明史

列傳第十三 徐達 常遇春

徐達

徐達、字は天徳、濠の人、代々農を業とす。達は少にして大志あり、身長く顴高く、剛毅武勇なり。太祖が郭子興の部帥たりし時、達は時に年二十二、往きてこれに従い、一見して語合う。及びて太祖南略して定遠を定むるに、二十四人を帥いて往く、達は首としてこれに与る。尋いで従いて元兵を滁州澗に破り、従いて和州を取り、子興は達に鎮撫を授く。子興、孫徳崖を執るや、徳崖の軍もまた太祖を執る。達は身を挺して徳崖の軍に詣り代わることを請う。太祖乃ち帰るを得、達も亦免る。従いて江を渡り、採石を抜き、太平を取り、常遇春と皆軍鋒の冠たり。従いて元の将陳野先を破り擒え、別に将兵して溧陽・溧水を取り、従いて集慶を下す。太祖は身守りに居り、而して達を大将と為し、諸軍を帥いて東に鎮江を攻め、これを抜く。号令明粛、城中宴然たり。淮興翼統軍元帥を授く。

時に張士誠は已に常州を拠り、江東の叛将陳保二を挟み舟師を以て鎮江を攻む。達これを龍潭に敗る。遂に兵を益して以て常州を囲むことを請う。士誠、将来して援く。達は敵狡にして鋭く、力を以て取り易からずと為し、乃ち城を離れて二伏を設けて待ち、別に将王均用を遣わして奇兵と為し、而して自ら軍を督して戦う。敵退走して伏に遇い、これを大いに破り、其の張・湯の二将を獲、進みて常州を囲む。明年これを克つ。僉樞密院事に進む。継いで甯国を克ち、宜興を徇し、先鋒趙徳勝をして常熟を下さしめ、士誠の弟士徳を擒う。明年復た宜興を攻め、これを克つ。太祖自ら将として婺州を攻め、達を命じて応天を留守せしめ、別に兵を遣わして天完の将趙普勝を襲い破り、復た池州す。奉国上将軍・同知樞密院事に遷る。安慶を進攻し、無為より陸行し、夜浮山寨を掩い、普勝の部将を青山に破り、遂に潜山を克つ。還りて池州を鎮し、遇春と伏を設け、陳友諒の軍を九華山下に敗り、首級万人を斬り、三千人を生擒す。遇春曰く「此れ勁旅なり、殺さざれば後患と為らん」と。達は不可とし、乃ち状を以て聞く。而して遇春は先んじて夜その人を坑すること過半、太祖悦ばず、余衆を悉く縱ち遣わす。ここに於て始めて達を命じて諸将を尽く護らしむ。陳友諒龍江を犯す。達軍南門外にあり、諸将と力を戦いこれを破り、慈湖に追い及び、其の舟を焚く。

明年、漢を伐つに従い、江州を取る。友諒武昌に走る。達これを追う。友諒戦艦を沔陽に出だす。達漢陽沌口に営して以てこれを遏む。中書右丞に進む。明年、太祖南昌を定め、降将祝宗・康泰叛く。達沌口の軍を以てこれを討平す。安豊を援くるに従い、呉の将呂珍を破り、遂に廬州を囲む。会に漢人南昌を寇す。太祖達を召し廬州より来たり師を会せしむ。鄱陽湖に遇う。友諒の軍甚だ盛ん。達身諸将に先んじて力戦し、其の前鋒を敗り、千五百人を殺し、一巨舟を獲る。太祖敵の破るべきを知り、而して士誠の内犯を慮り、即ち夜達を遣わし還りて応天を守らしめ、自ら諸将を帥いて鏖戦し、竟に友諒を斃す。

明年、太祖呉王と称し、達を以て左相国と為す。復た兵を引いて廬州を囲み、其の城を克つ。江陵・辰州・衡州・宝慶諸路を略下し、湖・湘平らぐ。召し還り、遇春等を帥いて淮東を徇し、泰州を克つ。呉人宜興を陥す。達還り救いてこれを復す。復た兵を引いて江を渡り、高郵を克ち、呉の将士千余人を俘う。会に遇春淮安を攻む。呉軍を馬騾港に破り、守将梅思祖城を以て降る。進みて安豊を破り、元の将忻都を獲、左君弼を走らしめ、其の運艘を尽く得る。元兵徐州を侵す。迎え撃ち、これを大破し、俘斬万計。淮南・北悉く平らぐ。

師還る。太祖呉を征するを議す。右相国李善長これを緩むるを請う。達曰く「張氏汰にして苛、大将李伯升輩は徒らに子女玉帛を擁するのみ、与に易し。事を用うる者は黄・蔡・葉の三参軍、書生大計を知らず。臣主上の威徳を奉じ、大軍を以てこれを蹙めば、三呉は日を計りて定むべし」と。太祖大いに悦び、達を拝して大将軍と為し、平章遇春を副将軍と為し、舟師二十万人を帥いて湖州に薄る。敵三道より出で戦う。達も亦三軍を分かちてこれに応じ、別に兵を遣わして其の帰路を扼さしむ。敵戦い敗れて返走し、城に入るを得ず。還りて戦い、これを大破し、将吏二百人を擒え、其の城を囲む。士誠呂珍等を遣わし兵六万を以て赴き救わしめ、旧館に屯し、五寨を築きて自ら固む。達遇春等をして十壘を為さしめて以てこれを遮らしむ。士誠自ら精兵を以て来たり援く。これを皁林に大破す。士誠走る。遂に升山の水陸寨を抜く。五太子・硃暹・呂珍等皆降り、以て城下に徇す。湖州降る。遂に呉江州を下し、太湖より従い進みて平江を囲む。達は葑門に軍し、遇春は虎丘に軍し、郭子興は婁門に軍し、華雲龍は胥門に軍し、湯和は閶門に軍し、王弼は盤門に軍し、張温は西門に軍し、康茂才は北門に軍し、耿炳文は城東北に軍し、仇成は城西南に軍し、何文輝は城西北に軍し、長囲を築きてこれを困む。木塔を架して城中の浮屠と等しからしむ。別に台を三成築き、城中を瞰し、弓弩火筒を置く。台上又巨礮を置き、撃つ所輒ち糜碎す。城中大いに震う。達使いを遣わし事を請う。太祖勅してこれを労うて曰く「将軍謀勇絶倫、故に乱略を遏え、群雄を削ぐことを能くす。今事必ず命を稟く、此れ将軍の忠、吾甚だこれを嘉す。然れども将外に在りて、君禦えず。軍中の緩急、将軍其れ便宜に行うべし、吾中制せず」と。既にして平江破れ、士誠を執り、応天に伝送し、勝兵二十五万人を得る。城の将に破らんとするや、達遇春と約して曰く「師入るに、我其の左に営し、公其の右に営せよ」と。又令して士卒に曰く「民財を掠むる者は死し、民居を毀つ者は死し、営を離るる二十里の者は死す」と。既に入りて、呉人安堵故の如し。師還り、信国公に封ぜらる。

尋いで征虜大将軍を拝し、遇春を以て副と為し、歩騎二十五万人を帥い、北に中原を取り、太祖親しく龍江に祃す。是の時に名将と称するは、必ず達・遇春を推す。両人の才勇相類い、皆太祖の倚重する所なり。遇春は剽疾にして敢えて深く入る。而して達は尤も謀略に長ず。遇春は城邑を下すに誅僇無き能わず。達の至る所擾さず、即ち壮士と諜とを獲るも、恩義を以て結び、己が用いと為す。ここより多く大將軍に楽しく附く者あり。是に至り、太祖諸将に諭して軍を禦するに持重にして紀律あり、戦勝攻取して将の体を得る者は、大將軍達に如くは莫しと。又た達に謂いて、進取の方略は宜しく山東より始むべしと。師行き、沂州を克ち、守将王宣を降す。進みて嶧州を克つ。王宣復た叛く。撃ちてこれを斬る。莒・密・海諸州悉く下る。乃ち韓政をして兵を分かち河を扼せしめ、張興祖をして東平・済寧を取りしめ、而して自ら大軍を帥いて益都を抜き、濰・膠諸州県を徇下す。済南降る。兵を分かち登・萊を取る。斉地悉く定まる。

洪武元年、太祖は帝位に即き、徐達を右丞相とした。皇太子を冊立し、徐達を兼ねて太子少傅とした。副将軍常遇春は東昌を攻略し、済南で軍を合わせ、楽安の反乱者を撃ち斬った。軍を済寧に還し、水軍を率いて黄河を遡り、汴梁に向かった。守将李克彝は逃走し、左君弼・竹貞らは降伏した。かくて虎牢関より洛陽らくように入り、元将脱因帖木児と洛水の北で大戦し、これを破って敗走させた。梁王阿魯温は河南を以て降り、嵩・陝・陳・汝諸州を平定し、潼関を攻め落とした。李思斉は鳳翔に奔り、張思道は鄜城に奔った。かくて関に入り、西は華州に至った。

捷報が伝わると、太祖は汴梁に行幸し、徐達を行在所に召して酒を設け労い、かつ北伐を謀った。徐達は言った、「大軍は斉魯を平定し、河洛を掃討し、王保保(拡廓帖木児)は逡巡して観望しております。潼関は既に陥ち、李思斉らは狼狽して西に奔っております。元の声援は既に絶えました。今、勢いに乗じて直ちに元都を攻め落とせば、戦わずして得ることができましょう」。帝は言った、「善い」。徐達はさらに進言した、「元都を攻略し、その主が北走したならば、これを窮追いたしましょうか」。帝は言った、「元の運は衰えた。自ずから滅びるであろう。兵を窮めて煩わすには及ばぬ。塞を出た後は、封疆を固守し、その侵軼を防げばよい」。徐達は頓首して命を受けた。かくて副将軍と河陰で会師し、裨将を遣わして分道河北の地を巡行させ、相次いで衛輝・彰徳・広平を陥れた。軍は臨清に駐屯し、傅友徳に陸道を開かせて歩騎を通じさせ、顧時に河を浚わせて水軍を通じさせ、かくて軍を率いて北進した。常遇春は既に德州を攻略し、兵を合わせて長蘆を奪い、直沽を扼し、浮橋を作って軍を渡した。水陸並進し、河西務で元軍を大破し、進んで通州を攻略した。順帝は后妃・太子を率いて北去した。一日過ぎて、徐達は兵を斉化門に陳べ、濠を埋めて城に登った。監国淮王帖木児不花、左丞相慶童、平章迭児必失・朴賽因不花、右丞張康伯、御史中丞満川らは降らず、これを斬った。その他は一人も殺戮しなかった。府庫を封じ、図書宝物を籍没し、指揮張勝に兵千人を以て宮殿の門を守らせ、宦官に諸宮人・妃・主を護視させ、士卒に侵暴せざるを禁じた。吏民は安住し、市は肆を易えなかった。

捷報が伝わると、詔して元都を北平府とし、六衛を置き、孫興祖らを留めてこれを守らせ、徐達と常遇春に命じて山西を進取させた。常遇春は先ず保定・中山・真定を陥れ、馮勝・湯和は懐慶を下し、太行を越えて沢・潞を奪い、徐達は大軍を率いてこれに続いた。時に拡廓帖木児は兵を率いて雁門を出で、居庸より北平を攻めんとしていた。徐達はこれを聞き、諸将と謀って言った、「拡廓が遠出すれば、太原は必ず虚である。北平には孫都督ととくがおり、以てこれを防ぐに足る。今、敵の不備に乗じ、直ちに太原を攻め落とせば、進んでは戦うを得ず、退いては守る所なし、いわゆる亢を批き虚を搗つものである。彼がもし西還して自ら救わば、これは成擒となるであろう」。諸将は皆言った、「善い」。かくて兵を率いて太原に向かった。拡廓は保安に至り、果たして還って救った。徐達は精兵を選んで夜その営を襲った。拡廓は十八騎を以て遁走した。その衆をことごとく降し、かくて太原を攻略した。勢いに乗じて大同を収め、兵を分けて未だ下らざる州県を巡行した。山西は悉く平定された。

二年、兵を率いて西に河を渡った。鹿台に至り、張思道は遁走し、かくて奉元を攻略した。時に常遇春は鳳翔を下し、李思斉は臨洮に奔った。徐達は諸将を会して進むべき所を議した。皆言った、「張思道の才は李思斉に及ばず、しかも慶陽は臨洮より易い。まず慶陽を請う」。徐達は言った、「そうではない。慶陽は城険にして兵精なり、急には容易に抜けぬ。臨洮は北は河・湟に界し、西は羌・戎を控え、これを得れば、その人は戦闘に備えるに足り、物産は軍儲を佐けるに足る。大兵を以てこれを迫れば、李思斉は走らねば、すなわち束手して縛られるであろう。臨洮が既に陥ちれば、傍郡に何のあろうか」。かくて隴を渡り、秦州を攻略し、伏羌・寧遠を下し、鞏昌に入り、右副将軍馮勝を遣わして臨洮に迫らせると、李思斉は果たして戦わずして降伏した。兵を分けて蘭州を攻略し、王を襲って敗走させ、その部落の輜重をことごとく収めた。還って蕭関を出で、平涼を下した。張思道は寧夏に奔り、拡廓に捕らえられ、その弟良臣は慶陽を以て降った。徐達は薛顕を遣わしてこれを受けさせた。良臣は再び叛き、夜兵を出して薛顕を襲い傷つけた。徐達は軍を督してこれを囲んだ。拡廓は将来援させたが、逆襲してこれを敗走させ、かくて慶陽を抜いた。良臣父子は井戸に投じ、引き出して斬った。陝西の地をことごとく平定した。詔して徐達に班師を命じ、白金文綺を甚だ厚く賜った。

功を論じて大封せんとしていたところ、拡廓が蘭州を攻め、指揮使を殺した。副将軍常遇春は既に卒し、三年春、帝は再び徐達を大将軍とし、平章李文忠を副将軍として、分道出兵させた。徐達は潼関より西道を出で、定西を攻め落とし、拡廓を取らんとした。李文忠は居庸より東道を出で、大漠を絶ち、元の嗣主を追った。徐達は定西に至ると、拡廓は退いて沈児峪に屯し、進軍してこれを薄めた。溝を隔てて対陣し、日に数度交戦した。拡廓は精兵を遣わし間道より東南の陣営を襲わせた。左丞胡徳済は倉卒にして措く所を知らず、軍は驚擾した。徐達は兵を率いてこれを撃退した。胡徳済は胡大海の子である。徐達はその功臣の子であることを以て、械に繋いで京師に送り、その下の指揮ら数人を斬って示しとした。翌日、兵を整えて溝を奪い、決死の戦いをし、拡廓の兵を大破した。郯王・文済王及び国公・平章以下の文武僚属千八百六十余人、将士八万四千五百余人を擒え、馬駱駝雑畜は巨万の数に計った。拡廓は僅かに妻子数人を挟んで和林に奔った。胡徳済は京に至り、帝はこれを釈放し、書を以て徐達に諭した、「将軍は衛青の蘇建を斬らざるに倣ったのみ。ひとり穰苴の荘賈を待つを見ざるか。将軍がこれを誅したならば、それでよかった。今、廷議に下すに及び、我はその信州・諸暨の功を思い、誅を加うるに忍びない。今後より、将軍は姑息を事とするなかれ」。徐達は拡廓を破ると、即ち師を帥いて徽州南の一百八渡より略陽に至り、沔州を攻略し、連雲棧に入り、興元を攻めてこれを取った。一方、副将軍李文忠も応昌を攻略し、元の嫡孫・妃・主・将相を獲た。先後して露布が伝わり、詔して軍を振るって京師に還るを命じた。帝は龍江で迎えて労った。かくて詔を下して功臣を大封し、徐達に開国輔運推誠宣力武臣を授け、特進光禄大夫・左柱国・太傅・中書右丞相参軍国事とし、魏国公に改封し、歳禄五千石、世券を与えた。明年、盛熙らを帥いて北平に赴き軍馬を練り、城池を修め、山後の軍民を移して諸衛府に実らせ、二百五十四屯を置き、田一千三百余頃を墾いた。その冬、召還された。

五年、再び大いに兵を発して拡廓を征した。徐達は征虜大将軍として中道を出で、左副将軍李文忠は東道を出で、征西将軍馮勝は西道を出で、各五万騎を将いて塞を出た。徐達は都督藍玉を遣わし、土刺河で拡廓を撃破した。拡廓は賀宗哲と合兵して力拒し、徐達は戦いに利あらず、死者数万人に及んだ。帝は徐達の功大なるを以て、問わなかった。時に李文忠の軍も利あらず、引き還った。独り馮勝が西涼に至り全勝を得たが、駱駝馬を匿した罪に坐し、賞は行われず、事は『文忠伝』・『馮勝伝』に具わる。明年、徐達は再び諸将を帥いて辺境を行き、答剌海で敵を破り、軍を北平に還し、三年留まって帰った。十四年、再び湯和らを帥いて乃児不花を討った。既にして、再び鎮に還った。

毎年春に出陣し、冬の末に召還され、これを常例とした。還るとすぐに将印を上納し、休暇を賜り、宴席で会って歓び飲み、布衣の兄弟と称されたが、達はますます恭しく慎んだ。帝がかつて穏やかに言った、「徐兄の功績は大きく、まだ安住の邸宅がない。旧邸を賜ろう。」旧邸とは、太祖が呉王であった時に住んだ邸宅である。達は固辞した。ある日、帝は達とその邸宅に行き、無理に酒を飲ませて酔わせ、布団をかぶせ、正寝に担ぎ上げて寝かせた。達が目覚めると、驚いて階を駆け下り、伏して死罪を叫んだ。帝はこれを窺い、大いに喜んだ。そこで役人に命じて旧邸の前に新たに邸宅を造営させ、その坊に「大功」と表札を掲げさせた。胡惟庸が丞相となると、達と親しくしようとしたが、達はその人柄を軽んじて応じず、すると達の門番の福寿を買収して達を陥れようとした。福寿がこれを暴露したが、達も問わなかった。ただしばしば帝に惟庸は丞相に任に堪えないと進言した。後に果たして敗れ、帝はますます達を重んじた。十七年、太陰が上将星を犯し、帝はこれを忌み嫌った。達が北平で背中に癰を患い、少し快方に向かうと、帝は達の長子輝祖に勅書を持たせて慰労に赴かせ、まもなく召還した。翌年二月、病が重篤となり、ついに卒去した。五十四歳であった。帝は朝政を停止し、喪に臨んで悲しみ慟哭してやまなかった。中山王を追封し、諡を武寧とし、三世に王爵を追贈した。鐘山の北に葬ることを賜り、御製の神道碑文を下賜された。太廟に配享され、功臣廟に肖像が祀られ、いずれも第一位であった。

達は言葉は簡潔で思慮は精緻であった。軍中では、命令は二つとなく、諸将は恭しく守って畏れたが、帝の前では恭謹にして言葉少なのようであった。士卒をよく慰撫し、下と苦楽を共にし、兵士は恩に感じて死を尽くさない者はなく、この故に向かうところ勝利を得た。特に部隊の規律を厳しく整え、平定した大都は二、省都は三、郡邑は百数に及び、里巷は平穏で、民は兵に苦しまなかった。朝廷に帰った日は、単車で邸宅に赴き、儒生を礼遇して招き、終日談議し、和やかであった。帝はかつてこれを称えて言った、「命を受けて出で、成功して帰り、驕らず誇らず、婦女を愛せず、財宝を取らず、中正にして疵なく、日月のように明らかなのは、大將軍ただ一人のみである。」子は四人、輝祖、添福、膺緒、増寿。長女は文皇帝の后となり、次女は代王妃、次女は安王妃となった。

輝祖、初名は允恭、身長八尺五寸、才気あり、勲衛として左軍都督府事を署理した。達が薨じると、爵を嗣いだ。皇太孫の諱を避けて、今の名を賜った。しばしば出向して陝西、北平、山東、河南で兵を練った。元の将阿魯帖木兒が燕府に属していたが、異心あり、捕らえて誅殺した。還って中軍都督府を領した。建文初年、太子太傅を加えられた。燕王の子高煦は、輝祖の甥である。燕王が挙兵しようとした時、高煦はちょうど京師に留まっており、その良馬を盗んで逃げた。輝祖は大いに驚き、人を遣わして追わせたが、及ばず、そこで上聞に達し、これにより親信された。しばらくして、山東に援軍を率いることを命じられ、斉眉山で燕兵を破った。燕人は大いに恐れた。間もなく詔により召還され、諸将は勢い孤立し、ついで相次いで敗北した。燕兵が長江を渡ると、輝祖はなおも兵を率いて力戦した。成祖が京師に入ると、輝祖はただ一人父の祠を守って迎えなかった。ここに至って獄吏に下し罪状を供述させたが、ただその父の開国の勲功と鉄券中の免死の文言を書いたのみであった。成祖は大怒し、爵位を削り私邸に幽閉した。永楽五年に卒去した。万暦年間に建文の忠臣を記録し、南都に廟祀したが、輝祖が首位に置かれた。後に太師を追贈され、諡は忠貞。

輝祖が死んで一ヶ月余り過ぎ、成祖は群臣に詔して言った、「輝祖は斉泰、黄子澄らと謀って社稷を危うくした。朕は中山王に大功あるを思い、曲げて赦した。今輝祖は死んだ。中山王に後継ぎなくてはならぬ。」そこで輝祖の長子欽に嗣がせた。九年、欽は成国公朱勇、定国公徐景昌、永康侯徐忠らとともに、放縦恣肆であるとして言官に弾劾された。帝は朱勇らを赦したが、欽には帰って学業に就くよう命じた。十九年に来朝したが、急に辞去して帰った。帝は怒り、民に罷めた。仁宗が即位すると、元の爵位に復し、子の顕宗、承宗に伝えた。承宗は、天順初年、南京を守備し、中軍府を兼領し、公正廉潔で士卒を思いやり賢い名声があった。卒去し、子の俌が嗣いだ。俌は字を公輔といい、重厚で、容姿挙動に優れていた。南京守備の格式は最も高く、懐柔伯施鏗は協同守備として俌の上位にあった。俌は不服とし、朝廷に言上し、詔により爵位の順序とし、これを令として定めた。弘治十二年、給事中胡易、御史胡献が災異について意見を述べて投獄されると、俌は上疏して彼らを救った。正徳年間、上書して遊猟を諫め、言葉は率直で切実であった。かつて無錫の民と田を争い、劉瑾に賄賂を贈り、当時嘲笑された。俌は五十二年嗣いで卒去し、太傅を追贈され、諡は荘靖。孫の鵬挙が嗣いだが、妾を寵愛し、夫人の封号を詐称し、その子を嫡子に立てようとして、禄を剥奪された。子の邦瑞、孫の維志、曾孫の弘基に伝わった。承宗から弘基まで六世、皆南京を守備し、軍府事を領した。弘基は累進して太傅に至り、卒去し、諡は荘武、子の文爵が嗣いだ。明が滅びると、爵位は除かれた。

増寿は父の任により左都督に至った。建文帝は燕王が謀反を疑い、かつて増寿に問うたことがある。増寿は頓首して言った、「燕王は先帝と同気(兄弟)であり、富貴は既に極まっています。どうして謀反などするでしょうか。」燕師が起こると、しばしば京師の虚実を燕に伝えた。帝はこれを察知したが、まだ問い詰めるに及ばなかった。燕兵が長江を渡る頃、帝は増寿を召し出して詰問したが、答えず、手ずから剣を取って殿廡の下で斬り殺した。燕王が入ると、屍を撫でて哭した。即位すると、武陽侯を追封し、諡は忠湣。まもなく定国公に進封し、禄二千五百石。その子景昌に嗣がせた。驕慢で放縦、しばしば弾劾されたが、成祖はつねにこれを赦した。成祖が崩じると、景昌は喪中に外泊しなかった罪に坐し、冠服と歳禄を剥奪されたが、後に復した。三伝して玄孫光祚に至り、累ねて軍府を管掌し、太師を加えられ、四十五年嗣いで卒去し、諡は栄僖。子から孫の文璧に伝わり、万暦年間、後軍府を領した。小心謹畏をもって帝に親しまれ、しばしば郊天を代行し、太師を加えられた。累ねて上書して皇太子冊立を請い、鉱税を廃し、逮捕された者を釈放するよう求めた。三十五年嗣いで卒去し、諡は康恵。再伝して曾孫允禎に至り、崇禎末年に流賊に殺された。洪武の諸功臣の中で、達の子孫のみが二つの公爵を持ち、両京に分かれて住んだ。魏国公(徐達系)の後裔は賢者が多く、累朝の恩典も、定国公(徐増寿系)は常にその倍であった。嘉靖年間に恩沢による世襲封爵を削減する詔が出され、定国公の功績は相応しくないという意見もあったが、結局剥奪されなかった。

添福は早世した。膺緒は、尚宝司卿を授かり、累進して中軍都督僉事となり、朝請に奉じ、世襲の指揮使となった。

常遇春

常遇春、字は伯仁、懐遠の人。容貌は奇偉で、勇力は人に絶し、猿の如き腕で射を善くした。初め劉聚に従って盗賊となったが、聚が終に成し遂げられぬと察し、和陽において太祖に帰順した。未だ到らぬうち、田間に困って臥せっていると、夢に神人が甲冑を着て盾を擁え呼んで曰く、「起きよ起きよ、主君来たる。」驚いて覚めると、太祖がちょうど到着し、すぐに迎えて拝礼した。時は至正十五年四月であった。間もなく、自ら先鋒となることを請うた。太祖は言った、「汝はただ飢えて食を求めて来ただけではないか。どうして汝を留め置けようか。」遇春は固く請うた。太祖は言った、「長江を渡るのを待て。その時わが事に仕えても遅くはない。」兵が牛渚磯に迫ると、元兵が磯上に陣を敷き、船は岸まで三丈余りも離れており、誰も登れなかった。遇春が飛舟で到着し、太祖が手招きして前進させた。遇春は声に応え、戈を奮って直ちに前進した。敵がその戈を受け止めると、勢いに乗って飛び上がり、大声をあげて跳び回り、元軍は潰走した。諸将がこれに乗じ、ついに採石を抜き、進んで太平を取った。総管府先鋒に任じられ、進んで総管都督となった。

当時、将士の妻子や輜重は皆和州にあり、元の中丞蛮子海牙が再び舟師を率いて採石を襲撃し占拠したため、道中が遮断された。太祖自ら将兵を率いてこれを攻め、遇春に命じて多くの疑兵を張りめぐらせ敵の勢力を分散させた。戦いが始まると、遇春は軽舸を操り、海牙の船隊を真っ二つに分断した。左右から縦横に撃ちかかり、これを大いに破り、その船をことごとく奪った。江路は再び通じた。まもなく溧陽を守るよう命じられ、集慶攻めに従い、功績は最も大きかった。元帥徐達に従って鎮江を奪い、さらに進んで常州を攻めた。呉の兵が牛塘で徐達を包囲すると、遇春は救援に向かい、包囲を解き、その将を捕らえ、統軍大元帥に進んだ。常州を平定し、中翼大元帥に遷った。徐達に従って寧国を攻め、流れ矢に当たり、傷を包帯で巻いて戦い、これを平定した。別働隊で馬駝沙を奪い、舟師を率いて池州を攻め、これを落とし、行省都督馬歩水軍大元帥に進んだ。婺州攻略に従い、同僉枢密院事に転じ、婺州を守った。兵を移して衢州を包囲し、奇兵を用いて南門の甕城に突入し、その戦具を破壊し、急攻して遂にこれを落とし、甲士一万人を得て、僉枢密院事に進んだ。杭州を攻めたが、失敗し、応天に召還された。徐達に従って趙普勝の水寨を抜き、池州守備に従い、九華山の下で漢兵を大破した。詳細は『徐達伝』にある。

友諒が龍湾に迫ると、遇春は五翼の軍を率いて伏兵を設け、これを大破し、遂に太平を回復した。功績は最も大きかった。太祖が江州で友諒を追撃した時、遇春に留守を命じた。彼は法を厳しくし、軍民は粛然として敢えて犯す者なく、行省参知政事に進んだ。安慶攻略に従った。漢軍が江に出て遊撃すると、遇春はこれを撃ち、皆反転して逃げ去り、乗勝して江州を奪った。龍湾に戻って守り、長興を救援し、呉兵五千余人を捕虜とし殺害し、その将李伯升は包囲を解いて逃げた。安慶城を甍で築くよう命じられた。

これより先、太祖が任用した将帥の中で最も著名なのは、平章邵栄、右丞徐達と遇春の三人であった。そして邵栄は特に古参の将で戦に長けていたが、この頃驕慢で謀反の意志があり、参政趙継祖と謀り伏兵を置いて変事を起こそうとした。事が発覚すると、太祖は邵栄の死を赦そうとしたが、遇春はまっすぐ進み出て言った。「人臣が反逆の名を負うならば、どうして赦すことができましょうか。臣は義をもって彼と共に生きることはできません。」太祖はそこで邵栄に酒を飲ませ、涙を流してこれを誅殺し、このことによってますます遇春を愛重した。

池州の帥羅友賢が神山寨に拠り、張士誠と通じた。遇春はこれを破り斬った。安豊救援に従った。到着した時には、呂珍は既にその城を陥とし、劉福通を殺していた。大軍の到着を聞き、大軍を整えて守りを固めた。太祖の左右の軍は皆敗れたが、遇春は横からその陣を撃ち、三度戦って三度これを破り、捕虜とした兵馬は数えきれなかった。そこで徐達に従って廬州を包囲した。城が陥ちようとした時、陳友諒が洪都を包囲したため、召還された。漢討伐のため軍を合わせ、彭蠡の康郎山で遭遇した。漢軍の船は大きく、上流に乗じ、その鋒鋭は甚だしかった。遇春は諸将とともに大戦し、呼び声は天地を動かし、一騎当千の働きをした。友諒のぎょう将張定辺がまっすぐに太祖の船を襲い、船が浅瀬に乗り上げ、危うく窮地に陥った。遇春が定辺を射ると、太祖の船は脱出できたが、遇春の船もまた浅瀬に乗り上げた。敗走した船が流れ下ってきて、遇春の船に触れたため脱出できた。三日間転戦し、火を放って漢の船を焼き、湖水は皆赤くなり、友諒は再び戦おうとしなかった。諸将は漢軍がまだ強いと考え、これを逃がそうとしたが、遇春だけは何も言わなかった。湖口を出ようとした時、諸将は船を東へ下げようとしたが、太祖は上流を扼するよう命じた。遇春はそこで江を遡上し、諸将はそれに従った。友諒は窮地に陥り、百艘で包囲を突破しようとした。諸将がこれを邀撃し、漢軍は遂に大潰し、友諒は死んだ。軍が帰還すると、功績を評定して最も上とし、金帛や田地の恩賞を甚だ厚く賜った。武昌包囲に従い、太祖が応天に帰還すると、遇春を留めて軍を督し包囲させた。

翌年、太祖が呉王の位に即くと、遇春を平章政事に進めた。太祖は再び武昌の軍を視察した。漢の丞相張必先が岳州から救援に来た。遇春はその軍が集結する前に、急襲してこれを捕らえた。城中はこれによって士気を失い、陳理は遂に降伏し、荊州・湖州の地をことごとく奪取した。左相国徐達に従って廬州を奪い、別に将兵を率いて臨江の沙坑・麻嶺・牛陂などの諸寨を平定し、偽知州鄧克明を捕らえ、遂に吉安を落とした。贛州を包囲すると、熊天瑞が固守して降らなかった。太祖は使者を遣わし遇春に諭した。「城を落とすにも多く殺すな。もし地を得ても民がいなければ何の益があろうか。」そこで遇春は壕を掘り柵を立てて包囲した。六月間兵を留め、天瑞が力尽きて降伏したが、遇春は果たして殺さなかった。太祖は大いに喜び、書を賜って褒め励ました。遇春はそこで兵威によって南雄・韶州を諭し降伏させ、帰還して安陸・襄陽を平定した。再び徐達に従って泰州を平定し、士誠の援兵を破り、水軍を督して海安壩に陣を構えこれを防いだ。

その秋、副将軍に任じられ、呉を討伐した。太湖で、毘山で、三里橋で呉軍を破り、遂に湖州に迫った。士誠が援兵を遣わし、旧館に駐屯させ、大軍の背後に出た。遇春は奇兵を率いて大全港から東阡に営を移し、さらにその背後に出た。敵は精兵を繰り出して戦いを挑んだが、奮撃してこれを破った。平望でその右丞徐義を襲撃し、その赤龍船をことごとく焼き払い、さらに烏鎮でこれを破り、敗走する敵を昇山まで追撃し、その水陸の寨を破り、旧館の兵をことごとく捕虜とし、湖州は遂に陥った。進んで平江を包囲し、虎丘に軍を置いた。士誠が密かに軍を動かし遇春を襲おうとしたが、遇春は北濠でこれと戦い、これを破り、危うく士誠を捕らえそうになった。しばらくして、諸将が葑門を破り、遇春もまた閶門を破って入城し、呉は平定された。中書平章軍国重事に進み、鄂国公に封じられた。

再び副将軍に任じられ、大将軍徐達とともに兵を率いて北征した。帝自ら諭して言った。「百万の衆に当たり、鋒を摧き堅陣を陥れることは、副将軍に如く者はない。戦えないことを慮るのではなく、軽率に戦うことを慮るのだ。身を大将としながら、かえって小校と勝負を好むのは、甚だ望むところではない。」遇春は拝礼して謝した。出発後、遇春を兼ねて太子少保とし、山東諸郡攻略に従い、汴梁を奪い、河南を進攻した。元兵五万が洛水の北に陣を布いた。遇春は単騎でその陣に突入し、敵二十余騎が槍を集めて刺し掛かった。遇春は一矢でその前鋒を射殺し、大声で叫びながら馳せ入り、麾下の壮士がこれに従った。敵は大潰し、五十余里を追撃した。梁王阿魯温を降伏させ、河南の郡邑は順次陥った。汴梁で帝に謁見し、遂に大将軍とともに河北諸郡を平定した。先鋒として德州を奪い、舟師を率いて河に沿って進み、河西務で元兵を破り、通州を平定し、遂に元の都に入城した。別に保定・河間・真定を平定した。

大将軍とともに太原を攻めると、拡廓帖木児が救援に来た。遇春は徐達に言った。「我が騎兵は集まったが、歩卒はまだ到着していない。急いで戦えば必ず多くの死傷者が出る。夜襲をかければ目的を達することができましょう。」徐達は「よかろう」と言った。ちょうど拡廓の部将豁鼻馬が降伏を約束しに来て、内応を請うたので、精鋭の騎兵を選び夜に枚を銜えて襲撃に向かった。拡廓はちょうど燭を灯して軍書を処理しており、慌てふためいてどうしてよいか分からず、片足はだしで、痩せた馬に乗り、十八騎を従えて大同へ逃げた。豁鼻馬は降伏し、甲士四万を得て、遂に太原を平定した。遇春は拡廓を忻州まで追撃して帰還した。詔により遇春を左副将軍に改め、右副将軍馮勝の上位に置いた。北進して大同を奪い、転じて河東を巡行し、奉元路を落とし、馮勝の軍と合流し、西進して鳳翔を陥とした。

ちょうど元の将軍也速が通州を攻撃したので、詔して遇春を帰還させて備えさせ、平章李文忠を副将として、歩兵騎兵九万を率い、北平を出発し、真っ直ぐ会州に向かい、錦州で敵将江文清を破り、全寧で也速を破った。大興州に進攻し、千騎を分けて八つの伏兵とした。守将は夜に逃げ出し、ことごとくこれを捕らえ、ついに開平を陥落させた。元帝は北に逃げ、数百里を追撃した。その宗王慶生および平章鼎住ら将兵一万人、車一万両、馬三千匹、牛五万頭、子女宝物はこれに相当するものを獲得した。軍が帰還し、柳河川に駐屯した時、急病で死去した。年わずか四十であった。太祖これを聞き、大いに震悼した。喪が龍江に至ると、自ら出て祭奠し、礼官に天子が大臣のために哀悼の礼を行うことを議させた。議が上ると、宋太宗が韓王趙普の喪に臨んだ故事を用いた。制して「可」とした。鐘山の原に葬ることを賜い、明器九十事を給して墓中に納めさせた。翊運推誠宣徳靖遠功臣・開府儀同三司・上柱国・太保・中書右丞相を贈り、開平王を追封し、諡して忠武とした。太廟に配享し、功臣廟に肖像を掲げ、位はいずれも第二とした。

遇春は沈着で勇猛果敢、士卒をよく慰撫し、敵鋒を摧き陣を陥し、敗北したことはなかった。書史を習わなかったが、兵を用いること古に合致した。大將軍(徐)達より二歳年長で、しばしば征伐に従い、約束を聞き従うこと謹厳であり、一時の名将は徐・常と称された。遇春はかつて自ら「十万の衆を将いて、天下を横行できる」と言い、軍中ではまた「常十万」と称されたという。

遇春の従弟の栄は、功を積んで指揮同知となり、李文忠に従って塞外に出、臚朐河で戦死した。遇春の子は二人、茂と昇である。

茂は遇春の功により、鄭国公に封ぜられ、禄二千石を食み、世券を与えられたが、驕慢で幼稚で事に習熟しなかった。洪武二十年、大將軍馮勝に従って金山の納哈出を征討することを命じられた。勝は茂の妻の父であった。茂はしばしば勝の約束に従わず、勝はたびたびこれを譴責した。茂は応対が怠慢で、勝はますます怒ったが、発する機会がなかった。ちょうど納哈出が降伏を請い、右副将軍藍玉の営に赴き、酒宴の席で、玉と意見が合わず、納哈出は酒を取って地に注ぎ、部下を顧みて咄咄と語った。茂がちょうど座にいて、麾下の趙指揮という者が蒙古語を解し、密かに茂に告げて「納哈出は逃げようとしている」と言った。茂は思いがけず出て、まっすぐ前に進んでこれを捕らえようとした。納哈出は大いに驚き、立ち上がって馬に乗ろうとした。茂は刀を抜き、その腕を斬って傷つけた。納哈出の配下の者がこれを聞き、驚いて潰走する者がいた。勝はもとより茂を怒っており、その状況を誇張し、茂が変乱を激発させたと上奏し、ついに械で縛って京師に送った。茂もまた勝の諸々の不法な事を言った。帝は勝の総兵の印を収め、茂を龍州に安置した。二十四年に死去した。初め、龍州の土官趙貼堅が死に、従子の宗寿が継承すべきであった。貼堅の妻の黄は愛する娘を茂の側室とし、州の政務を擅行した。茂が死ぬと、黄と宗寿が州の印を争い、互いに告訴し合った。ある者が流言を捏造し、茂は実は死んでおらず、宗寿がその状況を知っていると言った。帝は怒り、茂を献上して自ら贖うよう責め令し、楊文・韓観に命じて師を出し龍州を討伐させた。後に茂が果たして死んだことを知り、宗寿もまた誠意を示したので、ようやく兵を罷めた。

茂には子がなく、弟の昇が開国公に改封され、しばしば出て軍を練り、太子太保を加えられた。昇の没については、『実録』に記載がない。他の書の紀伝は、建文の末、昇および魏国公輝祖が浦子口で力戦し、永楽の初めに死んだと言う。あるいは昇は洪武中に藍玉の党に連座し、三山で兵を集めているとの告発があり、誅殺されたと言う。常氏は興宗の外戚であり、建文の時は恩礼厚くあるべきであったが、事は革除に遭い、考証するに足るものはなく、その死もついに伝聞異辞となった。昇の子の継祖は、永楽元年に雲南の臨安衛に移された。時にわずか七歳であった。継祖の子は寧、寧の子は復である。弘治五年に詔して言う、「太廟に配享する諸功臣、その王を贈られた者は、皆皇祖を佐けて天下を平定し、大功がある。しかし子孫はあるいは寸禄にも浴さず、氓隸に淪落している。朕は忍びない。所司はその世嫡を求め、一官を量って授け、先人の祭祀を奉ぜよ」と。そこで雲南から復を召し出し、南京錦衣衛世指揮使を授けた。嘉靖十一年に四王の後を紹封し、復の孫の玄振を懐遠侯に封じ、曾孫の延齢に伝わった。賢行があった。崇禎十六年、全楚が淪陥すると、延齢は京兵を統率して九江に赴き協防することを請い、また江都に常家沙という地名があり、族丁数千人は皆その始祖の遠い子孫であるから、忠義を鼓吹して親兵として練成することを請うた。帝はこれを嘉したが、果たして行われなかった。南都の諸勲戚は多く恣睢として自らほしいままにしたが、ただ延齢のみは職を守ることを称された。国が亡びると、自ら園を灌漑し、蕭然として布衣のまま終生を過ごした。

【賛】

賛して言う、明の太祖は滁陽より奮起し、四方を平定した。天授というべきも、蓋し二王の力が多いのである。中山(徐達)は持重にして謀あり、功高くして誇らず、古より名世の輔佐、これを過ぎるものはない。開平(常遇春)は敵鋒を摧き陣を陥し、向かうところ必ず克ち、智勇は中山に下らず、しかも公忠謙遜、その功名をよく保ち、まことに元勲の冠たり。身は日月に依り、符を剖き土を錫う。二王のごときは、極盛と言うべきである。顧みるに、中山は賞が後裔に延び、世に栄寵を叨る。しかるに開平は天が年を仮さず、子孫もまた衰替した。貴さは勲に匹敵し、報いを受けること同じくすべきなのに、その食報あるいは爽かである。その故は何ぞや。太祖はかつて諸将に語って言う、「将たるもの妄りに人を殺さざるは、豈にただ国家の利のみならんや、爾ら子孫実にその福を受くるなり」と。信なるかな、将帥たる者の鑑とすべきである。