明史

列傳第十九 顧時・吳楨・薛顯・郭興・陳德・王志・梅思祖・金朝興・唐勝宗・陸仲亨・費聚・陸聚・鄭遇春・黄彬・葉昇

顧時

顧時、字は時挙、濠の人である。倜儻として奇略を好んだ。太祖に従って江を渡り、功を積んで百夫長から元帥に任ぜられた。安慶・南昌・廬州・泰州を取ると、天策衛指揮同知に抜擢された。李濟が濠州を占拠すると、時に従って平章韓政に付き従い討伐してこれを降した。張士誠の升山水寨を攻め、小船を率いて敵船を巡ると、船中の者は多く俯いて見て笑った。時はその隙に乗じ、壮士数人を率いて大声を上げて躍り込み舟に飛び乗った。衆は大いに乱れ、他の舟も競って進んだ。五太子が援軍に来たが、薛顯がまたこれを破り、五太子らは降伏した。かくて大将軍に従って呉を平定し、軍を返して山東を取った。

洪武元年、大都督ととく府副使兼同知率府事に任ぜられた。大将軍に従って河南・河北を平定し、閘を浚って舟師を通じさせ、臨清から通州に至った。元の都を落とし、諸将と分かれて古北などの隘口を巡邏した。大軍に従って平陽を取り、崞州を克ち、逃将王信ら四十六人を捕らえた。蘭州を取り、慶陽を包囲した。張良ちょうりょう臣が城下で兵を耀かせると、これを撃破し、その勁将九人を捕らえた。良臣はついに再び出撃できなくなった。慶陽が平定されると、徐達が京に還るに当たり、時に命じて騎兵を率い静寧州を攻略させ、賀宗哲を敗走させた。西辺はことごとく平定された。

三年に大都督同知に進み、済寧侯に封ぜられ、禄千五百石を賜り、世券を与えられた。四年に左副将軍となり、傅友德に副って河南・陝西の歩騎を率いてしょくを伐った。興元から進んで階州・文州を克ち、漢州において蜀兵を破り、ついに成都を克った。翌年、李文忠に副って北征し、分かれて道を進み沙漠に入った。道に迷い、糧食が尽きようとした。賊に遭遇し、兵士は疲れて戦えなかった。時は麾下数百人を率い、馬を躍らせて衝撃した。敵衆は退き去り、その輜重・糧食・家畜を獲て帰還し、軍声は大いに振るった。六年に徐達に従って北平を鎮守した。一年余りして召還された。八年に再び出鎮した。十二年に卒去、年四十六。鐘山に葬られた。滕国公を追封され、諡は襄靖、功臣廟に祔祭された。

時は寡をもって衆を撃つことができ、沈毅で自ら誇らなかった。帝は甚だこれを重んじた。子の敬は、金吾衛鎮撫となり、十五年に侯を嗣ぎ、左副将軍となった。龍泉山の賊を平定して功があった。二十三年に胡惟庸の党を追論し、諸臣を榜示したが、時を筆頭とし、敬は連坐して死罪となり、爵位は除かれた。

吳禎

吳禎は、江国襄烈公吳良の弟である。初め名は国宝といい、後に禎の名を賜った。良とともに従って滁州・和州を克ち、江を渡って採石を克ち、集慶平定に従った。鎮江・広徳・常州・宣城・江陰を落とし、いずれも功があった。また常遇春に従って銅陵から池州を取り、舟師をもってその北門を破壊し、城に入った。敵艦百余りが来たが、また大いにこれを破り、ついに池州を克った。功を積み、帳前都先鋒から累進して天興翼副元帥となった。千人を率いて良を助け江陰を守り、数度呉兵を破り、士誠の水寨を破ってそのぎょう将朱定を生け捕りにした。英武衛親軍指揮使を授けられた。また浮子門において呉兵を大破した。大将軍徐達に従って馬歩舟師を率いて湖州を取り、奇兵を率いて旧館から出て大勝した。湖州が平定されると、ついにこれを戍った。平江包囲に従い、葑門・胥門の二門を破り、大都督府僉事に進み、平江を撫した。まもなく征南将軍湯和に副って方国珍を討ち、潮に乗じて曹娥江に入り、堰を破壊して通路を開け、不意に出て直ちに軍営に到達した。国珍は海に逃げ入った。盤嶼まで追い及んで合戦し、申の刻から戌の刻にかけてこれを破り、その戦艦・士卒・輜重をことごとく獲て、国珍は降伏した。また海路から進んで福州を取り、その西・南・水部の三門を包囲し、一挙にこれを克った。

洪武元年、進軍して延平を破り、陳友定を生け捕りにした。閩海はことごとく平定された。還って昌国に駐屯した。時に海寇が蘭秀山を掠めたので、これを剿滅平定した。率府副使を兼ねた。まもなく呉王左相兼大都督府僉事となった。二年、大将軍が陝西を平定して還ると、禎は副将軍馮勝とともに慶陽に駐屯した。三年、沂州答山の賊を討って平定した。靖海将軍に命ぜられ、海上で軍を練った。その冬、靖海侯に封ぜられ、食禄千五百石を賜り、世券を与えられた。秦・晋二王の傅である金朝興・汪興祖とともに専ら王の傅を務め、都督府の職務からは離れた。仇成が遼陽を戍ると、禎に命じて舟師数万を総率し、登州から糧秣を輸送させた。海路は険しく遠かったが、経理に方策があり、兵糧に不足はなかった。城を完備し兵を練り、遼海の未だ帰附せざる地をことごとく収め、平章高家奴らを降した。事に坐して定遼衛指揮使に貶謫されたが、まもなく召還された。七年、海上に警報があり、再び総兵官に充てられ、都督僉事於顕とともに江陰四衛の舟師を総率して出撃し倭を捕らえた。琉球大洋に至り、その兵船を獲て、京師に俘虜を献上した。これより常に海道を往来し、数年軍務を総理したので、海上に寇はなくなった。

十一年、詔を奉じて定遼に出向したが、病を得て、輿に乗せられて京師に還った。翌年卒去した。海国公を追封され、諡は襄毅、良とともに功臣廟に肖像を祀られた。子の忠が侯を嗣いだ。二十三年に禎を胡惟庸の党と追論し、爵位は除かれた。

薛顯

薛顯は、蕭の人である。趙均用が徐州を占拠すると、顕を元帥として泗州を守らせた。均用が死ぬと、泗州をもって来降し、親軍指揮を授けられ、征伐に従った。南昌が平定されると、顕に命じて大都督朱文正に従いこれを守らせた。陳友諒が南昌を寇すると、顕は章江・新城の二門を守った。友諒の攻撃は甚だ急であった。顕は状況に応じてこれを防ぎ、隙を見て鋭卒を繰り出して搏戦し、その平章劉進昭を斬り、副枢趙祥を生け捕りにした。三月間固守して、ようやく包囲は解けた。武昌が平定された後、鄧仲謙が新淦に拠って降らず、顕はこれを討ち斬り、ついで未だ帰附せざる諸郡県を従え下した。功により江西行省参政に抜擢された。徐達らに従って淮東を収め、ついで張士誠を伐った。常遇春とともに湖州を攻めた。別将として游軍を率いて徳清を取り、升山水寨を攻めた。士誠がその五太子に盛んな兵を率いて来援させると、遇春がこれと戦い、少し退いた。顕は舟師を率いて奮撃し、その船を焼いた。衆は大いに潰え、五太子及び朱暹・呂珍らが旧館で降伏し、兵六万人を得た。遇春は顕に言った、「今日の戦いは、将軍の功であり、遇春は及ばない」。五太子らが降伏すると、呉人は震恐し、湖州はついに陥落した。進んで平江を包囲し、諸将と分かれて各門に軍した。呉が平定され、行省右丞に進んだ。

命じて大将軍徐達に従い中原を取らしむ。出発に際し、太祖は諸将に諭して「薛顕、傅友徳は勇略衆に抜きん出て、一面を担当すべし」と言う。進んで兗・沂・青・済を陥とし、東昌・棣州・楽安を取る。還って河南を収め、関・陝を攻める。河を渡り、衛輝・彰徳・広平・臨清を取る。馬歩舟師を率いて德州・長蘆を取る。河西務において元兵を破り、また通州においてこれを破り、ついに元都を陥とす。兵を分けて古北の諸隘口を巡邏し、大同を攻略し、喬右丞ら三十四人を捕らう。進んで山西を征し、保定に駐屯し、七垛寨を取り、脱因貼木児を追撃して破る。友徳とともに鉄騎三千を将いて平定西を攻略す。太原を取り、拡廓を走らせ、豁鼻馬を降す。石州において賀宗哲を邀撃し、白崖・桃花の諸山寨を抜く。大将軍達と平陽で会し、降将杜旺ら十一人を引見し、ついで従って関中に入る。臨洮に至り、別将として馬鞍山の西番寨を攻め、その畜産を大いに獲、元の王を襲って走らせ、寧夏において拡廓を破る。再び達と会師して平涼を取る。張良臣偽って慶陽を以て降る、顕往きてこれを納る。良臣蒲伏して道に迎え、夜に顕の営を劫い、突囲して免る。良臣城を拠りて叛く、達進んでこれを囲む。拡廓韓扎児を遣わし原州を攻め、以て明師を撓ます。顕兵を霊州に駐め、これを遏つ。良臣援絶え、ついに敗る。六盤山において賀宗哲を追い、拡廓を逐い出塞外に出し、陝西悉く平まる。

洪武三年冬、大いに功臣を封ず。顕が胥吏・獣医・火者・馬軍及び千戸呉富を擅に殺したことを以て、面と向かってその罪を数える。永城侯に封ずるも、券を与えず、海南に謫居せしむ。その禄を分けて三と為す:一は殺された呉富及び馬軍の家を贍うに以てし、一はその母妻に給し、功過相い掩わざらしむ。顕海南に居ること一年余、帝これを思い、召し還す。世券を与え、禄一千五百石を食む。

再び大将軍に従い漠北を征す。数たび命を受け河南を巡視し、北平に屯田し、山西で軍を練り、魏国公に従い北辺を巡り、宋国公に従い金山に出づ。二十年冬、召し還され、山海衛に駐屯し、卒す。永国公を贈り、諡して桓襄と曰う。子無く、弟綱幼し。二十三年、顕が胡惟庸の党に坐するを追及す、死を以て問わず、爵除かる。

郭興

郭興、一名は子興、濠の人。滁陽王郭子興が濠を拠り、元帥と称す、その麾下に隷す。太祖が甥館に在りし時、興帰心す。軍行に、嘗て宿衛を備え、功を累ねて管軍総管を授かり、統軍元帥に進む。常州を囲み、昼夜甲を解かざること七月。城下り、上賞を受く。寧国・江陰・宜興・婺州・安慶・衢州を攻め従い、皆これを下す。鄱陽に戦い、陳友諒巨艦を連ねて進む、我が師屡く却く、興計を献じて火を以てこれを攻む。友諒死す。武昌を征し従い、斬獲多く、鷹揚衛指揮使に進む。徐達に従い廬州を取り、安豊を援け、張士誠の兵を大いに破る。襄陽・衡・澧を平らぐ。還り高郵・淮安を陥とす。転戦して湖州に至り、平江を囲み、婁門に軍す。呉平ぎ、鎮国将軍・大都督府僉事に擢でらる。

洪武元年、達に従い中原を取り、汴梁を陥とし、河南を守御す。馮勝が陝州を取り、益兵を請うて潼関を守らんとす。達曰く「興に如くは無し」と。遂にこれを調して守らしむ。潼関は三秦の門戸、時に哈麻図は奉元に拠り、李思斉・張思道らこれと犄角を為し、日々窺伺して東向かんと欲す。興力を悉くして捍禦す。王左丞来たり攻む、大いにこれを破る。徐達に従い軽騎を帥い直ちに奉元を搗つ。大軍継いで進み、遂にこれを陥とす。移鎮して鞏昌に至り、辺境帖然たり。

三年、秦王武傅と為り、兼ねて陝西行都督府僉事を為す。その冬、功臣を封ず、興は紀律を守らざるを以て、止だ鞏昌侯に封ぜられ、禄一千五百石を食み、世券を与えらる。四年、蜀を伐ち、漢州・成都を陥とす。六年、徐達に従い北平を鎮め、陳徳とともに元兵を答刺海口に破る。十一年、臨清で兵を練る。十六年、北辺を巡る。召し還され、一年余にして卒す。陝国公を贈り、諡して宣武と曰う。二十三年、胡惟庸の党に坐するを追及し、爵除かる。

興の女弟は寧妃と為り、弟の英は武定侯。

季弟の徳成、性通敏、酒を嗜む。両兄は功を積みて列侯に至るも、徳成は止だ驍騎舎人に過ぎず。太祖は寧妃の故を以て、貴顕せんと欲す。徳成辞す。帝悦ばず。頓首して謝して曰く「臣、性曲糵に耽り、庸暗にして事を事とすること能わず。位高く禄重ければ、必ず職司を任じ、事治まらずんば、上将に我を殺さん。人生は適意を貴ぶ、但だ多く銭を得、醇酒を飲むこと足れり、余は望むところに非ず」と。帝善しと称し、酒百罌を賜い、金幣これに称し、寵遇益々厚し。嘗て後苑に侍宴し酔い、匍匐して冠を脱ぎ謝す。帝顧みて徳成の髪種々なるを見、笑いて曰く「酔風漢、髪かくの如く、酒の過ちに非ずや」と。徳成首を仰ぎて曰く「臣なおこれを厭い、尽く薙ぎて始めて快しからん」と。帝黙然たり。既に醒めて、大いに懼る。佯狂自ら放ち、髪を剃り、僧衣を衣、仏を唱えて已まざる。帝、寧妃に謂いて曰く「始め汝の兄の戯言と為すも、今実にこれを為す、真の風漢なり」と。後、党事起こり、坐して死する者相属くも、徳成竟に免るるを得たり。

陳徳

陳徳、字は至善、濠の人。世農家、勇力有り。太祖に従うこと定遠に於いて、万夫長として従戦し、皆功有り、帳前都先鋒と為る。諸将とともに寧・徽・衢・婺の諸城を取り、元帥に擢でらる。李伯升長興を寇す、徳往きて援け、撃ちて走らす。南昌を援け従い、鄱陽湖に大戦し、水寨の姚平章を擒う。太祖の舟膠浅す、徳力戦し、身に九矢を被るも退かず。武昌平定に従う。旧館において張士誠の兵を大いに破り、天策衛親軍指揮使に擢でらる。呉平ぎ、大都督府事僉に進む。大将軍に従い北して中原を取り、元の汴梁を陥とす。河南行都督府を立て、徳をして府事を署せしめ、群盗を討ち平らぐ。山西を征し、沢州磨盤寨を破り、参政喻仁を獲、遂に大軍と会して平陽・太原・大同を陥とす。河を渡り奉元・鳳翔を取り、秦州に至る、元の守将呂国公遁ぐ、追いてこれを擒う。徐達が慶陽において張良臣を囲む、良臣その兄思道を外援と恃み、間使往来す、徳悉くこれを擒い獲る、慶陽遂に下る。また古城において拡廓を大いに破り、その卒八万を降す。

洪武三年、臨江侯に封ぜられ、禄一千五百石を食み、世券を与えらる。明年、潁川侯傅友徳に従い蜀を伐ち、道を分かちて綿州に入り、龍徳を破り、呉友仁の衆を大いに破り、乗勝して漢州を抜く。向大亨・戴寿ら成都に走る、追いてこれを破り、遂に友徳とともに成都を囲む。蜀平ぎ、白金彩幣を賜う。復た汴に還る。五年、左副将軍と為り、馮勝とともに漠北を征し、別篤山において敵を破り、俘斬万計。甘肅を陥とし、亦集乃路を取り、兵を留めて関を扼して還る。明年、復た兵を総べて朔方に出で、敵を三岔山に破り、その副枢失剌罕ら七十余人を擒う。その秋、再び出でて答剌海口に戦い、首級六百を斬り、その同僉忻都ら五十四人を獲る。凡そ三戦三捷す。七年、北平で兵を練る。十年、鳳陽に還る。十一年卒す。杞国公を追封し、諡して定襄と曰う。

子の鏞が封を襲う。十六年、征南左副将軍となり、龍泉の諸山の寇を討ち平らぐ。汴梁にて兵を練る。十九年、靖海侯呉禎と会州に城を築く。二十年、馮勝に従い納哈出を征し、金山に至らんとするに、大軍と道を異にして相失い、敗れて没す。二十三年、胡惟庸の党に連座して追及され、詔書にその征西の時に過ちあり、鐫責を受け、遂に惟庸と通謀すとある。爵を除かれる。

王志

王志、臨淮の人。郷兵を率いて太祖に従い濠にあり、滁・和を下す。江を渡るに従い、屡々柵を騰りて先登し、身を矢石に冒す。右副元帥を授かる。常州・寧国・江陰を取るに従う。宜興を復し、高郵を攻め、九江を搗ち、黄梅を下し、鄱陽にて鏖戦す。武昌を平らぐに従い、還って廬州を克ち、張士誠の兵を破り、奔るを追うこと四十里。親軍衛指揮使を以て六安衛に改め、六安を守る。汴梁に幸するに従い、河を渡り、懐慶・沢・潞を取り、平陽を留守す。大将軍徐達西征し、師を会して興元を克つ。洪武三年、都督府事同知に進み、六安侯に封ぜられ、歳禄九百石、世券を賜う。漢中に移り守り、兵を帥いて察罕脳児塞に出で、還って平陽を鎮す。復た大将軍に従い沙漠を征す。其の後西南に用兵するも、皆偏将軍として従い、首功無きも、然し持重にして、未だ嘗て敗衄せず。其の合肥を攻め、楼児張を破り、呉副使を擒にし、戦功第一となる。山西都司衛所の軍務を領し、帝其の処置宜しきを称す。十六年、兵を督して雲南品甸に往く。城池を繕い、屯堡を立て、駅伝を置き、其の民を安輯す。十九年卒す。許国公を追封され、諡して襄簡と曰う。

子の威、二十二年侯を嗣ぐ。明年、事に坐して安南衛指揮使に謫せらる。卒し、子無し。弟の琙嗣ぎ、清平衛に改め、世襲す。志も亦た胡惟庸の党に追坐せらるるも、死を以て問わず。

梅思祖

梅思祖、夏邑の人。初め元の義兵元帥となり、叛いて劉福通に従う。拡廓其の父を醢す。尋いで福通を棄て、張士誠に帰し、中書左丞となり、淮安を守る。徐達の兵至るに、迎えて降り、併せて四州を献ず。士誠其の兄弟数人を殺す。太祖思祖を擢て大都督府副使とす。大軍に従い呉を伐ち、升山の水寨を克つ。湖州を下し、平江を囲み、皆功有り。呉平らぎ、浙江行省右丞に遷る。大将軍に従い中原を伐ち、山東を克ち、汴・洛を取り、陝州を破り、潼関を下す。旋師して河北を徇い、衛輝に至る。元の平章龍二城を棄てて彰徳に走る、師之に従う。龍二復た出走す、遂に其の城を降し、之を守る。北平の未だ下らざる州郡を略定す。大軍に従い晋・冀を平らぎ、復た陝西を平らぐに従う。別将として邠州を克ち、元の参政毛貴等三十人を獲る。大将軍に従い拡廓を定西に破る。秦州より還り、略陽を破り、沔州に入り、興元を取る。洪武三年、功を論じて汝南侯に封ぜられ、禄九百石を食み、世券を賜う。四年蜀を伐つ。五年甘粛を征す。還りて命を受けて山・陝・遼東の城池を巡視す。十四年、四川水尽源・通塔平・散毛の諸洞長官乱を為す、思祖を征南副将雲南軍と為し、江夏侯周徳興と兵を帥いて之を討平せしむ。十五年復た傅友徳と雲南を平らぎ、貴州都司を置き、思祖を以て都指揮使を署せしむ。尋いで雲南布政司事を署し、平章潘元明と共に雲南を守る。思祖撫輯に善く、遠人之に安んず。是歳卒す、鐘山の陰に葬らしむ。

子の義、遼東都指揮使。二十三年思祖を胡惟庸の党に追坐せしめ、其の家を滅す。思祖の従子殷、駙馬都尉となり、別に伝有り。

金朝興

金朝興、巣の人。淮西乱るるや、衆を聚めて寨を結び自ら保つ。俞通海等既に太祖に帰す、朝興も亦た衆を帥いて来附す。江を渡るに従い、征伐皆預かり、功有り。常州を克ち、都先鋒と為る。宜興を復し、左翼副元帥と為る。武昌を平らぎ、龍驤衛指揮同知に進む。呉を平らぎ、鎮武衛指揮使に改む。大同を克ち、大同衛指揮使に改む。東勝州を取り、元の平章劉麟等十八人を獲る。

洪武三年、功を論じて都督僉事兼秦王左相と為る。未だ幾ばくもせず、都督府の事を解き、専ら王に傅す。四年大軍に従い蜀を伐つ。七年師を帥いて黒城に至り、元の太尉盧伯顔・平章帖児不花並びに省院等の官二十五人を獲る。遂に李文忠に従い東道の兵を分領し、和林を取り、語は文忠伝に具す。

朝興沈勇にして智略有り、至る所にて偏師を以て勝を取る、未だ大帥と為らざるも、而して功諸将の上に出づ。十一年沐英に従い西征し、納隣七站の地を収む。明年功を論じて宣徳侯に封ぜられ、禄二千石、指揮使を世襲す。十五年傅友徳に従い雲南を征し、師を臨安に駐め、元の右丞兀卜台・元帥完者都・土酋楊政等俱に降る。朝興撫輯方有り、軍民咸く悦ぶ。進みて会川に次ぎて卒す、沂国公を追封され、諡して武毅と曰う。十七年雲南を平らげし功を論じ、世侯券を改めて錫い、禄五百石を増す。

長子鎮封を嗣ぐ。二十三年朝興を胡惟庸の党に追坐せしめ、鎮を平壩衛指揮使に降す。征に従い功有り、都指揮使に進む。其の後衛指揮使を世襲す。嘉靖元年、命じて傅友徳・梅思祖及び朝興の廟を雲南に立て、額して「報功」と曰う。

唐勝宗

唐勝宗、濠の人。太祖兵を起こす、勝宗年十八、来帰す。江を渡るに従い、功を積みて中翼元帥と為る。徐達に従い常州を克ち、進みて寧国を囲み、険を扼して力戦し、其の援兵を敗る。城遂に降る。婺州を征するに従い、之を克つ。池州を征するに従い、力戦し、陳友諒の兵を敗り、龍驤衛指揮僉事に擢てらる。友諒を征するに従い、安慶に至る、敵固く守る。勝宗陸兵を為して之を疑わしめ、意に出でずして其の水寨を搗ち克つ。南昌を下すに従い、江西の諸郡を略定す。安豊を援け、廬州を攻め、鄱陽に戦い、涇江口に邀撃し、皆功有り。驃騎衛指揮同知に擢てらる。武昌を定むるに従い、長沙・沅陵・澧陽を徇う。徐達に従い江陵を取り、還りて淮東を定む。城を穴として安豊を克ち、元将忻都を追獲す。安豊衛指揮使と為り之を守る。大将軍に従い中原を伐ち、汴梁・帰徳・許州を克ち、輒ち留守す。大軍に従い延安を克ち、都督府同知に進む。洪武三年冬延安侯に封ぜられ、禄千五百石を食み、世券を賜う。驛騎を擅に馳せしめに坐し、爵を奪われ、指揮に降る。代県の反者を捕う。久しくして、復た爵す。

十四年、浙東の山寇葉丁香等乱を為す、命じて総兵として之を討たしめ、賊首並びに其の党三千余人を擒にす。兵を分けて安福の賊を平らぎ、臨安に至り、元の右丞兀卜台等を降す。十五年陝西を巡視し、屯田を督し、軍士を簡ぶ。明年遼東を鎮め、勅を奉じて高麗に通ずる勿れとす。高麗の使至るに、其の奸を察し、表して聞かしむ。勅を賜いて褒美し、魏の田豫が烏桓の賂を却くるに比し、名臣と称す。鎮に在ること七年、威信大いに著る。召し還り、師を帥いて貴州蛮を討ち平らぐ。黄平にて兵を練る。二十三年胡惟庸の党に坐して誅せられ、爵を除かれる。

陸仲亨

陸仲亨は濠州の人である。太祖に帰順し、従って滁州を征伐し、大柳樹などの諸寨を攻略した。和陽を平定し、元兵を撃破した。青山の群盗を追討した。従って江を渡り、太平を攻略し、集慶を平定し、徐達に従って諸郡県を陥落させた。左翼統軍元帥を授けられた。陳友諒征伐に従い、功績多く、驃騎衛指揮使に進んだ。常遇春に従って贛州を討ち、熊天瑞を降伏させ、贛州衛指揮使となり、嶺南・嶺北の新たに帰附した諸郡を統轄した。兵を調発して梅州・会昌・湘郷を平定し、諸山寨を悉く平定した。

洪武元年、衛軍を率いて廖永忠らと広東を征伐し、諸郡県を攻略平定し、広州で永忠と合流し、元の将盧左丞を降伏させた。広東が平定された。美東衛指揮使に改められ、江西行省平章に抜擢され、鄧愈に代わって襄陽を鎮守し、同知都督府事に改められた。三年冬、吉安侯に封ぜられ、禄千五百石、世券を賜った。唐勝宗と共に事に坐して指揮使に降格された。雁門で賊を捕らえ、共に爵位を回復した。

十二年、周徳興・黄彬らと共に湯和に従って臨清で練兵した。間もなく、即座に軍中から三人を捕らえて京師に送り、後に釈放した。成都に移鎮し、巨津州の叛蛮を平定した。烏撒の諸蛮が再び叛くと、傅友徳に従ってこれを討ち平定した。

二十三年、胡惟庸の逆党を処断するに当たり、家奴の封貼木が仲亨と勝宗・費聚・趙庸が皆これと通謀していたと告発したので、獄吏に下して訊問させた。獄が決すると、帝は言った、「朕は常々、彼らが貴い地位にありながら憂色を帯びているのを怪しんでいた。」そこで仲亨を誅し、その家を没収した。

初め、仲亨は十七歳の時、乱兵に掠われた。父母兄弟は皆亡くなり、一升の麦を持って草むらに伏していた。帝がこれを見て、「来たれ」と呼び、そこで征伐に従い、侯に封ぜられるに至った。帝は嘗て言った、「これは朕が初めに挙兵した時の腹心・股肱である。」ついに誅殺された。

費聚

費聚は字を子英といい、五河の人である。父の徳興は、材勇をもって游徼の卒となった。聚は若くして技撃を習った。太祖が濠で出会い、その容貌の魁偉なのを賞し、深く結びついた。

定遠の張家堡に民兵がおり、所属するところがなかった。郭子興がこれを招撫しようと思い、使える者がいないと考えた。太祖は病を押して行くことを請い、聚と共に騎馬で赴き、歩卒九人が随行した。宝公河に至り、その営が非常に整い、弓弩が皆外向きなのを見た。歩卒は恐れて逃げようとした。太祖は言った、「彼らが騎兵で我々を蹴散らそうとするなら、逃げてどこへ行くというのか。」そこで前に進んでその営に至った。招諭が終わり、三日後に来ることを約した。太祖は先に帰り、聚を留めて待たせた。その帥が他に属そうとしたので、聚は帰って報告した。太祖は再び聚と共に三百人を率いて行き、計略をもってその帥を縛り、兵卒三千人を得た。豁鼻山に秦把頭の八百余人がおり、聚は再びこれを招降した。そこで従って霊璧を攻略し、泗・滁・和州を平定した。承信校尉こういを授けられた。

江東が平定されると、長興を攻略し、永興翼元帥府を立て、聚を耿炳文の副として元帥とした。張士誠が侵入して来ると、これを撃破した。召されて宿衛を統領した。安豊を救援し、江西を二度平定し、武昌を攻略するに、皆従軍した。永興翼元帥府を永興親軍指揮司に改め、依然として炳文の副として指揮同知となった。士誠が再び侵入して来ると、その帥宋興祖を捕らえ、再びこれを撃破した。士誠は気勢を失い、再び長興を窺うことができなかった。淮安・湖州・平江征伐に従い、皆功績があり、指揮使に進んだ。湯和が方国珍を討つと、聚は舟師を率いて海路から邀撃した。浙東が平定されると、再び海路から福州を攻略し、延平を破った。帰途昌国に駐留し、蘭秀山で海寇の葉・陳二姓を剿滅した。この時より、聚は初めて単独で将軍となった。洪武二年、大軍と合流して西安を攻略し、西安衛指揮使に改められ、都督府僉事に進んだ。平涼を鎮守した。三年、平涼侯に封ぜられ、歳禄千五百石、世券を賜った。

当時、諸将は辺境で屯田し兵を募り、毎年一定の課があった。聚は酒色に耽り、何事も為さなかった。また、招降に功が無かったため、召還され、厳しく責められた。翌年、傅友徳に従って雲南を征伐し、白石江で大戦し、達里麻を生け捕りにした。雲南が平定されると、進んで大理を攻略した。間もなく、諸蛮が再び叛くと、安陸侯呉復を総兵とし、聚をその副と命じた。方略を授け、関索嶺及び阿咱などの寨を分かれて攻撃し、悉く陥落させた。蛮地が初めて平定された。貴州都指揮使司を設置し、聚に司事を代行させた。十八年、総兵官に命じられ、指揮丁忠らを率いて広南を征伐し、火立達を生け捕りにし、その衆一万人を捕虜とした。帰還して雲南を鎮守した。二十三年、召還された。李善長が敗れると、その言葉が聚に連座した。帝は言った、「聚はかつて姑蘇に使いして朕の意に適わず、朕は嘗て罵り責めたが、それで謀反しようとしたのか。」ついに党与として死罪に坐し、爵位は除かれた。

子の超は、方国珍征伐に従い、陣中で戦死した。璿は、人材として挙げられて江西参政に官した。孫の宏は、雲南征伐に従い、功績を積んで右衛指揮使となった。奏対が事実でない罪に坐し、金歯に戍らされた。

陸聚

陸聚は、何許の人か知られていない。元の枢密院同知であった。脱脱が徐州で芝蔴李を破ると、彭大らは濠に奔った。聚は流亡の民を撫戢し、城を繕い境を保ったので、寇は敢えて侵犯しなかった。徐達が江・淮を経略すると、聚は徐・宿二州を以て降伏した。太祖は嘗て詔を下して諭した、「二州は、朕の桑梓の地であり、兵を加えるに忍びない。」帰附すると、大いに喜んだ。聚を江南行省参政とし、依然として徐州を守らせた。兵を遣わしてはい・魚台・邳・蕭・宿遷・睢寧を攻略平定させた。拡廓が李左丞を遣わして徐州を侵し、陵子村に駐屯した。聚は指揮傅友徳を遣わしてこれを撃ち、その衆を捕虜とし、李左丞を生け捕りにした。また宿州で元兵を破り、僉院邢端らを生け捕りにした。山東平定に従い、汴梁を平定した。帰還して鎮守し、山東行省参政に改められた。元の都平定に従い、大同・保定・真定を攻略した。車子山及び鳳山・城山・鉄山の諸寨を攻め落とし、井陘の故関を分かれて守り、陝西で師を合わせ、承天寨を攻略した。聚の率いる部衆は皆淮北の精兵であり、燕・趙の精騎も及ばなかった。北征の時、沂・邳の山民が隙に乗じて乱を起こしたので、聚を召還し、これを討ち平定させた。洪武三年、河南侯に封ぜられ、歳禄九百石、世券を賜った。八年、衛国公愈と共に陝西で屯田し、衛を置いて戍守した。十二年、信国公和と共に臨清で練兵した。間もなく福建の軍務を処理した。召還され、鳳陽に邸宅を賜った。二十三年、胡惟庸の党与として死罪に坐し、爵位は除かれた。

鄭遇春

鄭遇春は濠の人である。兄の遇霖とともに勇力をもって知られた。遇霖は里人と不和となり、これを殺そうとしたが、遇春が力を尽くして守護し、和解させた。人々は皆遇霖を恐れたが、遇春を賢者とした。太祖が滁州を下すと、遇霖は先鋒となった。鉄仏岡・三郤河・大柳などの寨を取るにあたり、遇春も功を重ねて総管に至った。蕪湖を攻めると、遇霖は戦死し、遇春がその衆を率いた。当時、諸将の所部は千人を超えず、遇春は両隊を兼ね、その所部は特に驍果であった。戦功を重ねて多く、左翼元帥を授かった。陳友諒平定に従い、身を士卒に先んじ、自ら功を言わず、太祖はこれを異とした。六安を取って六安衛指揮僉事となった。大将軍に従い山東・河南北を定め、朔州を克ち、朔州衛指揮副使に改めた。

洪武三年、同知大都督府事に進み、滎陽けいよう侯に封ぜられ、歳禄九百石、世券を与えられた。翌年、臨濠に駐屯し、行大都督府を開くことを命ぜられた。連座して爵を奪われた。まもなくこれを回復し、再び朔州を守った。傅友徳に従い雲南を平定し、楊文らを率いて城池屯堡を経略した。京に還り、金吾諸衛を督し、海船百八十艘を造り、遼東に糧餉を運び、陝西岷州諸衛の官馬を籍した。二十三年、胡惟庸の党に連座して死し、爵は除かれた。

黄彬

黄彬は江夏の人である。欧普祥に従い袁・吉の属県を陥落させ、徐寿輝は普祥に袁州を守らせた。陳友諒が寿輝を殺し、偽号を僭称すると、彬は普祥に言った。「公は友諒と比肩する者、どうしてその下に立たれようか。友諒は驕恣であり、江東の敵ではない。境を保って東師を待てば、富貴を失わないであろう。」普祥は遂に使者を遣わして帰順した。友諒は弟の友仁を遣わしてこれを攻めた。彬は普祥とともにその衆を破り、友仁を捕らえた。友諒は恐れ、境界を分けて侵犯しないことを約し、友仁を釈放させた。当時、江・楚の諸郡は皆陳氏の有するところとなり、袁州はその要害を扼し、潭・岳・贛の兵は出ることができなかった。友諒の勢いは大いに窮した。太祖の兵が臨むと、遂に江州を棄てたが、これは彬の力である。太祖が龍興に至り、普祥に依然として袁州を守らせ、彬を江西行省参政とした。間もなく普祥が死ぬと、彬がその衆を率いた。普祥はもとより残暴であったが、彬はその行いをことごとく改め、民は大いに安んじた。常遇春に従い贛州を征した。饒鼎臣が吉安に拠り、熊天瑞の声援となった。遇春の兵が至ると、鼎臣は安福に走り、彬は兵を率いてこれを追った。鼎臣は茶陵に走り、天瑞は降伏した。永新の守将周安が叛くと、彬は湯和に従い安を捕らえ、鼎臣もまた誅殺された。袁州に移鎮し、諸山寨を招集した。江西は悉く平定された。江淮行省中書左丞に進んだ。洪武三年、宜春侯に封ぜられ、歳禄九百石、世券を与えられた。四年、贛州上猶山の賊が叛き、これを討平した。五年、古州などの洞蛮が叛き、鄧愈を征南将軍とし、三道より出師し、彬は営陽侯楊璟とともに澧州より出た。師が還ると、中都に邸宅を賜った。翌年、徐達に従い北平を鎮め、沂州・臨清に出て練兵した。二十三年、胡惟庸の党に連座して死し、爵は除かれた。

葉升

葉升は合肥の人である。左君弼が廬州に拠ると、升は自ら抜け出て帰順した。右翼元帥として江州征伐に従い、指揮僉事として呉攻略に従い、府軍衛指揮使として明州平定に従った。洪武三年、功を論じ、大都督府事を僉した。翌年、征西将軍湯和に従い舟師をもって蜀を取った。二年を経て、都指揮使として出て西安を鎮守し、慶陽の叛寇を討平した。十二年、再び大都督府事を僉した。西番が叛くと、都督王弼とともにこれを征し、乞失迦を降し、その部落を平定した。再び延安の伯顔帖木児を討平し、洮州の番酋を擒えた。功を論じ、靖寧侯に封ぜられ、歳禄二千石、世襲の指揮使を賜った。遼東を鎮め、海・蓋・復の三城を修築した。在鎮六年、辺備を整え挙げ、外寇は敢えて侵犯しなかった。高麗の賄賂を発覚させ、帝はたびたび勅を賜い、唐勝宗とともに褒賞された。

二十年、普定侯陳桓とともに諸軍を総制し、雲南の定辺・姚安において営を立て、屯田し、畢節衛を経理することを命ぜられた。翌年、東川・龍海の諸蛮が叛き、升は参将として沐英に従いこれを討平した。やがて湖広安福所の千戸夏徳忠が九溪洞蛮を誘って寇と為すと、升は胡海らとともにこれを討った。潜かに兵を賊の背後に出し、掩撃して徳忠を擒えた。永定・九溪の二衛を立て、よって襄陽に留まり屯した。贛州の山賊が再び湖広の峒蛮と結んで寇と為すと、升は副将軍として胡海らとともにこれを討平し、俘獲一万七千人を得た。升は凡そ三たび叛蛮を平定した。再び出て甘粛・河南で練兵した。二十五年八月、胡惟庸と交通したことが発覚し、誅殺された。涼国公藍玉は升の姻戚であり、玉が敗れると、再び升に連座し、故に名は両党に隷すると云う。

賛に曰く、諸将は草昧の際に当たり、上は天命を観、心を明主に委ね、戦勝攻取し、克く殊勛を建て、皆一時の智勇であった。海内が寧謐に至りて、乃ち名を党籍に隷し、或いは追論され、或いは身坐し、自ら全うする者は稀であった。圭裳の賜は固より功に酬いるに足るが、礪帯の盟は再世に克たず、また慨くべきことである。