明史

列傳第六 諸王三

列傳第六 諸王三

原文列傳第六 諸王三

岷王梗 谷王橞 韓王松 瀋王模(沁水王呈階 清源王幼㘧) 安王楹 唐王桱(三城王芝垝 文城王彌鉗 彌鋠 輔國將軍宇浹) 郢王棟 伊王㰘 皇子楠 靖江王守謙 虞王雄英 吳王允熥 衡王允熞 徐王允𤐤 太子文奎 少子文圭 高煦 趙王高燧 高爔

原文岷王梗 谷王橞 韓王松 瀋王模(沁水王呈階 清源王幼㘧) 安王楹 唐王桱(三城王芝垝 文城王彌鉗 彌鋠 輔國將軍宇浹) 郢王棟 伊王㰘 皇子楠 靖江王守謙 虞王雄英 吳王允熥 衡王允熞 徐王允𤐤 太子文奎 少子文圭 高煦 趙王高燧 高爔

太祖諸子三

原文太祖諸子三

岷王

原文岷王

岷莊王朱楩は、太祖の第十八子なり。洪武二十四年に封ぜられ岷州に国す。二十八年、雲南新たに帰附せしを以て、親王をして鎮撫せしむるに宜しとし、雲南に改封す。有司宮殿の営造を請う。帝は棕亭に暫く居らしめ、民力稍々紓ぐるを俟ちて後作らしむ。建文元年、西平侯沐晟その過ちを奏す。庶人に廃し、漳州に徙す。永楽初め王に復し、晟と交悪す。帝は書を賜いて楩を諭し、詔して晟を戒む。楩は沈湎して礼を廃し、諸司の印信を擅に収め、吏民を殺戮す。帝怒り、冊宝を奪う。尋ち王の建文中久しく幽閉せられしを思い、復た之を与う。然るに楩は改悛せず。六年、その護衛を削り、官属を罷む。仁宗即位し、武岡に徙し、州治に寄居す。久しくして始めて王邸を建つ。景泰元年に薨ず。子の恭王徽煣嗣ぐ。

原文岷莊王楩,太祖第十八子。洪武二十四年封國岷州。二十八年以雲南新附,宜親王鎮撫,改雲南。有司請營宮殿,帝令斬居棕亭,俟民力稍紓後作。建文元年,西平侯沐晟奏其過,廢為庶人,徙漳州。永樂初復王,與晟交惡。帝賜書諭楩,而詔戒晟。楩沈湎廢禮,擅收諸司印信,殺戮吏民。帝怒,奪冊寶。尋念王建文中久幽系,復予之,而楩不悛。六年,削其護衛,罷官屬。仁宗即位,徙武岡,寄居州治。久之,始建王邸。景泰元年薨。子恭王徽煣嗣。

初め、世子徽焲、宣徳初め、その弟鎮南王徽煣の仁廟を誹謗するを訐る。宣宗その詐りを疑い、並びに京師に召し至らしめ、及び連坐する閹豎をして面質せしむ。事果たして誣なり。閹豎を斬りて徽煣等を帰遣す。徽煣位を嗣ぐ。弟の広通王徽煠は勇力あり。家人段友洪は技術を以て寵を得たり。致仕の後軍都事於利賓、徽煠に異相あり、天下を主るべしと言う。遂に乱を謀る。偽の勅を作り、友洪及び蒙能、陳添行を分遣して苗中に入り、諸苗を誘うに銀印金幣を以てし、兵を発して武岡を攻めしむ。苗首楊文伯等敢えて受けず。事覚え、友洪は徽煣に執らる。都御史李実以て聞す。駙馬都尉焦敬、中官李琮を遣わし徽煠を徴して京師に入らしむ。湖広総管王来、総兵官梁缶復た陽宗王徽焟の通謀の状を発す。亦た徴して入る。皆爵を除き、高墻に幽す。時に景泰二年十月なり。

原文初,世子徽焲,宣德初,訐其弟鎮南王徽煣誹謗仁廟。宣宗疑其詐,並召至京,及所連閹豎面質,事果誣,斬閹豎而遣徽煣等歸。徽煣嗣位。弟廣通王徽煠有勇力,家人段友洪以技術得寵。致仕後軍都事於利賓言徽煠有異相,當主天下,遂謀亂。作偽敕,分遣友洪及蒙能、陳添行入苗中,誘諸苗以銀印金幣,使發兵攻武岡。苗首楊文伯等不敢受。事覺,友洪為徽煣所執。都御史李實以聞,遣駙馬都尉焦敬、中官李琮徵徽煠入京師。湖廣總管王來、總兵官梁缶復發陽宗王徽焟通謀狀,亦徵入。皆除爵,幽高墻。時景泰二年十月也。

天順七年、徽煣薨ず。子の順王音埑嗣ぐ。瘋痺の病に罹り、屡年起たず。次子の安昌王膺鋪は医薬に侍し、晨夕左右を去らず。憲宗之を聞き、勅を賜いて嘉獎す。成化十六年、音埑薨ず。世子膺鉟は喪に居り、飲博度を過ぐ。承奉劉忠之を禁制す。遂に忠を殺す。事聞こえ、験実し、冠帯を革め封を停む。四年居りて乃ち嗣ぐ。弘治十三年薨ず。謚して簡と曰う。子の靖王彦汰嗣ぐ。嘉靖四年、弟の南安王彦泥と陰事を相訐る。彦泥は庶人に廃せられ、彦汰も亦た抗制擅権に坐して爵を革まる。八年、世子誉栄に府事を摂せしむ。誉栄上疏して懇に辞し、謂う、「臣は尊栄を坐享するも、父は困苦寂寞に在り。臣の心何ぞ安からんや。且つ前に曾て臣の弟善化王誉桔を挙げしに、廷議は子に父を制する理なしとし、奏して寝て行わず。臣も亦た人子なり。独り臣の弟に愧じざらんや」と。帝疏を覧みて之を憐み、部に下して議せしむ。十二年、彦汰に冠帯を賜い、府事を理めしむ。十五年、両宮の徽号の恩を以て王に復す。又八年にして始めて薨ず。子の康王誉栄嗣ぐ。三十一年薨ず。子の憲王定耀嗣ぐ。三十四年薨ず。曾孫禋洪、天啓二年に嗣ぐ。崇禎元年薨ず。子無し。従父の企𨰘嗣ぐ。十六年、流賊武岡を陥し、害に遇う。

原文天順七年,徽煣薨。子順王音埑嗣,病瘋痹,屢年不起。次子安昌王膺鋪侍醫藥,晨夕不去左右。憲宗聞之,賜敕嘉獎。成化十六年,音埑薨。世子膺鉟居喪,飲博無度,承奉劉忠禁制之,遂殺忠。事聞,驗實,革冠帶停封。居四年,乃嗣。弘治十三年薨,謚曰簡。子靖王彥汰嗣。嘉靖四年,與弟南安王彥泥訐陰事,彥泥廢為庶人,彥汰亦坐抗制擅權革爵。八年令世子譽榮攝府事。譽榮上疏懇辭,謂:「臣坐享尊榮,而父困苦寂寞,臣心何安!且前曾舉臣弟善化王譽桔,廷議以子無制父理,奏寢不行。臣亦人子也,獨不愧臣弟乎!」帝覽疏憐之,下部議。十二年賜彥汰冠帶,理府事。十五年,以兩宮徽號恩復王。又八年始薨。子康王譽榮嗣,三十一年薨。子憲王定耀嗣,三十四年薨。曾孫禋洪,天啟二年嗣,崇禎元年薨。無子,從父企𨰘嗣。十六年,流賊陷武岡遇害。

谷王

原文谷王

谷王朱橞は、太祖の第十九子なり。洪武二十四年に封ぜらる。二十八年三月、宣府に就藩す。宣府は上谷の地なれば、故に谷王と曰う。燕兵起こるや、橞は走りて京師に還る。及び燕師江を渡るに及び、橞は命を受け金川門を守る。城に登りて成祖の麾蓋を見るや、門を開きて迎降す。成祖之を徳とし、即位して、橞に楽七奏、衛士三百を賜い、賚予甚だ厚し。長沙に改封し、歳祿二千石を増す。

原文谷王橞,太祖第十九子。洪武二十四年封。二十八年三月就藩宣府。宣府,上谷地,故曰谷王。燕兵起,橞走還京師。及燕師渡江,橞奉命守金川門,登城望見成祖麾蓋,開門迎降。成祖德之,即位,賜橞樂七奏,衛士三百,賚予甚厚。改封長沙,增歲祿二千石。

橞は国に居りて横甚だし。忠誠伯茹常、長沙を過ぐるも橞に謁せず。橞之を帝に白す。常は罪を得て死す。遂に益々驕肆となり、民田を奪い、公税を侵し、罪無き人を殺す。長史虞廷綱数え諫む。廷綱を誹謗すと誣え、磔殺す。亡命を招き匿い、兵法戦陣を習い、戦艦弓弩器械を造る。大いに仏寺を創り、僧千人を度し、咒詛を為す。日ごとに都指揮張成、宦者呉智、劉信と謀り、成を「師尚父」と呼び、智、信を「国老令公」と呼ぶ。偽りに讖書を引き、「我が高皇帝十八子、讖に合う」と云う。橞の行次は十九なり。趙王杞の早く卒せしを以て、故に云うなり。元夕に灯を献ぜんと謀り、壮士を選び音楽を教え、共に禁中に入り、隙を伺いて変を為さんとす。又た蜀王に書を致して隠語を為し、蜀を結びて援とせんと欲す。蜀王書を貽して切に責む。聴かず。己にして蜀王の子崇寧王悦燇罪を得て、橞の所に逃る。橞因りて衆を詭す、「往年我れ金川門を開き建文君を出だせり。今邸中に在り。我れ将に大義を申さんとす。事発する日に有らん」と。蜀王之を聞き、変を上告す。

原文橞居國橫甚,忠誠伯茹常過長沙不謁橞,橞白之帝,常得罪死。遂益驕肆,奪民田,侵公稅,殺無罪人。長史虞廷綱數諫,誣廷綱誹謗,磔殺之。招匿亡命,習兵法戰陣,造戰艦弓弩器械。大創佛寺,度僧千人,為咒詛。日與都指揮張成,宦者吳智、劉信謀,呼成「師尚父」,智、信「國老令公」。偽引讖書,云:「我高皇帝十八子,與讖合。」橞行次十九,以趙王杞早卒,故云。謀於元夕獻燈,選壯士教之音樂,同入禁中,伺隙為變。又致書蜀王為隱語,欲結蜀為援。蜀王貽書切責。不聽。己而蜀王子崇寧王悅燇得罪,逃橞所。橞因詭眾:「往年我開金川門出建文君,今在邸中。我將為申大義,事發有日矣。」蜀王聞之,上變告。

初め、護衛都督僉事張興、橞の不法を為すを見て、禍の及ぶを懼れ、因りて北京に奏事し、その状を白す。帝信ぜず。興は南京を過ぎ、復た太子に啓し、且つ曰く、「乞う、他日に連坐せざらんことを」と。是に至り、帝嘆じて曰く、「朕橞を待つこと厚し。張興常に朕の為に言えども、忍びて信ぜず。今果然なり」と。立ちに中官に勅を持たしめ橞を諭し悦燇を蜀に帰せしめ、且つ橞を召して入朝せしむ。橞至る。帝蜀王の章を示す。地に伏して死を請う。諸大臣廷に橞を劾して曰く、「周は管・蔡を戮し、漢は濞・長を辟く。皆大義親を滅す。陛下縱ひ橞を念うも、天下を奈何せん」と。帝曰く、「橞は朕の弟なり。朕且つ諸兄弟をして議せしめん」と。永楽十五年正月、周王橚、楚王楨、蜀王椿等各上議す、「橞は祖訓に違い、軌を謀らず。蹤跡甚だ著し。大逆不道、誅して赦す無し」と。帝曰く、「諸王群臣大義を奉ず。国法固より爾り。吾れ寧ろ橞を生かさんや」と。是に於て及び二子皆庶人に廃せらる。官属多く誅死す。興は先に発せしを以て坐せず。

原文初,護衛都督僉事張興見橞為不法,懼禍及,因奏事北京,白其狀。帝不信。興過南京,復啟於太子,且曰:「乞他日無連坐。」至是,帝嘆曰:「朕待橞厚,張興常為朕言,不忍信,今果然。」立命中官持敕諭橞歸悅燇於蜀,且召橞入朝。橞至,帝示以蜀王章,伏地請死。諸大臣廷劾橞曰:「周戮管、蔡,漢辟濞、長,皆大義滅親,陛下縱念橞,奈天下何?」帝曰:「橞,朕弟,朕且令諸兄弟議。」永樂十五年正月,周王橚、楚王楨、蜀王椿等各上議:「橞違祖訓,謀不軌,蹤跡甚著,大逆不道,誅無赦。」帝曰:「諸王群臣奉大義,國法固爾,吾寧生橞?」於是及二子皆廢為庶人,官屬多誅死,興以先發不坐。

韓王

原文韓王

韓憲王松は、太祖の第二十子なり。洪武二十四年に封ぜられて開原に国す。性質英敏にして、古今に通じ、恭謹にして過ちなし。永楽五年に薨ず。未だ国に之かざるを以て、命じて安德門外に葬らしむ。十年、子の恭王沖〓或嗣ぐ。時に大寧三衛の地を棄つるに及び、開原は塞に逼りて居るべからず。二十二年に改めて平涼に封ず。仁宗即位し、沖〓或を召し、弟の襄陵王沖秌・楽平王沖烌とともに朝に入り、各詩頌を献ず。帝嘉悦し、金幣を賜うこと差等あり。宣宗の初め、江南に徙ることを請う。許さず。護衛の屯租を蠲免し、邸第を建つることを請う。これを許す。主事毛俊を遣わして経度せしめ、並びに襄陵・楽平の二邸及び岷州の広福寺を建つ。陝西の守臣、歳凶なりと言い、工を輟むることを請う。帝、王宮を繕うことを令し、寺役の建つるを罷む。平涼は辺僥に接し、間諜充斥す。沖〓或は辺鄙の利弊に習い、正統元年に上書して極めて辺事を言う。書を賜いて褒答す。五年に薨ず。子の懐王範圯嗣ぎ、九年に薨ず。弟の靖王範〓仰嗣ぎ、景泰元年に薨ず。子の恵王征釙嗣ぐ。初め、土木の変に、沖秌京師に赴きて王に勤め、会に厳を解く。書を下して慰労す。成化六年に及び、寇河套に入る。沖秌復た子婿を率いて賊を撃たんことを請う。憲宗これを止む。沖〓或兄弟並びに王事に急なりとすれども、藩禁厳しきを以て用いられず。是より宗臣兵事に預かる者なし。

原文韓憲王松,太祖第二十子。洪武二十四年封國開原。性英敏,通古今,恭謹無過。永樂五年薨。以未之國,命葬安德門外。十年,子恭王沖〓或嗣。時棄大寧三衛地,開原逼塞不可居。二十二年改封平涼。仁宗即位,召沖〓或與弟襄陵王沖秌、樂平王沖烌入朝,各獻詩頌。帝嘉悅,賜金幣有差。宣宗初,請徙江南。不許。請蠲護衛屯租,建邸第。許之。遣主事毛俊經度,並建襄陵、樂平二邸及岷州廣福寺。陜西守臣言歲歉,請輟工。帝令繕王宮,罷建寺役。平涼接邊僥,間諜充斥,沖〓或習邊鄙利弊,正統元年上書極言邊事。賜書褒答。五年薨。子懷王範圯嗣,九年薨。弟靖王範〓仰嗣,景泰元年薨。子惠王征釙嗣。初,土木之變,沖秌赴京師勤王,會解嚴。下書慰勞。及成化六年,寇入河套,沖秌復請率子婿擊賊。憲宗止之。沖〓或兄弟並急王事,以藩禁嚴不用。自是宗臣無預兵事者。

成化五年、征釙薨ず。子の悼王偕㳘嗣ぎ、十年に薨ず。弟の康王偕灊嗣ぎ、弘治十四年に薨ず。子の昭王旭櫏嗣ぐ。性質忠孝にして、詩に工み、藩に居りて恵政あり。韓の土瘠にして禄薄し。弟の建寧王旭〓肴至り、受けし所の金冊を宗室偕泆に質す。事聞こえ、廃して庶人と為す。諸の貧宗しばしば有司を凌劫し、平涼知府呉世良・鄺衍・任守徳・王松先後に窘辱せらる。嘉靖十三年、旭櫏薨ず。子の定王融燧嗣ぎ、宗室の横なるを懲らし、頗る法を以てこれを縄す。不逞の者これ怨む。三十二年、襄陵王融焚及び諸宗二百余人、王の奸利の事を訐奏す。勘して実無く、融焚等の禄を革む。四十四年、融燧薨ず。子の謨㙉先だ卒す。世宗の末年、宗禄足らざるを以て、身王に及ばざる者は、その嫡長子に王を継がしめ、余の子は故の秩の如くせんと詔す。謨㙉は世子として王に及ばず。その長子朗锜を王とし、余の子は鎮国将軍に止む。万暦三十四年、朗锜薨ず。謚して端と曰う。子孫皆早く卒す。曾孫亶塉嗣ぐ。崇禎十六年、賊平涼を陥し、執わる。

原文成化五年,徵釙薨,子悼王偕㳘嗣,十年薨。弟康王偕灊嗣,弘治十四年薨。子昭王旭櫏嗣。性忠孝,工詩,居藩有惠政。韓土瘠祿薄,弟建寧王旭〓肴至,以所受金冊質於宗室偕泆,事聞,廢為庶人。諸貧宗往往淩劫有司,平涼知府吳世良、鄺衍、任守德、王松先後被窘辱。嘉靖十三年,旭櫏薨。子定王融燧嗣,懲宗室之橫,頗繩以法。不逞者怨之。三十二年,襄陵王融焚及諸宗二百餘人訐奏王奸利事。勘無實,革融焚等祿。四十四年,融燧薨。子謨㙉先卒。世宗末年,以宗祿不足,詔身不及王者,許其嫡長子繼王,余子如故秩。謨㙉以世子不及王,王其長子朗锜,余子止鎮國將軍。萬歷三十四年,朗锜薨,謚曰端。子孫皆早卒,曾孫亶塉嗣。崇禎十六年,賊陷平涼,被執。

襄陵王沖秌は、憲王の第二子、至性あり。母病み、股を刲いて薬に和し、病良く已む。及び卒し、喪を終うるまで毀瘠す。墓を展ぶる毎に、必ず子孫を率い、躬ら畚鍤を以て冢を培う。先後璽書を以て褒美すること六たび。子の範址その教に服し、母の荊危疾に罹る。亦た股を刲いてこれを進め、愈ゆ。その後五世同居し、門内雍肅なり。嘉靖十一年、羊酒文幣を以てこれを賚う。韓の諸王、襄陵の家法を以て第一と為す。王孫の征鑖病みて卒す。杜氏の女を聘す。未だ婚せずして王家に帰り、志操甚だ歴なり。詔して旌表を賜う。

原文襄陵王沖秌,憲王第二子,有至性。母病,刲股和藥,病良已。及卒,終喪毀瘠。每展墓,必率子孫躬畚鍤培冢。先後璽書褒美者六。子範址服其教,母荊罹危疾,亦刲股進之,愈。其後五世同居,門內雍肅。嘉靖十一年賚以羊酒文幣。韓諸王以襄陵家法為第一。王孫征鑖病卒,聘杜氏女,未婚,歸王家,誌操甚歷,詔賜旌表。

瀋王

原文瀋王

瀋簡王模は、太祖の第二十一子なり。洪武二十四年に封ぜらる。永楽六年に潞州に就藩す。宣徳六年に薨ず。子の康王佶焞嗣ぐ。景泰中、数たび州官と酒を置きて大会し、巡撫朱鑒これを聞こゆ。帝諸王に令し、時令寿節に非ざれば、輒ち有司と宴飲することを得ざらしめ、令と為して著す。天順元年に薨ず。子の荘王幼〓学嗣ぎ、正徳十一年に薨ず。子の恭王詮鉦嗣ぎ、嘉靖六年に薨ず。孫の允榿府事を摂す。九年に卒す。子無し。再従弟の憲王允栘府事を摂す。凡そ十年にして乃ち封を嗣ぐ。是の時に当たり、瀋府の諸郡王勛淯・詮並びに襲を争う。帝皆これを切責し、允栘に嗣がしむ。二十八年に薨ず。子の宣王恬烄嗣ぐ。学を好み、古文詞に工み、声律を審らかにす。弟の安慶王恬爖・鎮康王恬焯、穆宗の時皆孝義を以て旌さる。万暦十年、恬烄薨ず。子の定王呈堯嗣ぐ。仁孝恭慎なり。弟六人、郡王に封ぜらるる者二。余は例にて封ぜられず。朝廷王の恭なるを奨め、皆郡王に封ずれども禄を与えず。薨ず。子の効鏞嗣ぐ。明亡び、国除く。

原文瀋簡王模,太祖第二十一子。洪武二十四年封。永樂六年就藩潞州。宣德六年薨。子康王佶焞嗣。景泰中,數與州官置酒大會,巡撫朱鑒以聞。帝令諸王,非時令壽節,不得輒與有司宴飲,著為令。天順元年薨。子莊王幼〓學嗣,正德十一年薨。子恭王詮鉦嗣,嘉靖六年薨。孫允榿攝府事,九年卒。無子,再從弟憲王允栘攝府事,凡十年乃嗣封。當是時,瀋府諸郡王勛淯、詮並爭襲,帝皆切責之,而令允栘嗣。二十八年薨。子宣王恬烄嗣,好學,工古文詞,審聲律。弟安慶王恬爖、鎮康王恬焯,穆宗時皆以孝義旌。萬歷十年,恬烄薨。子定王呈堯嗣,仁孝恭慎。弟六人,封郡王者二。余例不得封,朝廷獎王恭,皆封郡王而不與祿。薨,子效鏞嗣,明亡,國除。

沁水王呈堦は、簡王の七世の孫なり。詩に工み士を喜び、名譽藉甚し。此れより前に、徳平王允梃俊才を負い、衡府の新楽王載璽・周の宗人睦〓挈・俊噤等と斉名す。

原文沁水王呈堦、簡王七世孫也,工詩喜士,名譽藉甚。前此,有德平王允梃負俊才,與衡府新樂王載璽,周宗人睦〓挈、俊噤等齊名。

又た清源王幼㘧は、康王の第三子、博学にして文詞能くす。その後、輔国将軍勛漣、従子の允杉・允檸・允析、及び鎮国将軍恬烷と諸子の呈圻等、並びに詩を能くするを以て名あり。時に瀋藩多才と称す。

原文又清源王幼㘧,康王第三子,博學能文詞。其後,輔國將軍勛漣,從子允杉、允檸、允析,及鎮國將軍恬烷與諸子呈圻等,並以能詩名,時稱瀋藩多才焉。

安王

原文安王

安恵王楹は、太祖の第二十二子なり。洪武二十四年に封ぜらる。永楽六年に平涼に就藩す。十五年に薨ず。子無く、封除く。府僚及び楽戸悉く罷め、典仗校尉百人を留めて園を守らしむ。洪熙の初め、韓恭王平涼に改封せられ、安王の邸に就く。英宗官校を韓に隷せしめ、長史に安王の祀を供せしめ、暇日に韓王の子襄陵王沖秌に給して使令せしむ。景泰五年、沖秌遂に安王の祀を承くることを乞う。正徳十二年、嗣襄陵王征鈐、楽戸を請いて安王を祀らしむ。明年、楽平王征錏征鈐の例に援いて以て請う。礼部言う、「親王に楽戸あり。郡王別城に居る者は、事有れば鼓吹を有司に仮す。其れ親王国に附する者は、楽戸を長史司に仮す」と。因りて並びに安王の供祀の楽戸を革む。嘉靖二年、韓王旭櫏復た代わりて請う。帝安王の故を以て、報いてこれを可とす。征鈐卒す。韓王融燧長史に令してこれを革ましむ。征鈐の長孫旭橦上言す、「礼楽は天子より出ず。韓王宜しく擅に予奪すべからず」と。融燧も亦た言う、「親王・郡王礼楽宜しく降殺有るべし」と。帝曰く、「楽戸は安王を祀るなり」と。給すること故の如し。

原文安惠王楹,太祖第二十二子。洪武二十四年封。永樂六年就藩平涼。十五年薨。無子,封除。府僚及樂戶悉罷,留典仗校尉百人守園。洪熙初,韓恭王改封平涼,就安王邸。英宗令官校隸韓,長史供安王祀,暇日給韓王子襄陵王沖秌使令。景泰五年,沖秌遂乞承安王祀。正德十二年嗣襄陵王征鈐,請樂戶祀安王。明年,樂平王征錏援征鈐例以請。禮部言:「親王有樂戶。郡王別城居者,有事假鼓吹於有司。其附親王國者,假樂戶於長史司。」因並革安王供祀樂戶。嘉靖二年,韓王旭櫏復為代請。帝以安王故,報可之。征鈐卒,韓王融燧令長史革之。征鈐長孫旭橦上言:「禮樂自天子出,韓王不宜擅予奪。」融燧亦言:「親王、郡王禮樂宜有降殺。」帝曰:「樂戶為安王祀也。」給如故。

唐王

原文唐王

唐定王桱は、太祖の第二十三子なり。洪武二十四年に封ぜらる。永楽六年に南陽に就藩す。十三年に薨ず。子の靖王瓊烴嗣ぐ。綜核して矩矱有り、成祖の喜ぶ所と為る。朝に入り、五日に三たび召見せらる。宣徳元年に薨ず。妃高氏未だ冊せられず、自経して以て殉ず。詔して靖王妃に封ず。子無し。弟の憲王瓊炟嗣ぐ。成化十一年に薨ず。子の荘王芝址嗣ぐ。諸弟の三城王芝垝・蕩陰王芝〓瓦並びに学を好み、令譽有り。而して承休王芝垠は、憲王の継妃焦氏の子なり。妃これを愛す。節旦に遇い、楽婦を召して宮に入る。芝址これを詰む。語遜らず。焦妃怒り、鉄錘を把りて宮門を撃つ。芝址閉じて敢えて出でず。芝垠と妃の弟の璟、王の継母を詈ると誣う。按験して実ならず、芝垠の母に慢り兄を詈る状を得て、爵を革む。久しくして始めて復す。

原文唐定王桱,太祖第二十三子。洪武二十四年封。永樂六年就藩南陽。十三年薨。子靖王瓊烴嗣。綜核有矩矱,為成祖所喜。入朝,五日三召見。宣德元年薨。妃高氏未冊,自經以殉,詔封靖王妃。無子,弟憲王瓊炟嗣,成化十一年薨。子莊王芝址嗣,諸弟三城王芝垝、蕩陰王芝〓瓦並好學,有令譽。而承休王芝垠,憲王繼妃焦氏子也,妃愛之。遇節旦,召樂婦入宮。芝址詰之,語不遜。焦妃怒,持鐵錘擊宮門,芝址閉不敢出。芝垠與妃弟璟誣王詈繼母。按驗不實,得芝垠慢母詈兄狀,革爵。久之始復。

二十一年、芝址薨ず。子の成王彌鍗嗣ぐ。弘治年中、疏を上りて言う、「朝廷、親藩を待つに、生には爵を、歿には謚を賜い、親親の道至れり。間に悪未だ聞こえずして、歿して美謚を獲る者有り、是れ善なる者を怠らしめ、悪なる者を肆ならしむるなり。今より宜しく実を勘べ、以て彰癉を寓すべし」。礼臣、勅を降して獎諭し、諸王を勉勵するを請う。詔して可とす。武宗遊幸を喜び、彌鍗『憂国詩』を作り、且つ疏を上りて賢を用い治を図るを以て言と為す。弟の文城王彌鉗、学行有り、孝友篤く至る。嘉靖二年、彌鍗薨ず。子無し、彌鉗の子敬王宇溫嗣ぐ。二十一年、金を献じて太廟の工を助け、玉帯を賜い、祿二百石を益す。時に承休王芝垠の子彌鋠、父が莊王と交わりて訐つを以て、令名を失い、節を折りて前愆を蓋う。宇溫其の事を上る。璽書を以て褒獎す。三十九年、宇溫薨ず。子の順王宙栐嗣ぎ、四十三年薨ず。子の端王碩熿嗣ぐ。嬖人に惑わされ、世子器墭及び其の子聿鍵を承奉司に囚え、器墭中毒して死す。

原文二十一年,芝址薨。子成王彌鍗嗣。弘治中,疏言:「朝廷待親藩,生爵歿謚,親親至矣。間有惡未敗聞,歿獲美謚,是使善者怠,惡者肆也。自今宜勘實,用寓彰癉。」禮臣請降敕獎諭,勉勵諸王。詔可。武宗喜遊幸,彌鍗作《憂國詩》,且上疏以用賢圖治為言。弟文城王彌鉗有學行,孝友篤至。嘉靖二年,彌鍗薨。無子,彌鉗子敬王宇溫嗣。二十一年,獻金助太廟工,賜玉帶,益祿二百石。時承休王芝垠子彌鋠以父與莊王交訐,失令名,折節蓋前愆。宇溫上其事。璽書褒獎。三十九年,宇溫薨。子順王宙栐嗣,四十三年薨。子端王碩熿嗣。惑於嬖人,囚世子器墭及其子聿鍵於承奉司,器墭中毒死。

崇禎五年、碩熿薨じ、聿鍵嗣ぐ。七年、流賊大いに熾なり、金を蠲じて南陽城を築き、又た潞藩の例に援け、兵三千人を増すを乞う。許さず。九年秋八月、京師戒厳し、義を倡えて王に勤む。詔して切責し、勒して国に還らしむ。事定まり、部に下り議し、庶人に廢し、之を鳳陽に幽す。弟の聿鏌嗣ぐ。十四年、李自成南陽を陥し、聿鏌害に遇う。十七年、京師陥ち、福王由崧南京に立ち、乃ち聿鍵を赦して出だす。大清順治二年五月、南都降る。聿鍵行きて杭に至り、鎮江総兵官鄭鴻逵・戸部郎中蘇觀生に遇い、遂に奉じて閩に入る。南安伯鄭芝龍・巡撫都御史張肯堂と礼部尚書黄道周等議を定め、王を奉じて監国と称す。閏六月丁未、遂に福州に立ち、号して隆武とし、福州を改めて天興府と為す。芝龍・鴻逵を進めて侯と為し、鄭芝豹・鄭彩を封じて伯と為し、觀生・道周倶に大学士、肯堂を兵部尚書と為し、余は官を拝すること差等有り。

原文崇禎五年,碩熿薨,聿鍵嗣。七年,流賊大熾,蠲金築南陽城,又援潞藩例,乞增兵三千人。不許。九年秋八月,京師戒嚴,倡義勤王。詔切責,勒還國。事定,下部議,廢為庶人,幽之鳳陽。弟聿鏌嗣。十四年,李自成陷南陽,聿鏌遇害。十七年,京師陷,福王由崧立於南京,乃赦聿鍵出。大清順治二年五月,南都降。聿鍵行至杭,遇鎮江總兵官鄭鴻逵、戶部郎中蘇觀生,遂奉入閩。南安伯鄭芝龍、巡撫都御史張肯堂與禮部尚書黃道周等定議,奉王稱監國。閏六月丁未,遂立於福州,號隆武,改福州為天興府。進芝龍、鴻逵為侯,封鄭芝豹、鄭彩為伯,觀生、道周俱大學士,肯堂為兵部尚書,余拜官有差。

聿鍵学を好み、典故に通ず、然れども権は鄭氏に在り、為す所有る能わず。是の年八月、芝龍戦守の兵二十余万を簡ぶを議し、餉を計るに其の半を支えず。両税一年を預借するを請い、群下に俸を捐てしめ、紳士に輸助を勧め、府県の未だ解せざる銀穀を征す。官吏督迫し、閭裏騷然たり。又た事例を広く開き、猶ほ足らざるを苦しむ。仙霞嶺関を守る兵僅か数百人、皆用に堪えず。聿鍵屡々芝龍に出兵を促すも、輒ち餉詘を以て辞す。久しくして、芝龍衆論平らかならざるを知り、乃ち鴻逵をして浙東に出で、彩をして江西に出でしむるを請う。各兵数千を擁し、号して数万とす。既に行き、餉を候うに托け、皆百里を行きて還る。先ず是れ、黄道周芝龍の出師する意無きを知り、自ら行くを請い、広信より婺源に趨き、兵潰えて死す。事は詳しく『道周傳』に在り。

原文聿鍵好學,通典故,然權在鄭氏,不能有所為。是年八月,芝龍議簡戰守兵二十餘萬,計餉不支其半。請預借兩稅一年,令群下捐俸,勸紳士輸助,征府縣銀谷未解者。官吏督迫,閭裏騷然。又廣開事例,猶苦不足。仙霞嶺守關兵僅數百人,皆不堪用。聿鍵屢促芝龍出兵,輒以餉詘辭。久之,芝龍知眾論不平,乃請以鴻逵出浙東,彩出江西,各擁兵數千,號數萬。既行,托候餉,皆行百里而還。先是,黃道周知芝龍無意出師,自請行,從廣信趨婺源,兵潰死,事詳《道周傳》。

是の時、李自成兵敗れ、走りて通山に死す。其の兄の子李錦衆を帥いて湖広総督何騰蛟に降り、一時兵十余万を増す。侍郎楊廷麟・祭酒劉同升兵を起こし吉安・臨江を復す。ここに於いて廷麟等聿鍵の江右に出ずるを請い、騰蛟湖南に出ずるを請う。原任知州金堡、騰蛟は恃むべく、芝龍は恃むべからず、宜しく閩を棄てて楚に就くべしと言う。聿鍵大いに喜び、堡に給事中を授け、觀生を遣わして先に行き兵を募かしむ。

原文是時,李自成兵敗,走死通山。其兄子李錦帥眾降於湖廣總督何騰蛟,一時增兵十餘萬。侍郎楊廷麟、祭酒劉同升起兵復吉安、臨江。於是廷麟等請聿鍵出江右,騰蛟請出湖南。原任知州金堡言騰蛟可恃,芝龍不可恃,宜棄閩就楚。聿鍵大喜,授堡給事中,遣觀生先行募兵。

先ず是れ、靖江王亨嘉監国を僭称せんしょうし、聿鍵の命に奉ぜず、巡撫瞿式耜等に擒えられ、捷を以て聞こゆ。而して魯王以海又た紹興に監国を称し、聿鍵の使者を拒む。故に聿鍵江西・湖広に出ずるを決意す。十二月福州を発ち、建寧に駐る。広東布政湯来賀餉十万を運び、海道より至る。明年二月延平に駐る。三月、大清兵吉安・撫州を取り、楊廷麟を贛州に囲む。尚書郭維經閩を出で、兵を募りて贛を援く。六月、大兵紹興を克ち、魯王以海海に遁入し、閩中大いに震う。芝龍海寇至ると仮言し、兵を徹して安平鎮に回り、航海して去る。関を守る将士皆之に随い、仙霞嶺空しく一人も無し。七月、何騰蛟使いを遣わして聿鍵を迎え、将に韶州に至らんとす。唯時に我が兵已に閩関に抵り、浦城を守る御史鄭為虹・給事中黄大鵬・延平知府王士和焉に死す。八月、聿鍵出走し、数日にして汀州に至る。大兵奄かに至り、従官奔散し、妃曾氏と倶に執わる。妃九瀧に至りて水に投じ、聿鍵福州に死す。給事中熊緯・尚書曹學佺・通政使馬思禮等自縊して死す。

原文先是,靖江王亨嘉僭稱監國,不奉聿鍵命,為巡撫瞿式耜等所擒,以捷聞。而魯王以海又稱監國於紹興,拒聿鍵使者,故聿鍵決意出江西、湖廣。十二月發福州,駐建寧。廣東布政湯來賀運餉十萬,由海道至。明年二月駐延平。三月,大清兵取吉安、撫州,圍楊廷麟於贛州。尚書郭維經出閩,募兵援贛。六月,大兵克紹興,魯王以海遁入海,閩中大震。芝龍假言海寇至,徹兵回安平鎮,航海去。守關將士皆隨之,仙霞嶺空無一人。七月,何騰蛟遣使迎聿鍵,將至韶州。唯時我兵已抵閩關,守浦城御史鄭為虹、給事中黃大鵬、延平知府王士和死焉。八月,聿鍵出走,數日方至汀州。大兵奄至,從官奔散,與妃曾氏俱被執。妃至九瀧投於水,聿鍵死於福州。給事中熊緯、尚書曹學佺、通政使馬思禮等自縊死。

郢王

原文郢王

郢靖王棟は、太祖の第二十四子なり。洪武二十四年封ぜらる。永楽六年安陸に之藩す。十二年薨ず。子無く封除かる。内外官校を留めて園を守らしむ。王妃郭氏は、武定侯英の女なり。王薨ずること一月を逾え、妃慟哭して曰く、「未亡人子無く、尚誰をか恃まん」。鏡を引き容を写して宮人に付し、曰く、「諸女の長ずるを俟ち、母を識らしめよ」。遂に自経す。妃四女、一は夭し、其の三女は光化・穀城・南漳郡主に封ぜられ、歳祿各八百石なり。宣徳四年、郢の故邸を以て梁王瞻垍を封じ、郢宮人を移して南京に居らしむ。

原文郢靖王棟,太祖第二十四子。洪武二十四年封。永樂六年之藩安陸。十二年薨。無子封除。留內外官校守園。王妃郭氏,武定侯英女。王薨逾月,妃慟哭曰:「未亡人無子,尚誰恃?」引鏡寫容付宮人,曰:「俟諸女長,令識母。」遂自經。妃四女,一夭,其三女封光化、穀城、南漳郡主,歲祿各八百石。宣德四年,以郢故邸封梁王瞻垍,移郢宮人居南京。

伊王

原文伊王

伊歴王は、太祖の第二十五子なり。洪武二十一年生れ、生れて四年封ぜらる。永楽六年洛陽に之藩し、歳祿僅か二千石なり。王武を好み、宮中に居るを楽しまず、時時弾を挾み剣を露わし、郊外に馳逐す。奔避して及ばざる者あれば、手を以て之を撃つ。男女を髡裸して以て笑楽と為す。十二年薨ず。礼臣封爵を追削するを請うも、許さず。

原文伊歷王,太祖第二十五子。洪武二十一年生,生四年封。永樂六年之藩洛陽,歲祿僅二千石。王好武,不樂居宮中,時時挾彈露劍,馳逐郊外。奔避不及者,手擊之。髡裸男女以為笑樂。十二年薨。禮臣請追削封爵,不許。

二十二年、子の簡王颙炴始めて嗣ぐことを得る。中官を縦して民を擾わし、洛陽人之を苦しむ。河南知府李驥稍々法を以て持す。誣って奏し、驥逮われ治めらる。已にして白きを得、王の左右を罪す。英宗の時表を上るも、文恭しからず、屡々譙譲せらる。天順六年薨ず。世孫悼王諟釩嗣ぎ、成化十一年薨ず。弟の定王諟鋝嗣ぎ、学を好み礼を崇め、喪に居りて哀毀し、歳時先を祀り、斎を外に致す。郡王・諸将軍・中尉慶賀に非ざれば褻に見えず。民間高年の者あれば、礼を以て之に下る。正徳三年薨ず。子の莊王訏淵嗣ぎ、嘉靖五年薨ず。弟の敬王訏淳嗣ぎ、母の喪に居り、孝を以て聞こゆ。祿薄きを以て上言す、「先朝河南の課鈔一万七千七百貫を以て、祿米八千石に準ず。八年諸王の請乞租税を革し、伊府の課鈔も亦た革中に在り、祿を補うを乞う」。戸部言う、「課鈔は本より成・弘の間の請乞にて、永楽時の欽賜に比ぶるに非ず。河南一省みまわ祿を缺く者八十余万、宜しく許すべからず」。帝部議に従う。二十一年薨ず。

原文二十二年,子簡王颙炴始得嗣。縱中官擾民,洛陽人苦之。河南知府李驥稍持以法。誣奏,驥被逮治。己而得白,罪王左右。英宗時上表,文不恭,屢被譙讓。天順六年薨。世孫悼王諟釩嗣,成化十一年薨。弟定王諟鋝嗣,好學崇禮,居喪哀毀,歲時祀先,致齋於外。郡王、諸將軍、中尉非慶賀不褻見。民間高年者,禮下之。正德三年薨。子莊王訏淵嗣,嘉靖五年薨。弟敬王訏淳嗣,居母喪,以孝聞。以祿薄上言:「先朝以河南課鈔萬七千七百貫,準祿米八千石。八年革諸王請乞租稅,伊府課鈔亦在革中,乞補祿。」戶部言:「課鈔本成、弘間請乞,非永樂時欽賜比。河南一省缺祿者八十餘萬,宜不許。」帝從部議。二十一年薨。

世子の典楧が嗣ぎ、貪欲にして剛愎、官吏の短所を多く握り、意に従わぬ者は必ずこれを陥れて去らせ、去った後また辱しめ折伏す。御史が行部して北邙山外を過ぎると、典楧はこれを遮り笞打ちす。縉紳の往来は、概ね迂回して他境を取る。郭外を経る者は、府中の人が輒ちその車を追い引き止め、朝せざるを罵り、入朝する者にはまた非礼をもって辱しむ。府の墻が壊れたので、改めて築くことを請うと、民舎を奪い取ってその宮を広げた。郎中陳大壯が邸と隣り合い、その居を求めても与えず、数十人をして大壯の臥起に従わせ、その飲食を奪い、遂に餓死に至らしむ。造らせた宮は、高き台、連なる城、帝闕に擬す。錦衣官校で陝西に赴く者が洛陽を経た時、典楧は忽ち官属を召して詔を迎えさせ、鼓吹を擁して錦衣を入れ、一巻の黄巻を捧げて宮に入る。衆が開読を請うと、「密詔なり」と言い、遂に錦衣を急ぎ去らせる。錦衣は王が厚く遇したと思い、その所以を知らず。その夜大いに楽を張り、暁に至り、府中皆千歳と呼び、詐って「天子特に我を親しむなり」と謂う。河南府城を閉じ、民間の子女七百余を大いに選び、その姝麗なる者九十人を留め、選に中らざる者は金をもって贖わしむ。都御史張永明、御史林潤、給事中丘嶽相継いでその罪状を言上す。再び使を遣わして往き勘案させ、禄を三分の二削り、僭造の宮城を壊させ、民間の女を帰し、群小を執えて有司に付すことを命ず。典楧は詔を奉ぜず。部牒を以てこれを促すと、布政使が牒を持って入見す。典楧曰く、「牒何の為すものぞ、櫺を障うに用いるべし耳」。四十三年二月、撫按官以て聞こゆ。詔して礼部に三法司を会して議せしむ。僉に謂う、「典楧淫暴にして藩臣の礼無く、陛下曲赦すること再四、終に湔改せず、奸回日甚だし。宜しく徽王載埨の故事の如く、高墻に禁錮し、世封を削除すべし」。詔してその議に従い、子の褒㸅とともに開封に安置す。皇子楠は、太祖の第二十六子なり。洪武二十六年に生まれ、一月余りを過ぎて夭逝す。

原文世子典楧嗣,貪而愎,多持官吏短長。不如指,必構之去,既去復折辱之。御史行部過北邙山外,典楧要笞之。縉紳往來,率紆途取他境。經郭外者,府中人輒追挽其車,詈其不朝,入朝者復辱以非禮。府墻壞,請更築,乃奪取民舍以廣其宮。郎中陳大壯與邸鄰,索其居不與,使數十人從大壯臥起,奪其飲食,竟至餒死。所為宮,崇臺連城,擬帝闕。有錦衣官校之陜者,經洛陽,典楧忽召官屬迎詔,鼓吹擁錦衣入,捧一黃卷入宮。眾請開讀,曰:「密詔也。」遂趣錦衣去。錦衣謂王厚待之,不知所以。其夜大張樂,至曙,府中皆呼千歲,詐謂「天子特親我也」。閉河南府城,大選民間子女七百餘,留其姝麗者九十人。不中選者,令以金贖。都御史張永明、御史林潤、給事中丘嶽相繼言其罪狀。再遣使往勘,革祿三之二,令壞所僭造宮城,歸民間女,執羣小付有司。典楧不奉詔。部牒促之,布政使持牒入見。典楧曰:「牒何為者,可用障欞耳!」四十三年二月,撫按官以聞。詔禮部會三法司議。僉謂:「典楧淫暴,無藩臣禮,陛下曲赦再四,終不湔改,奸回日甚。宜如徽王載埨故事,禁錮高墻,削除世封。」詔從其議,與子褒㸅俱安置開封。皇子楠,太祖第二十六子。洪武二十六年生,逾月殤。

靖江王守謙は、太祖の従孫なり。父の文正は、南昌王の子なり。太祖の兵を起こす時、南昌王は前に死に、妻の王氏が文正を携えて太祖に依る。太祖、高后これを撫でて己が子の如くす。長ずるに及び、伝記に渉猟し、勇略に富み、渡江に随い集慶路を取る。已にして功有り、枢密院同僉を授かる。太祖従容として問う、「若は何の官を欲するか」。文正対えて曰く、「叔父大業を成す、何ぞ富貴を患えん。爵賞先ず私親にすれば、何を以て衆を服せしめん」。太祖その言を喜び、ますますこれを愛す。

原文靖江王守謙,太祖從孫。父文正,南昌王子也。當太祖起兵時,南昌王前死,妻王氏攜文正依太祖。太祖、高後撫如己子。比長,涉獵傳記,饒勇略,隨渡江取集慶路。已,有功,授樞密院同僉。太祖從容問:「若欲何官?」文正對曰:「叔父成大業,何患不富貴。爵賞先私親,何以服眾!」太祖喜其言,益愛之。

太祖が呉王たる時、大都督を命じ、中外の諸軍事を節制せしむ。及び江西を再定するに及び、洪都の重鎮、西南を屏翰するは、骨肉の重臣でなければ守れず。乃ち文正に元帥趙得勝等を統率させてその地を鎮守せしめ、儒士郭之章、劉仲服を参謀とす。文正は城を増し池を浚い、山寨に未だ附かざる者を招集し、号令明粛、遠近震慴す。居ること久からず、友諒が舟師六十万を帥いて洪都を囲む。文正は数たびその鋒を摧き、八十有五日堅守し、城壊れて復た完うするもの数十丈。友諒は旁ら吉安、臨江を掠め、その守将を俘え城下に徇らすも、動かされず。太祖親しく兵を帥いて来援す。友諒乃ち解き去り、太祖と彭蠡に相拒す。友諒が糧を都昌に掠むると、文正は方亮を遣わしてその舟を焚かしむ。糧道絶え、友諒遂に敗る。復た何文輝等を遣わして未附の州県を討平せしむ。江西の平定は、文正の功居多し。

原文太祖為吳王,命為大都督,節制中外諸軍事。及再定江西,以洪都重鎮,屏翰西南,非骨肉重臣莫能守。乃命文正統元帥趙得勝等鎮其地,儒士郭之章、劉仲服為參謀。文正增城浚池,招集山寨未附者,號令明肅,遠近震懾。居無何,友諒帥舟師六十萬圍洪都。文正數摧其鋒,堅守八十有五日,城壞復完者數十丈。友諒旁掠吉安、臨江,俘其守將徇城下,不為動。太祖親帥兵來援,友諒乃解去,與太祖相拒於彭蠡。友諒掠糧都昌,文正遣方亮焚其舟。糧道絕,友諒遂敗。復遣何文輝等討平未附州縣。江西之平,文正功居多。

太祖京に還り、廟に告げて飲至し、常遇春、廖永忠及び諸将士に金帛を賜うこと甚だ厚し。文正の前の言、大體を知るを思い、功を錫うるは尚お待つ有るも、文正少なからざる望みを無くす能わず。性素より卞急、ここに至り暴怒し、遂に常度を失い、掾吏の衛可達に任せて部中の子女を奪わしむ。按察使李飲冰その驕侈觖望を奏す。太祖使いを遣わして詰責す。文正懼れ、飲冰ますますその異志有るを言う。太祖即日舟に登り城下に至り、人を遣わしてこれを召す。文正倉卒に出迎す。太祖数えて曰く、「汝は何を為す者ぞ」。遂に載せてともに帰り、その事を竟えんと欲す。高后力めてこれを解きて曰く、「児はただ性剛なるのみ、他無し」。官を免じて桐城に安置し、未だ幾ばくもせずして卒す。飲冰もまた他事を以て誅せらる。

原文太祖還京,告廟飲至,賜常遇春、廖永忠及諸將士金帛甚厚。念文正前言知大體,錫功尚有待也,而文正不能無少望。性素卡急,至是暴怒,遂失常度,任掾吏衛可達奪部中子女。按察使李飲冰奏其驕侈觖望,太祖遣使詰責。文正懼,飲冰益言其有異志。太祖即日登舟至城下,遣人召之。文天上倉卒出迎,太祖數曰:「汝何為者?」遂載與俱歸,欲竟其事。高后力解之曰:「兒特性剛耳,無他也。」免官安置桐城,未幾卒。飲冰亦以他事伏誅。

文正の謫せられたる時、守謙甫わずかに四歳、太祖その頂を撫でて曰く、「児恐るる無かれ、爾が父は訓教に背き、我に憂いを貽す、我終に爾が父の故を以て爾を廃せじ」。これを宮中に育つ。守謙幼名は鉄柱、呉元年に諸子の命名を以て廟に告げ、名を煒と改む。洪武三年に名を守謙と改め、靖江王に封ず。禄は郡王に視し、官属は親王の半ばとし、耆儒の趙壎を長史と為してこれを傅わしむ。長じて後、藩国桂林に之く。桂林には元順帝の潜邸有り、これを王宮と改め、表を上って謝す。太祖その従臣に敕して曰く、「従孫幼くして遠く西南を鎮む、善くこれを導け」。守謙は書を知るも、群小を好むに比し、粤人は怨み咨る。召し還し、戒め諭す。守謙は詩を作りて怨望す。帝怒り、庶人に廃す。鳳陽に居ること七年、その爵を復す。雲南に徙鎮せしめ、その妃の弟徐溥を同じく往かしめ、書を賜い戒飭し、語極めて摯切なり。守謙は暴横故の如し。召し還し、再び鳳陽に居らしむ。復た牧馬を強取するを以て、これを京師に錮す。二十五年卒す。子の賛儀幼し、世子と為すことを命ず。

原文文正之被謫也,守謙甫四歲,太祖撫其頂曰:「兒無恐,爾父倍訓教,貽我憂,我終不以爾父故廢爾。」育之宮中。守謙幼名鐵柱,吳元年以諸子命名告廟,更名煒。洪武三年更名守謙,封靖江王。祿視郡王,官屬親王之半,命耆儒趙壎為長史傅之。既長,之藩桂林。桂林有元順帝潛邸,改為王宮,上表謝。太祖敕其從臣曰:「從孫幼而遠鎮西南,其善導之。」守謙知書,而好比群小,粵人怨咨。召還,戒諭之。守謙作詩怨望。帝怒,廢為庶人。居鳳陽七年,復其爵。徙鎮雲南,使其妃弟徐溥同往,賜書戒飭,語極摯切。守謙暴橫如故。召還,使再居鳳陽。復以強取牧馬,錮之京師。二十五年卒。子贊儀幼,命為世子。

三十年春、晋、燕、周、楚、齊、蜀、湘、代、肅、遼、慶、谷、秦の十三王を省らしむ。湘、楚より入蜀し、陝西を歴り、河南、山西、北平に抵り、東は大寧、遼陽に至り、山東より還り、親親の義を知らしめ、山川の険易に熟し、労苦に習わしむ。賛儀は恭慎好学なり。永楽元年、再び国に之き桂林し、蕭用道を長史と為す。用道は善く輔導し、賛儀もまたこれを敬礼す。六年に薨じ、謚して悼僖と曰う。

原文三十年春遣省晉、燕、周、楚、齊、蜀、湘、代、肅、遼、慶、谷、秦十三王,自湘、楚入蜀,歷陜西,抵河南、山西、北平,東至大寧、遼陽,還自山東,使知親親之義,熟山川險易,習勞苦。贊儀恭慎好學。永樂元年復之國桂林,使蕭用道為長史。用道善輔導,贊儀亦敬禮之。六年薨,謚曰悼僖。

子の莊簡王佐敬嗣ぐ。初め銀印を与え、宣徳中、金塗を用いるに改む。正統初、その弟の奉国将軍佐敏と相い訐奏し、語は大学士楊栄に連なる。帝怒り、その使人を戍らしむ。成化五年薨ず。子の相承先だ卒し、孫の昭和王規裕嗣ぐ。弘治二年薨ず。子の端懿王約麒嗣ぐ、孝謹を以て聞こゆ。正徳十一年薨ず。子の安肅王経扶嗣ぐ、好学にして儉徳有り、嘗て『敬義箴』を作る。嘉靖四年薨ず。子の恭恵王邦苧嗣ぐ、巡按御史徐南金と相い訐奏す。禄米を奪い、その官校を罪す。隆慶六年薨ず。子の康僖王任昌嗣ぐ、万暦十年薨ず。子の温裕王履燾嗣ぐ、二十年薨ず。子無く、従父の憲定王任晟嗣ぐ、三十八年薨ず。子の栄穆王履祜嗣ぎ、薨ず。子の亨嘉嗣ぐ。李自成が京師を陥した後、自ら監国と称して広西にあり、巡撫の瞿式耜に誅せらる。時に唐王聿鍵は福建に在り、捷を奏す。

原文子莊簡王佐敬嗣。初給銀印,宣德中,改用金塗。正統初,與其弟奉國將軍佐敏相訐奏,語連大學士楊榮。帝怒,戍其使人。成化五年薨。子相承先卒,孫昭和王規裕嗣,弘治二年薨。子端懿王約麒嗣,以孝謹聞。正德十一年薨。子安肅王經扶嗣,好學有儉德,嘗為《敬義箴》。嘉靖四年薨。子恭惠王邦苧嗣,與巡按御史徐南金相訐奏。奪祿米,罪其官校。隆慶六年薨。子康僖王任昌嗣,萬歷十年薨。子溫裕王履燾嗣,二十年薨。無子,從父憲定王任晟嗣,三十八年薨。子榮穆王履祜嗣,薨。子亨嘉嗣。李自成陷京師後,自稱監國於廣西,為巡撫瞿式耜所誅。時唐王聿鍵在福建,奏捷焉。

興宗諸子

原文興宗諸子

興宗五子有り。後常氏は虞懐王雄英、呉王允熥を生む。呂后は恵帝、衡王允熞、徐王允𤐤を生む。

原文興宗五子。後常氏生虞懷王雄英、吳王允熥。呂後生惠帝、衡王允熞、徐王允𤐤。

虞懐王雄英は、興宗の長子、太祖の嫡長孫なり。洪武十五年五月薨ず。年八歳。追加して封謚す。

原文虞懷王雄英,興宗長子,太祖嫡長孫也。洪武十五年五月薨。年八歲。追加封謚。

呉王允熥は、興宗の第三子なり。建文元年に杭州に封国す、未だ之藩せず。成祖即位し、降して広沢王と為し、漳州に居らしむ。未だ幾ばくもせず、召し還して京師に至り、廃して庶人と為し、鳳陽に錮す。永楽十五年卒す。

原文吳王允熥,興宗第三子。建文元年封國杭州,未之藩。成祖即位,降為廣澤王,居漳州。未幾,召還京,廢為庶人,錮鳳陽。永樂十五年卒。

衡王允熞は、興宗の第四子、建文元年に封ぜられる。成祖が降格して懐恩王とし、建昌に居住させる。允熥とともに召還され、鳳陽に幽閉、先後に卒す。

原文衡王允熞,興宗第四子,建文元年封。成祖降為懷恩王,居建昌。與允熥俱召還,錮鳳陽,先後卒。

徐王允𤐤は、興宗の第五子、建文元年に封ぜられる。成祖が降格して敷恵王とし、母の呂太后に随い懿文陵に居住す。永楽二年に詔を下し甌寧王に改め、太子の祭祀を奉ぜしむ。四年十二月、邸中に火災あり、暴薨す。諡して哀簡と曰う。

原文徐王允𤐤,興宗第五子,建文元年封。成祖降為敷惠王,隨母呂太后居懿文陵。永樂二年下詔改甌寧王,奉太子祀。四年十二月,邸中火,暴薨。謚曰哀簡。

恵帝の諸子

原文惠帝諸子

恵帝に二子あり。ともに馬后の生む。太子文奎。建文元年に皇太子に立てらる。燕師入るや、七歳なり、その行方知れず。

原文惠帝二子。俱馬後生。太子文奎。建文元年立為皇太子。燕師入,七歲矣,莫知所終。

少子文圭。二歳の時、成祖入り、中都の広安宮に幽閉し、建庶人と号す。英宗復辟し、庶人が罪なくして久しく繋がるるを憐れみ、釈放せんと欲す。左右或いは以て不可と為す。帝曰く、「天命ある者は、任せて自ら為さしむべし。」と。大学士李賢賛して曰く、「これ堯・舜の心なり。」と。遂に太后に請い、内臣牛玉を命じて出ださしむ。鳳陽に居住するを聴し、婚娶出入自便ならしむ。閽者二十人、婢妾十余人を与え、使令を給す。文圭は孩提の時に幽閉され、この時に至りて年五十七なり。未だ幾ばくもせずして卒す。

原文少子文圭。年二歲,成祖入,幽之中都廣安宮,號為建庶人。英宗復辟,憐庶人無罪久系,欲釋之,左右或以為不可。帝曰:「有天命者,任自為之。」大學士李賢贊曰:「此堯、舜之心也。」遂請於太后,命內臣牛玉往出之。聽居鳳陽,婚娶出入使自便。與閽者二十人,婢妾十餘人,給使令。文圭孩提被幽,至是年五十七矣。未幾卒。

成祖の諸子

原文成祖諸子

成祖に四子あり。仁宗・漢王高煦・趙王高燧はともに文皇后の生む。高爔は生母詳らかならず。

原文成祖四子。仁宗、漢王高煦、趙王高燧俱文皇后生。高爔未詳所生母。

漢王

原文漢王

漢王高煦は、成祖の第二子。性兇悍なり。洪武の時、諸王子を召して京師に学ばしむ。高煦は学ぶことを肯ぜず、言動軽佻にして、太祖に悪まれる。太祖崩ずるに及び、成祖は仁宗及び高煦を遣わして京師に入り臨ましむ。舅の徐輝祖、その無頼を以て、密かにこれを戒む。聴かず、輝祖の良馬を盗み、径ちに江を渡り馳せ帰る。途中、輒ち民吏を殺し、涿州に至り、また駅丞を撃殺す。ここにおいて朝臣挙げて以て燕を責む。成祖兵を起こし、仁宗は居守り、高煦は従い、嘗て軍鋒を為す。白溝河の戦い、成祖幾ばくも瞿能に及ばれんとす。高煦精騎数千を帥い、直前に進み決戦し、能父子を陣に斬る。成祖の東昌の敗れに及び、張玉戦死し、成祖只身走る。時に高煦師を引き至り、南軍を撃退す。徐輝祖、浦子口にて燕兵を破る。高煦蕃騎を引き来る。成祖大いに喜び曰く、「吾力疲れたり、児よ鼓勇して再戦すべし。」と。高煦蕃騎を麾いて力戦し、南軍遂に退く。成祖屡々危うきに瀕しながら敗を転じて功と為すは、高煦の力多し。成祖以て己に類すと為し、高煦もまたこれを以て自ら負い、功を恃み驕恣にして、不法多し。

原文漢王高煦,成祖第二子。性兇悍。洪武時,召諸王子學於京師。高煦不肯學,言動輕佻,為太祖所惡。及太祖崩,成祖遣仁宗及高煦入臨京師。舅徐輝祖以其無賴,密戒之。不聽,盜輝祖善馬,徑渡江馳歸。途中輒殺民吏,至涿州,又擊殺驛丞,於是朝臣舉以責燕。成祖起兵,仁宗居守,高煦從,嘗為軍鋒。白溝河之戰,成祖幾為瞿能所及,高煦帥精騎數千,直前決戰,斬能父子於陣。及成祖東昌之敗,張玉戰死,成祖只身走,適高煦引師至,擊退南軍。徐輝祖敗燕兵於浦子口,高煦引蕃騎來。成祖大喜,曰:「吾力疲矣,兒當鼓勇再戰。」高煦麾蕃騎力戰,南軍遂卻。成祖屢瀕於危而轉敗為功者,高煦力為多。成祖以為類己,高煦亦以此自負,恃功驕恣,多不法。

成祖即位し、兵を将いて開平に往き辺備せしむ。時に儲君を建つるを議す。淇国公丘福・駙馬王寧、高煦に善くし、時々高煦の功高きを称え、幾くばくも嫡を奪わんとす。成祖遂に元子の仁賢なるを以て、且つ太祖の立てし所なるを以て、而して高煦また過失多きを以て、果たさず。永楽二年、仁宗太子に立てられ、高煦を漢王に封じ、国を雲南とす。高煦曰く、「我何の罪ぞ!万里に斥けらる。」と。行くことを肯ぜず。成祖に従い北京を巡り、力めて其の子とともに南京に帰ることを請う。成祖已むを得ず、これを聴す。天策衛を請いて護衛と為し、輒ち唐太宗に自ら比す。已にして、また隙に乗り両護衛を増やすことを請い、為す所益々恣にす。成祖嘗て仁宗とともに孝陵に謁せしむ。仁宗体肥重く、且つ足疾あり、両中使これを掖きて行かしむ。恒に足を失す。高煦後より言いて曰く、「前人蹉跌すれば、後人警めを知る。」と。時に宣宗皇太孫たり、後ろに応声して曰く、「更に後人警めを知る者あらん。」と。高煦顧みて色を失う。高煦長さ七尺余、軽趫にして騎射に善く、両腋に龍鱗の若きもの数片あり。既に其の雄武を負い、又毎に北征に従い、成祖の左右に在り、時に東宮の事を媒孽し、解縉を讒して死に至らしめ、黄淮等皆獄に繋がる。

原文成祖即位,命將兵往開平備邊。時議建儲,淇國公丘福、駙馬王寧善高煦,時時稱高煦功高,幾奪嫡。成祖卒以元子仁賢,且太祖所立,而高煦又多過失,不果。永樂二年,仁宗立為太子,封高煦漢王,國雲南。高煦曰:「我何罪!斥萬里。」不肯行。從成祖巡北京,力請並其子歸南京。成祖不得已,聽之。請得天策衛為護衛,輒以唐太宗自比。己,復乘間請益兩護衛,所為益恣。成祖嘗命同仁宗謁孝陵。仁宗體肥重,且足疾,兩中使掖之行,恒失足。高煦從後言曰:「前人蹉跌,後人知警。」時宣宗為皇太孫,在後應聲曰:「更有後人知警也。」高煦回顧失色。高煦長七尺余,輕趫善騎射,兩腋若龍鱗者數片。既負其雄武,又每從北征,在成祖左右,時媒孽東宮事,譖解縉至死,黃淮等皆繫獄。

十三年五月、青州に改封す。また行くことを欲せず。成祖始めてこれを疑い、勅を賜いて曰く、「既に藩封を受け、豈に常に京邸に居らんや!前に雲南遠く行くを憚り、今青州に封ずるも、また故に托して留まり侍らんと欲す。前後実意に非ざるに殆し。茲に命ずる更に辞すべからず。」と。然れども高煦遷延して自如す。私に各衛の健士を選び、又兵三千人を募り、兵部の籍に隷せず、劫掠せしむ。兵馬指揮徐野驢これを擒えて治む。高煦怒り、手に鉄瓜を以て野驢を撾殺す。衆敢えて言う者なし。遂に乗輿の器物を僭用す。成祖これを聞きて怒る。十四年十月、南京に還り、其の不法数十事を尽く得て、切にこれを責め、冠服を褫ぎ、西華門内に囚繫し、将に庶人に廃せんとす。仁宗涕泣して力救い、乃ち両護衛を削り、其の左右の狎匿する諸人を誅す。明年三月、楽安州に徙封し、即日の行を趣す。高煦楽安に至り、怨望し、異謀益々急なり。仁宗数えて書を以て戒むるも、悛わず。

原文十三年五月改封青州,又不欲行。成祖始疑之,賜敕曰:「既受藩封,豈可常居京邸!前以雲南遠憚行,今封青州,又托故欲留侍,前後殆非實意,茲命更不可辭。」然高煦遷延自如。私選各衛健士,又募兵三千人,不隸籍兵部,縱使劫掠。兵馬指揮徐野驢擒治之。高煦怒,手鐵瓜撾殺野驢,眾莫敢言。遂僭用乘輿器物。成祖聞之怒。十四年十月還南京,盡得其不法數十事,切責之,褫冠服,囚系西華門內,將廢為庶人。仁宗涕泣力救,乃削兩護衛,誅其左右狎匿諸人。明年三月徙封樂安州,趣即日行。高煦至樂安,怨望,異謀益急。仁宗數以書戒,不悛。

成祖北征して晏駕す。高煦の子瞻圻、北京に在り、朝廷の事を覘い馳せて報ずること、一昼夜に六七行。高煦もまた日々人を遣わし潜かに京師を伺い、変有るを幸いとす。仁宗これを知り、顧みて益々厚く遇す。書を遺わして召し至らしめ、歳禄を増し、賜賚万計に及び、仍って藩に帰るを命ず。其の長子を世子に封じ、余は皆郡王とす。先に、瞻圻は父が其の母を殺すを怨み、屡々父の過悪を発す。成祖曰く、「爾父子何ぞ忍びんや!」と。ここに至り高煦朝に入り、瞻圻の前後の中朝の事を覘い報ずることを悉く上す。仁宗瞻圻を召して示して曰く、「汝父子兄弟の間に処り、讒構ここに至る。稚子は誅するに足らず。」と。鳳陽の皇陵を守らしむ。

原文成祖北征晏駕。高煦子瞻圻在北京,覘朝廷事馳報,一晝夜六七行。高煦亦日遣人潛伺京師,幸有變。仁宗知之,顧益厚遇。遺書召至,增歲祿,賜賚萬計,仍命歸藩。封其長子為世子,餘皆郡王。先是,瞻圻怨父殺其母,屢發父過惡。成祖曰:「爾父子何忍也!」至是高煦入朝,悉上瞻圻前後覘報中朝事。仁宗召示瞻圻曰:「汝處父子兄弟間,讒構至此,稚子不足誅。」遣守鳳陽皇陵。

未だ幾ばくもせず、仁宗崩ず。宣宗南京より喪に奔る。高煦謀りて伏兵をして路に邀えんとす。倉卒にして果たさず。帝即位するに及び、高煦及び趙王に賜うこと他府より特厚し。高煦日に請い有り、並びに利国安民の四事を陳ぶ。帝命じて有司施行せしめ、仍って書を復してこれを謝す。因って群臣に語りて曰く、「皇祖嘗て皇考に諭し、叔に異志有り、備うべしと謂えり。然れども皇考これを待つこと極めて厚し。今言う所、果たして誠より出ずれば、則ち是れ旧心已に革まり、従わざるべからず。」と。凡そ求請有るは、皆曲げて其の意に徇う。高煦益々自ら肆にす。

原文未幾,仁宗崩,宣宗自南京奔喪。高煦謀伏兵邀於路,倉卒不果。及帝即位,賜高煦及趙王視他府特厚。高煦日有請,並陳利國安民四事。帝命有司施行,仍復書謝之。因語群臣曰:「皇祖嘗諭皇考,謂叔有異志,宜備之。然皇考待之極厚。如今所言,果出於誠,則是舊心已革,可不順從。」凡有求請,皆曲徇其意。高煦益自肆。

宣徳元年八月、遂に反す。其の親信枚青等を遣わし潜かに京師に至らしめ、旧功臣を約して内応と為す。英国公張輔これを執りて以て聞す。時に高煦已に山東都指揮靳栄等と約し、又弓刀旂幟を衛所に散じ、傍郡県の畜馬を尽く奪う。五軍を立てる。指揮王斌前軍を領し、韋達左軍、千戸盛堅右軍、知州朱恒後軍、諸子各々一軍を監し、高煦自ら中軍を将う。世子瞻坦居守り、指揮韋弘・韋興、千戸王玉・李智四哨を領す。部署已に定まり、偽りに王斌・朱恒等に太師・都督・尚書等の官を授く。御史李濬、父喪に因み家居す。高煦これを招くも従わず、姓名を変え、間道より京師に詣りて変を上る。帝猶兵を加うるに忍びず、中官侯泰を遣わし高煦に書を賜う。泰至る。高煦盛んに兵をして泰に見えしめ、南面して坐し、大言して曰く、「永楽中讒を信じ、我が護衛を削り、我を楽安に徙す。仁宗徒に金帛を以て我を餌とす。我豈に能く郁郁として此れに居らんや!汝帰り報ぜよ、急ぎ奸臣夏原吉等を縛り来たれ。徐ろに我が欲する所を議せん。」と。泰懼れ、唯唯するのみ。還るに及び、帝漢王何を言い、兵を治むること何如と問う。泰皆敢えて実を以て対せず。

原文宣德元年八月,遂反。遣其親信枚青等潛至京師,約舊功臣為內應。英國公張輔執之以聞。時高煦已約山東都指揮靳榮等,又散弓刀旂幟於衛所,盡奪傍郡縣畜馬。立五軍:指揮王斌領前軍,韋達左軍,千戶盛堅右軍,知州朱恒後軍,諸子各監一軍,高煦自將中軍。世子瞻坦居守,指揮韋弘、韋興,千戶王玉、李智領四哨。部署已定,偽授王斌、朱恒等太師、都督、尚書等官。御史李濬以父喪家居,高煦招之,不從,變姓名,間道詣京師上變。帝猶不忍加兵,遣中官侯泰賜高煦書。泰至,高煦盛兵見泰,南面坐,大言曰:「永樂中信讒,削我護衛,徙我樂安。仁宗徒以金帛餌我,我豈能郁郁居此!汝歸報,急縛奸臣夏原吉等來,徐議我所欲。」泰懼,唯唯而已。比還,帝問漢王何言,治兵何如,泰皆不敢以實對。

この月、高煦は百戸陳剛を遣わして上疏を進め、さらに書を公侯大臣に与え、多くを指弾した。帝は嘆いて言った、「漢王は果たして反逆したか。」そこで陽武侯薛祿に兵を率いて討伐に向かわせることを議した。大学士楊栄らは帝に親征を勧めた。帝はこれを是とした。張輔が奏上して言った、「高煦はもとより臆病です、どうか臣に兵二万を貸し与え、捕らえて闕下に献上させてください。」帝は言った、「卿は確かに賊を捕らえるに足るが、朕が即位したばかりで、小人の中には二心を抱く者もいる。朕が親征しなければ、反逆の徒を安んじることはできまい。」ここにおいて車駕は京師を発ち、楊村を過ぎた。馬上で従臣を顧みて言った、「高煦の計略はどう出ると思うか。」ある者は答えて言った、「必ず先ず済南を取って巣窟とするでしょう。」ある者は答えて言った、「彼はかつて南京を離れようとせず、今は必ず兵を引き連れて南下するでしょう。」帝は言った、「そうではない。済南は近いが、攻め落とすのは容易でない。大軍が来ると聞けば、攻撃する暇もない。護衛軍の家族は楽安にいるから、必ず内を顧みて、まっすぐ南京に向かおうとはしない。高煦は外見は誇大で詐りがあるが、内実は臆病であり、事に臨んで狐疑し決断できない。今敢えて反逆するのは、朕が年少で新たに立ち、衆心がまだ附いていないのを軽んじ、朕が親征できないと思っているからだ。今朕が行くと聞けば、すでに胆を落とし、敢えて出戦できようか。到着すればすぐに捕らえられるであろう。」高煦は初め薛禄らが兵を率いると聞き、腕をまくって大喜びし、容易に対処できると思った。親征と聞いて、初めて恐れた。時に楽安から帰順して来る者がいた。帝は厚く賞を与え、その衆に諭すよう命じて帰らせた。なお書を高煦に送って言った、「張敖が国を失ったのは、貫高に始まり、淮南王が誅殺されたのは、伍被によって成った。今六師が国境に迫っている。王がすぐに謀議ぼうぎを主導した者を出せば、朕は王と過ちを除き、恩礼は初めの如くとする。そうでなければ、一戦で捕らえられ、あるいは王を奇貨として縛り上げて献上されることになれば、後悔しても及ばない。」前鋒が楽安に至ると、高煦は明朝に出戦することを約した。帝は大軍に朝食を早く済ませて兼行するよう命じ、楽安城北に駐蹕し、その四門を包囲した。賊は城に乗って守り、王師は神機銃箭を発射し、声は雷の如く震えた。諸将はすぐに攻城を請うた。帝は許さなかった。再び高煦に諭す勅を下したが、いずれも答えなかった。城中の多くは高煦を捕らえて献上しようとする者がおり、高煦は大いに恐れた。そこで密かに人を行幄に遣わし、今夕妻子と別れを告げる暇を願い、すぐに出て罪に帰することを願った。帝はこれを許した。この夜、高煦は兵器及び逆謀に通じた書を全て焼いた。明日、帝は楽安城南に駐蹕地を移した。高煦が城を出ようとすると、王斌らが力強く止めて言った、「寧ろ一戦して死に、人に捕らえられることなかれ。」高煦は王斌らを欺いて再び宮中に入り、遂に密かに間道から出て帝に謁見した。群臣は典刑に正すことを請うた。帝は允さなかった。弾劾の上奏文を示すと、高煦は頓首して言った、「臣の罪は万死に値します、ただ陛下の命に従います。」帝は高煦に書を書かせて諸子を召し寄せ、残党は悉く捕らえられた。城中の罪を赦し、脅従者は問わなかった。薛禄及び尚書張本に楽安を鎮撫させ、武定州と改称し、ここに班師した。高煦父子を廃して庶人とし、西安門内に室を築いて監禁した。王斌らは皆誅殺され、長史李默のみはかつて諫めたことにより死を免れ、口北に謫されて民とされた。天津、青州、滄州、山西の諸都督指揮が城を挙げて応じようと約した者は、事が発覚して相次いで誅殺され、凡そ六百四十余人、その故に縦容し及び蔵匿した者は死罪に坐し辺境に戍らせた者一千五百余人、辺氓に編入した者七百二十人であった。帝は『東征記』を撰して群臣に示した。高煦及び諸子は相次いで皆死んだ。

原文是月,高煦遣百戶陳剛進疏,更為書與公侯大臣,多所指斥。帝嘆曰:「漢王果反。」乃議遣陽武侯薛祿將兵往討。大學士楊榮等勸帝親征。帝是之。張輔奏曰:「高煦素懦,願假臣兵二萬,擒獻闕下。」帝曰:「卿誠足擒賊,顧朕初即位,小人或懷二心,不親行,不足安反側。」於是車駕發京師,過楊村,馬上顧從臣曰:「度高煦計安出?」或對曰:「必先取濟南為巢窟。」或對曰:「彼曩不肯離南京,今必引兵南下。」帝曰:「不然。濟南雖近,未易攻,聞大軍至,亦不暇攻。護衛軍家樂安,必內顧,不肯徑趨南京。高煦外誇詐,內實怯,臨事狐疑不能斷。今敢反者,輕朕年少新立,眾心未附,不能親征耳。今聞朕行,已膽落,敢出戰乎?至即擒矣。」高煦初聞祿等將兵,攘臂大喜,以為易與。及聞親征,始懼。時有從樂安來歸者,帝厚賞之,令還諭其眾。仍遺書高煦曰:「張敖失國,始於貫高;淮南被誅,成於伍被。今六師壓境,王即出倡謀者,朕與王除過,恩禮如初。不然,一戰成擒,或以王為奇貨,縛以來獻,悔無及矣。」前鋒至樂安,高煦約詰旦出戰。帝令大軍蓐食兼行,駐蹕樂安城北,壁其四門。賊乘城守,王師發神機銃箭,聲震如雷。諸將請即攻城。帝不許。再敕諭高煦,皆不答。城中人多欲執獻高煦者,高煦大懼。乃密遣人詣行幄,願假今夕訣妻子,即出歸罪。帝許之。是夜,高煦盡焚兵器及通逆謀書。明日,帝移蹕樂安城南。高煦將出城,王斌等力止曰:「寧一戰死,無為人擒。」高煦紿斌等復入宮,遂潛從間道出見帝。群臣請正典刑。不允。以劾章示之,高煦頓首言:「臣罪萬萬死,惟陛下命。」帝令高煦為書召諸子,余黨悉就擒。赦城中罪,脅從者不問。命薛祿及尚書張本鎮撫樂安,改曰武定州,遂班師。廢高煦父子為庶人,築室西安門內錮之。王斌等皆伏誅,惟長史李默以嘗諫免死,謫口北為民。天津、青州、滄州、山西諸都督指揮約舉城應者,事覺相繼誅,凡六百四十餘人,其故縱與藏匿坐死戍邊者一千五百餘人,編邊氓者七百二十人。帝制《東征記》以示群臣。高煦及諸子相繼皆死。

趙王

原文趙王

趙簡王高燧は、成祖の第三子である。永楽二年に封ぜられた。まもなく北京に居住するよう命じられ、詔して有司に、政務は皆王に啓上した後に施行するよう命じた。歳時に京師に朝し、辞して帰るときは、太子は必ず江東駅まで送った。高燧は寵愛を恃み、多く不法を行い、また漢王高煦と謀って嫡子の地位を奪おうとし、しばしば太子を讒言した。ここにおいて太子の宮僚は多く罪を得た。七年、帝はその不法の事を聞き、大いに怒り、その長史顧晟を誅し、高燧の冠服を剥奪したが、太子が力説して解いたため、免れることができた。国子司業趙亨道、董子庄を選んで長史とし輔導させたところ、高燧は少し行いを改めた。

原文趙簡王高燧,成祖第三子。永樂二年封。尋命居北京,詔有司,政務皆啟王後行。歲時朝京師,辭歸,太子輒送之江東驛。高燧恃寵,多行不法,又與漢王高煦謀奪嫡,時時譖太子。於是太子宮寮多得罪。七年,帝聞其不法事,大怒,誅其長史顧晟,褫高燧冠服,以太子力解,得免。擇國子司業趙亨道、董子莊為長史輔導之,高燧稍改行。

二十一年五月、帝は御体が優れなかった。護衛指揮孟賢らが欽天監官王射成及び内侍楊慶の養子と結託して偽詔を作り、帝に毒を進めることを謀り、帝が晏駕した後に、詔を中から下し、太子を廃して趙王を立てようとした。総旗王瑜の姻戚である高以正という者が、孟賢らの謀略を画策し、謀が定まると王瑜に告げた。王瑜が変事を上奏した。帝は言った、「どうしてこのようなことがあろうか。」直ちに孟賢を捕らえ、偽詔を得た。孟賢らは皆誅殺され、王瑜を遼海衛千戸に昇進させた。帝は高燧を顧みて言った、「お前がやったのか。」高燧は大いに恐れ、言葉が出なかった。太子が力強くこれを解いて言った、「これは下々の者の仕業で、高燧は必ずや知らないことです。」これ以降ますます行いを慎んだ。

原文二十一年五月,帝不豫。護衛指揮孟賢等結欽天監官王射成及內侍楊慶養子造偽詔,謀進毒於帝,俟晏駕,詔從中下,廢太子,立趙王。總旗王瑜姻家高以正者,為賢等畫謀,謀定告瑜。瑜上變。帝曰:「豈應有此!」立捕賢,得為偽詔。賢等皆伏誅,陛瑜遼海衛千戶。帝顧高燧曰:「爾為之耶?」高燧大懼,不能言。太子力為之解曰:「此下人所為,高燧必不與知。」自是益斂戢。

仁宗が即位すると、漢・趙二王の歳禄を二万石加増した。翌年、彰徳に之国し、常山左右二護衛を辞退した。宣宗が即位すると、田園八十頃を賜った。帝が高煦を捕らえて帰還し、単橋に至ると、尚書陳山が迎駕し、言った、「趙王は高煦と共に久しく逆謀を巡らしております。兵を彰徳に移し、趙王を捕らえるべきです。そうでなければ趙王は不安を抱き、他日再び聖慮を煩わせましょう。」帝は決断しなかった。時にただ楊士奇のみが不可であると考えた。陳山はさらに尚書蹇義、夏原吉を誘って共に請うた。帝は言った、「先帝は二人の叔父を非常に友愛された。漢王は自ら天に絶ったので、朕は赦すことができない。趙王には反逆の形跡が現れていない。朕は先帝に背くことを忍びない。」高煦が京に至ると、かつて人を遣わして趙王と通謀したとも言った。戸部主事李儀がその護衛を削ることを請い、尚書張本もまたそのように言った。帝は聞き入れなかった。その後言う者がますます多くなった。翌年、帝はその言葉及び群臣の上奏文を駙馬都尉広平侯袁容に持たせて高燧に示させた。高燧は大いに恐れ、ここにおいて常山中護衛及び群牧所、儀衛司の官校を返還することを請うた。帝はその返還する護衛を収めるよう命じ、儀衛司は与えた。宣徳六年に薨去した。

原文仁宗即位,加漢、趙二王歲祿二萬石。明年,之國彰德,辭常山左右二護衛。宣宗即位,賜田園八十頃。帝擒高煦歸,至單橋,尚書陳山迎駕,言曰:「趙王與高煦共謀逆久矣,宜移兵彰德,擒趙王。否則趙王反側不自安,異日復勞聖慮。」帝未決。時惟楊士奇以為不可。山復邀尚書蹇義、夏原吉共請。帝曰:「先帝友愛二叔甚。漢王自絕於天,朕不敢赦。趙王反形未著,朕不忍負先帝也。」及高煦至京,亦言嘗遣人與趙通謀。戶部主事李儀請削其護衛,尚書張本亦以為言。帝不聽。既而言者益眾。明年,帝以其詞及群臣章遣駙馬都尉廣平侯袁容持示高燧。高燧大懼,乃請還常山中護衛及群牧所、儀衛司官校。帝命收其所還護衛,而與儀衛司。宣德六年薨。

子の恵王蟾塙が嗣ぎ、景泰五年に薨去した。子の悼王祈鈭が嗣ぎ、天順四年に薨去した。子の靖王見灂が嗣いだ。恵王、悼王は皆かなり過失があったが、見灂に至っては悪行が特に甚だしく、屡々人を賊害して殺し、またかつて酔ってその叔父を殺そうとした。成化十二年、事が聞こえ、詔して禄米の三分の二を奪い、冠服を剥ぎ、民巾を戴かせ、書を読み礼を習わせた。その後二年、見灂の母妃李氏がそのために請うたので、冠服を元通りにすることができた。見灂は結局改めることができなかった。幼子の祐枳を愛し、遂に長子の祐棌を大逆の罪で誣告し、再び詔によって譴責された。弘治十五年に薨去した。子の荘王祐棌が嗣ぎ、正徳十三年に薨去した。

原文子惠王蟾塙嗣,景泰五年薨。子悼王祈钅茲嗣,天順四年薨。子靖王見灂嗣。惠王、悼王皆頗有過失,至見灂惡尤甚,屢賊殺人,又嘗乘醉欲殺其叔父。成化十二年,事聞,詔奪祿米三之二,去冠服,戴民巾,讀書習禮。其後二年,見灂母妃李氏為之請,得冠服如故。見灂卒不能改。愛幼子祐枳,遂誣長子祐棌以大逆,復被詔誚讓。弘治十五年薨。子莊王祐棌嗣,正德十三年薨。

子の康王厚煜が嗣ぎ、祖母の楊妃に事えて孝行をもって聞こえた。嘉靖七年六月、璽書を賜って褒めた。翌年の冬、境内に大飢饉があった。厚煜は上疏し、禄一千石を辞退して賑済を助けたいと請うた。帝は王が国を憂うることを嘉し、有司に命じて粟を発させ、辞退を許さなかった。帝が南巡したとき、厚煜は遠く出迎え、命じて禄三百石を増やした。厚煜の性質は温和で篤厚、一つの楼を構えて「思訓」と名付け、嘗て独り居て読書し、文藻は豊かで麗しかった。宗人の輔国将軍祐椋らが数度法を犯し、有司と難題を為した。厚煜は祐椋を庇った。祐椋はついに罪を得、ともに責め譲られた。その後、有司はますます事を以て諸宗を裁き抑えることに務めた。洛川王翊鏴の奴僕が通判田時雨の隷僕と瓜を争って殴り合い、時雨は王の奴僕を捕らえた。厚煜は和解を請うたが得られず、ついに奴僕を軍に充てることに論じられた。間もなく、宗室数十人が禄を要求し、時雨は宗室が府官を殴打したとして上官に報告した。知府傅汝礪は各府の人々をことごとく捕らえた。厚煜はこれによって憤り恨み、ついに自縊して死んだ。三十九年十月のことである。厚煜の子成臯王載垸が疏を朝廷に聞かせ、法司に下して按問させた。時雨は河南の市で斬られ、汝礪は極辺に戍らされた。厚煜の子載培および載培の子翊錙は皆先に卒した。翊錙の子穆王常清が嗣ぎ、善行をもって旌表された。万暦四十二年、薨じた。世子由松は先に卒し、弟の寿光王由桂の子慈が嗣ぎ、薨じた。子がなく、穆王の弟常㳛が嗣いだ。崇禎十七年、彰徳が陥落し、捕らえられた。

原文子康王厚煜嗣,事祖母楊妃以孝聞。嘉靖七年六月,璽書褒予。明年冬,境內大饑。厚煜上疏,請辭祿一千石以佐振。帝嘉王憂國,詔有司發粟,不允所辭。及帝南巡,厚煜遠出迎,命益祿三百石。厚煜性和厚,構一樓名「思訓」,嘗獨居讀書,文藻贍麗。宗人輔國將軍祐椋等數犯法,與有司為難。厚煜庇祐椋。祐椋卒得罪,並見責讓。其後有司益務以事裁抑諸宗。洛川王翊鏴奴與通判田時雨之隸爭瓜而毆,時雨捕王奴。厚煜請解不得,竟論奴充軍。未幾,宗室數十人索祿,時雨以宗室毆府官,白於上官。知府傅汝礪盡捕各府人。厚煜由是忿恚,竟自縊死。三十九年十月也。厚煜子成臯王載垸疏聞於朝,下法司按問。時雨斬河南市,汝礪戍極邊。厚煜子載培及載培子翊錙皆前卒。翊錙子穆王常清嗣,以善行見旌。萬歷四十二年薨。世子由松前卒,弟壽光王由桂子慈嗣,薨。無子,穆王弟常㳛嗣。崇禎十七年,彰德陷,被執。