廖永安
廖永安は、字を彦敬という。徳慶侯廖永忠の兄である。太祖が初めて挙兵したとき、永安兄弟は俞通海らとともに水軍を率いて巣湖より帰順した。太祖は自ら出向いてその軍を収め、水軍をもって元の中丞蛮子海牙を馬場河に攻撃した。元軍は楼船を操り、進退に不便であったが、永安らは舟を飛ぶように操り、再戦して再び元兵を破り、渡江の策を定めた。まもなく江口を出発した。永安が帆を掲げて進路を請うと、牛渚を直指せよと命じた。西北風がちょうど激しく、たちまち岸に達した。太祖は急いで甲士を指揮して勇気を奮って上陸させると、採石鎮の兵は皆潰走し、勝に乗じて太平を取った。管軍総管に任じられた。水軍をもって海牙の水柵を破り、陳兆先を擒らえ、集慶に入った。建康翼統軍元帥に抜擢された。水軍を率いて鎮江を取るに従い、常州を克ち、同僉江南行枢密院事に抜擢された。また水軍をもって常遇春とともに銅陵より池州へ向かった。合攻してその北門を破り、徐寿輝の守将を執り、池州を克った。俞通海とともに江陰の石牌戍を抜き、張士誠の守将欒瑞を降した。同知枢密院事に抜擢された。また水軍をもって士誠の兵を常熟の福山港に破った。再び通州の狼山にこれを破り、その戦艦を獲て帰還した。徐達に従って宜興を復し、勝に乗じて太湖に深入した。呉の将呂珍に遇い、戦った。後軍が続かず、舟が浅瀬に乗り上げ、捕らえられた。
永安は水戦に長け、至る所で功績があった。士誠はその才勇を愛し、降伏させようとしたが、承諾せず、囚われの身となった。太祖は永安の不屈を壮とし、遥かに行省平章政事を授け、楚国公に封じた。永安は囚われて凡そ八年、ついに呉で死んだ。呉が平定されると、遺骸が還され、太祖は郊外で迎えて祭った。
洪武六年、帝は天下が大定したことを思い、諸功臣のうち永安及び俞通海、張德勝、耿再成、胡大海、趙徳勝、桑世傑らが皆すでに以前に没し、まだ諡号が無いことを考え、礼部に下して議を定めさせた。議して言うには、「元が統御を失い、四海が沸騰した。英傑の士は、あるいは義兵を起こし、あるいは一方を保ち、混乱して所属を知らなかった。真人が奮い興り、期せずして自ら至り、龍が行けば雲が従い、虎が嘯けば鳳が応じた。楚国公臣永安らの如きは、皆熊羆の士、膂力の才であり、堅陣に陥り陣没するか、変に罹り身を捐て、義と忠と倶にし、名は天地に耀く。陛下は天下を混一し、旧労を追憶され、爵禄は子孫に及び、祭祀は祀典に著わされる。名を易え諡を定めるは、礼において宜しい。臣謹んで諡法を按ずるに、敵に赴き難に逢うを以て、臣永安を武閔と諡し、身を殺して戎を克つを以て、臣通海を忠烈と諡し、上に奉じて果敢を致すを以て、臣張徳勝を忠毅と諡し、敵に勝ち強を致すを以て、臣大海を武庄と諡し、土を辟き境を斥くも、武にして遂げざるを以て、臣再成を武壮と諡し、衝を折り侮を禦いで、壮にして力有るを以て、臣趙徳勝を武桓と諡す。臣世傑は、業永義侯に封ぜられ、漢の世祖が寇恂、景丹を封ぜられたことに類し、即ちこれを以て諡とすべし。」詔して曰く、「可なり。」九年、皆に開国輔運推誠宣力武臣、光禄大夫、柱国を加贈した。後に、また永安を鄖国公に改封した。子が無く、その従子廖升を指揮僉事に授けた。
俞通海
俞通海は、字を碧泉という。その先祖は濠の人であるが、父の廷玉が巣に移った。子三人、通海、通源、淵。元末、盗賊が汝・潁に起こった。廷玉父子は趙普勝、廖永安らと巣湖に寨を結び、水軍千艘を有した。たびたび廬州の左君弼に窘まされ、通海を遣わして間道より太祖に帰順させた。太祖はちょうど和陽に軍を駐め、渡江を謀っていたが、舟楫が無かった。通海が至ると、大いに喜んで曰く、「天我を賛するなり!」自ら往ってその軍を慰撫した。趙普勝は叛いて去った。元兵は楼船をもって馬場河などの口を扼した。湖に臨んでただ一港通じるのみであったが、これも久しく涸れていた。ちょうど大雨が降り、水深一丈余となり、舟を引き出して江に出、和陽に至った。通海は人となり沈毅で、軍を治めるに厳にして恩有り、士卒は用いられることを喜んだ。巣湖の諸将は皆水戦に長けていたが、通海が最も優れていた。海牙の諸水寨を破るに従い、万戸に任じられた。渡江に従い、採石を克ち、太平を取り、諸属県を巡って下した。海牙が再び戦艦をもって採石を遮断し、陳兆先が淮兵二十万を合わせて方山に屯し、互いに犄角の勢いをなした。通海は廖永安らとこれを撃ち、その衆を大いに破り、海牙は遁走した。進んで兆先を破り、集慶路を取った。湯和に従って鎮江を抜き、秦淮翼元帥に遷った。諸将とともに丹陽、金壇、常州を取った。行枢密院判官に遷った。寧国を克つに従い、水陽を下し、水軍をもって太湖を攻略し、張士誠の守将を馬跡山に降し、舟を胥口に艤した。呂珍の兵が突然至ると、諸将は退こうとした。通海は曰く、「不可なり。彼衆我寡、退けば情見る。之を撃つに如かず。」乃ち身を先んじて疾く戦い、矢雨の如く下り、右目に中り、戦うことができなくなった。帳下の士に命じて己が甲を被らせ督戦させた。敵は通海と思い、敢えて逼らず、徐々に解いて去った。これにより一目は遂に眇となった。後に、永安らとともに石牌戍を克ち、馬馱沙を奪って還った。
普勝は既に叛いて友諒に帰し、池州を陥とし、別将を遣わして守らせ、自らは樅陽水寨を占拠した。太祖はちょうど浙東を征し、樅陽を憂えた。通海が往って攻め、大いにこれを破った。普勝は陸路で逃げ、その舟をことごとく獲、遂に池州を復した。僉枢密院事に遷った。陳友諒が龍湾を犯すと、諸将とともにこれを撃退し、その舟を慈湖に追って焚き、七帥を擒らえ、北に逐って採石に至った。功最も多く、枢密院同知に進んだ。友諒を攻めるに従い、銅陵を下し、九江を克ち、蘄・黄を掠めた。徐達に従って叛将祝宗、康泰を撃ち、南昌を復した。安豊を救援するに従い、士誠の兵を破った。還って廬州を攻めた。
友諒が大挙して南昌を囲んだ。太祖に従ってこれを撃った。康郎山に遇い、舟が小さく仰攻めできず、力戦してほとんど支えられなかった。通海は風に乗じて火を放ちその舟二十余を焚き、敵は少し挫けた。太祖の舟が膠着すると、友諒の驍将張定辺が直前に進み、太祖の舟を犯した。常遇春が定辺に射中て、通海が飛舸で来援し、舟が急進して水が涌き、太祖の舟は脱することができた。しかし通海の舟はまた敵の巨艦に圧され、兵士は皆頭で艦を押し、兜鍪ことごとく裂け、辛うじて免れた。翌日再び戦い、廖永忠らとともに七舟に火薬を置き、敵舟数百を焚いた。二日を過ぎ、再び六舟で深入した。敵は大艦を連ねて力強く拒んだ。太祖が舵楼に登って望むと、久しく何も見えず、すでに没したと思った。しばらくして、六舟が敵艦を繞って出て、飄颻として游龍の如かった。軍士は歓噪し、勇気百倍し、戦い益々力んだ。友諒の兵は大敗した。師は左蠡に次ぐと、通海は進言して曰く、「湖に浅き有り、舟は難く迴旋す。江に入り、敵の上流を拠るに若かず。彼の舟入れば、即ち擒と成らん。」遂に師を移して湖を出、水陸に柵を結んだ。友諒は敢えて出なかった。湖中に一月居り、食尽き、兵を引いて突走し、竟に敗死した。この役、通海の功最も多し。師が還ると、良田金帛を賜った。
通海の父廷玉は僉樞密院事に官し、先に卒し、河間郡公を追封さる。通海子無く、弟通源その官を嗣ぐ。
弟 通源
弟 淵
胡大海
胡大海、字は通甫、虹の人。身長く、面鉄の如く、智力人に過ぐ。太祖初めに起つ、大海走りて滁陽に謁す。前鋒を命ぜらる。江を渡るに従い、諸将と地を略し、功を以て右翼統軍元帥を授かり、帳下に宿衛す。寧国を破るに従い、副院判鄧愈とこれを戍る。遂に徽州を抜き、その境内を略定す。元の将楊完者、十万の衆を以て来攻す。大海城下に戦い、大いにこれを破り走らしむ。遂に鄧愈・李文忠と昱嶺関より建徳を攻む。淳安にて元師を破り、遂に建徳を克つ。再び楊完者を破り、溪洞の兵三万を降す。進みて樞密院判官となる。蘭溪を克ち、婺州を取るに従い、僉樞密院事に遷る。諸暨を下す、守将宵遁す。万戸沈勝既に降りて復た叛く、大海これを撃ち破り、生擒四千余人。諸暨を諸全州と改む。兵を移して紹興を攻め、再び張士誠の兵を破る。太祖、寧・越の重地を以て、大海を召してこれを守らしむ。士誠の将呂珍、諸全を囲む。大海これを救う。珍水を堰きて城を灌がんとす。大海堰を奪い、反って珍の営を灌ぐ。珍勢蹙り、馬上に於いて矢を折りて誓う。各兵を解かんことを請う、これを許す。郎中王愷曰く、「珍は猾賊、信ずべからず、撃つに因るに如かず」と。大海曰く、「言い出してこれを背くは、信ならず。既に縦してこれを撃つは、武ならず」と。師還る、人皆その威信に服す。尋いで処州を攻め、元の将石抹宜孫を走らしめ、遂に処州七邑を定む。
陳友諒龍江に寇す。命じて分軍して信州を搗ち、以て敵を牽制せしむ。大海王愷の言を用い、親しく兵を引き往き、遂に信州を克ち、以て広信府と為す。信は方に糧絶ゆ。或いは師を還すを勧む。大海曰く、「これ閩・楚の襟喉の地なり、これを棄つべけんや」と。城を築き隍を浚いて以てこれを守る。是に先だち、軍糧少なく、得たる郡県、将士皆民に糧を征し、名づけて寨糧と曰う。民甚だこれを病む。大海以て言う、始めて命じて罷去せしむ。進みて江南行省参知政事となり、金華に鎮す。
初め、厳州既に下る。苗将蔣英・劉震・李福皆桐廬より来帰す。大海その驍勇を喜び、麾下に留め置く。ここに至り、三人者謀りて乱を作らんとす。晨に入り分省署し、大海に八詠楼に於いて弩を観ぜんことを請う。大海出づ。英その党を遣わし馬前に跪き、詐りて英の過ちを訴う。大海未だ答うるに及ばず、反顧して英を見る。英袖中の槌を出して大海を撃ち、脳に中りて地に仆す。並びにその子関住・郎中王愷皆害に遇う。英等城中を大いに掠め、呉に奔る。その後、李文忠杭州を攻む。杭人英を執りて降る。太祖命じて英を誅し、その血を刺して以て大海を祭る。
大海兵を用いるに善く、毎に自ら誦して曰く、「吾れ武人、書を知らず、惟だ三つの事を知るのみ。人を殺さず、婦女を掠めず、廬舎を焚毀せず」と。是を以て軍行くところ遠近争い附く。及び死す、聞く者涙を流さざる無し。また士を好み、至る所輒ち豪雋を訪求す。劉基・宋濂・葉琛・章溢の見聘せらるるや、大海実にこれを薦む。越国公を追封し、諡して武庄と曰い、功臣廟に肖像し、太廟に配享す。
初め、太祖婺州を克つ。酒を釀すを禁ず。大海の子首めてこれを犯す。太祖怒り、法を行わんと欲す。時に大海方に越を征す。都事王愷誅せざるを請い、以て大海の心を安んぜんとす。太祖曰く、「寧ろ大海をして我に叛かしむべし、我をして法を行わずんばあらしむべからず」と。竟に手ずからこれを刃す。及び関住復た殺さる、大海遂に後無し。
養子 徳済
養子徳済、字は世美、何れの許の人なるかを知らず。大海これを帥いて太祖に帰す。婺州を攻むるに従い、誘兵と為り、梅花門外にて元兵を大破し、その将季弥章を擒らう。ここより名を知らる。信州を下すに及び、太祖徳済を行樞密院同僉と為し、使いてこれを守らしむ。陳友諒の将李明道来り寇す。徳済これと力戦す。大海来り援く、これを夾撃し、明道及びその宣慰王漢二を擒らう。及び大海蔣英の害せらるるに及び、処州の降将李祐之もまた院判耿再成を殺して以て叛く。張士誠浙東の乱を聞き、その弟士信を遣わし諸全に寇す。徳済信州より往き救い、懈に乗じて城に入ることを得、知州欒鳳・院判謝再興と門を分かち守る。夜半、敵の意に出でず、士信の営を砍ち、これを破り走らしむ。浙江行省参知政事に擢げられ、新城に移り守る。士誠の将李伯升歩騎を帥いて大いに寇す。徳済固く守り、李文忠に師を乞う。文忠馳せ救う。徳済出兵して夾撃し、大いにこれを破る。詳しきは文忠伝に在り。
時に胡徳済の部下には密かに家族を新城に移した者がおり、朱文忠は胡徳済がそうさせたのではないかと疑った。その都事羅彦敬を誅殺し、胡徳済を戒めようとした。将士たちは皆怒り、走って胡徳済に告げた。胡徳済は平然として言った、「右丞(文忠)が彦敬を殺したのは、広信で作戦衣に欠陥があったからだ。再び言う者は斬るぞ」。ここにおいて太祖は胡徳済を召して褒め諭し、文忠を責めて将士の心を失ったことを咎めた。そして言った、「胡徳済の度量は、汝には及ばない」。胡徳済を浙江行省右丞に抜擢し、駿馬を賜った。間もなく、左丞に改め、杭州に移って鎮守した。大将軍徐達に従って定西に出撃した。胡徳済の軍は戦いに利あらず、徐達はその部将数人を斬り、徳済を械にかけて京師に送った。帝は旧功を思い、これを釈放した。再び都指揮使とし、陝西を鎮守させ、卒した。
附 欒鳳
欒鳳は高郵の人である。諸全を知り、有能な名声があった。方士信が攻めて来た時、謝再興と力を合わせて守り、しばしば奇兵を出して敵を挫いた。謝再興が部下の校官を杭州で商売させたので、太祖は我が軍の虚実を漏らすことを憂い、謝再興を召還し、参軍李夢庚に諸全の軍馬を総制させた。やがて謝再興の功を思い、兄の子朱文正にその長女を娶らせ、徐達にその幼女を娶らせた。再び諸全を守らせた。謝再興は李夢庚が己の上に出たことを憤り、欒鳳もまた些細なことで彼を制裁したので、遂に叛き、欒鳳を殺した。欒鳳の妻王氏は身をもって欒鳳を庇い、共に殺された。李夢庚を捕らえ、張士誠に降ったが、李夢庚もまたそのために死んだ。太祖は謝再興が幾度も功があったため、叛くのは彼の本意ではなかったと考え、故に欒鳳と李夢庚はともに恩恤を受けられなかったという。
耿再成
耿再成、字は徳甫、五河の人である。太祖に従って濠に起ち、泗州・滁州を攻略した。元兵が六合を包囲した時、太祖がこれを救援し、耿再成と共に瓦梁塁に軍を置いた。力戦したが、敵わないと判断し、引き返した。元兵が後を追って来たので、太祖は澗の側に伏兵を設け、耿再成に敵を誘わせ、大いにこれを破った。鎮撫として従って江を渡り、集慶を落とした。元帥として鎮江を守り、行枢密院判官として長興を守り、再び揚州を守った。金華攻略に従い、先鋒となり、縉雲の黄龍山に屯して敵の衝要を遮った。胡大海と共に石抹宜孫を処州で破り、その城を落として守った。石抹宜孫が攻めて来ると、また慶元でこれを破った。
耿再成は軍を厳しく統率し、士卒が民間に入っても、野菜や果物を損なうことはなかった。金華の苗帥蒋英らが叛き、胡大海を殺した。処州の苗帥李祐之らがこれを聞き、また乱を起こした。耿再成がちょうど客と食事をしている時、変事を聞き、馬に乗り、戦える兵卒を集めても二十人に満たず、賊を迎え撃って罵った、「賊奴め!国家が汝らに何の負い目があって、叛くのか」。賊が槍を集めて耿再成を刺した。耿再成は剣を振るって数本の槍を続けざまに断ち切り、傷ついて馬から落ち、絶えず罵りながら死んだ。胡深らがその屍を収め、仮葬した。後に金陵の聚宝山に改葬した。高陽郡公を追封し、太廟に配享し、功臣廟に肖像を祀った。洪武十年に泗国公を加贈し、諡を武壮とした。
子の耿天璧は、父の難を聞き、部曲を糾合して賊を殺した。到着する頃には、李文忠が既に賊を破って斬っていた。そこで耿天璧に処州を守らせた。方国珍・張士誠を防ぐこと皆功があり、指揮副使に抜擢された。浦城を攻略し、建寧を搗き、陳友定を敗走させた。襄陽を征伐し、西安まで進んだ。河州・臨洮を招諭し、皆降した。杭州指揮同知に改めた。七年に海に出て倭を捕らえ、外洋深くに入り、溺死した。
張徳勝(汪興祖)
張徳勝、字は仁輔、合肥の人である。才略は雄大であった。俞通海らと舟師を率いて巣から来て帰順した。従って江を渡り、採石・太平を攻略した。陳埜先が攻めて来た時、湯和らと共にこれを破り捕らえた。太平興国翼総管を授かった。蛮子海牙の水寨を破り、陳兆先を生け捕りにした。集慶を落とし、鎮江を攻略し、秦淮翼元帥を授かった。常州を取ると、枢密院判に抜擢された。寧国を攻略し、長槍兵を収めた。太湖を下り、馬跡山を攻略した。宜興を攻め、馬馱沙及び石牌寨を取った。僉枢密院事に進んだ。趙普勝が池州を陥落させた時、張徳勝が救援に向かったが、間に合わず、帰還し、徐達に従って宜興を攻略した。趙普勝が再び青陽・石埭を掠めた。張徳勝が柵江口でこれと戦い、破って敗走させた。やがて、また俞通海と共にその軍勢を撃破し、遂に池州を回復した。兵を率いて無為から浮山に向かい、趙普勝の将胡総管を敗走させ、追撃して青山でこれを破り、敗走する敵を追って潜山に至った。陳友諒の将郭泰が沙河で迎え撃ったが、これを破り斬り、遂に潜山を攻略した。陳友諒が龍江に侵攻した時、張徳勝が舟師を総率して迎え撃ち、殺傷は互角であった。張徳勝が大声で叫び、諸将に奮撃を指揮した。陳友諒軍は崩れ、遂に大敗した。諸将と共に慈湖まで追撃し、火を放ってその船を焼いた。採石に至り、大戦し、陣中にて戦死した。蔡国公を追封し、諡を忠毅とし、功臣廟に肖像を祀り、太廟に配享した。子の張宣は幼かった。養子の汪興祖が職を嗣いだ。
汪興祖は巣の人である。本姓は汪であった。職を嗣いだ後、安慶攻略に従い、江州を攻略し、蘄州・黄州を抜き、南昌を取った。安豊救援に従い、張士誠の兵を大いに破った。鄱陽湖の戦いでは、廖永忠らと共に六隻の舟で深く突入した。また涇江口で陳友諒を邀撃した。功績最も顕著で、湖広行省参政に抜擢された。武昌平定に従い、遂に廬州を攻略し、地を攻略して通州に至って帰還した。大都督府僉事に進んだ。徐達に従って淮東を取り、浙西を落とした。同知大都督府事に進んだ。大軍が北征した時、別将として衛軍を率いて徐州から沂州・青州・東平を攻略し、勝ちに乗じて東阿に至り、元の参政陳璧及びその部下五万余人を降した。孔子五十六世の孫衍聖公孔希学が曲阜知県孔希挙・鄒県主簿孟思諒らを率いて軍門に迎え謁したので、汪興祖は礼を以て遇した。兗州以東の州県は風聞して皆降り、遂に済寧・済南を取った。
汪興祖の子は幼かったので、張宣と同居するよう命じた。病により卒し、爵位は除かれた。
趙徳勝
太祖の西征に従い、安慶の水寨を破り、風に乗って小孤山を溯った。九江より五里のところで、友諒は初めて知り、慌てて遁走した。ついに九江を克ち、黄梅・広済を徇い、瑞昌・臨江・吉安を克ち、還って安慶を下した。進んで撫州を克ち、新淦を取った。南昌の叛将を討ち、その城を回復し、砲で肩を傷つけた。僉江南行枢密院事を授かった。朱文正・鄧愈と共に南昌を守った。池州で羅友賢を平らげ、西山で友諒の将を破った。臨江・吉安・撫州を回復した。間もなく、友諒は大挙して兵を起こし南昌を囲んだ。徳勝は配下の数千を率い、城を背にして逆戦し、その将を射殺したので、敵は大いに沮喪した。明日また合戦し、城を数重に囲んだ。友諒は親しく督戦し、昼夜攻め、城はまさに破れんとした。徳勝は諸将を率いて死戦し、戦いながら築き、城が破れてもまた完うした。暮れに城門楼に坐し、士卒を指揮した。弩が腰膂に中り、鏃は六寸入り、これを抜き出し、嘆いて言うには、「我れ壮歳より軍に従い、矢石に傷つくこと屡なりしも、これより重きはなし。丈夫死すとも恨みなし、恨むらくは中原を掃清し得ざるのみ」と。言い終わって絶命した。年三十九。梁国公を追封され、諡は武桓、功臣廟に列祀され、太廟に配享された。
徳勝は剛直沈鷙にして、下を馭するに厳粛であった。未だ書を読んだことはなかったが、機に臨み応変し、動き古法に合った。平居は篤く孝友し、修士の如くであった。
友諒が南昌を囲むこと八十五日、先後に戦死した者は凡そ十四人。
張子明は、兵を領する千戸である。洪都の囲み久しく、内外隔絶し、朱文正は子明を遣わし応天に急を告げさせた。東湖の小漁舟に乗り水関より潜り出で、夜行き昼止み、半月にして始めて達し得た。太祖が友諒の兵勢を問うと、答えて言うには、「兵は盛んなりといえども、戦闘の死者少なからず。今江水日々涸れ、賊の巨艦は将に利あらず。援軍至れば破るべし」と。太祖は子明に謂うには、「帰りて汝の帥に語れ、一月堅守せよ、我自らこれを取らん」と。還るに湖口に至り、友諒に捕らえられた。城中を誘いて降らすよう命じると、子明は偽って諾った。城下に至り、大呼して言うには、「我は張大舍なり。既に主上に見え、諸公に堅守せよと令し、救い将に至らんとす」と。賊は怒り、槊を集めてこれを殺した。忠節侯を追封された。
友諒が撫州を攻めると、枢密院判李継先は城に乗じて戦死した。左翼元帥牛海龍は囲みを突いて死んだ。左副元帥趙国旺は兵を引き戦艦を焼き、敵が追い至ると、橋下に投じて死んだ。百戸徐明は馬を躍らせ出で賊を射た。賊は明の名を知り、力を併せて攻め、捕らえられて死んだ。軍士張徳山は夜半潜り出で城を出で、賊の舟を焚き、賊に覚られて死んだ。夏茂成は城楼を守り、飛砲に中り死んだ。右翼元帥同知朱潜・統軍元帥許珪はともに戦死した。蒋必勝が吉安を陥とすと、参政劉斉・知府朱文華は捕らえられ、屈せず死んだ。趙天麟は臨江を守り、友諒がこれを攻め、城陥ち、屈せず死んだ。祝宗・康泰が叛き、洪都を陥とすと、知府葉琛と行省都事万思誠は迎え戦い、ともに死んだ。事平らぎ、皆爵を贈られ侯伯以下差等あり、豫章に忠臣廟を立て、併せて十四人を祠り、徳勝を首とした。而して康郎山の戦死者三十五人、首は丁普郎。
普郎は初め陳友諒の将となり、小孤山を守った。傅友徳とともに来降し、行枢密院同知を授かり、数たび功があった。及んで南昌を援け、鄱陽湖で大戦した。辰より午に至り、普郎は身に十余創を受け、首が脱げてもなお直立し、兵を執り斗う状をなし、敵は驚いて神と為した。時に七月己丑なり。済陽郡公を追贈された。
張志雄もまた友諒の将で、素より驍勇、長張と号した。趙普勝に従い安慶を守った。友諒が普勝を殺すと、志雄は怨み、来降し、枢密院判となった。この時に至り舟の檣折れ、敵が刺し集めるのを知り、脱し得ざるを知り、ついに自刎した。
元帥余昶・右元帥陳弼・徐公輔は皆その日に戦没した。
先だつ一日、左副指揮韓成、元帥宋貴・陳兆先が戦没した。兆先は、埜先の従子、既に擒にされ、太祖はその兵を以て宿衛に備えさせた。帝の大度に感じ、死力を効し、この時に至り戦死した。韓成の子観は都督に至り、別に伝がある。
四日を過ぎ、辛卯、また大戦し、副元帥昌文貴・左元帥李信・王勝・劉義が死んだ。
八月壬戌、敵を涇江口に扼し、同知元帥李志高・副使王咬住もまた戦死した。
他の偏裨で死事した者は、千戸姜潤・王鳳顕・石明・王徳・朱鼎・王清・常徳勝・袁華・陳沖・王喜仙・汪沢・丁宇・史徳勝・裴軫・王理・王仁、鎮撫常惟徳・鄭興・逯徳山・羅世栄・曹信。凡そ公一人・侯十二人・伯二人・子十五人・男六人を贈り、康郎山忠臣廟に肖像し、有司歳ごとに祭った。
また程国勝は、徽州の人である。義兵元帥として来帰し、楊完者を敗った。功を累ねて万戸に至った。南昌を守った。牛海龍と夜に友諒の営を劫う。海龍は流れ矢に中り死に、国勝は水を泅って脱し、金陵に抵った。太祖に従い鄱陽に戦う。張定辺が直前に進み太祖の舟を犯すと、国勝は韓成・陳兆先と舸を駕し左右奮撃し、太祖の舟は脱した。国勝らは繞り出で敵艦の後に出で、援絶え、力戦して死んだ。而して南昌城中では国勝が既に前に死したと謂い、故に豫章・康山の両廟ともに預かり祀られるという。
桑世傑
桑世傑は無為の人である。亦た自ら巢湖より來歸す。趙普勝に異志有り、世傑其の謀を發し、普勝逸去す。從ひて江を渡り、舟師を以て元の水軍を破る。秦淮翼元帥を授けらる。鎮江を下し、金壇・丹陽を徇ひ、寧國長槍諸軍を攻め、水陽を克ち、常州を平らぐ。行樞密院事を判ず。江陰・宜興を略す。
初め、石牌の民硃定は、鹽を販り無賴にして、富民趙氏と隙有り、遂に變を告げ、趙氏を滅ぼし、江陰判官を授けらる。尋いで復た盜と為り、元兵を遣はして之を捕ふ。定、張士誠の高郵を據ふるを聞き、乃ち士誠を導きて通州より江を渡らしめ、遂に平江を陷す。定を以て參政と為し、而して元帥欒瑞を遣はして石牌を戍らしむ。大兵既に江陰を取るに及び、瑞尚ほ石牌に據り、舟師を導き往來す。太祖、永安及び世傑に命じて之を撃たしむ。世傑力戰して死し、瑞亦た降る。張氏の江路を窺ふこと絶ゆ。太祖其の功を念ひ、安遠大將軍・輕車都尉・永義侯を贈り、太廟に侑享せしむ。
附 劉成
又た劉成と云ふ者は、靈璧の人なり。統兵總管を以て耿炳文に從ひ長興を定め、永興翼左副元帥と為り、數へて炳文を佐け士誠の兵を敗る。李伯升十萬の衆を以て來攻す。城中の兵僅かに七千。太祖兵を遣はして之を援く。未だ至らざるに、炳文城を嬰りて守る。成數騎を引きて西門より出で、伯升の兵を撃ち破り、其の將宋元帥を擒ふ。轉じて東門に至る。敵悉く兵を以て之を圍む。遂に戰ひて死す。懷遠將軍を贈り、廟を長興に立つ。
茅成
茅成は定遠の人なり。和州より從軍し、常遇春の麾下に隷す。太平を克ち、始めて萬戸を授けらる。常州・寧國を定むるに從ひ、總管に進む。衢州を克ち、副元帥を授けらる。金華を守り、太平興國翼元帥と改む。安慶を克つに從ひ、安豐を援け、鄱陽に戰ひ、武昌を克ち、武德衛千戶を授けらる。尋いで指揮副使に進む。贛州・安陸・襄陽・泰州を取り、皆功有り。徐達に從ひ平江を攻め、張士誠の戰船を焚き、長圍を築きて之を困む。達婁門を攻む。士誠兵を出して戰ふ。成之を撃ち破る。突きて外郛に至り、叉に中りて死す。東海郡公を贈り、功臣廟に祀る。
附 楊國興
同時に死する者に、楊國興有り。亦た定遠の人なり。右翼元帥を以て宜興を守る。初め、常州の人陳保二衆を聚め、「黃包軍」と號す。即ち降りて復た叛き、詹・李二將を誘ひて執ふ。國興之を執へ斬る。神武衛指揮使を授けらる。是に至り閶門を攻め戰死す。其の子益を以て指揮使を襲はしむ。
胡深
胡深は字は仲淵、處州龍泉の人なり。穎異にして智略有り、經史百家の學に通ず。元末兵亂、嘆じて曰く、「浙東の地氣盡く白し、禍將に及ばんとす」と。乃ち里中の子弟を集めて自保す。石抹宜孫、萬戸を以て處州に鎮し、參軍事を辟き、兵數千を募り、諸山の寇を收捕す。溫州の韓虎等主將を殺し叛く。深往きて之を諭す。軍民感泣し、虎を殺して城を以て降る。已にして、章溢と偕に龍泉の亂を討ち、旁縣の盜を搜し、以て次第に之を平らぐ。宜孫時に已に行省參政に進み、制を承けて深を元帥と命ず。戊戌十二月、太祖親しく婺州を征す。深兵車數百輛を帥ひ往きて援く。松溪に至りて救ふ能はず、敗れて去り、婺遂に下る。明年、耿再成處州を侵す。宜孫分ちて元帥葉琛・參謀林彬祖・鎮撫陳中真及び深に兵を帥ひて拒戰せしむ。會ひて胡大海の兵至り、再成と合し、大いに之を破り、進みて城下に抵る。宜孫戰ひ敗れ、葉琛・章溢と建寧に走る。處州遂に下る。深龍泉・慶元・松陽・遂昌の四縣を以て降る。
太祖素より深の名を知り、召見し、左司員外郎を授け、還りて處州に遣はす。部曲を招集し、江西を征するに從ふ。既に定まり、親軍指揮を以て吉安を守らしむるを命ず。處州の苗軍叛き、守將耿再成を殺す。深平章邵榮に從ひ討ちて之を誅す。會ひて中書分省を改めて浙東行中書省と為す。遂に深を以て行省左右司郎中と為し、處州の軍民の事を總制せしむ。時に山寇竊發し、人情未だ固からず。深兵萬餘人を募り、渠帥を捕へ誅す。沿海の軍素より驍なり。其の尤も横なる者數人を誅す。患ひ遂に息む。癸卯九月、諸全の叛將謝再興、張士誠の兵を以て東陽を犯す。左丞李文忠、深に命じて兵を引き前鋒と為さしむ。再興敗走す。深議を以て諸全を浙東の籓屏と為し、乃ち地去ること諸全五十里なる五指山に並びて新城を築き、兵を分ちて戍守せしむ。太祖初め再興の叛くを聞き、急ぎ使を馳せて文忠に詣らしめ、別に城守の計を為さしむ。至るに則ち工已に竣る。後ち士誠の將李伯升大舉して來侵し、新城の下に頓し、拔く能はず、敗れて去る。太祖深の功を嘉し、名馬を以て之を賜ふ。
太祖吳王と稱し、深を以て王府參軍と為し、仍ほ處州を守らしむ。溫州の豪周宗道衆を聚めて平陽に據る。數へて方國珍の從子明善に逼めらる。城を以て來歸す。明善怒りて之を攻む。深兵を遣はして明善を撃ち走らしめ、遂に瑞安を下し、兵を進めて溫州に至る。方氏懼れ、歲に銀三萬を輸して軍實に充つるを請ふ。乃ち深に班師を命じ、復た還りて鎮せしむ。陳友定の兵至る。之を破り、浦城に追ひ、又た其の守兵を敗り、城遂に下る。進みて松溪を拔き、其の守將張子玉を獲る。因りて廣信・撫州・建昌の三路の兵を發し、八閩を規取せんことを請ふ。太祖喜びて曰く、「子玉は驍將なり。之を擒ふれば則ち友定膽を破らん。勢に乘じて之を攻むれば、理として克たざる無からん」と。因りて廣信指揮硃亮祖に命じて鉛山・建昌より、左丞王溥に杉關より、會ひて深と齊しく進ましむ。已にして、亮祖等崇安を克ち、進みて建寧を攻む。友定の將阮德柔固く守る。深氛祲を視て利あらずとし、之を緩めんと欲す。亮祖曰く、「師已に此に至る。庸ぞ緩むべけんや。且つ天道は幽遠にして、山澤の氣變態常無し。何ぞ征ふるに足らんや」と。時に德柔の兵錦江に屯し、深の陣の後を逼む。亮祖戰を督めて益急なり。深兵を引いて還り撃ち、其の二柵を破る。德柔の軍力戰す。友定自ら銳師を以て夾撃す。日已に暮れんとす。深圍みを突きて走る。馬蹶きて執へられ、遂に害に遇ふ。年五十二。追ひて縉雲郡伯に封ず。
太祖嘗て宋濂に問ひて曰く、「胡深は何如なる人ぞ」と。對へて曰く、「文武の才なり」と。太祖曰く、「誠に然り。浙東の一障、吾方に之を賴む」と。而して深は久しく鄉郡に任じ、志圖閩を平らげ以て報效せんとし、竟に死を以て徇ふ。深衆を馭するに寬厚にして、兵を用ふること十餘年、未だ嘗て妄りに一人を戮せず。處州を守り、學を興し士を造る。縉雲の田稅重し。新たに沒入する田租を以て其の數を償ふ。鹽稅は什一なり。半ば之を取るを請ひ、以て商賈を通ぜしむ。軍民皆其の惠を懷く云ふ。
孫興祖
未だ幾ばくもせず、中書省が都督同知汪興祖に俸事を兼ねさせて奏入す。帝、興祖の名を聞きて嘆息し、月俸を故燕山侯興祖の家に給することを命ず。その長子恪に武徳衛指揮使を襲がしむ。久しくして、都督僉事を歴任す。二十一年、右参将として藍玉に従い北征し、捕魚児海に至る。功を論じて全寧侯に封ぜられ、歳禄二千石、世券を賜う。恪は謹敏にして、儒将の風あり。征に従い楚・蜀に至り、還って沔陽に駐し、各衛所の軍士を簡閲して辺に備う。二十五年、進みて太子太保を兼ぬ。未だ幾ばくもせず、山西に兵を籍し、宋国公勝に従い兵を練る。旋って召還され、中都に第を賜う。後、藍玉の党に坐して死す。
曹良臣
明年、蜀を伐つに従い、帰州の山寨を克ち、容美諸土司を取る。周徳興が茅岡覃垕の寨を抜くに会し、白塩山より木を伐り道を開き、紙坊溪より出でて以て夔州に趨り、進んで重慶を克つ。明年、副将軍文忠に従い北征し、臚朐河に至り、その部籓を収む。文忠、良臣を帥い二十日の糧を持ち、兼程して進み土剌河に至る。哈剌章、河を渡り拒戦し、少しく却く。阿魯渾河に追い至る。敵騎大いに集まる。将士皆殊死に戦い、敵大いに敗走す。而して良臣と指揮周顕・常栄・張耀は皆戦死す。事聞こえ、良臣に安国公を贈り、諡して忠壮と為し、功臣廟に列祀す。子泰、侯を襲ぐ。藍玉の党に坐して死し、爵除かる。
附 周顕 常栄 張耀
濮英
洪武中、指揮使として事に死する者、又た于光・厳徳・孫虎あり。
附 于光 等
光は都昌の人。初め徐寿輝に事え、浮梁を鎮む。陳友諒、寿輝を弑す。光、浮梁を以て来降し、枢密院判を授かる。功を積みて鷹揚衛指揮と為り、鞏昌を鎮む。拡廓、蘭州を囲む。光赴援して馬蘭灘に至り、戦敗れて執らる。以て城下に徇す。光大呼して曰く、「公等但だ堅守せよ、徐将軍将に大軍旦夕に至らん」と。賊怒り、その頰を批り、遂に殺さる。功臣廟に祀る。
厳徳は太平の人。起兵に従い、功を積みて海寧衛指揮と為る。硃亮祖に従い方国珍を討ち、台州に於いて戦没す。天水郡公を追封す。
孫虎は何許の人なるかを知らず。池州を援くるに従い、於潜・昌化を下し、建徳・諸全を定め、皆功あり。千戸を授かる。新城・桐・廬を克ち、海寧衛指揮使に進む。嘉興の盗を平ぐ。副将軍李文忠に従い北征し、東道より応昌に入り、落馬河に至りて元兵と戦い死す。康安郡伯を追封す。
又た指揮僉事劉広、永平に戍し、寇を禦いで戦死す。涼州衛百戸劉林、涼州に戍し、也先帖木児叛き、戦死す。辺人これを壮とし、その居る所の竇融台を劉林台と名づく。銭塘衛千戸袁興、全椒の人。征に従い雲南に至り、自ら前鋒たることを請い、陣に陷りて死す。並びに褒贈差あり。
賛に曰く、明祖の興りは、決策して江を渡り、始めて東南数千里の内に力を爭ひ、友諒を摧き、士誠を滅ぼし、然る後に中原を北定し、閩・粵を南圖す。則ち廖永安胡大海以下諸人の功、豈に細やかならんや!計旋踵せず、疆場に命を效し、勛業未だ竟はざるも、然れども廟祀を褒崇し、竹帛爛然たり。功成りて爵を命ぜられ、終に黨籍に罹る者を視るに、其れ猶ほ幸ひなるか。