明史

列傳第十四 李文忠 鄧愈 湯和 沐英

李文忠

李文忠、字は思本、小字は保兒、盱眙の人、太祖の姉の子なり。十二歳にして母死す、父貞之を携えて乱軍の中に転徙し、死に瀕すること数たびなり。二年を逾ぎて乃ち滁陽に於いて太祖に謁す。太祖保兒を見て、甚だ喜び、撫でて以て子と為し、己が姓に従わしむ。書を読み穎敏にして素より習うが如し。十九歳にして、舍人として親軍を将い、池州を援くに従い、天完軍を破り、ぎょう勇諸将に冠たり。別に青陽・石埭・太平・旌徳を攻め、皆之を下す。元の院判阿魯灰を万年街に敗り、復た苗軍を於潜・昌化に敗る。淳安に進攻し、夜に洪元帥を襲い、其の衆千余を降し、帳前左副都指揮を授け元帥府事を兼領す。尋て鄧愈・胡大海の師と会し、建徳を取り、以て厳州府と為し、之を守る。

苗帥楊完者、苗・僚数万を以て水陸より奄至す。文忠軽兵を将いて其の陸軍を破り、取る所の馘首を巨筏の上に浮かぶ。水軍之を見て亦遁す。完者復来り犯す、鄧愈と共に之を撃ち却く。浦江を進みて克ち、焚掠を禁じ、恩信を示す。義門鄭氏兵を避けて山谷にあり、之を招き還し、兵を以て之を護る。民大いに悦ぶ。完者死し、其の部将降を乞う、之を撫し、三万余人を得。

胡大海と諸暨を抜く。張士誠厳州を寇す、之を東門に禦ぎ、別将をして小北門より出で、間道より其の後を襲わしめ、夾撃して大いに之を破る。一月を逾ぎ、復来り攻む、又之を大浪灘に破り、勝に乗じて分水を克つ。士誠将を遣わして三渓を拠らしむ、復た之を撃ち敗り、陸元帥を斬り、其の壘を焚く。士誠是より厳州を窺うことを敢えず。同僉行枢密院事に進む。

胡大海漢将李明道・王漢二を得、文忠の所に送る、釈して之を礼し、建昌守将王溥を招かしむ。溥降る。苗将蔣英・劉震大海を殺し、金華を以て叛く。文忠将を遣わして之を撃ち走らしめ、親しく其の衆を撫定す。処州の苗軍亦耿再成を殺して叛く。文忠将を遣わして縉雲に屯し以て之を図らしむ。浙東行省左丞を拝し、厳・衢・信・処・諸全の軍事を総制す。

呉兵十万方に諸全を急攻し、守将謝再興急を告ぐ、同僉胡徳済を遣わして往き援わしむ。再興復た兵を益すを請う、文忠兵少くして応ずる無し。会に太祖邵栄をして処州の乱卒を討たしむ、文忠乃ち徐右丞・邵平章将に大軍刻日して進まんとすと揚言す。呉軍之を聞き懼れ、夜に遁れんと謀る。徳済と再興死士を帥い夜半門を開き突撃し、大いに之を破り、諸全遂に完し。

明年、再興叛きて呉に降り、呉軍を以て東陽を犯す。文忠胡深と義烏に迎え戦い、千騎を将いて横に其の陣を突き、大いに之を敗る。已にして、深の策を用い諸全より五十里を去り別に一城を築き、以て相掎角せしむ。士誠司徒しと李伯升を遣わして十六万の衆を以て来り攻む、克たず。年を逾ぎ、復た二十万の衆を以て新城を攻む。文忠硃亮祖等を帥いて馳せ救い、新城を去ること十里にして軍す。徳済人をして賊勢盛んなりと告げしめ、宜しく少しく駐まりて大軍を俟うべしとす。文忠曰く「兵は謀に在りて衆に在らず」。乃ち令を下して曰く「彼は衆にして驕り、我は少にして鋭し、鋭を以て驕に遇えば、必ず之を克たん。彼の軍の輜重山の如く積む、此れ天の汝曹を富ます所なり。勉めよ」。会に白気東北より来たり軍上を覆う、之を占いて曰く「必ず勝つ」。詰朝会戦す、天大いに霧り晦冥す、文忠諸将を集め天を仰ぎ誓いて曰く「国家の事此の一挙に在り、文忠死を愛しみて以て三軍に後るることを敢えず」。乃ち元帥徐大興・湯克明等をして左軍を将い、厳徳・王徳等をして右軍を将わしめ、而して自ら中軍を以て敵の沖に当たらしむ。会に処州の援兵亦至り、奮いて前進し搏撃す。霧稍く開く、文忠槊を横たえ鉄騎数十を引き、高きに乗じて馳せ下り、其の中堅を沖く。敵精騎を以て文忠を数重に囲む。文忠手ずから格殺すること甚だ衆く、騎を縦して馳突し、向う所皆披靡す。大軍之に乗じ、城中の兵亦鼓噪して出で、敵遂に大潰す。北に逐うこと数十里、首級数万を斬り、渓水尽く赤し、将校六百、甲士三千を獲、鎧仗芻粟収むること数日にして尽きず、伯升僅かに身を以て免る。捷聞け、太祖大いに喜び、帰るを召し、宴労すること弥日、御衣名馬を賜い、還り鎮せしむ。

明年秋、大軍呉を伐つ、杭州を攻めしめて以て之を牽制せしむ。文忠亮祖等を帥いて桐廬・新城・富陽を克ち、遂に余杭を攻む。守将謝五、再興の弟なり、之を諭して降らしめ、死せざるを許す。五再興の子五人と出で降る。諸将之を僇すを請う、文忠不可とす。遂に杭州に趨る、守将潘元明亦降り、軍を整えて入る。元明女楽を以て迎う、麾して之を去らしむ。麗譙に営し、令を下して曰く「擅に民居に入る者は死す」。一卒民の釜を借る、斬り以て徇す、城中帖然たり。兵三万、糧二十万を得。就いて栄禄大夫・浙江行省平章事を加え、復た李氏に姓す。大軍閩を征し、文忠別に軍を引き浦城に屯し以て之を逼る。師還る、余寇金子隆等衆を聚めて剽掠す、文忠復た之を討ち擒にし、遂に建・延・汀の三州を定む。軍中に命じて道上の棄児を収養せしめ、全活する所算に勝えず。

洪武二年春、偏将軍として右副将軍常遇春に従い塞に出で、上都に薄り、元帝を走らす、語は具に『遇春伝』に在り。遇春卒す、文忠を命じて其の軍を代将せしめ、詔を奉じて大將軍徐達と会し慶陽を攻む。行きて太原に次ぎ、大同囲急なるを聞き、左丞趙庸に謂いて曰く「我等命を受けて来る、閫外の事苟も国に利あらば、之を専にする可し。今大同甚だ急なり、之を援く便なり」。遂に雁門を出で、馬邑に次ぎ、元の遊兵を敗り、平章劉帖木を擒にし、進みて白楊門に至る。天雨雪す、已に営に駐す、文忠前に五里を移すを令し、水を阻みて自ら固む。元兵夜を乗じて来たり劫う、文忠堅壁して動かず。質明、敵大いに至る。二営を以て之に委ね、殊死に戦い、敵の疲るるを度り、乃ち精兵を出だし左右より撃ち、大いに之を破り、其の将脱列伯を擒にし、俘斬すること万余人、窮追して莽哥倉に至りて還る。

明年征虜左副将軍を拝す。大將軍と分道して北征し、十万人を以て野狐嶺より出で、興和に至り、其の守将を降す。進みて兵を察罕脳児にし、平章竹真を擒にす。次ぎて駱駝山、平章沙不丁を走らす。次ぎて開平、平章上都罕等を降す。時に元帝已に崩じ、太子愛猷識理達臘新たに立つ。文忠諜いて之を知り、兼程して応昌に趨る。元の嗣君北走し、其の嫡子買的立八剌及び後妃宮人諸王将相官属数百人、並びに宋・元の玉璽金宝十五、玉冊二、鎮圭・大圭・玉帯・玉斧各一を獲る。精騎を出だし窮追して北慶州に至りて還る。道すがら興州、国公江文清等を擒にし、三万七千人を降す。紅羅山に至り、又楊思祖の衆万六千余人を降す。捷を京師に献じ、帝奉天門に御して朝賀を受く。功臣を大封し、文忠の功最も、開国輔運推誠宣力武臣を授け、特進栄禄大夫・右柱国・大都督ととく府左都督を加え、曹国公に封じ、軍国事を同知し、禄三千石を食し、世券を予う。

四年の秋、傅友德らがしょくを平定すると、文忠を派遣してこれを慰撫せしめた。成都の新城を築き、諸郡の要害に軍を発して守らせ、乃ち還った。翌年、再び左副将軍として東道より北征し、居庸を出て、和林に向かい、口温に至ると、元人は遁走した。臚朐河に進み、部将の韓政らに輜重を守らせ、自らは大軍を率い、兵士一人につき二十日分の糧食を持たせ、疾駆して土剌河に至った。元の太師蛮子哈剌章が衆を悉く渡河させ、騎兵を列ねて待ち受けた。文忠は軍を率いてこれに迫ると、敵は少し退いた。阿魯渾河に至ると、敵はますます多く来襲した。文忠の馬が流れ矢に当たり、下馬して短兵で戦った。指揮の李栄が自らの乗馬を文忠に与え、自らは敵の馬を奪って乗った。文忠は馬を得て、ますます死に物狂いで戦い、遂に敵を破り、捕虜や鹵獲は万を数えた。敗走する敵を称海まで追撃したが、敵兵が再び大集結した。文忠は兵を収めて険阻な地に拠り、牛を屠って士卒に饗し、捕獲した馬畜を野に放った。敵は伏兵ありと疑い、次第に引き去った。文忠もまた引き返したが、来た道を見失った。桑哥児麻に至り、水が乏しく、渇きが甚だしかったので、天に祈った。乗っていた馬が地を蹴ると、泉が湧き出て、三軍全てに供給できたので、乃ち生贄を屠って祭祀を行った。遂に還った。この戦役は、両軍の勝負は互角であったが、宣寧侯曹良臣、指揮使周顕・常栄・張耀が共に戦死したため、この故に恩賞は行われなかった。

六年、北平・山西の辺境を巡行し、三角村で敵を破った。七年、部将を分遣して塞外に出撃させた。三不剌川に至り、平章陳安礼を捕虜とした。順寧・楊門に至り、真珠驢を斬った。白登に至り、太尉不花を生け捕りにした。その秋、師を率いて大寧・高州を攻め、これを陥落させ、宗王朵朵失里を斬り、承旨百家奴を捕らえた。敗走する敵を氈帽山まで追撃し、魯王を撃ち斬り、その妃及び司徒答海らを捕獲した。豊州に進軍し、元の故官十二人を捕らえ、馬・駱駝・牛・羊を甚だ多く鹵獲し、百幹児まで窮追して乃ち還った。この後、しばしば出撃して辺境を守備した。

十年、韓国公李善長と軍国の重事を議することを命じられた。十二年、洮州の十八番族が叛くと、西平侯沐英と合兵してこれを討ち平らげ、東籠山の南川に城を築き、洮州衛を設置した。還って、西安城中の水が鹹鹵で飲用に適さないと上言し、地を穿って龍首渠の水を城中に引き入れ、汲み上げやすくすることを請うた。これに従った。還って大都督府を掌り、兼ねて国子監事を領した。

文忠は器量が沈着で宏大であり、人はその際限を測ることができなかった。陣に臨むと勇猛果敢で気勢が盛んになり、大敵に遇うとますます雄壮であった。頗る学問を好み、常に金華の范祖幹・胡翰に師事し、経義に通暁し、詩歌を作れば雄渾で優れたものがあった。初め、太祖が応天を平定した時、軍興により物資が不足したため、民田の租税を増やしたが、文忠がこれを請うて、減額を得た。兵権を解いて家居する時は、恭順で儒者のようであり、帝は大いにこれを愛重した。家には元来多くの食客がおり、かつて食客の言葉によって、帝に誅戮を少なくするよう勧め、また帝の日本征伐を諫め、さらに宦官の勢力が過剰であることは、天子が刑人(宦官)に近づかぬという義に合わないと上言した。このため次第に旨に逆らい、譴責を免れなかった。十六年の冬、遂に病を得た。帝は親しく見舞い、淮安侯華中に医薬の護衛をさせた。翌年三月に卒去。四十六歳。帝は中毒を疑い、華中の爵位を貶し、その家族を建昌衛に流し、諸医師とその妻子を皆斬った。親しく文を作って祭祀を行い、岐陽王を追封し、武靖と諡した。太廟に配享され、功臣廟に肖像が祀られ、その位はいずれも第三であった。父の貞は以前に卒去しており、隴西王を贈られ、恭献と諡された。

文忠に三人の子あり、長男は景隆、次男は増枝、三男は芳英、皆帝の賜った名である。

次男 増枝

増枝は初め勲衛に任じられ、前軍左都督に抜擢された。

三男 芳英

芳英は官は中都正留守に至った。

長男 景隆

景隆、小字は九江。書を読み典故に通じた。背が高く、眉目が秀でて開け、顧みる様子は偉然としていた。毎回の朝会では、進退が雍容として甚だ優雅であり、太祖はしばしば目を留めてこれを見た。十九年に爵を襲ぎ、しばしば湖広・陝西・河南に出向いて軍を練り、西番で馬を買い付けた。進んで左軍都督府事を掌り、太子太傅を加えられた。

建文帝が即位すると、景隆は近親として親任を受け、かつて周王橚を捕らえることを命じられた。燕王の兵が起こると、長興侯耿炳文が燕を討って失利し、斉泰・黄子澄らが共に景隆を推薦した。乃ち景隆を炳文に代えて大将軍とし、兵五十万を率いて北伐させた。通天犀帯を賜り、帝は親しく車輪を推し、江辺で餞別し、一切の便宜処置を許した。景隆は貴公子であり、兵事を知らず、ただ自尊自大で、諸々の宿将は多く快からずとして用いられなかった。景隆は疾駆して德州に至り、兵を集めて河間に進み営した。燕王はこれを聞いて喜び、諸将に語って言った、「李九江は、絹の袴を穿いた少年に過ぎない。容易く対処できる。」遂に世子に居城を守らせ、出戦を戒め、自らは兵を率いて永平を救援し、直ちに大寧に向かった。景隆はこれを聞き、北平を包囲して進んだ。都督の瞿能が張掖門を攻め、陥落寸前となった。景隆は瞿能の功績を妬み、これを制止した。燕師が大寧を破り、軍を返して景隆を撃つに及んで、景隆は幾度も大敗し、德州に奔り、諸軍は皆潰走した。翌年正月、燕王が大同を攻めると、景隆は軍を率いて紫荊関から出て救援に向かったが、功無くして還った。帝は景隆の権力がまだ軽いと慮り、宦官に璽書を齎らせて黄鉞と弓矢を賜り、征伐を専断させた。ちょうど長江を渡る時、風雨で船が破損し、賜った物は全て失われたので、改めて造り直して賜った。四月、景隆は德州で大いに師を誓い、武定侯郭英・安陸侯呉傑らと真定で合流し、軍六十万を合わせ、白溝河に進んで営した。燕軍と連戦し、再び大敗し、璽書と斧鉞は皆捨て置き、德州に逃れ、さらに済南に逃れた。この戦役で、王師の死者は数十万人に及び、南軍は遂に支えきれなくなり、帝は初めて景隆を召還する詔を下した。黄子澄は慚愧憤慨し、朝班で景隆を捕らえ、これを誅して天下に謝罪するよう請うた。燕師が長江を渡ると、帝は非常に狼狽し、方孝孺が再び景隆の誅殺を請うた。帝はどちらも問わなかった。景隆及び尚書の茹瑺・都督の王佐を燕軍に遣わし、地を割いて和を請わせた。燕兵が金川門に駐屯すると、景隆は谷王橞と共に門を開いて迎え降った。

燕王が帝位に即くと、景隆に奉天輔運推誠宣力武臣・特進光禄大夫・左柱国を授け、歳禄千石を増やした。朝廷に大事があると、景隆は依然として班首として議を主導し、諸功臣は皆不平であった。永楽二年、周王が、彼が建文の時に邸に至って賄賂を受け取った事を発覚させ、刑部尚書の鄭賜らもまた景隆が禍心を包蔵し、亡命者を蓄養し、不軌を謀ったことを弾劾した。詔して問わないこととした。既にして、成国公朱能・吏部尚書蹇義と文武の群臣が、朝廷で景隆とその弟増枝の逆謀に形跡ありと弾劾し、六科給事中の張信らが再びこれを弾劾した。詔して勲号を削り、朝請を絶ち、公として邸に帰り、長公主の祭祀を奉じさせた。間もなく、礼部尚書の李至剛らがまた言上した、「景隆は家におり、閽人(門番)が臣下の礼で伏して謁するのを座して受けている。これは大いに道理に背く。増枝は多くの荘田を立て、僮僕を蓄えること千百に及ぶとも考えられ、その意は測り難い。」ここにおいて景隆の爵位を奪い、増枝及び妻子数十人と共に私邸に監禁し、その財産を没収した。景隆はかつて十日間絶食したが死なず、永楽の末に至って乃ち卒去した。

正統十三年、初めて詔を下し、増枝らに門第を開かせ、自便を得させた。弘治初年、文忠の後を録し、景隆の曾孫璿を以て南京錦衣衛世指揮使とした。卒し、子の濂が嗣いだ。卒し、子の性が嗣いだ。嘉靖十一年、詔して性を臨淮侯に封じ、禄千石を賜う。翌年卒し、子無く、また濂の弟沂を以て紹封した。卒し、子の庭竹が嗣いだ。屡々軍府を典し、操江を提督し、平蠻将軍印を佩び、湖広に鎮した。卒し、子の言恭が嗣いだ。南京を守備し、入って京営を督し、累ねて少保を加えられた。言恭、字は惟寅、学を好み詩能くし、寒素に折節した。子の宗城、少にして文学を以て知名。万暦中、倭が朝鮮を犯すや、兵部尚書石星は封貢を主とし、宗城の才を薦め、都督僉事を授け、正使と充て、節を持ち往かしめ、指揮楊方亨を副使とした。宗城、朝鮮の釜山に至るや、倭来ること益々衆く、道路籍籍として、且つ二使を劫うと云う。宗城恐れ、服を変えて逃げ帰る。而して方亨は海を渡り、倭の辱めを受く。宗城は獄に下され戍を論ぜられ、その子邦鎮を以て侯を嗣がしむ。明亡び、爵絶つ。

鄧愈

鄧愈、虹の人。初め名は友德、太祖賜いて名とす。父順興、臨濠に拠り、元兵と戦い死し、兄友隆これに代わるも、また病没し、衆愈を推して軍事を領す。愈年甫十六、戦う毎に必ず先登して陣を陥とし、軍中咸くその勇に服す。太祖滁陽に起つや、愈盱眙より来帰し、管軍総管を授かる。従って江を渡る。太平を克ち、陳野先を破り擒にし、溧陽・溧水を略定し、集慶を下し、鎮江を取る、皆功有り。広興翼元帥に進み、出でて広德州を守り、長槍帥謝國璽を城下に破り、その総管武世榮を俘え、甲士千人を獲る。宣州に移鎮し、その兵を以て績溪を取り、胡大海とともに徽州を克ち、行樞密院判官に遷りこれを守る。

苗帥楊完者十万の衆を以て来攻す、守禦単弱なりしも、愈将士を激勵し、大海と合撃し、これを破り走らす。進んで休寧・婺源を抜き、卒三千を獲、高河壘を徇下す。李文忠・胡大海と建德を攻め、道すがら遂安、長槍帥餘子貞を破り、北に逐って淳安に至り、またその援兵を破り、遂に建德を克つ。楊完者来攻す、その将李副樞を破り擒にし、溪洞の兵三万を降す。一月を逾ぎ、また完者を烏龍嶺に破る。再び僉行樞密院事に遷る。

臨安を略し、李伯升来援す、これを閑林寨に敗る。使を遣わし饒州守将於光を説き降し、遂に饒に移守す。饒は彭蠡湖に濱し、友諒と境を接し、数来侵すも、輒ちこれを撃ち却く。江南行省参政に進み、各翼軍馬を総制す。浮梁を取り、楽平を徇い、餘幹・建昌皆下る。

友諒の撫州守将鄧克明、吳宏に攻められ、使を遣わし偽り降りて師を緩めんとす。愈その情を知り、甲を巻き夜馳すること二百里、比明してその城に入る。克明意に出ず、単騎にて走る。愈号令厳粛、秋毫も犯さず、遂に撫州を定む。克明已むを得ず降る。会い友諒の丞相胡廷瑞龍興路を献ず、洪都府と改め、愈を以て江西行省参政としこれを守らしめ、降将祝宗・康泰を命じてその部を以て従わしむ。二人初め降らんと欲せず、及び命を受け徐達に従い武昌を攻むるや、遂に反す。舟女兒港に次ぎ、趨り還り、夜に乗じて新城門を破り入る。愈倉卒変を聞き、数十騎を以て走り、数賊と遇う。従騎死に且く尽き、窘しむこと甚だし。連ねて三馬を易うるも、馬輒ち踣つ。最後に養子の馬を得てこれに乗じ、始めて撫州門を奪いて出で、応天に奔り還る。太祖これを罪せず。既にして徐達師を還して洪都を復し、また命じて愈をして大都督硃文正を佐けしめてこれを鎮ましむ。その明年、友諒の衆六十万寇に入り、楼船高さ城と等しく、漲りに乗じて直ちに城下に抵り、数百重を囲む。愈撫州門を分守し、要衝に当たる。友諒親しく衆を督して来攻し、城壊ること且く三十余丈、愈且く築き且く戦う。敵攻め益々急にし、昼夜甲を解かざること三月。太祖自ら将いて来援し、囲み始めて解く。功を論じて克敵等とす。太祖既に武昌を平げ、愈をして兵を帥い江西未附の州県を徇わしむ。鄧克明の弟志清永豊に拠り、卒二万有り。愈これを撃破し、その大帥五十余人を擒う。常遇春に従い沙坑・麻嶺諸寨を平げ、進み兵をして吉安を取り、贛州を囲むこと五月にして乃ちこれを克つ。江西行省右丞に進む、時に年二十八。兵興りてより、諸将早く貴きこと愈と李文忠の如きは未だ有らず。

愈人となり簡重慎密、危苦を憚らず、将軍厳にして、降附を撫するに善し。その安福を徇うや、部卒に虜掠する者有り。判官潘樞入謁し、面してこれを責む。愈驚き起ち謝し、趣に令を下し民を掠むる者は斬るとし、軍中に得たる子女を索め尽く出ださしむ。樞因り空舍に閉置し、自ら舍外に坐し、糜を作りてこれを食わしむ。卒に夜に乗じて劫い取らんと謀る者有り、愈これを鞭ちて徇しむ。樞悉く護り遣りてその家に還し、民大いに悦ぶ。已にして遇春襄陽を克ち、愈を以て湖広行省平章としその地に鎮ましめ、書を賜いて曰く、「爾襄陽を戍す、宜しく法度を謹み守るべし。山寨来帰する者は、兵民悉く故籍に仍り、小校以下悉く屯種せしめ、且く耕し且く戦うべし。爾の戍する地は擴廓に隣り、若し爾の愛民に加わり、法軍に行わるれば、則ち彼の部する所皆将に義を慕い来帰せん、虎口を脱して慈母に就くが如し。我爾を頼むこと長城の如し、爾其れこれを勉めよ」と。愈荊棘を披き、軍府営屯を立て、拊循招徠し、威恚甚だ著し。

吳元年御史臺を建て、召して右御史大夫と為し、台事を領す。洪武元年太子諭德を兼ぬ。大軍中原を経略するや、愈征戍将軍と為り、襄・漢の兵を帥い南陽以北未附の州郡を取る。遂に唐州を克ち、進み南陽を攻め、元兵を瓦店に敗り、北に逐って城下に抵り、遂にこれを克ち、史國公等二十六人を擒う。隋・葉・舞陽・魯山諸州県相継いで降る。牛心・光石・洪山諸山寨を攻め下し、均・房・金・商の地悉く定まる。三年、征虜左副副将軍を以て大將軍に従い出でて定西を定む。擴廓車道峴に屯す、愈直ちにその壘に抵り、柵を立ててこれを逼り、擴廓敗走す。兵を分かち自ら臨洮より進み河州を克ち、吐蕃諸酋長を招諭し、宣慰何鎖南普等皆印を納め請い降る。王を西黄河に追い、黒松林に抵り、その大将を破り斬る。河州以西の朵甘・烏斯蔵諸部悉く帰附す。甘肅西北数千里に出でて還る。功を論じ開國輔運推誠宣力武臣・特進榮祿大夫・右柱國を授け、衛国公に封じ、軍國事に参じ、歳禄三千石、世券を予う。

四年蜀を伐つに、愈を命じて襄陽に赴き軍馬を練り、糧を運び軍士に給せしむ。五年、辰・澧諸蠻乱を作す、愈を以て征南将軍とし、江夏侯周德興・江陰侯吳良を副とす。これを討つ。愈楊璟・黃彬を帥い澧州より出で、四十八洞を克ち、また房州の反者を捕え斬る。六年、右副将軍を以て徐達に従い西北辺を巡る。十年、吐番川藏梗みを為し、貢使を剽す、愈征西将軍を以て副将軍沐英とともにこれを討つ。兵を分かち三道と為し、窮追して昆侖山に至り、俘斬万計、馬牛羊十余万を獲、兵を留め諸要害に戍し乃ち還る。道中病み、寿春に至り卒す、年四十一。追って甯河王に封じ、諡して武順と曰う。

長子 鎮

長子の鎮が嗣ぎ、改めて申国公に封ぜられ、征南副将軍として永新・竜泉の山賊を平定す。再び塞外に出て功あり。その妻は李善長の外孫なり、善長敗るるや、奸党に坐して誅せらる。

鎮の弟 銘

弟の銘は錦衣衛指揮僉事、蛮を征し、軍中に卒す。

鎮の子 源

子の源ありて鎮の後を為す。

源の孫 炳

弘治中、源の孫の炳を南京錦衣衛世指揮使に授く。

炳の子 継

嘉靖十一年、詔して炳の子の継坤を定遠侯に封ず。五伝して文明に至り、崇禎末、流賊の難に死す。

湯和

湯和、字は鼎臣、濠の人、太祖と同里閈なり。幼より奇志あり、嬉戯に嘗て騎射を習い、群児を部勒す。長ずるに及び、身長七尺、倜儻として計略多し。郭子興初めて起つや、和は壮士十余人を帥いてこれに帰し、功により千戸を授かる。太祖に従い大洪山を攻め、滁州を克ち、管軍総管を授かる。和州を取るに従う。時に諸将多く太祖と等夷にして、肯て下たる者なし。和は太祖より三歳長く、独り約束を奉じて甚だ謹み、太祖甚だこれを悦ぶ。太平を定むるに従い、馬三百を獲る。陳野先を撃つに従い、流矢左股に中るも、矢を抜きて復た闘い、遂に諸将とともに野先を破り擒う。別に溧水・句容を下し、集慶を定むるに従う。徐達に従い鎮江を取り、統軍元師に進む。奔牛・呂城を徇い、陳保二を降す。金壇・常州を取り、和を以て枢密院同僉と為しこれを守らしむ。

常に呉と境を接し、張士誠の間諜百出するも、和防禦厳密にして、敵窺うこと能わず。再び寇し、再び撃ちてこれを却け、俘斬千計。無錫を進攻し、錫山において呉軍を大破し、莫天祐を走らせ、その妻子を獲、中書左丞に進む。舟師を以て黄楊山を徇い、呉の水軍を敗り、千戸四十九人を獲、平章政事を拝す。長興を援け、張士信と城下に戦う。城中の兵出でて夾撃し、これを大敗せしめ、卒八千を俘え、囲みを解いて還る。江西の諸山寨を討ち平らぐ。永新の守将周安叛く、進撃してこれを敗り、その十七寨を連破し、城を三月囲み、これを克ち、安を執えて献じ、還りて常州を守る。大軍に従い士誠を伐ち、太湖の水寨を克ち、呉江州を下し、平江を囲み、閶門に戦い、飛礮左臂を傷つく、応天に召し還され、創癒えて復た往き、これを攻克す。功を論じて金帛を賜う。

初めて御史台を建つるや、和を以て左御史大夫兼太子諭徳と為す。尋いで征南将軍を拝し、副将軍呉禎とともに常州・長興・江陰の諸軍を帥い、方国珍を討つ。曹娥江を渡り、餘姚・上虞を下し、慶元を取る。国珍海に走り入る、追撃してこれを敗り、その大帥二人・海舟二十五艘を獲、斬馘算うるに遑あらず、還りて諸属城を定む。使を遣わし国珍を招く、国珍軍門に詣で降り、卒二万四千・海舟四百余艘を得る。浙東悉く定まる。遂に副将軍廖永忠とともに陳友定を伐ち、明州より海道を由り風に乗じて福州の五虎門に抵り、師を南台に駐め、人をして降を諭さしむ。応ぜず、遂にこれを囲む。平章曲出を城下に敗る。参政袁仁降を請う、遂に城に乗りて入る。兵を分かち興化・漳・泉及び福寧の諸州県を徇う。進みて延平を抜き、友定を執えて京師に送る。時に洪武元年正月なり。

大軍方に北伐せんとし、命じて明州に舟を造らしめ、糧を運び直沽に輸ぜしむ。海に颶風多く、鎮江に輸して還る。偏将軍を拝す。大将軍に従い西征し、右副将軍馮勝とともに懐慶より太行を逾え、澤・潞・晉・絳の諸州郡を取る。大将軍に従い河中を抜く。明年、河を渡り潼関に入り、兵を分かち涇州に趨り、部将をして張良ちょうりょう臣を招降せしむ、既にして叛き去る。会に大軍慶陽を囲み、これを執斬す。又明年、復た右副副将軍を以て大将軍に従い拡廓を定西に敗り、遂に寧夏を定め、北に逐って察罕脳児に至り、猛将虎陳を擒え、馬牛羊十余万を獲る。東勝・大同・宣府を徇いて皆功あり。還り、開国輔運推誠宣力武臣・栄禄大夫・柱国を授かり、中山侯に封ぜられ、歳禄千五百石、世券を賜う。

四年、征西将軍を拝し、副将軍廖永忠とともに舟師を帥い江を溯り夏を伐つ。夏人兵を以て険を扼し、攻めて克たず。江水暴漲し、師を大渓口に駐め、久しく進まず、而して傅友徳は既に秦・隴より深入し、漢中を取る。永忠先駆して瞿塘関を破り、夔州に入る。和乃ち軍を引きてこれに継ぎ、重慶に入り、明升を降す。師還るや、友徳・永忠は上賞を受け、而して和は及ばず。明年、大将軍に従い北伐し、敵に断頭山に遇い、戦いに敗れ、指揮一人を亡う。帝問わず。尋いで李善長とともに中都の宮闕を営む。北平に鎮し、彰徳城を甓す。察罕脳児を征し、大捷す。九年、伯顔帖木児辺患を為す、征西将軍として延安を防ぐ。伯顔和を乞う、乃ち還る。十一年春、信国公に進封せられ、歳禄三千石、軍国事を議す。数え出でて中都・臨清・北平に軍伍を練り、城郭を完うす。十四年、左副将軍として塞に出で、乃児不花を征し、敵の灰山営を破り、平章別裏哥・枢密使久通を獲て還る。十八年、思州蛮叛く、征虜将軍として楚王に従いこれを討ち平らげ、俘獲四万、その酋を擒えて帰る。

湯和は沈着で機敏、智謀に富み、酒の過ちが多かった。常州を守備していた時、太祖に事を請うたが許されず、酔って怨言を吐いた、「我がこの城を鎮めれば、屋根の棟に坐するが如く、左を顧みれば左に、右を顧みれば右に(自在に動かせる)。」と。太祖はこれを聞いて恨みを抱いた。中原平定の軍が帰還し功績を論ずるに当たり、湯和が福建征討の際に陳友定の残党を放逐したため、八郡が再び擾乱し、軍が帰還する途中、秀蘭山の賊に襲撃され、指揮二人を失ったことを理由に、公に封ぜられることはなかった。蜀征伐から帰還した時、面と向かってその逗留・遅滞の罪を数え上げた。湯和が頓首して謝罪したので、やっと許された。信国公に封ぜられた時にも、なお常州での過失を数え上げ、その証券に刻み付けた。当時、帝の年齢は次第に高くなり、天下は平穏で、魏国公(徐達)・曹国公(李文忠)は既に死去しており、諸将が長く兵権を握ることを望まず、発端がなかった。湯和が隙を見て穏やかに言上した、「臣は犬馬の齢も長く、再び駆使されるに堪えません。故郷に帰り、棺を容れる丘墓を求め、骸骨を待ちたいと存じます。」と。帝は大いに喜び、直ちに宝鈔を賜り中都に邸宅を造営させ、併せて諸公・侯の邸宅も造営させた。

やがて倭寇が上海を侵し、帝はこれを憂い、湯和を見て言った、「卿は老いてはいるが、強いて朕のために一行せよ。」と。湯和は方鳴謙と共に行くことを請うた。鳴謙は方国珍の甥であり、海事に通じていたので、常に倭寇防禦の策を尋ねた。鳴謙は言った、「倭は海上から来るならば、海上でこれを防禦すべきです。地の遠近を測り、衛所を設置し、陸では歩兵を集め、水上では戦艦を備えれば、倭は侵入できず、侵入しても岸に近づくことができません。近海の民で四丁のうち一丁を徴兵して軍とし、これを守備に当たらせれば、客兵(他地域からの援軍)を煩わす必要はありません。」と。帝はこれを良しとした。湯和はそこで浙江の東西を測量し、海沿いに衛所城五十九を設置し、壮丁三万五千人を選んでこれを築かせ、州県の銭を全て出し、また罪人の財産を没収して労役に充てた。役夫は往々にして期待以上であったが、民衆に擾乱が無いわけではなく、浙江の人々はこれを大いに苦しんだ。ある者が湯和に言った、「民が怨嗟しています。どうしましょうか。」と。湯和は言った、「遠大な計画を成す者は近き怨みを顧みず、大事を任ずる者は細かい謹みに拘らない。もしまた怨嗟する者がいれば、我が剣にかける。」と。一年余りで城は完成した。軍の配置を調べ、考課の基準を定め、賞賜の法令を立てた。浙東の民で四丁以上の家は、一戸より一丁を取ってこれを守備させ、合わせて五万八千七百余人を得た。翌年、福建の海沿いの城の工事が完了し、湯和は帰還して復命し、中都の新邸も完成した。湯和は妻子を率いて宮中で別れの挨拶をし、黄金三百両・白金二千両・宝鈔三千錠・彩幣四十副を賜り、夫人胡氏への下賜もこれに等しかった。併せて璽書を下して褒め諭し、諸功臣でこれに比ぶ者はいなかった。これより湯和は毎年一度京師に朝見した。

二十三年、正月の朝賀に参列し、病に罹って声を失った。帝は即日見舞いに行き、しばらく嘆き惜しみ、帰郷させた。病が少し快方に向かうと、またその子を命じて都に迎えさせ、安車で内殿に入らせ、宴労は至れり尽くせりで、金帛・御膳・法酒を次々と賜った。二十七年、病が次第に重くなって起き上がれなくなった。帝は面会を望み、詔を下して安車で入朝させ、手で撫でながら、郷里の旧事や兵乱の艱難について詳しく語り合った。湯和は返答できず、ただ稽首するのみであった。帝は涙を流し、葬儀費用として厚く金帛を賜った。翌年八月に卒去、七十歳。東甌王を追封され、諡は襄武。

湯和は晩年ますます恭順・慎重になり、朝廷の議論を聞いても、一言も外に漏らさなかった。側妾百余人は、病後に全て財産を与えて帰した。得た賞賜は多くを郷里に分け与え、布衣時代の旧友や遺老に会えば、和やかに喜んだ。当時、公・侯の諸宿将は奸党に連座し、次々と法に触れ、免れる者は稀であったが、湯和のみが長寿を享け、功名を全うして終わった。嘉靖年間、東南は倭寇の患いに苦しんだが、湯和が築いた沿海の城砦は皆堅固で、久しく崩れず、浙江人はこれによって自衛し、多くがその功績を称え慕った。巡按御史が朝廷に請うて、廟を立てて祭祀した。湯和に五人の子あり。

長子は湯鼎。

長子の湯鼎は前軍都督僉事となり、雲南征討に従軍し、途中で卒去した。

末子は湯醴。

末子の湯醴は、功を積んで左軍都督同知となり、五開征討に従軍し、軍中で卒去した。

来孫は湯紹宗。

湯鼎の子は湯晟、湯晟の子は湯文瑜、共に早世し、爵を継ぐことができなかった。英宗の時、湯文瑜の子湯傑が爵位継承を請うたが、結局四十余年も襲爵していないことを理由に、取りやめとなった。湯傑に子がなく、弟の湯倫の子湯紹宗を後継とした。孝宗が功臣の子孫を登用した時、湯紹宗に南京錦衣衛世襲指揮使を授けた。嘉靖十一年に霊璧侯に封ぜられ、禄千石を食んだ。子から孫の湯世隆に伝わり、隆慶年間に南京を協守し、後軍都督府を兼ね、提督漕運に転じ、四十余年在職し、功労により太子太保を加えられ、少保に進んだ。卒去し、諡は僖敏。爵位は明が滅亡するまで伝わり、そこで絶えた。

曾孫は湯胤勣。

湯和の曾孫湯胤勣、字は公讓。諸生となり、詩をよくし、才気に任せて気炎を上げた。巡撫尚書周忱が啓事(書状)を作らせると、即座に数万言を書き上げた。周忱が朝廷に推薦した。少保于謙が召して古今の将略や兵事について尋ねると、湯胤勣は響くように応答した。累進して錦衣千戸となった。中書舎人趙栄と共に沙漠で英宗に謁し、脱脱不花が明朝の事情を問うと、慷慨として応答し少しも屈しなかった。景泰年間、尚書胡濙の推薦により、指揮僉事を代行した。天順年間、錦衣衛の偵察者が湯胤勣の旧事を摘発して上聞に達し、民に落とされた。成化初年、元の官に復した。三年に署都指揮僉事に抜擢され、延綏東路参将となり、孤山堡を分守した。孤山は最も寇の衝に当たり、湯胤勣は城を築き糧を集め、兵を増やして守備することを上奏して請うた。返答がないうちに、寇が大挙して来襲した。湯胤勣は病んでいたが、病を押して馬に乗り、伏兵に陥って戦死した。事が上聞に達し、例に従って贈官・祭祀が行われた。

沐英

沐英、字は文英、定遠の人。幼くして孤児となり、母に従って兵乱を避けたが、母もまた死んだ。太祖と孝慈皇后がこれを憐れみ、養子とし、朱姓を名乗らせた。十八歳で帳前都尉に任じられ、鎮江を守備した。やがて指揮使に昇進し、広信を守備した。後に大軍に従って福建を征し、分水関を破り、崇安を攻略し、別働隊で閔溪十八寨を破り、馮穀保を縛った。この時初めて元の姓に復することを命じられた。建寧に移鎮し、邵武・延平・汀州の三衛を統轄した。まもなく大都督府僉事に昇進し、同知に進んだ。府中の機務は煩雑に積もっていたが、沐英は若年で明敏であり、裁断に滞りがなかった。馬皇后はしばしばその才能を称え、帝もまたこれを重んじた。

洪武九年、駅伝に乗って関中・陝西に赴き、熙河に至り、民の疾苦を問い、不便な事があれば、改めて置いて上奏することを命じられた。翌年、征西副将軍を充てられ、衛国公鄧愈に従って吐蕃を討ち、西は川・蔵を攻略し、昆侖に兵威を示した。功績多く、開国輔運推誠宣力武臣・栄禄大夫・柱国・西平侯に封ぜられ、禄二千五百石を食み、世襲の証券を与えられた。翌年、征西将軍に任ぜられて西番を討ち、土門峡でこれを破った。洮州に直行し、その首長阿昌失納を捕らえ、東籠山に城を築き、酋長の三副使癭嗉子らを撃ち捕らえ、朵甘納児七站を平定し、数千里の地を拓き、男女二万人・雑畜二十万余りを捕虜とし、そこで軍を返した。元の国公脱火赤らが和林に駐屯し、しばしば辺境を擾乱した。十三年、沐英に陝西の兵を総率させて塞外に出撃し、亦集乃路を攻略し、黄河を渡り、賀蘭山に登り、流砂を渡り、七日でその地に至った。四翼に分けて夜襲をかけ、自らは精鋭騎兵を率いてその中堅を衝いた。脱火赤及び知院愛足らを捕らえ、その全軍を捕虜として帰還した。翌年、また大将軍に従って北征し、別路から塞外に出撃し、公主山長寨を攻略し、全寧四部を陥落させ、臚朐河を渡り、知院李宣を捕らえ、その衆を全て捕虜とした。

まもなく征南右副将軍に任ぜられ、永昌侯藍玉とともに将軍傅友徳に従って雲南を攻め取った。元の梁王は平章達里麻に兵十余万を率いさせて曲靖で防がせた。沐英は霧に乗じて白石江に急行した。霧が晴れると両軍は相望み、達里麻は大いに驚いた。友徳は江を渡ろうとしたが、英は言った、「我が兵は疲れており、敵に抑えられることを恐れる」。そこで諸軍を率いて厳しく陣を整え、渡河しようとするかのように見せかけた。一方で奇兵を下流から渡らせ、敵陣の背後に出て、山谷の間に疑兵の旗幟を掲げさせ、兵士に銅角を吹かせた。元兵は驚き乱れた。英は急いで軍を指揮して江を渡らせ、水泳の巧みな者を先頭に立て、長刀で敵軍を斬りつけた。敵軍は退き、全軍が渡り終えた。激戦が長く続いた後、さらに鉄騎を放つと、遂に大いにこれを破り、達里麻を生け捕りにし、死体は十余里に及んだ。長駆して雲南に入り、梁王は逃げて死に、右丞観音保は城を挙げて降り、所属の郡は皆陥落した。ただ大理だけが点蒼山・洱海に倚り、龍首・龍尾の二関を扼していた。関はもと南詔が築いたもので、土酋の段世がこれを守っていた。英は自ら軍を率いて下関に至り、王弼を遣わして洱水の東から上関に急行させ、胡海を遣わして石門の間道から河を渡り、点蒼山を攀じ登らせて旗幟を立てさせた。英は流れを乱して関を斬り進み、山上の軍も馳せ下り、挟撃して段世を生け捕りにし、遂に大理を抜いた。兵を分けて未だ従わぬ諸蛮を平定し、官を置き衛を立てて守らせた。軍を返し、友徳と滇池で合流し、分道して烏撒・東川・建昌・芒部の諸蛮を平定し、烏撒・畢節の二衛を立てた。土酋の楊苴らが再び諸蛮二十余万を煽動して雲南城を包囲した。英は急行して救援し、蛮族は潰走して山谷に逃げ込み、兵を分けて捕らえ滅ぼし、首級六万を斬った。翌年、詔により友徳及び藍玉は軍を返し、英を留めて滇中を鎮守させた。

十七年、曲靖の亦佐の酋長が乱を起こしたので、討伐して降伏させた。これにより普定・広南の諸蛮を平定し、田州への糧道を通じた。二十年、浪穹の蛮を平定し、詔により永寧から大理まで六十里ごとに一堡を設け、軍を留めて屯田させた。翌年、百夷の思倫発が叛き、群蛮を誘って摩沙勒寨に侵入したので、都督甯正を遣わしてこれを撃破した。二十二年、思倫発が再び定辺に侵入し、その勢いは三十万と号した。英は騎兵三万を選んで急行救援し、火砲と強弩を三列に配置した。蛮族は百頭の象を駆り、甲を着け欄楯と盾を背負い、左右に大竹の筒を挟み、筒には標槍を置き、鋭利であった。英は軍を三つに分け、都督馮誠に前軍を率いさせ、甯正に左軍を、都指揮同知湯昭に右軍を率いさせた。戦おうとする時、命令して言った、「今日のことは、進むのみで退くことはない」。そこで風に乗じて大声で叫び、弩を一斉に放つと、象は皆反転して走った。昔剌亦という者は、賊の勇将であり、死に物狂いで戦い、左軍が少し退いた。英は高みに登ってこれを見て、佩刀を取り、左右に命じて将帥の首を斬って来させた。左軍の将帥は一人が刀を握って馳せ下るのを見て、恐れ、奮呼して敵陣に突入した。大軍がこれに乗じ、四万余人を斬り、三十七頭の象を生け捕りにし、残りの象は全て殺した。賊の渠帥は各々百余りの矢を受け、象の背に伏して死んだ。思倫発は逃げ去り、諸蛮は震え恐れ、麓川は初めて再び障害とならなくなった。やがて、穎国公傅友徳とともに東川蛮を討伐平定し、また越州の酋長阿資及び広西の阿赤部を平定した。この年冬、入朝し、奉天殿で宴を賜り、黄金二百両・白金五千両・鈔五百錠・彩幣百匹を賜り、帰還を命じられた。辞去の際、帝は自らその背を撫でて言った、「我が高枕して南顧の憂い無からしめる者は、汝、英である」。鎮に戻り、再び百夷を景東で破った。思倫発は降伏を乞い、地方の産物を貢いだ。阿資がまた叛いたので、撃って降伏させた。南中は悉く平定された。使者を遣わして兵威をもって諸蕃を諭して降伏させると、蕃部には重訳して入貢する者もあった。

二十五年六月、皇太子の崩御を聞き、哭して極めて哀痛した。初め、高皇后が崩御した時、英は哭して血を吐くに至った。この時、病に感じ、鎮守の地で卒去した。享年四十八。軍民は巷で哭し、遠方の夷人も皆涙を流した。帰葬して京師に葬り、黔寧王を追封され、諡は昭靖、太廟に配享された。

英は沈毅で笑いを寡くし、賢者を好み士を礼遇し、兵卒を撫でて恩があり、妄りに殺すことはなかった。滇にあっては、百般の事務を挙行し、守令を簡選し、農桑を督励し、毎年屯田の増減を較べて賞罰の根拠とし、開墾した田は百万余畝に至った。滇池が狭かったので、浚渫して広げ、水害は再び無くなった。塩井の利を通じて商旅を招き、地方の産物を辨別して貢税を定め、民の数を見て力役を均した。節は疏く目は闊で、民は便利で安んじた。平素は読書して巻を離さず、暇あれば諸儒生を招いて経史を講説させた。太祖が初めに挙兵した時、しばしば他姓の子を養子とし、郡邑を攻め落とすと、すぐにこれを遣わして守らせ、二十余人に及んだが、ただ英のみが西南で勲功最大であった。子の春・晟・昂は皆雲南を鎮守した。昕は駙馬都尉となり、成祖の女常寧公主を娶った。

子 春

春、字は景春、武勇の才があり父の風があった。十七歳の時、英に従って西番を征し、また雲南征伐に従い、江西の賊平定に従い、皆先鋒を務めた。功を積んで後軍都督府僉事に任ぜられた。群臣が試職を請うたが、帝は言った、「児は我が家人である、試すには及ばない」。そこで実授を与えた。かつて烈山の囚人を記録させ、また蔚州で叛党を審問させ、それぞれ数百人を釈放した。英が卒去すると、爵を嗣ぎ、雲南を鎮守することを命じられた。洪武二十六年、維摩の十一寨が乱を起こしたので、瞿能を遣わして討伐平定させた。翌年、越巂蛮を平定し、瀾滄衛を立てた。その冬、阿資が再び叛いたので、何福とともにこれを討った。春は言った、「この賊は積年誅を逃れてきた者で、諸土酋と姻戚関係にあるため、転々として逃亡潜伏している。今、諸酋を悉く発して軍に従わせ、これを繋ぎ留め、多く営堡を設けてその出入りを制すれば、必ずや首を授けよう」。そこで越州に急行し、分道してその城に迫り、精兵を道の左に伏せ、弱卒をもって賊を誘い、放って撃ち大いにこれを破った。阿資は谷の中に逃れたが、春は密かに近傍の土官と結び、その所在を探知し、柵を立ててその糧道を断った。賊は甚だ困窮した。やがて、不意を突いてその巣窟を撃つと、遂に阿資を生け捕りにし、併せてその党二百四十人を誅した。越州は遂に平定された。広南の酋長儂貞佑が党蛮を糾合して官軍に抵抗したので、破ってこれを生け捕りにし、捕虜と斬首は千を数えた。寧遠の酋長刀拜爛が交趾に依って命令に従わなかったので、何福を遣わして討伐降伏させた。

三十年、麓川宣慰使思倫発がその配下の刀幹孟に追い逐われた。来奔した。春はこれを伴ってともに朝し、上方の策略を受け、そこで春を征虜前将軍に任じ、何福・徐凱を率いてこれを討たせた。先ず兵をもって思倫発を金歯に送り、幹孟に檄を飛ばして来迎させた。応じなかった。そこで兵卒五千を選び、福と瞿能に率いさせ、高良公山を越え、直ちに南甸を搗き、大いにこれを破り、その酋長刀名孟を斬った。軍を返して景罕寨を撃った。賊は高所に乗じて堅く守り、官軍の糧食は将尽き、福が危急を告げた。春は五百騎を率いてこれを救援した。夜に怒江を渡り、朝に寨に到着し、騎兵に馳せよと命じ、塵を揚げて天を蔽うと、賊は大いに驚き潰走した。乗勝して崆峒寨を撃つと、これも潰走した。前後して降伏する者は七万人に及んだ。将士がこれを屠ろうとしたが、春は許さなかった。幹孟が降伏を乞うたが、帝は許さず、春に命じて滇・黔・蜀の兵を総括して攻撃させた。未だ発しないうちに春が卒去した。享年三十六。諡は惠襄。

春は鎮守すること七年、大いに屯政を修め、田三十余万畝を開墾し、鉄池河を鑿って宜良の渇田数万畝を灌漑し、再び生業に就いた民は五千余戸に及び、祠を立ててこれを祀った。子が無く、弟の晟が嗣いだ。

子 晟

沐晟は、字を景茂といい、幼少より重厚沈着で、言葉少なく笑顔も少なく、読書を好んだ。太祖(朱元璋)は彼を寵愛した。後軍左都督の官を歴任した。建文元年に侯爵を継承した。任地に赴こうとした時には、既に何福が刀幹孟を破って捕らえ、思倫発を帰還させていた。間もなく、思倫発が死ぬと、諸蛮がその地を分割占拠したので、沐晟はこれを討伐平定した。その地を三つの府と二つの州、五つの長官司とし、さらに怒江の西に屯衛千戸所を設置して守備させたため、麓川はついに平定された。初め、岷王が雲南に封ぜられたが、法に従わず、建文帝によって幽閉された。成祖が即位すると、彼を藩国に帰らせたが、ますます驕慢で勝手になった。沐晟は少しばかり彼を抑えようとした。王は怒り、沐晟を讒言した。帝は王のためを思って詔を下し沐晟を戒めるとともに、岷王に書を送り、その父(沐英)の功績を称え、過ちを責めないよう伝えた。

永楽三年、八百大甸が辺境を侵し、貢使を妨げたので、沐晟は車裏・木邦と合流して討伐平定した。翌年、大軍を動員して交趾を討つこととなり、沐晟は征夷左副将軍に任ぜられ、大将軍張輔と別々の道から雲南より進軍した。そこで蒙自より野蒲を直行し、木を伐って道を開き、猛烈・掤華などの関隘を奪取した。夜に船を担いで洮水を出て、富良江を渡り、張輔と会師した。共に多邦城を破り、その東西の二都を陥れ、諸々の巣窟を掃討し、偽王黎季犛を生け捕りにした。詳細は『張輔伝』にある。功績により黔国公に封ぜられ、歳禄三千石を与えられ、世券を授けられた。

交趾の簡定が再び反乱を起こすと、命を受けて沐晟は征夷将軍の印を佩用してこれを討ち、生厥江で戦ったが敗北した。張輔が再び出師して合流討伐し、簡定を捕らえて京師に送った。張輔が帰還すると、沐晟は残留して陳季拡を捕らえようとしたが、連戦しても陥落させられなかった。張輔が再び出師して沐晟と合流し、占城まで追撃し、陳季拡を捕獲してからようやく凱旋し、沐晟も上賞を受けた。十七年、富州の蛮が反乱すると、沐晟は兵を率いて臨んだが、攻撃せず、人を遣わして諭し理解させ、ついにこれを降した。

仁宗が即位すると、太傅を加えられ、征南将軍の印を鋳造して与えられた。沐氏の後継ぎで鎮守する者は、常として印を与えられることとなった。宣徳元年、交趾の黎利の勢いが盛んになると、詔により沐晟は安遠侯柳升と合流して進軍討伐することとなった。柳升は敗死し、沐晟も兵を退いた。群臣が相次いで沐晟を弾劾したが、帝はそれらの上奏文を封じて彼に見せた。正統三年、麓川の思任発が反乱した。沐晟は金歯に到着し、弟の沐昂及び都督方政と兵を合わせた。方政が先鋒となり、賊の沿江の諸寨を破り、大軍は敗走する敵を高黎共山の下まで追撃し、再びこれを破った。翌年、さらにその旧寨を破った。方政が伏兵に遭って戦死し、官軍は大敗した。沐晟は兵を引き返し、慚愧と恐懼のあまり発病し、楚雄に至って卒去した。定遠王を追贈され、諡は忠敬といった。

沐晟は父兄の業を継ぎ、用兵は得意とするところではなく、戦いで幾度も不利であった。朝廷はその地が極めて遠方であり、かつ代々の将軍であることを考慮し、寛大に扱った。一方で滇の人々は沐晟父子の威信に畏れ服し、朝廷に対するように恭しく仕えた。一片の書状が下ると、土酋は威儀を整えて城外まで出迎え、手を洗ってから開封し、「これは令旨である」と言った。沐晟は長く鎮守し、三百六十区画の田園を設け、資財は豊富に満ち、朝廷の貴人に巧みに仕え、賄賂や贈り物を絶やさず、それゆえに朝廷内外での名声を得た。沐晟には子の沐斌がおり、字は文輝といい、幼くして公爵を継承し、京師に居住し、代わりに沐昂が鎮守した。

子 沐昂

沐昂は、字を景高といい、初め府軍左衛指揮僉事であった。成祖が沐晟を南征させようとした時、沐昂を都指揮同知に抜擢し、雲南都司を統率させ、累進して右都督に至った。正統四年に将印を佩用し、麓川を討伐し、金歯に到着した。賊の勢いの盛んなのを恐れ、長く遷延した。参将張栄が先鋒として芒部に至って敗北したが、沐昂は救援せず、兵を引き返したため、官位を二階級降格された。後に、思任発が侵入してきたが、これを撃退し、また師宗の反乱者を捕らえて斬った。六年、兵部尚書王驥・定西伯蔣貴が大軍を率いて思任発を討つこととなり、沐昂は糧食輸送を主管した。賊が破られると、沐昂の官職を復し、軍を督して思任発を捕らえるよう命じたが、得られなかった。十年、沐昂は卒去した。定辺伯を追贈され、諡は武襄といった。

沐斌が初めて鎮守に赴いた時、ちょうどミャンマーが思任発を捕らえて京師に送り、その子の思機発が襲来してきたので、沐斌はこれを撃退した。思機発は再び孟養を占拠した。十三年、再び大軍を動員し、王驥らにこれを討伐させ、沐斌は後詰めとなり、糧秣の監督に不足がなかった。卒去し、太傅を追贈され、諡は栄康といった。子の沐琮は幼かったので、景泰初年、沐昂の孫である沐璘を都督同知として代わりに鎮守させた。

沐昂の孫 沐璘

沐璘は字を廷章といい、平素より儒雅であったが、滇の人々は彼を軽んじた。しかしその後、号令は厳然として犯しがたいものとなり、天順初年に卒去した。

沐昂の孫、沐璘の弟 沐瓚

沐琮がなお幼かったため、沐璘の弟で錦衣副千戸の沐瓚を都督同知に抜擢し、代わりに赴かせた。七年間在任し、先後に沾禄諸寨及び土官で兵を構える者を討伐平定し、思卜発を降伏させ、諸蛮が侵した土地を取り戻させた。功績は多かったが、かなり財貨を貪った。

成化三年春、沐琮が初めて鎮守に赴き、沐瓚を副総兵とし、金歯に移鎮させた。

沐晟の孫、沐斌の子 沐琮

沐琮は字を廷芳といい、経書の義理に通じ、詩文を作ることができ、属する夷からの贈り物は一切受け取らなかった。尋甸の酋長が兄の子を殺し、守備官になることを求めたが、沐琮はこれを捕らえて誅殺した。広西の土官が虐政を行い、配下が反乱を起こしたので、沐琮は流官を改めて設置するよう請い、民は大いに便利を得た。順次、馬龍・麗江・剣川・順寧・羅雄の諸叛蛮を討伐平定し、橋甸・南窩の反乱者を捕らえた。卒去し、太師を追贈され、諡は武僖といった。子がなく、沐瓚の孫の沐崑を後継ぎとした。

昂の玄孫、瓚の孫 昆

昆は字を元中と為し、初め錦衣指揮僉事を襲ぐ。琮これを撫でて子と為す。朝議、昆は西平侯の裔孫にして侯を嗣ぐべきと為すも、守臣争いて、滇人は黔国公を知りて西平侯を知らず、侯と為せば恐らく軽んぜられんと謂う。孝宗然りと為し、公を嗣がしめ、印を佩くこと旧の如しと令す。弘治十二年、亀山・竹箐の諸蛮を平らげ、また普安の賊を平らげ、再び歳禄を益す。正徳二年、師宗の民阿本乱を作し、都御史呉文度と兵を督し三道に分かれて進む。一は師宗より出で、一は羅雄より出で、一は弥勒より出で、別に一軍を遣わし盤江に伏せ、賊の巣を遮断し、遂に大いにこれを破る。七年、安南長官司那代襲を争い、土官を殺す。復た都御史顧源とこれを討ち擒らえ、再加えて太子太傅と為す。昆は初め文学を喜び、自ら矜り厲しむも、その後権近に賂を通じ、請う所得ざる無し。漸く驕り、三司を凌ぎ、角門より入らしむ。諸言官論劾する者は、輒ち罪を得て去る。卒し、太師を贈られ、諡して荘襄と曰う。

昆の子 紹勳

子紹勳嗣ぐ。尋甸の土舎安銓叛し、都御史傅習これを討つも、敗績す。武定の土舎鳳朝文も亦叛し、銓と兵を連ねて雲南を攻め、大いに擾う。世宗、尚書伍文定を遣わし大軍を将いてこれを征せしむ。未だ至らざるに、紹勳督す所部を率いて先進し、土官の子弟襲ぐべき者に告げ、先ず冠帯を予け、賊を破りて後当に請わんと為す。衆多く奮戦し、賊大いに敗る。朝文普渡河を絶ちて走り、東川に追斬す。銓尋甸に還り、砦数十を列ね、官軍これを攻め破り、銓を芒部に擒らう。先後賊党千余人を擒らえ、俘斬算に遑あらず。時に嘉靖七年なり。捷聞き、太子太傅を加え、歳禄を益す。而して是の時、老撾・木邦・孟養・緬甸・孟密相仇殺し、師宗・納楼・思陀・八寨皆乱れ、久しく解けず。紹勳使者をして諸蛮を遍歴せしめ、武定・尋甸の事を以て諷す。皆慴伏し、侵地を還すを願い、而して木邦・孟養倶に方物を貢ぎ謝罪す。南中悉く定まる。紹勳勇略有り、兵を用うれば輒ち勝つ。卒し、太師を贈られ、諡して敏靖と曰う。

紹勳の子 朝輔

子朝輔嗣ぐ。都御史劉渠賂を索む。朝輔これに与え、因りて上章して言う、「臣家世々この土を守り、上下相承く。今有司典制を紛更し、臣の職守に関し、率ね聞かず、接見故例に循わず。臣疏遠孤危にして、動作掣肘せられ、蛮方を弾圧するに以て無し。乞うらくは諸臣に申敕し、悉くその旧の如くせんことを。」詔これを許す。給事中万虞愷朝輔を劾し、併せて渠を論ず。詔渠を罷め、朝輔に治事を令すること旧の如しとす。卒し、太保を贈られ、諡して恭僖と曰う。

朝輔の弟 朝弼

二子融・鞏皆幼し。詔琮・璘の故事を視て、融に公を嗣がしめ、半禄を給し、朝輔の弟朝弼に都督僉事を授け、印を佩かしめて代わりに鎮せしむ。三年居りて、融卒す。鞏嗣ぐべきも、朝弼心にこれを害す。ここにおいて朝弼の嫡母李、鞏を護りて京師に居らしめ、その長ずるを待ちて還鎮せんことを請う。報ずるに可とす。鞏未だ京師に至らざるに卒す。朝弼遂に嗣ぐを得。嘉靖三十年、元江の土舎那鑒叛す。詔朝弼に都御史石簡とこれを討たしめ、五軍を分かってその城に薄る。城垂に抜かんとするに、瘴発して引き還る。詔簡を罷め、将に再び師を出さんとす。鑒懼れて仰薬して死す。乃ち已む。四十四年、叛蛮阿方李向陽を討ち擒らう。隆慶初め、武定の叛酋鳳継祖を平らげ、賊巣三十余を破る。朝弼素より驕り、母嫂に事えること礼の如くならず、兄の田宅を奪い、罪人蒋旭等を匿い、調兵火符を用いて人を遣わし京師を詗わしむ。乃ち朝弼を罷め、その子昌祚に嗣がしめ、半禄を給す。朝弼怏怏として、益々放縦す。母を葬りて南京に至る。都御史これを留めんことを請う。詔還って滇に帰るを許し、滇事に預かること無からしむ。朝弼恚り、昌祚を殺さんと欲す。撫按交章して状を言い、併せてその人を殺し番に通ずる諸の不法の事を発し、逮繫して詔獄に論じて死せしむ。功を援け、これを南京に錮す。卒す。

紹勳の孫、朝弼の子 昌祚

昌祚初め都督僉事総兵官を以て鎮守し、久しくして公爵を嗣ぐ。万暦元年、姚安の蛮羅思等叛し、郡守を殺す。昌祚都御史鄒応龍と土・漢兵を発してこれを討ち、向寧・鮓摩等十余寨を破り、その巣を犁き、尽く思等を得る。十一年、隴川の賊嶽鳳叛して緬甸に附き、その兵を挟みて旁近の土司を侵す。昌祚洱海に壁し、裨将鄧子龍・劉綎等を督し木邦の叛酋罕虔を斬り、暑瘴を以て師を退く。明年復た罕虔の故巣を攻め、三道併せ入り、その酋罕招等を擒らえ、また緬兵を猛臉に破る。嶽鳳降る。功を論じて太子太保を加え、悉く故禄を食む。復た以て次いで羅雄の諸叛蛮を平らげ、再び銀幣を賜う。緬兵猛広を攻む。昌祚師を会して永昌に壁す。緬人遁ぐ。那莫江に追撃し、瘴作して還る。二十一年、緬人復た寇す。昌祚これを逐う。連戦倶に捷し、遂に緬に傅わり、群蛮内乱に会して乃ち還る。

沐氏滇に在ること久しく、威権日々盛んにして、尊重親王に擬す。昌祚出づるに、僉事楊寅秋道を避けず。昌祚その輿人を笞す。寅秋朝に訴う。詔を下して切責す。已にして病を以て、子叡に命じて代わりに鎮せしむ。武定の土酋阿克叛し、会城を攻め、府印を脅いて去る。叡逮えられ下獄し、昌祚復た鎮事を理む。卒し、孫啓元嗣ぐ。卒し、子天波嗣ぐ。

紹勳の来孫、昌祚の曾孫 天波

十余年にして土司沙定洲乱を作し、天波永昌に奔る。乱定まり、復た滇に帰る。永明王由榔滇に入る。天波職に任ずること旧の如し。已にして従い奔りて緬甸に至る。緬人これを劫わんと欲すも、屈せずして死す。初め、沙定洲の乱に、天波の母陳氏・妻焦氏自ら焚死す。後天波緬に奔るに、妾夏氏従うに及ばず、自ら縊死す。数十日を逾えて収葬すも、支体壊れず。人以為う、節義の感ずる所なりと。

賛に曰く、明興の諸将、六王を以て称首と為す。独り功茂なるのみに非ず、亦その忠誠主知に契う有るに由るなり。親は岐陽の如きは莫く、旧は東甌の如きは莫し。而して寧河・黔甯皆英年を以て腹心の寄せに膺る。汗馬労を宣べ、純勤二ならず、旂常炳耀し、洵に愧じること無し。岐陽は詩を敦ね礼を説き、儒雅を以て重んぜられ、東甌は身を乞うて第に帰り、明哲を以て自ら全うす。皆卓然として人の能く及ぶ所に非ず。独り黔寧は威遐荒に震い、符を剖きて弈世し、勲名明と相終始す。而して寧河は瘴を尽くして馳駆し、功高く齢促かく、後嗣亦少なき所表見す。論者諸王の遺沢、隆替殊なる有りと謂うも、然れども中山に増寿有り、岐陽に景隆有るは、先烈を追溯すれば、遺憾無きにしも非ず。栄遇の斉しからざるも、亦安んぞその幸有り不幸有りやを見んや。