明史

列傳第七 諸王四

◎諸王四

○仁宗諸子

鄭王朱瞻飐 (廬江王朱載堙) 越王朱瞻墉 蘄王朱瞻垠 襄王朱瞻墡 (棗陽王朱祐楒) 荊王朱瞻堈 淮王朱瞻墺 滕王朱瞻塏 梁王朱瞻垍 衛王朱瞻埏

○英宗諸子

德王朱見潾 許王朱見淳 秀王朱見澍 崇王朱見澤 吉王朱見浚 忻王朱見治 徽王朱見はい

○景帝子

懷獻太子朱見濟

○憲宗諸子

悼恭太子朱祐極 岐王朱祐棆 益王朱祐檳 衡王朱祐楎 (新樂王朱載璽) 雍王朱祐枟 壽王朱祐楮 汝王祐梈 涇王祐橓 榮王祐樞 申王祐楷

○孝宗子

蔚王朱厚煒

仁宗十子

仁宗に十人の男子あり。昭皇后は宣宗、越王朱瞻墉、襄王朱瞻墡を生む。李賢妃は鄭王朱瞻飐、蘄王朱瞻垠、淮王朱瞻墺を生む。張順妃は荊王朱瞻堈を生む。郭貴妃は滕王朱瞻塏、梁王朱瞻垍、衛王朱瞻埏を生む。

鄭王

鄭靖王朱瞻飐は、仁宗の第二子である。永楽二十二年十月に封じられた。仁宗が崩御すると、皇后は襄王とともに監国を命じ、宣宗を待たせた。宣徳元年、帝が楽安に征討したときも、引き続き襄王とともに居守を命じられた。四年に鳳翔に就藩した。正統八年に詔を下して懐慶に遷るよう命じられたが、京邸に留まり、翌年に封国に赴いた。瞻飐は暴虐で、しばしば人を杖の下に斃した。英宗は御史周瑛を長史とし、やや収まった。成化二年に薨去した。子の簡王朱祁锳が嗣いだ。祁锳が世子であったとき、襄王が京師に朝する途中、新郷を経過したが、祁锳は命を請わず、長史を遣わして迎えさせた。英宗はこれを聞いて悦ばず、書を賜って責めさせた。王を嗣いでからは、多く不法を行い、また世子に対しても薄情であった。長史江万程が諫めたが、責め辱められ、万程はこれを上聞した。帝は英国公張懋と太監王允中を遣わし、勅を携えて諭させたので、ようやく上書して謝罪した。弘治八年に薨去した。世子朱見滋の母の韓妃は祁锳に礼遇されず、見滋は鬱々として先に卒去した。子の康王朱祐枔が嗣いだが、正徳二年に薨去した。子がなく、従弟の懿王朱祐檡が嗣ぎ、十六年に薨去した。子の恭王朱厚烷が嗣いだ。

世宗が承天に行幸したとき、厚烷は新郷で迎謁し、禄を三百石加増された。上疏して母の閻太妃の貞孝の事跡を奏上した。詔して史館に付した。その後、帝が斎醮を修めるにつれ、諸王は争って使者を遣わして進香したが、厚烷だけは遣わさなかった。嘉靖二十七年七月に上書し、帝に修徳講学を請い、『居敬』『窮理』『克己』『存誠』の四箴と、『演連珠』十章を進呈し、神仙・土木について規諫した。言葉は切直であった。帝は怒り、その使者を獄に下した。詔して言う、「以前、宗室に誹謗した者がいたが、置いて治めなかった。今またその悪を倣う。王は今の西伯である。為さんと欲すれば為せ。」後二年して祐橏の事があり、厚烷はついに罪を得た。

初め、祁锳には十人の子があり、世子は見滋、次は盟津王朱見濍、次は東垣王朱見𣹟であった。見濍の母は祁锳に寵愛され、嫡子の地位を奪おうと図ったが、得られず、世子の金冊を盗んで去った。祁锳が急いで索めたので、怨んで再び朝せず、行いますます不法となった。祁锳が憲宗に言上し、庶人に落とされた。康王が薨じて子がなく、見濍の子の祐橏が応に及ぶべきであったが、以前の罪で廃されていたので、東垣王の子の祐檡を立てた。この時、祐橏が郡王の爵位の復帰を求め、厚烷が奏上しないのを怨み、帝の怒りに乗じて、厚烷の四十の罪を摘発し、叛逆として告げた。詔して駙馬と中官に即時に訊問させた。還って報告すると、反逆の証拠はなく、宮室の名号が乗輿に擬するものがあるということであった。帝は怒って言った、「厚烷は朕を誹謗し、国において驕傲無礼、大いに道に背く。」爵位を削り、鳳陽に幽閉した。隆慶元年に王爵を復し、禄を四百石増加した。厚烷は少より老に至るまで、布衣蔬食であった。

朱載堉

世子朱載堉は、篤学で至性があり、父が無罪で囚われたことを痛み、宮門の外に土室を築き、藁を敷いて独りで十九年を過ごした。厚烷が邸に戻ってから、初めて宮に入った。万暦十九年、厚烷が薨去した。載堉は言った、「鄭宗の序列は、盟津が長である。前王の見濍は、すでに諡を賜り爵を復している。爵は応に盟津に帰すべきである。」後に累次上疏して懇ろに辞した。礼臣が言う、「載堉は深く譲節を執るが、しかし鄭王を嗣いで既に三世、途中で変更する理はない。載堉の子の翊錫を嗣がせるべきである。」載堉は初めの通り執奏したので、祐橏の孫の載璽を嗣がせ、載堉と翊錫には世子・世孫の禄を終身給し、子孫は引き続き東垣王に封じた。二十二年正月、載堉は上疏し、宗室が皆儒服で試験を受け、中外の職を問わず、中式した者はその才品によって任用されるよう請うた。詔して実行を許した。翌年また暦算の歳差の法と、著した『楽律書』を上奏し、考弁が詳確で、識者はこれを称えた。卒して端清と諡された。崇禎年間、載璽の子の翊鐘が罪により賜死し、国は除かれた。

朱載堙

廬江王朱載堙は、簡王の元孫である。崇禎十七年二月、賊が懐慶を陥落させると、載堙は冠服を整え、端坐して堂上にいた。賊が至り、捕らえられ、屈服させようとした。声を厲して言った、「我は天朝の藩王、汝ら逆賊に降るものか!」罵って屈せず、害に遇った。賊はその長子の翊檭を捕らえ、擁して北行した。三月に定興を過ぎ、旅店で絶命の詞を作り、ついに食を絶って死んだ。

越王

越靖王朱瞻墉は、仁宗の第三子である。永楽二十二年に衢州に封じられた。未だ藩に赴かず、宣宗が昌平の荘田を賜った。正統四年に薨去した。妃呉氏が殉じ、貞恵と諡された。後嗣がなかった。

蘄王

蘄献王朱瞻垠は、仁宗の第四子である。初め静楽王に封じられた。永楽十九年に薨去し、荘献と諡された。仁宗が即位すると、追って封諡を加えた。後嗣がなかった。

襄王

襄憲王朱瞻墡は、仁宗の第五子である。永楽二十二年に封じられた。荘重で聡明、令誉があった。宣徳四年に長沙に就藩した。正統元年に襄陽に移った。英宗が北狩したとき、諸王の中で、瞻墡は最も年長で且つ賢く、衆望が大いに属した。太后は襄国の金符を取って宮中に入れるよう命じたが、果たして召さなかった。瞻墡は上書し、皇長子を立て、郕王に監国させ、勇智の士を募って車駕を迎えるよう請うた。書が届いたとき、景帝は既に数日立っていた。英宗が京師に還り、南内に居ると、また上書して景帝が朝夕に膳を省み安否を問い、群臣を率いて朔望に謁見し、恭順を忘れぬようすべきと述べた。

英宗が復辟すると、石亨らが于謙と王文に外藩を迎え立てようとした言葉があると誣告し、帝は瞻墡を大いに疑った。久しくして、宮中から瞻墡の上した二通の書を得、また襄国の金符は固より太后の閣中にあった。そこで書を賜って瞻墡を召し、二通の書を『金縢』に比した。入朝し、便殿で宴し、席を避けて請うて言った、「臣が汴を過ぎたとき、汴の父老が道を遮り、按察使王槩は賢人であるが、誣られて詔獄に逮われたと言い、願わくは皇上に加えて察せられんことを。」帝は直ちに槩を出し、大理卿に命じた。詔して襄陽に護衛を設け、有司に命じて王のために寿蔵を営ませた。帰るとき、帝は親しく午門外まで送り、手を握って泣いて別れた。瞻墡は逡巡して再拝し、帝が言う、「叔父、何を言わんとするか。」頓首して言った、「万方は治を望むこと飢渇の如し。願わくは刑を省み、斂を薄くせられんことを。」帝は拱手して謝して言った、「敬って教えを受く。」端門を出るまで目送して還った。四年に再び入朝した。百官に命じて王の邸で朝謁させ、詔して王に昌平に赴き三陵を謁せしめた。辞して帰るとき、礼送は一層盛大で、且つ勅して王が歳時に諸子とともに城を出て遊猟することを許した。これは異数であった。六年にまた召したが、老いを理由に辞した。歳時の慰問、礼遇の隆さは、諸藩に未だかつてなかった。成化十四年に薨去した。

子の定王祁鏞が嗣ぎ、弘治元年に薨去した。子の簡王見淑が嗣ぎ、三年に薨去した。子の懐王祐材が嗣いだ。鷹犬を好み、良馬を蓄え、南陽まで八百里を往復しても、日はまだ暮れなかった。妃の父井海が誘って人を殺させた。孝宗は戒め諭し、井海とその側近を辺境に戍らせた。祐材は道術を好み、賜与に節度がなく、またかつて興邸と土地を争い、連座して七十余家を逮捕し、訴訟は長く決着しなかった。大理卿汪綸が双方を和解させ、ようやく収まった。十七年に薨去した。弟の康王祐櫍が嗣ぎ、これも道術を好んだ。嘉靖二十九年に薨去した。子がなく、従子の荘王厚颎が陽山王から嗣いだ。定王の曾孫である。

時に王邸に災害があり、先代の蓄積が一空となった。厚颎は節を折り恭倹となり、禄を節約して辺境の兵糧とし、金を進献して三殿の工事を助けた。二度にわたり書幣を賜った。嫡母の王太妃と生母の潘太妃に仕え、孝行で知られた。潘が卒去すると、遺体を東の別棟に安置した。王太妃が「汝の母には子があり、社稷はこれに頼っている。我がために正寝を避けることはない」と言うと、厚颎は泣いて「臣は非礼をもって臣の母に加えることはできません」と言った。葬送の時には、跣足で棺を五十里も支え歩いた。襄陽を通過する士大夫は皆、布衣の交わりをした。四十五年に薨去した。子の靖王載堯が嗣ぎ、万暦二十三年に薨去した。子の翊銘が嗣いだ。崇禎十四年、張献忠が襄陽を陥落させ、害に遇った。

初め、大学士楊嗣昌が軍を視察した時、襄陽を軍府とし、城壁を増築し堀を浚い、五省の軍資金と弓刀火器を貯蔵した。この年二月、献忠は道中で嗣昌の使者を襲撃して殺し、その符験を奪い、数十騎で騙して襄陽城に入った。夜半に火災が起こり、夜明け頃に賊軍が大挙して来た。翊銘を南城楼に捕らえ、杯を差し出して「王に罪はない。王が死ねば、嗣昌は死をもって王に償うことができる」と言い、遂に王と貴陽王常法を殺し、城楼に火を放ち、その屍を焼いた。賊が去った後、僅かに数寸の頭蓋骨を拾うのみで、妃妾の死者は四十三人に及んだ。福清王常澄と進賢王常淦は逃れて難を免れた。事が聞こえ、帝は震悼し、所司に喪礼を整えるよう命じ、忠王と諡した。嗣昌が荊州で恵王に朝見すると、謁者はこれを謝して「先生が寡人を顧みられるなら、まず襄陽に行かれることを願う」と言った。襄城の陥落は罪が嗣昌にあるというのである。十七年、常澄をして襄王を嗣がせ、九江に寄寓し、後に汀州に移ったが、その終わりは知れない。

棗陽王祐楒は、憲王の曾孫である。武勇に優れ文章を善くし、星暦医卜の書に広く渉猟した。嘉靖初年に上書し、興献帝の考証を請うた。世宗はその議が宗人から発せられたことは、群心を厭服させるに足るとし、これを褒めた。さらに宗人の禄を除き、四民の業をもって自ら生計を立てさせ、賢者は射策によって科第に応じるよう請うた。採用されなかった。時に襄王祐櫍は病み廃して政事を行わず、承奉の邵亨が権を挟み恣意に振る舞い、ついに鎮寧王の舅を殴打して死なせた。祐楒は彼を誘い出し、その目を抉った。帝は大理少卿袁宗儒を中官・錦衣とともに派遣して訊問させた。邵亨は死罪と論じられ、祐楒は連座して爵を奪われた。帝が承天に行幸した時、祐楒の以前の上疏を思い、爵位を復した。

荊王

荊憲王瞻堈は、仁宗の第六子である。永楽二十二年に封じられた。宣徳四年に建昌に就藩した。宮中に巨蛇がおり、蜿蜒として梁から地に垂れ、ある時は王座に憑った。瞻堈は大いに恐れ、移転を請うた。正統十年に蘄州に移った。景泰二年、上書して上皇への朝参を請うた。許されなかった。四年に薨去した。子の靖王祁鎬が嗣ぎ、天順五年に薨去した。子の見潚が嗣いだ。

靖王に三子あり、長は見潚、次は都梁王見溥、樊山王見澋である。見潚は見溥と同母であったが、母が見溥を匿ったことを怨み、母を監禁し、その衣食を奪い、遂に死なせ、棺を穴から出した。見溥を後園に召し入れ、鞭打って殺した。その妃何氏を騙して宮中に入らせ、強いて淫した。従弟の都昌王見潭の妻茆氏が美しかったので、通じることを求めた。見潭の母馬氏が厳しく防いだので、見潚は馬氏の髪を剃り鞭打ち、土嚢で見潭を圧死させ、茆妃を枷鎖して宮中に連行した。かつて悪少年を集め、軽騎で微服し、漢水を渡り、人の妻女を掠奪した。見澋は自分にも及ぶことを恐れ、密かに孝宗に上聞した。召されて京に至った。帝は文華門に御し、廷臣に会審させた。見潚は服罪し、庶人に廃され、西内に監禁された。二年後、見潚が西内から見澋の罪を摘発して上奏し、楚府の永安王と謀って不軌を図ったと誣告した。帝は使者を派遣して按問させたが、事実でなかった。見澋はさらに見潚がかつて密かに弓弩を造り、子の祐柄と異謀を有したと上奏した。検証すると事実であり、見潚に死を賜い、祐衲を廃し、代わりに見溥の子祐橺を嗣がせて荊王とした。時は弘治七年である。十七年に薨去し、和と諡された。

子の端王厚烇が嗣いだ。性質謙和で、典籍に意を鋭く注いだ。嘉靖年中に病み、禄を辞した。許されず、富順王厚焜に朝謁を代行させた。厚焜は和王の第二子で、弟の永新王厚熿とともに詩を能くし画を善くする名があった。厚烇の子永定王載墭が成長すると、厚焜はただちに代行を辞し、人々は特に賢いと思った。嘉靖三十二年、厚烇が薨去した。載墭は既に以前に卒去しており、その子の恭王翊鉅が嗣いだ。

荊藩は靖王の諸子が互いに悪しざまにして以来、令誉を失っていた。厚烇兄弟は先代の家難に感じ、礼譲をもって宗人を訓戒した。見澋の曾孫載埁は特に節を折り恭謹で、文行をもって称された。郡王の女は例として朝廷に禄を請うが、載埁の四女は皆士人に嫁ぎ、封を請わなかった。かつて『応詔』『正礼』の二疏を上った。返答はなかった。『易』を読んで理を窮め、『大隠山人集』を著した。子の翊𬫌・翊・翊は皆詩を工み、兄弟はかつて一つの楼に共に住み、花萼社と号した。翊鉅は載埁の賢を表して諸子を訓戒した。諸子は教えに従わず、世子常泠は特に残忍で恣意であった。翊鉅が朝廷に言上し、庶人に革した。

隆慶四年、翊鉅が薨去した。次子の常𣵧が嗣ぎ、万暦四年に薨去した。子がなく、弟の康王常が安城王から嗣ぎ、万暦二十五年に薨去した。子の定王由樊が嗣ぎ、天啓二年に薨去した。子の慈が嗣いだ。崇禎の時、流賊の革裏眼・左金王が楚帥に偽って降った。慈は彼らと友好を結ぼうとし、宴を催し、女楽を盛大に並べた。十六年正月、張献忠が蘄州を陥落させた。慈は一ヶ月前に薨去していた。賊は王宮を包囲し、見た妓楽をことごとく掠奪して去った。

淮王

淮靖王蟾墺は、仁宗の第七子なり。永楽二十二年に封ぜらる。宣徳四年、韶州に就藩す。英宗即位の十月、韶州は瘴癘多しとして、正統元年に饒州に移る。正統十一年に薨ず。子の康王祁銓嗣ぐ、弘治十五年薨ず。世子見濂は早卒し、子無く、従子の定王祐啟嗣ぐ。遊戯に度無く、左右勢いに倚り暴横し、境内これを苦しむ。長史莊典は輔導失職を以て自ら免ぜんとす。詔して許さず。推官汪文盛は数たび王府の事を執る。顧嵩という者有り、狂を病み、刀斧を持ちて王門に入る。官校これを執り詰むるに、謬りに汪の指使に出づと云う。典これを守臣に白す。鎮守太監黎安嘗て事を以て饒州に至り、騎を従えて端礼門に入り、撻たれ、祐棨を甚だしく銜む。先ず、祐棨に「天風環佩」と名づくる琴有り、寧王宸濠これを求め、得ず。又た濱湖の地を求め、与えず。ここに至り安を嗾して祐棨の過失及び文盛の誣せられたる事を奏せしむ。詔して撫按に下り訊問せしむ。安は宸濠と謀り、報を待たず、遽かに典及び府中の官校を系してこれを鞫く。典の辞倨なり、宸濠これを箠ち、獄中に斃す。他の連坐する者甚だ衆し。ここにおいて祐棨、安が仇を挟みて典を殺し嵩を庇うと奏す。帝、都御史金献民・太監張欽を遣わして往き按治せしむ。祐棨は宸濠を畏れ、自ら明らかにする能わず。欽等復た祐棨が奸徒を信じて暴を為すと言い、厳しくこれを戒むるを請う。軍校、戍に坐する者二十余人、典の冤ついに白からず。

嘉靖三年、祐棨薨ず。子無く、弟の莊王祐楑嗣ぐ、十六年薨ず。子の憲王厚燾嗣ぐ、四十二年薨ず。子の恭王載坮嗣ぐ、万暦五年薨ず。弟の順王載堅嗣ぐ、二十三年薨ず。子の翊𨨣嗣ぐ。翊𨨣の未だ王たらざる時、妓の王愛と狎び、妾の額を冒して宮に入り、且つ庶子の常洪を撫でて子と為さんことを令す。陳妃と世子常清は倶に愛を失い、潜かに嫡を易えんと謀る。御史陳王道、理を以て王に諭し、これを外舎に出だす。常洪遂に宗人翊銂等と謀り、夜王宮に入り、冊宝・資貨を盗み出づ。守臣その事を上す。王愛は死を論ぜられ、常洪を勒して自尽せしめ、翊銂等は属籍を削り永錮とし、翊𨨣の四歳の禄を奪う。久しくして薨ず。子の常清嗣ぐ、国亡び、終わりを知らず。

滕王

滕懐王瞻塏は、仁宗の第八子なり。永楽二十二年に雲南に封ぜらるも、国に之かず、洪熙元年に薨ず。後無し。

梁王

梁莊王瞻垍は、仁宗の第九子なり。永楽二十二年に封ぜらる。宣徳初年、詔して鄭・越・襄・荊・淮の五王は歳に鈔五万貫を給すとし、梁のみこれを倍す。四年、安陸に就藩す、故に郢の邸なり。襄王瞻墡は長沙より襄陽に徙るに、安陸を道とし、瞻垍と留連して去るに忍びず。別れに臨み、瞻垍慟哭して曰く「兄弟復た相見えざるならん、奈何」と。左右皆泣下す。正統元年、府卑湿なりと言い、爽塏の地に更めんことを乞う。帝、郢中歳に欠くると詔し、秋有るを俟ちてこれを理せんとす。竟に果たさず。六年薨ず。子無く、封除かる。梁は故に郢の田宅園湖を得たり、後皆襄王に賜う。及び睿宗安陸に封ぜられ、郢・梁の邸田を尽く得て、二王の祠祀に供す。

衛王

衛恭王瞻埏は、仁宗の第十子なり。永楽二十二年に懐慶に封ぜらる。幼より善く病み、宣宗これを撫愛し、未だ藩に就かず。歳時に陵を謁するも、皆命じて祀りを摂らしむ。孝謹好学、賢を以て聞こゆ。正統三年薨ず。妃楊氏殉じ、謚を賜いて貞烈と曰う。子無く、封除かる。

英宗九子

英宗に九子有り。周太后は憲宗・崇王見澤を生む。万宸妃は徳王見潾及び皇子見湜・吉王見浚・忻王見治を生む。王恵妃は許王見淳を生む。高淑妃は秀王見澍を生む。韋徳妃は徽王見沛を生む。

徳王

徳莊王見潾は、英宗の第二子なり。初め見清と名づく。景泰三年に栄王に封ぜらる。天順元年三月、復た東宮に立ち、同日に徳・秀・崇・吉の四王を封じ、歳禄各万石。初め德州に国し、済南に改む。成化三年に就藩す。斉・漢の二庶人の遺せる東昌・兗州の閑田及び白雲・景陽・広平の三湖の地を得んことを請う。憲宗悉くこれを与う。復た南旺湖の業を請うも、漕渠の故を以て許さず。又た漢庶人の旧牧馬地を請う。知府趙璜、地は民間に帰し、税賦を供すること久し、奪うべからずと言う。帝これに従う。正徳初年、詔して王府の庄田は畝ごとに銀三分を徴し、歳を以て常と為す。見潾奏す「初年、兗州の庄田は歳に畝二十升、独り清河一県は、成化中に少卿宋旻の議を用い、歳に畝五升。若し新詔の如くならば、臣将に自ら給する無からん」と。戸部、山東は水旱相仍ぎ、百姓凋敝す、詔の如くすべしと執す。帝曰く「王何ぞ貧を患えん! その許すなかれ」と。十二年薨ず。子の懿王祐榕嗣ぐ。

嘉靖中、戸部議して王府の請うる山場湖陂を核し、宣徳以後に断ずる者は皆官に還す。詔して行うを允す。ここにおいて山東巡撫都御史邵錫、徳府の庄田は倶に革中の在りと奏し、祐榕と相訐奏す。錫これを益急に持す。儀衛司の軍額千七百人、逃絶する者は余丁を以て補う。錫は制に非ずと謂い、済南知府楊撫に檄して諸補充する者の籍をして餉を与えざらしむ。軍校大いに嘩し、府門を毀つ。詔して長史楊穀・楊孟法を逮問し、儀衛副の薛寧及び軍校陶栄を戍らしむ。王に侯度を守り、群小に徇いて多く事を滋さしむるなからしむと諭す。議する者は錫が故に激してその罪を致し、祐榕の過ちを尽くさずと謂う。これは十一年八月の事なり。十八年に至り、涇・徽の二王復た革せられたる庄田を得んことを請い、祐榕これに援いて以て請う。詔して仍として三湖の地を与え、課を自ら徴せしむ。その年薨ず。孫の恭王載墱嗣ぐ、万暦二年薨ず。子の定王翊館嗣ぐ、十六年薨ず。子の常潔嗣ぐ、崇禎五年薨ず。世子由樞嗣ぐ、十二年正月、大清兵済南を克ち、執わるるを見る。

朱見湜

見湜は、英宗の第三子なり。早卒す。復辟の後、復た追贈せず。

許王

許悼王見淳は、英宗の第四子なり。景泰三年に封ぜらる。明年薨ず。礼臣、親王の礼を用いて葬ることを請う。帝、王幼きを以て、その制を殺す。

秀王

秀懐王見澍は、英宗の第五子なり。南宮に生まる。天順元年に封ぜらる。成化六年、汝寧に就藩す。長史劉誠、『千秋日鑑録』を献ず。見澍、朝夕これを誦す。就藩の時、途中民を擾わすを慮り、並日に行くことを令す。王の居る所狭隘なり。左右、文廟を遷してこれを広むることを請う。見澍聴かず、曰く「学宮に近く居り、時に絃誦の声を聞く、顧みて美ならずや」と。『書』を論じて『西伯戡黎』に至る。長史誠は呉氏の説を主とし、曰く「黎を戡る者は武王なり」と。右長史趙鋭は孔氏の説を主とし、曰く「実に文王の事なり」と。争いて色を失う。見澍曰く「経義に定論未だ有らず、往復を嫌わず。今此の若きは、先皇帝が二先生を簡ぶるの意に非ず」と。成化八年に薨ず。子無く、封除く。

崇王

崇簡王見澤は、英宗の第六子なり。南宮に生まる。天順元年に封ぜらる。成化十年、汝寧に就藩す。故に秀の邸なり。弘治八年七月、皇太后春秋高く、一たび王を見んと思う。帝、特に勅してこれを召す。礼部尚書倪嶽言う「数年来三王の国に之くに、道路の供億、民力殫竭す。今王を召して復た来らしむ。往復の労費、兼ねて水溢旱蝗、舟車の経る所、他虞有らんことを恐る。親王の入朝、故事有りと雖も、宣德以来、已に鮮に行わる。英宗復辟し、襄王詔を奉じて来朝す。敦叙の恩篤きと雖も、実に疑讒の隙を塞ぐ。故事に非ず」と。大学士徐溥も亦以て言う。帝、太后の意に違うを重んじ、允さず。既にして言官章を交えてこれに及ぶ。乃ち已む。十八年に薨ず。子靖王祐樒嗣ぐ。正徳六年に薨ず。子恭王厚耀嗣ぐ。三王並びに賢名有り。而して靖王は尤も孝友なり。嘉靖十六年、厚耀薨ず。子荘王載境嗣ぐ。三十六年に薨ず。子端王翊𨰜嗣ぐ。万暦三十八年に薨ず。孫由樻嗣ぐ。崇禎十五年閏十一月、李自成汝寧を陥とし、由樻を執え去る。偽りに襄陽伯に封じ、未だ下らざる州県を降すを諭すことを令す。由樻従わず、泌陽城にてこれを殺す。弟河陽王由材、世子慈煇等皆遇害す。

吉王

吉簡王見浚は、英宗の第七子なり。南宮に生まる。天順元年に封ぜらる。時に甫に二歳。成化十三年、長沙に就藩す。『先聖図』及び『尚書』を嶽麓書院に刻し、以て学者に授く。嘉靖六年に薨ず。孫定王厚〓冒(厚〓は一字)嗣ぐ。湘潭の商税を請うて邸租を益す。許さず。十八年に薨ず。子端王載均、光化王より嗣ぐ。四十年に薨ず。子荘王翊鎮嗣ぐ。隆慶四年に薨ず。子無し。庶兄宣王翊鑾、龍陽王より嗣ぐ。万暦四十六年に薨ず。孫由棟嗣ぐ。崇禎九年に薨ず。子慈煃嗣ぐ。十六年、張献忠湖南に入る。恵王とともに衡州に走り、随いて粤に入る。国亡びたる後、緬甸にて死す。

忻王

忻穆王見治は、英宗の第八子なり。成化二年に封ぜらる。未だ就藩せず、八年に薨ず。後無し。

徽王

徽荘王見沛は、英宗の第九子なり。成化二年に封ぜらる。十七年、鈞州に就藩す。承奉司自ら吏を置く。左布政使徐恪これを革す。見沛以て聞す。憲宗、書をして王に諭す「吏を置くは制に非ず。恪罪無し」と。正徳元年に薨ず。子簡王祐枱嗣ぐ。嘉靖四年に薨ず。子恭王厚〓爵(厚〓は一字)嗣ぐ。二十九年に薨ず。子浦城王載埨嗣ぐ。

初め、厚〓爵琴を好む。琴を斫る者、知州陳吉と悪みを交わす。厚〓爵これを庇い、吉を劾す。詔獄に逮わる。都御史駱昂、御史王三聘、吉の冤を白す。帝怒り、並びにこれを逮う。昂杖死し、三聘・吉ともに辺に戍す。議者厚〓爵を直さず。時に方士陶仲文、世宗に寵有り。厚〓爵厚くこれを結ぶ。仲文、具に王の忠敬道を奉ずるを言う。帝喜び、厚〓爵を太清輔元宣化真人に封じ、金印を予う。及び載埨王を嗣ぐに及び、益々道を奉ずるを以て自ら帝に媚び、その父の真人の印を綰ぐことを命ず。南陽の人梁高輔、自ら導引服食能くすと言う。載埨その術を用いて薬を和し、高輔に命じて仲文を因りて以て帝に進む。高輔を通妙散人に封じ、載埨を清微翊教輔化忠孝真人とす。載埨遂に益々恣にし、民屋を壊し、台榭苑囿を作る。庫官王章諫む。杖殺す。嘗て微服して揚州・鳳陽に之く。邏者に獲らる。羈留すること三月、走り帰る。

時に高輔上寵を受け、復た載埨に親しまず。載埨これを銜む。已にして帝の為に薬を取るを得ず。載埨の旧に蓄うる所を求む。載埨与えずして、仲文に与う。高輔大いに恨み、間を乗じて載埨私かに南中に往き、他の過失有りとを言う。帝これを疑い、真人の印を奪う。仲文釁已に成るを知り、復た敢えて言わず。三十五年、民耿安なる者有り、載埨その女を奪うと奏す。下して按治す。有司因りてその諸の不法の事を発す。獄成り、庶人に降し、高墻に錮す。時に載埨宮中に居る。所司防守厳しく、獄詞聞くを得ず。及び帝内臣を遣わして撫按とともに至るに及び、始めて大いに懼る。楼に登り、龍亭の後に紅板の輿有るを望み、嘆いて曰く「吾自ら明らかにする能わず、徒らに生くる何を為さん」と。遂に自縊して死す。妃沈氏、次妃林氏、帛を争い取って自縊す。子安陽王翊锜・万善王翊鈁並びに爵を革め、及び未だ封ぜられざる子女、皆開封に遷し、周王の約束を聴く。国除く。

景帝一子

懐献太子

懐献太子見済は、母は杭妃である。初めは郕王の世子であった。英宗が北狩(土木の変で捕らえられる)すると、皇太后は憲宗を皇太子に立てることを命じ、郕王に監国させた。郕王が即位すると、心の中で見済をもって太子に代えようと望んだが、発言し難く、皇后汪氏もまた強く不可であると主張したので、長らく躊躇していた。太監の王誠と舒良が帝のために策を謀り、先に大学士陳循と高穀に百金を賜い、侍郎の江淵、王一寧、蕭鎡、学士の商輅にはその半分を与え、彼らの口を封じるのに用いたが、まだ実行には移さなかった。時に広西の土官都指揮使黄矰が私怨からその弟の思明知府黄岡を殺害し、その一家を滅ぼしたので、役所が朝廷に報告した。黄矰は罪を恐れ、急いで千戸の袁洪を京師に走らせ、上疏して帝に早く親信の大臣と密かに大計を定め、東宮を改めて立て、以て内外の心を一つにし、覬覦の望みを絶つよう勧めた。上疏が入ると、景帝は大いに喜び、急いで廷臣に会議させ、かつ黄矰の罪を赦し、都督ととくに進階させた。これは景泰三年四月のことである。

上疏が下された翌日、礼部尚書胡濙、侍郎の薩琦、鄒幹が文武群臣を集めて廷議を行った。衆人は顔を見合わせ、敢えて発言する者はいなかった。ただ都給事中の李侃、林聰、御史の朱英が不可であると考えた。吏部尚書王直もまた難色を示した。司礼太監の興安が声を荒げて言った。「この事はやめられない。もし不可と思う者は、署名せず、両端を持するな。」群臣は皆唯々として議に署名した。そこで胡濙らおよび魏国公徐承宗、寧陽侯陳懋、安遠侯柳溥、武清侯石亨、成安侯郭晟、定西侯蔣琬、駙馬都尉薛桓、襄城伯李瑾、武進伯朱瑛、平郷伯陳輔、安郷伯張寧、都督の孫鏜、張軏、楊俊、都督同知の田禮、範広、過興、衛穎、都督僉事の張児、劉深、張通、郭瑛、劉鑒、張義、錦衣衛指揮同知の畢旺、曹敬、指揮僉事の林福、吏部尚書王直、戸部尚書文淵閣大学士陳循、工部尚書東閣大学士高穀、吏部尚書何文淵、戸部尚書金濂、兵部尚書于謙、刑部尚書俞士悦、左都御史の王文、王翺、楊善、吏部侍郎の江淵、俞山、項文耀、戸部侍郎の劉中敷、沈翼、蕭鎡、礼部侍郎王一寧、兵部侍郎李賢、刑部侍郎周瑄、工部侍郎の趙栄、張敏、通政使李錫、通政の欒惲、王復、参議馮貫、諸寺卿の蕭維禎、許彬、蔣守約、齊整、李賓、少卿の張固、習嘉言、李宗周、蔚能、陳誠、黄士俊、張翔、齊政、寺丞の李茂、李希安、柴望、酈鏞、楊詢、王溢、翰林学士商輅、六科都給事中の李讃、李侃、李春、蘇霖、林聰、張文質、十三道御史の王震、朱英、塗謙、丁泰亨、強弘、劉琚、陸厚、原傑、厳樞、沈義、楊宜、王驥、左鼎が上言した。「陛下は天の明命を膺け、邦家を中興され、統緒の伝は宜しく聖子に帰すべきです。黄矰の上奏は正しい。」詔書は言った。「可である。礼部は儀礼を整え、日を選んで奏上せよ。」即日、東宮の官を選び置き、公・孤・詹事の僚属を全て備えた。

五月、汪后を廃し、杭妃を皇后に立て、太子を沂王に改めて封じ、見済を太子に立てた。詔書は言った。「天は下民を佑けて之が君を作り、実に安きを四海に遺す。父は天下有りて之を子に伝うれば、斯に本は萬年に固し。」天下に大赦を行い、百官に朔望に太子に朝せしめ、諸親王・公主・辺鎮・文武内外の群臣に賜与し、また陳循、高穀、江淵、王一寧、蕭鎡、商輅に各々黄金五十両を加賜した。四年二月乙未、太子の冠礼を行った。十一月、御史張鵬の言により、東宮の師傅講読官を選んだ。四日を過ぎて、太子は薨じ、諡して懐献と曰い、西山に葬った。天順元年、降格して懐献世子と称し、易儲(太子交代)を建議した者は皆罪を得た。

憲宗十四子

憲宗に十四人の子がいた。万貴妃が皇第一子を生んだ。柏賢妃が悼恭太子祐極を生んだ。紀太后が孝宗を生んだ。邵太后が興献帝祐杬、岐王祐棆、雍王祐枟を生んだ。張德妃が益王祐檳、衡王祐楎、汝王祐梈を生んだ。姚安妃が寿王祐楮を生んだ。楊恭妃が涇王祐橓、申王祐楷を生んだ。潘端妃が栄王祐枢を生んだ。王敬妃が皇第十子を生んだ。第一子と第十子は皆、名付けられずに夭折した。

悼恭太子

悼恭太子祐極は、憲宗の次子である。成化七年に皇太子に立てられたが、薨じた。

岐王

岐恵王祐棆は、憲宗の第五子である。成化二十三年に益王、衡王、雍王の三王と同日に封ぜられた。弘治八年に徳安に之藩した。十四年に薨じた。子がなく、封は除かれた。

益王

益端王祐檳は、憲宗の第六子である。弘治八年に建昌に之藩した。これはかつての荊邸である。性質は倹約で、巾服は二度まで洗い、一日一食は素食であった。書史を好み、民を愛し士を重んじ、侵擾することはなかった。嘉靖十八年に薨じた。子の荘王厚燁が嗣ぎ、性質は質素で、外物に嗜むところがなかった。三十五年に薨じた。子がなく、弟の恭王厚炫が嗣ぎ、自らの供養はますます倹約で、二千石の禄を辞退した。万暦五年に薨じた。孫の宣王翊鈏が嗣ぎ、客を結ぶことを好み、厚炫の積んだ府蔵を悉く費やして賓従を招き、諸藩との間で聘問を通じさせ、数年も経たずに頓に尽きた。三十一年に薨じた。子の敬王常氵遷が嗣ぎ、四十三年に薨じた。子の由本が嗣ぎ、国が滅びると閩中に逃れた。

衡王

衡恭王祐楎は、憲宗の第七子である。弘治十二年に青州に之藩した。嘉靖十七年に薨じた。子の荘王厚燆が嗣ぎ、かつて禄五千石を辞退して宗室を養い、宗人はその徳を慕った。隆慶六年に薨じた。子の康王載圭が嗣ぎ、万暦七年に薨じた。子がなく、弟の安王載封が嗣ぎ、十四年に薨じた。子の定王翊鑊が嗣ぎ、二十年に薨じた。子の常㵂が嗣いだ。新楽王載璽は、恭王の孫である。博雅で文辞に優れ、諸藩の纂述したものを求め、数十種を得て、梓に刻んで行った。また『洪武聖政頌』、『皇明政要』などの諸書を撰し、多く伝えるに足るものであった。従父の高唐王厚煐、斉東王厚炳は皆、博学で篤行をもって知られた。嘉靖年間、勅書を賜って褒め諭されることが再びあった。

雍王

雍靖王祐枟は、憲宗の第八子である。初め保寧王に封ぜられ、弘治十二年に衡州に之藩した。地は低湿で、宮殿は朽ちて住むに堪えず、邸中にしばしば異変があったため、山東東平州への移転を乞うた。廷臣は、別の地を選んで建てるのは労民傷財であり、四川敘州に申王の旧邸があるので、そこに移り住むのがよいと上奏した。詔してこれを許可した。後に道遠で移ることができないと判明した。正徳二年、地割れが起こり、宮室が崩壊し、王は薨去した。子がなく、封は除かれた。

壽王

壽定王祐榰は、憲宗の第九子である。弘治四年に汝王、涇王、榮王、申王の四王と同日に封ぜられた。十一年に保寧に就藩した。正徳元年、岐王の世が絶えたため、岐王の邸を徳安に改めて就いた。校尉こういが横暴に市民を侵害し、知府の李重がこれを抑えたので、李重を逮捕するよう上奏した。安陸の民劉鵬が李重に従って大理寺に出廷し対簿したが、李重は彼を知らなかったので、訝しんだ。劉鵬は言った、「太守は仁徳があり、民のために罪を受けておられる。民は皆死を効すべきであり、どうして知っていることを待ちましょうか」と。李重はついに無罪となった。祐榰はこれを聞いて後悔し、後に賢王として知られた。嘉靖二十四年に薨じた。子がなく、封は除かれた。

汝王

汝安王祐梈は、憲宗の第十一子である。弘治十四年に衛輝に之藩した。正徳十五年、婚礼の費用として十年分の食塩を前借りすることを請うた。詔して別に長蘆の塩二千引を与え、食塩は従前通りとした。世宗が南巡した際、途中で出迎え、非常に恭順であった。禄を五百石加増し、金幣を賜った。嘉靖二十年に薨じた。子がなく、封は除かれた。

涇王

涇簡王祐橓は、憲宗の第十二子である。弘治十五年に沂州に之藩した。嘉靖十六年に薨じた。子の厚烇は封を受けないうちに卒した。子がなく、封は除かれた。

榮王

榮莊王祐樞は、憲宗の第十三子である。正徳初め、まだ京師の邸に留まっており、州信安鎮の田を乞うた。これはかつての牧地であった。部臣が言うには、「永楽年間に草場を設立し、馬匹を蕃育して武備に資した。成化年間に至り、近幸の者が初めてこれを庄として陳乞した。後に岐府、壽府がこれに相沿い、改正されなかった。孝宗皇帝は戎務に留神し、屯田を清理され、私を以て公を廃することはなさらなかった。今、榮王の就国は期日が定まっているが、ご所請は与えるべきではない」と。三年に常徳に之藩した。祐樞の容貌は高帝に似ており、国に居てやや驕慢放縱であった。世宗は詔して、沅江の酉港、天心、團坪の河泊税を王邸の収入とした。嘉靖十八年に薨じた。孫の恭王載墐が嗣ぎ、万暦二十三年に薨じた。子の翊鉁が嗣ぎ、四十年に薨じた。子の常溒が嗣ぎ、薨じた。子の憲王由枵が嗣ぎ、薨じた。子の慈炤が嗣いだ。張献忠が湖南に入ると、母妃姚氏を奉じて辰溪に逃れたが、その行方は知れなかった。

申王

申懿王祐楷は、憲宗の第十四子である。敘州に封ぜられたが、就藩しなかった。弘治十六年に薨じた。子がなく、封は除かれた。

孝宗二子

孝宗に二子あり。武宗、蔚王厚煒、ともに張皇后の生みし所なり。

蔚悼王厚煒は、孝宗の次子であり、生後三歳で薨じた。追って封謚を加えられた。