旧唐書
巻一百九十九下 列伝第一百四十九下 北狄
鉄勒
鉄勒は、もと匈奴の別種である。突厥が強盛となって以来、鉄勒の諸郡は分散し、衆は次第に寡弱となった。武徳の初めに至り、薛延陀・契苾・回紇・都播・骨利幹・多覧葛・僕骨・抜野古・同羅・渾部・思結・斛薛・奚結・阿跌・白霫などがあり、磧北に散在していた。薛延陀というのは、自ら言うには本姓は薛氏であり、その祖先が延陀を撃滅してその衆を有したため、薛延陀部と号したという。その官制・兵器および風俗は、おおむね突厥と同じである。
初め、大業年間に、西突厥の処羅可汗が初めて強大となり、鉄勒諸部は皆これに臣従したが、処羅は徴税に度を過ぎ、薛延陀などの諸部は皆怨んだ。処羅は大いに怒り、その酋帥百余人を誅した。鉄勒は相率いて叛き、共に契苾哥楞を推して易勿真莫賀可汗とし、貪汗山の北に居らせた。また薛延陀の乙失鉢を以て也咥小可汗とし、燕末山の北に居らせた。西突厥の射匱可汗が強盛となると、延陀・契苾の二部は共に可汗の号を去ってこれに臣従した。郁督軍山にいる回紇など六部は、東は始畢に属し、金山にいる乙失鉢の部は、西は葉護に臣従した。
貞観二年、葉護可汗が死に、その国は大いに乱れた。乙失鉢の孫を夷男という。その部落七万余家を率いて突厥に附した。頡利の政が衰えるに遇い、夷男はその徒属を率いて反攻し頡利を大破した。ここにおいて頡利部の諸姓は多く頡利に叛き、夷男に帰し、共に推して主と為したが、夷男は敢えて当たらなかった。時に太宗はまさに頡利を図ろうとしており、遊撃将軍喬師望を遣わし間道より冊書を齎して夷男を拝し真珠毗伽可汗と為し、鼓纛を賜った。夷男は大いに喜び、使いを遣わして方物を貢ぎ、再び牙を大漠の北の郁督軍山下に建てた。これは京師の西北六千里にある。東は靺鞨に至り、西は葉護に至り、南は沙磧に接し、北は俱倫水に至り、回紇・抜野古・阿跌・同羅・僕骨・霫の諸大部落は皆これに属した。
三年、夷男はその弟の統特勒を遣わして来朝させた。太宗は厚く撫接を加え、宝刀および宝鞭を賜った。そして言った、「汝の部に大罪ある者はこれを鞭てよ」と。夷男は甚だ喜んだ。
四年、突厥の頡利を平らげた後、朔塞は空虚となり、夷男はその部を率いて東に故国に返り、庭を都尉揵山の北、独邏河の南に建てた。これは京師の北三千三百里にある。東は室韋に至り、西は金山に至り、南は突厥に至り、北は瀚海に臨む。すなわち古の匈奴の故地である。勝兵二十万、その二子を立てて南北部と為した。太宗もまたその強盛を以て、後患と為ることを恐れた。
十二年、使いを遣わして礼を備え冊命し、その二子を拝して皆小可汗と為した。外には優崇を示したが、実はその勢を分かんと欲したのである。時に朝廷は李思摩を立てて可汗と為し、その部衆を漠南の地に処した。夷男は心に思摩を憎み、甚だ悦ばなかった。
十五年、太宗は洛陽に幸し、将に太山に事あらんとす。夷男はその国において謀って言った、「天子が太山を封ずれば、万国必ず会し、士馬皆集まり、辺境は空虚となる。我この時に思摩を取るは朽ち木を引き倒すが如し」と。よってその子の大度設に命じて兵二十万を勒し、白道川に屯し、善陽嶺に拠って思摩の部を撃たしめた。思摩は使いを遣わして救いを請うた。詔して英国公李勣・蒲州刺史薛万徹に歩騎数万を率いて赴かしめた。白道川を逾えて青山に至り、大度設と相及んだ。これを累月追い、諾真水に至った。大度設は脱せられぬと知り、乃ち十里を距てて兵を陳べた。
先に、延陀は沙鉢羅および阿史那社爾らを撃ち、歩戦を以て勝った。その将に来寇せんとするに及び、先ず国中において武を講じ、歩戦を教習した。毎五人、一人を経習戦陣する者とし馬を執らせ、四人をして前戦せしめた。勝てば即ち馬を授けて奔を追わしめ、応接を失えば罪を死に至らしめ、その家口を没して戦人に賞した。ここに至って遂にその法を行った。突厥の兵は先ず合戦して輒ち退き、延陀は勝に乗じてこれを逐った。勣の兵は拒撃し、延陀は万矢俱に発して我が戦馬を傷つけた。乃ち馬を去りて歩陣し、長槊数百を率いて隊と為し、斉しく奮ってこれを沖した。その衆は潰散した。副総管薛万徹は数千騎を率いてその馬を執る者を収めた。その衆は馬を失い、従う所を知らず、よって大いに縦撃し、首三千余級を斬り、馬一万五千匹を獲、甲仗輜重は数うるに勝えなかった。大度設は身を跳らせて遁れ、万徹は数百騎を将いてこれを追ったが、及ばなかった。その余の衆は大いに奔走し、相騰み践んで死する者甚だ多く、伏屍野に被う。夷男はよって突厥と和することを乞い、併せて使いを遣わして謝罪した。
十六年、その叔父の沙鉢羅泥敦策斤を遣わして来らせて婚を請い、馬三千匹を献じた。太宗は侍臣に謂って言った、「北狄は世に寇乱を為す。今延陀が崛強である。須らく早くその所を為すべし。朕熟思するに、唯だ二策あり。徒十万を選び、撃ちてこれを虜とし、凶醜を滅除して百年無事、これ一策なり。若しその来請に遂い、婚姻を以て結び、轡を緩めて羈縻すれば、亦た三十年の安静に足る。これ亦た一策なり。未だ知らず、何れを先とすべきか」と。司空房玄齢対えて言った、「今大乱の後、瘡痍未だ復せず、且つ兵は凶にして戦は危し、聖人の慎む所なり。和親の策は、実に天下幸甚なり」と。太宗曰く、「朕は蒼生の父母たり。苟くももってこれを利するを得ば、豈に一女を惜しまんや」と。遂に新興公主を以てこれに妻せんことを許した。よって夷男に征して親迎の礼を備えしめた。仍って詔を発して将に霊州に幸してこれと会わんとす。夷男は大いに悦び、その国中に謂って言った、「我は本鉄勒の小帥なり。天子我を立てて可汗と為し、今また公主を我に嫁し、車駕親しく霊州に至らんとす。斯れ亦た足るかな」と。ここにおいて諸部に税して羊馬を以て聘財と為さんとした。或る者夷男に説いて言った、「我が薛延陀可汗は大唐天子と俱に一国の主なり。何ぞ自ら往きて朝謁せん。もし或いは拘留せられば、悔ゆるも及ばず」と。夷男曰く、「吾聞く、大唐天子の聖徳遠く被わり、日月の照らす所、皆来りて賓服すと。我は心を帰し質を委ね、冀くは天顔を睹んことを得て、死するも恨み無からん。然れども磧北の地は、必ず主有るべし。我を捨てて別に求めば、固より大国の計に非ず。我が志決せり、復た多く言うなかれ」と。ここにおいて言う者は遂に止んだ。太宗は乃ち使いを発してその羊馬を受けしめた。然れども夷男は先に府蔵無く、その国を調斂し、往復且つ万里、既に沙磧に渉り、水草無く、羊馬多く死に、遂に期に後れた。太宗はここにおいて霊州行幸を停めた。既にしてその聘の羊馬来り至るも、消耗すること半ばに将たらんとした。議する者、夷狄は礼義を以て畜うべからず、若し聘財未だ備わらずしてこれと婚すれば、或いは中国を軽んずるべし、当に須らくその礼を備えるを要すべしと為し、ここにおいて詔を下してその婚を絶った。既にして李思摩は数たび兵を遣わしてこれを侵掠した。延陀はまた突利失を遣わして思摩を撃たしめ、定襄に至り、抄掠して去った。太宗は英国公李勣を遣わしてこれを援けしめたが、虜が既に塞を出たのを見て還った。太宗はその数たび思摩と交兵するを以て、璽書を以てこれを責め譲った。
十九年、太宗はその使者に対して言うには、「汝の可汗に伝えよ、我が父子は共に東征して高麗を討つ。汝もし辺境を侵すことができれば、ただ来るがよい」と。夷男は使者を遣わして謝罪し、また兵を発して軍を助けることを請うたが、太宗は優詔をもって答え、止めさせた。その冬、太宗は遼東の諸城を陥れ、駐蹕の陣を破った。しかし高麗の莫離支が密かに靺鞨に命じて夷男を誑惑し、厚利を以て餌とすると、夷男は気勢を挫かれて敢えて動かなかった。やがて夷男が卒すると、太宗はそのために挙哀した。夷男の少子の肆葉護の拔灼がその兄の突利失可汗を襲撃して殺し、自ら立ち、これが頡利俱利薛沙多彌可汗である。拔灼は性が褊急で、下を統御するに恩がなく、殺戮することが多く、その下の者は附かなかった。この時、また太宗がなお遼東に在るのを幸いとし、遂に兵を発して夏州を寇したが、将軍の執失思力がこれを撃破し、その衆数万を虜にした。拔灼は軽騎で遁走し、まもなく回紇に殺され、宗族は殆ど尽きた。その余衆は尚ほ五六万あり、西域に竄走した。また諸姓の俟斤が互いに相攻撃し、各々使者を遣わして帰順を請うた。
二十年、太宗は使者として江夏王の道宗、左衛大将軍の阿史那社爾を瀚海道安撫大使とし、右領軍大将軍の執失思力に突厥の兵を率いさせ、代州都督の薛萬徹、営州都督の張儉、右驍衛大将軍の契苾何力に各々統べる所の兵を分道して並進させた。太宗は自ら霊州に幸し、諸軍の声援となった。やがて道宗が磧を渡ると、延陀の余衆数万が来て拒戦した。道宗はこれを撃破し、千余級を斬首した。萬徹もまた回紇と相遇い、二将は各々使者を遣わして綏懐の意を諭した。その酋帥は使者を見ると、皆頓顙して歓呼し、入朝を請うた。太宗が霊州に至ると、その鉄勒諸部が相継いで数千人に至り、なお州県に列することを請うた。北荒は悉く平らぎた。詔して曰く。
惟れ天は大なり、その徳に合う者は違わず。地は蓋し厚し、その仁を体する者は光被す。故に能く八極を彌倫し、二儀を輿蓋し、絶代の英声を振い、天下の能事を畢うす。彼の匈奴は、開闢と倶に生じ、龍庭を奄有し、上皇と並列す。驕子を僭称し、天街を紫宸に分かち、旄頭に仰応し、大礼を皇極に抗す。邃古を窺うに、能く制せざるは無し。朕が天下に臨御してより、二紀茲に至る。粤に眇身を以て、一たび寰宇を匡うす。始めは昧旦に勤労し、終には升平に治を致す。曩に聊か偏師を命ずるや、遂に頡利を擒うす。今茲に始めて廟略を弘むるや、已に延陀を滅ぼす。麾駕出征すと雖も、未だ郊甸を逾えず。前駆の轥む所、纔かに塞垣を掩うす。長策は風行し、已に金徽の表を振い、威を揚ぐるは電発し、遠く沙場の外に璟る。鉄勒諸姓、回紇胡祿俟利発等、総べて百余万戸、北溟に散処し、遠く使人を遣わし、身を委ねて内属し、編列に同じくし、並びに州郡たることを請う。その瀚海を収め、尽く提封に入れ、その辮発を解き、並びに冠帯を垂る。上は星昴を変じ、東井の躔に帰し、下は蹛林を掩い、南山の囿に袪入す。混元已降、殊に未だ前聞せず。無疆の業、永く来裔に貽す。古人の致す所不能なりしを、今既にこれを吞み、前王の屈する所不能なりしを、今咸くこれを滅ぼす。斯れ実に書契の未だ有らざる所、古今の壮観、豈に朕一人独り能く力を宣べんや。蓋し上霊の祉を儲え、太康を錫うし、宗廟の威霊、茲の克定を成すに由る。即ち宜しく礼を備え、清廟に告げ、仍って普天に頒示すべし。
その後、延陀の西遁した衆は共に夷男の兄の子の咄摩支を推して伊特勿失可汗とし、部落七万余口を率い、西に故地に帰った。乃ち可汗の号を去り、使者を遣わして表を奉り、郁督軍山の北に居ることを請うた。詔して兵部尚書の崔敦礼をして就きて綏撫を加えしむ。しかし諸部の鉄勒は素より薛延陀の衆に服し、咄摩支の至るに及んで、九姓の渠帥は危惧せざるは無かった。朝議は磧北の患となるを恐れ、また英国公の李勣をして進みて討撃を加えしむ。勣は九姓鉄勒の二万騎を率いて天山に至る。咄摩支は官軍の奄至するを見て、惶駭し何を為すべきかを知らず、且つ詔使の蕭嗣業が回紇の中に在るを聞き、因って降伏を請うた。嗣業はこれと倶に京師に至り、詔して右武衛将軍を授け、田宅を賜う。咄摩支が国に入った後、鉄勒の酋帥は密かにその部落を知り、なお両端を持した。李勣は因って兵を縦して追撃し、前後五千余級を斬り、男女三万を虜に計う。
二十一年、契苾、回紇等十余部落は薛延陀が亡散して殆ど尽きたことを以て、乃ち相継いで帰国した。太宗は各々その地土に因り、その部落を択び、州府を置いた。回紇部を以て瀚海都督府とし、僕骨を金徽都督府とし、多覧葛を燕然都督府とし、拔野古部を幽陵都督府とし、同羅部を龜林都督府とし、思結部を盧山都督府とし、渾部を皋蘭州とし、斛薛部を高闕州とし、奚結部を雞鹿州とし、阿跌部を雞田州とし、契苾部を榆溪州とし、思結別部を蹛林州とし、白霫部を寘顏州とし、凡そ一十三州。その酋長を拝して都督・刺史とし、玄金魚を与えて符信と為し、また燕然都護を置いてこれを統べしめた。この歳、太宗は鉄勒諸部が並びに皆内属したことを以て、詔して京城の百姓に大酺三日を賜う。
永徽元年、延陀の首領で先に逃逸した者が帰国を請うたので、高宗は更に溪彈州を置いてこれを安恤した。則天の時に至り、突厥が強盛となり、鉄勒諸部で漠北に在る者は漸く併せられるところとなった。回紇、契苾、思結、渾部は甘・涼二州の地に徙った。
その骨利幹は北は大海に距たり、京師から最も遠く、古より未だ中国に通ぜず。貞観中に使者を遣わして来朝貢し、雲麾将軍の康蘇密を遣わして往きて慰撫し、なおその地を玄闕州として列した。やがてまた使者を遣わして蘇密の使に随い入朝し、良馬十匹を献じた。太宗はその駿異なるを奇とし、そのために名を制した。号して十驥とす。一を騰霜白と曰い、二を皎雪驄と曰い、三を凝露驄と曰い、四を懸光驄と曰い、五を決波騟と曰い、六を飛霞驃と曰い、七を発電赤と曰い、八を流金𩢍と曰い、九を翱麟紫と曰い、十を奔虹赤と曰う。また文を為もってその事を叙す。延陀の叛した後より、朝貢は遂に絶えた。
契丹
契丹は潢水の南、黄龍の北、鮮卑の故地に居り、京城の東北五千三百里に在り。東は高麗に隣り、西は奚国に接し、南は営州に至り、北は室韋に至る。冷陘山はその国の南に在り、奚の西山と相崎り、地方二千里。狩猟に逐い往来し、居るに常処無し。その君長は姓は大賀氏。勝兵四万三千人、八部に分かれる。若し徴発有れば、諸部は皆須らく議合すべし。独り挙ぐるを得ず。狩猟は則ち別部、戦いは則ち同行す。本より突厥に臣す。奚と闘うを好み、利あらざれば則ち遁れて青山及び鮮卑山に保つ。その俗、死者は冢墓を作るを得ず、馬に車を駕して大山に送入し、これを樹上に置く。また服紀無し。子孫死すれば、父母は晨夕これに哭す。父母死すれば、子孫は哭さず。その余の風俗は突厥と同じ。
武德の初め、しばしば辺境を侵掠す。二年、平州に寇す。六年、その君長咄羅、使いを遣わして名馬・豊貂を貢ぐ。貞観二年、その君摩会、その部落を率いて来降す。突厥の頡利、使いを遣わして梁師都を以て契丹と易えんことを請う。太宗これに謂いて曰く、「契丹・突厥は、本は別類なり。今我に降る。何の故にかこれを索む。師都は本は中国人なり。我が州城を拠り、以て盗竊をなす。突厥は故なくしてこれを容納す。我が師往きて討たば、便ち来りて救援す。計らくは、久しからず自ら当に擒滅せらるべし。縦えこれを得ずとも、終に契丹を以てこれと易えじ」と。
太宗、高麗を伐つ。営州に至り、その君長及び老人等と会し、物を賜うこと各差あり。その蕃長窟哥を左武衛将軍に授く。
二十二年、窟哥等の部、咸しく内属を請う。ここに松漠都督府を置き、窟哥を以て左領軍将軍兼松漠都督府・無極県男とし、姓を李氏と賜う。顕慶の初め、また窟哥を左監門大将軍に拝す。その曾孫祜莫離は、則天の時に歴任して左衛将軍兼検校弾汗州刺史、帰順郡王となる。
また契丹に別部の酋帥孫敖曹あり。初め隋に仕えて金紫光禄大夫となる。武徳四年、靺鞨の酋長突地稽とともに使いを遣わして内附す。詔して営州城傍に安置せしめ、雲麾将軍・行遼州総管を授く。曾孫万栄に至り、垂拱の初め累ねて右玉鈐衛将軍・帰誠州刺史を授けられ、永楽県公に封ぜらる。万歳通天の中、万栄はその妹婿松漠都督李尽忠とともに、営州都督趙翽の侵侮を受く。二人ここに挙兵して翽を殺し、営州を拠りて乱をなす。尽忠は即ち窟哥の胤なり。歴任して右武衛大将軍兼松漠都督となる。則天その叛乱を怒り、詔を下して万栄の名を万斬と改め、尽忠を尽滅とす。尽滅まもなく自ら無上可汗と称し、万斬を大将とし、前鋒として地を略し、向かうところ皆下る。旬日のうちに兵数万に至り、檀州に進み逼る。詔して右金吾大将軍張玄遇・左鷹揚衛将軍曹仁師・司農少卿麻仁節に兵を率いてこれを討たしむ。万斬と西硤石谷に戦う。官軍敗績し、玄遇・仁節ともに賊の虜となる。また夏官尚書王孝傑・左羽林将軍蘇宏暉に命じ兵七万を領いてこれに継がしむ。万斬と東硤石谷に戦う。孝傑陣に在りて陷没す。宏暉甲を棄てて遁る。万斬勝に乗じてその衆を度り幽州に入り、人吏を殺略す。清辺道大総管・建安郡王武攸宜、裨将を遣わしてこれを討たしむも、克たず。また詔して左金吾大将軍・河内王武懿宗を大総管とし、御史大夫婁師徳を副大総管とし、右武衛将軍沙吒忠義を前軍総管とし、兵三十万を率いてこれを討たしむ。俄にして李尽滅死す。万斬代わってその衆を領す。万斬また別帥駱務整・何阿小を遣わし游軍の前鋒とし、冀州を攻め陷し、刺史陸宝積を殺し、官吏子女数千人を屠る。俄にして奚及び突厥の衆その後を掩撃し、その幼弱を掠む。万斬その衆を棄て、軽騎数千人を以て東走す。前軍副総管張九節、数百騎を率い伏兵を設けてこれを邀う。万斬窮蹙し、ここにその家奴を将い軽騎にて宵遁す。潞河東に至り、鞍を解き林下に憩う。その奴これを斬る。張九節その首を東都に伝う。ここよりその余衆遂に突厥に降る。
開元三年、その首領李失活、默啜の政衰えたるを以て、種落を率いて内附す。失活は即ち尽忠の従父弟なり。ここに松漠都督府を復置す。失活を松漠郡王に封じ、左金吾衛大将軍兼松漠都督に拝す。その統ぶる八部落、各旧帥に因りて刺史に拝し、また将軍薛泰を以て軍を督せしめこれを鎮撫せしむ。明年、失活朝に入る。宗室外甥の女楊氏を永楽公主に封じ、以てこれに妻せしむ。
六年、失活死す。上これがために挙哀し、特進を贈る。失活の従父弟娑固、代わってその衆を統べ、使いを遣わし冊立し、なおその兄の官爵を襲わしむ。娑固の大臣可突于は驍勇にして、頗る衆心を得たり。娑固これを除かんと謀る。可突于反って娑固を攻む。娑固営州に奔る。都督許欽澹、薛泰に命じ驍勇五百人を帥わし、また奚王李大輔を征し、及び娑固と衆を合して以て可突于を討たしむ。官軍利あらず。娑固・大輔臨陣ともに可突于のために殺され、薛泰は生け捕らえらる。営府震恐す。許欽澹軍を移して西に渝関に入る。可突于、娑固の従父弟郁于を立てて主とす。俄にしてまた使いを遣わし罪を請う。上ここに令して郁于を冊立せしめ、娑固の官爵を襲わしめ、なお可突于の罪を赦す。
十年、郁于朝に入り婚を請う。上また従妹夫率更令慕容嘉賓の女を燕郡公主に封じ、以てこれに妻せしむ。なお郁于を松漠郡王に封じ、左金吾衛員外大将軍・兼静析軍経略大使を授け、物千段を賜う。郁于蕃に還る。可突于来朝し、左羽林将軍に拝し、従って并州に幸す。
明年、郁于病死す。弟吐于代わってその衆を統べ、兄の官爵を襲い、また燕郡公主を以て妻とす。吐于と可突于また相猜阻す。
十三年、公主を携えて来奔す。便ち敢えて還らず、遼陽郡王に改封せられ、因りて宿衛に留まる。可突于、李尽忠の弟邵固を立てて主とす。その冬、車駕東巡す。邵固行在所に詣り、因りて従って嶽下に至り、左羽林軍員外大将軍・静析軍経略大使に拝し、広化郡王に改封せられ、また皇従外甥の女陳氏を東華公主に封じ、以てこれに妻せしむ。
邵固蕃に還る。また可突于を遣わし入朝し、方物を貢ぐ。中書侍郎李元紘礼せず。可突于怏怏として去る。左丞相張説人に謂いて曰く、「両蕃必ず叛かん。可突于は人面獣心、唯だ利を視るのみ。その国政を執り、人心これに附く。若し優礼を以てこれを縻さざれば、必ず来らじ」と。十八年、可突于邵固を殺し、部落を率い、並びに奚の衆を脅して突厥に降る。東華公主平盧軍に走投す。ここに詔して中書舎人襲寛・給事中薛侃等をして京城及び関内・河東・河南・河北に分道して壮勇の士を募らしめ、忠王浚を以て河北道行軍元帥とし以てこれを討たしむ。師竟に行われず。
二十年、詔して礼部尚書信安王禕を行軍副大総管とし、衆を率いて幽州長史趙含章とともに塞を出てこれを撃破し、俘獲甚だ衆し。可突於はその麾下を率いて遠く遁走し、奚の衆は尽く降伏し、禕は乃ち軍を返す。明年、可突於また来たりて抄掠す。幽州長史薛楚玉、副将郭英傑・呉克勤・鄔知義・羅守忠に精騎一万人を率いさせ、併せて降伏した奚の衆を領してこれを追撃せしむ。軍、渝関都山の下に至り、可突於、突厥兵を領いて官軍を拒ぐ。奚の衆は遂に両端を持し、散走して険を保つ。官軍大いに敗れ、知義・守忠は麾下を率いて遁走して帰り、英傑・克勤は陣に没し、その下六千余人、尽く賊に殺さる。詔して張守珪を以て幽州長史兼御史中丞とし、以てこれを経略せしむ。可突於、漸く守珪に逼せられ、使者を遣わして偽り降る。俄かにまた回惑定まらず、衆を引き漸く西北に向かい、将に突厥に就かんとす。守珪、管記王悔等を遣わして部落に就き招諭せしむ。時に契丹の衙官李過折、可突於と兵馬を分掌し、情叶わず、悔、潜かにこれを誘い、過折、夜に兵を勒して可突於及びその支党数十人を斬る。
二十三年正月、首を東都に伝う。詔して過折を北平郡王に封じ、特進を授け、松漠州都督を検校し、錦衣一具・銀器十事・絹彩三千匹を賜う。その年、過折は可突於の余党泥礼に殺され、その諸子とともに、ただ一子刺乾のみ安東に走投して免れ、左驍衛将軍に拝せらる。
天宝十年、安禄山その酋長の叛かんと欲するを誣い、兵を挙げてこれを討たんことを請う。八月、幽州・雲中・平盧の衆数万人を以て、潢水の南の契丹衙に就きこれと戦い、禄山大いに敗れて還り、死者数千人。十二年に至り、また降附す。貞元に至るまで、常に歳を間いて来たり藩礼を修む。
貞元四年、奚の衆とともに我が振武を寇し、人畜を大いに掠めて去る。九年・十年、また使者を遣わして来朝し、大首領悔落拽何以下、各官を授けられて還される。十一年、大首領熱蘇等二十五人来朝す。その後より元和・長慶・宝暦・太和・開成の時に至り、使者を遣わして来朝貢す。会昌二年九月、制す「契丹新たに立てる王屈戍、雲麾将軍・守右武衛将軍員外置同正員とすべし」。幽州節度使張仲武上言す「屈戍等云う、契丹旧に回紇の印を用う、今懇請して聞奏し、国家に印を賜わんことを乞う」と。これを許し、「奉国契丹之印」を以て文とす。
奚
奚国は、蓋し匈奴の別種なり、居る所も亦た鮮卑の故地、即ち東胡の界なり、京師の東北四千余里に在り。東は契丹に接し、西は突厥に至り、南は白狼河に拒ぎ、北は霫国に至る。営州より西北の饒楽水より以てその国に至る。勝兵三万余人、五部に分かれ、毎部俟斤一人を置く。風俗は突厥に並ぶ。毎に水草に随い逐い、以て畜牧を業とし、遷徙常なし。居るに氈帳有り、兼ねて車を用いて営と為し、牙中常に五百人兵を持して自衛す。この外の部落は皆山谷に散居し、賦税無し。その人は射獵に善く、契丹と戦争するを好む。
武徳中、使者を遣わして朝貢す。貞観二十二年、酋長可度者その部を率いて内属し、乃ち饒楽都督府を置き、可度者を以て右領軍兼饒楽都督とし、楼煩県公に封じ、姓を李氏と賜う。顕慶初、また右監門大将軍を授く。万歳通天年、契丹叛したる後、奚の衆は突厥に管属され、両国常に表裏を為し、号して「両蕃」と曰う。景雲元年、その首領李大輔使者を遣わして方物を貢ぐ、睿宗これを嘉し、宴賜甚だ厚し。
延和元年、左羽林将軍・検校幽州大都督孫儉、兵十二万を率いてその部落を襲い、師は冷硎に次ぐ。前軍左驍衛将軍李楷洛等、大輔と会戦し、我が師敗績す。儉懼れ、進み救うことを敢えず、使者を遣わして矯りに大輔に報じて云う「我は勅を奉じて此に来たり蕃将を招諭す、李楷洛等は節度を受けずして輒ち兵を用う、斬りて以て謝せんことを請う」と。大輔曰く「若し勅を奉じて招諭するならば、何の国信物か有る」と。儉、軍中の繒帛万余段並びに袍帯を率いて以てこれに与う。大輔曰く「将軍は南に還るべし、相驚擾する無かれ」と。儉の軍漸く部伍を失い、大輔乃ち衆を率いてこれを逼り、ここにおいて大いに敗れ、兵士死傷する者数万。儉及び副将周以悌、大輔に擒えられ、突厥の默啜に送られ、併せて害に遇う。
開元三年、大輔その大臣粵蘇梅落を遣わして来たり降を請う、詔して復たその地を饒楽州と立て、大輔を饒楽郡王に封じ、仍って左金吾員外大将軍・饒楽州都督を拝す。五年、大輔と契丹首領松漠郡王李失活咸しく柳城に於いて旧に依り営州都督府を置かんことを請う、上これに従う。勅して太子詹事姜師度を使と充て工作を督せしめ、役八千余人。その年、大輔入朝し、詔して従外甥女辛氏を固安公主に封じて以てこれに妻せしめ、物一千五百匹を賜い、右領軍将軍李濟に節を持たせて送りて蕃に還らしむ。
八年、大輔兵を率いて契丹を救い、戦死す。その弟魯蘇嗣ぎ立つ。
十年、入朝し、詔してその兄の饒楽郡王・右金吾員外大将軍・兼保塞軍経略大使を襲わしめ、物一千段を賜い、仍って固安公主を以て妻と為す。而して公主と嫡母和せず、遞りに相論告し、詔して離婚を令し、復た成安公主の女韋氏を東光公主として以てこれに妻せしむ。
十四年、また魯蘇を改めて奉誠王に封じ、右羽林軍員外将軍を授く。
十八年、奚の衆、契丹の衙官可突於に脅せられ、復た叛きて突厥に降る。魯蘇制すること能わず、渝関に走投し、東光公主は平盧軍に奔り帰る。その秋、幽州長史趙含章、清夷軍の兵を発して奚を撃つ。これを破り、首二百級を斬る。ここより奚の衆稍稍として帰降す。
二十年、信安王禕詔を奉じて叛奚を討つ。奚の酋長李詩・瑣高等その部落五千帳を以て来たり降る。詔して李詩を帰義王・兼特進・左羽林軍大将軍同正に封じ、仍って帰義州都督を充て、物十万段を賜い、その部落を幽州界に移し安置す。天宝五載、またその王娑固を昭信王に封じ、仍って饒楽都督を授く。
大暦後より、朝貢時に至る。貞元四年七月、奚及び室韋、振武を寇す。十一年四月、幽州、奚六万余衆を却くると奏す。元和元年、その王饒楽府都督・襲帰誠王梅落来朝し、検校司空を加えられ、蕃に還される。三年、奚の首領索低を右武威衛将軍同正とし、檀・蘇両州游奕兵馬使を充て、仍って姓を李氏と賜う。八年、使者を遣わして来朝す。
十一年(武德)、使者を遣わして名馬を献上した。爾後、毎年朝貢を絶やさず、あるいは一年に二、三度来朝した。故事によれば、常に范陽節度使を以て奚・契丹の両蕃使を押すとされた。至徳の後より、藩臣多く封壌を擅にし、朝廷はこれを優容した。彼らは自ら完うすることを務め、辺境の事を生ぜず、故に二蕃もまた寇と為すこと少なかった。その毎年の朝賀には、常に各々数百人を幽州に遣わし、則ちその酋渠三五十人を選んで闕に赴かせ、麟徳殿に引見し、金帛を賜って遣還し、残りは皆留まって館に宿し、常例と為した。
室韋
室韋は、契丹の別種である。峱越河の北に居し、その国は京師の東北七千里にある。東は黒水靺鞨に至り、西は突厥に至り、南は契丹に接し、北は海に至る。その国には君長がなく、大首領十七人あり、並びに「莫賀弗」と号し、世々これを管摂し、突厥に附している。兵器には角弓と楛矢があり、特に射を善くし、時に集まって狩猟し、事が終われば散ずる。その人は土着し、賦斂がない。あるいは小室を造り、皮を以て上を覆い、相聚いて居り、数十百家に至る。木を削って犁と為し、金刃を加えず、人が牽いて種をまき、牛を用いることを解さない。夏は霧雨多く、冬は霜霰多い。畜は犬豕に適し、豢養してこれを啖い、その皮を以て韋と為し、男子女人ともに服と為す。髪を被り左衽し、その家の富める者は項に五色の雑珠を著ける。婚嫁の法は、男が先ず女の舎に就き、三年役力し、因ってその婦を親迎するを得る。役日の満ちたるに及び、女家その財物を分かち、夫婦同車に載り、鼓舞して共に帰る。
武徳年中、方物を献じた。貞観三年、使者を遣わして豊貂を貢ぎ、ここより朝貢絶えず。
また云う、室韋、我が唐に九部あり。所謂る嶺西室韋・山北室韋・黄頭室韋・大如者室韋・小如者室韋・婆萵室韋・訥北室韋・駱駝室韋、並びに柳城郡の東北に在り、近きは三千五百里、遠きは六千二百里。今、室韋の最も西に在りて回紇と境界を接するは、烏素固部落、俱輪泊の西南に当たる。次に東に移塞没部落あり。次に東にまた塞曷支部落あり、この部落には良馬あり、人戸もまた多く、啜河の南に居し、その河を彼の俗に燕支河と謂う。次にまた和解部落あり、次に東にまた烏羅護部落あり、また那礼部落あり。また東北に山北室韋あり、また北に小如者室韋あり、また北に婆萵室韋あり、東にまた嶺西室韋あり、また東南に黄頭室韋に至る、この部落は兵強く、人戸もまた多く、東北は達姤に接す。嶺西室韋の北にまた訥北支室韋あり、この部落は較小なり。烏羅護の東北二百余里、那河の北に古烏丸の遺人あり、今もまた自ら烏丸国と称す。武徳・貞観年中、また使者を遣わして来朝貢した。その北大山の北に大室韋部落あり、その部落は望建河に傍って居る。その河の源は突厥東北界の俱輪泊より出で、屈曲して東流し、西室韋の界を経、また東に大室韋の界を経、また東に蒙兀室韋の北、落俎室韋の南を経、また東流して那河・忽汗河と合し、また東に南黒水靺鞨の北、北黒水靺鞨の南を経、東流して海に注ぐ。烏丸の東南三百里、また東室韋部落あり、峱越河の北に在る。その河は東南に流れ、那河と合す。開元・天宝の間、比年あるいは間歳に貢を入れた。大暦年中、また頻りに使者を遣わして来貢した。貞元八年閏十二月、室韋都督和解熱素等十人来朝。太和五年より八年に至るまで、凡そ三度使者を遣わして来た。九年十二月、室韋大都督阿成等三十人来朝。開成・会昌年中、また使者を遣わして来朝貢絶えず。
靺鞨
靺鞨は、蓋し肅慎の地、後魏にこれを勿吉と謂い、京師の東北六千余里にある。東は海に至り、西は突厥に接し、南は高麗を界とし、北は室韋に隣る。その国は凡そ数十部に分かれ、各々酋帥あり、あるいは高麗に附し、あるいは突厥に臣す。而して黒水靺鞨は最も北方に処り、特に勁捷と称され、常にその勇を恃み、恒に隣境の患いと為った。俗は皆編髪し、性兇悍にして憂戚なく、壮を貴び老を賤しむ。屋宇なく、並びに山水に依り地を掘って穴と為し、木を其上に架け、土を以てこれを覆い、状は中国の塚墓の如く、相聚いて居る。夏は則ち出でて水草に随い、冬は則ち入って穴中に処る。父子相承け、世々君長と為る。俗に文字なし。兵器に角弓及び楛矢あり。その畜は猪に適し、富人は数百口に至り、その肉を食いその皮を衣とす。死者は地を穿ち埋め、身を以て土に襯し、棺斂の具なく、乗る所の馬を殺し屍前に設けて祭る。
酋帥突地稽という者有り、隋末その部千余家を率いて内属し、これを営州に処す。煬帝、突地稽に金紫光禄大夫・遼西太守を授く。武徳初、間使を遣わして朝貢し、その部落を以て燕州を置き、仍って突地稽を総管と為す。劉黒闥の叛に当たり、突地稽は所部を率いて定州に赴き、使者を遣わして太宗に詣で節度を受けることを請い、戦功を以て蓍国公に封ぜられる。またその部落を幽州の昌平城に徙す。会に高開道、突厥を引き来たりて幽州を攻むるに、突地稽兵を率いて邀撃し、これを大破す。
貞観初、右衛将軍に拝し、姓を李氏と賜う。尋いで卒す。子の謹行、容貌偉く、武力人に絶る。麟徳年中、歴遷して営州都督と為る。その部落の家僮数千人、財力を以て辺に雄たり、夷人の憚る所と為る。累ねて右領軍大将軍に拝し、積石道経略大使と為る。吐蕃の論欽陵等、衆十万を率いて湟中に入寇す。謹行の兵士は樵采し、素より設備せず、忽ち賊の至るを聞き、遂に旗を建て鼓を伐ち、門を開いてこれを待つ。吐蕃は伏兵有りと疑い、竟に進むことを敢えず。
その白山部は、素より高麗に附し、平壤を収むるの後因り、部衆多く中国に入る。汨咄・安居・骨室等の部もまた、高麗破れたる後因り奔散微弱し、後聞くところ無し。仮に遺人有りと雖も、並びに渤海の編戸と為る。唯だ黒水部のみ全盛し、十六部に分かれ、部また南北を以て称と為す。
渤海靺鞨
渤海靺鞨の大祚榮は、本より高麗の別種なり。高麗既に滅び、祚榮は家属を率いて営州に徙り居す。万歳通天年、契丹の李盡忠反叛し、祚榮は靺鞨の乞四比羽と各々亡命を領して東奔し、阻を保って以て自ら固む。盡忠既に死す、則天、右玉鈐衛大将軍李楷固に命じ兵を率いてその余党を討たしむ。先ず乞四比羽を破り斬り、また天門嶺を度りて以て祚榮を迫る。祚榮は高麗・靺鞨の衆を合わせて以て楷固を拒ぐ。王師大いに敗れ、楷固は身を脱して還る。属に契丹及び奚、尽く突厥に降り、道路阻絶す。則天、討つ能わず、祚榮遂にその衆を率いて東に保ち桂婁の故地に据え、東牟山に拠り、城を築きて以てこれに居す。
祚榮は驍勇にして兵を用いるに善く、靺鞨の衆及び高麗の余燼、稍稍としてこれに帰す。聖暦年中、自立して振国王と為り、使者を遣わして突厥に通ず。その地は営州の東二千里、南は新羅と相接す。越熹靺鞨より東北は黒水靺鞨に至り、地方二千里、編戸十余万、勝兵数万人。風俗は高麗及び契丹と同じく、頗る文字及び書記有り。
中宗が即位すると、侍御史の張行岌を派遣してこれを招慰した。祚榮は子を入侍させ、冊立を加えようとしたが、契丹と突厥が連年辺境を侵したため、使命は届かなかった。睿宗の先天二年、郎将の崔訢を派遣して祚榮を左驍衛員外大将軍・渤海郡王に冊拝し、なおその統べる所を忽汗州とし、忽汗州都督を加授した。これより毎年使いを遣わして朝貢した。
十四年、黒水靺鞨が使いを遣わして来朝した。詔してその地を黒水州とし、なお長史を置き、使いを遣わして鎮撫させた。武藝はその配下に謂うには、「黒水は我が境を経由して、初めて唐と相通ずる。旧来は突厥の吐屯を請うにも、皆先に我に告げて同去した。今、計会せず、即ち漢官を請うのは、必ずや唐と通謀し、腹背より我を攻めんとするものである。」と。母弟の大門藝とその舅の任雅を遣わして兵を発し、黒水を撃たせた。門藝はかつて質子として京師に充てられ、開元初年に帰国した。この時に至り、武藝に謂うには、「黒水が唐の官史を請うたからといって、即ちこれを撃とうとするのは、唐に背くことである。唐国は人衆兵強にして、我より万倍も強く、一朝にして怨みを結べば、ただ自ら滅亡を取るのみである。昔、高麗が全盛の時、強兵三十余万をもって唐に抗敵し、賓伏に事えず、唐兵が一たび臨めば、掃地して俱に尽きた。今日の渤海の衆は、数倍高麗より少ないのに、唐に違背せんと欲するは、事必ずや成らぬ。」と。
武藝は従わなかった。門藝の兵が境に至り、また上書して固く諫めた。武藝は怒り、従兄の大壹夏を遣わして門藝に代わって兵を統べさせ、門藝を征し、これを殺さんとした。門藝は遂にその衆を棄て、間道より来奔した。詔して左驍衛将軍を授けた。武藝はまもなく使いを遣わして朝貢し、なお上表して極言に門藝の罪状を述べ、これを殺すことを請うた。上は密かに門藝を安西に遣わし、なお武藝に報じて云うには、「門藝は遠く来りて帰投した。義、殺すべからず。今、嶺南に流す。既に遣わし去らしめたり。」と。乃ちその使の馬文軌・蔥勿雅を留め、別に使いを遣わしてこれに報じた。俄かにその事を泄らす者あり。武藝はまた上書して云うには、「大国は人に信を示す。豈に欺誑の理あらんや。今、門藝が嶺南に向かわずと聞く。伏して請う、前に依って殺し卻らんことを。」と。ここにおいて鴻臚少卿の李道邃・源復は官属を督察することができず、漏泄を致したことを以て、道邃を左遷して曹州刺史とし、復を澤州刺史とした。門藝を遣わして暫く嶺南に向かわしめてこれに報じた。
二十年、武藝はその将の張文休を遣わして海賊を率い、登州刺史の韋俊を攻撃させた。詔して門藝を遣わし幽州に往かせて兵を徴し、これを討たしめ、なお太僕員外卿の金思蘭を遣わし新羅に往かせて兵を発し、その南境を攻撃させた。山険に属し寒凍し、雪深さ丈余、兵士の死者過半に及び、竟に功無くして還った。武藝は怨みを懐いて已まず、密かに使いを東都に遣わし、刺客を仮りて門藝を天津橋の南に刺させた。門藝はこれを格し、死なず。詔して河南府にその賊を捕獲させ、尽くこれを殺した。
二十五年、武藝は病卒した。その子の欽茂が嗣ぎ立った。詔して内侍の段守簡を遣わし、欽茂を渤海郡王に冊し、なおその父の左驍衛大将軍・忽汗州都督を嗣がしめた。欽茂は詔を承けてその境内を赦し、使いを遣わし守簡に随って入朝し貢献した。
十一年二月、内常侍の殷志贍を遣わし、大嵩璘を渤海郡王に冊した。十四年、銀青光禄大夫・検校司空を加え、渤海国王に進封した。
嵩璘の父欽茂は、開元中、父の位を襲い郡王・左金吾大将軍となった。天宝中、累次特進・太子詹事・賓客を加えられた。宝応元年、国王に進封した。大暦中、累次司空・太尉を加拝された。嵩璘が位を襲うに及んで、ただその郡王・将軍を授けたのみであった。嵩璘は使いを遣わして理を叙したので、故に再び冊命を加えた。十一月、王の侄の大能信を左驍衛中郎将・虞候・婁蕃長とし、都督の茹富仇を右武衛将軍とし、放還した。
二十一年、使いを遣わして来朝した。順宗は嵩璘に金紫光禄大夫・検校司空を加えた。元和元年十月、検校太尉を加えた。十二月、使いを遣わして朝貢した。
四年、嵩璘の男の元瑜を銀青光禄大夫・検校秘書監・忽汗州都督とし、前の如く渤海国王とした。五年、使いを遣わして朝貢すること二度。七年、また使いを遣わして来朝した。八年正月、元瑜の弟で権知国務の言義に銀青光禄大夫・検校秘書監・都督・渤海国王を授け、内侍の李重旻を遣わして使いとした。
十三年、使いを遣わして来朝し、且つ哀を告げた。五月、知国務の大仁秀を銀青光禄大夫・検校秘書監・都督・渤海国王とした。十五年閏正月、使いを遣わして来朝し、大仁秀に金紫光禄大夫・検校司空を加えた。十二月、また使いを遣わして朝貢した。長慶二年正月、また使いを遣わして来た。四年二月、大睿ら五人来朝し、宿衛に備わることを請うた。宝暦中、比歳貢を修めた。太和元年・四年、皆使いを遣わして来朝した。
五年、大仁秀卒した。権知国務の大彝震を銀青光禄大夫・検校秘書監・都督・渤海国王とした。六年、王子の大明俊らを遣わして来朝した。七年正月、同中書右平章事の高宝英を遣わして冊命を謝し、なお学生三人を遣わし、宝英に随って上都に赴き学問を請わしめた。先に遣わした学生三人は、事業稍々成ったので、本国に帰ることを請うた。これを許した。二月、王子の大先晟ら六人来朝した。開成の後も、また職貢を修めて絶えなかった。
霫
霫は、匈奴の別種である。潢水の北に居り、また鮮卑の故地である。その国は京師の東北五千里にある。東は靺鞨に接し、西は突厥に至り、南は契丹に至り、北は烏羅渾に接する。地周回二千里、四面に山あり、その境を環繞す。人多くは射獵を善くし、赤皮を以て衣縁と為すを好む。婦人は銅釧を貴び、衣襟の上下に小銅鈴を懸く。風俗は略々契丹と同じ。都倫紇斤部落四万戸あり、勝兵一万余人。貞観三年、その君長は使いを遣わして方物を貢した。
烏羅渾
烏羅渾国は、蓋し後魏の烏洛侯なり。今またこれを烏羅護と謂う。その国は京師の東北六千三百里にあり、東は靺鞨に、西は突厥に、南は契丹に、北は烏丸に接す。風俗は靺鞨と同じ。貞観六年、その君長は使いを遣わして貂皮を献じた。
史臣が曰く、北狄は中華に密接し、辺境を侵すことは往々にしてある。東夷は瀛海に隔てられ、障害を為すことは稀に聞くのみ。これはただ勢いによるのみならず、また天性に稟けるものである。太平の人は仁、空峒の人は武、信ずるに足る。隋の煬帝は欲を恣にし厭くことなく、兵を遼左に興し、急斂暴欲、これより起こる。乱臣賊子、以て資と為すを得、自らを戢えずして自ら焚き、遂にその国を亡ぼす。我が太宗文皇帝は自ら戎輅を馭し、東征して高麗を征す。成功有りと雖も、損なうところ亦甚だし。凱還の日に及び、顧みて左右に謂いて曰く、「朕に魏征有らしめば、必ずこの行無からん」と。則ち是れ出師を悔いたることを知るべし。何ぞや。夷狄の国は、猶ほ石田の如し。これを得ても益無く、これを失っても何ぞ傷けん。必ずや虚名を求め、以て有用を労す。ただ文徳を修めてこれを来たし、声教を被せてこれを服し、信臣を択んでこれを撫し、辺備を謹んでこれを防ぎ、重訳して来庭し、航海して入貢せしむるを務むべし。茲に庶くはその道を得ん。
賛して曰く、東夷の人、北狄の俗。爰に『周官』を考うるに、是を蛮服と称す。未だ得ざれば傷け無く、已に得たりとて何ぞ足らん。宜しく懐柔を務むべし、これを羈束と謂う。