明史

列傳第八 諸王五

世宗の諸子

哀沖太子載基、莊敬太子載壑、景王載圳、潁王載𪉖、戚王載𡎐、薊王載㙺、均王載𰉬

穆宗の諸子

憲懷太子翊釴、靖王翊鈴、潞王翊镠

神宗の諸子

邠王常漵、福王常洵、沅王常治、瑞王常浩、惠王常潤、桂王常瀛

光宗の諸子

簡王由㰒、齊王由楫、懷王由模、湘王由栩、惠王由橏

熹宗の諸子

懷沖太子慈燃、悼懷太子慈焴、獻懷太子慈炅

莊烈帝の諸子

太子慈烺、懷王慈烜、定王慈炯、永王慈照、悼靈王慈煥、悼懷王

世宗八子

世宗に八人の子があった。閻貴妃が哀沖太子載基を生み、王貴妃が莊敬太子載壑を生み、杜太后が穆宗を生み、盧靖妃が景王載圳を生み、江肅妃が潁王載𪉖を生み、趙懿妃が戚王載𡎐を生み、陳雍妃が薊王載㙺を生み、趙榮妃が均王載𰉬を生んだ。

哀沖太子

哀沖太子載基は、世宗の第一子である。生後二月で夭折した。

莊敬太子

莊敬太子載壑は、世宗の第二子である。嘉靖十八年、世宗が南巡しようとしたとき、皇太子に立てられ、わずか四歳で、命じて監国させ、大学士夏言を傅とした。尚書霍韜・郎中鄒守益が『東宮聖学図冊』を献上したが、誹謗と疑われ、危うく罪を得るところであった。帝は方士段朝用を得てから、修摂の術を習おうと思い、礼部に諭して、皇太子監国の儀を整えさせた。太僕卿楊最が諫めて、杖死し、監国の議もまた中止となった。賛善羅洪先・趙時春・唐順之が太子の出閤を請い、文華殿で講学することを求めたが、皆削籍された。太廟が完成すると、太子に命じて摂祀させた。二十八年三月に冠礼を行い、二日後に薨じた。帝は命じて哀沖太子と並んで寝園を建て、歳時に祭祀し、諸陵の後に従わせた。

景王

景恭王載圳は、世宗の第四子である。嘉靖十八年に太子を冊立したとき、同日に穆宗裕王と載圳を景王に封じた。その後太子が薨じると、廷臣は裕王が次に立つべきであると述べた。帝は以前の太子が永く続かなかったので、これを遅らせた。晩年方士の言葉を信じ、二王は皆面会することができなかった。載圳は裕王とともに邸を出てから後、居処や衣服に区別がなかった。載圳は年少であったので、左右の者が覬覦の心を抱き、その言葉が次第に聞こえ、朝廷内外にかなり異論があった。四十年に徳安に之国した。四年居住して薨じた。帝は大学士徐階に言った、「この子はもとより嫡を奪おうと謀っていたが、今死んだ。」初め、載圳が藩国に行くとき、多く庄田を請うた。部議はこれを与えた。荊州の沙市は請いの中にはなかった。中使が市租を責めたが、知府徐学謨がこれを執って与えず、また漢陽の劉家塥で薪税を取ろうとしたが、推官呉宗周がこれを押さえたので、皆譴責を受けた。その他の土田湖陂で侵したものは数万頃に及んだ。王に子がなく、西山に帰葬し、妃妾は皆京邸に還って居住し、封は除かれた。

潁王

潁殤王載𪉖は、世宗の第五子である。生後一月を過ぎずに夭折した。

戚王

戚懐王載𡎐は、世宗の第六子である。

薊王

薊哀王載㙺は、世宗の第七子である。

均王

均思王載𰉬は、世宗の第八子である。三王は皆歳を過ぎずに夭折し、追って封謚を加えられた。

穆宗に四子あり。

穆宗に四子あり。李皇后は憲懷太子翊釴を生み、孝定太后は神宗及び潞王翊镠を生み、その靖王翊鈴は、母氏は考うるに由なし。

憲懷太子

憲懷太子翊釴は、穆宗の長子なり。生まれて五歳にして夭逝し、裕世子を贈られた。隆慶元年に追謚された。

靖王

靖悼王翊鈴は、穆宗の第二子なり。生まれて一年を過ぎずして夭逝し、藍田王を贈られた。隆慶元年に封謚を追加された。

潞王

潞簡王翊镠は、穆宗の第四子なり。隆慶二年に生まれ、生まれて四歳にして封ぜられた。萬歷十七年に藩国衛輝に赴いた。初め、翊镠は帝の同母弟として京師の邸宅に居り、王店・王莊は畿内に遍くあった。藩国に赴くに及び、悉く官に還付し、遂に内臣をしてこれを管掌せしめた。皇店・皇莊はこれより益々奢侈を極めた。翊镠が藩国に居る時、贍田・食塩を多く請うたが、応じられざるはなかった。その後、福藩はこれに因って故事と為した。明の初め、親王は歳禄の外、草場牧地を量り給し、間には廃壌河灘を請う者もあったが、多くは千頃に及ばず。部臣は執奏を得て、悉く従うことはなかった。景王が藩国に就いた時、賜与は概ね裁減された。楚の地は広く、閑田多し、詔して悉くこれを与えた。景藩が除かれると、潞は景の旧籍田を得て、多きは四万頃に至り、部臣は難ずる由なし。福王常洵が之国するに至り、版籍が更定され、民力は益々乏しく、尺寸と雖も皆民間より奪い、海内騒然たり。論者は事の始まりを推原し、頗る翊镠を以て口実と為す。翊镠は文を好み、性勤飭にして、恒に歳入を以て朝に輸し、工を助け辺を助くるに惜しむ所なく、帝は益々これを善しとした。四十二年、皇太后の訃報至り、翊镠は悲慟して寝食を廃し、未幾にして薨じた。

世子常淓幼く、母妃李氏藩事を理む。時に福王奏請するも、輒ち中旨を取り、帝は王妃の奏に対しても、亦中より下し、異同無きを示した。部臣言う、「王妃の奏陳する四事、軍校の月糧の当に給発すべきこと、義和店の侵奪を予防することは、義の当に許すべき所なり。歳禄の先ず給せんと欲すること、王莊の更に設けんと欲することに至っては、則ち当に許すべからず。且つ王に毫も益無く、徒に邸中の人をして日に小民を魚肉せしめ、私囊を飽かすのみ。将来本支千億、請索日頻にして、尽く天府の版章を以てしても、王邸に給して足らず」と。報いず。四十六年、常淓嗣ぐ。崇禎中、流賊秦・晋・河北を擾す。常淓疏を上げ急を告げ、言う、「衛輝城卑く土悪し、請う護衛三千人を選び助守せしめ、歳入万金を捐てて餉を資し、司農を煩わさず」と。朝廷これを嘉す。賊王妃の冢を発す、常淓上言す、「賊延蔓して漸く江北に及び、鳳・泗の陵寝虞るべし、宜しく早く剿滅を行うべし」と。時に諸藩の中国難に急なる者は、惟だ周・潞の二王のみ。後に賊中州を躪き、常淓は杭に流寓す。順治二年六月、我が大清に降る。

神宗に八子あり。

神宗に八子あり。王太后は光宗を生む。鄭貴妃は福王常洵・沅王常治を生む。周端妃は瑞王常浩を生む。李貴妃は惠王常潤・桂王常瀛を生む。その邠王常漵・永思王常溥は、母氏は考うるに由なし。

邠王

邠哀王常漵は、神宗の第二子なり。生まれて一歳にして夭逝す。

福王

福恭王常洵は、神宗の第三子なり。初め、王皇后に子無く、王妃長子を生み、これ光宗なり。常洵これに次ぎ、母鄭貴妃最も寵幸を受く。帝久しく太子を立てず、中外貴妃が己が子を立てんと謀るを疑い、交章してその事を言い、竄謫相踵ぎ、而言う者止まず。帝深くこれを厭苦す。二十九年に至り始めて光宗を立てて太子と為し、而して常洵を福王に封ず。婚費は三十万に至り、洛陽らくようの邸第を営むこと二十八万に至り、常制の十倍なり。廷臣王の藩国に就くを請うこと数十百奏。報いず。四十二年に至り、始めて藩国に就かしむ。

先に、海内は全盛であり、帝の派遣した税使・鉱使は天下に遍在し、月毎に進奉があり、明珠・異宝・文毳・錦綺が山のように積まれ、その他の収奪による剰余は億万を数えた。この頃には多くを以て常洵の資と為した。出発に際し宮門を出て、数度にわたり召還され、三年に一度の入朝を約した。詔を下し荘田四万頃を賜う。所司が力諫し、常洵もまた奏上して辞退し、半減を得た。中州の肥沃な土地は足らず、山東・湖広の田を取って補った。また故大学士張居正の没収財産、及び江都から太平に至る長江沿いの荻洲の雑税、並びに四川の塩井・茶専売の銀を乞い求めて自らの利益とした。伴読・承奉ら諸官は、田畑を測量すると称し、駅伝に乗って河南・河北、斉・楚の間を出入りし、至る所で騒動を起こした。また淮塩千三百引を請い、店を洛陽に設けて民と交易した。中使が淮・揚に至り塩を支給するに当たり、着服や要求は常に数倍に及んだ。而して中州は旧来河東塩を食しており、淮塩を食するよう改めたため、王の店舗から出さないものは売ることを禁じ、河東塩の販売は阻まれ、辺境の兵糧はこれにより不足した。廷臣は河東において王に塩を与えるよう改め、且つ民との交易を行わぬよう請うた。聞き入れられず。帝は深宮に長く居り、群臣の章奏は概ね省みられなかった。独り福藩の使者は中左門に通籍し、一日に数度請願し、朝に上奏すれば夕に許可された。四方の奸人や亡命の徒は、風向きを探り、利を求めて鶩の如く走った。このような状態は万暦の世の終わりまで続いた。

崇禎の時になると、常洵は封地が近く身分が尊貴であり、朝廷は礼を以てこれを尊んだ。常洵は日々閣に閉じ籠り醇酒を飲み、好むところは唯婦女と娯楽のみであった。秦中に流賊が起こり、河南は大旱魃と蝗害に見舞われ、人々は互いに食らい合い、民間では噂が立ち、「先帝は天下を費やして王を肥やし、洛陽は宮中よりも富んでいる」と言われた。援兵が洛陽を過ぎる者たちは、「王府には金銭百万があるのに、我々を空腹のまま賊の手に死なせようとする」と喧しく言った。南京兵部尚書呂維祺が丁度家居しており、これを聞いて恐れ、利害を以て常洵に告げたが、意に介さなかった。十三年の冬、李自成が相次いで永寧・宜陽を陥落させた。翌年正月、参政王胤昌が衆を率いて警備し、総兵官王紹禹、副将劉見義・羅泰が各々兵を率いて到着した。常洵は三将を召し入れ、宴を賜って礼を厚くした。数日を過ぎ、賊が大挙して至り、城を攻めた。常洵は千金を出して勇士を募り、縋り下ろして出撃させ、矛を以て賊営に突入させると、賊は稍々退いた。夜半、紹禹の親軍が城上から賊と呼び交わして笑い語り、刀を揮って城壁の守兵を殺し、城楼に火を放ち、北門を開いて賊を迎え入れた。常洵は城から縋り下りて脱出し、迎恩寺に匿れた。翌日、賊が跡を追ってこれを捕らえ、遂に害された。両名の承奉が屍に伏して泣くと、賊はこれを引きずり去った。承奉は叫んで曰く、「王が死なれたので某は生きることを願わず、一つの棺を乞い王の骨を収め、粉微塵になっても恨みはありません」と。賊はその義を感じて許した。桐の棺は一寸厚さで、壊れた車に載せ、二人はその傍らで即座に自縊して死んだ。王妃鄒氏及び世子由崧は懐慶に逃れた。賊は王宮に火を放ち、三日間絶えなかった。事が聞こえ、帝は震悼し、三日間朝政を止め、河南の役所に改めて殯を行うよう命じた。

十六年秋七月、由崧が封を襲ぎ、帝は自ら宮中の宝玉の帯を選んでこれを賜った。翌年三月、京師が陥落し、由崧は潞王常淓と共に賊を避けて淮安に至った。四月、鳳陽総督馬士英らが由崧を迎えて南京に入れた。五月庚寅、監国を称した。兵部尚書史可法・戸部尚書高弘図及び士英を俱に大学士と為し、士英は依然として鳳陽軍務を督した。壬寅、南京において自立し、偽号を弘光と称した。史可法は江北で師を督した。士英を召し入れ、淮・揚・鳳・廬を四鎮に分け、総兵官黄得功・劉良佐・劉澤清・高傑にこれを統領させた。

由崧は性質が暗愚で柔弱であり、酒色と声伎に耽溺し、士英及び士英の党与である阮大鋮を任用し、兵部尚書に抜擢して江防を巡閲させた。二人は日々官爵を売り、私怨を晴らすことを事とした。事は諸臣の伝に詳しい。未だ幾ばくもせず、王之明という者がおり、偽って荘烈帝の太子と称し、これを獄に下した。また婦人の童氏という者がおり、自ら由崧の妃と称し、これもまた獄に下した。ここにおいて中外嘩然とした。翌年三月、寧南侯左良玉が武昌で挙兵し、太子を救い士英を誅することを名目とし、流れに順って東下した。阮大鋮・黄得功らが師を率いてこれを防いだ。而して我が大清兵はこの年の五月己丑に長江を渡った。辛卯の夜、由崧は太平に逃れ、蓋し得功の軍に向かおうとしたのである。壬辰、士英は由崧の母妃を擁して杭州に奔った。癸巳、由崧は蕪湖に至った。丙申、大兵が南京城北に至り、文武の官は出て降った。丙午、由崧を捕らえて南京に至らせた。九月甲寅、京師に帰すこととした。

沅王

沅懐王常治は、神宗の第四子である。生後一歳で夭折した。

瑞王

瑞王常浩は、神宗の第五子である。初め、太子が立てられず、三王並封の旨があり、蓋し光宗・福王及び常浩を指したのである。間もなく群臣の諫争により、遂に取り止めとなった。二十九年、東宮が立てられ、福・恵・桂の三王と同日に封じられた。常洵は長であるため、先に藩国に赴いた。常浩は年既に二十五歳に達していたが、未だ婚姻が選ばれていなかった。群臣が相次いで上奏したが、概ね報いられず、日々部の金庫を求めて婚礼の費用とし、剰余十八万を宮中に蔵め、且つ冠服が整えられないと言った。天啓七年に漢中に之藩した。崇禎の時、流寇が激しく、封地は賊の衝に当たった。七年に上書して言うには、「臣は先帝の骨肉として託され、西藩に奉ずるを得たが、一年も経たぬ内に寇が至った。近頃西賊が再び河を渡り、勝手に漢興に入り、洵陽を破り、興安に迫り、紫陽・平利・白河が相次いで陥落した。督臣洪承疇が単騎で甲を纏い万山を出入りし、賊は初めて敗走した。臣は軍を犒労し飢えを救う銀七千余両を捐げた。この時、撫臣練国事は兵を商・洛に移し、按臣範復粹は馳せ赴いて漢中に至り、近境は稍々寧かになった。既にして鳳県が再陥し、しょく賊が秦州に入り、楚賊が興安に上った。六月に遂に郡界を犯したが、幸い諸将が江を憑んで力戦し、賊は漸く退いた。臣は万山の絶谷の中にあり、賊は四面から至り、覆亡は日に迫っている。臣は肺腑の至親であり、藩封は最も僻遠であるが、寇盗に対しては最も逼迫しており、惟うに陛下の哀憐を請う」と。常浩は宮中にあって、衣服と礼秩は降等し、仏を好み女色に近づかなかった。寇が秦中に迫ると、将吏は救うことができず、蜀に師を乞うた。総兵官侯良柱がこれを救援し、遂に重慶に奔った。隴西の士大夫は多く家族を連れて従った。十七年、張献忠が重慶を陥落させ、捕らえられ、害された。時に天に雲無くして雷が三度鳴り、従って死ぬ者は甚だ多かった。

恵王

恵王常潤は、神宗の第六子である。福王の之藩に際し、内廷の蓄積は空となった。宦官は諸王の冠婚を藉口に、部の金庫を求めて宮中を満たし、必要なものは常に数十万に及び、珠宝もこれに相応した。戸部は供給できなかった。常潤と弟の常瀛は二十歳であったが、皆婚姻が選ばれていなかった。その後兵事が差し迫り、初めて簡略化して婚礼を行った。天啓七年に荊州に之藩した。崇禎十五年十二月、李自成が再び夷陵・荊門を破り、常潤は湘潭に逃れ、自成は荊州に入ってこれを占拠した。常潤が湘を渡るに当たり、陵陽磯で風に遭い、宮人の多くは漂没し、身は僅かに免れ、長沙において吉王に就いた。十六年八月、張献忠が長沙を陥落させ、常潤は衡州に逃れ、桂王に就いた。衡州が続いて陥落し、吉王・桂王と共に永州に逃れた。巡按御史劉熙祚が人を遣わして三王を護衛して広西に入らせ、自らは賊に当たった。永州が陥落し、熙祚はこれに死した。

桂王

桂端王常瀛は、神宗の第七子である。天啓七年に衡州に之藩した。崇禎十六年、衡州が陥落し、吉・恵の二王と共に広西に逃れ、梧州に居住した。

大清順治二年、大兵江南を平らげ、福王捕らえられる。在籍の尚書陳子壮ら将に常瀛を奉じて監国せんとす、会に唐王福建に自立す、遂に止む。是の年、蒼梧にて薨ず。

世子は既に先に卒し、次子安仁王由𣜬も亦未だ幾ばくもせずして卒す。次に由榔、崇禎の時、永明王に封ぜらる。

三年八月、大兵汀州を取り、唐王聿鍵を執る。ここにおいて両広総督丁魁楚・広西巡撫瞿式耜・巡按王化澄と旧臣呂大器等共に由榔を推して監国す。母妃王氏曰く、「吾が児は此れに勝たず、願わくは更に可き者を択べ。」魁楚ら意益々堅く、謀を合して梧に迎う。十月十四日肇慶にて監国し、魁楚・大器・式耜を以て大学士と為し、余は官を授くるに差有り。是の月大兵贛州を取り、内侍王坤倉卒に由榔を奉じて仍お梧州に走り、式耜ら力争い、乃ち肇慶に回る。十一月、唐王の弟聿𨮁閩より海を浮かびて粤に至る。時に閩の旧臣蘇観生兵を撤きて広州に奔り、布政使顧元鏡・総兵官林察らと謀り聿𨮁を立て、偽号紹武、由榔と相拒ぐ。是の月由榔も亦肇慶に自立し、偽号永歴、兵部侍郎林佳鼎を遣わして聿𨮁を討たしむ。会に大兵福建より広州を取り、聿𨮁を執り、観生自縊し、祭酒梁朝鐘・太僕卿霍子衡等俱に死す。肇慶大いに震え、王坤復た由榔を奉じて梧州に走る。

明年二月、平楽・潯州より走りて桂林に至る。魁楚由榔を棄て、岑溪に走り、大軍に降る。既にして平楽守られず、由榔大いに恐る。会に武岡総兵官劉承胤兵を以て全州に至り、王坤赴くを請う。式耜力諫す。聴かず。乃ち式耜及び総兵官焦璉を以て桂林を留守せしめ、陳邦傳を思恩侯に封じ昭平を守らしめ、遂に承胤の軍中に趨る。三月承胤を安国公に封じ、錦衣指揮馬吉翔等を伯と為す。承胤由榔を挟みて武岡に帰り、之を奉天府と改め、政事皆決す。

是の時、長沙・衡・永皆守られず、湖広総督何騰蛟と侍郎厳起恒白牙市に走る。六月、由榔官を遣わして騰蛟を召し至らしめ、密かに承胤を除かしむ、顧みるに承胤勢盛んなるを以て、騰蛟復た白牙に還る。大兵宝慶より武岡に趨り、馬吉翔等由榔を挟みて靖州に走り、承胤城を挙げて降る。由榔又柳州に奔る。道古泥に出づ。総兵官侯性・太監龐天寿舟師を帥いて来迎す。会に天雨饑餓し、性供帳甚だ備わる。九月、土舎覃鳴珂乱を作し、大いに城中を掠め、矢由榔の舟に及ぶ。先に、大兵桂林に趨り、焦璉拒ぎ守ること甚だ力あり、又広州に警有り、大兵東に向かい、桂林稍々安し。既にして湖南十三鎮の将郝永忠・盧鼎等俱に奔赴して桂林に至り、騰蛟も亦至り、式耜と議して地を分ち諸将に給し、使各自守らしむ。璉は既に先に陽朔・平楽を復し、陳邦傳潯州を復し、兵を合して梧州を復し、広西全省略く定まる。十二月、由榔桂林に返る。

五年二月、大兵霊川に至り、郝永忠興安に潰え、奔り還り、由榔を挟みて柳州に走る。大兵桂林を攻め、式耜・騰蛟拒戦す。時に南昌の金声桓等叛き、由榔に降る。八月、由榔肇慶に至る。六年春、大兵湘潭を下し、何騰蛟死す。明年、由榔梧州に走る。是の年十二月、大兵桂林に入り、瞿式耜及び総督張同敞死す。由榔報を聞き大いに懼れ、梧州より自ら南寧に奔る。時に孫可望既に滇・黔を据え、秦王に封ぜらる。八年三月、兵を遣わして来衛し、厳起恒等を殺す。

九年二月、可望由榔を迎えて安隆所に入れ、之を安龍府と改む。久しくして、日増しに窮促し、李定国と可望隙有るを聞き、使を遣わし密かに定国を召し、兵を以て来迎せしむ。馬吉翔可望に党し、之を偵知し、大学士呉貞毓以下十余人皆殺さる。事は詳しく『貞毓伝』に在り。後二年、李定国新会に敗れ、将に安隆より滇に入らんとす。可望之を患い、由榔を促して貴陽に移り己に就かしむ。由榔故に遅行す。定国至り、遂に由榔を奉じて安南衛より雲南に走り、可望の署中に居し、定国を晋王に封ず。可望妻子滇に在るを以て、未だ敢えて動かず。明年、由榔其の妻子を送りて黔に還し、遂に兵を挙げて定国と三岔に戦う。可望の将白文選単騎定国の軍に奔る。可望敗れ、妻子を挈いて長沙の大軍の前に赴き降る。

十五年三月、大兵三路より雲南に入る。定国鶏公背を扼し、貴州の道を断ち、別将七星関を守り、生界に抵りて営を立て、以て蜀の師を牽く。大兵遵義より出で、水西より烏撒を取り、守将関を棄てて走り、李定国連ねて安隆に敗れ、由榔永昌に走る。明年正月三日、大兵雲南に入り、由榔騰越に走る。定国潞江に敗れ、又南甸に走る。二十六日、囊木河に抵る、是れ緬境と為す。緬従官に勒して尽く兵仗を棄てしめ、始めて関を啓き、蛮莫に至る。二月、緬四舟を以て来迎し、従官自ら舟を覓ち、随行する者六百四十余人、陸行する者故岷王子以下九百余人、期して緬甸に会す。十八日井亙に至る。黔国公沐天波等謀り由榔を奉じて戸・獵二河に走らんとす、果たさず。五月四日、緬復た舟を以て来迎す。明日、井亙を発し、三日行きて阿瓦に至る。阿瓦とは、緬酋の居る城なり。又五日赭硁に至る。陸行する者緬人悉く掠めて奴と為し、多く自殺す。惟だ岷王子八十余人暹羅に流入す。緬人赭硁に於て草屋を置き由榔を居らしめ、兵を遣わして之を防ぐ。

十七年、定国・文選緬と戦い、其の主を索め、連ねて緬兵を敗り、緬終に由榔を出だすことを肯ぜず。十八年五月、緬酋の弟莽猛白代わり立ち、従官を紿して河を渡りて盟せしむ。既に至り、兵を以て之を囲み、沐天波・馬吉翔・王維恭・魏豹等四十二人を殺す、詳しく『任国璽伝』に在り。存する者由榔と其の属二十五人。十二月、大兵緬に臨み、白文選木邦より自ら降り、定国景線に走り、緬人由榔父子を軍前に送る。明年四月、雲南にて死す。六月、李定国卒し、其の子嗣興等降る。

永王

永思王常溥、神宗第八子。生二歳にして殤ず。

光宗七子

光宗七子。王太后は熹宗・簡王由㰒を生む。王選侍は斉王由楫を生む。李選侍は懐王由模を生む。劉太后は荘烈皇帝を生む。定懿妃は湘王由栩を生む。敬妃は恵王由橏を生む。

簡懐王由㰒、光宗第二子。生四歳にして殤ず。斉思王由楫、光宗第三子。生八歳にして殤ず。懐恵王由模、光宗第四子。生五歳にして殤ず。湘懐王由栩、光宗第六子。恵昭王由橏、光宗第七子。俱に早く殤ず。五王皆追って封謚を加う。

熹宗三子

熹宗に三子あり。懐沖太子慈然は、その生母を詳らかにせず。皇貴妃范氏は悼懐太子慈焴を生む。容妃任氏は献懐太子慈炅を生む。

懐沖太子慈然は、熹宗の第一子なり。悼懐太子慈焴は、熹宗の第二子なり。献懐太子慈炅は、熹宗の第三子なり。懐沖・悼懐と共に皆夭逝す。

荘烈帝七子

荘烈帝に七子あり。周皇后は太子慈烺・懐隠王慈烜・定王慈炯を生む。田貴妃は永王慈炤・悼霊王慈煥・悼懐王及び皇七子を生む。

太子慈烺

太子慈烺は、荘烈帝の第一子なり。崇禎二年二月に生まれ、三年二月に皇太子に立てらる。十年、東宮侍班講読官を予め選び、礼部尚書姜逢元、詹事姚明恭、少詹王鐸・屈可伸に侍班を命じ、礼部侍郎方逢年、諭徳項煜、修撰劉理順、編修呉偉業・楊廷麟・林曾志に講読を命じ、編修胡守恒・楊士聰に校書を命ず。十一年二月、太子出閤す。十五年正月に講を開き、閣臣条上して講儀を奏す。七月、慈慶宮を端本宮と改む。慈慶は、懿安皇后の居所なり。時に太子十四歳、来年の選婚を議し、故に先んじて宮を置き、懿安后を仁寿殿に移す。既にして寇警のため暫く停止す。京師陥落し、賊太子を獲て、偽りに宋王に封ず。賊敗れて西走するに及び、太子の行方知れず。由崧の時、北より来たりて太子を称する者あり、之を験するに、駙馬都尉王昺の孫王之明の偽り為すものと為し、獄中に繋ぐ。南京の士民嘩然として平らかならず。袁継咸及び劉良佐・黄得功の輩皆上疏して争う。左良玉兵を起こすも亦た太子を救うを名とす。一時真偽能く知る莫し。由崙既に太平に奔り、南京の乱兵王之明を擁して之を立てる。五日を越え、我が大清に降る。

懐王

懐隠王慈烜は、荘烈帝の第二子なり。夭逝す。

定王

定王慈炯は、荘烈帝の第三子なり。崇禎十四年六月、礼臣に諭して曰く、「朕が第三子、年既に十歳、謹みて祖制を遵い、宜しく王号を加うべし。但し既に冊封を受けば、必ず冕服を具うべく、而して『会典』開載する所、年十二或いは十五にして始めて冠礼を行う。十歳にて封を受け冠を加うるは、二礼並びに行う可きか」と。是に於いて礼臣歴考して経伝及び本朝の典故を以て奏す。是歳の冊封と定め、二年を越えて冠礼を行う。九月、定王に封ず。十一月、新進士を選びて検討と為し、国子助教等の官を待詔と為し、王講読官に充て、両殿中書を以て侍書に充つ。十七年、京師陥落し、行方知れず。

永王

永王慈炤は、荘烈帝の第四子なり。崇禎十五年三月、永王に封ず。賊京師を陥とし、行方知れず。

悼霊王

悼霊王慈煥は、荘烈帝の第五子なり。五歳にして病み、帝之を視るに、忽ち云く、「九蓮菩薩言う、帝外戚を薄く待ち、将に諸子を尽く殤さんとす」と。遂に薨ず。九蓮菩薩とは、神宗の母、孝定李太后なり。太后仏を好み、宮中の像九蓮座を作る、故に云う。帝王の霊異を念い、孺孝悼霊王玄機慈応真君に封じ、礼臣に命じて孝和皇太后・荘妃・懿妃の道号を議せしむ。礼科給事中李焻言う、「諸後妃は、奉先殿に祀る、邪教を崇めて以て徽称を乱る可からず」と。聴かず。十六年十二月、宣顕慈応悼霊王と改封し、「真君」の号を去る。

二王

悼懐王は荘烈帝の第六子、生まれて二歳で夭折した。第七子は生まれて三歳で夭折した。名はともに考証すべくもない。

【賛】

賛に曰く、明の諸藩は、分封して土を賜わず、爵を列ねて民に臨まず、禄を食んで事を治めず。蓋し枉を矯ぎ覆を鑑み、漢・晋の末大の禍を杜がんとする所以にして、意固より善し。然れども徒らに虚名を擁し、坐して厚禄を糜し、賢才自ら見ることを克さず、知勇施設する所なし。防閑峻しきに過ぎ、法制日増す。城を出で墓を省みるも、請いて後に許され、二王相見ゆることを得ず。藩禁厳密、一に此に至る。太祖の時に当たりては、宗藩辺に備え、軍戎制を受け、賛儀疏属、且つ令して各国を遍歴せしめ、親親を通ぜしむ。然らば則ち法網の繁きは、中葉より起これり、豈に太祖の衆建屏藩の初計ならんや。