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明史
列傳第三 興宗孝康皇帝 睿宗興獻皇帝
興宗孝康皇帝
興宗孝康皇帝標は、太祖の長子である。母は高皇后。元の至正十五年に太平の陳迪の家で生まれた。太祖が呉王となると、王世子に立てられ、宋濂に従って経書を学んだ。
呉元年、十三歳の時、臨濠の墓所を省視することを命じられ、諭して曰く、「商の高宗は昔、外で労苦をなめ、周の成王は早くから『無逸』の訓戒を聞き、いずれも小民の疾苦を知った。ゆえに在位して勤倹であり、守成の名君となった。汝は富貴に生まれ育ち、安逸に慣れている。今、近隣の郡県に出て、山川を遊覧し、田野を経歴せよ。道途の険易によって鞍馬の勤労を知り、閭閻の生業を見て衣食の艱難を知り、民情の好悪を察して風俗の美悪を知るがよい。すなわち祖宗の居住した地に至り、父老を訪ね求め、我が起兵して江を渡った時の事を問い、心に銘記して、我が創業の容易でなかったことを知るがよい。」また中書省に命じて官を選び補佐として随行させた。過ぎ行く郡邑の城隍山川の神には、みな少牢をもって祭祀を行った。太平に過ぎて迪の家を訪ね、白金五十両を賜った。泗・濠に至って諸々の祖墓に告祭した。この冬、太祖に従って郊壇を観覧し、左右の者に命じて農家に導かせ、服食の器具を遍く観覧させ、また道傍の荊楚を指して曰く、「古はこれを用いて撲刑とした。風を去る能があるからで、傷つけても人を殺さない。古人の用心は仁厚このようであった。汝、これを心に留めよ。」洪武元年正月、皇太子に立てられた。帯刀舎人周宗が上書して太子を教導することを請うた。帝は嘉してこれを容れた。中書省・都督府が元の制度にならって太子を中書令とすることを請うた。帝は元の制度は法とすべきでないとして、詹同に命じて歴代の東宮官制を考証させ、勲徳老成の者および新進の賢者を選び、東宮官を兼ねて領せしめた。ここにおいて左丞相李善長は太子少師を兼ね、右丞相徐達は太子少傅を兼ね、中書平章録軍国重事常遇春は太子少保を兼ね、右都督馮宗異は右詹事を兼ね、中書平章政事胡廷端・廖永忠・李伯升は同知詹事院事を兼ね、中書左・右丞趙庸・王溥は副詹事を兼ね、中書参政楊憲は詹事丞を兼ね、傅瓛は詹事を兼ね、同知大都督康茂才・張興祖は左右率府使を兼ね、大都督府副使顧時・孫興祖は同知左右率府事を兼ね、僉大都督府事吳楨・耿炳文は左右率府副使を兼ね、御史大夫鄧愈・湯和は諭徳を兼ね、御史中丞劉基・章溢は賛善大夫を兼ね、治書侍御史文原吉・范顯祖は太子賓客を兼ねた。これに諭して曰く、「朕は東宮に別に府僚を設けず、卿らをして兼ねて領せしめるのは、軍旅が未だ止まず、朕がもし外に事あれば、必ず太子が国を監することになるからである。もし府僚を設ければ、卿らは内におり、事があれば啓聞すべきところ、太子の聴断が明らかでなく、卿らと意見が合わない場合、卿らは必ず府僚が導いたと言い、嫌隙が生じやすい。また特に賓客・諭徳等の官を置く所以は、太子の徳性を輔成せんと欲し、かつ名儒を選んでこれに当たらせるためである。この故である。昔、周公は成王に戎兵を克く詰むることを教え、召公は康王に六師を張惶することを教えた。これは安に居りて危を慮い、武備を忘れないためである。およそ継世の君は、富貴に生まれ育ち、安逸に親しみ、軍旅に通ぜず、一旦緩急あれば、措くところを知らない。二公の言、これを併せて識れ。」この年、国子生の国琦・王璞・張傑ら十余人を選び、太子に侍読せしめて禁中で読書させた。琦らが謹身殿に入対すると、儀状は明らかに秀で、応対は詳らかで雅やかであった。帝は喜び、殿中侍御史郭淵友らに謂って曰く、「諸生は文芸に習熟しているが、太子と処するには、その心術を正しくし、浮靡に流れず、もって儲徳もまた裨助を得るようにせよ。」よって厚くこれを賜った。未だ幾ばくもせず、梁貞・王儀を太子賓客とし、秦庸・盧徳明・張昌を太子諭徳とした。
先に、大本堂を建て、古今の図籍を取って其中に充実させ、四方の名儒を徴して太子・諸王を教え、番を分けて夜直させ、才俊の士を選んで伴読に充てた。帝は時時、宴を賜い詩を賦し、古今を商搉し、文字を評論して虚日無かった。諸儒に命じて『鐘山龍蟠賦』を作らせた。酒を置いて歓び甚だしく、自ら『時雪賦』を作り、東宮官に賜った。三師・諭徳に東宮を朝賀せしめ、東宮は答拝させた。また東宮及び王府の官に命じて、古人の行いで鑑戒とすべきものを編緝させ、太子・諸王を訓諭した。四年春、『大本堂玉図記』を制し、太子に賜った。
十年、今後は政事はみな太子に啓して処分させ、それから奏聞するよう命じた。諭して曰く、「古より創業の君は、勤労を歴渉し、人情に達し、物理に周くして、故に事を処するにみな当たる。守成の君は、富貴に生まれ育ち、もし平昔練達でなければ、誤りなき者は少ない。故に吾は特に汝に命じて日々群臣に臨み、諸司の啓事を聴断させ、以て国政を練習せしめる。仁のみは疏暴に失わず、明のみは邪佞に惑わされず、勤のみは安逸に溺れず、断のみは文法に牽かれない。凡そこれらは皆、心を以て権度とすべきである。吾が天下を有して以来、未だ暇逸せず、諸々の事務に毫髪でも失当ならんことを恐れ、以て上天の付託の意に負かんとする。星を戴いて朝し、夜分に寝ることは、汝が親しく見ているところである。汝がこれを体して行えば、天下の福である。」時に儒臣に命じて太子に『大学衍義』を講ぜしめた。二十二年、詹事院を置いた。
二十四年八月、勅して太子に陝西を巡撫せしめた。先に、帝は応天・開封を南京・北京とし、臨濠を中都とした。御史鬍子祺が上書して曰く、「天下の形勝の地で都とすべきものは四つある。河東は地勢高く、西北を制御し、堯が嘗てここに都したが、その地は苦寒である。汴梁は河・淮を襟帯し、宋が嘗てここに都したが、その地は平曠で、険阻に憑るもの無し。洛陽は周公がこれを卜し、周・漢がこれを遷したが、嵩・邙には殽函・終南の阻みが無く、澗・瀍・伊・洛には涇・渭・灞・滻の雄たるもの無し。およそ百二の河山の勝に拠れば、以て諸侯の望みを聳えしめ、天下を挙げるに、関中に若くものは無し。」帝は善しと称した。ここに至り、太子に諭して曰く、「天下の山川、秦の地のみは険固と号す。汝、往きて以て風俗を省観し、秦の父老子弟を慰労せよ。」ここにおいて文武の諸臣を選び太子の行に扈従せしめた。既に行かせて、諭して曰く、「汝、昨、江を渡るに、震雷が忽ち東南より起こり、汝を導いて前に行かしめた。これは威震の兆しである。然るに一句久しく陰って雨が降らず、占いに陰謀有りとある。挙動を慎み、宿衛を厳にし、仁を施し恵を布き、以て天意を回らすべし。」なお従行の諸臣に申諭して宿頓の様子を奏聞させた。
帰還するに及び、陝西の地図を献上し、やがて病んだ。病中、経略建都の事を上言した。明年四月丙子、薨去した。帝は慟哭した。礼官が期喪を議し、日をもって易えることを請うた。及び服を除くべき時、帝は忍びなかった。礼官が請うて、初めて服を釈して朝を視た。八月庚申、孝陵の東に祔葬し、諡して懿文と曰う。
皇太子は人として友愛に厚かった。秦王・周王ら諸王がたびたび過失を犯すと、いつも取りなして庇い、帰国させた。晋王に異謀があると告げる者がいたときは、皇太子が涙を流して請願したので、帝(太祖)も心を動かされた。帝は初め、兄の子の文正や姉の子の李文忠、沐英らを養子として育て、高皇后も実子同様に遇した。帝が何かの理由で彼らを責めると、皇太子は高皇后に告げて慰めさせた。その仁慈は天性のものであった。皇太子の元妃は常氏、継妃は呂氏である。五人の男子を生んだ。長男は雄英、次は建文皇帝、次は允熥、次は允熞、次は允熙である。建文元年に孝康皇帝と追尊され、廟号を興宗とした。燕王が帝位につくと、再び懿文皇太子と称した。孝康皇后常氏は、開平王常遇春の娘である。洪武四年四月に皇太子妃に冊立された。十一年十一月に薨去し、諡を敬懿とした。太祖は三日間朝政を停止した。建文元年に孝康皇后と追尊された。永楽元年に再び敬懿皇太子妃と称した。
皇太后呂氏は、寿州の人である。父の呂本は、累進して太常卿となった。恵帝が即位すると、皇太后として尊んだ。燕王の軍が金川門に至ると、太后を軍中に迎え、やむを得ず起兵した事情を述べた。太后が帰還する途中、宮中にすでに火の手が上がった。その後、その子の允熙に従って懿文陵に居住した。永楽元年に再び皇嫂懿文太子妃と称した。
初め、太祖は常妃を冊立し、続いて呂妃を冊立した。常氏が薨去すると、呂氏が単独で東宮に居住するようになった。その頃、秦王朱樉もまた王保保(拡廓帖木児)の妹を妃に迎え、さらに鄧愈の娘を配したが、これらはいずれも前代の故事にはなかったことである。
睿宗興献皇帝
睿宗興献皇帝朱祐杬は、憲宗の第四子である。母は邵貴妃。成化二十三年に興王に封ぜられた。弘治四年に徳安に邸宅を建てた。後に安陸に改めた。七年に藩国へ赴く際、舟が龍江に停泊すると、数万の慈烏が舟をめぐり、黄州に至っても同様であった。人々はこれを瑞祥とみなした。謝恩の上疏で五事を陳述した。孝宗はこれを嘉し、他の弟たちとは異なる賜物を与えた。
王は詩書を好み、珍玩を絶ち、女楽を蓄えず、公的な宴席でなければ牲醴を設けなかった。楚の地の風俗は巫覡を重んじて医薬を軽んじたので、良方を選び薬餌を設けて病者を救済した。長史の張景明が著した『六益』を王に献上すると、王は金帛を賜り、「我これを宮門に掲げよう」と言った。邸宅の傍らに陽春台という台があり、しばしば群臣や賓客を従えて登臨し詩を賦した。正徳十四年に薨去し、諡を献といった。
王が薨じて二年後に武宗が崩御し、王の世子が召されて大統を継承した。これが世宗である。礼臣の毛澄らは漢の定陶王、宋の濮王の故事を引き、孝宗を父とし、王を「皇叔父興献大王」、王妃を「皇叔母」と改称するよう求めた。帝は廷臣に集議を命じたが、決着しなかった。進士の張璁が上書して興献王を父とすべきことを請うと、帝は大いに喜んだ。ちょうど母妃が安陸から到着したが、通州で止まり入京しなかった。帝は張太后に申し出て、天子の位を避け、母妃を奉じて藩国に帰りたいと言った。群臣は恐れおののいた。太后は王を興献帝、妃を興献后に進めるよう命じた。張璁はさらに『大礼或問』を作って進呈し、主事の霍韜・桂萼、給事中の熊浹の議論が張璁と一致した。帝はそこで輔臣の楊廷和・蔣冕・毛紀に諭し、帝・后に「皇」の字を加えるよう命じた。楊廷和らは廷臣とともに争ったが、決着しなかった。嘉靖元年、禁中で火災があり、楊廷和と給事中の鄧継曾・朱鳴陽が五行五事を引き、礼制を廃した証拠とした。そこで「皇」の称をやめ、本生父を興献帝と称し、陵園を陵と尊び、黄屋や監衛を制度通りとし、祠署を安陸に設け、歳時に祭祀を行い、十二籩豆を用い、楽舞は八佾を用いた。帝の心は終に満足しなかった。三年に本生皇考恭穆献皇帝と加称し、興国太后を本生聖母章聖皇太后とし、奉先殿の西に観徳殿を建て、太廟と同じように祭祀した。七月、本生の号を除くよう命じた。九月、詔して孝宗を皇伯考と称し、献皇帝を皇考と称した。
張璁・桂萼らが急に貴顕となると、官途を求める者がこぞって礼制に関する言説で上意を迎えようとした。百戸の随全と録事の錢子勳が、献皇帝を天寿山に改葬すべきと進言した。礼部尚書の席書は議して言った、「高皇帝は祖陵を遷さず、太宗は孝陵を遷さなかった。これは慎重を期したためである。小臣が妄りに山陵を議するのは、罪に処すべきである」。工部尚書の趙璜も不可と言った。そこでやめた。陵を尊んで顕陵と名付けた。
翌年、『献皇帝実録』を編修し、太廟の左に世廟を建てた。六年、観徳殿が狭小であるため、崇先殿に改築した。七年、張璁らに命じて『明倫大典』を編纂させ、完成すると、尊諡を加えて恭睿淵仁寛穆純聖献皇帝とした。自ら『顕陵碑』を撰し、松林山を純徳山に封じ、方沢の祭祀に配祀し、五鎮の次とし、安陸州を承天府と改めた。
十七年、通州同知の豊坊が皇考に廟号を加え、宗と称して上帝に配祀すべきと請うた。九月、尊諡を加えて知天守道洪徳淵仁寛穆純聖恭倹敬文獻皇帝とし、廟号を睿宗とし、太廟に祔せ、位次を武宗の上とした。明堂の大享では、神主を奉じて天に配祀し、世廟の祭祀は廃止した。四十四年、世廟の柱に芝が生じ、再び玉芝宮を建てて祭祀した。穆宗が立つと、明堂の配享は廃止された。
初め、楊廷和らは益王の次子の崇仁王朱厚炫を興王に封じ、献帝の祭祀を奉ぜしめるよう議したが、許されなかった。興国の封は除かれた。献帝には長子の厚熙がいたが、生後五日で夭折した。嘉靖四年に岳王を追贈し、諡を懐献とした。
皇后蔣氏は、世宗の母である。父の蔣斅は大興の人で、玉田伯を追封された。弘治五年に興王妃に冊立された。世宗が大統を継承して即位すると、三日後に使者を安陸に派遣して奉迎させ、廷臣に推尊の礼を議させた。皆、孝宗を父とし、興王を皇叔父、妃を皇叔母と称すべきと言った。議が三度上ったが、決着しなかった。ちょうど妃が到着しようとしていた時、礼臣が入宮の儀礼を上奏し、崇文門から東安門に入り、皇帝が東華門で迎えるとしたが、許されなかった。再議して正陽門から大明門・承天門・端門に入り、王門から宮中に入るとしたが、またも許されなかった。王門とは諸王の出入りする門である。勅して言った、「聖母が至れば、太后の車服を用い、御道から入り、太廟を朝せよ」。故事では、后妃に廟を謁する礼はなかった。礼臣は難色を示した。その時、妃は通州に至り、孝宗を父とすると聞いて、怒って言った、「どうして我が子を他人の子とすることができようか」。留まって進まなかった。帝は涙を流して位を避けたいと願った。群臣は慈寿太后の命により、興献后と改称すると、ようやく入京した。太后の儀礼をもって奉先殿・奉慈殿の二殿を謁したが、廟見はしなかった。元年に興国太后と改称した。三年に至って尊号を本生章聖皇太后と上った。この年の秋、張璁らの言を用いて、聖母章聖皇太后と尊んだ。五年、献帝の世廟が完成すると、太后を奉じて入謁した。七年、尊号を慈仁と上った。九年、太后の制作した『女訓』を天下に頒布した。十五年、太后を奉じて天寿山陵を謁し、諸臣に行殿で賀を進めるよう命じた。この年に尊号を加えて康静貞寿とした。
十七年十二月に崩御し、礼部・工部の二部に諭して献皇帝を大峪山に改葬せしめ、駙馬都尉京山侯崔元を奉迎行禮使とし、兵部尚書張瓚を禮儀護行使とし、指揮趙俊を吉凶儀仗官とし、翊国公郭勳に聖母山陵の事を知らしめた。既にして、帝自ら大峪に幸して相視し、太后を奉じて南に詣で合葬することを議せしめた。而して礼部尚書厳嵩ら言う、「霊駕北より来たり、慈宮南に詣づ、共に一挙なり。大峪は朝に発して夕に至るべく、顕陵は遠く承天に在り、恐らくは陛下春秋これを念わん。臣は初めの議の如きが便なりと謂う」と。帝曰く、「成祖豈に皇祖を思わざらんや、何を以てか南の孝陵にせし」と。因って崔元らを行かしむるを止め、而して趙俊をして往かしめ、且つ幽宮を啓視せしむ。是の年、尊諡を上りて慈孝貞順仁敬誠一安天誕聖献皇后と曰う。明年、俊帰り、顕陵は吉ならずと謂う。遂に南巡を議す。九卿大臣許賛ら諫む。聴かず。左都御史王廷相また諫む。帝曰く、「朕豈に空しく行かんや、吾が母の為のみ」と。已にして侍御呂柟・給事中曾烶・御史劉賢・郎中岳倫ら復相継いで疏を上りて諫む。聴かず。三月、帝承天に至り、顕陵を謁し、新宮をここに作る。曰く、「合葬を待つなり」と。帰り慶都を過ぐるに、御史謝少南言う、「慶都に堯の母の墓あり、祀典に佚す。請う、これを祀らん」と。帝曰く、「帝堯の父母は陵を異にす。知るべし、合葬は古に非ざるを」と。即ち少南を左春坊左司直兼翰林院検討に拝し、議を定めて大峪山に葬らしむ。四月、帝長陵を謁し、厳嵩に諭して曰く、「大峪は純徳に如かず」と。仍って崔元に命じて梓宮を護りて南に祔せしむ。閏七月、顕陵に合葬し、主は睿宗廟に祔す。
贊
贊に曰く、興宗・睿宗は未だ嘗て天子たる身にはあらざれども、尊号徽称の典礼備わり、その実に泯すべからざる者有り。史とは事を記す所以なり。事を記すには必ずその名と実を核す。宗と曰い帝と曰うは、当時に已に定めし名なり。名定まりて実著わる。爰に『元史』の裕宗・睿宗列伝の例に拠り、別に右の如き一卷を為し、而して各以って后を附す。