明史

列傳第二十二 何文輝 葉旺 馬雲 繋大亨 蔡遷 王銘 甯正 金興旺 花茂 丁玉 郭雲

何文輝

何文輝、字は德明、滁州の人である。太祖が滁州を下すと、文輝を得た。年十四歳、撫でて己が子とし、硃の姓を賜った。太祖が初めに挙兵した時、多く義子を蓄えた。成長すると、命じて諸将と共に諸路を分守させた。周舍は鎮江を守り、道舍は寧国を守り、馬児は婺州を守り、柴舍・真童は処州を守り、金剛奴は衢州を守った。皆、義子である。金剛奴は後世の記録がない。周舍は即ち沐英であり、軍中ではまた沐舍と呼んだ。柴舍とは硃文剛のことで、耿再成と共に処州の難で死んだ。また硃文遜がいるが、史書はその小字を伝えず、これも義子として太平で死んだ。沐英を除けば、最も著名なのは唯だ道舍と馬児であり、馬児は即ち徐司馬、而して道舍は即ち文輝である。文輝は天寧翼元帥として寧国を守り、江西行省参政に進んだ。数度江西を攻め、未だ下らぬ州県を討った。新淦の鄧仲廉を討ち、これを斬った。安福を救援し、饒鼎臣を走らせ、山尖寨を平らげた。徐達に従い淮東を取るに及び、また従って平江を下す。文綺を賜り、行省左丞に進み、その姓を復した。

征南副将軍として平章胡美と共に江西より福建を取らんとし、杉関を渡り、光沢に入り、邵武・建陽を巡り、直ちに建寧に向かった。元の同僉達里麻・参政陳子琦は門を閉ざして拒み守った。文輝と美はこれを環攻した。十日余りして、達里麻は支えられず、夜ひそかに文輝の営に至り、降伏を乞うた。翌朝、総管翟也先不花もまた衆を率いて文輝に降った。美は二人が己の許に詣でなかったことを怒り、その城を屠らんとした。文輝は馳せて美に告げて言うには、「公と共に命を受けてここに至ったのは、百姓を安んずるためである。今既に降ったのに、何ぞ私忿をもって人を殺さんや」と。美は乃ち止めた。師は城に入り、秋毫も犯すところ無かった。汀・泉の諸州県はこれを聞き、皆相次いで帰附した。時に車駕が汴梁に幸するに会し、文輝を召して扈従せしめ、因って命じて河南衛指揮使とし、汝州の余寇を定めしめた。大将軍に従い陝西を取り、潼関を留守した。洪武三年、大都督ととく府都督僉事を授け、世襲の指揮使を賜った。また参将として傅友徳等に従いしょくを平らげ、金幣を賜り、成都を留守した。

文輝は号令明粛にして、軍民皆これを徳とした。帝は嘗てその謀略威望を称えた。大都督府同知に遷る。五年、山東の兵を帥いて李文忠に従い応昌に出ることを命じられた。明年、北平に移鎮した。文忠が北征する時、文輝は兵を督して居庸関を巡り、疾えにより召し還された。九年六月卒す。年三十六。官を遣わして滁州東の沙河の上に葬らしめ、恤賚甚だ厚かった。子の環は、成都護衛指揮使となり、迤北を征して陣歿した。

附 徐司馬

徐司馬、字は従政、揚州の人である。元末の兵乱の時、年九歳、寄る辺無し。太祖これを得て、養って子とし、また姓を賜った。成長すると、出入りして左右に侍った。婺州を取るに及び、総制に除かれ、元帥常遇春を助けて婺を守ることを命じられた。呉元年、金華衛指揮同知を授かった。洪武元年、副将軍李文忠に従い北征し、元の宗王慶生を擒えた。杭州衛指揮使に擢られ、尋いで都指揮使に進んだ。詔して姓を復させた。

九年、河南に遷鎮した。時に汴梁に新たに北京を建て、重地と号した。帝は平素より司馬を賢しとし、特にこれを委任した。宋国公馮勝は河南で兵を練っていた。時に星変有り、占いは大梁に在り。帝は使者をして密かに勝に勅し、且つ曰く、「並びにこの語を以て馬児に知らしめよ」と。既にまた二人に勅して曰く、「天象屡見す、大梁は軍民錯処す、特に慎み防ぐべし。今秦・晋の二王京に還る、厳兵して宿衛すべし。王の汴に抵る時、若し宋国公出でて迓えば、則ち都指揮は居守すべし。都指揮出でて迓えば、則ち宋国公もまた然り」と。勅書は官を以てし名を挙げず、倚重すること宋公と等しかった。十九年入覲し、遂に中軍都督府僉事に擢られた。二十五年、左副総兵として藍玉に従い建昌を征し、越巂を討った。明年正月、還って成都に至り、卒した。藍玉の党に追坐せられ、二子皆罪を得た。

司馬は文学を好み、性謙厚にして、至る所士卒を撫循し、甚だ衆心を得た。河南に久しく在り、特に恵政有り。公暇退居する時、一室蕭然として寒素の如し。戦功は文輝に及ばざるも、雅量はこれを過ぎ、並びに賢将と称せられた。

葉旺(馬雲)

葉旺は六安の人である。合肥の人馬雲と共に長槍軍謝再興に隷し、千戸となった。再興叛くと、二人は自ら抜けて帰った。数度征伐に従い、功を積んで並びに指揮僉事を授かった。洪武四年、共に遼東を鎮守した。初め、元主北走し、その遼陽行省参政劉益は蓋州に屯し、平章高家奴と相い声援し、金・復等州を保った。帝は断事黄儔を遣わし詔を齎して益を諭した。益は所属の兵馬・銭糧・輿地の数を籍して来帰した。乃ち遼陽指揮使司を立て、益を指揮同知とした。未だ幾ばくもせず、元の平章洪保保・馬彦翬合謀して益を殺した。右丞張良ちょうりょう佐・左丞商暠は彦翬を擒えて殺し、保保は儔を挟んで納哈出の営に走った。良佐は因って衛事を権め、状を以て聞かせた。且つ言うには、「遼東僻遠、海隅に処り、肘腋皆敵境なり。平章高家奴は遼陽山寨を守り、知院哈剌章は瀋陽古城に屯し、開元には則ち右丞也先不花、金山には則ち太尉納哈出あり。彼此相依り、時に謀りて入犯す。今保保逃往す、釁必ず起こらん。乞うらくは断事呉立を留めて軍民を鎮撫せしめ、而して擒えたる平章八丹・知院僧孺等を械して京師に送らしめん」と。帝は立・良佐・暠を俱に蓋州衛指揮僉事と命じた。既に遼陽の重地を思い、また都指揮使司を設けて諸衛を統轄せしめ、旺及び雲を併せて都指揮使とし、往ってこれを鎮守せしめた。已にして、儔の殺されたるを知り、納哈出将に内犯せんとす。旺等に勅して予め備えを為さしむ。

未だ幾ばくもせず、納哈出果たして衆を以て至り、備御厳しきを見て、敢えて攻めず、蓋を越えて金州に至った。金州城は未だ完からず、指揮韋富・王勝等は士卒を督して諸門を分守した。乃剌吾は敵のぎょう将なり、精騎数百を率いて城下に挑戦し、伏弩に中たりて仆れ、我が兵の獲る所と為った。敵大いに沮喪す。富等は兵を縦って撃ち、敵は引き退き、敢えて故道よりせず、蓋城南十里の柞河に沿って遁れた。旺は先んじて兵を以て柞河を扼した。連雲島より窟駝寨に至るまで、十余里にわたり河に縁りて氷を壘みて牆と為し、水を沃いて、宿を経て凝沍して城の如し。釘板を沙中に布き、旁らに坑阱を設け、伏兵して以て伺う。雲及び指揮周鶚・呉立等は城中に大旗を建て、厳兵して動かず、寂として人無きが若し。已にして、寇城南に至る。伏兵四より起こり、両山旌旗空を蔽い、矢石雨の如く下る。納哈出倉皇として連雲島に趨り、氷城に遇い、旁らに走り、悉く阱に陥り、遂に大いに潰えた。雲は城中より出で、兵を合して追撃し将軍山・畢栗河に至り、斬獲及び凍死者算無く、勝に乗じて猪児峪に追い至った。納哈出は僅かに身を以て免れた。功を第し、旺・雲を俱に都督僉事に進めた。時に洪武八年なり。

十二年、命じて雲をして大寧を征伐させた。捷報が聞こえ、賞を受け、召還されて京師に帰った。後数年して卒した。旺は留まって鎮守することを従前の如くとした。時に高麗が使節を遣わして書状及び礼物を届け、また龍州の鄭白等が内附を請うた。旺はこれを上聞した。帝は言う、人臣に外交なし、これは間諜の兆しである、軽々しく信ずるなかれ。彼らは特に我に弱を示し、以て辺境の隙を窺うのである。これを返し、して口実とする所なからしめよ。明年、旺はまた高麗の使者周誼を送って京師に入った。帝はその国中のしいしいぎゃく、また朝使を詭殺したことを以て、反覆して信ずべからずとし、旺等を切責してこれを絶ち、誼を留めて遣わさなかった。十九年、旺を召して後軍都督府僉事とした。三月居るうち、遼東に警報あり、再び命じて還って鎮守させた。二十一年三月卒した。

旺と雲の遼東に鎮するや、荊棘を剪り、軍府を立て、軍民を撫輯し、田万余頃を墾き、遂に永利となした。旺は特に久しく、先後凡そ十七年に及んだ。遼人はこれを徳とした。嘉靖初年、二人が遼に功有るを以て、命じて有司に祠を立てさせ、春秋にこれを祀らしめた。

繆大亨

繆大亨は定遠の人である。初め義兵を糾合し、元のために濠を攻めたが、克たず、元兵は潰走した。大亨は独り衆二万人を率いて張知院と横澗山に屯し、固守すること月余りに及んだ。太祖は計略を以て夜その営を襲い、これを破り、大亨は子と共に走って免れた。夜明けに及び、再び散卒を収め、陣を列ねて待ち受けた。太祖はその叔父貞を遣わしてこれを諭し降し、命じて配下の兵を率いて征伐に従わせ、数たび功有り、元帥に抜擢した。総兵として揚州を取るに、これを克した。青軍元帥張明鑒を降した。

初め、明鑒は衆を淮西に聚め、青布を号とし、「青軍」と称し、また善く長槍を用いるを以て、「長槍軍」と称した。含山より転じて揚州を掠め、元の鎮南王孛羅普化がこれを招降し、以て濠・泗義兵元帥とした。一年を逾え、食尽き、謀って王を擁して乱を起こさんとした。王は走り、淮安にて死した。明鑒は遂に城を拠り、居民を屠って食とした。大亨は太祖に言う、賊は飢え困窮している、もし食を掠めて四方に出れば則ち制し難くなるであろう、かつ驍鷙にして用いるに足る、他人に得させてはならない、と。太祖は大亨に急ぎ攻撃することを命じ、明鑒は降り、衆数万、馬二千余匹を得た。その将校の妻子を悉く応天に送った。淮海翼元帥府を江南分枢密院と改め、大亨を以て同僉枢密院事とし、揚州・鎮江を総制させた。

大亨は治略有り、寛厚にして擾わず、しかして軍を治むるに厳粛にし、暴を禁じ残を除き、民は甚だこれを悦んだ。未幾にして卒した。太祖が鎮江を過ぎた時、嘆いて言う、「繆将軍は生平端直にして、未だ嘗て過ち有ること無し、惜しいかな見えざることを」と。使を遣わしてその墓を祭らせた。

附 武德

武德は安豊の人である。元の至正年中に義兵千戸となった。元の将に亡ぶるを知り、その帥張鑒に言う、「吾輩は才雄にして万夫に優る。今東に衄け西に挫け、事勢知るべし。早く依る所を択ぶに如かず」と。鑒はその言を然りとし、相率いて太祖に帰した。李文忠に隷し、従って池州に赴き、力戦し、流矢が右股に中ったが、抜き去り、戦うこと自若たり。於潜・昌化を取り、厳州を克ち、皆これに預かり、万戸に進んだ。苗帥楊完者が烏龍嶺に軍す。徳は請うて言う、「これは襲って取るべし」と。文忠がその故を問う。対えて言う、「高きに乗ってこれを覘うに、その部曲は徙挙して安からずして声囂し」と。文忠は言う、「善し」と。即ち完者を襲い、その営を覆した。蘭溪を取り、諸曁を克ち、紹興を攻め、皆先登して陣を陥し、右臂を傷つけても顧みなかった。文忠は嘆じて言う、「将士人々この如くならば、何の戦か捷たざらん」と。

蔣英・賀仁德の叛に、浙東大いに震動す。文忠に従って金華を定め、また従って処州を攻む。劉山にて仁德に遇い、戈が右股に中った。徳は刀を引いて戈を断ち、これを追撃した。仁德は再戦し、再び敗走し、遂にその配下に殺された。徳は師を還して厳州を守った。後二年、官制を定め、管軍百戸に改めた。文忠に従って諸曁にて張士誠の兵を破り、諸将とともに浦城を援け、過ぐる所の山寨は皆下した。また文忠に従って建・延・汀の三州を下し、閩溪の諸寨を悉く定めた。管軍千戸に進み、移って衢を守り、世襲を賜う。最後に靖海侯呉禎に従って海上を巡る。禎は徳を任に堪えるとし、令して平陽を守らせた。在任八年、致仕した。雲南を征するに及び、帝は徳を宿将として、諸大帥と偕に行かしむることを命じた。

張鑒はまたの名を明鑒といい、淮西の人である。既に太祖に帰して後は、攻伐する毎に必ず徳と俱にし、徳に先んじて卒した。官は江淮行枢密院副使に至った。

蔡遷

蔡遷はその郷里を詳らかにせず、元末に芝麻李に従って徐州を拠った。李が敗れ、太祖に帰し、先鋒となった。従って江を渡り、採石を下し、太平を克ち、溧水を取り、蛮子海牙の水寨及び陳埜先を破り、皆功有り。集慶を定め、千戸を授かった。徐達に従って広徳・寧国を取り、万戸に遷った。常州を進攻し、黄元帥を獲、遂に都先鋒となった。馬馱沙を征伐し、池州を克ち、樅陽を攻め、衢・婺の二州を征伐し、帳前左翼元帥を授かった。龍江にて陳友諒を破り、進んで太平を復し、安慶の水寨を取り、九江を収め、瑞昌にて友諒の八陣指揮を破り、遂に南昌を克った。従って安豊を援け、合肥を攻め、鄱陽に戦う。従って武昌を征し、指揮同知に進んだ。常遇春に従って鄧克明の余党を討平し、進んで贛州を攻む。南安・南雄の諸郡を取り、兵を還して茶陵にて饒鼎臣を追い、龍驤衛同知に遷った。徐達に従って高郵を克ち、馬港を破り、武徳衛指揮使を授かり、淮安を守り、移って黄州を守った。従って湘潭・辰・全・道・永の諸州を下し、転じて荊州衛指揮となった。進んで広西を克ち、広西行省参政に遷り、靖江王相を兼ね、諸叛蛮を討平した。洪武三年九月卒し、詔して京師に帰葬せしめ、安遠侯を贈り、諡して武襄といった。

遷は将となること十五年、未だ嘗て独任せず、多く諸将に従って征討した。身は数十戦を経、常に奮勇して突出し、刀を横たえて左右に撃ち、敵は皆披靡し、敢えて近づかなかった。既に還れば、金瘡体に満ち、人これを見て堪え難しとするも、遷は少しも意とせず、太祖に愛重された。卒するに及び、特にこれを痛惜し、親しく文を制して祭った。

附 陳文

合肥の陳文という者は、南北に征伐し、累ねて戦功を立て、また遷に次ぐ者である。文は少にして孤となり、母に奉じて至孝、元末に家を挈えて太祖に帰し、積んで官は都督僉事に至った。卒し、東海侯を追封され、諡して孝勇といった。明臣で諡に孝を得た者は、文ただ一人のみである。

王銘

王銘、字は子敬、和州の人。初め元帥俞通海の麾下に隷し、採石において蛮子海牙を攻むるに従う。銘の驍勇なるを以て、奇兵に選び充てらる。戦い方に合し、敢死の士を帥いて大いに噪きて之を突き、其の水寨を抜く。是より数たび功有り。呉軍と太湖に戦い、流矢右臂に中り、佩刀を引きて其の鏃を出だし、復た戦う。通海之を労う。復た通州の黄橋・鵝項諸寨を抜く。白金文綺を賜う。龍湾の戦い、北に逐いて採石に至り、銘独り敵陣を突く。敵兵朔を攢〓して銘を刺し、頰を傷つく。銘三たび出で三たび入り、殺傷する所過当たり。文綺銀碗を賜い、宿衛に選び充てらる。江州を取るに従い、康郎山及び涇江口に戦い、復た英山諸寨を克ち、管軍百戸に擢でらる。副将軍常遇春に従い湖州の升山に戦う。再び旧館に戦い、已にして、又た烏鎮に戦う。前後数十戦、功多く、松江を守らしむ。太倉に移り、倭寇千余人を捕斬し、再び金幣を賜う。

洪武四年、都にて百戸諸の槍を用いるに善き者を試すに、率い莫く銘と抗うる能はざりき。累官して長淮衛指揮僉事に至り、温州を守るに移る。上疏して曰く、「臣の領する鎮は、外に島夷を控え、城池楼櫓仍として陋く簡に襲う。独り国威を壮にするに足らざるのみならず、猝に風潮の変有らば、捍禦する所無く、勢い改作を須う。」帝報いて可とす。是に於いて城を繕い濠を浚い、悉く旧に倍す。外垣を加築し、海神山より起り郭公山に属し、首尾二千余丈、宏敞壮麗、屹然として東浙の巨鎮たり。帝甚だ之を嘉し、世襲を予う。銘嘗て告げ請ひ暫く和州に還る。温州の士女道を遮り送迎す。長吏皆相顧みて嘆じて曰く、「吾属は天子に為りて民を牧す。民吾属の去来を視るに漠然たり。王指揮に愧づること多し。」右軍都督僉事を歴たり、二十六年藍玉の党に坐して死す。

寧正

寧正、字は正卿、寿州の人。幼くして韋徳成の養子と為り、韋姓を冒す。元末徳成に随ひ来帰し、江を渡るに従う。徳成宣州に戦歿し、正を以て其の衆を領せしむ。功を積みて鳳翔衛指揮副使を授かる。中原を定むるに従い、元都に入り、元の将士八千余人を招降す。

傅友徳真定より平定州を略し、正を以て真定を守らしむ。已にして、大軍に従い陝西を取る。馮勝臨洮を克ち、正を留めて之を守らしむ。大軍慶陽を囲み、正邠州に駐り、敵の声援を絶つ。慶陽下り、還りて臨洮を守る。鄧愈に従い定西を破り、河州を克つ。

洪武三年、河州衛指揮使を授かる。上言して曰く、「西民粟を転じて軍に餉する甚だ労し。而して茶布は以て粟を易う可し。請う茶布を以て軍に給し、自ら相貿易せしめ、挽運の苦を省かん。」詔して之に従う。正初めて衛に至り、城邑空虚なりしも、労徠に勤む。数年ならずして、河州遂に楽土と為る。璽書を以て嘉労し、始めて甯姓に復す。兼ねて寧夏衛事を領す。漢・唐の旧渠を修築し、河水を引きて田を溉ぎ、屯を開くこと数万頃、兵食饒足す。

十三年沐英に従い北征し、元の平章脱火赤・知院愛足を擒え、全寧四部を取る。十五年四川都指揮使に遷り、松・茂諸州を討平す。雲南初めて定まり、正と馮誠を命じて共に之を守らしむ。思倫発乱を作し、正之を摩沙勒寨に破り、千五百を斬首す。已にして、敵衆大いに集まり、定辺を囲む。沐英兵を三隊に分け、正左軍を将い、鏖戦し、大いに之を敗る。語は『英伝』に在り。土酋阿資叛き、復た英に従い討ちて之を降す。英卒し、詔して正に左都督を授け代わりて鎮せしむ。已にして、覆命して平羌将軍と為し、川・陝の兵を総べ階・文の叛寇張者を討平す。二十八年秦王に従い洮州番を討平し、還京す。明年卒す。

附 袁義

又た袁義、廬江の人、本姓は張、徳勝の族弟なり。初め双刀趙総管と為り、安慶を守り、沙子港に於いて趙同僉・丁普郎を敗る。左君弼之を招くも、従わず。徳勝戦死し、始めて来附す。帳前親軍元帥と為り、姓名を賜う。数たび征伐に従い、功を積みて興武衛指揮僉事と為る。大将軍に従い北征し、通州に於いて元の平章俺普達等を敗り、賀宗哲・詹同を澤・潞に走らしめ、功最も上る。復た陝西を定むるに従い、元の王の兵を敗る。諸将と合して慶陽を攻む。張良臣の兵驟に義の営に薄き、義堅壁して動かず、其の懈るを俟ち、力を撃ちて之を破る。拡廓の軍を定西に走らしめ、南に興元を取る。本衛同知に進み、羽林衛に調じ、遼東に移鎮す。

已にして、沐英に従い雲南を征し、普定諸城を克ち、楚雄に留鎮す。蛮人屡叛く。義糧を積み壘を高くし、且つ守り且つ戦い、功を以て楚雄衛指揮使に遷る。嘗て朝に入り、帝厚く慰労を加う。其の老いなるを以て、医を命じて須鬢を染めしめ、還任せしめて以て遠人を威し、且つ特しく銀印を賜いて寵異す。二十年を歴たり、田を墾き堰を築き、城郭橋樑を治め、規画甚だ備わる。軍民之を徳とす。建文元年征還せられ、右軍都督府僉事と為り、同知に進み、官に卒す。

金興旺

金興旺、其の始め詳らかならず。威武衛指揮僉事と為り、同知に進む。洪武元年、大将軍徐達河南より陝西に至り、益兵を請うて潼関を守らしむ。興旺を以て郭興に副えしめて之を守らしめ、指揮使に進む。

明年臨洮を攻め、興旺を移して鳳翔を守らしめ、軍餉を転ず。未だ幾ばくならず、賀宗哲鳳翔を攻む。興旺知府周煥と城に嬰りて守る。敵荊を編みて大箕と為し、形半舫の如し。毎箕五人、之を負いて城を攻め、矢石入る能わず。藁を投じて之を焚くも、輒ち揚り起つ。乃ち鉤を藁中に置き、其の隙に擲ち著すれば、火遂に熾え、敵箕を棄てて走る。復た地道を為して城に薄る。城中矛を以て迎え刺す。敵死すること甚だ衆し。而して攻むる已まず。興旺煥と謀りて曰く、「彼我が援師至らざるを謂い、必ず敢えて出でざらん。其の不意に乗じて之を撃てば、敗る可し。」潜かに西北門を出で、奮戦し、敵少しく卻く。会うに百戸王輅臨洮より李思斉の降卒を収め東還するに、即ち其の衆を以て城に入り共に守る。敵営を抜きて去る。衆追わんと欲す。輅曰く、「未だ敗れずして退くは、我を誘うなり。」騎を遣わして之を偵さしむ。五里坡に至れば、伏果たして発つ。師を還して復た城を囲む。衆議走らんと欲す。興旺叱して曰く、「天子城を我に畀う。寧んぞ去る可けんや。」輅の将いる所皆新附なるを以て、変を生ずるを慮り、乃ち城中の貲畜を括りて庭中に積み、令して曰く、「敵少しく緩なば、当に大いに新兵を犒わん。」新兵喜び、協力して固く守る。相持つこと十五日、敵慶陽下るを聞き、乃ち引き去る。帝使いを遣わし金綺を以て興旺等を労う。

明年、達沔州に入り、興旺と張龍を遣わし鳳翔より連雲棧に入り、合して興元を攻む。守将降り、興旺を以て之を守らしめ、大都督府僉事に擢でらる。蜀の将呉友仁衆三万を帥いて興元を寇す。興旺城中の兵三千を悉くして敵を禦ぐ。面に流矢中り、矢を抜きて復た戦い、数百人を斬る。敵益々衆し。乃ち兵を斂めて城に入る。友仁濠を決ち塹を填め、必ず克たんと計る。達之を聞き、傅友徳を令して夜に木槽関を襲い、斗山寨を攻めしむ。人十炬を持ち、山上に連亙す。友仁驚きて遁る。興旺兵を出して之に躡い、崖石に墜ちて死する者算無し。友仁是より気を奪わる。時に興旺隴蜀に威を鎮す。

附 費子賢

国初の諸都督の中で、城を守る功績は、興旺の外に特に費子賢が推される。子賢は、その出自も詳らかでない。渡江に従い、広徳翼元帥となった。数たび功を立てた。武康を取り、また安吉を取った。城を築いてこれを守り、張士誠の兵が数たび来犯したが、つねに敗走させた。最後に張左丞が兵八万をもって攻めてきたが、子賢の率いる所は僅か三千人でありながら、守りは甚だ堅固であった。城上に車弩を設け、その梟将二人を射殺したので、敵はついに解囲して去った。功により指揮同知に進んだ。福建を取り、元都を克ち、定西を平定し、いずれも功を立て、大都督府僉事を授かり、世襲の指揮使となった。

花茂

花茂は、巣県の人である。初め陳埜先に従ったが、後に来帰した。江左平定に従い、陳友諒を滅ぼした。中原・山西・陝西を平定した。功を積んで武昌衛副千戸を授かった。西蜀を征伐した。瞿唐関を克ち、重慶に入った。左・右両江及び田州を下した。神策衛指揮僉事に進んだ。広州左衛に転じた。陽春・清遠・英徳・翁源・博羅の諸山寨の叛蛮及び東莞・龍川の諸県の乱民を平定し、指揮同知に進んだ。電白・帰善の賊を平定し、再び都指揮同知に遷り、世襲の指揮使となった。数たび連州・広西・湖広の諸瑶賊を剿滅した。上言して言うには、「広東は南は大海に臨み、奸宄が出没する。東莞・筍岡の諸県の逋逃蜒戸は、海島に付居する。官軍に遇えば詭りて漁を称し、番賊に遇えば則ち同じて寇盗となる。飄忽として常ならず、訊詰し難い。兵として籍するに如かず、これによって束ねやすくすべし」。また沿海の依山広海・碣石・神電等二十四衛所を設けることを請うた。城を築き池を浚い、海島の隠料無籍等の軍を収集した。なお山海の要害の地に堡を立て軍を屯し、不虞に備えた。いずれも許された。都指揮使に進んだ。久しくして卒し、葬を安德門に賜った。

長子の栄は職を襲った。次子の英は、果毅にして父の風あり、また軍功により広東都指揮使となり、永楽年間に名声があった。

丁玉

丁玉は、初め国珍と名乗り、河中の人である。韓林児に仕えて御史となり、才弁あり当時の称賛があった。呂珍が安豊を破ると、玉は来帰した。彭蠡征伐に従い、九江知府となった。大兵が建康に還ると、彭沢の山民が叛き、玉は郷兵を集めてこれを討平した。太祖はその武略を嘉し、指揮を兼ねることを命じ、名を玉と改めさせた。傅友徳に従い衡州を克ち、指揮同知としてその地を鎮めた。また永州を守るよう転じた。玉は文武の才があり、新附の民を撫輯し、威望甚だ著しかった。

洪武元年、都指揮使に進み、まもなく行省参政を兼ね、広西を鎮めた。十年に召されて右御史大夫となった。四川の威茂の土酋董貼里が叛き、玉を平羌将軍としてこれを討たせた。威州に至ると、貼里は降った。制を承って威州千戸所を設けた。十二年、松州を平定し、玉は指揮高顕等を遣わしてこれに城を築かせ、軍衛を立てることを請うた。帝は松州は山多く田少なく、耕種して軍を贍うことができず、これを守るは策に非ずと言った。玉は言う、松州は西羌の要地であり、軍衛を廃すべからずと。ついに官を設け戍を築くことを玉の議の如く行った。時に四川の妖人彭普貴が乱を為し、十四州県を焚掠した。指揮普亮等がこれを克つことができず、玉に軍を移して討滅することを命じた。帝は手敕を下して褒め称え、左御史大夫に転じた。師が還ると、大都督府左都督に拝された。十三年、胡惟庸の姻戚に坐して誅された。

郭雲

郭雲は、南陽の人である。身長八尺余、状貌魁偉であった。元末に義兵を聚めて裕州泉白寨を保ち、累官して湖広行省平章政事となった。元主が北奔し、河南の郡県は皆下ったが、雲のみは堅守した。大将軍徐達が指揮曹諒を遣わしてこれを囲むと、雲は出戦し、捕らえられた。大将軍が跪くよう呵責すると、雲は直立し、嫚罵して死を求めた。刃で脅しても動じなかった。大将軍はその壮挙を称え、縛して京師に送った。太祖はその状貌を奇とし、これを釈放した。時に帝はちょうど『漢書かんじょ』を閲しており、字を識るかと問うと、対して「識ります」と言った。そこで書を授けると、雲はその書を甚だ習熟して誦した。帝は大いに喜び、厚く賞賜を加え、溧水知県に用いたが、政声があった。帝はますます賢しとし、特に南陽衛指揮僉事に抜擢し、郷里に還って故の部曲を収め、その地に就いて戍らせた。凡そ数年で卒した。

長子の洪は、年わずか十三であった。帝は制を下して言うには、「雲は田間より出で、義旗を倡え、郷曲を保ち、崎嶇累年、心を竭くして事に仕えた。王師北伐、人神響応す。而るに雲は数戦して屈せず、勢窮まり援絶え、終に異志無し。朕その節概を嘉す。これを有司に試みれば、則ち閭閻徳を頌し、故郷を鎮ましむれば、則ち軍民業を楽しむ。汗馬の勛なく、倒戈の効無きも、治績克く著わり、忠義凛然たり。子洪を開国功臣の列に入れ、宣武将軍・飛熊衛親軍指揮使司僉事を授け、世襲せしむべし」と。その同時に降将として世職を子に与えられた者に王溥がある。

附 王溥

溥は、安仁の人である。陳友諒に仕えて平章となり、建昌を守った。太祖が将を命じてこれを攻めさせたが、克たなかった。硃亮祖が饒の安仁港でこれを撃ったが、また失利した。友諒の将李明道が信州を寇した時、溥の弟漢二が軍中にいたが、ともに胡大海に擒えられ、行省李文忠のもとに帰り、文忠は二人に溥を招かせた。この年、太祖が江州を抜き、友諒が武昌に走ると、溥はついに使を遣わして降り、命によりなお建昌を守った。明年、太祖が龍興に次ると、その衆を帥いて来見し、数たび慰労された。建康に帰るに従い、第を聚宝門外に賜り、その街を「宰相街」と号し、寵異した。まもなく撫州及び江西の未附の郡県を取るよう遣わされた。武昌攻克に従い、中書右丞に進んだ。洪武元年、詹事府副詹事を兼ねることを命じられた。大将軍に従い北征し、屡々功を立てた。文幣を賜り、河南行省平章に抜擢されたが、事を署さなかった。歳禄は李伯升・潘元明に準じた。

初め、溥が未だ仕えなかった時、母葉氏を奉じて貴渓に兵を避けた。乱に遇い、母と相失い、凡そ十八年であった。かつて夢に母が告げるが如く所在を知り、至って帝に従容として言上し、帰省して墳墓を省みることを請うた。許され、かつ礼官に祭物を具えさせた。溥は士卒を率いて貴渓に至り、求めたが見出せず、昼夜号泣した。居人の呉海が言うには、「夫人は賊に逼られ、井中に投じて死なれました」。溥は井を求め得ると、鼠が井より出て、溥の懐に投じ、旋いてまた井に入った。井を汲んで索めると、母の屍がそこにあった。哀呼して自勝せず、ついに棺を具えて斂め、即ちその地に葬った。溥が卒すると、子孫は世襲で指揮同知となった。

賛して曰く、文輝・司馬は股肱として任寄され、葉旺・馬雲は辺域に著しく効を奏し、大亨は端直をもって思われ、郭雲は政績をもって寵を受く。他の如き蔡遷・王銘・甯正・金興旺の輩は、或いは善く戦い、或いは善く守り、或いは善く撫綏し、要するに皆一時の良将なり。蓋し明の運初めに興り、人材蔚然として起る、鉄券・丹符の外、その称すべき者なおかくの如し。詩人の『兔罝』の詠を視るに、何ぞ多く譲らんや。