明史

列傳第三十一 王艮、廖昇、周是修、程本立、黄観、王叔英、黄鉞、王良、陳思賢、程通、黄希範、高巍、高賢寧、王璡、周縉、牛景先

○王艮(高遜誌)廖升(魏冕、鄒瑾、龔泰)周是修、程本立、黄観、王叔英(林英)黄鉞(曾鳳韶)王良、陳思賢(龍溪六生、臺温二樵)程通(黄希範、葉惠仲、黄彦清、蔡運、石允常)高巍(韓郁)高賢寧、王琎、周縉、牛景先(程濟等。)

王艮は、字を敬止といい、吉水の人である。建文二年の進士となり、対策で第一となった。容貌が醜かったため、胡靖(すなわち胡広)と入れ替えられ、王艮は次位、さらに次いで李貫が三位となった。三人は同郷であり、ともに修撰に任じられ、洪武年間の故事にならい、文史館を設けて彼らを住まわせた。『太祖実録』および『類要』、『時政記』などの編纂に参与し、一時の大著作を総理した。たびたび上書して時務を論じた。

燕王の軍が京城に迫ると、王艮は妻子と訣別して言った。「人の禄を食む者は、人の事に死す。我は再び生きることはできない」。解縉、呉溥は王艮、胡靖と隣り合って住んでいた。城が陥落する前夜、皆が呉溥の家に集まった。解縉は大義を説き、胡靖もまた奮い立って慷慨したが、王艮ひとり涙を流して何も言わなかった。三人が去ると、呉溥の子の与弼はまだ幼かったが、嘆息して言った。「胡叔(胡靖)が死ねば、それは大変結構なことだ」。呉溥は言った。「そうではない。ただ王叔(王艮)だけが死ぬだろう」。言葉が終わらないうちに、壁越しに胡靖が呼ぶ声が聞こえた。「外が大変騒がしい。豚をよく見ておけ」。呉溥は与弼を振り返って言った。「一頭の豚さえ捨てられない者が、命を捨てることができようか」。しばらくして王艮の家から泣き声がし、彼は毒を仰いで死んだ。解縉は馳せ参じて謁見し、成祖は大いに喜んだ。翌日、胡靖を推薦して召し出すと、彼は叩頭して謝した。李貫もまた迎えて帰順した。後に成祖は建文時の群臣の封事(上奏文)千余通を取り出し、解縉らに編閲させた。兵事・農事、銭穀に関するものは残し、言葉が干犯するものその他はすべて焼き捨てさせた。その際、成祖は李貫、解縉らに尋ねた。「お前たちも皆、持っていたはずだ」。皆が答えない中、李貫ひとりが頓首して言った。「臣は確かに持っておりませんでした」。成祖は言った。「お前は持っていないことを美徳とするのか。その禄を食み、その事に任じながら、国家危急の際に、近侍の官として一言もなかったと言えるのか。朕はただ、建文帝を唆して祖法を壊し政を乱した者を憎むだけだ」。後に李貫は中允に昇進したが、連座して獄中で死んだ。臨終に嘆いて言った。「私は王敬止(王艮)に恥じる」。

高遜誌という者がいた。王艮の座主(試験官)であり、蕭県の人で、嘉興に寓居していた。幼い頃から学問を好み、貢師泰、周伯琦らに師事した。文章は典雅で、一家言を成した。『元史』編纂に徴用され、翰林院に入り、累進して試吏部侍郎となった。事あって朐山に謫された。建文初年、太常少卿に召され、董倫とともに会試を主管した。取った士人は王艮のほか、胡靖、呉溥、楊栄、金幼孜、楊溥、胡濙、顧佐らがおり、皆名臣となった。燕師が入ると、その生死は確かめることができなかった。

廖升は、襄陽の人である。どのようにして進んだかはわからないが、学問と行いが最も有名で、方孝孺、王紳と親しく交わった。洪武末年に左府断事から太常少卿に抜擢された。建文初年、『太祖実録』を編修するにあたり、董倫、王景が総裁官、廖升と高遜誌が副総裁官、李貫、王紳、胡子昭、楊士奇、羅恢、程本立が纂修官となった。皆一時の選りすぐりであった。燕師が長江を渡ると、朝廷は使者を遣わして割地を請うたが、許されなかった。廖升はこれを聞いて慟哭し、家人と訣別して自縊死した。殉難した諸臣の中で、廖升の死が最も早かった。その後、陳瑛が諸臣が天命に逆らい、建文君のために死を尽くしたと上奏し、追戮を請うたが、その筆頭もまた廖升であったという。

当時、陳瑛によって追論された者に、魏冕らがいた。魏冕は御史の官にあった。燕兵が宮闕を犯した時、都督ととくの徐増寿が殿廷を徘徊し、異志を持っていた。魏冕は同官を率いて彼を殴り、大理丞の鄒瑾とともに大声で叫び、速やかに誅殺するよう請うた。翌日、宮中で火災が起こった。魏冕に降伏を勧める者がいたが、彼は厳しい声で叱りつけた。そして自殺し、鄒瑾もまた死んだ。鄒瑾、魏冕はともに永豊の人である。その同郷の鄒樸は秦府長史の官にあった。鄒瑾の死を聞いて非常に憤慨し、食事を取らずに死んだ。あるいは鄒瑾の子であるともいう。

また、都給事中の龔泰は、義烏の人である。郷薦から起家した。燕王が金川門に入ると、龔泰は縛られたが、奸党ではないとして釈放され、殺されなかった。彼は自ら城下に投身して死んだ。龔泰はかつて学宮に遊学した時、狂人に押されて池に落ち、ほとんど死にかけたが、とがめだてしなかった。人々はその度量に敬服した。

周是修は、名を徳といい、字をもって行われる。泰和の人である。洪武末年に明経に挙げられ、霍邱の訓導となった。太祖が家で何をしているかと問うと、答えて言った。「人の子弟を教え、弟に力田を教えております」。太祖は喜び、周府奉祀正に抜擢した。一年余りして、王に従って北征し黒山に至り、帰還後紀善に遷った。建文元年、王の不法を告げる者がおり、官属は皆獄吏に下された。周是修はかつて王を諫めたことがあったため免罪され、衡府紀善に改められた。衡王は恵帝の同母弟であったが、藩国には赴いていなかった。周是修は京師に留まり、翰林の纂修に参与し、士人を推薦することを好み、国家の大計を陳説した。燕兵が淮河を渡ると、蕭用道とともに上書して権力者を指弾した。権力者は怒り、共に彼を挫折させようとしたが、周是修は微動だにしなかった。京城が陥落すると、友人である江仲隆、解縉、胡靖、蕭用道、楊士奇に別れの手紙を書き、後事を託した。衣冠を整え、賛(弔辞)を衣帯の間に結びつけた。応天府学に入り、先師(孔子)に拝礼を終えると、尊経閣で自縊した。四十九歳であった。燕王が帝位に即くと、陳瑛は周是修が天命に順わなかったと上言し、追戮を請うた。帝は言った。「彼はその禄を食み、自らその心を尽くしたのだ。問うてはならない」。

周是修は外は柔和だが内は剛直で、志操が卓抜していた。義に合わないことには、わずかなものもいやしくも得ようとしなかった。かつて言った。「忠臣は得失を計らない。故に言うこと直からざるはなく、烈女は死生を慮らない。故に行うこと果たさざるはない」。かつて古今の忠節の事を輯めて『観感録』とした。その学問は経史百家から陰陽医卜に至るまで、究め通さないものはなかった。文章は筆を取ればたちまち完成し、雅贍で条理が通っていた。初め楊士奇、解縉、胡靖および金幼孜、黄淮、胡儼とともに死を約したが、難に臨んで、ただ周是修のみがついにその志を行ったという。

程本立、字は原道、崇徳の人。先儒程頤の後裔。父は徳剛、才気を負い仕官せず。元の将路成が兵を率いて皂林を過ぎ、暴掠す。徳剛は利害を陳ぶ。成悦び、その部衆を戢む。俗に奏し、官を授けんとすれども、辞して去る。本立は少にして大志あり、書を読み章句に事とせず。洪武中、孝子を旌せられ、太祖嘗て之に謂いて曰く、「学者は科挙に争い務め、経を窮むるを名として実学無し。子の質は厚きに近し、聖賢の学を志すべし」と。本立は益々自ら力を励む。金華の朱克修が朱熹の伝を許謙に得たりと聞き、往きて之に従い遊ぶ。明経・秀才に挙げらる。秦府引礼舎人に除され、楮幣・鞍馬を賜う。母憂にて官を去り、服除け、周府礼官を補し、王に従い開封に之く。二十年春、長史に進む。王に従い入覲す。累に坐し、雲南馬龍他郎甸長官司吏目に謫せらる。家を大梁に留め、一僕を携えて任に之く。土酋施可伐、百夷を煽り乱を為す。本立は単騎にて其の巣に入り、禍福を以て諭す。諸酋皆附く。未幾、復た変ず。西平侯沐英・布政使張紞、本立の賢を知り、県を行き兵事を典むるを属し、且つ撫し且つ禦す。楚雄・姚安より大理・永昌・鶴慶・麗江に抵る。山行野宿し、往来綏輯すること凡そ九年、民夷安業す。三十一年、京師に奏計す。学士董倫・府尹向宝交えて之を薦む。征せられて翰林に入り、『太祖実録』の修纂に預かり、右僉都御史に遷る。俸入の外、饋遺を通ぜず。建文三年、陪祀を失うに坐し、官を貶せらるも、仍って留まりて纂修す。『実録』成り、出でて江西副使と為る。未だ行かず、燕兵入り、自縊して死す。

黄観、字は伯瀾、一字は尚賓、貴池の人。父は許氏に贅し、許姓に従う。元の待制黄冔に学を受く。冔は節を死し、観は益々自ら励む。洪武中、太学に貢せらる。父母の墓を図に絵き、瞻拝すれば輒ち涙下る。二十四年、会試・廷試ともに第一。累官して礼部右侍郎、乃ち奏して姓を復す。建文初、官制を更め、左・右侍中は尚書に次ぐ。観を右侍中に改め、方孝孺等と並び親用せらる。燕王兵を挙ぐ。観は制を草し、其の軍を散じ藩に帰らしめ、身を敕して罪を謝せしむるを諷し、辞極めて詆斥す。四年、詔を奉じて上流に兵を募り、且つ諸郡の兵を督して赴援せしむ。安慶に至る。燕王は既に江を渡り京師に入り、左班文職の奸臣の罪状を暴くを下令し、観の名は第六に在り。既にして国宝を索むも、所在を知らず。或いは言う、「既に観に付して出で兵を収めしむ」と。命じて有司に追捕せしめ、其の妻翁氏並びに二女を収めて象奴に給す。奴は釵釧を索みて酒肴を市わんとす。翁氏は悉く之に与えて持たしめ去らしめ、急ぎ二女及び家属十人を携え、淮清橋下に投じて死す。観、金川門守らずと聞き、嘆いて曰く、「吾が妻は志節有り、必ず死せん」と。魂を招き、之を江上に葬る。舟を命じて羅刹磯に至らしめ、朝服して東に向かい拝し、湍急なる処に投じて死す。

観の弟覯、先に其の幼子を匿い、他処に逃る。或いは云う、覯の妻畢氏、母家に孀居し、遺腹にて子を生む、故に黄氏後に貴池に有りと。

初め、観の妻水に投ずる時、石上に血を嘔し、小影を成す。陰雨なれば則ち見え、相伝えて大士の像と為す。僧之を舁ぎて庵中に至らしむ。翁氏夢に見えて曰く、「我は黄状元の妻なり」と。比明、水を以て沃せば、影愈々明らかにして、愁惨の状有り。後に観祠に移し、翁夫人血影石と名づく。今尚存す。

王叔英、字は原采、黄巖の人。洪武中、楊大中・葉見泰・方孝孺・林右と並び征せられ至る。叔英固より辞して帰る。二十年、薦めによりて仙居訓導と為り、徳安教授に改む。漢陽知県に遷り、恵政多し。歳旱り、食を絶ちて以て禱れば、立ちどころに応ず。建文時、召されて翰林修撰と為る。『資治八策』を上り、曰く、「問学に務め、好悪を謹み、邪正を弁じ、諫諍を納れ、才否を審らかにし、刑罰を慎み、利害を明らかにし、法制を定む」と。皆古今に援証し、行事に見るべし。又曰く、「太祖は奸を除き穢を剔み、強を抑え梗を鋤き、病を去る医の如く、草を去る農の如し。病を去るに急なれば或いは体膚を傷つけ、草を去るに厳なれば或いは禾稼を傷つく。病去れば則ち宜しく其の血気を調燮すべく、草去れば則ち宜しく其の根苗を培養すべし」と。帝嘉し之を納る。

燕兵淮に至る。詔を奉じて兵を募る。行きて広徳に至る。京城守らず。会うに斉泰来たり奔る。叔英は泰に貳心有りと謂い、之を執らんと欲す。泰故を告ぐ。乃ち相い持して慟哭し、共に後の挙を図る。已にして、事為すべからざるを知り、沐浴し衣冠を更え、絶命の詞を書き、衣裾の間に蔵し、元妙観の銀杏樹下に自経す。天臺の道士盛希年之を城西五里に葬る。其の詞に曰く、「人生穹壌の間、忠孝は克く全うするを貴ぶ。嗟予君父に事え、自ら省みれば過愆多し。志有りて未だ竟わず、奇疾忽ち見纏わる。肥甘空しく案に在り、之に対して咽を通さず。意うらに造化の神、命有りて九泉に帰す。嘗て夷と齊とを念う、餓死す首陽の巔。周粟豈に佳からずや、見る所良に獨り偏る。高蹤渺茫として継ぎ難く、偶爾として伝うるに足らず。千秋史官の筆、慎んで希賢と称するなかれ」と。又其の案に題して曰く、「生既に已んぬ、未だ当時に補う有らず。死亦た徒然たり、庶くは後世に慚じざらんことを」。燕王帝を称す。陳瑛其の家を簿録す。妻金氏自経して死す。二女錦衣獄に下り、井に赴きて死す。

叔英は孝孺と友善し、道義を以て相い切劘す。建文初、孝孺井田を行わんと欲す。叔英書を貽して曰く、「凡そ人に才あるは固より難く、其の才を用うるは尤も難し。子房の漢高に於けるは、其の才を用うる者なり。賈誼の漢文に於けるは、其の才を用いられざる者なり。子房は高帝の行うべきを察して言う、故に高帝之を用い、一時其の利を受く。親きこと樊・酈の如く、信ずること平・勃の如く、任ずること蕭・曹の如きも、間うるを得ず。賈生は察せずして易く言い、且つ言うこと過ぎ、故に絳・灌の属以て之を短とすを得たり。方今明良相い値う、千載一時なり。但だ事に行わるる古に於て、亦た今に行わるべきもの有り、夏時周冕の類是れなり。行わるる古に於て、今に行うべからざるもの有り、井田封建の類是れなり。行うべきを行えば、則ち人の之に従うも易く、而して民其の利を楽しむ。行い難きを行えば、則ち之に従うも難く、而して民其の患を受く」と。時に井田は行われざるも、然れども孝孺は卒に『周官』を用いて制度を更易し、実事に済わず、燕王の藉口と為る。論者叔英の識を服し、而して孝孺其の言を用いざるを惜しむ。

時に御史古田の林英も亦た広徳に在りて兵を募り、事の済む無きを知り、再拝して自経す。妻宋氏獄に下り、亦た自経して死す。

黄鉞は字を叔揚といい、常熟の人である。幼少より学問を好んだ。家に葛沢陂に田があり、黄鉞の父は彼にその耕作を監督させた。黄鉞は友人の家から書物を借り、密かに読んで怠らなかった。県が賢良を推挙し、宜章典史に任じられた。建文元年、湖広の郷試に合格した。翌年、進士を賜り、刑科給事中に任じられた。三年、父の喪に服した。方孝孺が弔問に来て、人を退けて問うて言った、「燕の兵が日に南に迫り、蘇州・常州・鎮江は、京師の左輔(東方の守り)である。君は呉の人で、朝廷の近臣である。今は去るとはいえ、私を教えるべきことがあろう」。黄鉞は言った、「三府の中では鎮江が最も要害である。守る者が適任でなければ、垣を撤けて盗賊を招くようなものだ。指揮の童俊は狡猾で任に堪えず、上前に奏事する際、視線が遠く言葉が浮ついており、その心は測りがたい。蘇州知府の姚善は、忠義に激しく、国士の風がある。しかし仁は余るが部下を統御するのに寛大で、乱を定めるには不足する恐れがある。また国家の大勢としては、上流を守るべきであり、兵が江南に至ってからでは、防ぐに及ばない」。孝孺はそこで黄鉞を通じて姚善に書簡を託した。姚善は書簡を得て、黄鉞と向かい合って泣き、国に殉じることを誓った。黄鉞は家に至り、父の殯宮に寄り添って住んだ。

燕の兵が長江のほとりに至ると、姚善は詔を受けて兵を統率し王事に勤め、書簡で黄鉞を招いた。黄鉞は事が成就しないと知り、葬儀を営み終えてから赴くと辞した。やがて童俊は果たして鎮江を挙げて燕に降った。黄鉞は国変を聞き、門を閉じて出なかった。翌年、戸科左給事中として召されたが、途中で自ら水に投身した。溺死したと報告されたため、その家は連座を免れた。

曾鳳韶は廬陵の人である。洪武末年の進士。建文初年、かつて監察御史を務めた。燕王が帝を称すると、元の官職で召されたが、赴かなかった。また侍郎として召され、免れられぬと知り、血を刺して衣襟に書き記した、「我は廬陵の忠節の邦に生まれ、平素より剛直な心腸を負う。書を読み進士の第に登り、仕宦して繡衣郎に至る。一死を得宜と慨し、地下に笑って含むべく、我が文天祥に愧じず」。妻の李氏と子の公望に言い含めた、「我が衣を替えるな、即ちこれをもって殯せよ」。遂に自殺し、二十九歳であった。李もまた節を守って死んだ。

王良は字を天性といい、祥符の人である。洪武末年、累官して僉都御史となり、僚友の獄事を緩めた罪で坐し、刑部郎中に貶された。建文中、歴遷して刑部左侍郎となった。燕王府の者の罪を減ずることを議し、帝意にかなわず、出されて浙江按察使となった。燕王が即位すると、彼をかなり徳とし、使者を遣わして王良を召した。王良は使者を捕らえて斬らんとしたが、衆が奪い去った。王良は諸司の印を私邸に集め、自殺しようとしたが、直ちには決しなかった。妻がその故を問うた。言うには、「我は分として死すべきだが、汝をどう処すべきか知らぬのだ」。妻は言った、「君は男子なり、乃ち婦人のために謀るのか」。王良に食事を勧めた。食し終えると、その子を抱いて後園に入り、子を池の傍らに置き、水に投身して死んだ。王良は妻を殯し終えると、子を友人の家に託し、遂に薪を積んで自ら焼き、印は全て毀した。成祖は言った、「死は固より王良の分であるが、朝廷の印は毀すべからず。印を毀せしは、王良罪無きを得ず」。その家を辺境に移した。

陳思賢は茂名の人である。洪武末年に漳州教授となり、忠孝の大義をもって諸生を勧めた。部使者が漳州に臨むたび、参謁の時に必ず請うて言った、「聖躬安否」。燕王の登極詔が至ると、慟哭して言った、「明倫の義は、正に今日にある」。堅く臥して詔を迎えず。その徒の呉性原・陳応宗・林玨・鄒君默・曾廷瑞・呂賢の六人を率い、即座に明倫堂を旧君の位とし、礼に則って哭臨した。有司が彼らを捕らえて京師に送ると、思賢及び六生は皆死んだ。六生は皆龍渓の人である。嘉靖年中、提学副使の邵鋭が祠を立てて思賢を祀り、六生を配食させた。

また台州に樵夫がおり、日々薪を負って市に入り、値段を二つにせず(言い値で売った)。燕王が帝位に即いたと聞き、慟哭して東湖に投身して死んだ。また温州楽清にも樵夫がおり、京師陥落とその郷人である卓侍郎敬の死を聞き、号哭して水に投身した。二人の樵夫は共にその名を失われている。

程通は績渓の人である。かつて太祖に上書し、その祖父の戍籍を除くことを乞うた。言葉は甚だ哀切で、遂に請いが聞き届けられた。後に、遼府紀善に任じられた。燕師が起こると、王に従って海を渡り京師に帰り、数千言の封事を上書して防備の策を陳べ、左長史に進んだ。永楽初年、王に従って荊州に移った。以前上書した封事に指斥が多いと讒言する者があった。械で縛られて至り、獄中で死んだ。家属は辺境に戍らされた。併せてその友人である徽州知府黄希範を捕らえ、死罪と論じ、その家を籍没した。

葉恵仲は臨海の人である。兄の夷仲と共に文名があり、知県として征用され『太祖実録』を修し、南昌府知府に遷った。永楽元年、『靖難』の事を直筆した罪で坐し、族誅された。

黄彦清は歙県の人である。国子博士の官にあり、名節をもって自ら励んだ。梅殷の軍中で建文帝に私謚を贈った罪で坐し、誅殺された。

蔡運は南康の人である。歴官して四川参政となった。剛直で俗に調和せず、罷免されて帰った。再び起用されて賓州知州となり、恵政があった。永楽初年、やはり奸党として追論され死んだ。

石允常は寧海の人である。洪武二十七年の進士。河南僉事の官にあり、廉潔で節操があり名声があった。事に坐して常州同知に貶された。建文末年、兵を率いて長江を防いだ。軍が潰え、官を棄てて去った。後に周藩を廃した事を追録され、二年間獄に繋がれた。死を免れて辺境に戍らされた。

高巍は遼州の人で、気節を尊び、文章を能くした。母の蕭氏に痼疾があり、高巍は左右に侍奉し、老いるまで少しも怠らなかった。母が死ぬと、粗食をして墓傍に廬し三年を過ごした。洪武年中、孝行を表彰され、太学生から前軍都督府左断事を試みた。河南・山東・北平の荒田を開墾することを上疏した。また末技を抑え、選挙を慎み、名器を惜しむ数事を条上した。太祖は嘉してこれを納れた。まもなく事を決するのに帝意にかなわず、罪に当たり、死を減じて貴州関索嶺に戍らされた。特に弟と甥に代役を許し、言うには、「孝子を表彰するためである」。

恵帝が即位すると、上疏して田舎に帰ることを乞うた。間もなく、遼州知州の王欽が詔に応じて高巍を辟召した。高巍はそこで吏部に赴き上書して時政を論じた。権力を握る者が諸王を削ることを正義としていた時、ただ高巍と御史の韓郁が先後に恩を加えることを請うた。おおよそ次のように言った、「高皇帝が諸王を分封されたのは、古制に比べ既に過当であり、諸王もまた多く驕逸で法に従わず、朝制に違犯している。削らなければ朝廷の綱紀は立たず、削れば則ち親親の恩を傷つける。賈誼が言う、『天下を治安せしめんと欲すれば、諸侯を多く建ててその力を少なくするに如くは莫し』。今何ぞその意に倣い、晁錯の削奪の謀を行わず、主父偃の推恩の策に效わないのか。北の諸王には、子弟を南に分封し、南の諸王には、子弟を北に分封する。このようにすれば則ち藩王の権は、削らずして自ずから削がれるであろう。臣はまた親親の礼を益々盛んにし、歳時の伏臘に人を遣わして饋問することを願う。賢者には詔を下して褒賞し、驕逸で法に従わない者には、初犯はこれを容れ、再犯はこれを赦し、三犯して改めなければ、則ち太廟に告げて廃処する。どうして順服しない者があろうか」。書が奏上されると、帝はうなずいた。

やがて燕兵が起こり、李景隆に従って出師し軍務に参贊することを命じられた。高巍は再び上書し、言うには、「臣は燕に使わんことを願う。忠胆を披き、義礼を陳べ、禍福を以て曉らし、親親の誼を以て感ぜしめ、兵を休めて藩に帰らしめたい」。帝はその言葉を壮とし、これを許した。高巍が燕に至り、自ら称して言った、

国朝の処士高巍、再拝して燕王殿下に上書す。太祖上賓し、天子位を嗣ぎ、維新の政を布き、天下愛戴し、皆曰く「内に聖明有り、外に藩翰有り、成・康の治、今に再び見る」と。謂わざるに、大王朝廷と絶つことを顕わにし、三軍を張り、六師に抗す。臣、大王の何の意たるを知らず。今、朝に在る諸臣、文者は智輳し、武者は勇奮し、言を執り義に仗ち、順を以て逆を討つ。勝敗の機、指掌に明らかなり。皆云う、大王「左班の文臣を誅すを口実とす、実は則ち呉王濞の故智なり、その心は路人の共に知る所」と。巍窃かに恐る、奸雄無頼、隙に乗じて奮撃し、万一失有らば、大王先帝に罪を得んと。今、大王北平に拠り、密雲を取り、永平を下し、雄県を襲い、真定を掩う。易きこと建瓴の若きも、然れども兵興以来、業に数月を経るも、尚た蕞爾たる一隅の地を出でず。且つ大王の統ぶる所の将士、計るに三十万を過ぎず。一国の有限の衆を以て天下の師に応ずるも、亦た易く罷むべし。大王と天子、義は則ち君臣、親は則ち骨肉、尚た離間を生ず。況んや三十万の異姓の士、その同心協力、殿下に効死するを保つことを得んや。巍、毎に此を念うに至りて、未だ嘗て大王の為に泣き涕を流さざるは無し。

願わくは大王、巍の言を信じ、表を上りて罪を謝し、再び親好を修めよ。朝廷、大王に他無きを鑒み、必ずや寛宥に蒙らん。太祖の在天の霊も亦た安からん。倘し執迷して悟らず、千乗の尊を捨て、一国の富を捐て、小勝を恃み、大義を忘れ、寡を以て衆に抗し、僥倖にして成すべからざる悖事を為さば、巍、大王の税駕する所を知らず。況んや大喪未だ終わらず、毒しく師旅を興す、その泰伯・夷・齊の仁を求め国を譲るの義と、大いに逕庭せざらんや。大王に朝廷を粛清するの心有りと雖も、天下、嫡統を篡奪するの議無からず。即ち幸いにして敗れずと雖も、大王を何の如き人と謂わん。

巍、白髪の書生、蜉蝣の微命、性、死を畏れず。洪武十七年、太祖高皇帝に臣が孝行を旌せらる。巍窃かに自ら負う、既に孝子と為りて、当に忠臣と為るべし。忠に死し孝に死するは、巍の至願なり。如し賜死を蒙らば、太祖の在天の霊に見ゆるを得、巍も亦た以て愧じること無かるべし。

書数たび上るも、皆報いず。

已にして景隆兵敗れ、巍自ら抜けて南に帰る。臨邑に至り、参政鉄鉉に遇い、相い持して痛哭す。済南に奔り、誓って死を以て拒守し、屡たび燕兵を敗る。及び京城破れ、巍、自ら経ちて駅舎に死す。郁の疏、略して曰く。

諸王、親は則ち太祖の遺体、貴は則ち孝康皇帝の手足、尊は則ち陛下の叔父なり。二帝の在天の霊をして、子孫天子と為り、而して弟と子、残戮に遭わしむれば、その心安からんや。臣、毎に此を念うに至りて、未だ嘗て涕を流さざるは無し。此れ皆、豎儒の偏見、藩封の太重なるを病み、疑慮の太深きに至りて、乃ち此に至る。夫れ唇亡びて歯寒し、人人自ら危うし。周王既に廃せられ、湘王自ら焚き、代府摧かれ、而して斉の臣又た王の反するを告ぐ。計を為す者は必ず曰く「兵挙げざれば則ち禍必ず加わん」と。是れ朝廷の執政、之を激して然らしむるなり。

燕、兵を挙ぐること両月、前後兵を調うること五十余万を下らず、而して一矢獲ること無し。之を国に謀臣有りと謂うべけんや。経営既に久しく、軍興すれば輒ち乏しく、将は謀に效せず、士は力に效せず。徒らに中原の辜無き赤子を転輸に困し、民聊生する無く、日甚だしきに甚だし。九重の憂い方に深く、而して帷幄に出入り国事に与る者は、方に揚揚として自得す。彼の陛下を勧めて藩国を削る者は、果たして何の心ぞ。諺に曰く「親なる者は之を割くも断たず、疏なる者は之を続くも堅からず」と。殊に理有り。陛下察せず、十年を待たず、悔ゆるも及ばん。

臣至愚、恩を感ずること至厚、敢えて言わざるべからず。幸いに少しく洞鑒を垂れ、滅びたるを興し絶えたるを継ぎ、代王の囚を釈し、湘王の墓を封じ、周王を京師に還し、楚・しょくを迎えて周公と為せ。各世子をして命じ書を持たしめて燕を勧め、兵を罷めて藩を守らしめ、以て宗廟の霊を慰めよ。明に天下に詔し、乱を撥ぎて正に反り、親親を篤厚にせば、宗社幸い甚だし。

聴かず。燕師江を渡り、郁、官を棄てて遁れ去り、終わる所を知らず。

高賢寧、済陽の儒学生。嘗て教諭王省に学を受け、節義を以て相い砥礪す。建文中、貢されて太学に入る。燕兵德州を破り、済南を囲む。賢寧適に囲中に在り、赴くに及ばず。是の時、燕兵勢甚だ張り、黄子澄等、謀りて使を遣わし和を議して以て之を怠らしめんとす。尚宝司丞李得成なる者、慷慨して行くを請い、燕王に城下に見ゆ。王聴かず、囲み益々急なり。参政鉄鉉等、百計を以て之を禦ぐ。王、書を射て城中に降を諭す。賢寧、「周公成王を輔く論」を作り、城外に射る。王その言を悦び、為に攻めを緩む。相い持つこと両月、卒に潰れて去る。燕王即位後、賢寧捕えられ入りて見ゆ。成祖曰く「此れ論を作る秀才か。秀才好人なり、予一官を与えん」と。賢寧固く辞す。錦衣衛指揮紀綱、故に劣行を以て生員を黜せられし者、素より賢寧と善くし、職に就くを勧む。賢寧曰く「君は学校に棄てられし故、応に爾るべし。我は廩を食むこと年有り、義不可なり、且つ嘗て王先生の教えを辱うせり」と。綱、帝に為に言い、竟に帰るを得、年九十七にして卒す。

王琎、字は器之、日照の人。経史に博通し、尤も『春秋』に長ず。初め教授と為り、事に坐して遠方に謫せらる。洪武末、賢能を以て薦められ、寧波知府を授かる。夜四鼓に即ち燭を秉りて書を読み、声署外に徹す。間も無く学に詣で諸生を課し、諸生率ね四鼓に起き、誦習して敢えて懈る者無し。境内の淫祠を毀ち、三皇祠も亦た毀つ中に在り、或いは以て疑う。琎曰く「当に祠すべからざるに祠するを『淫』と曰い、祠すべからざるに祠するを『瀆』と曰う。惟だ天子三皇を祭るを得、士庶人に預かる無し、之を毀つ何の疑いか有らん」と。自ら奉ずるに儉約にし、一日饌に魚羹を用う。琎その妻に謂いて曰く「若、吾が草根を啖う時を憶えずや」と。命じて撤して之を埋めしむ、人号して「埋羹太守」とす。燕師江に臨み、琎、舟艦を造りて勤王を謀るも、衛卒に縛せられて京に至る。成祖問う「舟を造るは何の為ぞ」と。対えて曰く「海に泛かば瓜洲に趨り、師の南渡を阻まんと欲するのみ」と。帝も亦た罪せず、裏に放ち還し、寿を以て終わる。

周縉、字は伯紳、武昌の人。貢を以て太学に入り、永清典史を授かり、令事を摂す。成祖兵を挙ぐるに、守令相率いて迎降す。永清地尤も近く、縉独り守禦の計を為す。已にして、為すべからざるを度り、印を懐いて南に奔る。道に母の卒するを聞き、帰りて喪を終う。燕兵已に迫り、義旅を糾い勤王す。京師守らざるを聞き、乃ち走り匿る。吏部言う「前の北平に所属する州県官朱寧等二百九十人、皇上の『靖難』に当たり、俱に職を棄て逃亡す。宜しく諸法に置くべし」と。詔して粟を入れて罪を贖わしめ、戍に興州に遣わす。有司遂に縉を捕え、械して戍所に送る。数歳居り、子代わりて還り、年八十にして没す。朱寧等は皆考うる無し。

牛景先、何の許の人なるかを知らず。官は御史。金川門開くや、服を易えて宵に遁れ、杭州の僧寺に卒す。已にして窮めて斉・黄の党を治め、その家を籍す。

燕兵の入るや、一夕にして朝臣城を縋りて去る者四十余人。その姓名爵裏、得て而して考うる莫し。然れども世相伝うるに、程済及び河西傭・補鍋匠の属有りと。

程済は朝邑の人である。道術を有していた。洪武の末年に嶽池の教諭に任官した。恵帝が即位すると、程済は上書して言う、「某月某日に北方で兵が起こるであろう」と。帝は言う、言うべきことではないと、捕らえて来させ、殺そうとした。程済は大声で叫んで言う、「陛下、どうか臣を囚われて下さい。臣の言が当たらなければ、その時に死んでも遅くはありません」と。そこで彼を獄に下した。やがて燕の兵が起こると、彼を釈放し、官を改めて編修とした。北征軍に参じて淮上に至り、敗れ、召し還された。ある人の言うには、徐州の捷報の時、諸将が碑を建てて功績を記したが、程済が一夜に赴いて祭り、人はその意図を測り知れなかったという。後に燕王が徐州を過ぎ、碑を見て大いに怒り、左右に促してこれを打ち壊させた。二度打ち壊させて、急に言う、「止めよ。わがために文を書き写して来い」と。やがて、碑に従って誅罰を行い、免れる者はなかった。しかし程済の名は、ちょうど打ち壊された部分にあった。しかし事実を考証すると、徐州で捷報があったことはない。金川門が開くと、程済は逃亡した。ある人の言うには、帝もまた僧となって出奔し、程済はこれに従ったという。その終わりを知る者はない。

河西傭は、何者であるか知られていない。建文四年の冬、葛の衣をまとって金城の市中で物乞いをした。やがて、河西に至り、莊浪の魯氏に傭われた。賃金で羊の裘を買い、それに以前の葛衣を覆い、ぼろぼろになっても捨てようとしなかった。力仕事で疲れると、いつも独り吟詠し、あるいは夜にその哭聲を聞くことがあった。久しくして、京の朝官が来て、この傭を識り、語ろうとしたが、南山に走って避けた。ある人が京の朝官に問う、「傭は何者か」と。官もまた答えなかった。莊浪に数年いて、病みて死にそうになり、主人を呼んで言い含めて言う、「我が死んだら殮するな。西北の風が起こったら、我を焼け。我が骨を埋めるな」と。魯家はその言葉に従った。

補鍋匠は、常に夔州・重慶の間を往来した。業は鍋を補うことで、凡そ数年、川中の人多くこれを識っていた。一日、夔州市で一人に遇い、互いに見つめて愕然とした。やがて、互いに抱き合って哭き、共に山巖の中に入り、坐して語り終日を過ごした。また互いに抱き合って哭き、別れて去った。その人とは即ち馮翁である。翁は夔で章句を以て童子に授け、衣食を給し、古詩を作ることができた。詩の後に「馬二子」、あるいは「馬公」、あるいは「塞馬先生」と題した。後に二人ともその終わりを知る者はなかった。

また會稽に二隠者がいた。一人は雲門の僧、一人は若耶溪の樵である。僧は毎度舟を浮かべて詩を賦し、帰れば即ちこれを焼いた。樵は毎度溪の沙の上に荻で字を書き、やがて、すぐにその沙を乱した。これを疑う者がいて、後ろから抱きかかえて見ると、則ち皆、孤臣が国を去る詞であった。

時にまた玉山樵者がおり、金華の東山に居り、麻衣に笠を戴き、終身変えなかった。嘗て王姓の者のために詩を題して「宗人」と言ったので、故にこれを王姓と疑うという。雪庵和尚は、人がこれを葉希賢と疑う、『練子寧傳』に見える。

その後数十年、松陽の王詔が治平寺に遊び、転輪蔵の上に書一卷を得た。建文の亡臣二十余人の事跡を載せている。紙墨は断爛し、識り得る者は僅か九人である。梁田玉・梁良玉・梁良用・梁中節は皆定海の人で、同族であり、同朝に仕えた。田玉は、郎中に官し、京師が破れると、去って僧となった。良玉は、中書舎人に官し、姓名を変え、海南に走り、書を売って老いた。良用は舟師となり、水に死んだ。中節は『老子』・『太玄経』を好み、道士となった。何申・宋和・郭節は、皆何者であるか知られず、同中書に官した。申は蜀に使いし、峽口に至って変を聞き、嘔血し、疽が背に発して死んだ。和及び節は卜筮の書を抱えて異域に走り、客死した。何洲は、海州の人である。何の官か知られず、また去って卜者となり、客死した。郭良は、官籍ともに考証すべきものなく、梁中節と相約して官を棄て道士となった。余り十一人は併せてその姓名を失う。縉雲の鄭僖がその事を記し、『忠賢奇秘録』として、世に伝わった。

万歷の時に及んで、江南にまた『致身録』があり、茅山の道書中に得たという。建文の時、侍書の呉江の史仲彬の述べたところで、帝の出亡後の事を甚だ詳しく記している。仲彬・程済・葉希賢・牛景先は皆従亡の臣である。また廖平・金焦などの姓名があり、雪庵和尚・補鍋匠などは、併せて姓名・官爵を有している。一時、士大夫は皆これを信じた。給事中の歐陽調律がその書を朝廷に上し、謚を請い祠を立てようとした。しかし仲彬が実は嘗て侍書となったことはなく、『録』は蓋し晩出で、附会して信ずるに足りない。

賛して言う。靖難の役に、朝臣多くは身を捐て国に殉じた。王艮以下の諸人の従容として節に就くは、大義を平素より明らかにする者でなければできないことである。高巍は一介の布衣でありながら、慷慨として上書し、藩服に帰ることを請うた。その持論は甚だ偉大であり、また能く超然として遠くに引き、跡を晦まして自ら全うし、奇士と称すべきである。行遯の諸賢に至っては、その姓字は諸家の傳紀に雑出し、信を徴するに足りないが、忠義の奇節は、人多くこれを楽しく語る者である。『傳』に曰く、「其の過ちて之を去るに与するよりは、寧ろ過ちて之を存す」と。亦た以て綱常を扶植し、懦夫をして立つ志有らしめるに足る。