明史

列傳第十 郭子興 韓林兒

列傳第十 郭子興 韓林兒

原文列傳第十 郭子興 韓林兒

郭子興

原文郭子興

郭子興は、その先祖は曹州の人である。父の郭公は、若い頃に日者の術を以て定遠に遊び、禍福を言い当てれば必ず的中した。邑の富人の家に盲目の娘が嫁ぎ先がなかったので、郭公はこれを娶り、家は日に日に豊かになった。三人の子が生まれ、子興はその次男である。生まれた時、郭公が占うと吉であった。成長すると、任侠を好み、賓客を喜んで迎えた。時に元の政治が乱れ、子興は家財を散じ、牛を屠り酒を漉き、壮士と交わりを結んだ。至正十二年春、少年数千人を集め、濠州を襲撃して占拠した。太祖(朱元璋)はそこに身を寄せようと赴いた。門番が彼を間諜と疑い、捕らえて子興に告げた。子興は太祖の風貌を奇異に思い、縄を解いて語り合い、麾下に収めた。十夫長とし、幾度も戦に従って功を立てた。子興は喜び、その次妻の小張夫人もまた太祖を指さして「これは異人である」と言った。そこで養育していた馬公の娘を妻とさせた。これが孝慈高皇后である。

原文郭子興,其先曹州人。父郭公,少以日者術遊定遠,言禍福輒中。邑富人有瞽女無所歸,郭公乃娶之,家日益饒。生三子,子興其仲出。始生,郭公卜之吉。及長,任俠,喜賓客。會元政亂,子興散家資,椎牛釃酒,與壯士結納。至正十二年春,集少年數千人,襲據濠州。太祖往從之。門者疑其諜,執以告子興。子興奇太祖狀貌,解縛與語,收帳下。為十夫長,數從戰有功。子興喜,其次妻小張夫人亦指目太祖曰:「此異人也。」乃妻以所撫馬公女,是為孝慈高皇后。

初め、子興と共に挙兵した者に孫徳崖ら四人がおり、子興を合わせて五人の元帥が互いに譲らなかった。四人は粗暴で愚かであり、日々掠奪を働いたので、子興は彼らを軽んじた。四人は快く思わず、共に謀って子興を陥れようとした。子興はこのため多く家に引き籠り、政務を見なかった。太祖は隙を見て説いて言った、「彼らは日に日に結束し、我々はますます離反すれば、久しければ必ず制せられるでしょう」。子興はこれに従うことができなかった。

原文始,子興同起事者孫德崖等四人,與子興而五,各稱元帥不相下。四人者粗而戇,日剽掠,子興意輕之。四人不悅,合謀傾子興。子興以是多家居不視事。太祖乘閑說曰:「彼日益合,我益離,久之必為所制。」子興不能從也。

元軍が徐州を破ると、徐州の将帥彭大・趙均用が余衆を率いて濠州に奔った。徳崖らは彼らが元来盗賊の頭目で有名であったため、共に推戴して、自分たちの上に立てた。彭大は知略に富み、子興は彼と親しくして趙均用を軽んじた。ここにおいて徳崖らは趙均用に讒言して言った、「子興は彭将軍の存在だけを知り、将軍の存在を知りません」。均用は怒り、隙をみて子興を捕らえ、徳崖の家に幽閉した。太祖が他の部隊から帰還し、大いに驚き、急いで子興の二人の子を率いて彭大に訴えた。彭大は言った、「私がいるのに、誰がお前たちの父を魚肉にしようか」。太祖と共に徳崖の家に行き、枷を破って子興を出し、連れ帰った。元軍が濠州を包囲すると、旧怨を捨て、共に城を守ること五ヶ月に及んだ。包囲が解けると、彭大・均用は皆自ら王を称し、子興及び徳崖らは元帥のままであった。間もなく彭大が死に、子の早住がその軍勢を率いた。均用は専横で狠悪さを増し、子興を脅して盱眙・泗州を攻め、害そうとした。太祖は既に滁州を取っていたので、人を遣わして均用を説いて言った、「大王が窮地にあった時、郭公は門を開いて迎え入れ、恩徳は極めて厚いものでした。大王は報いることができないばかりか、かえって小人の言葉を聞いて彼を謀ろうとは、自ら羽翼を切り、豪傑の心を失うもので、ひそかに大王の為すべきことではないと思います。かつその配下の兵はなお多く、彼を殺して後悔しないでしょうか」。均用は太祖の軍勢が非常に盛んであると聞き、内心畏れ、太祖はまたその側近を賄ったので、子興はこれによって難を免れ、その配下一万余を率いて滁州の太祖のもとに身を寄せた。

原文元師破徐州,徐帥彭大、趙均用帥餘眾奔濠。德崖等以其故盜魁有名,乃共推奉之,使居己上。大有智數,子興與相厚而薄均用。於是德崖等譖諸均用曰:「子興知有彭將軍耳,不知有將軍也。」均用怒,乘間執子興,幽諸德崖家。太祖自他部歸,大驚,急帥子興二子訴於大。大曰:「吾在,孰敢魚肉而翁者!」與太祖偕詣德崖家,破械出子興,挾之歸。元師圍濠州,乃釋故憾,共城守五閱月。圍解,大、均用皆自稱王,而子興及德崖等為元帥如故。未幾,大死,子早住領其眾。均用專狠益甚,挾子興攻盱眙、泗州,將害之。太祖已取滁,乃遣人說均用曰:「大王窮迫時,郭公開門延納,德至厚也。大王不能報,反聽細人言圖之,自剪羽翼,失豪傑心,竊為大王不取。且其部曲猶眾,殺之得無悔乎?」均用聞太祖兵甚盛,心憚之,太祖又使人賂其左右,子興用是得免,乃將其所部萬餘就太祖于滁。

子興は人となり梟雄で悍ましく戦闘に長じたが、性質は剛直で度量が少なかった。事態が切迫している時は、常に太祖の謀議ぼうぎに従い、左右の手のように親信した。事態が収まると、すぐに讒言を信じて太祖を疎んじた。太祖の側近で任事する者は皆召し取って去らせ、次第に太祖の兵権を奪った。太祖は子興に仕えることますます謹んだ。将士が献上するものがあれば、孝慈皇后は常に子興の妻に与えた。子興が滁州に至り、これを根拠地として自ら王たらんとした。太祖は言った、「滁州は四方を山に囲まれ、舟や商人の往来も通じず、安住の地とはなり得ません」。子興はそこでやめた。和州を取ると、子興は太祖に命じて諸将を統率させその地を守らせた。徳崖が食糧に窮し、和州の境内に食を求め、軍を城中に駐屯させてくれるよう求めたので、太祖はこれを受け入れた。子興に讒言する者があった。子興は夜に和州に至り、太祖が謁見に来ると、子興は大いに怒り、語ろうとしなかった。太祖は言った、「徳崖はかつて公を困らせました、備えをなすべきです」。子興は黙然とした。徳崖は子興が来たと聞き、引き揚げようと謀った。前軍は既に出発し、徳崖が後軍を見守っている間に、その軍と子興の軍が戦い、多くが死んだ。子興は徳崖を捕らえ、太祖もまた徳崖の軍に捕らえられた。子興はこれを聞き、大いに驚き、直ちに徐達を遣わして太祖と代えさせ、徳崖を釈放して帰した。徳崖の軍は太祖を釈放し、徐達もまた脱出して帰った。子興は徳崖を甚だ恨み、どうにかして殺そうとしたが、太祖のため強いて釈放し、鬱々として楽しまなかった。間もなく、発病して卒し、滁州に葬られた。

原文子興為人梟悍善鬥,而性悻直少容。方事急,輒從太祖謀議,親信如左右手。事解,即信讒疏太祖。太祖左右任事者悉召之去,稍奪太祖兵柄。太祖事子興愈謹。將士有所獻,孝慈皇后輒以貽子興妻。子興至滁,欲據以自王。太祖曰:「滁四面皆山,舟楫商旅不通,非可旦夕安者也。」子興乃已。及取和州,子興命太祖統諸將守其地。德崖饑,就食和境,求駐軍城中,太祖納之。有讒於子興者。子興夜至和,太祖來謁,子興怒甚,不與語。太祖曰:「德崖嘗困公,宜為備。」子興默然。德崖聞子興至,謀引去。前營已發,德崖方留視後軍,而其軍與子興軍鬥,多死者。子興執德崖,太祖亦為德崖軍所執。子興聞之,大驚,立遣徐達往代太祖,縱德崖還。德崖軍釋太祖,達亦脫歸。子興憾德崖甚,將甘心焉,以太祖故強釋之,邑邑不樂。未幾,發病卒,歸葬滁州。

子興に三人の子があった。長男は以前戦死し、次男は天叙・天爵である。子興の死後、韓林児が天叙を都元帥に任じる檄を飛ばし、張天祐及び太祖がその副となった。天祐は、子興の妻の弟である。太祖が長江を渡ると、天叙・天祐は兵を率いて集慶を攻めたが、陳野先が叛き、共に殺された。林児はまた天爵を中書右丞とした。やがて太祖が平章政事となった。天爵は職を失い怨みを抱き、久しくして太祖に不利を謀り、誅殺され、子興の後は遂に絶えた。一人の娘があり、小張夫人の生んだ者で、太祖に仕えて恵妃となり、蜀王・穀王・代王の三王を生んだ。

原文子興三子。長子前戰死,次天敘、天爵。子興死,韓林兒檄天敘為都元帥,張天祐及太祖副之。天祐,子興婦弟也。太祖渡江,天敘、天祐引兵攻集慶,陳野先叛,俱被殺。林兒復以天爵為中書右丞。已而太祖為平章政事。天爵失職怨望,久之謀不利於太祖,誅死,子興後遂絕。有一女,小張夫人出者,事太祖為惠妃,生蜀、穀、代三王。

洪武三年、子興を追封して滁陽王とし、詔を下して役所に廟を建てさせ、中牢の礼で祀らせ、その隣人宥氏の賦役を免じ、代々王の墓を守らせた。十六年、太祖は自ら子興の事蹟を書き記し、太常丞張来儀に命じてその碑文を書かせた。滁州人の郭老舎という者は、宣徳年間に滁陽王の親族として、京師に朝貢した。弘治年間、郭琥という者が自ら四世の祖が老舎であり、滁陽王の第四子であると言い、冠帯を与えられて祭祀を奉じた。後に、宥氏に訴えられた。礼官が言うには、「滁陽王の祭祀の典は、太祖の定められたところであり、後嗣無しとあり、廟碑に明らかである。老舎は滁陽王の子ではない」。奉祀の資格を奪った。

原文洪武三年追封子興為滁陽王,詔有司建廟,用中牢祀,復其鄰宥氏,世世守王墓。十六年,太祖手書子興事蹟,命太常丞張來儀文其碑。滁人郭老舍者,宣德中以滁陽王親,朝京師。弘治中,有郭琥自言四世祖老舍,滁陽王第四子,予冠帶奉祀。已,為宥氏所訐。禮官言:「滁陽王祀典,太祖所定,曰無後,廟碑昭然,老舍非滁陽王子。」奪奉祀。

韓林兒

原文韓林兒

韓林児は欒城の人、あるいは李氏の子であるとも言う。その先祖は白蓮会で香を焚いて民衆を惑わし、流罪で永年に移された。元末、林児の父の山童が妖言を鼓吹し、「天下大乱すべく、弥勒仏下生す」と言った。河南・江・淮の間の愚民は多くこれを信じた。潁州の人劉福通とその同党の杜遵道・羅文素・盛文鬱らはまた「山童は宋の徽宗の八世の孫、中国を主とすべし」と言った。そこで白馬と黒牛を殺し、天地に誓いを告げ、挙兵を謀り、紅巾を号とした。至正十一年五月、事が発覚し、福通らは急いで潁州に入って反旗を翻し、山童は役人に捕らえられ誅殺された。林児と母の楊氏は武安山中に逃れた。福通は硃皋を占拠し、羅山・上蔡・真陽・確山を破り、葉・舞陽を犯し、汝寧・光・息を陥とし、勢いは十余万に至り、元兵は防ぐことができなかった。時に徐寿輝らが蘄・黄で挙兵し、布王三・孟海馬らが湘・漢で挙兵し、芝麻李が豊・沛はいで挙兵し、郭子興もまた濠州を占拠してこれに応じた。当時皆これを「紅軍」と呼び、また「香軍」とも称した。

原文韓林兒,欒城人,或言李氏子也。其先世以白蓮會燒香惑眾,謫徙永年。元末,林兒父山童鼓妖言,謂「天下當大亂,彌勒佛下生」。河南、江、淮間愚民多信之。潁州人劉福通與其党杜遵道、羅文素、盛文鬱等復言「山童,宋徽宗八世孫,當主中國」。乃殺白馬黑牛,誓告天地,謀起兵,以紅巾為號。至正十一年五月,事覺,福通等遽入潁州反,而山童為吏所捕誅。林兒與母楊氏逃武安山中。福通據硃皋,破羅山、上蔡、真陽、確山,犯葉、舞陽,陷汝寧、光、息,眾至十餘萬,元兵不能禦。時徐壽輝等起蘄、黃,布王三、孟海馬等起湘、漢,芝麻李起豐、沛,而郭子興亦據濠應之。時皆謂之「紅軍」,亦稱「香軍」。

十五年二月、福通は林児を探し求め、碭山の夾河で得た。亳に迎え、僭越にも皇帝を称し、また小明王と号し、国号を宋とし、元号を龍鳳と建てた。鹿邑の太清宮の材木を解体し、亳に宮殿を造営した。楊氏を皇太后と尊び、遵道・文郁を丞相とし、福通・文素を平章政事とし、劉六を知枢密院事とした。劉六は、福通の弟である。遵道は寵愛されて権勢を振るった。福通はこれを嫉み、密かに甲士こうしに命じて遵道を殴打殺害させ、自ら丞相となり、太保を加えられ、事の権は全て福通に帰した。やがて元軍が太康で福通を大破し、進んで亳を包囲したので、福通は林児を擁して安豊に逃れた。間もなく、兵勢は再び盛んとなり、その同党を分遣して各地を攻略させた。

原文十五年二月,福通物色林兒,得諸碭山夾河;迎至亳,僭稱皇帝,又號小明王,建國曰宋,建元龍鳳。拆鹿邑太清宮材,治宮闕於亳。尊楊氏為皇太后,遵道、文郁為丞相,福通、文素平章政事,劉六知樞密院事。劉六者,福通弟也。遵道寵用事。福通嫉之,陰命甲士撾殺遵道,自為丞相,加太保,事權一歸福通。既而元師大敗福通于太康,進圍亳,福通挾林兒走安豐。未幾,兵復盛,遣其黨分道略地。

十七年、李武・崔德が商州を陥落させ、ついに武関を破って関中を図り、一方で毛貴が膠州・萊州・益都・濱州を陥落させ、山東の郡邑は多く降った。この年六月、福通は衆を率いて汴梁を攻め、さらに軍を三道に分けた。関先生・破頭潘・馮長舅・沙劉二・王士誠は晉・冀へ向かい、白不信・大刀敖・李喜喜は関中へ向かい、毛貴は山東より出て北を犯した。勢いは甚だ鋭かった。田豊という者は、元の鎮守黄河義兵萬戸であったが、叛いて福通に附き、済寧を陥落させ、まもなく敗走した。その秋、福通の兵は大名を陥落させ、ついに曹州・濮州より衛輝を陥落させた。白不信・大刀敖・李喜喜は興元を陥落させ、ついに鳳翔に入り、たびたび察罕帖木児・李思斉に破られ、蜀へ走り入った。

原文十七年,李武、崔德陷商州,遂破武關以圖關中,而毛貴陷膠、萊、益都、濱州,山東郡邑多下。是年六月,福通帥眾攻汴梁,且分軍三道:關先生、破頭潘、馮長舅、沙劉二、王士誠趨晉、冀;白不信、大刀敖、李喜喜趨關中;毛貴出山東北犯。勢銳甚。田豐者,元鎮守黃河義兵萬戶也,叛附福通,陷濟寧,尋敗走。其秋,福通兵陷大名,遂自曹、濮陷衛輝。白不信、大刀敖、李喜喜陷興元,遂入鳳翔,屢為察罕帖木兒、李思齊所破,走入蜀。

十八年、田豊はまた東平・済寧・東昌・益都・広平・順徳を陥落させた。毛貴もまたたびたび元の兵を破り、清州・滄州を陥落させ、長蘆鎮を拠り、まもなく済南を陥落させた。さらに兵を引き連れて北へ進み、南皮において宣慰使董搏霄を殺し、薊州を陥落させ、漷州を犯し、柳林を略して大都を脅かした。順帝は四方の兵を徴発して入衛させ、遷都してその鋒を避けようと議したが、大臣の諫めによりやめた。毛貴はまもなく元の兵に撃破され、還って済南を拠った。一方、福通は河南・河北に出没し、五月に汴梁を攻め落とし、守将竹貞は遁走したので、ついに林児を迎えてここに都とした。関先生・破頭潘らはまたその軍を二つに分け、一つは絳州より出、一つは沁州より出た。太行を越え、遼州・潞州を破り、ついに冀寧を陥落させた。保定を攻めて克たず、完州を陥落させ、大同・興和の塞外諸郡を掠め、ついに上都を陥落させて諸宮殿を毀ち、転じて遼陽を掠め、高麗にまで至った。十九年、遼陽を陥落させ、懿州路総管呂震を殺した。順帝は上都の宮闕がことごとく廃されたため、これより北巡を復さなかった。李喜喜の余党はまた寧夏を陥落させ、霊武などの辺境の地を略した。

原文十八年,田豐復陷東平、濟寧、東昌、益都、廣平、順德。毛貴亦數敗元兵,陷清、滄,據長蘆鎮,尋陷濟南;益引兵北,殺宣慰使董搏霄于南皮,陷薊州,犯漷州,略柳林以逼大都。順帝征四方兵入衛,議欲遷都避其鋒,大臣諫乃止。貴旋被元兵擊敗,還據濟南。而福通出沒河南北,五月攻下汴梁,守將竹貞遁去,遂迎林兒都焉。關先生、破頭潘等又分其軍為二,一出絳州,一出沁州。逾太行,破遼、潞,遂陷冀寧;攻保定不克,陷完州,掠大同、興和塞外諸郡,至陷上都,毀諸宮殿,轉掠遼陽,抵高麗。十九年陷遼陽,殺懿州路總管呂震。順帝以上都宮闕盡廢,自此不復北巡。李喜喜餘黨復陷寧夏,略靈武諸邊地。

この時は太平の世が久しく、州郡はみな守備がなかった。長吏は賊が来ると聞けば、すなわち城を棄てて遁走し、この故に至るところ摧破されないところはなかった。しかし林児はもともと盗賊より起こり、大志がなく、また福通の命を聴くのみで、ただ虚名を擁するに過ぎなかった。外に在る諸将はおおよそ約束に従わず、過ぎる所で焚掠し、ついには老弱を食糧とし、かつみな福通の旧来の同輩であったので、福通もまた制することができなかった。兵は盛んではあったが、威令は行われなかった。たびたび城邑を攻め落としたが、元の兵もまたたびたびその後に従ってこれを回復し、守ることができなかった。ただ毛貴に少し智略があった。その済南を破った時、賓興院を立て、元の故官である姬宗周らを選用して諸路を分守させた。また萊州において屯田三百六十所を立て、各屯は三十里ごとに距り、挽運の大車百輛を造り、およそ官民の田は十のうち二を取った。多く規画するところがあったので、山東を拠ること三年を得た。察罕帖木児がたびたび賊を破り、関・隴をことごとく回復すると、この年五月、大いに秦・晉の師を発して汴城の下に会し、杏花営に屯し、諸軍は城を環って塁を築いた。林児の兵は出戦すればすなわち敗れ、城に拠って百余日守り、食糧は将に尽きんとした。福通は計る所なく、林児を挟んで百騎とともに東門を開いて遁走し、安豊に還った。後宮・官属・子女および符璽・印章・宝貨はことごとく察罕に没せられた。時に毛貴はすでにその党の趙均用に殺され、続継祖という者がおり、また均用を殺し、その部衆は自ら相攻撃した。ただ田豊が東平を拠り、勢いやや強かった。

原文是時承平久,川郡皆無守備。長吏聞賊來,輒棄城遁,以故所至無不摧破。然林兒本起盜賊,無大志,又聽命福通,徒擁虛名。諸將在外者率不遵約束,所過焚劫,至啖老弱為糧,且皆福通故等夷,福通亦不能制。兵雖盛,威令不行。數攻下城邑,元兵亦數從其後復之,不能守。惟毛貴稍有智略。其破濟南也,立賓興院,選用元故官姬宗周等分守諸路。又於萊州立屯田三百六十所,每屯相距三十里,造挽運大車百輛,凡官民田十取其二。多所規畫,故得據山東者三年。及察罕帖木兒數破賊,盡復關、隴,是年五月大發秦、晉之師會汴城下,屯杏花營,諸軍環城而壘。林兒兵出戰輒敗,嬰城守百餘日,食將盡。福通計無所出,挾林兒從百騎開東門遁還安豐,後宮官屬子女及符璽印章寶貨盡沒於察罕。時毛貴已為其党趙均用所殺,有續繼祖者,又殺均用,所部自相攻擊。獨田豐據東平,勢稍強。

二十年、関先生らは大寧を陥落させ、また上都を犯した。田豊は保定を陥落させ、元は使者を遣わしてこれを招いたが、殺された。王士誠はまた晉・冀を躙った。元の将の孛羅が台州においてこれを破り、ついに東平に入って田豊と合した。福通はかつて李武・崔德の逗撓を責め、罪にしようとした。二十一年夏、両人は叛き去り、李思斉に降った。時に李喜喜・関先生らは東西に転戦し、すでに多く走り死に、余党は高麗より還って上都を寇し、孛羅がまた撃ってこれを降した。一方、察罕はすでに汴梁を取ると、ついに子の拡廓を遣わして東平を討たせ、田豊・王士誠を脅して降し、勝に乗じて山東を平定した。ただ陳猱頭という者が、ただひとり益都を守って下らず、福通と遥かに声援とした。

原文二十年,關先生等陷大寧,復犯上都。田豐陷保定,元遣使招之,被殺。王士誠又躪晉、冀。元將孛羅敗之於台州,遂入東平與豐合。福通嘗責李武、崔德逗撓,將罪之。二十一年夏,兩人叛去,降于李思齊。時李喜喜、關先生等東西轉戰,已多走死,餘黨自高麗還寇上都,孛羅復擊降之。而察罕既取汴梁,遂遣子擴廓討東平,脅降田豐、王士誠,乘勝定山東。惟陳猱頭者,獨守益都不下,與福通遙為聲援。

二十二年六月、田豊・王士誠は隙を乗じて察罕を刺殺し、益都に入った。元は兵権を拡廓に付し、城を数重に囲んだので、猱頭らは告急した。福通は安豊より兵を引き連れて赴援したが、火星埠において元の師と遇い、大敗して走り還った。元の兵は急いで益都を攻め、地道を穴ぐらして入り、田豊・王士誠を殺し、猱頭を械にして京師に送ったので、林児の勢いは甚だ窮した。明年、張士誠の将の呂珍が安豊を囲んだので、林児は太祖に急を告げた。太祖は「安豊が破られれば士誠はますます強くなる」と言い、ついに親しく師を帥いて往き救おうとしたが、すでに呂珍は城に入って福通を殺していた。太祖は呂珍を撃ち走らせ、林児を帰し、滁州に居住させた。明年、太祖は呉王となった。さらに二年後、林児は卒した。あるいは、太祖が廖永忠に命じて林児を応天に迎え帰らせ、瓜歩に至り、舟が覆って江に沈んだという。

原文二十二年六月,豐、士誠乘閑刺殺察罕,入益都。元以兵柄付擴廓,圍城數重,猱頭等告急。福通自安豐引兵赴援,遇元師于火星埠,大敗走還。元兵急攻益都,穴地道以入,殺豐、士城,而械送猱頭于京師,林兒勢大窘。明年,張士誠將呂珍圍安豐,林兒告急于太祖。太祖曰:「安豐破則士誠益強。」遂親帥師往救,而珍已入城殺福通。太祖擊走珍,以林兒歸,居之滁州。明年,太祖為吳王。又二年,林兒卒。或曰太祖命廖永忠迎林兒歸應天,至瓜步,覆舟沉于江雲。

初め、太祖が和陽に駐した時、郭子興が卒し、林児は牒を以て子興の子の天敘を都元帥とし、張天祐を右副元帥とし、太祖を左副元帥とした。時に太祖は孤軍をもって一城を保っていたが、林児は宋の後裔を称し、四方がこれに応じたので、ついにその年号を用いて軍中に令した。林児が歿すると、初めて明年を呉元年とした。その年、大将軍を遣わして中原を平定し、順帝は北に走り、林児の亡きより僅かに歳余を距つたに過ぎなかった。林児が僭号したのは凡そ十二年であった。

原文初,太祖駐和陽,郭子興卒,林兒牒子興子天敘為都元帥,張天祐為右副元帥,太祖為左副元帥。時太祖以孤軍保一城,而林兒稱宋後,四方回應,遂用其年號以令軍中。林兒歿,始以明年為吳元年。其年,遣大將軍定中原,順帝北走,距林兒亡僅歲餘。林兒僭號凡十二年。

贊

原文贊

贊に曰く、元の末季、群雄蜂起ほうきす。子興は濠州を拠るも、地偏く勢い弱し。然れども明の基業は、実に滁陽の一旅に肇る。子興の封王祀廟、食報久長なるは、良に以る有り。林児は横に中原を拠り、兵を縦にして蹂躪し、江・淮を蔽遮すること十有余年。太祖の以て従容として締造するを得たるは、その力を藉るなり。帝王の興るには、必ず先駆者ありてその業を成すに資す、夫れ豈に偶然ならんや。

原文贊曰:元之末季,群雄蜂起。子興據有濠州,地偏勢弱。然有明基業,實肇于滁陽一旅。子興之封王祀廟,食報久長,良有以也。林兒橫據中原,縱兵蹂躪,蔽遮江、淮十有餘年。太祖得以從容締造者,藉其力焉。帝王之興,必有先驅者資之以成其業,夫豈偶然哉!