明史

列傳第一 后妃一

明の太祖は前代の女禍を鑑み、綱紀を立てて内教を厳しくすることを首とした。洪武元年、儒臣に命じて女誡を修めさせ、翰林学士朱升に諭して曰く、「天下を治める者は、家を正すことを先とする。家を正す道は、夫婦を謹むことに始まる。后妃は天下の母儀たるも、政事に預からしむべからず。嬪嬙の属に至っては、職事を備え、巾櫛に侍るに過ぎず。恩寵或いは過ぐれば、驕恣して分を犯し、上下序を失う。歴代の宮闈、政内より出ずるは、禍とならざるは鮮し。惟だ明主のみ未然に察し、これより下は多く惑わされる。卿等其れ女誡及び古の賢妃の事で法とすべきものを纂修し、後世の子孫に持守すべき所を知らしめよ。」朱升らは乃ち編録して上之。

五年六月、礼臣に命じて宮官女職の制を議せしむ。礼臣上言して曰く、「周の制、後宮に内官を設けて内治を賛す。漢は内官十四等を設け、凡そ数百人。唐は六局二十四司を設け、官凡そ百九十人、女史五十余人、皆良家の女を選びて之を充つ。」帝は設くる所過多とし、重ねて裁定を加うるを命ず。ここに曩制を折衷し、六局一司を立てる。局は尚宮・尚儀・尚服・尚食・尚寢・尚功と曰い、司は宮正と曰い、秩は皆正六品。毎局四司を領し、其の属二十有四、而して尚宮は六局の事を総行す。戒令責罰は、則ち宮正之を掌る。官七十五人、女史十八人、唐に比し百四十余人を減じ、凡そ宮寢に服労し、典守に祗勤するのみ。諸妃の位号も亦た惟だ賢・淑・庄・敬・惠・順・康・寧を取って称とし、閨房雍肅、旨深遠に寓す。又た工部に命じて紅牌を製せしめ、后妃を戒諭するの詞を鐫り、宮中に懸く。牌は鉄を用い、字は金を以て飾る。復た令典を著し、后妃以下より嬪御女史に至るまで、鉅細衣食の費、金銀幣帛・器用百物の供、皆尚宮より旨を取り、牒を内使監に移して覆奏し、部臣を移して取給せしむ。若し尚宮奏に及ばず、内使監覆奏せずして、輒ち部に於いて領する者は、死を論ず。或いは私書を以て外に出づるも、罪亦た之の如し。宮嬪以下疾あるも、医者は宮に入るを得ず、証を以て薬を取る。何ぞ其れ慎みやかなる。是を以て明の代を終わるまで、宮壼肅清たり。論者其の家法の善を謂い、漢・唐を超軼せりと。

爰に孝慈より愍后に迄り、其の族里を考へ、其の世代を次ぐ。遇う所斉しからず、顕晦異致すと雖も、凡そ正号に居る者は並びに篇に列す。其の妃嬪に事実ある者も、亦た附見す。

太祖孝慈高皇后

太祖孝慈高皇后馬氏は、宿州の人なり。父は馬公、母は鄭おう、早く卒す。馬公素より郭子興と善くし、遂に后を以て子興に託す。馬公卒し、子興之を育つること己が女の如し。子興太祖を奇とし、后を以て帰せしむ。

后は仁慈にして智鑑有り、書史を好む。太祖に劄記有れば、輒ち后に命じて之を掌らしめ、倉卒として未だ嘗て忘れず。子興嘗て讒を信じ、太祖を疑う。后其の妻に善く事え、嫌隙釋かるるを得たり。太祖既に太平を克つと、后将士の妻妾を率いて江を渡る。江寧に居るに及び、呉・漢境を接し、戦虚日無く、親しく甲士の衣鞋を緝いで軍を佐く。陳友諒龍灣に寇すと、太祖師を率いて之を御す。后儘く宮中の金帛を発して士を犒う。嘗て太祖に語り、天下を定むるには人を殺さざるを本とすと。太祖之を善しとす。

洪武元年正月、太祖即帝位し、冊して皇后と為す。初め、后帝に従いて軍中に在り、歳大いに饑うるに値い、帝又た郭氏に疑わるる所と為り、嘗て食を乏くす。后窃かに炊餅し、懐いて進むるに、肉焦る。居常に糗糒脯脩を貯えて帝に供し、乏絶する所無く、而して己は宿飽せず。貴きに及び、帝之を「蕪蔞の豆粥」「滹沱の麦飯」に比し、毎に群臣に対し后の賢を述べて、唐の長孫皇后に同じし。退きて以て后に語る。后曰く、「妾聞く、夫婦相保つは易く、君臣相保つは難しと。陛下妾の貧賤を同じくするを忘れず、願わくば群臣の艱難を同じくするを忘れざらんことを。且つ妾何ぞ敢えて長孫皇后に比せん。」

后は内治に勤め、暇あれば則ち古訓を講求す。六宮に告げ、宋に賢后多しとて、女史に命じて其の家法を録せしめ、朝夕省覧す。或いは宋の仁厚に過ぐると言う。后曰く、「仁厚に過ぐるは、刻薄に愈らざらんや。」一日、女史に問う、「黄老は何の教えぞ、而して竇太后之を好む。」女史曰く、「清淨無為を本とす。若し仁義を絶ち棄て、民復た教慈に帰せば、是れ其の教えなり。」后曰く、「孝慈は即ち仁義なり。詎んぞ仁義を絶ちて孝慈を為す者あらんや。」后嘗て『小学』を誦し、帝に表章を求めたり。

帝前殿に於いて事を決するに、或いは震怒す。后帝の宮に還るを伺い、輒ち事に随いて微かに諫む。帝の性厳しと雖も、然れども刑戮を緩めたる者数たび矣。参軍郭景祥和州を守る。人其の子が槊を持ちて父を殺さんと欲すと言う。帝将に之を誅せんとす。后曰く、「景祥は一子を止む。人の言或いは実ならず、之を殺せば恐らく其の後を絶たん。」帝之を廉るに、果たして枉りたり。李文忠厳州を守る。楊憲其の不法を誣う。帝召し還さんと欲す。后曰く、「厳は敵境なり。将を輕易にする宜しからず。且つ文忠素より賢し。憲の言詎んぞ信ずべけんや。」帝遂に已む。文忠後卒に功有り。学士宋濂孫慎の罪に坐し、逮え至り、死を論ぜらる。后諫めて曰く、「民家子弟の為に師を延くるも、尚お礼を以て終始を全うす。況んや天子においてをや。且つ濂家居すれば、必ずや情を知らざらん。」帝聴かず。会うに后帝に侍して食すに、酒肉を御せず。帝故を問う。対えて曰く、「妾宋先生の為に福事を作るなり。」帝惻然として、箸を投げて起つ。明日濂を赦し、茂州に安置す。呉興の富民沈秀なる者、都城の築を助くること三の一、又た軍を犒わんことを請う。帝怒りて曰く、「匹夫天子の軍を犒うは、乱民なり。誅すべし。」后諫めて曰く、「妾聞く、法は不法を誅するなり。不祥を誅するに非ず。民富みて国に敵すは、民自ら不祥なり。不祥の民は、天将に之を災いせん。陛下何ぞ之を誅せん。」乃ち秀を釈し、雲南に戍す。帝嘗て重囚に城を築かしむ。后曰く、「罪を贖い役を罰するは、国家の至恩なり。但だ疲囚に役を加うれば、恐らく仍ほ死亡を免れざらん。」帝乃ち悉く之を赦す。帝嘗て怒りて宮人を責む。后亦た佯りて怒り、執って宮正司に付して罪を議せしむ。帝曰く、「何を為す。」后曰く、「帝王は喜怒を以て刑賞を加うること無し。陛下の怒る時に当たりては、恐らくは畸重有らん。宮正に付すれば、則ち其の平を酌む。即ち陛下人の罪を論ずるも亦た有司に詔するのみ。」

ある日、后は帝に問うた、「今、天下の民は安らかであるか」と。帝は言った、「これは汝の問うべきことではない」と。后は言った、「陛下は天下の父、妾は辱くも天下の母、子の安否を、どうして問わずにおられようか」。

凶年にあたれば、麦飯と野草の羹を設けた。帝が時に賑恤したことを告げると、后は言った、「賑恤するよりは、蓄積を先に備える方がよい」。

奏事官が朝を散じて、廷中で会食する時、后は中官に命じて飲食を取らせ、自ら味わった。味が良くなかったので、帝に申し上げて言った、「人主の自らの供養は薄くしたいもの、賢者を養うのは厚くすべきです」。帝はこれにより光禄官を戒飭した。

帝が太学に行幸して帰ると、后は生徒が何人いるかと尋ねた。帝は言った、「数千人」。后は言った、「人材が多いことです。諸生には廩食がありますが、妻子は何を頼りにすればよいのでしょう」。

そこで紅板倉を立て、糧を積んでその家に賜った。太学生の家に糧を賜うことは、后から始まった。

諸将が元の都を攻克し、宝玉を捕虜として持ち帰った。后は言った、「元はこれを持っていながら守れなかった。思うに、帝王には自らの宝があるのでしょう」。

帝は言った、「朕は后が賢者を得ることを宝とするということを知っている」。后は拝礼して謝して言った、「誠に陛下の言う通りです。妾は陛下と貧賤から起こり、今日に至るまで、常に驕慢と放縦が奢侈から生じ、危亡が細微から起こることを恐れておりました。故に賢人を得て天下を共に治めたいと願うのです」。

また言った、「法は屡々改めれば必ず弊害が生じ、法に弊害が生じれば奸悪が生まれる。民は屡々擾乱されれば必ず困窮し、民が困窮すれば乱が生じる」。

帝は嘆息して言った、「至言である」。女史に命じてこれを冊に書かせた。その規諫匡正は、このような類いであった。

帝が毎回御膳をとる時、后は皆自ら省みて視察した。平素は大練の洗濯した衣服を着て、たとえ破れても替えるに忍びなかった。

元の世祖の后が古い弓弦を煮たという故事を聞くと、練り絹を取って織らせて衾裯(寝具)とし、高齢の煢独(孤独な者)に賜った。

余った帛布や節のある糸は、縫い合わせて衣裳とし、諸王の妃や公主に賜り、天桑(養蚕、転じて衣食)の艱難を知らしめた。

妃嬪や宮人で寵愛を受け子がある者は、厚く待遇した。命婦が入朝すると、家人の礼のようにして待遇した。

帝が后の一族を訪ねて官職を与えようとすると、后は謝して言った、「爵禄を外戚に私することは、法に適いません」。力説して辞退し、やめさせた。

しかし父母が早く亡くなったことに言及すると、いつも悲しみ涙を流した。帝は馬公を徐王に封じ、鄭媼を王夫人とし、墓を修し廟を置いた。

王が帝位に即くと、冊立して皇后とした。言うには、「南北毎年戦闘し、兵民疲弊す、宜しく休息を与うべし」。また言うには、「当世の賢才は皆高皇帝の遺せる所なり、陛下宜しく新旧を以て間うべからず」。また言うには、「帝堯の仁を施すは親より始む」。帝は常に嘉納した。初め、后の弟増寿は常に国情を燕に輸送し、恵帝に誅せられた。ここに至り爵を贈らんと欲すれども、后は力言して不可とす。帝は聴かず、竟に定国公に封じ、その子景昌に襲封せしめ、乃ち后に告ぐ。后曰く、「妾の志に非ず」。終に謝せず。嘗て漢・趙二王の性順わざるを言い、官僚は宜しく廷臣を選び兼署すべしとす。一日、問う、「陛下誰と治を図る者ぞ」。帝曰く、「六卿は政務を理め、翰林は論思を職とす」。后は因りて悉くその命婦を召見し、冠服鈔幣を賜うことを請う。諭して曰く、「婦の夫に事うるは、奚ぞ止だ饋食衣服のみならんや、必ず助け有らん。朋友の言は、従う有り違う有り、夫婦の言は、婉順にして入り易し。吾旦夕上に侍りて、惟だ生民を念うを以てす、汝曹勉めよ」。嘗て『女憲』『女誡』を採りて『内訓』二十篇を作り、又古人の嘉言善行を類編し、『勧善書』を作り、天下に頒行す。

永楽五年七月、疾革(病篤く)、惟だ帝に百姓を愛惜し、賢才を広く求め、宗室に恩礼を厚くし、外家を驕畜せざるを勧む。又皇太子に告げて曰く、「曩に北平の将校の妻我が為に戈を荷い城守せしを恨み、未だ皇帝の北巡に随い、一たび賚卹(賞恤)することを獲ざるなり」。是の月乙卯崩ず、年四十有六。帝悲慟し、霊谷・天禧二寺に大斎を薦(供養)し、群臣の致祭を聴し、光禄寺に物を具えしむ。十月甲午、諡して「仁孝皇后」と曰う。七年昌平の天寿山に寿陵を営み、又四年にして陵成る。后を以てここに葬る、即ち長陵なり。帝も亦復た后を立たず。仁宗即位し、尊諡を上りて「仁孝慈懿誠明莊献配天斉聖文皇后」と曰い、太廟に祔す。

王貴妃

昭献貴妃王氏、蘇州の人。永楽七年貴妃に封ぜらる。妃賢徳有り、仁孝皇后に事えて恭謹、帝に重んぜらる。帝晚年急怒多し。妃曲く調護し、太子諸王公主以下皆倚頼す。十八年七月薨ず、礼は太祖の成穆孫貴妃に視(準)ず。

権賢妃

恭献賢妃権氏、朝鮮の人。永楽の時、朝鮮女を貢して掖庭に充つ、妃もまたこれに与る。姿質穠農(濃艶)にして粹、玉簫を吹くを善くす。帝愛憐す。七年賢妃に封じ、その父永均を光禄卿とす。明年十月帝に侍して北征す。凱還し、臨城にて薨じ、嶧県に葬る。

誠孝昭皇后

仁宗誠孝皇后張氏、永城の人。父麒は女の貴きを以て、追封して彭城伯とす、詳しくは『外戚伝』につぶさなり。洪武二十八年燕世子妃に封ぜらる。永楽二年皇太子妃に封ぜらる。仁宗立ち、冊立して皇后とす。宣宗即位し、尊んで皇太后とす。英宗即位し、尊んで太皇太后とす。

后初め太子妃たりし時、婦道を操ること至って謹み、雅(常)に成祖及び仁孝皇后の歓びを得たり。太子数たび漢・趙二王に間せらる。体肥碩にして騎射能わず。成祖恚り、太子宮の膳を減ずるに至り、易(廃)せんとすること屡なりしも、卒に后の故を以て廃せられず。及び立たれて后と為るや、中外の政事、周知せざる莫し。

宣徳初め、軍国の大議多く聴裁決をうけたまわる。是の時海内寧泰、帝入りては起居を奉じ、出でては遊宴を奉じ、四方の貢献、微物と雖も必ず先ず皇太后に上る。両宮慈孝天下に聞こゆ。三年、太后西苑に遊び、皇后皇妃侍し、帝親しく輿をささえて万歳山に登り、觴を奉じて寿をすすめ、詩を献じて徳を頒つ。又明年長陵・献陵に謁し、帝親しく櫜鞬(弓矢袋)を帯び騎導す。河橋に至り、下馬して輦を扶く。畿民道を夾みて拝観し、陵旁の老幼皆山呼して拝迎す。太后顧みて曰く、「百姓君を戴くは、能く之を安んずるを以ての故なり、皇帝宜しく重く念うべし」。及び還り、農家を過ぎ、老婦を召して生業を問い、鈔幣を賜う。蔬食酒漿を献ずる者有り、取りて以て帝に賜い、曰く、「此れ田家の味なり」。従臣英国公張輔、尚書蹇義、大学士楊士奇・楊栄・金幼孜・楊溥行殿に見えんことを請う。太后之を慰労し、且つ曰く、「爾等は先朝の旧人なり、嗣君を輔くるに勉めよ」。他日、帝士奇に謂いて曰く、「皇太后陵を謁し還り、道すがら汝輩の行う事甚だ習(熟)し。言うに、張輔は武臣なり、大義に達す。蹇義は重厚小心なり、但だ寡断なり。汝は克く正しく、言に避忤無し、先帝或いは数たび楽しからず、然れども終に汝に従い、以て事を敗らず。又三事有り、時に従わざるを悔ゆ」。太后外家に遇するに厳しく、弟昇は淳謹なりと雖も、然れども国事に預り議するを許さず。

宣宗崩じ、英宗方に九歳、宮中に訛言有りて将に襄王を召し立てんとす。太后趣うながして諸大臣を召し乾清宮に至らしめ、太子を指して泣いて曰く、「此れ新天子なり」。君臣万歳を呼び、浮言乃ち息む。大臣太后に垂簾聴政を請う。太后曰く、「祖宗の法を壊すなかれ。ただ一切の不急の務を悉く罷めよ」。時時帝に向学をつとめ、股肱を委任す。以ての故に王振帝に寵せらるると雖も、太后の世終わるまで敢えて大政を専らにせず。

正統七年十月崩ず。大漸に当たり、士奇・溥を召し入れ、中官をして国家に尚ほ何の大事未だおさめざる者あるかを問わしむ。士奇三事を挙ぐ。一に謂く、「建庶人亡すと雖も、当に『実録』を修むべし」。一に謂く、「太宗の詔に『方孝孺諸臣の遺書を収むる者は死す』と有り、宜しく其の禁を弛むべし」。其三は未だ奏上せざるに、而して太后已に崩ず。遺詔大臣を勉めて帝を佐け仁政をつとめて行わしめ、語甚だ諄篤なり。尊諡を上りて「誠孝恭粛明徳弘仁順天啓聖昭皇后」と曰い、献陵に合葬し、太廟に祔す。

恭譲章皇后

宣宗恭譲皇后胡氏、名は善祥、済寧の人。永楽十五年皇太孫妃に選ばる。やがて皇太子妃と為る。宣宗即位し、立てて皇后と為す。時に孫貴妃寵有り、后子無く、又善く病む。三年春、帝后に命じて表を上り位を辞せしめ、乃ち長安ちょうあん宮に退居し、号を静慈仙師と賜い、而して貴妃を冊立して后と為す。諸大臣張輔・蹇義・夏原吉・楊士奇・楊栄等争う能わず。張太后后の賢を憫み、常に召して清寧宮に居らしむ。内廷の朝宴、命じて孫后の上に居らしむ。孫后常に怏怏たり。正統七年十月、太皇太后崩じ、后痛哭已まず、年をえて亦崩ず。嬪御の礼を以て金山に葬る。

后過無くして廃せられ、天下聞きて之を憐れむ。宣宗後亦悔ゆ。嘗て自ら解して曰く、「此れ朕が少年の事なり」。天順六年、孫太后崩じ、銭皇后英宗に言う、「后賢にして罪無く、廃せられて仙師と為る。其の没するや、人太后を畏れ、殮葬皆礼の如くせず」。因りて其の位号を復するを勧む。英宗大学士李賢に問う。賢対えて曰く、「陛下此の心、天地鬼神実に之に臨む。然れども臣以ては、陵寝・享殿・神主俱に宜しく奉先殿の式の如くすべく、こいねがわくは陛下の明孝に称せん」。七年閏七月、尊諡を上りて「恭譲誠順康穆静慈章皇后」と曰い、陵寝を修め、廟に祔せず。

孝恭章皇后

宣宗の孝恭皇后孫氏は、鄒平の人である。幼少より美色あり。父の忠は、永城県の主簿なり。誠孝皇后の母彭城伯夫人は、もと永城の人にて、しばしば禁中に入り、忠に賢女あるを言ひ、遂に入宮を得たり。年十余歳の時、成祖誠孝后に命じてこれを養はしむ。後に宣宗婚し、詔して済寧の胡氏を選び妃と為し、孫氏を以て嬪と為す。宣宗即位し、貴妃に封ず。故事に曰く、皇后は金宝金冊あり、貴妃以下は冊有りて宝無し。妃寵有り、宣徳元年五月、帝太后に請ひ、金宝を製して賜ふ。貴妃に宝有るは此より始まる。

妃も亦子無く、陰に宮人の子を取りて己が子と為す、即ち英宗なり、是より眷寵益々重し。胡后上表して位を遜り、早く国本を定むるを請ふ。妃偽りに辞して曰く、「后病癒へて自ら子有らん、吾が子敢へて后の子に先だつべけんや」と。三年三月、胡后廃せられ、遂に冊して皇后と為す。英宗立ち、尊びて皇太后と為す。

英宗北狩の時、太后郕王に命じて国を監せしむ。景帝即位し、尊びて上聖皇太后と為す。時に英宗迤北に在り、数へて寒衣裘を寄せて御す。還りて南宮に幽せらるるに及び、太后数へ入りて省視す。石亨等門を奪はんと謀り、先づ密かに太后に白す。之を許す。英宗復辟し、徽号を上りて「聖烈慈寿皇太后」と曰ふ。明興りて、宮闈の徽号も亦此より始まる。天順六年九月崩じ、尊諡を上りて「孝恭懿憲慈仁荘烈斉天配聖章皇后」と曰ひ、景陵に合葬し、太廟に祔す。而して英宗の生母は、人卒に之を知る者無し。

宣廟賢妃

呉太后は、景帝の母なり、丹徒の人。宣宗太子たる時、選ばれて宮に入る。宣徳三年賢妃に封ぜらる。景帝即位し、尊びて皇太后と為す。英宗復辟し、復た宣廟賢妃と称す。成化中に薨ず。

郭嬪

郭嬪は、名は愛、字は善理、鳳陽の人。賢にして文有り、宮に入ること二旬にして卒す。自ら死期を知り、楚声を書して以て自ら哀む。詞に曰く、「修短数有りて、較ぶるに足らざるなり。生くること夢の如くして、死すれば則ち覚むるなり。吾が親に先だちて帰らば、予が孝を失へるを慙づ。心悽悽として已む能はざるは、是れ則ち悼む可きなり」と。正統元年八月、皇庶母恵妃何氏を追贈して貴妃と為し、諡して「端静」と曰ひ、趙氏を賢妃と為し、諡して「純静」と曰ひ、呉氏を恵妃と為し、諡して「貞順」と曰ひ、焦氏を淑妃と為し、諡して「荘静」と曰ひ、曹氏を敬妃と為し、諡して「荘順」と曰ひ、徐氏を順妃と為し、諡して「貞恵」と曰ひ、袁氏を麗妃と為し、諡して「恭定」と曰ひ、諸氏を淑妃と為し、諡して「貞静」と曰ひ、李氏を充妃と為し、諡して「恭順」と曰ひ、何氏を成妃と為し、諡して「肅僖」と曰ふ。冊文に曰く、「茲に身を委ねて義に蹈み、龍馭に随ひて上賓す。宜しく徽称を薦め、以て節行を彰すべし」と。蓋し宣宗の殉葬せしむる宮妃なり。

初め、太祖崩じ、宮人多く従死する者あり。建文・永楽の時、相継ぎて優恤す。張鳳・李衡・趙福・張璧・汪賓の諸家の若きは、皆錦衣衛所の試百戸・散騎帯刀舎人より千百戸に進み、帯俸世襲す。人これを「太祖朝天女戸」と謂ふ。歴て成祖、仁・宣二宗も亦皆殉を用ふ。景帝郕王の薨ずるに、猶其の制を用ふ。蓋し当時王府皆然り。英宗の遺詔に至りて、始めて之を罷む。

孝荘睿皇后

英宗の孝荘皇后銭氏は、海州の人。正統七年立てて后と為す。帝后の族単微なるを憫み、侯せんと欲す。后輒ち遜謝す。故に后家独り封無し。英宗北狩の時、中宮の資を傾けて迎駕を佐く。夜哀泣して天に籲き、倦むれば即ち地に臥し、一股を損ず。哭泣を以て復た一目を損ず。英宗南宮に在りて自得せず、后曲く慰解を為す。后子無く、周貴妃子有り、立てて皇太子と為す。英宗大漸し、遺命して曰く、「銭皇后千秋万歳の後、朕と同く葬らしむべし」と。大学士李賢退きて之を冊に書す。

憲宗立ち、両宮の徽号を上り、廷臣を下して議せしむ。太監夏時貴妃の意を希ひ、諭を伝へて独り貴妃を尊びて皇太后と為す。大学士李賢・彭時力争し、乃ち両宮並びに尊び、而して后を称して慈懿皇太后と為す。及び裕陵を営むに、賢・時三壙を営むを請ふ。廷議を下す。夏時復た不可を言ひ、事竟に寢す。

成化四年六月、太后崩ず。周太后后の合葬を欲せず。帝夏時・懐恩を使はして大臣を召し議せしむ。彭時首に対して曰く、「裕陵に合葬し、廟に主を祔するは、定礼なり」と。翼日、帝召して問ふ。時前の如く対す。帝曰く、「朕豈知らざらんや、他日の母后を妨ぐるを慮るのみ」と。時曰く、「皇上両宮に孝事し、聖徳彰聞す。礼の合する所は、孝の帰する所なり」と。商輅も亦言ふ、「祔葬せざれば、聖徳を損ず」と。劉定之曰く、「孝は義に従ひ、命に従はず」と。帝久しく黙然として曰く、「命に従はざるを尚ほ孝と為すべけんや」と。時力めて裕陵の左に合葬し、右を虚しくして周太后を待つを請ふ。已にして、復た大臣と疏を争ひ、帝再び廷議を下す。吏部尚書李秉・礼部尚書姚夔廷臣九十九人を集めて議し、皆時が言ふ如く請ふ。帝曰く、「卿等の言是なり、顧みるに朕屡々太后に請ふも命を得ず。礼に乖くは孝に非ず、親に違ふも亦孝に非ず」と。明日、詹事柯潜・給事中魏元等上疏し、又明日、夔等疏を合して上り、皆初めの如く議を執す。中旨猶諭して別に葬地を択ばしむ。是に於て百官伏哭して文華門外に在り。帝群臣に命じて退かしむ。衆叩頭し、旨を得ざれば敢へて退かず。自ら巳より申に至りて、乃ち允を得。衆万歳を呼びて出づ。事は時・夔の伝に詳し。是の年七月尊諡を上りて「孝荘献穆弘恵顕仁恭天欽聖睿皇后」と曰ひ、太廟に祔す。九月裕陵に合葬す。隧を異にし、英宗の玄堂より数丈許り距り、中を窒ち、石壙を虚しくして周太后を待つ。其の隧独り通ず。而して奉先殿の祭も亦后の主を設けず。

弘治十七年、周太后崩御す。孝宗便殿に御し、裕陵の図を出し、大学士劉健・謝遷・李東陽に示して曰く、「陵に二つの隧道あり、一方は塞がれ、一方は往来に通ずる。皆先朝の内臣の為す所なり。これは礼に合わず。昨、成化年間の彭時・姚夔等の章奏を見るに、先朝の大臣は国のためにかくの如くし、先帝もまた已むを得ざるなり。欽天監は言う、隧道を通ずれば先帝の陵堂に干し、地脈を動かすを恐る、と。朕は既に面折せり。塞げば天地閉塞し、通ぜば風気流行す」と。健等は因りて力賛す。帝復た祔廟の礼を問う。健等言う、「二后を祔するは唐より始まり、三后を祔するは宋より始まる。漢以前は一帝一后なり。曩に議を定めて合祔せしむるに、孝莊太后は左に居り、今大行太皇太后は右に居る。且つ唐・宋の故事を引きて証とす。臣等は此を以て敢えて復た論ぜず」と。帝曰く、「二后既に非なり、況んや三后を祔するにおいてをや」と。遷曰く、「宋に三后を祔するは、一は継立、一は生母なり」と。帝曰く、「事は須らく古に師うべし。太皇太后は朕躬を鞠育せり。朕豈に忘れんや。顧みるに私情のみ。祖宗以来、一帝一后なり。今並びに祔すれば、礼を壊すは朕より始まる。且つ奉先殿に皇祖を祭るに、特座一飯一匙のみ。夫れ孝穆皇太后は朕が生母なり、別に奉慈殿に祀る。今仁寿宮の前殿稍々広し。朕は太皇太后を此に奉ぜんと欲し、他日孝穆皇太后を後に奉じ、歳時祭享すること、太廟の如くせん」と。ここに命じて群臣に詳議せしむ。議上る。新廟を建てんとす。欽天監奏す、年方に碍り有りと。廷議して請う、周太后を暫く奉慈殿に祀り、孝肅太皇太后と称すべしと。殿は奉先殿の西に在り。帝は孝穆を祀るに至り、此に中りて孝肅を奉じ、孝穆を左に徙めて居らしむ。帝始め隧道を通ぜんと欲す。亦た陰陽家の言に以て、果たして行わず。

孝肅周太后

孝肅周太后は、英宗の妃、憲宗の生母なり。昌平の人。天順元年に貴妃に封ぜらる。憲宗即位し、尊びて皇太后と為す。其の年十月、太后の誕日、帝は僧道をして斎祭を建てしむ。礼部尚書姚夔は群臣を帥いて斎所に詣り、太后の為に福を祈る。給事中張寧等これを劾す。帝は其の言を是とし、令して自後僧道の斎醮には、百官は行香すべからずと。二十三年四月、徽号を上りて「聖慈仁寿皇太后」と曰う。孝宗立ち、尊びて太皇太后と為す。

先に、憲宗在位し、太后に事えて至孝なり。五日に一朝し、燕享には必ず親しむ。太后の意に欲する所は、惟だ歓ばざるを恐る。錢太后の裕陵に合葬するに至り、太后は殊に之を難じす。憲宗委曲に寬譬し、乃ち請を得。孝宗は西宮に生る。母妃紀氏薨じ、太后これを宮中に育ち、省視万方なり。孝宗即位するに及び、太后に事えるも亦た至孝なり。太后瘍を病み、久しくして愈ゆ。誥諭して群臣に曰く、「英皇の代を厭いてより、予は長楽に正位し、憲宗皇帝は天下を以て養い、二十四年猶一日の如し。茲に予偶々瘍を患う。皇帝は夜に天に籲き、予が為に命を請い、春郊の宴を罷め、問視惟だ勤し。老年の疾体をして、康寧を獲て底せしむ。昔を以て今を視るに、父子両世、孝同一揆なり。予甚だ嘉とす」と。

弘治十一年冬、清寧宮災あり。太后は仁寿宮に移居す。明年、清寧宮成る。乃ち還りて居る。太后の弟長寧伯彧の家に賜田あり。有司之を釐正せんことを請う。帝未だ許さず。太后曰く、「奈何ぞ我が故を以て皇帝の法を骫せんや」と。使いて地を官に帰せしむ。

弘治十七年三月崩ず。諡して孝肅貞順康懿光烈輔天承聖睿皇后と曰う。裕陵に合葬す。大学士劉健・謝遷・李東陽の議に以て、別に奉慈殿に祀り、廟に祔せず、仍って太皇太后と称す。嘉靖十五年、紀・邵の二太后と並びに陵殿に移祀し、主に題して「皇后」と曰い、帝諡に繫げず。以て嫡庶を別つ。其の後、穆宗の母孝恪・神宗の母孝定・光宗の母孝靖・熹宗の母孝和・莊烈帝の母孝純、皆其の制を用いるに遵う。

景帝汪廢后

景帝の廢后汪氏は、順天の人。正統十年に郕王妃に冊せらる。十四年冬、王即皇帝位し、皇后に冊せらる。后に賢徳有り。嘗て京師の諸死事及び老弱の害に遇う者の原野に暴骨するを念い、官校をして掩埋せしむ。二女を生み、子無し。景泰三年、妃杭氏子見済を生む。景帝立たんと欲して太子と為し、憲宗を廢せんとす。后執りて不可とす。是を以て帝の意に忤い、遂に后を廢し、杭氏を立てて皇后と為す。七年、杭后崩ず。諡して肅孝と曰う。英宗復位し、皇后の号を削り、葬る所の陵を毀つ。而して后は仍って郕王妃と称す。景帝崩ず。英宗其の後宮唐氏等を以て殉せしめんとし、議して后に及ぶ。李賢曰く、「妃は既に幽廢せられ、況んや両女幼く、尤も憫むべし」と。帝乃ち已む。

憲宗復た太子に立てらる。雅に后の廢立を欲せざるを知り、之に事えて恭し。因りて帝に言い、之を外王府に遷し、尽く宮中の所有を携えて出づるを得しむ。周太后と相得て甚だ歓び、歳時宮に入り、家人の礼を叙す。然れども性剛執なり。一日、英宗太監劉桓に問うて曰く、「玉玲瓏の繫腰有りしを記す。今何れの在りか」と。桓言う、当に妃の所に在るべしと。英宗命じて之を索む。后之を井に投じ、使者に対し曰く、「之無し」と。已にして人に告げて曰く、「七年の天子、此の数片の玉を消受するに堪えざるか」と。已に、后の出づる所携ふる鉅万計り有りと言う者有り。英宗使いを遣わして之を檢取せしむ。遂に立尽す。正徳元年十二月薨ず。祭葬の礼を議す。大学士王鏊曰く、「葬は妃を以てし、祭は后を以てすべし」と。遂に金山に合葬す。明年、尊諡を上りて「貞恵安和景皇后」と曰う。

憲宗吳皇后

憲宗の廢后吳氏は、順天の人。天順八年七月立てられて皇后と為る。先に、憲宗東宮に居り、万貴妃已に寵を擅にす。后既に立ち、其の過を摘ましめ、之を杖つ。帝怒り、詔を下して曰く、「先帝朕が為に賢淑を簡求し、已に王氏を定め、別宮に育ちて期を待たしむ。太監牛玉輒ち選退の吳氏を以て太后の前に複選す。冊立の礼成るの後、朕挙動の軽佻、礼度の率略なるを見、徳位に称せず。因りて其の実を察するに、始めて預立する者に非ざるを知る。是を用い已むを得ず、太后に命を請い、吳氏を廢し別宮とす」と。立つこと甫に一月を踰ゆるのみ。后の父俊は先に都督ととく同知を授けらる。是に至りて獄に下し辺に戍す。玉を謫して孝陵に菜を種えしむ。玉の從子太常少卿綸・甥吏部員外郎楊琮並びに除名し、姻家の懐寧侯孫鏜は閒住す。ここに於いて南京給事中王徽・王淵・朱寛・李翱・李鈞等疏を合して言う、玉の罪重くして罰軽しと。因りて並びに大学士李賢を劾す。帝怒り、徽等皆辺州の判官に貶す。

後に孝宗西宮に生る。后保抱して惟だ謹し。孝宗即位し、后の恩を念い、命じて服膳皆母后の礼の如くせしめ、其の姪を錦衣百戸に官す。正徳四年薨ず。劉瑾之を焚かんと欲す。大学士王鏊持して不可とす。乃ち妃礼を以て葬る。

孝貞純皇后

孝貞皇后王氏は、上元の人である。憲宗が東宮にあった時、英宗が配偶を選び、十二人を得て、后と呉氏・柏氏を選んで宮中に留めた。呉氏が既に立てられて廃された後、遂に冊立されて皇后となった。天順八年十月のことである。万貴妃が後宮で寵愛を独占したが、后は淡々とこれに接した。孝宗が即位すると、皇太后と尊称された。武宗が即位すると、太皇太后と尊称された。正徳五年十二月、尊号を慈聖康壽と上った。十三年二月に崩じ、尊諡を「孝貞莊懿恭靖仁慈欽天輔聖純皇后」と上り、茂陵に合葬され、太廟に祔せられた。

孝穆紀太后

孝穆紀太后は、孝宗の生母であり、賀県の人である。元は蛮地の土官の娘であった。成化年間に蛮征討があり、捕らえられて後宮に入り、女史に任じられた。機敏で文字に通じ、命を受けて内蔵を管理した。当時万貴妃が寵愛を独占して嫉妬深く、後宮で身ごもった者は皆、堕胎させられた。柏賢妃が悼恭太子を生んだが、これも彼女によって害された。帝がたまたま内蔵を行幸し、彼女の応対が意にかなったので、喜んで寵幸し、遂に身ごもった。万貴妃はこれを知って大いに憤り、侍女に命じて堕胎させようとした。侍女は誤って「病痞(腹部の腫れ物)です」と報告した。そこで安楽堂に左遷されて住んだ。長くして孝宗を生み、門監の張敏に命じて溺れさせようとした。張敏は驚いて言った。「上にはまだ子がおられません。どうして棄てられましょうか」。少しずつ粉餌や飴蜜で育て、他の部屋に隠した。貴妃は毎日伺ったが、見つけることができなかった。五、六歳になっても、まだ胎髪を切らせなかった。当時、呉后が廃されて西内に住んでおり、安楽堂に近かったので、密かにこの事を知り、往来して養育したが、帝は知らなかった。

帝は悼恭太子が薨じて後、長く後嗣がなく、朝廷内外皆これを憂えた。成化十一年、帝が張敏を召して髪を梳かせている時、鏡を見て嘆いて言った。「老いが近づくのに子がない」。張敏が地に伏して言った。「死罪でございます。万歳爺には既に御子がおられます」。帝は愕然として、どこにいるのかと尋ねた。答えて言った。「奴が言えば即死します。万歳爺は皇子の為にお取り計らい下さい」。そこで太監の懐恩が頓首して言った。「張敏の言う通りです。皇子は密かに西内で養育されており、今や既に六歳でございます。匿して敢えて奏上しませんでした」。帝は大いに喜び、即日西内に行幸し、使者を遣わして皇子を迎えさせた。使者が到着すると、妃は皇子を抱いて泣いて言った。「児が行けば、私は生きられない。児よ、黄袍を着て鬚のある方を見れば、それが児の父上だ」。小さな緋色の袍を着せ、小さな輿に乗せ、抱きかかえて階の下まで来ると、髪は地に垂れ、走り寄って帝の懐に飛び込んだ。帝は膝に乗せ、撫でながら長く見つめ、悲喜の涙を流して言った。「我が子だ、私に似ている」。懐恩を内閣に赴かせてその経緯を詳しく説明させた。群臣皆大いに喜んだ。翌日、入朝して祝賀し、詔を天下に頒布した。妃を永寿宮に移し、しばしば召見した。万貴妃は日夜怨み泣いて言った。「あの小輩共が私を騙した」。その年の六月、妃は急死した。或いは貴妃が死に至らしめたと言い、或いは自縊したと言う。諡して「恭恪莊僖淑妃」とした。張敏は恐れて、金を呑んで死んだ。張敏は同安の人である。

孝宗が皇太子に立てられた後、当時孝肅皇太后が仁寿宮に住んでおり、帝に言った。「児を私に預けなさい」。太子は遂に仁寿宮に住んだ。ある日、貴妃が太子を召して食事をさせようとした。孝肅は太子に言った。「児よ、行ってはならない。食べてはならない」。太子が行くと、貴妃が食事を賜ったが、「もう満腹です」と言った。羹を進めると、「毒があるかと疑います」と言った。貴妃は大いに憤って言った。「この児は数歳で既にこうなのだ。いずれ私を魚肉にするだろう」。憤りによって病気になった。孝宗が即位すると、淑妃を追諡して「孝穆慈慧恭恪莊僖崇天承聖純皇后」とし、茂陵に改葬し、別に奉慈殿で祀った。帝は太后を悲しみ慕い、特に太監の蔡用を遣わして太后の家族を求めさせ、紀父貴・紀祖旺の兄弟を得て奏上した。帝は大いに喜び、詔して「父貴」を「貴」と改め、錦衣衛指揮同知を授け、「祖旺」を「旺」と改め、錦衣衛指揮僉事を授けた。邸宅・金帛・荘田・奴婢を賜うこと、数え切れなかった。太后の父を追贈して中軍都督府左都督とし、母を夫人とした。その曾祖・祖父も同様にした。賀県にある太后の先祖の墓を修復することを命じ、守墳戸を置き、その家の賦役を免じた。

先に、太后が宮中にいた時、かつて自ら家は賀県で、姓は紀であると言ったが、幼くして親族を知ることができなかった。太監の郭鏞はこれを聞いて覚えていた。太監の陸愷という者もまた広西の人で、元は姓を李とし、蛮地では紀と李は同音であるため、妄りに太后の兄と称し、人に命じてその族人を訪ねさせて京師に来させた。愷の姉の夫である韋父成という者が出てこれを冒充し、役所は外戚として待遇し、その住む里を迎恩里と名付けた。貴と旺は言った。「韋ですら李を冒充するのに、まして我々は実は李氏である」。そこで宗族の系図を偽って役所に上申したが、役所は弁別できなかった。二人が既に急に貴顕となると、父成もまた宮廷に赴いて争って弁明した。帝は郭鏞に命じてこれを取り調べさせた。郭鏞は父成を追い返したが、なお駅逓を使って帰らせた。帝が使者を遣わして后の先祖の墓を治めさせると、蛮地の李姓の者数人が、皆太后の家であると称し、使者に自ら申し出た。使者が帰還し、貴と旺が実態に合わないと奏上した。再び給事中の孫珪と御史の滕祐を遣わし、密かに連州・賀県の間を行き、微服で瑤・僮の中に入り訪ねさせ、その状況を全て得て帰還奏上した。帝は郭鏞らを差等をつけて謫罰し、貴と旺を辺境の海浜に戍らせた。この後、帝は数度太后の家族を求めたが、遂に得られなかった。

弘治三年、礼部尚書の耿裕が奏上して言った。「粤西は大征討の後であり、兵火と飢饉で人民は逃げ散り、歳月が遠く、踪跡は明らかにし難い。昔、孝慈高皇后は高皇帝と共に艱難から起こり、家を化して国と為されました。徐王は高皇后の父に当たりますが、皇后御在世中に家族を尋ね求められても、尚得ることができず、その後宿州に廟を立て、春秋に祭祀されました。今、紀太后は幼くして西粤を離れ、先帝に侍りました。連州・賀県は徐・宿のような中原の地ではなく、后妃としての宮中には母后として正位された年もありません。陛下の訪尋は切実ではありますが、どうしてその実態を得られましょうか。臣の愚見では、徐王の故事に倣い、太后の父母の封号を定め擬し、祠を桂林に立てて祭祀致すのがよろしいかと存じます」。帝は言った。「孝穆皇太后は早く朕を見棄てられた。毎に思念すれば、心が痛む。初めは宗族親戚は尚く旁から求め得られようと思い、寧ろ百の欺きを受けても、一つでも真実を得たいと願った。卿らが歳月が経ち過ぎて物色する由もないと言い、加封して廟を立て、聖母の霊を慰めよと請う。皇祖に既に故事がある以上、朕の心は忍びないが、またどうして敢えて違えようか」。そこで后の父を推誠宣力武臣特進光禄大夫柱国慶元伯に封じ、諡を端僖とし、后の母を伯夫人とし、廟を桂林府に立て、役所に命じて歳時祭祀させた。大学士の尹直が撰した哀冊に、「漢家の堯母の門を睹、宋室の仁宗の慟を増す」とある。帝が暇な時にこれを念誦すると、いつも歔欷して涙を流した。

孝惠邵太后

孝惠邵太后は、憲宗の妃で、興献帝の母である。父の林は昌化の人で、甚だ貧しく、娘を杭州の鎮守太監に売り、妃はこれによって宮中に入った。書を読み、容色があった。成化十二年に宸妃に封じられ、間もなく貴妃に進封された。興王が封国に赴く時、妃は従うことができなかった。世宗が大統を継いだ時、妃は既に老いて目が病んでいたが、孫が皇帝となったことを喜び、世宗の身体を頂から踵まで撫でた。既にして皇太后と尊称された。嘉靖元年、尊号を寿安と上った。十一月に崩じた。帝は翌年二月に茂陵に改葬しようとしたが、大学士の楊廷和らが言った。「祖陵はたびたび工事を起こすべきではなく、神霊を驚動させます」。従わなかった。諡して「孝惠康肅溫仁懿順協天祐聖皇太后」とし、別に奉慈殿で祀った。七年七月に太皇太后と改称した。十五年、陵殿に神主を遷し、皇后と称し、孝肅・孝穆などと同様とした。

万貴妃

恭肅貴妃万氏は、諸城の人である。四歳で掖廷に選ばれ入り、孫太后の宮女となった。成長すると、東宮において憲宗に仕えた。憲宗が十六歳で即位した時、妃はすでに三十五歳であり、機敏で、帝の意を迎えることに巧みであった。そこで皇后呉氏を讒言して廃し、六宮はめったに帝に近づくことができなかった。帝が遊幸するたびに、妃は戎服を着て先駆けした。成化二年正月、皇第一子を生み、帝は大いに喜び、中使を遣わして諸山川に祀らせ、ついに貴妃に封じた。皇子は満期にならずに薨じ、妃もまたこれより後は再び妊娠しなかった。

この時、帝にはまだ子がなく、朝廷内外はこれを憂い、言事の者はしばしば恩沢を広く施して継嗣を広げるよう請うた。給事中李森・魏元、御史康永韶らの上言は特に切実であった。四年秋、彗星がたびたび現れた。大学士彭時・尚書姚夔もまたこれを言上した。帝は「内廷の事である。朕が自ら決する」と言ったが、しかし用いることはできなかった。妃はますます驕慢となった。権勢を握る宦官で、ひとたびその意に逆らう者は、ただちに斥逐された。掖廷で御幸を受けて身ごもった者が、薬を飲ませられて堕胎させられることは数えきれなかった。孝宗が生まれた時、頭頂に一寸ほどの髪のない部分があったが、ある者は薬によるものだと言った。紀淑妃の死は、実は妃がもたらしたものである。佞幸の錢能・覃勤・汪直・梁芳・韋興らはみな、貢ぎ物を献上することを口実に、民財を苛斂し、府庫を傾け尽くして、貴妃の歓心を買おうとした。奇技淫巧、宮観への祈祷祭祀に、浪費は数えきれなかった。久しくして、帝の後宮に生まれる子が次第に多くなると、芳らは太子が年長となり、他日に即位すれば、自分たちの罪を問うであろうことを恐れ、ともに妃を導いて帝に儲君の変更を勧めた。ちょうど泰山が震動し、占う者がこれは東宮に応ずると言った。帝は内心恐れ、事はやむこととなった。

二十三年春、急病で薨じ、帝は七日間朝政を停めた。諡して「恭肅端慎榮靖皇貴妃」と曰い、天寿山に葬った。弘治初年、御史曹璘が妃の諡号を削るよう請い、魚臺県丞徐頊が紀太后を診視した諸医を逮捕して罪を問い、万氏の家属を捕らえ、当時の薨去の状況を究明するよう請うた。孝宗は先帝の意に重ねて背くことを避け、これをやめさせた。