明史

列傳第十八 吳良、康茂才、丁德興、耿炳文、郭英、華雲龍、韓政、仇成、張龍、吳復、胡海、張赫、華高、張銓、何真

列傳第十八 吳良、康茂才、丁德興、耿炳文、郭英、華雲龍、韓政、仇成、張龍、吳復、胡海、張赫、華高、張銓、何真

原文列傳第十八 吳良 康茂才 丁德興 耿炳文 郭英 華雲龍 韓政 仇成 張龍 吳復 胡海 張赫 華高 張銓 何真

吳良

原文吳良

吳良は定遠の人である。初めは國興と名乗り、後に良の名を賜った。雄偉で剛直であった。弟の禎とともに勇略で知られた。太祖に従って濠梁で挙兵し、ともに帳前先鋒となった。良は水に潜って偵察することができ、禎はしばしば服を変えて間諜となった。禎については別に傳がある。良は従って滁州・和州を取ることに加わり、採石で戦い、太平を克ち、溧水・溧陽を下し、集慶を平定し、功績が多かった。また徐達に従って鎮江を克ち、常州を下し、鎮撫に進み、丹陽を守った。趙繼祖らとともに江陰を取った。張士誠の兵が秦望山を占拠したので、良はこれを攻め奪い、ついに江陰を克った。すぐに指揮使に命じてこれを守らせた。

原文吳良,定遠人。初名國興,賜名良。雄偉剛直。與弟禎俱以勇略聞。從太祖起濠梁,併為帳前先鋒。良能沒水偵探,禎每易服為間諜。禎別有傳。良從取滁、和,戰採石,克太平,下溧水、溧陽,定集慶,功多。又從徐達克鎮江,下常州,進鎮撫,守丹陽。與趙繼祖等取江陰。張士誠兵據秦望山,良攻奪之,遂克江陰。即命為指揮使守之。

当時、士誠は呉を全面的に占拠し、淮東・浙西にまたがり、兵糧は豊富であった。江陰はその要衝に当たり、大江に臨み、南北の襟喉を扼していた。士誠はたびたび金帛で将兵を誘い、隙を窺った。太祖は良に諭して言った。「江陰は我が東南の屏障である。汝は士卒を統制し、外と交わるな、逃亡者を受け入れるな、小利に貪るな、鋒を争うな、ただ境を保ち民を安んずるのみである。」良は命を受けてひたすら謹み、防備を整え修めた。敵を破った功により、枢密院判官に進んだ。士誠が大軍を挙げて来寇し、艨艟が江を蔽い、その将の蘇同僉が君山に駐屯し、進兵を指揮した。良は弟の禎を遣わして北門から出てこれと戦わせ、ひそかに元帥の王子明を遣わして壮士を率いさせ南門から馳せ出させた。合撃してこれを大いに破り、捕虜斬首は甚だ多かった。敵は夜遁した。まもなくまた常州を寇したので、良は兵を遣わし間道からその援兵を無錫で殲滅した。この時、太祖はたびたび自ら将兵を率いて江・楚の上流を争い、陳友諒と角逐し、大軍がしばしば出撃したため、金陵は空虚であった。士誠が北に出て寸土も侵すことができなかったのは、良が江陰にいて屏障となっていたからである。

原文時士誠全據吳,跨淮東、浙西,兵食足。江陰當其要衝,枕大江,扼南北襟喉,士誠數以金帛啖將士,窺釁。太祖諭良曰:「江陰,我東南屏蔽,汝約束士卒,毋外交,毋納逋逃,毋貪小利,毋與爭鋒,惟保境安民而已。」良奉命惟謹,備御修飭。以敗敵功,進樞密院判官。士誠大舉兵來寇,艨艟蔽江,其將蘇同僉駐君山,指畫進兵。良遣弟禎出北門與戰,而潛遣元帥王子明帥壯士馳出南門。合擊,大敗之,俘斬甚眾。敵宵遁。尋復寇常州,良遣兵從間道殲其援兵於無錫。當是時,太祖數自將爭江、楚上流,與陳友諒角,大軍屢出,金陵空虛。士誠不敢北出侵尺寸地,以良在江陰為屏蔽也。

良は仁恕で倹約し、声色貨利を好まなかった。夜は城楼に宿り、戈を枕に夜明けを待った。将を訓え兵を練り、常に敵が来たかのようにした。暇なときは儒生を招いて経史を講論させ、学宮を新たにし、社学を立てた。大いに屯田を開き、徭役ようえきを均しくし賦税を省いた。境に十年いて、封疆は安らかであった。太祖は常に良を召して労い言った。「呉院判は一方を保障し、我に東顧の憂い無し。功は甚だ大である。車馬珠玉をもってしてもその労を旌ぐには足りない。」学士の宋濂らに命じて詩文を作らせてこれを称美させ、なおも鎮守に還らせた。まもなく大いに兵を発して淮東を取り、泰州を克った。士誠の兵がまた馬馱沙から出て、鎮江を侵した。巨艦数百隻が江を溯上した。良は戒厳して待った。太祖が親しく大軍を督いてこれを防いだ。士誠の兵は遁走し、浮子門まで追撃した。良は出兵して挟撃し、二千の兵卒を捕獲した。太祖は江陰に赴き軍を労い、周りに壁塁を巡って嘆じて言った。「良は今の呉起である!」呉が平定されると、昭勇大将軍・蘇州衛指揮使を加えられ、蘇州に移鎮した。武備をますます修め、軍民は和合した。都督僉事に進み、全州に移って守った。洪武三年に都督同知に進み、江陰侯に封ぜられ、禄千五百石を食み、世券を賜った。

原文良仁恕儉約,聲色貨利無所好。夜宿城樓,枕戈達旦。訓將練兵,常如寇至。暇則延儒生講論經史,新學宮,立社學。大開屯田,均徭省賦。在境十年,封疆宴然。太祖常召良勞曰:「吳院判保障一方,我無東顧憂,功甚大,車馬珠玉不足旌其勞。」命學士宋濂等為詩文美之,仍遣還鎮。尋大發兵取淮東,克泰州。士誠兵復出馬馱沙,侵鎮江。巨艦數百,溯江而上。良戒嚴以待。太祖親督大軍御之。士誠兵遁,追至浮子門。良出兵夾擊,獲卒二千。太祖詣江陰勞軍,周巡壁壘,嘆曰:「良,今之吳起也!」吳平,加昭勇大將軍、蘇州衛指揮使,移鎮蘇州。武備益修,軍民輯睦。進都督僉事,移守全州。洪武三年進都督同知,封江陰侯,食祿千五百石,予世券。

四年に靖州・綏寧の諸蛮を討った。五年、広西の蛮が叛いたので、征南将軍鄧愈の副将として平章李伯升を率い靖州から出てこれを討った。数ヶ月で左右両江及び五溪の地をことごとく平定し、兵を移して銅鼓・五開に入り、潭溪を収め、太平を開き、清洞・崖山の衆を銅関鉄寨で殲滅した。諸蛮は皆震え恐れて内附し、粤西はついに平定された。八年に鳳陽で屯田を督した。十二年、斉王が青州に封ぜられた。王妃は良の娘であったので、ついに良に命じて王府を建てさせた。十四年に青州で卒した。五十八歳であった。江国公を追贈され、諡は襄烈。

原文四年討靖州、綏寧諸蠻。五年,廣西蠻叛,副征南將軍鄧愈帥平章李伯升出靖州討之。數月,盡平左右兩江及五溪之地,移兵入銅鼓、五開,收潭溪,開太平,殲清洞、崖山之眾於銅關鐵寨。諸蠻皆震懾,內附,粵西遂平。八年督田鳳陽。十二年,齊王封青州。王妃,良女也,遂命良往建王府。十四年卒於青,年五十八。贈江國公,諡襄烈。

子の高が侯を嗣いだ。たびたび山西・北平・河南に出て練兵し、北征に従い、蕃軍を率いて百夷を討った。二十八年、罪有って広西に左遷され、趙宗寿征討に従った。燕師が起こると、高は遼東を守り、楊文とともにたびたび出師して永平を攻めた。燕王は高を除こうと謀り、言った。「高は臆病ではあるが、やや細密である。文は勇猛だが謀が無い。高を除けば、文は為すところ無しである。」そこで二人に書を送り、高を大いに称賛し、文を極めて誹謗したが、わざと封筒を取り違えて授けた。二人は書を得て、ともにこれを上聞した。建文帝は果たして高を疑い、爵を削って広西に流し、ただ文のみが遼東を守ったが、ついに敗れた。永楽初年、再び高を召して大同を鎮守させ、備辺の方略を上言した。八年、帝が北征から凱旋すると、高は病と称して朝せず、弾劾され、庶人に廃され、世券を奪われた。洪熙元年、帝が高の名を見て言った。「高は往年無礼な行いが多かった。海南に謫戍せよ。」高はすでに死んでいたので、その家を移したが、赦いに会って釈放された。宣徳十年、子の升が嗣ぐことを乞うたが、許されなかった。

原文子高嗣侯,屢出山西、北平、河南練兵,從北征,帥蕃軍討百夷。二十八年,有罪調廣西,從征趙宗壽。燕師起,高守遼東,與楊文數出師攻永平。燕王謀去高,曰:「高雖怯,差密,文勇而無謀,去高,文無能為也。」乃遺二人書,盛譽高,極詆文,故易其函授之。二人得書,並以聞。建文帝果疑高,削爵徙廣西,獨文守遼東,竟敗。永樂初,復召高鎮守大同,上言備邊方略。八年,帝北征班師,高稱疾不朝,被劾,廢為庶人,奪券。洪熙元年,帝見高名,曰:「高往年多行無禮,其謫戍海南。」高已死,徙其家,會赦得釋。宣德十年,子升乞嗣,不許。

康茂才

原文康茂才

康茂才は字あざなを壽卿といい、蘄州の人である。経史の大義に通じた。母に仕えて孝であった。元末の寇乱で蘄州が陥落すると、義兵を結んで郷里を保った。功を立て、長官から累進して淮西宣慰司・都元帥となった。

原文康茂才,字壽卿,蘄人。通經史大義。事母孝。元末寇亂陷蘄,結義兵保鄉里。立功,自長官累遷淮西宣慰司、都元帥。

太祖が江を渡った後、将兵の家族は和州に留まっていた。当時茂才は採石に移戍し、江の渡しを扼していた。太祖は兵を遣わして数度攻撃したが、茂才は力守した。常遇春が伏兵を設けてその精鋭を殲滅した。茂才はまた天寧洲に寨を立てたが、またも破られた。集慶に奔り、太祖が集慶を克つと、ついに配下の兵を率いて降った。太祖はこれを釈放し、配下の兵を統率して従征することを命じた。翌年、秦淮翼水軍元帥を授けられ、龍湾を守った。江陰の馬馱沙を取り、張士誠の兵を破り、その楼船を獲た。廖永安に従って池州を攻め、樅陽を取った。太祖は軍興により民が農業を失ったので、茂才を都水営田使とし、なおも帳前総制親兵左副指揮使を兼ねさせた。

原文太祖既渡江,將士家屬留和州。時茂才移戍採石,扼江渡。太祖遣兵數攻之,茂才力守。常遇春設伏殲其精銳。茂才復立寨天寧洲,又破之。奔集慶,太祖克集慶,乃帥所部兵降。太祖釋之,命統所部從征。明年授秦淮翼水軍元帥,守龍灣。取江陰馬馱沙,敗張士誠兵,獲其樓船。從廖永安攻池州,取樅陽。太祖以軍興,民失農業,命茂才為都水營田使,仍兼帳前總制親兵左副指揮使。

陳友諒が太平を陥落させた後、張士誠と約して合い応天を攻めようと謀った。太祖は彼らが速やかに来ることを望み、これを破ろうとした。茂才が友諒と旧知であることを知り、僕を遣わして書を持たせ、内応すると偽らせた。友諒は大いに喜び、問うた。「康公はどこにおられるか。」答えて言うには「江東の木橋を守っておられます。」使いが帰ると、太祖は橋を石に替えた。友諒が到着し、橋を見て愕然とし、連呼して「老康」と呼んだが、応答する者はなかった。龍湾まで退くと、伏兵が四方から起こった。茂才は諸将と合して奮撃し、これを大いに破った。太祖は茂才の功を嘉し、賜賚は甚だ厚かった。翌年、太祖が親征して友諒を征し、茂才は舟師を率いて従い安慶を克ち、江州を破り、友諒は西に遁走した。ついに蘄州・興国・漢陽を下した。流れに沿って黄梅寨を克ち、瑞昌を取り、友諒の八指揮を破り、士卒二万人を降した。帳前親兵副都指揮使に遷った。左君弼の廬州を攻めたが、下さなかった。南昌救援に従い、彭蠡で戦い、友諒は敗死した。武昌征討に従い、いずれも功があった。金吾侍衛親軍都護に進んだ。大将軍徐達に従って再び廬州を攻め、これを克ち、江陵及び湖南の諸路を取った。神武衛指揮使に改め、大都督府副使に進んだ。士誠が江陰を攻めたので、太祖は自ら将兵を率いてこれを撃った。鎮江に到着する頃には、士誠はすでに瓜洲を焼いて遁走していた。茂才はこれを追撃して浮子門まで至った。呉軍が海口を遮り、潮に乗って迫って来た。茂才は力戦し、これを大いに破った。淮安の馬騾港を衝き、その水寨を抜き、淮安は平定された。まもなく湖州を抜き、平江に進逼した。士誠は鋭卒を遣わして迎え戦い、尹山橋で大戦した。茂才は大戟を持って督戦し、敵衆をことごとく覆滅した。諸将とともにその城を合囲し、軍を斉門に置いた。平江が下ると、還って無錫を取った。同知大都督府事兼太子右率府使に遷った。

原文陳友諒既陷太平,謀約張士誠合攻應天。太祖欲其速來,破之。知茂才與友諒有舊,命遣僕持書,紿為內應。友諒大喜,問:「康公安在?」曰:「守江東木橋。」使歸,太祖易橋以石。友諒至,見橋,愕然,連呼「老康」,莫應。退至龍灣,伏兵四起。茂才合諸將奮擊,大破之。太祖嘉茂才功,賜賚甚厚。明年,太祖親征友諒,茂才以舟師從克安慶,破江州,友諒西遁。遂下蘄州、興國、漢陽。沿流克黃梅寨,取瑞昌,敗友諒八指揮,降士卒二萬人。遷帳前親兵副都指揮使。攻左君弼廬州,未下。從援南昌,戰彭蠡,友諒敗死。從征武昌,皆有功。進金吾侍衛親軍都護。從大將軍徐達再攻廬州,克之,取江陵及湖南諸路。改神武衛指揮使,進大都督府副使。士誠攻江陰,太祖自將擊之。比至鎮江,士誠已焚瓜洲遁。茂才追北至浮子門。吳軍遮海口,乘潮來薄。茂才力戰,大敗之。搗淮安馬騾港,拔其水寨,淮安平。尋拔湖州,進逼平江。士誠遣銳卒迎鬥,大戰尹山橋。茂才持大戟督戰,盡覆敵眾。與諸將合圍其城,軍齊門。平江下,還取無錫。遷同知大都督府事兼太子右率府使。

洪武元年、大将軍に従い中原を経略し、汴・洛を取って陝州を留守した。糧餉の輸送を計画し、浮橋を造って軍を渡した。絳・解の諸州を招来し、潼関を扼して、秦の兵は東に向かうことができなかった。茂才は撫綏に長け、民は石を立ててその徳を称えた。三年、再び大将軍に従って定西を征し、興元を取った。還軍の途中で卒した。蘄国公を追封され、諡は武康(義)といった。

原文洪武元年,從大將軍經略中原,取汴、洛,留守陝州。規運饋餉,造浮橋渡師。招來絳、解諸州,扼潼關,秦兵不敢東向。茂才善撫綏,民立石頌德焉。三年復從大將軍征定西,取興元。還軍道卒。追封蘄國公,諡武{{校|康|義}}。

子の鐸は、十歳の時に皇太子の侍読として大本堂に入った。父の功により蘄春侯に封ぜられ、禄千五百石を食み、世券を賜った。鳳陽で民を督いて田を墾かせた。兵を帥いて辰州蛮を征し、施・疊の諸州を平定した。大将軍達に従って北征した。また征南将軍傅友徳に従って雲南を征し、普定を克ち、華楚山の諸寨を破った。軍中で卒し、年二十三。蘄国公を追封され、諡は忠愍といった。

原文子鐸,年十歲,入侍皇太子讀書大本堂。以父功封蘄春侯,食祿一千五百石,予世券。督民墾田鳳陽。帥兵征辰州蠻,平施、疊諸州。從大將軍達北征。又從征南將軍傅友德征雲南,克普定,破華楚山諸寨。卒於軍,年二十三。追封蘄國公,諡忠愍。

子の淵は幼くして襲封せず、散騎舎人に任ぜられた。後に事に坐して冠服を革められ、山西に居住することを命ぜられ、ついに嗣ぐことができなかった。弘治末、茂才の後を録して世襲千戸とした。

原文子淵幼未襲,授散騎舍人。已,坐事革冠服,勒居山西,遂不得嗣。弘治末,錄茂才後為世襲千戶。

丁徳興

原文丁德興

丁徳興は定遠の人である。濠において太祖に帰した。その状貌が魁偉であったので、「黒丁」と呼んだ。洪山寨を取るのに従い、百騎で賊数千を破り、その衆をことごとく降した。滁・和を克つに従い、青山の盗賊を敗った。江を渡るに従い、採石を抜き、太平を取り、兵を分けて溧水・溧陽を取り、いずれも先登した。蛮子海牙の水寨を破るに従い、方山営を搗き、陳兆先を擒え、集慶を下し、鎮江を取った。功により管軍総管に進んだ。金壇・広徳・寧国を下した。常州を平定するに従った。左翼元帥に擢げられた。寧国が再び叛くと、胡大海に従ってこれを復した。兵を分けて江陰を下し、徽州・石埭・池州・樅陽を取り、江州を攻め、兵を移して安慶を撃った。向かうところ皆捷した。また江陰を援け、江西の傍近の州県を略し、双刀趙を攻めてその鋒を挫いた。時に徐達・邵栄が宜興を攻めて久しく下さず、太祖は使者を遣わして言った、「宜興城は西は太湖口に通じ、士誠の糧道の経由するところである。その糧を断てば必ず破れる」。達はすなわち徳興を遣わして太湖口を絶ち、力を併せて急攻したので、城はついに抜けた。功を論じて鳳翔衛指揮使を授けた。洪武帝はかつて彼を「攻めて克たざるなく、戦いて勝たざるなき虎将なり」と称した。

原文丁德興,定遠人。歸太祖於濠。偉其狀貌,以「黑丁」呼之。從取洪山寨,以百騎破賊數千,盡降其眾。從克滁、和,敗青山盜。從渡江,拔採石,取太平,分兵取溧水、溧陽,皆先登。從破蠻子海牙水寨,搗方山營,擒陳兆先,下集慶,取鎮江。以功進管軍總管。下金壇、廣德、寧國。從平常州。擢左翼元帥。寧國復叛,從胡大海復之。分兵下江陰,取徽州、石埭、池州、樅陽,攻江州,移兵擊安慶。所向皆捷。復援江陰,略江西傍近州縣,攻雙刀趙,挫其鋒。時徐達、邵榮攻宜興,久不下,太祖遣使謂曰:「宜興城西通太湖口,士誠餉道所由,斷其餉則必破。」達乃遣德興絕太湖口,而並力急攻,城遂拔。論功授鳳翔衛指揮使。洪武帝曾稱其乃「攻無不克,戰無不勝之虎將也」。

陳友諒が龍江を犯すと、徳興は石灰山に軍し、力戦してこれを撃破した。ついで友諒を征するに従い、安慶を搗き、九江を克ち、安豊を援け、呂珍を敗り、左君弼を走らせた。鄱陽に戦うに従い、武昌を平定し、廬州を克ち、湖南衡州の諸郡を略定した。また大将軍に従って淮東を収め、浙西を征し、旧館において士誠の兵を破った。湖州を下し、平江を囲んだ。軍中で卒した。都指揮使を贈られた。洪武元年に済国公を追封され、功臣廟に列祀された。子の忠は龍江衛指揮使で、世襲を許された。

原文陳友諒犯龍江,德興軍於石灰山,力戰,擊敗之。遂從征友諒,搗安慶,克九江,援安豐,敗呂珍,走左君弼。從戰鄱陽,平武昌,克廬州,略定湖南衡州諸郡。又從大將軍收淮東,征浙西,敗士誠兵於舊館。下湖州,圍平江。卒於軍。贈都指揮使。洪武元年追封濟國公,列祀功臣廟。子忠,龍江衛指揮使,予世襲。

耿炳文

原文耿炳文

耿炳文は濠の人である。父の君用は太祖に従って江を渡り、功を積んで管軍総管となった。宜興を援け、張士誠の兵と柵を争い、力戦して死んだ。炳文は職を襲い、その軍を領した。広徳を取り、長興を進攻し、士誠の将趙打虎を破り、戦船三百余艘を獲、その守将李福安等を擒え、ついに長興を克った。長興は太湖口に拠り、陸路は広徳に通じ、宣・歙と接壤し、江・浙の門戸であった。太祖はその地を得て大いに喜び、長安州と改め、永興翼元帥府を立て、炳文を総兵都元帥としてこれを守らせた。温祥卿という者は、智数が多い。乱を避けて来帰し、炳文はこれを幕府に引き入れ、守御の計を画くこと甚だ詳しかった。張士誠の左丞潘元明・元帥厳再興が師を帥いて来争した。炳文は奮撃し、大いに敗って去った。久しくして、士誠はまた司徒李伯升を遣わして衆十万を帥い、水陸より進攻した。城中の兵は七千、太祖はこれを患い、陳徳・華高・費聚を命じて往援させた。伯升は夜に営を劫い、諸将は皆潰走した。炳文は城に拠って固く守り、攻撃甚だ急であったが、方に随ってこれを防ぎ、甲を解かざること月余りに及んだ。常遇春がまた援兵を帥いて至ると、伯升は営を棄てて遁走し、追撃して五千余人を斬った。その翌年、永興翼元帥府を永興衛親軍指揮使司と改め、炳文を指揮使とした。やがて士誠は大いに兵を発し、その弟の士信を遣わしてまた来争した。炳文はまたこれを破り、その元帥宋興祖を獲た。士信は甚だ憤り、兵を益して城を囲んだ。炳文は費聚と出戦し、また大いにこれを破った。長興は士誠の必争の地であり、炳文は拒守すること凡そ十年、寡をもって衆を御し、大小数十戦、戦いて勝たざることなく、士誠はついに思いを遂げられなかった。大軍が士誠を伐つに及び、炳文は将としてその部を率いて湖州を克ち、平江を囲んだ。呉が平定され、大都督府僉事に進んだ。

原文耿炳文,濠人。父君用,從太祖渡江,積功為管軍總管。援宜興,與張士誠兵爭柵,力戰死。炳文襲職,領其軍。取廣德,進攻長興,敗士誠將趙打虎,獲戰船三百餘艘,擒其守將李福安等,遂克長興。長興據太湖口,陸通廣德,與宣、歙接壤,為江、浙門戶。太祖既得其地,大喜,改為長安州,立永興翼元帥府,以炳文為總兵都元帥,守之。溫祥卿者,多智數。避亂來歸,炳文引入幕府,畫守御計甚悉。張士誠左丞潘元明、元帥嚴再興帥師來爭。炳文奮擊,大敗去。久之,士誠復遣司徒李伯升帥眾十萬,水陸進攻。城中兵七千,太祖患之,命陳德、華高、費聚往援。伯升夜劫營,諸將皆潰。炳文嬰城固守,攻甚急,隨方御之,不解甲者月餘。常遇春復帥援兵至,伯升棄營遁,追斬五千餘人。其明年,改永興翼元帥府為永興衛親軍指揮使司,以炳文為使。已而士誠大發兵,遣其弟士信復來爭。炳文又敗之,獲其元帥宋興祖。士信憤甚,益兵圍城。炳文與費聚出戰,又大敗之。長興為士誠必爭地,炳文拒守凡十年,以寡御眾,大小數十戰,戰無不勝,士誠迄不得逞。大軍伐士誠,炳文將所部克湖州,圍平江。吳平,進大都督府僉事。

中原を征するに従い、山東の沂・嶧の諸州を克った。汴梁を下し、河南を徇い、駕に扈従して北巡した。やがて、また常遇春に従って大同を取り、晋・冀を克った。大将軍徐達に従って陝西を征し、李思斉・張思道を走らせ、すなわちその地を鎮守した。涇陽の洪渠十余万丈を浚い、民はその利に頼った。まもなく秦王左相都督僉事に拝された。

原文從征中原,克山東沂、嶧諸州。下汴梁,徇河南,扈駕北巡。已,又從常遇春取大同,克晉、冀。從大將軍徐達征陝西,走李思齊、張思道,即鎮其地。浚涇陽洪渠十萬餘丈,民賴其利。尋拜秦王左相都督僉事。

洪武三年、長興侯に封ぜられ、禄千五百石を食み、世券を賜った。十四年、大将軍に従って塞に出で、北黄河において元の平章乃児不花を破った。十九年、潁国公傅友徳に従って雲南を征し、曲靖蛮を討平した。二十一年、永昌侯藍玉に従って北征し、捕魚児海に至った。二十五年、兵を帥いて陝西徽州の妖人の乱を平定した。三十年、征西将軍として蜀寇高福興を擒え、三千人を俘虜とした。

原文洪武三年,封長興侯,食祿千五百石,予世券。十四年,從大將軍出塞,破元平章乃兒不花於北黃河。十九年從潁國公傅龍德征雲南,討平曲靖蠻。二十一年從永昌侯藍玉北征,至捕魚兒海。二十五年帥兵平陝西徽州妖人之亂。三十年以征西將軍擒蜀寇高福興,俘三千人。

初め、炳文が長興を守った功は最も高く、太祖は功臣を榜列して、炳文を大将軍達に附して一等とした。洪武末年に至り、諸公・侯は将に尽き、存する者は炳文及び武定侯郭英の二人のみであった。そして炳文は元功の宿将として、朝廷に倚重された。

原文始,炳文守長興,功最高,太祖榜列功臣,以炳文附大將軍達為一等。及洪武末年,諸公、侯且盡,存者惟炳文及武定侯郭英二人;而炳文以元功宿將,為朝廷所倚重。

建文元年、燕王の兵が起こった。帝は炳文を大将軍と命じ、副将軍李堅・寧忠を帥いて北伐させた。時に年六十五であった。兵は三十万と号したが、至った者は十三万のみであった。八月に真定に次ぎ、営を分けて滹沱河の南北に置いた。都督徐凱は河間に軍し、潘忠・楊松は鄚州に駐し、先鋒九千人は雄県に駐した。中秋に当たり、設備せず、燕王に襲われ、九千人皆死した。忠等が来援し、月漾橋を過ぎると、水中に伏兵が発した。忠・松はともに捕らえられ、屈せずして死んだ。鄚州は陥った。そして炳文の部将張保という者が燕に降り、南軍の虚実を備えて告げた。燕王は保を帰らせ、雄・鄚の敗状を張らしめ、「北軍将に至らん」と言わせた。ここにおいて炳文は軍を移して尽く河を渡らせ、力を併せて敵に当たらせた。軍が移るやいなや、燕兵が驟然として至り、城に沿って蹴撃した。炳文の軍は列を成すことができず、敗れて城に入った。門を争い、門は塞がり、踏み躙られて死する者は数えきれなかった。燕兵はついに城を囲んだ。炳文の衆はなお十万、堅守して出なかった。燕王は炳文が老将で、容易に下せぬと知り、三日を過ぎて囲みを解いて還った。そして帝は驟然として炳文の敗を聞き、甚だ憂えた。太常卿黄子澄はすなわち李景隆を薦めて大将軍とし、駅伝に乗って炳文に代わらせた。軍に至る頃には、燕師は既に一日先に去っていた。炳文は帰り、景隆が将に代わり、ついに敗北に至った。

原文建文元年,燕王兵起。帝命炳文為大將軍,帥副將軍李堅、寧忠北伐,時年六十有五矣。兵號三十萬,至者惟十三萬。八月次真定,分營滹沱河南北。都督徐凱軍河間,潘忠、楊松駐鄚州,先鋒九千人駐雄縣。值中秋,不設備,為燕王所襲,九千人皆死。忠等來援,過月漾橋,伏發水中。忠、松俱被執,不屈死。鄚州陷。而炳文部將張保者降燕,備告南軍虛實。燕王縱保歸,使張雄、鄚敗狀,謂:「北軍且至。」於是炳文移軍盡渡河,並力當敵。軍甫移,燕兵驟至,循城蹴擊。炳文軍不得成列,敗入城。爭門,門塞,蹈藉死者不可數計。燕兵遂圍城。炳文眾尚十萬,堅守不出。燕王知炳文老將,未易下,越三日,解圍還。而帝驟聞炳文敗,憂甚。太常卿黃子澄遂薦李景隆為大將軍,乘傳代炳文。比至軍,燕師已先一日去。炳文歸,景隆代將,竟至於敗。

燕王が帝を称した翌年、刑部尚書鄭賜・都御史陳瑛が炳文を弾劾し、衣服器皿に龍鳳の飾りがあり、玉帯に紅鞓を用い、僭妄不道であるとした。炳文は懼れて自殺した。

原文燕王稱帝之明年,刑部尚書鄭賜、都御史陳瑛劾炳文衣服器皿有龍鳳飾,玉帶用紅鞓,僭妄不道。炳文懼,自殺。

子の璿は、前軍都督僉事であった。懿文太子の長女である江都公主を娶った。炳文が北伐したとき、璿は北平を直ちに攻撃すべきと勧めたことがある。炳文が交代して帰還した後は再び用いられず、璿は非常に憤慨した。永楽初年、門を閉ざして病気と称し、罪に坐して死んだ。

原文子璿,前軍都督僉事。尚懿文太子長女江都公主。炳文北伐,璿嘗勸直搗北平。炳文受代歸,不復用,璿憤甚。永樂初,杜門稱疾,坐罪死。

璿の弟の瓛は、後軍都督僉事であった。江陰侯の呉高、都指揮の楊文とともに遼東の兵を率いて永平を包囲したが、陥落させられず、退いて山海関を守った。呉高は離間策にかかり、広西に移された。楊文は遼東を守り、瓛はしばしば永平を攻撃して北平を動揺させるよう請うたが、楊文は聞き入れなかった。後に弟の尚宝司卿の瑄とともに、ともに罪に坐して死んだ。

原文璿弟瓛,後軍都督僉事。與江陰侯吳高、都指揮楊文帥遼東兵圍永平,不克,退保山海關。高被間,徙廣西。文守遼東,瓛數請攻永平以動北平,文不聽。後與弟尚寶司卿瑄,皆坐罪死。

郭英

原文郭英

郭英は、鞏昌侯の郭興の弟である。十八歳の時、郭興とともに太祖に仕えた。親信され、帳中で宿直することを命じられ、「郭四」と呼ばれた。滁州・和州・採石・太平の攻略に従い、陳友諒を征伐し、鄱陽湖で戦い、いずれも功績があった。武昌征伐に従い、陳氏の驍ぎょう将である陳同僉が槊を持って突入してきたとき、太祖は郭英にこれを討たせ、戦袍を賜った。岳州を攻め、その援兵を破り、帰還して廬州・襄陽を攻略した。驍騎衛千戸に任じられた。淮安・濠州・安豊を攻略し、指揮僉事に進んだ。徐達に従って中原を平定し、また常遇春に従って太原を攻め、拡廓を敗走させ、興州・大同を陥れた。沙浄州に至り黄河を渡った。西安・鳳翔・鞏昌・慶陽を奪取し、乱山で駕宗哲を追撃して破り、本衛の指揮副使に遷った。進軍して定西を攻略し、察罕脳児を討った。登寧州を攻略し、二千の首級を斬り、河南都指揮使に進んだ。当時、郭英の妹は寧妃であり、郭英が任地に赴こうとしたとき、命じて妃に邸で郭英を餞別させ、白金二十罌、厩舎の馬二十匹を賜った。任地では流亡の民を安撫し、規律を明らかにし、境内は大いに治まった。九年に北平に移鎮した。十三年に召還され、前軍都督府僉事に進んだ。

原文郭英,鞏昌侯興弟也。年十八,與興同事太祖。親信,令值宿帳中,呼為「郭四」。從克滁、和、採石、太平,征陳友諒,戰鄱陽湖,皆與有功。從征武昌,陳氏驍將陳同僉持槊突入,太祖呼英殺之,衣以戰袍。攻岳州,敗其援兵,還克廬州、襄陽。授驍騎衛千戶。克淮安、濠州、安豐,進指揮僉事。從徐達定中原,又從常遇春攻太原,走擴廓,下興州、大同。至沙淨州渡河。取西安、鳳翔、鞏昌、慶陽,追敗駕宗哲於亂山,遷本衛指揮副使。進克定西,討察罕腦兒。克登寧州,斬首二千級,進河南都指揮使。時英女弟為寧妃,英將赴鎮,命妃餞英於第,賜白金二十罌,廄馬二十匹。在鎮綏輯流亡,申明約束,境內大治。九年移鎮北平。十三年召還,進前軍都督府僉事。

十四年、潁川侯の傅友徳に従って雲南を征伐し、陳桓・胡海と分かれて赤水河路を進攻した。長雨で河水が急増した。郭英は木を伐って筏を作り、夜に乗じて渡河した。夜明け前に賊の陣営に到着し、賊は大いに驚いて潰走した。烏撒および阿容らを生け捕りにした。曲靖・陸涼・越州・関索嶺・椅子寨を攻略した。大理・金歯・広南を降伏させ、諸山寨を平定した。十六年、再び傅友徳に従って蒙化・鄧川を平定し、金沙江を渡り、北勝・麗江を奪取した。前後して一万三千余りの首級を斬り、二千余人を生け捕りにし、数万の精鋭の甲冑と千余艘の船を収めた。十七年、雲南平定の功績を論じ、武定侯に封ぜられ、禄二千五百石を食み、世券を賜った。

原文十四年,從潁川侯傅友德征雲南,與陳桓、胡海分道進攻赤水河路。久雨,河水暴漲。英斬木為筏,乘夜濟。比曉,抵賊營,賊大驚潰。擒烏撒並阿容等。攻克曲靖、陸涼、越州、關索嶺、椅子寨。降大理、金齒、廣南,平諸山寨。十六年復從友德平蒙化、鄧川,濟金沙,取北勝、麗江。前後斬首一萬三千餘級,生擒二千餘人,收精甲數萬,船千餘艘。十七年論平雲南功,封武定侯,食祿二千五百石,予世券。

十八年、靖海将軍を加えられ、遼東を鎮守した。二十年、大将軍の馮勝に従って金山から出撃し、納哈出が降伏し、征虜右副将軍に進んだ。藍玉に従って捕魚児海に至った。軍が帰還すると、賞賜は非常に厚く、郷里に帰還を命じられた。翌年、京師に召し入れられ、禁兵を統轄することを命じられた。三十年、征西将軍の耿炳文の副将として陝西の辺境を守備し、沔県の賊である高福興を平定した。帰還すると、御史の裴承祖が郭英が私的に家奴百五十余人を養い、また男女五人を擅に殺したことを弾劾した。帝は問わなかったが、僉都御史の張春らが執拗に上奏したため、ついに諸戚里大臣にその罪を議させた。議が上ると、結局これを赦した。建文の時、耿炳文・李景隆に従って燕を討伐したが、功績がなかった。靖難の後、罷免されて邸に帰った。永楽元年に卒去、六十七歳であった。営国公を追贈され、諡は威襄。

原文十八年,加靖海將軍,鎮守遼東。二十年從大將軍馮勝出金山,納哈出降,進征虜右副將軍。從藍玉至捕魚兒海。師還,賞賚甚厚,遣還鄉。明年召入京,命典禁兵。三十年副征西將軍耿炳文備邊陝西,平沔縣賊高福興。及還,御史裴承祖劾英私養家奴百五十餘人,又擅殺男女五人。帝弗問,僉都御史張春等執奏不已,乃命諸戚里大臣議其罪。議上,竟宥之。建文時,從耿炳文、李景隆伐燕,無功。靖難後,罷歸第。永樂元年卒,年六十七。贈營國公,諡威襄。

郭英は孝友であり、書史に通じ、行軍には紀律があり、忠謹をもって太祖に親しまれた。また寧妃の縁故もあり、恩寵は特に厚く、諸功臣はこれを望む者もなかった。

原文英孝友,通書史,行師有紀律,以忠謹見親於太祖。又以寧妃故,恩寵尤渥,諸功臣莫敢望焉。

子は十二人。鎮は、永嘉公主を娶った。銘は、遼府の典宝。鏞は、中軍右都督。女は九人、二人は遼郢王の妃となった。女孫は仁宗の貴妃となり、銘の出である。このため銘の子の玹が侯を嗣ぐことができた。宣徳年間、玹は宗人府の事務を代行し、河間の民の田畑と家屋を奪い、また天津の屯田千畝を奪い、その奴僕を罪に問うたが、玹は赦した。英宗の初め、永嘉公主がその子の珍に侯を嗣がせるよう請うた。珍は郭英の嫡孫であり、錦衣衛指揮僉事に任じられた。玹が卒去すると、子の聰と珍が後嗣を争い、ついにともに襲封を停止し、聰にも珍と同じ官職を授けた。天順元年、珍の子の昌が詔の恩典により襲封を得たが、聰が争って得られなかった。昌が卒去すると、子の良が嗣ぐべきところ、聰はまた良は昌の子ではないと言い、再び襲封を停止し、指揮僉事を授けた。たびたび襲封を請うたため、獄に下され、まもなく釈放されて官に復した。その後、郭氏の宗人が共に郭英の孫の一人を選んで郭英の爵を嗣がせるよう請うた。廷臣は皆、良は本来郭英の嫡孫であるから、侯を嗣ぐべきであると言った。詔でこれを認めた。正徳初年に卒去した。子の勛が嗣いだ。

原文子十二人。鎮,尚永嘉公主。銘,遼府典寶。鏞,中軍右都督。女九人,二為遼郢王妃。女孫為仁宗貴妃,銘出也,以故銘子玹得嗣侯。宣德中,玹署宗人府事,奪河間民田廬,又奪天津屯田千畝,罪其奴而宥玹。英宗初,永嘉公主乞以其子珍嗣侯。珍,英嫡孫也,授錦衣衛指揮僉事。玹卒,子聰與珍爭嗣,遂並停襲,亦授聰如珍官。天順元年,珍子昌以詔恩得襲,聰爭之不得。昌卒,子良當嗣,聰又言良非昌子,復停嗣,授指揮僉事。以屢乞嗣,下獄,尋釋復官。既而郭宗人共乞擇英孫一人嗣英爵。廷臣皆言良本英嫡孫,宜嗣侯。詔可。正德初卒。子勛嗣。

勛は桀黠で智謀があり、書史にかなり通じていた。正徳年間、両広を鎮守し、入朝して三千営を掌った。世宗の初め、団営を掌った。大礼の議が起こると、勛は上意を知り、真っ先に張璁を支持し、世宗は大いにこれを寵愛した。勛は寵を恃み、かなり驕慢で勝手であった。大学士の楊一清はこれを憎み、その賄賂請託の事が発覚したのを機に、営務を罷免し、保傅の官階を奪った。楊一清が罷免されると、依然として五軍営を総括し、四郊の造営を監督した。翌年、団営を監督した。十八年、後府を兼領した。帝に従って承天に行幸し、五世の祖である郭英を太廟に配享するよう請うた。廷臣は認めないと主張し、侍郎の唐冑が特に強く争った。帝は聞き入れず、郭英はついに配享を得た。その翌年、献皇が宗と称され、太廟に入り、勛は翊国公に進み、太師を加えられた。 先に、妖人李福達は自ら薬物を金銀に変化させられると言った。勛は彼と親密になった。李福達が敗れると、その獄を強く支持し、廷臣の多くが罪に問われた。この時また方士の段朝用を進め、その変化させた金銀で飲食の器を作れば、不死になれると言った。帝はますます忠実であると思った。給事中の戚賢が勛が威福を擅にし、利を貪り民を虐げる諸事を弾劾した。李鳳来らもまた同様に言上した。下して有司に調査させると、勛の京師の店舗は千余区にも及んだ。副都御史の胡守中はまた、勛が族叔の郭憲を東廠で刑罰を扱わせ、無辜を肆虐させたことを弾劾した。帝はこれを放置して治めなかった。ちょうど帝が言官の言を用い、勛に勅書を与え、兵部尚書の王廷相・遂安伯の陳譓とともに軍役を整理させることになった。勅書が整うと、勛は受け取らなかった。言官がその威福を振るい党を結んだことを弾劾した。勛が上疏して弁明し、「どうしてさらに勅書を賜わる労を煩わせる必要があろうか」という言葉があった。帝はついに激怒し、その「強情で悖り、人臣の礼がない」ことを責めた。そこで給事中の高時がことごとく勛の奸利の事を暴き、かつ張延齢と通じていると言った。帝はますます怒り、勛を錦衣獄に下した。二十年九月のことである。まもなく鎮撫司に刑訊を加えないよう諭した。奏上されると、勛は死罪に当たるとされた。帝は法司に再調査させた。そして給事中の劉大直が再び勛の乱政十二罪を調査し、ともに治罪するよう請うた。法司はついに諸上疏中の罪状をことごとく実証し、勛は絞罪に当たるとした。帝は詳議を命じた。法司はさらに勛の不軌の罪を斬罪に当たるとし、妻子と田宅を没収するとした。奏上されると、留中して下さなかった。帝は勛を寛大にしたい意向で、たびたびその旨を示した。しかし廷臣は勛を非常に憎み、理解していないふりをして、さらに勛を重い刑罰に坐らせた。翌年、言官を考察し、特旨で高時を二階級貶し、廷臣に示したが、廷臣はついに勛のために請う者はなかった。その冬、勛は獄中で死んだ。帝はこれを哀れみ、法司が長く拘禁したことを責めた。刑部尚書の呉山の職を褫奪し、侍郎・都御史以下はそれぞれ降格・降級させ、勛の籍没は免じ、ただ誥券を奪うのみであった。

原文勛桀黠有智數,頗涉書史。正德中,鎮兩廣,入掌三千營。世宗初,掌團營。大禮議起,勛知上意,首右張璁,世宗大愛幸之。勛怙寵,頗驕恣。大學士楊一清惡之,因其賕請事覺,罷營務,奪保傅官階。一清罷,仍總五軍營,董四郊興造。明年督團營。十八年兼領後府。從幸承天,請以五世祖英侑享太廟。廷臣持不可,侍郎唐胄爭尤力。帝不聽,英竟得侑享。其明年,獻皇稱宗,入太廟,進勛翊國公,加太師。 先是,妖人李福達自言能化藥物為金銀。勛與相暱。福達敗,力持其獄,廷臣多得罪者。至是復進方士段朝用,雲以其所化金銀為飲食器,可不死。帝益以為忠。給事中戚賢劾勛擅作威福,網利虐民諸事。李鳳來等復以為言。下有司勘,勛京師店舍多至千餘區。副都御史胡守中又劾勛以族叔郭憲理刑東廠,肆虐無辜。帝置勿治。會帝用言官言,給勛敕,與兵部尚書王廷相、遂安伯陳譓同清軍役。敕具,勛不領。言官劾其作威植黨。勛疏辯,有「何必更勞賜敕」語。帝乃大怒,責其「強悖無人臣禮」。於是給事中高時盡發勛奸利事,且言交通張延齡。帝益怒,下勛錦衣獄。二十年九月也。尋諭鎮撫司勿加刑訊。奏上,當勛死罪。帝令法司覆勘。而給事中劉大直復勘勛亂政十二罪,請並治。法司乃盡實諸疏中罪狀,當勛罪絞。帝令詳議。法司更當勛不軌罪斬,沒入妻孥田宅。奏上,留中不下。帝意欲寬勛,屢示意指。而廷臣惡勛甚,謬為不喻者,更坐勛重辟。明年考察言官,特旨貶高時二級,以風廷臣,廷臣終莫為勛請。其冬,勛死獄中。帝憐之,責法司淹系。褫刑部尚書吳山職,侍郎都御史以下鐫降有差,而免勛籍沒,僅奪誥券而已。

明が興って以来、勲臣は政事に関与しなかった。ただ勛のみが、恩寵を挟み、朝権を擅にし、恣に奸悪をなして敗れた。勛が死んで数年後、その子の守乾が侯を嗣ぎ、曾孫の培民に伝わった。崇禎末、賊のために死んだ。

原文自明興以來,勛臣不與政事。惟勛以挾恩寵、擅朝權、恣為奸慝致敗。勛死數年,其子守乾嗣侯,傳至曾孫培民。崇禎末,死於賊。

華雲龍

原文華雲龍

華雲龍は定遠の人である。衆を集めて韭山に居た。太祖が兵を起こすと、来て帰順した。滁州・和州の攻略に従い、千夫長となった。長江渡河に従い、採石の水寨及び方山の営を破った。集慶路を陥とし、元の将を生け捕りにして、兵一万を得、鎮江を陥とし、総管に遷る。広徳を攻め落とし、旧館で戦い、湯元帥を擒らえ、右副元帥に進む。龍江の役に、雲龍は石灰山に伏兵し、接戦して、殺傷は互角であった。雲龍は馬を躍らせて大呼し、その中堅を突き崩し、遂に友諒の兵を大いに破り、勝に乗じて太平を回復した。九江・南昌の攻略に従い、分兵して瑞州・臨江・吉安を攻め落とした。安豊救援に従い、彭蠡で戦い、武昌を平定した。累功により豹韜衛指揮使に至る。徐達に従って兵を率いて高郵を取るに及び、進んで淮安を陥とし、遂に命じてこれを守らせ、淮安衛指揮使に改める。まもなく嘉興を攻め、呉の将宋興を降す。平江を包囲し、胥門に軍を置く。

原文華雲龍,定遠人。聚眾居韭山。太祖起兵,來歸。從克滁、和,為千夫長。從渡江,破採石水寨及方山營。下集慶路,生擒元將,得兵萬人,克鎮江,遷總管。攻拔廣德,戰舊館,擒湯元帥,進右副元帥。龍江之役,雲龍伏石灰山,接戰,殺傷相當。雲龍躍馬大呼,搗其中堅,遂大敗友諒兵,乘勝復太平。從下九江、南昌,分兵攻下瑞州、臨江、吉安。從援安豐,戰彭蠡,平武昌。累功至豹韜衛指揮使。從徐達帥兵取高郵,進克淮安,遂命守之,改淮安衛指揮使。尋攻嘉興,降吳將宋興。圍平江,軍於胥門。

大軍に従って北征し、山東の郡県を巡り下し、徐達と通州で会して兵を率い、進んで元の都を陥とす。大都督府僉事に抜擢され、六衛の兵を総べ留守し、兼ねて北平行省参知政事となる。一年余りして、雲州を攻め落とし、平章火児忽答・右丞哈海を獲る。都督同知に進み、燕王左相を兼ねる。洪武三年冬、功を論じて淮安侯に封ぜられ、禄一千五百石、世券を賜る。雲龍が上言して曰く、「北平の辺塞は、東は永平・薊州より、西は灰嶺下に至るまで、隘口百二十一、相去ることおよそ二千二百里。その王平口より官坐嶺に至るまで、隘口九、相去ること五百余里。いずれも衝要にして、兵を設くべし。紫荊関及び蘆花山嶺は特に要害にして、千戸守御所を設くべし」と。また言う、「前に大兵が永平を陥とした時、故元の八翼軍士千六百人を留めて屯田せしめ、人月ごとに糧五斗を支給したが、得るところは費いに償わず。燕山諸衛に入れ、伍を補って操練すべし」と。いずれも従われる。辺境を行き至って雲州に至り、元の平章僧家奴の営を牙頭において襲い、突入してその帳を擒らえ、その衆を尽く俘虜とする。上都の大石崖に至り、劉学士の諸寨を攻め落とし、驢児国公は漠北に奔る。ここより内犯する者なく、威名大いに著る。燕邸を建て、北平城を増築するは、皆その経画による。洪武七年、雲龍が元の相脱脱の第宅を占拠し、故元の宮中の物を僭用したとの言あり。召還され、何文輝を遣わして代わらしむ。京に至らざるうち、道中に卒す。

原文從大軍北征,徇下山東郡縣,與徐達會帥通州,進克元都。擢大都督府僉事,總六衛兵留守兼北平行省參知政事。逾年,攻下雲州,獲平章火兒忽答、右丞哈海。進都督同知,兼燕王左相。洪武三年冬,論功封淮安侯,祿一千五百石,予世券。雲龍上言:「北平邊塞,東自永平、薊州,西至灰嶺下,隘口一百二十一,相去可二千二百里。其王平口至官坐嶺,隘口九,相去五百餘里。俱衝要,宜設兵。紫荊關及蘆花山嶺尤要害,宜設千戶守御所。」又言:「前大兵克永平,留故元八翼軍士千六百人屯田,人月支糧五斗,所得不償費。宜入燕山諸衛,補伍操練。」俱從之。行邊至雲州,襲元平章僧家奴營於牙頭,突入其帳擒之,盡俘其眾。至上都大石崖,攻克劉學士諸寨,驢兒國公奔漠北。自是無內犯者,威名大著。建燕邸,增筑北平城,皆其經畫。洪武七年,有言雲龍據元相脫脫第宅,僭用故元宮中物。召還,命何文輝往代。未至京,道卒。

子の中が襲封す。李文忠の卒するや、中は侍疾して薬を進め、坐して貶死す。二十三年、中を胡党に追論し、爵を除く。

原文子中襲。李文忠之卒也,中侍疾進藥,坐貶死。二十三年追論中胡黨,爵除。

韓政

原文韓政

韓政は睢の人である。嘗て義兵元帥となり、衆を率いて太祖に帰し、江淮行省平章政事を授かる。李済が濠州に拠り、名は張士誠のために守ると称するも、実は観望す。太祖は右相国李善長を使わして書を以てこれを招くも、報いず。太祖嘆いて曰く、「濠は吾が家なり、済がかくの如くでは、我に国あれども家なき可けんや」と。乃ち政に命じ、指揮顧時を率いて雲梯砲石を以て四面より濠を攻めしむ。済は支え難しと度り、始めて出でて降る。政は済を応天に帰す。太祖大いに悦び、時に命じて濠州を守らしむ。

原文韓政,睢人。嘗為義兵元帥,帥眾歸太祖,授江淮行省平章政事。李濟據濠州,名為張士誠守,實觀望。太祖使右相國李善長以書招之,不報。太祖嘆曰:「濠,吾家也,濟如此,我有國無家可乎!」乃命政帥指揮顧時以雲梯砲石四面攻濠。濟度不能支,始出降。政歸濟於應天。太祖大悅,以時守濠州。

政は徐達に従って安豊を攻め、その四門を扼し、潜かに城東の龍尾壩に穴を穿ち、その城に二十余丈入る。城壊れ、遂にこれを破る。元の将忻都・竹貞・左君弼は皆走る。追奔四十余里、都を擒らう。俄かに貞が兵を引いて来援し、城南門でこれと戦い、再び破って走らしむ。淮東・西悉く平まる。已にして、大軍に従って呉を平らぐ。また北伐に従い、梁城の守将盧斌を降す。分兵して黄河を扼し、山東の援軍を断ち、遂に益都・済寧・済南を取り、皆功あり。東平を陥とし、功特に多し。山東行省平章政事に改む。師を率いて大將軍と臨清で会し、檄して政に東昌を守らしむ。大都を下すと、政に命じて分兵して広平を守らしむ。政は遂に白土の諸寨を諭して降す。彰徳に移り守り、蟻尖寨を下す。蟻尖は林慮の西北二十里に在り、元の右丞呉庸・王居義・小鎖児の拠る所なり。大將軍の北伐するや、将士を遣わして諸山寨を収復せしめ、降る者相継ぐも、蟻尖のみは険を恃んで下らざりき。ここに至り兵を逼れば、庸は居義及び小鎖児を誘い殺して降り、士卒一万余人を得る。まもなく征陝西に調され、還兵して河北を守御す。洪武三年、東平侯に封ぜられ、禄千五百石、世券を賜る。山東に移鎮す。未だ幾ばくもせず、また河北に移る。流民を招撫し、復業する者甚だ衆し。左副将軍李文忠に従って応昌を搗ち、臚朐河に至る。文忠深く入り、政に命じて輜重しちょうを守らしむ。還り、命じて河南・陝西を巡らしむ。再び信国公湯和に従って臨清で練兵す。十一年二月卒す。帝親しくその喪に臨む。鄆国公を追封す。

原文政從徐達攻安豐,扼其四門,潛穴城東龍尾壩,入其城二十餘丈。城壞,遂破之。元將忻都、竹貞、左君弼皆走。追奔四十餘里,擒都。俄而貞引兵來援,與戰城南門,再破走之。淮東、西悉平。已,從大軍平吳。又從北伐,降梁城守將盧斌。分兵扼黃河,斷山東援軍,遂取益都、濟寧、濟南,皆有功。克東平,功尤多,改山東行省平章政事。以師會大將軍於臨清,檄政守東昌。既下大都,命政分兵守廣平。政遂諭降白土諸寨。移守彰德,下蟻尖寨。蟻尖者,在林慮西北二十里,為元右丞吳庸、王居義、小鎖兒所據。大將軍之北伐也,遣將士收復諸山寨,降者相繼,蟻尖獨恃險不下。至是兵逼之,庸誘殺居義及小鎖兒以降,得士卒萬餘人。尋調征陝西,還兵守御河北。洪武三年封東平侯,祿千五百石,予世券。移鎮山東。未幾,復移河北。招撫流民,復業甚眾。從左副將軍李文忠搗應昌,至臚朐河。文忠深入,令政守輜重。還,命巡河南、陝西。再從信國公湯和練兵於臨清。十一年二月卒,帝親臨其喪。追封鄆國公。

子の勲が襲封す。二十六年、藍党に坐して誅せられ、爵を除く。

原文子勛襲。二十六年坐藍黨誅,爵除。

仇成

原文仇成

仇成は含山の人である。初め従軍して万戸を充たし、屡遷して秦淮翼副元帥に至る。太祖が安慶を攻むるに、敵は固守して戦わず。廖永忠・張志雄がその水寨を破るや、成は陸兵を以てこれに乗じ、遂に安慶を陥とす。初め、元の左丞余闕が安慶を守り、陳友諒の将趙普勝がこれを陥とす。友諒は普勝を殺すや、元帥余某なる者襲い取りし。張定辺復た来り犯すや、余帥は走り死す。ここに至り成を以て横海指揮同知とし、その地を守らしむ。時に左君弼は廬州に拠り、羅友賢は池州を以て叛き、無為の知州董曾は陥ち死に、四面皆賊の境なり。成は軍民を撫集し、守御厳密にして、漢兵敢えて東下せず。鄱陽征討に従い、敵を涇江口に殲し、功最も多し。平江を征し、張士誠の兵を城西南に敗る。洪武三年、大都督府事を僉し、遼東を鎮む。久しくして、屯戍の功無きを以て、永平衛指揮使に降る。まもなく官に復す。十二年、藍玉等の征西の功を論じ、封ずべし。帝は成の旧勲を思い、先ず安慶侯に封じ、歳禄二千石。二十年、征南副将軍を充て、容美諸峒を討平す。また大軍に従って雲南を征し、功多く、世券を賜い、禄五百石を加う。二十一年七月、疾あり。内〓昷を賜い、手詔を以て存問す。卒す。皖国公を贈り、諡して庄襄と曰う。子の正が爵を襲ぐ。

原文仇成,含山人。初從軍充萬戶,屢遷至秦淮翼副元帥。太祖攻安慶,敵固守不戰。廖永忠、張志雄破其水寨,成以陸兵乘之,遂克安慶。初,元左丞余闕守安慶,陳友諒將趙普勝陷之。友諒既殺普勝,元帥余某者襲取之。張定邊復來犯,余帥走死。至是以成為橫海指揮同知,守其地。時左君弼據廬州,羅友賢以池州叛,無為知州董曾陷死,四面皆賊境。成撫集軍民,守御嚴密,漢兵不敢東下。從征鄱陽,殲敵涇江口,功最。征平江,敗張士誠兵於城西南。洪武三年,僉大都督府事,鎮遼東。久之,以屯戍無功,降永平衛指揮使。尋復官。十二年論藍玉等征西功,當封。帝念成舊勛,先封為安慶侯,歲祿二千石。二十年充征南副將軍,討平容美諸峒。復從大軍征雲南,功多,予世券,加祿五百石。二十一年七月,有疾。賜內〓昷,手詔存問。卒,贈皖國公,諡庄襄。子正襲爵。

張龍

原文張龍

張龍は濠州の人である。渡江に従い、常州・寧国・婺州を平定し、いずれも功績があった。江州征討に従い、都先鋒となった。武昌を平定し、花槍所千戸を授けられた。淮東平定に従い、海安を守御した。張士誠の将と海口で戦い、彭元帥を生け捕りにし、その兵卒数百を捕虜とした。通州に進攻し、賊将を撃ち斬った。威武衛指揮僉事に抜擢された。山東・河南平定に従った。大軍が潼関を陥落させると、張龍を副留守とした。洪武三年に鳳翔守備に転じ、鳳翔衛指揮に改めた。賀宗哲が全軍で城を包囲したが、張龍は堅く守った。宗哲が北門を攻撃すると、張龍は兵を出して戦い、矢が右脇を傷つけたが動じなかった。ついにこれを大破した。進軍して鳳州を陥落させ、李参政ら二十余人を生け捕りにした。大将軍徐達が沔州に入ると、張龍を別に一軍を率いさせ、鳳翔から連雲棧に入り、興元を攻撃して、その守将劉思忠を降伏させた。蜀の将呉友仁が来犯したが、張龍はこれを撃退した。友仁が再び全軍を率いて城に迫り、大いに攻城具を整えた。張龍は北門から突出し、友仁軍の背後を回り、敵はことごとく甲冑兵器を捨てて逃げ、これ以後再び興元を窺うことはなかった。大都督府僉事に召された。十一年、李文忠に副って西番の洮州を征討した。功績により、鳳翔侯に封ぜられ、禄二千石、世襲指揮使となった。さらに傅友徳に従って雲南を征討し、七星関を鎮守し、大理・鶴慶を陥落させ、諸洞の蛮を平定した。禄五百石を加増され、世券を三十年賜った。二十年、馮勝に従って金山に出撃し、ナハチュ(納哈出)を降伏させた。翌年、勝が降伏軍を調発して雲南を征討し、常徳に駐屯したとき、彼らが反乱して逃走した。張龍は重慶まで追撃し、これを捕らえた。二十三年春、延安侯唐勝宗とともに平越・鎮遠・貴州で屯田を監督し、龍里衛の設置を議した。都勻で乱が起こると、藍玉を補佐してこれを討平した。老病を理由に休暇を請うた。三十年に卒去した。

原文張龍,濠人。從渡江,定常州、寧國、婺州,皆有功。從征江州,為都先鋒。平武昌,授花槍所千戶。從平淮東,守御海安。與張士誠將戰於海口,擒彭元帥,俘其卒數百。進攻通州,擊斬賊將。擢威武衛指揮僉事。從平山東、河南。大兵克潼關,以龍為副留守。洪武三年調守鳳翔,改鳳翔衛指揮。賀宗哲悉眾圍城,龍固守。宗哲攻北門,龍出兵搏戰,矢傷右脅,不為動。遂大敗之。進克鳳州,擒李參政等二十餘人。大將軍達入沔州,遣龍別將一軍,由鳳翔入連雲棧,攻興元,降其守將劉思忠。蜀將吳友仁來犯,龍擊卻之。友仁復悉兵薄城,大治攻具。龍從北門突出,繞友仁軍後,敵盡棄甲仗走,自是不復窺興元。召僉大都督府事。十一年副李文忠征西番洮州。論功,封鳳翔侯,祿二千石,世指揮使。復從傅友德征雲南,鎮七星關,破大理、鶴慶,平諸洞蠻。加祿五百石,予世券三十年。二十年從馮勝出金山,降納哈出。明年,勝調降軍征雲南,次常德,叛去。龍追至重慶,收捕之。二十三年春同延安侯唐勝宗督屯田於平越、鎮遠、貴州,議置龍里衛。都勻亂,佐藍玉討平之。以老疾請告。三十年卒。

子の麟は福清公主を娶り、駙馬都尉を授けられた。孫の傑は公主に侍して京師にいた。永楽初年、侯爵を失った。傑の子が継承を求めたが、宣徳十年、詔の恩典を援用して継承を乞うた。吏部が言うには、張龍の侯爵は四十年継承されていない、と。許されなかった。

原文子麟尚福清公主,授駙馬都尉。孫傑侍公主京師。永樂初,失侯。傑子嗣,宣德十年,援詔恩乞嗣。吏部言:龍侯不嗣者四十年,不許。

呉復

原文吳復

呉復は字を伯起といい、合肥の人である。若くして勇略を有していた。元末、衆を集めて郷里を守った。濠で太祖に帰順し、泗・滁・和・採石・太平の攻略に従い、累進して万戸となった。蛮子海牙の水寨を破り、集慶を平定することに従った。徐達に従って鎮江を攻撃し、元の平章定定を斬った。丹陽・金壇を落とし、常州を陥落させ、統軍元帥に進んだ。江陰・無錫を巡行し、常州を守備した。張士誠の兵が急襲してきたが、力戦してこれを破った。長興まで追撃し、高橋・太湖及び忠節門で連敗させ、士誠は意気を喪失した。安豊救援に従い、武昌を平定した。徐達に従って廬州を陥落させ、漢・沔・荊の諸郡県を平定した。鎮武衛指揮同知を授けられ、沔陽を守った。常遇春に従って襄陽を落とし、別将として安陸を破り、元の同僉任亮を生け捕りにし、これを守った。汝州・魯山を陥落させた。

原文吳復,字伯起,合肥人。少負勇略。元末,集眾保鄉里。歸太祖於濠,從克泗、滁、和、採石、太平,累官萬戶。從破蠻子海牙水寨,定集慶。從徐達攻鎮江,斬元平章定定。下丹陽、金壇,克常州,進統軍元帥。徇江陰、無錫,還守常州。張士誠兵奄至,力戰,敗之。追奔至長興,連敗之於高橋、太湖及忠節門,士誠奪氣。從援安豐,平武昌。從徐達克廬州,下漢、沔、荊諸郡縣。授鎮武衛指揮同知,守沔陽。從常遇春下襄陽,別將破安陸,擒元同僉任亮,遂守之。克汝州、魯山。

洪武元年、懐遠将軍・安陸衛指揮使を授けられた。鄖・均・房・竹の諸山寨で服従しなかった者をことごとく平定した。三年、大将軍に従って陝西を征討し、ココ・テムル(拡廓)を破り、その将を生け捕りにした。また秦州でココ・テムルを破った。吐番を征討し、河州を陥落させた。漢中を救援し、南鄭を奪取した。翌年、傅友徳に従って蜀を平定した。さらに翌年、鄧愈に従って九溪・辰州の諸蛮を平定し、四十八洞を陥落させ、安陸守備に戻った。七年、大都督府僉事に進んだ。北平を巡察して戻り、世襲指揮使を授けられた。十一年、沐英に従って再び西番を征討し、三副使を生け捕りにし、納隣哈七站の地を得た。翌年、軍が帰還し、功績により安陸侯に封ぜられ、食禄二千石となった。

原文洪武元年,授懷遠將軍、安陸衛指揮使。悉平鄖、均、房、竹諸山寨之不附者。三年從大將軍征陝西,敗擴廓,擒其將。又敗擴郭於秦州。征吐番,克河州。援漢中,拔南鄭。明年從傅友德平蜀。又明年從鄧愈平九溪、辰州諸蠻,克四十八洞,還守安陸。七年進大都督府僉事。巡北平還,授世襲指揮使。十一年從沐英再征西番,擒三副使,得納鄰哈七站之地。明年,師還,論功封安陸侯,食祿二千石。

十四年、傅友徳に従って雲南を征討し、普定を陥落させ、水西に城を築いた。総兵官として、諸蛮を剿捕した。ついに関索嶺から箐道を開き、広西を攻略した。十六年、墨定苗を陥落させ、吉剌堡に至り、安庄・新城を築き、七百房諸寨を平定し、斬獲は万を数え、糧秣を盤江に輸送した。この年十月、金瘡が発し、普定で卒去した。黔国公を追封され、諡は威毅、禄五百石を加増され、世券を賜った。

原文十四年,從傅友德征雲南,克普定,城水西。充總兵官,剿捕諸蠻。遂由關索嶺開箐道,取廣西。十六年克墨定苗,至吉剌堡,築安庄、新城,平七百房諸寨,斬獲萬計,轉餉盤江。是年十月,金瘡發,卒於普定。追封黔國公,諡威毅,加祿五百石,予世券。

呉復は戦陣に臨んで奮発し、矢石を冒して進み、体に完膚なきほどであった。平素は恭順で、征伐の事を口にしなかった。普定で妾の楊氏を買った。年十七であった。呉復が死ぬと、彼女は殮(納棺)が終わるのを見届け、沐浴して衣を更え、自ら縊死した。貞烈淑人に封ぜられた。

原文復臨陣奮發,沖犯矢石,體無完膚。平居恂恂,口不言征伐事。在普定買妾楊氏,年十七。復死,視殮畢,沐浴更衣,自經死。封貞烈淑人。

子の傑が継承した。たびたび山・陝・河南・北平に出向き、練兵して征討に従った。二十八年、罪があり、龍州征討に従軍し、功を立てて自ら贖罪した。建文中、軍を率いて真定を救援し、白溝河で戦ったが、軍律を失い、南寧衛指揮使に左遷された。永楽元年、子の璟が継承を乞うた。正統年間、再三乞うたが、いずれも許されなかった。弘治六年、璟の孫の鐸が詔を援用して継承を乞うたが、これも許されなかった。十八年、呉復の子孫に世職の千戸を記録した。

原文子傑嗣。屢出山、陝、河南、北平,練兵從征。二十八年,有罪,從征龍州,建功自贖。建文中,帥師援真定,戰白溝河,失律,謫南寧衛指揮使。永樂元年,子璟乞嗣。正統間,再三乞,皆不許。弘治六年,璟孫鐸援詔乞嗣,亦不許。十八年錄復子孫世職千戶。

附 周武

原文附 周武

初め、呉復とともに西番征討の功で侯となった者に、また周武がいた。周武は開州の人で、江東平定に従い、漢を滅ぼし、淮東を収め、呉を平定し、功績を積んで指揮僉事となった。中原平定に従い、都督僉事に進んだ。洪武十一年、参将として沐英に従って西番のドカン(朶甘)を討ち、功績が多かった。軍が帰還し、雄武侯に封ぜられ、禄二千石、世襲指揮使となった。出て河南の軍務を処理し、北辺を巡撫した。二十三年に卒去し、汝国公を追贈され、諡は勇襄。

原文初,與復以征西番功侯者,又有周武。武,開州人,從定江東,滅漢,收淮東,平吳,積功為指揮僉事。從定中原,進都督僉事。洪武十一年以參將從沐英討西番朵甘,功多。師還,封雄武侯,祿二千石,世指揮使。出理河南軍務,巡撫北邊。二十三年卒,贈汝國公,諡勇襄。

胡海

原文胡海

胡海は字を海洋といい、定遠の人である。かつて土豪の赤塘王総管の営に入ったが、自ら脱出して帰順し、百戸を授けられた。元の将賈魯の兵を破り、泗・滁を陥落させることに従い、万戸に進んだ。渡江に従い、蛮子海牙の水寨を奪取し、陳埜先の兵を破り、集慶・鎮江攻略に従った。寧国で元の将謝国璽を破り、先鋒に選抜された。大軍に従って湖州を包囲し、その東南門の月城を陥落させた。宜興攻撃に従い、婺州を落とし、紹興で激戦し、賊四百余人を生け捕りにし、都先鋒に進んだ。また龍江の戦いに従い、安慶を陥落させ、漢人(陳友諒軍)と対峙し、八度戦ってすべて大勝し、ついに江州に入った。徐達に従って廬州を攻撃し、いずれも功績があった。

原文胡海,字海洋,定遠人。嘗入土豪赤塘王總管營,自拔來歸,授百戶。從敗元將賈魯兵,克泗、滁,進萬戶。從渡江,拔蠻子海牙水寨,破陳埜先兵,從取集慶、鎮江。敗元將謝國璽於寧國,選充先鋒。從大軍圍湖州,墮其東南門月城。從攻宜興,下婺州,鏖戰紹興,生得賊四百餘人,進都先鋒。又從戰龍江,克安慶,與漢人相持,八戰,皆大捷,遂入江州。從徐達攻廬州,皆有功。

胡海は驍勇で、たびたび戦い、たびたび負傷し、手足胸腹の間に金瘡が遍くあったが、戦うことますます力があった。士卒で彼に従う者は、みな奮い立って自ら尽力した。太祖はこれを壮とし、花槍上千戸を授けた。さらに大軍に従って荊・澧・衡・潭を陥落させ、宝慶衛指揮僉事に抜擢され、指揮使に遷り、益陽鎮守を命じられた。平章楊璟に従って湖南・広西の未だ下らぬ郡県を征討した。祁陽から進んで永州を包囲し、守兵と東郷橋で戦い、千戸・万戸四人を生け捕りにし、夜半に先登してこれを陥落させた。靖江に到着し、南門で戦い、万戸二人を生け捕りにした。夜四更、北門の八角亭から先登し、功績最も大であり、左副総兵を命じられた。左江上思蛮を剿平した。蜀征討に転じ、龍伏隘・天門山及び温湯関を陥落させ、世襲指揮使を賜り、引き続き益陽を鎮守した。武岡・靖州・五開の諸苗蛮が相次いで乱を起こしたが、ことごとく首謀者を捕らえて誅し、その余衆を撫慰し、都督僉事に遷った。十四年、雲南征討に従い、永寧から烏撒に向かい、進んで可渡河を陥落させた。副将軍沐英と会師して大理を攻撃した。敵は全軍で上関・下関を扼していた。定遠侯王弼が洱水の東から上関に向かい、沐英が大軍を率いて下関に向かい、胡海を夜四更に石門を奪取させた。間道から河を渡り、点蒼山の背後を回り、大樹を攀じ登り崖をよじ登って上り、旗幟を立てた。沐英の士卒がこれを見ると、みな躍り上がって大呼し、敵衆は驚き乱れた。沐英はついに関を斬って進入した。胡海もまた山上の軍を指揮して馳せ下り、前後から挟撃し、敵はことごとく潰走した。

原文海驍勇,屢戰屢傷,手足胸腹間金痍皆遍,而斗益力。士卒從之者無不激勵自效。太祖壯之,授花槍上千戶。復從大軍克荊、澧、衡、潭,擢寶慶衛指揮僉事,遷指揮使,命鎮益陽。從平章楊璟征湖南、廣西未下郡縣。由祁陽進圍永州,與守兵戰於東鄉橋,生得千、萬戶四人,以夜半先登拔之。抵靖江,戰南門,生得萬戶二人。夜四鼓,自北門八角亭先登,功最,命為左副總兵。剿平左江上思蠻。調征蜀,克龍伏隘、天門山及溫湯關,予世襲指揮使,仍鎮益陽。武岡、靖州、五開諸苗蠻先後作亂,悉捕誅首亂而撫其餘眾,遷都督僉事。十四年從征雲南,由永寧趨烏撒,進克可渡河。與副將軍沐英會師攻大理,敵悉眾扼上、下關。定遠侯王弼自洱水東趨上關,英帥大軍趨下關,而遣海以夜四鼓取石門。間道渡河,繞點蒼山後,攀大樹緣崖而上,立旂幟。英士卒望見,皆踴躍大呼,敵眾驚擾。英遂斬關入。海亦麾山上軍馳下,前後夾攻,敵悉潰走。

十七年、功を論じて東川侯に封ぜられ、禄二千五百石を賜り、世券を授けられる。三年を経て、左参将として金山征討に従軍す。また二年を経て、征南将軍として澧州九溪の諸蛮寇を討ち平らぐ。軍の帰還に際し、郷里への帰還を請う。厚く金帛を賜りて行かしむ。二十四年七月、疽を病みて卒す。年六十三。

原文十七年,論功封東川侯,祿二千五百石,予世券。逾三年,以左參將從征金山。又二年,以征南將軍討平澧州九溪諸蠻寇。師還,乞歸鄉里,厚賚金帛以行。二十四年七月,病疽卒,年六十三。

長子斌は、龍虎衛指揮使となり、雲南征討に従う。曲靖を過ぎる時、突然寇に遇い、飛矢に中りて卒す。都督同知を追贈される。次子玉は、藍党に連坐して死す。次子観は、南康公主に尚し、駙馬都尉となるが、嗣がずして卒す。宣徳年中、公主が子の忠に嗣がせることを請う。詔して孝陵衛指揮僉事を授け、世襲を許す。

原文長子斌,龍虎衛指揮使,從征雲南。過曲靖,猝遇寇,中飛矢卒。贈都督同知。次玉,坐藍黨死。次觀,尚南康公主,為駙馬都尉,未嗣卒。宣德中,公主乞以子忠嗣。詔授孝陵衛指揮僉事,予世襲。

張赫

原文張赫

張赫は臨淮の人なり。江淮大乱の時、義兵を団結して郷里を防衛す。嘉山の繆把頭が招くも、応ぜず。太祖の挙兵を聞き、衆を率いて来附す。千戸を授かり、功により万戸に進む。渡江に従い、攻伐の地に至れば必ず参与し、功により常春翼元帥に抜擢され、常州を守御す。まもなく鄱陽の戦いに従い、武昌を攻む。既にして、また大将軍に従い張士誠を伐ち、平江を囲む。諸将は門を分かちて軍し、赫は閶門に軍す。士誠は屡々兵を出して突撃戦を挑むも、屡々その鋒を挫かれる。また大軍に従い慶元を克ち、併せて温州・台州を下す。洪武元年、福州衛都指揮副使に抜擢され、本衛同知に進む。さらに命を覆して都指揮使司事を署理す。この時、倭寇が海島に出没し、隙に乗じて頻りに岸に迫り掠奪す。沿海の居民はこれを患い苦しむ。帝は数度使を遣わし詔書を齎して日本国王を諭し、また数度日本貢使を絶つも、然れども終に倭人の要領を得ず。赫は海上に久しく在り、捕らえた倭は数え切れず。最後に寇を追って琉球大洋に至り、戦い、その魁十八人を擒え、数十級を斬首し、倭船十余艘を獲、弓刀器械を収むること算なし。帝は赫の功を偉とし、命じて都指揮の印を掌らしむ。まもなく興化衛に転ず。召還されて大都督府僉事に抜擢さる。時に遼東の漕運艱難に会し、軍糧の輸送が期に後れ、帝は深くこれを憂慮す。赫が海道に習熟するをもって、命じて海運事を督せしむ。久しくして、航海侯に封ぜられ、世券を授かる。前後十二年遼東に往来し、凡そ十運を督し、労苦極めて備わり、軍中これによりて欠乏無し。病にて卒す。恩国公を追封され、諡して庄簡と曰う。

原文張赫,臨淮人。江淮大亂,團義兵以捍鄉里。嘉山繆把頭招之,不往。聞太祖起,帥眾來附。授千戶,以功進萬戶。從渡江,所至攻伐皆預,以功擢常春翼元帥,守御常州。尋從戰鄱陽,攻武昌。已,又從大將軍伐張士誠,進圍平江。諸將分門而軍,赫軍閶門。士誠屢出兵突戰,屢挫其鋒。又從大軍克慶元,並下溫、台。洪武元年,擢福州衛都指揮副使,進本衛同知。覆命署都指揮使司事。是時,倭寇出沒海島中,乘間輒傅岸剽掠,沿海居民患苦之。帝數遣使齎詔書諭日本國王,又數絕日本貢使,然竟不得倭人要領。赫在海上久,所捕倭不可勝計。最後追寇至琉球大洋,與戰,擒其魁十八人,斬首數十級,獲倭船十餘艘,收弓刀器械無算。帝偉赫功,命掌都指揮印。尋調興化衛。召還,擢大都督府僉事。會遼東漕運艱,軍食後期,帝深以為慮。以赫習海道,命督海運事。久之,封航海侯,予世券。前後往來遼東十二年,凡督十運,勞勩備至,軍中賴以無乏。病卒,追封恩國公,諡庄簡。

子の栄は、雲南征討に従い功有り、水軍右衛指揮使となる。孫の釒盬は、福建都指揮使なり。永楽年中、交阯に留鎮す。

原文子榮,從征雲南有功,為水軍右衛指揮使。孫釒盬,福建都指揮使。永樂中,留鎮交阯。

華高

原文華高

華高は和州の人なり。俞通海等と共に巢湖水師を率いて来附す。太平を克つに従い、総管を授かる。採石・方山の兵を破るに従う。集慶・鎮江を下し、秦淮翼元帥に遷る。鄧愈と共に広徳を徇う。守将が城下に厳兵す。高は数騎を以て挑戦す。元兵は堅壁して動かず。高は衝撃して大いにこれを破り、遂にその城を取る。兵一万人、糧数千斛こくを得る。常州平定に従い、僉行枢密院事に進む。俞通海を副え趙普勝の柵江営を撃破す。再び陳友諒を敗る。長興を援け、武昌を克つ。湖広行省左丞を授かる。舟師を帥いて淮東を克つに従い、浙西を収む。行省平章政事に進む。洪武三年、広徳侯に封ぜられ、歳禄六百石。

原文華高,和州人。與俞通海等以巢湖水師來附。從克太平,授總管。從破採石、方山兵。下集慶、鎮江,遷秦淮翼元帥。與鄧愈徇廣德。守將嚴兵城下,高以數騎挑戰,元兵堅壁不動。高衝擊大破之,遂取其城,得兵萬人,糧數千斛。從平常州,進僉行樞密院事。副俞通海擊破趙普勝柵江營。再敗陳友諒。援長興,克武昌。授湖廣行省左丞。帥舟師從克淮東,收浙西。進行省平章政事。洪武三年封廣德侯,歲祿六百石。

高は性怯懦にして、且つ子無し。宿衛を得ることを請う。征討有る時は、輒ち疾を称して行かず。水師を練ることを命ぜられ、また不習を以て辞す。帝は故旧としてこれを優容す。時に諸勛臣多く辺境に出づるも、惟だ高は遣わされず。最後に広東辺海の城堡を繕うに当たり、高は行くことを請う。帝曰く「卿復た自ら力を尽くすは、甚だ善し」と。四年四月、事竣る。瓊州に至り卒す。初め、高が利を殖やすとの言有り、故に歳禄独り薄し。ここに至り貧しくして葬ること能わず。帝これを憐れみ、命じて禄三百石を補支せしむ。子無きを以て、誥券を墓中に納む。巢国公を追贈され、諡して武庄と曰う。従子の岳に指揮僉事を授く。

原文高性怯,且無子,請得宿衛。有所征討,輒稱疾不行。令練水師,復以不習辭。帝以故舊優容之。時諸勛臣多出行邊,惟高不遣。最後繕廣東邊海城堡,高請行。帝曰:「卿復自力,甚善。」四年四月事竣。至瓊州卒。初,有言高殖利者,故歲祿獨薄。至是貧不能葬。帝憐之,命補支祿三百石。以無子,納誥券墓中。贈巢國公,諡武庄。授從子岳指揮僉事。

張銓

原文張銓

張銓は定遠の人なり。太平を取るに従い、集慶・鎮江・常州・婺州を定む。江州を搗ち、鄱陽湖に戦い、鄂渚を取る。淮東を収め、呉を平らぐ。功を累ねて指揮僉事となる。中原・燕・晋・秦・蜀を取るに従い、都督僉事に進む。斉王府を建つる使となり、事竣りて、江夏侯周徳興に副え五渓蛮を征す。既にして水尽源・通塔平・散毛諸洞の酋長乱を為す。復た徳興に副えてこれを討ち平らぐ。雲南征討に従い、永寧より烏撒を克つ。久しくして、復た傅友徳に従い烏撒及び曲靖・普定・龍海・孟定の諸蛮を平らぐ。洪武二十三年、永定侯に封ぜられ、禄千五百石を食み、世襲指揮使を賜る。

原文張銓,定遠人。從取太平,定集慶、鎮江、常州、婺州。搗江州,戰鄱陽湖,取鄂渚。收淮東,平吳。累功為指揮僉事。從取中原、燕、晉、秦、蜀,進都督僉事。使建齊王府,事竣,副江夏侯周德興征五溪蠻。已而水盡源、通塔平、散毛諸洞酋作亂,復副德興討平之。從征雲南,由永寧克烏撒。久之,復從傅友德平烏撒及曲靖、普定、龍海、孟定諸蠻。洪武二十三年封永定侯,食祿千五百石,世指揮使。

何真

原文何真

何真は字を邦佐と曰い、東莞の人なり。少にして英偉、書剣を好む。元至正初め、河源県務副使となり、淡水場管勾に転じ、官を棄てて帰る。元末盗賊起こる。真は衆を聚めて郷里を保つ。十四年、県人王成・陳仲玉乱を為す。真は元帥府に赴き告ぐ。帥は賄を受け、反って真を捕えんとす。坭岡に逃れて居り、兵を挙げて成を攻むるも克たず。久しくして、惠州人王仲剛が叛将黄常と共に惠州を据う。真は常を撃ち走らせ、仲剛を殺す。功により恵陽路同知・広東都元帥を授かり、惠州を守る。海寇邵宗愚が広州を陥とす。真は兵を以てこれを破り走らせ、その城を復す。広東分省参政に抜擢され、まもなく右丞に進む。贛州の熊天瑞が舟師数万を引き、真を図らんと欲す。真は胥江にこれを迎え撃つ。天大雨雷し、天瑞の舟檣を折り、これを撃ち走らす。広人はこれによりて完うす。先に真は再び成を攻め、仲玉を誅するも成は卒く固守す。二十六年、復た成を囲み、成を擒える者を募り、鈔十千を与えんとす。成の奴隷が成を縛りて出ず。真はこれに鈔を与え、湯鑊を具えしめ、奴隷を烹らんと趨らせ、衆に号して曰く「主に叛く奴はこれを見よ」と。沿海の叛く者皆降る。時に中原大乱し、嶺表隔絶す。真に尉佗の故事に效えんと勧むる者有るも、聴かず。屡々使を遣わし海道より朝に方物を貢ぐ。累進して資徳大夫・行省左丞となる。

原文何真,字邦佐,東莞人。少英偉,好書劍。元至正初,為河源縣務副使,轉淡水場管勾,棄官歸。元末盜起,真聚眾保鄉里。十四年,縣人王成、陳仲玉作亂,真赴告元帥府。帥受賂,反捕真。逃居坭岡,舉兵攻成,不克。久之,惠州人王仲剛與叛將黃常據惠。真擊走常,殺仲剛。以功授惠陽路同知、廣東都元帥,守惠州。海寇邵宗愚陷廣州。真以兵破走之,復其城。擢廣東分省參政,尋擢右丞。贛州熊天瑞引舟師數萬,欲圖真,真迎之胥江。天大雷雨,折天瑞舟檣,擊走之。廣人賴以完。先是真再攻成,誅仲玉而成卒固守。二十六年復圍成,募擒成者,予鈔十千。成奴縛成以出。真予之鈔,命具湯鑊,趨烹奴,號於眾曰:「奴叛主者視此!」緣海叛者皆降。時中原大亂,嶺表隔絕,有勸真效尉佗故事者,不聽。屢遣使由海道貢方物於朝。累進資德大夫、行省左丞。

洪武元年、太祖は廖永忠を征南将軍に命じ、舟師を帥いて広東を取らしむ。永忠は福州に至り、書を以て真を諭す。遂に航海して潮州に趨る。師既に至る。真は都事劉克佐を遣わし軍門に詣り印章を上け、所属の郡県の戸口・兵糧を籍し、表を奉じて降る。永忠は朝に聞す。詔を賜りて真を褒めて曰く「朕惟うに古の豪傑は、境を保ち民を安んじ、以て有徳を待つ。竇融・李勣の属は、兵を擁し険に据え、群雄の間に角立し、真主に非ざれば屈せず。これ漢・唐の名臣、今に未だ見ず。爾真は数郡の衆を連ね、乃ち一兵をも煩わさず、境を保ち来帰す。竇・李と奚ぞ譲らん」と。永忠は東莞に抵る。真は官属を帥いて迎え労い、遂に詔を奉じて入朝す。江西行省参知政事に抜擢され、且つこれを諭して曰く「天下分争す。所謂豪傑に三有り。乱を易えて治と為す者は上なり。民を保ち変に達し、帰すべき所を知る者は次なり。固に負い安きを偸み、身死して悔いざるは、これその下なり。卿誠を輸し土を納れ、顔行に逆らわず。時務を識る者と謂うべし」と。真は頓首して謝す。官に在りて頗る声望著しく、殊に儒術を喜び、書を読み文を綴る。既にして山東参政に転ず。四年、命じて広東に還り旧卒を收集せしむ。事竣りて、仍って山東に蒞る。九年、致仕す。

原文洪武元年,太祖命廖永忠為征南將軍,帥舟師取廣東。永忠至福州,以書諭真,遂航海趨潮州。師既至,真遣都事劉克佐詣軍門上印章,籍所部郡縣戶口兵糧,奉表以降。永忠聞於朝,賜詔褒真曰:「朕惟古之豪傑,保境安民,以待有德。若竇融、李勣之屬,擁兵據險,角立群雄間,非真主不屈。此漢、唐名臣,於今未見。爾真連數郡之眾,乃不煩一兵,保境來歸,雖竇、李奚讓焉。」永忠抵東莞,真帥官屬迎勞,遂奉詔入朝。擢江西行省參知政事,且諭之曰:「天下分爭,所謂豪傑有三:易亂為治者,上也;保民達變,知所歸者,次也;負固偷安,身死不悔,斯其下矣。卿輸誠納土,不逆顏行,可謂識時務者。」真頓首謝。在官頗著聲望,尤喜儒術,讀書綴文。已,轉山東參政。四年命還廣東,收集舊卒。事竣,仍蒞山東。九年致仕。

大軍が雲南を征討するに当たり、真に命じてその子の兵馬指揮の貴と共に従軍させた。軍糧の計画を立て、駅伝を設置した。山西右布政使に転じた。再び貴と共に広東で軍籍の調査を行い、貴を鎮南衛指揮僉事に抜擢した。まもなく真を浙江布政使に任じ、湖広に改めた。二十年、再び致仕し、東莞伯に封ぜられ、禄一千五百石を賜り、世券を授けられた。死去した。

原文大軍征雲南,命真偕其子兵馬指揮貴往。規畫軍餉,置郵驛。遷山西右布政使。再與貴勾軍廣東,擢貴鎮南衛指揮僉事。尋命真為浙江布政使,改湖廣。二十年復致仕,封東莞伯,祿一千五百石,予世券。卒。

子の栄が嗣いだ。弟の貴および尚宝司丞の宏と共に藍玉の党に連座して死罪となった。真の弟の迪は禍が己に及ぶことを疑い、遂に乱を起こした。南海の官軍三百余人を撃殺し、海島に逃げ込んだ。広東都司が兵を発して討ち捕らえ、誅殺された。

原文子榮嗣。與弟貴及尚寶司丞宏皆坐藍黨死。真弟迪疑禍及己,遂作亂。擊殺南海官軍三百餘人,遁入海島。廣東都司發兵討擒之,伏誅。

賛に曰く、陳友諒が太平を攻略した時、その鋒は甚だ鋭く、茂才がなければ金陵の安危は未だ知るべからざるものであった。呉良は江陰を守り、耿炳文は長興を守って、呉人にその志を恣にさせなかった。創業の基盤は、彼らの力が多かったのである。華雲龍・張赫・呉復・胡海の類に至っては、或いは威は辺疆に著しく、或いは功は海運に存し、旗を搴ぎ陣を陥とし、向かう所皆摧けた。前代の功臣に比べても、何ら遜色があろうか。しかもまた皆よく禄位を保守し、恩礼をもって終わりを全うした。これは特に嘉美すべきものであろう。

原文贊曰:陳友諒之克太平也,其鋒甚銳,微茂才則金陵之安危未可知矣。吳良守江陰,耿炳文守長興,而吳人不得肆其志。締造之基,其力為多。至若華雲龍、張赫、吳復、胡海之屬,或威著邊疆,或功存海運,搴旗陷陣,所向皆摧。揆之前代功臣,何多讓焉。而又皆能保守祿位,以恩禮令終,斯其尤足嘉美者歟!