明史

列傳第三十二 盛庸 平安 何福 顧成

○盛庸平安何福顧成

盛庸は、何処の者か知れない。洪武年間に、累進して都指揮に至った。建文初年、参将として耿炳文に従い燕を討った。李景隆が炳文に代わると、景隆の麾下に属した。二年四月、景隆は白溝河で敗れ、済南に逃れた。燕師が追撃して至ると、景隆はまた南へ逃走した。庸と参政の鉄鉉は力を尽くして固守し、燕師は三月間攻囲したが陥落させられなかった。庸と鉉は夜に乗じて出兵し掩撃し、燕の軍衆は大敗し、包囲を解いて去った。勝に乗じて徳州を回復した。九月、功績を論じて歴城侯に封ぜられ、禄千石。まもなく平燕将軍に任じられ、総兵官を充てた。陳暉・平安を左右副総兵とし、馬溥・徐真を左右参将とし、鉄鉉を兵部尚書に進めて軍務を参賛させた。

時に呉傑・平安は定州を守り、庸は德州に駐屯し、徐凱は滄州に屯して、犄角の勢いをなした。この冬、燕兵は滄州を襲い、破って凱を擒らえた。その輜重を掠め、進んで済寧に迫った。庸は兵を率いて東昌に屯しこれを邀え撃ち、城を背にして陣を布いた。燕王は兵を帥いて直前に進み庸軍の左翼に迫ったが、動揺しなかった。また中堅を衝こうとしたが、庸は陣を開いて王を入れ、数重にこれを包囲した。燕将の朱能が番騎を帥いて来援し、王は隙に乗じて包囲を突破して出た。しかし燕軍は火器によって傷つく者が甚だ多く、大将の張玉は陣に死した。王はただ百騎を率いて殿を務め、館陶まで退いた。庸は呉傑・平安に檄を飛ばし真定から燕の帰路を遮らせた。明年正月、傑と平安は深州で戦って利あらず、燕師はようやく帰還できた。この役で、燕の精鋭はほとんど尽き、庸の軍勢は大いに振るい、帝は廟を享けて捷を告げた。三月、燕兵はまた南に出て保定を攻めた。庸は夾河に営した。王は軽騎を率いて来て偵察し、陣を掠めて過ぎた。庸は千騎を遣わしてこれを追わせたが、燕兵に射られて退いた。戦いが始まると、庸軍は盾を列ねて進んだ。王は歩卒に先攻させ、騎兵は隙に乗じて馳せ入った。庸は軍を麾して力戦し、その将の譚淵を斬った。しかし朱能・張武らが衆を帥いて殊死の闘いをした。王は勁騎を率いて陣を貫き朱能と合流した。庸の部将のぎょう将たる荘得・皂旗張らはともに戦死した。この日、燕軍はほとんど敗れんとした。明日また戦い、燕軍は東北に、庸軍は西南に布陣し、辰の刻から未の刻まで、互いに勝負を分けた。両軍ともに疲れ、将士はそれぞれ坐して休息した。再び起ち上がって戦うと、忽ち東北風が大いに起こり、飛塵が天を蔽った。燕兵は風に乗じて大呼し、左右から横撃した。庸は大敗して德州に逃れ帰り、ここに気力を沮喪した。やがて燕将の李遠がはい県で糧船を焼き、庸軍は遂に糧秣を欠いた。明年、霊璧で戦いに敗れ、平安らは捕らえられた。庸はただ一軍を率いて南に進み、戦艦を淮水の南岸に列ねた。燕将の邱福らが潜かに渡河し、庸の背後に出た。庸は支えきれず、退いて江を守る計略を立てた。燕兵は淮を渡り、盱眙より揚州を陥落させた。庸は六合及び浦子口で防戦したが、いずれも利あらず、都督ととくの陳瑄が舟師を帥いて燕に降り、燕兵は遂に江を渡った。庸は倉卒に海船を集めて高資港より出て迎戦したが、また敗れ、軍はますます潰散した。

成祖が京師に入ると、庸は余衆を率いて降伏し、直ちに淮安を守らせた。まもなく勅を賜って曰く、「近頃山東が未だ定まらぬゆえ、卿に淮安を鎮守せしめた。今、鉄鉉は捕らえられ、諸郡は悉く平定された。朕は山東が久しく兵革に困り、転輸に疲弊していることを思う。卿は兵を集め民を養い、以て朕の意に適うべし」。永楽元年、致仕した。間もなく、千戸の王欽が庸の罪状を告発し、直ちに欽を指揮同知に進めた。ここにおいて都御史の陳瑛が庸を弾劾し、怨望して異図ありと上奏した。庸は自殺した。

平安は、滁の人、小字は保児。父の定は、太祖に従って兵を起こし、済寧衛指揮僉事に任官した。常遇春に従って元都を下し、戦死した。安は初め太祖の養子となり、驍勇にして戦を善くし、力を以て数百斤を挙げた。父の職を襲い、密雲指揮使に遷り、右軍都督僉事に進んだ。

建文元年、燕を討つに当たり、安は列将として従征した。李景隆が将に代わると、安を先鋒に用いた。燕王が白溝河を渡らんとした時、安は万騎を河側に伏せて邀え撃った。燕王は曰く、「平安は、豎子に過ぎぬ。往年、塞外に出るに従い、我が用兵を知っている。今、先ずこれを破らん」。戦いが始まると、安を挫くことができなかった。時に南軍六十万、河上に陣を列ねた。王は将士を帥いて陣に馳せ入り、戦いは暮れに至り、互いに殺傷があった。夜深くして、ようやく各々軍を収めた。燕王は道を失い、従う者は僅か三騎であった。下馬して地に伏し河流を視て東西を弁じ、始めて営壘の所在を知った。明日再び戦い、安は燕の蒋房寛・陳亨を撃破した。燕王は事態の急なるを見て、親しく矢石を冒して力戦した。馬は創を受け矢は尽き、剣は折れて撃つことができなかった。堤に走り登り、偽って鞭を挙げて後騎を招き敵を疑わせた。ちょうど高煦の救援が至り、ようやく免れた。この時、諸将の中で安の戦いが最も力強く、王はほとんど安の槊に及ばんとした。やがて敗れた。詳細は『成祖紀』にある。

燕兵が済南を包囲した。安は単家橋に営し、御河より出て燕の糧船を奪わんと謀った。また善く水泳する兵卒五千人を選んで河を渡らせ、将に德州を攻めさせた。包囲はここに解けた。安は呉傑とともに進んで定州に屯した。明年、燕が盛庸を夾河で破り、軍を返して安と単家橋で戦った。安は奮撃してこれを大破し、その将の薛禄を擒らえた。間もなく、逃げ去った。再び滹沱河で戦い、またこれを破った。安は陣中に木を縛って楼とし、高さ数丈、戦い酣になると、輒ち楼に登って望み、強弩を発して燕軍を射たので、死者甚だ多かった。忽ち大風が起こり、屋を発し樹を抜き、声雷の如し。都指揮の鄧戩・陳鵬らが敵中に陥り、安は遂に敗れて真定に走った。燕王は南軍と数度の大戦を交え、毎度親しく身を陣に陷れ、向かうところ皆靡いたが、ただ安と庸の二軍のみがこれを屡々挫いた。滹沱の戦いでは、矢が王の旗に集まり蝟の毛の如かった。王は人を遣わして旗を北平に送り、世子に謹んで蔵むるよう諭し、後世に示そうとした。顧成は先に捕らえられて燕に在り、これを見て泣いて曰く、「臣は少より軍に従い、今老いた。多くの戦陣を歴たが、未だかってこの如きを見たことがない」。

一月余りして、燕師は大名に出た。安は庸及び呉傑らと分兵してその糧道を攪乱した。燕王はこれを患い、指揮の武勝を遣わして朝廷に上書し、安らを撤兵させて兵を休めさせてほしいと請い、師を緩める計略とした。帝は許さなかった。燕王もまた南下を決計した。李遠らを遣わして潜かに沛県に走らせ、糧船を焼き、彰徳を掠め、尾尖寨を破り、林県を降伏させた。時に安は真定に在り、北平が空虚であると推し量り、万騎を帥いて直ちに北平に向かった。平村に至り、城より五十里のところに軍を置いた。燕王は懼れ、劉江らを馳せ還らせて救援させた。安は戦って利あらず、引き還った。時に大同の守将の房昭が兵を率いて紫荊関に入り、易州の西水寨を拠って北平を窺い、安は真定よりこれを糧秣で支援した。八月、燕兵は北に帰った。安は燕将の李彬と楊村で戦い、これを破った。四年、燕兵はまた南下し、蕭県を破った。安は軍を率いてその後を追い、淝河に至った。燕将の白義・王真・劉江が迎え撃った。安は転戦し、真を斬った。真は驍将であった。燕王は嘗て曰く、「諸将が王真の如く奮勇ならば、何事か成らざらん」。ここに至って安に殺された。燕王は乃ち身自ら迎え戦い、安の部将の火耳灰が槊を挺てて大呼し、直前に進んで王を刺した。馬が忽ち躓き、擒らえられた。安は稍々引き退いた。やがて、また進んで小河に至り、左右翼を張って燕軍を撃ち、その将の陳文を斬った。やがて、また軍を移して斉眉山に至り、諸将とともに陣を列ねて大戦した。午の刻から酉の刻まで戦い、またこれを破った。燕の諸将は北還を謀り、後の挙を図ろうとした。王は聴かなかった。まもなく何福の軍もまた至り、安と合流した。燕軍はますます大いに懼れ、王は昼夜甲を擐けること数日に及んだ。

平安は持久戦で燕軍を疲弊させようと、霊璧に陣営を移し、深い堀を掘り高い塁を築いて自らを固めた。しかし糧秣の輸送は燕軍に遮られ、届かなくなった。平安は兵を分けて迎えに行かせたが、燕王は精鋭の騎兵で平安の軍を遮り、二つに分断した。何福が陣営から出て救援に来たが、朱高煦に敗れた。諸将は淮河に軍を移して食糧を確保しようと謀り、夜間に軍中で三発の砲声を聞いたら直ちに退却するよう命じた。翌日、燕軍が突然陣営に迫り、三発の砲を発した。軍中は誤ってこれを自軍の合図と思い、争って門に向かって走り出し、大混乱に陥った。燕軍がこれに乗じると、人馬が堀や塹壕に落ちて満ち溢れた。何福は単騎で逃げ、平安および陳暉、馬溥、徐真、孫成ら三十七人も皆捕らえられた。軍中にいた文臣や宦官で捕らえられた者はさらに百五十余人に上り、時は四月辛巳のことであった。

平安は長く真定に駐屯し、しばしば燕軍を破り、数人の勇将を斬ったので、燕軍の将は誰もその鋒鋭に立ち向かうことができなかった。この時捕らえられると、燕軍中では歓声が地を震わし、「我々はこれでようやく安泰を得た!」と言って、争って平安を殺すよう請うた。燕王はその才能と勇気を惜しみ、精鋭の兵を選んで護衛させ北平に送り、世子と郭資らに手厚く待遇するよう命じた。

燕王が帝位に即くと、平安を北平都指揮使に任じた。まもなく行後府都督僉事に進めた。永楽七年三月、帝が北京に巡幸した。到着間近に上奏文を見て平安の名を見つけ、側近に「平保児(平安の幼名)はまだ生きているのか?」と言った。平安はこれを聞くと、自ら命を絶った。帝は指揮使の俸禄をその子に与えるよう命じた。

何福は鳳陽の人である。洪武初年、功を重ねて金吾後衛指揮同知となった。傅友徳に従って雲南に征し、都督僉事に抜擢された。また藍玉に従って塞外に出て捕魚児海に至った。二十一年、江陰侯呉高が北方の降伏者を率いて南征した。沅江に到着すると、配下が反乱を起こし、思州から荊州・樊州を経て渭河に出て、沙漠に逃れ帰ろうとした。翌二十二年正月、何福は都督の聶緯と追撃し、鄜州・延州でこれを追いつき、ことごとく殲滅した。兵を移して都勻の蛮を討ち平らげ、捕虜と斬首は万を数えた。

二十四年、平羌将軍に任じられ、越州で反乱を起こした蛮の阿資を討ち、これを破って降伏させた。地を選んで柵を立ててその民衆を住まわせ、寧越堡を設置した。こうして九名・九姓の諸蛮を平定した。まもなく都督の茅鼎と兵を合わせ、五開を攻め従わせようとした。出発しないうちに、畢節の諸蛮が再び反乱し、屯堡を大いに掠め、官吏や兵士を殺した。何福は畢節の諸衛に厳重に備えるよう命じ、都督の陶文らに檄を飛ばして茅鼎と共にその本拠地を攻めさせた。反乱の首長を捕らえ、これを誅殺した。兵を分けて諸蛮をことごとく捕らえ、堡を築き守備兵を置いてから、五開に向かった。兵力を借りて水西の奢香を討つことを請うたが、許されなかった。三十年三月、水西蛮の居宗必登らが乱を起こしたので、顧成と共にこれを討ち平らげた。その冬、征虜左将軍に任じられ、西平侯沐春の副将として麓川で反乱を起こした蛮の刀幹孟を討った。翌年、何福は都督の瞿能と共に高良公山を越え、南甸を攻め、その首長の刀名孟を捕らえた。軍を返して景罕寨を攻撃したが、落とせなかった。沐春が精鋭の軍を率いて到着すると、賊は驚いて潰走した。刀幹孟は恐れて降伏を請うた。まもなく沐春が卒去すると、賊は再び二心を抱いた。この時、太祖は既に崩御し、恵帝が即位したばかりで、何福を征虜将軍に任じた。何福はついに刀幹孟を破って捕らえ、その配下七万を降伏させた。兵を分けて諸寨を攻め従わせ、麓川の地はことごとく平定された。建文元年、京師に戻り、功績により都督同知に進んだ。徳州で兵を訓練し、左都督に進んだ。盛庸、平安と兵を合わせて燕を討ち、淮北で戦って利あらず、逃げ帰った。

成祖が即位すると、何福が古参の将で軍事に通じていることを認め、誠意をもって任用した。その甥娘の徐氏を聘って趙王妃とした。まもなく、征虜将軍の印を佩びさせ、総兵官に充てて寧夏に鎮守させ、山西・陝西・河南の諸軍を統轄させた。何福が任地に着くと、徳と恩恵の意を宣布し、遠方の者を招き寄せたので、塞外の諸部族で降伏する者が相次いだ。辺境に事が無かったので、駅伝を設置し、屯田を行い、穀物を蓄え、賞罰を定めて、長久の計を立てるよう請うた。ちょうど彼を讒言する者がいたが、帝は聞き入れず、詔を下して褒め慰めた。

永楽五年八月、甘粛に移鎮した。何福は軍を厳しく統率したので、部下の多くは快く思わなかった。帝は折に触れて使者を遣わし、何福に自らを守り、小人に陥れられぬよう戒めさせた。六年、何福は京師の蕃将(異民族出身の将軍)を遣わして北方の降伏者を統率させるよう請うた。帝は答えて言った、「卿は長く蕃兵・漢兵を統率してきたので、勢力が大きくなると讒言を招く恐れがあるのだろう。卿は老将であり、朕は誠意をもって倚り頼んでいるのだから、顧慮するには及ばない」。まもなく布で馬を買い、その良馬を選んで別の群れとし、官を置き印を与えて専らこれを管理させるよう請うた。これにより馬は大いに繁殖した。永昌苑での牧馬はこれに始まる。

翌年、本雅失裏が阿魯臺と結んで侵入しようとしたが、瓦剌に敗れて臚朐河に逃れ、諸部族の潰走した兵卒を収容して河西を窺おうとした。詔が下り、何福に厳しく兵備を整えるよう命じた。北方の王子、国公、司徒しと以下十余人が配下を率いて亦集乃に駐屯し、内附を請うた。何福がこれを上奏すると、帝は庶子の楊栄を遣わし、何福を補佐して処理させた。その配下はことごとく降伏した。何福は自ら亦集乃に赴きこれを鎮撫し、その酋長を京師に送った。帝は何福の功績を嘉し、楊栄に命じて軍中で何福を寧遠侯に封じ、禄千石を与え、さらに何福には軍中の事柄は先に行い後で報告するよう詔で命じた。

八年、帝が北征し、何福を召し出して従軍させた。初め、帝は何福に才略があるとして、諸将を超える寵愛と信任を与えていた。何福もまた嫌疑を避けることをよくし、何事も専断しなかった。鎮守地で西平侯家の鞏昌に蓄えられた馬を徴発して繁殖用に充てるよう請うたことがあった。帝は答えて言った、「皇考(太祖)の時代には、貴顕で近しい家には多く馬の飼育を許し、富貴を共にする意を示したものだ。卿の上奏は確かに国のためではあるが、勲戚に対する道ではない」。聞き入れなかった。その他の請願は多く実行され、委任と信頼は非常に厚かった。しかし従征するに及んで、しばしば命令に違反した。群臣にその罪を言う者がいると、何福はますます不満を抱き怨言を漏らした。軍が帰還すると、都御史の陳瑛が再びこれを弾劾した。何福は恐れて自ら縊死し、爵位は除かれた。そして趙王妃もまもなく廃された。

顧成、字は景韶、その先祖は湘潭の人である。祖父は舟を操る業を営み、江・淮の間を往来し、遂に江都に家を定めた。成は若い頃から魁偉で、膂力は人に絶し、馬槊を善くし、体に入れ墨をして自ら異ならしめた。太祖が江を渡ると、来たりて帰順し、勇をもって選ばれて帳前親兵となり、傘蓋を捧げて出入りした。嘗て上に従って出で、舟が砂に乗り上げると、成は舟を背負って進んだ。鎮江攻めに従い、勇士十人と共に転戦して城内に入り、捕らえられたが、十人は皆死んだ。成は躍り上がって縄を断ち、刀を持つ者を倒し、脱出して帰った。衆を導いて城を攻め、これを落とし、百戸を授かった。大小数十戦、皆功があり、堅城衛指揮僉事に進んだ。しょく征伐に従い、羅江を攻め、元帥以下二十余人を生け捕りにし、進軍して漢州を降した。蜀が平定されると、成都後衛に改めた。洪武六年、重慶の妖賊王元保を擒えた。八年、貴州守備に転じた。時に群蛮は叛服常なく、成は連年出兵して、悉くこれを平定した。已にして、潁川侯傅友德に従って雲南を征し、前鋒となり、先ず普定を落とし、成を留めて柵を列ねて守らせた。蛮数万が来攻し、成は柵を出て、自ら数十百人を殺し、賊は退走した。残賊は尚南城におり、成は捕虜を斬り、一人を放ち、「我は夜二更に来たりて汝らを殺さん」と言った。夜二更、角を吹き砲を鳴らすと、賊はこれを聞いて悉く逃げ、得たる武器甲冑は数え切れなかった。指揮使に進む。普定に属する諸蛮は悉く平定された。十七年、阿黒・螺螄等十余寨を平定した。明年、普定府の廃止を奏上し、その地を三州・六長官司に分けた。貴州都指揮同知に進む。賄賂を受け、玉器等の物を僭用したと告げる者があったが、久しく労したことを以って問わなかった。二十九年、右軍都督僉事に遷り、征南将軍の印を佩びた。何福と会して水西蛮を討ち、その酋長居宗必登を斬った。明年、西堡・滄浪諸寨の蛮が乱し、成は指揮陸秉とその子統を遣わし、分道して討ち平定させた。成が貴州に在ること凡そ十余年、討ち平定した諸苗の洞寨は百数を数え、皆その渠魁を誅し、余衆を撫綏した。恩信は広く行き渡り、蛮人は服従した。この年二月、召還されて京に至った。

建文元年、左軍都督となり、耿炳文に従って燕師を防ぎ、真定で戦い、捕らえられた。燕王はその縄を解き、「これは天が汝を我に授けたのだ」と言った。北平に送り、世子を輔けて居守りをさせた。南軍が城を囲むと、防御・調度は一切成に聴いた。燕王が即位し、功を論じ、鎮遠侯に封じ、禄千五百石を食み、世券を与えられた。命じて仍び貴州を鎮守させた。

永楽元年、上書し、西北諸辺の厳重な備えと、東宮の早期建立を請うた。帝は褒めて答えた。六年三月、京に召し寄せられ、金帛を賜って帰還させた。思州宣慰使田琛と思南宣慰使田宗鼎が兵を構え、詔して成に兵五万を以ってその境を圧させると、琛らは就擒した。ここにおいて思州・思南の地を分け、州県を改めて設置し、遂に貴州布政司を設けた。その年八月、臺羅苗の普亮等が乱を起こし、詔して成に二都司三衛の兵を帥いて討ち平定させた。

成は性質忠謹で、書史に渉猟した。初め北平に居た時、多く謀画に参与したが、終に兵を将いることを肯まず、賜わる兵器も受けなかった。再び貴州を鎮守し、屡々播州・都勻の諸叛蛮を平定し、威は南中に鎮まり、土人は生祠を立てて祀った。その召されて京に至った時、命じて太子を輔け監国させた。成は頓首して言う、「太子は仁明で、廷臣は皆賢し、輔導の事は愚臣の及ぶ所に非ず、請う帰りて蛮に備えん」と。時に群小が嫡を奪わんと謀り、太子は自ら安からず。成が文華殿に入り辞し、因って言う、「殿下は但だ誠を竭くして孝敬し、孳孳として民を恤れ。万事は天に在り、小人は措意に足らず」と。十二年五月卒す、年八十有五。夏国公を贈られ、武毅と諡された。

八人の子あり。長子統、普定衛指揮、成が燕に降ったことにより誅殺された。

統の子興祖が侯を嗣いだ。仁宗即位の時、広西蛮が叛いた。詔して興祖を総兵官としてこれを討たせた。先後して潯州・平楽・思恩・宜山の諸苗を討ち平定し、降伏帰附する者甚だ多かった。宣徳年中、交阯の黎利が再び叛き、隘留関を陥とし、邱温を囲んだ。時に興祖は南寧におり、坐して兵を擁しながら救援せず、錦衣衛獄に下された。一年余りして釈放された。正統末、北征に従い、土木から脱出して帰り、死罪と論じられた。也先が都城に逼ると、再び冠帯し、副総兵を充て、城外にて敵を防いだ。都督同知を授かり、紫荊関を守備した。景泰三年、賄賂を受け取った罪に坐し、再び獄に下され、間もなく釈放された。東宮冊立の恩典により、伯爵を与えられた。天順初、再び侯に復し、南京を守備した。卒す。孫の淳が嗣いだ。卒し、子無し。

従弟の溥が嗣ぎ、五軍右掖を掌った。弘治二年、平蛮将軍に拝し、湖広を鎮守した。初めて到着し、苗中の首悪を捕斬した。五年十月、貴州都勻苗の乜富架が乱を起こし、自ら都順王と称し、滇・蜀の道を塞いだ。詔して溥を総兵官に充て、兵八万を帥いてこれを討たせた。五路に分かれて期日を刻んで並進し、富架父子を誅し、斬首は万を数えた。太子太保を加えられ、禄二百石を増やされた。召されて団営を提督し、前軍都督府事を掌った。十六年、卒す。襄恪と諡された。溥は清慎で法を守り、卒した日、囊に余資無く、英国公張懋が布帛を出して殯した。

子の仕隆が嗣ぎ、神機営左哨を管し、士卒の心を得た。正徳初、出でて漕運総兵となり、数度軍卒を恤むことを請うた。淮安を鎮守すること十余年、清白を以って聞こえた。武宗が南巡した時、江彬が甚だ横暴で、諸大吏を折辱したが、惟だ仕隆のみは屈しなかった。嘉靖初、湖広に移鎮した。間もなく召還され、奉迎防守の功を論じられた。太子太傅を加えられ、中軍都督府事を掌った。錦衣千戸の王邦奇という者、大学士楊廷和・兵部尚書彭澤を怨み、上疏して言う、「ハミルの失策は、事は両人に由る」と。帝怒り、廷和の諸子婿を逮系した。給事中楊言が疏を上げて救い、旨に忤った。事を五府九卿科道に下して議わせると、仕隆は言う、「廷和の功は社稷に在り。邦奇は小人、辺事を仮りて聖聴を惑わし、国体を傷つく」と。詔を下して切責し、病を移して営務を解かせた。卒す。太傅を贈られ、栄靖と諡された。

子の寰が嗣ぎ、南京を守備した。詔を奉じて獄を讞し、多く平反した。十七年、漕運総兵官となる。明年、献皇后の梓宮が承天に赴くに当たり、漕舟が梓宮を避けて遅れた者が三千に及んだ。而して江南北多く災害に傷つき、寰は被災地の漕運を一年停止し、折色に改めるよう令し、軍民共に便とした。又、漕政七事を条上し、併せて施行された。諸々漕運を蝕む者らはこれを苦にし、遂に蜚語を流し、給事中王交に弾劾された。已にして、按験して実ならず、再び淮安を鎮守した。安南の事が起こると、両広に移鎮した。

莫宏瀷は、安南都統使莫福海の子である。福海が死に、宏瀷は幼かった。その権臣阮敬が族人莫正中と兵を構え、国内乱れ、正中は欽州に逃げ込んだ。時に隙に乗じて安南を取るべきだとの議論があったが、寰と提督侍郎周延が決策し、朝廷に請うて、宏瀷に都統使を襲封させ、安南は遂に定まった。三十年の事である。間もなく兵を以って桂林・平楽の叛瑶を討ち平定した。再び命じて淮を鎮守させ、倭寇を防ぐ功があった。入って京営を総べ、太子太保を加えられた。再び出て漕運を督した。召還される。老いを請うた。隆慶五年、特起して京営総督を授けられた。間もなく休みを乞うた。神宗が位を嗣ぐと、起用して左府を掌らせた。久しくして、致仕した。少保を加えられた。万暦九年卒す。太傅を贈られ、栄僖と諡された。

溥より寰に至るまで三世、皆寛和廉靖にして、内行は飭謹、文芸に通暁す。仕隆・寰の両世は漕を督し、皆職に勤む。三伝して孫肇跡に至り、京師陥落し、賊に死す。

賛に曰く、東昌・小河の戦い、盛庸・平安は燕師を屡挫し、其の驍将を斬る、厥の功甚だ壮なり。兵敗れて執はるるに及び、義を引き自ら裁する能はず、隠忍して生を偸む、鉄鉉・暴昭の輩を視て、能く愧なからんや。何福・顧成は皆太祖時の宿将、辺僥に功を著す。而して一たび燕兵に遇うや、或いは引卻して南奔し、或いは身に俘馘を遭ふ。成祖は瑕を棄て旧を録し、均しく茅土に列す、亦た幸ひと云ふべし。福は固より功名を以て終はらず、成の延びて苗裔に及ぶ、栄辱に勝へず、亦た奚ぞ取るに足らんや。