明史

列傳第五 諸王二

蜀獻王椿は、太祖の第十一子にして、洪武十一年に封ぜられる。十八年、鳳陽に駐留を命ぜられる。二十三年、成都に就藩す。性質孝友慈祥にして、典籍を博く綜べ、容止都雅なり。帝嘗て「蜀秀才」と呼ぶ。鳳陽に在りし時、西堂を開き、李叔荊・蘇伯衡を延いて文史を商榷す。蜀に至るや、方孝孺を聘して世子傅と為し、其の居を「正學」と表し、以て蜀人を風化す。郡学に詣り講じ、諸博士の貧しきを知り、禄を分ちて之に餼(食料)を与え、月一石とす。後ち定制と為る。安車を造り長史陳南賓に賜う。義烏の王紳の賢なるを聞き、聘して至らしめ、客礼を以て待つ。紳の父禕は雲南にて死す。往きて遺骼を求め、資給す。

時に諸王皆辺備を整え士卒を練る。椿独り礼教を以て西陲を守る。番人寇し入り、黒崖関を焼く。椿朝に請い、都指揮瞿能を遣わし涼国公藍玉に随い大渡河を出でて邀撃せしむ。是より番人讋伏す。前代の両川の乱は、皆内地の不逞の者が鉤致して患いと為る。有司私に蛮中の物を市い、或いは需索して争端を啓く。椿、繒錦香扇の属を請い、王邸より定めて常貢と為し、此の外悉く宣索を免ぜしむ。蜀人は此に由り安業し、日に益々殷富す。川中二百年兵革を被らず、椿の力なり。

成祖即位し、来朝す。賜予諸藩に倍す。谷王橞は、椿の同母弟なり、不軌を図る。椿の子悦燇、椿に於いて咎を得、橞の所に走る。橞、故建文君と称して衆を詭す。永楽十四年、椿其の罪を暴く。帝報いて曰く、「王此の挙は、周公が王室を安んずるの心なり」。入朝し、金銀繒綵鉅万を賚う。二十一年薨ず。

世子悦熑先だ卒す。孫靖王友堉嗣ぐ。初め、華陽王悦爠嫡を奪わんと謀る。椿之を覚り、会う他過有り、之を杖つくこと百、将に朝に械せんとす。友堉力を為して請い、釈るるを得。椿の薨ずるに、友堉方に京師に在り。悦爠窃かに王帑す。友堉帰りて問わず。悦爠更に誣奏して友堉怨誹すとす。成祖召し入れて之を訊く。会いて崩ず。仁宗其の誣なるを察し、藩に帰るを命ず。悦爠を召す。悦爠猶お執りて奏す。仁宗其の章を地に抵し、之を武岡に遷し、復た澧州に遷す。宣徳五年、総兵官陳懷奏す、都司私かに蜀邸に砲を遺り、以て夜を警む、制に非ずと。詔して都司の首領官を逮う。明年、二護衛を献還す。之に従う。是の年薨ず。妃李・侍姫黄皆自経して以て殉ず。子無し。弟僖王友土党、羅江王より嗣ぐ。九年薨ず。献王第五子和王悦𤉎、保寧王より嗣ぐ。天順五年薨ず。継妃徐氏、年二十六、食わずして死す。諡して静節と曰う。子定王友垓嗣ぐ。七年薨ず。子懷王申鈘嗣ぐ。成化七年薨ず。弟惠王申鑿嗣ぐ。弘治六年薨ず。子昭王賓瀚嗣ぐ。正徳三年薨ず。子成王讓栩嗣ぐ。

椿より以下四世七王、幾くも百五十年、皆検飭して礼法を守り、学を好み文を能くす。孝宗恒に蜀に賢王多しと称し、献王の家範を挙げて諸宗の法と為す。讓栩尤も賢明にして、儒雅を喜び、声伎に邇まず、義学を創し、水利を修め、災を振い荒を卹う。嘉靖十五年、巡撫都御史呉山・巡按御史金粲以て聞こゆ。勅を賜い嘉奨し、坊表に署して「忠孝賢良」と曰う。二十年太廟を建つ。黄金六十斤、白金六百斤を献ず。玉帯幣帛を以て酬う。二十六年薨ず。子康王承爚嗣ぐ。三十七年薨ず。子端王宣圻嗣ぐ。万暦四十年薨ず。子恭王奉銓嗣ぐ。四十三年薨ず。子至澍嗣ぐ。崇禎末、京師陥つ。蜀尚だ恙無し。未幾、張献忠成都を陥す。合宗害を被る。至澍妃妾を率い井に投ず。

湘獻王柏

湘獻王柏は、太祖の第十二子なり。洪武十一年封ぜられる。十八年荊州に就藩す。性質学を嗜み、読書毎に夜分に至る。景元閣を開き、俊乂を招納し、日に校讐を事とし、志経国に在り。兵を談ずるを喜び、膂力人に過ぎ、弓矢刀槊に善くし、馬を馳せば飛ぶが若し。三十年五月、楚王楨と同しく古州蛮を討つ。毎に出入するに、縹囊に書を載せて随い、山水の勝境に遇えば、輒ち終日徘徊す。尤も道家の言に善くし、自ら紫虚子と号す。建文初め、柏の反すを告ぐる者有り。帝使いを遣わし即ち訊ぬ。柏懼れ、自ら明らかにする無く、宮を闔いて焚死す。諡して戾と曰う。王子無く、封除かる。永楽初め、諡を献と改め、祠官を置き其の園を守らしむ。

代簡王桂

代簡王桂は、太祖の第十三子なり。洪武十一年王に封ぜられ、二十五年代に改封す。是の年大同に就藩す。糧餉艱遠なり。衛を立て屯田して以て転運を省かしむるを令す。明年詔して護衛兵を帥い塞を出で、晋王の節制を受く。桂性暴なり。建文の時、罪を以て庶人に廃せらる。

成祖即位し、爵を復す。永楽元年正月旧封に還る。十一月璽書を賜いて曰く、「弟の戮を縱にし財を取るを聞く。国人甚だ苦しみ、告ぐる者数えたり。且つ王独り建文の時を記せざるか」と。尋ち有司に命じ、今より王府軍民を擅に役し、財物を斂むることを得ざらしめ、聴く者之を治む。已にして復た其の不軌を告ぐる者有り。勅を賜い其の三十二罪を列ね、召し入朝せしむ。至らず。再び召す。中途に至り、遣い還す。其の三護衛及び官属を革む。王妃は中山王徐達の女、仁孝文皇后の妹なり。驕妬にして、嘗て桂の二侍女を漆して癩と為す。事聞こゆ。帝中山王の故を以て、罪せず。桂怒りを移して世子遜煓に及ぼし、其の母子を出だし外舎に居らしむ。桂既に老ゆ。尚お時時諸子遜炓・遜焴と窄衣禿帽を以て、市中を遊行し、袖に錘斧を蔵し人を傷つく。王府教授楊普上言す、「遜炓軍人武亮に狎び、之と博戯し、軍人を箠殺するに致す」と。朝廷亮を杖治し、勅を降して責戒し、稍く斂戢す。十六年四月護衛及び官属を復す。

代簡王の孫 隱王仕㙻

正統十一年、桂薨ず。世子遜煓先だ卒す。孫隱王仕㙻嗣ぐ。景泰中、嘗て上言して総兵官郭登の城を守る功を言い、朝廷登を労う。天順七年薨ず。子惠王成鍊嗣ぐ。弘治二年薨ず。子聰沫先だ武邑王に封ぜらる。酒をほしいままにするを以て爵を革む。已にして、惠王の喪に居り、益々淫酗し、庶人に廃せられ太原に遷る。久しくして、惠王妃之が疎理を為し、復た武邑王に封ぜらる。卒す。子懿王俊杖代王を襲封す。

隠王の玄孫、昭王充燿。

嘉靖三年、大同の軍が叛き、王宮を包囲したため、俊杖は杖を突いて逃れて難を免れた。事態が収まると、詔書を賜って慰問した。六年に薨去した。子の昭王充燿が嗣いだ。十二年、大同の軍がまた叛き、充燿は宣府に逃れ、再び慰問の詔を賜った。事態が収まると、国に戻り、上奏して言った。「乱賊は既に除かれたが、軍民ともに困窮しております。大臣を派遣して救済と慰撫を行われるようお願いいたします。」詔して実行を許可した。二十四年、和川の奉国将軍充灼が罪に坐して俸禄を剥奪され、充燿が取り成してくれなかったことを怨み、襄垣中尉充〈火耿〉と謀って敵を大同に引き入れ王を殺そうとした。時に応州の者羅廷璽らが白蓮教で衆を惑わしており、充灼に妖言を吹き込み、策を巡らせて、小王子を塞内に迎え入れ、その兵を借りて雁門を攻め、平陽を取って充灼を主とし、事が定まったら、すぐに小王子を計略で殺すと約束した。充灼はこれをよしとした。先に人を遣わして密かに火箭を持たせ、大同の草場五六か所を焼き、蒙古語に通じる者衛奉に命じて闇に辺境を出させたが、総兵周尚文の巡邏兵に捕らえられ、小王子に献上しようとした表文も得て、取り調べて事実を確かめ上奏した。充灼らを京に逮捕し、死を賜い、その屍を焼き、王府の長史などの官は皆逮捕して処罰した。総督侍郎翁萬達が上疏して言う。「大同は狭く痩せており、俸禄と兵糧を支えることができません。代宗は日に日に繁栄し、衆は集まって貧しくなっています。しかも地は辺境に近く、反逆を生じやすい。和川・昌化などの郡王を山・陝の隙地に移すことをご考慮ください。」詔して山西に改めて移すこととした。これに先立ち、景泰年間に、昌化王仕墰が移封を乞うたが、景帝は許さず、この時になってようやく移されたのである。代宗は簡王から懿王に至るまで、郡王に封じられた者は合わせて二十三人、外に移された者は十王である。

昭王の子、恭王廷埼。

二十六年、充燿が薨じた。子の恭王廷埼が嗣いだ。饒陽王充𰟆がたびたび事を起こして廷埼を侵したが、罪を得ることを恐れ、辺境の事を陳べることを名目として、三十一年に鎮守・巡按官の罪を奏上した。世宗は巡撫都御史何思を罷免し、総兵官徐仁らを逮捕した。充𰟆はますます驕り、ついに廷埼と互いに告発し合い、前後の調査官も判決を下せなかった。巡撫都御史侯鉞が上奏してその俸禄を剥奪すると、充𰟆は怒って承服しなかった。三十三年、詔して司礼少監王臻を派遣して即座に訊問させると、充𰟆はようやく伏し、法司に下され、高牆に幽閉された。万暦元年、廷埼が薨じた。子の定王鼐鉉が嗣いだが、三十二年に薨じた。子がなく、弟の新寧王鼐鈞が嗣ぎ、薨じた。子の康王鼎渭が嗣ぎ、崇禎二年に薨じた。さらに伝わって孫の伝㸄に至る。崇禎十七年三月、李自成が大同に入り、一家門みな害に遇った。

代簡王の子、襄垣王遜燂。

襄垣王遜燂は、簡王の第五子で、蒲州に分封された。諸王が藩国に就いた後は、命を請うて許されなければ、歳時の定省(挨拶)もできない。遜燂は大同を思ってやまず、『思親篇』を作り、その詞は甚だ悲切であった。その後、宗人の聰瀺・聰泈・俊㰙・俊榷・俊𤱧・俊杓・俊噤・充焞は、皆文章に熟達していた。俊噤は字を若訥といい、特に博学で盛名があり、栄利を慕わなかった。姉の陵川県君は裴禹卿に嫁いだが、地震で城が崩れ、禹卿が死んだ。県君は頭を棺に打ちつけ、血を吐いて卒した。二十一歳であった。詔して貞節と諡した。

代簡王の子、霊邱王遜烇。

霊邱王遜烇は、簡王の第六子である。宣宗の時に封じられた。学を好み詩をよくし、特に医術に優れ、嘗て薬を施して瘟疫を治し、全活した者は数えきれなかった。子の仕𡒳、孫の成鈠、曾孫の聰滆、三王はいずれも孝行で表彰された。聰滆の子俊格は、文を能くし書を善くした。嘉靖の時、皇儲明堂の二頌と興献帝后の挽歌を献上し、金帛を賜った。聰滆は嘗てその孫廷址を曾長孫に封じることを乞うたが、礼官が前例なしと奏上した。帝は王が長寿であることを以て、特にこれを許した。その後また廷址の子鼐鐮を玄長孫に封じた。聰滆が薨じた時、八十三歳であった。鼐鐮が高祖こうそ父の爵を襲いだ。聰滆の従父成䥩もまた孝行があり、聰滆が朝廷に聞こえさせると、金幣を賜って褒め諭した。詔して礼官に、今後宗室の中で成䥩のように孝行が卓越した者がいれば、巡撫・巡按が上疏して奏聞するよう命じた。

附 隰川王の諸孫、成𨨣。

また成𨨣という者は、隰川王の諸孫である。父の仕𡍫は罪に坐して鳳陽に幽閉され、病死した。成𨨣は微服で鳳陽に走り喪に赴き、上疏して自ら禁を越えたことを劾し、父の骨を負って帰り澤州に葬ることを乞い、もし叶わなければ、庶人となることを願い、墓の側に留まり、歳時に省視したいと請うた。詔して帰葬を許した。弟の成鐎もまた学を好み、志操があった。嘉靖十三年に上言した。「雲中の叛卒の変は幸いにして消え止みました。その原因を究めれば、実に貪酷な官吏が激成したものです。臣は天下の禍が民心に隠れており、他日雲中だけではないことを憂慮します。」指摘陳述は切実率直で、帝は廷臣に下して行いを戒めさせた。時にその兄弟を二難と称した。万暦二十年、西夏が安寧でなく、山陰王俊柵が詩八章を奏上し、規諫諷刺の旨を寓した。代は塞上に位置し、諸宗は重ねて禍乱を経ており、その言は皆憂い深く思慮遠大で、朝中の士大夫の及ばないところがあった。

附 代府の宗室、廷鄣。

廷鄣は、代府の宗室である。崇禎年間、鞏昌府通判となり、秦州の事務を代行し、廉直の名声があった。十六年冬、賊が秦州を陥とし、捕らえられた。跪かせようとすると、叱って言った。「我は天朝の宗姓なり、頭は断たれようとも、膝は屈せぬ。」賊は生かそうとしたが、大声で叫んだ。「今日はただ一死を求めるのみ。」座したまま泰然としており、ついに害に遇った。

粛荘王楧。

粛荘王楧は、太祖の第十四子である。洪武十一年に漢王に封じられた。二十四年、衛・谷・慶・寧・岷の五王とともに臨清で練兵することを命じられた。翌年、粛王に改封された。さらに翌年、詔して国に赴かせようとしたが、陝西各衛の兵が集まっていなかったため、平涼に駐屯することを命じた。二十八年にようやく甘州に就藩した。詔して王に陝西行都司甘州五衛の軍務を管轄させた。三十年、軍の屯田と糧食を監督させ、征伐の際には長興侯耿炳文に従わせた。建文元年、内陸への移転を乞うたので、蘭州に移った。永楽六年、衛卒三人を杖殺したこと及びハミから進馬を受けたことにより、その長史官属を逮捕した。後にまた、百戸劉成の言を聞き入れ、平涼衛の軍を罪に問い、勅して劉成らを械にかけて京師に送らせた。十七年に薨じた。

粛荘王の子、康王瞻燄。

子の康王瞻燄が嗣いだ。宣徳七年、二つの護えいを献上した。府中で盗難があり、榜を掲げて告発・捕縛する者を募った。御史が「制に非ず」と上言し、その長史楊威を罪した。瞻燄はまた歳祿の加増を請うた。勅して曰く、「洪武・永楽の間、歳祿は五百石を過ぎず、莊王が言わなかったのは、朝廷が遠地の転輸の難を慮った故である。仁考(仁宗)が即位し、五百石を加えた。朕は祖制を守り敢えて違わない」と。正統元年、上言して曰く、「甘州の旧邸が都司に改められたが、先王の墳園が尚在する。近邸の樵採を禁ずることを乞う」と。これを従った。天順三年、辺備に備えて馬五百匹を献上し、その代価を受け取らなかった。帝は強いてこれを与えた。八年に薨去した。

康王の子、簡王祿埤

子の簡王祿埤が嗣いだ。成化十五年、薨去した。子の恭王貢錝が嗣いだ。嘉靖十五年、薨去した。世子眞淤・長孫弼桓は共に早世し、次孫の定王弼桄が嗣いだ。四十一年、薨去した。子の縉炯は先に卒し、孫の懷王紳堵が嗣いだ。二年を踰えて薨去した。子がなく、靖王の第四子弼柿の子である輔国將軍縉𤏳は、属が近いとして嗣ぐに宜しいとした。礼官が言うには、縉𤏳は懷王の從父おじであり、襲封すべきでないと。詔して本職(輔国將軍)をもって府事を理めさせ、冊寶を上らせ、諸官属を罷免した。穆宗が即位すると、定王妃呉氏及び延長王眞滰らが先後に上言して曰く、「聖祖(太祖)は羣雄を刈り天下を定め、報功の典は隆盛にして廃れることなし。臣の祖莊王は辺境に封ぜられ、征戍を操練し、天家を屛衞した。不幸にして大宗が中絶し、反って昭穆の次第に拘られ、勳武の継絶の典に及ばず。これは本支を崇め、藩衞を厚くする所以ではない」と。下部議し、郡王をもって藩政を理めさせることを議した。帝は許さなかった。隆慶五年、特命をもって縉𤏳を肅王に嗣がせ、官属を半減して設けた。萬暦十六年、薨去し、諡して懿といった。子の憲王紳堯が嗣いだ。四十六年、薨去した。子の識鋐が嗣いだ。崇禎十六年冬、李自成が蘭州を破り、捕らえられ、宗人は皆死んだ。

遼簡王植

遼簡王植は、太祖の第十五子である。洪武十一年に衞王に封ぜられ、二十五年に遼王に改封された。翌年、広寧に就藩した。宮室が未完成であったため、大凌河の北に暫く駐留し、柵を樹てて営とした。帝は武定侯郭英に命じて城郭宮室を築かせた。英は王妃の父であり、工事を峻急に監督した。時に高麗が国中から鴨緑江に至るまで粟を積んでいたため、帝はその陰謀を慮り、また役作に従事する軍士が艱苦しているとして、役事を中止させた。三十年に至り、始めて都督ととく楊文に命じて遼東の諸衞士を督わせてこれを繕治させ、その雉堞を増し、辺衞を厳にした。また西北の沿辺要害を図示し、植と寧王権に示し、諭して曰く、「東勝より西は寧夏・河西・察罕脳児に至り、東勝より東は大同・宣府・開平に至り、また東南は大寧に至り、また東は遼東に至り、鴨緑江に抵り、北は大漠に至る。また鴈門関より外、西は黄河に抵り、河を渡って察罕脳児に至り、また東は紫荊関に至り、また東は居庸関及び古北口に至り、また東は山海衞に至る。凡そ軍民の屯種する地には、畜牧を恣にすべからず。その荒曠の地及び山塲は、諸王・駙馬の牧放樵採を聴し、東西往来して営駐し、時に因りて兵を練り寇を防ぐべし。違う者はこれを論ず」と。植は辺境にあって軍旅に習い、屡々軍功を樹てた。建文中、「靖難」の兵が起こると、植及び寧王権を召して還京させた。植は海を渡って帰朝し、荊州に改封された。永楽元年に入朝したが、帝は植が初め己に貳心を抱いたことを嫌った。十年にその護衞を削り、軍校・厨役三百人を留め、使令に備えさせた。二十二年に薨去した。子の長陽王貴烚が嗣いだ。

初め、植の庶子である遠安王貴燮・巴東王貴煊が嘗てその父に異謀有りと告げた。父の死に及んでも、また奔喪しなかった。仁宗が即位すると、皆庶人に廃された。正統元年、府僚が王祿の加増を乞うた。勅して曰く、「簡王は朝廷に罪を得たが、成祖は特段厚く待遇し、仁宗朝に祿を加え、二千石を支給するを得た。宣宗はまた旗軍三百人を与え、親親の情は既に至っている。王は素より礼度に乖き、府臣は匡正せず、却って王のために請うのか」と。許さなかった。三年、巡撫侍郎呉政が奏上して、王が諸弟に友ならず、庶母を待つに寡恩で、長史杜述を捶ち殺し、国に居て過失多しと。京師に召して訊問し、その淫穢・倫を黷し、兇暴なる諸々の不法の事を悉く得た。翌年四月、庶人に廃し、簡王の園を守らせた。弟の肅王貴𤊐が嗣いだ。成化七年、薨去した。子の靖王豪墭が嗣いだ。十四年、薨去した。子は惠王恩𨯀。

遼簡王曾孫 惠王恩𨯀

弘治五年、松滋王府の諸宗人恩鑡らが荊州府に闌入して歳祿を支給されようとしたが、恩𨯀がこれを禁じたため、皆怨んだ。已にして、儀賓袁鏞がまた恩鑡らを誘い、羣小を招き、軍民・商賈の利を奪った。恩𨯀がその事を発すると、恩鑡らは愈々怨み、王を謀殺しようとした。朝廷は官を遣わして実情を按じ、恩鑡らを鳳陽に幽閉し、その党を差等有りて戍に謫した。恩𨯀は密かに送る者に命じて彼らに刑具を加えさせ、八十余人を斃らせた。数日も経たぬうちに、世子が暴卒した。八年、恩𨯀は背中に疽を発して薨去した。子の恭王寵涭が嗣いだ。弟の光沢王寵𤃆と友愛し、飲食・服御は必ず倶にした。寵𤃆は令徳有り、寵涭は事有れば必ず彼に諮って後に行った。正徳十六年、薨去した。子の莊王致格が嗣いだ。病んで視事せず。妃毛氏は書史に明るく、沈毅にして断有り、中外肅然とし、賢声天下に聞こえた。

惠王曾孫 憲㸅

嘉靖十六年、致格が薨去した。子の憲㸅が嗣いだ。道を奉ずることを以て世宗に寵愛され、淸微忠教眞人の号を賜り、金印を与えられた。隆慶元年、御史陳省が憲㸅の諸々の不法事を弾劾し、詔して眞人の号及び印を奪った。翌年、巡按御史郜光先がまたその大罪十三箇条を弾劾し、刑部侍郎洪朝選を遣わして往き勘らせ、その淫虐・僭擬の諸罪状を具に得た。帝は憲㸅を誅すべきとしつつも、宗親を念い死を免じ、庶人に廃して高牆に錮した。初め、副使施篤臣は憲㸅を甚だしく憾み、朝選が湖広に至ると、篤臣は憲㸅の書簡を偽って朝選に餽り、因ってこれを劫持した。憲㸅は白纛を建て、「訟冤之纛」と称した。篤臣は驚いて曰く、「王、反す」と。卒五百人を使わして王宮を囲ませた。朝選は還朝し、王の罪を実証したが、王の反逆については言わなかった。大学士張居正の家は荊州にあり、故に憲㸅と隙有り、朝選が憲㸅を反逆に坐さなかったことを嫌った。久しくして、巡撫都御史労堪に属して朝選を羅織させ、獄中に死なせた。その後、居正が死ぬと、憲㸅は冤を訟え、居正の家を籍没し、篤臣もまた死んだ。遼国は除かれ、諸宗は楚藩に隷属し、広元王術〈土周〉を以て宗理とした。

慶靖王㮵

慶靖王朱㮵は、太祖の第十六子である。洪武二十四年に封ぜられ、二十六年に寧夏に藩国として赴いた。兵糧が十分でなかったため、慶陽北方の古韋州城に駐屯し、延安・綏徳・寧夏の租賦を充てることを命ぜられた。二十八年、詔して王に慶陽・寧夏・延安・綏徳の諸衛の軍務を管轄させた。三十年に初めて邸宅を建てた。王は学問を好み文才があり、忠孝は天性より出づ。成祖はこれを善しとし、毎年一度韋州に赴いて夏を過ごすことを許した。宣徳初め、寧夏は低湿で水泉が悪いと上言し、引き続き韋州に居住することを請うた。許されず、成祖の時のように毎年往来することを命ぜられた。正統初め、寧夏総兵官史昭が、王が辺境の事務を阻害し、霊州の草場を占拠して畜牧し、使者を綏徳の草地を通って往来させ、土民を煽動していると上奏した。奏章がまだ下されないうちに、ある者が王が兵を閲し、兵器を造り、天文書を購入していると告発した。朱㮵はこれらすべて史昭の仕業であると疑った。三年に上書し、国を移して史昭を避けることを請うた。英宗は許さず、書を贈って慰諭した。その年に薨じ、子の康王朱秩煃が嗣いだ。景泰元年、寧夏がたびたび兵乱に遭ったため、内地への移転を請うたが、許されなかった。成化五年に薨じた。子の懐王朱邃𡓱が嗣ぎ、十五年で薨じた。弟の荘王朱邃塀が嗣ぎ、弘治四年に薨じた。子の恭王朱寘錖が嗣ぎ、十一年に薨じた。子の定王朱台浤が嗣いだ。

慶靖王の玄孫 定王朱台浤

正徳五年、安化王朱寘鐇が反乱を起こすと、朱台浤は叩頭して君臣の礼を行った。詔して護衛を削り、禄を三分の一削減し、その承奉・長史を辺境に戍らせた。嘉靖三年、朱台浤は鎮守太監李昕・総兵官种勛に賄賂を贈り、禄の復旧を奏請するよう求めた。李昕・种勛は受け入れず、朱台浤はこれを恨んだ。ちょうど寧夏衛指揮の楊欽らが巡撫都御史張璿に罪を得て、王を頼りに張璿と种勛を殺害しようと謀った。事が発覚し、都司・按察司に下して審理させたところ、楊欽らは朱台浤が不軌を謀ったと誣告し、張璿がこれを上奏した。帝は太監扶安・副都御史王時中らに再審させ、上言させた。「朱台浤には他の罪はあるが、不軌を謀った事実はない。」詔して廷臣に議を定めさせ、以前に朱寘鐇に屈服した罪により、恩赦を受けても悔い改めず、群小を煽動して守臣を謀害しようとしたとして、庶人に落とされ、邸宅に留め置かれ、毎年米三百石を与えられ、その叔父の鞏昌王朱寘銂に王府の事務を代行させた。

朱寘銂は慶王府の宮妃の薪米を削減し、邸中の金帛を数万単位で取り上げた。朱台浤の子朱鼒櫍は幼くして父の愛を失い、朱寘銂のもとに逃げた。朱寘銂は朱台浤が謀反を企てているというデマを作り、寺人に朱鼒櫍を誘わせてそれを吟誦させ、朱台浤を陥れて自らが立つことを図った。懐王妃王氏が、朱寘銂が衣食を削減し、自ら生存することもできないほどであると上奏した。豊林王朱台瀚もまた朱寘銂を陥れようとし、ついにその人倫を乱す諸罪を暴いた。検証の結果事実と判明し、庶人に落とされ、高牆に幽閉された。廷議は朱台浤父子が不和であるとして、朱台浤を西安に移し、朱鼒櫍を世子に封じて王府の事務を管轄させた。これは十一年十月のことである。十五年、両宮の徽号の恩赦により朱台浤の冠帯を回復させ、薨じた。

定王の子 恵王朱鼒枋

朱鼒櫍は先に卒去し、弟の恵王朱鼒枋が嗣いだ。学問を好み善を楽しみ、礼をもって諸宗室を整えた。世宗はこれに勅書を賜り、牌坊を建てて表彰した。寧夏で辺牆を築く際、朱鼒枋は銀米を出して工事を助けた。万暦二年に薨じた。子の端王朱倪𤏳が嗣ぎ、十六年に薨じた。子の憲王朱伸域が嗣ぎ、十九年に薨じた。翌年、寧夏の賊哱拜が反乱を起こすと、王妃方氏はその子朱帥鋅を地窖に隠し、自ら縊死した。この時、寿陽嗣王朱倪爋は、哱拜が降伏を迫ったが屈せず、囚われの身となった。鎮原王朱伸塇が王府の事務を代行し、賊を襲撃しようと謀ったが成功せず、府中の者は皆殺害された。賊が平定されると、御史劉芳譽が言上した。「諸宗室で節を守って死んだ者はすべて恤録すべきであり、方妃は祠を建てて表彰すべきである。」詔してこれに従い、銀一万五千両を与えて諸宗人を救済した。朱帥鋅が嗣ぎ、薨じた。子の朱倬㴶が嗣いだ。崇禎十六年、流賊が寧夏を破り、捕らえられた。

慶靖王の子 安塞王朱秩炅

安塞王朱秩炅は、靖王の末子であり、十二歳で孤児となり、母の位氏が教え諭した。性質は聡明で、過目不忘、古文を善くした。縉紳学士に遇うと、質疑応答し惑いを弁じ、日が暮れるのも厭わなかった。著書に随筆二十巻がある。

慶靖王の孫 庶人朱寘鐇

庶人朱寘鐇、祖父の朱秩炵は、靖王の第四子である。安化王に封ぜられた。父の朱邃墁は鎮国將軍で、朱寘鐇が王爵を襲封した。性格は狂誕で、相見が大貴の相であると言い、巫の王九児が鸚鵡に禍福を妄言することを教え、朱寘鐇はついに身分を超えた望みを抱いた。寧夏指揮の周昂、千戸の何錦・丁広、諸衛の学生孫景文・孟彬・史連らは、皆朱寘鐇のもとを往来した。正徳五年、帝は大理少卿周東を遣わして寧夏の屯田を測量させた。周東は劉瑾の意を迎え、五十畝を一頃とし、また一畝ごとに銀を徴収して劉瑾への賄賂とし、拷打は残酷を極め、戍将衛卒は皆憤怨した。また巡撫都御史安惟學はたびたび将士の妻を杖打ち辱め、将士は骨髄に徹して恨んだ。朱寘鐇は衆怒を知り、孫景文に諸武臣に酒を飲ませ、言葉で彼らを煽らせた。諸武臣の多くは朱寘鐇に従うことを願った。また人を遣わして平虜城の戍将及び平素から親しい張欽らを結託させた。ちょうど辺境に警報があり、参将仇鉞・副総兵楊英が兵を率いて出防した。総兵官姜漢が精鋭の兵卒六十人を選んで牙兵とし、周昂に率いさせた。周昂はこれにより何錦と盟約を定めた。四月五日、朱寘鐇は宴を設け、撫・鎮の官を邸に招いて飲ませたが、安惟学と周東は来なかった。何錦・周昂は牙兵を率いて直ちに侵入し、座中で姜漢及び太監李増・鄧広を殺害し、兵卒を分遣して公署で安惟学・周東及び都指揮楊忠を殺害した。ついに官府を焼き、囚人を釈放し、黄河の渡し船を西岸に引き上げて渡河する者を絶った。人を遣わして楊英・仇鉞を招いたが、二人とも偽って承諾した。楊英は衆を率いて王宏堡を守ったが、衆は潰走し、楊英は霊州に奔った。仇鉞は引き返したが、朱寘鐇はその軍を奪い、金帛を出して将士を犒労した。偽って何錦を大将軍に、周昂・丁広を副将軍に、張欽を先鋒に、魏鎭・楊泰らを総兵都護に任命した。孫景文に檄文を作らせ、劉瑾を討つことを名目とした。

陝西総兵官曹雄は変事を聞き、指揮黄正を遣わして霊州に駐屯させ、楊英に檄を飛ばして霊州兵を督率させ黄河を防がせた。都指揮韓斌・総兵官侯勛・参将時源がそれぞれ兵を率いて合流した。楊英は密かに下僕を遣わして仇鉞に内応を求め、史墉に浮き渡りで西岸の船を奪わせ、河東に営を張り、大・小二塁の草を焼かせた。朱寘鐇は恐れ、何錦らに出撃させ、周昂だけを留めて城を守らせ、使者を遣わして仇鉞を召喚した。仇鉞は病気と称し、周昂が病状を問いに来ると、仇鉞は周昂を刺し殺した。親兵に命じて朱寘鐇の邸に馳せさせ、孫景文・史連ら十余人を撃殺し、ついに朱寘鐇を捕らえ、楊英の衆を迎え入れた。朱寘鐇の反乱は十八日で鎮圧された。何錦・丁広・楊泰・張欽は前後して捕らえられ、檻車に載せて送られ誅殺された。朱寘鐇は死を賜り、諸子弟は皆死罪とされた。孫の朱鼒材が逃げ出し、髪を剃って僧となり、永寧山中に住んだ。間もなく、土着の僧に陵辱され、役所に赴いて状況を訴えた。伝えられて京に至ると、安化宮人の左宝瓶が浣衣局におり、彼女に検証させたところ、驚いて言った。「これは鼒材殿下です。」帝は自ら帰順したことを考慮し、死罪を免じた。鳳陽に安置した。

寧献王朱権

寧献王権は、太祖の第十七子である。洪武二十四年に封ぜられた。二年を経て、大寧に就藩した。大寧は喜峯口の外にあり、古の会州の地で、東は遼左に連なり、西は宣府に接し、巨鎮であった。甲冑を帯びる者八万、革車六千、所属する朶顔三衛の騎兵はいずれもぎょう勇で善戦した。権はしばしば諸王とともに塞外に出て、善謀を以て称された。燕王が初めて兵を起こした時、諸将と議して言うには、「かつて余が塞上を巡った時、大寧の諸軍の慓悍なるを見た。我が大寧を得て、遼東を断ち、辺境の騎兵を取って戦いを助けさせれば、大事は成るであろう」と。建文元年、朝廷の議は権が燕と合することを恐れ、人を遣わして権を召したが、権は至らず、三護衛を削られる罪に坐した。その年九月、江陰侯呉高が永平を攻め、燕王は往きて救った。高が退くと、燕王は劉家口の間道より大寧に趨き、窮蹙して来たりて救いを求むと詭言した。権は燕王を招き単騎で城に入れ、手を執って大いに慟哭し、已むを得ず兵を起こした次第を詳しく述べ、代わって表を草して謝罪することを求めた。数日を経て、歓洽して備えを為さず。北平の鋭卒は城外に伏し、吏士は次第に城中に入り、密かに三衛の部長及び諸戍卒と結んだ。燕王が辞去する時、権は郊外でこれを送り、伏兵が起こり、権を擁して行った。三衛の彍騎及び諸戍卒は、一呼してことごとく集まった。守将朱鑑は防ぐことができず、戦死した。王府の妃妾世子は皆松亭関に随って入り、北平に帰り、大寧城は空となった。権が燕軍に入ると、時々燕王のために檄文を草した。燕王は権に、事が成れば、天下を中分すると言った。即位に及んで、王は南土への改封を乞うた。蘇州を請うと、「畿内である」と言われ、銭塘を請うと、「皇考(太祖)が五弟(周王橚)に与えようとしたが、ついに果たさなかった。建文は無道で、その弟を王としたが、また享けることができなかった。建寧・重慶・荊州・東昌はいずれも善地である。ただ弟が選ぶがよい」と言われた。

永楽元年二月、南昌に改封され、帝は自ら詩を製してこれを送り、詔して布政司を邸とし、瓴甋の規制を改めなかった。やがて人が権の巫蠱誹謗の事を告げたが、密かに探らせても証拠がなく、事は済んだ。これより日ごとに韜晦し、精廬一区を構え、その間で鼓琴し書を読み、成祖の世を終えるまで患いがなかった。

仁宗の時、法禁がやや緩み、上書して南昌は自分の封国ではないと言った。帝は答書して言うには、「南昌は、叔父が皇考より受けられてすでに二十余年、封国でなくて何であろうか」と。宣徳三年、近郭の灌城郷の土田を請い求めた。翌年また宗室は品級を定めるべきではないと論じた。帝は怒り、かなり詰責した。権は上書して過ちを謝した。時に年はすでに老いており、有司は多く齮齕して威重を示した。権は日ごとに文学士と相往来し、志を翀挙に託し、自ら臞仙と号した。かつて勅を奉じて『通鑑博論』二巻を輯め、また『家訓』六篇、『寧国儀範』七十四章、『漢唐秘史』二巻、『史断』一巻、『文譜』八巻、『詩譜』一巻、その他の注纂数十種を著した。正統十三年に薨じた。

寧献王の孫 靖王奠培

世子盤烒は先に卒し、孫の靖王奠培が嗣いだ。奠培は文辞に優れていたが、性は卞急で、猜疑心が多かった。景泰七年、弟の弋陽王奠壏がその反逆を告発し、巡撫韓雍がこれを聞いた。帝は官を遣わして往きて審理させたが、事実ではなかった。時に軍民で連座して逮捕された者は六七百人に及び、英宗の復辟に会い、皆赦免釈放され、ただその教授游堅を謫戍したのみであった。奠培はこれより守土の官を恨み、礼を為さなかった。布政使崔恭は積もる不平があり、王府の事は多く押し留めて行わなかった。奠培は遂に上奏して恭の不法を弾劾した。恭と按察使原傑もまた奠培が献・恵二王の宮人を私し、内官熊璧を自尽に追いやったと奏上した。審問して皆事実であったため、遂に護衛を奪った。三年を経て、奠壏は罪有って賜死された。初め、錦衣衛指揮逯杲が詗事者の言を聞き、奠壏が母と淫したと誣告した。帝は奠培に実状を詳しくして奏上するよう命じ、また駙馬都尉薛桓と杲に審問させた。奠培はそのような事はないと奏上し、杲の審問もまた事実がなかった。帝は怒り、杲を責問した。杲は恐れ、やはり事実であるとして、遂に奠壏母子に自尽を賜い、その屍を焼かせた。この日雷雨が大作し、平地の水深数尺、衆人皆これを冤とした。

靖王奠培の孫 上高王宸濠

弘治四年、奠培が薨じた。子の康王覲鈞が嗣ぎ、十年で薨じた。子上高王宸濠が嗣いだ。その母は、もと娼妓であった。生まれた初め、靖王は蛇がその室を啖う夢を見、朝には鴟が鳴き、これを憎んだ。成長すると、軽佻で威儀がなく、しかし文行をもって自ら飾ることを善くした。術士李自然・李日芳が妄りにその異表有りと言い、また城の東南に天子気有りと言った。宸濠は喜び、時々中朝の事を詗き、誹謗の言を聞けばすなわち喜んだ。あるいは帝が明聖で、朝廷が治まっていると言えば、すなわち怒った。武宗の末年、子がなく、群臣はしばしば宗室の子を召して子とすべきことを請うた。宸濠は疎属であったが、かえって左右に深く結び、帝の前でその賢を称えた。初め、宸濠は劉瑾に賄賂し、奪われた護衛を回復させた。瑾が誅せられると、やはり論じて奪われた。陸完が兵部尚書となると、宸濠は嬖人銭寧・臧賢を内主として結び、奏上して回復させようとしたが、大学士費宏が執って不可とした。諸嬖人は費宏が廷試の巻を読んでいる間に乗じ、中旨を取ってこれを行った。宸濠はますます恣にし、都指揮戴宣を擅殺し、布政使鄭岳・御史范輅を逐い、知府鄭巘・宋以方を幽閉した。諸王府に附属する民家をことごとく奪い、民間に子銭を責め、田宅子女を強奪し、群盗を養い、江・湖の間で財を劫掠し、有司は敢えて問わなかった。日ごとに致仕都御史李士実・挙人劉養正らと謀反を謀った。副使胡世寧は朝廷に早くこれを裁抑するよう請うた。宸濠は連続して世寧の罪を奏上し、世寧は罪に坐して謫戍され、これより敢えて言う者はいなかった。

正徳十二年、典儀閻順、内官陳宣・劉良が間道を行き詣闕して変事を上告した。寧・賢らがこれを庇い、問わなかった。宸濠は承奉周儀の出所と疑い、儀の家及び典仗査武ら数百人を殺した。巡撫都御史孫燧はその事を列挙したが、途中で邀えられ、達することができなかった。宸濠はまた銭寧に賄賂し、中旨を取ってその子を太廟の司香に召すことを求めた。寧は帝に言い、異色の龍箋を用い、金を加えて報賜した。異色の龍箋とは、故事により監国に賜う書箋である。宸濠は大いに喜び、儀仗を列ねて賀を受けた。また諸生・父老に勒めて闕下に奏上させ、その孝且つ勤なることを称えさせた。時に辺将江彬が新たに寵を得、太監張忠は彬に附き、寧・賢を傾けようとし、隙を乗じて帝に言うには、「寧・賢は盛んに寧王を称えています。陛下はどうお思いですか」と。帝は言うには、「文武百執事を推薦するのは、任使に堪えるからである。藩王を推薦するのは何のためか」と。忠は言うには、「賢は寧王の孝を称え、陛下の不孝を讒しているのです。寧王の勤を称え、陛下の不勤を讒しているのです」と。帝は言うには、「そうか」と。詔を下して王府の人を逐い、闕下に留め置かないようにした。この時宸濠は士実・養正と日夜謀り、ますます姦人盧孔章らを遣わして水陸の孔道に分布させ、万里を伝報し、十日で往返し、蹤跡は大いに露わになり、朝野皆その必ず反することを知った。巡撫都御史孫燧は七度上章してこれを言ったが、皆邀えられ沮まれた。諸権姦は多く宸濠の金銭を得て、その事を匿して聞かせなかった。

十四年、御史蕭淮が宸濠の諸罪を上疏し、早く制しなければ、将来の禍患は言い尽くせないものがあると述べた。疏は内閣に下され、大学士楊廷和は、宣宗が趙府の事を処したように、勲戚大臣を派遣して宣諭し、王に自ら改めさせるべきであると言った。帝は駙馬都尉崔元、都御史顔頤壽、太監頼義に諭を持たせて行かせ、その護衛を収め、奪った官民の田を返還させた。宸濠は崔元らがまさに到着すると聞き、計略を定め、自分の誕生日に諸守土官を宴請した。翌朝、皆が入って謝した。宸濠は甲士に彼らを囲ませ、太后の密旨を奉じ、兵を起こして朝廷に入ると称した。孫燧及び副使許逵は従わず、縛り出して斬った。御史王金、主事馬思聰・金山、参議黄宏・許傚廉、布政使胡廉、参政陳杲・劉棐、僉事頼鳳、指揮許金・白昂らを捕らえて獄に下した。参政王綸・季斆、僉事潘鵬・師夔、布政使梁宸、按察使楊璋、副使唐錦は皆逆に従った。李士実・劉養正を左・右丞相とし、王綸を兵部尚書とし、兵を集めて十万と号した。その承奉涂欽と平素から蓄えていた群盗閔念四らに命じ、九江・南康を攻略してこれを破った。檄を馳せて朝廷を指弾した。七月壬辰朔、宸濠は江西を出発し、その党宜春王拱樤・内官万鋭らに城を守らせ、自らは舟師を率いて江を蔽って下り、安慶を攻めた。

汀贛巡撫僉都御史王守仁は変事を聞き、吉安知府伍文定らと諸郡の兵に檄を飛ばして先後して到着させた。そこで奉新知県劉守緒にその墳廠の伏兵を破らせた。戊申、直ちに南昌を攻撃した。辛亥、城は陥ち、拱樤・鋭らは皆捕らえられ、宮人は自ら焼死した。宸濠はちょうど安慶を攻めて落とせず、南昌が陥ったと聞き、大いに恐れ、包囲を解いて戻り、王守仁がこれを迎え撃った。乙卯、黄家渡で遭遇し、賊兵は風に乗じて進んで迫り、気勢は甚だ驕っていた。伍文定及び指揮余恩は偽って敗走し、賊を利に誘い、前後が互いに及ばなかった。知府邢珣・徐璉・戴德孺が後方から急撃し、伍文定は兵を返してこれに乗じ、賊は潰走し、斬殺・溺死者は万を数えた。また別に知府陳槐・林瑊・曾璵・周朝佐を派遣して九江・南康を回復した。翌日、再び戦い、官兵は少し退いたが、伍文定は士卒を率いて死闘し、二千余級を捕斬し、宸濠はついに樵舎に退いて守った。翌日、官軍は火攻めをし、宸濠は大敗した。諸妃嬪は皆水に赴いて死に、将士で焼死・溺死した者は三万余人であった。宸濠及びその世子・郡王・儀賓並びに李士実・劉養正・涂欽・王綸らは共に捕らえられた。宸濠が挙事してから敗北するまで、およそ四十三日であった。

時に帝は宸濠の反逆を聞き、詔を下してその罪を暴き、宗廟に告げ、庶人に廃した。尚書陸完、寵臣銭寧・臧賢らを逮捕拘束し、その家を没収した。江彬・張忠は帝に親征を勧め、良郷に至った時、王守仁の捷奏が届き、檄でこれを止めた。王守仁はすでに宸濠らを械で拘束し、浙江を取って進んだ。帝は南京に留まり、許泰・朱暉及び内臣張永・張忠を派遣して江西の余党を捜索捕縛させ、民はその擾乱に耐えられなかった。王守仁に檄を飛ばして江西に戻らせた。王守仁は杭州に至り、張永に会い、捕虜を彼に渡し、行在所に送らせた。十五年十二月、帝は献上された捕虜を受け、回鑾し、通州に至ってこれを誅し、封を除いた。初め、宸濠が謀反を企てた時、その妃婁氏はかつて諫めた。敗れた時、嘆いて言った、「昔、紂は婦人の言葉を用いて亡び、我は婦人の言葉を用いないで亡びた。後悔してもどうしようもない。」

嘉靖四年、弋陽王拱樻らが言った、「献王・恵王は四服の子孫が共に祀るもので、宸濠一人の出自によるものではない。臣らのように皆選別され、職業を守ることは従前の通りであるが、二王は廟享を得られない。臣はひそかにこれを痛む。」疏を三度上奏し、帝は弋陽王に郡王として奉祀させ、楽舞・斎郎の類を半ば給することとした。寧藩が既に廃された後、諸郡王の勢力は拮抗し、一つにまとまることができず、帝は拱樻に府事を摂行させた。卒去すると、楽安王拱欏が摂行した。拱欏は建安・楽安・弋陽の三王に八支を分治させるよう上奏し、令として定着させた。

寧献王の孫 石城王奠堵

石城王奠堵は、恵王の第四子である。性格は荘厳剛毅で、家法は甚だ厳格であった。靖王奠培は諸郡王と仲が悪く、臨川・弋陽は皆誣構されて罪を得たが、奠堵だけは謹厳で節度があり、過失をもって罪に落とすことができなかった。子の覲鎬は孝友で令誉があり、早世した。

石城王の曾孫 宸浮

孫の宸浮が嗣ぎ、同母弟の宸浦・庶兄の宸潣・弟の宸澅と共に淫逸放縦で人を殺した。弘治十二年、互いに上奏して告発し合い、宸浮・宸浦は共に庶人に革され、宸澅・宸潣は俸禄を奪われた。宸澅はついに宸濠に従って反逆し、雷に打たれて死んだ。嘉靖二十四年、宸浮・宸浦の冠帯を復し、宸潣の子拱梃が上書して父の汚名を雪ぎ、爵位も戻された。

石城王の曾孫 宸浫

宸澅の弟宸浫は平素から方正であり、宸濠は彼を屈服させようとしたができず、しばしば人を使ってその家に放火し、諸宗に資給させて恩恵を示そうとほのめかしたが、宸浫は辞して受けなかった。宸濠が敗れると、宸浫は免れることができた。子の輔国将軍拱槩、孫の奉国将軍多𤎲、曾孫の鎮国中尉謀㙔、三世共に端謹で自らを大切にし、特に謀㙔は群書を貫通し、朝廷の典故に通暁した。

宸浫の曾孫 謀㙔

諸王子孫で好学で行いを篤くする者は、周藩の中尉睦㮮の外には、謀㙔に及ぶ者はいなかった。万暦二十二年、廷議で石城・宜春の管理を増設し、謀㙔に中尉として石城王府の事を管理させ、不法者を弾劾処治することを許した。藩政を司ること三十年、宗人は皆約束に従った。暇な時は戸を閉じて読書し、『易象通』『詩故』『春秋戴記魯論牋』及びその他の書を著し、凡そ百十二種、全て自ら清書した。黄汝亨が進賢県令であった時、謁見に投じて対等の礼を取り、激論を長く交わし、やがて席を改めた。翌日、北面して弟子と称し、人々は両者を称えた。病が重くなっても、なお諸子に易を説いた。子は八人、皆賢明で好学であった。従弟の謀㬜は龍沙に室を築き、自ら耕作し詩を賦して終えた。

寧献王の六世孫 拱榣

奉国将軍拱榣は、瑞昌王奠墠の四世孫である。父の宸渠は宸濠に連座し、中都に逮捕拘束された。兄の拱枘が身代わりを請い、拱榣がこれを助け、ついに冤罪が晴れた。嘉靖九年、上書して宗学の設立を請い、宗室に壇墠を設け、耕桑の礼を行い、祀典を謹み、恤刑に意を加えるよう求め、皆旨を得て許可された。田を白鹿洞に寄付して学者を養った。その後、議礼で帝意に叶い、拱枘が大礼頌を上奏し、共に勅を賜り褒諭された。諸子や群従で知名な者が多かった。多熅・多燩は孝友で著名であった。多煪・多𤆼は礼を守り厳重であると称された。多𤏳・多煃・多炘は詞賦を善くすることで名を知られた。そして多熅と従兄の多煡だけは門を閉ざして掃除を断ち、異書を多く購求し、校讐を楽しみとした。万暦年中、督撫が瑞昌王府の事を管理するよう推薦したが、辞して起たなかった。多煪の父拱樛は宸濠の事で逮捕され、多煪は十余歳で、泣きながら軍門に走り、身代わりを乞い、王守仁はこれを見て異とした。嘉靖二年、疏を上して父の冤罪を訴え、釈放されて帰り、爵位を回復した。時に諸郡王は弋陽に統べられ、瑞昌は初代の王が祀られていなかった。多煪は自ら小宗が宗祏を司るべきであると言い、朝廷に請い、特に勅を許された。そこで祭田を増やし、家政を修飾し、あたかも朝廷の典礼のようであった。四子は皆荘重で謹み深く学問を好んだ。

寧献王の七世孫 靖王多煌

奉国将軍多煌は、恵王の第五子弋陽王奠壏の五世孫なり。孝友にして学を嗜む。弋陽は五伝にして絶ゆ、宗人、多煌の賢能なるを挙げ、勅して府事を摂せしめ、瑞昌の諸宗皆これに属す。性廉静にして寡欲、淑人熊氏早く卒し、再び娶らず、独り斎閣に処すること二十六年なり。万暦四十一年、撫・按、行誼を以て聞こゆ。詔してこれを褒む。会い病にて卒す、詔して守臣に加祭一壇せしむ。また多炡なる者あり、亦た奉国将軍、潁敏にして詩歌に善く、嘗て姓名を変えて出遊し、蹤跡呉・楚に遍し。晩年病羸、猶お吟誦を廃せず。卒し、門人私に諡して清敏先生と曰う。子謀堚も亦た父風有り。時に楽安輔国将軍多𤉰詩癖有り、謀堚等と志を放ち文酒に終る。