孝康敬皇后
初め、興国太后は藩妃として入ったが、太后(張氏)はなお故事をもってこれに遇したので、帝は大いに悦ばなかった。帝が朝見するに及んで、太后がこれをもまた倨傲に待った。時に太后の弟の延齢が人に訴えられ、帝は延齢を謀逆の罪に坐して死を論じたので、太后は窮迫して出る所を知らなかった。哀衝太子が生まれると、入賀を請うたが、帝は謝して会わなかった。人をやって請わせたが、許さなかった。大学士の張孚敬もまた延齢のために請うたが、帝は手勅して言った、「天下は、高皇帝の天下であり、孝宗皇帝は高皇帝の法を守られた。卿は伯母の心を傷つけることを慮るが、どうして高・孝二廟の心を傷つけることを慮らないのか」。孚敬はまた奏して言った、「陛下が位を嗣いだ時、臣の言を用いて伯母皇太后と称され、朝臣は過ちを陛下に帰し、今に至るまで止まない。今、大小の臣工は黙して一言もなく、誠に太后が令終を得られず、以て陛下の過ちを重くすることを幸いとしているのである。そもそも謀逆の罪は、獄が成れば族誅に坐すべきものであり、昭聖(張太后)だけが張氏でないということがあろうか。陛下はどうしてこれを処せられるのか」。冬月に囚を慮する時、帝はまた延齢を殺そうとしたが、再び孚敬の言によって止んだ。まもなく、奸人の劉東山という者が変を告げ、併せて鶴齢をも詔獄に下した。太后はついに敝れた短衣を着て藁の筵に座り請うたが、また聞き入れられなかった。久しくして、鶴齢は獄死した。太后の崩御に及んで、帝はついに延齢を殺した。事は詳しく『外戚傳』にある。
孝靜毅皇后
孝潔肅皇后
張皇后
孝烈方皇后
二十一年、宮女の楊金英らが逆を謀り、帝は后の救いにより免れる。そこで后の父泰和伯方鋭の爵を侯に進めた。初め、曹妃に色あり、帝これを愛し、端妃に冊封した。この夜、帝は端妃の宮に宿った。金英らは帝の熟睡を窺い、組で帝の項を絞めたが、誤って死結となり、絶えなかった。同謀の張金蓮は事の成らぬを知り、走って后に告げた。后は馳せ至り、組を解き、帝は蘇生した。后は内監張佐らに命じて宮人を捕らえ雑治させ、金英らが逆を謀り、王寧嬪が首謀であると言わせた。また言うには、曹端妃は与からずとも、謀を知っていたと。時に帝は病悸して言えず、后は帝の命を伝えて端妃・寧嬪及び金英らを悉く市で磔にし、併せてその族属十余人を誅した。然れども妃は実は知らなかった。久しくして、帝は初めてその冤を知った。
二十六年十一月乙未、后崩ず。詔して曰く、「皇后は比来朕の危を救い、天に奉じて難を済す。元后の礼を以て葬るべし」と。予め葬地を「永陵」と名付け、諡して孝烈とし、親しく諡礼を定め、昔より加えて隆重ならしめた。礼成り、詔を天下に頒つ。及び大祥、礼臣は主を奉先殿東夾室に安んずるを請うたが、帝は曰く、「奉先殿夾室は正しからず。即ち太廟に祔すべし」と。ここにおいて大学士厳嵩らは位を太廟の東、皇妣睿皇后の次に設け、后の寝蔵する主は則ち憲廟皇祖妣の右に幄を設け、祖姑に祔するの義に従わんことを請うた。帝曰く、「祔礼は至重である。豈に権宜に就くべけんや。后は帝に非ず、乃ち帝に配する者なり。自ら一定の序あり。何ぞ享は此よりし、主は彼に蔵するの礼あらんや!仁宗を祧し、新序を以て祔し、即ち朕の位次とせよ。礼を乱すこと勿れ」と。嵩曰く、「新序に祔することは、臣下の敢えて言う所に非ず。且つ陰は陽位に当たるべからず」と。ここにおいて命じて姑く主を睿皇后の側に蔵せしめた。
孝恪杜太后
孝懿莊皇后
穆宗孝懿皇后李氏、昌平の人。穆宗裕王たりし時、選ばれて妃と為り、憲懐太子を生む。嘉靖三十七年四月に薨ず。帝は部疏が薨と称するは制に非ずとし、故と改称せよと命じ、金山に葬る。穆宗即位し、諡して「孝懿皇后」と曰い、后の父銘を徳平伯に封ず。神宗即位し、尊諡を上りて「孝懿貞惠順哲恭仁儷天襄聖莊皇后」と曰い、昭陵に合葬し、太廟に祔す。
孝安陳皇后
孝定李太后
后の性質は厳明なり。万暦初政、張居正を委任し、名実を綜核して、幾くも富強に至るは、后の力多し。光宗の未だ冊立せられざる時、給事中姜応麟等の疏請して謫せらるるを、太后聞きて善しとせず。一日、帝入りて侍す、太后其の故を問う。帝曰く、「彼は都人の子なり。」太后大いに怒りて曰く、「爾も亦た都人の子なり!」帝は惶恐し、地に伏して敢えて起たず。蓋し内廷は宮人を「都人」と呼び、太后も亦た宮人より進みし故に云うなり。光宗是より由りて立つことを得たり。群臣福王の藩に行くことを請い、行くこと日有り、鄭貴妃は之を来年に遅らせんと欲し、以て太后の誕を祝うを解とす。太后曰く、「吾が潞王も亦た来たりて寿を上ぐる可きか!」貴妃乃ち敢えて福王を留めず。御史曹学程は以て建言して死を論ぜらる。太后其の母老ゆるを憐れみ、帝に言いて之を釈す。后の父偉は武清伯に封ぜらる。家人嘗て過ち有り、中使をして出でて之を数えしめ、而して其の家人を法に抵す。顧みて仏を好み、京師内外多く梵刹を置き、動もすれば巨万を費やし、帝も亦た施すこと算無し。居正の在日の時、嘗て以て言うも、用いること能わざりき。
孝端顕皇后
后と同日に冊封せらるる者に昭妃劉氏有り。天啓・崇禎の時、嘗て慈寧宮に居り、太后の璽を掌る。性質は謹厚、諸王を撫愛す。荘烈帝は礼事すること大母の如し。嘗て歳朝の朝見に、帝は便坐に就く、俄かに仮寐す。太后は驚かす勿れと戒め、尚衣に命じて謹んで之を護らしむ。頃之、帝覚め、衣冠を摂めて起ち謝して曰く、「神祖の時は海内事少く、今は苦しく多難、両夜文書を省み、未だ嘗て睫を交えず、太妃の前に在りて、困りて自ら持すること此の如し。」太妃之が為に泣下す。崇禎十五年薨じ、年八十有六。
孝靖王太后
孝靖王太后は、光宗の生母なり。初め慈寧宮の宮人と為る。年長し、帝慈寧に過ぎ、私かに之を幸し、身有り。故事:宮中寵を承くるは、必ず賞賚有り、文書房の内侍は年月及び賜う所を記して以て験と為す。時に帝之を諱み、故に左右言う者無し。一日、慈聖に侍して宴し、語之に及ぶ。帝応ぜず。慈聖は内起居注を取って示すことを命じ、且つ好語して曰く、「吾老いり、猶お未だ孫有らず。果たして男子ならば、宗社の福なり。母は子を以て貴し、寧ぞ差等を分かたんや?」十年四月恭妃に封ず。八月、光宗生る、是を皇長子と為す。既にして鄭貴妃皇三子を生み、進めて皇貴妃と封ぜられ、而して恭妃は進封せられず。二十九年皇長子を冊立して皇太子と為し、仍って封ぜられざる如故なり。三十四年、元孫生る、慈聖の徽号を加え、始めて進めて皇貴妃と封ず。三十九年病革す、光宗旨を請いて往きて省うことを得、宮門猶お閉ざり、鑰を抉ちて入る。妃は目眚有り、光宗の衣を手にして泣いて曰く、「児長大して此の如し、我死すとも何の恨みか有らん!」遂に薨ず。大学士葉向高言う、「皇太子の母妃薨ずれば、礼は厚きに従うべし。」報ぜず。復た請う、乃ち允さるることを得たり。諡して温肅端靖純懿皇貴妃と曰し、天寿山に葬る。
光宗即位し、詔を下して曰く、「朕基緒を嗣承し、万方を撫臨す、其の慶源を溯れば、則ち我が生母温肅端靖純懿皇貴妃の恩は大なること莫し。朕昔青宮に在りし時は、温凊に親しむこと莫く、今禁闥に居りては、徒らに桮棬を痛む、罔極の深き悰を伸べんと欲すれば、惟だ殷礼に称するを肇むるに有り。其れ皇祖穆宗皇帝の生母栄淑康妃を尊ぶ故事に準い、礼部詳議して以て聞かしめよ。」会すに崩じ、熹宗即位し、上尊諡して「孝靖温懿敬讓貞慈参天胤聖皇太后」と曰し、定陵に遷葬し、奉慈殿に祀る。后の父天瑞は、永寧伯に封ぜらる。
鄭貴妃
恭恪貴妃鄭氏は、大興の人。万暦初め宮に入り、貴妃に封ぜられ、皇三子を生み、皇貴妃に進む。帝之を寵す。外廷は妃が己が子を立てん謀り有るを疑う。群臣儲を立てん事を争って言い、章奏累ねて数千百、皆宮闈を指斥し、執政を攻撃す。帝は概ね置いて問わず。是より門戸の禍大いに起こる。万暦二十九年春、皇長子迎禧宮に移り、十月皇太子に立てらる、而して疑う者は未だ已まず。
先に、侍郎呂坤が按察使であった時、『閨範図説』を集めたことがあった。太監陳矩がこれを見て、持って帝に進めた。帝は妃に賜い、妃はこれを重刻したが、呂坤は関与していない。二十六年秋、或る者が『閨範図説跋』を撰し、名を『憂危竑議』として、その名を匿し、盛んに京師に伝わり、『坤書』の巻頭に漢の明徳馬后が宮人より中宮に進位したことを載せているのは、妃を指す意であり、妃の刊刻は、実はこれにより己が子を立てる根拠としたのだという。その文は「硃東吉」に仮託して問答とする。「東吉」とは、東朝(皇太子)である。その名を『憂危』とするのは、呂坤がかつて『憂危』の一疏を上したことがあり、その名を借りて諷したもので、妖言である。妃の兄国泰、甥承恩は、給事中戴士衡がかつて呂坤を糾弾し、全椒知県樊玉衡が貴妃を併せて糾弾したので、二人の手によるものと疑った。帝は二人を重く謫し、妖言は問わなかった。五年を過ぎて、『続憂危竑議』が再び出た。この時太子は既に立てられており、大学士硃賡がこの書を得て上聞した。書は「鄭福成」に仮託して問答とする。「鄭福成」とは、鄭(鄭貴妃)の福王が当に成る(皇太子になる)という意味である。大略言うには、「帝は東宮を已むを得ず立てたもので、他日必ず易える。特に硃賡を内閣に用いるのは、実は更易の意味を寓している」と。言葉は特に詭妄で、当時皆これを妖書と言った。帝は大いに怒り、錦衣衛に厳しく搜捕を命じた。久しくして、ようやく皦生光という者を得て、極刑に処し、言葉は郭正域、沈鯉の伝に詳しい。
四十一年、百戸王曰乾がまた変事を告げ、奸人孔学らが巫蠱を行い、聖母及び太子に不利を図ろうとしていると言い、言葉は妃にも及んだ。大学士葉向高が帝に静かに処するよう勧め、福王の藩国への赴任を速めて群言を止めさせたことに頼り、事はやんだ。その後「梃撃」の事が起こり、主事王之寀が張差の獄情を疏言し、言葉が貴妃宮内侍の龐保、劉成らに連なり、朝議が洶洶とした。貴妃はこれを聞き、帝に向かって泣いた。帝は言った、「外廷の言葉は解し難い、汝自ら太子に求めよ」。貴妃は太子に向かって号訴した。貴妃が拝すると、太子も拝した。帝はまた慈寧宮の太后の几筵の前で群臣を召見し、太子に降って株連を禁ずる諭を下させ、ここにおいて張差の獄は定まった。神宗が崩じ、遺命で妃を皇后に封じようとした。礼部侍郎孫如游が争ったので、やめた。光宗が崩じた時、妃が李選侍と共に乾清宮に同居し、垂簾聴政を謀ったという言があり、久しくしてやっと止んだ。
孝元貞皇后
光宗孝元皇后郭氏は、順天の人である。父維城は女の貴により、博平伯に封ぜられ、侯に進んだ。卒し、兄振明が嗣いだ。后は万暦二十九年に皇太子妃に冊立された。四十一年十一月に薨じ、諡を恭靖とした。熹宗が即位し、尊諡を上って「孝元昭懿哲恵荘仁合天弼聖貞皇后」と曰い、慶陵に遷葬し、廟に祔した。
孝和王太后
孝純劉太后
孝純劉太后は、荘烈帝の生母であり、海州の人で、后の籍は宛平である。初め宮に入り淑女となった。万暦三十八年十二月、荘烈皇帝を生んだ。已にして、光宗の意に失い、譴せられて薨じた。光宗は中で悔い、神宗に知られるのを恐れ、掖庭に言うなと戒め、西山に葬った。荘烈帝が成長し、信王に封ぜられると、賢妃に追進した。時、荘烈帝は勗勤宮に居り、近侍に問うて曰く、「西山に申懿王の墳があるか」と。曰く、「有り」と。「傍らに劉娘娘の墳があるか」と。曰く、「有り」と。密かに金銭を付して往き祭らせた。即位すると、尊諡を上って「孝純恭懿淑穆荘静毘天毓聖皇太后」と曰い、慶陵に遷葬した。
帝は五歳で太后を失い、左右に遺像を問うたが、得る者はなかった。傅懿妃という者は、旧く太后と共に淑女であり、宮居を比べ、自ら太后に習い、宮人中で状貌の類似する者を言い、后の母瀛国太夫人に画工を指示させ、意に適うように得させた。図が成ると、正陽門より法駕を具えて迎え入れた。帝は午門に跪いて迎え、宮中に懸け、老宮婢を呼んで視させた。或いは似ていると言い、或いは否と言った。帝は雨のように泣き、六宮皆泣いた。
故事では、生母の忌日には祭を設けず、青服を着ない。十五年六月、帝は太后の故により、前代の生母・継后七后を追って、一廟を同建し、以て孝思を展べようとした。乃ち徳政殿に御し、大学士及び礼臣を召し入れて問うて曰く、「太廟の制は、一帝一后、祧廟もまた然り、歴朝の継后及び生母凡そ七位は皆与ることができず、即ち宮中の奉先殿にも尚祭が無い、如何にせん」と。礼部侍郎蒋徳璟曰く、「奉先殿の外に尚奉慈殿有り、継后及び生母を奉ずる所以のものなり、廃せられしも挙げ可きなり」と。帝曰く、「奉慈殿の外に、尚弘孝、神霄、本恩諸殿有り」と。徳璟曰く、「内廷の規制は、臣等未だ悉さず。孝宗奉慈殿を建て、嘉靖間之を廃す、今未だ旧基の有るや否や知らず」と。帝曰く、「奉慈は已に撤せり、惟だ奉先は尚拓く可きなり」と。ここにおいて別に一殿を置き、孝純及び七后を祀ったという。
李康妃
康妃李氏は、光宗の選侍である。時に宮中に二李選侍有り、人は東李・西李と称した。康妃とは西李であり、最も寵愛され、嘗て熹宗及び荘烈帝を撫視した。光宗が即位し、不豫となり、大臣を召し入れた。帝は暖閣に御し、几に憑り、選侍を皇貴妃に封ずることを命じた。選侍は熹宗を促して出て曰く、「后に封ぜんと欲す」と。帝は応じなかった。礼部侍郎孫如游奏して曰く、「今両太后及び元妃、才人の諡号俱に未だ上らず、四大礼を行った後に未だ晩からず」と。既にして帝崩じ、選侍は尚乾清宮に居り、外廷は恟懼し、選侍が聴政せんと欲するを疑った。大学士劉一燝、吏部尚書周嘉謨、兵科都給事中楊漣、御史左光斗等上疏して力争い、選侍は仁寿殿に移居した。事は一燝、漣の伝に詳しい。
熹宗即位し、詔を降して選侍が聖母を凌辱殴打し、因って崩逝せしめ、及び妄りに垂簾を覬覲する状を暴く。而して御史賈繼春、安選侍の掲を進め、周朝瑞と争駁已まず。帝復た詔を降して曰く、「九月一日、皇考賓天し、大臣宮に入り哭臨畢り、因りて朝見を請う。選侍朕を暖閣に阻み、司礼監官固く請うて、乃ち出づるを得たり。既に許して復た悔い、又た李進忠等をして再三朕を趣き回らしむ。朕の乾清丹陛に至るに及んで、進忠等猶ほ朕の衣を牽きて釋かず。甫にして前宮門に至れば、又た数数人を遣わして朕をして還り、文華殿に御する毋からしむ。此れ諸臣の目睹する所なり。選侍の行う事を察するに、明らかに朕躬を要挟し、垂簾聴政せんと欲す。朕皇考の選侍に撫視せしむるを蒙り、飲膳衣服皆皇祖・皇考の賜う所なり。選侍侮慢凌虐し、朕昼夜涕泣す。皇考自ら其の誤りを知り、時に勸慰を加う。若し宮を避くること早からずんば、則ち爪牙列を成し、朕且つ若何なるかを知らざらん。選侍聖母を毆崩するに因り、自ら罪有るを忖し、毎に宮人をして窃かに伺わしめ、朕と聖母の旧侍とをして言わしめず、有れば輒ち捕え去る。朕の苦衷、外廷豈に能く悉くせんや。乃ち諸臣聖母を念わず、惟だ選侍に党し、妄りに謗議を生じ、軽重倫を失い、理法焉にか在らんや!朕今選侍の封号を停め、以て聖母の在天の霊を慰めんとす;選侍及び皇八妹を厚く養い、以て皇考の意を敬い遵わんとす。爾諸臣以て朕心を仰ぎ体せんことを得べし。」と。已にして、復た屢旨を以て繼春を詰責し、繼春遂に籍を削られて去る。
選侍趙氏は、光宗の時、封號が未だ無かった。熹宗が即位すると、忠賢・客氏は彼女を憎み、詔を矯って自盡を賜う。選侍は光宗の賜り物を案上に列ね、西に向かって佛を禮し、痛哭して自ら縊死した。
懿安張皇后
張裕妃
裕妃張氏は、熹宗の妃なり。性直烈なり。客氏・魏忠賢は其の己に異なるを恚り、別宮に幽し、其の飲食を絶つ。天雨ふり、妃匍匐して簷溜を飲みて死す。又た慧妃范氏なる者あり、悼懷太子を生みて育たず、復た寵を失ふ。李成妃侍寢するに、密かに慧妃の為に憐れみを乞ふ。客・魏之を知りて怒り、亦た成妃を別宮に幽す。妃預め食物を簷瓦の間に蔵し、宮中を閉ざすこと半月、死せず、斥けて宮人と為す。崇禎初、皆位号を復す。
莊烈愍皇后
莊烈帝愍皇后周氏は、その先祖は蘇州の人であったが、大興に移り住んだ。天啓年間に、信邸に選ばれて入った。当時、神宗の劉昭妃が太后の宝を摂行し、宮中の政務はすべて熹宗の張皇后の成し遂げたところに稟承していた。故事によれば、宮中で大婚を選ぶ時、一后に二人の貴人が陪する。中選すれば、皇太后は青紗の帕をもって幕し、金玉の跳脱を取ってその臂に係える。中選しなければ、すなわち年月の帖子を淑女の袖に納め、銀幣を侑えて遣還する。懿安は后が弱いと疑ったが、昭妃は言った、「今は弱いが、後には必ず長大するであろう」と。よって冊立して信王妃とした。帝が即位すると、立って皇后とした。
后は厳格で慎重な性格であった。かつて賊寇の急報に際し、微かに言うには、「我が南中にはなお一つの家がある」と。帝がこれを問うと、遂に語らず、蓋しその意は南遷に在りしなり。他の政事に至っては、未だ嘗て預からず。田貴妃は寵愛を受けて驕り、后は礼を以てこれを裁した。歳旦の日、寒さ甚だしく、田妃が朝見に来たるに、翟車を廡下に止む。后は良久くして方に御座に臨み、その拝を受く。拝已みて遽かに下がり、他に言無し。而して袁貴妃の朝見するや、相見えて甚だ歓び、語ること時を移す。田妃はこれを聞いて大いに恨み、帝に向かって泣く。帝は嘗て交泰殿に在りて后と語り合わず、后を推して地に仆す。后は憤りて食を進めず。帝は悔い、中使をして貂裀を持たせて后に賜い、且つ起居を問わしむ。妃は尋いて過を以て啓祥宮に斥け居らしめ、三月召さず。一日、后は帝に侍して永和門に花を看るに、妃を召さんことを請う。帝は応ぜず。后は遽かに令して車を以てこれを迎えしむ。乃ち相見えて初めの如し。帝は寇乱を以て蔬を茹う。后は帝の容体日に瘁するを見て、饌を具えて将に進めんとす。而して瀛国夫人の奏適も至りて曰く、「夜、孝純太后の帰るを夢み、帝の瘁するを語りて泣き、且つ曰く『我が為に帝に語れ、食するに過ぎて苦しむ毋れ』と」と。帝は奏を把持して宮に入る。后は適も饌を進む。帝は孝純を追念し、且つ后の意に感じ、因りて奏を出して后に示す。再拝して匕箸を挙げ、相向かいて泣き、涙盈盈として案に沾る。
崇禎十七年三月十八日の夕暮れ、都城陥落す。帝、后に泣きて曰く、「大事去れり」と。后、頓首して曰く、「妾、陛下に事へること十有八年、卒に一語も聴かず、今日あるに至る」と。乃ち太子・二王を撫でて慟哭し、之を出宮せしむ。帝、后に自裁を命ず。后、室に入り戸を闔ふ。宮人出でて奏す、猶「皇后、旨を領す」と云ふ。后、遂に先帝に崩ず。帝、又た袁貴妃に自縊を命ず。系絶え、久しくして蘇る。帝、剣を抜きて其の肩を斫ち、又た御する所の妃嬪数人を斫つ。袁妃、卒に殊れず。世祖章皇帝、鼎を定め、后に諡して「莊烈愍皇后」と曰ひ、帝とともに田貴妃の寢園に葬り、名づけて「思陵」と曰ふ。所司に下し袁妃に居宅を給し、贍養して其の身を終はらしむ。
宮人に魏氏という者がいた。賊が宮中に入ったとき、大声で叫んで言うには、「我らは必ず賊に汚されるであろう。志ある者は早く計らえ」と。そこで御河に躍り込んで死んだ。しばらくして従って死んだ者は一二百人に及んだ。宮人費氏は十六歳で、自ら眢井に投身した。賊が鉤で引き上げ、その姿容を見て争って奪い合った。費氏は欺いて言うには、「私は長公主である」と。群賊は敢えて迫らず、李自成に擁して会わせた。自成は中官に命じて審視させたが、そうではなく、部校羅某に賞与した。費氏はまた羅を欺いて言うには、「私は実に天潢(皇族)である。義として軽々しく交わることは難い。将軍は吉日を選んで婚礼を挙げるべきである」と。羅は喜び、酒宴を設けて大いに楽しんだ。費氏は利刃を懐にし、羅が酔うのを待って、その喉を断ち即死させた。そして自ら誇って言うには、「私は一弱女子ながら、一賊帥を殺すに足る」と。そこで自刎して死んだ。自成は聞いて大いに驚き、葬るよう命じた。
田貴妃
贊
贊に曰く、高皇后は太祖に従い艱難を遍く歴し、大業を賛成し、母儀天下にあり、慈徳昭彰たり。継ぐに文皇后の仁孝寬和を以てし、化行宮壼に及び、後世その遺範を承け、内治肅雍たり。論ずる者は明の家法は、漢・唐を遠く過ぐと称し、信じて誣わざるなり。萬・鄭両貴妃もまた陰鷙の謀、政に干し嫡を奪う事あるにはあらず、徒らに寵を恃み愛に溺るるを以て、遂に謗訕を滋かす。『易』に曰く、「家に閒あり、悔亡ぶ」と。苟くもその閒を越えなば、悔やむこと将に及ぶべからず。聖人の垂戒遠きかな。