明史

列傳第八 諸王五

列傳第八 諸王五

原文列傳第八 諸王五

世宗の諸子

原文○世宗諸子

哀沖太子載基、莊敬太子載壑、景王載圳、潁王載𪉖、戚王載𡎐、薊王載㙺、均王載𰉬

原文哀沖太子載基 莊敬太子載壑 景王載圳 潁王載𪉖 戚王載16px|(⿱⿰戞斗土) 薊王載㙺 均王載𰉬

穆宗の諸子

原文○穆宗諸子

憲懷太子翊釴、靖王翊鈴、潞王翊镠

原文憲懷太子翊釴 靖王翊鈴 潞王翊镠

神宗の諸子

原文○神宗諸子

邠王常漵、福王常洵、沅王常治、瑞王常浩、惠王常潤、桂王常瀛

原文邠王常漵 福王常洵 沅王常治 瑞王常浩 惠王常潤 桂王常瀛

光宗の諸子

原文○光宗諸子

簡王由㰒、齊王由楫、懷王由模、湘王由栩、惠王由橏

原文簡王由㰒 齊王由楫 懷王田模 湘王由栩 惠王由橏

熹宗の諸子

原文○熹宗諸子

懷沖太子慈燃、悼懷太子慈焴、獻懷太子慈炅

原文懷沖太子慈燃 悼懷太子慈焴 獻懷太子慈炅

莊烈帝の諸子

原文○莊烈帝諸子

太子慈烺、懷王慈烜、定王慈炯、永王慈照、悼靈王慈煥、悼懷王

原文太子慈烺 懷王慈烜 定王慈炯 永王慈照 悼靈王慈煥 悼懷王

世宗八子

原文世宗八子

世宗に八人の子があった。閻貴妃が哀沖太子載基を生み、王貴妃が莊敬太子載壑を生み、杜太后が穆宗を生み、盧靖妃が景王載圳を生み、江肅妃が潁王載𪉖を生み、趙懿妃が戚王載𡎐を生み、陳雍妃が薊王載㙺を生み、趙榮妃が均王載𰉬を生んだ。

原文世宗八子。閻貴妃生哀沖太子載基。王貴妃生莊敬太子載。杜太后生穆宗。盧靖妃生景王載圳。江肅妃生潁王載𪉖。趙懿妃生戚王載16px|(⿱⿰戞斗土)。陳雍妃生薊王載㙺。趙榮妃生均王載𰉬。

哀沖太子

原文哀沖太子

哀沖太子載基は、世宗の第一子である。生後二月で夭折した。

原文哀沖太子載基,世宗第一子。生二月而殤。

莊敬太子

原文莊敬太子

莊敬太子載壑は、世宗の第二子である。嘉靖十八年、世宗が南巡しようとしたとき、皇太子に立てられ、わずか四歳で、命じて監国させ、大学士夏言を傅とした。尚書霍韜・郎中鄒守益が『東宮聖学図冊』を献上したが、誹謗と疑われ、危うく罪を得るところであった。帝は方士段朝用を得てから、修摂の術を習おうと思い、礼部に諭して、皇太子監国の儀を整えさせた。太僕卿楊最が諫めて、杖死し、監国の議もまた中止となった。賛善羅洪先・趙時春・唐順之が太子の出閤を請い、文華殿で講学することを求めたが、皆削籍された。太廟が完成すると、太子に命じて摂祀させた。二十八年三月に冠礼を行い、二日後に薨じた。帝は命じて哀沖太子と並んで寝園を建て、歳時に祭祀し、諸陵の後に従わせた。

原文莊敬太子載壑,世宗第二子。嘉靖十八年,世宗將南巡,立為皇太子,甫四歲,命監國,以大學士夏言為傅。尚書霍韜、郎中鄒守益獻《東宮聖學圖冊》,疑為謗訕,幾獲罪。帝既得方士段朝用,思習修攝術,諭禮部,具皇太子監國儀。太僕卿楊最諫,杖死,監國之議亦罷。贊善羅洪先、趙時春、唐順之請太子出閤,講學文華殿,皆削籍。太廟成,命太子攝祀。二十八年三月行寇禮,越二日薨。帝命與哀沖太子並建寢園,歲時祭祀,從諸陵後。

景王

原文景王

景恭王載圳は、世宗の第四子である。嘉靖十八年に太子を冊立したとき、同日に穆宗裕王と載圳を景王に封じた。その後太子が薨じると、廷臣は裕王が次に立つべきであると述べた。帝は以前の太子が永く続かなかったので、これを遅らせた。晩年方士の言葉を信じ、二王は皆面会することができなかった。載圳は裕王とともに邸を出てから後、居処や衣服に区別がなかった。載圳は年少であったので、左右の者が覬覦の心を抱き、その言葉が次第に聞こえ、朝廷内外にかなり異論があった。四十年に徳安に之国した。四年居住して薨じた。帝は大学士徐階に言った、「この子はもとより嫡を奪おうと謀っていたが、今死んだ。」初め、載圳が藩国に行くとき、多く庄田を請うた。部議はこれを与えた。荊州の沙市は請いの中にはなかった。中使が市租を責めたが、知府徐学謨がこれを執って与えず、また漢陽の劉家塥で薪税を取ろうとしたが、推官呉宗周がこれを押さえたので、皆譴責を受けた。その他の土田湖陂で侵したものは数万頃に及んだ。王に子がなく、西山に帰葬し、妃妾は皆京邸に還って居住し、封は除かれた。

原文景恭王載圳,世宗第四子。嘉靖十八年冊立太子,同日封穆宗裕王、載圳景王。其後太子薨,廷臣言裕王次當立。帝以前太子不永,遲之。晚信方士語,二王皆不得見。載圳既與裕王並出邸,居處衣服無別。載圳年少,左右懷窺覬,語漸聞,中外頗有異論。四十年之國德安。居四年薨。帝謂大學士徐階曰:「此子素謀奪嫡,今死矣。」初,載圳之藩,多請莊田。部議給之。荊州沙市不在請中。中使責市租,知府徐學謨執不與,又取薪稅於漢陽之劉家塥,推官吳宗周持之,皆獲譴。其他土田湖陂侵入者數萬頃。王無子,歸葬西山,妃妾皆還居京邸,封除。

潁王

原文潁王

潁殤王載𪉖は、世宗の第五子である。生後一月を過ぎずに夭折した。

原文潁殤王載𪉖,世宗第五子。生未逾月殤。

戚王

原文戚王

戚懐王載𡎐は、世宗の第六子である。

原文戚懷王載16px|(⿱⿰戞斗土),世宗第六子。

薊王

原文薊王

薊哀王載㙺は、世宗の第七子である。

原文薊哀王載㙺,世宗第七子。

均王

原文均王

均思王載𰉬は、世宗の第八子である。三王は皆歳を過ぎずに夭折し、追って封謚を加えられた。

原文均思王載𰉬,世宗第八子。三王俱未逾歲殤,追加封謚。

穆宗に四子あり。

原文穆宗四子

穆宗に四子あり。李皇后は憲懷太子翊釴を生み、孝定太后は神宗及び潞王翊镠を生み、その靖王翊鈴は、母氏は考うるに由なし。

原文穆宗四子。李皇后生憲懷太子翊釴,孝定太后生神宗、潞王翊镠,其靖王翊鈴,母氏無考。

憲懷太子

原文憲懷太子

憲懷太子翊釴は、穆宗の長子なり。生まれて五歳にして夭逝し、裕世子を贈られた。隆慶元年に追謚された。

原文憲懷太子翊釴,穆宗長子。生五歲殤,贈裕世子。隆慶元年追謚。

靖王

原文靖王

靖悼王翊鈴は、穆宗の第二子なり。生まれて一年を過ぎずして夭逝し、藍田王を贈られた。隆慶元年に封謚を追加された。

原文靖悼王翊鈴,穆宗第二子。生未逾年殤,贈藍田王。隆慶元年追加封謚。

潞王

原文潞王

潞簡王翊镠は、穆宗の第四子なり。隆慶二年に生まれ、生まれて四歳にして封ぜられた。萬歷十七年に藩国衛輝に赴いた。初め、翊镠は帝の同母弟として京師の邸宅に居り、王店・王莊は畿内に遍くあった。藩国に赴くに及び、悉く官に還付し、遂に内臣をしてこれを管掌せしめた。皇店・皇莊はこれより益々奢侈を極めた。翊镠が藩国に居る時、贍田・食塩を多く請うたが、応じられざるはなかった。その後、福藩はこれに因って故事と為した。明の初め、親王は歳禄の外、草場牧地を量り給し、間には廃壌河灘を請う者もあったが、多くは千頃に及ばず。部臣は執奏を得て、悉く従うことはなかった。景王が藩国に就いた時、賜与は概ね裁減された。楚の地は広く、閑田多し、詔して悉くこれを与えた。景藩が除かれると、潞は景の旧籍田を得て、多きは四万頃に至り、部臣は難ずる由なし。福王常洵が之国するに至り、版籍が更定され、民力は益々乏しく、尺寸と雖も皆民間より奪い、海内騒然たり。論者は事の始まりを推原し、頗る翊镠を以て口実と為す。翊镠は文を好み、性勤飭にして、恒に歳入を以て朝に輸し、工を助け辺を助くるに惜しむ所なく、帝は益々これを善しとした。四十二年、皇太后の訃報至り、翊镠は悲慟して寝食を廃し、未幾にして薨じた。

原文潞簡王翊镠,穆宗第四子。隆慶二年生,生四歲而封。萬歷十七年之藩衛輝。初,翊镠以帝母弟居京邸,王店、王莊遍畿內。比之藩,悉以還官,遂以內臣司之。皇店、皇莊自此益侈。翊镠居藩,多請贍田、食鹽,無不應者。其後福藩遂緣為故事。明初,親王歲祿外,量給草場牧地,間有以廢壤河灘請者,多不及千頃。部臣得執奏,不盡從也。景王就藩時,賜予概裁省。楚地曠,多閑田,詔悉予之。景藩除,潞得景故籍田,多至四萬頃,部臣無以難。至福王常洵之國,版籍更定,民力益絀,尺寸皆奪之民間,海內騷然。論者推原事始,頗以翊镠為口實云。翊镠好文,性勤飭,恒以歲入輸之朝,助工助邊無所惜,帝益善之。四十二年,皇太后哀問至,翊镠悲慟廢寢食,未幾薨。

世子常淓幼く、母妃李氏藩事を理む。時に福王奏請するも、輒ち中旨を取り、帝は王妃の奏に対しても、亦中より下し、異同無きを示した。部臣言う、「王妃の奏陳する四事、軍校の月糧の当に給発すべきこと、義和店の侵奪を予防することは、義の当に許すべき所なり。歳禄の先ず給せんと欲すること、王莊の更に設けんと欲することに至っては、則ち当に許すべからず。且つ王に毫も益無く、徒に邸中の人をして日に小民を魚肉せしめ、私囊を飽かすのみ。将来本支千億、請索日頻にして、尽く天府の版章を以てしても、王邸に給して足らず」と。報いず。四十六年、常淓嗣ぐ。崇禎中、流賊秦・晋・河北を擾す。常淓疏を上げ急を告げ、言う、「衛輝城卑く土悪し、請う護衛三千人を選び助守せしめ、歳入万金を捐てて餉を資し、司農を煩わさず」と。朝廷これを嘉す。賊王妃の冢を発す、常淓上言す、「賊延蔓して漸く江北に及び、鳳・泗の陵寝虞るべし、宜しく早く剿滅を行うべし」と。時に諸藩の中国難に急なる者は、惟だ周・潞の二王のみ。後に賊中州を躪き、常淓は杭に流寓す。順治二年六月、我が大清に降る。

原文世子常淓幼,母妃李氐理藩事。時福王奏請,輒取中旨,帝於王妃奏,亦從中下,示無異同。部臣言:「王妃奏陳四事,如軍校月糧之當給發,義和店之預防侵奪,義所當許;至歲祿之欲先給,王莊之欲更設,則不當許。且於王無絲豪益,徒令邸中人日魚肉小民,飽私囊。將來本支千億,請索日頻,盡天府之版章,給王邸而不足也。」不報。四十六年,常淓嗣。崇禎中,流賊擾秦、晉、河北。常淓疏告急,言:「衛輝城卑土惡,請選護衛三千人助守,捐歲入萬金資餉,不煩司農。」朝廷嘉之。盜發王妃冢,常淓上言:「賊延蔓漸及江北,鳳、泗陵寢可虞,宜早行剿滅。」時諸藩中能急國難者,惟周、潞二王云。後賊躪中州,常淓流寓於杭。順治二年六月降於我大清。

神宗に八子あり。

原文神宗八子

神宗に八子あり。王太后は光宗を生む。鄭貴妃は福王常洵・沅王常治を生む。周端妃は瑞王常浩を生む。李貴妃は惠王常潤・桂王常瀛を生む。その邠王常漵・永思王常溥は、母氏は考うるに由なし。

原文神宗八子。王太后生光宗。鄭貴妃生福王常洵、沅王常治。周端妃生瑞王常浩。李貴妃生惠王常潤、桂王常瀛。其邠王常漵、永思王常溥,母氏無考。

邠王

原文邠王

邠哀王常漵は、神宗の第二子なり。生まれて一歳にして夭逝す。

原文邠哀王常漵,神宗第二子。生一歲殤。

福王

原文福王

福恭王常洵は、神宗の第三子なり。初め、王皇后に子無く、王妃長子を生み、これ光宗なり。常洵これに次ぎ、母鄭貴妃最も寵幸を受く。帝久しく太子を立てず、中外貴妃が己が子を立てんと謀るを疑い、交章してその事を言い、竄謫相踵ぎ、而言う者止まず。帝深くこれを厭苦す。二十九年に至り始めて光宗を立てて太子と為し、而して常洵を福王に封ず。婚費は三十万に至り、洛陽の邸第を営むこと二十八万に至り、常制の十倍なり。廷臣王の藩国に就くを請うこと数十百奏。報いず。四十二年に至り、始めて藩国に就かしむ。

原文福恭王常洵,神宗第三子。初,王皇后無子,王妃生長子,是為光宗。常洵次之,母鄭貴妃最幸。帝久不立太子,中外疑貴妃謀立己子,交章言其事,竄謫相踵,而言者不止。帝深厭苦之。二十九年始立光宗為太子,而封常洵福王,婚費至三十萬,營洛陽邸第至二十八萬,十倍常制。廷臣請王之藩者數十百奏。不報。至四十二年,始令就藩。

先に、海内は全盛であり、帝の派遣した税使・鉱使は天下に遍在し、月毎に進奉があり、明珠・異宝・文毳・錦綺が山のように積まれ、その他の収奪による剰余は億万を数えた。この頃には多くを以て常洵の資と為した。出発に際し宮門を出て、数度にわたり召還され、三年に一度の入朝を約した。詔を下し荘田四万頃を賜う。所司が力諫し、常洵もまた奏上して辞退し、半減を得た。中州の肥沃な土地は足らず、山東・湖広の田を取って補った。また故大学士張居正の没収財産、及び江都から太平に至る長江沿いの荻洲の雑税、並びに四川の塩井・茶専売の銀を乞い求めて自らの利益とした。伴読・承奉ら諸官は、田畑を測量すると称し、駅伝に乗って河南・河北、斉・楚の間を出入りし、至る所で騒動を起こした。また淮塩千三百引を請い、店を洛陽に設けて民と交易した。中使が淮・揚に至り塩を支給するに当たり、着服や要求は常に数倍に及んだ。而して中州は旧来河東塩を食しており、淮塩を食するよう改めたため、王の店舗から出さないものは売ることを禁じ、河東塩の販売は阻まれ、辺境の兵糧はこれにより不足した。廷臣は河東において王に塩を与えるよう改め、且つ民との交易を行わぬよう請うた。聞き入れられず。帝は深宮に長く居り、群臣の章奏は概ね省みられなかった。独り福藩の使者は中左門に通籍し、一日に数度請願し、朝に上奏すれば夕に許可された。四方の奸人や亡命の徒は、風向きを探り、利を求めて鶩の如く走った。このような状態は万暦の世の終わりまで続いた。

原文先是,海內全盛,帝所遣稅使、礦使遍天下,月有進奉,明珠異寶文毳錦綺山積,他搜括贏羨億萬計。至是多以資常洵。臨行出宮門,召還數四,期以三歲一入朝。下詔賜莊田四萬頃。所司力爭,常洵亦奏辭,得減半。中州腴土不足,取山東、湖廣田益之。又奏乞故大學士張居正所沒產,及江都至太平沿江荻洲雜稅,並四川鹽井榷茶銀以自益。伴讀、承奉諸官,假履畝為名,乘傳出入河南北、齊、楚間,所至騷動。又請淮鹽千三百引,設店洛陽與民市。中使至淮、揚支鹽,乾沒要求輒數倍。而中州舊食河東鹽,以改食淮鹽故,禁非王肆所出不得鬻,河東引遏不行,邊餉由此絀。廷臣請改給王鹽於河東,且無與民市。弗聽。帝深居久,群臣章奏率不省。獨福藩使通籍中左門,一日數請,朝上夕報可。四方奸人亡命,探風旨,走利如鶩。如是者終萬歷之世。

崇禎の時になると、常洵は封地が近く身分が尊貴であり、朝廷は礼を以てこれを尊んだ。常洵は日々閣に閉じ籠り醇酒を飲み、好むところは唯婦女と娯楽のみであった。秦中に流賊が起こり、河南は大旱魃と蝗害こうがいに見舞われ、人々は互いに食らい合い、民間では噂が立ち、「先帝は天下を費やして王を肥やし、洛陽は宮中よりも富んでいる」と言われた。援兵が洛陽を過ぎる者たちは、「王府には金銭百万があるのに、我々を空腹のまま賊の手に死なせようとする」と喧しく言った。南京兵部尚書呂維祺が丁度家居しており、これを聞いて恐れ、利害を以て常洵に告げたが、意に介さなかった。十三年の冬、李自成が相次いで永寧・宜陽を陥落させた。翌年正月、参政王胤昌が衆を率いて警備し、総兵官王紹禹、副将劉見義・羅泰が各々兵を率いて到着した。常洵は三将を召し入れ、宴を賜って礼を厚くした。数日を過ぎ、賊が大挙して至り、城を攻めた。常洵は千金を出して勇士を募り、縋り下ろして出撃させ、矛を以て賊営に突入させると、賊は稍々退いた。夜半、紹禹の親軍が城上から賊と呼び交わして笑い語り、刀を揮って城壁の守兵を殺し、城楼に火を放ち、北門を開いて賊を迎え入れた。常洵は城から縋り下りて脱出し、迎恩寺に匿れた。翌日、賊が跡を追ってこれを捕らえ、遂に害された。両名の承奉が屍に伏して泣くと、賊はこれを引きずり去った。承奉は叫んで曰く、「王が死なれたので某は生きることを願わず、一つの棺を乞い王の骨を収め、粉微塵になっても恨みはありません」と。賊はその義を感じて許した。桐の棺は一寸厚さで、壊れた車に載せ、二人はその傍らで即座に自縊して死んだ。王妃鄒氏及び世子由崧は懐慶に逃れた。賊は王宮に火を放ち、三日間絶えなかった。事が聞こえ、帝は震悼し、三日間朝政を止め、河南の役所に改めて殯を行うよう命じた。

原文及崇禎時,常洵地近屬尊,朝廷尊禮之。常洵日閉閣飲醇酒,所好惟婦女倡樂。秦中流賊起,河南大旱蝗,人相食,民間藉藉,謂先帝耗天下以肥王,洛陽富於大內。援兵過洛者,喧言:「王府金錢百萬,而令吾輩枵腹死賊手。」南京兵部尚書呂維祺方家居,聞之懼,以利害告常洵,不為意。十三年冬,李自成連䧟永寧、宜陽。明年正月,參政王胤昌帥眾警備,總兵官王紹禹,副將劉見義、羅泰各引兵至。常洵召三將入,賜宴加禮。越數日,賊大至,攻城。常洵出千金募勇士,縋而出,用矛入賊營,賊稍卻。夜半,紹禹親軍從城上呼賊相笑語,揮刀殺守堞者,燒城樓,開北門納賊。常洵縋城出,匿迎恩寺。翌日,賊跡而執之,遂遇害。兩承奉伏屍哭,賊捽之去。承奉呼曰:「王死某不願生,乞一棺收王骨,棆粉無所恨。」賊義而許之。桐棺一寸,載以斷車,兩人即其旁自縊死。王妃鄒氏及世子由崧走懷慶。賊火王宮,三日不絕。事聞,帝震悼,輟朝三日,令河南有司改殯。

十六年秋七月、由崧が封を襲ぎ、帝は自ら宮中の宝玉の帯を選んでこれを賜った。翌年三月、京師が陥落し、由崧は潞王常淓と共に賊を避けて淮安に至った。四月、鳳陽総督馬士英らが由崧を迎えて南京に入れた。五月庚寅、監国を称した。兵部尚書史可法・戸部尚書高弘図及び士英を俱に大学士と為し、士英は依然として鳳陽軍務を督した。壬寅、南京において自立し、偽号を弘光と称した。史可法は江北で師を督した。士英を召し入れ、淮・揚・鳳・廬を四鎮に分け、総兵官黄得功・劉良佐・劉澤清・高傑にこれを統領させた。

原文十六年秋七月,由崧襲封,帝親擇宮中寶玉帶賜之。明年三月,京師失守,由崧與潞王常淓俱避賊至淮安。四月,鳳陽總督馬士英等迎由崧入南京。五月庚寅,稱監國。以兵部尚書史可法、戶部尚書高弘圖及士英俱為大學士,士英仍督鳳陽軍務。壬寅自立於南京,偽號弘光。史可法督師江北。召士英入,分淮、揚、鳳、廬為四鎮,以總兵官黃得功、劉良佐、劉澤清、高傑領之。

由崧は性質が暗愚で柔弱であり、酒色と声伎に耽溺し、士英及び士英の党与である阮大鋮を任用し、兵部尚書に抜擢して江防を巡閲させた。二人は日々官爵を売り、私怨を晴らすことを事とした。事は諸臣の伝に詳しい。未だ幾ばくもせず、王之明という者がおり、偽って荘烈帝の太子と称し、これを獄に下した。また婦人の童氏という者がおり、自ら由崧の妃と称し、これもまた獄に下した。ここにおいて中外嘩然とした。翌年三月、寧南侯左良玉が武昌で挙兵し、太子を救い士英を誅することを名目とし、流れに順って東下した。阮大鋮・黄得功らが師を率いてこれを防いだ。而して我が大清兵はこの年の五月己丑に長江を渡った。辛卯の夜、由崧は太平に逃れ、蓋し得功の軍に向かおうとしたのである。壬辰、士英は由崧の母妃を擁して杭州に奔った。癸巳、由崧は蕪湖に至った。丙申、大兵が南京城北に至り、文武の官は出て降った。丙午、由崧を捕らえて南京に至らせた。九月甲寅、京師に帰すこととした。

原文由崧性闇弱,湛於酒色聲伎,委任士英及士英黨阮大鋮,擢至兵部尚書,巡閱江防。二人日以鬻官爵、報私憾為事。事詳諸臣傳中。未幾,有王之明者,詐稱莊烈帝太子,下之獄。又有婦童氏,自稱由崧妃,亦下獄。於是中外嘩然。明年三月,寧南侯左良玉舉兵武昌,以救太子誅士英為名,順流東下。阮大鋮、黃得功等帥師禦之。而我大清兵以是年五月己丑渡江。辛卯夜,由崧走太平,蓋趨得功軍也。壬辰,士英挾由崧母妃奔杭州。癸巳,由崧至蕪湖。丙申,大兵至南京城北,文武官出降。丙午,執由崧至南京。九月甲寅,以歸京師。

沅王

原文沅王

沅懐王常治は、神宗の第四子である。生後一歳で夭折した。

原文沅懷王常治,神宗第四子。生一歲殤。

瑞王

原文瑞王

瑞王常浩は、神宗の第五子である。初め、太子が立てられず、三王並封の旨があり、蓋し光宗・福王及び常浩を指したのである。間もなく群臣の諫争により、遂に取り止めとなった。二十九年、東宮が立てられ、福・恵・桂の三王と同日に封じられた。常洵は長であるため、先に藩国に赴いた。常浩は年既に二十五歳に達していたが、未だ婚姻が選ばれていなかった。群臣が相次いで上奏したが、概ね報いられず、日々部の金庫を求めて婚礼の費用とし、剰余十八万を宮中に蔵め、且つ冠服が整えられないと言った。天啓七年に漢中に之藩した。崇禎の時、流寇が激しく、封地は賊の衝に当たった。七年に上書して言うには、「臣は先帝の骨肉として託され、西藩に奉ずるを得たが、一年も経たぬ内に寇が至った。近頃西賊が再び河を渡り、勝手に漢興に入り、洵陽を破り、興安に迫り、紫陽・平利・白河が相次いで陥落した。督臣洪承疇が単騎で甲を纏い万山を出入りし、賊は初めて敗走した。臣は軍を犒労し飢えを救う銀七千余両を捐げた。この時、撫臣練国事は兵を商・洛に移し、按臣範復粹は馳せ赴いて漢中に至り、近境は稍々寧かになった。既にして鳳県が再陥し、蜀賊が秦州に入り、楚賊が興安に上った。六月に遂に郡界を犯したが、幸い諸将が江を憑んで力戦し、賊は漸く退いた。臣は万山の絶谷の中にあり、賊は四面から至り、覆亡は日に迫っている。臣は肺腑の至親であり、藩封は最も僻遠であるが、寇盗に対しては最も逼迫しており、惟うに陛下の哀憐を請う」と。常浩は宮中にあって、衣服と礼秩は降等し、仏を好み女色に近づかなかった。寇が秦中に迫ると、将吏は救うことができず、蜀に師を乞うた。総兵官侯良柱がこれを救援し、遂に重慶に奔った。隴西の士大夫は多く家族を連れて従った。十七年、張献忠が重慶を陥落させ、捕らえられ、害された。時に天に雲無くして雷が三度鳴り、従って死ぬ者は甚だ多かった。

原文瑞王常浩,神宗第五子。初,太子未立,有三王並封之旨,蓋謂光宗、福王及常浩也。尋以群臣爭,遂寢。二十九年,東宮立,與福、惠、桂三王同日封。常洵以長,先之藩。常浩年已二十有五,尚末選婚。群臣交章言,率不報,而日索部帑為婚費,贏十八萬,藏宮中,且言冠服不能備。天啟七年之藩漢中。崇禎時,流寇劇,封地當賊沖。七年上書言:「臣托先帝骨肉,獲奉西藩,未期年而寇至。比西賊再渡河,闌入漢興,破洵陽,逼興安,紫陽、平利、白河相繼陷沒。督臣洪承疇單騎裹甲出入萬山,賊始敗遁。臣捐犒軍振饑銀七千餘兩。此時撫臣練國事移兵商、洛,按臣範復粹馳赴漢中,近境稍寧。既而鳳縣再陷,蜀賊入秦州,楚賊上興安。六月遂犯郡界,幸諸將憑江力拒,賊方稍退。臣在萬山絕谷中,賊四面至,覆亡無日。臣肺腑至親,藩封最僻,而於寇盜至迫,惟陛下哀憐。」常浩在宮中,衣服禮秩降等,好佛不近女色。及寇逼秦中,將吏不能救,乞師於蜀。總兵官侯良柱援之,遂奔重慶。隴西士大夫多挈家以從。十七年,張獻忠陷重慶,被執,遇害。時天無雲而雷者三,從死者甚眾。

恵王

原文惠王

恵王常潤は、神宗の第六子である。福王の之藩に際し、内廷の蓄積は空となった。宦官は諸王の冠婚を藉口に、部の金庫を求めて宮中を満たし、必要なものは常に数十万に及び、珠宝もこれに相応した。戸部は供給できなかった。常潤と弟の常瀛は二十歳であったが、皆婚姻が選ばれていなかった。その後兵事が差し迫り、初めて簡略化して婚礼を行った。天啓七年に荊州に之藩した。崇禎十五年十二月、李自成が再び夷陵・荊門を破り、常潤は湘潭に逃れ、自成は荊州に入ってこれを占拠した。常潤が湘を渡るに当たり、陵陽磯で風に遭い、宮人の多くは漂没し、身は僅かに免れ、長沙において吉王に就いた。十六年八月、張献忠が長沙を陥落させ、常潤は衡州に逃れ、桂王に就いた。衡州が続いて陥落し、吉王・桂王と共に永州に逃れた。巡按御史劉熙祚が人を遣わして三王を護衛して広西に入らせ、自らは賊に当たった。永州が陥落し、熙祚はこれに死した。

原文惠王常潤,神宗第六子。福王之藩,內廷蓄積為空。中官藉諸王冠婚,索部帑以實宮中,所需輒數十萬,珠寶稱是。戶部不能給。常潤與弟常瀛年二十,皆未選婚。其後兵事亟,始滅殺成禮。天啟七年之藩荊州。崇禎十五年十二月,李自成再破夷陵、荊門,常潤走湘潭,自成入荊州據之。常潤之渡湘也,遇風於陵陽磯,宮人多漂沒,身僅以免,就吉王於長沙。十六年八月,張獻忠陷長沙,常潤走衡州,就桂王。衡州繼陷,與吉王、桂王走永州。巡按御史劉熙祚遣人護三王入廣西,以身當賊。永州陷,熙祚死之。

桂王

原文桂王

桂端王常瀛は、神宗の第七子である。天啓七年に衡州に之藩した。崇禎十六年、衡州が陥落し、吉・恵の二王と共に広西に逃れ、梧州に居住した。

原文桂端王常瀛,神宗第七子。天啟七年之藩衡州。崇禎十六年,衡州陷,與吉、惠二王同走廣西,居梧州。

大清順治二年、大兵江南を平らげ、福王捕らえられる。在籍の尚書陳子壮ら将に常瀛を奉じて監国せんとす、会に唐王福建に自立す、遂に止む。是の年、蒼梧にて薨ず。

原文大清順治二年,大兵平江南,福王就擒。在籍尚書陳子壯等將奉常瀛監國,會唐王自立於福建,遂寢。是年,薨於蒼梧。

世子は既に先に卒し、次子安仁王由𣜬も亦未だ幾ばくもせずして卒す。次に由榔、崇禎の時、永明王に封ぜらる。

原文世子已先卒,次子安仁王由𣜬亦未幾卒。次由榔,崇禎時,封永明王。

三年八月、大兵汀州を取り、唐王聿鍵を執る。ここにおいて両広総督丁魁楚・広西巡撫瞿式耜・巡按王化澄と旧臣呂大器等共に由榔を推して監国す。母妃王氏曰く、「吾が児は此れに勝たず、願わくは更に可き者を択べ。」魁楚ら意益々堅く、謀を合して梧に迎う。十月十四日肇慶にて監国し、魁楚・大器・式耜を以て大学士と為し、余は官を授くるに差有り。是の月大兵贛州を取り、内侍王坤倉卒に由榔を奉じて仍お梧州に走り、式耜ら力争い、乃ち肇慶に回る。十一月、唐王の弟聿𨮁閩より海を浮かびて粤に至る。時に閩の旧臣蘇観生兵を撤きて広州に奔り、布政使顧元鏡・総兵官林察らと謀り聿𨮁を立て、偽号紹武、由榔と相拒ぐ。是の月由榔も亦肇慶に自立し、偽号永歴、兵部侍郎林佳鼎を遣わして聿𨮁を討たしむ。会に大兵福建より広州を取り、聿𨮁を執り、観生自縊し、祭酒梁朝鐘・太僕卿霍子衡等俱に死す。肇慶大いに震え、王坤復た由榔を奉じて梧州に走る。

原文三年八月,大兵取汀州,執唐王聿鍵。於是兩廣總督丁魁楚、廣西巡撫瞿式耜、巡按王化澄與舊臣呂大器等共推由榔監國。母妃王氏曰:「吾兒不勝此,願更擇可者。」魁楚等意益堅,合謀迎於梧。十月十四日監國肇慶,以魁楚、大器、式耜為大學士,余授官有差。是月大兵取贛州,內侍王坤倉卒奉由榔仍走梧州,式耜等力爭,乃回肇慶。十一月,唐王弟聿𨮁自閩浮海至粵。時閩舊臣蘇觀生撤兵奔廣州,與布政使顧元鏡、總兵官林察等謀立聿𨮁,偽號紹武,與由榔相拒。是月由榔亦自立於肇慶,偽號永歷,遣兵部侍郎林佳鼎討聿𨮁。會大兵由福建取廣州,執聿𨮁,觀生自縊,祭酒梁朝鐘、太僕卿霍子衡等俱死。肇慶大震,王坤復奉由榔走梧州。

明年二月、平楽・潯州より走りて桂林に至る。魁楚由榔を棄て、岑溪に走り、大軍に降る。既にして平楽守られず、由榔大いに恐る。会に武岡総兵官劉承胤兵を以て全州に至り、王坤赴くを請う。式耜力諫す。聴かず。乃ち式耜及び総兵官焦璉を以て桂林を留守せしめ、陳邦傳を思恩侯に封じ昭平を守らしめ、遂に承胤の軍中に趨る。三月承胤を安国公に封じ、錦衣指揮馬吉翔等を伯と為す。承胤由榔を挟みて武岡に帰り、之を奉天府と改め、政事皆決す。

原文明年二月,由平樂、潯州走桂林。魁楚棄由榔,走岑溪,降於大軍。既而平樂不守,由榔大恐。會武岡總兵官劉承胤以兵至全州,王坤請赴之。式耜力諫。不聽。乃以式耜及總兵官焦璉留守桂林,封陳邦傳為思恩侯,守昭平,遂趨承胤軍中。三月封承胤安國公,錦衣指揮馬吉翔等為伯。承胤挾由榔歸武岡,改曰奉天府,政事皆決焉。

是の時、長沙・衡・永皆守られず、湖広総督何騰蛟と侍郎厳起恒白牙市に走る。六月、由榔官を遣わして騰蛟を召し至らしめ、密かに承胤を除かしむ、顧みるに承胤勢盛んなるを以て、騰蛟復た白牙に還る。大兵宝慶より武岡に趨り、馬吉翔等由榔を挟みて靖州に走り、承胤城を挙げて降る。由榔又柳州に奔る。道古泥に出づ。総兵官侯性・太監龐天寿舟師を帥いて来迎す。会に天雨饑餓し、性供帳甚だ備わる。九月、土舎覃鳴珂乱を作し、大いに城中を掠め、矢由榔の舟に及ぶ。先に、大兵桂林に趨り、焦璉拒ぎ守ること甚だ力あり、又広州に警有り、大兵東に向かい、桂林稍々安し。既にして湖南十三鎮の将郝永忠・盧鼎等俱に奔赴して桂林に至り、騰蛟も亦至り、式耜と議して地を分ち諸将に給し、使各自守らしむ。璉は既に先に陽朔・平楽を復し、陳邦傳潯州を復し、兵を合して梧州を復し、広西全省略く定まる。十二月、由榔桂林に返る。

原文是時,長沙、衡、永皆不守,湖廣總督何騰蛟與侍郎嚴起恒走白牙市。六月,由榔遣官召騰蛟至,密使除承胤,顧承胤勢盛,騰蛟復還白牙。大兵由寶慶趨武岡,馬吉翔等挾由榔走靖州,承胤舉城降。由榔又奔柳州。道出古泥。總兵官侯性、太監龐天壽帥舟師來迎。會天雨饑餓,性供帳甚備。九月,土舍覃鳴珂作亂,大掠城中,矢及由榔舟。先是,大兵趨桂林,焦璉拒守甚力,又廣州有警,大兵東向,桂林稍安。既而湖南十三鎮將郝永忠、盧鼎等俱奔赴桂林,騰蛟亦至,與式耜議分地給諸將,使各自為守。璉已先復陽朔、平樂,陳邦傳復潯州,合兵復梧州,廣西全省略定。十二月,由榔返桂林。

五年二月、大兵霊川に至り、郝永忠興安に潰え、奔り還り、由榔を挟みて柳州に走る。大兵桂林を攻め、式耜・騰蛟拒戦す。時に南昌の金声桓等叛き、由榔に降る。八月、由榔肇慶に至る。六年春、大兵湘潭を下し、何騰蛟死す。明年、由榔梧州に走る。是の年十二月、大兵桂林に入り、瞿式耜及び総督張同敞死す。由榔報を聞き大いに懼れ、梧州より自ら南寧に奔る。時に孫可望既に滇・黔を据え、秦王に封ぜらる。八年三月、兵を遣わして来衛し、厳起恒等を殺す。

原文五年二月,大兵至靈川,郝永忠潰於興安,奔還,挾由榔走柳州。大兵攻桂林,式耜、騰蛟拒戰。時南昌金聲桓等叛,降於由榔。八月,由榔至肇慶。六年春,大兵下湘潭,何騰蛟死。明年,由榔走梧州。是年十二月,大兵入桂林,瞿式耜及總督張同敞死焉。由榔聞報大懼,自梧州奔南寧。時孫可望已據滇、黔,受封為秦王。八年三月,遣兵來衛,殺嚴起恒等。

九年二月、可望由榔を迎えて安隆所に入れ、之を安龍府と改む。久しくして、日増しに窮促し、李定国と可望隙有るを聞き、使を遣わし密かに定国を召し、兵を以て来迎せしむ。馬吉翔可望に党し、之を偵知し、大学士呉貞毓以下十余人皆殺さる。事は詳しく『貞毓伝』に在り。後二年、李定国新会に敗れ、将に安隆より滇に入らんとす。可望之を患い、由榔を促して貴陽に移り己に就かしむ。由榔故に遅行す。定国至り、遂に由榔を奉じて安南衛より雲南に走り、可望の署中に居し、定国を晋王に封ず。可望妻子滇に在るを以て、未だ敢えて動かず。明年、由榔其の妻子を送りて黔に還し、遂に兵を挙げて定国と三岔に戦う。可望の将白文選単騎定国の軍に奔る。可望敗れ、妻子を挈いて長沙の大軍の前に赴き降る。

原文九年二月,可望迎由榔入安隆所,改曰安龍府。久之,日益窮促,聞李定國與可望有隙,遣使密召定國,以兵來迎。馬吉翔黨於可望,偵知之,大學士吳貞毓以下十餘人皆被殺。事詳《貞毓傳》。後二年,李定國敗於新會,將由安隆入滇。可望患之,促由榔移貴陽就己。由榔故遲行。定國至,遂奉由榔由安南衛走雲南,居可望署中,封定國晉王。可望以妻子在滇,未敢動。明年,由榔送其妻子還黔,遂舉兵與定國戰於三岔。可望將白文選單騎奔定國軍。可望敗,挈妻子赴長沙大軍前降。

十五年三月、大兵三路より雲南に入る。定国鶏公背を扼し、貴州の道を断ち、別将七星関を守り、生界に抵りて営を立て、以て蜀の師を牽く。大兵遵義より出で、水西より烏撒を取り、守将関を棄てて走り、李定国連ねて安隆に敗れ、由榔永昌に走る。明年正月三日、大兵雲南に入り、由榔騰越に走る。定国潞江に敗れ、又南甸に走る。二十六日、囊木河に抵る、是れ緬境と為す。緬従官に勒して尽く兵仗を棄てしめ、始めて関を啓き、蛮莫に至る。二月、緬四舟を以て来迎し、従官自ら舟を覓ち、随行する者六百四十余人、陸行する者故岷王子以下九百余人、期して緬甸に会す。十八日井亙に至る。黔国公沐天波等謀り由榔を奉じて戸・獵二河に走らんとす、果たさず。五月四日、緬復た舟を以て来迎す。明日、井亙を発し、三日行きて阿瓦に至る。阿瓦とは、緬酋の居る城なり。又五日赭硁に至る。陸行する者緬人悉く掠めて奴と為し、多く自殺す。惟だ岷王子八十余人暹羅に流入す。緬人赭硁に於て草屋を置き由榔を居らしめ、兵を遣わして之を防ぐ。

原文十五年三月,大兵三路入雲南。定國厄雞公背,斷貴州道,別將守七星關,抵生界立營,以牽蜀師。大兵出遵義,由水西取烏撒,守將棄關走,李定國連敗於安隆,由榔走永昌。明年正月三日,大兵入雲南,由榔走騰越。定國敗於潞江,又走南甸。二十六日,抵囊木河,是為緬境。緬勒從官盡棄兵仗,始啟關,至蠻莫。二月,緬以四舟來迎,從官自覓舟,隨行者六百四十餘人,陸行者自故岷王子而下九百餘人,期會於緬甸。十八日至井亙。黔國公沐天波等謀奉由榔走戶、獵二河,不果。五月四日,緬復以舟來迎。明日,發井亙,行三日,至阿瓦。阿瓦者,緬酋所居城也。又五日至赭硁。陸行者緬人悉掠為奴,多自殺。惟岷王子八十餘人流入暹羅。緬人於赭硁置草屋居由榔,遣兵防之。

十七年、定国・文選緬と戦い、其の主を索め、連ねて緬兵を敗り、緬終に由榔を出だすことを肯ぜず。十八年五月、緬酋の弟莽猛白代わり立ち、従官を紿して河を渡りて盟せしむ。既に至り、兵を以て之を囲み、沐天波・馬吉翔・王維恭・魏豹等四十二人を殺す、詳しく『任国璽伝』に在り。存する者由榔と其の属二十五人。十二月、大兵緬に臨み、白文選木邦より自ら降り、定国景線に走り、緬人由榔父子を軍前に送る。明年四月、雲南にて死す。六月、李定国卒し、其の子嗣興等降る。

原文十七年,定國、文選與緬戰,索其主,連敗緬兵,緬終不肯出由榔。十八年五月,緬酋弟莽猛白代立,紿從官渡河盟。既至,以兵圍之,殺沐天波、馬吉翔、王維恭、魏豹等四十有二人,詳《任國璽傳》。存者由榔與其屬二十五人。十二月,大兵臨緬,白文選自木邦降,定國走景線,緬人以由榔父子送軍前。明年四月,死於雲南。六月,李定國卒,其子嗣興等降。

永王

原文永王

永思王常溥、神宗第八子。生二歳にして殤ず。

原文永思王常溥,神宗第八子。生二歲殤。

光宗七子

原文光宗七子

光宗七子。王太后は熹宗・簡王由㰒を生む。王選侍は斉王由楫を生む。李選侍は懐王由模を生む。劉太后は荘烈皇帝を生む。定懿妃は湘王由栩を生む。敬妃は恵王由橏を生む。

原文光宗七子。王太后生熹宗、簡王由㰒。王選侍生齊王由楫。李選侍生懷王由模。劉太后生莊烈皇帝。定懿妃生湘王由栩。敬妃生惠王由橏。

簡懐王由㰒、光宗第二子。生四歳にして殤ず。斉思王由楫、光宗第三子。生八歳にして殤ず。懐恵王由模、光宗第四子。生五歳にして殤ず。湘懐王由栩、光宗第六子。恵昭王由橏、光宗第七子。俱に早く殤ず。五王皆追って封謚を加う。

原文簡懷王由㰒,光宗第二子。生四歲殤。齊思王由楫,光宗第三子。生八歲殤。懷惠王由模,光宗第四子。生五歲殤。湘懷王由栩,光宗第六子。惠昭王由橏,光宗第七子。俱早殤。五王皆追加封謚。

熹宗三子

原文熹宗三子

熹宗に三子あり。懐沖太子慈然は、その生母を詳らかにせず。皇貴妃范氏は悼懐太子慈焴を生む。容妃任氏は献懐太子慈炅を生む。

原文熹宗三子。懷沖太子慈然,不詳其所生母。皇貴妃範氏生悼懷太子慈焴。容妃任氏生獻懷太子慈炅。

懐沖太子慈然は、熹宗の第一子なり。悼懐太子慈焴は、熹宗の第二子なり。献懐太子慈炅は、熹宗の第三子なり。懐沖・悼懐と共に皆夭逝す。

原文懷沖太子慈然,熹宗第一子。悼懷太子慈焴,熹宗第二子。獻懷太子慈炅,熹宗第三子。與懷沖、悼懷皆殤。

荘烈帝七子

原文莊烈帝七子

荘烈帝に七子あり。周皇后は太子慈烺・懐隠王慈烜・定王慈炯を生む。田貴妃は永王慈炤・悼霊王慈煥・悼懐王及び皇七子を生む。

原文莊烈帝七子。周皇后生太子慈烺、懷隱王慈烜、定王慈炯。田貴妃生永王慈炤、悼靈王慈煥、悼懷王及皇七子。

太子慈烺

原文太子慈烺

太子慈烺は、荘烈帝の第一子なり。崇禎二年二月に生まれ、三年二月に皇太子に立てらる。十年、東宮侍班講読官を予め選び、礼部尚書姜逢元、詹事姚明恭、少詹王鐸・屈可伸に侍班を命じ、礼部侍郎方逢年、諭徳項煜、修撰劉理順、編修呉偉業・楊廷麟・林曾志に講読を命じ、編修胡守恒・楊士聰に校書を命ず。十一年二月、太子出閤す。十五年正月に講を開き、閣臣条上して講儀を奏す。七月、慈慶宮を端本宮と改む。慈慶は、懿安皇后の居所なり。時に太子十四歳、来年の選婚を議し、故に先んじて宮を置き、懿安后を仁寿殿に移す。既にして寇警のため暫く停止す。京師陥落し、賊太子を獲て、偽りに宋王に封ず。賊敗れて西走するに及び、太子の行方知れず。由崧の時、北より来たりて太子を称する者あり、之を験するに、駙馬都尉王昺の孫王之明の偽り為すものと為し、獄中に繋ぐ。南京の士民嘩然として平らかならず。袁継咸及び劉良佐・黄得功の輩皆上疏して争う。左良玉兵を起こすも亦た太子を救うを名とす。一時真偽能く知る莫し。由崙既に太平に奔り、南京の乱兵王之明を擁して之を立てる。五日を越え、我が大清に降る。

原文太子慈烺,莊烈帝第一子。崇禎二年二月生,三年二月立為皇太子。十年預擇東宮侍班講讀官,命禮部尚書姜逢元,詹事姚明恭,少詹王鐸、屈可伸侍班;禮部侍郎方逢年,諭德項煜,修撰劉理順,編修吳偉業、楊廷麟、林曾志講讀;編修胡守恒、楊士聰校書。十一年二月,太子出閤。十五年正月開講,閣臣條上講儀。七月改慈慶宮為端本宮。慈慶,懿安皇后所居也。時太子年十四,議明歲選婚,故先為置宮,而移懿安后於仁壽殿。既而以寇警暫停。京師陷,賊獲太子,偽封宋王。及賊敗西走,太子不知所終。由崧時,有自北來稱太子者,驗之,以為駙馬都尉王昺孫王之明者偽為之,繋獄中,南京士民嘩然不平。袁繼咸及劉良佐、黃得功輩皆上疏爭。左良玉起兵亦以救太子為名。一時真偽莫能知也。由崧既奔太平,南京亂兵擁王之明立之。越五日,降於我大清。

懐王

原文懷王

懐隠王慈烜は、荘烈帝の第二子なり。夭逝す。

原文懷隱王慈烜,莊烈帝第二子。殤。

定王

原文定王

定王慈炯は、荘烈帝の第三子なり。崇禎十四年六月、礼臣に諭して曰く、「朕が第三子、年既に十歳、謹みて祖制を遵い、宜しく王号を加うべし。但し既に冊封を受けば、必ず冕服を具うべく、而して『会典』開載する所、年十二或いは十五にして始めて冠礼を行う。十歳にて封を受け冠を加うるは、二礼並びに行う可きか」と。是に於いて礼臣歴考して経伝及び本朝の典故を以て奏す。是歳の冊封と定め、二年を越えて冠礼を行う。九月、定王に封ず。十一月、新進士を選びて検討と為し、国子助教等の官を待詔と為し、王講読官に充て、両殿中書を以て侍書に充つ。十七年、京師陥落し、行方知れず。

原文定王慈炯,莊烈帝第三子。崇禎十四年六月諭禮臣:「朕第三子,年已十齡,敬遵祖制,宜加王號。但既受冊封,必具冕服,而《會典》開載,年十二或十五始行冠禮。十齡受封加冠,二禮可並行乎?」於是禮臣歷考經傳及本朝典故以奏。定於是歲冊封,越二年行冠禮。九月封為定王。十一月選新進士為檢討,國子助教等官為待詔,充王講讀官,以兩殿中書充侍書。十七年,京師陷,不知所終。

永王

原文永王

永王慈炤は、荘烈帝の第四子なり。崇禎十五年三月、永王に封ず。賊京師を陥とし、行方知れず。

原文永王慈炤,莊烈帝第四子。崇禎十五年三月封永王。賊陷京師,不知所終。

悼霊王

原文悼靈王

悼霊王慈煥は、荘烈帝の第五子なり。五歳にして病み、帝之を視るに、忽ち云く、「九蓮菩薩言う、帝外戚を薄く待ち、将に諸子を尽く殤さんとす」と。遂に薨ず。九蓮菩薩とは、神宗の母、孝定李太后なり。太后仏を好み、宮中の像九蓮座を作る、故に云う。帝王の霊異を念い、孺孝悼霊王玄機慈応真君に封じ、礼臣に命じて孝和皇太后・荘妃・懿妃の道号を議せしむ。礼科給事中李焻言う、「諸後妃は、奉先殿に祀る、邪教を崇めて以て徽称を乱る可からず」と。聴かず。十六年十二月、宣顕慈応悼霊王と改封し、「真君」の号を去る。

原文悼靈王慈煥,莊烈帝第五子。生五歲而病,帝視之,忽云:「九蓮菩薩言,帝待外戚薄,將盡殤諸子。」遂薨。九蓮菩薩者,神宗母,孝定李太后也。太后好佛,宮中像作九蓮座,故云。帝念王靈異,封為孺孝悼靈王玄機慈應真君,命禮臣議孝和皇太后、莊妃、懿妃道號。禮科給事中李焻言:「諸後妃,祀奉先殿,不可崇邪教以亂徽稱。」不聽。十六年十二月,改封宣顯慈應悼靈王,去「真君」號。

二王

原文二王

悼懐王は荘烈帝の第六子、生まれて二歳で夭折した。第七子は生まれて三歳で夭折した。名はともに考証すべくもない。

原文悼懷王,莊烈帝第六子,生二歲殤。第七子,生三歲殤。名俱無考。

【賛】

原文【贊】

賛に曰く、明の諸藩は、分封して土を賜わず、爵を列ねて民に臨まず、禄を食んで事を治めず。蓋し枉を矯ぎ覆を鑑み、漢・晋の末大の禍を杜がんとする所以にして、意固より善し。然れども徒らに虚名を擁し、坐して厚禄を糜し、賢才自ら見ることを克さず、知勇施設する所なし。防閑峻しきに過ぎ、法制日増す。城を出で墓を省みるも、請いて後に許され、二王相見ゆることを得ず。藩禁厳密、一に此に至る。太祖の時に当たりては、宗藩辺に備え、軍戎制を受け、賛儀疏属、且つ令して各国を遍歴せしめ、親親を通ぜしむ。然らば則ち法網の繁きは、中葉より起これり、豈に太祖の衆建屏藩の初計ならんや。

原文贊曰:有明諸藩,分封而不錫土,列爵而不臨民,食祿而不治事。蓋矯枉鑒覆,所以杜漢、晉末大之禍,意固善矣。然徒擁虛名,坐縻厚祿,賢才不克自見,知勇無所設施。防閑過峻,法制日增。出城省墓,請而後許,二王不得相見。藩禁嚴密,一至於此。當太祖時,宗藩備邊,軍戎受制,贊儀疏屬,且令遍歷各國,使通親親。然則法網之繁,起自中葉,豈太祖眾建屏藩初計哉!