明史

列傳第二 后妃二

孝康敬皇后

孝宗の孝康皇后張氏は、興済の人である。父は巒、郷貢によって太学に入った。母の金氏は、月が懐に入る夢を見て后を生んだ。成化二十三年に太子妃に選ばれた。この年、孝宗が即位し、冊立されて皇后となった。帝は外戚を大いに優遇し、巒を追封して昌国公とし、后の弟の鶴齢を寿寧侯に、延齢を建昌伯に封じ、后のために興済に家廟を立てさせ、工事は壮麗で、数年を経てようやく完成した。鶴齢・延齢はともに宮禁に籍を置き、家人をして奸利を恣にさせたが、内外の諸臣多くこれを言上したものの、帝は后のゆえに問わなかった。

武宗が即位すると、皇太后と尊んだ。五年十二月、寘鐇の平定により、尊号を上って慈寿皇太后とした。世宗が入って継承すると、聖母と称し、さらに尊号を加えて「昭聖慈寿」とした。嘉靖三年に「昭聖康惠慈寿」を加えた。やがて、伯母と改称した。十五年、再び「昭聖恭安康惠慈寿」を加えた。二十年八月に崩じ、諡して「孝康靖肅莊慈哲懿翊天贊聖敬皇后」といい、泰陵に合葬し、廟に祔せた。

武宗の崩御に際し、江彬らは不軌を企んだ。后と大学士楊廷和が禁中で策を定め、世宗を迎え立てたことに依ったが、世宗が后に事えることは日に日に薄くなった。元年の大婚に際し、初めは昭聖(張太后)の懿旨と伝えたが、後にまた寿安太后と改めた。寿安とは、憲宗の妃で、興献帝の生母である。廷和がこれを争い、やっと止んだ。三年、興国太后(世宗生母)の誕節に、命婦に朝賀を命じ、宴賜は常の倍であった。后の誕日には、賀を免ずるよう勅した。修撰の舒芬が疏を上て諫め、俸を奪われた。御史の硃淛・馬明衡・陳逅・季本、員外郎の林惟聰らが先後に言上し、皆罪を得た。ついに朝賀は罷められた。

初め、興国太后は藩妃として入ったが、太后(張氏)はなお故事をもってこれに遇したので、帝は大いに悦ばなかった。帝が朝見するに及んで、太后がこれをもまた倨傲に待った。時に太后の弟の延齢が人に訴えられ、帝は延齢を謀逆の罪に坐して死を論じたので、太后は窮迫して出る所を知らなかった。哀衝太子が生まれると、入賀を請うたが、帝は謝して会わなかった。人をやって請わせたが、許さなかった。大学士の張孚敬もまた延齢のために請うたが、帝は手勅して言った、「天下は、高皇帝の天下であり、孝宗皇帝は高皇帝の法を守られた。卿は伯母の心を傷つけることを慮るが、どうして高・孝二廟の心を傷つけることを慮らないのか」。孚敬はまた奏して言った、「陛下が位を嗣いだ時、臣の言を用いて伯母皇太后と称され、朝臣は過ちを陛下に帰し、今に至るまで止まない。今、大小の臣工は黙して一言もなく、誠に太后が令終を得られず、以て陛下の過ちを重くすることを幸いとしているのである。そもそも謀逆の罪は、獄が成れば族誅に坐すべきものであり、昭聖(張太后)だけが張氏でないということがあろうか。陛下はどうしてこれを処せられるのか」。冬月に囚を慮する時、帝はまた延齢を殺そうとしたが、再び孚敬の言によって止んだ。まもなく、奸人の劉東山という者が変を告げ、併せて鶴齢をも詔獄に下した。太后はついに敝れた短衣を着て藁の筵に座り請うたが、また聞き入れられなかった。久しくして、鶴齢は獄死した。太后の崩御に及んで、帝はついに延齢を殺した。事は詳しく『外戚傳』にある。

孝靜毅皇后

武宗の孝靜皇后夏氏は、上元の人である。正徳元年に冊立されて皇后となった。嘉靖元年に尊称を上って「莊肅皇后」といった。十四年正月に崩じ、康陵に合葬し、廟に祔せた。初め、礼臣が喪儀を上奏したが、帝は言った、「嫂と叔には服はなく、かつ両宮が上にある。朕は青服を着し、臣民は母后の服の如くせよ」。礼部尚書の夏言が言った、「皇上が嫂叔の服を絶たれるならば、群臣は素服で皇上に謁することができません。暫く朝参を罷めることを請います」。許された。やがて諡を議し、大学士の張孚敬が言った、「大行皇后は、上の嫂であり、累朝の元后とは異なります。二字または四字を用いるべきです」。李時が言った、「八字を用いるべきです」。左都御史の王廷相・吏部侍郎の霍韜らが言った、「皆帝后であるのに、何の違いがあろうか」。夏言は衆議を集め、よって奏して言った、「古人は質を尚び、諡法は簡にして、その行いを称えた。後人が増加するのは、臣子の情である。今の世に生きる者は、今の制を行うべきである。大行皇后は列聖の元后の諡の如くすべきであり、二・四及び八は、礼に拠るところがない」。帝は従わず、再議を命じた。群臣は孚敬の言の如くすることを請うた。帝は言った、「六を用いよ、陰数に合う」。ここにおいて諡を上って「孝靜莊惠安肅毅皇后」とした。十五年、帝は孚敬の言が正しくないと覚り、勅して言った、「孝靜皇后の諡は備わらず、武宗に配するに称しない」。よって諡を改めて「孝靜莊惠安肅溫誠順天偕聖毅皇后」とした。

孝潔肅皇后

世宗の孝潔皇后陳氏は、元城の人である。嘉靖元年に冊立されて皇后となった。帝の性質は厳厲であった。一日、后と同座し、張・方の二妃が茶を進めた。帝はその手を巡らせて視た。后は怒り、杯を投げて立ち上がった。帝は大いに怒った。后は驚悸し、妊娠を堕して崩じた。七年十月である。喪礼は簡略に従った。帝は素服で西角門に御すること十日、すなわち玄冠玄裳で奉天門に御し、諡して「悼靈」といい、襖児峪に葬った。葬る日、梓宮は王門を出で、百官は一日臨んだ。給事中の王汝梅が諫めたが、聞き入れられなかった。十五年、礼部尚書の夏言が議して改諡を請うた。時に帝の意は久しく解けていたので、すなわち諡を改めて「孝潔」といった。穆宗が即位し、礼臣が議した、「孝潔皇后は、大行皇帝の元配であり、合葬し廟に祔せるべきである。もし遺制に遵って孝烈(方皇后)を祔せれば、元配を捨てることになり、もし同祔すれば、二后となる。大行皇帝が升祔する時、孝潔を奉じて配し、永陵に遷葬すべきであり、孝烈の神主は別に祀るべきである」。許可の報せがあった。隆慶元年二月に尊諡を上って「孝潔恭懿慈睿安莊相天翊聖肅皇后」といった。

張皇后

廃后張氏は、世宗の第二の后である。初め順妃に封ぜられた。七年、陳皇后が崩じたので、ついに立てられて后となった。この時、帝は古礼を追うようになり、后に率いられて嬪御が北郊で親蚕を行い、また日に六宮を率いて宮中で章聖(世宗母)の『女訓』を聴講させた。十三年正月に廃されて別宮に居した。十五年に薨じ、喪葬の儀は宣宗の胡廃后の例に准じた。

孝烈方皇后

孝烈皇后方氏は、世宗の第三の后である。江寧の人。帝が即位して十年近くになるが、未だ子がなかった。大学士の張孚敬が言った、「古えは天子が后を立て、併せて六宮・三夫人・九嬪・二十七世婦・八十一御妻を建てたのは、嗣を広めるためである。陛下は春秋に鼎盛であらせられる。広く淑女を求めて、子嗣の計とすべきです」。従った。十年三月、后は鄭氏・王氏・閻氏・韋氏・沈氏・盧氏・沈氏・杜氏とともに九嬪として冊され、九翟の冠を戴き、大採の鞠衣を着し、圭は次玉を用い、谷文、冊は黄金を塗り、皇后より五分の一を減じた。期日に至り、帝は袞冕で太廟に告げ、還って皮弁を服し、華蓋殿に御し、制を伝え、大臣を遣わして冊礼を行わせた。冊した後、皇后に従って奉先殿に朝した。礼が成ると、帝は皮弁を服し、百官の賀を受けられた。これは礼を創めたのである。張后が廃されると、ついに立てられて后とし、沈氏を宸妃に、閻氏を麗妃に封じた。旧制では、后を立てるには、内廟に謁するのみであった。ここに至り、礼臣に下して廟見の礼を議させた。ここにおいて群臣は、天子が三宮を立てて宗廟を承けること、『礼経』に廟見の文があることを以て、すなわち『礼経』を考拠し、『大明集礼』を参稽して、儀注を擬して上った。期日に至り、帝は后を率いて太廟及び世廟に謁した。三日を過ぎて、詔を天下に頒った。明日、命婦の朝を受けた。

二十一年、宮女の楊金英らが逆を謀り、帝は后の救いにより免れる。そこで后の父泰和伯方鋭の爵を侯に進めた。初め、曹妃に色あり、帝これを愛し、端妃に冊封した。この夜、帝は端妃の宮に宿った。金英らは帝の熟睡を窺い、組で帝の項を絞めたが、誤って死結となり、絶えなかった。同謀の張金蓮は事の成らぬを知り、走って后に告げた。后は馳せ至り、組を解き、帝は蘇生した。后は内監張佐らに命じて宮人を捕らえ雑治させ、金英らが逆を謀り、王寧嬪が首謀であると言わせた。また言うには、曹端妃は与からずとも、謀を知っていたと。時に帝は病悸して言えず、后は帝の命を伝えて端妃・寧嬪及び金英らを悉く市で磔にし、併せてその族属十余人を誅した。然れども妃は実は知らなかった。久しくして、帝は初めてその冤を知った。

二十六年十一月乙未、后崩ず。詔して曰く、「皇后は比来朕の危を救い、天に奉じて難を済す。元后の礼を以て葬るべし」と。予め葬地を「永陵」と名付け、諡して孝烈とし、親しく諡礼を定め、昔より加えて隆重ならしめた。礼成り、詔を天下に頒つ。及び大祥、礼臣は主を奉先殿東夾室に安んずるを請うたが、帝は曰く、「奉先殿夾室は正しからず。即ち太廟に祔すべし」と。ここにおいて大学士厳嵩らは位を太廟の東、皇妣睿皇后の次に設け、后の寝蔵する主は則ち憲廟皇祖妣の右に幄を設け、祖姑に祔するの義に従わんことを請うた。帝曰く、「祔礼は至重である。豈に権宜に就くべけんや。后は帝に非ず、乃ち帝に配する者なり。自ら一定の序あり。何ぞ享は此よりし、主は彼に蔵するの礼あらんや!仁宗を祧し、新序を以て祔し、即ち朕の位次とせよ。礼を乱すこと勿れ」と。嵩曰く、「新序に祔することは、臣下の敢えて言う所に非ず。且つ陰は陽位に当たるべからず」と。ここにおいて命じて姑く主を睿皇后の側に蔵せしめた。

二十九年十月、帝は終に后を太廟に祔せんと欲し、再議を命じた。尚書徐階は不可と言い、給事中楊思忠は階の議に是とし、余は言う者無し。帝は状を覘い知る。議疏が入ると、謂く、「后は中宮に正位し、礼は宜しく祔享すべし。但だ遽かに廟次に及べば、則ち臣子の情、唯だ敢えずのみならず、実に忍びざるなり。宜しく位を奉先殿に設くべし」と。帝は震怒した。階・思忠は惶恐して言う、「周は九廟を建て、三昭三穆とす。国朝の廟制は、同堂異室にして、『周礼』と相同じからず。今太廟九室皆満ちたり。若し聖躬を論ずれば、仁宗は当に祧すべく、固より言うを待たず。但だ此れは異日の聖子神孫の事なり。臣聞く、夏人の廟は五、商は七を以てし、周は九を以てす。礼は義より起こる。五は七と為し得、七は九と為し得、九の外も亦加うるを得べし。請う、太廟及び奉先殿に各二室を増し、以て孝烈を祔せしめば、則ち仁宗は必ずしも祧さず、孝烈皇后は速やかに南面の位を正し得、陛下も亦預て祧して之を俟つの嫌い無からん」と。帝曰く、「臣子の誼、当に祧すべく当に祔すべきは、力を請うべし。苟も礼其の正を得ば、何ぞめを避けんや」と。ここにおいて階らは復た廷臣を会して上言す、「唐・虞・夏は五廟、其の祀は皆四世に止まる。周は九廟、三昭三穆、然れども兄弟相及ぶも、亦六世を尽く足す能わず。今仁宗は皇上の五世祖、聖躬を論ずれば、仁宗は礼に当に祧し、孝烈皇后は礼に当に祔す。請う、仁宗を祧し、孝烈皇后を太廟第九室に祔せん」と。因りて祧祔の儀注を上る。

已にして忌日の祭を請う。帝は猶前議を銜み、報じて曰く、「孝烈は継后、奉ずる所は又入継の君なり。忌日に祭せずとも可なり」と。階らは益々力を請う。帝曰く、「天子に非ざれば礼を議せず。后は当に廟に祔し、朕の室次に居るべし。礼官顧みて今日未だ宜しからずと謂い、徒らに説を飾りて衆聴を惑わす」と。因りて厳嵩らに諭して曰く、「礼官朕の言に従うは、勉強するのみ。即ち仁宗を祧すに忍びずば、且つ后の主を別廟に置き、将来臣下に議処せしめよ。忌日には一卮の酒を奠めしめ、情を傷つけるに至らしむるなかれ」と。ここにおいて礼臣は敢えて復た言わず、第に敕の如く行うを請う。乃ち之を許した。後二年、楊思忠は賀表が忌に触れ、杖を予て籍を削がれた。隆慶初、孝潔皇后と同日に尊諡を上りて「孝烈端順敏惠恭誠祗天衛聖皇后」と曰い、主を弘孝殿に移す。

孝恪杜太后

孝恪杜太后は、穆宗の生母なり、大興の人。嘉靖十年に康嬪に封ぜられる。十五年妃に進封。三十三年正月に薨ず。この時、穆宗は裕王として邸に居り、礼部尚書欧陽德は喪儀を奏し、朝を五日輟め、裕王に喪事を主たせ、高皇帝の『孝慈録』に遵い、斬衰三年を請うた。帝は君父の尊を避くべしと謂う。大学士厳嵩言う、「高帝は周王橚に命じて孫貴妃の為に慈母の服を服せしめ、斬衰三年とせり。是の年、『孝慈録』成り、遂に定制と為り、自後久しく是の事無し。及ぶ茲に則を為して後に垂訓すべし」と。帝は賢妃鄭氏の故事に比せよと命じ、朝を二日輟む。諡を賜いて栄淑とし、金山に葬る。穆宗立ち、諡を上りて「孝恪淵純慈懿恭順贊天開聖皇太后」と曰い、永陵に改葬し、主を神霄殿に祀る。后の父林を追封して慶都伯とし、其の子継宗に嗣がしむ。

孝懿莊皇后

穆宗孝懿皇后李氏、昌平の人。穆宗裕王たりし時、選ばれて妃と為り、憲懐太子を生む。嘉靖三十七年四月に薨ず。帝は部疏が薨と称するは制に非ずとし、故と改称せよと命じ、金山に葬る。穆宗即位し、諡して「孝懿皇后」と曰い、后の父銘を徳平伯に封ず。神宗即位し、尊諡を上りて「孝懿貞惠順哲恭仁儷天襄聖莊皇后」と曰い、昭陵に合葬し、太廟に祔す。

孝安陳皇后

孝安皇后陳氏、通州の人。嘉靖三十七年九月に選ばれて裕王の継妃と為る。隆慶元年に冊立して皇后と為す。后は子無く病多く、別宮に居る。神宗即位し、尊号を上りて仁聖皇太后と曰う。六年に貞懿を加え、十年に康静を加う。初め、神宗東宮に在りし時、毎朝奉先殿を謁し、帝及び生母に朝するを畢え、必ず后の所に至り安否を問う。后は履声を聞けば輒ち喜んだ。既に位を嗣ぎ、孝事両宮に間無し。二十四年七月に崩じ、諡して「孝安貞懿恭純溫惠佐天弘聖皇后」と曰い、奉先殿別室に祀る。

孝定李太后

孝定李太后は、神宗の生母なり、漷県の人。裕邸において穆宗に侍す。隆慶元年三月に貴妃に封ぜられる。神宗を生む。即位し、尊号を上りて慈聖皇太后と曰う。旧制、天子立ち、皇后を尊んで皇太后と為す。若し生母太后と称する有らば、則ち徽号を加えて以て之を別つ。是の時、太監馮保は貴妃に媚びんと欲し、因りて並尊を以て大学士張居正に風し廷臣に議せしむ。皇后を尊んで「仁聖皇太后」と曰い、貴妃を尊んで「慈聖皇太后」と曰い、始めて別無し。仁聖は慈慶宮に居り、慈聖は慈寧宮に居る。居正は太后に帝の起居を視せしむるを請い、乃ち乾清宮に徙り居らしむ。

太后は帝を厳しく教導した。帝が時に書を読まぬことがあると、直ちに召して長跪せしめた。講筵に臨む毎に、嘗て講臣に模して前に進み講ぜしめた。朝期に遇うと、五更に帝の寝所に至り、「帝起きよ」と呼び、左右に命じて帝を扶け坐らせ、水を取って顔を洗わせ、手を引いて輦に登せて出た。帝は太后に事えること謹んで、諸内臣の太后の旨を奉ずる者は、往々にして挟持すること過ぎた。帝が嘗て西城で曲宴にて酒に酔い、内侍に新声を歌わせたが、辞して能わず、剣を取ってこれを撃った。左右が諫めて解き、乃ち戯れにその髪を断った。翌日、太后聞き、居正に伝えて語り、疏を具して切に諫め、帝の為に罪己の御札を草せしめた。又帝を召して長跪せしめ、その過ちを数えた。帝は涕泣して改めることを請い、乃ち已んだ。六年、帝大婚し、太后は将に慈寧宮に還らんとし、居正に勅して曰く、「吾は皇帝を朝夕視ること能わず、先生は親しく先帝の付託を受けし者、その朝夕誨えを納れ、終に先帝の憑幾の誼を全うせよ。」三月、尊号を加えて「宣文」と曰す。十年に「明肅」を加う。十二年、仁聖太后と共に山陵に謁す。二十九年に貞寿端献を加う。三十四年に恭熹を加う。四十二年二月崩じ、上尊諡して「孝定貞純欽仁端肅弼天祚聖皇太后」と曰し、昭陵に合葬し、別に崇先殿に祀る。

后の性質は厳明なり。万暦初政、張居正を委任し、名実を綜核して、幾くも富強に至るは、后の力多し。光宗の未だ冊立せられざる時、給事中姜応麟等の疏請して謫せらるるを、太后聞きて善しとせず。一日、帝入りて侍す、太后其の故を問う。帝曰く、「彼は都人の子なり。」太后大いに怒りて曰く、「爾も亦た都人の子なり!」帝は惶恐し、地に伏して敢えて起たず。蓋し内廷は宮人を「都人」と呼び、太后も亦た宮人より進みし故に云うなり。光宗是より由りて立つことを得たり。群臣福王の藩に行くことを請い、行くこと日有り、鄭貴妃は之を来年に遅らせんと欲し、以て太后の誕を祝うを解とす。太后曰く、「吾が潞王も亦た来たりて寿を上ぐる可きか!」貴妃乃ち敢えて福王を留めず。御史曹学程は以て建言して死を論ぜらる。太后其の母老ゆるを憐れみ、帝に言いて之を釈す。后の父偉は武清伯に封ぜらる。家人嘗て過ち有り、中使をして出でて之を数えしめ、而して其の家人を法に抵す。顧みて仏を好み、京師内外多く梵刹を置き、動もすれば巨万を費やし、帝も亦た施すこと算無し。居正の在日の時、嘗て以て言うも、用いること能わざりき。

孝端顕皇后

神宗の孝端皇后王氏は、余姚の人、京師に生る。万暦六年冊立して皇后と為る。性質は端謹、孝定太后に事えて其の歓心を得たり。光宗東宮に在り、危疑する者数たび矣、調護備至たり。鄭貴妃寵を顓にす、后は較えず。中宮に正位すること四十二年、慈孝を以て称せらる。四十八年四月崩じ、諡して孝端と曰す。光宗即位し、上尊諡して「孝端貞恪莊惠仁明媲天毓聖顕皇后」と曰す。会すに帝崩じ、熹宗立ち、始めて冊宝を上ぐ、定陵に合葬し、主は廟に祔す。

后と同日に冊封せらるる者に昭妃劉氏有り。天啓・崇禎の時、嘗て慈寧宮に居り、太后の璽を掌る。性質は謹厚、諸王を撫愛す。荘烈帝は礼事すること大母の如し。嘗て歳朝の朝見に、帝は便坐に就く、俄かに仮寐す。太后は驚かす勿れと戒め、尚衣に命じて謹んで之を護らしむ。頃之、帝覚め、衣冠を摂めて起ち謝して曰く、「神祖の時は海内事少く、今は苦しく多難、両夜文書を省み、未だ嘗て睫を交えず、太妃の前に在りて、困りて自ら持すること此の如し。」太妃之が為に泣下す。崇禎十五年薨じ、年八十有六。

孝靖王太后

孝靖王太后は、光宗の生母なり。初め慈寧宮の宮人と為る。年長し、帝慈寧に過ぎ、私かに之を幸し、身有り。故事:宮中寵を承くるは、必ず賞賚有り、文書房の内侍は年月及び賜う所を記して以て験と為す。時に帝之を諱み、故に左右言う者無し。一日、慈聖に侍して宴し、語之に及ぶ。帝応ぜず。慈聖は内起居注を取って示すことを命じ、且つ好語して曰く、「吾老いり、猶お未だ孫有らず。果たして男子ならば、宗社の福なり。母は子を以て貴し、寧ぞ差等を分かたんや?」十年四月恭妃に封ず。八月、光宗生る、是を皇長子と為す。既にして鄭貴妃皇三子を生み、進めて皇貴妃と封ぜられ、而して恭妃は進封せられず。二十九年皇長子を冊立して皇太子と為し、仍って封ぜられざる如故なり。三十四年、元孫生る、慈聖の徽号を加え、始めて進めて皇貴妃と封ず。三十九年病革す、光宗旨を請いて往きて省うことを得、宮門猶お閉ざり、鑰を抉ちて入る。妃は目眚有り、光宗の衣を手にして泣いて曰く、「児長大して此の如し、我死すとも何の恨みか有らん!」遂に薨ず。大学士葉向高言う、「皇太子の母妃薨ずれば、礼は厚きに従うべし。」報ぜず。復た請う、乃ち允さるることを得たり。諡して温肅端靖純懿皇貴妃と曰し、天寿山に葬る。

光宗即位し、詔を下して曰く、「朕基緒を嗣承し、万方を撫臨す、其の慶源を溯れば、則ち我が生母温肅端靖純懿皇貴妃の恩は大なること莫し。朕昔青宮に在りし時は、温凊に親しむこと莫く、今禁闥に居りては、徒らに桮棬を痛む、罔極の深き悰を伸べんと欲すれば、惟だ殷礼に称するを肇むるに有り。其れ皇祖穆宗皇帝の生母栄淑康妃を尊ぶ故事に準い、礼部詳議して以て聞かしめよ。」会すに崩じ、熹宗即位し、上尊諡して「孝靖温懿敬讓貞慈参天胤聖皇太后」と曰し、定陵に遷葬し、奉慈殿に祀る。后の父天瑞は、永寧伯に封ぜらる。

鄭貴妃

恭恪貴妃鄭氏は、大興の人。万暦初め宮に入り、貴妃に封ぜられ、皇三子を生み、皇貴妃に進む。帝之を寵す。外廷は妃が己が子を立てん謀り有るを疑う。群臣儲を立てん事を争って言い、章奏累ねて数千百、皆宮闈を指斥し、執政を攻撃す。帝は概ね置いて問わず。是より門戸の禍大いに起こる。万暦二十九年春、皇長子迎禧宮に移り、十月皇太子に立てらる、而して疑う者は未だ已まず。

先に、侍郎呂坤が按察使であった時、『閨範図説』を集めたことがあった。太監陳矩がこれを見て、持って帝に進めた。帝は妃に賜い、妃はこれを重刻したが、呂坤は関与していない。二十六年秋、或る者が『閨範図説跋』を撰し、名を『憂危竑議』として、その名を匿し、盛んに京師に伝わり、『坤書』の巻頭に漢の明徳馬后が宮人より中宮に進位したことを載せているのは、妃を指す意であり、妃の刊刻は、実はこれにより己が子を立てる根拠としたのだという。その文は「硃東吉」に仮託して問答とする。「東吉」とは、東朝(皇太子)である。その名を『憂危』とするのは、呂坤がかつて『憂危』の一疏を上したことがあり、その名を借りて諷したもので、妖言である。妃の兄国泰、甥承恩は、給事中戴士衡がかつて呂坤を糾弾し、全椒知県樊玉衡が貴妃を併せて糾弾したので、二人の手によるものと疑った。帝は二人を重く謫し、妖言は問わなかった。五年を過ぎて、『続憂危竑議』が再び出た。この時太子は既に立てられており、大学士硃賡がこの書を得て上聞した。書は「鄭福成」に仮託して問答とする。「鄭福成」とは、鄭(鄭貴妃)の福王が当に成る(皇太子になる)という意味である。大略言うには、「帝は東宮を已むを得ず立てたもので、他日必ず易える。特に硃賡を内閣に用いるのは、実は更易の意味を寓している」と。言葉は特に詭妄で、当時皆これを妖書と言った。帝は大いに怒り、錦衣衛に厳しく搜捕を命じた。久しくして、ようやく皦生光という者を得て、極刑に処し、言葉は郭正域、沈鯉の伝に詳しい。

四十一年、百戸王曰乾がまた変事を告げ、奸人孔学らが巫蠱を行い、聖母及び太子に不利を図ろうとしていると言い、言葉は妃にも及んだ。大学士葉向高が帝に静かに処するよう勧め、福王の藩国への赴任を速めて群言を止めさせたことに頼り、事はやんだ。その後「梃撃」の事が起こり、主事王之寀が張差の獄情を疏言し、言葉が貴妃宮内侍の龐保、劉成らに連なり、朝議が洶洶とした。貴妃はこれを聞き、帝に向かって泣いた。帝は言った、「外廷の言葉は解し難い、汝自ら太子に求めよ」。貴妃は太子に向かって号訴した。貴妃が拝すると、太子も拝した。帝はまた慈寧宮の太后の几筵の前で群臣を召見し、太子に降って株連を禁ずる諭を下させ、ここにおいて張差の獄は定まった。神宗が崩じ、遺命で妃を皇后に封じようとした。礼部侍郎孫如游が争ったので、やめた。光宗が崩じた時、妃が李選侍と共に乾清宮に同居し、垂簾聴政を謀ったという言があり、久しくしてやっと止んだ。

崇禎三年七月に薨じ、諡を「恭恪恵栄和靖皇貴妃」とし、銀泉山に葬った。

孝元貞皇后

光宗孝元皇后郭氏は、順天の人である。父維城は女の貴により、博平伯に封ぜられ、侯に進んだ。卒し、兄振明が嗣いだ。后は万暦二十九年に皇太子妃に冊立された。四十一年十一月に薨じ、諡を恭靖とした。熹宗が即位し、尊諡を上って「孝元昭懿哲恵荘仁合天弼聖貞皇后」と曰い、慶陵に遷葬し、廟に祔した。

孝和王太后

孝和王太后は、熹宗の生母であり、順天の人である。光宗の東宮に侍し、選侍となった。万暦三十二年、才人に進んだ。四十七年三月に薨じた。熹宗が即位し、尊諡を上って「孝和恭献温穆徽慈諧天鞠聖皇太后」と曰い、慶陵に遷葬し、奉先殿に祀った。崇禎十一年三月、孝純太后の尊諡を加えるに当たり、御用監より后及び孝靖太后の玉冊玉宝を得て、始めて有司に命じて廟に献じさせた。忠賢の党の王体乾は怠玩の罪に坐し、死を論ぜられた。蓋し上諡の時より十八年を距っていた。

孝純劉太后

孝純劉太后は、荘烈帝の生母であり、海州の人で、后の籍は宛平である。初め宮に入り淑女となった。万暦三十八年十二月、荘烈皇帝を生んだ。已にして、光宗の意に失い、譴せられて薨じた。光宗は中で悔い、神宗に知られるのを恐れ、掖庭に言うなと戒め、西山に葬った。荘烈帝が成長し、信王に封ぜられると、賢妃に追進した。時、荘烈帝は勗勤宮に居り、近侍に問うて曰く、「西山に申懿王の墳があるか」と。曰く、「有り」と。「傍らに劉娘娘の墳があるか」と。曰く、「有り」と。密かに金銭を付して往き祭らせた。即位すると、尊諡を上って「孝純恭懿淑穆荘静毘天毓聖皇太后」と曰い、慶陵に遷葬した。

帝は五歳で太后を失い、左右に遺像を問うたが、得る者はなかった。傅懿妃という者は、旧く太后と共に淑女であり、宮居を比べ、自ら太后に習い、宮人中で状貌の類似する者を言い、后の母瀛国太夫人に画工を指示させ、意に適うように得させた。図が成ると、正陽門より法駕を具えて迎え入れた。帝は午門に跪いて迎え、宮中に懸け、老宮婢を呼んで視させた。或いは似ていると言い、或いは否と言った。帝は雨のように泣き、六宮皆泣いた。

故事では、生母の忌日には祭を設けず、青服を着ない。十五年六月、帝は太后の故により、前代の生母・継后七后を追って、一廟を同建し、以て孝思を展べようとした。乃ち徳政殿に御し、大学士及び礼臣を召し入れて問うて曰く、「太廟の制は、一帝一后、祧廟もまた然り、歴朝の継后及び生母凡そ七位は皆与ることができず、即ち宮中の奉先殿にも尚祭が無い、如何にせん」と。礼部侍郎蒋徳璟曰く、「奉先殿の外に尚奉慈殿有り、継后及び生母を奉ずる所以のものなり、廃せられしも挙げ可きなり」と。帝曰く、「奉慈殿の外に、尚弘孝、神霄、本恩諸殿有り」と。徳璟曰く、「内廷の規制は、臣等未だ悉さず。孝宗奉慈殿を建て、嘉靖間之を廃す、今未だ旧基の有るや否や知らず」と。帝曰く、「奉慈は已に撤せり、惟だ奉先は尚拓く可きなり」と。ここにおいて別に一殿を置き、孝純及び七后を祀ったという。

李康妃

康妃李氏は、光宗の選侍である。時に宮中に二李選侍有り、人は東李・西李と称した。康妃とは西李であり、最も寵愛され、嘗て熹宗及び荘烈帝を撫視した。光宗が即位し、不豫となり、大臣を召し入れた。帝は暖閣に御し、几に憑り、選侍を皇貴妃に封ずることを命じた。選侍は熹宗を促して出て曰く、「后に封ぜんと欲す」と。帝は応じなかった。礼部侍郎孫如游奏して曰く、「今両太后及び元妃、才人の諡号俱に未だ上らず、四大礼を行った後に未だ晩からず」と。既にして帝崩じ、選侍は尚乾清宮に居り、外廷は恟懼し、選侍が聴政せんと欲するを疑った。大学士劉一燝、吏部尚書周嘉謨、兵科都給事中楊漣、御史左光斗等上疏して力争い、選侍は仁寿殿に移居した。事は一燝、漣の伝に詳しい。

熹宗即位し、詔を降して選侍が聖母を凌辱殴打し、因って崩逝せしめ、及び妄りに垂簾を覬覲する状を暴く。而して御史賈繼春、安選侍の掲を進め、周朝瑞と争駁已まず。帝復た詔を降して曰く、「九月一日、皇考賓天し、大臣宮に入り哭臨畢り、因りて朝見を請う。選侍朕を暖閣に阻み、司礼監官固く請うて、乃ち出づるを得たり。既に許して復た悔い、又た李進忠等をして再三朕を趣き回らしむ。朕の乾清丹陛に至るに及んで、進忠等猶ほ朕の衣を牽きて釋かず。甫にして前宮門に至れば、又た数数人を遣わして朕をして還り、文華殿に御する毋からしむ。此れ諸臣の目睹する所なり。選侍の行う事を察するに、明らかに朕躬を要挟し、垂簾聴政せんと欲す。朕皇考の選侍に撫視せしむるを蒙り、飲膳衣服皆皇祖・皇考の賜う所なり。選侍侮慢凌虐し、朕昼夜涕泣す。皇考自ら其の誤りを知り、時に勸慰を加う。若し宮を避くること早からずんば、則ち爪牙列を成し、朕且つ若何なるかを知らざらん。選侍聖母を毆崩するに因り、自ら罪有るを忖し、毎に宮人をして窃かに伺わしめ、朕と聖母の旧侍とをして言わしめず、有れば輒ち捕え去る。朕の苦衷、外廷豈に能く悉くせんや。乃ち諸臣聖母を念わず、惟だ選侍に党し、妄りに謗議を生じ、軽重倫を失い、理法焉にか在らんや!朕今選侍の封号を停め、以て聖母の在天の霊を慰めんとす;選侍及び皇八妹を厚く養い、以て皇考の意を敬い遵わんとす。爾諸臣以て朕心を仰ぎ体せんことを得べし。」と。已にして、復た屢旨を以て繼春を詰責し、繼春遂に籍を削られて去る。

この時、熹宗は即位したばかりで、司礼太監の王安に任せたので、勅諭はこのようであった。久しくして、魏忠賢が政を乱した。四年に選侍を康妃に封じた。五年に『三朝要典』を修し、楊漣・左光斗らは皆罪を得て死し、再び賈継春を召し、以前の旨と大いに異なった。久しくして、始めて卒した。莊妃李氏、即ちいわゆる東李である。仁慈にして言笑寡く、位は西李の前に在りしも、寵は及ばず。莊烈帝は幼くして母を失い、西李に養育された。既にして西李は女子を生み、光宗は改めて東李に命じて撫視せしめた。天啓元年二月に莊妃に封じた。魏忠賢・客氏が用事し、妃の正を執ることを悪み、宮中の礼数多く裁損せられ、憤鬱して薨じた。崇禎初め、詔して妃の弟成楝に田産を賜う。

選侍趙氏は、光宗の時、封號が未だ無かった。熹宗が即位すると、忠賢・客氏は彼女を憎み、詔を矯って自盡を賜う。選侍は光宗の賜り物を案上に列ね、西に向かって佛を禮し、痛哭して自ら縊死した。

懿安張皇后

熹宗の懿安皇后張氏は、祥符の人である。父は国紀、娘の貴きにより太康伯に封ぜられる。天啓元年四月、冊立して皇后と為す。性厳正にして、数たび帝の前に於いて客氏・魏忠賢の過失を言う。嘗て客氏を召し至り、法を以てこれを糾さんとす。客・魏交まじわりて恨み、遂に后をいて国紀の女に非ずとし、ほとんど帝のみみを惑わさんとす。三年、后娠はらみ有り、客・魏宮人の己に異なる者を尽く逐い、而して其の私人を以て承奉せしむ、ついに元子を損ず。帝嘗て後宮に至る、后方に書を読む。帝問う何の書ぞと。対えて曰く「『趙高伝』なり」と。帝黙然たり。時に宮門に匿名の書有りて忠賢の逆状をあばく者、忠賢疑う国紀及び逐われし諸臣の手に出ずるを。其の党の邵輔忠・孫杰等、此に因りて大獄を興し、東林の諸臣を尽く殺し、而して国紀をかりて中宮を揺動し、事成らば則ち魏良卿の女を立てて后と為さんことをこいねがう。順天府丞劉志選これを偵知し、はじめて疏を上りて国紀を劾す、御史梁夢環これに継ぐ、たまたまはばむ者有りて乃ち已む。熹宗の大漸に及び、忠賢の逆謀を折り、位を信王に伝うるは、后の力なり。莊烈帝尊号を上りて「懿安皇后」と曰う。十七年三月、李自成都城を陥す、后自縊す。順治元年、世祖章皇帝命じて熹宗の陵に合葬せしむ。

張裕妃

裕妃張氏は、熹宗の妃なり。性直烈なり。客氏・魏忠賢は其の己に異なるを恚り、別宮に幽し、其の飲食を絶つ。天雨ふり、妃匍匐して簷溜を飲みて死す。又た慧妃范氏なる者あり、悼懷太子を生みて育たず、復た寵を失ふ。李成妃侍寢するに、密かに慧妃の為に憐れみを乞ふ。客・魏之を知りて怒り、亦た成妃を別宮に幽す。妃預め食物を簷瓦の間に蔵し、宮中を閉ざすこと半月、死せず、斥けて宮人と為す。崇禎初、皆位号を復す。

莊烈愍皇后

莊烈帝愍皇后周氏は、その先祖は蘇州の人であったが、大興に移り住んだ。天啓年間に、信邸に選ばれて入った。当時、神宗の劉昭妃が太后の宝を摂行し、宮中の政務はすべて熹宗の張皇后の成し遂げたところに稟承していた。故事によれば、宮中で大婚を選ぶ時、一后に二人の貴人が陪する。中選すれば、皇太后は青紗の帕をもって幕し、金玉の跳脱を取ってその臂に係える。中選しなければ、すなわち年月の帖子を淑女の袖に納め、銀幣を侑えて遣還する。懿安は后が弱いと疑ったが、昭妃は言った、「今は弱いが、後には必ず長大するであろう」と。よって冊立して信王妃とした。帝が即位すると、立って皇后とした。

后は厳格で慎重な性格であった。かつて賊寇の急報に際し、微かに言うには、「我が南中にはなお一つの家がある」と。帝がこれを問うと、遂に語らず、蓋しその意は南遷に在りしなり。他の政事に至っては、未だ嘗て預からず。田貴妃は寵愛を受けて驕り、后は礼を以てこれを裁した。歳旦の日、寒さ甚だしく、田妃が朝見に来たるに、翟車を廡下に止む。后は良久くして方に御座に臨み、その拝を受く。拝已みて遽かに下がり、他に言無し。而して袁貴妃の朝見するや、相見えて甚だ歓び、語ること時を移す。田妃はこれを聞いて大いに恨み、帝に向かって泣く。帝は嘗て交泰殿に在りて后と語り合わず、后を推して地に仆す。后は憤りて食を進めず。帝は悔い、中使をして貂裀を持たせて后に賜い、且つ起居を問わしむ。妃は尋いて過を以て啓祥宮に斥け居らしめ、三月召さず。一日、后は帝に侍して永和門に花を看るに、妃を召さんことを請う。帝は応ぜず。后は遽かに令して車を以てこれを迎えしむ。乃ち相見えて初めの如し。帝は寇乱を以て蔬を茹う。后は帝の容体日に瘁するを見て、饌を具えて将に進めんとす。而して瀛国夫人の奏適も至りて曰く、「夜、孝純太后の帰るを夢み、帝の瘁するを語りて泣き、且つ曰く『我が為に帝に語れ、食するに過ぎて苦しむ毋れ』と」と。帝は奏を把持して宮に入る。后は適も饌を進む。帝は孝純を追念し、且つ后の意に感じ、因りて奏を出して后に示す。再拝して匕箸を挙げ、相向かいて泣き、涙盈盈として案に沾る。

崇禎十七年三月十八日の夕暮れ、都城陥落す。帝、后に泣きて曰く、「大事去れり」と。后、頓首して曰く、「妾、陛下に事へること十有八年、卒に一語も聴かず、今日あるに至る」と。乃ち太子・二王を撫でて慟哭し、之を出宮せしむ。帝、后に自裁を命ず。后、室に入り戸を闔ふ。宮人出でて奏す、猶「皇后、旨を領す」と云ふ。后、遂に先帝に崩ず。帝、又た袁貴妃に自縊を命ず。系絶え、久しくして蘇る。帝、剣を抜きて其の肩を斫ち、又た御する所の妃嬪数人を斫つ。袁妃、卒に殊れず。世祖章皇帝、鼎を定め、后に諡して「莊烈愍皇后」と曰ひ、帝とともに田貴妃の寢園に葬り、名づけて「思陵」と曰ふ。所司に下し袁妃に居宅を給し、贍養して其の身を終はらしむ。

宮人に魏氏という者がいた。賊が宮中に入ったとき、大声で叫んで言うには、「我らは必ず賊に汚されるであろう。志ある者は早く計らえ」と。そこで御河に躍り込んで死んだ。しばらくして従って死んだ者は一二百人に及んだ。宮人費氏は十六歳で、自ら眢井に投身した。賊が鉤で引き上げ、その姿容を見て争って奪い合った。費氏は欺いて言うには、「私は長公主である」と。群賊は敢えて迫らず、李自成に擁して会わせた。自成は中官に命じて審視させたが、そうではなく、部校羅某に賞与した。費氏はまた羅を欺いて言うには、「私は実に天潢(皇族)である。義として軽々しく交わることは難い。将軍は吉日を選んで婚礼を挙げるべきである」と。羅は喜び、酒宴を設けて大いに楽しんだ。費氏は利刃を懐にし、羅が酔うのを待って、その喉を断ち即死させた。そして自ら誇って言うには、「私は一弱女子ながら、一賊帥を殺すに足る」と。そこで自刎して死んだ。自成は聞いて大いに驚き、葬るよう命じた。

田貴妃

恭淑貴妃田氏は陝西の人で、実家は揚州である。父の弘遇は娘の貴きにより、左都督ととくの官に至り、遊楽を好み、軽侠を為した。妃は生まれつき繊細で美しく、性質は寡言、多才多芸で、信邸において莊烈帝に侍った。崇禎元年に禮妃に封ぜられ、皇貴妃に進んだ。宮中に夾道があり、暑月に駕が行幸する際、御蓋が日中を行く。妃は蘧篨むしろを作ってこれを覆わせ、従者は皆休息を得た。また小黄門の輿を担ぐ者を宮婢に替えた。帝は聞き、礼を知るものとした。かつて過ちがあり、別宮に謫せられて愆を省みた。生んだ皇五子は別宮で薨じ、妃は遂に病んだ。十五年七月に薨じた。諡して恭淑端惠靜懷皇貴妃とし、昌平天壽山に葬った。即ち思陵である。

贊に曰く、高皇后は太祖に従い艱難を遍く歴し、大業を賛成し、母儀天下にあり、慈徳昭彰たり。継ぐに文皇后の仁孝寬和を以てし、化行宮壼きゅうこんに及び、後世その遺範を承け、内治肅雍たり。論ずる者は明の家法は、漢・唐を遠く過ぐと称し、信じて誣わざるなり。萬・鄭両貴妃もまた陰鷙の謀、政にかんし嫡を奪う事あるにはあらず、徒らに寵を恃み愛に溺るるを以て、遂に謗訕をかす。『易』に曰く、「家にかんあり、悔亡ぶ」と。いやしくもその閒を越えなば、悔やむこと将に及ぶべからず。聖人の垂戒遠きかな。