明史

列傳第三十 鐵鉉 暴昭 陳性善 張昺 謝貴 彭二 宋忠 馬宣 瞿能 張倫 顏伯瑋 王省 姚善 陳彥回

○鐵鉉 暴昭(侯泰)陳性善(陳植 王彬 崇剛)張昺(謝貴 彭二 葛誠 余逢辰)宋忠(余瑱)馬宣(曾浚 卜萬 朱鑒 石撰)瞿能(莊得 楚智 皂旗張 王指揮 楊本)張倫(陳質)顏伯瑋(唐子清 黃謙 向樸 鄭恕 鄭華)王省 姚善(錢芹)陳彥回(張彥方)

鐵鉉は鄧の人である。洪武年間、国子生より礼科給事中に任じられ、都督ととく府断事に転じた。疑わしい獄案を審理し、ただちに明白にしたことがあった。太祖は喜び、彼に「鼎石」の字を与えた。建文初年、山東参政となった。李景隆が北伐したとき、鉄鉉は糧秣を監督して欠乏させなかった。景隆の軍が白溝河で敗れ、単騎で德州に逃げると、城の守備兵はみな風の便りに潰走した。鉄鉉と参軍高巍は感激奮発して涙を流し、臨邑より済南へ急ぎ、盛庸・宋参軍らとともに死守を誓った。燕兵が德州を攻めると、景隆は鉄鉉を頼って逃げた。德州が陥落し、燕兵はその蓄積百余万を収奪して、勢いはいよいよ強まった。ついで済南を攻撃し、景隆はまた大敗して南へ奔った。鉄鉉と庸らは城に登って守備した。燕兵は堤防を築いて水を引き城を灌漑し、長い包囲陣を築き、昼夜攻撃した。鉄鉉は計略をもってその攻城具を焼き、ときおり兵を出して奮撃した。また千人を城外に出して偽りの降伏をさせた。燕王は大いに喜び、軍中みな歓呼した。鉄鉉は壮士を城上に伏せさせ、王が入るのを待ち、鉄板を下ろして撃とうとした。別に伏兵を設け、橋を断とうとした。やがて約束が違えられ、王が城に入らないうちに鉄板が急に下りた。王は驚いて走り、伏兵が発動したが、橋は慌ただしくして断つことができず、王は馬に鞭打って駆け去った。王は憤慨の極み、百方手を尽くして進攻した。およそ三か月を経たが、ついに堅固に守って陥とすことができなかった。このとき、平安が二十万の兵を統率し、德州を奪回しようとして、燕の糧道を断とうとした。燕王は恐れ、包囲を解いて北へ帰った。

燕王は起兵以来、真定を攻めて二日で陥とせず、ただちに捨て去った。ただ済南を得て南北の連絡を断ち、すぐに境界を画して守れば、金陵を図るのは難しくないと考えた。ゆえに景隆を大破した鋭気に乗じて、力を尽くして攻撃し、必ず陥とすことを期したが、ついに鉄鉉らに挫かれたのである。帝は聞いて大いに喜び、官を遣わして慰労し、金幣を賜い、その三世を封じた。鉄鉉が入朝して謝すると、宴を賜った。凡そ建言したことはすべて採用された。山東布政使に抜擢された。まもなく兵部尚書に進んだ。盛庸をもって景隆に代えて平燕将軍とし、鉄鉉にその軍務に参与するよう命じた。この年の冬、庸は東昌において燕王を大いに破り、その大将張玉を斬った。燕王は北平へ奔り帰った。燕兵が逆乱を起こして以来、南北は日々干戈を交えたが、王師の勝利で東昌のようであったものはなかった。これより燕兵が南下するときは徐・はいを経由し、再び山東の道を通ることを敢えてしなかった。

燕兵が次第に迫ると、帝は遼東総兵官楊文に命じて、その率いる十万の兵を鉄鉉と合流させ、燕の背後を断たせた。楊文の軍は直沽に至り、燕の将宋貴らに敗れ、一人として済南に至る者はなかった。四年四月、燕軍は南進して王師を小河で牽制し、鉄鉉と諸将はときに斬獲があった。連戦して霊璧に至り、平安らの軍は潰えて捕らえられた。やがて庸もまた敗北した。燕兵が江を渡ると、鉄鉉は淮上に駐屯したが、兵もまた潰えた。

燕王が皇帝の位につくと、鉄鉉を捕らえて来させた。鉄鉉は朝廷の中で背を向けて座り、罵詈雑言を浴びせた。一度振り返らせようとしたが、ついにできず、ついに市中で磔刑に処した。三十七歳であった。子の福安は河池に流刑となった。父の仲名は八十三歳、母の薛はともに海南に安置された。

宋参軍という者は、その名が伝わっていない。燕兵が済南を攻めて陥とせず、これを捨てて南へ去ったとき、参軍は鉄鉉に北平を直撃するよう説いた。鉄鉉は兵卒が非常に疲弊しているとして、果たさなかった。後に行方がわからなかった。

暴昭は潞州の人である。洪武年間、国子生より大理寺司務に任じられた。三十年、刑部右侍郎に抜擢された。翌年、尚書に進んだ。耿介で峻烈な節操があり、布衣に麻の履き物で、清廉倹約をもって知られた。建文初年、北平採訪使を充てられ、燕の不法な情状を得て、密かに上奏し、あらかじめ備えるよう請うた。燕兵が起こると、真定に平燕布政司を設置し、暴昭は尚書として司事を掌り、鉄鉉らと心を尽くして経画した。平安らの諸軍が敗れると、召還されて帰った。金川門が陥落すると、逃亡したが、捕らえられた。屈せず、磔刑に処されて死んだ。

暴昭に継いで刑部尚書となった者は侯泰、字は順懷、南和の人である。推薦により起用された。建文初年、尚書に至った。燕王が挙兵すると、抗戦防御の策を力主した。かつて済寧・淮安で糧秣を監督した。京師が守られなくなると、高郵まで行き、捕らえられて獄に下され、弟の敬祖、子の玘とともに殺害された。

陳性善、名は復初、字をもって行われる、山陰の人である。洪武三十年の進士。臚唱のとき御前を過ぎ、帝はその容姿挙動が重々しいのを見て、長く目を留め、「君子なり」と言った。行人司副に任じられ、翰林検討に転じた。性善は書に巧みで、かつて便殿に召し入れられ、誠意伯劉基の子璉が献上したその父の遺書を繙写した。帝は威厳があり、謁見する者は多くおののき恐れ、慌てて汗をかき、一字も成さなかった。性善の挙動は安祥で、字画は端正で美しかった。帝は大いに喜び、酒食を賜い、日が暮れるまで留めた。

恵帝が東宮におられたとき、性善の名を知り習っていた。即位すると、礼部侍郎に抜擢し、流人薛正言ら数人を推薦して起用させた。雲南布政使韓宜可が謫籍にあったが、これも性善の言により、副都御史に起用された。ある日、帝が退朝し、ひとり性善を留めて座を賜い、天下を治める要道を問うと、性善は手書して進言した。性善は言うところを尽くし、帝はすべて従った。やがて、役所に阻まれると、性善は進み出て言った、「陛下は臣の不肖をもってせず、辱くも顧問を承けられました。すでに聖聴を汚すことを僭越し、臣に必ず行うことを許されました。間もなく中止され改められれば、事は汗を反すのと同じです。どうして天下を信じさせましょうか」。帝は顔色を動かした。

燕師が起こると、副都御史に改められ、諸軍を監督した。霊璧で戦いに敗れ、大理丞彭与明・欽天監副劉伯完らとともに捕らえられた。やがて、すべて釈放されて帰された。性善は言った、「命を辱めたのは罪である。どうして我が君にお目にかかれようか」。朝服を着て馬に躍り乗り、河に入って死んだ。余姚の黄墀・陳子方は性善の友であり、ともに死んだ。燕王が京師に入ると、詔を下して性善を追って殺戮し、その家を辺境に移した。

与明は万安の人である。貢挙により太学に入り、給事中を歴任した。建文初年、大理右丞となり、廉潔勤勉で敏達であった。軍を監督して捕らえられた。釈放されて帰され、慚愧憤慨して冠裳を裂いた。姓名を変え、伯完とともに逃亡し、行方知れずとなった。

このとき侍郎として軍を監督した者に、廬江の陳植がいた。植は元末に郷試に挙げられたが、仕えなかった。洪武年間、吏部主事となった。建文二年、兵部右侍郎となった。燕兵が江に臨むと、植は江上で戦いを監督した。慷慨として師を誓った。部将に降伏を迎えようと議する者がいると、植は大義をもって責め、非常に厳しかった。部将が彼を殺して降伏し、かつ賞を求めた。燕王は怒り、ただちに部将を誅殺し、棺を整えて植を白石山に葬った。

燕師が江北に至った時、御史王彬が江淮を巡按し、揚州に駐屯し、鎮撫崇剛と共に城を守り堅く防いだ。当時盛庸の兵は既に敗れ、人々に固守の志は無かった。守将王礼が城を挙げて降伏しようと謀ると、彬は彼とその一味を捕らえ、獄に繋いだ。剛は出て兵を練り、彬は守備の具を整え、昼夜懈怠しなかった。力士で千斤を持ち上げる者がおり、彬は常にこれを側近に従えていた。燕兵が城中に飛書して言うには、「王御史を縛って降る者は、官三品とする」と。左右は力士を恐れ、敢えて動く者はいなかった。礼の弟が力士の母を賄賂で誘い、その子を外に出させた。彬が甲を解いて沐浴している隙に、不意にこれを縛った。獄から礼を出し、門を開いて燕師を迎え入れた。彬と剛は共に屈せず死んだ。彬は字を文質といい、東平の人である。洪武年間の進士であった。剛の郷里籍貫は失われている。

また兵部主事樊士信は、応城の人である。淮を守り、力をもって燕兵に抵抗したが、勝てず、その地で死んだ。

張昺は、澤州の人である。洪武年間、人材として累進して工部右侍郎となった。謝貴は、その出自がどこからかは分からないが、歴任して河南衛指揮僉事となった。建文初年、廷臣が燕王の削封を議し、守臣を更迭することとなった。そこで昺を北平布政使とし、貴を都指揮使とし、共に密命を受けた。当時燕王は病と称して久しく出ず、二人は必ず変事があると知り、城中の七衛及び屯田軍士を配置し、九門を列ねて防守し、王を捕らえようとした。昺の庫吏李友直が事前にその謀を知り、密かに王に告げたので、王は遂に備えを為すことができた。建文元年七月六日、朝廷が人を遣わして燕府の官校を逮捕させた。王は偽って官校を縛り廷中に置き、使者に引き渡そうとした。昺と貴を騙して中に入れ、端禮門に至ったところで、伏兵に捕らえられ、共に屈せず死んだ。

燕将張玉・朱能らが勇士を率いて九門を攻め、その八つを陥落させたが、西直門だけは落ちなかった。都指揮彭二が馬を躍らせて市中で呼ばわって言うには、「燕王謀反なり、我に従って賊を殺す者には賞を与える!」と。千余人の兵を集め、燕府を攻めようとした。ちょうど燕の健士が府中から出てきて、二を格殺し、兵は遂に散り、九門を全て奪い取られた。

初め、昺が殺された時、遺骸は還された。「靖難」の後、昺の屍を引き出して焼き、家族及び近親は皆死んだ。

葛誠は、どのようにして進んだか分からない。洪武末年に、燕府長史となった。かつて王命を奉じて京師に上奏したことがあった。帝が召見し、府中の事を問うと、誠は全て実情を以て答えた。帰還を命じられた。王は偽って病と称し、盛夏に炉を抱いて座り、寒さが甚だしいと叫んだ。昺・貴らが入って病を問うた。誠は言うには、「王は実際には病気ではなく、変事を起こそうとしている」と。また密かに上疏して帝に知らせた。昺・貴らが王を図ろうとした時、誠は護衛指揮盧振と内応を約した。事は敗れ、誠・振は共に殺され、その一族は滅ぼされた。

また伴読余逢辰は、字を彦章といい、宣城の人である。学問と行いがあった。王に信任され、故に異謀を聞くことができ、隙を見て力を尽くして諫めた。変事が起こらんとするのを知り、その子に書を送り、必ず死ぬと誓った。兵が起こると、また泣いて諫め、「君と父の両方に背くことはできない」と言い、その地で死んだ。

北平の人杜奇は、才知に優れた士である。燕王が兵を起こした時、府に召し入れられたが、奇は「臣下の節を守るべきだ」と極力諫めた。王は怒り、直ちにこれを斬った。

宋忠は、どこの人か分からない。洪武末年に、錦衣衛指揮使となった。ある百戸が罪なくして死罪と論ぜられた時、忠が上疏して救った。御史がこれを弾劾したが、太祖は言うには、「忠は率直で隠すところがなく、人のために命を請うている。何の罪があろうか?」と。遂に百戸を赦した。まもなく僉都御史劉観に弾劾され、鳳陽中衛指揮使に転任した。三十年、平羌将軍斉譲が西南夷を征討して功が無く、忠を参将とし、将軍楊文に従ってこれを討たせた。軍が帰還すると、再び錦衣衛の官に復した。

建文元年、都督として詔勅を奉じ、辺兵三万を率いて開平に駐屯し、燕府護衛の壮士を全て選抜して従軍させた。また都督徐凱を臨清に、耿瓛を山海関に駐屯させ、互いに犄角の勢いとした。北平には元来永清左衛・右衛があったが、忠はその左衛を彰徳に、右衛を順徳に移して燕に備えさせた。張昺・謝貴が燕王を捕らえようと謀った時、忠もまた兵を率いて北平へ向かった。到着しないうちに燕兵が起こり、居庸関が陥落し、進むことができず、退いて懐来を守った。燕王は忠が必ず居庸を争うと見て、精兵八千を率い、甲を巻き倍道で懐来へ向かった。当時、北平の将士で忠の部下にいた者に対し、忠は「家族は皆燕に殺し尽くされた。どうして力を尽くして仇を報い、国恩に報いないことがあろうか」と告げた。燕王がこれを偵知し、急いでその家族に元の旗幟を持たせて前鋒とし、父兄子弟と互いに労を問わせた。将士は皆喜んで言うには、「我が家は元より無事である。宋総兵は我らを欺いたのだ」と。遂に戦う志を失った。忠は慌てて陣を布いたが、まだ列を成さなかった。燕王が一たび麾を振って河を渡り、鬨の声を上げて進んだ。忠は敗れ、その地で死んだ。

忠が懐来を守った時、都指揮余瑱・彭聚・孫泰が共にいた。戦いになると、瑱は捕らえられ、屈せず死んだ。泰は流れ矢に当たり、血が甲を覆い、傷を包んで力戦し、聚と共に陣中で没した。この時、諸将校で燕に捕らえられた者は百余人に上り、皆降伏を肯んぜず、死んだ。惜しいことに姓名の多くは伝わっていない。

馬宣もまた、どこの人か分からない。都指揮使の官にあった。宋忠が居庸へ向かった時、宣もまた薊州から師を率いて北平へ赴いた。変事を聞き、走って帰還した。燕王が懐来を陥落させた後、軍を返して南下しようとした。張玉が進言して言うには、「薊州は外で大寧に接し、騎兵が多い。取らなければ後患となる恐れがある」と。ちょうど宣が兵を発して北平を攻めようとし、燕兵と公楽驛で戦い、敗れて帰還し、鎮撫曾濬と共に城を守った。玉らが攻め寄せると、宣は出戦して捕らえられ、罵りを絶やさず、濬と共に死んだ。

燕兵が大寧を襲撃した時、守将都指揮卜萬と都督劉真・陳亨が兵を率いて松亭関を扼した。亨は燕に降りたかったが、萬を恐れて敢えて発しなかった。燕は反間を行い、萬に書を送り、萬を大いに称賛し、亨を極めて誹謗した。捕らえた大寧の兵卒を厚く賞し、書を衣の中に封じ、密かに萬に渡させた。わざと同時に捕らえられた兵卒に見せ、また釈放したが賞を与えなかった。賞を得られなかった者がその事を発覚させた。真と亨が兵卒の衣を捜索し、書を発見した。遂に萬を捕らえて獄に下し死なせ、その家を没収した。萬は忠勇でありながら間諜によって死に、論者はこれを惜しんだ。大寧が陥落すると、指揮使朱鑒が力戦し、屈せず死んだ。

寧府左長史石撰は、平定の人である。学問と行いをもって称された。燕王が兵を挙げると、撰は常に守禦の計を為し、毎に臣節を以て寧王を諷した。王もまた心からこれを敬った。城が陥落すると、憤って罵り屈せず、四肢を切断されて死んだ。

瞿能は、合肥の人である。父の通は、洪武年間に累進して都督僉事となった。能は官を嗣ぎ、四川都指揮使として藍玉に従い大渡河を出て西番を撃ち、功があった。また副総兵として建昌の叛酋月魯帖木児を討ち、双狼寨でこれを破った。燕師が起こると、李景隆に従って北征した。北平を攻め、その子と共に精騎千余を率いて彰義門を攻め、陥落寸前となった。景隆がこれを妬み、大軍と共に進むのを待てと命じた。そこで燕人は夜に水を汲んで城に掛けた。時は大寒で、氷が凝り登ることができず、景隆は遂に大敗を招いた。その後、また景隆に従って進み白溝河に駐屯し、燕師と戦った。能父子は奮撃し、向かうところ靡かなかった。日が暮れ、各々軍を収めた。翌日また戦い、燕王はほとんど捕らえられそうになった。王は急いで偽って後軍を招くふりをして彼らを疑わせ、逃げ去ることができた。夕暮れ時、能はまた衆を引いて搏戦し、「燕を滅ぼす」と大呼し、数百の首級を斬った。諸将の俞通淵・滕聚がまた衆を率いて来て合流した。ちょうど旋風が起こり、王が突入して馳撃した。能父子は陣中で死んだ。通淵・聚も共に死んだ。精兵一万余は共に全滅した。南軍はこれより振るわなくなった。

当時、北兵と戦って死んだ者には、都指揮の莊得・楚智・皂旗張らがいる。

莊得は、もと宋忠に属していた。懐来の敗戦では、一軍のみが全軍を保った。後に盛庸に従って夾河で戦い、燕の将軍譚淵を斬った。やがて燕王がぎょう騎を率いて暮れに乗じて急襲し、莊得は力戦して死んだ。

楚智は、かつて馮勝・藍玉に従って塞外に出て功績があった。建文初年、北平を守った。まもなく召還された。燕討伐の際には、兵を率いて李景隆に従った。戦うたびに奮勇し、北人はその旗幟を見て股を震わした。この時、馬が陥没して捕らえられ、死んだ。

皂旗張は、その名が伝わっていない。あるいは張は力が強く千斤を引き絞ることができ、戦うたびに黒旗を振って先駆けし、軍中で「皂旗張」と呼ばれたという。死んだ時もなお旗を執って倒れなかった。

また王指揮という者は、臨淮の人である。常に小馬に騎乗したため、軍中で「小馬王」と呼ばれた。白溝河で戦い重傷を負い、冑を脱いでその僕に託し、「我は国のために身を捧げる。これをもって家族に報いよ。」と言い、馬に乗ったまま戈を立てて死んだ。この二人の死は特に異様であったという。

また中牟の楊本は、初め太学生となり、禽遁術に通じ、応募して錦衣鎮撫に任じられた。李景隆に従って燕を討ち功績があったが、景隆は彼を妬み、上聞に達しなかった。まもなく景隆が軍を喪い国を辱めたことを弾劾し、ついに孤軍をもって単独で出撃し、捕らえられて北平の獄に繋がれ、後に殺された。

張倫は、どこの者か知られていない。河北諸衛の指揮使であり、勇猛で気概に富み、古の忠義の故事を観ることを好んだ。馬宣が薊州から兵を起こして北平を攻めたが、勝てずに死んだ。張倫は憤慨し、両衛の官を合わせて配下の兵を率いて南奔し、盟を結んで国に報いようとした。李景隆・盛庸に従って戦い、いずれも功績があった。燕王が帝位に即くと、張倫を招いて降伏を促した。張倫は笑って言った。「張倫が自らを売って丁公のようになろうか!」そして死んだ。京師が陥落した時、武臣は皆降伏し従った。従容として義に就いた者は、張倫ただ一人であった。

また陳質という者は、参将として大同を守った。中軍都督同知に進んだ。宋忠を助けて懐来を保った。宋忠が敗れると、退いて大同を守った。代王が兵を挙げて燕に応じようとしたが、陳質がこれを抑えて発動させなかった。燕兵が大同を攻めて落とせず、蔚州・広昌が燕に附くと、陳質はこれを奪回した。成祖が即位すると、陳質が代王を劫制し、既に帰附した地を掠めたことを理由に、誅殺された。

顏伯瑋は、名を瑰といい、字をもって行われた。廬陵の人である。唐の魯國公顏真卿の子孫。建文元年、賢良として徴用され、沛県知県に任じられた。李景隆が德州に駐屯したため、沛県の民は一年中運送の労役を免れた。伯瑋は計画に長け、困窮しなかった。豊・沛軍民指揮司が設置されると、民兵五千人を集め、七つの堡を築いて防備の計画を立てた。まもなくその兵が山東に増強として派遣され、残ったのは疲弊した弱兵で戦いに耐えられなかった。燕兵が沛を攻めると、伯瑋は県丞胡先に間道を行かせ、徐州へ急を告げさせた。援軍は来ず、そこで弟の玨と子の有為に命じて家に帰り父に仕えさせた。公署の壁に詩を題し、必ず死ぬことを誓った。燕兵が夜に東門から入ると、指揮王顯が迎えて降伏した。伯瑋は冠帯を整えて堂に昇り、南に向かって拝礼し、自縊して死んだ。有為は去りがたく、再び戻り、父の屍を見て、その側で自刎した。

主簿唐子清と典史黄謙はともに捕らえられた。燕の将軍は子清を釈放しようとした。子清は言った。「顏公の後を追って地下に行きたい。」そして死んだ。謙を徐州に派遣して降伏を勧めさせた。謙は従わず、やはり死んだ。

また向樸は、慈渓の人である。学問に励み親を養った。洪武末、人材として召見され、献県知県となった。県には城郭がなく、燕の将軍譚淵が到着すると、樸は民兵を集めて戦い、捕らえられ、印を懐にして死んだ。

鄭恕は、仙居の人である。蕭県知県であった。燕の将軍王聰が蕭を破り、屈せずに死んだ。二人の娘は婚期を迎えていたが、ともに死んだ。

鄭華は、臨海の人である。行人から左遷されて東平吏目となった。燕兵が到着すると、州の長官と次官は皆城を捨てて逃げた。華は妻の蕭に言った。「私は義のために、必ず死ぬ。お前が若いのはどうすればよいか。」蕭は泣いて言った。「君が国に背かないのに、妾がどうして君に背けましょうか。」華は言った。「それで十分だ。」吏民を率いて城に拠って固く守り、城が破れると力戦し、屈せずに死んだ。

王省は、字を子職といい、吉水の人である。洪武五年に郷挙に及第した。京に至ると、詔によって会試を免除され、吏部から官職を授けられることになった。省は親が老いていると述べ、帰って養うことを乞うた。まもなく文学をもって徴用された。太祖が自ら試験し、その意に適うとして、特別な抜擢に値するとされた。自ら「才能薄く親が老いている」と述べ、近くで養える地を乞うた。浮梁教諭に任じられた。合わせて三度教官となり、最後に済陽を得た。燕兵が到着すると、遊兵に捕らえられた。従容として譬えを引き、言葉の意味は慷慨としていた。兵衆は彼を釈放した。帰って明倫堂に座り、太鼓を打って諸生を集め、言った。「君たちはこの堂が何という名か知っているか、今日の君臣の義はどうあるべきか。」そして大声で泣き、諸生も泣いた。省は頭を柱に打ちつけて死んだ。娘の静は、即墨主簿周岐鳳に嫁いでいた。燕兵が済陽に来たと聞き、父が必ず死ぬと知り、三度人をやって訪ねさせ、遺骸を得て帰葬した。

姚善は、字を克一といい、安陸の人である。初め李姓であった。洪武年間に郷挙によって祁門県丞となり、廬州府・重慶府の同知を歴任した。三十年に蘇州知府に遷った。初め、太祖は呉の風俗が奢侈で僭越であるとして、法で厳しく縛ろうとしたが、狡猾な者はかえって短所を握って互いに攻撃しあうようになった。善は政務を行うに大綱を堅持し、細かいことにこだわらず、訴訟はやがて衰え止み、呉中は大いに治まった。折節して士に下り、隠士の王賓・韓奕・俞貞木・錢芹らを敬い礼した。月の初めに学宮で会合し、芹を上座に迎え、経義について質問を請うた。芹は言った。「これは今急ぐべきことではありません。」善は恐れおののいて立ち上がって問うた。芹はそこで一冊の書物を授けた。見ると、皆守禦の策であった。

時に燕兵は既に南下し、密かに鎮・常・嘉・松の四郡の守と結び、民兵を練って備えとした。芹を朝廷に推薦し、行軍断事を署任した。善はまもなく京師に至る。時に朝廷が燕王の上書により斉泰・黄子澄を外に貶したのに会い、善は貶すべからずと言い、ついに二人を再び召し返させた。建文四年、詔して蘇・松・常・鎮・嘉興の五府の兵を兼ねて督し、王事に勤めしむ。兵は未だ集まらず、燕王は既に京師に入った。時に子澄は善の所に匿れ、共に航海して起兵することを約した。善は謝して曰く、「公は朝臣なり、行って兵を収め興復を図るべし。善は土を守り、城と存亡を共にすのみ」と。子澄去り、善は麾下の許千戸なる者に縛られて献ぜられ、屈せずして死す。年四十三。子の節ら四人は俱に戍配せらる。

芹は、字は継忠。少より奇節を好む。元末、諸将に干るも、遇わず。洪武初、大都督府掾に辟せられ、中山王に従い北平より出でて大漠に至る。還りて職を解く。家に居ること二十年、貧に甘んじて道を楽しむ。善の薦により起用さる。李景隆に従い北行し、遣わされて入りて事を奏す。道中病みて将に卒せんとし、猶兵事を条上す。年七十三。

陳彦回は、字は士淵、莆田の人。父立誠は、帰安県丞となり、誣られて死を論ぜらる。彦回は雲南に謫戍せられ、家人従う者多く道中に死す。しょくに至るに比し、唯彦回と祖母郭のみ在り。赦に会うも、又原せず、監送の者憐れみて之を放つ。貧しくして帰る能わず、郷人の知県黄積良に依り、黄姓を冒す。久しくして、閬中の教諭厳徳政の薦により、保寧訓導を授かる。考満して京に至り、召見されて平江知県と為す。一年を踰え、太祖崩じ、彦回入りて臨む。又給事中楊維康の薦により、徽州知府に擢でらる。建文元年、循良を以て上賞を受く。祖母郭卒す、当に去るべし、百姓京師に走りて留まることを乞う。彦回衰糸を着て闕に赴き自ら陳し、姓を復することを乞う。彦回の雲南に戍せし時、其の弟彦も亦た遼東に戍す。是に至り、詔して彦の籍を除く。連ねて終喪を乞うも、許さず。郭を徽城北十里北山の陽に葬る。時に墓下に走り、哭すること甚だ哀し。人目して「太守山」と曰う。嘗て百姓に対し泣いて曰く、「吾は罪人なり、向に亡命して他姓を冒せり。祖母の存するを以て、恐らくは陳首して罪を獲んとし、隠忍すること二十年。今祖母没す、宜しく自ら死を請うべし。上特に我を宥し、終に当に死して国に報いんのみ」と。燕兵京師に逼る、彦回義勇を糾い赴援す。已にして擒えられ、械せられて京に至り、之に死す。

張彦方は、竜泉の人。初め給事中となり、便養を以て楽平知県に改まることを乞う。詔に応じて王事に勤め、帥いて所部を湖口に抵る。執せられ、械せられて楽平に至り斬らる。其の首を譙楼に梟す。当に署月たりしも、一蠅も集まらず、旬を経て面生の如し。邑人窃かに之を清白堂の後に葬る。

時に王事に勤めて死する者に、松江同知あり、死すること尤も烈しと云う。同知の姓名は考うべからず、或いは周継瑜なりと曰う。王事に勤めよとの詔下り、榜して義勇を募り入援せしむ。大義を極言し、人心を感動せしむ。並びに「靖難」の兵が恩に乖き道に悖ることを斥く。械せられて京に至り、市にて磔にせらる。

賛して曰く、燕師の南向するや、連ねて二大将を敗り、其の鋒蓋し当たるべからず。鉄鉉は書生を以て竭力して斉・魯の間に抗禦し、屡々燕衆を挫く。設し耿・李と地を易えて処せしめば、天下の事固より未だ知るべからざりしならん。張昺・謝貴・葛誠は燕を肘腋に図るも、而して事成らず。宋忠・馬宣は東西相継いで敗れ、瞿能諸将は勝に垂れて戦い亡び、燕兵卒に長駆南下を得たり。而して姚善・陳彦回の属は、郡邑の甲を以て奮起して大勢已に去りし後に拒まんと欲す、此れ黄鉞の所謂「兵江南に至り、之を禦ぐに及ばず」とする者なり。