明史

列傳第二十四 陶安 詹同 朱升 崔亮 陶凱 曾魯 任昂 李原名 樂韶鳳

陶安

陶安、字は主敬、當塗の人である。幼少より聡明で悟りが早く、広く経史に渉猟し、特に『易』に長じていた。元の至正初め、江浙郷試に挙げられ、明道書院の山長に任ぜられたが、乱を避けて家に居た。太祖が太平を取ると、安は老儒の李習と共に父老を率いて出迎えた。太祖が召して語らうと、安は進み出て言った、「海内は鼎の沸くが如く、豪傑が並び争っておりますが、その意は子女玉帛にあり、乱を撥ね救民し天下を安んずる心はありません。明公が江を渡り、神武にして殺さず、人心は悦服し、天に応じ人に順う。これをもって弔伐を行えば、天下は平らげるに足りません」。太祖が問うて言った、「我は金陵を取ろうと思うが、どうか」。安は言った、「金陵は古の帝王の都です。これを取って有し、形勝を撫でて四方に臨めば、何に向かってか克たざらん」。太祖は言った、「善い」。幕府に留めて参謀とし、左司員外郎を授け、習を太平知府とした。習は字を伯羽といい、年八十余りであったが、官にて卒した。

安は集慶を克つに従い、郎中に進んだ。劉基・宋濂・章溢・葉琛を聘して至らせると、太祖は安に問うた、「四人はどうか」。答えて言った、「臣の謀略は基に及ばず、学問は濂に及ばず、民を治める才は溢・琛に及びません」。太祖はその譲る能を多とされた。黄州が初めて下った時、重臣を得てこれを鎮めようと思われ、安に越える者なく、遂に命じて黄州を知らしめた。租を寛め徭を省き、民は楽業した。事に坐して桐城知事に謫せられ、饒州知事に移った。陳友定の兵が城を攻めると、安は吏民を召して順逆を諭し、城に嬰って固く守った。援兵が至り、敗走した。諸将は寇に従った民を尽く戮さんとしたが、安は不可とした。太祖は詩を賜って褒め称え、州民は生祠を建ててこれを事とした。

呉元年、初めて翰林院を置き、まず安を召して学士とした。時に諸儒を征して礼を議し、安を総裁官に命じた。まもなく李善長・劉基・周禎・滕毅・錢用壬らと律令を刪定した。

洪武元年、知制誥を命ぜられ国史修撰を兼ねた。帝は嘗て東閣に御し、安及び章溢らと前代の興亡の本末を論じた。安は喪乱の源は驕侈によることを言うと、帝は言った、「高位に居る者は驕り易く、佚楽に処する者は侈り易い。驕れば善言入らず、して過ち聞こえず、侈れば善道立たず、して行い顧みない。このような者は、亡びざるはない。卿の言は甚だ当たっている」。また学術を論じた。安は言った、「道明らかならざるは、邪説がこれを害するからです」。帝は言った、「邪説が道を害するは、猶お美味の口に悦ぶが如く、美色の目を眩ますが如し。邪説去らざれば、則ち正道興らず、天下何に従ってか治まらん」。安は頓首して言った、「陛下の言われることは、深くその本を探られたと申せましょう」。安は帝に事えて十余年、諸儒の中で最も旧かった。侍従の官に及び、寵遇は愈々厚かった。御製の門帖子を賜って言うには、「国朝謀略無双の士、翰苑文章第一家」。時に人はこれを栄とした。御史ある者が安の隠れた過ちを言上した。帝は詰って言った、「安にどうしてこのようなことがあろうか、またお前はどうして知ったのか」。答えて言った、「道路に聞きました」。帝は大いに怒り、直ちにこれを罷免した。

洪武元年四月、江西行省参政に欠員があり、帝は安を以てこれに命じ、諭して言った、「朕が江を渡った時、卿はまず軍門に謁し、王道を敷陳した。幕府に参じてからは、裨益すること甚だ多かった。続いて翰林に入り、益々讜論を聞いた。江西は上流の地、撫綏するは卿に如くはない」。安は辞したが、帝は許さなかった。任に至り、政績は益々著しかった。その年九月、官にて卒した。疾が劇しく、時に時務十二事を草した。帝は親ら文を作って祭り、姑孰郡公を追封した。

子の晟は、洪武中に浙江按察使となり、貪賄により誅せられた。その兄の昱もまた坐して死した。家属四十余人を発して軍とし、後には死亡して且つ尽きた。所司また晟の家に至って勾補しようとしたので、安の後妻の陳が闕に詣で訴えると、帝は安の功を思い、その籍を除いた。

初め、安が諸礼を裁定した時、広徳の錢用壬もまた多く論建した。

附 錢用壬

用壬、字は成夫。元の南榜進士第一、翰林編修を授けられた。張士誠に使いし、留められて官を授けられた。大軍が淮・揚を下すと、来帰した。累官して御史臺經歷となり、律令制定に預かった。まもなく陶安らと博く郊廟・社稷の諸儀を議した。その釈奠・藉田の議は、皆経文及び漢・魏以来の故事に援拠してその制を定めた。詔して可と報じ、語は詳しく『礼志』にある。洪武元年六部官を分建し、用壬を礼部尚書に拝した。凡そ礼儀・祭祀・宴享・貢挙の諸政は、皆専ら礼官に属した。また詔して儒臣と乗輿以下の冠服諸式を議定せしめた。時に儒生多く古義を習うが、用壬の考証は特に詳確であり、然れどもその後諸典礼もまた多く更定されたという。その年十二月、告げて帰ることを請うた。

詹同

詹同、字は同文、初めの名は書、婺源の人である。幼くして穎異、学士の虞集これを見て言った、「才子なり」。その弟の槃の女を妻とした。至正中、茂才異等に挙げられ、郴州学正に除せられた。乱に遇い、黄州に家し、陳友諒に仕えて翰林学士承旨となった。太祖が武昌を下すと、召して国子博士とし、名を同と賜うた。時に功臣の子弟は内府で教習し、諸博士は一経を治めて、尽く通貫しなかった。同は学識淹博、『易』・『春秋』を講ずるに最も善かった。応教して文を作れば、才思泉の如く涌き、一時並ぶ者無かった。考功郎中に遷り、起居注を直した。会って袷禘の礼を議し、同の議が当たり、遂にこれを用いた。

洪武元年、侍御史の文原吉・起居注の魏観らと天下を循行し、賢才を訪求した。還り、翰林直学士に進み、侍読学士に遷った。帝は下を御するに峻であり、御史中丞の劉基が言った、「古より公卿罪有れば、盤水に剣を加え、請室に詣でて自裁す。以て廉恥を励まし、国体を存する所以なり」。同は時に側に侍し、遂に『戴記』及び賈誼の疏を取って進め、また剴切にこれを言った。帝は嘗て侍臣と言われた、声色の害は鴆毒に甚だしい、創業の君は子孫の承式する所、特に謹しまざるべからず。同は因って成湯が声色に邇らず、後昆に裕を垂れたことを挙げて対えた。その事に因り忠を納むるはこの如くであった。

四年、吏部尚書に進む。六年、学士承旨を兼ね、学士楽韶鳳と共に釈奠先師の楽章を定む。また、渡江以来の征討平定の跡、礼楽治道の詳を、記載有りと雖も、未だ書を成さず、『日暦』の編纂を請う。帝之に従い、宋濂と共に総裁官と為し、呉伯宗等を纂修官と為すことを命ず。七年五月、書成る。起兵臨濠より洪武六年に至るまで、凡そ百巻。同等又言う、『日暦』は天府に秘し、人見るを得ず。唐の『貞観政要』に倣い、聖政を分輯し、天下に宣示すべしと。帝之に従う。乃ち四十類に分ち、凡そ五巻、名づけて『皇明宝訓』と曰う。嗣後凡そ政跡有る毎に、史官日に之を記録し、類に随ひ増入す。是の年、勅を賜ひて致仕せしむ。語極めて褒美す。未だ行かず、帝覆た濂と大祀分献の礼を議せしむ。久しうして、承旨を起し、卒す。

同は文章を以て主知を結び、応制占対、敏贍ならざる無し。帝嘗て言う、文章は明白顕易なるべく、道術を通じ、時務に達し、浮薄を取る無きべしと。同の為す所多く旨に称し、而して操行尤も耿介なり。故に老に至るまで眷注衰えず。

子徽、字は資善、洪武十五年秀才に挙げらる。官は太子少保兼吏部尚書に至る。才智有り、剛決犯すべからず。治事に勤め、帝の奨任する所と為る。然れども性険刻なり。李善長の死に、徽力有り。藍玉獄に下り、語徽及び子尚宝丞紱に連なり、並びに坐して誅さる。

同の従孫希原、中書舎人と為り、大書を善くす。宮殿城門の題額、往々皆希原の筆なり。

朱升

朱升、字は允升、休寧の人。元末郷薦に挙げられ、池州学正と為り、講授法有り。蘄・黄の盗起こり、官を棄て石門に隠る。数たび兵を避けて逋竄すと雖も、卒に一日も学を廃せざりき。太祖徽州を下す。鄧愈の薦に依り、召して時務を問う。対えて曰く、「牆を高く築き、糧を広く積み、王を称するを緩やかにすべし」と。太祖之を善しとす。呉元年、侍講学士を授け、制誥を知り、国史を修むるを同じくす。年老を以て、特に入朝謁見を免ず。洪武元年、翰林学士に進み、宗廟時享の斎戒の礼を定む。尋て諸儒と『女誡』を修め、古の賢后妃の事法とすべきを採り編みて上る。功臣を大封するに、制詞多く升の撰す。時に典核と称す。年を踰えて、老を請ひて帰り、卒す年七十二。

升は幼より力学し、老に至るまで倦まず。経学に尤も邃し。作る所諸経の旁注、辞約にして義精なり。学者楓林先生と称す。子同、礼部侍郎に官し、事に坐して死す。

崔亮

崔亮、字は宗明、藁城の人。元の浙江行省掾。明師旧館に至り、亮降り、中書省礼曹主事を授かる。済南知府に遷る。母憂に依り帰る。洪武元年冬、礼部尚書銭用壬告げて去るを請ふ。亮を起して之に代わらしむ。初め、亮礼曹に居る時、即位・大祀諸礼皆其の条画する所、丞相善長之を朝に上す。是に由りて知名と為る。尚書と為るに及び、一切の礼制用壬の先に議して行わるる所、亮皆故実を援引し、以て其の議を定む。考証詳確、用壬に踰えり。

二年、仁祖陵を上りて「英陵」と曰うを議し、復た祭告の礼を行ふを請う。太常博士孫吾与、漢・唐に行ふ者無しを以て、之を駁す。亮曰く、「漢の光武先陵に加えて『昌』と曰い、宋の太祖も亦た高祖こうそ陵に加えて『欽』と曰い、曾祖陵に『康』と曰い、祖陵に『定』と曰い、考陵に『安』と曰う。蓋し創業の君其の祖考を尊ぶは、則ち亦た其の陵を尊崇す。既に其の陵を尊ぶは、自ら応に祭告すべし。礼固より人情に縁りて起る者なり」と。廷議亮に是とす。頃くして、亮言う、「『礼運』に曰く『礼郊に行はれば、則ち百神職を受く』と。今宜しく天下神祇壇を圜丘の東、方沢の西に増すべし」と。又言う、「『郊特牲』に『器は陶匏を用ふ』と、『周礼疏』に『外祀は瓦を用ふ』と。今祭祀に瓷を用ふるは、古意に合す。而して槃盂の属、古に尚異なり。宜しく皆瓷に易うべし。惟だ籩は竹を用ふ」と。又た大祀の前七日、陪祀官中書に詣り誓戒を受くべしと請う。戒辞は唐礼の如し。又た『周礼』に依り五祀及び四時の薦新・稞礼・圭瓚・郁鬯の制を定む。並びに旗纛の月朔望の致祭は煩にして瀆し、止むべく、当祭の月に行ふべしと。皆允行せらる。帝嘗て亮に謂ひて曰く、「先賢言有り、『其の生を見ては其の死を見忍びず、其の声を聞きては其の肉を食らふに忍びず』と。今祭祀省牲神壇に於いて甚だ邇し。心殊に未だ安からず」と。亮乃ち古の省牲の儀を考へ、神壇を遠く二百歩とす。帝大いに喜ぶ。

帝、郊社諸祭、壇にして屋せざるを慮り、或は驟雨服を沾す。亮、宋の祥符九年南郊雨に遇ひ、太尉庁に於いて望祭し、及び元の『経世大典』壇垣内外に屋を建て風雨を避くる故事を引き、之を奏す。遂に詔す、壇の南に殿を建て、雨に遇へば則ち望祭すべしと。而して霊星諸祠も亦た皆亮の言に因り壇屋を建つ。時に仁祖已に南北郊に配す。而して郊祀礼成りたる後、復た太廟に詣りて恭謝す。亮言ふ宜しく罷むべし。惟だ先祭三日、太廟に詣りて配享を告ぐべしと。詔して可とす。帝、日中に黒子有るを以て、祭天順ならざるに由るかと疑ひ、郊壇の従祀の神を増さんと欲す。亮執奏して、漢・唐煩瀆にして、取って法とすべからずと。乃ち止む。帝一日亮に問ひて曰く、「朕天地を郊祀し、拝位正中に在り。而して百官朝参するは則ち班列東西す。何ぞや」と。亮対えて曰く、「天子天を祭り、午陛より升りて北向す。陽に答ふるの義なり。社を祭り、子陛より升りて南向す。陰に答ふるの義なり。若し群臣朝参するは、当に君上の尊を避くべし。故に升降皆卯陛に由り、朝班東西に分列し、以て馳道を避く。其の義同じからず」と。亮倉卒の占対、必ず経義に傅へ、多く此の類なり。

郊廟祭祀の外、朝賀山呼・百司箋奏・上下冠服・殿上の坐墩諸儀及び大射軍礼、皆亮の酌定する所。惟だ「大祀は帝親しく省牲し、中祀・小祀の牲は当に官を遣はして代はすべし」と言ふに、帝命じて「親祭する者は皆親しく省すべし」とす。又た唐制に依り、郡国に祥瑞を奏せしむるを請ふ。帝は災異の係る所尤も重しとし、有司に駅聞せしむ。亮の議と異なり。三年九月、官に卒す。其の後牛諒・答禄与権・張籌・牛夢炎・劉仲質の属、亦た各論建有り。

附 牛諒

牛諒、字は士良、東平の人。洪武元年、秀才に挙げられ、典簿と為る。張以寧と安南に使し還り、旨に称し、三遷して礼部尚書に至る。釈奠及び大祀分献の礼を更定し、詹同等と省牲・冠服を議す。御史答禄与権三皇を祀るを請ふ。太祖其の議を礼官に下し、並びに歴代帝王功徳有る者廟祀するを考へしむるを命ず。七年正月、諒奏す、三皇京師に廟を立て春秋祭を致すべし。漢・唐以下は、陵に就きて廟を立つべしと。帝為に更定して之を行はしむ。亦た『礼志』に詳し。是の年職を怠り、主事に降る。未だ幾ばくもせず、復た官す。後仍以て職に任せずして罷む。諒著述甚だ多く、世に伝誦せらる。

附 答禄与権

答祿與權は字を道夫といい、蒙古の人である。元に仕えて河南北道廉訪司僉事となった。明に入り、河南永寧に寓居した。洪武六年、推薦により秦府紀善に任じられ、御史に改められた。律令の重刊を請うた。盱眙の民が瑞麦を献上すると、與權は宗廟に薦めるよう請うた。帝は「瑞麦を朕の徳によるものとすれば、朕は敢えて当たらない。必ず祖宗に帰すべきである。御史の言うことは正しい」と言った。翌年、広西按察僉事として出向した。赴任せず、再び御史となった。上書して三皇を祀ることを請うた。礼官に議させたところ、遂に帝王廟を併せて建立した。かつ使者を派遣して歴代の諸陵寢を巡視させた。守陵戸を二人設置し、三年に一度祭祀を行う制度は、すべてここから始まった。また禘礼を行うことを請うたが、議が止まって行われなかった。翰林修撰に改められ、事に坐して典籍に降格されたが、まもなく応奉に進んだ。十一年、年老いて致仕した。禘礼は嘉靖年間に至って初めて定まった。

附 張籌

張籌は字を惟中といい、無錫の人である。父の翼は、かつて張士誠の将莫天佑を降伏させるよう勧め、また平章胡美に降伏者を殺戮しないよう請うて、城中の人々を全うさせた。詹同の推薦により、翰林応奉に任じられ、礼部主事に改められた。詔を奉じて尚書陶凱と共に漢・唐以来の藩王の事跡を編集し、『帰鑑録』を作った。洪武九年、員外郎から尚書に進み、学士宋濂と諸王妃の喪服の制度を定めた。籌は記誦が広博で、礼曹に長く在り、歴代の礼文の沿革に詳しかった。しかし頗る附会を善くした。初め、陶安らが圜丘・方沢・宗廟・社稷の諸儀礼を定め、数年行われていた。洪武九年、籌が尚書となると、更に議して社稷を一壇に合せ、勾龍・棄の配位を廃し、仁祖を奉って配饗し、祖社を尊び親しむ道を明らかにし、遂に社稷を郊廟の祭祀と並べて上祀とした。識者はひそかにこれを非とした。後に湖広参政として出た。十年、事に坐して罰せられ労役に服した。十二年、なお礼部員外郎に起用された。後に復官したが、事により免官された。

附 硃夢炎

硃夢炎は字を仲雅といい、進賢の人である。元の進士で、金谿丞となった。太祖が賓館に召し寄せ、熊鼎と共に古事を集め、質直な言葉で公卿子弟を教える『公子書』を作るよう命じた。洪武十一年、礼部侍郎から尚書に進んだ。帝が古を考証し文を重んじていたので、夢炎は古を援り今を証し、源流を剖析して掌を指すが如く、文章は詳雅で根拠があった。帝は甚だこれを重んじた。官のまま卒した。

附 劉仲質

劉仲質は字を文質といい、分宜の人である。洪武初年、宜春訓導として推薦されて京に入り、翰林典籍に抜擢され、『春秋本末』の校正を命じられた。十五年、礼部尚書に拝され、儒臣と共に釈奠の礼を定め、天下の学校に頒布施行するよう命じられた。毎年春秋の仲月、儀礼に従って孔子を通礼した。時に国子学が新たに完成し、帝は釈菜を行おうとした。侍臣に「孔子は聖人ではあるが、人臣である。礼は一奠再拝が宜しい」と言う者がいた。帝は「昔、周太祖が孔子廟に行った時、左右が拝すべからずと言った。周太祖は『孔子は百世の帝王の師である。どうして拝さないことがあろうか』と言った。今朕は天下を有し、百神を敬礼する。先師に対する礼は宜しく加えて崇めるべきである」と言った。そこで仲質に詳しく議するよう命じた。仲質は帝が皮弁を服し圭を執り、先師の位前に詣でて再拝し、爵を献じ、また再拝し、退いて服を易えるよう請うた。そして彝倫堂に詣でて講義を命じ、典礼を隆重にすべきであるとした。詔して「可」とした。また学規十二条を立て、欽定の九条と合わせて師生に頒賜した。後に劉向の『説苑』・『新序』を学校に頒布し、生員に講読させるよう命じられた。この年冬、華蓋殿大学士に改められ、帝が親しく誥文を制作した。事に坐して御史に貶された。後に老いて致仕した。仲質は人となり厚重篤実で、経史に博通し、文体は典確で、常に帝の意に当たった。

陶凱

陶凱は字を中立といい、臨海の人である。至正の郷薦に及第し、永豊教諭に任じられたが就かなかった。洪武初年、推薦により征召され、『元史』の編修に参与した。書が完成すると、翰林応奉に任じられ、大本堂で教習し、楚王に経を授けた。三年七月、崔亮と共に礼部尚書となり、それぞれ上奏した。軍礼及び品官の墳塋の制度は、凱の議によるものである。その年、亮が卒した。凱が独り任に当たり、科挙の様式を定めた。翌年の会試では、凱が主考官を充てられ、呉伯宗ら百二十人の程文を進上し、凱がその巻頭に序を書き、遂に定例となった。帝はかつて凱に諭して「死者に事えることは生者に事えるが如くすべきである。朕は養うに及ばないので、宜しく追遠の道を尽くすべきである」と言った。凱は太廟には常祀があるので、乾清宮の左に別に奉先殿を建て、神御を奉るよう請うた。明の奉先殿の制度はここから始まった。五年、凱は言った。「漢・唐・宋の時には皆会要があり、時政を記載した。今起居注は設けられているが、諸司の領する諭旨及び奏事の簿籍は、会要に依って編類し書と為すべきである。そうすれば後世に法を垂れることができる。台省府に下すものは、宜しく各々銅櫃を置いてこれを蔵し、稽考に備え、遺闕なからしめるべきである」。従われた。翌年二月、湖広参政として出た。致仕した。八年、国子祭酒に起用された。翌年、晋王府左相に改められた。

凱は博学で、詩文に巧みであった。帝はかつて前代の楽章が諛辞が多く、あるいは雅馴でないことを厭い、凱と詹同に改めて撰述するよう命じたが、甚だ旨に称した。長至の日に斎宮に侍り、慶成を紀する篇什があるべきであると言った。そこで凱に首唱を命じ、諸臣が俱に和し、宋濂がその序を為した。その後、行幸に扈従し祭祀に陪し、献上するものがあると、帝は輒ち善しと称した。一時の詔令・封冊・歌頌・碑誌は多くその手に出たという。凱はかつて自ら「耐久道人」と号した。帝は聞いてこれを憎んだ。礼部在任中、朝使が高麗に往く際に主客曹が誤って符験を用いたことに坐し、死罪に論じられた。

曾魯

曾魯は字を得之といい、新淦の人である。七歳の時、『五経』を暗誦でき、一字も遺さなかった。稍々長ずると、古今に博通した。凡そ数千年の国体・人材・制度の沿革を言えないものはなかった。文学をもって時に聞こえた。元の至正年間、魯は里中の豪傑を率い、少壮を集めて郷里を守った。数度にわたり牛酒を備え、順逆を開陳した。衆は皆約束に遵い、敢えて不義を行う者はなかった。人はその里を「君子郷」と号した。

洪武初年、『元史』を修めるに当たり、魯を総裁官に召した。史書が完成すると、金帛を賜い、魯を首とした。山に還ることを乞うたが、礼書の編類に会い、再び留められた。時に礼を議する者が蜂起した。魯は衆中で揚言して「某の礼は某の説に拠れば是であり、某の説に従えば非である」と言った。弁詰する者がいれば、必ず伝記を歴挙して告げた。まもなく礼部主事に任じられた。開平王常遇春が薨じると、高麗が使者を遣わして祭った。魯はその文を求めて視ると、外は金龍の黄帕に襲われ、文に洪武の年号を署していなかった。魯は譲って「龍帕は誤りである。貢を納め藩と称しながら正朔を奉ぜず、義においてどういうことか」と言った。使者は過ちを謝し、即ちこれを易えさせた。安南の陳叔明がさん立し、討伐を恐れて、使者を遣わして入貢し朝廷の意を覗った。主客曹は既にその表を受けていたが、魯は副封を取って視ると、尚書に白状して使者を詰めて「前王は日熞であった。今何ぞ驟に名を更えるのか」と言った。使者は敢えて隠さず、その実を具に言った。帝は「島夷にして乃ちかくの如く狡獪であるか」と言い、その貢を退けた。ここにおいて魯を器重した。

洪武五年二月、帝が丞相に問うた、「魯は何の官か」。答えて曰く、「主事に過ぎません」。即日六階を超えて、中順大夫・礼部侍郎に任じた。魯は「順」の字が父の諱に触れるとして、辞退し、朝請の下階に就くことを願った。吏部は典制を堅持し、これを許さなかった。戍将が倭人を捕獲したので、帝は帰すよう命じた。儒臣が詔を起草したが、帝が魯の草稿を閲覧して大いに喜び、曰く、「近頃陶凱の文は既に人の意を起こしたが、魯もまたこのようである。文運は盛んになるであろうか」。未だ幾ばくもなく、京畿の郷試を主管するよう命じた。甘露が鐘山に降り、群臣が詩賦を献じたが、帝は独り魯を褒めた。この年十二月、病を理由に帰郷し、途中で卒した。淳安の徐尊生が嘗て曰く、「南京に博学の士二人あり、筆を以て舌とする者は宋景濂、舌を以て筆とする者は曾得之なり」。魯は文章を作るに草稿を残さず、その門人が間々輯録したものも、未だ書を成さずという。

洪武年間、礼部侍郎は二十余人おり、その知名なる者は、曾魯の外に、劉崧・秦約・陳思道・張衡の数人あり。崧は自ら伝がある。

約は崇明の人、字は文仲。博学で、辞章に巧みであった。洪武初年、文学をもって挙げられた。召されて『慎独箴』を試され、約の文が第一となり、直ちに礼部侍郎に抜擢された。母が老齢のため帰郷を乞うた。後に、再び召されて三事を陳べ、皆切直であった。なお帰郷を乞い、卒した。

思道は山陰の人、字は執中。進士として刑部主事に任じられた。帝はその執法を賞し、超えて兵部侍郎に任じ、益々風節を励まし、人敢えて私をもって干す者なし。礼部に改め、帰郷を乞うた。家に居て、生産を殖やさず。守令が門を造っても会うことができなかった。久しくして卒した。

衡の事は別に載せる。

任昂

任昂、字は伯顒、河陰の人。元末に進士に挙げられ、寧晋県知事に任じられたが、赴任しなかった。洪武初年、推薦されて起用され襄垣訓導となり、御史に抜擢された。十五年、礼部尚書に任じられた。帝は太学に意を加え、祭酒の李敬・呉顒を罷免し、昂に監規八条を増定するよう命じた。そこで曹国公李文忠・大学士宋訥を兼ねて国子監事を領せしめた。時に司諫関賢が上言した、「近来郡邑の司る者人に非ず、師道立たず、歳選の士多く缺く。甚だしきは俊秀の生員を点じて承差に充て、朝廷の賢を育する意に乖く」。昂は乃ち奏して天下に定む、歳貢の士は翰林院の試験に従い、以て殿最と為す。明年、科挙と薦挙を並行するよう命じた。昂は科場の成式を条上し、以前より詳しくし、取士の制始めて定まる。広東都指揮の狄崇・王臻が妾を継室とし、封を乞うた。廷議に下し、昂は不可を堅持し、これに従った。遂に昂及び翰林院に命じて嫡妾の封贈の例を定め、因って詔して吏部とともに文官の封贈例十一、蔭叙例五を定め、中外に頒示した。

未だ幾ばくもなく、冕服の制を更定するよう請うた。及び朝参の坐次について。又、天下の淫祠を毀ち、祀典の称号を正すよう奏した、「しょくは秦の守李冰を祀り、漢の守文翁・宋の守張詠を附す。密県は太傅卓茂を祀る。鈞州は丞相黄覇を祀る。彭沢は丞相狄仁傑を祀る。皆遺愛民に在り。李龍遷は隆州に祀り、謝夷甫は福州に祀る。皆民のために患を捍ぐ。呉の丞相陸遜は労を以て国を定む、宜しく呉に祀るべく、子の抗・従子の凱を配す。元の総管李黼は江州に祀を立て、元帥余闕は安慶に廟を立つ。皆死を以て事に勤む。闕に従って皖を守り、全家殉義する者に、万戸李宗可有り、宜しく闕の廟に配享すべし」。皆報可された。明年、郷飲酒礼を天下に頒するよう命じ、又、大成楽器を制させ、学宮に分頒した。この時、八事を以て外吏を考課し、及び雲南の功賞を次第すること、事は礼部に隷せざるも、帝は皆昂にその議を主たせた。未だ幾ばくもなく、告帰した。

李原名

李原名、字は資善、安州の人。洪武十五年、経書に通じた儒士として挙げられ御史となった。二十年、平緬に使いして帰り、言う、「思倫発は詐りを懐き窺伺す、宜しく辺備を厳にすべし。靖江王が大理の印を用いて令旨を行い、法に非ず、遠人に軽んぜらる」。旨に称し、礼部尚書に抜擢された。ここより遠方の事は多く彼に諮った。高麗が奏す、遼東の文・高・和・定州は皆その国の旧壤なり、鉄嶺に就いて屯戍せんことを乞う。原名言う、「数州は皆元の版図に入り、遼に属す。高麗の地は鴨緑江を以て界とす。今鉄嶺は既に衛を置く、宜しからず」。また陳請有り、帝は命じてその国に分土を守り、釁を生ぜざるよう諭した。安南は歳ごとに方物を貢いだが、帝はその民を労するを念い、原名は帝の意を以てこれを諭し、三年に一貢とさせ、ここより定制となった。又、帝の命を以て養老の政を行い、府州県の歳貢の多寡の数を申明し、官民の巾服の式を定め、皆令として著した。

初め、答禄与権の言により、歴代帝王廟を建てた。ここに至り原名は風後・力牧等三十六人を侑享するよう請うた。帝は趙普・安章・阿術を去り陳平・馮異・潘美・木華黎を増やし、其余は悉く原名の奏の如くした。魯王薨じ、喪服の制を定めた。進士王希曾が出母の喪を請うたが、原名は礼に非ずと謂い、禁ずべきとす。凡そ郊祀・宗廟・社稷・岳瀆諸制は、先後の儒臣が論定したが、時に詳略有り、帝は悉く原名にこれを更正させた。諸礼臣の中で惟だ原名のみ在任久しかった。二十三年、老いて致仕した。

楽韶鳳

楽韶鳳、字は舜儀、全椒の人。博学で文章を能くした。和陽において太祖に謁し、江を渡り従い、軍事に参じた。洪武三年、起居注に授かり、数遷する。六年、兵部尚書に任じられ、中書省・御史台・都督ととく府とともに軍士を教練する法を定めた。侍講学士に改め、承旨詹同とともに釈奠先師の楽章を正し、『大明日暦』を編集した。七年、帝は祭礼より鑾駕還るに、楽舞を以て前導すべきとし、韶鳳等に詞を撰するよう命じた。因って『神降祥』・『神貺恵』・『酣酒』・『色荒』・『禽荒』諸曲を撰して進め、凡そ三十九章、『回鑾楽歌』と曰い、皆規諫を寓す。礼部が『楽舞図』を具えて上すと、命じて太常に習わしめた。

明年、帝は旧韻が江左より出で、多く正しきを失うとし、命じて廷臣と参考し中原の雅音を以てこれを正した。書成り、名づけて『洪武正韻』と曰う。又、孝陵の寢における朔望祭祀及び壇に登り舄を脱ぐ諸礼の議を命じ、皆詳しく故実を稽え、俱にこれに従った。未だ幾ばくもなく病免した。未だ幾ばくもなく、また起用されて祭酒となった。詔を奉じて皇太子と諸王の往復する書札の礼を定め、考据精詳にして、屡々褒答を受けた。十三年致仕して帰り、寿を以て終わった。弟の暉・礼・毅、皆知名なり。

賛に曰く、明初の礼を議するや、宋濂は方に家居し、諸儀は率ね多く陶安が裁定す。大祀の礼は専ら安の議を用い、その余は諸説を参匯し、その長ずる所に従う:祫禘は詹同を用い、時享は朱升を用い、釈奠・耕籍は銭用壬を用い、五祀は崔亮を用い、朝会は劉基を用い、祝祭は魏観を用い、軍礼は陶凱を用いる。皆能く経義に援拠し、古を酌み今に準え、郁然として一代の休明の治を成す。折中断制するは、裁するに上心よりすと雖も、諸臣の功また何ぞ少なからんや。