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明史
列傳第六 諸王三
岷王梗 谷王橞 韓王松 瀋王模(沁水王呈階 清源王幼㘧) 安王楹 唐王桱(三城王芝垝 文城王彌鉗 彌鋠 輔國將軍宇浹) 郢王棟 伊王㰘 皇子楠 靖江王守謙 虞王雄英 吳王允熥 衡王允熞 徐王允𤐤 太子文奎 少子文圭 高煦 趙王高燧 高爔
太祖諸子三
岷王
岷莊王朱楩は、太祖の第十八子なり。洪武二十四年に封ぜられ岷州に国す。二十八年、雲南新たに帰附せしを以て、親王をして鎮撫せしむるに宜しとし、雲南に改封す。有司宮殿の営造を請う。帝は棕亭に暫く居らしめ、民力稍々紓ぐるを俟ちて後作らしむ。建文元年、西平侯沐晟その過ちを奏す。庶人に廃し、漳州に徙す。永楽初め王に復し、晟と交悪す。帝は書を賜いて楩を諭し、詔して晟を戒む。楩は沈湎して礼を廃し、諸司の印信を擅に収め、吏民を殺戮す。帝怒り、冊宝を奪う。尋ち王の建文中久しく幽閉せられしを思い、復た之を与う。然るに楩は改悛せず。六年、その護衛を削り、官属を罷む。仁宗即位し、武岡に徙し、州治に寄居す。久しくして始めて王邸を建つ。景泰元年に薨ず。子の恭王徽煣嗣ぐ。
初め、世子徽焲、宣徳初め、その弟鎮南王徽煣の仁廟を誹謗するを訐る。宣宗その詐りを疑い、並びに京師に召し至らしめ、及び連坐する閹豎をして面質せしむ。事果たして誣なり。閹豎を斬りて徽煣等を帰遣す。徽煣位を嗣ぐ。弟の広通王徽煠は勇力あり。家人段友洪は技術を以て寵を得たり。致仕の後軍都事於利賓、徽煠に異相あり、天下を主るべしと言う。遂に乱を謀る。偽の勅を作り、友洪及び蒙能、陳添行を分遣して苗中に入り、諸苗を誘うに銀印金幣を以てし、兵を発して武岡を攻めしむ。苗首楊文伯等敢えて受けず。事覚え、友洪は徽煣に執らる。都御史李実以て聞す。駙馬都尉焦敬、中官李琮を遣わし徽煠を徴して京師に入らしむ。湖広総管王来、総兵官梁缶復た陽宗王徽焟の通謀の状を発す。亦た徴して入る。皆爵を除き、高墻に幽す。時に景泰二年十月なり。
天順七年、徽煣薨ず。子の順王音埑嗣ぐ。瘋痺の病に罹り、屡年起たず。次子の安昌王膺鋪は医薬に侍し、晨夕左右を去らず。憲宗之を聞き、勅を賜いて嘉獎す。成化十六年、音埑薨ず。世子膺鉟は喪に居り、飲博度を過ぐ。承奉劉忠之を禁制す。遂に忠を殺す。事聞こえ、験実し、冠帯を革め封を停む。四年居りて乃ち嗣ぐ。弘治十三年薨ず。謚して簡と曰う。子の靖王彦汰嗣ぐ。嘉靖四年、弟の南安王彦泥と陰事を相訐る。彦泥は庶人に廃せられ、彦汰も亦た抗制擅権に坐して爵を革まる。八年、世子誉栄に府事を摂せしむ。誉栄上疏して懇に辞し、謂う、「臣は尊栄を坐享するも、父は困苦寂寞に在り。臣の心何ぞ安からんや。且つ前に曾て臣の弟善化王誉桔を挙げしに、廷議は子に父を制する理なしとし、奏して寝て行わず。臣も亦た人子なり。独り臣の弟に愧じざらんや」と。帝疏を覧みて之を憐み、部に下して議せしむ。十二年、彦汰に冠帯を賜い、府事を理めしむ。十五年、両宮の徽号の恩を以て王に復す。又八年にして始めて薨ず。子の康王誉栄嗣ぐ。三十一年薨ず。子の憲王定耀嗣ぐ。三十四年薨ず。曾孫禋洪、天啓二年に嗣ぐ。崇禎元年薨ず。子無し。従父の企𨰘嗣ぐ。十六年、流賊武岡を陥し、害に遇う。
谷王
谷王朱橞は、太祖の第十九子なり。洪武二十四年に封ぜらる。二十八年三月、宣府に就藩す。宣府は上谷の地なれば、故に谷王と曰う。燕兵起こるや、橞は走りて京師に還る。及び燕師江を渡るに及び、橞は命を受け金川門を守る。城に登りて成祖の麾蓋を見るや、門を開きて迎降す。成祖之を徳とし、即位して、橞に楽七奏、衛士三百を賜い、賚予甚だ厚し。長沙に改封し、歳祿二千石を増す。
橞は国に居りて横甚だし。忠誠伯茹常、長沙を過ぐるも橞に謁せず。橞之を帝に白す。常は罪を得て死す。遂に益々驕肆となり、民田を奪い、公税を侵し、罪無き人を殺す。長史虞廷綱数え諫む。廷綱を誹謗すと誣え、磔殺す。亡命を招き匿い、兵法戦陣を習い、戦艦弓弩器械を造る。大いに仏寺を創り、僧千人を度し、咒詛を為す。日ごとに都指揮張成、宦者呉智、劉信と謀り、成を「師尚父」と呼び、智、信を「国老令公」と呼ぶ。偽りに讖書を引き、「我が高皇帝十八子、讖に合う」と云う。橞の行次は十九なり。趙王杞の早く卒せしを以て、故に云うなり。元夕に灯を献ぜんと謀り、壮士を選び音楽を教え、共に禁中に入り、隙を伺いて変を為さんとす。又た蜀王に書を致して隠語を為し、蜀を結びて援とせんと欲す。蜀王書を貽して切に責む。聴かず。己にして蜀王の子崇寧王悦燇罪を得て、橞の所に逃る。橞因りて衆を詭す、「往年我れ金川門を開き建文君を出だせり。今邸中に在り。我れ将に大義を申さんとす。事発する日に有らん」と。蜀王之を聞き、変を上告す。
初め、護衛都督僉事張興、橞の不法を為すを見て、禍の及ぶを懼れ、因りて北京に奏事し、その状を白す。帝信ぜず。興は南京を過ぎ、復た太子に啓し、且つ曰く、「乞う、他日に連坐せざらんことを」と。是に至り、帝嘆じて曰く、「朕橞を待つこと厚し。張興常に朕の為に言えども、忍びて信ぜず。今果然なり」と。立ちに中官に勅を持たしめ橞を諭し悦燇を蜀に帰せしめ、且つ橞を召して入朝せしむ。橞至る。帝蜀王の章を示す。地に伏して死を請う。諸大臣廷に橞を劾して曰く、「周は管・蔡を戮し、漢は濞・長を辟く。皆大義親を滅す。陛下縱ひ橞を念うも、天下を奈何せん」と。帝曰く、「橞は朕の弟なり。朕且つ諸兄弟をして議せしめん」と。永楽十五年正月、周王橚、楚王楨、蜀王椿等各上議す、「橞は祖訓に違い、軌を謀らず。蹤跡甚だ著し。大逆不道、誅して赦す無し」と。帝曰く、「諸王群臣大義を奉ず。国法固より爾り。吾れ寧ろ橞を生かさんや」と。是に於て及び二子皆庶人に廃せらる。官属多く誅死す。興は先に発せしを以て坐せず。
韓王
韓憲王松は、太祖の第二十子なり。洪武二十四年に封ぜられて開原に国す。性質英敏にして、古今に通じ、恭謹にして過ちなし。永楽五年に薨ず。未だ国に之かざるを以て、命じて安德門外に葬らしむ。十年、子の恭王沖〓或嗣ぐ。時に大寧三衛の地を棄つるに及び、開原は塞に逼りて居るべからず。二十二年に改めて平涼に封ず。仁宗即位し、沖〓或を召し、弟の襄陵王沖秌・楽平王沖烌とともに朝に入り、各詩頌を献ず。帝嘉悦し、金幣を賜うこと差等あり。宣宗の初め、江南に徙ることを請う。許さず。護衛の屯租を蠲免し、邸第を建つることを請う。これを許す。主事毛俊を遣わして経度せしめ、並びに襄陵・楽平の二邸及び岷州の広福寺を建つ。陝西の守臣、歳凶なりと言い、工を輟むることを請う。帝、王宮を繕うことを令し、寺役の建つるを罷む。平涼は辺僥に接し、間諜充斥す。沖〓或は辺鄙の利弊に習い、正統元年に上書して極めて辺事を言う。書を賜いて褒答す。五年に薨ず。子の懐王範圯嗣ぎ、九年に薨ず。弟の靖王範〓仰嗣ぎ、景泰元年に薨ず。子の恵王征釙嗣ぐ。初め、土木の変に、沖秌京師に赴きて王に勤め、会に厳を解く。書を下して慰労す。成化六年に及び、寇河套に入る。沖秌復た子婿を率いて賊を撃たんことを請う。憲宗これを止む。沖〓或兄弟並びに王事に急なりとすれども、藩禁厳しきを以て用いられず。是より宗臣兵事に預かる者なし。
成化五年、征釙薨ず。子の悼王偕㳘嗣ぎ、十年に薨ず。弟の康王偕灊嗣ぎ、弘治十四年に薨ず。子の昭王旭櫏嗣ぐ。性質忠孝にして、詩に工み、藩に居りて恵政あり。韓の土瘠にして禄薄し。弟の建寧王旭〓肴至り、受けし所の金冊を宗室偕泆に質す。事聞こえ、廃して庶人と為す。諸の貧宗しばしば有司を凌劫し、平涼知府呉世良・鄺衍・任守徳・王松先後に窘辱せらる。嘉靖十三年、旭櫏薨ず。子の定王融燧嗣ぎ、宗室の横なるを懲らし、頗る法を以てこれを縄す。不逞の者これ怨む。三十二年、襄陵王融焚及び諸宗二百余人、王の奸利の事を訐奏す。勘して実無く、融焚等の禄を革む。四十四年、融燧薨ず。子の謨㙉先だ卒す。世宗の末年、宗禄足らざるを以て、身王に及ばざる者は、その嫡長子に王を継がしめ、余の子は故の秩の如くせんと詔す。謨㙉は世子として王に及ばず。その長子朗锜を王とし、余の子は鎮国将軍に止む。万暦三十四年、朗锜薨ず。謚して端と曰う。子孫皆早く卒す。曾孫亶塉嗣ぐ。崇禎十六年、賊平涼を陥し、執わる。
襄陵王沖秌は、憲王の第二子、至性あり。母病み、股を刲いて薬に和し、病良く已む。及び卒し、喪を終うるまで毀瘠す。墓を展ぶる毎に、必ず子孫を率い、躬ら畚鍤を以て冢を培う。先後璽書を以て褒美すること六たび。子の範址その教に服し、母の荊危疾に罹る。亦た股を刲いてこれを進め、愈ゆ。その後五世同居し、門内雍肅なり。嘉靖十一年、羊酒文幣を以てこれを賚う。韓の諸王、襄陵の家法を以て第一と為す。王孫の征鑖病みて卒す。杜氏の女を聘す。未だ婚せずして王家に帰り、志操甚だ歴なり。詔して旌表を賜う。
瀋王
瀋簡王模は、太祖の第二十一子なり。洪武二十四年に封ぜらる。永楽六年に潞州に就藩す。宣徳六年に薨ず。子の康王佶焞嗣ぐ。景泰中、数たび州官と酒を置きて大会し、巡撫朱鑒これを聞こゆ。帝諸王に令し、時令寿節に非ざれば、輒ち有司と宴飲することを得ざらしめ、令と為して著す。天順元年に薨ず。子の荘王幼〓学嗣ぎ、正徳十一年に薨ず。子の恭王詮鉦嗣ぎ、嘉靖六年に薨ず。孫の允榿府事を摂す。九年に卒す。子無し。再従弟の憲王允栘府事を摂す。凡そ十年にして乃ち封を嗣ぐ。是の時に当たり、瀋府の諸郡王勛淯・詮並びに襲を争う。帝皆これを切責し、允栘に嗣がしむ。二十八年に薨ず。子の宣王恬烄嗣ぐ。学を好み、古文詞に工み、声律を審らかにす。弟の安慶王恬爖・鎮康王恬焯、穆宗の時皆孝義を以て旌さる。万暦十年、恬烄薨ず。子の定王呈堯嗣ぐ。仁孝恭慎なり。弟六人、郡王に封ぜらるる者二。余は例にて封ぜられず。朝廷王の恭なるを奨め、皆郡王に封ずれども禄を与えず。薨ず。子の効鏞嗣ぐ。明亡び、国除く。
沁水王呈堦は、簡王の七世の孫なり。詩に工み士を喜び、名譽藉甚し。此れより前に、徳平王允梃俊才を負い、衡府の新楽王載璽・周の宗人睦〓挈・俊噤等と斉名す。
又た清源王幼㘧は、康王の第三子、博学にして文詞能くす。その後、輔国将軍勛漣、従子の允杉・允檸・允析、及び鎮国将軍恬烷と諸子の呈圻等、並びに詩を能くするを以て名あり。時に瀋藩多才と称す。
安王
安恵王楹は、太祖の第二十二子なり。洪武二十四年に封ぜらる。永楽六年に平涼に就藩す。十五年に薨ず。子無く、封除く。府僚及び楽戸悉く罷め、典仗校尉百人を留めて園を守らしむ。洪熙の初め、韓恭王平涼に改封せられ、安王の邸に就く。英宗官校を韓に隷せしめ、長史に安王の祀を供せしめ、暇日に韓王の子襄陵王沖秌に給して使令せしむ。景泰五年、沖秌遂に安王の祀を承くることを乞う。正徳十二年、嗣襄陵王征鈐、楽戸を請いて安王を祀らしむ。明年、楽平王征錏征鈐の例に援いて以て請う。礼部言う、「親王に楽戸あり。郡王別城に居る者は、事有れば鼓吹を有司に仮す。其れ親王国に附する者は、楽戸を長史司に仮す」と。因りて並びに安王の供祀の楽戸を革む。嘉靖二年、韓王旭櫏復た代わりて請う。帝安王の故を以て、報いてこれを可とす。征鈐卒す。韓王融燧長史に令してこれを革ましむ。征鈐の長孫旭橦上言す、「礼楽は天子より出ず。韓王宜しく擅に予奪すべからず」と。融燧も亦た言う、「親王・郡王礼楽宜しく降殺有るべし」と。帝曰く、「楽戸は安王を祀るなり」と。給すること故の如し。
唐王
唐定王桱は、太祖の第二十三子なり。洪武二十四年に封ぜらる。永楽六年に南陽に就藩す。十三年に薨ず。子の靖王瓊烴嗣ぐ。綜核して矩矱有り、成祖の喜ぶ所と為る。朝に入り、五日に三たび召見せらる。宣徳元年に薨ず。妃高氏未だ冊せられず、自経して以て殉ず。詔して靖王妃に封ず。子無し。弟の憲王瓊炟嗣ぐ。成化十一年に薨ず。子の荘王芝址嗣ぐ。諸弟の三城王芝垝・蕩陰王芝〓瓦並びに学を好み、令譽有り。而して承休王芝垠は、憲王の継妃焦氏の子なり。妃これを愛す。節旦に遇い、楽婦を召して宮に入る。芝址これを詰む。語遜らず。焦妃怒り、鉄錘を把りて宮門を撃つ。芝址閉じて敢えて出でず。芝垠と妃の弟の璟、王の継母を詈ると誣う。按験して実ならず、芝垠の母に慢り兄を詈る状を得て、爵を革む。久しくして始めて復す。
二十一年、芝址薨ず。子の成王彌鍗嗣ぐ。弘治年中、疏を上りて言う、「朝廷、親藩を待つに、生には爵を、歿には謚を賜い、親親の道至れり。間に悪未だ聞こえずして、歿して美謚を獲る者有り、是れ善なる者を怠らしめ、悪なる者を肆ならしむるなり。今より宜しく実を勘べ、以て彰癉を寓すべし」。礼臣、勅を降して獎諭し、諸王を勉勵するを請う。詔して可とす。武宗遊幸を喜び、彌鍗『憂国詩』を作り、且つ疏を上りて賢を用い治を図るを以て言と為す。弟の文城王彌鉗、学行有り、孝友篤く至る。嘉靖二年、彌鍗薨ず。子無し、彌鉗の子敬王宇溫嗣ぐ。二十一年、金を献じて太廟の工を助け、玉帯を賜い、祿二百石を益す。時に承休王芝垠の子彌鋠、父が莊王と交わりて訐つを以て、令名を失い、節を折りて前愆を蓋う。宇溫其の事を上る。璽書を以て褒獎す。三十九年、宇溫薨ず。子の順王宙栐嗣ぎ、四十三年薨ず。子の端王碩熿嗣ぐ。嬖人に惑わされ、世子器墭及び其の子聿鍵を承奉司に囚え、器墭中毒して死す。
崇禎五年、碩熿薨じ、聿鍵嗣ぐ。七年、流賊大いに熾なり、金を蠲じて南陽城を築き、又た潞藩の例に援け、兵三千人を増すを乞う。許さず。九年秋八月、京師戒厳し、義を倡えて王に勤む。詔して切責し、勒して国に還らしむ。事定まり、部に下り議し、庶人に廢し、之を鳳陽に幽す。弟の聿鏌嗣ぐ。十四年、李自成南陽を陥し、聿鏌害に遇う。十七年、京師陥ち、福王由崧南京に立ち、乃ち聿鍵を赦して出だす。大清順治二年五月、南都降る。聿鍵行きて杭に至り、鎮江総兵官鄭鴻逵・戸部郎中蘇觀生に遇い、遂に奉じて閩に入る。南安伯鄭芝龍・巡撫都御史張肯堂と礼部尚書黄道周等議を定め、王を奉じて監国と称す。閏六月丁未、遂に福州に立ち、号して隆武とし、福州を改めて天興府と為す。芝龍・鴻逵を進めて侯と為し、鄭芝豹・鄭彩を封じて伯と為し、觀生・道周倶に大学士、肯堂を兵部尚書と為し、余は官を拝すること差等有り。
聿鍵学を好み、典故に通ず、然れども権は鄭氏に在り、為す所有る能わず。是の年八月、芝龍戦守の兵二十余万を簡ぶを議し、餉を計るに其の半を支えず。両税一年を預借するを請い、群下に俸を捐てしめ、紳士に輸助を勧め、府県の未だ解せざる銀穀を征す。官吏督迫し、閭裏騷然たり。又た事例を広く開き、猶ほ足らざるを苦しむ。仙霞嶺関を守る兵僅か数百人、皆用に堪えず。聿鍵屡々芝龍に出兵を促すも、輒ち餉詘を以て辞す。久しくして、芝龍衆論平らかならざるを知り、乃ち鴻逵をして浙東に出で、彩をして江西に出でしむるを請う。各兵数千を擁し、号して数万とす。既に行き、餉を候うに托け、皆百里を行きて還る。先ず是れ、黄道周芝龍の出師する意無きを知り、自ら行くを請い、広信より婺源に趨き、兵潰えて死す。事は詳しく『道周傳』に在り。
是の時、李自成兵敗れ、走りて通山に死す。其の兄の子李錦衆を帥いて湖広総督何騰蛟に降り、一時兵十余万を増す。侍郎楊廷麟・祭酒劉同升兵を起こし吉安・臨江を復す。ここに於いて廷麟等聿鍵の江右に出ずるを請い、騰蛟湖南に出ずるを請う。原任知州金堡、騰蛟は恃むべく、芝龍は恃むべからず、宜しく閩を棄てて楚に就くべしと言う。聿鍵大いに喜び、堡に給事中を授け、觀生を遣わして先に行き兵を募かしむ。
先ず是れ、靖江王亨嘉監国を僭称し、聿鍵の命に奉ぜず、巡撫瞿式耜等に擒えられ、捷を以て聞こゆ。而して魯王以海又た紹興に監国を称し、聿鍵の使者を拒む。故に聿鍵江西・湖広に出ずるを決意す。十二月福州を発ち、建寧に駐る。広東布政湯来賀餉十万を運び、海道より至る。明年二月延平に駐る。三月、大清兵吉安・撫州を取り、楊廷麟を贛州に囲む。尚書郭維經閩を出で、兵を募りて贛を援く。六月、大兵紹興を克ち、魯王以海海に遁入し、閩中大いに震う。芝龍海寇至ると仮言し、兵を徹して安平鎮に回り、航海して去る。関を守る将士皆之に随い、仙霞嶺空しく一人も無し。七月、何騰蛟使いを遣わして聿鍵を迎え、将に韶州に至らんとす。唯時に我が兵已に閩関に抵り、浦城を守る御史鄭為虹・給事中黄大鵬・延平知府王士和焉に死す。八月、聿鍵出走し、数日にして汀州に至る。大兵奄かに至り、従官奔散し、妃曾氏と倶に執わる。妃九瀧に至りて水に投じ、聿鍵福州に死す。給事中熊緯・尚書曹學佺・通政使馬思禮等自縊して死す。
郢王
郢靖王棟は、太祖の第二十四子なり。洪武二十四年封ぜらる。永楽六年安陸に之藩す。十二年薨ず。子無く封除かる。内外官校を留めて園を守らしむ。王妃郭氏は、武定侯英の女なり。王薨ずること一月を逾え、妃慟哭して曰く、「未亡人子無く、尚誰をか恃まん」。鏡を引き容を写して宮人に付し、曰く、「諸女の長ずるを俟ち、母を識らしめよ」。遂に自経す。妃四女、一は夭し、其の三女は光化・穀城・南漳郡主に封ぜられ、歳祿各八百石なり。宣徳四年、郢の故邸を以て梁王瞻垍を封じ、郢宮人を移して南京に居らしむ。
伊王
伊歴王は、太祖の第二十五子なり。洪武二十一年生れ、生れて四年封ぜらる。永楽六年洛陽に之藩し、歳祿僅か二千石なり。王武を好み、宮中に居るを楽しまず、時時弾を挾み剣を露わし、郊外に馳逐す。奔避して及ばざる者あれば、手を以て之を撃つ。男女を髡裸して以て笑楽と為す。十二年薨ず。礼臣封爵を追削するを請うも、許さず。
二十二年、子の簡王颙炴始めて嗣ぐことを得る。中官を縦して民を擾わし、洛陽人之を苦しむ。河南知府李驥稍々法を以て持す。誣って奏し、驥逮われ治めらる。已にして白きを得、王の左右を罪す。英宗の時表を上るも、文恭しからず、屡々譙譲せらる。天順六年薨ず。世孫悼王諟釩嗣ぎ、成化十一年薨ず。弟の定王諟鋝嗣ぎ、学を好み礼を崇め、喪に居りて哀毀し、歳時先を祀り、斎を外に致す。郡王・諸将軍・中尉慶賀に非ざれば褻に見えず。民間高年の者あれば、礼を以て之に下る。正徳三年薨ず。子の莊王訏淵嗣ぎ、嘉靖五年薨ず。弟の敬王訏淳嗣ぎ、母の喪に居り、孝を以て聞こゆ。祿薄きを以て上言す、「先朝河南の課鈔一万七千七百貫を以て、祿米八千石に準ず。八年諸王の請乞租税を革し、伊府の課鈔も亦た革中に在り、祿を補うを乞う」。戸部言う、「課鈔は本より成・弘の間の請乞にて、永楽時の欽賜に比ぶるに非ず。河南一省祿を缺く者八十余万、宜しく許すべからず」。帝部議に従う。二十一年薨ず。
世子の典楧が嗣ぎ、貪欲にして剛愎、官吏の短所を多く握り、意に従わぬ者は必ずこれを陥れて去らせ、去った後また辱しめ折伏す。御史が行部して北邙山外を過ぎると、典楧はこれを遮り笞打ちす。縉紳の往来は、概ね迂回して他境を取る。郭外を経る者は、府中の人が輒ちその車を追い引き止め、朝せざるを罵り、入朝する者にはまた非礼をもって辱しむ。府の墻が壊れたので、改めて築くことを請うと、民舎を奪い取ってその宮を広げた。郎中陳大壯が邸と隣り合い、その居を求めても与えず、数十人をして大壯の臥起に従わせ、その飲食を奪い、遂に餓死に至らしむ。造らせた宮は、高き台、連なる城、帝闕に擬す。錦衣官校で陝西に赴く者が洛陽を経た時、典楧は忽ち官属を召して詔を迎えさせ、鼓吹を擁して錦衣を入れ、一巻の黄巻を捧げて宮に入る。衆が開読を請うと、「密詔なり」と言い、遂に錦衣を急ぎ去らせる。錦衣は王が厚く遇したと思い、その所以を知らず。その夜大いに楽を張り、暁に至り、府中皆千歳と呼び、詐って「天子特に我を親しむなり」と謂う。河南府城を閉じ、民間の子女七百余を大いに選び、その姝麗なる者九十人を留め、選に中らざる者は金をもって贖わしむ。都御史張永明、御史林潤、給事中丘嶽相継いでその罪状を言上す。再び使を遣わして往き勘案させ、禄を三分の二削り、僭造の宮城を壊させ、民間の女を帰し、群小を執えて有司に付すことを命ず。典楧は詔を奉ぜず。部牒を以てこれを促すと、布政使が牒を持って入見す。典楧曰く、「牒何の為すものぞ、櫺を障うに用いるべし耳」。四十三年二月、撫按官以て聞こゆ。詔して礼部に三法司を会して議せしむ。僉に謂う、「典楧淫暴にして藩臣の礼無く、陛下曲赦すること再四、終に湔改せず、奸回日甚だし。宜しく徽王載埨の故事の如く、高墻に禁錮し、世封を削除すべし」。詔してその議に従い、子の褒㸅とともに開封に安置す。皇子楠は、太祖の第二十六子なり。洪武二十六年に生まれ、一月余りを過ぎて夭逝す。
靖江王守謙は、太祖の従孫なり。父の文正は、南昌王の子なり。太祖の兵を起こす時、南昌王は前に死に、妻の王氏が文正を携えて太祖に依る。太祖、高后これを撫でて己が子の如くす。長ずるに及び、伝記に渉猟し、勇略に富み、渡江に随い集慶路を取る。已にして功有り、枢密院同僉を授かる。太祖従容として問う、「若は何の官を欲するか」。文正対えて曰く、「叔父大業を成す、何ぞ富貴を患えん。爵賞先ず私親にすれば、何を以て衆を服せしめん」。太祖その言を喜び、ますますこれを愛す。
太祖が呉王たる時、大都督を命じ、中外の諸軍事を節制せしむ。及び江西を再定するに及び、洪都の重鎮、西南を屏翰するは、骨肉の重臣でなければ守れず。乃ち文正に元帥趙得勝等を統率させてその地を鎮守せしめ、儒士郭之章、劉仲服を参謀とす。文正は城を増し池を浚い、山寨に未だ附かざる者を招集し、号令明粛、遠近震慴す。居ること久からず、友諒が舟師六十万を帥いて洪都を囲む。文正は数たびその鋒を摧き、八十有五日堅守し、城壊れて復た完うするもの数十丈。友諒は旁ら吉安、臨江を掠め、その守将を俘え城下に徇らすも、動かされず。太祖親しく兵を帥いて来援す。友諒乃ち解き去り、太祖と彭蠡に相拒す。友諒が糧を都昌に掠むると、文正は方亮を遣わしてその舟を焚かしむ。糧道絶え、友諒遂に敗る。復た何文輝等を遣わして未附の州県を討平せしむ。江西の平定は、文正の功居多し。
太祖京に還り、廟に告げて飲至し、常遇春、廖永忠及び諸将士に金帛を賜うこと甚だ厚し。文正の前の言、大體を知るを思い、功を錫うるは尚お待つ有るも、文正少なからざる望みを無くす能わず。性素より卞急、ここに至り暴怒し、遂に常度を失い、掾吏の衛可達に任せて部中の子女を奪わしむ。按察使李飲冰その驕侈觖望を奏す。太祖使いを遣わして詰責す。文正懼れ、飲冰ますますその異志有るを言う。太祖即日舟に登り城下に至り、人を遣わしてこれを召す。文正倉卒に出迎す。太祖数えて曰く、「汝は何を為す者ぞ」。遂に載せてともに帰り、その事を竟えんと欲す。高后力めてこれを解きて曰く、「児はただ性剛なるのみ、他無し」。官を免じて桐城に安置し、未だ幾ばくもせずして卒す。飲冰もまた他事を以て誅せらる。
文正の謫せられたる時、守謙甫かに四歳、太祖その頂を撫でて曰く、「児恐るる無かれ、爾が父は訓教に背き、我に憂いを貽す、我終に爾が父の故を以て爾を廃せじ」。これを宮中に育つ。守謙幼名は鉄柱、呉元年に諸子の命名を以て廟に告げ、名を煒と改む。洪武三年に名を守謙と改め、靖江王に封ず。禄は郡王に視し、官属は親王の半ばとし、耆儒の趙壎を長史と為してこれを傅わしむ。長じて後、藩国桂林に之く。桂林には元順帝の潜邸有り、これを王宮と改め、表を上って謝す。太祖その従臣に敕して曰く、「従孫幼くして遠く西南を鎮む、善くこれを導け」。守謙は書を知るも、群小を好むに比し、粤人は怨み咨る。召し還し、戒め諭す。守謙は詩を作りて怨望す。帝怒り、庶人に廃す。鳳陽に居ること七年、その爵を復す。雲南に徙鎮せしめ、その妃の弟徐溥を同じく往かしめ、書を賜い戒飭し、語極めて摯切なり。守謙は暴横故の如し。召し還し、再び鳳陽に居らしむ。復た牧馬を強取するを以て、これを京師に錮す。二十五年卒す。子の賛儀幼し、世子と為すことを命ず。
三十年春、晋、燕、周、楚、齊、蜀、湘、代、肅、遼、慶、谷、秦の十三王を省らしむ。湘、楚より入蜀し、陝西を歴り、河南、山西、北平に抵り、東は大寧、遼陽に至り、山東より還り、親親の義を知らしめ、山川の険易に熟し、労苦に習わしむ。賛儀は恭慎好学なり。永楽元年、再び国に之き桂林し、蕭用道を長史と為す。用道は善く輔導し、賛儀もまたこれを敬礼す。六年に薨じ、謚して悼僖と曰う。
子の莊簡王佐敬嗣ぐ。初め銀印を与え、宣徳中、金塗を用いるに改む。正統初、その弟の奉国将軍佐敏と相い訐奏し、語は大学士楊栄に連なる。帝怒り、その使人を戍らしむ。成化五年薨ず。子の相承先だ卒し、孫の昭和王規裕嗣ぐ。弘治二年薨ず。子の端懿王約麒嗣ぐ、孝謹を以て聞こゆ。正徳十一年薨ず。子の安肅王経扶嗣ぐ、好学にして儉徳有り、嘗て『敬義箴』を作る。嘉靖四年薨ず。子の恭恵王邦苧嗣ぐ、巡按御史徐南金と相い訐奏す。禄米を奪い、その官校を罪す。隆慶六年薨ず。子の康僖王任昌嗣ぐ、万暦十年薨ず。子の温裕王履燾嗣ぐ、二十年薨ず。子無く、従父の憲定王任晟嗣ぐ、三十八年薨ず。子の栄穆王履祜嗣ぎ、薨ず。子の亨嘉嗣ぐ。李自成が京師を陥した後、自ら監国と称して広西にあり、巡撫の瞿式耜に誅せらる。時に唐王聿鍵は福建に在り、捷を奏す。
興宗諸子
興宗五子有り。後常氏は虞懐王雄英、呉王允熥を生む。呂后は恵帝、衡王允熞、徐王允𤐤を生む。
虞懐王雄英は、興宗の長子、太祖の嫡長孫なり。洪武十五年五月薨ず。年八歳。追加して封謚す。
呉王允熥は、興宗の第三子なり。建文元年に杭州に封国す、未だ之藩せず。成祖即位し、降して広沢王と為し、漳州に居らしむ。未だ幾ばくもせず、召し還して京師に至り、廃して庶人と為し、鳳陽に錮す。永楽十五年卒す。
衡王允熞は、興宗の第四子、建文元年に封ぜられる。成祖が降格して懐恩王とし、建昌に居住させる。允熥とともに召還され、鳳陽に幽閉、先後に卒す。
徐王允𤐤は、興宗の第五子、建文元年に封ぜられる。成祖が降格して敷恵王とし、母の呂太后に随い懿文陵に居住す。永楽二年に詔を下し甌寧王に改め、太子の祭祀を奉ぜしむ。四年十二月、邸中に火災あり、暴薨す。諡して哀簡と曰う。
恵帝の諸子
恵帝に二子あり。ともに馬后の生む。太子文奎。建文元年に皇太子に立てらる。燕師入るや、七歳なり、その行方知れず。
少子文圭。二歳の時、成祖入り、中都の広安宮に幽閉し、建庶人と号す。英宗復辟し、庶人が罪なくして久しく繋がるるを憐れみ、釈放せんと欲す。左右或いは以て不可と為す。帝曰く、「天命ある者は、任せて自ら為さしむべし。」と。大学士李賢賛して曰く、「これ堯・舜の心なり。」と。遂に太后に請い、内臣牛玉を命じて出ださしむ。鳳陽に居住するを聴し、婚娶出入自便ならしむ。閽者二十人、婢妾十余人を与え、使令を給す。文圭は孩提の時に幽閉され、この時に至りて年五十七なり。未だ幾ばくもせずして卒す。
成祖の諸子
成祖に四子あり。仁宗・漢王高煦・趙王高燧はともに文皇后の生む。高爔は生母詳らかならず。
漢王
漢王高煦は、成祖の第二子。性兇悍なり。洪武の時、諸王子を召して京師に学ばしむ。高煦は学ぶことを肯ぜず、言動軽佻にして、太祖に悪まれる。太祖崩ずるに及び、成祖は仁宗及び高煦を遣わして京師に入り臨ましむ。舅の徐輝祖、その無頼を以て、密かにこれを戒む。聴かず、輝祖の良馬を盗み、径ちに江を渡り馳せ帰る。途中、輒ち民吏を殺し、涿州に至り、また駅丞を撃殺す。ここにおいて朝臣挙げて以て燕を責む。成祖兵を起こし、仁宗は居守り、高煦は従い、嘗て軍鋒を為す。白溝河の戦い、成祖幾ばくも瞿能に及ばれんとす。高煦精騎数千を帥い、直前に進み決戦し、能父子を陣に斬る。成祖の東昌の敗れに及び、張玉戦死し、成祖只身走る。時に高煦師を引き至り、南軍を撃退す。徐輝祖、浦子口にて燕兵を破る。高煦蕃騎を引き来る。成祖大いに喜び曰く、「吾力疲れたり、児よ鼓勇して再戦すべし。」と。高煦蕃騎を麾いて力戦し、南軍遂に退く。成祖屡々危うきに瀕しながら敗を転じて功と為すは、高煦の力多し。成祖以て己に類すと為し、高煦もまたこれを以て自ら負い、功を恃み驕恣にして、不法多し。
成祖即位し、兵を将いて開平に往き辺備せしむ。時に儲君を建つるを議す。淇国公丘福・駙馬王寧、高煦に善くし、時々高煦の功高きを称え、幾くばくも嫡を奪わんとす。成祖遂に元子の仁賢なるを以て、且つ太祖の立てし所なるを以て、而して高煦また過失多きを以て、果たさず。永楽二年、仁宗太子に立てられ、高煦を漢王に封じ、国を雲南とす。高煦曰く、「我何の罪ぞ!万里に斥けらる。」と。行くことを肯ぜず。成祖に従い北京を巡り、力めて其の子とともに南京に帰ることを請う。成祖已むを得ず、これを聴す。天策衛を請いて護衛と為し、輒ち唐太宗に自ら比す。已にして、また隙に乗り両護衛を増やすことを請い、為す所益々恣にす。成祖嘗て仁宗とともに孝陵に謁せしむ。仁宗体肥重く、且つ足疾あり、両中使これを掖きて行かしむ。恒に足を失す。高煦後より言いて曰く、「前人蹉跌すれば、後人警めを知る。」と。時に宣宗皇太孫たり、後ろに応声して曰く、「更に後人警めを知る者あらん。」と。高煦顧みて色を失う。高煦長さ七尺余、軽趫にして騎射に善く、両腋に龍鱗の若きもの数片あり。既に其の雄武を負い、又毎に北征に従い、成祖の左右に在り、時に東宮の事を媒孽し、解縉を讒して死に至らしめ、黄淮等皆獄に繋がる。
十三年五月、青州に改封す。また行くことを欲せず。成祖始めてこれを疑い、勅を賜いて曰く、「既に藩封を受け、豈に常に京邸に居らんや!前に雲南遠く行くを憚り、今青州に封ずるも、また故に托して留まり侍らんと欲す。前後実意に非ざるに殆し。茲に命ずる更に辞すべからず。」と。然れども高煦遷延して自如す。私に各衛の健士を選び、又兵三千人を募り、兵部の籍に隷せず、劫掠せしむ。兵馬指揮徐野驢これを擒えて治む。高煦怒り、手に鉄瓜を以て野驢を撾殺す。衆敢えて言う者なし。遂に乗輿の器物を僭用す。成祖これを聞きて怒る。十四年十月、南京に還り、其の不法数十事を尽く得て、切にこれを責め、冠服を褫ぎ、西華門内に囚繫し、将に庶人に廃せんとす。仁宗涕泣して力救い、乃ち両護衛を削り、其の左右の狎匿する諸人を誅す。明年三月、楽安州に徙封し、即日の行を趣す。高煦楽安に至り、怨望し、異謀益々急なり。仁宗数えて書を以て戒むるも、悛わず。
成祖北征して晏駕す。高煦の子瞻圻、北京に在り、朝廷の事を覘い馳せて報ずること、一昼夜に六七行。高煦もまた日々人を遣わし潜かに京師を伺い、変有るを幸いとす。仁宗これを知り、顧みて益々厚く遇す。書を遺わして召し至らしめ、歳禄を増し、賜賚万計に及び、仍って藩に帰るを命ず。其の長子を世子に封じ、余は皆郡王とす。先に、瞻圻は父が其の母を殺すを怨み、屡々父の過悪を発す。成祖曰く、「爾父子何ぞ忍びんや!」と。ここに至り高煦朝に入り、瞻圻の前後の中朝の事を覘い報ずることを悉く上す。仁宗瞻圻を召して示して曰く、「汝父子兄弟の間に処り、讒構ここに至る。稚子は誅するに足らず。」と。鳳陽の皇陵を守らしむ。
未だ幾ばくもせず、仁宗崩ず。宣宗南京より喪に奔る。高煦謀りて伏兵をして路に邀えんとす。倉卒にして果たさず。帝即位するに及び、高煦及び趙王に賜うこと他府より特厚し。高煦日に請い有り、並びに利国安民の四事を陳ぶ。帝命じて有司施行せしめ、仍って書を復してこれを謝す。因って群臣に語りて曰く、「皇祖嘗て皇考に諭し、叔に異志有り、備うべしと謂えり。然れども皇考これを待つこと極めて厚し。今言う所、果たして誠より出ずれば、則ち是れ旧心已に革まり、従わざるべからず。」と。凡そ求請有るは、皆曲げて其の意に徇う。高煦益々自ら肆にす。
宣徳元年八月、遂に反す。其の親信枚青等を遣わし潜かに京師に至らしめ、旧功臣を約して内応と為す。英国公張輔これを執りて以て聞す。時に高煦已に山東都指揮靳栄等と約し、又弓刀旂幟を衛所に散じ、傍郡県の畜馬を尽く奪う。五軍を立てる。指揮王斌前軍を領し、韋達左軍、千戸盛堅右軍、知州朱恒後軍、諸子各々一軍を監し、高煦自ら中軍を将う。世子瞻坦居守り、指揮韋弘・韋興、千戸王玉・李智四哨を領す。部署已に定まり、偽りに王斌・朱恒等に太師・都督・尚書等の官を授く。御史李濬、父喪に因み家居す。高煦これを招くも従わず、姓名を変え、間道より京師に詣りて変を上る。帝猶兵を加うるに忍びず、中官侯泰を遣わし高煦に書を賜う。泰至る。高煦盛んに兵をして泰に見えしめ、南面して坐し、大言して曰く、「永楽中讒を信じ、我が護衛を削り、我を楽安に徙す。仁宗徒に金帛を以て我を餌とす。我豈に能く郁郁として此れに居らんや!汝帰り報ぜよ、急ぎ奸臣夏原吉等を縛り来たれ。徐ろに我が欲する所を議せん。」と。泰懼れ、唯唯するのみ。還るに及び、帝漢王何を言い、兵を治むること何如と問う。泰皆敢えて実を以て対せず。
この月、高煦は百戸陳剛を遣わして上疏を進め、さらに書を公侯大臣に与え、多くを指弾した。帝は嘆いて言った、「漢王は果たして反逆したか。」そこで陽武侯薛祿に兵を率いて討伐に向かわせることを議した。大学士楊栄らは帝に親征を勧めた。帝はこれを是とした。張輔が奏上して言った、「高煦はもとより臆病です、どうか臣に兵二万を貸し与え、捕らえて闕下に献上させてください。」帝は言った、「卿は確かに賊を捕らえるに足るが、朕が即位したばかりで、小人の中には二心を抱く者もいる。朕が親征しなければ、反逆の徒を安んじることはできまい。」ここにおいて車駕は京師を発ち、楊村を過ぎた。馬上で従臣を顧みて言った、「高煦の計略はどう出ると思うか。」ある者は答えて言った、「必ず先ず済南を取って巣窟とするでしょう。」ある者は答えて言った、「彼はかつて南京を離れようとせず、今は必ず兵を引き連れて南下するでしょう。」帝は言った、「そうではない。済南は近いが、攻め落とすのは容易でない。大軍が来ると聞けば、攻撃する暇もない。護衛軍の家族は楽安にいるから、必ず内を顧みて、まっすぐ南京に向かおうとはしない。高煦は外見は誇大で詐りがあるが、内実は臆病であり、事に臨んで狐疑し決断できない。今敢えて反逆するのは、朕が年少で新たに立ち、衆心がまだ附いていないのを軽んじ、朕が親征できないと思っているからだ。今朕が行くと聞けば、すでに胆を落とし、敢えて出戦できようか。到着すればすぐに捕らえられるであろう。」高煦は初め薛禄らが兵を率いると聞き、腕をまくって大喜びし、容易に対処できると思った。親征と聞いて、初めて恐れた。時に楽安から帰順して来る者がいた。帝は厚く賞を与え、その衆に諭すよう命じて帰らせた。なお書を高煦に送って言った、「張敖が国を失ったのは、貫高に始まり、淮南王が誅殺されたのは、伍被によって成った。今六師が国境に迫っている。王がすぐに謀議を主導した者を出せば、朕は王と過ちを除き、恩礼は初めの如くとする。そうでなければ、一戦で捕らえられ、あるいは王を奇貨として縛り上げて献上されることになれば、後悔しても及ばない。」前鋒が楽安に至ると、高煦は明朝に出戦することを約した。帝は大軍に朝食を早く済ませて兼行するよう命じ、楽安城北に駐蹕し、その四門を包囲した。賊は城に乗って守り、王師は神機銃箭を発射し、声は雷の如く震えた。諸将はすぐに攻城を請うた。帝は許さなかった。再び高煦に諭す勅を下したが、いずれも答えなかった。城中の多くは高煦を捕らえて献上しようとする者がおり、高煦は大いに恐れた。そこで密かに人を行幄に遣わし、今夕妻子と別れを告げる暇を願い、すぐに出て罪に帰することを願った。帝はこれを許した。この夜、高煦は兵器及び逆謀に通じた書を全て焼いた。明日、帝は楽安城南に駐蹕地を移した。高煦が城を出ようとすると、王斌らが力強く止めて言った、「寧ろ一戦して死に、人に捕らえられることなかれ。」高煦は王斌らを欺いて再び宮中に入り、遂に密かに間道から出て帝に謁見した。群臣は典刑に正すことを請うた。帝は允さなかった。弾劾の上奏文を示すと、高煦は頓首して言った、「臣の罪は万死に値します、ただ陛下の命に従います。」帝は高煦に書を書かせて諸子を召し寄せ、残党は悉く捕らえられた。城中の罪を赦し、脅従者は問わなかった。薛禄及び尚書張本に楽安を鎮撫させ、武定州と改称し、ここに班師した。高煦父子を廃して庶人とし、西安門内に室を築いて監禁した。王斌らは皆誅殺され、長史李默のみはかつて諫めたことにより死を免れ、口北に謫されて民とされた。天津、青州、滄州、山西の諸都督指揮が城を挙げて応じようと約した者は、事が発覚して相次いで誅殺され、凡そ六百四十余人、その故に縦容し及び蔵匿した者は死罪に坐し辺境に戍らせた者一千五百余人、辺氓に編入した者七百二十人であった。帝は『東征記』を撰して群臣に示した。高煦及び諸子は相次いで皆死んだ。
趙王
趙簡王高燧は、成祖の第三子である。永楽二年に封ぜられた。まもなく北京に居住するよう命じられ、詔して有司に、政務は皆王に啓上した後に施行するよう命じた。歳時に京師に朝し、辞して帰るときは、太子は必ず江東駅まで送った。高燧は寵愛を恃み、多く不法を行い、また漢王高煦と謀って嫡子の地位を奪おうとし、しばしば太子を讒言した。ここにおいて太子の宮僚は多く罪を得た。七年、帝はその不法の事を聞き、大いに怒り、その長史顧晟を誅し、高燧の冠服を剥奪したが、太子が力説して解いたため、免れることができた。国子司業趙亨道、董子庄を選んで長史とし輔導させたところ、高燧は少し行いを改めた。
二十一年五月、帝は御体が優れなかった。護衛指揮孟賢らが欽天監官王射成及び内侍楊慶の養子と結託して偽詔を作り、帝に毒を進めることを謀り、帝が晏駕した後に、詔を中から下し、太子を廃して趙王を立てようとした。総旗王瑜の姻戚である高以正という者が、孟賢らの謀略を画策し、謀が定まると王瑜に告げた。王瑜が変事を上奏した。帝は言った、「どうしてこのようなことがあろうか。」直ちに孟賢を捕らえ、偽詔を得た。孟賢らは皆誅殺され、王瑜を遼海衛千戸に昇進させた。帝は高燧を顧みて言った、「お前がやったのか。」高燧は大いに恐れ、言葉が出なかった。太子が力強くこれを解いて言った、「これは下々の者の仕業で、高燧は必ずや知らないことです。」これ以降ますます行いを慎んだ。
仁宗が即位すると、漢・趙二王の歳禄を二万石加増した。翌年、彰徳に之国し、常山左右二護衛を辞退した。宣宗が即位すると、田園八十頃を賜った。帝が高煦を捕らえて帰還し、単橋に至ると、尚書陳山が迎駕し、言った、「趙王は高煦と共に久しく逆謀を巡らしております。兵を彰徳に移し、趙王を捕らえるべきです。そうでなければ趙王は不安を抱き、他日再び聖慮を煩わせましょう。」帝は決断しなかった。時にただ楊士奇のみが不可であると考えた。陳山はさらに尚書蹇義、夏原吉を誘って共に請うた。帝は言った、「先帝は二人の叔父を非常に友愛された。漢王は自ら天に絶ったので、朕は赦すことができない。趙王には反逆の形跡が現れていない。朕は先帝に背くことを忍びない。」高煦が京に至ると、かつて人を遣わして趙王と通謀したとも言った。戸部主事李儀がその護衛を削ることを請い、尚書張本もまたそのように言った。帝は聞き入れなかった。その後言う者がますます多くなった。翌年、帝はその言葉及び群臣の上奏文を駙馬都尉広平侯袁容に持たせて高燧に示させた。高燧は大いに恐れ、ここにおいて常山中護衛及び群牧所、儀衛司の官校を返還することを請うた。帝はその返還する護衛を収めるよう命じ、儀衛司は与えた。宣徳六年に薨去した。
子の恵王蟾塙が嗣ぎ、景泰五年に薨去した。子の悼王祈鈭が嗣ぎ、天順四年に薨去した。子の靖王見灂が嗣いだ。恵王、悼王は皆かなり過失があったが、見灂に至っては悪行が特に甚だしく、屡々人を賊害して殺し、またかつて酔ってその叔父を殺そうとした。成化十二年、事が聞こえ、詔して禄米の三分の二を奪い、冠服を剥ぎ、民巾を戴かせ、書を読み礼を習わせた。その後二年、見灂の母妃李氏がそのために請うたので、冠服を元通りにすることができた。見灂は結局改めることができなかった。幼子の祐枳を愛し、遂に長子の祐棌を大逆の罪で誣告し、再び詔によって譴責された。弘治十五年に薨去した。子の荘王祐棌が嗣ぎ、正徳十三年に薨去した。
子の康王厚煜が嗣ぎ、祖母の楊妃に事えて孝行をもって聞こえた。嘉靖七年六月、璽書を賜って褒めた。翌年の冬、境内に大飢饉があった。厚煜は上疏し、禄一千石を辞退して賑済を助けたいと請うた。帝は王が国を憂うることを嘉し、有司に命じて粟を発させ、辞退を許さなかった。帝が南巡したとき、厚煜は遠く出迎え、命じて禄三百石を増やした。厚煜の性質は温和で篤厚、一つの楼を構えて「思訓」と名付け、嘗て独り居て読書し、文藻は豊かで麗しかった。宗人の輔国将軍祐椋らが数度法を犯し、有司と難題を為した。厚煜は祐椋を庇った。祐椋はついに罪を得、ともに責め譲られた。その後、有司はますます事を以て諸宗を裁き抑えることに務めた。洛川王翊鏴の奴僕が通判田時雨の隷僕と瓜を争って殴り合い、時雨は王の奴僕を捕らえた。厚煜は和解を請うたが得られず、ついに奴僕を軍に充てることに論じられた。間もなく、宗室数十人が禄を要求し、時雨は宗室が府官を殴打したとして上官に報告した。知府傅汝礪は各府の人々をことごとく捕らえた。厚煜はこれによって憤り恨み、ついに自縊して死んだ。三十九年十月のことである。厚煜の子成臯王載垸が疏を朝廷に聞かせ、法司に下して按問させた。時雨は河南の市で斬られ、汝礪は極辺に戍らされた。厚煜の子載培および載培の子翊錙は皆先に卒した。翊錙の子穆王常清が嗣ぎ、善行をもって旌表された。万暦四十二年、薨じた。世子由松は先に卒し、弟の寿光王由桂の子慈が嗣ぎ、薨じた。子がなく、穆王の弟常㳛が嗣いだ。崇禎十七年、彰徳が陥落し、捕らえられた。