明史

列傳第二十九 齊泰 黃子澄 方孝孺 練子寧 茅大芳 卓敬 陳迪 景清 連楹 胡閏 王度

列傳第二十九 齊泰 黃子澄 方孝孺 練子寧 茅大芳 卓敬 陳迪 景清 連楹 胡閏 王度

原文列傳第二十九 齊泰 黃子澄 方孝孺 練子寧 茅大芳 卓敬 陳迪 景清 連楹 胡閏 王度

○齊泰 黃子澄 方孝孺(盧原質 鄭公智 林嘉猷 胡子昭 鄭居貞 劉政 方法 樓璉)練子寧(宋徵 葉希賢)茅大芳(周嵒)卓敬(郭任 盧迥)陳迪(黃魁 巨敬)景清(連楹)胡閏(高翔)王度(戴德彜 謝升 丁誌方 甘霖 董鏞 陳繼之 韓永 葉福)

原文○齊泰 黃子澄 方孝孺(盧原質 鄭公智 林嘉猷 胡子昭 鄭居貞 劉政 方法 樓璉)練子寧(宋徵 葉希賢)茅大芳(周嵒)卓敬(郭任 盧迥)陳迪(黃魁 巨敬)景清(連楹)胡閏(高翔)王度(戴德彜 謝升 丁誌方 甘霖 董鏞 陳繼之 韓永 葉福)

齊泰は溧水の人である。初名は徳といった。洪武十七年、応天の郷試に第一位で挙げられた。翌年進士に及第した。礼部・兵部の主事を歴任した。雷が謹身殿を震動させた時、太祖は郊廟に祈り、歴官九年で過失のない者を選んで陪祀させたが、徳もその中にあり、名を泰と賜った。二十八年、兵部郎中から左侍郎に抜擢された。太祖が辺境の将軍の姓名を問うた時、泰は漏れなく列挙した。また諸々の図籍を問うと、袖中の手冊を出して進呈したが、簡要にして詳密であったので、大いに奇異とした。皇太孫は平素より泰を重んじていた。即位すると、黄子澄と共に国政に参与するよう命じた。まもなく尚書に進んだ。時に遺詔により諸王は国中に臨み、喪に奔ることを禁じ、王国の吏民は朝廷の節制に従うこととされた。諸王は泰が皇考の詔を偽り、骨肉を離間させたと言い、皆喜ばなかった。先に、帝が太孫であった時、諸王は多く尊属で、重兵を擁しており、これを患っていた。この時、密議により藩王の削封を図った。

原文齊泰,溧水人。初名德。洪武十七年,舉應天鄉試第一。明年成進士。歷禮、兵二部主事。雷震謹身殿,太祖禱郊廟,擇歷官九年無過者陪祀,德與焉,賜名泰。二十八年,以兵部郎中擢左侍郎。太祖嘗問邊將姓名,泰歷數無遺。又問諸圖籍,出袖中手冊以進,簡要詳密,大奇之。皇太孫素重泰。及即位,命與黃子澄同參國政。尋進尚書。時遺詔諸王臨國中,毋奔喪,王國吏民聽朝廷節制。諸王謂泰矯皇考詔,間骨肉,皆不悅。先是,帝為太孫時,諸王多尊屬,擁重兵,患之。至是因密議削藩。

建文元年、周・代・湘・齊・岷の五王が相次いで罪により廃された。七月、燕王が兵を挙げて反し、師の名を「靖難」とした。泰と子澄を奸臣と指弾した。事が聞こえると、泰は燕王の属籍を削り、罪を明らかにして討伐するよう請うた。或る者が難色を示すと、泰は言った、「賊であることを明らかにすれば、敵は初めて打ち克つことができる」。遂に燕王を討伐することを議定し、天下に布告した。時に太祖の功臣で存命の者は少なく、長興侯耿炳文を大将軍に拝し、師を率いて分道北伐させたが、真定に至って燕王に敗れた。子澄が曹国公李景隆を代わりの将に推薦すると、泰は極力不可であると言った。子澄は聞かず、ついに景隆を将とするよう命じた。この時、帝は五十万の兵を景隆に与え、燕王は旦夕に滅ぼせると言った。燕王はかえって大喜びして言った、「昔、漢の高祖は十万の兵を将いることしかできなかった。景隆に何の才があろうか、その兵衆はちょうど我が資とすべきものだ」。この冬、景隆は果たして敗れた。帝は懼色を示し、ちょうど燕王が上書して泰と子澄を極めて誹謗した。帝は二人の任を解いて燕王に謝罪したが、密かに京師に留め置き、依然として密議に参与させた。景隆は燕王に書を送り、二人は既に追放されたので兵を止めることができると言った。燕王は聞き入れなかった。翌年、盛庸が東昌で勝利すると、帝は廟に告げ、二人を以前通り職務に就かせた。夾河での敗北の時、再び二人の官を解いて兵を罷めようと求めたが、燕王は言った、「これは我を緩めるものだ」。進撃はますます急となった。

原文建文元年,周、代、湘、齊、岷五王相繼以罪廢。七月,燕王舉兵反,師名「靖難」。指泰、子澄為奸臣。事聞,泰請削燕屬籍,聲罪致討。或難之,泰曰:「明其為賊,敵乃可克。」遂定議伐燕,布告天下。時太祖功臣存者甚少,乃拜長興侯耿炳文為大將軍,帥師分道北伐,至真定為燕所敗。子澄薦曹國公李景隆代將,泰極言不可。子澄不聽,卒命景隆將。當是時,帝舉五十萬兵畀景隆,謂燕可旦夕滅。燕王顧大喜曰:「昔漢高止能將十萬,景隆何才,其眾適足為吾資也!」是冬,景隆果敗。帝有懼色,會燕王上書極詆泰、子澄。帝乃解二人任以謝燕,而陰留之京師,仍參密議。景隆遺燕王書,言二人已竄,可息兵。燕王不聽。明年,盛庸捷東昌,帝告廟,命二人任職如故。及夾河之敗,復解二人官求罷兵,燕王曰:「此緩我也。」進益急。

削藩の議が起こった当初、帝は泰と子澄の言葉を入れ、天下をもって一隅を制するのは甚だ易いと考えた。敗北を重ねるに及んで、心中悔い、これにより進退の拠り所を失った。燕兵が日に日に逼迫するに至り、再び泰を召し還した。到着しないうちに、京師は既に守りを失い、泰は外郡に走り、興復を謀った。時に泰を懸賞で急いで探させた。泰は白馬を墨で塗って走ったが、少し遠く行くと、汗が出て墨が剥がれた。或る者が言った、「これは齊尚書の馬だ」。遂に捕らえられて京に赴き、子澄・方孝孺と共に屈せずして死んだ。泰の従兄弟の敬宗らは皆連座して死罪となり、叔父の時永・陽彦らは流罪となった。子は六歳で、死を免れ配給されたが、仕宗の時に赦されて還った。

原文始削藩議起,帝入泰、子澄言,謂以天下制一隅甚易。及屢敗,意中悔,是以進退失據。迨燕兵日逼,復召泰還。未至,京師已不守,泰走外郡謀興復。時購泰急。泰墨白馬走,行稍遠,汗出墨脫。或曰:「此齊尚書馬也。」遂被執赴京,同子澄、方孝孺不屈死。泰從兄弟敬宗等皆坐死,叔時永、陽彥等謫戍。子甫六歲,免死給配,仕宗時赦還。

黃子澄は名を湜といい、字あざなをもって行われ、分宜の人である。洪武十八年、会試に第一位となった。編修から修撰に進み、東宮に伴読し、累進して太常寺卿となった。恵帝が皇太孫であった時、かつて東角門に坐して子澄に言った、「諸王は尊属で重兵を擁し、不法が多いが、どうしたものか」。答えて言った、「諸王の護衛兵は、自らを守るのに足るだけの力です。もし変事があれば、六師を臨ませれば、誰が支えられましょうか。漢の七国は強くなかったわけではありませんが、結局は滅亡しました。大小強弱の勢いは異なり、順逆の理も異なるのです」。太孫はその言葉を是とした。即位すると、子澄に翰林学士を兼ねさせ、齊泰と共に国政に参与するよう命じた。言った、「先生は昔の東角門での言葉を憶えているか」。子澄は頓首して言った、「忘れはしません」。退いて泰と謀り、泰は先に燕を図ろうとした。子澄は言った、「そうではありません、周・齊・湘・代・岷の諸王は、先帝の時、なお不法が多く、削封するには名目があります。今、罪を問おうとするなら、まず周を先にすべきです。周王は燕の同母弟であり、周を削ることは燕の手足を断つことです」。謀り定め、明日、帝に申し入れた。

原文黃子澄,名湜,以字行,分宜人。洪武十八年,會試第一。由編修進修撰,伴讀東宮,累遷太常寺卿。惠帝為皇太孫時,嘗坐東角門謂子澄曰:「諸王尊屬擁重兵,多不法,奈何?」對曰:「諸王護衛兵,才足自守。倘有變,臨以六師,其誰能支?漢七國非不強,卒底亡滅。大小強弱勢不同,而順逆之理異也。」太孫是其言。比即位,命子澄兼翰林學士,與齊泰同參國政。謂曰:「先生憶昔東角門之言乎?」子澄頓首曰:「不敢忘。」退而與泰謀,泰欲先圖燕。子澄曰:「不然,周、齊、湘、代、岷諸王,在先帝時,尚多不法,削之有名。今欲問罪,宜先周。周王,燕之母弟,削周是剪燕手足也。」謀定,明日入白帝。

ちょうど周王橚の不法を言う者があったので、李景隆に兵を率いさせて襲撃し捕らえさせたが、その供述は湘・代の諸府に連座した。ここにおいて橚及び岷王楩を廃して庶人とし、代王桂を大同に幽閉し、齊王榑を京師に囚禁した。湘王柏は自ら焼死した。燕王に周王の罪を議するよう下した。燕王が上書して救済を申し立てると、帝は書を読んで哀れみ、事は暫く止めるべきだと言った。子澄と泰がこれに争い、決せず、退出して互いに語った、「今、事勢このようである、どうして断行できようか」。明日また入って言った、「今、慮るべきはただ燕王のみです、その病気と称するのを因み襲撃すべきです」。帝は躊躇して言った、「朕が即位して未だ久しくなく、諸王を連続して罷黜した、もしまた燕を削れば、どうして天下に自ら弁解できようか」。子澄は答えて言った、「先んずれば人を制し、人の制する所となるなかれ」。帝は言った、「燕王は智勇に優れ、兵を用いることに長けている。病気とはいえ、恐らく急には図り難い」。そこで止めた。ここにおいて都督宋忠に命じて辺境の官軍を開平に駐屯させ、燕府の護衛の精壮を選んで忠の麾下に隷属させ、護衛の胡騎指揮関童らを召し入京させ、燕を弱体化させた。また北平の永清左・右衛の官軍を分けて彰徳・順徳に駐屯させ、都督徐凱に臨清で練兵させ、耿瓛に山海関で練兵させ、北平を制御させた。これらは皆、泰と子澄の謀であった。時に燕王は憂懼し、三子が皆京師にいるので、病篤いと称し、三子の帰還を乞うた。泰はこれを捕らえようとしたが、子澄は言った、「帰還させた方が良い、彼に疑いを持たせず、初めて襲撃して捕らえることができる」。ついに帰還させた。間もなく、燕師が起こり、王は泣いて将吏に誓って言った、「諸王を陥害したのは、天子の意によるものではなく、奸臣齊泰・黃子澄の所為である」。

原文會有言周王橚不法者,遂命李景隆帥兵襲執之,詞連湘、代諸府。於是廢橚及岷王楩為庶人;幽代王桂於大同;囚齊王榑於京師。湘王柏自焚死。下燕議周王罪。燕王上書申救,帝覽書惻然,謂事宜且止。子澄與泰爭之,未決,出相語曰:「今事勢如此,安可不斷?」明日又入言曰:「今所慮者獨燕王耳,宜因其稱病襲之。」帝猶豫曰:「朕即位未久,連黜諸王,若又削燕,何以自解於天下?」子澄對曰:「先人者制人,毋為人制。」帝曰:「燕王智勇,善用兵。雖病,恐猝難圖。」乃止。於是命都督宋忠調緣邊官軍屯開平,選燕府護衛精壯隸忠麾下,召護衛胡騎指揮關童等入京,以弱燕。復調北平永清左、右衛官軍分駐彰德、順德,都督徐凱練兵臨清,耿瓛練兵山海關,以控制北平。皆泰、子澄謀也。時燕王憂懼,以三子皆在京師,稱病篤,乞三子歸。泰欲遂收之,子澄曰:「不若遣歸,示彼不疑,乃可襲而取也。」竟遣還。未幾,燕師起,王泣誓將吏曰:「陷害諸王,非由天子意,乃奸臣齊泰、黃子澄所為也。」

初め帝は子澄と泰を信任し、事を集めて藩王の削封を図った。両人は本来書生であり、兵事はその長ずる所ではなかった。耿炳文が敗れた時、子澄は勝敗は常事であり、慮るに足らないと言った。そこで曹国公李景隆が大任に堪えると推薦し、帝は遂に景隆を炳文の代わりとした。しかし景隆はますます無能で、鄭村壩・白溝河で連敗し、軍輜・士馬数十万を喪失した。既にして、また済南城下で敗れた。帝は急いで景隆を召還し、誅殺せずに赦した。子澄は慟哭し、その罪を正すよう請うた。帝は聞き入れなかった。子澄は胸を打って言った、「大事は去った、景隆を推薦して国を誤り、万死も罪を贖うに足りない」。

原文始帝信任子澄與泰,聚事削藩。兩人本書生,兵事非其所長。當耿炳文之敗也,子澄謂勝敗常事,不足慮。因薦曹國公李景隆可大任,帝遂以景隆代炳文。而景隆益無能為,連敗於鄭村壩、白溝河,喪失軍輜士馬數十萬。已,又敗於濟南城下。帝急召景隆還,赦不誅。子澄慟哭,請正其罪。帝不聽。子澄拊膺曰:「大事去矣,薦景隆誤國,萬死不足贖罪!」

燕兵が次第に南下すると、齊泰と共に外に謫され、密かに兵を募るよう命じられた。子澄は微服で太湖から蘇州に至り、知府姚善と義を唱えて王事に勤めようとした。善が上言した、「子澄の才は難を捍ぐに足り、閑遠に棄てて敵を快からしめるべきではない」。帝は再び子澄を召したが、到着しないうちに京城は陥落した。善と航海して兵を乞おうとしたが、善は不可とした。そこで嘉興の楊任の所に行き挙事を謀ったが、人に告発され、共に捕らえられた。子澄が到着すると、成祖が自ら詰問した。抗弁して屈せず、磔刑に処されて死んだ。一族の者は幼少・年長を問わず皆斬られ、姻党は悉く辺境に流された。一子は姓名を田経と変え、赦令に遇い、湖広鹹寧に家した。正徳年間、進士の黃表がその子孫であると称した。

原文及燕兵漸南,與齊泰同謫外,密令募兵。子澄微服由太湖至蘇州,與知府姚善倡義勤王。善上言:「子澄才足捍難,不宜棄閑遠以快敵人。」帝復召子澄,未至而京城陷。欲與善航海乞兵,善不可。乃就嘉興楊任謀舉事,為人告,俱被執。子澄至,成祖親詰之。抗辨不屈,磔死。族人無少長皆斬,姻黨悉戍邊。一子變姓名為田經,遇赦,家湖廣鹹寧。正德中,進士黃表其後雲。

楊任は洪武年間に人材として起用され、袁州知府を歴任した。当時は致仕しており、子の楊澄を家に匿ったが、これもまた磔刑に処せられて死んだ。二人の子、楊礼と楊益はともに斬首された。親族は辺境に流刑となった。

原文楊任,洪武中由人材起家,歷官袁州知府。時致仕,匿子澄於家,亦磔死。二子禮、益俱斬。親屬戍邊。

方孝孺は字を希直、またの字を希古といい、寧海の人である。父の克勤は洪武年間の循吏であり、別に伝がある。孝孺は幼少より聡明で、双眸は炯々とし、読書は日に一寸も進み、郷里の人々は「小韓子」と称した。成長して宋濂に師事し、濂の門下の知名の士も皆その下に出た。先輩の胡翰や蘇伯衡も自ら及ばないと言った。孝孺はかえって文芸を軽視し、常に王道を明らかにし、太平を致すことを己れの任とした。かつて病臥し、食糧が尽きた時、家人が告げると、笑って言った、「古人は三旬に九食す、貧しきは豈に我のみならんや」と。父の克勤は「空印」の事件に連座して誅殺され、喪を扶けて帰葬し、その哀しみは行路の人をも感動させた。喪が明けた後、再び宋濂に従って学業を修めた。

原文方孝孺,字希直,一字希古,寧海人。父克勤,洪武中循吏,自有傳。孝孺幼警敏,雙眸炯炯,讀書日盈寸,鄉人目為「小韓子。」長從宋濂學,濂門下知名士皆出其下。先輩胡翰、蘇伯衡亦自謂弗如。孝孺顧末視文藝,恒以明王道、致太平為己任。嘗臥病,絕糧,家人以告,笑曰:「古人三旬九食,貧豈獨我哉!」父克勤坐「空印」事誅,扶喪歸葬,哀動行路。既免喪,復從濂卒業。

洪武十五年、呉沈と掲枢の推薦により、召されて謁見した。太祖はその挙動の端整なるを喜び、皇太子に言った、「これは荘重なる士である、その才を老成させよ」と。礼を以て送り返した。後に仇家に連座され、京師に逮捕された。太祖はその名を見て、釈放した。二十五年、また推薦により召された。太祖は言った、「今は孝孺を用いる時ではない」と。漢中教授に任じ、日々諸生と講学して倦まなかった。蜀献王はその賢を聞き、世子の師として招聘した。毎回謁見する度に、道徳を陳説した。王は殊礼を以て尊び、その読書の廬を「正学」と名付けた。

原文洪武十五年,以吳沈、揭樞薦,召見。太祖喜其舉止端整,謂皇太子曰:「此莊士,當老其才。」禮遣還。後為仇家所連,逮至京。太祖見其名,釋之。二十五年,又以薦召至。太祖曰:「今非用孝孺時。」除漢中教授,日與諸生講學不倦。蜀獻王聞其賢,聘為世子師。每見,陳說道德。王尊以殊禮,名其讀書之廬曰「正學。」

恵帝が即位すると、翰林侍講に召された。翌年、侍講学士に昇進し、国家の大政事には常に諮問された。帝は読書を好み、疑いがある度に、召して講解させた。臨朝して奏事する時、臣僚が面議して可否を論じる際、あるいは孝孺に扆前で批答することを命じた。当時『太祖実録』及び『類要』等の書を編修するに当たり、孝孺は皆総裁を務めた。官制を改定するに及び、孝孺は文学博士に改められた。燕兵が起こると、朝廷で討伐を議し、詔や檄文は皆その手から出た。

原文及惠帝即位,召為翰林侍講。明年遷侍講學士,國家大政事輒咨之。帝好讀書,每有疑,即召使講解。臨朝奏事,臣僚面議可否,或命孝孺就扆前批答。時修《太祖實錄》及《類要》諸書,孝孺皆為總裁。更定官制,孝孺改文學博士。燕兵起,廷議討之,詔檄皆出其手。

建文三年、燕兵が大名を掠めた。燕王は斉泰・黄子澄が既に逃亡したと聞き、上書して盛庸・呉傑・平安の兵を罷めるよう請うた。孝孺は建議して言った、「燕兵は久しく大名に頓挫し、天は暑く雨が降る、戦わずして自ら疲弊すべきである。急ぎ遼東の諸将に命じて山海関に入り永平を攻めさせよ。真定の諸将に命じて盧溝を渡り北平を搗け。彼らは必ず帰還して救援するであろう。我らは大兵を以てその後を追えば、生け捕りにすることができよう。今、その奏事が丁度到来した。宜しく暫く返書を与え、往復に一月余りを費やし、その将士の心を弛ませるがよい。我らの謀略が定まり形勢が合すれば、進んでこれを蹴散らすことは難しくない」と。帝はこれを然りとした。孝孺に詔を起草させ、大理寺少卿の薛嵓を馳せさせて燕に報じさせ、燕の罪を全て赦し、兵を罷めて藩国に帰らせようとした。また数千言の宣諭を作成して薛嵓に授け、燕軍中に持ち込ませ、密かに諸将士に配布させた。到着した時、薛嵓は宣諭を隠して敢えて出さず、燕王もまた詔に従わなかった。五月、呉傑・平安・盛庸が兵を発し、燕の糧道を攪乱した。燕王はまた指揮の武勝を遣わして上書し、以前の請いを伸べた。帝はこれを許そうとした。孝孺は言った、「兵は一旦罷めれば、再び集めることはできません。どうか惑わされませぬように」と。帝はそこで武勝を誅殺して燕との関係を断った。間もなく、燕兵が沛はい県を掠め、糧船を焼いた。当時、河北の軍は老いて功がなく、また徳州の糧道も絶たれ、孝孺は深く憂慮した。燕の世子は仁厚であるが、その弟の高煦は狡猾で、燕王に寵愛され、かつて嫡子の地位を奪おうと謀り、計略を以て離間し、内乱を起こさせようと考えた。そこで帝に建議して言った、錦衣衛千戸の張安に璽書を持たせて北平に遣わし、世子に賜わらせよと。世子は書を受け取ったが封を開けず、張安とともに燕軍の陣前に送り返した。離間の計は行えなかった。

原文建文三年,燕兵掠大名。王聞齊、黃已竄,上書請罷盛庸、吳傑、平安兵。孝孺建議曰:「燕兵久頓大名,天暑雨,當不戰自疲。急令遼東諸將入山海關攻永平;真定諸將渡盧溝搗北平,彼必歸救。我以大兵躡其後,可成擒也。今其奏事適至,宜且與報書,往返逾月,使其將士心懈。我謀定勢合,進而蹴之,不難矣。」帝以為然。命孝孺草詔,遣大理寺少卿薛嵓馳報燕,盡赦燕罪,使罷兵歸藩。又為宣諭數千言授嵓,持至燕軍中,密散諸將士。比至,嵓匿宣諭不敢出,燕王亦不奉詔。五月,吳傑、平安、盛庸發兵擾燕餉道。燕王復遣指揮武勝上書,伸前請。帝將許之。孝孺曰:「兵罷,不可復聚,願毋為所惑。」帝乃誅勝以絕燕。未幾,燕兵掠沛縣,燒糧艘。時河北師老無功,而德州又饋餉道絕,孝孺深以為憂。以燕世子仁厚,其弟高煦狡譎,有寵於燕王,嘗欲奪嫡,謀以計間之,使內亂。乃建議白帝:遣錦衣衛千戶張安賫璽書往北平,賜世子。世子得書不啟封,並安送燕軍前。間不得行。

翌年五月、燕兵が江北に至ると、帝は四方の兵を徴する詔を下した。孝孺は言った、「事態は急を要します。人を遣わして割地を許すと伝え、数日を引き延ばせば、東南の募兵が次第に集まります。北軍は舟楫に長けず、江上で決戦すれば、勝負は未だ知れません」と。帝は慶成郡主を燕軍に遣わし、その説を述べさせた。燕王は聞き入れなかった。帝は諸将に命じて江上に舟師を集結させた。ところが陳瑄が戦艦を率いて燕に降ったため、燕兵は遂に江を渡った。時は六月乙卯のことであった。帝は憂懼し、ある者は帝に他へ幸するよう勧め、興復を図ろうとした。孝孺は力を尽くして京城を守り援兵を待つよう請い、仮に事が成就しなくとも、社稷のために死すべきであると主張した。乙丑、金川門が開き、燕兵が入城し、帝は自ら焼死した。この日、孝孺は捕らえられ獄に下された。

原文明年五月,燕兵至江北,帝下詔征四方兵。孝孺曰:「事急矣。遣人許以割地,稽延數日,東南募兵漸集。北軍不長舟楫,決戰江上,勝負未可知也。」帝遣慶成郡主往燕軍,陳其說。燕王不聽。帝命諸將集舟師江上。而陳瑄以戰艦降燕,燕兵遂渡江。時六月乙卯也。帝憂懼,或勸帝他幸,圖興復。孝孺力請守京城以待援兵,即事不濟,當死社稷。乙丑,金川門啟,燕兵入,帝自焚。是日,孝孺被執下獄。

先に、成祖が北平を発つ時、姚広孝は孝孺のことを託して言った、「城が落ちる日、彼は必ず降伏しないでしょう。幸いにも殺さないでください。孝孺を殺せば、天下の読書の種子が絶えてしまいます」と。成祖はうなずいた。この時、詔を起草させようとした。召し出されると、悲慟の声が殿陛に響き渡った。成祖は榻を降り、労って言った、「先生、自ら苦しむな。予は周公が成王を輔けたようにしたいのだ」と。孝孺は言った、「成王はどこにおられますか」と。成祖は言った、「彼は自ら焼死した」と。孝孺は言った、「どうして成王の子を立てられないのですか」と。成祖は言った、「国は長君に頼るのだ」と。孝孺は言った、「どうして成王の弟を立てられないのですか」と。成祖は言った、「これは朕の家事である」と。左右を顧みて筆硯を授け、言った、「天下に詔するには、先生が起草しなければならない」と。孝孺は筆を地に投げつけ、泣きながら罵って言った、「死ぬなら死ぬがよい、詔は起草できぬ」と。成祖は怒り、市中で磔刑に処すことを命じた。孝孺は慨然として死に就き、絶命の詞を作って言った、「天乱離を降す兮孰か其の由を知らん、奸臣計を得兮国を謀り用ゆる猶ほ有り。忠臣憤りを発す兮血涙交流す、此を以て君に殉ずる兮抑又何をか求むる?鳴呼哀哉兮庶幾くは我を尤めず」と。時に年四十六歳であった。その門人で徳慶侯廖永忠の孫である廖鏞とその弟の廖銘が、遺骸を検して聚宝門外の山上に葬った。

原文先是,成祖發北平,姚廣孝以孝孺為托,曰:「城下之日,彼必不降,幸勿殺之。殺孝孺,天下讀書種子絕矣。」成祖頷之。至是欲使草詔。召至,悲慟聲徹殿陛。成祖降榻,勞曰:「先生毋自苦,予欲法周公輔成王耳。」孝孺曰:「成王安在?」成祖曰:「彼自焚死。」孝孺曰:「何不立成王之子?」成祖曰:「國賴長君。」孝孺曰:「何不立成王之弟?」成祖曰:「此朕家事。」顧左右授筆劄,曰:「詔天下,非先生草不可」孝孺投筆於地,且哭且罵曰:「死即死耳,詔不可草。」成祖怒,命磔諸市。孝孺慨然就死,作絕命詞曰:「天降亂離兮孰知其由,奸臣得計兮謀國用猶。忠臣發憤兮血淚交流,以此殉君兮抑又何求?鳴呼哀哉兮庶不我尤!」時年四十有六。其門人德慶侯廖永忠之孫鏞與其弟銘,檢遺骸瘞聚寶門外山上。

孝孺には兄の孝聞がおり、学問に励み行いを篤くし、孝孺に先立って死んだ。弟の孝友は孝孺とともに刑に就き、また詩一章を賦して死んだ。妻の鄭氏と二人の子、中憲と中愈は先に自縊して死に、二人の娘は秦淮河に身を投げて死んだ。

原文孝孺有兄孝聞,力學篤行,先孝孺死。弟孝友與孝孺同就戮,亦賦詩一章而死。妻鄭及二子中憲、中愈先自經死,二女投秦淮河死。

孝孺は文章に巧みで、醇深雄邁であった。一篇が出るごとに、海内で争って伝誦された。永楽年間、孝孺の文章を蔵する者は死罪に至った。門人の王稌が密かに書き写して『侯城集』としたため、後に世に行われることができた。

原文孝孺工文章,醇深雄邁。每一篇出,海內爭相傳誦。永樂中,藏孝孺文者罪至死。門人王稌潛錄為《侯城集》,故後得行於世。

仁宗が即位すると、礼部に諭して言った、「建文の諸臣は、既に顕戮に処せられた。官に籍を置かれている家族は、全て赦して民とし、その田土を還せ。その外親で辺境に戍っている者は、一人を戍所に留め、残りは放還せよ」と。万暦十三年三月、孝孺に連座して謫戍された者の後裔を釈放し、浙江・江西・福建・四川・広東から合わせて千三百余人に及んだ。しかし孝孺には全く後継者がおらず、ただ克勤の弟の克家に子の孝復がいた。洪武二十五年に嘗て闕下に上書し、信国公湯和が寧海に加えた賦税の減免を請い、慶遠衛に謫戍されたが、軍籍に属したため難を免れた。孝復の子の琬は、後になって釈放され民となった。世宗の時、松江の人俞斌が自ら孝孺の後裔を称し、一時士大夫がこれを信じ、『帰宗録』を編纂した。その後、方氏がその偽りを察し、官に訴えたため、やむを得ず中止した。神宗の初め、建文の忠臣を褒め録する詔があり、南京に表忠祠を建て、筆頭は徐輝祖、次が孝孺であった。

原文仁宗即位,諭禮部:「建文諸臣,已蒙顯戮。家屬籍在官者,悉宥為民,還其田土。其外親戍邊者,留一人戍所,余放還。」萬歷十三年三月,釋坐孝孺謫戍者後裔,浙江、江西、福建、四川、廣東凡千三百餘人。而孝孺絕無後,惟克勤弟克家有子曰孝復。洪武二十五年嘗上書闕下,請減信國公湯和所加寧海賦,謫戍慶遠衛,以軍籍獲免。孝復子琬,後亦得釋為民。世宗時,松江人俞斌自稱孝孺後,一時士大夫信之,為纂《歸宗錄》。既而方氏察其偽,言於官,乃已。神宗初,有詔褒錄建文忠臣,建表忠祠於南京,首徐輝祖,次孝孺雲。

孝孺の死に際し、宗族親友で前後して連座して誅殺された者は数百人に及んだ。その門下の士で身を以て殉じた者に、盧原質・鄭公智・林嘉猷がおり、皆寧海の人である。

原文孝孺之死,宗族親友前後坐誅者數百人。其門下士有以身殉者,盧原質、鄭公智、林嘉猷,皆寧海人。

原質は字を希魯といい、孝孺の姑の子である。進士より編修に任じられ、太常少卿を歴任した。建文の時、しばしば建議があった。燕兵が到来すると、屈せず、弟の原樸らとともに皆殺害された。

原文原質字希魯,孝孺姑子也。由進士授編修,歷官太常少卿。建文時,屢有建白。燕兵至,不屈,與弟原樸等皆被殺。

公智は字を叔貞といい、嘉猷は名を升といい、字をもって行われる。ともに孝孺に師事した。孝孺は嘗て言う、「我を匡す者は、二子なり」と。公智は賢良に挙げられ、御史となり名声があった。嘉猷は、洪武丙子年に儒士として四川で文を校した。建文初年、史館に入り編修となった。まもなく陝西僉事に遷った。嘗て事により燕邸に入り、高煦が世子を傾けんとする謀を知った。孝孺が燕の謀を間いたのは、実に嘉猷がこれを発したのである。

原文公智字叔貞;嘉猷名升,以字行。皆師事孝孺。孝孺嘗曰:「匡我者,二子也。」公智以賢良舉,為御史有聲。嘉猷,洪武丙子以儒士校文四川。建文初,入史館為編修。尋遷陜西僉事。嘗以事入燕邸,知高煦謀傾世子狀。孝孺間燕之謀,實嘉猷發之。

胡子昭は、字を仲常といい、初めの名は誌高といった。栄県の人。孝孺が漢中教授であった時に往きて学に従い、蜀献王が県訓導に推薦した。建文初年、『太祖実録』の編修に与かり、検討を授かった。累遷して刑部侍郎に至った。

原文胡子昭,字仲常,初名誌高。榮縣人。孝孺為漢中教授時往從學,蜀獻王薦為縣訓導。建文初,與修《太祖實錄》,授檢討。累遷至刑部侍郎。

鄭居貞は、閩の人。孝孺と親しく交わり、明経を経て官は鞏昌通判・河南参政に至った。至る所に善政があった。孝孺が漢中で教授をしていた時、居貞は『鳳雛行』を作ってこれを励ました。諸人みな党に坐して誅死した。孝孺が応天郷試を主考した時、得た士に長洲の劉政・桐城の方法があった。

原文鄭居貞,閩人。與孝孺友善,以明經歷官鞏昌通判、河南參政。所至有善績。孝孺教授漢中,居貞作《鳳雛行》勖之。諸人皆坐黨誅死。孝孺主應天鄉試,所得士有長洲劉政、桐城方法。

劉政は、字を仲理という。燕兵が起こると、『平燕策』を草し、これを上奏せんとしたが、病のため家人に阻まれた。孝孺の死を聞くと、遂に血を嘔いて卒した。

原文政,字仲理。燕兵起,草《平燕策》,將上之,以病為家人所沮。及聞孝孺死,遂嘔血卒。

方法は、字を伯通という。四川都司断事に任官した。諸司が成祖の登極を表賀する時、署名すべきところ、肯わず、筆を投げ出て去った。逮捕され、望江に至り、郷里を瞻拝して言う、「我が先人の廬舎を望み得るは足る」と。江に自沈した。

原文法,字伯通。官四川都司斷事。諸司表賀成祖登極,當署名,不肯,投筆出。被逮,次望江,瞻拜鄉里曰:「得望我先人廬舍足矣。」自沈於江。

成祖は孝孺を殺した後、詔を草することを侍読の楼璉に属した。璉は金華の人、嘗て宋濂に学んだ。命を承けて敢えて辞さなかった。帰って妻子に語って言う、「我は固より死を甘んずるも、ただ汝らを累わすを恐れるのみ」と。その夕、遂に自経した。或いは言う、詔を草したのは括蒼の王景であると、或いは言う、無錫の王達であると。

原文成祖既殺孝孺,以草詔屬侍讀樓璉。璉,金華人,嘗從宋濂學。承命不敢辭。歸語妻子曰:「我固甘死,正恐累汝輩耳。」其夕,遂自經。或曰草詔乃括蒼王景,或曰無錫王達雲。

練子寧は、名を安といい、字をもって行われる。新淦の人。父の伯尚は詩をよくした。洪武初年、起居注に官した。直言のため外任に謫され、鎮安通判で終わった。子寧は英邁にして群を抜き、十八年、貢士として廷試の対策で力説した、「天の材を生ずるは限りあり、陛下、区々たる小故を以て、窮まりなき誅を縦すに忍びるか、何を以て治となさん」と。太祖はその意を善しとし、一甲第二に擢で、翰林修撰を授けた。母の喪に遭い、古礼を力行した。服闋して復官し、歴遷して工部侍郎となった。建文初年、方孝孺とともに信用され、吏部左侍郎に改めた。賢否の進退を己が任とし、多く建白した。まもなく、御史大夫に拝された。燕師が起こり、李景隆が北征して屡々敗れ、召還された。子寧は朝中より従ってその罪を数え、誅するを請うた。聴かれず。憤激して首を叩き大呼して言う、「陛下の事を壊す者は、この賊なり。臣は執法の員を備え、朝廷の為に売国の奸を除く能わず、死して余罪あり。仮令陛下景隆を赦すとも、必ずや臣を赦すこと無からん」と。因って大いに哭して死を求め、帝は朝を罷めた。宗人府経歴の宋徴・御史の葉希賢も皆抗疏して景隆が律を失い師を喪い、二心を懐くを言い、誅すべきと論じた。ともに納れられなかった。燕師が淮を渡ると、靖江府長史の蕭用道・衡府紀善の周是修が上書して大計を論じ、用事者を指斥した。書が廷臣に下って議せられ、用事者が盛気をもって二人を詬った。子寧は言う、「国事ここに至る、尚ほ言者を容れざるや」と。詬る者愧じて止んだ。

原文練子寧,名安,以字行,新淦人。父伯尚,工詩。洪武初,官起居註。以直言謫外任,終鎮安通判。子寧英邁不群,十八年,以貢士廷試對策,力言:「天之生材有限,陛下忍以區區小故,縱無窮之誅,何以為治?」太祖善其意,擢一甲第二,授翰林修撰。丁母艱,力行古禮。服闋,復官,歷遷工部侍郎。建文初,與方孝孺並見信用,改吏部左侍郎。以賢否進退為己任,多所建白。未幾,拜御史大夫。燕師起,李景隆北征屢敗,召還。子寧從朝中執數其罪,請誅之。不聽。憤激叩首大呼曰:「壞陛下事者,此賊也。臣備員執法,不能為朝廷除賣國奸,死有餘罪。即陛下赦景隆,必無赦臣!」因大哭求死,帝為罷朝。宗人府經歷宋徵、御史葉希賢皆抗疏言景隆失律喪師,懷二心,宜誅。並不納。燕師既渡淮,靖江府長史蕭用道、衡府紀善周是修上書論大計,指斥用事者。書下廷臣議,用事者盛氣以詬二人。子寧曰:「國事至此,尚不能容言者耶?」詬者愧而止。

燕王が即位すると、子寧を縛って至らせた。語が遜らず、磔死させた。その家を族し、姻戚は皆辺境に戍らせた。子寧の従子の大亨は、嘉定知県に官した。変を聞き、妻の沈とともに劉家河に死した。里人の徐子権は進士として刑部主事となり、子寧の死を聞き、慟哭して詩を賦し自経した。

原文燕王即位,縛子寧至。語不遜,磔死。族其家,姻戚俱戍邊。子寧從子大亨,官嘉定知縣。聞變,同妻沈劉家河死。裏人徐子權以進士為刑部主事,聞子寧死,慟哭賦詩自經。

子寧は文章を善くし、孝孺はその学多くして文あるを称えた。弘治年間、王佐がその遺文を刻して『金川玉屑集』と曰う。提学副使の李夢陽が金川書院を立てて子寧を祀り、その堂を「浩然」と名づけた。

原文子寧善文章,孝孺稱其多學而文。弘治中,王佐刻其遺文曰《金川玉屑集》。提學副使李夢陽立金川書院祀子寧,名其堂曰「浩然」。

宋徴は、何許の人か知れず。嘗て罪藩の属籍を削るを請う疏を上した。燕師が入り、屈せず、妻子ともに死した。葉希賢は、松陽の人。また奸党に坐して殺された。或いは言う、去って僧となり、雪庵和尚と号したという。

原文徵,不知何許人。嘗疏請削罪藩屬籍。燕師入,不屈,並妻子俱死。希賢,松陽人。亦坐奸黨被殺。或曰去為僧,號雪庵和尚雲。

茅大芳は、名を誧といい、字をもって行われる。泰興の人。博学で詩文を能くした。洪武年間、淮南学官となり、召対して旨に称い、秦府長史に擢でられ、制詞に董仲舒を以て言とした。大芳は益々奮激し、心を尽くして輔導した。その堂に「希董」と額し、方孝孺がこれが記を為した。建文元年、副都御史に遷った。燕師が起こると、淮南守将の梅殷に詩を遺し、辞意激烈であった。聞く者これを壮とした。

原文茅大芳,名誧,以字行,泰興人。博學能詩文。洪武中,為淮南學官,召對稱旨。擢秦府長史,制詞以董仲舒為言。大芳益奮激,盡心輔導。額其堂曰「希董」,方孝孺為之記。建文元年遷副都御史。燕師起,遺詩淮南守將梅殷,辭意激烈。聞者壯之。

周璿は、洪武末年に天策衛知事として建言し、左僉都御史に擢でられた。燕王が帝を称すると、大芳とともに収められ、屈せず死した。大芳の子の順童・道寿はともに誅せられと論じられ、二孫は獄中に死した。

原文周璿,洪武末,以天策衛知事建言,擢左僉都御史。燕王稱帝,與大芳並見收,不屈死。而大芳子順童、道壽俱論誅,二孫死獄中。

卓敬は、字を惟恭といい、瑞安の人。穎悟人に過ぎ、読書十行俱に下る。洪武二十一年の進士に挙げられた。戸科給事中に除され、鯁直にして避くるところ無し。当時制度未だ備わらず、諸王の服乗は天子に擬す。敬は間を乗じて言う、「京師は、天下の視效なり。陛下諸王に於いて早く等威を弁ぜず、して服飾を太子に埒からしむれば、嫡庶相乱れ、尊卑序無く、何を以て天下を令せん」と。帝は言う、「爾の言是なり、朕慮この及ばざるなり」と。益々器重した。他日同官と見え、丁度八十一人、官を改めて「元士」と命じた。まもなく六科を政事の本源と為し、また改めて「源士」と曰う。已にして、復た給事中と称した。歴官して戸部侍郎となった。

原文卓敬,字惟恭,瑞安人。穎悟過人,讀書十行俱下。舉洪武二十一年進士。除戶科給事中,鯁直無所避。時制度未備,諸王服乘擬天子。敬乘間言:「京師,天下視效。陛下於諸王不早辨等威,而使服飾與太子埒,嫡庶相亂,尊卑無序,何以令天下?」帝曰:「爾言是,朕慮未及此。」益器重之。他日與同官見,適八十一人,命改官為「元士」。尋以六科為政事本源,又改曰「源士」。已,復稱給事中。歷官戶部侍郎。

建文初年、敬は密疏を上して言う、「燕王は智慮絶倫、雄才大略、酷く高帝に類す。北平は形勝の地、士馬精強、金・元年ここより興る。今宜しく南昌に徙封すべし、万一変有らば、亦た制し易し。夫れ将に萌やさんとして未だ動かざる者は、幾なり、時を量りて為す可き者は、勢なり。勢は至剛に非ざれば断つ能わず、幾は至明に非ざれば察する能わず」と。奏入り、翌日召して問う。敬は首を叩いて言う、「臣の言う所は天下の至計、願わくは陛下これを察せよ」と。事竟に寝した。

原文建文初,敬密疏言:「燕王智慮絕倫,雄才大略,酷類高帝。北平形勝地,士馬精強,金、元年由興。今宜徙封南昌,萬一有變,亦易控制。夫將萌而未動者,幾也;量時而可為者,勢也。勢非至剛莫能斷,幾非至明莫能察。」奏入,翌日召問。敬叩首曰:「臣所言天下至計,願陛下察之。」事竟寢。

燕王が即位すると、捕らえられ、燕を徙封せよと建議し、骨肉を離間したことを責めた。敬は厲声して言う、「惜しいかな先帝敬の言を用いざりしを」と。帝は怒ったが、猶その才を憐れみ、獄に繋ぐことを命じ、人をして管仲・魏徴の事を以て諷させた。敬は泣いて言う、「人臣贄を委ぬるに、死有りて二無し。先皇帝嘗て過挙無く、一旦横行して篡奪す、恨むらくは即ち死して故君の地下に見えざるを、乃ち更に我を臣たらしめんと欲するや」と。帝は猶殺すに忍びず。姚広孝は故より敬と隙有り、進みて言う、「敬の言誠に見用せられば、上寧ぞ今日有らん」と。乃ちこれを斬り、その三族を誅した。

原文燕王即位,被執,責以建議徙燕,離間骨肉。敬厲聲曰:「惜先帝不用敬言耳!」帝怒,猶憐其才,命繫獄,使人諷以管仲、魏徵事。敬泣曰:「人臣委贄,有死無二。先皇帝曾無過舉,一旦橫行篡奪,恨不即死見故君地下,乃更欲臣我耶?」帝猶不忍殺。姚廣孝故與敬有隙,進曰:「敬言誠見用,上寧有今日。」乃斬之,誅其三族。

卓敬は朝廷において慷慨としており、風采が美しく、談論を善くし、凡そ天官・輿地・律歴・兵刑の諸家に博く究めざるはなかった。成祖は嘗て嘆じて曰く、「国家は士を養うこと三十年、ただ一人の卓敬を得るのみ」と。万暦初め、御史屠叔方の言を用い、墓を表し祠を建てた。

原文敬立朝慷慨,美豐姿,善談論,凡天官、輿地、律歷、兵刑諸家,無不博究。成祖嘗嘆曰::「國家養士三十年,惟得一卓敬。」萬歷初,用御史屠叔方言,表墓建祠。

時に戸部侍郎として死した者に、郭任・盧迥がいる。

原文同時戶部侍郎死者,有郭任、盧迥。

郭任は丹徒の人、或いは定遠の人ともいう。廉潔で慎み深く有能であった。建文初め、戸部を補佐した。飲食起居ことごとく公署に在った。時に方に諸藩を貶削せんとし、任は言う、「天下の事は先ず本を為し後に末を為せば則ち成り易し。今日財粟を儲え、軍実を備うるは、果たして何の為ぞや。乃ち北は周を討ち、南は湘を討つ。其の本を捨てて末を図るは、策に非ざるなり。且つ兵は神速を貴ぶ。苟くも日を曠り久しければ、鋭気既に竭き、姑息之に随う。将に坐して自ら困らんとす」と。燕王聞きて之を悪んだ。兵起こり、任は同官の盧迥と共に兵糧の調達を主った。京師陥落の後、捕らえられ、屈せずして死した。子の経も亦た死罪に論ぜられ、末子は広西に戍せられた。

原文任,丹徒人,一曰定遠人。廉慎有能。建文初,佐戶部。飲食起居俱在公署。時方貶削諸藩,任言:「天下事先本後末則易成。今日儲財粟,備軍實,果何為者?乃北討周,南討湘。舍其本而末是圖,非策也。且兵貴神速,茍曠日持久,銳氣既竭,姑息隨之,將坐自困耳。」燕王聞而惡之。兵起,任與同官盧迥主調兵食。京師失守被擒,不屈死之。子經亦論死,少子戍廣西。

盧迥は仙居の人。爽朗にして細行に拘らなかった。酒を飲むを喜び、飲んだ後は直ちに高歌し、人は「迥狂」と謂った。及んで仕官すると、節を折り恭しく慎んだ。建文三年、戸部侍郎に拝された。燕兵入城の際、屈せず。縛られて刑に就き、長謳して死した。台州の人々は之を八忠祠に祀った。

原文迥,仙居人。爽朗不拘細行。喜飲酒,飲後輒高歌,人謂「迥狂」。及仕,折節恭慎。建文三年,拜戶部侍郎。燕兵入,不屈。縛就刑,長謳而死。臺人祀之八忠祠。

陳迪は字を景道と云い、宣城の人。祖父の宥賢は明初、征に従い功有り、世襲で撫州守禦百戸となり、因って此処に家した。迪は倜儻として志操有り。府学訓導に辟かれ、郡の為に『賀万寿表』を草した。太祖之を異とした。久しくして、経学に通ずるを以て薦められ、歴官して侍講となる。出でて山東左参政となり、多くの恵政有り。母の喪に服す。起復し、雲南右布政使に除された。普定・曲靖・烏撒・烏蒙の諸蛮が煽乱を起こすと、迪は士兵を率いて之を撃破し、金幣を賜わった。

原文陳迪,字景道,宣城人。祖宥賢,明初,從征有功,世撫州守禦百戶,因家焉。迪倜儻有誌操。辟府學訓導,為郡草《賀萬壽表》。太祖異之。久之,以通經薦,歷官侍講。出為山東左參政,多惠政。丁內艱。起復,除雲南右布政使。普定、曲靖、烏撒、烏蒙諸蠻煽亂,迪率士兵擊破之,賜金幣。

建文初め、礼部尚書に徴された。時に制度を更修し、沿革損益するに、迪の議多くを占めた。会に水旱の災有りて詔し百官を集めて議せしむるに、迪は刑獄を清め、流民を招く等、凡そ二十余事を請い、皆之に従った。尋ねて太子少保を加えられた。李景隆等数戦に敗れるや、迪は大計を陳べた。命じて軍儲の督運をさせた。已にして、変事を聞き、京師に赴かんとした。

原文建文初,征為禮部尚書。時更修制度,沿革損益,迪議為多。會以水旱詔百官集議,迪請清刑獄,招流民,凡二十餘事,皆從之。尋加太子少保。李景隆等數戰敗,迪陳大計。命督運軍儲。已,聞變,趨赴京師。

燕王帝位に即くや、迪を召して責問す。抗声して屈せず。命じて子の鳳山・丹山等六人と共に市で磔に処した。既に死して後、人の其の衣帯中より詩及び『五噫歌』を得たり。辞意悲烈なり。蒼頭の侯来保其の遺骸を拾い帰葬す。妻の管は縊死す。幼子の珠は生後五月、乳母密かに溝中に置き、免る。八歳、怨家に告げられる。成祖其の死を宥し、撫寧に戍す。尋ねて登州に徙し、蓬莱の人と為る。洪熙初め、赦されて郷に還り、田産を与えらる。成化中、寧国知府塗観祠を建て迪を祀る。弘治年間、裔孫の鼎進士に挙げられ、官は応天府尹に至り、剛鯁として名声有り。

原文燕王即帝位,召迪責問,抗聲不屈。命與子鳳山、丹山等六人磔於市。既死,人於衣帶中得詩及《五噫歌》,辭意悲烈。蒼頭侯來保拾其遺骸歸葬。妻管縊死。幼子珠生五月,乳母潛置溝中,得免。八歲,為怨家所訐。成祖宥其死,戍撫寧。尋徙登州,為蓬萊人。洪熙初,赦還鄉,給田產。成化中,寧國知府塗觀建祠祀迪。弘治間,裔孫鼎舉進士,仕至應天府尹,剛鯁有聲。

黄魁は何れの人なるかを知らず。礼部侍郎となり、学行有り、典礼に習熟す。陳迪及び侍郎の黄観は皆人を愛敬した。燕兵入城の際、屈せずして死す。

原文黃魁,不知何許人。為禮部侍郎,有學行,習典禮。迪及侍郎黃觀皆愛敬人。燕兵入,不屈死。

巨敬という者あり、平涼の人。御史となり、改めて戸部主事、史官を充てられ、清慎を以て称された。陳迪と共に屈せず死し、其の族を夷せられた。

原文有巨敬者,平涼人。為御史,改戶部主事,充史官,以清慎稱。與迪同不屈死,夷其族。

景清は本姓耿、誤って景とす、真寧の人。倜儻として大節を尚び、書を読めば一遍にして忘れず。洪武中進士、編修を授かり、御史に改む。三十年春、召見され、左僉都御史を署するを命ぜらる。奏疏の字誤りの為、印を懐にして更改せんとし、給事中に劾せられ、詔獄に下る。尋ねて之を宥す。詔して川・陜の私茶を巡察せしめ、金華知府に除す。建文初め、北平参議となる。燕王と語り、言論明晰、大いに称賞される。再び遷り御史大夫となる。燕師入城、諸臣死する者甚だ衆し。清は素より密謀に預かり、且つ孝孺等と国に殉ぜんことを約す。是に至り独り闕に詣で自ら帰順す。成祖命じて其の官を仍めしむ。委蛇として班行に久しく従う。一日早朝、清は緋衣を着て刃を懐にし入る。先んずるに、日者異星赤色にして帝座を犯すと奏し、甚だ急なり。成祖故より清を疑う。朝に及び、清独り緋を著す。命じて之を捜さしむるに、蔵する所の刃を得たり。詰責す。清奮起して曰く、「故主の為に仇を報ぜんと欲するのみ」と。成祖怒り、磔死せしめ、之を族す。其の郷里を籍没し、転相攀染し、之を「瓜蔓抄」と謂い、村裏墟と為る。

原文景清,本耿姓,訛景,真寧人。倜儻尚大節,讀書一過不忘。洪武中進士,授編修,改御史。三十年春,召見,命署左僉都御史。以奏疏字誤,懷印更改,為給事中所劾,下詔獄。尋宥之。詔巡察川、陜私茶,除金華知府。建文初,為北平參議。燕王與語,言論明晰,大稱賞。再遷御史大夫。燕師入,諸臣死者甚眾。清素預密謀,且約孝孺等同殉國,至是獨詣闕自歸,成祖命仍其官,委蛇班行者久之。一日早朝,清衣緋懷刃入。先是,日者奏異星赤色犯帝座,甚急。成祖故疑清。及朝,清獨著緋。命搜之,得所藏刃。詰責,清奮起曰:「欲為故主報仇耳!」成祖怒,磔死,族之。籍其鄉,轉相攀染,謂之「瓜蔓抄」,村裏為墟。

初め、金川門の開くや、御史連楹は馬を叩き成祖を刺さんと欲し、殺され、屍は植わって立ったまま仆れず。連楹は襄垣の人。

原文初,金川門之啟,御史連楹叩馬欲刺成祖,被殺,屍植立不仆。楹,襄垣人。

胡閏は字を松友と云い、鄱陽の人。太祖陳友諒を征するに、長沙王呉芮の祠を過ぎ、壁に題する詩を見て、之を奇とし、直ちに帳前に召見す。洪武四年、郡秀才に挙げられ、入見す。帝曰く、「此の書生は故に鄱陽廟の壁に詩を題せし者か」と。都督府都事を授け、遷りて経歴となる。建文初め、右補闕に選ばれ、尋ねて進み大理寺少卿となる。燕師起こるや、斉・黄の輩と昼夜軍事を画策す。京師陥落、閏を召すも屈せず、子の伝道と共に死す。幼子の伝慶は辺境に戍せらる。四歳の女郡奴は功臣家に入り、稍長じて大義を識り、日に爨灰を以て面を汚す。洪熙初め、赦されて郷に還る。貧甚だしく、嫁がざるを誓う。見る者競って之に銭穀を遺す、曰く、「此れ忠臣の女なり」と。

原文胡閏,字松友,鄱陽人。太祖征陳友諒,過長沙王吳芮祠,見題壁詩,奇之,立召見帳前。洪武四年,郡舉秀才,入見。帝曰:「此書生故題詩鄱陽廟壁者邪?」授都督府都事,遷經歷。建文初,選右補闕,尋進大理寺少卿。燕師起,與齊、黃輩晝夜畫軍事。京師陷,召閏,不屈,與子傳道俱死。幼子傳慶戍邊。四歲女郡奴入功臣家,稍長識大義,日以爨灰汙面。洪熙初,赦還鄉。貧甚,誓不嫁。見者競遺以錢穀,曰:「此忠臣女也。」

高翔は朝邑の人。洪武中、明経を以て監察御史となる。建文時、兵事に力を戮す。成祖其の名を聞き、胡閏と共に召し、之を用いんと欲す。翔は喪服を着て入見し、語不遜なり。之を族し、其の先祖の冢を発き、親党悉く辺境に戍す。高氏の産を給する諸家に皆税を加え、曰く、「世々翔を罵らしめん」と。

原文高翔,朝邑人。洪武中,以明經為監察御史。建文時,戮力兵事。成祖聞其名,與閏同召,欲用之。翔喪服入見,語不遜。族之,發其先冢,親黨悉戍邊。諸給高氏產者皆加稅,曰:「令世世罵翔也。」

王度は字を子中と云い、帰善の人。少より力学し、文辞に工み、明経を以て薦められ山東道監察御史となる。建文時、燕兵起こるや、度は悉心して賛画す。及んで王師屡敗す。度は募兵を奏請す。小河の捷有り、命を受けて徐州に軍を労う。還りて、方孝孺は度に書を送り、社稷に誓死せんとす。燕王帝を称す。方党に坐し賀県に謫戍せられ、又語不遜に坐し、族せらる。

原文王度,字子中,歸善人。少力學,工文辭,用明經薦為山東道監察御史。建文時,燕兵起,度悉心贊畫。及王師屢敗,度奏請募兵。小河之捷,奉命勞軍徐州。還,方孝孺與度書,誓死社稷。燕王稱帝,坐方黨謫戍賀縣,又坐語不遜,族。

王度は智計有り。盛庸が景隆に代わるに当たり、度は密かに便宜を陳べ、是を以て東昌の捷有り。景隆征より還り、赦されて誅せられず、反って用いられ事に当たる。庸等の功を忌み、讒間す。度も亦た疎んぜらる。論ずる者其の用いられ方に未だ尽くさざる有りとして、之を惜しむ。

原文度有智計。盛庸之代景隆,度密陳便宜,是以有東昌之捷。景隆征還,赦不誅,反用事。忌庸等功,讒間之,度亦見疏。論者以其用有未盡,惜之。

戴德彜は奉化の人。洪武二十七年の進士。累官して侍講となる。太祖諭して曰く、「翰林は文学を職とすといえども、既に禁近に列すれば、凡そ国家の政治の得失、民生の利害、知る所あるは言わざる無きべし。昔、唐の陸贄・崔群・李絳、翰林に在りて、皆よく正言讜論し、当時に補益せり。汝は古人を以て自ら期すべし」と。已にして、監察御史に改む。建文の時、左拾遺に改む。燕王入り、召見すも、屈せず、之に死す。徳彜の死する時、兄弟並びに京師に従う。嫂の項は家に居り、変を聞き、禍且つ族せんことを度り、闔舎をして逃げ去らしむ。徳彜の二子を山中に匿し、戴氏の族譜を毀ち、独り身を留めて家に居る。収むる者至り、得る所無く、項を械して京に至らしめ、搒掠すれど終に一言も無く、戴族は全きを得たり。

原文戴德彜,奉化人。洪武二十七年進士。累官侍講。太祖諭之曰:「翰林雖職文學,然既列禁近,凡國家政治得失,民生利害,當知無不言。昔唐陸贄、崔群、李絳在翰林,皆能正言讜論,補益當時。汝宜以古人自期。」已,改監察御史。建文時,改左拾遺。燕王入,召見,不屈,死之。德彜死時,兄弟並從京師。嫂項家居,聞變,度禍且族,令闔舍逃去。匿德彜二子山中,毀戴氏族譜,獨身留家。收者至,無所得,械項至京,搒掠終無一言,戴族獲全。

時に御史にして屈せず死する者、諸城の謝升・聊城の丁誌方有り。而して懐寧の甘霖は従容として就戮し、子孫相戒みて復た仕えず。

原文時御史不屈死者,有諸城謝升、聊城丁誌方。而懷寧甘霖從容就戮,子孫相戒不復仕。

又た董鏞、何許の人なるかを知らず。諸御史に志節有る者、時に時に鏞の所に会し、誓いて以て死して国に報ぜんとす。諸将校の観望して力戦せざるを、鏞は輒ち露章して之を劾す。城破れて殺され、家は極辺に戍す。而して給事中に死する者、則ち陳継之・韓永・葉福の三人有り。

原文又董鏞,不知何許人。諸御史有誌節者,時時會鏞所,誓以死報國。諸將校觀望不力戰,鏞輒露章劾之。城破被殺,家戍極邊。而給事中死者,則有陳繼之、韓永、葉福三人。

継之は莆田の人、建文二年の進士。時に江南の僧道は腴田多し、継之は人に限ること五畝を請い、余りを以て民に賦す。之に従う。兵事急なり、数条機宜を奏す。燕兵入り、屈せず、見殺され、父母兄弟悉く辺に戍す。

原文繼之,莆田人,建文二年進士。時江南僧道多腴田,繼之請人限五畝,余以賦民。從之。兵事亟,數條奏機宜。燕兵入,不屈,見殺,父母兄弟悉戍邊。

永は西安の人、或いは浮山と曰う。貌魁梧、音吐洪亮、毎に慷慨として兵事を論ず。燕王入り、之を官せんと欲すも、抗辞し、屈せず死す。福は侯官の人、継之の同年生なり。燕兵至り、金川門を守るも、城陥ち、之に死す。

原文永,西安人,或曰浮山。貌魁梧,音吐洪亮,每慷慨論兵事。燕王入,欲官之,抗辭,不屈死。福,侯官人,繼之同年生。燕兵至,守金川門,城陷,死之。

賛に曰く、帝王の事を成すは、蓋し天の授くるに由る。成祖の天下を得るは、人力の能く禦ぐ所に非ざるなり。斉・黄・方・練の儔は、国を謀るの忠を抱きて、勝を制するの策に乏し。然れども其の忠憤激発し、刀鋸鼎鑊を視て之を甘んじて飴の若しとし、百世を下りても、凜凜として猶お生気有り。是れ豈に泄然として国事を恤みずして以て一死を以て自ら謝する者の同日に道う可きならんや。是れを観るに、固より未だ成敗の常の見を以て論ず可からざるなり。

原文贊曰:帝王成事,蓋由天授。成祖之得天下,非人力所能禦也。齊、黃、方、練之儔,抱謀國之忠,而乏制勝之策。然其忠憤激發,視刀鋸鼎鑊甘之若飴,百世而下,凜凜猶有生氣。是豈泄然不恤國事而以一死自謝者所可同日道哉!由是觀之,固未可以成敗之常見論也。