明史

列傳第十一 陳友諒 張士誠 方國珍 明玉珍

陳友諒

陳友諒は、沔陽の漁家の子なり。本姓は謝氏、祖父が陳氏に婿入りし、因ってその姓に従う。少時に書を読み、文義を略通す。術者がその先祖の墓地を相して曰く「法、貴に当たる」と、友諒は心に窃かに喜ぶ。嘗て県の小吏と為るも、その好む所に非ず。徐壽輝の兵起こるや、友諒は往きてこれに従い、その将倪文俊に依りて簿掾と為る。

壽輝は、羅田の人、また真一と名乗り、布を販うを業とす。元末に盗賊起こり、袁州の僧彭瑩玉、妖術を以て麻城の鄒普勝と衆を聚めて乱を為し、紅巾を以て号と為す。壽輝の状貌を奇として、遂に推して主と為す。至正十一年九月、蘄水及び黄州路を陥とし、元の威順王寛徹不花を敗る。遂に蘄水を以て都と為し、皇帝を称し、国号を天完とし、元号を治平と建て、普勝を太師と為す。未だ幾ばくもせず、饒・信を陥とす。明年、兵を分けて四出し、湖広・江西の諸郡県を連ねて陥とす。遂に昱嶺関を破り、杭州を陥とす。別将趙普勝等、太平諸路を陥とす。勢大いに振るう。然れども遠志無く、得たる所を守る能わず。明年、元師に破られ、壽輝は走りて免る。已にして復た熾んじ、漢陽に遷都し、その丞相倪文俊に制せらる。

十七年九月、文俊、壽輝をしいせんと謀るも、克たず、黄州に奔る。時に友諒は文俊の麾下に隷し、数たび功有り、領兵元帥と為る。遂に釁に乗じて文俊を殺し、その兵を併せ、自ら宣慰使を称し、尋いで平章政事を称す。

明年、安慶を陥とし、又た龍興・瑞州を破り、兵を分けて邵武・吉安を取り、而して自ら兵を以て撫州に入る。已にして、又た建昌・贛・汀・信・衢を破る。

当是の時、江以南は唯だ友諒の兵最も強し。太祖の太平を取るや、これと隣と為る。友諒、元の池州を陥とす。太祖、常遇春を遣わしてこれを撃ち取りしむ、これより数たび相撃ち攻む。趙普勝は、故にぎょう将にして、号して「双刀趙」と曰う。初め俞通海等と共に巢湖に屯し、同じく太祖に帰すも、叛き去りて壽輝に帰す。是に至りて友諒のために安慶を守り、数たび兵を引きて池州・太平を争い、往来して境上を掠む。太祖これを患え、普勝の客を啖い、して潜かに友諒の軍に入りて普勝を間す。普勝はこれを覚えず、友諒の使者を見れば輒ち功を訴え、悻悻として徳色有り。友諒これを銜み、その己に貳するを疑い、会師を名として、江州より猝かに至る。普勝、焼羊を以て雁漢に迎う。甫うに舟に登るや、友諒は即ち普勝を殺し、その軍を併す。乃ち軽兵を以て池州を襲うも、徐達等に撃ち敗られ、師尽く覆る。

初め友諒、龍興を破るや、壽輝、これに遷都せんと欲す。友諒、不可とす。未だ幾ばくもせず、壽輝、遽かに漢陽を発し、江州に次す。江州は、友諒の治所なり。郭外に伏兵し、壽輝を迎え入るるや、即ち城門を閉じ、その部する所を悉く殺す。即ち江州を以て都と為し、壽輝を奉じて居らしめ、而して自ら漢王を称し、王府の官属を置く。遂に壽輝を挟みて東下し、太平を攻む。太平城堅くして抜く可からず、乃ち巨舟を引きて城の西南に薄む。士卒、舟尾に縁りて堞を攀ぢて登る、遂にこれを克つ。志益々驕る。進みて採石磯に駐り、部将を遣わして陽に壽輝の前で事を白せしめ、壮士を戒めて鉄撾を挟みてその首を撃ち砕かしむ。壽輝既に死す、採石の五通廟を以て行殿と為し、即ち皇帝の位に即き、国号を漢とし、元号を大義と改め、太師鄒普勝以下皆な故官の儘とす。会うに大風雨有り、群臣沙岸に班して賀を称するも、礼を成す能わず。

友諒、性雄猜にして、権術を以て下を馭うるを好む。既に号を僭するや、江西・湖広の地を尽く有し、その兵強きを恃み、東して応天を取らんと欲す。太祖、友諒と張士誠の合するを患え、乃ち計を設けてその故人康茂才に書を為さしめてこれを誘い、速やかに来らしむ。友諒果たして舟師を引きて東下し、江東橋に至り、茂才を呼ぶも応ぜず、始めてこれに紿かれたるを知る。龍湾に戦い、大いに敗る。潮落ちて舟膠し、死者算無く、戦艦数百を亡い、軽舸に乗じて走る。張德勝、慈湖に追いこれを敗り、その舟を焚く。馮国勝、五翼軍を以てこれを蹙め、友諒、皁旗軍を出して迎え戦うも、又た大いに敗る。遂に太平を棄て、江州に走る。太祖の兵、勝に乗じて安慶を取り、その将于光・欧普祥皆な降る。明年、友諒、兵を遣わして復た安慶を陥とす。太祖自ら将いてこれを伐ち、安慶を復し、長駆して江州に至る。友諒戦いに敗れ、夜に妻子を挈いて武昌に奔る。その将吳宏、饒を以て降り、王溥、建昌を以て降り、胡廷瑞、龍興を以て降る。

友諒、疆土の日々に蹙まるを忿り、乃ち大いに楼船数百艘を治む。皆な高さ数丈、丹漆を以て飾り、毎船三重、走馬棚を置き、上下人の語声相聞こえず、艫箱皆な鉄を以て裹む。家属百官を載せ、尽く鋭を以て南昌を攻め、飛梯沖車、百道並びに進む。太祖の従子文正及び鄧愈堅く守り、三月下す能わず、太祖自ら将いてこれを救う。友諒、太祖の至るを聞き、囲みを撤き、東出して鄱陽湖に至り、康郎山にて遇う。友諒、巨艦を集め、連鎖して陣を為す。太祖の兵仰ぎ攻むる能わず、三日連ねて戦い、幾くばくか殆し。已にして東北風起こる、乃ち火を放ちて友諒の舟を焚く。その弟友仁等皆な焼死す。友仁、五王と号し、一目眇み、勇略有り。既に死すや、友諒気沮す。是の戦い、太祖の舟は小なれども、然れども軽駛す。友諒の軍は俱に艨艟の巨艦にして、進退に利あらず、以て是に敗る。

太祖の乗る舟の檣白し。友諒、軍士に約して明日並びて力を白檣の舟に攻めしむ。太祖これを知り、舟の檣を尽く白からしむ。翌日復た戦う、辰より午に至り、友諒の軍大いに敗る。友諒、退きて奚山に保たんと欲す。太祖已に先んじて湖口を扼し、その帰路を邀う。数日を保つ。友諒、衆に謀る。右金吾将軍曰く「湖を出づるは難し、宜しく舟を焚き陸に登り、直ちに湖南に趨りて再挙を図るべし」と。左金吾将軍曰く「これは弱を示すなり。彼歩騎を以て我を躡ば、進退するに拠る所を失い、大事去らん」と。友諒決する能わず、既にして曰く「右金吾の言是なり」と。左金吾、言用いられざるを以て、その部する所を挙げて来降す。右金吾これを知り、亦た降る。友諒益々困す。太祖凡そ再び友諒に書を移す。その略に曰く「吾、公と約して従し、各々一方を安んじ、以て天命を俟たんと欲す。公は計を失い、肆に毒を我に加う。我は軽師をして間出せしめ、奄に公の龍興十一郡を有つ。猶自ら禍を悔いず、復た兵端を構う。一たび洪都に困しめられ、再たび康郎に敗れ、骨肉将士重ねて塗炭に罹る。公即ち幸いに生還すとも、亦た宜しく帝号を却け、坐して真主を待つべし。然らずんば家を喪い姓を滅ぼし、悔ゆるも晩し」と。友諒書を得て忿恚し、報ぜず。久しくして食乏しく、突囲して湖口を出づ。諸将上流より邀え撃つ、涇江口に大戦す。漢軍且つ鬥い且つ走り、日暮るるも猶解けず。友諒、舟中より首を引き出し、指捴する所有り、驟に流矢に中り、晴及び顱を貫きて死す。軍大いに潰え、太子善兒執らる。太尉張定辺、夜に友諒の次子理を挟み、その屍を載せて遁れ武昌に還る。友諒豪侈にして、嘗て鏤金の床を造ること甚だ工なり、宮中の器物これに類す。既に亡び、江西行省床を進む。太祖歎じて曰く「これ孟昶の七宝の溺器と何ぞ異ならん」と。命じて有司にこれを毀たしむ。友諒、号を僭すること凡そ四年。

子の陳理は既に武昌に帰還し、偽位を継ぎ、元号を徳壽と改めた。この冬、太祖は親征して武昌を征した。翌年二月、再び親征した。その丞相張必先が岳州より来援し、洪山に駐屯した。常遇春がこれを撃ち捕らえ、城下に示し回った。必先は驍将であり、軍中では「潑張」と号され、頼みとされていた。捕らえられた後、城中は大いに恐れ、これにより降伏を望む者が多くなった。太祖はその旧臣羅復仁を遣わして城に入り陳理を招いた。陳理は遂に降伏し、軍門に入り、俯伏して敢えて仰ぎ見なかった。太祖は陳理が幼弱であるのを見て、これを引き起こし、その手を握って言った、「私は汝を罪としない」と。府庫の財物は陳理に恣に取らせ、直ちに応天に帰還し、爵を授けて帰徳侯とした。

友諒が徐壽輝に従った時、その父の普才はこれを止めた。聞き入れなかった。貴顕に至り、迎えに行った。普才は言った、「汝は我が命に背いた、我は死ぬ所を知らない」と。普才には五子があった。長子は友富、次は友直、また次は友諒、また次は友仁・友貴である。友仁・友貴は以前に鄱陽で戦死した。太祖が武昌を平定すると、普才を承恩侯に封じ、友富を帰仁伯、友直を懷恩伯とし、友仁に康山王を追贈し、所司に命じて廟を立ててこれを祀らせ、友貴を配祀させた。陳理は京師に居住し、鬱々として怨望の言葉を口にした。帝は言った、「これは童孺の小過に過ぎない、恐らく小人が蠱惑して、朕の恩を全うできなくなるであろう、遠方に処するのが宜しい」と。洪武五年、陳理及び帰義侯明升は共に高麗に徙され、元の降臣樞密使延安答理を遣わして護送させた。高麗王に羅綺を賜り、善くこれを見るようにさせた。また普才らも滁陽に徙した。

熊天瑞は、もと荊州の楽工であり、徐壽輝に従って江・湘の間を抄略した。後に陳友諒の命を受け、臨江・吉安を攻め陥とし、また贛州を陥とした。友諒はこれに参知政事を以てさせ、贛を守らせ、兼ねて吉安・南安・南雄・韶州諸路を統轄させた。久しくして、陽に東下を言い、その幟に「無敵」と署し、自ら金紫光禄大夫・司徒しと・平章軍国重事と称した。友諒はこれを制することができなかった。密かに広東を取らんと図り、南雄に戦艦を造り、数万の衆を帥いて広州に向かった。元の将何真が兵を以て胥江で迎え撃った。時に天は大雷雨となり、その艦の檣を震い折ったので、天瑞は恐れて帰還した。太祖の兵が臨江を攻克すると、常遇春らを遣わして贛を攻めさせた。天瑞は拒んで守ること五ヶ月に及び、至正二十五年正月、乃ちその養子の元震を帥いて肉袒して軍門に詣でて降伏した。太祖はこれを赦し、指揮使を授けた。翌年、浙西攻めに従い、叛いて張士誠に降り、士誠に飛礮を教えて外軍を撃たせた。城中の木石は尽き、外軍に傷つく者が多かった。士誠が滅びると、天瑞は誅殺された。

周時中という者がいた。龍泉の人で、かつて壽輝の平章となった。後に配下を帥いて降伏し、天瑞が必ず叛くと予測した。後、果たしてその言う通りとなった。時中は累ねて吏部尚書に至り、出て鎮江知府となり、福建塩運副使を歴任した。

元震は本姓は田氏であり、戦に長け有名であった。遇春が贛を囲んだ時、元震は密かに出て兵を覗き、遇春もまた数騎を引き連れて出て、突然これと出会った。元震は遇春であると知らず、通り過ぎた。遇春が帰還するに及んで、始めて気づき、遂に単騎で前に進み遇春を襲った。遇春は従騎を遣わして刀を揮わせてこれを撃たせたが、元震は奮って鉄撾で戦いながら走った。遇春は言った、「壮男子である」と。これを捨てた。これによりその才勇を喜んだ。天瑞に従って降った後、指揮使に推挙した。天瑞が誅されると、復た故姓の田に戻ったという。

張士誠

張士誠、小字は九四、泰州白駒場の亭人である。弟三人があり、皆舟を操り塩を運ぶことを業とし、私的に奸利を行った。頗る財を軽んじ施しを好み、群輩の心を得た。常に塩を諸富家に売ったが、富家は多くこれを陵侮し、或いはその代価を負って報いなかった。而して弓手の丘義は特に甚だしく士誠を窘辱した。士誠は憤り、即ち諸弟及び壮士の李伯升ら十八人を帥いて丘義を殺し、併せて諸富家を滅ぼし、火を放ってその居宅を焼いた。傍らの郡の場に入り、少年を招いて兵を起こした。塩丁は重役に苦しんでいたので、遂に共に推して主とし、泰州を陥とした。高郵守の李齊がこれを諭して降したが、復た叛いた。行省参政の趙璉を殺し、併せて興化を陥とし、徳勝湖に砦を結び、衆万余を有した。元は万戸の告身を以てこれを招いたが、受けなかった。李齊を騙し殺し、高郵を襲って占拠し、自ら誠王と称し、僭号して大周とし、元号を天祐と建てた。この歳は至正十三年である。

翌年、元の右丞相脱脫が大軍を総べて出討し、数度士誠を破り、高郵を囲み、その外城を毀った。城は将に陥ちんとした時、順帝が讒言を信じ、脱脫の兵権を解き、官爵を削ぎ、他の将に代えさせた。士誠は隙に乗じて奮撃し、元兵は潰走し、これにより復た振るった。一年を過ぎ、淮東が飢饉となると、士誠は乃ち弟の士徳を遣わして通州より江を渡り常熟に入らせた。

十六年二月、平江を陥とし、併せて湖州・松江及び常州諸路を陥とした。平江を隆平府と改め、士誠は高郵より来てここに都した。即ち承天寺を府第とし、大殿中に踞坐し、三矢を棟に射て以て標識とした。この歳、太祖もまた集慶を下し、楊憲を遣わして士誠に通好した。その書には、「昔、隗囂が天水に称雄し、今、足下もまた姑蘇に号を擅にす、事勢相等しく、吾は深く足下の為に喜ぶ。鄰を睦まじくし境を守るは、古人の貴ぶ所、窃かに甚だ慕う。今より信使往来し、讒言に惑わされず、以て辺釁を生ぜしむることなかれ」とあった。士誠は書を得て、楊憲を留め置き返答しなかった。已にして、舟師を遣わして鎮江を攻めた。徐達が龍潭でこれを破った。太祖は達及び湯和を遣わして常州を攻めさせた。士誠の兵が来援したが、大敗し、張・湯の二将を失い、乃ち書を以て和を請い、歳に粟二十万石、黄金五百両、白金三百斤を輸送することを請うた。太祖は返書し、楊憲を帰すことを責め、歳に五十万石を輸送することを求めた。士誠は復た返答しなかった。

初め、士誠は平江を得ると、即ち兵を以て嘉興を攻めた。元の守将苗帥の楊完者が数度その兵を破った。乃ち士徳を遣わして間道より杭州を破らせた。完者が還って救うと、復た敗れて帰った。翌年、耿炳文が長興を取り、徐達が常州を取り、呉良らが江陰を取ると、士誠の兵は四方に出ることができず、勢いは漸く蹙った。間もなく、徐達の兵が宜興を巡り、常熟を攻めた。士徳が迎え戦って敗れ、前鋒の趙徳勝に捕らえられた。士徳、小字は九六、戦に長け謀略があり、よく士心を得、浙西の地は皆その略定した所であった。既に捕らえられると、士誠は大いに沮喪した。太祖は士徳を留めて士誠を招かんとした。士徳は間道より士誠に書を送り、元に降るよう促した。士誠は遂に決計して降伏を請うた。江浙右丞相の達識帖睦邇が朝廷に言上し、士誠に太尉を授け、その将吏に官を差等した。士徳は金陵で竟に食を絶って死んだ。士誠は偽号を去ったが、甲兵土地を擅にするは旧の如くであった。達識帖睦邇は杭州で楊完者と隙があり、密かに士誠の兵を召した。士誠は史文炳を遣わして完者を襲撃させ殺し、遂に杭州を有した。順帝は使を遣わして糧を徴し、これに龍衣と御酒を賜った。士誠は海路より糧十一万石を大都に輸送し、歳を以て常とした。既にして益々驕り、その下に命じて功德を頌えさせ、王爵を邀え求めた。許されなかった。

二十三年九月、士誠は再び自立して呉王と称し、その母曹氏を王太妃として尊び、官属を置き、城中に別に府第を設けて治め、士信を浙江行省左丞相とし、達識帖睦邇を嘉興に幽閉した。元の徴糧にはもはや応じなかった。参軍の俞思齊という者、字は中孚、泰州の人、士誠に諫めて言うには、「以前は賊であったから、貢納しなくてもよかった。今は臣である。貢納せずにいられようか」と。士誠は怒り、机を押し倒して地に伏せた。思齊はすぐに病と称して去った。この時、士誠の占拠するところは、南は紹興に至り、北は徐州を越え、済寧の金溝に達し、西は汝・潁・濠・泗を距て、東は海に迫り、二千余里、甲を帯びる者数十万であった。士信及び女婿の潘元紹を腹心とし、左丞の徐義・李伯升・呂珍を爪牙とし、参軍の黄敬夫・蔡彦文・葉徳新に謀議を主とさせ、元の学士陳基・右丞饒介に文章を司らせた。また賓客を招き延べることを好み、贈る所の輿馬・居室・什器は甚だ整っていた。諸々の僑寓して貧しく籍のない者は争ってこれに趨った。

士誠の為人は、外見は重厚で寡言、器量があるかのようであったが、実は遠大な図略がなかった。既に呉中を占拠すると、呉は平穏な時が久しく、戸口は殷盛であったので、士誠は次第に奢侈で放縦となり、政事に怠った。士信・元紹は特に聚斂を好み、金玉珍宝及び古法書名画は、充牣しないものはなかった。日夜歌舞して自ら楽しんだ。将帥もまた傲慢で命令を用いず、攻戦があるごとに、常に病と称し、官爵田宅を邀えてから起った。軍に至るや、載せる所の婢妾楽器は踵を接して絶えず、あるいは大いに游談の士を会し、樗蒲蹴踘に興じ、皆軍務を意としなかった。及び師を喪い地を失って帰還すると、士誠は一概に問わなかった。已にして、また用いて将とした。上下嬉び遊び、以て亡に至った。

太祖は士誠と境を接していた。士誠はしばしば兵を以て常州・江陰・建徳・長興・諸全を攻めたが、常に利あらずして去った。而して太祖は邵栄を遣わして湖州を攻めさせ、胡大海を遣わして紹興を攻めさせ、常遇春を遣わして杭州を攻めさせたが、皆下すことができなかった。廖永安は捕らえられ、謝再興は叛いて士誠に降った。時に太祖は陳友諒と相持し、未だ及ぶ暇がなかった。友諒もまた使者を遣わして士誠と太祖を挟撃することを約したが、士誠は境を守って変を観ようと欲し、使者に許諾したが、遂に行わなかった。太祖は武昌を平定すると、師を還し、即ち徐達等に命じて淮東を取ることを図らせ、泰州・通州を克ち、高郵を囲んだ。士誠は舟師を以て江を溯って来援したが、太祖自ら将いてこれを撃ち走らせた。達等は遂に高郵を抜き、淮安を取り、悉く淮北の地を定めた。ここにおいて平江に檄を移し、士誠の八つの罪を数えた。徐達・常遇春は兵を帥いて太湖より湖州に趨り、呉人は毘山で迎え戦い、また七里橋で戦ったが、皆敗れ、遂に湖州を囲んだ。士誠は朱暹・五太子等を遣わして六万の衆を以て来援させ、旧館に屯し、五つの砦を築いて自ら固めた。達・遇春は十の塁を築いてこれを遮り、その糧道を断った。士誠は事急なるを知り、親しく兵を督して来戦したが、皐林で敗れた。その将徐志堅は東遷で敗れ、潘元紹は烏鎮で敗れ、升山の水陸寨は皆破られ、旧館の援は絶え、五太子・朱暹・呂珍は皆降った。五太子とは、士誠の養子で、短小精悍、平地より丈余を躍ることができ、またよく水に没し、珍・暹は皆宿将で善戦したが、ここに至って降った。達等はこれを以て湖州に示した。守将の李伯升等は城を以て降り、嘉興・松江は相継いで降った。潘原明もまた杭州を以て李文忠に降った。

二十六年十一月、大軍は平江を進攻し、長囲を築いてこれを困らせた。士誠は数ヶ月守りを距てた。太祖は書を贈ってこれを招き、「古の豪傑は、天を畏れ民に順うを賢とし、身を全うし族を保つを智とす。漢の竇融・宋の銭俶これなり。爾は宜しく三思すべし。自ら夷滅を取って、天下の笑いとなるなかれ」と言った。士誠は答えず、数度突囲して決戦したが、利あらず。李伯升は士誠の困窮甚だしきを知り、その善くする客を遣わして城を越えて士誠を説き、「初め公の恃む所は、湖州・嘉興・杭州のみ。今は皆失われた。独りこの城を守るは、恐らくは変中より起こらん。公たとえ死せんと欲すとも、得べからざるなり。天命に順い、使者を金陵に遣わし、公の義に帰し民を救う所以の意を称え、城門を開き、幅巾して命を待つに若かず。当に万戸侯を失わざるべし。且つ公の地は、譬えば博奕者の如く、人の物を得てまたこれを失う。公に何の損あらん」と言った。士誠は仰ぎ観ること良久くして、「吾将にこれを思わん」と言った。乃ち客を謝し、竟に降らなかった。士誠に故に勇勝軍「十條龍」と号するものあり、皆驍猛で善く闘い、常に銀鎧錦衣を被って陣中に出入りしたが、ここに至ってもまた悉く敗れ、万里橋の下に溺れて死んだ。最後に丞相士信は砲に中たって死に、城中は洶洶として固き志なし。二十七年九月、城破れ、士誠は余衆を収めて万寿寺東街で戦ったが、衆は散り走った。倉皇として府第に帰り、戸を拒いで自縊した。故部将の趙世雄がこれを解いた。大將軍達は数度李伯升・潘元紹等を遣わして意を諭したが、士誠は目を瞑って答えなかった。葑門より舁ぎ出し、舟に入り、もはや食さず。金陵に至り、竟に自縊して死んだ。年四十七。命じて棺を具えてこれを葬らせた。

士誠の囲まれた時、その妻劉に語って、「吾敗れて且つ死せん。若曹何を為さん」と言った。劉答えて、「君憂うることなかれ。妾必ずや君に負かず」と言った。薪を積みて斉雲楼の下に置いた。城破れ、群妾を駆りて楼に登らせ、養子の辰保に命じて火を放たせてこれを焚かせ、また自縊した。二幼子あり、民間に匿れ、その終わりを知らず。先に、黄敬夫等三人が事を用い、呉人は士誠必ず敗るるを知り、「黄菜葉」の十七字の謡あり、その後ついに験されたという。

莫天祐は、元末衆を聚めて無錫州を保ち、士誠がこれを招いたが、従わなかった。兵を以てこれを攻めたが、また克たなかった。士誠が既に元の官を受けると、天祐は乃ち降った。士誠は累ねて表して同僉枢密院事とした。及び平江が既に囲まれると、他の城は皆下ったが、惟だ天祐のみ堅守した。士誠が破れ、胡廷瑞が急攻すると、乃ち降った。太祖はその多く我が兵を傷つけたことを以て、これを誅した。

李伯升は士誠に仕えて司徒に至り、既に降り、命じて仍って故官とし、中書平章同知詹事府事に進めた。嘗て兵を将いて湖広慈利蛮を討平し、また征南右副将軍となり、呉良とともに靖州蛮を討った。後に胡党に坐して死んだ。潘元明は平章として杭州を守り降り、仍って行省平章とし、伯升とともに歳禄七百五十石を食し、事を治めなかった。雲南平らぎ、元明を以て布政司事を署せしめ、官に卒した。

士誠の起りより亡ぶまで、凡そ十四年。

方国珍

方国珍は黄岩の人である。長身で顔は黒く、体は瓢箪のように白く、走る馬を追いかけるほどの力があった。代々塩を売り海を渡ることを生業としていた。元の至正八年、蔡乱頭という者が海上で略奪を行い、役所が兵を出して捕らえようとした。国珍の恨みを買った者が彼が賊と通じていると訴えた。国珍は恨みを買った者を殺し、兄の国璋、弟の国瑛、国珉と共に海へ逃れ、数千人を集め、輸送船を奪い、海路を遮断した。行省参政の朵児只班が討伐に向かったが、敗れて捕らえられ、脅迫されて朝廷に請願し、定海尉に任じられた。まもなく反逆し、温州を襲った。元は孛羅帖木児を行省左丞とし、兵を督いて討伐に向かわせたが、またも敗れて捕らえられた。そこで大司農の達識帖睦邇を遣わして降伏を勧誘した。やがて汝州・潁州で兵が起こり、元は水軍を募って長江を守らせた。国珍は疑念と恐れを抱き、再び反逆した。台州路のダルガチ(達魯花赤)泰不華を誘い出して殺し、海へ逃れた。密かに使者を京師に送り、権貴たちに賄賂を贈り、なおも降伏を申し出て、徽州路治中に任じられた。国珍は命令に従わず、台州を陥落させ、蘇州の太倉を焼いた。元は再び海道漕運万戸の官で勧誘すると、ようやく官職を受けた。まもなく行省参政に進み、兵を率いて張士誠を攻撃させた。士誠は将を遣わして昆山で防戦した。国珍は七度戦って七度勝利した。ちょうど士誠も降伏したため、兵を収めた。

以前より、天下は太平であり、国珍兄弟が初めて海上で乱を起こしたとき、役所は出兵を恐れ、ひたすら懐柔に努めた。ただ都事の劉基のみが、国珍は首謀者であり、何度も降伏しては反逆するので赦すべきでないと主張した。朝廷の議論は聞き入れなかった。国珍は官職を受けると、慶元・温州・台州の地を占拠し、ますます強くなって制御できなくなった。国珍が最初に乱を起こしたとき、元は空名の宣勅数十通を出して賊を討つ者を募った。海辺の壮士の多くが応募して功績を立てた。役所は多額の賄賂を要求し、容易に与えず、一家で数人が戦死しても結局官職を得られない者もいた。一方で国珍の仲間は、繰り返し招諭され、皆高い官職に至った。これにより民は盗賊になることを羨み、国珍に従う者がますます多くなった。元は長江・淮河を失った後、国珍の船を頼りに海運を通じさせ、官爵で繋ぎ止めることを重んじたが、どうすることもできなかった。張子善という者がおり、縦横の術を好み、国珍に軍を率いて長江を遡り江東を窺い、北は青州・徐州・遼海を攻略するよう説いた。国珍は言った。「私の当初の志はここまで及ばない。」と断って去らせた。

太祖が既に婺州を取ると、主簿の蔡元剛を慶元に派遣した。国珍は配下と謀って言った。「江左(太祖)の号令は厳明で、恐らく対抗できない。況や我が敵は、西に呉(張士誠)、南に閩(陳友定)がいる。いっそ暫く従順を示し、援けとして勢力を借りて変局を見守るのが良い。」皆そうだと思った。そこで使者を遣わし書を奉り、黄金五十斤、白金百斤、文綺百匹を進呈した。太祖はまた鎮撫の孫養浩を遣わして返答した。国珍は温州・台州・慶元の三郡を献上し、かつ次男の関を人質として送ることを請うた。太祖は人質を退け、厚く賜物を与えて帰らせた。また博士の夏煜を派遣し、国珍を福建行省平章事に、弟の国瑛を参知政事に、国珉を枢密分院僉事に任じた。国珍は三郡を献上すると名乗りながら、実は陰で両端を持していた。煜が到着すると、病気と偽り、老いて職務に耐えられないと言い、ただ平章の印綬と告身だけを受けた。太祖はその心情を察し、書を送って諭した。「私は初め汝を豪傑で時務を知る者と思い、故に汝に一方を統治させた。汝はかえって心中に測り難いものを抱き、我が虚実を窺おうとすれば人質を送り、我が官爵を退けようとすれば老病を称する。智者は敗れを転じて功と為し、賢者は禍いに因って福を成す。汝はよく考えよ。」この時、国珍は毎年海船を整え、元のために張士誠の粟十餘万石を京師へ漕送し、元は累次国珍の官を進めて江浙行省左丞相衢国公とし、慶元に分省を置いた。国珍は以前と同様にこれを受け、ただ甘言で太祖に謝意を示すだけで、全く内附する意思が無かった。諭告の書を得ても、ついに省みなかった。太祖はまた書を送って諭した。「福は至誠に基づき、禍は反覆より生ず。隗囂・公孫述の古い轍は鑑とすべきである。大軍一出、虚辞をもっては解けぬ。」国珍は詐術が尽き、再び陽に惶懼謝罪し、金宝で鞍馬を飾り献上した。太祖はまたこれを退けた。

やがて苗帥の蔣英らが反逆し、胡大海を殺し、その首を持って国珍のもとへ奔ったが、国珍は受け入れず、彼らは台州から福建へ奔った。国璋が台州を守り、邀撃したが、敗れて殺された。太祖は使者を遣わして弔祭した。一年後、温州の周宗道が平陽を以て降伏して来た。国珍の甥の明善が温州を守り、兵を以て争った。参軍の胡深がこれを撃破し、遂に瑞安を陥れ、進軍して温州に向かった。国珍は恐れ、毎年白金三万両を軍に供給し、杭州が陥落し次第、土地を納めて帰順することを請うた。太祖は胡深に詔して軍を返させた。

呉元年、杭州を陥落させた。国珍は領土を占拠したまま平然とし、間諜を遣わし貢献と偽って勝敗を窺い、またしばしば拡廓帖木児及び陳友定に通好し、犄角の勢いを図った。太祖はこれを聞いて怒り、書を送って十二の罪を数え、さらに軍糧二十万石を要求した。国珍は衆を集めて議論し、郎中の張本仁・左丞の劉庸らは皆従うべきでないと言った。丘楠という者がただ一人争って言った。「彼らの言うことは皆、公の福ではありません。ただ智のみが事を決し、信のみが国を守り、直のみが兵を用いることができます。公は浙東を経営すること十餘年、遷延猶し、早くに計を定めず、智とは言えません。既に降伏を許しながら、またそれを裏切る、信とは言えません。彼が征師を求めるには、言い分があります。我々が実際に彼に背いている、直とは言えません。幸いにも這いつくばって命を請うならば、あるいは銭俶のようになれるでしょうか。」国珍は聞き入れず、ただ日夜珍宝を運び、舟楫を整え、航海の計画を立てた。

九月、太祖が既に平江を破り、参政の朱亮祖に台州を攻撃させた。国瑛は迎え撃って敗走した。進んで温州を陥落させた。征南将軍の湯和が大軍を率いて長駆慶元に到達した。国珍は配下を率いて海に逃げ込んだ。盤嶼で追撃して破り、その部将は次々と降伏した。和は幾度も人を遣わして順逆を示させ、国珍は遂に子の関を遣わし降表を奉って降伏を乞うた。曰く、「臣は聞く、天は覆わざる所無く、地は載せざる所無し。王者は天を体し地に法り、人に対して容れざる所無し。臣は主上の覆載の徳を蒙ること久しく、敢えて天地に対して自ら絶たず、故に一たび愚衷を陳べる。臣は元より庸才、時に遭いて多事、海島より身を起こす、父兄相藉する力有るに非ず、また帝制自ら為すの心有るに非ず。方や主上霆撃電掣、婺州に至るや、臣愚すなわち子を遣わして入侍せしむ、固より既に主上の今日有るを知り、将に日月の末光に依り、雨露の餘潤を望まんとす。而るに主上誠を推し公を布き、俾くに郷郡を守らしむ、故き吳越の事の如し。臣は條約を遵奉し、敢えて妄りに節目を生ぜず。子姓戒めず、潜かに釁端を構う、猥りに問罪の師を労せしむ、私心戦兢す、用て是れ守る者をして出迎えしむ。然れども未だ浮海を免れず、何ぞや。孝子の親に於ける、小杖は則ち受け、大杖は則ち走る、臣の情事恰も此の類に適えり。即ち面縛して闕廷に待罪せんと欲す、復た斧鉞の誅を嬰るを恐る、天下後世をして臣の得罪の深きを知らず、将に主上の臣を容るる能わざるを謂わんや、豈に天地の大徳を累わすに至らんや。」蓋し幕下の士詹鼎の詞である。

太祖はこれを見て憐れみ、書を賜って言った。「汝は我が諭に背き、直ちに手を収めて帰命せず、海外に躊躇し、恩に背くこと実に多し。今や窮蹙聊むる所無く、情詞哀懇、我は汝が此の誠を以て誠と為し、以前の過ちを過ちとせず、汝自ら疑うことなかれ。」遂に国珍を促して入朝させ、面と向かって譲って言った。「汝が来るのは遅すぎはしないか。」国珍は頓首して謝した。広西行省左丞に任じ、俸禄を食むだけで官には赴任しなかった。数年後、京師で卒した。

子の礼は、広洋衛指揮僉事に任官し、関は、虎賁衛千戸所鎮撫となった。関の弟の行は、字を明敏といい、詩をよくし、承旨の宋濂がかつてこれを称賛した。

劉仁本は、字を徳元といい、方国珍と同じ県の人である。元末に進士乙科に及第し、歴任して浙江行省郎中となり、張本仁とともに方国珍の幕下に入った。しばしば名士の趙俶・謝理・朱右らと詩を賦し、当時に称された。方国珍が海路で元に輸送したのは、実に仁本がその事を司ったのである。朱亮祖が温州を落としたとき、仁本を捕らえた。太祖はその罪を数えあげ、背中を鞭打って潰爛させて死に至らしめた。その他の官属で方国珍に従って降った者は皆滁州に移されたが、ただ丘楠だけは赦免し、韶州知府とした。

詹鼎という者は、寧海の人で、才学があった。方国珍の府都事となり、上虞を治め、善政の名声があった。京に至った後、まだ任用されないうちに、封事一万言を草し、天子の車駕が出るのを待ってこれを献上した。帝は馬を止めてこれを受け取り読み、丞相に命じて詹鼎を官とした。楊憲はその才を妬み、これを阻んだ。楊憲が敗れると、留守司経歴に任じられ、刑部郎中に転じたが、連座して死んだ。

明玉珍

明玉珍は、随州の人である。身長八尺余り、目に重瞳があった。徐寿輝が挙兵すると、玉珍は郷里の父老とともに千余人を結集し、青山に屯した。徐寿輝が帝を称すると、人をやって玉珍を招き、「来れば共に富貴を分かち合い、来なければ兵を挙げてこれを屠る」と言った。玉珍は衆を率いて降り、元帥として沔陽を守った。元の将軍ハマト(哈麻禿)と湖中で戦い、飛来した矢が右目に当たり、ついに片目となった。しばらくして、玉珍は闘船五十艘を率いて糧食を川・峡の間で掠め、引き返そうとした。時に元の右丞ワンジェドゥ(完者都)が重慶で兵を募っており、義兵元帥の楊漢が応募して来たが、ワンジェドゥを殺してその軍を併せようとして果たせなかった。楊漢は峡を走り出て、玉珍に会い、「重慶には重兵がなく、ワンジェドゥと右丞ハマト(哈麻禿)は仲が悪い。もし船を返して不意を襲えば、取ることができる」と言った。玉珍は決心がつかず、部将の戴寿が言うには、「機会は逃すべきではない。船を二つに分け、半分は糧食を積んで沔陽に帰らせ、半分は楊漢の兵を借りて重慶を攻め、うまくいかなければ財物を掠めて帰ればよい」。玉珍はその策に従い、重慶を襲撃し、ワンジェドゥを敗走させ、ハマト(哈麻禿)を捕らえて徐寿輝に献上した。寿輝は玉珍を隴しょく行省右丞に任じた。至正十七年のことである。

やがてワンジェドゥ(完者都)が果州から来て、平章ランゲダイ(朗革歹)・参政趙資と会し、重慶奪還を謀り、嘉定の大仏寺に屯した。玉珍は万勝を派遣してこれを防がせた。勝は黄陂の人で、智勇を備え、玉珍に寵愛され、自らの姓を名乗らせ、衆人は明二と呼んだが、後に姓名を復した。勝は嘉定を攻めたが、半年たっても落とせなかった。玉珍は衆を率いてこれを包囲し、勝に軽兵を率いさせて成都を襲撃陥落させ、ランゲダイ(朗革歹)と趙資の妻子を捕虜とした。ランゲダイの妻は自ら江に身を投げた。趙資の妻子を嘉定の陣前に引き出し、趙資を降伏に招いた。趙資は弓を引いて妻を射殺した。まもなく城は陥ち、趙資およびワンジェドゥ・ランゲダイを捕らえて重慶に帰り、治平寺に宿泊させ、自らのために働かせようとした。三人はどうしても承知せず、ついに市中で斬り、礼をもって葬った。蜀人はこれを「三忠」と呼んだ。ここにおいて諸郡県が相次いで帰順した。

二十年、陳友諒が徐寿輝を弑して自立した。玉珍は言った、「友諒とともに徐氏に臣従したのに、このように悖逆するとは」。兵を派遣して瞿塘峡を塞ぎ、まったく通交を断った。城南に寿輝の廟を立て、歳時に祭祀を行った。自立して隴蜀王と称し、劉楨を参謀とした。

楨は、字を維周といい、瀘州の人である。元の進士。かつて大名路経歴となり、官を棄てて家に居た。玉珍が重慶を攻めたとき、瀘州を通り、部将の劉沢民が彼を推薦した。玉珍は会いに行き、語り合って大いに喜び、即日に舟中に招き、礼を尽くして遇した。翌年、楨は人を退けて説いて言った、「西蜀は形勝の地であり、大王がこれを撫有し、傷残を休養し、賢を用い兵を治めれば、並ぶものなき業を立てることができます。この時に大号を称して人心を繋がなければ、いったん将士が故郷を思えば、瓦解星散し、大王は誰とともに国を建てましょうか」。玉珍はこれを良しとし、衆に謀り、二十二年春に重慶で皇帝の位に即き、国号を夏とし、元号を天統と建てた。妻の彭氏を立てて皇后とし、子の昇を太子とした。周の制度に倣い、六卿を設け、劉楨を宗伯とした。蜀の地を八道に分け、府州県の官名を改めた。蜀の兵力は諸国に比べて弱く、精兵は一万人に満たなかった。玉珍はもとより遠大な謀略はなかったが、性質は倹約で、学問を好み、身分を低くして士に接した。即位すると、国子監を設けて公卿の子弟を教え、提挙司教授を設け、社稷宗廟を建て、雅楽を求め、進士科を開き、賦税を定めて十分の一を取った。蜀人は皆安んじ便利に思った。すべて劉楨が謀ったことである。

翌年、万勝を界首から、鄒興を建昌から、また指揮の李某を八番から派遣し、分かれて雲南を攻撃させた。二路はともに至らず、ただ勝の兵のみが深く侵入し、元の梁王は金馬山に営を移した。一年余りして、梁王は大理の兵を率いて勝を撃ち、勝は孤軍で後続がなく引き返した。また興を派遣して巴州を取らせた。しばらくして、また六卿を改めて中書省・枢密院とし、塚宰の戴寿・司馬の万勝を左・右丞相と改め、司寇の向大亨・司空しくうの張文炳に枢密院事を知らせ、司徒の鄒興を成都に、呉友仁を保寧に、司寇の莫仁寿を夔関に鎮守させ、皆平章事とした。

この年、勝を派遣して興元を取り、参政の江儼を使者として太祖に通好させた。太祖は都事の孫養浩を派遣して返礼し、玉珍に書を送って言った、「足下は西蜀にあり、私は江左にあり、まさに漢末の孫権・劉備の類いである。近ごろ王保保(ココ・テムル)が鉄騎勁兵をもって中原に虎踞し、その志は曹操に劣らないであろう。もし攸(荀攸)・彧(荀彧)のような謀臣や、遼(張遼)・郃(張郃)のような猛将がいれば、我々二人は高枕無憂でいられようか。私と足下はまさに唇歯の邦であり、孫権・劉備が互いに呑み合ったことを鑑としたい」。以後、使者の往来は絶えなかった。

二十六年春、玉珍は病が重くなり、戴寿らを召して諭して言った、「西蜀は険固である。もし力を合わせ心を一つにして、嗣子を輔ければ、自ら守ることができる。そうでなければ、後のことは知らない」。ついに卒去した。在位は合わせて五年、三十六歳であった。

子の昇が嗣ぎ、元号を開熙と改め、玉珍を江水の北に葬り、永昌陵と号し、廟号を太祖とした。母の彭氏を尊んで皇太后とし、ともに政務を聴いた。昇はわずか十歳で、諸大臣は皆粗暴で、互いに譲ろうとしなかった。そして万勝と張文炳は不和で、勝は密かに人を遣わして文炳を殺した。文炳と親しかった玉珍の養子の明昭は、また彭氏の旨を偽って勝を縊り殺させた。勝は明氏の功績が最も多く、その死に蜀人は多く哀れんだ。呉友仁は保寧から檄を飛ばし、君側の奸を清めることを名目とした。昇は戴寿に命じてこれを討たせた。友仁は戴寿に書を送って言った、「明昭を誅殺しなければ、国は必ず安からず、衆は必ず服さない。明昭を朝に誅すれば、私は夕べに至るであろう」。寿はついに明昭の誅殺を奏上し、友仁は朝に入って謝罪した。ここにおいて諸大臣が権力を握り、とりわけ友仁が専横で、国の権柄は旁に落ち、ますます振るわなくなった。万勝が死んだ後、劉楨が右丞相となったが、三年後に卒去した。この年、昇は使者を派遣して太祖に喪を告げ、やがてまた使者を派遣して聘問した。太祖も侍御史の蔡哲を派遣して返礼した。

洪武元年、太祖が元の都を平定すると、昇は書を奉って祝賀を称えた。翌年、太祖は使者を派遣して大木を求めた。昇はこれに併せて方物を献上した。帝は璽書をもって答えた。その冬、平章の楊璟を派遣して昇に帰順を諭させた。昇は従わなかった。璟はまた昇に書を送って言った、

古来、国を治める者は、力が同じならば徳を量り、徳が同じならば義を量るものである。故に身と家の両方を全うし、誉れを末永く流すことができ、これに反する者は常に敗れる。貴殿は幼少にして、先人の業を継ぎ、巴・蜀を領有しているが、至善の計略を諮らず、群下の議論に従い、瞿塘・剣閣の険しさを頼みとし、一人が戈を負えば、万人もどうすることもできないと考える。これらは皆、時勢の変化に通じず、貴殿を誤らせる言葉である。昔、蜀を拠点として最も盛んだったのは、漢の昭烈帝に及ぶものはない。しかも諸葛武侯がこれを補佐し、官守を総合的に検核し、士卒を訓練し、財用が足りなければ、全て南詔から取った。それでもなお朝に夕を謀れず、僅かに自保するのみであった。今、貴殿の領土は、南は播州を越えず、北は漢中を越えず、これをもって彼と比べれば、その差ははるかにある。しかして一隅の地を頼みとし、命を瞬時に延ばそうとするのは、智恵があると言えようか。我が主上は仁聖威武にして、神明がこれに応え、順従して附く者には恩を加えずといえども、固執して服従しない者には後に討伐を加える。貴殿の先人が通好していた故をもって、軍を加えるに忍びず、幾度も使者を遣わして意を諭した。また貴殿が幼少で、事変を経験しておらず、狂った盲目の者に惑わされ、遠大な計略を失うことを恐れ、故に再び璟を遣わして禍福を面と向かって諭させた。深い仁と厚い徳は、明氏を待つに浅からざるものである。貴殿は深く考えないことがあろうか。かつて陳氏・張氏の類が、呉・楚を窃かに占拠し、舟を造って江河を塞ぎ、糧を積んで山嶽を越え、強将勁兵をもって、自ら無敵と称した。しかし鄱陽の一戦で、友諒は首を授けられ、軍を返して東を討てば、張氏は面縛した。これは人力によるものではなく、実に天命である。貴殿はこれを見てどう思うか。友諒の子は江夏に逃げ帰ったが、王師が伐ちに至り、勢い窮まって璧を銜んだ。主上はその罪過を赦し、符を剖き爵を賜い、恩栄の盛んなことは、天下の知るところである。貴殿には彼の過ちはなく、翻然と覚悟し、自ら多福を求めれば、必ずや茅土の封を享け、先人の祭祀を保ち、世々絶えることがないであろう。これこそ賢智と言うべきではないか。もし必ずや一隅で崛強し、瞬時に仮の息をつき、沸いた鼎の中を魚が泳ぎ、危うい幕に燕が巣くうが如く、禍害が将に至らんとするのに、恬として自ら知らぬならば、璟は恐れる。天兵が一たび臨めば、今貴殿のために謀る者どもは、他日それぞれ身のための計略を以て、富貴を取るであろう。この時、老いた母と幼い子は、どこに帰るというのか。禍福と利害は、瞭然として見ることができる。貴殿がこれを審らかにするのみである。

昇は終に聞き入れなかった。

また翌年、興元の守将が城を以て降った。呉友仁は幾度もこれを攻めたが、勝てなかった。この年、太祖は使者を遣わして雲南征伐のための道を借りようとしたが、昇は詔に奉じなかった。四年正月、征西将軍湯和に命じ、副将軍廖永忠らを率いて舟師を以て瞿塘より重慶へ向かわせ、前将軍傅友徳に副将軍顧時らを率いて歩騎を以て秦・隴より成都へ向かわせ、蜀を伐たせた。初め、戴寿が昇に言った。「王保保・李思齊の強さをもってしても、なお明に抗うことができません。ましてや我が蜀においておや!一旦警報があれば、どういう計略を出しましょうか。」友仁は言った。「そうではない。我が蜀は山を襟とし江を帯とし、中原とは比べものになりません。外交を良くし内に備えを修めるに如くはありません。」昇はこれを正しいと考え、莫仁寿を遣わして鉄索を以て瞿塘峡口を横断させた。この時また戴寿・友仁・鄒興らを遣わして兵を増やして助けさせた。北は羊角山に倚り、南は南城砦に倚り、両岸の石壁を穿ち、鉄索を引いて飛橋とし、木板を置いて礮を以て敵を防いだ。和の軍が至ったが、進むことができなかった。傅友徳は階州・文州に備えがないのを窺い、進んでこれを破り、また綿州を破った。戴寿はそこで鄒興らを留めて瞿塘を守らせ、自らは友仁と共に還り、向大亨の軍と会して漢州を援けた。数度戦って皆大敗し、戴寿・大亨は成都に走り、友仁は保寧に走って守った。時に廖永忠もまた瞿塘関を破った。飛橋の鉄索は皆焼き切られ、鄒興は矢に当たって死に、夏の兵は皆潰走した。遂に夔州を下し、軍は銅羅峡に駐屯した。昇は大いに恐れ、右丞劉仁は成都に奔ることを勧めた。昇の母彭氏は泣いて言った。「成都には行けようが、それも僅かに旦夕の命を延ばすのみである。大軍の過ぎる所は、勢い破竹の如し。民の命を生かすためには、早く降るに如くはない。」ここにおいて使者を遣わして表を捧げて降伏を乞うた。昇は面縛し璧を銜み輿に櫬を載せ、母彭氏及び官属と共に軍門に降った。和は璧を受け、永忠は縛を解き、旨を承って撫慰し、諸将に侵掠してはならないと下令した。そして戴寿・大亨もまた成都を以て傅友徳に降った。昇らは悉く京師に送られ、礼臣が奏言した。「皇帝が奉天殿に御し、明昇らは俯伏して午門外で罪を待ちます。有司が制を宣して赦し、孟昶が宋に降った故事の如くにします。」帝は言った。「昇は幼弱で、事は臣下によるものであり、孟昶とは異なる。伏して地上に表を捧げて罪を待つ儀礼は免ずべきである。」この日、昇に爵を授けて帰義侯とし、京師に邸宅を賜った。

冬十月、湯和らは悉く川・蜀の諸郡県を平定し、友仁を保寧で捕らえ、遂に軍を返した。戴寿・大亨・仁寿は皆舟を穿って自ら沈み死んだ。丁世貞という者は、文州の守将である。傅友徳が文州を攻めると、険を拠り力戦し、汪興祖はここで死んだ。文州が破られると、遁走した。後にまた兵を以て文州を破り、硃顯忠を殺したが、傅友徳が撃ち走らせた。夏が滅びると、余衆を集めて秦州を五十日間包囲した。兵敗れ、夜に梓潼廟に宿り、その部下に殺された。友仁は京師に至ると、帝はその漢中を寇したことを以て、兵端を初めて造り、明氏をして国を失わせたとして、市で刑戮に処した。他の将校は徐州に戍らせた。翌年、昇を高麗に移した。

賛に曰く、友諒・士誠は刀筆の吏や行商人から起こり、乱に乗じて僭窃し、その富強を恃み、而して卒に皆その恃む所に敗れた。その始終成敗の故を跡づければ、太祖の料ったことは審らかであった。国珍は乱を初め、反覆して信なく、然しながら竟に良き死を得た。玉珍は勢いに乗じ、一隅を割拠し、二代にわたり僭号したが、皆幸いでないとは言えない。国珍はまた谷珍とも名乗ったが、蓋し降った後に明の諱を避けたという。