五年六月、礼臣に命じて宮官女職の制を議せしむ。礼臣上言して曰く、「周の制、後宮に内官を設けて内治を賛す。漢は内官十四等を設け、凡そ数百人。唐は六局二十四司を設け、官凡そ百九十人、女史五十余人、皆良家の女を選びて之を充つ。」帝は設くる所過多とし、重ねて裁定を加うるを命ず。ここに曩制を折衷し、六局一司を立てる。局は尚宮・尚儀・尚服・尚食・尚寢・尚功と曰い、司は宮正と曰い、秩は皆正六品。毎局四司を領し、其の属二十有四、而して尚宮は六局の事を総行す。戒令責罰は、則ち宮正之を掌る。官七十五人、女史十八人、唐に比し百四十余人を減じ、凡そ宮寢に服労し、典守に祗勤するのみ。諸妃の位号も亦た惟だ賢・淑・庄・敬・惠・順・康・寧を取って称とし、閨房雍肅、旨深遠に寓す。又た工部に命じて紅牌を製せしめ、后妃を戒諭するの詞を鐫り、宮中に懸く。牌は鉄を用い、字は金を以て飾る。復た令典を著し、后妃以下より嬪御女史に至るまで、鉅細衣食の費、金銀幣帛・器用百物の供、皆尚宮より旨を取り、牒を内使監に移して覆奏し、部臣を移して取給せしむ。若し尚宮奏に及ばず、内使監覆奏せずして、輒ち部に於いて領する者は、死を論ず。或いは私書を以て外に出づるも、罪亦た之の如し。宮嬪以下疾あるも、医者は宮に入るを得ず、証を以て薬を取る。何ぞ其れ慎みやかなる。是を以て明の代を終わるまで、宮壼肅清たり。論者其の家法の善を謂い、漢・唐を超軼せりと。
爰に孝慈より愍后に迄り、其の族里を考へ、其の世代を次ぐ。遇う所斉しからず、顕晦異致すと雖も、凡そ正号に居る者は並びに篇に列す。其の妃嬪に事実ある者も、亦た附見す。
太祖孝慈高皇后
太祖孝慈高皇后馬氏は、宿州の人なり。父は馬公、母は鄭媼、早く卒す。馬公素より郭子興と善くし、遂に后を以て子興に託す。馬公卒し、子興之を育つること己が女の如し。子興太祖を奇とし、后を以て帰せしむ。
后は仁慈にして智鑑有り、書史を好む。太祖に劄記有れば、輒ち后に命じて之を掌らしめ、倉卒として未だ嘗て忘れず。子興嘗て讒を信じ、太祖を疑う。后其の妻に善く事え、嫌隙釋かるるを得たり。太祖既に太平を克つと、后将士の妻妾を率いて江を渡る。江寧に居るに及び、呉・漢境を接し、戦虚日無く、親しく甲士の衣鞋を緝いで軍を佐く。陳友諒龍灣に寇すと、太祖師を率いて之を御す。后儘く宮中の金帛を発して士を犒う。嘗て太祖に語り、天下を定むるには人を殺さざるを本とすと。太祖之を善しとす。
后は内治に勤め、暇あれば則ち古訓を講求す。六宮に告げ、宋に賢后多しとて、女史に命じて其の家法を録せしめ、朝夕省覧す。或いは宋の仁厚に過ぐると言う。后曰く、「仁厚に過ぐるは、刻薄に愈らざらんや。」一日、女史に問う、「黄老は何の教えぞ、而して竇太后之を好む。」女史曰く、「清淨無為を本とす。若し仁義を絶ち棄て、民復た教慈に帰せば、是れ其の教えなり。」后曰く、「孝慈は即ち仁義なり。詎んぞ仁義を絶ちて孝慈を為す者あらんや。」后嘗て『小学』を誦し、帝に表章を求めたり。
帝前殿に於いて事を決するに、或いは震怒す。后帝の宮に還るを伺い、輒ち事に随いて微かに諫む。帝の性厳しと雖も、然れども刑戮を緩めたる者数たび矣。参軍郭景祥和州を守る。人其の子が槊を持ちて父を殺さんと欲すと言う。帝将に之を誅せんとす。后曰く、「景祥は一子を止む。人の言或いは実ならず、之を殺せば恐らく其の後を絶たん。」帝之を廉るに、果たして枉りたり。李文忠厳州を守る。楊憲其の不法を誣う。帝召し還さんと欲す。后曰く、「厳は敵境なり。将を輕易にする宜しからず。且つ文忠素より賢し。憲の言詎んぞ信ずべけんや。」帝遂に已む。文忠後卒に功有り。学士宋濂孫慎の罪に坐し、逮え至り、死を論ぜらる。后諫めて曰く、「民家子弟の為に師を延くるも、尚お礼を以て終始を全うす。況んや天子においてをや。且つ濂家居すれば、必ずや情を知らざらん。」帝聴かず。会うに后帝に侍して食すに、酒肉を御せず。帝故を問う。対えて曰く、「妾宋先生の為に福事を作るなり。」帝惻然として、箸を投げて起つ。明日濂を赦し、茂州に安置す。呉興の富民沈秀なる者、都城の築を助くること三の一、又た軍を犒わんことを請う。帝怒りて曰く、「匹夫天子の軍を犒うは、乱民なり。誅すべし。」后諫めて曰く、「妾聞く、法は不法を誅するなり。不祥を誅するに非ず。民富みて国に敵すは、民自ら不祥なり。不祥の民は、天将に之を災いせん。陛下何ぞ之を誅せん。」乃ち秀を釈し、雲南に戍す。帝嘗て重囚に城を築かしむ。后曰く、「罪を贖い役を罰するは、国家の至恩なり。但だ疲囚に役を加うれば、恐らく仍ほ死亡を免れざらん。」帝乃ち悉く之を赦す。帝嘗て怒りて宮人を責む。后亦た佯りて怒り、執って宮正司に付して罪を議せしむ。帝曰く、「何を為す。」后曰く、「帝王は喜怒を以て刑賞を加うること無し。陛下の怒る時に当たりては、恐らくは畸重有らん。宮正に付すれば、則ち其の平を酌む。即ち陛下人の罪を論ずるも亦た有司に詔するのみ。」
ある日、后は帝に問うた、「今、天下の民は安らかであるか」と。帝は言った、「これは汝の問うべきことではない」と。后は言った、「陛下は天下の父、妾は辱くも天下の母、子の安否を、どうして問わずにおられようか」。
凶年にあたれば、麦飯と野草の羹を設けた。帝が時に賑恤したことを告げると、后は言った、「賑恤するよりは、蓄積を先に備える方がよい」。
奏事官が朝を散じて、廷中で会食する時、后は中官に命じて飲食を取らせ、自ら味わった。味が良くなかったので、帝に申し上げて言った、「人主の自らの供養は薄くしたいもの、賢者を養うのは厚くすべきです」。帝はこれにより光禄官を戒飭した。
帝が太学に行幸して帰ると、后は生徒が何人いるかと尋ねた。帝は言った、「数千人」。后は言った、「人材が多いことです。諸生には廩食がありますが、妻子は何を頼りにすればよいのでしょう」。
そこで紅板倉を立て、糧を積んでその家に賜った。太学生の家に糧を賜うことは、后から始まった。
諸将が元の都を攻克し、宝玉を捕虜として持ち帰った。后は言った、「元はこれを持っていながら守れなかった。思うに、帝王には自らの宝があるのでしょう」。
帝は言った、「朕は后が賢者を得ることを宝とするということを知っている」。后は拝礼して謝して言った、「誠に陛下の言う通りです。妾は陛下と貧賤から起こり、今日に至るまで、常に驕慢と放縦が奢侈から生じ、危亡が細微から起こることを恐れておりました。故に賢人を得て天下を共に治めたいと願うのです」。
また言った、「法は屡々改めれば必ず弊害が生じ、法に弊害が生じれば奸悪が生まれる。民は屡々擾乱されれば必ず困窮し、民が困窮すれば乱が生じる」。
帝は嘆息して言った、「至言である」。女史に命じてこれを冊に書かせた。その規諫匡正は、このような類いであった。
帝が毎回御膳をとる時、后は皆自ら省みて視察した。平素は大練の洗濯した衣服を着て、たとえ破れても替えるに忍びなかった。
元の世祖の后が古い弓弦を煮たという故事を聞くと、練り絹を取って織らせて衾裯(寝具)とし、高齢の煢独(孤独な者)に賜った。
余った帛布や節のある糸は、縫い合わせて衣裳とし、諸王の妃や公主に賜り、天桑(養蚕、転じて衣食)の艱難を知らしめた。
妃嬪や宮人で寵愛を受け子がある者は、厚く待遇した。命婦が入朝すると、家人の礼のようにして待遇した。
帝が后の一族を訪ねて官職を与えようとすると、后は謝して言った、「爵禄を外戚に私することは、法に適いません」。力説して辞退し、やめさせた。
しかし父母が早く亡くなったことに言及すると、いつも悲しみ涙を流した。帝は馬公を徐王に封じ、鄭媼を王夫人とし、墓を修し廟を置いた。
王が帝位に即くと、冊立して皇后とした。言うには、「南北毎年戦闘し、兵民疲弊す、宜しく休息を与うべし」。また言うには、「当世の賢才は皆高皇帝の遺せる所なり、陛下宜しく新旧を以て間うべからず」。また言うには、「帝堯の仁を施すは親より始む」。帝は常に嘉納した。初め、后の弟増寿は常に国情を燕に輸送し、恵帝に誅せられた。ここに至り爵を贈らんと欲すれども、后は力言して不可とす。帝は聴かず、竟に定国公に封じ、その子景昌に襲封せしめ、乃ち后に告ぐ。后曰く、「妾の志に非ず」。終に謝せず。嘗て漢・趙二王の性順わざるを言い、官僚は宜しく廷臣を選び兼署すべしとす。一日、問う、「陛下誰と治を図る者ぞ」。帝曰く、「六卿は政務を理め、翰林は論思を職とす」。后は因りて悉くその命婦を召見し、冠服鈔幣を賜うことを請う。諭して曰く、「婦の夫に事うるは、奚ぞ止だ饋食衣服のみならんや、必ず助け有らん。朋友の言は、従う有り違う有り、夫婦の言は、婉順にして入り易し。吾旦夕上に侍りて、惟だ生民を念うを以てす、汝曹勉めよ」。嘗て『女憲』『女誡』を採りて『内訓』二十篇を作り、又古人の嘉言善行を類編し、『勧善書』を作り、天下に頒行す。
永楽五年七月、疾革(病篤く)、惟だ帝に百姓を愛惜し、賢才を広く求め、宗室に恩礼を厚くし、外家を驕畜せざるを勧む。又皇太子に告げて曰く、「曩に北平の将校の妻我が為に戈を荷い城守せしを恨み、未だ皇帝の北巡に随い、一たび賚卹(賞恤)することを獲ざるなり」。是の月乙卯崩ず、年四十有六。帝悲慟し、霊谷・天禧二寺に大斎を薦(供養)し、群臣の致祭を聴し、光禄寺に物を具えしむ。十月甲午、諡して「仁孝皇后」と曰う。七年昌平の天寿山に寿陵を営み、又四年にして陵成る。后を以てここに葬る、即ち長陵なり。帝も亦復た后を立たず。仁宗即位し、尊諡を上りて「仁孝慈懿誠明莊献配天斉聖文皇后」と曰い、太廟に祔す。
王貴妃
昭献貴妃王氏、蘇州の人。永楽七年貴妃に封ぜらる。妃賢徳有り、仁孝皇后に事えて恭謹、帝に重んぜらる。帝晚年急怒多し。妃曲く調護し、太子諸王公主以下皆倚頼す。十八年七月薨ず、礼は太祖の成穆孫貴妃に視(準)ず。
権賢妃
恭献賢妃権氏、朝鮮の人。永楽の時、朝鮮女を貢して掖庭に充つ、妃もまたこれに与る。姿質穠農(濃艶)にして粹、玉簫を吹くを善くす。帝愛憐す。七年賢妃に封じ、その父永均を光禄卿とす。明年十月帝に侍して北征す。凱還し、臨城にて薨じ、嶧県に葬る。
誠孝昭皇后
后初め太子妃たりし時、婦道を操ること至って謹み、雅(常)に成祖及び仁孝皇后の歓びを得たり。太子数たび漢・趙二王に間せらる。体肥碩にして騎射能わず。成祖恚り、太子宮の膳を減ずるに至り、易(廃)せんとすること屡なりしも、卒に后の故を以て廃せられず。及び立たれて后と為るや、中外の政事、周知せざる莫し。
宣宗崩じ、英宗方に九歳、宮中に訛言有りて将に襄王を召し立てんとす。太后趣して諸大臣を召し乾清宮に至らしめ、太子を指して泣いて曰く、「此れ新天子なり」。君臣万歳を呼び、浮言乃ち息む。大臣太后に垂簾聴政を請う。太后曰く、「祖宗の法を壊す毋れ。第一切の不急の務を悉く罷めよ」。時時帝に向学を勗め、股肱を委任す。以ての故に王振帝に寵せらるると雖も、太后の世終わるまで敢えて大政を専らにせず。
正統七年十月崩ず。大漸に当たり、士奇・溥を召し入れ、中官をして国家に尚ほ何の大事未だ辦めざる者あるかを問わしむ。士奇三事を挙ぐ。一に謂く、「建庶人亡すと雖も、当に『実録』を修むべし」。一に謂く、「太宗の詔に『方孝孺諸臣の遺書を収むる者は死す』と有り、宜しく其の禁を弛むべし」。其三は未だ奏上せざるに、而して太后已に崩ず。遺詔大臣を勉めて帝を佐け仁政を惇めて行わしめ、語甚だ諄篤なり。尊諡を上りて「誠孝恭粛明徳弘仁順天啓聖昭皇后」と曰い、献陵に合葬し、太廟に祔す。
恭譲章皇后
后過無くして廃せられ、天下聞きて之を憐れむ。宣宗後亦悔ゆ。嘗て自ら解して曰く、「此れ朕が少年の事なり」。天順六年、孫太后崩じ、銭皇后英宗に言う、「后賢にして罪無く、廃せられて仙師と為る。其の没するや、人太后を畏れ、殮葬皆礼の如くせず」。因りて其の位号を復するを勧む。英宗大学士李賢に問う。賢対えて曰く、「陛下此の心、天地鬼神実に之に臨む。然れども臣以ては、陵寝・享殿・神主俱に宜しく奉先殿の式の如くすべく、庶わくは陛下の明孝に称せん」。七年閏七月、尊諡を上りて「恭譲誠順康穆静慈章皇后」と曰い、陵寝を修め、廟に祔せず。
孝恭章皇后
英宗北狩の時、太后郕王に命じて国を監せしむ。景帝即位し、尊びて上聖皇太后と為す。時に英宗迤北に在り、数へて寒衣裘を寄せて御す。還りて南宮に幽せらるるに及び、太后数へ入りて省視す。石亨等門を奪はんと謀り、先づ密かに太后に白す。之を許す。英宗復辟し、徽号を上りて「聖烈慈寿皇太后」と曰ふ。明興りて、宮闈の徽号も亦此より始まる。天順六年九月崩じ、尊諡を上りて「孝恭懿憲慈仁荘烈斉天配聖章皇后」と曰ひ、景陵に合葬し、太廟に祔す。而して英宗の生母は、人卒に之を知る者無し。
宣廟賢妃
郭嬪
初め、太祖崩じ、宮人多く従死する者あり。建文・永楽の時、相継ぎて優恤す。張鳳・李衡・趙福・張璧・汪賓の諸家の若きは、皆錦衣衛所の試百戸・散騎帯刀舎人より千百戸に進み、帯俸世襲す。人これを「太祖朝天女戸」と謂ふ。歴て成祖、仁・宣二宗も亦皆殉を用ふ。景帝郕王の薨ずるに、猶其の制を用ふ。蓋し当時王府皆然り。英宗の遺詔に至りて、始めて之を罷む。
孝荘睿皇后
英宗の孝荘皇后銭氏は、海州の人。正統七年立てて后と為す。帝后の族単微なるを憫み、侯せんと欲す。后輒ち遜謝す。故に后家独り封無し。英宗北狩の時、中宮の資を傾けて迎駕を佐く。夜哀泣して天に籲き、倦むれば即ち地に臥し、一股を損ず。哭泣を以て復た一目を損ず。英宗南宮に在りて自得せず、后曲く慰解を為す。后子無く、周貴妃子有り、立てて皇太子と為す。英宗大漸し、遺命して曰く、「銭皇后千秋万歳の後、朕と同く葬らしむべし」と。大学士李賢退きて之を冊に書す。
憲宗立ち、両宮の徽号を上り、廷臣を下して議せしむ。太監夏時貴妃の意を希ひ、諭を伝へて独り貴妃を尊びて皇太后と為す。大学士李賢・彭時力争し、乃ち両宮並びに尊び、而して后を称して慈懿皇太后と為す。及び裕陵を営むに、賢・時三壙を営むを請ふ。廷議を下す。夏時復た不可を言ひ、事竟に寢す。
成化四年六月、太后崩ず。周太后后の合葬を欲せず。帝夏時・懐恩を使はして大臣を召し議せしむ。彭時首に対して曰く、「裕陵に合葬し、廟に主を祔するは、定礼なり」と。翼日、帝召して問ふ。時前の如く対す。帝曰く、「朕豈知らざらんや、他日の母后を妨ぐるを慮るのみ」と。時曰く、「皇上両宮に孝事し、聖徳彰聞す。礼の合する所は、孝の帰する所なり」と。商輅も亦言ふ、「祔葬せざれば、聖徳を損ず」と。劉定之曰く、「孝は義に従ひ、命に従はず」と。帝久しく黙然として曰く、「命に従はざるを尚ほ孝と為すべけんや」と。時力めて裕陵の左に合葬し、右を虚しくして周太后を待つを請ふ。已にして、復た大臣と疏を争ひ、帝再び廷議を下す。吏部尚書李秉・礼部尚書姚夔廷臣九十九人を集めて議し、皆時が言ふ如く請ふ。帝曰く、「卿等の言是なり、顧みるに朕屡々太后に請ふも命を得ず。礼に乖くは孝に非ず、親に違ふも亦孝に非ず」と。明日、詹事柯潜・給事中魏元等上疏し、又明日、夔等疏を合して上り、皆初めの如く議を執す。中旨猶諭して別に葬地を択ばしむ。是に於て百官伏哭して文華門外に在り。帝群臣に命じて退かしむ。衆叩頭し、旨を得ざれば敢へて退かず。自ら巳より申に至りて、乃ち允を得。衆万歳を呼びて出づ。事は時・夔の伝に詳し。是の年七月尊諡を上りて「孝荘献穆弘恵顕仁恭天欽聖睿皇后」と曰ひ、太廟に祔す。九月裕陵に合葬す。隧を異にし、英宗の玄堂より数丈許り距り、中を窒ち、石壙を虚しくして周太后を待つ。其の隧独り通ず。而して奉先殿の祭も亦后の主を設けず。
弘治十七年、周太后崩御す。孝宗便殿に御し、裕陵の図を出し、大学士劉健・謝遷・李東陽に示して曰く、「陵に二つの隧道あり、一方は塞がれ、一方は往来に通ずる。皆先朝の内臣の為す所なり。これは礼に合わず。昨、成化年間の彭時・姚夔等の章奏を見るに、先朝の大臣は国のためにかくの如くし、先帝もまた已むを得ざるなり。欽天監は言う、隧道を通ずれば先帝の陵堂に干し、地脈を動かすを恐る、と。朕は既に面折せり。塞げば天地閉塞し、通ぜば風気流行す」と。健等は因りて力賛す。帝復た祔廟の礼を問う。健等言う、「二后を祔するは唐より始まり、三后を祔するは宋より始まる。漢以前は一帝一后なり。曩に議を定めて合祔せしむるに、孝莊太后は左に居り、今大行太皇太后は右に居る。且つ唐・宋の故事を引きて証とす。臣等は此を以て敢えて復た論ぜず」と。帝曰く、「二后既に非なり、況んや三后を祔するにおいてをや」と。遷曰く、「宋に三后を祔するは、一は継立、一は生母なり」と。帝曰く、「事は須らく古に師うべし。太皇太后は朕躬を鞠育せり。朕豈に忘れんや。顧みるに私情のみ。祖宗以来、一帝一后なり。今並びに祔すれば、礼を壊すは朕より始まる。且つ奉先殿に皇祖を祭るに、特座一飯一匙のみ。夫れ孝穆皇太后は朕が生母なり、別に奉慈殿に祀る。今仁寿宮の前殿稍々広し。朕は太皇太后を此に奉ぜんと欲し、他日孝穆皇太后を後に奉じ、歳時祭享すること、太廟の如くせん」と。ここに命じて群臣に詳議せしむ。議上る。新廟を建てんとす。欽天監奏す、年方に碍り有りと。廷議して請う、周太后を暫く奉慈殿に祀り、孝肅太皇太后と称すべしと。殿は奉先殿の西に在り。帝は孝穆を祀るに至り、此に中りて孝肅を奉じ、孝穆を左に徙めて居らしむ。帝始め隧道を通ぜんと欲す。亦た陰陽家の言に以て、果たして行わず。
孝肅周太后
先に、憲宗在位し、太后に事えて至孝なり。五日に一朝し、燕享には必ず親しむ。太后の意に欲する所は、惟だ歓ばざるを恐る。錢太后の裕陵に合葬するに至り、太后は殊に之を難じす。憲宗委曲に寬譬し、乃ち請を得。孝宗は西宮に生る。母妃紀氏薨じ、太后これを宮中に育ち、省視万方なり。孝宗即位するに及び、太后に事えるも亦た至孝なり。太后瘍を病み、久しくして愈ゆ。誥諭して群臣に曰く、「英皇の代を厭いてより、予は長楽に正位し、憲宗皇帝は天下を以て養い、二十四年猶一日の如し。茲に予偶々瘍を患う。皇帝は夜に天に籲き、予が為に命を請い、春郊の宴を罷め、問視惟だ勤し。老年の疾体をして、康寧を獲て底せしむ。昔を以て今を視るに、父子両世、孝同一揆なり。予甚だ嘉とす」と。
弘治十一年冬、清寧宮災あり。太后は仁寿宮に移居す。明年、清寧宮成る。乃ち還りて居る。太后の弟長寧伯彧の家に賜田あり。有司之を釐正せんことを請う。帝未だ許さず。太后曰く、「奈何ぞ我が故を以て皇帝の法を骫せんや」と。使いて地を官に帰せしむ。
弘治十七年三月崩ず。諡して孝肅貞順康懿光烈輔天承聖睿皇后と曰う。裕陵に合葬す。大学士劉健・謝遷・李東陽の議に以て、別に奉慈殿に祀り、廟に祔せず、仍って太皇太后と称す。嘉靖十五年、紀・邵の二太后と並びに陵殿に移祀し、主に題して「皇后」と曰い、帝諡に繫げず。以て嫡庶を別つ。其の後、穆宗の母孝恪・神宗の母孝定・光宗の母孝靖・熹宗の母孝和・莊烈帝の母孝純、皆其の制を用いるに遵う。
景帝汪廢后
憲宗吳皇后
憲宗の廢后吳氏は、順天の人。天順八年七月立てられて皇后と為る。先に、憲宗東宮に居り、万貴妃已に寵を擅にす。后既に立ち、其の過を摘ましめ、之を杖つ。帝怒り、詔を下して曰く、「先帝朕が為に賢淑を簡求し、已に王氏を定め、別宮に育ちて期を待たしむ。太監牛玉輒ち選退の吳氏を以て太后の前に複選す。冊立の礼成るの後、朕挙動の軽佻、礼度の率略なるを見、徳位に称せず。因りて其の実を察するに、始めて預立する者に非ざるを知る。是を用い已むを得ず、太后に命を請い、吳氏を廢し別宮とす」と。立つこと甫に一月を踰ゆるのみ。后の父俊は先に都督同知を授けらる。是に至りて獄に下し辺に戍す。玉を謫して孝陵に菜を種えしむ。玉の從子太常少卿綸・甥吏部員外郎楊琮並びに除名し、姻家の懐寧侯孫鏜は閒住す。ここに於いて南京給事中王徽・王淵・朱寛・李翱・李鈞等疏を合して言う、玉の罪重くして罰軽しと。因りて並びに大学士李賢を劾す。帝怒り、徽等皆辺州の判官に貶す。
後に孝宗西宮に生る。后保抱して惟だ謹し。孝宗即位し、后の恩を念い、命じて服膳皆母后の礼の如くせしめ、其の姪を錦衣百戸に官す。正徳四年薨ず。劉瑾之を焚かんと欲す。大学士王鏊持して不可とす。乃ち妃礼を以て葬る。
孝貞純皇后
孝穆紀太后
孝穆紀太后は、孝宗の生母であり、賀県の人である。元は蛮地の土官の娘であった。成化年間に蛮征討があり、捕らえられて後宮に入り、女史に任じられた。機敏で文字に通じ、命を受けて内蔵を管理した。当時万貴妃が寵愛を独占して嫉妬深く、後宮で身ごもった者は皆、堕胎させられた。柏賢妃が悼恭太子を生んだが、これも彼女によって害された。帝がたまたま内蔵を行幸し、彼女の応対が意にかなったので、喜んで寵幸し、遂に身ごもった。万貴妃はこれを知って大いに憤り、侍女に命じて堕胎させようとした。侍女は誤って「病痞(腹部の腫れ物)です」と報告した。そこで安楽堂に左遷されて住んだ。長くして孝宗を生み、門監の張敏に命じて溺れさせようとした。張敏は驚いて言った。「上にはまだ子がおられません。どうして棄てられましょうか」。少しずつ粉餌や飴蜜で育て、他の部屋に隠した。貴妃は毎日伺ったが、見つけることができなかった。五、六歳になっても、まだ胎髪を切らせなかった。当時、呉后が廃されて西内に住んでおり、安楽堂に近かったので、密かにこの事を知り、往来して養育したが、帝は知らなかった。
帝は悼恭太子が薨じて後、長く後嗣がなく、朝廷内外皆これを憂えた。成化十一年、帝が張敏を召して髪を梳かせている時、鏡を見て嘆いて言った。「老いが近づくのに子がない」。張敏が地に伏して言った。「死罪でございます。万歳爺には既に御子がおられます」。帝は愕然として、どこにいるのかと尋ねた。答えて言った。「奴が言えば即死します。万歳爺は皇子の為にお取り計らい下さい」。そこで太監の懐恩が頓首して言った。「張敏の言う通りです。皇子は密かに西内で養育されており、今や既に六歳でございます。匿して敢えて奏上しませんでした」。帝は大いに喜び、即日西内に行幸し、使者を遣わして皇子を迎えさせた。使者が到着すると、妃は皇子を抱いて泣いて言った。「児が行けば、私は生きられない。児よ、黄袍を着て鬚のある方を見れば、それが児の父上だ」。小さな緋色の袍を着せ、小さな輿に乗せ、抱きかかえて階の下まで来ると、髪は地に垂れ、走り寄って帝の懐に飛び込んだ。帝は膝に乗せ、撫でながら長く見つめ、悲喜の涙を流して言った。「我が子だ、私に似ている」。懐恩を内閣に赴かせてその経緯を詳しく説明させた。群臣皆大いに喜んだ。翌日、入朝して祝賀し、詔を天下に頒布した。妃を永寿宮に移し、しばしば召見した。万貴妃は日夜怨み泣いて言った。「あの小輩共が私を騙した」。その年の六月、妃は急死した。或いは貴妃が死に至らしめたと言い、或いは自縊したと言う。諡して「恭恪莊僖淑妃」とした。張敏は恐れて、金を呑んで死んだ。張敏は同安の人である。
孝宗が皇太子に立てられた後、当時孝肅皇太后が仁寿宮に住んでおり、帝に言った。「児を私に預けなさい」。太子は遂に仁寿宮に住んだ。ある日、貴妃が太子を召して食事をさせようとした。孝肅は太子に言った。「児よ、行ってはならない。食べてはならない」。太子が行くと、貴妃が食事を賜ったが、「もう満腹です」と言った。羹を進めると、「毒があるかと疑います」と言った。貴妃は大いに憤って言った。「この児は数歳で既にこうなのだ。いずれ私を魚肉にするだろう」。憤りによって病気になった。孝宗が即位すると、淑妃を追諡して「孝穆慈慧恭恪莊僖崇天承聖純皇后」とし、茂陵に改葬し、別に奉慈殿で祀った。帝は太后を悲しみ慕い、特に太監の蔡用を遣わして太后の家族を求めさせ、紀父貴・紀祖旺の兄弟を得て奏上した。帝は大いに喜び、詔して「父貴」を「貴」と改め、錦衣衛指揮同知を授け、「祖旺」を「旺」と改め、錦衣衛指揮僉事を授けた。邸宅・金帛・荘田・奴婢を賜うこと、数え切れなかった。太后の父を追贈して中軍都督府左都督とし、母を夫人とした。その曾祖・祖父も同様にした。賀県にある太后の先祖の墓を修復することを命じ、守墳戸を置き、その家の賦役を免じた。
先に、太后が宮中にいた時、かつて自ら家は賀県で、姓は紀であると言ったが、幼くして親族を知ることができなかった。太監の郭鏞はこれを聞いて覚えていた。太監の陸愷という者もまた広西の人で、元は姓を李とし、蛮地では紀と李は同音であるため、妄りに太后の兄と称し、人に命じてその族人を訪ねさせて京師に来させた。愷の姉の夫である韋父成という者が出てこれを冒充し、役所は外戚として待遇し、その住む里を迎恩里と名付けた。貴と旺は言った。「韋ですら李を冒充するのに、まして我々は実は李氏である」。そこで宗族の系図を偽って役所に上申したが、役所は弁別できなかった。二人が既に急に貴顕となると、父成もまた宮廷に赴いて争って弁明した。帝は郭鏞に命じてこれを取り調べさせた。郭鏞は父成を追い返したが、なお駅逓を使って帰らせた。帝が使者を遣わして后の先祖の墓を治めさせると、蛮地の李姓の者数人が、皆太后の家であると称し、使者に自ら申し出た。使者が帰還し、貴と旺が実態に合わないと奏上した。再び給事中の孫珪と御史の滕祐を遣わし、密かに連州・賀県の間を行き、微服で瑤・僮の中に入り訪ねさせ、その状況を全て得て帰還奏上した。帝は郭鏞らを差等をつけて謫罰し、貴と旺を辺境の海浜に戍らせた。この後、帝は数度太后の家族を求めたが、遂に得られなかった。
孝惠邵太后
万貴妃
この時、帝にはまだ子がなく、朝廷内外はこれを憂い、言事の者はしばしば恩沢を広く施して継嗣を広げるよう請うた。給事中李森・魏元、御史康永韶らの上言は特に切実であった。四年秋、彗星がたびたび現れた。大学士彭時・尚書姚夔もまたこれを言上した。帝は「内廷の事である。朕が自ら決する」と言ったが、しかし用いることはできなかった。妃はますます驕慢となった。権勢を握る宦官で、ひとたびその意に逆らう者は、ただちに斥逐された。掖廷で御幸を受けて身ごもった者が、薬を飲ませられて堕胎させられることは数えきれなかった。孝宗が生まれた時、頭頂に一寸ほどの髪のない部分があったが、ある者は薬によるものだと言った。紀淑妃の死は、実は妃がもたらしたものである。佞幸の錢能・覃勤・汪直・梁芳・韋興らはみな、貢ぎ物を献上することを口実に、民財を苛斂し、府庫を傾け尽くして、貴妃の歓心を買おうとした。奇技淫巧、宮観への祈祷祭祀に、浪費は数えきれなかった。久しくして、帝の後宮に生まれる子が次第に多くなると、芳らは太子が年長となり、他日に即位すれば、自分たちの罪を問うであろうことを恐れ、ともに妃を導いて帝に儲君の変更を勧めた。ちょうど泰山が震動し、占う者がこれは東宮に応ずると言った。帝は内心恐れ、事はやむこととなった。