陳修は、字を伯昂といい、上饒の人である。太祖に従って浙東を平定し、理官に任ぜられた。律令を援引するに、ことごとく寛厚を本とし、元末の弊政をことごとく改めた。兵部郎中に抜擢され、済南知府に転じた。当時は乱後で、戸ごとに衰微し、かつ多くの衛将がその地で練兵や屯田を行っていた。修は撫治に方策があり、兵と民は互いに安んじ、流亡の民は再び生業に就いた。帝はこれを嘉した。
趙好德は、字を秉彝といい、汝陽の人である。安慶知府から入朝して戸部侍郎となり、尚書に進み、吏部に改められた。帝はその銓衡の公平を嘉し、かつて四輔官とともに内殿に召し入れ、坐して治道を論じ、画史に命じて禁中にその像を図画させた。終に陝西参政に至った。子の毅は、永楽年間に官は工部侍郎に至った。
翟善は、字を敬夫といい、貢挙によって官吏部文選司主事を歴任した。二十六年、尚書の詹徽・侍郎の傅友文が誅殺されると、善に命じて部の事務を署理させ、再び転じて尚書に至った。経術に明るく、奏対は帝の意に合った。帝は曰く、「善は年少ながら、気宇恢廓にして、他人は及ばない。」郷里に邸宅を営もうとしたが、善は辞した。またその家の戍籍を除こうとしたが、善は曰く、「戍卒は増やすべきであり、臣のために破例すべきではありません。」帝はますます賢であると思った。二十八年に事に坐し、宣化知県に降格され、そのまま終わった。
李仁は、唐県の人である。初め陳友諒に仕えた。王師が武昌を攻克すると、来帰した。常遇春の推薦により、陶安に代わって黄州府知府となった。侍郎を歴任し、尚書に進んだ。事に坐して青州に謫され、政績は最も優れた。戸部侍郎に抜擢され、致仕した。
洪武朝を通じて、戸部尚書となった者は四十余人いたが、皆職に久しくなく、績用が顕著な者は稀であった。ただ茹太素・楊靖・滕德懋・范敏・費震の類が、やや名声があった。太素・靖はそれぞれ伝がある。
費震は鄱陽の人である。洪武初年、賢良として召し出され、吉水知州となり、寛恵をもって民を得て、抜擢されて漢中知府となった。凶年に盗賊が起こると、倉粟十余万斛を発して民に貸し与え、秋の収穫時に倉に返還させた。盗賊はこれを聞き、皆来帰した。宅地を占めて自ら保伍をなすことを命じ、数千家を得た。帝は聞いてこれを嘉した。後に事に坐して捕らえられたが、善政があったため、特に釈放して宝鈔提挙とした。十一年、帝が吏部に言うには、「資格は常流のために設けたものである。才能ある者は順序を超えて用いるべきである」と。超擢された者は九十五人。そして震を戸部侍郎に拝し、まもなく尚書に進めた。命を受けて丞相・御史大夫以下の俸禄の制を定めた。出て湖広布政使となり、老いて致仕した。
洪武初年、張琬という者がいた。鄱陽の人である。貢士として高等に試され、給事中に授けられ、戸部主事に改めた。ある日、帝が天下の財賦・戸口の数を問うと、口頭で遺漏なく答えた。帝は喜び、ただちに左侍郎に抜擢した。謹身殿が火災に遭ったとき、時政について上言した。凶年には、民租百余万石を免除するよう請うた。いずれも嘉納された。琬は才敏で、心計があり、二十七歳で官に卒した。時に人はこれを惜しんだ。
周禎は字を文典といい、江寧の人である。元末に湖南に流寓した。太祖が武昌を平定すると、用いて江西行省僉事とし、大理卿を歴任した。太祖は唐・宋にはいずれも成律があって獄を断ったが、元は一時の行事を条格としたため、胥吏が奸を為しやすいと考え、詔して禎に李善長・劉基・陶安・滕毅らと律令を定めさせた。少卿劉惟謙・丞周湞もこれに参与した。書が成ると、太祖は善しとした。
周湞は字を伯寧といい、鄱陽の人である。江西十才子の一人であり、官もまた刑部尚書に至った。
洪武の世を通じて、刑部尚書となった者はほぼ四十人に及び、楊靖が最も著名であり、端復初・李質・黎光・劉敏もまた有名である。
復初は字を以善といい、溧水の人である。子貢の裔であり、省文に従って端氏と称した。元末に小吏となった。常遇春が金華を鎮守すると、幕下に召し致した。まもなく辞去した。太祖はその名を知り、召して徽州府経歴とした。民に自ら田を実らせることを命じ、図籍を作成させ、積弊をことごとく刷した。稍々遷って磨勘司令となった。時に官署は新たに立ち、案牘が充満していたが、復初は鉤稽して遺漏がなかった。帝は嘗て朝廷でこれを称えた。性は厳峭で、人は敢えて私をもって干すことができなかった。僚属は多く貪って敗れたが、復初は独り清白をもって免れた。洪武四年、超拝して刑部尚書となり、用法は平であった。杭州の飛糧の事が発覚し、百余人が逮系された。詔して復初に往きて治めさせると、誠偽がたちまち弁別され、知府以下皆服罪した。翌年、出て湖広参政となった。来帰する民には、その賦を一年間免除することを命じた。流亡はことごとく集まった。治辦をもって聞こえた。事に坐して召還され、卒した。子の孝文は翰林待詔、孝思は翰林侍書となった。先後して朝鮮に使いし、ともに清節を著わし、朝鮮人は「双清館」を立てたという。
黎光は東莞の人である。郷薦をもって御史に拝され、蘇州を巡視し、水害の振済を請うて、多くを全活した。鳳陽を巡視し、封事を上奏してことごとく時弊に切実であり、帝はこれを嘉した。洪武九年、刑部侍郎に擢てられ、法を執って阿らず、御史大夫陳寧に忌まれた。事に坐して貶所で死した。
劉敏は粛寧の人である。孝廉に挙げられ、中書省吏となった。嘗て夕方に蘆を龍江で買い、朝に家に載せ、妻に蓆を織らせ、売って母に奉じた。そして後に、入って事を治めた。性は廉介で、ある者が瓷瓦器を遺しても、受け取らなかった。楚相府録事となり、中書が没官した女婦を文臣の家に給するとき、衆は母に事えるために給するよう請うよう勧めた。敏は固く辞して言うには、「母に事えることは、子婦の事である。何ぞ他人に関わることか」と。省臣が敗れると、吏は多く坐して誅されたが、敏は独り預かることがなかった。帝はこれを賢として、工部侍郎に擢て、刑部に改めた。出て徽州府同知となり、恵政があり、官に卒した。
楊靖は字を仲寧といい、山陽の人である。洪武十八年に進士となり、吏科庶起士に選ばれた。翌年、戸部侍郎に擢てられた。時に諸司に任じられた者は、率い進士及び太学生であったが、時に不法の者がいた。帝は『大誥』を製し、通政使蔡瑄・左通政茹瑺・工部侍郎秦逵及び靖を挙げてこれを諷厲して言うには、「これらも進士太学生であるが、職を率いて朕が心に称うことができる」と。そのように称された。
二十六年、太子賓客を兼ね、二つの俸禄を給せられる。後に、事に坐して免ぜられる。龍州の趙宗壽を征討するに際し、詔して靖に安南に諭し粟を輸送して軍を餉わしむ。白衣の身で往く。安南の相黎一元は陸運の険艱を以て、詔を奉ぜざらんと欲す。靖は反覆開諭を示し、且つ水運を許す。一元乃ち粟二万を輸送し、沲海江に至り別に浮橋を造りて龍州に達す。帝大いに悦び、靖を左都御史に拝す。靖は公忠にして智略あり、繁劇を理むるに善く、獄を治めて明察なるも深文を事とせず。寵遇最も厚く、同列比ぶる者無し。三十年七月、郷人の為に訴冤状の草稿を代わりて改むるに坐し、御史の劾するところとなる。帝怒り、遂に賜死す。時に年三十八。
時に淩漢有り、字は鬥南、原武の人。秀才に挙げられ、『烏鵲論』を献ず。官を授けられ、御史を歴任す。陝西を巡按し、部内の疾困数事を疏す。帝之を善しとし、其の子を召して衣鈔を賜う。漢は獄を鞫するに平允なり。京に還るに及び、漢を徳とする者有り、酒を置くことを邀えて、厚く金を以て贈らんと欲す。漢曰く「酒は飲むべし、金は受くべからず」と。帝之を聞きて嘉歎し、右都御史に擢す。時に詹徽は左に在り、論議合わず、毎に面して徽を折り、徽之を銜む。左遷して刑部侍郎と為り、礼部に改む。後に徽の劾する所と為り、左僉都御史に降す。帝其の衰を憫み、帰田裏せしむ。漢は徽在るを以て、後憂有らんことを思い、敢えて去らず。歳余にして徽誅せられ、復た右僉都御史に擢す。尋いで致仕して帰る。漢は言を出すに檢せず、官に居りて屡び躓く。然れども廉直を以て帝に知られ、故に終に保全を得。
又た呉の人嚴德瑉、御史より擢て左僉都御史と為り、疾を以て帰らんことを求む。帝怒り、其の面を黥し、南丹に謫戍す。赦に遇い放還さる。布衣徒步にて、自ら齊民に齒す。宣德中猶ほ存す。嘗て事を以て御史の逮うる所と為り、德瑉堂下に跪き、自ら言う「曾て台に在りて公事を勾當し、三尺の法を曉る」と。御史問う「何の官ぞ」と。答えて言う「洪武中台長、所謂嚴德瑉是れなり」と。御史大いに驚き、揖して之を起す。次日往きて謁すれども、則ち囊を擔いで徙れり。教授有りて之と飲み、其の面の黥せられ、敝冠を戴くを見て、問う「老人何の法を犯すや」と。瑉は前事を述べ、因りて言う「先時國法甚だ嚴しく、仕ふる者は首領を保たず、此の敝冠戴き易からざるなり」と。乃ち北面して拱手し、「聖恩、聖恩」と稱すと云う。
單安仁、字は德夫、濠の人。少くして府吏と為る。元末江淮兵亂に、安仁義兵を集めて郷里を保ち、樞密判官を授かる。鎮南王孛羅普化に從い揚州を守る。時に群雄四起し、安仁歎じて曰く「此の輩皆人為に驅除するのみ。王者の興は、當に自ら別有るべし」と。鎮南王は長槍軍に逐われ、安仁屬する所無く、太祖の集慶を定むるを聞き、乃ち曰く「此誠に是れ已」と。衆を率いて歸附す。太祖悅び、即ち命じて其の軍を将いて鎮江を守らしむ。軍伍を嚴飭し、敵敢えて犯さず。移りて常州を守る。其の子叛き、張士誠に降る。太祖安仁の忠謹なるを知り、疑わず。久しくして、浙江副使に遷る。悍帥橫りに民を斂め、「寨糧」と名づく。安仁之を法に置く。按察使に進み、征せられて中書左司郎中と為り、李善長を佐えて裁断す。瑞州守禦千戶に調せられ、入りて将作卿と為る。
徐州の硃守仁、字は元夫。元末亦た保障の功を以て樞密同知に官し、舒城を守る。明兵廬州を下すに及び、城を以て來歸す。工部侍郎を歴官す。洪武四年尚書に進み、命を奉じて山東の官吏を察し、旨に稱す。尋いで北平行省參政に改め、饋餉繼がざるを以て、蒼梧知縣に謫せらる。初め、守仁袁州を知り、創殘を撫安し、民甚だ之を德とす。是に至り連ねて容州・高唐州を知り、皆善政有り。十年四川布政使に進み、治め簡嚴を尚ぶ。年老いを以て致仕す。事に坐して輸作を罰せられ、特に之を宥す。十五年、雲南平らぎ、威楚・開南等路宣撫司を楚雄府と改め、遂に命じて守仁に知府事を為さしむ。流移を招集し、徭役を均しくし、學校を建て、境内大いに治まる。二十八年上計して朝に入り、郡人涕を垂れて之を送る。太僕卿に拝す。首めて江北滁州諸處に牧馬草場を立つることを請う。轄する所十四監九十八群。馬大いに蕃息す。馬政の修まるは、守仁に始まる。久しくして致仕す。永樂初、朝に入り、疾に遇い卒す。
継祥の後、工部尚書として名を成した者に、秦逵らがいる。
趙翥という者がいる。永寧の人である。志節があり、学行をもって聞こえた。訓導から賢良に挙げられ、賛善大夫に抜擢され、工部尚書に拝された。天下の歳造軍器の数を奏定し、及び藩王の宮城の制度を議定した。
二十六年、太子賓客に起用され、太子少保に進んだ。二十八年、龍州の土官趙宗寿が、鄭国公常茂の死事を奏上したことが実状に合わず、召喚されながらもまた至らなかった。帝は怒り、楊文に命じて大軍を統率して討伐に向かわせた。そして鐸に命じて招諭させた。鐸が至り、廉(察)して茂が実際に病死したことを得、宗寿もまた罪に伏して来朝した。そこで詔して文に兵を移して奉議等の州の叛蛮を征伐させ、即ち鐸を以って軍事を参議させた。一月余りして、諸蛮は平定された。鐸は形勢を相度し、奉議衛及び向武・河池・懷集・武仙・賀県等の諸所に守禦千戸所を設け、官軍を以って鎮撫することを請うた。皆、許可された。
鐸は人として長者であり、性格は慎密で、妄りに取与しない。帝は故旧として遇し、嘗て言った、「鐸は友より臣に至るまで三十余年、人と交わるに顔色を変えるに至らず、絶交しても悪声を出さない」。また言った、「都御史詹徽は剛断で悪を嫉み、胥吏はその貪りを恣にすることができず、謗訕は満朝に満ちた。唐鐸は重厚であるが、また懦弱で無為であると言われる。人心は古に及ばず、このようなことがあるのか」。後に徽は終に罪に坐して誅殺されたが、鐸の恩遇は替わらなかった。三十年七月、京師に卒した。六十九歳。賻贈は甚だ厚く、有司に命じてその喪を護り帰葬させた。
明初、衛所の世籍及び軍卒の勾補の法は、皆溍の定めるところであった。然し名目は瑣細で、簿籍は煩多であり、吏は奸を行うに易かった。明の終世にわたり頗る民の患いとなり、軍衛もまた日増しに消耗減退した。語は詳しく『兵志』にある。潮州の生員陳質は、父が戍籍に在った。父が没すると、質は勾補され、卒業を終えるため帰ることを請うた。帝は命じてその籍を除いた。溍は軍伍が欠けることを以って、不可と主張した。帝は言った、「国家は一卒を得るは易く、一士を得るは難い」。遂にこれを除いた。然しこれは皆特別の恩典という。
開済は、字を来学といい、洛陽の人である。元末、察罕帖木児の掌書記となった。洪武初年、明経に挙げられた。河南府訓導を授けられ、入って国子助教となった。病のため罷めて帰った。十五年七月、御史大夫安然が済に吏治の才があると推薦し、召して刑部尚書を試用させ、一年余りして実授した。
済は綜核を己の任とし、天下の諸司に文簿を設け、日々行った事を書き記し、得失を課することを請うた。また各部の勘合文移に、程限を立て、功罪を定めることを請うた。また言うには、軍民が細故をもって犯罪した者は、宜しく即時に決遣すべきであると。数月の間に、滞った文書は一清した。帝は大いに能あると認めた。時に都御史趙仁が言うには、往時に「賢良方正」「孝弟力田」等の諸科で取った士を郡県に列置したが、多く職を挙げない。宜しくその去留を核すべきであると。済が条議して、「経明行修」を一科とし、「工習文詞」を一科とし、「通曉書義」を一科とし、「人品俊秀」を一科とし、「練達治理」を一科とし、「言有條理」を一科とした。六科を備える者を「上」とし、三科以上を「中」とし、三科に及ばない者を「下」とした。これに従った。
済は聡明で才弁あり。凡そ国家の経制・田賦・獄訟・工役・河渠の事、衆人裁定能わざるもの、済が一たび算画すれば、即ち条理品式有り、世に守るべきものと為す。故に以て帝甚だ信任し、数たび顧問に備え、兼ねて他部の事に預かる。人これを忌み、謗議滋く起こる。然れども済も亦深刻にして、法を以て人を中傷するを好む。嘗て命を奉じて詐偽の律を定む。済の議法は巧密なり。帝曰く、「密網を張りて以て民を羅する、可ならんや」と。又籍を設けて「寅戌の書」と曰い、以て僚属の出入を程す。帝切に責めて曰く、「古人は卯酉を以て常と為す。今事に趨く者をして朝は寅に暮は戌にせしむ。父母に奉じ、妻子に会する、幾何の時ぞや」と。又榜を為りて其の僚属を戒め、文華殿に掲げんことを請う。帝曰く、「僚属を告誡するの言、殿廷に張らんと欲す、豈に人臣の礼ならんや」と。済慚いて謝す。
尋いで郎中仇衍に囚人の死を脱せしめ、獄官に発せらる。済は侍郎王希哲・主事王叔徴と獄官を執り、之を斃す。其の年十二月、御史陶垕仲等其の事を発し、且つ言う、「済奏事の時、奏答を懐中に置き、或いは隠して言わず、上意を覘伺し、務めて両端を為し、奸狡測るべからず。甥女を役して婢と為す。妹早く寡し、其の姑を逐い而して其の家財を略す」と。帝怒り、済を獄に下し、並びに希哲・衍等皆棄市す。
賛に曰く、六部の制は『周官』に仿い、以て王を佐け邦国を理め、庶績を熙す、任至って重し。明興り、官を建て職を分ち、法を立つること秩然たり。又三途に人を用い、賢を求むること弥く広し。若し陳修・滕毅の銓法を典とし、楊思義・範敏の賦役を治め、周禎の律令を定め、単安仁の将作を領し、以て沈溍・開済輩の経画する所に至るまで、皆委曲詳備にして、細大遺さず。其の規模を考うるに、固より一代政治の権輿する者か。