明史

列傳第二十五 劉三吾 安然 吳伯宗 吳沈 桂彥良 宋訥 趙俶 李叔正 劉崧 羅復仁

○劉三吾(汪睿・朱善) 安然(王本等) 吳伯宗(鮑恂・任亨泰) 吳沈 桂彥良(李希顏・徐宗實・陳南賓・劉淳・董子莊・趙季通・楊黼・金實等) 宋訥(許存仁・張美和・聶鉉・貝瓊) 趙俶(錢宰・蕭執) 李叔正 劉崧 羅復仁(孫汝敬)

劉三吾は茶陵の人である。初めの名は如孫、字をもって行われる。兄の耕孫・燾孫はともに元に仕えた。耕孫は寧国路推官となり、長槍賊の難に死す。燾孫は常寧州学正となり、僚寇に死す。三吾は兵を避けて広西に至り、行省が制を承けて静江路儒学副提挙を授けた。明の兵が広西を下すと、乃ち茶陵に帰った。洪武十八年、茹常の推薦により召されて至る。年七十三であったが、奏対が旨に称し、左賛善を授け、累遷して翰林学士となった。時に天下初めて平らぎ、典章は闕略であった。帝は制作に鋭意し、宿儒は凋謝し、三吾を得るに遅かったが、これを悦んだ。一切の礼制及び三場の取士法は多く刊定するところとなった。

三吾は博学で、文を属するに善かった。帝が『大誥』及び『洪範註』を作り成すと、皆序を命じられた。『省躬録』・『書伝会選』・『寰宇通志』・『礼制集要』諸書を勅修するに当たり、皆その事を総べ、賜賚甚だ厚かった。帝嘗て曰く、「朕奎壁の間に嘗て黒気有りと観る。今消えたり。文運其れ興らんか。卿等宜しく述作有るべく、以て朕の意に称えよ」と。帝は詩を作り、時に属して和することを令した。嘗て朝鮮の玳瑁筆を以て賜う。朝参には、侍衛の前に列することを命じ、燕享には、殿中に坐することを賜うた。汪睿・朱善と「三老」と称された。既にして三吾の年日益に老い、才力日益に減じ、往々として意に忤い、礼遇も亦漸く軽んぜられた。二十三年、晋世子の経を授け、吏部侍郎侯庸その職を怠るを劾す。国子博士に降し、尋いで職に還る。

三吾は人となり慷慨、城府を設けず、自ら「坦坦翁」と号す。大節に臨むに至っては、屹乎として奪うべからざりき。懿文太子薨じ、帝東閣門に御し、群臣を召して対し、慟哭す。三吾進みて曰く、「皇孫世嫡として統を承くるは、礼なり」と。太孫の立つはこれに由る。戸部尚書趙勉は、三吾の婿なり。贓に坐して死す。三吾は引退す。これを許す。未だ幾ばくもあらず、復た学士となる。三十年、紀善白信蹈等と偕に会試を主考す。榜発す、泰和の宋琮第一、北士預かる者無し。ここにおいて諸生、三吾等は南人にして、その郷を私すと言う。帝怒り、侍講張信等に覆閲を命じ、旨に称せず。或いは言う、信等は故に陋巻を以て呈し、三吾等実にこれを属すと。帝益々怒り、信蹈等は死を論ぜられ、三吾は老を以て辺に戍し、琮も亦戍に遣わされる。帝親しく策問を賜い、更に六十一人を擢げ、皆北士なり。時にこれを「南北榜」と謂い、又「春夏榜」と曰うという。建文初め、三吾召し還され、久しくして卒す。

琮は刑部検校より起る。郷人の楊士奇輩貴顕すれども、琮は攀援する所無し。宣徳中猶も検討を以て助教事を掌り、官に卒す。

汪睿は字を仲魯といい、婺源の人である。元末、弟の同と衆を集めて郷邑を保ち、饒州を復するを助く。浮梁州同知を授けられるも、就かず。胡大海休寧を克つや、睿兄弟来たりて附く。星源翼分院を婺源に設け、同を以て院判とす。睿は田裏に帰る。庚子の秋、同兵を将いて鄱陽を争うも克たず、妻子を棄て、浙西に亡ぶ。幕府これを疑い、檄を以て睿を応天に入れて質とす。已にして、同が張士誠に殺されたるを聞き、乃ち睿に安慶税令を授く。未だ幾ばくもあらず、征して川しょく軍事を参賛せしむ。疾を以て辞して去る。洪武十七年、復た召見せられ、『西伯戡黎』の篇を講ぜしめ、左春坊左司直を授く。常に『薫風自南来』詩を継がしめ、及び他の応制、皆旨に称す。春夏に死罪の決を停むるを請い、天地生物の仁を体す。これに従う。年を逾えて疾発し、仮を請いて帰る。睿は敦実閑静、言笑を妄りにせず、及んで進講すれば、事に遇うて輒ち言う。帝嘗て「善人」を以てこれを呼ぶ。

朱善は字を備萬といい、豊城の人である。九歳にして経史の大義を通じ、文を属する能くす。元末兵乱、山中に隠れ、継母に事えて孝を以て聞こゆ。洪武初め、南昌教授となる。八年、廷対第一、修撰を授かる。年を逾えて、奏対旨を失い、典籍に改め、還して郷に放つ。復た召して翰林待詔とす。上疏して婚姻律を論じて曰く、「民間の姑舅及び両姨の子女は、法婚を為すを得ず。仇家詆訟し、或いは已に聘して見絶たれ、或いは既に婚して復た離れ、甚だしきは児女行を成すも、有司逼奪す。旧律を按ずるに、尊長卑幼相与に婚を為す者有るを禁ず。蓋し母の姉妹は、己の身と、是れ姑舅両姨たるを謂い、卑幼を以て尊属に匹するべからざるなり。若し姑舅両姨の子女は、尊卑の嫌無し。成周の時、王朝相与に婚を為す者は、斉・宋・陳・杞に過ぎず。故に異姓の大国を「伯舅」と称し、小国を「叔舅」と称す。列国斉・宋・魯・秦・晋も亦各自甥舅の国を為す。後世、晋の王・謝、唐の崔・盧、潘・楊の睦、朱・陳の好は、皆世々婚媾を為す。温嶠は舅の子を以て姑の女を娶り、呂滎公夫人張氏は即ち其の母申国夫人の姉の女なり。古人此の如き甚だ多し。願わくは群臣を下して議せしめ、其の禁を弛めよ」と。帝これを許す。十八年、文淵閣大学士に擢ぐ。嘗て『家人卦』・『心箴』を講じ、帝大いに悦ぶ。未だ幾ばくもあらず、告を請いて帰る。卒年七十二。著す所に『詩経解頤』・『史輯』世に伝わる。正徳中、文恪と謚す。

安然は祥符の人、潁州に徙居す。元季、左丞として萊州を守る。明の兵山東を下すや、衆を率いて帰附す。累官して山東参政となる。流移を撫綏し、俸余悉く公用に給す。帝聞きてこれを嘉す。洪武二年、召して工部尚書と為し、出でて河南参政となり、歴て浙江布政使、入りて御史台右大夫と為す。十三年、左中丞に改め、事に坐して免ぜらる。未だ幾ばくもあらず、召して四輔官と為す。

先ず是れ、胡惟庸謀反して伏誅せらる。帝、歴代の丞相多く権を擅にするを以て、遂に中書省を罷め、其の職を六部に分つ。既にして又密勿論思人無きべからざるを念い、乃ち四輔官を建て、四時を以て号とし、天下に賢才を挙げしむるを詔す。戸部尚書範敏、耆儒王本・杜佑・龔斅、杜斅・趙民望・呉源等を薦む。召して至らしめ、太廟に告げ、本・佑・龔斅を以て春官と為し、杜斅・民望・源を夏官と為す。秋・冬は闕け、本等にこれを摂せしむ。位は都督ととくの次、屡勅諭を賜い、坐論の礼を以て隆くし、政事を協賛し、四時を均調せしむるを命ず。会う立冬、朔風寒を醸す。帝、冬令に順うを以て本等の功と為し、勅を賜い嘉勉す。又月を三旬に分ち、人各これを司り、雨昜時若を以て、其の職に称するか否かを験す。刑官獄を議するに、四輔及び諫院覆核して奏行し、疑讞有れば、四輔官封駁す。

ほどなく、龔斅ら四人は相次いで致仕し、杜斅を召して代わらせた。杜本は後に事に坐して誅殺された。諸人はいずれも老儒で、田舎から起用され、惇朴で他に長ずる所はなかった。ただ杜斅のみが長く中外を歴任し、庶務に練達していたため、眷註が特に厚かった。十四年八月に卒した。帝は杜斅が帰順した誠意を思い、親しく文を製して祭った。杜斅に継いで四輔となった者は、李幹、何顯周である。李幹は出て知府となり、杜佑、何顯周はともに罷免されて去り、この官は遂に廃されて再び設けられなかった。

杜本は、その籍貫・郷里は詳らかでない。杜佑は安邑の人である。三度本布政司の郷試を主考し、人材を得たと称された。龔斅は鉛山の人である。行誼をもって郷里で重んじられた。致仕後、再び起用されて国子司業となり、祭酒を歴任した。諸生に仮を放つにあたり上奏しなかったことに坐し、免官された。杜斅は字を通道といい、壺関の人である。元の郷試第一に挙げられ、台州学正を歴任した。帰郷して教授した。『易』『詩』『書』の三経に通じた。趙民望は槁城の人である。李幹は絳州の人である。何顯周は内黄の人である。

呉伯宗は名を祐といい、字をもって行われる。金谿の人である。洪武四年、廷試第一となった。科挙開設の初めであり、帝は親しく策問を製した。伯宗を得て大いに喜び、冠帯袍笏を賜い、礼部員外郎に任じ、『大明日暦』の編修に参与させた。胡惟庸が権力を握り、人に己に附かせようとしたが、伯宗は屈しなかった。惟庸はこれを恨み、事に坐して鳳陽に謫居させた。上書して時政を論じ、惟庸が専恣で不法であり、独任すべきでなく、久しければ必ず国の患いとなると言った。言葉は甚だ愷切であった。帝は奏を得て召還し、衣鈔を賜った。安南に奉使し、旨にかなった。国子助教に任じ、東宮に進講することを命じられた。まず正心誠意の説を陳べた。翰林典籍に改めた。帝は十題を製して賦を作るよう命じると、筆を援いて立ちどころに成し、詞旨は雅潔であった。織金錦衣を賜った。太常司丞に任じられたが、辞した。国子司業に改めたが、また辞した。旨に逆らい、金県教諭に貶された。未だ到着せず、詔により翰林検討として還された。十五年、武英殿大学士に進んだ。翌年冬、弟の仲実が三河知県として薦挙が実情に合わなかったことに坐し、言葉が伯宗に連座し、検討に降格された。伯宗は人となり温厚であったが、内に剛直で、苟も迎合せず、故に屡々躓いた。一年余りして、官にて卒した。伯宗が進士となった時の試験官は、宋濂と鮑惂であった。

鮑惂は字を仲孚といい、崇徳の人である。臨川の呉澄に『易』を学んだ。古を好み力行し、『大易伝義』を著し、学者に称された。元の至正年間、推薦により温州路学正に任じられた。まもなく翰林に召されたが、就かなかった。洪武四年、初めて科挙で士を取るにあたり、同考官として召された。試験が終わると、辞して去った。十五年、吉安の余詮、高郵の張長年、登州の張紳とともに、明経老成として礼部主事劉庸に推薦され、京師に召された。惂は八十余歳、長年と詮もともに七十を超えていた。座を賜り顧問した。翌日、ともに文華殿大学士に任じることを命じられたが、皆老病を理由に固辞し、遂に放還された。張紳は後から到着し、鄠県教諭とされ、まもなく右僉都御史に召され、浙江左布政使で終わった。その翌年、耆儒として徴用された者は、全思誠といい、字は希賢、上海の人で、やはり文華殿大学士に任じられた。また翌年、老齢を理由に致仕を請い、勅を賜って致仕した。

伯宗が安南に使した時は、名徳をもって交人に重んじられた。その後、襄陽の任亨泰も洪武二十一年の進士第一に挙げられ、礼部尚書として安南に使し、交人は栄誉とした。前後安南に使した者を、併せて呉・任と称した。

亨泰が礼部尚書であった時、日照の民江伯児が母の病のためにその三歳の子を殺して岱嶽に祀った。有司がこれを上聞した。帝はその倫理を滅絶することを怒り、杖百に処し、海南に戍らせた。そこで亨泰に旌表孝行事例を定めさせた。亨泰が議して言うには、「人子が親に事えるには、居る時はその敬を致し、養う時はその楽を致し、疾あればその医薬を謹むべきである。臥冰や割股は、事として恒常の経ではない。割股が止まず、肝を割るに至り、肝を割ることが止まず、子を殺すに至る。道に違い生を傷つけること、これより甚だしいものはない。宗を堕し祀を絶つことは、特に不孝の大なる者であり、厳しく戒諭すべきである。もし愚昧無知であれば、その為す所に任せるも、旌表の例には含めない。」詔して「可」とした。翌年、秦王の喪礼を議し、これにより凡そ世子が爵を襲ぐ礼を定めた。時に龍州の趙宗寿を討つにあたり、御史厳震直とともに安南に使いし、辺方を謹み、逃亡者を受け入れぬよう諭させた。当時帝は安南のさんしいを理由に、その貢使を絶っていた。この時詔使の到着を聞き、震恐した。亨泰は書を作り、朝廷が兵を用いる理由を述べてこれを慰安し、交人は大いに悦んだ。使いから戻り、蛮人を私的に買って僕としたため、御史に降格された。ほどなく、思明の土官が安南と境界を争い、言葉が再び亨泰に連座し、坐して免官された。

呉沈は字を浚仲といい、蘭渓の人である。元の国子博士呉師道の子で、学行をもって知られた。太祖が婺州を下すと、沈と同郡の許元・葉瓚玉・胡翰・汪仲山・李公常・金信・徐孳・童冀・戴良・呉履・孫履・張起敬を召して省中で会食させ、日に二人をして経史を進講させた。ほどなく、沈を郡学訓導に任じた。

洪武初年、郡が儒士として推挙した際、誤ってその名を信仲と上奏し、翰林院待制に任じられた。沈は修撰王厘に言った、「名が誤って改められぬのは、欺罔である。」朝廷に白上しようとした。王厘が言うには、「恐らく上怒に触れよう。」沈は従わず、牒を上して改正を請うた。帝は喜んで言った、「誠に愨実な人である。」遂に眷遇し、左右に侍らせた。事により編修に降格した。給事中鄭相同が言うには、「故事として東宮に啓事するには、東宮官属のみが臣と称し、朝臣はそうではない。今一体に臣と称するのは、礼において安からぬ。」沈はこれを駁して言った、「東宮は国の大本である。東宮を尊ぶのは、主上を尊ぶ所以である。相同の言は正しからず。」帝はこれに従った。ほどなく奏対が旨に外れたため、翰林院典籍に降格した。ほどなく、東閣大学士に抜擢された。

桂彦良は名を徳偁といい、字をもって行われる。慈渓の人である。元の郷貢進士となり、平江路学教授となったが、罷免されて帰郷した。張士誠・方国珍が交えて辟召したが、就かなかった。洪武六年、公車に徴されて詣で、太子正字に任じられた。帝がかつて御製の詩文を出されると、彦良は御座の前で朗誦し、声は殿外に徹し、左右は驚愕したが、帝はその朴直を嘉された。時に国子生蒋学らを選んで給事中とし、挙人張唯らを編修とし、文華堂で肄業させた。彦良と宋濂・孔克表をしてその師とさせた。帝がかつて従容として諮問すると、彦良の対は必ず正をもってした。帝は毎度善しと称し、その言葉を書いて便殿に掲げた。七年冬至、詞臣が南郊の祝文を撰するに「予」「我」の字を用いた。帝は不敬とされた。彦良が言うには、「成湯が上帝を祭りて『予小子履』と言い、武王が文王を祀る詩に『我將我享』と言う。古にこの言あり。」帝の色が和らいで言った、「正字の言う通りである。」時に御史台が獄案を具し、詞臣に覆讞させた。彦良が論じて釈放した者は数十人に及んだ。

晋王府右傅に転じた。帝自ら文を撰んでこれを賜う。彦良入朝して謝す。帝曰く、「江南の大儒は、卿ただ一人のみ。」と。対えて曰く、「臣は宋濂・劉基に及ばず。」と。帝曰く、「濂は文人のみ。基は峻隘にして、卿に及ばず。」と。彦良晋に至り、『格心図』を制して王に献ず。後に王府の官制を改め、左長史に改む。京師に朝し、太平十二策を上る。帝曰く、「彦良の陳ぶる所は、事体を通達し、治道に裨益あり。世に儒者は古に泥んで今に通ぜずと謂う。彦良の如きは、通儒と謂うべし。」と。十八年、告を請いて帰り、二年を越えて卒す。

明初、特に師傅を重んず。既に宋濂をして太子を教えしむるも、諸王の傅も亦その選を慎む。彦良と陳南賓等は皆宿儒老生にして、李希顔と駙馬都尉胡観の傅徐宗実は、特に厳をもって憚らしめらる。

李希顔、字は愚庵、郟の人。隠居して仕えず。太祖手書を以てこれを徴し、京に至り、諸王の師となる。規範厳峻にして、諸王に教えに率わざる者あれば、或いはその額を撃つ。帝撫でて怒る。高皇后曰く、「聖人の道を以て吾が子を訓うるに、顧みてこれを怒るものあらんや。」と。太祖意解け、左春坊右賛善を授く。諸王藩に就くに及び、希顔旧隠に帰る。閭裏宴集するに、常に緋袍を著し笠を戴きて往く。客故を問う。笑いて曰く、「笠は本質、緋は君の賜う所なり。」と。

徐宗実、名は垕、字をもって行わる。黄巖の人。少にして穎悟。学に篤し。洪武中、薦挙され、銅陵主簿に除せらる。告を請いて迎養せんとし、帝の意に忤い、淮陰駅に謫戍せらる。時に東川侯胡海の子観、主を尚ぶるに選ばれ、帝観が為に師を択ぶも、その人を得難く、以て宗実を命ず。中使他の府の例に引き、駙馬の位を中堂南向に置き、師の席を西階上東向に布く。宗実手ずから駙馬の位を引きて下らしめ、然る後に書を説く。左右大いに驚き、目を以て相顧みる。帝聞きてこれを嘉し、宗実を召し慰労すること数四。

洪武末、蘇州通判を授かる。官粟二十万石を発して饑民を活かすことを奏す。春水暴漲し、堤を齧む。修築を倡議し、呉人皆以って便と為す。元の節婦王氏を旌表することを請う。礼部前朝の事を以て、当に允すべからずとす。宗実言う、「武王比幹の墓を封ず、独り前朝の事に非ずや。」と。遂に旌表を得る。建文二年、超擢して兵部右侍郎と為る。事に坐して官を貶せらる。尋いで職を復す。燕の事急なり。両浙に使いし義勇を招く。成祖即位し、疏を上りて帰ることを乞う。二年を逾え、事を以て逮われ、道中に卒す。

陳南賓、名は光裕、字をもって行わる。茶陵の人。元末全州学正と為る。洪武三年、聘われて都に至り、無棣県丞に除せらる。膠州同知を歴任し、至る所経術を以て治む。召されて国子助教と為る。嘗て入見し、『洪範』九疇を講ず。帝大いに喜び、姓名を殿柱に書す。後に『洪範』に御註するに、多くその説を採る。擢て蜀府長史と為る。蜀献王好学にして、敬礼特に至り、安車を造りて賜い、第を構え、「安老堂」と名づく。二十九年、方孝孺とともに四川考試官と為る。詩文清勁にして法あり。卒年八十。その後諸王府の長史劉淳・董子荘・趙季通・楊黼・金実・蕭用道・宋子環の属、皆名あり。

劉淳、南陽の人。洪武末原武訓導と為る。周王聘いて世子の師と為す。尋いで朝に言い、右長史を補し、正を以て王を輔く。端礼門の槐盛夏にして枯る。淳咎徴を陳べて戒めを進む。王その言を用い修省す。枯枝復た栄ゆ。王その槐を旌して「攄忠」と曰う。致仕すること十余年にして卒す。年九十有七。

董子荘、名は琰、字をもって行わる。江西楽安の人。学行あり。洪武中、学官より遷り茂名県知県と為る。永楽時、国子司業より出でて趙王府右長史と為り、事に随い匡正す。王過ち多し。帝輒ち長史を以て責む。子荘よく諫むるを以て、過ち無きを得る。十八年春、当に国社に陪祀すべく、夙に起き、衣冠端坐して卒す。

趙季通、字は師道、天臺の人。亦教官より歴任し永豊・龍溪の知県と為り、『太祖実録』の修纂に与り、累進して司業と為る。出でて趙王府左長史と為り、子荘と心を同じくして輔導す。藩府の賢僚、首に趙・董を称すという。

楊黼、吉水の人。御史に官す。仁宗即位し、疏を上り十事を言う。擢て衛王府右長史と為る。心を尽くして献替し、嘗て苟も一銭を取らず。宣徳初、卒す。

金実、開化の人。永楽初、上書して治道を言う。帝これを嘉す。復た策に対し、旨に称し、翰林典籍に除せらる。『太祖実録』・『永楽大典』の修纂に与り、選ばれて東宮講官と為る。左春坊左司直を歴任す。仁宗立ち、衛府左長史に除せらる。正統初、卒す。人となり孝友、行誼を敦くす。経史を閲し、日に程限あり、老いに至るも輟めず。

蕭用道、泰和の人。建文中、才徳を抱くを挙げられ、闕に詣で文章を試みらる。擢て靖江王府長史と為り、召されて翰林に入り、『類要』を修す。燕師淮を渡るに及び、周是修とともに上書し、用事者を指斥す。永楽時、『太祖実録』の修纂に預かり、右長史に改め、王に従い藩国桂林に之く。嘗て王の為に八事を陳ぶ。曰く、起居を慎み、嗜欲を寡くし、学問に勤め、徳性を養い、鞭撲の刑を簡にし、下人の利を侵すこと無く、常に府僚に接して群情を通じ、謹厚の人を簡択して差遣に備う、と。又『端礼』・『体仁』・『遵義』・『広智』の四門の箴を作りて王に献ず。久しくして疾を以て帰ることを乞う。成祖怒り、宣府鷂児嶺巡検に貶し、卒す。子亙、進士より官し湖広左布政使と為る。天順四年、治行卓異を挙げられ、礼部尚書に拝せらる。初め、両京尚書欠くれば、多く布政使を以てこれに為す。亙の後より、遂に尚書に拝せらるる者無し。亙重厚廉静なるも、奏対を善くせず。南京に調せられ、卒す。

宋子環、廬陵の人。庶吉士より歴任し考功郎中と為る。師逵に従い湖広に木を採り、寛厚を以て衆心を得る。仁宗即位し、梁府右長史を授けられ、越府に改む。和易淡泊にして、至る所賢声あり。宣徳中、官に卒す。ここより以後、王府の官は清流と為らず、遂に紀すに足る者無し。

宋訥は、字を仲敏といい、滑の人である。父の壽卿は、元の侍御史であった。訥は性格が重厚で、学問は広く博識であった。至正年間に進士に挙げられ、塩山尹に任ぜられたが、官を棄てて帰郷した。洪武二年、儒士十八人を徴用して『礼』『楽』などの書を編纂することとなり、訥もこれに加わった。事業が完了すると、仕官せずに帰った。しばらくして、四輔官の杜斅の推薦により、国子助教に任ぜられた。経書の解釈によって学者たちの師表と仰がれた。十五年、超擢されて翰林学士となり、『宣聖廟碑』の撰述を命ぜられ、帝の意に適い、賞賜は甚だ厚かった。文淵閣大学士に改めた。かつて寒中に火に寄り、脇の下の衣を焼き、皮膚にまで及んで初めて気づいた。帝は文章を製してこれを戒めた。間もなく、祭酒に転じた。当時、功臣の子弟は皆就学し、また歳貢の士は数千人に及んだ。訥は厳格に学規を立て、終日端坐して講解し暇がなく、夜は常に学舎に留まった。十八年、再び進士科を開き、四百七十余名の士を取ったが、太学出身者が三分の二を占めた。再び策試を行っても同様であった。帝は大いに喜び、詔勅を作って褒め称えた。助教の金文徵らは訥を憎み、吏部尚書の余熂に讒言し、公文書で致仕を命じさせた。訥が陛辞すると、帝は驚いて問い、大いに怒り、熂・文徵らを誅し、訥を従前の通り留任させた。訥が病んだ時、帝は「訥には寿骨があるから、心配ない」と言った。まもなく全快した。帝は画工に命じてこっそり訥を訪れ、その像を描かせた。危坐し、怒った色があった。翌日、入朝して応対すると、帝が「昨日はなぜ怒っていたのか」と問うた。訥は驚いて答えて言った。「諸生に走ってつまずく者がいて、茶器を壊しました。臣は教えを失したことを恥じ、自ら責めたのです。しかも陛下はどうしてご存知なのでしょうか」。帝は絵を取り出した。訥は頓首して謝した。

長子の麟は、進士に挙げられ、御史に抜擢され、望江主簿として出向した。帝は訥の老齢を思いやり、召し還して侍らせた。二十三年春、訥は病が重くなり、学舎に留まった。麟が私邸に帰るよう請うと、叱って言った。「今は丁祭の時である。敢えて敬虔でなくてよいのか」。祭祀が終わると、輿で舎に帰り、死去した。八十歳であった。帝は悼み惜しみ、自ら文章を作って祭った。また官を遣わしてその家で祭らせ、葬地を整えさせた。文臣で四品の者が祭葬を与えられたのは、訥から始まった。正徳年間に、文恪と諡された。

訥はかつて詔に応じて辺境の事を上奏し、言った。「海内は平穏であるが、ただ沙漠だけがなお聖慮を煩わせている。もし窮追遠撃すれば、労費を免れない。陛下が聖子神孫のために計られるならば、辺備を謹むに過ぎない。辺備を充実させるには実兵にあり、実兵を充実させるには屯田にある。漢の趙充国が四万騎を率い、辺境の九郡に分屯し、単于を退却させた。陛下は諸将の中から謀略と勇気ある者数人を選び、東西五百里を制とし、法を立てて分屯し、要害に配置し、遠近相応じさせるべきである。敵に遇えば戦い、寇が去れば耕す。これが長策である」。帝はその言をかなり採用した。訥が死去すると、帝は彼を偲んだ。次子の復祖を司業に任じ、諸生に訥の学規を守るよう戒め、違反者は死罪に至るまで罪した。

明の開国時から師儒の官を重んじた。許存仁・魏観が祭酒となり、老成で端正謹厳であった。訥はやや後進であったが、最も遇された。訥とともに学規を定めたのは、司業の王嘉会・龔斅である。三人は皆高齢で、鬚髪は皓白、終日危坐し、堂上は厳粛であった。また張美和・聶鉉・貝瓊らは皆名儒であり、洪武年間に、先後して博士・助教・学録となり、このため諸生は多く成果を上げた。魏観の事績は別に記載する。

嘉会は、字を原礼といい、嘉興の人である。推薦により徴用され、累官して国子監司業となった。十六年、やはり老齢を理由に帰郷を請うたが、優詔で留め置かれた。八十歳で死去し、賻恤は甚だ厚かった。

許存仁は、名を元といい、字をもって行われ、金華の許謙の子である。太祖はかねてより謙の名を聞いており、金華を平定すると、存仁を訪ね得た。語り合って大いに喜び、諸子の傅を命じた。国子博士に抜擢した。かつて『尚書・洪範』の休咎徴の説を講ずるよう命じられた。またかつて『孟子』のどの説が要諦かと問うた。存仁は王道を行い、刑を省き、賦を薄くすることを答えた。呉元年に祭酒に抜擢された。存仁は左右に出入りすること十年近く、古礼や文事の考証から、人材の進退に至るまで、論議に加わらぬことはなかった。まさに帝位に即くことを議しようとした時、存仁は帰郷を告げた。司業の劉丞直が「主上はまさに天に応じ人に順わんとされている。公は少し待つべきである」と言ったが、存仁は聞き入れず、果たして帝の意に逆らった。僉事の程孔昭がその隠れた事柄を弾劾し、ついに獄中に捕らわれて死んだ。

張美和は、名を九韶といい、字をもって行われ、清江の人である。詞賦に長じた。元末、累次挙げられたが仕官しなかった。洪武三年、推薦により県学教諭となった。後に国子助教に転じ、翰林院編修に改めた。致仕して帰郷すると、帝は自ら文章を作って賜った。再び銭宰らとともに徴用され、『書』伝を修し、完成すると、帰還を許された。

聶鉉は、字を器之といい、美和の同郷人である。洪武四年の進士。広宗丞となり、旱害の税を免除するよう上疏した。任期満了で入朝し、『南都賦』及び『洪武聖徳詩』を献上した。翰林院待制に任ぜられ、国子助教に改め、典籍に転じた。美和とともに賜帰された。十八年、再び召されて会試を主管し、留用しようとしたが、養生に適した地を乞うた。廬陵教諭の俸給を支給するよう命じ、その身の終わりまで続いた。

貝瓊は、字を廷琚といい、崇徳の人である。性格は率直で、志篤く学を好み、四十八歳にして初めて郷試に合格した。張士誠がたびたび招聘したが応じなかった。洪武初年、招聘されて『元史』を修した。完成すると、賜物を受けて帰った。六年、儒士として挙げられ、国子助教に任ぜられた。瓊はかつて古楽が行われないことを慨き、『大韶賦』を作って志を表した。宋濂が司業であった時、四学を設立し、舜・禹・湯・文を併せて先聖として祀るよう建議した。太祖はその説を退けたが、瓊はさらに『釈奠解』を作ってこれを駁し、識者は多く瓊の議論を是とした。美和・鉉と名声を等しくし、当時「成均三助」と称された。九年、中都国子監に転任し、勲臣の子弟を教えた。瓊の学問と品行は平素より優れており、将校や武臣も皆礼を重んじた。十一年に致仕し、死去した。

趙俶は、字を本初といい、山陰の人である。元の進士。洪武六年、徴用されて国子博士に任ぜられた。帝がかつて奉天殿に臨み、俶と銭宰・貝瓊らを召して言った。「汝らは一に孔子の定めた経書をもって教えよ。蘇秦・張儀の縦横の言を雑ぜることは慎しむべし」。諸臣は頓首して命を受けた。俶はついでに正定の『十三経』を天下に頒布し、『戦国策』及び陰陽讖卜の諸書を退け、学宮に列べぬよう請うた。翌年、諸生の中から穎異なる者三十五人を選び、俶に専らこれを統率させ、古文を教えさせた。まもなく李拡・黄義らを文華・武英の二堂の説書に抜擢し、皆用いられた。九年、御史台が言上した。「博士の俶は『詩経』をもって成均で四年間教え、その弟子は多くが地方の重臣や各部に節を持する者となっています。今年は懸車の齢を過ぎております。骸骨を賜わりますよう」。そこで翰林院待制として致仕させ、内帑の銭を賜って装いを整えさせた。宋濂が同官および諸生千余人を率いて見送った。八十一歳で死去した。子の圭玉は、兵部侍郎となり、萊州知州として出向し、名声があった。

錢宰は字を子予といい、會稽の人である。吳越武肅王の十四世孫。至正年間に甲科に及第したが、親が年老いているため仕官しなかった。洪武二年、召されて國子助教となった。『金陵形勝論』『歷代帝王樂章』を作り、いずれも帝の意にかなった。十年、致仕を乞うた。博士に進み、勅書を賜って帰郷させた。二十七年、帝が蔡氏の『書傳』を閲覧し、象緯の運行が朱子の『詩傳』と相違し、その他の注が鄱陽の鄒季友の論ずるところと合わない点があるのを見て、天下の宿儒を徴してこれを訂正させた。兵部尚書唐鐸が錢宰と致仕した編修張美和・助教靳權等を推挙した。行人が馳伝して召し寄せ、劉三吾にその事を総括させた。江東の諸門の酒樓が完成し、百官に鈔を賜い、その上で宴を開いた。錢宰等は詩を賦して謝した。帝は大いに喜んだ。諸儒の中で年老いて帰郷を願う者には、先に帰らせるよう命じた。錢宰が最も高齢であったが、留まることを請うた。帝は喜んだ。書が完成し、『書傳會選』と名付け、天下に頒布した。厚く賜物を与え、駅伝で帰郷させた。九十六歳で没した。

また蕭執という者は、字を子所といい、泰和の人である。洪武四年に郷挙され、國子學錄となった。翌年の夏至、帝が北郊で祭祀を行うに際し、尚書吳琳・主事宋濂に命じて文學士を率いて従わせた。蕭執は陶凱等十二人とともに齋所に入って謁見した。詩を賦させ、さらに山梔花を賦させた。蕭執の作ったものだけを喜び、諸臣に示し、寵眷は一時に傾いた。時に帝は文學に留意し、しばしば廷臣を親試し、蕭執と陳觀は特に知遇を得た。

陳觀は訓導として入朝し、『王猛捫蝨論』を試され、ただちに陜西參政に抜擢された。まもなく召還されて側近に侍った。応制して『鐘山賦』を作り、金幣を賜った。陜西において廉潔謹直で知られた。ある者が陜西の金の産状を尋ねた。陳觀は大いに驚いて言った、「私は藩僚の職にあるが、どうして金のことを尋ねるのか」。その死に際し、妻子はほとんど自活できなかった。一方、蕭執は親が年老いていることを理由に帰郷を乞い、親が没すると墓の側に廬を結んだ。申國公鄧鎮が龍泉の賊を討伐したが、部下を統制しなかった。蕭執が行ってこれを責めると、鄧鎮は禁止し、邑人は安堵した。二人はいずれも篤行の君子であった。

李叔正は字を克正といい、初名は宗頤、靖安の人である。十二歳で詩を作ることができ、成長するにつれてますます博識となった。当時江西に十才子があり、叔正はその一人であった。推薦により國子學正に任じられた。洪武初年、帰郷を願い出た。まもなく、再び推薦されて學正となり、渭南丞に転じた。同州蒲城の人が地界を争い、累年決着しなかった。行省が叔正に委ねると、単騎で赴き、数語を述べてただちに決した。渭南は毎年二万の糧を輸送したが、豪右と狡猾な吏が結託し、田に定額がなく、叔正は畝を踏査して丈量した。法を立てて精密にし、諸弊をことごとく除去した。興化知県に転じた。まもなく召されて禮部員外郎となった。年老いていることを理由に帰郷を乞うたが、許されず、國子助教に改めた。こうして叔正は三度太学に至ったのである。帝はちょうど文治に鋭意であり、國学の人材を特に重視した。しかし諸生は多く貴胄で、教えに従わなかった。叔正は厳しく規条を立て、朝夕端坐し、督課に倦む色がなかった。朝廷の論議は彼を賢人とした。監察御史に抜擢され、命を受けて嶺表を巡行した。瓊州府の吏がその太守が公座に踞って表文に署名したと告発したが、叔正がこれを審問し、太守は無実が明らかになり、吏は罪に処せられた。太祖はこれを賞賛して言った、「人は老御史は懦弱だと言うが、かくも明断であるとは」。累進して禮部侍郎となった。十四年、尚書に進み、任中で没した。叔正の妻夏氏は、陳友諒が南昌を陥落させた時、井戸に投身して死んだ。叔正はその義を感じ、終身再婚しなかった。

劉崧は字を子高といい、泰和の人で、旧名は楚。家は貧しく学問に励み、寒くても炉火がなく、手は皸裂しても書き写すのをやめなかった。元末に郷挙された。洪武三年、経明行修に挙げられ、今の名に改めた。奉天殿で召見され、兵部職方司郎中に任じられた。命を受けて鎮江で糧食を徴集した。鎮江には勲臣の田が多く、租賦が民の負担となっていたので、劉崧は強く請願して少し減らすことができた。北平按察司副使に転じ、刑罰を軽くし事務を簡素化した。流亡の民を招集し、民はみな生業に復した。学宮の側に文天祥の祠を建立した。学門に石を刻み、府県に諸生を徭役で苦しめないよう示した。僻地の駅馬を減らして宛平に回すよう請願したことがある。帝はその上奏を許可し、侍臣に向かって言った、「駅伝の労逸が不均等なのは久しいが、劉崧はそれを言うことができた。民を治める者はかくあるべきではないか」。胡惟庸に憎まれ、事に坐して輸作に貶謫された。まもなく放免されて帰郷した。十三年、胡惟庸が誅殺されると、召されて禮部侍郎に任じられた。まもなく、吏部尚書に抜擢された。雷が謹身殿を震わせた時、帝は廷臣に得失を陳述させた。劉崧は頓首し、德行を修め仁を行なうことを以て答えた。まもなく致仕した。翌年三月、前刑部尚書李敬とともに召された。李敬を國子祭酒に任じ、劉崧は司業とした。鞍馬を賜い、朝夕に謁見させ、謁見するたびにしばしば歓談した。十日と経たずに没した。病が発作しても、なお強いて坐って諸生を訓導した。危篤に及んで、李敬が何か言いたいことがあるかと尋ねた。言うには、「天子が劉崧に國子を教えさせ、成功を責めようとしているのに、急に死ぬとは」。家事について一言も言わなかった。帝は役人に殯殮をさせ、自ら文を作って祭った。

劉崧は幼少より博学で、天性廉潔で慎重であった。兄弟三人が一つの茅屋に共に住み、五十畝の田があった。貴顕になっても、何も増やさなかった。十年に一枚の布団を使い、鼠に傷つけられて初めて取り替え、なおも繕って子に着せた。官に在って家累を従えたことはなかった。北平に赴任する時、一人の童を連れて行ったが、到着すると帰した。夕方に役人が退くと、孤燈で読書し、しばしば夜明けまで及んだ。詩をよくし、章の人々は彼を宗として『西江派』と称した。

羅復仁は吉水の人である。若くして学問を好み、陳友諒に召されて編修となった。やがて、彼の成し遂げられないことを知り、遁走した。九江で太祖に謁見し、側近に留め置かれた。鄱陽の戦いに従い、蠟書を携えて江西の未だ降伏していない諸郡を諭し降伏させ、中書諮議に任じられた。武昌包囲に従い、太祖が陳理を招いて降伏させようとした時、羅復仁がかつて友諒の臣であったので、城に入って諭させ、かつ言った、「理が来れば、富貴を失わない」。復仁は頓首して言った、「もし陳氏の遺児が首領を保つことができ、臣が他日に食言しないで済むならば、臣は死んでも遺憾ありません」。太祖は言った、「汝は行け、私は汝を誤らせない」。復仁は城下に至り、一日中号慟し、陳理は縄で彼を引き上げて入城させた。陳理に会って大哭し、太祖の意を述べ、かつ言った、「大兵の向かうところは皆摧かれ、降伏しなければ屠殺されるであろう、城中の民に何の罪があろうか」。陳理はその言葉を聞き、ついに官属を率いて出降した。

國子助教に転じ、年老いていることを理由に特に小車に乗って出入りすることを許された。宴席で謁見するたびに、座と飲食を賜った。やがて、また擴廓のもとに使わされた。以前の使者は多く拘留されたが、復仁は議論慷慨で、ただ一人帰還できた。洪武元年、編修に抜擢され、また主事張福とともに安南に往き、占城の侵した地を返還するよう諭して帰還した。安南は詔を奉じ、復仁に金・貝・土産を厚く贈ったが、すべて辞退して受け取らなかった。帝はこれを聞いて彼を賢人とした。三年、弘文館を設置し、復仁を學士とし、劉基と同位にした。帝の前で率直に得失を陳述した。しばしば南方のなまりで話した。帝はかえってその質朴直率さを喜び、「老實羅」と呼んで名で呼ばなかった。たまにその家を訪れると、城郭に背負った貧しい巷にあり、復仁はちょうど壁を塗っており、急いで妻を呼んで机を抱えて来させて帝を坐らせた。帝は言った、「賢士がどうしてここに住むべきか」。ついに城中に邸宅を賜った。天壽節に『水龍吟』一闋を作って献上した。帝は喜び、厚く賜物を与えた。まもなく致仕を乞うた。陛辞の際、大きな布衣を賜い、衣襟に詩を題して褒め称えた。やがて、また京師に召された。江西の秋糧を減らすよう上奏した。許可の返答があった。三月留まり、玉帯・鐵拄杖・坐墩・裘馬・食具を賜って帰還させ、天寿を全うした。

孫汝敬は名を簡といい、字をもって行われる。永楽二年の庶吉士となり、文淵閣に就学したが、書を誦することが旨に叶わず、即日江南に遣戍された。数日にして復された。この時より刻厲して学を為し、累遷して侍講となった。仁宗の時、時政十五事を上言し、旨に忤い獄に下された。既に李時勉とともに御史に改められ、直声は一時に震うた。宣宗の初め、大学士楊士奇に上書して曰く、「太祖高皇帝は四海を奄有し、太宗文皇帝は寰区を再造された。然れども猶翼翼兢兢として、敢えて豫怠する無かりき。先皇帝は統を嗣いで未だ期月に及ばず、奄に群臣を棄てられた。その由を揆うるに、皆憸壬の小夫、金石の方を献じて疾を致したるなり。去冬、簡は愚戇を以て詔に応じ上書し、言不敬に渉り、罪は万死に当たる。先皇帝はその孤直を憐れみ、雷霆の誅を寛くし、方路に居らしめられた。躬を撫み省み循れば、称塞すべき無し。伏して見るに今年六月、車駕天寿山に幸し、躬から二陵を謁し、京師の人は瞻望咨嗟し、以て聖天子の大孝と為す。既にして道路喧伝す、礼畢れば即ち較獵講武し、扈従するは惟だ也先士幹とその徒数百人のみ。風馳電掣し、馳逐して先後す。某この言を聞き、心悸膽落す。夫れ蒐苗獼狩は、固より国の常経なり。然れども陵を謁するを以て出で、而して降将と山谷の間に較獵するは、垂堂の戒、銜橛の虞、深慮せざるべからざるなり。執事は四朝の旧臣、二聖の元輔、これに於いて言わざれば、則ち孰か得てこれに言わんとする者あらんや。惟だ特加して采納し、以て靖献の思を弘め、弼直の義を光らしめんことを」と。

尋いで工部右侍郎に擢げられ、両たび安南に使した。時に黎利はその主陳皓の既に死せりと言い、而して筵を張り女楽を設けた。汝敬はこれを叱し、利は懼れて謝した。還りて両浙の漕運を督し、陜西の屯田を理し、建置すること多し。饋を受けたるに坐し、事官に充てられた。英宗立ち、赦に遇う。汝敬は誤って詔を引き復職し、復た逮系された。陜に在り措置の労あるを以て、死を宥して辺に戍せしめられた。尋いで復職し、故任に蒞る。塞上に警あり、汝敬は往きて餉を督す。敵に紅城子に遇い、流矢に中り、馬より墜ちて免るるを得た。疾を以て告げ帰り、卒す。

賛して曰く、明は国を建つる始め、首に人材を以て務めと為す。四方を征辟し、宿儒群集して闕下に至り、その長ずる所に随ってこれを用う。礼を議し制を定むる外より、或いは法従に参列し、或いは直に承明に預かり、而して成均胄子の任は尤も多く職に称し、彬彬乎として人を得たりと称す。夫れ諸臣は元の季世に当たり、経を窮め学を績み、株守して草野にあり、幾くんか没歯して聞こえ無きに及ぶ。泰運初めて平らぐに及んで、連茹利見し、乃ち各蘊する所を展べ、以て鴻猷を潤色し、文治を黼黻す。昔人は天下才無きを患えず、惟だ上の網羅如何なるかを視るのみと謂えり、顧みて信ぜざらんや。