李文忠
苗帥楊完者、苗・僚数万を以て水陸より奄至す。文忠軽兵を将いて其の陸軍を破り、取る所の馘首を巨筏の上に浮かぶ。水軍之を見て亦遁す。完者復来り犯す、鄧愈と共に之を撃ち却く。浦江を進みて克ち、焚掠を禁じ、恩信を示す。義門鄭氏兵を避けて山谷にあり、之を招き還し、兵を以て之を護る。民大いに悦ぶ。完者死し、其の部将降を乞う、之を撫し、三万余人を得。
胡大海と諸暨を抜く。張士誠厳州を寇す、之を東門に禦ぎ、別将をして小北門より出で、間道より其の後を襲わしめ、夾撃して大いに之を破る。一月を逾ぎ、復来り攻む、又之を大浪灘に破り、勝に乗じて分水を克つ。士誠将を遣わして三渓を拠らしむ、復た之を撃ち敗り、陸元帥を斬り、其の壘を焚く。士誠是より厳州を窺うことを敢えず。同僉行枢密院事に進む。
胡大海漢将李明道・王漢二を得、文忠の所に送る、釈して之を礼し、建昌守将王溥を招かしむ。溥降る。苗将蔣英・劉震大海を殺し、金華を以て叛く。文忠将を遣わして之を撃ち走らしめ、親しく其の衆を撫定す。処州の苗軍亦耿再成を殺して叛く。文忠将を遣わして縉雲に屯し以て之を図らしむ。浙東行省左丞を拝し、厳・衢・信・処・諸全の軍事を総制す。
呉兵十万方に諸全を急攻し、守将謝再興急を告ぐ、同僉胡徳済を遣わして往き援わしむ。再興復た兵を益すを請う、文忠兵少くして応ずる無し。会に太祖邵栄をして処州の乱卒を討たしむ、文忠乃ち徐右丞・邵平章将に大軍刻日して進まんとすと揚言す。呉軍之を聞き懼れ、夜に遁れんと謀る。徳済と再興死士を帥い夜半門を開き突撃し、大いに之を破り、諸全遂に完し。
明年、再興叛きて呉に降り、呉軍を以て東陽を犯す。文忠胡深と義烏に迎え戦い、千騎を将いて横に其の陣を突き、大いに之を敗る。已にして、深の策を用い諸全より五十里を去り別に一城を築き、以て相掎角せしむ。士誠司徒李伯升を遣わして十六万の衆を以て来り攻む、克たず。年を逾ぎ、復た二十万の衆を以て新城を攻む。文忠硃亮祖等を帥いて馳せ救い、新城を去ること十里にして軍す。徳済人をして賊勢盛んなりと告げしめ、宜しく少しく駐まりて大軍を俟うべしとす。文忠曰く「兵は謀に在りて衆に在らず」。乃ち令を下して曰く「彼は衆にして驕り、我は少にして鋭し、鋭を以て驕に遇えば、必ず之を克たん。彼の軍の輜重山の如く積む、此れ天の汝曹を富ます所なり。勉めよ」。会に白気東北より来たり軍上を覆う、之を占いて曰く「必ず勝つ」。詰朝会戦す、天大いに霧り晦冥す、文忠諸将を集め天を仰ぎ誓いて曰く「国家の事此の一挙に在り、文忠死を愛しみて以て三軍に後るることを敢えず」。乃ち元帥徐大興・湯克明等をして左軍を将い、厳徳・王徳等をして右軍を将わしめ、而して自ら中軍を以て敵の沖に当たらしむ。会に処州の援兵亦至り、奮いて前進し搏撃す。霧稍く開く、文忠槊を横たえ鉄騎数十を引き、高きに乗じて馳せ下り、其の中堅を沖く。敵精騎を以て文忠を数重に囲む。文忠手ずから格殺すること甚だ衆く、騎を縦して馳突し、向う所皆披靡す。大軍之に乗じ、城中の兵亦鼓噪して出で、敵遂に大潰す。北に逐うこと数十里、首級数万を斬り、渓水尽く赤し、将校六百、甲士三千を獲、鎧仗芻粟収むること数日にして尽きず、伯升僅かに身を以て免る。捷聞け、太祖大いに喜び、帰るを召し、宴労すること弥日、御衣名馬を賜い、還り鎮せしむ。
明年秋、大軍呉を伐つ、杭州を攻めしめて以て之を牽制せしむ。文忠亮祖等を帥いて桐廬・新城・富陽を克ち、遂に余杭を攻む。守将謝五、再興の弟なり、之を諭して降らしめ、死せざるを許す。五再興の子五人と出で降る。諸将之を僇すを請う、文忠不可とす。遂に杭州に趨る、守将潘元明亦降り、軍を整えて入る。元明女楽を以て迎う、麾して之を去らしむ。麗譙に営し、令を下して曰く「擅に民居に入る者は死す」。一卒民の釜を借る、斬り以て徇す、城中帖然たり。兵三万、糧二十万を得。就いて栄禄大夫・浙江行省平章事を加え、復た李氏に姓す。大軍閩を征し、文忠別に軍を引き浦城に屯し以て之を逼る。師還る、余寇金子隆等衆を聚めて剽掠す、文忠復た之を討ち擒にし、遂に建・延・汀の三州を定む。軍中に命じて道上の棄児を収養せしめ、全活する所算に勝えず。
明年征虜左副将軍を拝す。大將軍と分道して北征し、十万人を以て野狐嶺より出で、興和に至り、其の守将を降す。進みて兵を察罕脳児にし、平章竹真を擒にす。次ぎて駱駝山、平章沙不丁を走らす。次ぎて開平、平章上都罕等を降す。時に元帝已に崩じ、太子愛猷識理達臘新たに立つ。文忠諜いて之を知り、兼程して応昌に趨る。元の嗣君北走し、其の嫡子買的立八剌及び後妃宮人諸王将相官属数百人、並びに宋・元の玉璽金宝十五、玉冊二、鎮圭・大圭・玉帯・玉斧各一を獲る。精騎を出だし窮追して北慶州に至りて還る。道すがら興州、国公江文清等を擒にし、三万七千人を降す。紅羅山に至り、又楊思祖の衆万六千余人を降す。捷を京師に献じ、帝奉天門に御して朝賀を受く。功臣を大封し、文忠の功最も、開国輔運推誠宣力武臣を授け、特進栄禄大夫・右柱国・大都督府左都督を加え、曹国公に封じ、軍国事を同知し、禄三千石を食し、世券を予う。
四年の秋、傅友德らが蜀を平定すると、文忠を派遣してこれを慰撫せしめた。成都の新城を築き、諸郡の要害に軍を発して守らせ、乃ち還った。翌年、再び左副将軍として東道より北征し、居庸を出て、和林に向かい、口温に至ると、元人は遁走した。臚朐河に進み、部将の韓政らに輜重を守らせ、自らは大軍を率い、兵士一人につき二十日分の糧食を持たせ、疾駆して土剌河に至った。元の太師蛮子哈剌章が衆を悉く渡河させ、騎兵を列ねて待ち受けた。文忠は軍を率いてこれに迫ると、敵は少し退いた。阿魯渾河に至ると、敵はますます多く来襲した。文忠の馬が流れ矢に当たり、下馬して短兵で戦った。指揮の李栄が自らの乗馬を文忠に与え、自らは敵の馬を奪って乗った。文忠は馬を得て、ますます死に物狂いで戦い、遂に敵を破り、捕虜や鹵獲は万を数えた。敗走する敵を称海まで追撃したが、敵兵が再び大集結した。文忠は兵を収めて険阻な地に拠り、牛を屠って士卒に饗し、捕獲した馬畜を野に放った。敵は伏兵ありと疑い、次第に引き去った。文忠もまた引き返したが、来た道を見失った。桑哥児麻に至り、水が乏しく、渇きが甚だしかったので、天に祈った。乗っていた馬が地を蹴ると、泉が湧き出て、三軍全てに供給できたので、乃ち生贄を屠って祭祀を行った。遂に還った。この戦役は、両軍の勝負は互角であったが、宣寧侯曹良臣、指揮使周顕・常栄・張耀が共に戦死したため、この故に恩賞は行われなかった。
六年、北平・山西の辺境を巡行し、三角村で敵を破った。七年、部将を分遣して塞外に出撃させた。三不剌川に至り、平章陳安礼を捕虜とした。順寧・楊門に至り、真珠驢を斬った。白登に至り、太尉不花を生け捕りにした。その秋、師を率いて大寧・高州を攻め、これを陥落させ、宗王朵朵失里を斬り、承旨百家奴を捕らえた。敗走する敵を氈帽山まで追撃し、魯王を撃ち斬り、その妃及び司徒答海らを捕獲した。豊州に進軍し、元の故官十二人を捕らえ、馬・駱駝・牛・羊を甚だ多く鹵獲し、百幹児まで窮追して乃ち還った。この後、しばしば出撃して辺境を守備した。
文忠に三人の子あり、長男は景隆、次男は増枝、三男は芳英、皆帝の賜った名である。
次男 増枝
増枝は初め勲衛に任じられ、前軍左都督に抜擢された。
三男 芳英
芳英は官は中都正留守に至った。
長男 景隆
景隆、小字は九江。書を読み典故に通じた。背が高く、眉目が秀でて開け、顧みる様子は偉然としていた。毎回の朝会では、進退が雍容として甚だ優雅であり、太祖はしばしば目を留めてこれを見た。十九年に爵を襲ぎ、しばしば湖広・陝西・河南に出向いて軍を練り、西番で馬を買い付けた。進んで左軍都督府事を掌り、太子太傅を加えられた。
建文帝が即位すると、景隆は近親として親任を受け、かつて周王橚を捕らえることを命じられた。燕王の兵が起こると、長興侯耿炳文が燕を討って失利し、斉泰・黄子澄らが共に景隆を推薦した。乃ち景隆を炳文に代えて大将軍とし、兵五十万を率いて北伐させた。通天犀帯を賜り、帝は親しく車輪を推し、江辺で餞別し、一切の便宜処置を許した。景隆は貴公子であり、兵事を知らず、ただ自尊自大で、諸々の宿将は多く快からずとして用いられなかった。景隆は疾駆して德州に至り、兵を集めて河間に進み営した。燕王はこれを聞いて喜び、諸将に語って言った、「李九江は、絹の袴を穿いた少年に過ぎない。容易く対処できる。」遂に世子に居城を守らせ、出戦を戒め、自らは兵を率いて永平を救援し、直ちに大寧に向かった。景隆はこれを聞き、北平を包囲して進んだ。都督の瞿能が張掖門を攻め、陥落寸前となった。景隆は瞿能の功績を妬み、これを制止した。燕師が大寧を破り、軍を返して景隆を撃つに及んで、景隆は幾度も大敗し、德州に奔り、諸軍は皆潰走した。翌年正月、燕王が大同を攻めると、景隆は軍を率いて紫荊関から出て救援に向かったが、功無くして還った。帝は景隆の権力がまだ軽いと慮り、宦官に璽書を齎らせて黄鉞と弓矢を賜り、征伐を専断させた。ちょうど長江を渡る時、風雨で船が破損し、賜った物は全て失われたので、改めて造り直して賜った。四月、景隆は德州で大いに師を誓い、武定侯郭英・安陸侯呉傑らと真定で合流し、軍六十万を合わせ、白溝河に進んで営した。燕軍と連戦し、再び大敗し、璽書と斧鉞は皆捨て置き、德州に逃れ、さらに済南に逃れた。この戦役で、王師の死者は数十万人に及び、南軍は遂に支えきれなくなり、帝は初めて景隆を召還する詔を下した。黄子澄は慚愧憤慨し、朝班で景隆を捕らえ、これを誅して天下に謝罪するよう請うた。燕師が長江を渡ると、帝は非常に狼狽し、方孝孺が再び景隆の誅殺を請うた。帝はどちらも問わなかった。景隆及び尚書の茹瑺・都督の王佐を燕軍に遣わし、地を割いて和を請わせた。燕兵が金川門に駐屯すると、景隆は谷王橞と共に門を開いて迎え降った。
鄧愈
鄧愈、虹の人。初め名は友德、太祖賜いて名とす。父順興、臨濠に拠り、元兵と戦い死し、兄友隆これに代わるも、また病没し、衆愈を推して軍事を領す。愈年甫十六、戦う毎に必ず先登して陣を陥とし、軍中咸くその勇に服す。太祖滁陽に起つや、愈盱眙より来帰し、管軍総管を授かる。従って江を渡る。太平を克ち、陳野先を破り擒にし、溧陽・溧水を略定し、集慶を下し、鎮江を取る、皆功有り。広興翼元帥に進み、出でて広德州を守り、長槍帥謝國璽を城下に破り、その総管武世榮を俘え、甲士千人を獲る。宣州に移鎮し、その兵を以て績溪を取り、胡大海とともに徽州を克ち、行樞密院判官に遷りこれを守る。
苗帥楊完者十万の衆を以て来攻す、守禦単弱なりしも、愈将士を激勵し、大海と合撃し、これを破り走らす。進んで休寧・婺源を抜き、卒三千を獲、高河壘を徇下す。李文忠・胡大海と建德を攻め、道すがら遂安、長槍帥餘子貞を破り、北に逐って淳安に至り、またその援兵を破り、遂に建德を克つ。楊完者来攻す、その将李副樞を破り擒にし、溪洞の兵三万を降す。一月を逾ぎ、また完者を烏龍嶺に破る。再び僉行樞密院事に遷る。
臨安を略し、李伯升来援す、これを閑林寨に敗る。使を遣わし饒州守将於光を説き降し、遂に饒に移守す。饒は彭蠡湖に濱し、友諒と境を接し、数来侵すも、輒ちこれを撃ち却く。江南行省参政に進み、各翼軍馬を総制す。浮梁を取り、楽平を徇い、餘幹・建昌皆下る。
友諒の撫州守将鄧克明、吳宏に攻められ、使を遣わし偽り降りて師を緩めんとす。愈その情を知り、甲を巻き夜馳すること二百里、比明してその城に入る。克明意に出ず、単騎にて走る。愈号令厳粛、秋毫も犯さず、遂に撫州を定む。克明已むを得ず降る。会い友諒の丞相胡廷瑞龍興路を献ず、洪都府と改め、愈を以て江西行省参政としこれを守らしめ、降将祝宗・康泰を命じてその部を以て従わしむ。二人初め降らんと欲せず、及び命を受け徐達に従い武昌を攻むるや、遂に反す。舟女兒港に次ぎ、趨り還り、夜に乗じて新城門を破り入る。愈倉卒変を聞き、数十騎を以て走り、数賊と遇う。従騎死に且く尽き、窘しむこと甚だし。連ねて三馬を易うるも、馬輒ち踣つ。最後に養子の馬を得てこれに乗じ、始めて撫州門を奪いて出で、応天に奔り還る。太祖これを罪せず。既にして徐達師を還して洪都を復し、また命じて愈をして大都督硃文正を佐けしめてこれを鎮ましむ。その明年、友諒の衆六十万寇に入り、楼船高さ城と等しく、漲りに乗じて直ちに城下に抵り、数百重を囲む。愈撫州門を分守し、要衝に当たる。友諒親しく衆を督して来攻し、城壊ること且く三十余丈、愈且く築き且く戦う。敵攻め益々急にし、昼夜甲を解かざること三月。太祖自ら将いて来援し、囲み始めて解く。功を論じて克敵等とす。太祖既に武昌を平げ、愈をして兵を帥い江西未附の州県を徇わしむ。鄧克明の弟志清永豊に拠り、卒二万有り。愈これを撃破し、その大帥五十余人を擒う。常遇春に従い沙坑・麻嶺諸寨を平げ、進み兵をして吉安を取り、贛州を囲むこと五月にして乃ちこれを克つ。江西行省右丞に進む、時に年二十八。兵興りてより、諸将早く貴きこと愈と李文忠の如きは未だ有らず。
愈人となり簡重慎密、危苦を憚らず、将軍厳にして、降附を撫するに善し。その安福を徇うや、部卒に虜掠する者有り。判官潘樞入謁し、面してこれを責む。愈驚き起ち謝し、趣に令を下し民を掠むる者は斬るとし、軍中に得たる子女を索め尽く出ださしむ。樞因り空舍に閉置し、自ら舍外に坐し、糜を作りてこれを食わしむ。卒に夜に乗じて劫い取らんと謀る者有り、愈これを鞭ちて徇しむ。樞悉く護り遣りてその家に還し、民大いに悦ぶ。已にして遇春襄陽を克ち、愈を以て湖広行省平章としその地に鎮ましめ、書を賜いて曰く、「爾襄陽を戍す、宜しく法度を謹み守るべし。山寨来帰する者は、兵民悉く故籍に仍り、小校以下悉く屯種せしめ、且く耕し且く戦うべし。爾の戍する地は擴廓に隣り、若し爾の愛民に加わり、法軍に行わるれば、則ち彼の部する所皆将に義を慕い来帰せん、虎口を脱して慈母に就くが如し。我爾を頼むこと長城の如し、爾其れこれを勉めよ」と。愈荊棘を披き、軍府営屯を立て、拊循招徠し、威恚甚だ著し。
四年蜀を伐つに、愈を命じて襄陽に赴き軍馬を練り、糧を運び軍士に給せしむ。五年、辰・澧諸蠻乱を作す、愈を以て征南将軍とし、江夏侯周德興・江陰侯吳良を副とす。これを討つ。愈楊璟・黃彬を帥い澧州より出で、四十八洞を克ち、また房州の反者を捕え斬る。六年、右副将軍を以て徐達に従い西北辺を巡る。十年、吐番川藏梗みを為し、貢使を剽す、愈征西将軍を以て副将軍沐英とともにこれを討つ。兵を分かち三道と為し、窮追して昆侖山に至り、俘斬万計、馬牛羊十余万を獲、兵を留め諸要害に戍し乃ち還る。道中病み、寿春に至り卒す、年四十一。追って甯河王に封じ、諡して武順と曰う。
長子 鎮
長子の鎮が嗣ぎ、改めて申国公に封ぜられ、征南副将軍として永新・竜泉の山賊を平定す。再び塞外に出て功あり。その妻は李善長の外孫なり、善長敗るるや、奸党に坐して誅せらる。
鎮の弟 銘
弟の銘は錦衣衛指揮僉事、蛮を征し、軍中に卒す。
鎮の子 源
子の源ありて鎮の後を為す。
源の孫 炳
弘治中、源の孫の炳を南京錦衣衛世指揮使に授く。
炳の子 継
嘉靖十一年、詔して炳の子の継坤を定遠侯に封ず。五伝して文明に至り、崇禎末、流賊の難に死す。
湯和
湯和、字は鼎臣、濠の人、太祖と同里閈なり。幼より奇志あり、嬉戯に嘗て騎射を習い、群児を部勒す。長ずるに及び、身長七尺、倜儻として計略多し。郭子興初めて起つや、和は壮士十余人を帥いてこれに帰し、功により千戸を授かる。太祖に従い大洪山を攻め、滁州を克ち、管軍総管を授かる。和州を取るに従う。時に諸将多く太祖と等夷にして、肯て下たる者なし。和は太祖より三歳長く、独り約束を奉じて甚だ謹み、太祖甚だこれを悦ぶ。太平を定むるに従い、馬三百を獲る。陳野先を撃つに従い、流矢左股に中るも、矢を抜きて復た闘い、遂に諸将とともに野先を破り擒う。別に溧水・句容を下し、集慶を定むるに従う。徐達に従い鎮江を取り、統軍元師に進む。奔牛・呂城を徇い、陳保二を降す。金壇・常州を取り、和を以て枢密院同僉と為しこれを守らしむ。
常に呉と境を接し、張士誠の間諜百出するも、和防禦厳密にして、敵窺うこと能わず。再び寇し、再び撃ちてこれを却け、俘斬千計。無錫を進攻し、錫山において呉軍を大破し、莫天祐を走らせ、その妻子を獲、中書左丞に進む。舟師を以て黄楊山を徇い、呉の水軍を敗り、千戸四十九人を獲、平章政事を拝す。長興を援け、張士信と城下に戦う。城中の兵出でて夾撃し、これを大敗せしめ、卒八千を俘え、囲みを解いて還る。江西の諸山寨を討ち平らぐ。永新の守将周安叛く、進撃してこれを敗り、その十七寨を連破し、城を三月囲み、これを克ち、安を執えて献じ、還りて常州を守る。大軍に従い士誠を伐ち、太湖の水寨を克ち、呉江州を下し、平江を囲み、閶門に戦い、飛礮左臂を傷つく、応天に召し還され、創癒えて復た往き、これを攻克す。功を論じて金帛を賜う。
大軍方に北伐せんとし、命じて明州に舟を造らしめ、糧を運び直沽に輸ぜしむ。海に颶風多く、鎮江に輸して還る。偏将軍を拝す。大将軍に従い西征し、右副将軍馮勝とともに懐慶より太行を逾え、澤・潞・晉・絳の諸州郡を取る。大将軍に従い河中を抜く。明年、河を渡り潼関に入り、兵を分かち涇州に趨り、部将をして張良臣を招降せしむ、既にして叛き去る。会に大軍慶陽を囲み、これを執斬す。又明年、復た右副副将軍を以て大将軍に従い拡廓を定西に敗り、遂に寧夏を定め、北に逐って察罕脳児に至り、猛将虎陳を擒え、馬牛羊十余万を獲る。東勝・大同・宣府を徇いて皆功あり。還り、開国輔運推誠宣力武臣・栄禄大夫・柱国を授かり、中山侯に封ぜられ、歳禄千五百石、世券を賜う。
四年、征西将軍を拝し、副将軍廖永忠とともに舟師を帥い江を溯り夏を伐つ。夏人兵を以て険を扼し、攻めて克たず。江水暴漲し、師を大渓口に駐め、久しく進まず、而して傅友徳は既に秦・隴より深入し、漢中を取る。永忠先駆して瞿塘関を破り、夔州に入る。和乃ち軍を引きてこれに継ぎ、重慶に入り、明升を降す。師還るや、友徳・永忠は上賞を受け、而して和は及ばず。明年、大将軍に従い北伐し、敵に断頭山に遇い、戦いに敗れ、指揮一人を亡う。帝問わず。尋いで李善長とともに中都の宮闕を営む。北平に鎮し、彰徳城を甓す。察罕脳児を征し、大捷す。九年、伯顔帖木児辺患を為す、征西将軍として延安を防ぐ。伯顔和を乞う、乃ち還る。十一年春、信国公に進封せられ、歳禄三千石、軍国事を議す。数え出でて中都・臨清・北平に軍伍を練り、城郭を完うす。十四年、左副将軍として塞に出で、乃児不花を征し、敵の灰山営を破り、平章別裏哥・枢密使久通を獲て還る。十八年、思州蛮叛く、征虜将軍として楚王に従いこれを討ち平らげ、俘獲四万、その酋を擒えて帰る。
湯和は沈着で機敏、智謀に富み、酒の過ちが多かった。常州を守備していた時、太祖に事を請うたが許されず、酔って怨言を吐いた、「我がこの城を鎮めれば、屋根の棟に坐するが如く、左を顧みれば左に、右を顧みれば右に(自在に動かせる)。」と。太祖はこれを聞いて恨みを抱いた。中原平定の軍が帰還し功績を論ずるに当たり、湯和が福建征討の際に陳友定の残党を放逐したため、八郡が再び擾乱し、軍が帰還する途中、秀蘭山の賊に襲撃され、指揮二人を失ったことを理由に、公に封ぜられることはなかった。蜀征伐から帰還した時、面と向かってその逗留・遅滞の罪を数え上げた。湯和が頓首して謝罪したので、やっと許された。信国公に封ぜられた時にも、なお常州での過失を数え上げ、その証券に刻み付けた。当時、帝の年齢は次第に高くなり、天下は平穏で、魏国公(徐達)・曹国公(李文忠)は既に死去しており、諸将が長く兵権を握ることを望まず、発端がなかった。湯和が隙を見て穏やかに言上した、「臣は犬馬の齢も長く、再び駆使されるに堪えません。故郷に帰り、棺を容れる丘墓を求め、骸骨を待ちたいと存じます。」と。帝は大いに喜び、直ちに宝鈔を賜り中都に邸宅を造営させ、併せて諸公・侯の邸宅も造営させた。
やがて倭寇が上海を侵し、帝はこれを憂い、湯和を見て言った、「卿は老いてはいるが、強いて朕のために一行せよ。」と。湯和は方鳴謙と共に行くことを請うた。鳴謙は方国珍の甥であり、海事に通じていたので、常に倭寇防禦の策を尋ねた。鳴謙は言った、「倭は海上から来るならば、海上でこれを防禦すべきです。地の遠近を測り、衛所を設置し、陸では歩兵を集め、水上では戦艦を備えれば、倭は侵入できず、侵入しても岸に近づくことができません。近海の民で四丁のうち一丁を徴兵して軍とし、これを守備に当たらせれば、客兵(他地域からの援軍)を煩わす必要はありません。」と。帝はこれを良しとした。湯和はそこで浙江の東西を測量し、海沿いに衛所城五十九を設置し、壮丁三万五千人を選んでこれを築かせ、州県の銭を全て出し、また罪人の財産を没収して労役に充てた。役夫は往々にして期待以上であったが、民衆に擾乱が無いわけではなく、浙江の人々はこれを大いに苦しんだ。ある者が湯和に言った、「民が怨嗟しています。どうしましょうか。」と。湯和は言った、「遠大な計画を成す者は近き怨みを顧みず、大事を任ずる者は細かい謹みに拘らない。もしまた怨嗟する者がいれば、我が剣にかける。」と。一年余りで城は完成した。軍の配置を調べ、考課の基準を定め、賞賜の法令を立てた。浙東の民で四丁以上の家は、一戸より一丁を取ってこれを守備させ、合わせて五万八千七百余人を得た。翌年、福建の海沿いの城の工事が完了し、湯和は帰還して復命し、中都の新邸も完成した。湯和は妻子を率いて宮中で別れの挨拶をし、黄金三百両・白金二千両・宝鈔三千錠・彩幣四十副を賜り、夫人胡氏への下賜もこれに等しかった。併せて璽書を下して褒め諭し、諸功臣でこれに比ぶ者はいなかった。これより湯和は毎年一度京師に朝見した。
湯和は晩年ますます恭順・慎重になり、朝廷の議論を聞いても、一言も外に漏らさなかった。側妾百余人は、病後に全て財産を与えて帰した。得た賞賜は多くを郷里に分け与え、布衣時代の旧友や遺老に会えば、和やかに喜んだ。当時、公・侯の諸宿将は奸党に連座し、次々と法に触れ、免れる者は稀であったが、湯和のみが長寿を享け、功名を全うして終わった。嘉靖年間、東南は倭寇の患いに苦しんだが、湯和が築いた沿海の城砦は皆堅固で、久しく崩れず、浙江人はこれによって自衛し、多くがその功績を称え慕った。巡按御史が朝廷に請うて、廟を立てて祭祀した。湯和に五人の子あり。
長子は湯鼎。
長子の湯鼎は前軍都督僉事となり、雲南征討に従軍し、途中で卒去した。
末子は湯醴。
末子の湯醴は、功を積んで左軍都督同知となり、五開征討に従軍し、軍中で卒去した。
来孫は湯紹宗。
湯鼎の子は湯晟、湯晟の子は湯文瑜、共に早世し、爵を継ぐことができなかった。英宗の時、湯文瑜の子湯傑が爵位継承を請うたが、結局四十余年も襲爵していないことを理由に、取りやめとなった。湯傑に子がなく、弟の湯倫の子湯紹宗を後継とした。孝宗が功臣の子孫を登用した時、湯紹宗に南京錦衣衛世襲指揮使を授けた。嘉靖十一年に霊璧侯に封ぜられ、禄千石を食んだ。子から孫の湯世隆に伝わり、隆慶年間に南京を協守し、後軍都督府を兼ね、提督漕運に転じ、四十余年在職し、功労により太子太保を加えられ、少保に進んだ。卒去し、諡は僖敏。爵位は明が滅亡するまで伝わり、そこで絶えた。
曾孫は湯胤勣。
沐英
沐英、字は文英、定遠の人。幼くして孤児となり、母に従って兵乱を避けたが、母もまた死んだ。太祖と孝慈皇后がこれを憐れみ、養子とし、朱姓を名乗らせた。十八歳で帳前都尉に任じられ、鎮江を守備した。やがて指揮使に昇進し、広信を守備した。後に大軍に従って福建を征し、分水関を破り、崇安を攻略し、別働隊で閔溪十八寨を破り、馮穀保を縛った。この時初めて元の姓に復することを命じられた。建寧に移鎮し、邵武・延平・汀州の三衛を統轄した。まもなく大都督府僉事に昇進し、同知に進んだ。府中の機務は煩雑に積もっていたが、沐英は若年で明敏であり、裁断に滞りがなかった。馬皇后はしばしばその才能を称え、帝もまたこれを重んじた。
まもなく征南右副将軍に任ぜられ、永昌侯藍玉とともに将軍傅友徳に従って雲南を攻め取った。元の梁王は平章達里麻に兵十余万を率いさせて曲靖で防がせた。沐英は霧に乗じて白石江に急行した。霧が晴れると両軍は相望み、達里麻は大いに驚いた。友徳は江を渡ろうとしたが、英は言った、「我が兵は疲れており、敵に抑えられることを恐れる」。そこで諸軍を率いて厳しく陣を整え、渡河しようとするかのように見せかけた。一方で奇兵を下流から渡らせ、敵陣の背後に出て、山谷の間に疑兵の旗幟を掲げさせ、兵士に銅角を吹かせた。元兵は驚き乱れた。英は急いで軍を指揮して江を渡らせ、水泳の巧みな者を先頭に立て、長刀で敵軍を斬りつけた。敵軍は退き、全軍が渡り終えた。激戦が長く続いた後、さらに鉄騎を放つと、遂に大いにこれを破り、達里麻を生け捕りにし、死体は十余里に及んだ。長駆して雲南に入り、梁王は逃げて死に、右丞観音保は城を挙げて降り、所属の郡は皆陥落した。ただ大理だけが点蒼山・洱海に倚り、龍首・龍尾の二関を扼していた。関はもと南詔が築いたもので、土酋の段世がこれを守っていた。英は自ら軍を率いて下関に至り、王弼を遣わして洱水の東から上関に急行させ、胡海を遣わして石門の間道から河を渡り、点蒼山を攀じ登らせて旗幟を立てさせた。英は流れを乱して関を斬り進み、山上の軍も馳せ下り、挟撃して段世を生け捕りにし、遂に大理を抜いた。兵を分けて未だ従わぬ諸蛮を平定し、官を置き衛を立てて守らせた。軍を返し、友徳と滇池で合流し、分道して烏撒・東川・建昌・芒部の諸蛮を平定し、烏撒・畢節の二衛を立てた。土酋の楊苴らが再び諸蛮二十余万を煽動して雲南城を包囲した。英は急行して救援し、蛮族は潰走して山谷に逃げ込み、兵を分けて捕らえ滅ぼし、首級六万を斬った。翌年、詔により友徳及び藍玉は軍を返し、英を留めて滇中を鎮守させた。
二十五年六月、皇太子の崩御を聞き、哭して極めて哀痛した。初め、高皇后が崩御した時、英は哭して血を吐くに至った。この時、病に感じ、鎮守の地で卒去した。享年四十八。軍民は巷で哭し、遠方の夷人も皆涙を流した。帰葬して京師に葬り、黔寧王を追封され、諡は昭靖、太廟に配享された。
英は沈毅で笑いを寡くし、賢者を好み士を礼遇し、兵卒を撫でて恩があり、妄りに殺すことはなかった。滇にあっては、百般の事務を挙行し、守令を簡選し、農桑を督励し、毎年屯田の増減を較べて賞罰の根拠とし、開墾した田は百万余畝に至った。滇池が狭かったので、浚渫して広げ、水害は再び無くなった。塩井の利を通じて商旅を招き、地方の産物を辨別して貢税を定め、民の数を見て力役を均した。節は疏く目は闊で、民は便利で安んじた。平素は読書して巻を離さず、暇あれば諸儒生を招いて経史を講説させた。太祖が初めに挙兵した時、しばしば他姓の子を養子とし、郡邑を攻め落とすと、すぐにこれを遣わして守らせ、二十余人に及んだが、ただ英のみが西南で勲功最大であった。子の春・晟・昂は皆雲南を鎮守した。昕は駙馬都尉となり、成祖の女常寧公主を娶った。
子 春
春、字は景春、武勇の才があり父の風があった。十七歳の時、英に従って西番を征し、また雲南征伐に従い、江西の賊平定に従い、皆先鋒を務めた。功を積んで後軍都督府僉事に任ぜられた。群臣が試職を請うたが、帝は言った、「児は我が家人である、試すには及ばない」。そこで実授を与えた。かつて烈山の囚人を記録させ、また蔚州で叛党を審問させ、それぞれ数百人を釈放した。英が卒去すると、爵を嗣ぎ、雲南を鎮守することを命じられた。洪武二十六年、維摩の十一寨が乱を起こしたので、瞿能を遣わして討伐平定させた。翌年、越巂蛮を平定し、瀾滄衛を立てた。その冬、阿資が再び叛いたので、何福とともにこれを討った。春は言った、「この賊は積年誅を逃れてきた者で、諸土酋と姻戚関係にあるため、転々として逃亡潜伏している。今、諸酋を悉く発して軍に従わせ、これを繋ぎ留め、多く営堡を設けてその出入りを制すれば、必ずや首を授けよう」。そこで越州に急行し、分道してその城に迫り、精兵を道の左に伏せ、弱卒をもって賊を誘い、放って撃ち大いにこれを破った。阿資は谷の中に逃れたが、春は密かに近傍の土官と結び、その所在を探知し、柵を立ててその糧道を断った。賊は甚だ困窮した。やがて、不意を突いてその巣窟を撃つと、遂に阿資を生け捕りにし、併せてその党二百四十人を誅した。越州は遂に平定された。広南の酋長儂貞佑が党蛮を糾合して官軍に抵抗したので、破ってこれを生け捕りにし、捕虜と斬首は千を数えた。寧遠の酋長刀拜爛が交趾に依って命令に従わなかったので、何福を遣わして討伐降伏させた。
三十年、麓川宣慰使思倫発がその配下の刀幹孟に追い逐われた。来奔した。春はこれを伴ってともに朝し、上方の策略を受け、そこで春を征虜前将軍に任じ、何福・徐凱を率いてこれを討たせた。先ず兵をもって思倫発を金歯に送り、幹孟に檄を飛ばして来迎させた。応じなかった。そこで兵卒五千を選び、福と瞿能に率いさせ、高良公山を越え、直ちに南甸を搗き、大いにこれを破り、その酋長刀名孟を斬った。軍を返して景罕寨を撃った。賊は高所に乗じて堅く守り、官軍の糧食は将尽き、福が危急を告げた。春は五百騎を率いてこれを救援した。夜に怒江を渡り、朝に寨に到着し、騎兵に馳せよと命じ、塵を揚げて天を蔽うと、賊は大いに驚き潰走した。乗勝して崆峒寨を撃つと、これも潰走した。前後して降伏する者は七万人に及んだ。将士がこれを屠ろうとしたが、春は許さなかった。幹孟が降伏を乞うたが、帝は許さず、春に命じて滇・黔・蜀の兵を総括して攻撃させた。未だ発しないうちに春が卒去した。享年三十六。諡は惠襄。
春は鎮守すること七年、大いに屯政を修め、田三十余万畝を開墾し、鉄池河を鑿って宜良の渇田数万畝を灌漑し、再び生業に就いた民は五千余戸に及び、祠を立ててこれを祀った。子が無く、弟の晟が嗣いだ。
子 晟
交趾の簡定が再び反乱を起こすと、命を受けて沐晟は征夷将軍の印を佩用してこれを討ち、生厥江で戦ったが敗北した。張輔が再び出師して合流討伐し、簡定を捕らえて京師に送った。張輔が帰還すると、沐晟は残留して陳季拡を捕らえようとしたが、連戦しても陥落させられなかった。張輔が再び出師して沐晟と合流し、占城まで追撃し、陳季拡を捕獲してからようやく凱旋し、沐晟も上賞を受けた。十七年、富州の蛮が反乱すると、沐晟は兵を率いて臨んだが、攻撃せず、人を遣わして諭し理解させ、ついにこれを降した。
沐晟は父兄の業を継ぎ、用兵は得意とするところではなく、戦いで幾度も不利であった。朝廷はその地が極めて遠方であり、かつ代々の将軍であることを考慮し、寛大に扱った。一方で滇の人々は沐晟父子の威信に畏れ服し、朝廷に対するように恭しく仕えた。一片の書状が下ると、土酋は威儀を整えて城外まで出迎え、手を洗ってから開封し、「これは令旨である」と言った。沐晟は長く鎮守し、三百六十区画の田園を設け、資財は豊富に満ち、朝廷の貴人に巧みに仕え、賄賂や贈り物を絶やさず、それゆえに朝廷内外での名声を得た。沐晟には子の沐斌がおり、字は文輝といい、幼くして公爵を継承し、京師に居住し、代わりに沐昂が鎮守した。
子 沐昂
沐昂は、字を景高といい、初め府軍左衛指揮僉事であった。成祖が沐晟を南征させようとした時、沐昂を都指揮同知に抜擢し、雲南都司を統率させ、累進して右都督に至った。正統四年に将印を佩用し、麓川を討伐し、金歯に到着した。賊の勢いの盛んなのを恐れ、長く遷延した。参将張栄が先鋒として芒部に至って敗北したが、沐昂は救援せず、兵を引き返したため、官位を二階級降格された。後に、思任発が侵入してきたが、これを撃退し、また師宗の反乱者を捕らえて斬った。六年、兵部尚書王驥・定西伯蔣貴が大軍を率いて思任発を討つこととなり、沐昂は糧食輸送を主管した。賊が破られると、沐昂の官職を復し、軍を督して思任発を捕らえるよう命じたが、得られなかった。十年、沐昂は卒去した。定辺伯を追贈され、諡は武襄といった。
沐昂の孫 沐璘
沐璘は字を廷章といい、平素より儒雅であったが、滇の人々は彼を軽んじた。しかしその後、号令は厳然として犯しがたいものとなり、天順初年に卒去した。
沐昂の孫、沐璘の弟 沐瓚
沐琮がなお幼かったため、沐璘の弟で錦衣副千戸の沐瓚を都督同知に抜擢し、代わりに赴かせた。七年間在任し、先後に沾禄諸寨及び土官で兵を構える者を討伐平定し、思卜発を降伏させ、諸蛮が侵した土地を取り戻させた。功績は多かったが、かなり財貨を貪った。
沐晟の孫、沐斌の子 沐琮
沐琮は字を廷芳といい、経書の義理に通じ、詩文を作ることができ、属する夷からの贈り物は一切受け取らなかった。尋甸の酋長が兄の子を殺し、守備官になることを求めたが、沐琮はこれを捕らえて誅殺した。広西の土官が虐政を行い、配下が反乱を起こしたので、沐琮は流官を改めて設置するよう請い、民は大いに便利を得た。順次、馬龍・麗江・剣川・順寧・羅雄の諸叛蛮を討伐平定し、橋甸・南窩の反乱者を捕らえた。卒去し、太師を追贈され、諡は武僖といった。子がなく、沐瓚の孫の沐崑を後継ぎとした。
昂の玄孫、瓚の孫 昆
昆の子 紹勳
子紹勳嗣ぐ。尋甸の土舎安銓叛し、都御史傅習これを討つも、敗績す。武定の土舎鳳朝文も亦叛し、銓と兵を連ねて雲南を攻め、大いに擾う。世宗、尚書伍文定を遣わし大軍を将いてこれを征せしむ。未だ至らざるに、紹勳督す所部を率いて先進し、土官の子弟襲ぐべき者に告げ、先ず冠帯を予け、賊を破りて後当に請わんと為す。衆多く奮戦し、賊大いに敗る。朝文普渡河を絶ちて走り、東川に追斬す。銓尋甸に還り、砦数十を列ね、官軍これを攻め破り、銓を芒部に擒らう。先後賊党千余人を擒らえ、俘斬算に遑あらず。時に嘉靖七年なり。捷聞き、太子太傅を加え、歳禄を益す。而して是の時、老撾・木邦・孟養・緬甸・孟密相仇殺し、師宗・納楼・思陀・八寨皆乱れ、久しく解けず。紹勳使者をして諸蛮を遍歴せしめ、武定・尋甸の事を以て諷す。皆慴伏し、侵地を還すを願い、而して木邦・孟養倶に方物を貢ぎ謝罪す。南中悉く定まる。紹勳勇略有り、兵を用うれば輒ち勝つ。卒し、太師を贈られ、諡して敏靖と曰う。
紹勳の子 朝輔
子朝輔嗣ぐ。都御史劉渠賂を索む。朝輔これに与え、因りて上章して言う、「臣家世々この土を守り、上下相承く。今有司典制を紛更し、臣の職守に関し、率ね聞かず、接見故例に循わず。臣疏遠孤危にして、動作掣肘せられ、蛮方を弾圧するに以て無し。乞うらくは諸臣に申敕し、悉くその旧の如くせんことを。」詔これを許す。給事中万虞愷朝輔を劾し、併せて渠を論ず。詔渠を罷め、朝輔に治事を令すること旧の如しとす。卒し、太保を贈られ、諡して恭僖と曰う。
朝輔の弟 朝弼
紹勳の孫、朝弼の子 昌祚
沐氏滇に在ること久しく、威権日々盛んにして、尊重親王に擬す。昌祚出づるに、僉事楊寅秋道を避けず。昌祚その輿人を笞す。寅秋朝に訴う。詔を下して切責す。已にして病を以て、子叡に命じて代わりに鎮せしむ。武定の土酋阿克叛し、会城を攻め、府印を脅いて去る。叡逮えられ下獄し、昌祚復た鎮事を理む。卒し、孫啓元嗣ぐ。卒し、子天波嗣ぐ。
紹勳の来孫、昌祚の曾孫 天波
十余年にして土司沙定洲乱を作し、天波永昌に奔る。乱定まり、復た滇に帰る。永明王由榔滇に入る。天波職に任ずること旧の如し。已にして従い奔りて緬甸に至る。緬人これを劫わんと欲すも、屈せずして死す。初め、沙定洲の乱に、天波の母陳氏・妻焦氏自ら焚死す。後天波緬に奔るに、妾夏氏従うに及ばず、自ら縊死す。数十日を逾えて収葬すも、支体壊れず。人以為う、節義の感ずる所なりと。
賛
賛に曰く、明興の諸将、六王を以て称首と為す。独り功茂なるのみに非ず、亦その忠誠主知に契う有るに由るなり。親は岐陽の如きは莫く、旧は東甌の如きは莫し。而して寧河・黔甯皆英年を以て腹心の寄せに膺る。汗馬労を宣べ、純勤二ならず、旂常炳耀し、洵に愧じること無し。岐陽は詩を敦ね礼を説き、儒雅を以て重んぜられ、東甌は身を乞うて第に帰り、明哲を以て自ら全うす。皆卓然として人の能く及ぶ所に非ず。独り黔寧は威遐荒に震い、符を剖きて弈世し、勲名明と相終始す。而して寧河は瘴を尽くして馳駆し、功高く齢促かく、後嗣亦少なき所表見す。論者諸王の遺沢、隆替殊なる有りと謂うも、然れども中山に増寿有り、岐陽に景隆有るは、先烈を追溯すれば、遺憾無きにしも非ず。栄遇の斉しからざるも、亦安んぞその幸有り不幸有りやを見んや。