明史

列傳第十八 吳良、康茂才、丁德興、耿炳文、郭英、華雲龍、韓政、仇成、張龍、吳復、胡海、張赫、華高、張銓、何真

吳良

吳良は定遠の人である。初めは國興と名乗り、後に良の名を賜った。雄偉で剛直であった。弟の禎とともに勇略で知られた。太祖に従って濠梁で挙兵し、ともに帳前先鋒となった。良は水に潜って偵察することができ、禎はしばしば服を変えて間諜となった。禎については別に傳がある。良は従って滁州・和州を取ることに加わり、採石で戦い、太平を克ち、溧水・溧陽を下し、集慶を平定し、功績が多かった。また徐達に従って鎮江を克ち、常州を下し、鎮撫に進み、丹陽を守った。趙繼祖らとともに江陰を取った。張士誠の兵が秦望山を占拠したので、良はこれを攻め奪い、ついに江陰を克った。すぐに指揮使に命じてこれを守らせた。

当時、士誠は呉を全面的に占拠し、淮東・浙西にまたがり、兵糧は豊富であった。江陰はその要衝に当たり、大江に臨み、南北の襟喉を扼していた。士誠はたびたび金帛で将兵を誘い、隙を窺った。太祖は良に諭して言った。「江陰は我が東南の屏障である。汝は士卒を統制し、外と交わるな、逃亡者を受け入れるな、小利に貪るな、鋒を争うな、ただ境を保ち民を安んずるのみである。」良は命を受けてひたすら謹み、防備を整え修めた。敵を破った功により、枢密院判官に進んだ。士誠が大軍を挙げて来寇し、艨艟が江を蔽い、その将の蘇同僉が君山に駐屯し、進兵を指揮した。良は弟の禎を遣わして北門から出てこれと戦わせ、ひそかに元帥の王子明を遣わして壮士を率いさせ南門から馳せ出させた。合撃してこれを大いに破り、捕虜斬首は甚だ多かった。敵は夜遁した。まもなくまた常州を寇したので、良は兵を遣わし間道からその援兵を無錫で殲滅した。この時、太祖はたびたび自ら将兵を率いて江・楚の上流を争い、陳友諒と角逐し、大軍がしばしば出撃したため、金陵は空虚であった。士誠が北に出て寸土も侵すことができなかったのは、良が江陰にいて屏障となっていたからである。

良は仁恕で倹約し、声色貨利を好まなかった。夜は城楼に宿り、戈を枕に夜明けを待った。将を訓え兵を練り、常に敵が来たかのようにした。暇なときは儒生を招いて経史を講論させ、学宮を新たにし、社学を立てた。大いに屯田を開き、徭役を均しくし賦税を省いた。境に十年いて、封疆は安らかであった。太祖は常に良を召して労い言った。「呉院判は一方を保障し、我に東顧の憂い無し。功は甚だ大である。車馬珠玉をもってしてもその労を旌ぐには足りない。」学士の宋濂らに命じて詩文を作らせてこれを称美させ、なおも鎮守に還らせた。まもなく大いに兵を発して淮東を取り、泰州を克った。士誠の兵がまた馬馱沙から出て、鎮江を侵した。巨艦数百隻が江を溯上した。良は戒厳して待った。太祖が親しく大軍を督いてこれを防いだ。士誠の兵は遁走し、浮子門まで追撃した。良は出兵して挟撃し、二千の兵卒を捕獲した。太祖は江陰に赴き軍を労い、周りに壁塁を巡って嘆じて言った。「良は今の呉起である!」呉が平定されると、昭勇大将軍・蘇州衛指揮使を加えられ、蘇州に移鎮した。武備をますます修め、軍民は和合した。都督ととく僉事に進み、全州に移って守った。洪武三年に都督同知に進み、江陰侯に封ぜられ、禄千五百石を食み、世券を賜った。

四年に靖州・綏寧の諸蛮を討った。五年、広西の蛮が叛いたので、征南将軍鄧愈の副将として平章李伯升を率い靖州から出てこれを討った。数ヶ月で左右両江及び五溪の地をことごとく平定し、兵を移して銅鼓・五開に入り、潭溪を収め、太平を開き、清洞・崖山の衆を銅関鉄寨で殲滅した。諸蛮は皆震え恐れて内附し、粤西はついに平定された。八年に鳳陽で屯田を督した。十二年、斉王が青州に封ぜられた。王妃は良の娘であったので、ついに良に命じて王府を建てさせた。十四年に青州で卒した。五十八歳であった。江国公を追贈され、諡は襄烈。

子の高が侯を嗣いだ。たびたび山西・北平・河南に出て練兵し、北征に従い、蕃軍を率いて百夷を討った。二十八年、罪有って広西に左遷され、趙宗寿征討に従った。燕師が起こると、高は遼東を守り、楊文とともにたびたび出師して永平を攻めた。燕王は高を除こうと謀り、言った。「高は臆病ではあるが、やや細密である。文は勇猛だが謀が無い。高を除けば、文は為すところ無しである。」そこで二人に書を送り、高を大いに称賛し、文を極めて誹謗したが、わざと封筒を取り違えて授けた。二人は書を得て、ともにこれを上聞した。建文帝は果たして高を疑い、爵を削って広西に流し、ただ文のみが遼東を守ったが、ついに敗れた。永楽初年、再び高を召して大同を鎮守させ、備辺の方略を上言した。八年、帝が北征から凱旋すると、高は病と称して朝せず、弾劾され、庶人に廃され、世券を奪われた。洪熙元年、帝が高の名を見て言った。「高は往年無礼な行いが多かった。海南に謫戍せよ。」高はすでに死んでいたので、その家を移したが、赦いに会って釈放された。宣徳十年、子の升が嗣ぐことを乞うたが、許されなかった。

康茂才

康茂才は字を壽卿といい、蘄州の人である。経史の大義に通じた。母に仕えて孝であった。元末の寇乱で蘄州が陥落すると、義兵を結んで郷里を保った。功を立て、長官から累進して淮西宣慰司・都元帥となった。

太祖が江を渡った後、将兵の家族は和州に留まっていた。当時茂才は採石に移戍し、江の渡しを扼していた。太祖は兵を遣わして数度攻撃したが、茂才は力守した。常遇春が伏兵を設けてその精鋭を殲滅した。茂才はまた天寧洲に寨を立てたが、またも破られた。集慶に奔り、太祖が集慶を克つと、ついに配下の兵を率いて降った。太祖はこれを釈放し、配下の兵を統率して従征することを命じた。翌年、秦淮翼水軍元帥を授けられ、龍湾を守った。江陰の馬馱沙を取り、張士誠の兵を破り、その楼船を獲た。廖永安に従って池州を攻め、樅陽を取った。太祖は軍興により民が農業を失ったので、茂才を都水営田使とし、なおも帳前総制親兵左副指揮使を兼ねさせた。

陳友諒が太平を陥落させた後、張士誠と約して合い応天を攻めようと謀った。太祖は彼らが速やかに来ることを望み、これを破ろうとした。茂才が友諒と旧知であることを知り、僕を遣わして書を持たせ、内応すると偽らせた。友諒は大いに喜び、問うた。「康公はどこにおられるか。」答えて言うには「江東の木橋を守っておられます。」使いが帰ると、太祖は橋を石に替えた。友諒が到着し、橋を見て愕然とし、連呼して「老康」と呼んだが、応答する者はなかった。龍湾まで退くと、伏兵が四方から起こった。茂才は諸将と合して奮撃し、これを大いに破った。太祖は茂才の功を嘉し、賜賚は甚だ厚かった。翌年、太祖が親征して友諒を征し、茂才は舟師を率いて従い安慶を克ち、江州を破り、友諒は西に遁走した。ついに蘄州・興国・漢陽を下した。流れに沿って黄梅寨を克ち、瑞昌を取り、友諒の八指揮を破り、士卒二万人を降した。帳前親兵副都指揮使に遷った。左君弼の廬州を攻めたが、下さなかった。南昌救援に従い、彭蠡で戦い、友諒は敗死した。武昌征討に従い、いずれも功があった。金吾侍衛親軍都護に進んだ。大将軍徐達に従って再び廬州を攻め、これを克ち、江陵及び湖南の諸路を取った。神武衛指揮使に改め、大都督府副使に進んだ。士誠が江陰を攻めたので、太祖は自ら将兵を率いてこれを撃った。鎮江に到着する頃には、士誠はすでに瓜洲を焼いて遁走していた。茂才はこれを追撃して浮子門まで至った。呉軍が海口を遮り、潮に乗って迫って来た。茂才は力戦し、これを大いに破った。淮安の馬騾港を衝き、その水寨を抜き、淮安は平定された。まもなく湖州を抜き、平江に進逼した。士誠は鋭卒を遣わして迎え戦い、尹山橋で大戦した。茂才は大戟を持って督戦し、敵衆をことごとく覆滅した。諸将とともにその城を合囲し、軍を斉門に置いた。平江が下ると、還って無錫を取った。同知大都督府事兼太子右率府使に遷った。

洪武元年、大将軍に従い中原を経略し、汴・洛を取って陝州を留守した。糧餉の輸送を計画し、浮橋を造って軍を渡した。絳・解の諸州を招来し、潼関を扼して、秦の兵は東に向かうことができなかった。茂才は撫綏に長け、民は石を立ててその徳を称えた。三年、再び大将軍に従って定西を征し、興元を取った。還軍の途中で卒した。蘄国公を追封され、諡は武康(義)といった。

子の鐸は、十歳の時に皇太子の侍読として大本堂に入った。父の功により蘄春侯に封ぜられ、禄千五百石を食み、世券を賜った。鳳陽で民を督いて田を墾かせた。兵を帥いて辰州蛮を征し、施・疊の諸州を平定した。大将軍達に従って北征した。また征南将軍傅友徳に従って雲南を征し、普定を克ち、華楚山の諸寨を破った。軍中で卒し、年二十三。蘄国公を追封され、諡は忠愍といった。

子の淵は幼くして襲封せず、散騎舎人に任ぜられた。後に事に坐して冠服を革められ、山西に居住することを命ぜられ、ついに嗣ぐことができなかった。弘治末、茂才の後を録して世襲千戸とした。

丁徳興

丁徳興は定遠の人である。濠において太祖に帰した。その状貌が魁偉であったので、「黒丁」と呼んだ。洪山寨を取るのに従い、百騎で賊数千を破り、その衆をことごとく降した。滁・和を克つに従い、青山の盗賊を敗った。江を渡るに従い、採石を抜き、太平を取り、兵を分けて溧水・溧陽を取り、いずれも先登した。蛮子海牙の水寨を破るに従い、方山営を搗き、陳兆先を擒え、集慶を下し、鎮江を取った。功により管軍総管に進んだ。金壇・広徳・寧国を下した。常州を平定するに従った。左翼元帥に擢げられた。寧国が再び叛くと、胡大海に従ってこれを復した。兵を分けて江陰を下し、徽州・石埭・池州・樅陽を取り、江州を攻め、兵を移して安慶を撃った。向かうところ皆捷した。また江陰を援け、江西の傍近の州県を略し、双刀趙を攻めてその鋒を挫いた。時に徐達・邵栄が宜興を攻めて久しく下さず、太祖は使者を遣わして言った、「宜興城は西は太湖口に通じ、士誠の糧道の経由するところである。その糧を断てば必ず破れる」。達はすなわち徳興を遣わして太湖口を絶ち、力を併せて急攻したので、城はついに抜けた。功を論じて鳳翔衛指揮使を授けた。洪武帝はかつて彼を「攻めて克たざるなく、戦いて勝たざるなき虎将なり」と称した。

陳友諒が龍江を犯すと、徳興は石灰山に軍し、力戦してこれを撃破した。ついで友諒を征するに従い、安慶を搗き、九江を克ち、安豊を援け、呂珍を敗り、左君弼を走らせた。鄱陽に戦うに従い、武昌を平定し、廬州を克ち、湖南衡州の諸郡を略定した。また大将軍に従って淮東を収め、浙西を征し、旧館において士誠の兵を破った。湖州を下し、平江を囲んだ。軍中で卒した。都指揮使を贈られた。洪武元年に済国公を追封され、功臣廟に列祀された。子の忠は龍江衛指揮使で、世襲を許された。

耿炳文

耿炳文は濠の人である。父の君用は太祖に従って江を渡り、功を積んで管軍総管となった。宜興を援け、張士誠の兵と柵を争い、力戦して死んだ。炳文は職を襲い、その軍を領した。広徳を取り、長興を進攻し、士誠の将趙打虎を破り、戦船三百余艘を獲、その守将李福安等を擒え、ついに長興を克った。長興は太湖口に拠り、陸路は広徳に通じ、宣・歙と接壤し、江・浙の門戸であった。太祖はその地を得て大いに喜び、長安ちょうあん州と改め、永興翼元帥府を立て、炳文を総兵都元帥としてこれを守らせた。温祥卿という者は、智数が多い。乱を避けて来帰し、炳文はこれを幕府に引き入れ、守御の計を画くこと甚だ詳しかった。張士誠の左丞潘元明・元帥厳再興が師を帥いて来争した。炳文は奮撃し、大いに敗って去った。久しくして、士誠はまた司徒しと李伯升を遣わして衆十万を帥い、水陸より進攻した。城中の兵は七千、太祖はこれを患い、陳徳・華高・費聚を命じて往援させた。伯升は夜に営を劫い、諸将は皆潰走した。炳文は城に拠って固く守り、攻撃甚だ急であったが、方に随ってこれを防ぎ、甲を解かざること月余りに及んだ。常遇春がまた援兵を帥いて至ると、伯升は営を棄てて遁走し、追撃して五千余人を斬った。その翌年、永興翼元帥府を永興衛親軍指揮使司と改め、炳文を指揮使とした。やがて士誠は大いに兵を発し、その弟の士信を遣わしてまた来争した。炳文はまたこれを破り、その元帥宋興祖を獲た。士信は甚だ憤り、兵を益して城を囲んだ。炳文は費聚と出戦し、また大いにこれを破った。長興は士誠の必争の地であり、炳文は拒守すること凡そ十年、寡をもって衆を御し、大小数十戦、戦いて勝たざることなく、士誠はついに思いを遂げられなかった。大軍が士誠を伐つに及び、炳文は将としてその部を率いて湖州を克ち、平江を囲んだ。呉が平定され、大都督府僉事に進んだ。

中原を征するに従い、山東の沂・嶧の諸州を克った。汴梁を下し、河南を徇い、駕に扈従して北巡した。やがて、また常遇春に従って大同を取り、晋・冀を克った。大将軍徐達に従って陝西を征し、李思斉・張思道を走らせ、すなわちその地を鎮守した。涇陽の洪渠十余万丈を浚い、民はその利に頼った。まもなく秦王左相都督僉事に拝された。

洪武三年、長興侯に封ぜられ、禄千五百石を食み、世券を賜った。十四年、大将軍に従って塞に出で、北黄河において元の平章乃児不花を破った。十九年、潁国公傅友徳に従って雲南を征し、曲靖蛮を討平した。二十一年、永昌侯藍玉に従って北征し、捕魚児海に至った。二十五年、兵を帥いて陝西徽州の妖人の乱を平定した。三十年、征西将軍としてしょく寇高福興を擒え、三千人を俘虜とした。

初め、炳文が長興を守った功は最も高く、太祖は功臣を榜列して、炳文を大将軍達に附して一等とした。洪武末年に至り、諸公・侯は将に尽き、存する者は炳文及び武定侯郭英の二人のみであった。そして炳文は元功の宿将として、朝廷に倚重された。

建文元年、燕王の兵が起こった。帝は炳文を大将軍と命じ、副将軍李堅・寧忠を帥いて北伐させた。時に年六十五であった。兵は三十万と号したが、至った者は十三万のみであった。八月に真定に次ぎ、営を分けて滹沱河の南北に置いた。都督徐凱は河間に軍し、潘忠・楊松は鄚州に駐し、先鋒九千人は雄県に駐した。中秋に当たり、設備せず、燕王に襲われ、九千人皆死した。忠等が来援し、月漾橋を過ぎると、水中に伏兵が発した。忠・松はともに捕らえられ、屈せずして死んだ。鄚州は陥った。そして炳文の部将張保という者が燕に降り、南軍の虚実を備えて告げた。燕王は保を帰らせ、雄・鄚の敗状を張らしめ、「北軍将に至らん」と言わせた。ここにおいて炳文は軍を移して尽く河を渡らせ、力を併せて敵に当たらせた。軍が移るやいなや、燕兵が驟然として至り、城に沿って蹴撃した。炳文の軍は列を成すことができず、敗れて城に入った。門を争い、門は塞がり、踏み躙られて死する者は数えきれなかった。燕兵はついに城を囲んだ。炳文の衆はなお十万、堅守して出なかった。燕王は炳文が老将で、容易に下せぬと知り、三日を過ぎて囲みを解いて還った。そして帝は驟然として炳文の敗を聞き、甚だ憂えた。太常卿黄子澄はすなわち李景隆を薦めて大将軍とし、駅伝に乗って炳文に代わらせた。軍に至る頃には、燕師は既に一日先に去っていた。炳文は帰り、景隆が将に代わり、ついに敗北に至った。

燕王が帝を称した翌年、刑部尚書鄭賜・都御史陳瑛が炳文を弾劾し、衣服器皿に龍鳳の飾りがあり、玉帯に紅鞓を用い、僭妄不道であるとした。炳文は懼れて自殺した。

子の璿は、前軍都督僉事であった。懿文太子の長女である江都公主を娶った。炳文が北伐したとき、璿は北平を直ちに攻撃すべきと勧めたことがある。炳文が交代して帰還した後は再び用いられず、璿は非常に憤慨した。永楽初年、門を閉ざして病気と称し、罪に坐して死んだ。

璿の弟の瓛は、後軍都督僉事であった。江陰侯の呉高、都指揮の楊文とともに遼東の兵を率いて永平を包囲したが、陥落させられず、退いて山海関を守った。呉高は離間策にかかり、広西に移された。楊文は遼東を守り、瓛はしばしば永平を攻撃して北平を動揺させるよう請うたが、楊文は聞き入れなかった。後に弟の尚宝司卿の瑄とともに、ともに罪に坐して死んだ。

郭英

郭英は、鞏昌侯の郭興の弟である。十八歳の時、郭興とともに太祖に仕えた。親信され、帳中で宿直することを命じられ、「郭四」と呼ばれた。滁州・和州・採石・太平の攻略に従い、陳友諒を征伐し、鄱陽湖で戦い、いずれも功績があった。武昌征伐に従い、陳氏のぎょう将である陳同僉が槊を持って突入してきたとき、太祖は郭英にこれを討たせ、戦袍を賜った。岳州を攻め、その援兵を破り、帰還して廬州・襄陽を攻略した。驍騎衛千戸に任じられた。淮安・濠州・安豊を攻略し、指揮僉事に進んだ。徐達に従って中原を平定し、また常遇春に従って太原を攻め、拡廓を敗走させ、興州・大同を陥れた。沙浄州に至り黄河を渡った。西安・鳳翔・鞏昌・慶陽を奪取し、乱山で駕宗哲を追撃して破り、本衛の指揮副使に遷った。進軍して定西を攻略し、察罕脳児を討った。登寧州を攻略し、二千の首級を斬り、河南都指揮使に進んだ。当時、郭英の妹は寧妃であり、郭英が任地に赴こうとしたとき、命じて妃に邸で郭英を餞別させ、白金二十罌、厩舎の馬二十匹を賜った。任地では流亡の民を安撫し、規律を明らかにし、境内は大いに治まった。九年に北平に移鎮した。十三年に召還され、前軍都督府僉事に進んだ。

十四年、潁川侯の傅友徳に従って雲南を征伐し、陳桓・胡海と分かれて赤水河路を進攻した。長雨で河水が急増した。郭英は木を伐って筏を作り、夜に乗じて渡河した。夜明け前に賊の陣営に到着し、賊は大いに驚いて潰走した。烏撒および阿容らを生け捕りにした。曲靖・陸涼・越州・関索嶺・椅子寨を攻略した。大理・金歯・広南を降伏させ、諸山寨を平定した。十六年、再び傅友徳に従って蒙化・鄧川を平定し、金沙江を渡り、北勝・麗江を奪取した。前後して一万三千余りの首級を斬り、二千余人を生け捕りにし、数万の精鋭の甲冑と千余艘の船を収めた。十七年、雲南平定の功績を論じ、武定侯に封ぜられ、禄二千五百石を食み、世券を賜った。

十八年、靖海将軍を加えられ、遼東を鎮守した。二十年、大将軍の馮勝に従って金山から出撃し、納哈出が降伏し、征虜右副将軍に進んだ。藍玉に従って捕魚児海に至った。軍が帰還すると、賞賜は非常に厚く、郷里に帰還を命じられた。翌年、京師に召し入れられ、禁兵を統轄することを命じられた。三十年、征西将軍の耿炳文の副将として陝西の辺境を守備し、沔県の賊である高福興を平定した。帰還すると、御史の裴承祖が郭英が私的に家奴百五十余人を養い、また男女五人を擅に殺したことを弾劾した。帝は問わなかったが、僉都御史の張春らが執拗に上奏したため、ついに諸戚里大臣にその罪を議させた。議が上ると、結局これを赦した。建文の時、耿炳文・李景隆に従って燕を討伐したが、功績がなかった。靖難の後、罷免されて邸に帰った。永楽元年に卒去、六十七歳であった。営国公を追贈され、諡は威襄。

郭英は孝友であり、書史に通じ、行軍には紀律があり、忠謹をもって太祖に親しまれた。また寧妃の縁故もあり、恩寵は特に厚く、諸功臣はこれを望む者もなかった。

子は十二人。鎮は、永嘉公主を娶った。銘は、遼府の典宝。鏞は、中軍右都督。女は九人、二人は遼郢王の妃となった。女孫は仁宗の貴妃となり、銘の出である。このため銘の子の玹が侯を嗣ぐことができた。宣徳年間、玹は宗人府の事務を代行し、河間の民の田畑と家屋を奪い、また天津の屯田千畝を奪い、その奴僕を罪に問うたが、玹は赦した。英宗の初め、永嘉公主がその子の珍に侯を嗣がせるよう請うた。珍は郭英の嫡孫であり、錦衣衛指揮僉事に任じられた。玹が卒去すると、子の聰と珍が後嗣を争い、ついにともに襲封を停止し、聰にも珍と同じ官職を授けた。天順元年、珍の子の昌が詔の恩典により襲封を得たが、聰が争って得られなかった。昌が卒去すると、子の良が嗣ぐべきところ、聰はまた良は昌の子ではないと言い、再び襲封を停止し、指揮僉事を授けた。たびたび襲封を請うたため、獄に下され、まもなく釈放されて官に復した。その後、郭氏の宗人が共に郭英の孫の一人を選んで郭英の爵を嗣がせるよう請うた。廷臣は皆、良は本来郭英の嫡孫であるから、侯を嗣ぐべきであると言った。詔でこれを認めた。正徳初年に卒去した。子の勛が嗣いだ。

勛は桀黠で智謀があり、書史にかなり通じていた。正徳年間、両広を鎮守し、入朝して三千営を掌った。世宗の初め、団営を掌った。大礼の議が起こると、勛は上意を知り、真っ先に張璁を支持し、世宗は大いにこれを寵愛した。勛は寵を恃み、かなり驕慢で勝手であった。大学士の楊一清はこれを憎み、その賄賂請託の事が発覚したのを機に、営務を罷免し、保傅の官階を奪った。楊一清が罷免されると、依然として五軍営を総括し、四郊の造営を監督した。翌年、団営を監督した。十八年、後府を兼領した。帝に従って承天に行幸し、五世の祖である郭英を太廟に配享するよう請うた。廷臣は認めないと主張し、侍郎の唐冑が特に強く争った。帝は聞き入れず、郭英はついに配享を得た。その翌年、献皇が宗と称され、太廟に入り、勛は翊国公に進み、太師を加えられた。 先に、妖人李福達は自ら薬物を金銀に変化させられると言った。勛は彼と親密になった。李福達が敗れると、その獄を強く支持し、廷臣の多くが罪に問われた。この時また方士の段朝用を進め、その変化させた金銀で飲食の器を作れば、不死になれると言った。帝はますます忠実であると思った。給事中の戚賢が勛が威福を擅にし、利を貪り民を虐げる諸事を弾劾した。李鳳来らもまた同様に言上した。下して有司に調査させると、勛の京師の店舗は千余区にも及んだ。副都御史の胡守中はまた、勛が族叔の郭憲を東廠で刑罰を扱わせ、無辜を肆虐させたことを弾劾した。帝はこれを放置して治めなかった。ちょうど帝が言官の言を用い、勛に勅書を与え、兵部尚書の王廷相・遂安伯の陳譓とともに軍役を整理させることになった。勅書が整うと、勛は受け取らなかった。言官がその威福を振るい党を結んだことを弾劾した。勛が上疏して弁明し、「どうしてさらに勅書を賜わる労を煩わせる必要があろうか」という言葉があった。帝はついに激怒し、その「強情で悖り、人臣の礼がない」ことを責めた。そこで給事中の高時がことごとく勛の奸利の事を暴き、かつ張延齢と通じていると言った。帝はますます怒り、勛を錦衣獄に下した。二十年九月のことである。まもなく鎮撫司に刑訊を加えないよう諭した。奏上されると、勛は死罪に当たるとされた。帝は法司に再調査させた。そして給事中の劉大直が再び勛の乱政十二罪を調査し、ともに治罪するよう請うた。法司はついに諸上疏中の罪状をことごとく実証し、勛は絞罪に当たるとした。帝は詳議を命じた。法司はさらに勛の不軌の罪を斬罪に当たるとし、妻子と田宅を没収するとした。奏上されると、留中して下さなかった。帝は勛を寛大にしたい意向で、たびたびその旨を示した。しかし廷臣は勛を非常に憎み、理解していないふりをして、さらに勛を重い刑罰に坐らせた。翌年、言官を考察し、特旨で高時を二階級貶し、廷臣に示したが、廷臣はついに勛のために請う者はなかった。その冬、勛は獄中で死んだ。帝はこれを哀れみ、法司が長く拘禁したことを責めた。刑部尚書の呉山の職を褫奪し、侍郎・都御史以下はそれぞれ降格・降級させ、勛の籍没は免じ、ただ誥券を奪うのみであった。

明が興って以来、勲臣は政事に関与しなかった。ただ勛のみが、恩寵を挟み、朝権を擅にし、恣に奸悪をなして敗れた。勛が死んで数年後、その子の守乾が侯を嗣ぎ、曾孫の培民に伝わった。崇禎末、賊のために死んだ。

華雲龍

華雲龍は定遠の人である。衆を集めて韭山に居た。太祖が兵を起こすと、来て帰順した。滁州・和州の攻略に従い、千夫長となった。長江渡河に従い、採石の水寨及び方山の営を破った。集慶路を陥とし、元の将を生け捕りにして、兵一万を得、鎮江を陥とし、総管に遷る。広徳を攻め落とし、旧館で戦い、湯元帥を擒らえ、右副元帥に進む。龍江の役に、雲龍は石灰山に伏兵し、接戦して、殺傷は互角であった。雲龍は馬を躍らせて大呼し、その中堅を突き崩し、遂に友諒の兵を大いに破り、勝に乗じて太平を回復した。九江・南昌の攻略に従い、分兵して瑞州・臨江・吉安を攻め落とした。安豊救援に従い、彭蠡で戦い、武昌を平定した。累功により豹韜衛指揮使に至る。徐達に従って兵を率いて高郵を取るに及び、進んで淮安を陥とし、遂に命じてこれを守らせ、淮安衛指揮使に改める。まもなく嘉興を攻め、呉の将宋興を降す。平江を包囲し、胥門に軍を置く。

大軍に従って北征し、山東の郡県を巡り下し、徐達と通州で会して兵を率い、進んで元の都を陥とす。大都督府僉事に抜擢され、六衛の兵を総べ留守し、兼ねて北平行省参知政事となる。一年余りして、雲州を攻め落とし、平章火児忽答・右丞哈海を獲る。都督同知に進み、燕王左相を兼ねる。洪武三年冬、功を論じて淮安侯に封ぜられ、禄一千五百石、世券を賜る。雲龍が上言して曰く、「北平の辺塞は、東は永平・薊州より、西は灰嶺下に至るまで、隘口百二十一、相去ることおよそ二千二百里。その王平口より官坐嶺に至るまで、隘口九、相去ること五百余里。いずれも衝要にして、兵を設くべし。紫荊関及び蘆花山嶺は特に要害にして、千戸守御所を設くべし」と。また言う、「前に大兵が永平を陥とした時、故元の八翼軍士千六百人を留めて屯田せしめ、人月ごとに糧五斗を支給したが、得るところは費いに償わず。燕山諸衛に入れ、伍を補って操練すべし」と。いずれも従われる。辺境を行き至って雲州に至り、元の平章僧家奴の営を牙頭において襲い、突入してその帳を擒らえ、その衆を尽く俘虜とする。上都の大石崖に至り、劉学士の諸寨を攻め落とし、驢児国公は漠北に奔る。ここより内犯する者なく、威名大いに著る。燕邸を建て、北平城を増築するは、皆その経画による。洪武七年、雲龍が元の相脱脱の第宅を占拠し、故元の宮中の物を僭用したとの言あり。召還され、何文輝を遣わして代わらしむ。京に至らざるうち、道中に卒す。

子の中が襲封す。李文忠の卒するや、中は侍疾して薬を進め、坐して貶死す。二十三年、中を胡党に追論し、爵を除く。

韓政

韓政は睢の人である。嘗て義兵元帥となり、衆を率いて太祖に帰し、江淮行省平章政事を授かる。李済が濠州に拠り、名は張士誠のために守ると称するも、実は観望す。太祖は右相国李善長を使わして書を以てこれを招くも、報いず。太祖嘆いて曰く、「濠は吾が家なり、済がかくの如くでは、我に国あれども家なき可けんや」と。乃ち政に命じ、指揮顧時を率いて雲梯砲石を以て四面より濠を攻めしむ。済は支え難しと度り、始めて出でて降る。政は済を応天に帰す。太祖大いに悦び、時に命じて濠州を守らしむ。

政は徐達に従って安豊を攻め、その四門を扼し、潜かに城東の龍尾壩に穴を穿ち、その城に二十余丈入る。城壊れ、遂にこれを破る。元の将忻都・竹貞・左君弼は皆走る。追奔四十余里、都を擒らう。俄かに貞が兵を引いて来援し、城南門でこれと戦い、再び破って走らしむ。淮東・西悉く平まる。已にして、大軍に従って呉を平らぐ。また北伐に従い、梁城の守将盧斌を降す。分兵して黄河を扼し、山東の援軍を断ち、遂に益都・済寧・済南を取り、皆功あり。東平を陥とし、功特に多し。山東行省平章政事に改む。師を率いて大將軍と臨清で会し、檄して政に東昌を守らしむ。大都を下すと、政に命じて分兵して広平を守らしむ。政は遂に白土の諸寨を諭して降す。彰徳に移り守り、蟻尖寨を下す。蟻尖は林慮の西北二十里に在り、元の右丞呉庸・王居義・小鎖児の拠る所なり。大將軍の北伐するや、将士を遣わして諸山寨を収復せしめ、降る者相継ぐも、蟻尖のみは険を恃んで下らざりき。ここに至り兵を逼れば、庸は居義及び小鎖児を誘い殺して降り、士卒一万余人を得る。まもなく征陝西に調され、還兵して河北を守御す。洪武三年、東平侯に封ぜられ、禄千五百石、世券を賜る。山東に移鎮す。未だ幾ばくもせず、また河北に移る。流民を招撫し、復業する者甚だ衆し。左副将軍李文忠に従って応昌を搗ち、臚朐河に至る。文忠深く入り、政に命じて輜重を守らしむ。還り、命じて河南・陝西を巡らしむ。再び信国公湯和に従って臨清で練兵す。十一年二月卒す。帝親しくその喪に臨む。鄆国公を追封す。

子の勲が襲封す。二十六年、藍党に坐して誅せられ、爵を除く。

仇成

仇成は含山の人である。初め従軍して万戸を充たし、屡遷して秦淮翼副元帥に至る。太祖が安慶を攻むるに、敵は固守して戦わず。廖永忠・張志雄がその水寨を破るや、成は陸兵を以てこれに乗じ、遂に安慶を陥とす。初め、元の左丞余闕が安慶を守り、陳友諒の将趙普勝がこれを陥とす。友諒は普勝を殺すや、元帥余某なる者襲い取りし。張定辺復た来り犯すや、余帥は走り死す。ここに至り成を以て横海指揮同知とし、その地を守らしむ。時に左君弼は廬州に拠り、羅友賢は池州を以て叛き、無為の知州董曾は陥ち死に、四面皆賊の境なり。成は軍民を撫集し、守御厳密にして、漢兵敢えて東下せず。鄱陽征討に従い、敵を涇江口に殲し、功最も多し。平江を征し、張士誠の兵を城西南に敗る。洪武三年、大都督府事を僉し、遼東を鎮む。久しくして、屯戍の功無きを以て、永平衛指揮使に降る。まもなく官に復す。十二年、藍玉等の征西の功を論じ、封ずべし。帝は成の旧勲を思い、先ず安慶侯に封じ、歳禄二千石。二十年、征南副将軍を充て、容美諸峒を討平す。また大軍に従って雲南を征し、功多く、世券を賜い、禄五百石を加う。二十一年七月、疾あり。内〓昷を賜い、手詔を以て存問す。卒す。皖国公を贈り、諡して庄襄と曰う。子の正が爵を襲ぐ。

張龍

張龍は濠州の人である。渡江に従い、常州・寧国・婺州を平定し、いずれも功績があった。江州征討に従い、都先鋒となった。武昌を平定し、花槍所千戸を授けられた。淮東平定に従い、海安を守御した。張士誠の将と海口で戦い、彭元帥を生け捕りにし、その兵卒数百を捕虜とした。通州に進攻し、賊将を撃ち斬った。威武衛指揮僉事に抜擢された。山東・河南平定に従った。大軍が潼関を陥落させると、張龍を副留守とした。洪武三年に鳳翔守備に転じ、鳳翔衛指揮に改めた。賀宗哲が全軍で城を包囲したが、張龍は堅く守った。宗哲が北門を攻撃すると、張龍は兵を出して戦い、矢が右脇を傷つけたが動じなかった。ついにこれを大破した。進軍して鳳州を陥落させ、李参政ら二十余人を生け捕りにした。大将軍徐達が沔州に入ると、張龍を別に一軍を率いさせ、鳳翔から連雲棧に入り、興元を攻撃して、その守将劉思忠を降伏させた。蜀の将呉友仁が来犯したが、張龍はこれを撃退した。友仁が再び全軍を率いて城に迫り、大いに攻城具を整えた。張龍は北門から突出し、友仁軍の背後を回り、敵はことごとく甲冑兵器を捨てて逃げ、これ以後再び興元を窺うことはなかった。大都督府僉事に召された。十一年、李文忠に副って西番の洮州を征討した。功績により、鳳翔侯に封ぜられ、禄二千石、世襲指揮使となった。さらに傅友徳に従って雲南を征討し、七星関を鎮守し、大理・鶴慶を陥落させ、諸洞の蛮を平定した。禄五百石を加増され、世券を三十年賜った。二十年、馮勝に従って金山に出撃し、ナハチュ(納哈出)を降伏させた。翌年、勝が降伏軍を調発して雲南を征討し、常徳に駐屯したとき、彼らが反乱して逃走した。張龍は重慶まで追撃し、これを捕らえた。二十三年春、延安侯唐勝宗とともに平越・鎮遠・貴州で屯田を監督し、龍里衛の設置を議した。都勻で乱が起こると、藍玉を補佐してこれを討平した。老病を理由に休暇を請うた。三十年に卒去した。

子の麟は福清公主を娶り、駙馬都尉を授けられた。孫の傑は公主に侍して京師にいた。永楽初年、侯爵を失った。傑の子が継承を求めたが、宣徳十年、詔の恩典を援用して継承を乞うた。吏部が言うには、張龍の侯爵は四十年継承されていない、と。許されなかった。

呉復

呉復は字を伯起といい、合肥の人である。若くして勇略を有していた。元末、衆を集めて郷里を守った。濠で太祖に帰順し、泗・滁・和・採石・太平の攻略に従い、累進して万戸となった。蛮子海牙の水寨を破り、集慶を平定することに従った。徐達に従って鎮江を攻撃し、元の平章定定を斬った。丹陽・金壇を落とし、常州を陥落させ、統軍元帥に進んだ。江陰・無錫を巡行し、常州を守備した。張士誠の兵が急襲してきたが、力戦してこれを破った。長興まで追撃し、高橋・太湖及び忠節門で連敗させ、士誠は意気を喪失した。安豊救援に従い、武昌を平定した。徐達に従って廬州を陥落させ、漢・沔・荊の諸郡県を平定した。鎮武衛指揮同知を授けられ、沔陽を守った。常遇春に従って襄陽を落とし、別将として安陸を破り、元の同僉任亮を生け捕りにし、これを守った。汝州・魯山を陥落させた。

洪武元年、懐遠将軍・安陸衛指揮使を授けられた。鄖・均・房・竹の諸山寨で服従しなかった者をことごとく平定した。三年、大将軍に従って陝西を征討し、ココ・テムル(拡廓)を破り、その将を生け捕りにした。また秦州でココ・テムルを破った。吐番を征討し、河州を陥落させた。漢中を救援し、南鄭を奪取した。翌年、傅友徳に従って蜀を平定した。さらに翌年、鄧愈に従って九溪・辰州の諸蛮を平定し、四十八洞を陥落させ、安陸守備に戻った。七年、大都督府僉事に進んだ。北平を巡察して戻り、世襲指揮使を授けられた。十一年、沐英に従って再び西番を征討し、三副使を生け捕りにし、納隣哈七站の地を得た。翌年、軍が帰還し、功績により安陸侯に封ぜられ、食禄二千石となった。

十四年、傅友徳に従って雲南を征討し、普定を陥落させ、水西に城を築いた。総兵官として、諸蛮を剿捕した。ついに関索嶺から箐道を開き、広西を攻略した。十六年、墨定苗を陥落させ、吉剌堡に至り、安庄・新城を築き、七百房諸寨を平定し、斬獲は万を数え、糧秣を盤江に輸送した。この年十月、金瘡が発し、普定で卒去した。黔国公を追封され、諡は威毅、禄五百石を加増され、世券を賜った。

呉復は戦陣に臨んで奮発し、矢石を冒して進み、体に完膚なきほどであった。平素は恭順で、征伐の事を口にしなかった。普定で妾の楊氏を買った。年十七であった。呉復が死ぬと、彼女は殮(納棺)が終わるのを見届け、沐浴して衣を更え、自ら縊死した。貞烈淑人に封ぜられた。

子の傑が継承した。たびたび山・陝・河南・北平に出向き、練兵して征討に従った。二十八年、罪があり、龍州征討に従軍し、功を立てて自ら贖罪した。建文中、軍を率いて真定を救援し、白溝河で戦ったが、軍律を失い、南寧衛指揮使に左遷された。永楽元年、子の璟が継承を乞うた。正統年間、再三乞うたが、いずれも許されなかった。弘治六年、璟の孫の鐸が詔を援用して継承を乞うたが、これも許されなかった。十八年、呉復の子孫に世職の千戸を記録した。

附 周武

初め、呉復とともに西番征討の功で侯となった者に、また周武がいた。周武は開州の人で、江東平定に従い、漢を滅ぼし、淮東を収め、呉を平定し、功績を積んで指揮僉事となった。中原平定に従い、都督僉事に進んだ。洪武十一年、参将として沐英に従って西番のドカン(朶甘)を討ち、功績が多かった。軍が帰還し、雄武侯に封ぜられ、禄二千石、世襲指揮使となった。出て河南の軍務を処理し、北辺を巡撫した。二十三年に卒去し、汝国公を追贈され、諡は勇襄。

胡海

胡海は字を海洋といい、定遠の人である。かつて土豪の赤塘王総管の営に入ったが、自ら脱出して帰順し、百戸を授けられた。元の将賈魯の兵を破り、泗・滁を陥落させることに従い、万戸に進んだ。渡江に従い、蛮子海牙の水寨を奪取し、陳埜先の兵を破り、集慶・鎮江攻略に従った。寧国で元の将謝国璽を破り、先鋒に選抜された。大軍に従って湖州を包囲し、その東南門の月城を陥落させた。宜興攻撃に従い、婺州を落とし、紹興で激戦し、賊四百余人を生け捕りにし、都先鋒に進んだ。また龍江の戦いに従い、安慶を陥落させ、漢人(陳友諒軍)と対峙し、八度戦ってすべて大勝し、ついに江州に入った。徐達に従って廬州を攻撃し、いずれも功績があった。

胡海は驍勇で、たびたび戦い、たびたび負傷し、手足胸腹の間に金瘡が遍くあったが、戦うことますます力があった。士卒で彼に従う者は、みな奮い立って自ら尽力した。太祖はこれを壮とし、花槍上千戸を授けた。さらに大軍に従って荊・澧・衡・潭を陥落させ、宝慶衛指揮僉事に抜擢され、指揮使に遷り、益陽鎮守を命じられた。平章楊璟に従って湖南・広西の未だ下らぬ郡県を征討した。祁陽から進んで永州を包囲し、守兵と東郷橋で戦い、千戸・万戸四人を生け捕りにし、夜半に先登してこれを陥落させた。靖江に到着し、南門で戦い、万戸二人を生け捕りにした。夜四更、北門の八角亭から先登し、功績最も大であり、左副総兵を命じられた。左江上思蛮を剿平した。蜀征討に転じ、龍伏隘・天門山及び温湯関を陥落させ、世襲指揮使を賜り、引き続き益陽を鎮守した。武岡・靖州・五開の諸苗蛮が相次いで乱を起こしたが、ことごとく首謀者を捕らえて誅し、その余衆を撫慰し、都督僉事に遷った。十四年、雲南征討に従い、永寧から烏撒に向かい、進んで可渡河を陥落させた。副将軍沐英と会師して大理を攻撃した。敵は全軍で上関・下関を扼していた。定遠侯王弼が洱水の東から上関に向かい、沐英が大軍を率いて下関に向かい、胡海を夜四更に石門を奪取させた。間道から河を渡り、点蒼山の背後を回り、大樹を攀じ登り崖をよじ登って上り、旗幟を立てた。沐英の士卒がこれを見ると、みな躍り上がって大呼し、敵衆は驚き乱れた。沐英はついに関を斬って進入した。胡海もまた山上の軍を指揮して馳せ下り、前後から挟撃し、敵はことごとく潰走した。

十七年、功を論じて東川侯に封ぜられ、禄二千五百石を賜り、世券を授けられる。三年を経て、左参将として金山征討に従軍す。また二年を経て、征南将軍として澧州九溪の諸蛮寇を討ち平らぐ。軍の帰還に際し、郷里への帰還を請う。厚く金帛を賜りて行かしむ。二十四年七月、疽を病みて卒す。年六十三。

長子斌は、龍虎衛指揮使となり、雲南征討に従う。曲靖を過ぎる時、突然寇に遇い、飛矢に中りて卒す。都督同知を追贈される。次子玉は、藍党に連坐して死す。次子観は、南康公主に尚し、駙馬都尉となるが、嗣がずして卒す。宣徳年中、公主が子の忠に嗣がせることを請う。詔して孝陵衛指揮僉事を授け、世襲を許す。

張赫

張赫は臨淮の人なり。江淮大乱の時、義兵を団結して郷里を防衛す。嘉山の繆把頭が招くも、応ぜず。太祖の挙兵を聞き、衆を率いて来附す。千戸を授かり、功により万戸に進む。渡江に従い、攻伐の地に至れば必ず参与し、功により常春翼元帥に抜擢され、常州を守御す。まもなく鄱陽の戦いに従い、武昌を攻む。既にして、また大将軍に従い張士誠を伐ち、平江を囲む。諸将は門を分かちて軍し、赫は閶門に軍す。士誠は屡々兵を出して突撃戦を挑むも、屡々その鋒を挫かれる。また大軍に従い慶元を克ち、併せて温州・台州を下す。洪武元年、福州衛都指揮副使に抜擢され、本衛同知に進む。さらに命を覆して都指揮使司事を署理す。この時、倭寇が海島に出没し、隙に乗じて頻りに岸に迫り掠奪す。沿海の居民はこれを患い苦しむ。帝は数度使を遣わし詔書を齎して日本国王を諭し、また数度日本貢使を絶つも、然れども終に倭人の要領を得ず。赫は海上に久しく在り、捕らえた倭は数え切れず。最後に寇を追って琉球大洋に至り、戦い、その魁十八人を擒え、数十級を斬首し、倭船十余艘を獲、弓刀器械を収むること算なし。帝は赫の功を偉とし、命じて都指揮の印を掌らしむ。まもなく興化衛に転ず。召還されて大都督府僉事に抜擢さる。時に遼東の漕運艱難に会し、軍糧の輸送が期に後れ、帝は深くこれを憂慮す。赫が海道に習熟するをもって、命じて海運事を督せしむ。久しくして、航海侯に封ぜられ、世券を授かる。前後十二年遼東に往来し、凡そ十運を督し、労苦極めて備わり、軍中これによりて欠乏無し。病にて卒す。恩国公を追封され、諡して庄簡と曰う。

子の栄は、雲南征討に従い功有り、水軍右衛指揮使となる。孫の釒盬は、福建都指揮使なり。永楽年中、交阯に留鎮す。

華高

華高は和州の人なり。俞通海等と共に巢湖水師を率いて来附す。太平を克つに従い、総管を授かる。採石・方山の兵を破るに従う。集慶・鎮江を下し、秦淮翼元帥に遷る。鄧愈と共に広徳を徇う。守将が城下に厳兵す。高は数騎を以て挑戦す。元兵は堅壁して動かず。高は衝撃して大いにこれを破り、遂にその城を取る。兵一万人、糧数千斛を得る。常州平定に従い、僉行枢密院事に進む。俞通海を副え趙普勝の柵江営を撃破す。再び陳友諒を敗る。長興を援け、武昌を克つ。湖広行省左丞を授かる。舟師を帥いて淮東を克つに従い、浙西を収む。行省平章政事に進む。洪武三年、広徳侯に封ぜられ、歳禄六百石。

高は性怯懦にして、且つ子無し。宿衛を得ることを請う。征討有る時は、輒ち疾を称して行かず。水師を練ることを命ぜられ、また不習を以て辞す。帝は故旧としてこれを優容す。時に諸勛臣多く辺境に出づるも、惟だ高は遣わされず。最後に広東辺海の城堡を繕うに当たり、高は行くことを請う。帝曰く「卿復た自ら力を尽くすは、甚だ善し」と。四年四月、事竣る。瓊州に至り卒す。初め、高が利を殖やすとの言有り、故に歳禄独り薄し。ここに至り貧しくして葬ること能わず。帝これを憐れみ、命じて禄三百石を補支せしむ。子無きを以て、誥券を墓中に納む。巢国公を追贈され、諡して武庄と曰う。従子の岳に指揮僉事を授く。

張銓

張銓は定遠の人なり。太平を取るに従い、集慶・鎮江・常州・婺州を定む。江州を搗ち、鄱陽湖に戦い、鄂渚を取る。淮東を収め、呉を平らぐ。功を累ねて指揮僉事となる。中原・燕・晋・秦・蜀を取るに従い、都督僉事に進む。斉王府を建つる使となり、事竣りて、江夏侯周徳興に副え五渓蛮を征す。既にして水尽源・通塔平・散毛諸洞の酋長乱を為す。復た徳興に副えてこれを討ち平らぐ。雲南征討に従い、永寧より烏撒を克つ。久しくして、復た傅友徳に従い烏撒及び曲靖・普定・龍海・孟定の諸蛮を平らぐ。洪武二十三年、永定侯に封ぜられ、禄千五百石を食み、世襲指揮使を賜る。

何真

何真は字を邦佐と曰い、東莞の人なり。少にして英偉、書剣を好む。元至正初め、河源県務副使となり、淡水場管勾に転じ、官を棄てて帰る。元末盗賊起こる。真は衆を聚めて郷里を保つ。十四年、県人王成・陳仲玉乱を為す。真は元帥府に赴き告ぐ。帥は賄を受け、反って真を捕えんとす。坭岡に逃れて居り、兵を挙げて成を攻むるも克たず。久しくして、惠州人王仲剛が叛将黄常と共に惠州を据う。真は常を撃ち走らせ、仲剛を殺す。功により恵陽路同知・広東都元帥を授かり、惠州を守る。海寇邵宗愚が広州を陥とす。真は兵を以てこれを破り走らせ、その城を復す。広東分省参政に抜擢され、まもなく右丞に進む。贛州の熊天瑞が舟師数万を引き、真を図らんと欲す。真は胥江にこれを迎え撃つ。天大雨雷し、天瑞の舟檣を折り、これを撃ち走らす。広人はこれによりて完うす。先に真は再び成を攻め、仲玉を誅するも成は卒く固守す。二十六年、復た成を囲み、成を擒える者を募り、鈔十千を与えんとす。成の奴隷が成を縛りて出ず。真はこれに鈔を与え、湯鑊を具えしめ、奴隷を烹らんと趨らせ、衆に号して曰く「主に叛く奴はこれを見よ」と。沿海の叛く者皆降る。時に中原大乱し、嶺表隔絶す。真に尉佗の故事に效えんと勧むる者有るも、聴かず。屡々使を遣わし海道より朝に方物を貢ぐ。累進して資徳大夫・行省左丞となる。

洪武元年、太祖は廖永忠を征南将軍に命じ、舟師を帥いて広東を取らしむ。永忠は福州に至り、書を以て真を諭す。遂に航海して潮州に趨る。師既に至る。真は都事劉克佐を遣わし軍門に詣り印章を上け、所属の郡県の戸口・兵糧を籍し、表を奉じて降る。永忠は朝に聞す。詔を賜りて真を褒めて曰く「朕惟うに古の豪傑は、境を保ち民を安んじ、以て有徳を待つ。竇融・李勣の属は、兵を擁し険に据え、群雄の間に角立し、真主に非ざれば屈せず。これ漢・唐の名臣、今に未だ見ず。爾真は数郡の衆を連ね、乃ち一兵をも煩わさず、境を保ち来帰す。竇・李と奚ぞ譲らん」と。永忠は東莞に抵る。真は官属を帥いて迎え労い、遂に詔を奉じて入朝す。江西行省参知政事に抜擢され、且つこれを諭して曰く「天下分争す。所謂豪傑に三有り。乱を易えて治と為す者は上なり。民を保ち変に達し、帰すべき所を知る者は次なり。固に負い安きを偸み、身死して悔いざるは、これその下なり。卿誠を輸し土を納れ、顔行に逆らわず。時務を識る者と謂うべし」と。真は頓首して謝す。官に在りて頗る声望著しく、殊に儒術を喜び、書を読み文を綴る。既にして山東参政に転ず。四年、命じて広東に還り旧卒を收集せしむ。事竣りて、仍って山東に蒞る。九年、致仕す。

大軍が雲南を征討するに当たり、真に命じてその子の兵馬指揮の貴と共に従軍させた。軍糧の計画を立て、駅伝を設置した。山西右布政使に転じた。再び貴と共に広東で軍籍の調査を行い、貴を鎮南衛指揮僉事に抜擢した。まもなく真を浙江布政使に任じ、湖広に改めた。二十年、再び致仕し、東莞伯に封ぜられ、禄一千五百石を賜り、世券を授けられた。死去した。

子の栄が嗣いだ。弟の貴および尚宝司丞の宏と共に藍玉の党に連座して死罪となった。真の弟の迪は禍が己に及ぶことを疑い、遂に乱を起こした。南海の官軍三百余人を撃殺し、海島に逃げ込んだ。広東都司が兵を発して討ち捕らえ、誅殺された。

賛に曰く、陳友諒が太平を攻略した時、その鋒は甚だ鋭く、茂才がなければ金陵の安危は未だ知るべからざるものであった。呉良は江陰を守り、耿炳文は長興を守って、呉人にその志を恣にさせなかった。創業の基盤は、彼らの力が多かったのである。華雲龍・張赫・呉復・胡海の類に至っては、或いは威は辺疆に著しく、或いは功は海運に存し、旗を搴ぎ陣を陥とし、向かう所皆摧けた。前代の功臣に比べても、何ら遜色があろうか。しかもまた皆よく禄位を保守し、恩礼をもって終わりを全うした。これは特に嘉美すべきものであろう。