。邱福に征虜大将軍の印を佩かせ、総兵官を充てさせた。武城侯王聰・同安侯火真を左・右副将とし、靖安侯王忠・安平侯李遠を左・右参将として、十万騎を率いて出陣させた。帝は福が敵を軽んじることを憂慮し、諭して言った。「軍事は慎重を要する。開平より以北は、すなわち敵を見ないであろう。常時敵に対するが如くし、機を見て進退すべく、一つの方策に固執してはならない。一度の挙兵で勝利しなければ、再挙を待て。」既に出発した後も、さらに続けて勅を賜い、軍中に敵は容易に取れると言う者がいても、慎んでこれを信じてはならないと述べた。福は塞外に出て、千余人を率いて先ず臚朐河の南に至った。遊騎と遭遇し、これを撃破して、遂に河を渡った。その尚書一人を捕らえ、酒を飲ませて、本雅失里の所在を尋ねた。尚書は言った。「大軍の来襲を聞き、恐れ慌てて北へ逃走し、ここからおよそ三十里のところに去りました。」福は大いに喜んで言った。「直ちに疾駆してこれを捕らえるべきである。」諸将は諸軍が集結するのを待ち、虚実を偵察してから進むよう請うた。福は従わなかった。尚書を案内役として、まっすぐに敵営に迫った。二日間戦い、戦うごとに、敵はいつも偽って敗走し、退いていった。福は鋭意これに乗じようとした。李遠が諫めて言った。「将軍は軽率に敵の間者を信じ、孤立した軍を率いて転戦している。敵は弱さを示して我々を深く誘い込んでおり、進めば必ず不利であり、退けば逆に乗じられることを恐れる。ただ陣営を結んで自らを固守するのみである。昼は旗を揚げ鼓を伐ち、奇兵を出して挑戦し、夜は多く炬火を燃やし砲を鳴らし、軍勢を張り、彼らに測り知らせぬようにすべきです。我が軍が全て到着するのを待ち、力を合わせてこれを攻めれば、必ず勝利するでしょう。そうでなくとも、全軍を率いて帰還することもできます。そもそも上(皇帝)が将軍に言われたことは如何なることであったか、どうして忘れてしまわれたのですか。」王聰もまた強く不可であると言った。福は皆聞き入れず、声を厲して言った。「命令に違う者は斬る。」即ち先ず駆け出し、士卒に従うよう指揮した。馬を制する者も皆涙を流した。諸将は已むなくこれに従った。間もなく敵が大挙して到来し、これを数重に包囲した。聰は戦死し、福及び諸将は皆捕らえられて害され、六十七歳、一軍は皆没した。敗報を聞き、帝は震怒した。諸将に任に足る者がいないとして、親征を決意した。福の世襲の爵位を剥奪し、その家族を海南に移した。

李遠、王忠、王聰、火真

李遠は、懐遠の人である。父の職を襲い蔚州衛指揮僉事となった。燕兵が蔚州を攻めると、城を挙げて降伏した。南軍が德州に駐屯し、補給路が徐州・はい県の間を通っていた。遠は軽兵六千を率い、南軍の袍鎧を装い、兵士は背に柳の枝一本を挿し、済寧・沙河を経て沛に至り、気付かれる者はなかった。糧食を積んだ船数万を焼き、河水は尽く熱せられ、魚や亀も皆浮き上がって死んだ。南将の袁宇が三万騎で追撃して来たが、伏兵でこれを撃破した。建文四年正月、燕軍は蠡県に駐屯した。遠が分遣して哨戒に槁城に至ると、德州の将葛進の歩騎一万余と遭遇し、彼らは氷上を渡って滹沱河を渡っていた。遠はこれを迎撃した。進は林の中に馬をつなぎ、歩兵で戦いを交えた。遠は偽って退却し、密かに兵を分けてその背後に出て、つないであった馬を解き放ち、再び戦った。進は退却して馬を失い、遂に大敗した。四千の首級を斬り、千匹の馬を獲た。成祖は年初の大勝を喜び、書を賜って嘉労し言った。「将軍は軽騎八百で敵数万を破り、奇を出して機変に応じた。古の名将もこれを超えまい。」再び淮上に哨戒に出て、淮を守る将士を破り、千余級を斬った。功を重ねて都督僉事となり、安平侯に封ぜられ、禄千石、世襲の伯の券を賜った。永楽元年、武安侯鄭亨とともに宣府に備えた。

遠は沈毅で胆略があり、言論は慷慨であった。既に邱福に従って塞外に出、臚朐河に至った。福を諫めたが、聞き入れられず、軍は敗れた。遠は五百騎を率いて敵陣を突破し、数百人を殺したが、馬が躓いて捕らえられ、罵りを絶やさずに死んだ。四十六歳。追封して莒国公とし、諡して忠壮といった。

子の安は、伯爵を嗣いだ。洪熙元年、交阯参将となったが、軍律を失い、事官に貶謫された。後に、王通に従って交阯を放棄して帰還し、投獄されて世襲の券を剥奪され、赤城に流されて功を立てた。英宗が即位すると、都督僉事に起用された。阿台・朶児只伯を征討した。都督同知に昇進し、総兵官を充て、松潘を鎮守した。正統六年、定西伯蔣貴に副って麓川を征討した。貴は安に命じて軍を潞江に駐屯させ糧秣を護送させ、自らは大軍を率いて進撃した。賊は破られた。安は功が無いことを恥じ、残賊が高黎貢山に屯していると聞き、直ちにこれを撃ちに行った。賊に敗れ、士卒千余人を失い、都指揮趙斌等は皆死んだ。捕らえられて投獄され、独石に流されて兵役に就いた。死去した。詔してその子の清に都指揮同知を授けた。

王忠は、孝感の人である。李遠とともに蔚州で降伏した。戦うごとに、精騎を率いて奇兵となり、多く斬獲を得た。累進して都督僉事となり、靖安侯に封ぜられ、禄千石。塞外に出て戦死し、五十一歳、爵は除かれた。

王聰は、蘄水の人である。燕山中護衛百戸として挙兵に従った。薊州を奪い、遵化を攻め、涿州を巡行した。転戦して茌平・滑口で、南軍を破り、千五百匹の馬を獲た。戻って保定を守った。江上に駐屯することに従い、南軍の舟を略奪して兵を渡した。累進して都指揮使となった。武城侯に封ぜられ、禄千五百石。同安侯火真とともに宣府に備え防禦した。たびたび詔を受けて辺境を巡視した。邱福に従って塞外に出て、戦死し、五十三歳。追封して漳国公とし、諡して武毅といった。子の琰が嗣いだ。聰及び遠はかつて福を諫めたので、褒賞と撫恤を受けることができた。

火真は、蒙古の人で、初名は火裏火真といった。洪武の時に帰順し、燕山中護衛千戸となった。真定攻めに従い、先駆けて耿炳文の陣に突撃し、大軍がこれに乗じ、遂に勝利した。大寧襲撃に従い、鄭村壩で戦った。日が暮れ、天候は甚だ寒く、真は古びた鞍を集めて火を焚き成祖の前に供した。甲士数人が火に駆け寄ろうとしたが、衛士がこれを止めた。成祖は言った。「我は重ねた裘を着ていてもなお寒い。これらは皆壮士である。止めてはならない。」聞いた者は感動して泣いた。真はかつて騎兵を率い、戦うごとに斬獲があり、勝ち鬨をあげて帰営し、衆はその勇を服した。累進して都督僉事となり、同安侯に封ぜられ、禄千五百石。塞外に出て戦死し、六十一歳。爵は除かれた。子孫は世襲で観海衛千戸となった。

末裔の孫の斌は、嘉靖年間に武挙に及第した。倭寇が浙東を寇すると、海舟を率いて賊と戦った。賊が火球を燃やして斌の舟に投げつけると、斌はいつも手でこれを受け止め、返して賊の舟を焼いた。賊が補陀山に屯すると、斌は直ちにその営を攻め、多く殺傷した。後続の軍が続かず、捕らえられた。屈せず、賊は彼を八つ裂きにした。官は祠を建てて「忠勇」と称した。

譚淵

譚淵は、清流の人である。父の職を嗣ぎ燕山右護衛副千戸となった。燕兵が起こると、これに従って九門を奪った。雄県を破った。潘忠・楊松が鄚州から来援し、淵は壮士千余人を率い、月漾橋の水中に伏せ、人は茭草一束を持ち、頭を覆って鼻息を通じた。南軍が既に通過すると、即ち出て橋を占拠した。忠等は戦いに敗れ、橋に向かったが渡ることができず、遂に捕らえられた。累進して都指揮同知となった。

淵は驍勇で戦を善くし、二石の弓を引き、射て当たらぬことはなかった。しかし性質は殺戮を好んだ。滄州が陥落した時、成祖は牒を与えて降卒を解散させよと命じた。未だ遣わされていない者三千余人が、明朝に牒を与えるのを待っていた。淵は一夜のうちにこれを皆殺しにした。王(成祖)は怒った。淵は言った。「これらは皆壮士です。釈放すれば後の患いとなります。」王は言った。「お前の言う通りならば、敵を皆殺しにすべきであろう。敵を尽くすことができようか。」淵は慚じて退いた。

夾河の戦いで、南軍の陣が動き塵が上がった。淵は急いで前進して戦いを交え、馬が躓いて殺された。成祖はこれを悼み惜しんだ。即位すると、都指揮使を追贈し、追封して崇安侯とし、諡して壮節といった。祠を立ててこれを祀った。

子の忠は、京師に入るに従って功を立てた。また淵の故をもって新寧伯に封ぜられ、禄千石を賜った。永楽二十一年、右哨を率いて沙漠に従征した。宣徳元年、楽安に従征した。三年、交阯征討に際して軍律を失い、下獄して死罪と論ぜられたが、既に釈放を得て、卒した。子の璟が嗣ぐことを乞うた。吏部は忠が死罪に当たるとして、襲封すべからずと上言した。帝は「鉄券に免死の文がある。その嗣がせよ」と言った。再伝して孫の祐に至る。成化年間、南京を協守した。還って前府を掌り、団営を提督し、累進して太傅に加えられ、伯を嗣ぎ、六十九年でようやく卒した。諡して莊僖という。子の綸が嗣いだ。嘉靖十四年、湖広を鎮め、九溪の蛮を剿討して功を立て、禄を増された。軍士を占役した罪で爵を奪われた。数伝して弘業に至り、国亡びて賊に死す。

王真

王真は咸寧の人である。洪武年間、卒伍より起り、功を積んで燕山右護衛百戸に至った。燕兵起こり、九門を攻め、永平・真定に戦い、広昌を下し、雁門を徇った。滄州を破るに従い、南兵を滑口まで追撃し、七千余人を俘獲した。累遷して都指揮使となった。淝河の戦いにおいて、真は白義・劉江と各々百騎を率いて平安の軍を誘った。草を縛って囊中に置き、束帛の状と為し、安が追撃すると、真らは偽って囊を棄てて走り、安の軍士は競ってこれを取った。伏兵発し、両軍鏖戦す。真は壮士を率いて直ちに前進し、斬馘数を知らず。後軍続かず、安の軍はこれを数重に囲んだ。真は重創を受け、連ねて数十人を格殺し、左右を顧みて言うには「我は義をもって敵の手に死せず」と。遂に自刎した。成祖即位し、金郷侯を追封し、諡して忠壯という。

真は勇健にして智略あり。成祖は毎度これを追悼して言うには「王真の如く奮武すれば、何の功か成らざらん。死せずんば、功は諸将の冠たるべし」と。仁宗の時、寧国公を追封し、号を加えて效忠と為す。子の通は自ら伝あり。

陳亨

陳亨は寿州の人である。元末揚州の万戸。太祖に従って濠におり、鉄甲長となり、千戸に抜擢された。大将軍に従って北征し、東昌を守った。敵数万が奄至したが、亨は固守し、奇兵を出して誘いこれを敗った。また従って未だ下らざる諸城を徇った。洪武二年、大同を守る。功を積んで燕山左衛指揮僉事に至った。数度出塞に従い、北平都指揮使に遷った。及び恵帝即位し、都督僉事に抜擢された。

燕師起こり、亨は劉真・卜万と大寧を守った。兵を移して松亭関を出、沙河に駐し、遵化を攻めんと謀った。燕兵至り、退いて関を保つ。当時、李景隆が五十万の衆を率いて北平を攻めんとす。北平は勢弱く、大寧行都司の領する興州・営州二十余衛は皆西北の精鋭なり。朵顔・泰寧・福余の三衛は、元の降将の統ぶる番騎広卒、特に驍勇なり。卜万は将に景隆の軍と合わんとす。成祖懼れ、計をもって亨を紿いて万を囚え、遂に劉家口の間道より疾く大寧を攻む。亨及び劉真は松亭より回救す。中道にて大寧破れたるを聞き、乃ち指揮徐理・陳文等と謀りて燕に降らんとす。夜二鼓、劉真の営を襲う。真は単騎にて広寧に走り、亨等は衆を率いて降る。成祖は諸軍及び三衛の騎卒を尽く抜き、寧王を挟んで帰る。ここより沖鋒陷陣多くは三衛の兵なり。成祖の天下を取るは、大寧を克つより始まる。

亨・理既に降り、累ねて南軍を破るに従う。白溝河の戦い、亨は創を受け幾くも死す。已にして済南を攻め、平安と鏵山に戦い、大敗す。創甚だしく、輿にて北平に還る。都督同知に進む。成祖還軍し、親しく亨の第に詣りて労問す。その年十月卒す。成祖自ら文を為して以て祭る。即位に比し、涇国公を追封し、諡して襄敏という。長子の恭、都督同知を嗣ぐ。

子 懋

少子の懋は、初め舍人として軍に従い、功を立てて指揮僉事となる。已にして亨の兵を将い、功多く、累進して右都督となる。永楽元年、寧陽伯に封ぜられ、禄千石。六年三月、征西将軍の印を佩び、寧夏を鎮め、降卒を善く撫す。明年秋、故元の丞相昝卜及び平章・司徒しと・国公・知院十余人、皆衆を率いて相継ぎ来降す。已にして平章都連等叛き去る。懋はこれを黒山に追擒し、尽くその部の人口畜牧を収む。侯に進み、禄を二百石増す。八年、北征に従い、左掖を督す。十一年、寧夏の辺を巡る。尋いで山西・陝西の二都司及び鞏昌・平涼諸衛の兵を将い、宣府に駐することを命ぜらる。明年、北征に従い、左哨を領す。忽失温に戦い、成山侯王通と先登し、都督朱崇等これに乗じ、遂に大捷す。明年、復た寧夏を鎮む。二十年、北征に従う。御前の精騎を領し、敵を屈裂河に破る。別に五千騎を将いて河東北に循い、余寇を捕え、これを山沢中に殲す。師還り、武安侯鄭亨は輜重を将いて先行す。懋は隘に伏して以て待つ。敵来たり躡えば、伏兵起こりて縦撃し、敵の死過半す。京に還り、龍衣玉帯を賜い、その女を冊して麗妃と為す。明年、陝西・寧夏・甘肅の三鎮の兵を将い、阿魯臺に従征し、前鋒と為る。又明年、復た前鋒を領し、北征に従う。

成祖の榆木川に崩ずるや、六軍外に在り、京師の守備虚弱なり。仁宗は懋を召し、陽武侯薛祿と精騎三千を帥いて馳せ帰り、京師を衛わしむ。前府を掌ることを命じ、太保を加え、世侯とす。宣徳元年、楽安討伐に従う。還り、仍って寧夏を鎮む。三年、霊州城を徙すことを奏す。黑白二兔を得て以て献ず。宣宗喜び、親しく馬を画きてこれを賜う。懋は鎮に久しく、威名漠北に震う。顧みて寵を恃みて自ら恣にし、鉅万を乾没す。屡々劾せらるるも、帝は曲くこれを宥し、所司に命じてその贓を征せしむ。懋自ら陳べて用い已に尽きたりとす。詔して貸し免ず。

英宗即位し、命じて張輔と偕に朝政に参議せしめ、出でて平羌将軍と為り、甘粛を鎮む。その冬、寇鎮番を掠む。懋は兵を遣わしてこれを援け、解き去り、斬獲を以て聞こゆ。参賛侍郎柴車は懋が軍律を失いて寇を致し、又その遺せる老弱を取り、都指揮馬亮等の功に冒して升賞を受くると劾し、斬を論ず。詔して死を免じ、禄を奪う。久しくして禄を還し、朝請を奉ず。十三年、福建の賊鄧茂七反す。都御史張楷これを討むるも功無し。乃ち詔して懋に征南将軍の印を佩ばしめ、総兵官を充て、京営・江浙の兵を帥いて往き討たしむ。浙江に至り、兵を分かち海口を扼せんと欲する者有り。懋曰く「是れ賊をして我に致死せしむるなり」と。明年建寧に抵る。茂七既に死し、余賊尤溪・沙県に聚まる。諸将これを屠らんと欲す。懋曰く「是れ賊の心を堅くするなり」と。乃ち令を下して招撫し、賊党多く降る。道を分かちて逐捕し、悉くこれを平ぐ。已にして沙県の賊復た熾んにして、久しく定まらず。会うに英宗北狩し、景帝立ち、遂に詔して班師す。言官これを劾すも、賊平らぎたるを以て問わず。仍って太保を加え、中府を掌り、兼ねて宗人府の事を領す。英宗復位し、禄を二百石増す。天順七年卒す。年八十四。浚国公を贈り、諡して武靖という。

懋は髯を修め貌偉く、声洪鐘の如し。胸次磊落にして、士大夫を敬礼す。「靖難」の功臣、天順の時に至りて在る者無し。惟だ懋久しく禄位を享け、数度廃され数度起き、卒に功名を以て終わる。

長子の晟は罪有り。弟の潤嗣ぐ。潤卒し、弟の瑛嗣ぐ。禄の半を減じ、侯を嗣ぐ。十六年にして晟の子の輔既に長ず。乃ち輔をして嗣がしめ、瑛は免じて勲衛と為す。輔後ち事に坐して侯を失う。卒し、子無し。復た瑛の孫の継祖を封じて侯と為し、爵を伝えて明の亡ぶるに至る。

徐理 陳文 房寛 劉才

徐理は西平の人。洪武の時、永清中護衛指揮僉事となり、営州衛に改めた。降った後、右軍副将となる。戦うごとに先鋒を務め、功績があった。成祖が滄州を襲おうとした時、理と陳旭に命じて直沽に密かに浮橋を造らせ、軍を渡した。累進して都指揮僉事となり、武康伯に封ぜられた。後に北平を守った。理は部下を寛大に扱い、士卒の心を得た。永楽六年に卒去。再び伝わって孫の勇に至り、子がなく封は絶えた。

陳文は、降った後、前軍左副将となった。小河で戦い、陣中にて死す。

房寛は陳州の人。洪武中、済寧左衛指揮として徐達に従い北平で練兵し、北平都指揮同知となり、大寧を守るに移った。寛は辺境に長く在り、山川の要害、異域の実情をことごとく知ったが、士卒を慰撫することはできなかった。燕兵が急に至ると、城中で寛を縛って降った。成祖はこれを釈放し、その衆を率いさせた。白溝河で戦い、右軍を率いたが、敗れた。広昌・彰徳を攻略するに従い、都督僉事に進んだ。旧臣であることを以て、その過失を大目に見た。思恩侯に封ぜられ、禄八百石、世襲で指揮使とした。永楽七年に卒去。

劉才は字を子才といい、霍丘の人。元末に元帥となり、明が興って帰順し、営州中護衛指揮僉事を歴任した。燕師が大寧を襲うと、才は降った。戦いに従い功績があり、広恩伯に封ぜられ、禄九百石、世襲で指揮同知とした。永楽八年、北征に従い、右掖を督した。軍律を失い罪に問われたが、後にこれを赦した。二十一年、隆平侯張信とともに永平・山海の辺務を処理した。翌年また北征に従い、懐来に至り、病により帰還した。才は誠実で飾り気がなく、軽々しく迎合せず、また人を軽々しく誹謗せず、仁宗に大いに重んぜられた。宣徳五年に卒去。

賛に曰く、恵帝は太祖の遺威余烈を承け、国勢は初めて張り、仁聞は昭かに宣べられ、衆心は悦んで附した。成祖は方隅より奮起し、天下を争うに不韙を冒して、未だ万全の計有らざりき。ここに道衍がまず密謀を賛し、機を発して策を決す。張玉・朱能の輩は力を間に行間に戮し、転戦して前に向かい、身を隕とすも顧みず。ここに勁旅を収め、雄師を摧き、四年にして帝業を成す。意うらくは天の興すところ、群策群力、時に応じて並び済う。諸人の功臣の首たるを得るは、厚幸と謂わざるべけんや。