○劉三吾(汪睿・朱善) 安然(王本等) 吳伯宗(鮑恂・任亨泰) 吳沈 桂彥良(李希顏・徐宗實・陳南賓・劉淳・董子莊・趙季通・楊黼・金實等) 宋訥(許存仁・張美和・聶鉉・貝瓊) 趙俶(錢宰・蕭執) 李叔正 劉崧 羅復仁(孫汝敬)
劉三吾は茶陵の人である。初めの名は如孫、字をもって行われる。兄の耕孫・燾孫はともに元に仕えた。耕孫は寧国路推官となり、長槍賊の難に死す。燾孫は常寧州学正となり、僚寇に死す。三吾は兵を避けて広西に至り、行省が制を承けて静江路儒学副提挙を授けた。明の兵が広西を下すと、乃ち茶陵に帰った。洪武十八年、茹常の推薦により召されて至る。年七十三であったが、奏対が旨に称し、左賛善を授け、累遷して翰林学士となった。時に天下初めて平らぎ、典章は闕略であった。帝は制作に鋭意し、宿儒は凋謝し、三吾を得るに遅かったが、これを悦んだ。一切の礼制及び三場の取士法は多く刊定するところとなった。
琮は刑部検校より起る。郷人の楊士奇輩貴顕すれども、琮は攀援する所無し。宣徳中猶も検討を以て助教事を掌り、官に卒す。
汪睿は字を仲魯といい、婺源の人である。元末、弟の同と衆を集めて郷邑を保ち、饒州を復するを助く。浮梁州同知を授けられるも、就かず。胡大海休寧を克つや、睿兄弟来たりて附く。星源翼分院を婺源に設け、同を以て院判とす。睿は田裏に帰る。庚子の秋、同兵を将いて鄱陽を争うも克たず、妻子を棄て、浙西に亡ぶ。幕府これを疑い、檄を以て睿を応天に入れて質とす。已にして、同が張士誠に殺されたるを聞き、乃ち睿に安慶税令を授く。未だ幾ばくもあらず、征して川蜀軍事を参賛せしむ。疾を以て辞して去る。洪武十七年、復た召見せられ、『西伯戡黎』の篇を講ぜしめ、左春坊左司直を授く。常に『薫風自南来』詩を継がしめ、及び他の応制、皆旨に称す。春夏に死罪の決を停むるを請い、天地生物の仁を体す。これに従う。年を逾えて疾発し、仮を請いて帰る。睿は敦実閑静、言笑を妄りにせず、及んで進講すれば、事に遇うて輒ち言う。帝嘗て「善人」を以てこれを呼ぶ。
先ず是れ、胡惟庸謀反して伏誅せらる。帝、歴代の丞相多く権を擅にするを以て、遂に中書省を罷め、其の職を六部に分つ。既にして又密勿論思人無きべからざるを念い、乃ち四輔官を建て、四時を以て号とし、天下に賢才を挙げしむるを詔す。戸部尚書範敏、耆儒王本・杜佑・龔斅、杜斅・趙民望・呉源等を薦む。召して至らしめ、太廟に告げ、本・佑・龔斅を以て春官と為し、杜斅・民望・源を夏官と為す。秋・冬は闕け、本等にこれを摂せしむ。位は都督の次、屡勅諭を賜い、坐論の礼を以て隆くし、政事を協賛し、四時を均調せしむるを命ず。会う立冬、朔風寒を醸す。帝、冬令に順うを以て本等の功と為し、勅を賜い嘉勉す。又月を三旬に分ち、人各これを司り、雨昜時若を以て、其の職に称するか否かを験す。刑官獄を議するに、四輔及び諫院覆核して奏行し、疑讞有れば、四輔官封駁す。
ほどなく、龔斅ら四人は相次いで致仕し、杜斅を召して代わらせた。杜本は後に事に坐して誅殺された。諸人はいずれも老儒で、田舎から起用され、惇朴で他に長ずる所はなかった。ただ杜斅のみが長く中外を歴任し、庶務に練達していたため、眷註が特に厚かった。十四年八月に卒した。帝は杜斅が帰順した誠意を思い、親しく文を製して祭った。杜斅に継いで四輔となった者は、李幹、何顯周である。李幹は出て知府となり、杜佑、何顯周はともに罷免されて去り、この官は遂に廃されて再び設けられなかった。
鮑惂は字を仲孚といい、崇徳の人である。臨川の呉澄に『易』を学んだ。古を好み力行し、『大易伝義』を著し、学者に称された。元の至正年間、推薦により温州路学正に任じられた。まもなく翰林に召されたが、就かなかった。洪武四年、初めて科挙で士を取るにあたり、同考官として召された。試験が終わると、辞して去った。十五年、吉安の余詮、高郵の張長年、登州の張紳とともに、明経老成として礼部主事劉庸に推薦され、京師に召された。惂は八十余歳、長年と詮もともに七十を超えていた。座を賜り顧問した。翌日、ともに文華殿大学士に任じることを命じられたが、皆老病を理由に固辞し、遂に放還された。張紳は後から到着し、鄠県教諭とされ、まもなく右僉都御史に召され、浙江左布政使で終わった。その翌年、耆儒として徴用された者は、全思誠といい、字は希賢、上海の人で、やはり文華殿大学士に任じられた。また翌年、老齢を理由に致仕を請い、勅を賜って致仕した。
亨泰が礼部尚書であった時、日照の民江伯児が母の病のためにその三歳の子を殺して岱嶽に祀った。有司がこれを上聞した。帝はその倫理を滅絶することを怒り、杖百に処し、海南に戍らせた。そこで亨泰に旌表孝行事例を定めさせた。亨泰が議して言うには、「人子が親に事えるには、居る時はその敬を致し、養う時はその楽を致し、疾あればその医薬を謹むべきである。臥冰や割股は、事として恒常の経ではない。割股が止まず、肝を割るに至り、肝を割ることが止まず、子を殺すに至る。道に違い生を傷つけること、これより甚だしいものはない。宗を堕し祀を絶つことは、特に不孝の大なる者であり、厳しく戒諭すべきである。もし愚昧無知であれば、その為す所に任せるも、旌表の例には含めない。」詔して「可」とした。翌年、秦王の喪礼を議し、これにより凡そ世子が爵を襲ぐ礼を定めた。時に龍州の趙宗寿を討つにあたり、御史厳震直とともに安南に使いし、辺方を謹み、逃亡者を受け入れぬよう諭させた。当時帝は安南の簒弑を理由に、その貢使を絶っていた。この時詔使の到着を聞き、震恐した。亨泰は書を作り、朝廷が兵を用いる理由を述べてこれを慰安し、交人は大いに悦んだ。使いから戻り、蛮人を私的に買って僕としたため、御史に降格された。ほどなく、思明の土官が安南と境界を争い、言葉が再び亨泰に連座し、坐して免官された。
呉沈は字を浚仲といい、蘭渓の人である。元の国子博士呉師道の子で、学行をもって知られた。太祖が婺州を下すと、沈と同郡の許元・葉瓚玉・胡翰・汪仲山・李公常・金信・徐孳・童冀・戴良・呉履・孫履・張起敬を召して省中で会食させ、日に二人をして経史を進講させた。ほどなく、沈を郡学訓導に任じた。
洪武初年、郡が儒士として推挙した際、誤ってその名を信仲と上奏し、翰林院待制に任じられた。沈は修撰王厘に言った、「名が誤って改められぬのは、欺罔である。」朝廷に白上しようとした。王厘が言うには、「恐らく上怒に触れよう。」沈は従わず、牒を上して改正を請うた。帝は喜んで言った、「誠に愨実な人である。」遂に眷遇し、左右に侍らせた。事により編修に降格した。給事中鄭相同が言うには、「故事として東宮に啓事するには、東宮官属のみが臣と称し、朝臣はそうではない。今一体に臣と称するのは、礼において安からぬ。」沈はこれを駁して言った、「東宮は国の大本である。東宮を尊ぶのは、主上を尊ぶ所以である。相同の言は正しからず。」帝はこれに従った。ほどなく奏対が旨に外れたため、翰林院典籍に降格した。ほどなく、東閣大学士に抜擢された。
桂彦良は名を徳偁といい、字をもって行われる。慈渓の人である。元の郷貢進士となり、平江路学教授となったが、罷免されて帰郷した。張士誠・方国珍が交えて辟召したが、就かなかった。洪武六年、公車に徴されて詣で、太子正字に任じられた。帝がかつて御製の詩文を出されると、彦良は御座の前で朗誦し、声は殿外に徹し、左右は驚愕したが、帝はその朴直を嘉された。時に国子生蒋学らを選んで給事中とし、挙人張唯らを編修とし、文華堂で肄業させた。彦良と宋濂・孔克表をしてその師とさせた。帝がかつて従容として諮問すると、彦良の対は必ず正をもってした。帝は毎度善しと称し、その言葉を書いて便殿に掲げた。七年冬至、詞臣が南郊の祝文を撰するに「予」「我」の字を用いた。帝は不敬とされた。彦良が言うには、「成湯が上帝を祭りて『予小子履』と言い、武王が文王を祀る詩に『我將我享』と言う。古にこの言あり。」帝の色が和らいで言った、「正字の言う通りである。」時に御史台が獄案を具し、詞臣に覆讞させた。彦良が論じて釈放した者は数十人に及んだ。
明初、特に師傅を重んず。既に宋濂をして太子を教えしむるも、諸王の傅も亦その選を慎む。彦良と陳南賓等は皆宿儒老生にして、李希顔と駙馬都尉胡観の傅徐宗実は、特に厳をもって憚らしめらる。
李希顔、字は愚庵、郟の人。隠居して仕えず。太祖手書を以てこれを徴し、京に至り、諸王の師となる。規範厳峻にして、諸王に教えに率わざる者あれば、或いはその額を撃つ。帝撫でて怒る。高皇后曰く、「聖人の道を以て吾が子を訓うるに、顧みてこれを怒るものあらんや。」と。太祖意解け、左春坊右賛善を授く。諸王藩に就くに及び、希顔旧隠に帰る。閭裏宴集するに、常に緋袍を著し笠を戴きて往く。客故を問う。笑いて曰く、「笠は本質、緋は君の賜う所なり。」と。
徐宗実、名は垕、字をもって行わる。黄巖の人。少にして穎悟。学に篤し。洪武中、薦挙され、銅陵主簿に除せらる。告を請いて迎養せんとし、帝の意に忤い、淮陰駅に謫戍せらる。時に東川侯胡海の子観、主を尚ぶるに選ばれ、帝観が為に師を択ぶも、その人を得難く、以て宗実を命ず。中使他の府の例に引き、駙馬の位を中堂南向に置き、師の席を西階上東向に布く。宗実手ずから駙馬の位を引きて下らしめ、然る後に書を説く。左右大いに驚き、目を以て相顧みる。帝聞きてこれを嘉し、宗実を召し慰労すること数四。
劉淳、南陽の人。洪武末原武訓導と為る。周王聘いて世子の師と為す。尋いで朝に言い、右長史を補し、正を以て王を輔く。端礼門の槐盛夏にして枯る。淳咎徴を陳べて戒めを進む。王その言を用い修省す。枯枝復た栄ゆ。王その槐を旌して「攄忠」と曰う。致仕すること十余年にして卒す。年九十有七。
董子荘、名は琰、字をもって行わる。江西楽安の人。学行あり。洪武中、学官より遷り茂名県知県と為る。永楽時、国子司業より出でて趙王府右長史と為り、事に随い匡正す。王過ち多し。帝輒ち長史を以て責む。子荘よく諫むるを以て、過ち無きを得る。十八年春、当に国社に陪祀すべく、夙に起き、衣冠端坐して卒す。
趙季通、字は師道、天臺の人。亦教官より歴任し永豊・龍溪の知県と為り、『太祖実録』の修纂に与り、累進して司業と為る。出でて趙王府左長史と為り、子荘と心を同じくして輔導す。藩府の賢僚、首に趙・董を称すという。
楊黼、吉水の人。御史に官す。仁宗即位し、疏を上り十事を言う。擢て衛王府右長史と為る。心を尽くして献替し、嘗て苟も一銭を取らず。宣徳初、卒す。
金実、開化の人。永楽初、上書して治道を言う。帝これを嘉す。復た策に対し、旨に称し、翰林典籍に除せらる。『太祖実録』・『永楽大典』の修纂に与り、選ばれて東宮講官と為る。左春坊左司直を歴任す。仁宗立ち、衛府左長史に除せらる。正統初、卒す。人となり孝友、行誼を敦くす。経史を閲し、日に程限あり、老いに至るも輟めず。
蕭用道、泰和の人。建文中、才徳を抱くを挙げられ、闕に詣で文章を試みらる。擢て靖江王府長史と為り、召されて翰林に入り、『類要』を修す。燕師淮を渡るに及び、周是修とともに上書し、用事者を指斥す。永楽時、『太祖実録』の修纂に預かり、右長史に改め、王に従い藩国桂林に之く。嘗て王の為に八事を陳ぶ。曰く、起居を慎み、嗜欲を寡くし、学問に勤め、徳性を養い、鞭撲の刑を簡にし、下人の利を侵すこと無く、常に府僚に接して群情を通じ、謹厚の人を簡択して差遣に備う、と。又『端礼』・『体仁』・『遵義』・『広智』の四門の箴を作りて王に献ず。久しくして疾を以て帰ることを乞う。成祖怒り、宣府鷂児嶺巡検に貶し、卒す。子亙、進士より官し湖広左布政使と為る。天順四年、治行卓異を挙げられ、礼部尚書に拝せらる。初め、両京尚書欠くれば、多く布政使を以てこれに為す。亙の後より、遂に尚書に拝せらるる者無し。亙重厚廉静なるも、奏対を善くせず。南京に調せられ、卒す。
宋子環、廬陵の人。庶吉士より歴任し考功郎中と為る。師逵に従い湖広に木を採り、寛厚を以て衆心を得る。仁宗即位し、梁府右長史を授けられ、越府に改む。和易淡泊にして、至る所賢声あり。宣徳中、官に卒す。ここより以後、王府の官は清流と為らず、遂に紀すに足る者無し。
訥はかつて詔に応じて辺境の事を上奏し、言った。「海内は平穏であるが、ただ沙漠だけがなお聖慮を煩わせている。もし窮追遠撃すれば、労費を免れない。陛下が聖子神孫のために計られるならば、辺備を謹むに過ぎない。辺備を充実させるには実兵にあり、実兵を充実させるには屯田にある。漢の趙充国が四万騎を率い、辺境の九郡に分屯し、単于を退却させた。陛下は諸将の中から謀略と勇気ある者数人を選び、東西五百里を制とし、法を立てて分屯し、要害に配置し、遠近相応じさせるべきである。敵に遇えば戦い、寇が去れば耕す。これが長策である」。帝はその言をかなり採用した。訥が死去すると、帝は彼を偲んだ。次子の復祖を司業に任じ、諸生に訥の学規を守るよう戒め、違反者は死罪に至るまで罪した。
明の開国時から師儒の官を重んじた。許存仁・魏観が祭酒となり、老成で端正謹厳であった。訥はやや後進であったが、最も遇された。訥とともに学規を定めたのは、司業の王嘉会・龔斅である。三人は皆高齢で、鬚髪は皓白、終日危坐し、堂上は厳粛であった。また張美和・聶鉉・貝瓊らは皆名儒であり、洪武年間に、先後して博士・助教・学録となり、このため諸生は多く成果を上げた。魏観の事績は別に記載する。
嘉会は、字を原礼といい、嘉興の人である。推薦により徴用され、累官して国子監司業となった。十六年、やはり老齢を理由に帰郷を請うたが、優詔で留め置かれた。八十歳で死去し、賻恤は甚だ厚かった。
聶鉉は、字を器之といい、美和の同郷人である。洪武四年の進士。広宗丞となり、旱害の税を免除するよう上疏した。任期満了で入朝し、『南都賦』及び『洪武聖徳詩』を献上した。翰林院待制に任ぜられ、国子助教に改め、典籍に転じた。美和とともに賜帰された。十八年、再び召されて会試を主管し、留用しようとしたが、養生に適した地を乞うた。廬陵教諭の俸給を支給するよう命じ、その身の終わりまで続いた。
貝瓊は、字を廷琚といい、崇徳の人である。性格は率直で、志篤く学を好み、四十八歳にして初めて郷試に合格した。張士誠がたびたび招聘したが応じなかった。洪武初年、招聘されて『元史』を修した。完成すると、賜物を受けて帰った。六年、儒士として挙げられ、国子助教に任ぜられた。瓊はかつて古楽が行われないことを慨き、『大韶賦』を作って志を表した。宋濂が司業であった時、四学を設立し、舜・禹・湯・文を併せて先聖として祀るよう建議した。太祖はその説を退けたが、瓊はさらに『釈奠解』を作ってこれを駁し、識者は多く瓊の議論を是とした。美和・鉉と名声を等しくし、当時「成均三助」と称された。九年、中都国子監に転任し、勲臣の子弟を教えた。瓊の学問と品行は平素より優れており、将校や武臣も皆礼を重んじた。十一年に致仕し、死去した。
趙俶は、字を本初といい、山陰の人である。元の進士。洪武六年、徴用されて国子博士に任ぜられた。帝がかつて奉天殿に臨み、俶と銭宰・貝瓊らを召して言った。「汝らは一に孔子の定めた経書をもって教えよ。蘇秦・張儀の縦横の言を雑ぜることは慎しむべし」。諸臣は頓首して命を受けた。俶はついでに正定の『十三経』を天下に頒布し、『戦国策』及び陰陽讖卜の諸書を退け、学宮に列べぬよう請うた。翌年、諸生の中から穎異なる者三十五人を選び、俶に専らこれを統率させ、古文を教えさせた。まもなく李拡・黄義らを文華・武英の二堂の説書に抜擢し、皆用いられた。九年、御史台が言上した。「博士の俶は『詩経』をもって成均で四年間教え、その弟子は多くが地方の重臣や各部に節を持する者となっています。今年は懸車の齢を過ぎております。骸骨を賜わりますよう」。そこで翰林院待制として致仕させ、内帑の銭を賜って装いを整えさせた。宋濂が同官および諸生千余人を率いて見送った。八十一歳で死去した。子の圭玉は、兵部侍郎となり、萊州知州として出向し、名声があった。
また蕭執という者は、字を子所といい、泰和の人である。洪武四年に郷挙され、國子學錄となった。翌年の夏至、帝が北郊で祭祀を行うに際し、尚書吳琳・主事宋濂に命じて文學士を率いて従わせた。蕭執は陶凱等十二人とともに齋所に入って謁見した。詩を賦させ、さらに山梔花を賦させた。蕭執の作ったものだけを喜び、諸臣に示し、寵眷は一時に傾いた。時に帝は文學に留意し、しばしば廷臣を親試し、蕭執と陳觀は特に知遇を得た。
陳觀は訓導として入朝し、『王猛捫蝨論』を試され、ただちに陜西參政に抜擢された。まもなく召還されて側近に侍った。応制して『鐘山賦』を作り、金幣を賜った。陜西において廉潔謹直で知られた。ある者が陜西の金の産状を尋ねた。陳觀は大いに驚いて言った、「私は藩僚の職にあるが、どうして金のことを尋ねるのか」。その死に際し、妻子はほとんど自活できなかった。一方、蕭執は親が年老いていることを理由に帰郷を乞い、親が没すると墓の側に廬を結んだ。申國公鄧鎮が龍泉の賊を討伐したが、部下を統制しなかった。蕭執が行ってこれを責めると、鄧鎮は禁止し、邑人は安堵した。二人はいずれも篤行の君子であった。
李叔正は字を克正といい、初名は宗頤、靖安の人である。十二歳で詩を作ることができ、成長するにつれてますます博識となった。当時江西に十才子があり、叔正はその一人であった。推薦により國子學正に任じられた。洪武初年、帰郷を願い出た。まもなく、再び推薦されて學正となり、渭南丞に転じた。同州蒲城の人が地界を争い、累年決着しなかった。行省が叔正に委ねると、単騎で赴き、数語を述べてただちに決した。渭南は毎年二万の糧を輸送したが、豪右と狡猾な吏が結託し、田に定額がなく、叔正は畝を踏査して丈量した。法を立てて精密にし、諸弊をことごとく除去した。興化知県に転じた。まもなく召されて禮部員外郎となった。年老いていることを理由に帰郷を乞うたが、許されず、國子助教に改めた。こうして叔正は三度太学に至ったのである。帝はちょうど文治に鋭意であり、國学の人材を特に重視した。しかし諸生は多く貴胄で、教えに従わなかった。叔正は厳しく規条を立て、朝夕端坐し、督課に倦む色がなかった。朝廷の論議は彼を賢人とした。監察御史に抜擢され、命を受けて嶺表を巡行した。瓊州府の吏がその太守が公座に踞って表文に署名したと告発したが、叔正がこれを審問し、太守は無実が明らかになり、吏は罪に処せられた。太祖はこれを賞賛して言った、「人は老御史は懦弱だと言うが、かくも明断であるとは」。累進して禮部侍郎となった。十四年、尚書に進み、任中で没した。叔正の妻夏氏は、陳友諒が南昌を陥落させた時、井戸に投身して死んだ。叔正はその義を感じ、終身再婚しなかった。
劉崧は幼少より博学で、天性廉潔で慎重であった。兄弟三人が一つの茅屋に共に住み、五十畝の田があった。貴顕になっても、何も増やさなかった。十年に一枚の布団を使い、鼠に傷つけられて初めて取り替え、なおも繕って子に着せた。官に在って家累を従えたことはなかった。北平に赴任する時、一人の童を連れて行ったが、到着すると帰した。夕方に役人が退くと、孤燈で読書し、しばしば夜明けまで及んだ。詩をよくし、豫章の人々は彼を宗として『西江派』と称した。
羅復仁は吉水の人である。若くして学問を好み、陳友諒に召されて編修となった。やがて、彼の成し遂げられないことを知り、遁走した。九江で太祖に謁見し、側近に留め置かれた。鄱陽の戦いに従い、蠟書を携えて江西の未だ降伏していない諸郡を諭し降伏させ、中書諮議に任じられた。武昌包囲に従い、太祖が陳理を招いて降伏させようとした時、羅復仁がかつて友諒の臣であったので、城に入って諭させ、かつ言った、「理が来れば、富貴を失わない」。復仁は頓首して言った、「もし陳氏の遺児が首領を保つことができ、臣が他日に食言しないで済むならば、臣は死んでも遺憾ありません」。太祖は言った、「汝は行け、私は汝を誤らせない」。復仁は城下に至り、一日中号慟し、陳理は縄で彼を引き上げて入城させた。陳理に会って大哭し、太祖の意を述べ、かつ言った、「大兵の向かうところは皆摧かれ、降伏しなければ屠殺されるであろう、城中の民に何の罪があろうか」。陳理はその言葉を聞き、ついに官属を率いて出降した。
尋いで工部右侍郎に擢げられ、両たび安南に使した。時に黎利はその主陳皓の既に死せりと言い、而して筵を張り女楽を設けた。汝敬はこれを叱し、利は懼れて謝した。還りて両浙の漕運を督し、陜西の屯田を理し、建置すること多し。饋を受けたるに坐し、事官に充てられた。英宗立ち、赦に遇う。汝敬は誤って詔を引き復職し、復た逮系された。陜に在り措置の労あるを以て、死を宥して辺に戍せしめられた。尋いで復職し、故任に蒞る。塞上に警あり、汝敬は往きて餉を督す。敵に紅城子に遇い、流矢に中り、馬より墜ちて免るるを得た。疾を以て告げ帰り、卒す。
賛して曰く、明は国を建つる始め、首に人材を以て務めと為す。四方を征辟し、宿儒群集して闕下に至り、その長ずる所に随ってこれを用う。礼を議し制を定むる外より、或いは法従に参列し、或いは直に承明に預かり、而して成均胄子の任は尤も多く職に称し、彬彬乎として人を得たりと称す。夫れ諸臣は元の季世に当たり、経を窮め学を績み、株守して草野にあり、幾くんか没歯して聞こえ無きに及ぶ。泰運初めて平らぐに及んで、連茹利見し、乃ち各蘊する所を展べ、以て鴻猷を潤色し、文治を黼黻す。昔人は天下才無きを患えず、惟だ上の網羅如何なるかを視るのみと謂えり、顧みて信ぜざらんや。