吳良
吳良は定遠の人である。初めは國興と名乗り、後に良の名を賜った。雄偉で剛直であった。弟の禎とともに勇略で知られた。太祖に従って濠梁で挙兵し、ともに帳前先鋒となった。良は水に潜って偵察することができ、禎はしばしば服を変えて間諜となった。禎については別に傳がある。良は従って滁州・和州を取ることに加わり、採石で戦い、太平を克ち、溧水・溧陽を下し、集慶を平定し、功績が多かった。また徐達に従って鎮江を克ち、常州を下し、鎮撫に進み、丹陽を守った。趙繼祖らとともに江陰を取った。張士誠の兵が秦望山を占拠したので、良はこれを攻め奪い、ついに江陰を克った。すぐに指揮使に命じてこれを守らせた。
当時、士誠は呉を全面的に占拠し、淮東・浙西にまたがり、兵糧は豊富であった。江陰はその要衝に当たり、大江に臨み、南北の襟喉を扼していた。士誠はたびたび金帛で将兵を誘い、隙を窺った。太祖は良に諭して言った。「江陰は我が東南の屏障である。汝は士卒を統制し、外と交わるな、逃亡者を受け入れるな、小利に貪るな、鋒を争うな、ただ境を保ち民を安んずるのみである。」良は命を受けてひたすら謹み、防備を整え修めた。敵を破った功により、枢密院判官に進んだ。士誠が大軍を挙げて来寇し、艨艟が江を蔽い、その将の蘇同僉が君山に駐屯し、進兵を指揮した。良は弟の禎を遣わして北門から出てこれと戦わせ、ひそかに元帥の王子明を遣わして壮士を率いさせ南門から馳せ出させた。合撃してこれを大いに破り、捕虜斬首は甚だ多かった。敵は夜遁した。まもなくまた常州を寇したので、良は兵を遣わし間道からその援兵を無錫で殲滅した。この時、太祖はたびたび自ら将兵を率いて江・楚の上流を争い、陳友諒と角逐し、大軍がしばしば出撃したため、金陵は空虚であった。士誠が北に出て寸土も侵すことができなかったのは、良が江陰にいて屏障となっていたからである。
康茂才
康茂才は字を壽卿といい、蘄州の人である。経史の大義に通じた。母に仕えて孝であった。元末の寇乱で蘄州が陥落すると、義兵を結んで郷里を保った。功を立て、長官から累進して淮西宣慰司・都元帥となった。
太祖が江を渡った後、将兵の家族は和州に留まっていた。当時茂才は採石に移戍し、江の渡しを扼していた。太祖は兵を遣わして数度攻撃したが、茂才は力守した。常遇春が伏兵を設けてその精鋭を殲滅した。茂才はまた天寧洲に寨を立てたが、またも破られた。集慶に奔り、太祖が集慶を克つと、ついに配下の兵を率いて降った。太祖はこれを釈放し、配下の兵を統率して従征することを命じた。翌年、秦淮翼水軍元帥を授けられ、龍湾を守った。江陰の馬馱沙を取り、張士誠の兵を破り、その楼船を獲た。廖永安に従って池州を攻め、樅陽を取った。太祖は軍興により民が農業を失ったので、茂才を都水営田使とし、なおも帳前総制親兵左副指揮使を兼ねさせた。
陳友諒が太平を陥落させた後、張士誠と約して合い応天を攻めようと謀った。太祖は彼らが速やかに来ることを望み、これを破ろうとした。茂才が友諒と旧知であることを知り、僕を遣わして書を持たせ、内応すると偽らせた。友諒は大いに喜び、問うた。「康公はどこにおられるか。」答えて言うには「江東の木橋を守っておられます。」使いが帰ると、太祖は橋を石に替えた。友諒が到着し、橋を見て愕然とし、連呼して「老康」と呼んだが、応答する者はなかった。龍湾まで退くと、伏兵が四方から起こった。茂才は諸将と合して奮撃し、これを大いに破った。太祖は茂才の功を嘉し、賜賚は甚だ厚かった。翌年、太祖が親征して友諒を征し、茂才は舟師を率いて従い安慶を克ち、江州を破り、友諒は西に遁走した。ついに蘄州・興国・漢陽を下した。流れに沿って黄梅寨を克ち、瑞昌を取り、友諒の八指揮を破り、士卒二万人を降した。帳前親兵副都指揮使に遷った。左君弼の廬州を攻めたが、下さなかった。南昌救援に従い、彭蠡で戦い、友諒は敗死した。武昌征討に従い、いずれも功があった。金吾侍衛親軍都護に進んだ。大将軍徐達に従って再び廬州を攻め、これを克ち、江陵及び湖南の諸路を取った。神武衛指揮使に改め、大都督府副使に進んだ。士誠が江陰を攻めたので、太祖は自ら将兵を率いてこれを撃った。鎮江に到着する頃には、士誠はすでに瓜洲を焼いて遁走していた。茂才はこれを追撃して浮子門まで至った。呉軍が海口を遮り、潮に乗って迫って来た。茂才は力戦し、これを大いに破った。淮安の馬騾港を衝き、その水寨を抜き、淮安は平定された。まもなく湖州を抜き、平江に進逼した。士誠は鋭卒を遣わして迎え戦い、尹山橋で大戦した。茂才は大戟を持って督戦し、敵衆をことごとく覆滅した。諸将とともにその城を合囲し、軍を斉門に置いた。平江が下ると、還って無錫を取った。同知大都督府事兼太子右率府使に遷った。
子の鐸は、十歳の時に皇太子の侍読として大本堂に入った。父の功により蘄春侯に封ぜられ、禄千五百石を食み、世券を賜った。鳳陽で民を督いて田を墾かせた。兵を帥いて辰州蛮を征し、施・疊の諸州を平定した。大将軍達に従って北征した。また征南将軍傅友徳に従って雲南を征し、普定を克ち、華楚山の諸寨を破った。軍中で卒し、年二十三。蘄国公を追封され、諡は忠愍といった。
子の淵は幼くして襲封せず、散騎舎人に任ぜられた。後に事に坐して冠服を革められ、山西に居住することを命ぜられ、ついに嗣ぐことができなかった。弘治末、茂才の後を録して世襲千戸とした。
丁徳興
丁徳興は定遠の人である。濠において太祖に帰した。その状貌が魁偉であったので、「黒丁」と呼んだ。洪山寨を取るのに従い、百騎で賊数千を破り、その衆をことごとく降した。滁・和を克つに従い、青山の盗賊を敗った。江を渡るに従い、採石を抜き、太平を取り、兵を分けて溧水・溧陽を取り、いずれも先登した。蛮子海牙の水寨を破るに従い、方山営を搗き、陳兆先を擒え、集慶を下し、鎮江を取った。功により管軍総管に進んだ。金壇・広徳・寧国を下した。常州を平定するに従った。左翼元帥に擢げられた。寧国が再び叛くと、胡大海に従ってこれを復した。兵を分けて江陰を下し、徽州・石埭・池州・樅陽を取り、江州を攻め、兵を移して安慶を撃った。向かうところ皆捷した。また江陰を援け、江西の傍近の州県を略し、双刀趙を攻めてその鋒を挫いた。時に徐達・邵栄が宜興を攻めて久しく下さず、太祖は使者を遣わして言った、「宜興城は西は太湖口に通じ、士誠の糧道の経由するところである。その糧を断てば必ず破れる」。達はすなわち徳興を遣わして太湖口を絶ち、力を併せて急攻したので、城はついに抜けた。功を論じて鳳翔衛指揮使を授けた。洪武帝はかつて彼を「攻めて克たざるなく、戦いて勝たざるなき虎将なり」と称した。
耿炳文
耿炳文は濠の人である。父の君用は太祖に従って江を渡り、功を積んで管軍総管となった。宜興を援け、張士誠の兵と柵を争い、力戦して死んだ。炳文は職を襲い、その軍を領した。広徳を取り、長興を進攻し、士誠の将趙打虎を破り、戦船三百余艘を獲、その守将李福安等を擒え、ついに長興を克った。長興は太湖口に拠り、陸路は広徳に通じ、宣・歙と接壤し、江・浙の門戸であった。太祖はその地を得て大いに喜び、長安州と改め、永興翼元帥府を立て、炳文を総兵都元帥としてこれを守らせた。温祥卿という者は、智数が多い。乱を避けて来帰し、炳文はこれを幕府に引き入れ、守御の計を画くこと甚だ詳しかった。張士誠の左丞潘元明・元帥厳再興が師を帥いて来争した。炳文は奮撃し、大いに敗って去った。久しくして、士誠はまた司徒李伯升を遣わして衆十万を帥い、水陸より進攻した。城中の兵は七千、太祖はこれを患い、陳徳・華高・費聚を命じて往援させた。伯升は夜に営を劫い、諸将は皆潰走した。炳文は城に拠って固く守り、攻撃甚だ急であったが、方に随ってこれを防ぎ、甲を解かざること月余りに及んだ。常遇春がまた援兵を帥いて至ると、伯升は営を棄てて遁走し、追撃して五千余人を斬った。その翌年、永興翼元帥府を永興衛親軍指揮使司と改め、炳文を指揮使とした。やがて士誠は大いに兵を発し、その弟の士信を遣わしてまた来争した。炳文はまたこれを破り、その元帥宋興祖を獲た。士信は甚だ憤り、兵を益して城を囲んだ。炳文は費聚と出戦し、また大いにこれを破った。長興は士誠の必争の地であり、炳文は拒守すること凡そ十年、寡をもって衆を御し、大小数十戦、戦いて勝たざることなく、士誠はついに思いを遂げられなかった。大軍が士誠を伐つに及び、炳文は将としてその部を率いて湖州を克ち、平江を囲んだ。呉が平定され、大都督府僉事に進んだ。
中原を征するに従い、山東の沂・嶧の諸州を克った。汴梁を下し、河南を徇い、駕に扈従して北巡した。やがて、また常遇春に従って大同を取り、晋・冀を克った。大将軍徐達に従って陝西を征し、李思斉・張思道を走らせ、すなわちその地を鎮守した。涇陽の洪渠十余万丈を浚い、民はその利に頼った。まもなく秦王左相都督僉事に拝された。
初め、炳文が長興を守った功は最も高く、太祖は功臣を榜列して、炳文を大将軍達に附して一等とした。洪武末年に至り、諸公・侯は将に尽き、存する者は炳文及び武定侯郭英の二人のみであった。そして炳文は元功の宿将として、朝廷に倚重された。
燕王が帝を称した翌年、刑部尚書鄭賜・都御史陳瑛が炳文を弾劾し、衣服器皿に龍鳳の飾りがあり、玉帯に紅鞓を用い、僭妄不道であるとした。炳文は懼れて自殺した。
子の璿は、前軍都督僉事であった。懿文太子の長女である江都公主を娶った。炳文が北伐したとき、璿は北平を直ちに攻撃すべきと勧めたことがある。炳文が交代して帰還した後は再び用いられず、璿は非常に憤慨した。永楽初年、門を閉ざして病気と称し、罪に坐して死んだ。
璿の弟の瓛は、後軍都督僉事であった。江陰侯の呉高、都指揮の楊文とともに遼東の兵を率いて永平を包囲したが、陥落させられず、退いて山海関を守った。呉高は離間策にかかり、広西に移された。楊文は遼東を守り、瓛はしばしば永平を攻撃して北平を動揺させるよう請うたが、楊文は聞き入れなかった。後に弟の尚宝司卿の瑄とともに、ともに罪に坐して死んだ。
郭英
十四年、潁川侯の傅友徳に従って雲南を征伐し、陳桓・胡海と分かれて赤水河路を進攻した。長雨で河水が急増した。郭英は木を伐って筏を作り、夜に乗じて渡河した。夜明け前に賊の陣営に到着し、賊は大いに驚いて潰走した。烏撒および阿容らを生け捕りにした。曲靖・陸涼・越州・関索嶺・椅子寨を攻略した。大理・金歯・広南を降伏させ、諸山寨を平定した。十六年、再び傅友徳に従って蒙化・鄧川を平定し、金沙江を渡り、北勝・麗江を奪取した。前後して一万三千余りの首級を斬り、二千余人を生け捕りにし、数万の精鋭の甲冑と千余艘の船を収めた。十七年、雲南平定の功績を論じ、武定侯に封ぜられ、禄二千五百石を食み、世券を賜った。
郭英は孝友であり、書史に通じ、行軍には紀律があり、忠謹をもって太祖に親しまれた。また寧妃の縁故もあり、恩寵は特に厚く、諸功臣はこれを望む者もなかった。
勛は桀黠で智謀があり、書史にかなり通じていた。正徳年間、両広を鎮守し、入朝して三千営を掌った。世宗の初め、団営を掌った。大礼の議が起こると、勛は上意を知り、真っ先に張璁を支持し、世宗は大いにこれを寵愛した。勛は寵を恃み、かなり驕慢で勝手であった。大学士の楊一清はこれを憎み、その賄賂請託の事が発覚したのを機に、営務を罷免し、保傅の官階を奪った。楊一清が罷免されると、依然として五軍営を総括し、四郊の造営を監督した。翌年、団営を監督した。十八年、後府を兼領した。帝に従って承天に行幸し、五世の祖である郭英を太廟に配享するよう請うた。廷臣は認めないと主張し、侍郎の唐冑が特に強く争った。帝は聞き入れず、郭英はついに配享を得た。その翌年、献皇が宗と称され、太廟に入り、勛は翊国公に進み、太師を加えられた。 先に、妖人李福達は自ら薬物を金銀に変化させられると言った。勛は彼と親密になった。李福達が敗れると、その獄を強く支持し、廷臣の多くが罪に問われた。この時また方士の段朝用を進め、その変化させた金銀で飲食の器を作れば、不死になれると言った。帝はますます忠実であると思った。給事中の戚賢が勛が威福を擅にし、利を貪り民を虐げる諸事を弾劾した。李鳳来らもまた同様に言上した。下して有司に調査させると、勛の京師の店舗は千余区にも及んだ。副都御史の胡守中はまた、勛が族叔の郭憲を東廠で刑罰を扱わせ、無辜を肆虐させたことを弾劾した。帝はこれを放置して治めなかった。ちょうど帝が言官の言を用い、勛に勅書を与え、兵部尚書の王廷相・遂安伯の陳譓とともに軍役を整理させることになった。勅書が整うと、勛は受け取らなかった。言官がその威福を振るい党を結んだことを弾劾した。勛が上疏して弁明し、「どうしてさらに勅書を賜わる労を煩わせる必要があろうか」という言葉があった。帝はついに激怒し、その「強情で悖り、人臣の礼がない」ことを責めた。そこで給事中の高時がことごとく勛の奸利の事を暴き、かつ張延齢と通じていると言った。帝はますます怒り、勛を錦衣獄に下した。二十年九月のことである。まもなく鎮撫司に刑訊を加えないよう諭した。奏上されると、勛は死罪に当たるとされた。帝は法司に再調査させた。そして給事中の劉大直が再び勛の乱政十二罪を調査し、ともに治罪するよう請うた。法司はついに諸上疏中の罪状をことごとく実証し、勛は絞罪に当たるとした。帝は詳議を命じた。法司はさらに勛の不軌の罪を斬罪に当たるとし、妻子と田宅を没収するとした。奏上されると、留中して下さなかった。帝は勛を寛大にしたい意向で、たびたびその旨を示した。しかし廷臣は勛を非常に憎み、理解していないふりをして、さらに勛を重い刑罰に坐らせた。翌年、言官を考察し、特旨で高時を二階級貶し、廷臣に示したが、廷臣はついに勛のために請う者はなかった。その冬、勛は獄中で死んだ。帝はこれを哀れみ、法司が長く拘禁したことを責めた。刑部尚書の呉山の職を褫奪し、侍郎・都御史以下はそれぞれ降格・降級させ、勛の籍没は免じ、ただ誥券を奪うのみであった。
明が興って以来、勲臣は政事に関与しなかった。ただ勛のみが、恩寵を挟み、朝権を擅にし、恣に奸悪をなして敗れた。勛が死んで数年後、その子の守乾が侯を嗣ぎ、曾孫の培民に伝わった。崇禎末、賊のために死んだ。
華雲龍
華雲龍は定遠の人である。衆を集めて韭山に居た。太祖が兵を起こすと、来て帰順した。滁州・和州の攻略に従い、千夫長となった。長江渡河に従い、採石の水寨及び方山の営を破った。集慶路を陥とし、元の将を生け捕りにして、兵一万を得、鎮江を陥とし、総管に遷る。広徳を攻め落とし、旧館で戦い、湯元帥を擒らえ、右副元帥に進む。龍江の役に、雲龍は石灰山に伏兵し、接戦して、殺傷は互角であった。雲龍は馬を躍らせて大呼し、その中堅を突き崩し、遂に友諒の兵を大いに破り、勝に乗じて太平を回復した。九江・南昌の攻略に従い、分兵して瑞州・臨江・吉安を攻め落とした。安豊救援に従い、彭蠡で戦い、武昌を平定した。累功により豹韜衛指揮使に至る。徐達に従って兵を率いて高郵を取るに及び、進んで淮安を陥とし、遂に命じてこれを守らせ、淮安衛指揮使に改める。まもなく嘉興を攻め、呉の将宋興を降す。平江を包囲し、胥門に軍を置く。
韓政
韓政は睢の人である。嘗て義兵元帥となり、衆を率いて太祖に帰し、江淮行省平章政事を授かる。李済が濠州に拠り、名は張士誠のために守ると称するも、実は観望す。太祖は右相国李善長を使わして書を以てこれを招くも、報いず。太祖嘆いて曰く、「濠は吾が家なり、済がかくの如くでは、我に国あれども家なき可けんや」と。乃ち政に命じ、指揮顧時を率いて雲梯砲石を以て四面より濠を攻めしむ。済は支え難しと度り、始めて出でて降る。政は済を応天に帰す。太祖大いに悦び、時に命じて濠州を守らしむ。
子の勲が襲封す。二十六年、藍党に坐して誅せられ、爵を除く。
仇成
張龍
子の麟は福清公主を娶り、駙馬都尉を授けられた。孫の傑は公主に侍して京師にいた。永楽初年、侯爵を失った。傑の子が継承を求めたが、宣徳十年、詔の恩典を援用して継承を乞うた。吏部が言うには、張龍の侯爵は四十年継承されていない、と。許されなかった。
呉復
呉復は字を伯起といい、合肥の人である。若くして勇略を有していた。元末、衆を集めて郷里を守った。濠で太祖に帰順し、泗・滁・和・採石・太平の攻略に従い、累進して万戸となった。蛮子海牙の水寨を破り、集慶を平定することに従った。徐達に従って鎮江を攻撃し、元の平章定定を斬った。丹陽・金壇を落とし、常州を陥落させ、統軍元帥に進んだ。江陰・無錫を巡行し、常州を守備した。張士誠の兵が急襲してきたが、力戦してこれを破った。長興まで追撃し、高橋・太湖及び忠節門で連敗させ、士誠は意気を喪失した。安豊救援に従い、武昌を平定した。徐達に従って廬州を陥落させ、漢・沔・荊の諸郡県を平定した。鎮武衛指揮同知を授けられ、沔陽を守った。常遇春に従って襄陽を落とし、別将として安陸を破り、元の同僉任亮を生け捕りにし、これを守った。汝州・魯山を陥落させた。
十四年、傅友徳に従って雲南を征討し、普定を陥落させ、水西に城を築いた。総兵官として、諸蛮を剿捕した。ついに関索嶺から箐道を開き、広西を攻略した。十六年、墨定苗を陥落させ、吉剌堡に至り、安庄・新城を築き、七百房諸寨を平定し、斬獲は万を数え、糧秣を盤江に輸送した。この年十月、金瘡が発し、普定で卒去した。黔国公を追封され、諡は威毅、禄五百石を加増され、世券を賜った。
呉復は戦陣に臨んで奮発し、矢石を冒して進み、体に完膚なきほどであった。平素は恭順で、征伐の事を口にしなかった。普定で妾の楊氏を買った。年十七であった。呉復が死ぬと、彼女は殮(納棺)が終わるのを見届け、沐浴して衣を更え、自ら縊死した。貞烈淑人に封ぜられた。
附 周武
胡海
胡海は字を海洋といい、定遠の人である。かつて土豪の赤塘王総管の営に入ったが、自ら脱出して帰順し、百戸を授けられた。元の将賈魯の兵を破り、泗・滁を陥落させることに従い、万戸に進んだ。渡江に従い、蛮子海牙の水寨を奪取し、陳埜先の兵を破り、集慶・鎮江攻略に従った。寧国で元の将謝国璽を破り、先鋒に選抜された。大軍に従って湖州を包囲し、その東南門の月城を陥落させた。宜興攻撃に従い、婺州を落とし、紹興で激戦し、賊四百余人を生け捕りにし、都先鋒に進んだ。また龍江の戦いに従い、安慶を陥落させ、漢人(陳友諒軍)と対峙し、八度戦ってすべて大勝し、ついに江州に入った。徐達に従って廬州を攻撃し、いずれも功績があった。
胡海は驍勇で、たびたび戦い、たびたび負傷し、手足胸腹の間に金瘡が遍くあったが、戦うことますます力があった。士卒で彼に従う者は、みな奮い立って自ら尽力した。太祖はこれを壮とし、花槍上千戸を授けた。さらに大軍に従って荊・澧・衡・潭を陥落させ、宝慶衛指揮僉事に抜擢され、指揮使に遷り、益陽鎮守を命じられた。平章楊璟に従って湖南・広西の未だ下らぬ郡県を征討した。祁陽から進んで永州を包囲し、守兵と東郷橋で戦い、千戸・万戸四人を生け捕りにし、夜半に先登してこれを陥落させた。靖江に到着し、南門で戦い、万戸二人を生け捕りにした。夜四更、北門の八角亭から先登し、功績最も大であり、左副総兵を命じられた。左江上思蛮を剿平した。蜀征討に転じ、龍伏隘・天門山及び温湯関を陥落させ、世襲指揮使を賜り、引き続き益陽を鎮守した。武岡・靖州・五開の諸苗蛮が相次いで乱を起こしたが、ことごとく首謀者を捕らえて誅し、その余衆を撫慰し、都督僉事に遷った。十四年、雲南征討に従い、永寧から烏撒に向かい、進んで可渡河を陥落させた。副将軍沐英と会師して大理を攻撃した。敵は全軍で上関・下関を扼していた。定遠侯王弼が洱水の東から上関に向かい、沐英が大軍を率いて下関に向かい、胡海を夜四更に石門を奪取させた。間道から河を渡り、点蒼山の背後を回り、大樹を攀じ登り崖をよじ登って上り、旗幟を立てた。沐英の士卒がこれを見ると、みな躍り上がって大呼し、敵衆は驚き乱れた。沐英はついに関を斬って進入した。胡海もまた山上の軍を指揮して馳せ下り、前後から挟撃し、敵はことごとく潰走した。
長子斌は、龍虎衛指揮使となり、雲南征討に従う。曲靖を過ぎる時、突然寇に遇い、飛矢に中りて卒す。都督同知を追贈される。次子玉は、藍党に連坐して死す。次子観は、南康公主に尚し、駙馬都尉となるが、嗣がずして卒す。宣徳年中、公主が子の忠に嗣がせることを請う。詔して孝陵衛指揮僉事を授け、世襲を許す。
張赫
子の栄は、雲南征討に従い功有り、水軍右衛指揮使となる。孫の釒盬は、福建都指揮使なり。永楽年中、交阯に留鎮す。
華高
高は性怯懦にして、且つ子無し。宿衛を得ることを請う。征討有る時は、輒ち疾を称して行かず。水師を練ることを命ぜられ、また不習を以て辞す。帝は故旧としてこれを優容す。時に諸勛臣多く辺境に出づるも、惟だ高は遣わされず。最後に広東辺海の城堡を繕うに当たり、高は行くことを請う。帝曰く「卿復た自ら力を尽くすは、甚だ善し」と。四年四月、事竣る。瓊州に至り卒す。初め、高が利を殖やすとの言有り、故に歳禄独り薄し。ここに至り貧しくして葬ること能わず。帝これを憐れみ、命じて禄三百石を補支せしむ。子無きを以て、誥券を墓中に納む。巢国公を追贈され、諡して武庄と曰う。従子の岳に指揮僉事を授く。
張銓
何真
何真は字を邦佐と曰い、東莞の人なり。少にして英偉、書剣を好む。元至正初め、河源県務副使となり、淡水場管勾に転じ、官を棄てて帰る。元末盗賊起こる。真は衆を聚めて郷里を保つ。十四年、県人王成・陳仲玉乱を為す。真は元帥府に赴き告ぐ。帥は賄を受け、反って真を捕えんとす。坭岡に逃れて居り、兵を挙げて成を攻むるも克たず。久しくして、惠州人王仲剛が叛将黄常と共に惠州を据う。真は常を撃ち走らせ、仲剛を殺す。功により恵陽路同知・広東都元帥を授かり、惠州を守る。海寇邵宗愚が広州を陥とす。真は兵を以てこれを破り走らせ、その城を復す。広東分省参政に抜擢され、まもなく右丞に進む。贛州の熊天瑞が舟師数万を引き、真を図らんと欲す。真は胥江にこれを迎え撃つ。天大雨雷し、天瑞の舟檣を折り、これを撃ち走らす。広人はこれによりて完うす。先に真は再び成を攻め、仲玉を誅するも成は卒く固守す。二十六年、復た成を囲み、成を擒える者を募り、鈔十千を与えんとす。成の奴隷が成を縛りて出ず。真はこれに鈔を与え、湯鑊を具えしめ、奴隷を烹らんと趨らせ、衆に号して曰く「主に叛く奴はこれを見よ」と。沿海の叛く者皆降る。時に中原大乱し、嶺表隔絶す。真に尉佗の故事に效えんと勧むる者有るも、聴かず。屡々使を遣わし海道より朝に方物を貢ぐ。累進して資徳大夫・行省左丞となる。
大軍が雲南を征討するに当たり、真に命じてその子の兵馬指揮の貴と共に従軍させた。軍糧の計画を立て、駅伝を設置した。山西右布政使に転じた。再び貴と共に広東で軍籍の調査を行い、貴を鎮南衛指揮僉事に抜擢した。まもなく真を浙江布政使に任じ、湖広に改めた。二十年、再び致仕し、東莞伯に封ぜられ、禄一千五百石を賜り、世券を授けられた。死去した。
子の栄が嗣いだ。弟の貴および尚宝司丞の宏と共に藍玉の党に連座して死罪となった。真の弟の迪は禍が己に及ぶことを疑い、遂に乱を起こした。南海の官軍三百余人を撃殺し、海島に逃げ込んだ。広東都司が兵を発して討ち捕らえ、誅殺された。
賛に曰く、陳友諒が太平を攻略した時、その鋒は甚だ鋭く、茂才がなければ金陵の安危は未だ知るべからざるものであった。呉良は江陰を守り、耿炳文は長興を守って、呉人にその志を恣にさせなかった。創業の基盤は、彼らの力が多かったのである。華雲龍・張赫・呉復・胡海の類に至っては、或いは威は辺疆に著しく、或いは功は海運に存し、旗を搴ぎ陣を陥とし、向かう所皆摧けた。前代の功臣に比べても、何ら遜色があろうか。しかもまた皆よく禄位を保守し、恩礼をもって終わりを全うした。これは特に嘉美すべきものであろう。