文字サイズ
明史
列傳第九 公主
○公主
明朝の制度では、皇姑を大長公主と称し、皇姊妹を長公主と称し、皇女を公主と称し、いずれも金冊を授け、禄は二千石、婿を駙馬都尉と称す。親王の女は郡主と称し、郡王の女は縣主と称し、孫女は郡君と称し、曾孫女は縣君と称し、玄孫女は鄉君と称し、婿は皆儀賓と称す。郡主の禄は八百石、以下は差等を以て逓減す。郡主以下は、恩礼既に殺ぎ、書するに足るもの無し。今、前史の例に依り、『公主傳』を作し、而して駙馬都尉を附す。
仁祖二女 太祖十六女(福成慶陽二主附) 興宗四女 成祖五女 仁宗七女 宣宗二女 英宗八女 景帝一女 憲宗五女 孝宗三女 睿宗二女 世宗五女 穆宗六女 神宗十女 光宗九女 熹宗二女 莊烈帝六女 仁祖二女
仁祖二女
太原長公主は、淳皇后の生みし所、王七一に嫁ぎ、早卒す。洪武三年に追冊し、並びに七一を贈り榮祿大夫駙馬都尉とし、使者を遣わし衣冠を具えて盱眙に改葬す。
曹國長公主は、太原主の同母妹、李貞に嫁ぐ。主は性純孝にして、貞を助け家を理むるに尤も勤儉、早卒す。貞は子文忠を携えて兵を避け、太祖に依り滁陽に在り。洪武元年二月に主を追冊して孝親公主とし、貞を封じて恩親侯駙馬都尉とす。是に先立ち、兵乱にて、主未だ葬られず、命じて有司に礼を具えさせ李氏の先墓に葬らしむ。詔して曰く「公主の祠堂碑亭、其の制は悉く功臣の爵を贈られて王たる者に視よ」と。三年に主を改冊して隴西長公主とす。五年、文忠の貴きを以て、加冊して曹國長公主とし、並びに貞を進めて右柱國曹國公とす。貞は性孝友恭謹なり。初め、文忠は嚴州を守り、屢征伐の事を以て出で、皆貞に委ねて軍務を権掌せしむ。文忠桐廬を克ち、俘えし卒を以て嚴に送る。嚴城空虚なり、俘卒謀りて叛き去らんとす。貞其の衆を饗し、酔いて之を縛し、以て應天に帰す。太祖之を嘉し、累ね官を授くること子爵の如くし、甲第を西華門玄津橋の西に賜う。帝数たび臨幸し、太子諸王時に往きて起居し、親重比ぶるもの無し。晩歳尤も折節謙抑し、嘗て曰く「富貴にして貧賤を忘るるは、君子の為さざる所なり」と。十二年冬卒す。贈りて隴西王とし、謚して恭獻とす。文忠は自ら傳有り。
太祖十六女
臨安公主は、洪武九年に下嫁して李祺に嫁ぐ、韓國公善長の子なり。是の時に始めて公主の婚禮を定め、先期して駙馬に冠誥並びに朝服を賜い、儀従甚だ盛んなり。主は婦道を執ること甚だ備わる。祺は功臣の子、帝の長婿、頗る之を委任す。四方水旱有れば、毎に命じて祺を往かしめ振濟せしむ。二十三年、善長事に坐して死す。祺は前に卒し、主は永樂十九年に至り薨ず。
寧國公主は、孝慈皇后の生みし所。洪武十一年に下嫁して梅殷に嫁ぐ。殷は字は伯殷、汝南侯思祖の從子なり、天性恭謹にして、謀略有り、弓馬に便ず。太祖十六女諸駙馬の中、尤も殷を愛す。時に李文忠は上公として國學を典とし、而して殷は山東學政を視、勅を賜い褒美し、殷は經史に精通し、儒宗と為すに堪えたりと謂う。当世皆之を榮とす。帝春秋高く、諸王強盛なり。殷嘗て密命を受け皇太孫を輔く。燕師の日逼るに及び、惠帝は命じて殷を充て總兵官とし淮安を鎮守せしむ。悉心防禦し、號令嚴明なり。燕兵は何福の軍を破り、諸將平安等を執り、使者を遣わし殷に假道を以てし、進香を名と為す。殷答えて曰く「進香は、皇考に禁有り、遵わざる者は不孝なり」と。王は大怒し、復書して言う「今兵を興して君側の惡を誅す、天命歸する所有り、人の能く阻む所に非ず」と。殷は使者の耳鼻を割きて之を縱ち、曰く「汝が口を留めて殿下に君臣の大義を言わしむ」と。王は気沮す。而して鳳陽守徐安も亦た浮橋を拆き、舟楫を絶ちて以て燕を遏む。燕兵乃ち泗を渉り、天長に出で、道を揚州に取る。王即ち帝位に即く、殷尚ほ兵を擁して淮上に在り、帝は公主に迫りて血を嚙みて書を為し殷に投ぜしむ。殷書を得て慟哭し、乃ち京に還る。既に入見し、帝迎え労して曰く「駙馬勞苦なり」と。殷曰く「勞して功無きのみ」と。帝は默然たり。永樂二年、都御史陳瑛は奏す殷は亡命を畜養し、女秀才劉氏と邪を朋として詛咒すと。帝曰く「朕自ら之を処せん」と。因りて戶部に諭し公・侯・駙馬・伯の儀仗從人の数を考定せしめ、而して別に錦衣衛を命じ殷の家人を執り遼東に送らしむ。明年冬十月、殷は入朝し、前軍都督僉事譚深・錦衣衛指揮趙曦は殷を笪橋の下に擠み、溺死せしめ、以て殷自ら水に投ぜしと聞こゆ。都督同知許成其の事を發す。帝怒り、法司を命じ深・曦の罪を治めしめ、之を斬り、其の家を籍す。官を遣わし殷の為に喪を治めしめ、謚して榮定とし、而して許成を封じて永新伯とす。初め、公主は殷の死を聞き、上果たして殷を殺すと謂い、衣を牽きて大哭し、駙馬の安在を問う。帝曰く「主の為に賊を跡し、自ら苦しむ無かれ」と。尋いで殷の二子に官し、順昌を中府都督同知と為し、景福を旗手衛指揮使と為し、公主に書を賜いて曰く「駙馬殷は過失有りと雖も、兄は至親を以て問わず。比聞く溺死せしと、兄甚だ之を疑う。都督許成來り首す、已に爵賞を加え、謀害の人悉く重法に置く、特ち妹に報えて知らしむ」と。瓦剌灰なる者は、降人なり、殷に事うること久しく、深・曦実に殷を殺すと謂い、帝に請い、二人の手足を断ち、其の腸を剖きて殷を祭り、遂に自ら經して死す。十二月に公主を進封して寧國長公主とす。宣德九年八月薨ず、年七十一。初め、主は成祖の兵を挙ぐるを聞き、書を貽して大義を以て責む。答えず。成祖淮北に至り、主に書を貽し、命じて太平門外に遷居し、兵禍に罹る無からしむ。主も亦た答えず。然れども成祖故より主を重んじ、即位後、歳時賜與算うる無く、諸王敢えて望む者無し。殷の孫純は、成化中に進士に挙げられ、定遠縣を知り、上官に忤い、棄てて歸る。武階を襲い、中都副留守と為る。
崇寧公主は、洪武十七年に下嫁して牛城に嫁ぎ、未幾薨ず。
安慶公主は、寧國主の同母妹。洪武十四年に下嫁して歐陽倫に嫁ぐ。倫は頗る法に不法なり。洪武末、茶禁方に嚴しく、数たび私人を遣わし茶を販り出境し、至る所繹騷ぎ、大吏と雖も敢えて問わず。家奴周保なる者有り、尤も橫暴にし、輒ち有司を呼び民車を科すること数十輛に至らしむ。河橋巡檢司を過ぐるに、擅に司吏を捶辱す。吏堪えず、以て聞こゆ。帝は大怒し、倫に死を賜い、保等は皆伏誅す。
汝寧公主は、洪武十五年に懷慶・大名二主と先後して下嫁し、而して主は下嫁して陸賢に嫁ぐ、吉安侯仲亨の子なり。
懐慶公主は、母は成穆孫貴妃である。王寧に降嫁した。寧は寿州の人で、公主を娶った後、後軍都督府事を掌った。建文中、しばしば朝廷の内情を燕に漏らし、その家は没収され、錦衣衛の獄に繋がれた。成祖が即位すると、寧が太祖に孝行し、国家に忠誠を尽くし、正直で阿る所なく、横に誣構を被ったと称し、永春侯に封じ、世券を与えた。寧は詩を能くし、仏教を好んだ。かつて帝の宴席に侍し、帝に仏経を誦し僧に施食して太祖の冥福を祈るよう勧めた。帝は快く思わず、これより恩礼次第に衰えた。久しくして、事に坐して獄に下され、赦されて釈放されたが、卒した。子の貞亮は、羽林前衛僉事の官にあり、寧より先に卒した。宣徳十年、貞亮の子彜が詔書を援用して、公主の嫡孫が侯を嗣ぐべきと上言した。許されず、衛僉事の官に帯俸して公主の祭祀を奉ずるよう命じた。寧にはまた子の貞慶があり、詩をよくし、劉溥らとともに「十才子」と称された。
大名公主は、李堅に降嫁した。堅は武陟の人である。父の英は、洪武初年に驍騎右衛指揮僉事となり、雲南征従に従い陣没し、指揮使を追贈された。堅は才勇があり、公主を娶った後、前軍都督府事を掌った。建文初年、左副将軍として燕討伐に従った。戦うに及び、勝負はほぼ互角で、灤城侯に封じられ、世券を与えられた。滹沱河の戦いで、燕の兵卒薛祿が堅を刺し落馬させて捕らえ、檻送して北平へ向かう途中で卒した。子の荘は七歳で侯を嗣いだ。成祖が即位すると、荘の父の姓名が奸党の名簿にあったが、公主の故をもって宥された。公主は禍を恐れ、侯の誥券を納めた。宣徳元年、公主は薨じた。荘は南京で劉溥に師事し、詩酒に放浪し、天寿を全うした。
福清公主は、母は鄭安妃である。洪武十八年に張麟に降嫁した。麟は鳳翔侯張龍の子である。麟は侯を嗣がずに卒した。永楽十五年、公主は薨じた。
寿春公主は、洪武十九年に傅忠に降嫁した。忠は穎国公傅友徳の子である。先だって、九年二月に定制を定めた。公主で未受封の者は、毎年紵絲・紗・絹・布・線を給し、既に封を受けた者は、荘田一区を賜い、毎年租一千五百石、鈔二千貫を徴収する。公主は太祖に愛され、呉江県の田一百二十余頃を賜った。これらは皆上等の肥沃な田で、歳入八千石、他の公主の数倍に及んだ。二十一年に薨じ、明器・儀杖を賜って葬った。
十公主は、早くに薨じた。
南康公主は、洪武二十一年に胡観に降嫁した。観は東川侯胡海の子である。海はかつて罪により禄田を奪われた。観が公主を娶るに及び、詔して以前通りに田を与えた。観は初め選中にあり、帝は黄巖・徐宗実に命じてこれを教えさせた。婚して後は、督課益々厳しく、また数千言の書を為し、古義を引いて戒め勧めた。観は弟子の礼を執って甚だ恭しかった。太祖は大いに喜んだ。建文三年、観は李景隆に従って北征し、燕兵に捕らえられた。永楽初年、晋府に奉使して還ると、科道官が観が晋王から賜った棕輿に僭乗したと弾劾した。詔して姑くこれを宥した。後に、都御史陳瑛らが観が民間の子女を強奪し、また娼を娶って妾としたことを弾劾し、かつ「李景隆の逆謀を予知しながら、陛下は曲げて寛宥を加えられたが、全く悔い改める心がなく、その罪を正すべきである」と上言した。ここに観の朝請を罷め、間もなく自経して死んだ。宣徳中、公主は子の忠のために嗣ぐことを乞い、詔して孝陵衛指揮僉事を授け、同知に進めた。正統三年、公主は薨じた。
永嘉公主は、母は郭恵妃である。洪武二十二年に郭鎮に降嫁した。鎮は武定侯郭英の子である。英が卒すると、鎮は嗣ぐことができなかった。宣徳十年、公主は子の珍に嗣がせることを乞い、その言葉は『郭英伝』にある。景泰六年、公主は薨じた。世宗が即位すると、元孫の郭勲が寵愛を受け、公主のために追謚を乞い、特賜して貞懿と謚した。
十三公主は、早くに薨じた。
含山公主は、母は高麗妃韓氏である。洪武二十七年に尹清に降嫁した。建文初年、清は後府都督事を掌り、公主に先立って卒した。公主は天順六年に至って初めて薨じ、八十二歳であった。
汝陽公主は、永嘉公主の同母妹で、含山公主と同じ年に謝達に降嫁した。達の父の彦は鳳陽の人で、幼くして孫氏に養育され、その姓を冒した。数々の征討に従って功があり、累官して前軍都督僉事となり、詔して謝姓に復し、その子をして公主を娶らせた。仁宗が即位すると、公主は属尊をもって、寧国・懐慶・大名・南康・永嘉・含山・宝慶の七公主とともに皆大長公主と称されることとなった。以後、諸帝が即位するごとに、公主は長公主・大長公主に進封されることが皆制度の通りとなった。
宝慶公主は、太祖の最幼女で、趙輝に降嫁した。輝の父の和は千戸として安南征従に従い陣没し、輝は父の官を襲った。先だって、成祖が即位した時、公主はわずか八歳で、仁孝皇后に命じて娘同様に養育させた。永楽十一年、輝は千戸として金川門を守り、二十余歳で、状貌偉麗であったため、遂に選ばれて公主を娶った。公主は既に皇后に養育されたため、装賫は他の公主より倍して厚く、婚礼の夜は特に詔して皇太子が邸に送り届けた。公主の性質は純淑で、宣徳八年に薨じた。輝は成化十二年になって初めて卒した。事六朝に及び、南京都督及び宗人府事を歴掌した。家はもとより豪侈で、姬妾は百余人に至り、富貴を享けること六十余年、九十歳まで生きた。
福成・慶陽の二公主を附す。
福成公主は、南昌王の女で、母は王氏である。王克恭に嫁した。克恭はかつて福建行省参政となり、後に福州衛指揮使に改めた。
慶陽公主は、蒙城王の女で、黄琛に嫁した。琛は本名を宝といい、武昌の人で、帳前参随舎人から兵馬副指揮に抜擢された。太祖はその謹厚を愛し、王女を配した。累次征討に従い、功を積んで龍江翼守禦千戸に至った。洪武元年、両王女を冊立して公主とし、克恭・琛を駙馬都尉に授け、琛を淮安衛指揮使に遷した。四年三月、礼官が上言した。「皇侄女は宜しく郡主に改封すべきであり、克恭・琛は駙馬都尉の誥を上るべきである。」帝は言った。「朕はただ侄女二人を思い、急に降奪を加えるに忍びず、公主・駙馬と称することは従前の通りとする。」公主には毎年禄米五百石を給し、他の公主より三分の二を減じ、駙馬は本官の俸のみを食む。琛を中都留守に抜擢し、官で卒した。子の鉉は都督僉事に至った。公主は建文時に至り、慶成郡主に改封された。燕師が南下した時、公主はかつて軍中に詣でて和議を論じた。蓋し成祖の従姉である。或いは福成・慶陽は皆太祖の従姉であるという者があるが、誤りである。
興宗の四女。
江都公主は、洪武二十七年に耿璿に降嫁した。璿は長興侯炳文の子である。累官して前軍都督僉事に至った。公主は懿文太子の長女であった。初め江都郡主と称し、建文元年に公主に進み、璿は駙馬都尉となった。炳文が燕を討伐した時、璿は直ちに北平を搗くことを勧めたことがある。炳文が罷免されて帰ったため、謀は用いられなかった。永楽初年、病と称して出仕せず、罪に坐して死んだ。公主は再び郡主に降格され、憂いのうちに卒した。
宜倫郡主は、永楽十五年に於礼に降嫁した。
三人の女子は、考証すべきものがない。
南平郡主は、未だ降嫁せず、永楽十年に薨じ、追冊された。
成祖五女
永安公主は、袁容に降嫁した。容は寿州の人で、父の洪は開国の功により、都督の官にあった。洪武二十八年に容が燕府儀賓に選ばれ、永安郡主に配された。燕兵が起こると、戦守の功があった。永楽元年に郡主が公主に進み、容は駙馬都尉となった。さらに功を論じ、広平侯に封ぜられ、禄一千五百石を賜り、世券を与えられた。車駕が巡幸する時は、常に容に居守を命じた。初め、都指揮の款臺が馬に乗って容の門前を通り過ぎたが、容は彼が下馬しないことを怒り、ほとんど死ぬほどに打ち据えた。帝はこれを聞き、趙王高燧に書を賜って言った、「洪武以来、駙馬の門を往来する者に、下馬を命じたことは聞かない。昔、晋の王敦が駙馬であった時、恣に暴横を極め、遂に滅亡に至った。汝、この書を以て容に示し、款臺を辱めた者を械して京師に送るよう命ぜよ」。容はこれより行いを慎んだ。十五年、公主が薨じ、容の侯禄は停められた。宣宗が即位すると、元の通りに復した。卒し、沂国公を贈られ、諡して忠穆といった。子の禎が嗣いだが、卒し、子がなかった。庶弟の瑄が、正統初年に嗣ぐことを請うた。帝は言った、「容は公主の恩により封ぜられ、禎は公主の子として嗣いだ。瑄は庶子である、長陵衛指揮僉事とせよ」。天順元年に詔して侯爵を復し、卒した。弟の琇が、成化十五年を嗣ぎ、卒した。甥の輅が侯を嗣ぐことを請うたが、言官が認めなかった。帝は言った、「詔書は子孫の相続を許している。輅は容の孫である、輅の後継者がいなければ、依然として衛僉事を世襲せよ」。輅が卒し、子の夔が、弘治年間に侯を嗣ぐことを請うたが、許されなかった。
永平公主は、李讓に降嫁した。讓は舒城の人で、袁容と同年に燕府儀賓に選ばれた。燕兵が起こると、府兵を率いて謝貴らを捕らえ、大寧を取るなどし、白溝河の戦いで功があった。北平布政司事を署掌し、仁宗を補佐して居守した。その父の申は、留守左衛指揮同知の官にあった。惠帝は讓を誘致しようとし、「讓が来れば、お前の父を許そう」と言った。讓は従わず、力戦して平安の兵を破った。帝は遂に申を殺し、その家を籍没し、姻族は皆死罪に坐するか辺境に徒された。永楽元年に讓を駙馬都尉に進め、富陽侯に封じ、食禄千石を賜り、北京行部事を掌った。卒し、景国公を贈られ、諡して恭敏といった。子の茂芳が侯を嗣いだ。仁宗が即位すると、茂芳母子が先帝の時に逆謀があったとして、庶人に廃し、その父の讓並びに三代の誥券を追奪して毀った。この年、茂芳は死んだ。正統九年、公主が薨じた。天順元年に詔して茂芳の子の輿に伯爵を与え、卒した。成化年間、輿の子の欽に長陵衛指揮僉事を授けた。
安成公主は、文皇后の生んだ子である。成祖が即位すると、宋琥に降嫁した。琥は西寧侯晟の子である。正統八年、公主が薨じた。
咸寧公主は、安成公主の同母妹である。永楽九年に宋瑛に降嫁した。瑛は琥の弟である。西寧侯を襲いだ。正統五年、公主が薨じた。十四年、瑛は武進伯朱冕とともに陽和で也先を防ぎ、戦死した。
常寧公主は、沐昕に降嫁した。昕は西平侯英の子である。公主は恭慎で礼をわきまえ、『孝経』・『女則』に通じていた。永楽六年に薨じ、年二十二であった。
仁宗七女
嘉興公主は、昭皇后の生んだ子である。宣徳三年に井源に降嫁した。正統四年に薨じた。その後十年、源は土木の難で死んだ。
慶都公主は、宣徳三年に焦敬に降嫁した。正統五年に薨じた。
清河公主は、宣徳四年に李銘に降嫁した。八年に薨じた。
真定公主は、母は李賢妃で、清河公主と同年に王誼に降嫁した。景泰元年に薨じた。
徳安公主は早くに薨去した。仁宗即位の十月、蘄王瞻垠と同日に追封され、諡して悼簡といった。冊辞に第四女とあるのは、早くに夭折し、名次が定まらなかったためである。
延平公主と徳慶公主は、ともに降嫁せずに薨去した。
宣宗の二女
順徳公主は、正統二年に石璟に降嫁した。璟は昌黎の人である。天順五年、曹欽が反乱を起こすと、璟は衆を率いて賊を討ち、その党徒の脱脫を生け捕りにした。詔を下して労をねぎらった。成化十四年に南京奉祀となり、翌年に卒した。
常徳公主は、章皇后の生みし子である。正統五年に薛桓に降嫁した。成化六年に薨じた。
英宗の八女
重慶公主は、憲宗と同母である。天順五年に周景に降嫁した。景は字を徳彰といい、安陽の人で、学を好み書を能くした。英宗は彼を愛し、閑暇な遊幸には多く従わせた。憲宗が立つと、宗人府事を掌ることを命じた。官に在っては廉潔で慎み深く、詩書の外に好むところがなかった。公主は舅姑に仕えること甚だ孝で、衣履は多く自ら作り、歳時の拝謁は家人の礼の如くであった。景が早朝に出仕する度に、公主は必ず自ら起きて飲食を整えた。公主の賢さは、近世に未だなかった。弘治八年、景が卒した。更に四年後、公主が薨じた。年五十四。子の賢は都指揮僉事に至り、名声があった。
嘉善公主は、母は王恵妃である。成化二年に王増に降嫁した。増は兵部尚書王驥の孫である。弘治十二年に薨じた。
淳安公主は、成化二年に蔡震に降嫁した。震の行いは醇厚で謹直であった。正徳年中、劉瑾が獄に下され、廷訊を詔された。問う者がいると、瑾はその人が自分に附いたと指摘するので、廷臣は敢えて詰問する者もなかった。震は声を厲めて言った、「我は皇家の至戚、爾に附かざるべきなり!」と。獄卒を促して拷掠させると、瑾はようやく罪に服し、これによって名を知られた。嘉靖年中に卒し、太保を贈られ、諡して康僖といった。
崇徳公主は、母は楊安妃である。成化二年に楊偉に降嫁した。偉は興済伯楊善の孫である。弘治二年に薨じた。
広徳公主は、母は万宸妃である。成化八年に樊凱に降嫁した。二十年八月に薨じた。
宜興公主は、母は魏徳妃である。成化九年に馬誠に降嫁した。正徳九年に薨じた。
隆慶公主は、母は高淑妃である。成化九年に遊泰に降嫁した。十五年に薨じた。
嘉祥公主は、母は妃劉氏である。成化十三年に黄鏞に降嫁した。後六年にして薨じた。
景帝の一女
固安公主は、英宗が復辟すると、郡主に降格して称された。成化の時、年齢は既に長じていたが、憲宗は閣臣の上奏により、五年十一月に王憲に降嫁した。礼儀は公主に準じ、故尚書蹇義の賜第を賜った。
憲宗の五女
仁和公主は、弘治二年に斉世美に降嫁した。嘉靖二十三年に薨去。
永康公主は、弘治六年に崔元に降嫁した。崔元は代州の人で、世宗が入って帝位を継承する際、迎立の功により京山侯に封ぜられ、誥券を賜った。礼部が言うには、「奉迎は臣子の分であり、急に封爵を受けるのは先例がない」と。帝は言った、「永楽初年、太宗が入って大統を継承した時、駙馬都尉王寧が翊戴の功により永春侯に封ぜられた。どうして先例がないと言えようか」と。給事中底蘊・御史高越らが相次いで上章してその不可を論じたが、皆聞き入れられなかった。後に、張延齢の事件に連座して詔獄に下されたが、まもなく釈放された。崔元は文人と交わることを好み、声名を広め、寵幸は厚く、勲臣や外戚も彼には及ばなかった。嘉靖二十八年に卒去。左柱国太傅兼太子太傅を追贈され、諡は栄恭。駙馬が侯に封ぜられ、官を贈られるのは軍功によらないのは崔元から始まった。公主は崔元より先に薨去した。
徳清公主は、弘治九年に林嶽に降嫁した。林嶽は字を鎮卿といい、応天府の人で、若い頃は挙子の業を学び、母に孝行し、弟の林巒を養育して極めて友愛に篤かった。公主もまた賢行があり、姑に仕えること平民の礼のようであった。林嶽は正徳十三年に卒去し、公主は寡居して三十一年後に初めて薨去した。
長泰公主は、成化二十三年に薨去し、追冊された。
仙遊公主は、弘治五年に薨去し、追冊された。
孝宗の三女
太康公主は、弘治十一年に薨去し、未だ降嫁せず。
永福公主は、嘉靖二年に鄔景和に降嫁した。鄔景和は崑山の人で、かつて旨を奉じて西苑に直し、玄文を撰することを命ぜられたが、玄理に通じていないとして辞退した。帝は悦ばなかった。時に清馥殿に事があり、直に在る諸臣は皆祝厘の礼を行ったが、鄔景和は礼が成るのを待たずに出て行った。後に諸臣に賞賜が与えられ、鄔景和もその中に含まれていた。上疏して言うには、「功なくして賞を受け、罪戾を増すことを恐れます。どうか辞退を容れられ、心を洗い慮りを滌ぎ、他日には馬革に屍を裹き、啣環結草の報いを致すことを許されたく」と。帝は大いに怒り、詛咒して人臣の礼を失うと言い、官職を削って原籍に帰した。時に公主は既に薨去していた。三十五年に聖誕を賀するため入朝し、終わって言うには、「臣の五世の祖より錦衣衛に籍を寄せ、代々北地に居住してきました。今、罪を得て南に移され、犬馬の主を恋う私情に耐えられません。地を這って入賀し、退いて私に公主の墳墓を省みますと、丘封は翳然として、荊棘も剪られておりません。臣は切に自ら念うに、狐でさえ死ぬ時は尚お首丘を正すと申します。臣は貴主に命を托し、独り逝ける者の魂魄と数千里の外で相吊い、春秋の祭掃もできず、心を拊して傷み悔い、五内崩裂いたします。臣の罪は重く、恩を祈ることは敢えません。ただ陛下が故主を哀れみ、原衛に籍を寄せることを得させ、長くこれに相依り、死して恨みなきことを幸いとします」と。帝は憐れんでこれを許した。隆慶二年に官を復した。卒して少保を贈られ、諡は栄簡。
永淳公主は、謝詔に降嫁した。
睿宗の二女
長寧公主は、早くに薨去。
善化公主は、早くに薨去。嘉靖四年、(長寧・善化)二公主は同日に追冊された。
世宗の五女
常安公主、未だ下嫁せず。嘉靖二十八年に薨じ、追冊された。
思柔公主、後に常安公主の二月に薨じ、年十二、追冊された。
寧安公主、嘉靖三十四年に李和に下嫁した。
帰善公主、嘉靖二十三年に薨じ、追冊され、葬祭は太康公主に準じた。
嘉善公主、嘉靖三十六年に許従誠に下嫁した。四十三年に薨じた。
穆宗の六女
蓬萊公主、早くに薨じた。
太和公主、早くに薨じた。隆慶元年に蓬萊公主と同日に追冊された。
寿陽公主、万暦九年に侯拱辰に下嫁した。国本の議起こると、拱辰は宗人府を掌り、また疏を具して力争った。卒して太傅を贈られ、諡して栄康といった。
永寧公主、梁邦瑞に下嫁した。万暦三十五年に薨じた。
瑞安公主、神宗の同母妹なり。万暦十三年に万煒に下嫁した。崇禎の時、公主累ねて大長公主に加えられる。産んだ子及び庶子の長祚・弘祚は皆都督に官した。煒は官太傅に至り、宗人府の印を管した。嘗て親臣として経筵に侍し、毎に文華殿に進講する時は、佩刀して入直した。李建泰の西征に、煒に命じて太牢を以て廟に告げしむ、年七十余なり。国変に、子の長祚と共に賊に死す。弘祚は水に投じて死に、長祚の妻李氏もまた井に赴いて死せり。
延慶公主、万暦十五年に王昺に下嫁した。昺は嘗て御史劉光復を救い、帝の怒りに触れ、職を削られた。光宗立つに及び、官を復した。
神宗の十女
栄昌公主、万暦二十四年に楊春元に下嫁した。四十四年、春元卒す。久しくして、公主薨じた。
寿寧公主、二十七年に冉興譲に下嫁した。公主は神宗に愛せられ、五日毎に一朝することを命ぜられ、恩沢は他の公主と異なりし。崇禎の時、洛陽失守すと、荘烈帝は興譲に命じ、太監王裕民・給事中葉高標と共に河北に在る福世子を慰問せしむ。都城陥落し、興譲は賊に死す。
静楽・雲和・雲夢・霊丘・仙居・泰順・香山・天台の八公主は、皆早世し、追冊された。
光宗の九女
懐淑公主は、七歳で薨じ、追冊された。
残る五女は皆早世し、封を受けなかった。
寧徳公主は、劉有福に降嫁した。
遂平公主は、天啓七年に斉賛元に降嫁した。崇禎末、賛元は南京に奔り、公主は先に薨じた。
楽安公主は、鞏永固に降嫁した。永固は字を洪図といい、宛平の人、書を好み才気に富む。崇禎十六年二月、帝は公・侯・伯を徳政殿に召し、「祖制に、勲臣・駙馬は監に入りて書を読み、武経・弓馬を習う。諸臣に各々子弟はあるか」と言う。成国公朱純臣・定国公徐允禎らは皆幼少と答えた。しかし永固のみ上疏し、太学にて学業に従うことを請うた。帝は褒めて答えた。総督趙光抃が辺境の事で獄に繋がれると、特に上疏して救いを申し立てた。また建文皇帝の廟謐を復することを請うた。事は行われなかったが、時の論は是とした。甲申の春、賊が宣府・大同を破ると、李邦華は太子の南遷を請うたが、異論に阻まれた。事急しくなると、帝は密かに永固と新楽侯劉文炳を召して護行させようとした。叩頭して言う、「親臣は甲を蔵さず、臣らは空手をもって賊と搏つこと難し」。皆向かい合って涙を流した。十九日、都城陥落。時に公主は既に薨じ、未だ葬らず、永固は黄縄をもって子女五人を柩の傍らに縛り付け、「これ帝の甥なり、賊の手に汚されるべからず」と言い、剣を挙げて自刎し、室を閉じて自焼死した。
熹宗の二女
皆早世した。
荘烈帝の六女
坤儀公主は、周皇后の生み。追謚された。
長平公主は、年十六、帝は周顕を選んで公主に尚せしめんとした。婚せんとするに、寇警のため暫く停む。城陥ち、帝は寿寧宮に入ると、公主は帝の衣を牽きて哭く。帝曰く、「汝何ぞ故に我家に生まるるや」と。剣を揮ってこれを斬り、左臂を断つ。また昭仁殿にて昭仁公主を斬る。五日を過ぎて、長平公主蘇る。大清順治二年、上書して言う、「九死の臣妾、高天を蹐み、願わくは髡緇して空王に帰し、稍く罔極を申さん」と。詔して許さず、顕に命じて故主に尚せしめ、土田・邸第・金銭・車馬の賜与は有加であった。公主は涕泣す。一年を過ぎて病卒す。広寧門外に葬るを賜う。
残る三女は、皆早世し、考うるなし。