明史

列傳第二十七 錢唐 韓宜可 蕭岐 馮堅 茹太素 李仕魯 葉伯巨 鄭士利 周敬心 王朴 張衡

○錢唐(程徐)韓宜可(周觀政 歐陽韶)蕭岐(門克新)馮堅 茹太素(曾秉正)李仕魯(陳汶輝)葉伯巨 鄭士利(方徵)周敬心 王樸

錢唐、字は惟明、象山の人。博学で行い篤実であった。洪武元年、明経に挙げられる。対策が帝の意に適い、特に刑部尚書を授けられた。二年、詔して孔廟の春秋の釈奠は、曲阜のみに行い、天下に通祀する必要はないとした。錢唐は闕に伏して上疏し言う、「孔子は教えを万世に垂れ、天下共にその教えを尊ぶ。故に天下は孔子を通祀することができ、報本の礼は廃すべからず」と。侍郎の程徐もまた疏を上し言う、「古今の祀典、独り社稷・三皇と孔子は通祀す。天下の民は社稷・三皇なくしては以て生くることができず、孔子の道なくしては以て立つことができない。堯・舜・禹・湯・文・武・周公は、皆聖人である。然れども三綱五常の道を発揮し、これを経に載せ、百王の儀範となり、万世の師表となり、世が降るに従って人極が墜ちないようにしたのは、孔子の力である。孔子は道を以て教えを設け、天下はこれを祀る。その人を祀るのではなく、その教えを祀るのであり、その道を祀るのである。今、天下の人にその書を読ませ、その教えに従わせ、その道を行わせながら、その祀りを挙げさせないのは、人心をつなぎ、世教をたすける所以ではない」と。いずれも聞き入れられなかった。久しくして、ようやくその言を用いた。帝が嘗て『孟子』を覧て、「草芥」「寇仇」の語に至り、「臣子の宜しく言うべきところではない」と言い、その配享を罷めることを議した。詔して、「諫める者は大不敬の罪に論ずる」とした。錢唐は抗疏して諫め入り言う、「臣は孟軻のために死ぬ。死して余栄あり」と。時に廷臣は錢唐の危うきを危ぶまぬ者はなかった。帝はその誠懇さを鑑み、これを罪としなかった。孟子の配享もまた間もなく復された。然れども遂に儒臣に命じて『孟子節文』を修せしめたという。

錢唐は人となり強直であった。嘗て詔して『虞書』を講ぜしめられ、錢唐は陛に立って講じた。或る者が錢唐を糾弾し、草野の徒は君臣の礼を知らないと言うと、錢唐は正色して言う、「古の聖帝の道を陛下に陳べるに、跪かざるもおごりとはならぬ」と。また嘗て諫めて、宮中に武后の図を掲げるは宜しくないと言った。旨にさからい、午門外で待罪すること終日となった。帝の意が解け、食を賜い、即座に図を撤去するよう命じた。未だ幾ばくもせず、寿州に謫され、卒した。

程徐、字は仲能、鄞の人。元の名儒程端学の子である。至正年中、『春秋』に明るいことで知られた。歴任して兵部尚書に至り、致仕した。明の兵が元の都に入ると、妻の金は二歳の児と娘の瓊を抱いて井戸に赴き死んだ。洪武二年、危素らと共に北平より京師に至る。刑部侍郎を授けられ、尚書に進み、卒した。程徐は精勤で通敏、詩文に巧みで、世に伝わる文集がある。

韓宜可、字は伯時、浙江山陰の人。元の至正年中、行御史台が掾にすも、就かず。洪武初年、薦められて山陰教諭を授かり、楚府録事に転ず。間もなく監察御史に抜擢され、弾劾に権貴を避けなかった。時に丞相胡惟庸・御史大夫陳寧・中丞塗節が方に帝の寵愛を受けており、嘗て侍坐し、従容と燕語していた。韓宜可は直前に進み、懐中の弾文を出して、三人を弾劾し、険悪にして忠に似、奸佞にして直に似、功を恃み寵をたのみ、内に反側の心を懐き、台端に擢げ置かれ、威福をほしいままにし、その首を斬って以て天下に謝すことを乞うた。帝は怒って言う、「快口の御史、敢えて大臣を排陥せんとするか」と。錦衣衛の獄に下すよう命じたが、間もなく釈放した。

九年、出でて陝西按察司僉事となる。時に官吏で罪ある者は、笞以上は全て鳳陽に屯田するよう謫され、数万に至った。韓宜可は疏を上し、これに争って言う、「刑は淫慝を禁じ、一民をらしむるものであり、その情の軽重、事の公私、罪の大小を論ずべきである。今悉く謫屯せしめるのは、これ小人の幸いであり、君子は危うい。乞う、分別して以て衆心を協わせんことを」と。帝はこれを許可した。やがて、京師に入朝する。諸司の没官した男女を賜うに会い、韓宜可は独り受けなかった。且つ極論して言う、「罪人はつまこに及ぼさず、これ古の制である。事有れば随坐するは、法の濫りである。況んや男女は人の大倫、婚姻時をすれば尚お和気を傷つく。合門連坐は、豈に聖朝の宜しくする所であろうか」と。帝はその言を是とした。後、事に坐して刑に処せられんとしたが、御謹身殿で親しくこれをきくし、免れることを得た。再び疏を上し、二十余事を陳べ、皆報可された。未だ幾ばくもせず、罷められて帰る。已て、再び徴されて至る。鐘山・大江を祀る文を撰し、日本を諭し、烏蛮を征する詔を命ぜられ、皆旨に称し、特に山西右布政使を授けられた。間もなく事により雲南に安置される。恵帝即位の時、検討陳性善の推薦により、起用されて雲南参政となり、入朝して左副都御史に拝され、官にて卒した。この夜、大星が隕ち、厩の馬は皆驚きていななき、人は「韓宜可に当たる」と言ったという。

帝が御史台を建てた時、諸御史で敢言をもって著しい者は、韓宜可の外には、周観政と称された。

周観政もまた山陰の人。推薦により九江教授を授かり、監察御史に抜擢された。嘗て奉天門を監した。中使が女楽を連れ入れようとしたので、周観政はこれを止めた。中使は「命有り」と言うと、周観政は執って聞き入れなかった。中使はいかりて入り、間もなく出て報じて言う、「御史暫く休め。女楽は已に罷めて用いぬ」と。周観政はまた拒んで言う、「必ず面して詔を奉ぜん」と。已て帝が親しく宮を出で、これに謂って言う、「宮中の音楽は廃缺しているので、内家に習わせようとしただけである。朕は已にこれを悔いている。御史の言う通りである」と。左右驚異せざる者はなかった。周観政は累官して江西按察使となった。

周観政より前に、欧陽韶がいた。字は子韶、永新の人。推薦により監察御史を授けられた。詔有りて、日に両御史をして侍班せしむ。欧陽韶が嘗て侍直した時、帝は怒りに乗じて人を戮さんとした。他の御史は敢えて言わなかったが、欧陽韶は趨って殿廷の下に跪き、倉卒として措詞できず、急ぎ手を捧げて額に加え、呼んで言う、「陛下、不可なり」と。帝は欧陽韶の朴誠なることを察し、これに従った。未だ幾ばくもせず、致仕し、家にて卒した。

蕭岐、字は尚仁、泰和の人。五歳で孤となり、祖父母に事えて孝をもって聞こえた。有司がしばしば挙げるも赴かず。洪武十七年、詔して賢良を徴し、強いてこれを起す。十便書を上す。大意は、帝の刑罰が中を過ぎ、訐告の風がさかんであることを謂う。実封を禁止して以て誣罔をふせぎ、律に依って獄を科し以て詔令を信ぜしむることを請う。凡そ万余言。召見され、潭王府長史を授けられる。力辞し、旨に忤い、雲南楚雄訓導に謫される。蕭岐は即日発ち、騎を遣わして追い還される。歳余りして、改めて陝西平涼に授けられる。再び歳を経て致仕する。再び召されて錢宰らと『書』伝を考定する。幣鈔を賜い、駅伝を給して帰す。嘗て『五経要義』をしゅうす。又『刑統八韻賦』を取り、律令を引きてこれに解し、合わせて一集となす。嘗て言う、「天下の理は本一なり、道より出でれば必ず刑に入る。吾れ二書を合わせ、観る者に省みる所あらしめん」と。学者は「正固先生」と称した。

当是の時、太祖の治め方は剛厳をたっとび、中外凜凜として、法を奉じ過ちを救うにいとまあらず。然るに蕭岐の上書は過ぎて切直であり、帝は忤わなかった。その後、言をもって超擢された者に、門克新がいた。

克新は鞏昌の人である。泰州の教諭であった。二十六年、任期が満ちて来朝した。召されて経史及び政治の得失を問われる。克新は直言して隠すところがなかった。贊善に任じられた。時に紹興の王俊華は文辞に優れていたため、同じくこの職に任じられた。上は吏部に諭して言う、「左に克新、右に俊華を置くのは、直言を重んじるためである」と。初め、教官が給由(任期満了の報告)で京に至ると、帝は民の疾苦を尋ねた。岢嵐の呉従権、山陰の張桓は皆言う、「臣の職は士を訓えることにあり、民事には関わりません」と。帝は怒って言う、「宋の胡瑗は蘇・湖の教授となり、その教えは経義と治事を兼ねた。漢の賈誼、董仲舒は皆田舎から起ち、時務を敷陳した。唐の馬周は太宗に親しく見えることができず、かつ武臣に事を言うよう教えた。今既に朝堂に集まり、朕が親しく尋問するに、皆答えるところがない。聖賢の道を志す者は固よりこのようなものか」と。命じて辺境に流した。かつ榜文で天下の学校に諭し、これを鑑戒とさせた。ここに至り克新は亮直(誠実で正直)をもって重んぜられた。数年も経たず、礼部尚書に抜擢された。まもなく病気を理由に引退を願い出ると、命じて太醫に薬物を給させ、その俸給を絶やさなかった。死ぬと、命じて有司に喪を護って帰葬させた。

馮堅は、何許の人か知れないが、南豊の典史となった。洪武二十四年に上書して九つの事を言う、「第一は聖躬を養うこと。心を清くし事を省み、細務に関わらず、民社の福と為すことを請う。第二は老成を択ぶこと。諸王は年方壮盛であり、左右の輔導を要する。願わくは老成の臣を択び取って王官と為し、直言正色を以て匡救を図らしめたい。第三は要荒を攘うこと。農を務め武を講じ、辺圉に屯戍して、不虞に備えることを請う。第四は有司を励ますこと。廉正で操守ある士を得て、方面の任に当たらせることを請う。属吏を旌別し、実情を具えて上聞し、それにより黜陟する。人をして自ら治めることを勇ましからしめる。第五は祀典を褒めること。命じて有司に歴代の忠烈諸臣を采録し、追加して封謚を加え、末俗に興起勧奨する所あらしめることを請う。第六は宦寺を省くこと。晨夕密邇に侍し、その言は入り易く、禍患を養成して自ら知らない。冗員を裁去し、以て異日の陵替の弊を杜ぐことを請う。第七は辺将を易えること。兵権を仮すこと、久しく辺圉に在ると、多くは縦佚に致す。時に遷し歳に調え、久しくその任に居らせざることを請う。勲臣を保全するのみならず、将驕卒惰、内軽外重の漸を防ぐことができる。第八は吏治を訪うこと。廉幹の才は、あるいは上官に忌まれ、僚吏に嫉まれる。上察せざれば、激勧の道ではない。耳目を広く布き、廉貪を訪察し、以て黜陟を明らかにすることを請う。第九は関防を増すこと。諸司は帖をもって胥吏に委ね、その部を督せしめると、輒ち箠楚を加え、害は民に及ぶ。勘合を増置して諸司に付し、その填寫差遣を聴き、事畢れば繳報せしめ、庶幾くば所司は軽々しく発して民を病ますことなく、而して庶務もまた曠廃に致さざらんことを請う」と。書が奏上されると、帝はこれを嘉し、その時務を知り事変に達することを称えた。また侍臣に謂って言う、「堅の言は惟だ辺将を調易するは則ち未だ然らず。辺将を数易すれば、則ち兵力の勇怯、敵情の出没、山川の形勝を、備知する所なし。仮令趙充国、班超の如き者を得ば、又何ぞ数易を取らんや」と。乃ち吏部に命じて堅を左僉都御史に抜擢させ、院において頗る大體を保った。その明年、任において卒した。

茹太素は澤州の人である。洪武三年、郷挙され、上書して旨に称し、監察御史に任じられた。六年に四川按察使に抜擢され、平允をもって称された。七年五月に召されて刑部侍郎となり、上言する、「中書省より内外の百司は、御史、按察使の檢挙を聴く。而して御史臺には未だ定考がなく、宜しく守院御史に一体に察核せしむべし。磨勘司の官吏は数少なく、天下の錢糧を檢核し難い。請うらくは若干員を増置し、各科に分つ。在外の省衛において、凡そ軍民事を會議するに、各相合わず、稽延を致す。按察司一員を用いて糾正することを請う」と。帝は皆これに従った。明年、累に坐して刑部主事に降格された。時務を陳じて累万言に及び、太祖は中書郎の王敏に誦読させてこれを聴いた。中に言う、「才能の士は、数年来、幸存する者百に一二無く、今任用する者は率ね迂儒俗吏である」と。言多く忤觸する。帝は怒り、太素を召して面詰し、朝において杖刑に処した。次の夕べ、復た宮中において人にこれを誦読させ、その実行可能な者四事を得た。慨然として言う、「君たるは難く、臣たるは易からず。朕が直言を求める所以は、その情事に切ならんことを欲するためである。文詞が多すぎれば、便ち熒聽に至る。太素の陳ずる所は、五百余言で尽くすことができた」と。因って中書に奏對の式を定めさせ、得失を陳ずる者に繁文なからしめた。太素の疏の中の実行可能な者を摘んで所司に下し、帝自らその首に序を付け、中外に頒示した。

十年、同官の曾秉正と先後して同じく参政として出向し、而して太素は浙江に赴いた。まもなく親に侍することを以て賜って里に還された。十六年に召されて刑部試郎中となった。一月居て、都察院僉都御史に遷った。復た翰林院檢討に降格された。十八年九月に戸部尚書に抜擢された。

太素は抗直で屈せず、屡々罪に瀕したが、帝は時にこれを宥した。一日、便殿に宴し、酒を賜って言う、「金杯汝と同く飲むも、白刃相い饒さず」と。太素は叩頭し、即ち韻を継いで対えて言う、「丹誠国に報いんと図り、聖心の焦るを避けず」と。帝はこれに惻然とした。未だ幾ばくもなく、御史に謫され、復た詹徽を排陥したことに坐し、同官十二人と共に足に鐐をはめられて事を治めた。後竟に法に坐して死した。

曾秉正は南昌の人である。洪武初年、推薦されて海州學正に任じられた。九年、天変を以て詔して群臣に事を言わしめる。秉正は疏を上すること数千言、大略に言う、「古の聖君は天に災異無きを喜ばず、惟だ天譴を祗懼するを心とす。陛下は聖文神武、天下を統一し、天の付与する所、盛なりと謂うべし。兵動すること二十余年、始めて休息を得る。天の太平に心あるも亦已久しく、民の治を思うも亦切なり。創業と守成の政は、大抵同じからず。開創の初めは、則ち富国強兵の術を行い、事に趨き功に赴くの人を用う。大統既に立ち、邦勢已に固し。則ち普天の下、水土の生ずる所、人力の成す所、皆邦家倉庫の積み、乳哺の童、垂白の叟、皆邦家休養の人なり。富庶ならざるを患えず、惟だ成業を永久に保つの難きを患うるのみ。この時に当たり、向の為す所を尽く革すべく、何れの者か天心に応ずるに足り、何れの者か民望を慰むるに足るか、感応の理、その效甚だ速し」と。又言う、天既に警め有れば、則ち変は虚しく生ぜず。極めて《大易》、《春秋》の旨を論ず。帝はこれを嘉し、召して思文監丞とした。未だ幾ばくもなく、刑部主事に改めた。十年に陜西参政に抜擢された。会うこと初めて通政司を置くに当たり、即ち秉正をもって使とした。在位中数々事を言い、帝は頗る優容した。まもなく竟に旨に忤いて罷免された。貧しくして帰ることができず、その四歳の女を売った。帝は聞いて大怒し、腐刑に処したが、その行方は知れなかった。

李仕魯は字を宗孔といい、濮の人である。少より穎敏で篤学、足を戸外に窺わざること三年。鄱陽の朱公遷が宋の朱熹の伝を得たと聞き、往きてその遊に従い、その学を尽くして受けた。太祖は故より仕魯の名を知り、洪武中、朱氏の学を為し能き者を詔求するに、有司が仕魯を挙げた。入見すると、太祖は喜んで言う、「吾が子を求むること久し、何ぞ相見ゆること晚きや」と。黄州同知に除した。曰く、「朕は姑く民事を以て子を試み、行くところ子を召さん」と。期年、治行聞こえた。十四年、命じて大理寺卿とした。

帝は践祚の後より、頗る釈氏の教を好む。詔して東南の戒徳僧を徴し、数たび法会を蔣山に建つ。応対して旨に称する者には、輒ち金襴袈裟衣を賜い、禁中に召し入れて坐を賜い、講論を為す。呉印・華克勤の属は、皆抜擢して大官に至り、時に耳目を寄す。ここによりその徒横甚だしく、大臣を讒毀す。挙朝敢えて言う者なく、ただ仕魯と給事中陳汶輝と相継いでこれを争う。汶輝疏を上りて言う、「古帝王以来、未だ縉紳と緇流と雑居同事して、以て相済うべきことを聞かず。今勛旧耆徳は皆禄を辞し位を去らんと思い、而るに緇流憸夫は乃ち益々以て讒間を加う。劉基・徐達の猜られ見るが如き、李善長・周徳興の謗られ被るが如き、蕭何しょうか韓信かんしんに視れば、その危疑相去ること幾何ぞや?伏して願わくは陛下、股肱心膂に於いて、悉く德行文章の彦を取らば、則ち太平立致すべし」と。帝聴かず。諸僧寵に怙る者は、遂に請うて釈氏の為に職官を創立せんとす。ここにより先に置ける善世院を以て僧録司と為す。左・右善世、左・右闡教、左・右講経覚義等の官を設け、皆その品秩を高くす。道教も亦然り。僧尼道士を度すること数万に逾えしむ。仕魯疏を上りて言う、「陛下方に創業せんとし、凡そ意指の向かう所は、即ち子孫万世の法程を示す。奈何ぞ聖学を捨てて異端を崇ぶるや」と。章数十上るも、亦聴かず。

仕魯性剛介にして、儒術より起り、方に朱氏の学を推明せんと欲し、以て仏を辟くことを自ら任ず。言の用いられざるに及び、遽に帝の前に請いて曰く、「陛下深くその教に溺れ給う。臣の言の入らざるを怪しむことなかれ。陛下に笏を還し、骸骨を賜いて田裏に帰らんことを乞う」と。遂に笏を地に置く。帝大いに怒り、武士を命じてこれを捽搏せしめ、立たせて階下に死せしむ。

陳汶輝、字は耿光、詔安の人。薦めにより礼科給事中を授けられ、累官して大理寺少卿に至る。数たび得失を言い、皆切直なり。最後に旨に忤い、罪を懼れ、金水橋の下に投じて死す。

仕魯と汶輝の死すること数年、帝漸く諸僧の為す所多く不法なるを知り、詔して釈道二教を清理すと云う。

葉伯巨、字は居升、寧海の人。経術に通ず。国子生を以て平遙訓導に授けらる。洪武九年星変あり、詔して直言を求む。伯巨上書し、略して曰く。

臣観るに当今の事、過ぎたる者三つあり。分封の太だ侈なるなり、用刑の太だ繁きなり、治を求むるの太だ速かなるなり。

先王の制、大都は三国の一を過ぎず、上下等差、各々定分有り。以て幹を強くし枝を弱くし、乱源を遏ぎ治本を崇ぐる所以なり。今土を裂き封を分ち、諸王をして各々分地有らしむるは、蓋し宋・元の孤立、宗室競わざるの弊を懲るなり。而して秦・晋・燕・斉・梁・楚・呉・しょく諸国、邑を連ねること数十に及ばざるは無し。城郭宮室は天子の都に亜ぎ、甲兵衛士の盛なるを以てこれを優す。臣恐らくは数世の後、尾大掉わず、然る後にその地を削りその権を奪わば、則ち必ず觖望を生ぜん。甚だしきは間に縁りて起り、これを防ぐに及ばざらんと。議者曰く、『諸王は皆天子の骨肉、分地広しと雖も、立法侈なりと雖も、豈に抗衡の理あらんや』と。臣窃かに以て然らずと為す。何ぞ漢・晋の事を観ざるや。孝景は高帝の孫なり。七国の諸王は皆景帝の同祖父兄弟子孫なり。一たびその地を削れば、則ち遽に兵を構えて西に向かう。晋の諸王は皆武帝の親子孫なり。易世の後、相い重ねて攻伐し、遂に劉・石の患いを成す。ここにこれを言えば、分封制を逾ゆれば、禍患直ちに生ず。古を援り今を証す、昭昭然たり。これ臣の以て過ぎたると為す所以なり。

昔賈誼漢の文帝を勧めて、諸国の地を尽く分ち、空しくこれを置きて以て諸王の子孫を待たしむ。向使文帝早く誼の言に従わば、則ち必ず七国の禍い無からん。願わくは諸王未だ之国せざるの先に及び、その都邑の制を節し、その衛兵を減じ、その疆理を限り、亦以て封ぜんとする諸王の子孫を待たん。この制一定すれば、然る後に諸王に賢且つ才なる者ありて輔相に入り、その余は世々藩屏と為り、国と休を同じくせん。一時の恩を割き、万世の利を制し、天変を消し社稷を安んずるは、これに先んずる莫し。

臣又観るに歴代開国の君、徳を任じて民心を結ばざるは無く、刑を任じて民心を失わざるは無し。国祚の長短、悉くこれに由る。古者の死刑を断ずるや、天子楽を撤き膳を減ず。誠に天この斯の民を生じ、これに司牧を立て、固よりその並び生くるを欲し、その即ち死せんことを欲せざるなり。不幸にして教に率わざる者これに入らば、則ち已むを得ずしてこれに刑を授くのみ。議者曰く、宋・元の中葉、専ら姑息を事とし、賞罰章無く、以て亡滅に致る。主上痛くその弊を懲る。故に宥さざるの刑を制し、神変の法を権とし、人をして懼れを知らしめてその端を測り難からしむと。臣又以て然らずと為す。開基の主は百世に範を垂る。一動一静、必ず子孫の持守すべき所有らしむ。況んや刑は民の司命、慎まざるべけんや。笞・杖・徒・流・死は今の五刑なり。この五刑を用うるに、既に仮借無く、一たび大公至正に出ずるは可なり。而して刑を用うるの際、多く聖衷より裁す。遂に治獄の吏をして務めて意旨を趨求せしむ。深刻なる者は多く功有り、平反する者は罪を得る。治獄の平を求めんと欲すれば、豈に易く得んや。近者特旨有り、雑犯死罪は死を免じて軍に充つ。又旧律諸則を刪定し、減宥差有り。然れども未だ治獄者を戒敕して務めて平恕の条に従わしむることを聞かず。ここを以て法司猶故例に循う。寛宥の名を聞くと雖も、寛宥の実を見ず。所謂実なる者は、誠に主上に在り、臣下に在らず。故に必ず罪疑わしきは惟だ軽きを惟うの意有りて、然る後に好生の徳民心に洽う。これは以て浅浅に期すべからざるなり。

どうしてその然りたることを明らかにするか。古の士たる者は、仕官に登ることを栄とし、職を罷められることを辱とした。今の士たる者は、混然として跡を埋め無聞であることを福とし、玷辱を受けても登用されぬことを幸いとし、屯田や工役を必ず受けるべき罪とし、鞭打ちや杖打ちを尋常の辱めとする。その始めは、朝廷が天下の士を取るに、網羅し捃摭して、余る逸れる者なきを務めた。有司は上道を敦迫し、重囚を捕えるが如し。京師に到るに及んで、官を除くこと多くは貌を以て選ぶ。学ぶところ或いはその用いるところに非ず、用いるところ或いはその学ぶところに非ず。官に居るに及んで、一たび差跌あれば、苟くも誅戮を免れれば、則ち必ず屯田工役の科に在り。率ねこれを常とし、少しも顧惜せず、これ豈に陛下の楽んで為すところならんや。誠に人の懼れて敢えて犯さざらんことを欲するなり。窃かに見るに、数年このかた、誅殺も亦た少なからずと謂うべし、而るに犯す者相踵ぐ。良に激勸明らかならず、善悪別つこと無きに由る。賢を議い能を議うの法既に廃れて、人自ら励まず、而して善を為す者怠るなり。ここに人あり、廉は夷・斉の如く、智は良・平の如く、少し法に戾る。上は将に長を録して短を棄てて之を用いんか。将にその長を捨てて、その短を苛めて法に置かんか。苟くもその長を取りてその短を捨つれば、則ち中庸の材は争って自ら廉智に奮い立つ。もしその短を苛めてその長を棄つれば、則ち善を為す人は皆曰わん、某は廉にしてかくの如く、某は智にしてかくの如く、朝廷少しも之を貸さず、吾が属何を以て身を容るる所あらんや、と。朝に夕を謀らず、その廉恥を棄て、或いは掊克を事として、以て屯田工役の資に備うる者は、率ね皆是なり。これに若くは、刑を用いるの煩わしき者に非ずや。

漢は嘗て大族を山陵に徙せしことあり、未だ罪人を以て之を実せしと聞かず。今鳳陽は皇陵の在る所、龍興の地にして、而して率ね罪人を以て之に居らしめ、怨嗟愁苦の声園邑に充溢す。殆ど宗廟を恭承するの意に非ざるなり。且つ強敵前に在れば、則ち精を揚げ鋭を鼓し、之を攻めて必ず克ち、之を擒えて必ず獲る、可なり。今賊は山谷に突竄し、計を以て之を求めば、庶幾く或いは得べし。顧みて重兵を労すれば、彼方驚き散じて、蹤跡すべからざるの地に入る。之を捕うること数年、既にその方無く、而るに乃ち新たに附する戸籍の細民に帰咎して、之を遷徙す。数千里の地を騒動せしめ、室家休居を得ず、鶏犬寧息を得ず。況んや新附の衆は、向者他所に流移し、朝廷その復業を許せり。今籍に附せり、而るに又た遷徙せしむ、是れ法民に信ならざるなり。夫れ戸口盛んなりて後に田野辟け、賦税増す。今守令に戸口を年増するを責むるは、正にこれが為なり。近くは已に税糧を納めたるの家、旨を承けて分ち釈して還家せしむと雖も、而其の心猶自ら安からず。已に起したる戸口は、憐恤を蒙ると雖も、而も猶開封に留められて祗候す。訛言驚動して、出ずる所を知らず。況んや太原諸郡は、外は边境に界し、民心かくの如し、甚だ辺を安んずるの計に非ざるなり。臣願わくは、今より朝廷は宜しく大體を存し、小過を赦すべし。明らかに天下に詔し、「八議」の法を修め挙げ、深刻の吏を厳禁すべし。獄を断ずるに平允なる者は之を超遷し、残酷に裒斂する者は之を罷黜すべし。鳳陽屯田の制は、見在屯に居る者は、其の耕種起科を聴すべし。已に起したる戸口、見留開封の者は、悉く放ち復業せしむべし。かくの如くすれば、則ち以て好生の徳を隆くし、国祚長久の福を樹つるに足る。而して兆民自ら安んじ、天変自ら消えん。

昔し周は文・武より成・康に至りて、教化大いに行わる。漢は高帝より文・景に至りて、始めて富庶と称せらる。蓋し天下の治乱、気化の転移、人心の趨向は、一朝一夕の故に非ざるなり。今国家紀元、茲に九年、兵を偃げ民を息し、天下大いに定まる。紀綱大いに正し、法令修明す、治まると謂うべし。而るに陛下切切として民俗の澆漓を以てし、人の懼るるを知らず、法出でて奸生じ、令下りて詐起る。故に或いは朝に信じて暮に猜る者有り、昨日進めし所、今日戮せらるる者有り。乃ち令下りて尋いで改め、已に赦して復た収むるに至る。天下の臣民之に適従する莫し。臣愚かに謂う、天下の治に趨くは、猶お堅氷の泮くが如し。氷の泮くは、太陽の能く驟かに致す所に非ず。陽気発生し、土脈微動し、然る後に以て融釋を得べし。聖人の天下を治むるも、亦た猶お是の如し。刑を以て之を威し、礼を以て之を導き、仁を以て民を漸し、義を以て民を摩し、而る後に其の化熙熙たり。孔子曰わく、「王者有らば、必ず世にして後に仁なり」と。此れ空言に非ざるなり。

治を求むるの道は、風俗を正すに先んずる莫く、風俗を正すの道は、守令の務むる所を知るに先んずる莫く、守令をして務むる所を知らしむるは、風憲の重んずる所を知るに先んずる莫く、風憲をして重んずる所を知らしむるは、朝廷の尚ぶ所を知るに先んずる莫し。古の郡守・県令は、正を以て下に率い、善を以て民を導き、化を成し俗を美にせしむ。征賦・期会・獄訟・簿書は、固より其の末なり。今の守令は戸口・銭糧・獄論を急務と為し、農桑・学校に至りては、王政の本、乃ち虚文と視て之を置く、将に何を以て斯の民を教養せん。農桑を以て言えば、方に春、州県一の白帖を下し、裏甲回りて文状を申すのみ、守令未だ嘗て種芸の次第、旱澇戒備の道を親視せず。学校を以て言えば、廩膳の諸生は、国家之を資りて以て人才を取るの地なり。今四方の師生、員を缺くこと甚だ多し。縦え員を具うるとも、守令亦た鮮しきは礼譲の実を以て其の成器を作す者有り。朝廷切切として社学に於て、屡々師生の姓名、習う所の課業を取り勘う。乃ち今社鎮城郭は、或いは但だ門牌を置き立て、遠村僻処は則ち又た徒に其の名を存するのみ、守令は過ぎず文案を具え、照刷を備うるのみ。上官分部按臨すれども、亦た但だ習い故常に循い、紙上の照刷に依り、未だ嘗て巡行点視せず。興廃の実、上下虚文と視る。小民孝弟忠信を何物とするかを知らず、而して礼義廉恥地を掃う。風紀の司は、以て朝廷に代わりて徳化を宣導し、善悪を訪察する所なり。訟を聴き獄を讞するは、其の一事のみ。今専ら獄訟を要と為す。忠臣・孝子・義夫・節婦を末節と視て挙ぐる暇あらず、所謂風化を宣導する者は安くにか在る。其の始め但だ一の贓吏を去り、一の獄訟を決するを治と為すを知りて、民を勧めて俗を成し、民をして善に遷り罪を遠ざからしむるは、乃ち治の大なる者なるを知らず。此れ守令風憲の未だ軽重を審らかにせざるの失なり。

『王制』が郷の秀士が司徒しとに昇ることを論じて「選士」といい、司徒がその秀士を論じて太学に昇ることを「俊士」といい、大楽正がまた造士の秀を論じて司馬に昇ることを「進士」といい、司馬が官材を弁論し、論定して後に官とし、任官して後に爵する。その考査の詳細このようであるから、成周は人を得ることが盛んであった。今、天下の諸生を礼部で考査し、太学に昇らせ、衆職を歴練させ、事を以て任ずれば、歴代の挙選の陋習を洗い、成周に法ることができる。しかしながら太学に昇った者が、あるいは数ヶ月も経たずに急に選ばれて官に入り、間には民社を委ねられる。臣はその人が時務に通ぜず、朝廷の礼法に熟さず、徳化を宣導できず、上は国政に背き、下は黎民を困らせることを恐れる。開国以来、秀才を選挙すること少なくなく、任じられた名位軽からず、今より数えれば、在る者は幾人か。臣は後の者が今を見ることも、また今の者が昔を見るようになることを恐れる。昔年挙げられた人々は、深く痛惜すべきではないか。凡そこれらは皆、臣が治を求めることの速すぎた過ちである。

昔、宋は天下を有することおよそ三百余年であった。その初め、礼義を以てその民を教え、その盛んな時には、閭閻里巷に皆忠厚の風があり、人の過失を言うことを恥じるに至った。末年になると、忠臣義士は死を帰するが如く視し、婦人女子は汚辱されることを恥じた。これらは皆教化の効である。元が国を有した時、その本立たず、礼義の分を犯し、廉恥の防を壊した。数十年も経たず、城を棄て敵に降る者数え切れず、老儒碩臣も甘心して屈辱した。これは礼義廉恥が振るわない弊である。遺風流俗は今に至るも革まらず、深く怪しむべきである。臣は謂う、仁義を敦くし、廉恥を尚ぶに如くはないと。守令には農桑・学校を急務とすることを責め、風憲には先ず教化をなし、法律を審らかにし、獄を平らかにし刑を緩めることを急務とすることを責める。このようにすれば、徳沢は下流し、治を求める道はほぼ得られるであろう。郡邑の諸生で太学に昇った者は、学に在って肄業させ、或いは三年、或いは五年、一経に精通し、兼ねて一芸を習わせ、その後に入選させる。或いは宿衛し、或いは事を弁じ、以て公卿大夫の能を観て、後に政を任せれば、その学識兼ねて優れ、事を敗ることはほぼ無いであろう。且つ禄位は皆天の禄位であることを知らしめ、凱覦の心を塞ぐことができる。治道既に得られれば、陛下は端拱して穆清に待ち、歳月を以てすれば、則ち陰陽調い風雨時に、諸福吉祥畢く至らざるはない。尚何ぞ天変の消えざることがあろうか。

上書が上がると、帝は大いに怒って言った、「小童が我が骨肉を離間する。速やかに捕らえて来い。我が手で射殺してやる。」既に至ると、丞相は帝の喜びに乗じて奏上し、刑部の獄に下した。獄中で死んだ。

先に、伯巨が上書しようとした時、その友に語って言った、「今、天下にただ三つの事が患うべきである。その二つは見易くて患いは遅く、その一つは見難くて患いは速い。明詔が無くとも、なお言おうとするのに、況んや言を求めている時をや。」その意は蓋し分封を謂ったのである。しかしこの時、諸王はただ藩号を建てただけで、未だ裂土しておらず、伯巨の言う通りではなかった。洪武末年になって、燕王が屡々命を奉じて塞に出て、勢い初めて強くなった。後に削奪に因って兵を称し、遂に天下を有し、人は伯巨を先見有りと云うようになった。

鄭士利、字は好義、寧海の人。兄の士元は、剛直で才学有り、進士より歴官して湖広按察使僉事となる。荊・襄の兵卒が乱に乗じて婦女を掠め、吏は敢えて問わなかったが、士元は将領に進言し、掠めた者を返還させた。安陸に冤獄有り、御史台が既に讞上したが、士元はその冤を奏し、白状を得た。会して銭穀冊書を考校し、空印の事が発覚した。凡そ主印者は死罪と論じ、佐貳以下は百回叩き、遠方に戍らせた。士元もこれに坐して獄に繋がれた。時に帝は盛んに怒り、欺罔と為し、丞相御史敢えて諫める者無し。士利は嘆いて言った、「上は知らず、空印を大罪と為す。誠に人を得て言わしめれば、上は聖明、悟らざることがあろうか。」会して星変有り、言を求む。士利は言った、「可なり。」既に詔を読む、「公を仮りて私を言う者有らば、罪す。」士利は言った、「我が言わんと欲する所は、天子が無罪の者を殺すことの為である。我が兄は主印者ではない、固より出るべきである。我が兄が杖を受けて出るのを待って言おう、即ち死すとも恨み無し。」

士元が出ると、士利は乃ち書を数千言為し、数事を言い、而して空印の事に於いて特に詳しかった。曰く、「陛下が深く空印の者を罪せんと欲するは、奸吏が空印紙を挟み、文移を為して以て民を虐げることを恐れるからである。夫れ文移は必ず完印あって乃ち可なり。今、書策を考較するは、乃ち両縫の印を合わせるのであって、一印一紙の比ではない。縦え得たとしても、また行うことができず、況んや得べからざるをや。銭穀の数は、府は必ず省に合い、省は必ず部に合い、数は懸け決し難く、部に至って乃ち定まる。省府の部に去る遠きは六七千里、近きも三四千里、冊成って後に印を用いれば、往復期年ならずしては不可である。故に先ず印して後に書く。これは権宜の務めで、由来久しく、何ぞ深く罪すべき足らん。且つ国家が立法するは、必ず先ず天下に明示して後に法を犯す者を罪する、その故犯するを以てである。自立国より今に至るまで、未だ空印の律有らず。有司相承、その罪を知らず。今一旦これを誅すれば、何を以て誅せられる者に詞無からしめん。朝廷が賢士を求め、庶位を置く、得ること甚だ難し。位郡守に至るは、皆数十年の所成就である。通達廉明の士は、草菅の如くならず、刈りて復た生えることはできない。陛下何ぞ罪すべからざる罪を以て、用いるに足る材を壊さんとするか。臣窃かに陛下の為にこれを惜しむ。」書成り、旅舎に閉じ籠もり数日泣く。兄の子が問うて言った、「叔父は何を苦しむか。」士利は言った、「我に上せんと欲する書有り、天子の怒りに触れ、必ず禍を受ける。然れども我を殺して、数百人を生かす、我何の恨みか有らん。」遂に入って奏上した。帝、書を覧て大いに怒り、丞相御史に下して雑問し、使者を究める。士利は笑って言った、「顧みて我が書の用いるに足るか否か耳。我は既に国家の為に言事し、自ら必ず死すと分かつ、誰が我が為に謀らん。」獄具わり、士元と皆江浦に輸作し、而して空印の者は竟に多く免れなかった。

方徵、字は可久、莆田の人。郷挙により給事中に授かる。嘗て後苑に侍遊し、詩句を聯ねる。太祖その母の在るを知り、白金を賜い、馳驛して帰省させる。還って監察御史に改め、出でて懐慶知府となる。徵の志節甚だ偉く、事に遇って敢えて直言す。郡に居る時、星変に因り言を求め、疏を以て言う、「風憲官は濁を激し清を揚ぐるを職とする。今、廉を旌ぎ能を抜くを聞かず、専ら人罪を羅織し、贓罰を多く徴するを務む、これ大患である。朝廷が賞罰明らかに信あれば、乃ち能く勧懲す。去年、各行省の官吏は空印を用いて重罪に罹ったが、河南参政安然・山東参政朱芾は俱に空印有り、反って布政使に遷る、何を以て勧懲を示さん。」帝、羅織及び贓罰を多く徴する者を誰ぞと問う、徵は河南僉事彭京を指して対える。沁陽驛丞に貶す。十三年、事に以て逮えられ京に至り、卒す。

周敬心、山東の人、太学生なり。洪武二十五年、詔して暦数に暁るる者を求め、敬心上疏して極諫し、且つ時政数事に及ぶ。略して曰く、

臣聞く、国祚の長短は、徳の厚薄に在りて、暦数に在らず。三代は尚し、三代以下、最も久しきは漢・唐・宋の如きはなく、最も短きは秦・隋・五代の如きはなし。其の久しきは有道を以てし、其の短きは無道を以てす。陛下は天の眷命を膺け、乱を救い暴を誅す。然れども神武威断は則ち余り有り、寛大忠厚は則ち足らず。陛下若し両漢の寛大、唐・宋の忠厚に效い、三代の有道にして長き所以を講ぜば、則ち帝王の祚は万世に伝ふ可く、何ぞ必ずしも諸の小道の人に問はんや。

臣又聞く、陛下は連年遠征し、北に出で沙漠に至り、伝国璽を得ずして恥と為す。昔、楚の平王の時、卞和の玉を琢ち、秦に至りて始めて「璽」と名づく。歴代遞嬗し、以て後唐に訖る。治乱興廃は、皆此に在らず。石敬瑭の乱に、潞王之を携へて自焚す。則ち秦の璽は固より已に毀せり。敬瑭洛に入り、更に玉を以て制す。晋亡びて遼に入り、遼亡びて桑乾河に遺る。元の世祖の時、劄剌爾なる者漁りて之を得たり。今、元人の挟む所は、石氏の璽のみ。昔、三代は璽有るを知らず、仁を以て之が璽と為す。故に曰く「聖人の大宝は位と曰ひ、何を以て位を守るか仁と曰ふ。」陛下奈何ぞ天下の大璽を忽せにし、漢・唐・宋の小璽を求むるや。

方今、力役は過煩に、賦斂は過厚なり。教化は溥くして民悦ばず、法度は厳にして民従はず。昔、汲黯、武帝に言ひて曰く「陛下は内に多欲にして外に仁義を施す、奈何ぞ唐・虞の治を效はんと欲するや」と。方今、国は則ち富まんことを願ひ、兵は則ち強からんことを願ひ、城池は則ち高深ならんことを願ひ、宮室は則ち壮麗ならんことを願ひ、土地は則ち広からんことを願ひ、人民は則ち衆からんことを願ふ。是に於て多に軍卒を取り、広く資財を籍し、征伐は休まず、営造は極まり無し。之を如何にして其れ治む可けんや。臣又見る、洪武四年に天下の官吏を録し、十三年に胡党に連坐し、十九年に官吏の積年民を害する者を逮へ、二十三年に妄言する者を罪す。官民を大戮し、臧否を分たず。其中豈に忠臣・烈士・善人・君子無からんや。茲に於て陛下の徳薄くして刑を任ずるを見る。水旱連年、夫れ豈に故無からんや。

其の言皆激切なり。報じて聞く。

王樸は、同州の人なり。洪武十八年の進士。本名は権、帝之を改む。吏科給事中に除され、直諫を以て旨に忤ひ罷む。旋ち御史を起す。時事を陳ぶること千余言。性鯁直、数帝と是非を辨じ、肯て屈せず。一日、事に遇ひて之を爭ふこと強し。帝怒り、之を戮すを命ず。市に及びて、還り召し、之を諭して曰く「汝其れ改むるか」と。樸対へて曰く「陛下臣を不肖と為さず、官を擢げて御史と為す。奈何ぞ摧辱此に至る。臣に罪無くば、安くんぞ之を戮するを得ん。罪有らば、又安くんぞ生くを用ゐん。臣今日は速やかに死なんことを願ふ」と。帝大いに怒り、趣に命じて行刑せしむ。史館を過ぎ、大呼して曰く「学士劉三吾、之を誌せ。某年月日、皇帝無罪の御史樸を殺す」と。竟に戮し死す。帝『大誥』を撰し、樸の誹謗を謂ひ、猶其の名を列す。

張衡と云ふ者有り、万安の人、樸の同年の進士。礼科給事中に授けらる。奏疏剴切なり。礼部侍郎に擢げらる。清慎を以て褒め見られ、『大誥』に載る。後亦言事を以て死に坐す。

賛して曰く、太祖は英武威断、廷臣の奏対、往々失辞す。而して錢唐・韓宜可・李仕魯の輩は、其の樸誠を抱き、力諍して堂陛の間に於てす。古の遺直と謂ふ可し。伯巨・敬心は縫掖の諸生を以て、天下の至計を言ふ。信にして後諫むの義に違へども、然れども其の本心を原れば、忠愛に由る。末季の沽名売直の流を視るに、同日に語る可からざる者有り。