舊唐書

巻199上

巻199上

舊唐書

原文舊唐書

卷一百九十九上

原文卷一百九十九上

卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷

原文(段落全体)卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷

巻一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷

原文(段落全体)卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷

高麗

原文高麗

高麗は、扶余の別種より出づ。その国は平壤城に都す。即ち漢の楽浪郡の故地にして、京師の東五千一百里に在り。東は海を渡りて新羅に至り、西北は遼水を渡りて営州に至り、南は海を渡りて百済に至り、北は靺鞨に至る。東西三千一百里、南北二千里。その官に大なる者は大対盧と号し、一品に比し、国事を総知す。三年ごとに一代し、若し職に称する者は、年限に拘わらず。交替の日、或いは相祗服せず、皆兵を勒して相攻ち、勝者これを為す。その王は但だ宮を閉じて自守し、制禦すること能わず。次は太大兄と曰い、正二品に比す。対盧以下の官、総じて十二級。外に州県六十余城を置く。大城には傉薩一を置き、都督ととくに比す。諸城には道使を置き、刺史に比す。その下各々僚佐有り、曹事を分掌す。衣裳服飾、唯だ王は五彩を用い、白羅を以て冠と為し、白皮小帯とす。その冠及び帯は、皆金を以て飾る。官の貴き者は、則ち青羅を以て冠と為し、次は緋羅を以てし、二鳥の羽を挿し、及び金銀を以て飾る。衫は筒袖、褲は大口、白韋の帯、黄韋の履。国人は褐を衣て弁を戴き、婦人は首に巾幗を加う。囲碁投壺の戯を好み、人は蹴鞠を能くす。食用には籩豆・簠簋・尊俎・罍洗を用い、頗る箕子の遺風有り。

原文高麗者,出自扶餘之別種也。其國都於平壤城,即漢樂浪郡之故地,在京師東五千一百里。東渡海至於新羅,西北渡遼水至於營州,南渡海至於百濟,北至靺鞨。東西三千一百里,南北二千里。其官大者號大對盧,比一品,總知國事,三年一代,若稱職者,不拘年限。交替之日,或不相祗服,皆勒兵相攻,勝者爲之。其王但閉宮自守,不能制禦。次曰太大兄,比正二品。對盧以下官,總十二級。外置州縣六十餘城。大城置傉薩一,比都督。諸城置道使,比刺史。其下各有僚佐,分掌曹事。衣裳服飾,唯王五彩,以白羅爲冠,白皮小帶,其冠及帶,咸以金飾。官之貴者,則青羅爲冠,次以緋羅,插二鳥羽,及金銀爲飾,衫筒袖,褲大口,白韋帶,黃韋履。國人衣褐戴弁,婦人首加巾幗。好圍棋投壺之戲,人能蹴鞠。食用籩豆、簠簋、尊俎、罍洗,頗有箕子之遺風。

その居る所は必ず山谷に依り、皆茅草を以て舎を葺く。唯だ仏寺・神廟及び王宮・官府のみ瓦を用う。その俗、貧窶なる者多く、冬月は皆長坑を作り、下に燃え、煴火を以て暖を取る。田を種え蚕を養うこと、略中国に同じ。その法、謀反叛する者有らば、則ち衆を集めて火炬を持ち競って焼灼し、燋爛備体にして然る後に首を斬り、家は悉く籍没す。城を守りて敵に降り、陣に臨みて敗北し、人を殺し行劫する者は、斬る。物を盗む者は、十二倍を以て贓に酬う。牛馬を殺す者は、身を没して奴婢と為す。大いに法を用いること厳峻にして、犯す者少なく、乃ち路に遺物を拾わざるに至る。その俗、淫祀多く、霊星神・日神・可汗神・箕子神を事う。国城の東に大穴有り、神隧と名づく。皆十月を以て、王自らこれを祭る。

原文其所居必依山谷,皆以茅草葺舍,唯佛寺、神廟及王宮、官府乃用瓦。其俗貧窶者多,冬月皆作長坑,下燃;煴火以取暖。種田養蠶,略同中國。其法:有謀反叛者,則集衆持火炬競燒灼之,燋爛備體,然後斬首,家悉籍沒;守城降敵,臨陣敗北,殺人行劫者,斬;盜物者,十二倍酬贓;殺牛馬者,沒身爲奴婢。大體用法嚴峻,少有犯者,乃至路不拾遺。其俗多淫祀,事靈星神、日神、可汗神、箕子神。國城東有大穴,名神隧,皆以十月,王自祭之。

俗に書籍を愛し、衡門廝養の家に至るまで、各々街衢に大屋を造り、扃堂と謂う。子弟未婚の前、昼夜ここに於いて書を読み射を習う。その書に『五経』及び『史記しき』・『漢書かんじょ』・范曄『後漢書ごかんじょ』・『三国志』・孫盛『晋春秋』・『玉篇』・『字統』・『字林』有り。又『文選』有り、尤もこれを愛重す。

原文俗愛書籍,至於衡門廝養之家,各於街衢造大屋,謂之扃堂,子弟未婚之前,晝夜于此讀書習射。其書有《五經》及《史記》、《漢書》、范曄《後漢書》、《三國志》、孫盛《晉春秋》、《玉篇》、《字統》、《字林》;又有《文選》,尤愛重之。

その王高建武は、即ち前王高元の異母弟なり。武徳二年、使を遣わして来朝す。四年、又使を遣わして朝貢す。高祖こうそ、隋末の戦士多くその地に陷れるを感ず。五年、建武に書を賜いて曰く、

原文其王高建武,即前王高元異母弟也。武德二年,遣使來朝。四年,又遣使朝貢。高祖感隋末戰士多陷其地,五年,賜建武書曰:

朕恭しく宝命を膺け、率土を君臨し、三霊に祗順し、万国を綏柔す。普天の下、情均しく撫字し、日月の照らす所、咸しく乂安せしむ。王既に遼左を統摂し、世々藩服に居り、正朔を稟け、遠く職貢を循うるを思う。故に使者を遣わし、山川を跋渉せしめ、誠懇を申布す。朕甚だ嘉とす。方今六合寧晏し、四海清平し、玉帛既に通じ、道路壅ぐこと無し。方に輯睦を申し、永く聘好を敦くし、各々疆蕣を保たんこと、豈に盛美に非ずや。但だ隋氏の季年、兵を連ねて難を構え、攻戦の所、各々その民を失う。遂に骨肉を乖離せしめ、室家を分析せしめ、多年歳を歴て、怨曠申さず。今二国通和し、義阻異無し。此に在る所有の高麗人等は、已に追括を令し、尋いで即ち遣送す。彼処に此の国の人有らば、王放還すべし。務めて撫育の方尽くし、共に仁恕の道を弘めん。

原文朕恭膺寶命,君臨率士,祗順三靈,綏柔萬國。普天之下,情均撫字,日月所照,咸使乂安。王既統攝遼左,世居籓服,思稟正朔,遠循職貢。故遣使者,跋涉山川,申布誠懇,朕甚嘉焉。方今六合甯晏,四海清平,玉帛既通,道路無壅。方申輯睦,永敦聘好,各保疆蕣,豈非盛美。但隋氏季年,連兵構難,攻戰之所,各失其民。遂使骨肉乖離,室家分析,多歷年歲,怨曠不申。今二國通和,義無阻異,在此所有高麗人等,已令追括,尋即遣送;彼處有此國人者,王可放還,務盡撫育之方,共弘仁恕之道。

ここにおいて建武、悉く華人を捜括し、礼を以て賓送す。前後至る者万数、高祖大いに喜ぶ。

原文於是建武悉搜括華人,以禮賓送,前後至者萬數,高祖大喜。

七年、前刑部尚書沈叔安を遣わし往きて建武を冊し、上柱国・遼東郡王・高麗王と為す。仍って天尊像及び道士を将いて彼に往き、之が為に『老子』を講ぜしむ。その王及び道俗等観聴する者数千人。高祖嘗て侍臣に謂いて曰く、「名実の間、理須らく相副うべし。高麗、隋に臣と称し、終に煬帝を拒む。此れ亦何の臣か有らん。朕、万物に敬して、驕貴せんと欲せず。但だ土宇を有するに拠り、務めて人を安んずるを共にす。何ぞ必ずしも其の臣と称せしめて、以て自ら尊大せん。即ち詔を為して朕が此の懐を述べよ。」侍中裴矩・中書侍郎温彦博曰く、「遼東の地、周は箕子の国、漢家は玄菟郡のみ。魏・晋已前、近く提封の内に在り。以て不臣を許すべからず。且つ中国の夷狄に対するは、猶お太陽の列星に対するが如し。理に降尊無く、俯して藩服に同じくすべからず。」高祖乃ち止む。

原文七年,遣前刑部尚書沈叔安往冊建武爲上柱國、遼東郡王、高麗王,仍將天尊像及道士往彼,爲之講《老子》,其王及道俗等觀聽者數千人。高祖嘗謂侍臣曰:「名實之間,理須相副。高麗稱臣于隋,終拒煬帝,此亦何臣之有!朕敬於萬物,不欲驕貴,但據有土宇,務共安人,何必令其稱臣,以自尊大。即爲詔述朕此懷也。」侍中裴矩、中書侍郎溫彥博曰:「遼東之地,周爲箕子之國,漢家玄菟郡耳!魏、晉已前,近在提封之內,不可許以不臣。且中國之于夷狄,猶太陽之對列星,理無降尊,俯同籓服。」高祖乃止。

九年、新羅・百済、使を遣わして建武を訟え、其の道路を閉ざし、朝に入るを得ずと云う。又相与に隙有り、屡相侵掠す。詔して員外散騎侍郎朱子奢を遣わし往きて和解せしむ。建武、表を奉じて罪を謝し、新羅と対使会盟せんことを請う。

原文九年,新羅、百濟遣使訟建武,云閉其道路,不得入朝。又相與有隙,屢相侵掠。詔員外散騎侍郎硃子奢往和解之。建武奉表謝罪,請與新羅對使會盟。

貞観二年、突厥の頡利可汗を破る。建武、使を遣わして賀を奉じ、並びに封域図を上る。五年、詔して広州都督府司馬長孫師を遣わし往きて隋時の戦亡骸骨を収瘞せしめ、高麗の立てし京観を毀つ。建武、其の国を伐たんことを懼れ、乃ち長城を築く。東北扶余城より始まり、西南海に至る、千有余里。十四年、其の太子桓権を遣わして来朝せしめ、並びに方物を貢ぐ。太宗優労すること甚だ至れり。

原文貞觀二年,破突厥頡利可汗,建武遣使奉賀,並上封域圖。五年,詔遣廣州都督府司馬長孫師往收瘞隋時戰亡骸骨,毀高麗所立京觀。建武懼伐其國,乃築長城,東北自扶餘城,西南至海,千有餘里。十四年,遣其太子桓權來朝,並貢方物,太宗優勞甚至。

十六年、西部大人蓋蘇文、職を摂して犯す有り。諸大臣、建武と議して之を誅せんと欲す。事泄る。蘇文乃ち悉く部兵を召し、将に校閲せんと云い、並びに盛んに酒饌を城南に陳べ、諸大臣皆来り臨視す。蘇文、兵を勒して尽く之を殺す。死者百余人。倉庫を焚き、因って馳せて王宮に入り、建武を殺し、建武の弟大陽の子蔵を立てて王と為す。自ら莫離支と立ち、猶お中国の兵部尚書兼中書令の職なり。是より国政を専らにす。蘇文は姓は銭氏、須貌甚だ偉く、形体魁傑、身に五刀を佩き、左右敢えて仰ぎ視る者無し。恒に其の属官をして地に俯伏せしめ、之を践みて馬に上り、及び馬を下るるも、亦之が如し。出ずるには必ず先ず隊仗を布き、導く者は長呼して以て行人を辟く。百姓畏避し、皆自ら坑谷に投ず。

原文十六年,西部大人蓋蘇文攝職有犯,諸大臣與建武議欲誅之。事泄,蘇文乃悉召部兵,云將校閱,並盛陳酒饌于城南,諸大臣皆來臨視。蘇文勒兵盡殺之,死者百余人。焚倉庫,因馳入王宮,殺建武,立建武弟大陽子藏爲王。自立爲莫離支,猶中國兵部尚書兼中書令職也,自是專國政。蘇文姓錢氏,須貌甚偉,形體魁傑,身佩五刀,左右莫敢仰視。恆令其屬官俯伏於地,踐之上馬,及下馬,亦如之。出必先布隊仗,導者長呼以辟行人,百姓畏避,皆自投坑穀。

太宗、建武の死を聞き、之が為に哀を挙げ、節を持する者をして弔祭せしむ。十七年、其の嗣王蔵を封じて遼東郡王・高麗王と為す。又司農丞相里玄奨を遣わし、璽書を齎して往き高麗を説諭し、新羅を攻めざるを令す。蓋蘇文、玄奨に謂いて曰く、「高麗・新羅、怨隙已久し。往者隋室相侵す。新羅、釁に乗じて高麗五百里の地を奪い、城邑新羅皆之を据え有つ。自ら地を反し城を還さざれば、此の兵恐らく未だ已む能わざるべし。」玄奨曰く、「既往の事、焉ぞ追論すべけんや。」蘇文竟に従わず。太宗顧みて侍臣に謂いて曰く、「莫離支、賊として其の主を弑しいし、尽く大臣を殺し、刑を用いること坑阱に同じ。百姓動転すれば輒ち死し、怨痛心に在り、道路目を以てす。夫れ師を出して吊伐するは、須らく其の名有るべし。其の君を弑し下を虐ぐるに因りて之を敗るは、甚だ易し。」

原文太宗聞建武死,爲之舉哀,使持節弔祭。十七年,封其嗣王藏爲遼東郡王、高麗王。又遣司農丞相里玄獎齎璽書往說諭高麗,令勿攻新羅。蓋蘇文謂玄獎曰:「高麗、新羅,怨隙已久。往者隋室相侵,新羅乘釁奪高麗五百里之地,城邑新羅皆據有之。自非反地還城,此兵恐未能已。」玄奘曰:「既往之事,焉可追論?」蘇文竟不從。太宗顧謂侍臣曰:「莫離支賊弑其主,盡殺大臣,用刑有同坑阱。百姓轉動輒死,怨痛在心,道路以目。夫出師吊伐,須有其名,因其弑君虐下,敗之甚易也。」

十九年、刑部尚書張亮を平壤道行軍大總管と命じ、將軍常何等を率いて江・淮・嶺・硤の精兵四万、戦船五百艘を以て、萊州より海を渡り平壤に向かわせた。また特進英國公李勣を遼東道行軍大總管とし、禮部尚書江夏王李道宗を副将とし、將軍張士貴等を率いて歩騎六万を以て遼東に向かわせた。両軍は合流し、太宗自ら六軍を統率してこれに会した。

原文十九年,命刑部尚書張亮爲平壤道行軍大總管,領將軍常何等率江、淮、嶺、硤勁卒四萬,戰船五百艘,自萊州汎海趨平壤。又以特進英國公李勣爲遼東道行軍大總管,禮部尚書江夏王道宗爲副,領將軍張士貴等率步騎六萬趨遼東。兩軍合勢,太宗親御六軍以會之。

夏四月、李勣の軍は遼水を渡り、蓋牟城を攻撃してこれを陥落させた。捕虜二万を得て、その城に蓋州を置いた。五月、張亮の副将程名振が沙卑城を攻撃してこれを陥落させ、男女八千口を捕虜とした。この日、李勣は遼東城に進軍した。帝は遼沢に駐留し、詔して言うには、「かつて隋の軍が遼を渡った時は、天の助けがなく、従軍した士卒の骸骨が相望み、原野に満ちているのは、まことに哀れむべきである。骸骨を埋葬する義は、まことに先人の典範である。その骸骨をことごとく収容して埋葬せよ」と。国内及び新城より歩騎四万が遼東を救援に来たので、江夏王李道宗が騎兵四千を率いて迎撃し、これを大いに破り、千余級を斬首した。帝は遼水を渡り、橋梁を撤去するよう詔して、士卒の志を堅固にした。帝は遼東城下に至った。士卒が土嚢を担いで塹壕を埋めるのを見て、帝は特に重いものを分け取り、自ら馬上で持った。従官は恐れ動き、争って土嚢を運んで城下に送った。時に李勣は既に兵を率いて遼東城を攻撃していた。高麗は我が方に拋車(投石機)があり、三百斤の石を一里の外に飛ばすと聞き、非常に恐れた。そこで城上に木材を積んで戦楼を築き、飛石に備えた。李勣は車を並べて石を発射してその城を撃ち、当たる所はことごとく崩壊した。また撞車を推し進めてその楼閣を撞き、倒れないものはなかった。帝は自ら甲騎万余を率いて李勣と会し、その城を包囲した。やがて南風が非常に強くなったので、命じて火を放ってその西南の楼を焼き、火は城中に燃え広がり、屋宇は全て焼き尽くされた。戦士が城に登ると、賊は大いに潰走し、焼死者は万余人、その精兵万余口を捕虜とし、その城を以て遼州とした。初め、帝は定州より、数十里毎に烽火台を置き、遼城まで連ね、太子と約束して、遼東を平定したならば烽火を上げるとした。この日、帝は命じて烽火を上げさせ、塞内に伝えさせた。

原文夏四月,李勣軍渡遼,進攻蓋牟城,拔之。獲生口二萬,以其城置蓋州。五月,張亮副將程名振攻沙卑城,拔之,虜其男女八千口。是日,李勣進軍於遼東城。帝次遼澤,詔曰:「頃者隋師渡遼,時非天贊,從軍士卒,骸骨相望,遍于原野,良可哀歎。掩骼之義,誠爲先典,其令並收瘞之。」國內及新城步騎四萬來援遼東,江夏王道宗率騎四千逆擊,大破之,斬首千餘級。帝渡遼水,詔撤橋樑,以堅士卒志。帝至遼東城下。見士卒負擔以填塹者,帝分其尤重者,親於馬上持之。從官悚動,爭齎以送城下。時李勣已率兵攻遼東城。高麗聞我有拋車,飛三百斤石於一里之外者,甚懼之。乃于城上積木爲戰樓以拒飛石。勣列車發石以擊其城,所遇盡潰。又推撞車撞其樓閣,無不傾倒。帝親率甲騎萬余與李勣會。圍其城。俄而南風甚勁,命縱火焚其西南樓,延燒城中,屋宇皆盡。戰士登城,賊乃大潰,燒死者萬余人,俘其勝兵萬餘口,以其城爲遼州。初,帝自定州命每數十里置一烽,屬於遼城,與太子約,克遼東,當舉烽。是日,帝命舉烽,傳入塞。

軍は白崖城に駐留し、攻撃を命じた。右衛大將軍李思摩が弩の矢に当たり、帝は自らその血をすすった。将士はこれを聞き、感奮しない者はなかった。その城は山に因り水に臨み、四面が険絶していた。李勣が撞車でこれを撞くと、飛石流矢が雨のように城中に集まった。六月、帝はその西北に臨み、城主孫伐音が密かに使者を遣わして降伏を請い、言うには、「臣は既に降伏を願っていますが、中には二心を抱く者もおります」と。詔して旗幟を賜い、言うには、「必ず降伏するなら、これを城上に立てよ」と。伐音が城上に幟を挙げると、高麗兵は唐兵が登城したと思い、ことごとく降伏した。初め、遼東が陥落した時、伐音は降伏を乞うたが、やがて心変わりした。帝はその反覆を怒り、城中の人物を戦士に分け与えることを許していた。この時、李勣が帝に言うには、「戦士が奮い立って争先し、矢石を顧みないのは、捕虜と略奪を貪るからです。今、城は陥落寸前です。どうして再びその降伏を許し、将士の心を裏切るようなことをなさいますか」と。帝は言うには、「将軍の言う通りである。しかし兵を放って殺戮し、その妻子を捕虜とするのは、朕の忍ぶところではない。将軍の麾下で功ある者には、朕が庫物を以て賞する。どうか将軍によってこの一城を贖いたい」と。そこで降伏を受け入れ、士女一万、精兵二千四百を得て、その城に岩州を置き、孫伐音を岩州刺史に任じた。我が軍が遼を渡った時、莫離支が加屍城の七百人を遣わして蓋牟城を守らせていたが、李勣がこれをことごとく捕虜とした。その人々は皆、軍に従って自ら尽力したいと請うた。太宗は彼らに言うには、「誰がお前たちの力を望まないことがあろうか。しかしお前たちの家は皆、加屍にある。お前たちが我がために戦えば、彼らは殺されるであろう!一家の妻子を破って、一人の力を求めるのは、朕の忍ぶところではない」と。ことごとく放還させた。

原文師次白崖城,命攻之,右衛大將軍李思摩中弩矢,帝親爲吮血,將士聞之,莫不感勵。其城因山臨水,四面險絕。李勣以撞車撞之,飛石流矢,雨集城中。六月,帝臨其西北,城主孫伐音潛遣使請降,曰:「臣已願降,其中有貳者。」詔賜以旗幟,曰:「必降,建之城上。」伐音舉幟於城上,高麗以爲唐兵登也,乃悉降。初,遼東之陷也,伐音乞降,既而中悔,帝怒其反覆,許以城中人物分賜戰士。及是,李勣言於帝曰:「戰士奮厲爭先,不顧矢石者,貪虜獲耳。今城垂拔,奈何更許其降,無乃辜將士之心乎?」帝曰:「將軍言是也。然縱兵殺戮,虜其妻孥,朕所不忍也。將軍麾下有功者,朕以庫物賞之,庶因將軍贖此一城。」遂受降,獲士女一萬,勝兵二千四百,以其城置岩州,授孫伐音爲岩州刺史。我軍之渡遼也,莫離支遣加屍城七百人戍蓋牟城,李勣盡虜之,其人並請隨軍自效。太宗謂曰:「誰不欲爾之力,爾家悉在加屍,爾爲吾戰,彼將爲戮矣!破一家之妻子,求一人之力用,吾不忍也!」悉令放還。

車駕は安市城の北に進んで駐留し、陣営を並べて進軍し、これを攻撃した。高麗の北部傉薩高延寿・南部耨薩高惠貞が高麗・靺鞨の兵十五万を率いて安市城を救援に来た。賊の中に対盧(高官)がおり、年老いて世事に通じ、延寿に言うには、「私は聞く、中国が大乱し、英雄が並び起きた。秦王(太宗)は神武にして、向かう所敵なく、遂に天下を平定し、南面して帝となり、北夷は服従を請い、西戎は貢物を献じた。今、国を挙げて来たり、猛将鋭卒が悉くここに集結している。その鋒は当たるべからざるものである。今、計を為すには、兵を留めて戦わず、日を費やして持久し、驍ぎょう雄を分遣してその糧道を断つに如くはない。十日と経たずして、軍糧は必ず尽き、戦いを求めても得られず、帰ろうにも路がなく、これこそ戦わずして勝ちを取る策である」と。延寿は従わず、軍を率いて直ちに進んだ。太宗は夜に諸将を召し、自ら指揮を執った。李勣に歩騎一万五千を率いさせて城西の嶺に陣を布かせ、長孫無忌に牛進達等の精兵一万一千を率いさせて奇兵とし、山北より狭い谷を出てその背後を衝かせた。太宗は自ら歩騎四千を将い、ひそかに鼓角を鳴らし、旌幟を伏せて、賊の陣営の北の高峰の上に向かった。諸軍に鼓角の声を聞いて一斉に進撃するよう命じた。そこで所司に命じて朝堂の側に降伏を受け入れる幕を張らせ、言うには、「明日の午時に、ここで降虜を受け入れよう」と。遂に軍を率いて進んだ。

原文車駕進次安市城北,列營進兵以攻之。高麗北部傉薩高延壽、南部耨薩高惠貞率高麗、靺鞨之衆十五萬來援安市城。賊中有對盧,年老習事,謂延壽曰:「吾聞中國大亂,英雄並起。秦王神武,所向無敵,遂平天下,南面爲帝,北夷請服,西戎獻款。今者傾國而至,猛將銳卒,悉萃於此,其鋒不可當也。今爲計者,莫若頓兵不戰,曠日持久,分遣驍雄,斷其饋運,不過旬日,軍糧必盡,求戰不得,欲歸無路,此不戰而取勝也。」延壽不從,引軍直進。太宗夜召諸將,躬自指麾。遣李勣率步騎一萬五千於城西嶺爲陣;長孫無忌率牛進達等精兵一萬一千以爲奇兵,自山北于狹穀出,以沖其後;太宗自將步騎四千,潛鼓角,偃旌幟,趨賊營北高峰之上;令諸軍聞鼓角聲而齊縱。因令所司張受降幕於朝堂之側,曰:「明日午時,納降虜於此矣!」遂率軍而進。

翌日、延寿は李勣の兵だけを見て、戦おうとした。太宗は遥かに無忌の軍の塵の立ち上がるのを望み、鼓角を一斉に鳴らし、旗幟を一斉に挙げるよう命じた。賊衆は大いに恐れ、兵を分けて防ごうとしたが、その陣は既に乱れていた。李勣が歩卒の長槍一万でこれを撃つと、延寿の衆は敗れた。無忌が兵を放ってその背後を衝き、太宗もまた山から下り、軍を率いてこれに臨むと、賊は大いに潰走し、万余級を斬首した。延寿等はその残党を率いて、山に依って自らを守った。そこで無忌・李勣等に命じて兵を率いてこれを包囲させ、東川の橋梁を撤去して帰路を断った。太宗は轡を押さえてゆっくりと進み、賊の営塁を観察し、侍臣に言うには、「高麗が国を挙げて来たのは、存亡がかかっているからである。一麾(指揮)して敗れたのは、天が我を佑けたのである」と。そこで下馬して再拝して天に感謝した。延寿等は膝行して進み、手を拝して命を請うた。太宗は傉薩以下の酋長三千五百人を選び、武官の官位を授けて内地に移した。靺鞨三千三百を捕らえ、ことごとく坑(穴埋め刑)にし、残りの衆は平壤に放還した。馬三万匹・牛五万頭・明光甲五千領を獲得し、その他の器械もこれに相当した。高麗国は震駭し、後に黄城及び銀城は共に自ら陥ち、数百里に再び人煙は無かった。そこで幸いした山を駐蹕山と名付け、将作監に命じて『破陣図』を作らせ、中書侍郎許敬宗に文を撰ばせて石に刻み、その功績を記念させた。高延寿を鴻臚卿に、高惠真を司農卿に任じた。張亮はまた高麗と建安城下で再戦し、ことごとくこれを破り、そこで長い包囲陣を布いて攻撃した。

原文明日,延壽獨見李勣兵,欲與戰。太宗遙望無忌軍塵起,令鼓角並作,旗幟齊舉。賊衆大懼,將分兵禦之,而其陣已亂。李勣以步卒長槍一萬擊之,延壽衆敗。無忌縱兵乘其後,太宗又自山而下,引軍臨之,賊因大潰,斬首萬餘級。延壽等率其餘寇,依山自保。於是命無忌、勣等引兵圍之,撤東川梁以斷歸路。太宗按轡徐行,觀賊營壘,謂侍臣曰:「高麗傾國而來,存亡所系,一麾而敗,天佑我也!」因下馬再拜以謝天。延壽等膝行而前,拜手請命。太宗簡傉薩以下酋長三千五百人,授以戎秩,遷之內地。收靺鞨三千三百,盡坑之,餘衆放還平壤。獲馬三萬疋、牛五萬頭、明光甲五千領,他器械稱是。高麗國振駭,後黃城及銀城並自拔,數百里無復人煙。因名所幸山爲駐蹕山,令將作造《破陣圖》,命中書侍郎許敬宗爲文勒石以紀其功。授高延壽鴻臚卿,高惠真司農卿。張亮又與高麗再戰于建安城下,皆破之,於是列長圍以攻焉。

八月、軍営を安市城の東に移し、李勣は遂に安市を攻め、高延寿等の降伏した兵衆を擁してその城下に営を構え、以て城中を招かんとした。城中の者は堅く守って動かず、太宗の旌旗を見る毎に、必ず城に乗じて鼓噪して以て拒んだ。帝は甚だ怒った。李勣は言う、「破った日には、男子を尽く誅すことを請う」と。城中これを聞き、人皆死戦した。乃ち江夏王李道宗に命じて土山を築かせ、その城の東南隅を攻めさせた。高麗もまた城壁を高くし、雉堞を増して以て相抗した。李勣はその西面を攻め、石を抛ち撞車を以てその楼櫓雉堞を壊すことを命じた。城中はその崩壊に随い、即ち木を立てて柵とした。道宗は樹条で土を包み、積み上げて以て山とし、その中間に五つの道を設け木を加え、その上に土を被せ、昼夜を分かたず、漸次に城に逼った。道宗は果毅都尉傅伏愛に隊兵を率いさせて山頂に駐屯させ、敵を防がせた。土山は高く聳え、城に迫り、城は崩れた。時に伏愛が私に所部を離れた折、高麗兵百人が崩れた城から戦い出で、遂に土山を占拠し、塹壕を断って以て守り、火を積み盾を巡らして以て自らを固めた。太宗は大いに怒り、伏愛を斬って以て衆に示した。諸将に命じてこれを撃たせたが、三日にして克つことができなかった。

原文八月,移營安市城東,李勣遂攻安市,擁延壽等降衆營其城下以招之。城中人堅守不動,每見太宗旄麾,必乘城鼓噪以拒焉。帝甚怒。李勣曰:「請破之日,男子盡誅。」城中聞之,人皆死戰。乃令江夏王道宗築土山,攻其城東南隅;高麗亦埤城增雉以相抗。李勣攻其西面,令拋石撞車壞其樓雉;城中隨其崩壞,即立木爲柵。道宗以樹條苞壤爲土,屯積以爲山,其中間五道加木,被土於其上,不舍晝夜,漸以逼城。道宗遣果毅都尉傅伏愛領隊兵于山頂以防敵,土山自高而陟,排其城,城崩。會伏愛私離所部,高麗百人自頹城而戰,遂據有土山而塹斷之,積火縈盾以自固。太宗大怒,斬伏愛以徇。命諸將擊之,三日不能克。

太宗は遼東の倉庫に蓄えが少なく、士卒が寒凍に苦しむのを以て、乃ち詔して軍を返すことを命じた。その城の傍を通る時、城中は皆声を潜め旗を伏せ、城主は城に登り手を拱いて辞を奉った。太宗はその堅守を嘉し、絹百匹を賜い、以て君に事える節義を励ました。

原文太宗以遼東倉儲無幾,士卒寒凍,乃詔班師。曆其城,城中皆屏聲偃幟,城主登城拜手奉辭。太宗嘉其堅守,賜絹百匹,以勵事君之節。

初め、遼東城を攻め陥れた時、その中で王師に抵抗し、没して奴婢とすべき者一万四千人を、先ず幽州に集めさせ、将に将士に分け賞わんとした。太宗はその父母妻子が一朝にして分散するを哀れみ、役所に命じてその価に準じ、布帛を以てこれを贖い、赦して百姓とさせた。その衆の歓呼の声は、三日止まなかった。高延寿は降伏して後、常に嘆息を積み、尋いで憂い死した。高恵真は遂に長安ちょうあんに至った。

原文初。攻陷遼東城,其中抗拒王師,應沒爲奴婢者一萬四千人,並遣先集幽州,將分賞將士。太宗湣其父母妻子一朝分散,令有司准其直,以布帛贖之,赦爲百姓。其衆歡呼之聲,三日不息。高延壽自降後,常積歎,尋以憂死。惠真竟至長安。

二十年、高麗は使を遣わして来朝し謝罪し、併せて二人の美女を献じた。太宗はその使に謂いて言う、「帰って爾が主に謂え、美色は人の重んずる所である。爾の献ずる所は、確かに美麗である。その本国において父母兄弟を離れるを憫れみ、その身を留めてその親を忘れ、その色を愛してその心を傷つけるは、我取らざる所なり」と。併せてこれを還した。

原文二十年,高麗遣使來謝罪,並獻二美女。太宗謂其使曰:「歸謂爾主,美色者,人之所重。爾之所獻,信爲美麗。憫其離父母兄弟于本國,留其身而忘其親,愛其色而傷其心,我不取也。」並還之。

二十二年、また右武衛将軍薛万徹等を遣わして青丘道よりこれを伐たしめた。万徹は海を渡り鴨緑水に入り、進んでその泊灼城を破り、俘獲甚だ多かった。太宗はまた江南に命じて大船を造らせ、陝州刺史孫伏伽を遣わして勇敢の士を召募させ、萊州刺史李道裕に糧食及び器械を運送させ、烏胡島に貯えさせ、将に大挙して以て高麗を伐たんとした。未だ行わずして帝崩じた。高宗が位を嗣ぐと、また兵部尚書任雅相・左武衛大将軍蘇定方・左驍衛大将軍契苾何力等に命じて前後これを討たしめたが、皆大功なくして還った。

原文二十二年,又遣右武衛將軍薛萬徹等往青丘道伐之,萬徹渡海入鴨綠水,進破其泊灼城,俘獲甚衆。太宗又命江南造大船,遣陝州刺史孫伏伽召募勇敢之士,萊州刺史李道裕運糧及器械,貯于烏胡島,將欲大舉以伐高麗。未行而帝崩。高宗嗣位,又命兵部尚書任雅相、左武衛大將軍蘇定方、左驍衛大將軍契苾何力等前後討之,皆無大功而還。

乾封元年、高蔵はその子を遣わして入朝させ、泰山の下に陪位させた。その年、蓋蘇文死し、その子の男生が代わって莫離支となり、その弟の男建・男産と睦まず、各々朋党を樹てて以て相攻撃した。男生は二弟に逐われ、走って国内城に拠り死守し、その子の献誠が闕に詣でて哀願を求めた。詔して左驍衛大将軍契苾何力に兵を率いてこれを応接せしめた。男生は身を脱して来奔し、詔して特進・遼東大都督兼平壤道安撫大使を授け、玄菟郡公に封じた。十一月、司空しくう・英国公李勣を命じて遼東道行軍大総管と為し、裨将郭待封等を率いて以て高麗を征伐せしめた。

原文乾封元年,高藏遣其子入朝,陪位於太山之下。其年,蓋蘇文死,其子男生代爲莫離支,與其弟男建、男產不睦,各樹朋黨,以相攻擊。男生爲二弟所逐,走據國內城死守,其子獻誠詣闕求哀。詔令左驍衛大將軍契苾何力率兵應接之。男生脫身來奔,詔授特進、遼東大都督兼平壤道安撫大使,封玄菟郡公。十一月,命司空、英國公李勣爲遼東道行軍大總管,率裨將郭待封等以征高麗。

二年二月、李勣は遼水を渡り新城に至り、諸将に謂って言う、「新城は高麗の西境の鎮城にして、最も要害である。若し先ずこれを図らずんば、余の城は未だ易く下すべからず」と。遂に兵を新城の西南に引き、山に拠り柵を築き、且つ攻め且つ守り、城中は窮迫し、数度降る者あり、ここより向かう所克捷した。高蔵及び男建は太大兄男産を遣わし、首領九十八人を将い、帛幡を持って出降し、且つ入朝を請うた。李勣は礼を以て延接した。男建はなお門を閉ざし固守した。

原文二年二月,勣度遼至新城,謂諸將曰:「新城是高麗西境鎮城,最爲要害。若不先圖,余城未易可下。」遂引兵於新城西南,據山築柵,且攻且守,城中窘迫,數有降者,自此所向克捷。高藏及男建遣太大兄男產將首領九十八人,持帛幡出降,且請入朝。勣以禮延接。男建猶閉門固守。

総章元年九月、李勣はまた営を平壤城の南に移した。男建は頻りに兵を遣わして出戦したが、皆大敗した。男建の下の捉兵総管僧信誠は密かに人を軍中に詣らせ、城門を開いて内応することを許した。五日を経て、信誠は果たして門を開き、李勣は兵に従って入り、城に登り鼓噪し、城門楼を焼き、四面火起った。男建は窮急して自ら刺したが、死なず。十一月、平壤城を抜き、高蔵・男建等を虜にした。十二月、京師に至り、含元宮にて俘虜を献じた。詔して高蔵は政を己に出さざるを以て、司平太常伯を授け、男産は先に降ったを以て、司宰少卿を授け、男建は黔州に配流し、男生は郷導の功有るを以て、右衛大将軍を授け、汴国公に封じ、特進は旧の如しとした。

原文總章元年九月,勣又移營于平壤城南,男建頻遣兵出戰,皆大敗。男建下捉兵總管僧信誠密遣人詣軍中,許開城門爲內應。經五日,信誠果開門,勣從兵入,登城鼓噪,燒城門樓,四面火起。男建窘急自刺,不死。十一月,拔平壤城,虜高藏、男建等。十二月,至京師,獻俘于含元宮。詔以高藏政不由己,授司平太常伯;男產先降,授司宰少卿;男建配流黔州;男生以鄉導有功,授右衛大將軍,封汴國公,特進如故。

高麗国は旧く五部に分かれ、城百七十六、戸六十九万七千有り。乃ちその地を分けて都督府九、州四十一、県一百を置き、また安東都護府を置いて以てこれを統べさせた。その酋渠で功有る者を抜擢して都督・刺史及び県令を授け、華人と参理して百姓を治めさせた。乃ち左武衛将軍薛仁貴を遣わし兵を総べてこれを鎮めさせた。その後頗る逃散する者あり。

原文高麗國舊分爲五部,有城百七十六,戶六十九萬七千;乃分其地置都督府九、州四十一、縣一百,又置安東都護府以統之。擢其酋渠有功者授都督、刺史及縣令,與華人參理百姓。乃遣左武衛將軍薛仁貴總兵鎮之,其後頗有逃散。

儀鳳年中、高宗は高蔵に開府儀同三司・遼東都督を授け、朝鮮王に封じ、安東に居らせ、本蕃を鎮めて主と為らしめた。高蔵は安東に至り、潜かに靺鞨と相通じ謀叛を図った。事覚り、召還され、邛州に配流され、併せてその人を分徙し、河南・隴右諸州に散らし、その貧弱なる者は安東城の傍に留めた。

原文儀鳳中,高宗授高藏開府儀同三司、遼東都督,封朝鮮王,居安東,鎮本蕃爲主。高藏至安東,潛與靺鞨相通謀叛。事覺,召還,配流邛州,並分徙其人,散向河南、隴右諸州,其貧弱者留在安東城傍。

高蔵は永淳初年に卒し、衛尉卿を贈られ、詔して京師に送らせ、頡利の墓の左に葬地を賜い、兼ねて碑を樹てさせた。垂拱二年、また高蔵の孫の宝元を朝鮮郡王に封じた。聖暦元年、左鷹揚衛大将軍に進授し、忠誠国王に封じ、その安東の旧戸を統摂することを委ねたが、事遂に行われず。二年、また高蔵の男の徳武に安東都督を授け、以て本蕃を領せしめた。ここより高麗の旧戸で安東に在る者は漸く寡少となり、分かれて突厥及び靺鞨等に投じ、高氏の君長遂に絶えた。

原文高藏以永淳初卒,贈衛尉卿,詔送至京師,於頡利墓左賜以葬地,兼爲樹碑。垂拱二年,又封高藏孫寶元爲朝鮮郡王。聖曆元年,進授左鷹揚衛大將軍,封爲忠誠國王,委其統攝安東舊戶,事竟不行。二年,又授高藏男德武爲安東都督,以領本蕃。自是高麗舊戶在安東者漸寡少。分投突厥及靺鞨等,高氏君長遂絕矣!

男生は儀鳳初年に長安にて卒し、并へい州大都督を贈られた。子の献誠は右衛大将軍を授けられ、兼ねて羽林衛上下を令せしめられた。天授年中、則天武后は嘗て内より金銀実物を出し、宰相及び南北衙の文武官に命じて内より善射の者五人を選び共に賭わしめた。内史張光輔は先ず献誠を第一と譲り、献誠はまた右玉鈐衛大将軍薛吐摩支を譲り、摩支はまた献誠を譲った。既にして献誠は奏して言う、「陛下は能く射る者五人を簡ぶことを命じられましたが、得たる者は多く漢官にあらず。臣はこれより以後、漢官に工射の名無からんことを恐れ、伏して望むらくはこの射を停められんことを」と。則天は嘉してこれに従った。

原文男生以儀鳳初卒于長安,贈并州大都督。子獻誠,授右衛大將軍,兼令羽林衛上下。天授中,則天嘗內出金銀實物,令宰相及南北衙文武官內擇善射者五人共賭之。內史張光輔先讓獻誠爲第一,獻誠復讓右玉鈐衛大將軍薛吐摩支,摩支又讓獻誠。既而獻誠奏曰:「陛下令簡能射者五人,所得者多非漢官。臣恐自此已後,無漢官工射之名,伏望停寢此射。」則天嘉而從之。

時に酷吏来俊臣が嘗て献誠に財貨を求めたが、献誠は拒んで答えず、遂に俊臣に構えられ、その謀反を誣い、縊り殺した。則天武后はその冤を知り、右羽林衛大将軍を贈り、礼を以て改葬させた。

原文時酷吏來俊臣嘗求貨於獻誠,獻誠拒而不答,遂爲俊臣所構,誣其謀反,縊殺之。則天后知其冤,贈右羽林衛大將軍,以禮改葬。

百済

原文百濟

百済国は、もとまた扶余の別種であり、かつて馬韓の故地であった。京師の東六千二百里にあり、大海の北に処り、小海の南にある。東北は新羅に至り、西は海を渡って越州に至り、南は海を渡って倭国に至り、北は海を渡って高麗に至る。その王の居る所に東西の両城がある。設置する内官は内臣佐平といい、宣納の事を掌る。内頭佐平といい、庫蔵の事を掌る。内法佐平といい、礼儀の事を掌る。衛士佐平といい、宿衛兵事を掌る。朝廷佐平といい、刑獄の事を掌る。兵官佐平といい、在外の兵馬の事を掌る。また外に六帯方を置き、十郡を管す。その用法は、叛逆者は死に、その家を籍没す。人を殺す者は、奴婢三人をもって罪を贖う。官人が財を受け及び盗む者は、贓物を三倍追徴し、なお終身禁錮す。凡そ諸の賦税及び風土の産する所は、多く高麗と同じ。その王は大袖の紫袍を服し、青錦の袴、烏羅の冠、金花を以て飾りとし、素皮の帯、烏革の履を着す。官人は尽く緋を衣とし、銀花を以て冠を飾る。庶人は緋紫を衣とすべからず。歳時の伏臘は、中国と同じ。その書籍に『五経』、子、史あり、また表疏は並びに中華の法に依る。

原文百濟國,本亦扶餘之別種,嘗爲馬韓故地,在京師東六千二百里,處大海之北,小海之南。東北至新羅,西渡海至越州,南渡海至倭國,北渡海至高麗。其王所居有東西兩城。所置內官曰內臣佐平,掌宣納事;內頭佐平,掌庫藏事;內法佐平,掌禮儀事;衛士佐平,掌宿衛兵事;朝廷佐平,掌刑獄事;兵官佐平,掌在外兵馬事。又外置六帶方,管十郡,其用法:叛逆者死,籍沒其家;殺人者,以奴婢三贖罪;官人受財及盜者,三倍追贓,仍終身禁錮。凡諸賦稅及風土所產,多與高麗同。其王服大袖紫袍,青錦褲,烏羅冠,金花爲飾,素皮帶,烏革履。官人盡緋爲衣,銀花飾冠。庶人不得衣緋紫。歲時伏臘,同於中國。其書籍有《五經》、子、史,又表疏並依中華之法。

武徳四年、その王扶余璋、使を遣わして来たり果下馬を献ず。七年、また大臣を遣わし表を奉じて朝貢す。高祖その誠款を嘉し、使を遣わし就いて冊して帯方郡王・百済王とす。是より歳ごとに朝貢を遣わし、高祖撫労すること甚だ厚し。高麗がその道路を閉ざし、来たりて中国に通ずることを許さずと訟うるにより、詔して朱子奢を遣わし往いてこれを和せしむ。また新羅と相い世に仇敵たり、数相い侵伐す。

原文武德四年,其王扶餘璋遣使來獻果下馬。七年,又遣大臣奉表朝貢。高祖嘉其誠款,遣使就冊爲帶方郡王、百濟王。自是歲遣朝貢,高祖撫勞甚厚。因訟高麗閉其道路,不許來通中國,詔遣硃子奢往和之。又相與新羅世爲仇敵,數相侵伐。

貞観元年、太宗その王に璽書を賜いて曰く、「王世に君長たり、東蕃を撫有す。海隅遐曠、風濤艱阻、忠款の至り、職貢相尋ぐ、尚お徽猷を想い、甚だ以て嘉慰す。朕寵命を祗承し、区宇に君臨してより、王道を弘めんと思い、黎元を愛育す。舟車の通ずる所、風雨の及ぶ所、之を期して性を遂げしめ、咸しく乂安ならしめんとす。新羅王金真平は、朕が籓臣、王の隣国なり。毎に師を遣わし、征討息まず、兵を阻みて安んじて忍ぶは、殊に望む所に乖けり。朕すでに王の侄信福及び高麗・新羅の使人に対し、具に勅して通和せしめ、咸しく輯睦を許せり。王必ずや彼の前怨を忘れ、朕が本懐を識り、共に隣情を篤くし、即ち兵革を停むべし」と。璋よって使を遣わし表を奉じて陳謝す。外は順命を称すと雖も、内は実に相い仇することを故の如くす。十一年、使を遣わし来朝し、鉄甲・彫斧を献ず。太宗優労し、彩帛三千段並びに錦袍等を賜う。

原文貞觀元年,太宗賜其王璽書曰:「王世爲君長,撫有東蕃。海隅遐曠,風濤艱阻,忠款之至,職貢相尋,尚想徽猷,甚以嘉慰!朕自祗承寵命,君臨區宇,思弘王道,愛育黎元。舟車所通,風雨所及,期之遂性,咸使乂安。新羅王金真平,朕之籓臣,王之鄰國。每聞遣師,征討不息,阻兵安忍,殊乖所望。朕已對王侄信福及高麗、新羅使人,具敕通和,咸許輯睦。王必須忘彼前怨,識朕本懷,共篤鄰情,即停兵革。」璋因遣使奉表陳謝,雖外稱順命,內實相仇如故。十一年,遣使來朝,獻鐵甲雕斧。太宗優勞之,賜彩帛三千段並錦袍等。

十五年、璋卒す。その子義慈、使を遣わし表を奉じて哀を告ぐ。太宗素服してこれを哭し、光禄大夫を贈り、賻物二百段を賜い、使を遣わし義慈を冊命して柱国とし、帯方郡王・百済王に封ず。

原文十五年,璋卒,其子義慈遣使奉表告哀。太宗素服哭之,贈光祿大夫,賻物二百段,遣使冊命義慈爲柱國,封帶方郡王、百濟王。

十六年、義慈兵を興して新羅四十余城を伐ち、また兵を発して以てこれを守り、高麗と和親通好し、謀りて党項城を取らんと欲し、以て新羅の入朝の路を絶たんとす。新羅使を遣わし告急し救いを請う。太宗司農丞相里玄奨を遣わし書を齎し両蕃に告諭し、禍福を示す。太宗の高麗に親征するに及び、百済二心を懐き、虚に乗じて襲い新羅十城を破る。二十二年、またその十余城を破る。数年の中に、朝貢遂に絶ゆ。

原文十六年,義慈興兵伐新羅四十餘城,又發兵以守之,與高麗和親通好,謀欲取党項城以絕新羅入朝之路。新羅遣使告急請救。太宗遣司農丞相里玄獎齎書告諭兩蕃,示以禍福。及太宗親征高麗,百濟懷二,乘虛襲破新羅十城。二十二年,又破其十餘城。數年之中,朝貢遂絕。

高宗嗣位し、永徽二年、始めてまた使を遣わし朝貢す。使還るに及び、璽書を降して義慈に与えて曰く、

原文高宗嗣位,永徽二年,始又遣使朝貢。使還,降璽書與義慈曰:

至れり海東の三国、基を開くこと久しより自り、並びに疆界を列ね、地は実に犬牙たり。近代已来、遂に嫌隙を構う。戦争交り起り、略々寧歳無し。遂に三韓の氓をして、命は刀俎に懸かり、戈を尋ねて憤りを肆にし、朝夕相い仍らしむ。朕天に代わりて物を理むるに、載せて深く矜湣す。去歳王及び高麗・新羅等の使並びに来たり入朝す。朕命じてこの讎怨を釈し、更に款穆を敦くせしむ。新羅の使金法敏書を奏して曰く、「高麗・百済は、脣歯相依り、競い兵戈を挙げ、侵逼交り至る。大城重鎮、並びに百済に併せらる。疆宇日蹙し、威力並びに謝ゆ。詔を百済に乞い、侵しし所の城を帰せしめよ。若し詔を奉ぜずんば、即ち自ら兵を興して打ち取りたまえ。但だ故地を得ば、即ち交和を請わん」と。朕その言既に順なれば、許さざるべからず。昔斉桓諸侯に土を列ね、尚お亡国を存す。況んや朕万国の主、豈に危籓を恤わざらんや。王の兼ねる所の新羅の城は、並びに宜しくその本国に還すべし。新羅の獲る所の百済の俘虜も、また遣わして王に還すべし。然る後に患を解き紛を釈し、戈を韜み革を偃げ、百姓息肩の願いを獲、三蕃戦争の労無からしめん。夫れ辺亭に血を流し、疆場に屍を積み、耕織並びに廃れ、士女聊か無きに比ぶれば、豈に同年にして語らんや。王若し進止に従わずんば、朕すでに法敏の請う所に依り、その王と決戦するに任せん。また高麗を約束し、遠く相い救恤するを許さず。高麗若し命を承けずんば、即ち契丹諸蕃をして遼沢を渡り入り抄掠せしめん。王朕が言を深く思い、自ら多福を求め、良策を審らかに図り、後悔を貽すこと無かれ」。

原文至如海東三國,開基自久,並列疆界,地實犬牙。近代已來,遂構嫌隙。戰爭交起,略無寧歲。遂令三韓之氓,命懸刀俎,尋戈肆憤,朝夕相仍。朕代天理物,載深矜湣。去歲王及高麗、新羅等使並來入朝,朕命釋茲讎怨,更敦款穆。新羅使金法敏奏書:「高麗、百濟,脣齒相依,競舉兵戈,侵逼交至。大城重鎮,並爲百濟所並;疆宇日蹙,威力並謝。乞詔百濟,令歸所侵之城。若不奉詔,即自興兵打取。但得故地,即請交和。」朕以其言既順,不可不許。昔齊桓列土諸侯,尚存亡國;況朕萬國之主,豈可不恤危籓!王所兼新羅之城,並宜還其本國;新羅所獲百濟俘虜,亦遣還王。然後解患釋紛,韜戈偃革,百姓獲息肩之願,三蕃無戰爭之勞。比夫流血邊亭,積屍疆場,耕織並廢,士女無聊,豈可同年而語矣!王若不從進止,朕已依法敏所請,任其與王決戰;亦令約束高麗,不許遠相救恤。高麗若不承命,即令契丹諸蕃渡遼澤入抄掠。王可深思朕言,自求多福,審圖良策,無貽後悔。

六年、新羅王金春秋また表を称して、百済が高麗・靺鞨と其の北界を侵し、すでに三十余城を没せりとす。顕慶五年、左衛大将軍蘇定方を命じ兵を統べてこれを討たしむ。大いに其の国を破る。義慈及び太子隆・小王孝演・偽将五十八人等を虜らえて京師に送る。上責めてこれを宥す。其の国旧く五部に分かれ、郡三十七を統べ、城二百、戸七十六万。是に至りて乃ち其の地を分ちて熊津・馬韓・東明等五都督府を置き、各州県を統べ、其の酋渠を立てて都督・刺史及び県令とす。右衛郎将王文度を命じて熊津都督とし、兵を総べて以てこれを鎮めしむ。義慈は親に事うるに孝行を以て聞こえ、兄弟に友あり、時人「海東の曾・閔」と号す。京に至るに及び、数日にして卒す。金紫光禄大夫・衛尉卿を贈り、特許して其の旧臣をして赴き哭せしむ。孫皓・陳叔宝の墓側に送り葬らしめ、並びに碑を豎つ。

原文六年,新羅王金春秋又表稱百濟與高麗、靺鞨侵其北界,已沒三十餘城。顯慶五年,命左衛大將軍蘇定方統兵討之,大破其國。虜義慈及太子隆、小王孝演、偽將五十八人等送于京師,上責而宥之。其國舊分爲五部,統郡三十七,城二百,戶七十六萬。至是乃以其地分置熊津、馬韓、東明等五都督府,各統州縣,立其酋渠爲都督、刺史及縣令。命右衛郎將王文度爲熊津都督,總兵以鎮之。義慈事親以孝行聞,友于兄弟,時人號「海東曾、閔」。及至京,數日而卒。贈金紫光祿大夫、衛尉卿,特許其舊臣赴哭。送就孫皓、陳叔寶墓側葬之,並爲豎碑。

文度海を済いて卒す。百済の僧道琛・旧将福信、衆を率いて周留城に拠り以て叛く。使を倭国に遣わし、故王子扶余豊を迎え、立てて王とす。其の西部・北部並びに城を翻してこれに応ず。時に郎将劉仁願、百済府城に留鎮す。道琛等兵を引いてこれを囲む。帯方州刺史劉仁軌、文度に代わりて衆を統べ、便道より新羅の兵を発し合契して以て仁願を救い、転闘して前進し、向かう所皆下る。道琛等熊津江口に於いて両柵を立て以て官軍を拒ぐ。仁軌新羅の兵と四面よりこれを夾撃す。賊衆退き走り柵に入る。水に阻まれ橋狭く、水に墮ち及び戦死する者万余人。道琛等乃ち仁願の囲みを解き、退き任存城を保つ。新羅の兵士糧尽きて引き還る。時に龍朔元年三月なり。

原文文度濟海而卒。百濟僧道琛、舊將福信率衆據周留城以叛。遣使往倭國,迎故王子扶余豐,立爲王。其西部、北部並翻城應之。時郎將劉仁願留鎮於百濟府城,道琛等引兵圍之。帶方州刺史劉仁軌代文度統衆,便道發新羅兵合契以救仁願,轉鬥而前,所向皆下。道琛等於熊津江口立兩柵以拒官軍,仁軌與新羅兵四面夾擊之,賊衆退走入柵,阻水橋狹,墮水及戰死萬餘人。道琛等乃釋仁願之圍,退保任存城。新羅兵士以糧盡引還,時龍朔元年三月也。

ここにおいて道琛自ら領軍将軍と称し、福信自ら霜岑将軍と称し、叛亡を招誘し、其の勢い益々張る。使して仁軌に告げて曰く、「大唐と新羅と約誓し、百済は老少を問わず、一切これを殺し、然る後に国を新羅に与うるを聞く。死を受くるに、豈に戦いて亡ぶるに若かんや。故に聚結して自ら固守するのみ」と。仁軌書を作り、具に禍福を陳べ、使を遣わしてこれを諭す。道琛等衆に恃み驕倨し、仁軌の使を外館に置く。伝語して謂いて曰く、「使人官職小なり。我は一国の大将なり、自ら参ずるに合わず」と。書に答えずしてこれを遣わす。尋いで福信道琛を殺し、並びに其の兵衆を併せ、扶余豊は但だ祭を主るのみ。

原文於是道琛自稱領軍將軍,福信自稱霜岑將軍,招誘叛亡,其勢益張。使告仁軌曰:「聞大唐與新羅約誓,百濟無問老少,一切殺之。然後以國府新羅。與其受死,豈若戰亡!所以聚結自固守耳!」仁軌作書,具陳禍福,遣使諭之。道琛等恃衆驕倨,置仁軌之使於外館。傳語謂曰:「使人官職小,我是一國大將,不合自參。」不答書遣之。尋而福信殺道琛,並其兵衆,扶余豐但主祭而已。

二年七月、仁願・仁軌らは留鎮の兵を率い、熊津の東において福信の余衆を大破し、その支羅城及び尹城・大山・沙井等の柵を抜き、殺獲甚だ衆し。仍って兵を分かちて以て之を鎮守せしむ。福信らは真峴城が江に臨み高く険しく、また沖要に当たるを以て、兵を加えて之を守る。仁軌は新羅の兵を引きいて夜に乗じて城に迫り、四面より堞を攀じ登り、明け方までに進入して其の城を占拠し、八百級を斬首し、遂に新羅の運糧の路を通ず。仁願は乃ち兵を益すことを奏請し、詔して淄・青・萊・海の兵七千人を発し、左威衛将軍孫仁師を遣わし衆を統べて海を浮かび熊津に赴かしめ、以て仁願の衆を益す。時に福信は既に其の兵権を専らにし、撫余豊と漸く相猜貳す。福信は疾を称し、窟室に臥し、将に扶余豊の疾を問うを候い、謀って之を襲殺せんとす。扶余豊は覚りて其の親信を率い掩殺して福信を殺し、又使を遣わし高麗及び倭国に往きて兵を請い以て官軍に拒がんとす。孫仁師は中路に迎撃し、之を破る。遂に仁願の衆と相合し、兵勢大いに振う。ここにおいて仁師・仁願及び新羅王金法敏は陸軍を帥いて進み、劉仁軌及び別帥杜爽・扶余隆は水軍及び糧船を率い、熊津江より白江に往き以て陸軍に会し、同じく周留城に趨く。仁軌は白江の口において扶余豊の衆に遇い、四戦皆捷す。其の舟四百艘を焚き、賊衆大いに潰え、扶余豊は身を脱して走る。偽の王子扶余忠勝・忠志らは士女及び倭衆を率いて並び降る。百済の諸城皆復た帰順す。孫仁師は劉仁願らと旅を振って還る。詔して劉仁軌に仁願に代わり兵を率いて鎮守せしむ。乃ち扶余隆に熊津都督を授け、本国に還遣し、新羅と共に和親し、以て其の余衆を招輯せしむ。

原文二年七月,仁願、仁軌等率留鎮之兵,大破福信余衆于熊津之東,拔其支羅城及尹城、大山、沙井等柵,殺獲甚衆。仍令分兵以鎮守之。福信等以真峴城臨江高險,又當沖要,加兵守之。仁軌引新羅之兵乘夜薄城,四面攀堞而上,比明而入據其城,斬首八百級,遂通新羅運糧之路。仁願乃奏請益兵,詔發淄、青、萊、海之兵七千人,遣左威衛將軍孫仁師統衆浮海赴熊津,以益仁願之衆。時福信既專其兵權,與撫余豐漸相猜貳。福信稱疾,臥於窟室,將候扶余豐問疾,謀襲殺之。扶余豐覺而率其親信掩殺福信,又遣使往高麗及倭國請兵以拒官軍。孫仁師中路迎擊,破之。遂與仁願之衆相合,兵勢大振。於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍進,劉仁軌及別帥杜爽、扶余隆率水軍及糧船,自熊津江往白江以會陸軍,同趨周留城。仁軌遇扶余豐之衆于白江之口,四戰皆捷。焚其舟四百艘,賊衆大潰,扶余豐脫身而走。偽王子扶余忠勝、忠志等率士女及倭衆並降。百濟諸城皆復歸順。孫仁師與劉仁願等振旅而還。詔劉仁軌代仁願率兵鎮守。乃授扶余隆熊津都督,遣還本國,共新羅和親,以招輯其餘衆。

麟徳二年八月、隆は熊津城に到り、新羅王法敏と白馬を刑して盟す。先ず神祇及び川穀の神を祀り、而して後に血を歃う。其の盟文に曰く、

原文麟德二年八月,隆到熊津城,與新羅王法敏刑白馬而盟。先祀神祇及川穀之神,而後歃血。其盟文曰:

往者百済の先王は、逆順に迷い、鄰好を敦くせず、親姻を睦まじくせず。高麗に結托し、倭国に交通し、共に残暴を為し、新羅を侵削し、邑を破り城を屠り、略々寧歳無し。天子は一物の失所を憫み、百姓の無辜を憐れみ、頻りに行人を命じ、其の和好を遣わす。険を負い遠きを恃み、天経を侮慢す。皇赫斯く怒り、恭しく吊伐を行い、旌旗の指す所、一戎大いに定まる。固より宮を瀦し宅を汚し、来裔に誡めを作し、源を塞ぎ本を抜き、後昆に訓を垂るべし。然れども叛を懐柔伐つは、前王の令典;亡を興し絶を継ぐは、往哲の通規。事必ず古に師い、曩冊に伝う。故に前百済太子司稼正卿扶余隆を立てて熊津都督と為し、其の祭祀を守り、其の桑梓を保たしむ。新羅に依倚し、長く与国と為り、各々宿憾を除き、好を結び和親す。恭しく詔命を承け、永く籓服と為る。仍って使人右威衛将軍魯城県公劉仁願を遣わし親臨して勧諭せしめ、具に成旨を宣べ、之に婚姻を約し、之に盟誓を申す。牲を刑し血を歃い、共に終始を敦くす;災を分かち患を恤み、恩弟兄の若し。祗しく綸言を奉り、敢えて失墜せず、既に盟の後は、共に歳寒を保つ。若し信を棄てて恒ならず、其の徳を二三にし、兵を興し衆を動かし、辺陲を侵犯せば、明神之を鑒み、百殃是れ降り、子孫昌からず、社稷守る無く、禋祀磨滅し、遺余有ること罔し。故に金書鉄契を作り、之を宗廟に蔵し、子孫万代、或いは敢えて犯すこと無からしむ。神之を聴き之を饗い是れ福す。

原文往者百濟先王,迷於逆順,不敦鄰好,不睦親姻。結托高麗,交通倭國,共爲殘暴,侵削新羅,破邑屠城,略無寧歲。天子憫一物之失所,憐百姓之無辜,頻命行人,遣其和好。負險恃遠,侮慢天經。皇赫斯怒,恭行吊伐,旌旗所指,一戎大定。固可瀦宮汙宅,作誡來裔,塞源拔本,垂訓後昆。然懷柔伐叛,前王之令典;興亡繼絕,往哲之通規。事必師古,傳諸曩冊。故立前百濟太子司稼正卿扶余隆爲熊津都督,守其祭祀,保其桑梓。依倚新羅,長爲與國,各除宿憾,結好和親。恭承詔命,永爲籓服。仍遣使人右威衛將軍魯城縣公劉仁願親臨勸諭,具宣成旨,約之以婚姻,申之以盟誓。刑牲歃血,共敦終始;分災恤患,恩若弟兄。祗奉綸言,不敢失墜,既盟之後,共保歲寒。若有棄信不恆,二三其德,興兵動衆,侵犯邊陲,明神鑒之,百殃是降,子孫不昌,社稷無守,禋祀磨滅,罔有遺餘。故作金書鐵契,藏之宗廟,子孫萬代,無或敢犯。神之聽之,是饗是福。

劉仁軌の辞なり。歃い訖り、幣帛を壇下の吉地に埋め、其の盟書を新羅の廟に蔵す。仁願・仁軌ら既に還り、隆は新羅を懼れ、尋いで京師に帰る。

原文劉仁軌之辭也。歃訖,埋幣帛於壇下之吉地,藏其盟書于新羅之廟。仁願、仁軌等既還,隆懼新羅,尋歸京師。

儀鳳二年、光禄大夫・太常員外卿・兼熊津都督・帯方郡王に拝し、本蕃に帰り、余衆を安輯せしむ。時に百済の本地荒廃し、漸く新羅に拠られ、隆は竟に旧国に還ることを敢えずして卒す。

原文儀鳳二年,拜光祿大夫、太常員外卿、兼熊津都督、帶方郡王,令歸本蕃,安輯餘衆。時百濟本地荒毀,漸爲新羅所據,隆竟不敢還舊國而卒。

其の孫敬は、則天朝に帯方郡王を襲封し、衛尉卿を授かる。其の地は此より新羅及び渤海靺鞨に分たれ、百済の種遂に絶ゆ。

原文其孫敬,則天朝襲封帶方郡王、授衛尉卿。其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分,百濟之種遂絕。

新羅

原文新羅

新羅国は、本弁韓の苗裔なり。其の国は漢時の楽浪の地に在り、東及び南方は俱に大海に限られ、西は百済に接し、北は高麗に隣る。東西千里、南北二千里。城邑村落有り。王の居る所を金城と曰い、周囲七八里。衛兵三千人、獅子隊を設く。文武官凡そ十七等有り。其の王金真平は、隋の文帝の時に上開府・楽浪郡公・新羅王を授かる。武徳四年、使を遣わし朝貢す。高祖親しく労問し、通直散騎侍郎庾文素を遣わし往き使せしめ、璽書及び画屏風・錦彩三百段を賜い、此より朝貢絶えず。其の風俗・刑法・衣服は、高麗・百濟と略々同じく、而して朝服は白を尚ぶ。山神を祭るを好む。其の食器は柳杯を作り、亦銅及び瓦を用う。国人多く金・樸の両姓、異姓は婚せず。元日を重んじ、相慶賀燕饗し、毎に其の日を以て日月神を拝す。又八月十五日を重んじ、楽を設け飲宴し、群臣に賚い、其の庭に射る。婦人の髪は頭に繞り、彩及び珠を以て飾りと為し、髪甚だ長く美し。

原文新羅國,本弁韓之苗裔也。其國在漢時樂浪之地,東及南方俱限大海,西接百濟,北鄰高麗。東西千里,南北二千里。有城邑村落。王之所居曰金城,周七八里。衛兵三千人,設獅子隊。文武官凡有十七等。其王金真平,隋文帝時授上開府、樂浪郡公、新羅王。武德四年,遣使朝貢。高祖親勞問之,遣通直散騎侍郎庾文素往使焉,賜以璽書及畫屏風、錦彩三百段,自此朝貢不絕。其風俗、刑法、衣服,與高麗、百濟略同,而朝服尚白。好祭山神。其食器作柳杯,亦以銅及瓦。國人多金、樸兩姓,異姓不爲婚。重元日,相慶賀燕饗,每以其日拜日月神。又重八月十五日,設樂飲宴,賚群臣,射其庭。婦人發繞頭,以彩及珠爲飾,發甚長美。

高祖は既に海東三国の旧く怨隙を結び、互いに攻伐するを聞き、其の俱に蕃附と為るを以て、務めて和睦に在り、乃ち其の使に怨の由を問う。対えて曰く、「先ず是れ百済往きて高麗を伐ち、新羅に詣で救いを請う、新羅兵を発し大いに百済国を破る、此に因りて怨と為り、毎に相攻伐す。新羅百済王を得て、之を殺す、怨此より始まる。」七年、使を遣わし冊拝して金真平を柱国と為し、楽浪郡王・新羅王に封ず。

原文高祖既聞海東三國舊結怨隙,遞相攻伐,以其俱爲蕃附,務在和睦,乃問其使爲怨所由。對曰:「先是百濟往伐高麗,詣新羅請救,新羅發兵大破百濟國,因此爲怨,每相攻伐。新羅得百濟王,殺之,怨由此始。」七年,遣使冊拜金真平爲柱國,封樂浪郡王、新羅王。

貞観五年、使を遣わし女楽二人を献ず、皆鬒髪美色なり。太宗侍臣に謂いて曰く、「朕聞く声色の娛は、徳を好むに如かずと。且つ山川阻遠、土を懐うこと知るべし。近日林邑白鸚鵡を献ず、尚お郷を思うことを解し、訴えて還国を請う。鳥猶お此くの如し、況んや人情においてをや!朕其の遠来を湣み、必ず親戚を思わん、宜しく使者に付し、遣わして家に還るを聴くべし。」

原文貞觀五年,遣使獻女樂二人,皆鬒發美色。太宗謂侍臣曰:「朕聞聲色之娛,不如好德。且山川阻遠,懷土可知。近日林邑獻白鸚鵡,尚解思鄉,訴請還國。鳥猶如此,況人情乎!朕湣其遠來,必思親戚,宜付使者,聽遣還家。」

是歳、真平卒し、子無く、其の女善德を立てて王と為し、宗室大臣乙祭国政を総知す。詔して真平に左光禄大夫を贈り、賻物二百段を賜う。九年、使を遣わし節を持ちて善德を冊命し柱国と為し、楽浪郡王・新羅王に封ず。十七年、使を遣わし上言す、「高麗・百濟、累り相攻襲し、数十城を亡失し、両国兵を連ね、意臣が社稷を滅さんとす。謹みて陪臣を遣わし、大國に帰命し、偏師の救助を乞う。」太宗相里玄獎を遣わし璽書を齎し高麗に賜いて曰く、「新羅国家に委命し、朝献を闕かず。爾と百濟は、宜しく即ち兵を戢むべし。若し更に之を攻めば、明年当に出師して爾が国を撃たん!」太宗将に親しく高麗を伐たんとし、詔して新羅に士馬を纂集し、大軍に応接せしむ。新羅大臣を遣わし兵五万人を領し、高麗の南界に入り、水口城を攻め、之を降す。

原文是歲,真平卒,無子,立其女善德爲王,宗室大臣乙祭總知國政。詔贈真平左光祿大夫,賻物二百段。九年,遣使持節冊命善德柱國,封樂浪郡王、新羅王。十七年,遣使上言:「高麗、百濟,累相攻襲,亡失數十城,兩國連兵,意在滅臣社稷。謹遣陪臣,歸命大國,乞偏師救助。」太宗遣相里玄獎齎璽書賜高麗曰:「新羅委命國家,不闕朝獻。爾與百濟,宜即戢兵。若更攻之,明年當出師擊爾國矣!」太宗將親伐高麗,詔新羅纂集士馬,應接大軍。新羅遣大臣領兵五萬人,入高麗南界,攻水口城,降之。

二十一年、善德卒し、光禄大夫を贈り、余の官封並びに故の如し。因りて其の妹真德を立てて王と為し、柱国を加授し、楽浪郡王に封ず。

原文二十一年,善德卒,贈光祿大夫,余官封並如故。因立其妹真德爲王,加授柱國,封樂浪郡王。

二十二年、真徳はその弟の国相・伊賛子金春秋およびその子の文正を遣わして来朝させた。詔して春秋に特進を授け、文正に左武衛将軍を授けた。春秋は国学に詣でて釈奠および講論を観覧することを請い、太宗はこれにより自ら作った『温湯』および『晋祠碑』並びに新たに撰した『晋書』を賜った。帰国しようとするとき、三品以上の者に命じて宴を設けて餞別させ、優れた礼遇は甚だ称えられた。

原文二十二年,真德遣其弟國相、伊贊子金春秋及其子文正來朝。詔授春秋爲特進,文正爲左武衛將軍。春秋請詣國學觀釋奠及講論,太宗因賜以所制《溫湯》及《晉祠碑》並新撰《晉書》。將歸國,令三品以上宴餞之,優禮甚稱。

三年、真徳が卒したので、哀悼の礼を挙げた。詔して春秋を嗣がせ、新羅王に立てた。開府儀同三司を加授し、楽浪郡王に封じた。六年、百済が高麗・靺鞨とともに兵を率いてその北界を侵し、三十余城を攻め落としたので、春秋は使者を遣わして上表し救援を求めた。顕慶五年、左武衛大将軍蘇定方を熊津道大総管とし、水陸十万を統率させた。また春秋を嵎夷道行軍総管とし、定方とともに百済を討伐平定させ、その王扶余義慈を捕虜として闕下に献上させた。この時より新羅は次第に高麗・百済の地を有するようになった。その境界はますます広大となり、西は海に至った。

原文三年,真德卒,爲舉哀。詔以春秋嗣,立爲新羅王。加授開府儀同三司,封樂浪郡王。六年,百濟與高麗、靺鞨率兵侵其北界,攻陷三十餘城,春秋遣使上表求救。顯慶五年,命左武衛大將軍蘇定方爲熊津道大總管,統水陸十萬。仍令春秋爲嵎夷道行軍總管,與定方討平百濟,俘其王扶餘義慈,獻于闕下。自是新羅漸有高麗、百濟之地。其界益大,西至於海。

龍朔元年、春秋が卒したので、詔してその子の太府卿法敏に嗣がせ、開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王とした。三年、詔してその国を鶏林州都督府とし、法敏を鶏林州都督に任じた。法敏は開耀元年に卒し、その子の政明が嗣いだ。垂拱二年、政明は使者を遣わして来朝し、これにより上表して唐礼一部および雑文章を請うた。則天は所司に命じて『吉凶要礼』を書き写させ、また『文館詞林』からその言葉が規誡に及ぶものを採り、五十巻に編纂してこれを賜った。

原文龍朔元年,春秋卒,詔其子太府卿法敏嗣位,爲開府儀同三司、上柱國、樂浪郡王、新羅王。三年,詔以其國爲雞林州都督府,授法敏爲雞林州都督。法敏以開耀元年卒,其子政明嗣位。垂拱二年,政明遣使來朝,因上表請唐禮一部並雜文章,則天令所司寫《吉凶要禮》,並于《文館詞林》采其詞涉規誡者,勒成五十卷以賜之。

二十五年、興光が卒したので、詔して太子太保を追贈した。また左賛善大夫邢璹を遣わし、鴻臚少卿を摂行させ、新羅に赴いて弔祭させ、併せてその子の承慶に父の開府儀同三司・新羅王を襲封させる冊立を行わせた。璹が発進しようとするとき、上は詩序を制作し、太子以下および百官が皆詩を賦してこれを送った。上は璹に言った、「新羅は君子の国と号し、書記をよく知り、中華に類する。卿の学術をもって、よく講論するに足るゆえ、選んで使節に充てる。到着したならば宜しく経典を闡揚し、大国の儒教の盛んなることを知らしめよ」。またその国の人が多く囲碁を善くすると聞き、これにより善棋人である率府兵曹楊季鷹を璹の副使とした。璹らが到着すると、大いに蕃人から敬われた。その国の棋者は皆季鷹の下にあり、ここに厚く璹らに金宝および薬物などを賄賂として贈った。

原文二十五年,興光卒,詔贈太子太保。仍遣左贊善大夫邢璹攝鴻臚少卿,往新羅弔祭,並冊立其子承慶襲父開府儀同三司、新羅王。璹將進發,上制詩序,太子以下及百僚鹹賦詩以送之。上謂璹曰:「新羅號爲君子之國,頗知書記,有類中華。以卿學術,善與講論,故選使充此。到彼宜闡揚經典,使知大國儒教之盛」。又聞其人多善奕棋,因令善棋人率府兵曹楊季鷹爲璹之副。璹等至彼,大爲蕃人所敬。其國棋者皆在季鷹之下,於是厚賂璹等金寶及藥物等。

十四年、敬信が卒し、その子は先に敬信より亡くなっていたので、国人は敬信の嫡孫の俊邕を立てて王とした。

原文十四年,敬信卒,其子先敬信亡,國人立敬信嫡孫俊邕爲王。

十六年、俊邕に開府儀同三司・検校太尉・新羅王を授けた。司封郎中・兼御史中丞韋丹に命じて節を持たせ冊命を行わせた。丹が鄆州に至ったとき、俊邕が卒したと聞き、その子の重興が立ったので、詔して丹を還らせた。永貞元年、詔して兵部郎中元季方を遣わし節を持たせ重興を王に冊立させた。

原文十六年,授俊邕開府儀同三司、檢校太尉、新羅王。令司封郎中、兼御史中丞韋丹持節冊命。丹至鄆州,聞俊邕卒,其子重興立,詔丹還。永貞元年,詔遣兵部郎中元季方持節冊重興爲王。

七年、重興が卒し、その相の金彦升を立てて王とし、使者の金昌南らを遣わして来朝し哀を告げさせた。その年七月、彦升に開府儀同三司・検校太尉・持節大都督鶏林州諸軍事、兼持節充甯海軍使・上柱国・新羅国王を授け、彦升の妻貞氏を妃に冊立し、またその宰相の金崇斌ら三人に戟を賜い、本国にも准例して給うことを命じた。また職方員外郎・摂御史中丞崔廷に命じて節を持たせ弔祭冊立を行わせ、その質子の金士信を副使とした。

原文七年,重興卒,立其相金彥升爲王,遣使金昌南等來告哀。其年七月,授彥升開府儀同三司、檢校太尉、持節大都督雞林州諸軍事,兼持節充甯海軍使、上柱國、新羅國王,彥升妻貞氏冊爲妃,仍賜其宰相金崇斌等三人戟,亦令本國准例給。兼命職方員外郎、攝御史中丞崔廷侍節弔祭冊立,以其質子金士信副之。

十一年十一月、その入朝した王子の金士信らが悪風に遇い、楚州塩城県の界に漂着した。淮南節度使李鄘がこれを上聞した。この年、新羅は飢饉に遭い、その衆一百七十人が浙東に食を求めた。十五年十一月、使者を遣わして朝貢した。

原文十一年十一月,其入朝王子金士信等遇惡風,飄至楚州鹽城縣界,淮南節度使李鄘以聞。是歲,新羅饑,其衆一百七十人求食於浙東。十五年十一月,遣使朝貢。

長慶二年十二月、使者の金柱弼を遣わして朝貢した。宝暦元年、その王子の金昕が来朝した。太和元年四月、皆使者を遣わして朝貢した。五年、金彦升が卒し、嗣子の金景徽を開府儀同三司・検校太尉・使持節大都督鶏林州諸軍事、兼持節充甯海軍使・新羅王とした。景徽の母の朴氏を太妃とし、妻の朴氏を妃とした。太子左諭徳・兼御史中丞源寂に命じて節を持たせ弔祭冊立を行わせた。開成元年、王子の金義琮が謝恩に来朝し、併せて宿衛した。二年四月、藩国に還し、物を賜ってこれを遣わした。五年四月、鴻臚寺が奏上した、新羅国が哀を告げ、質子および年満ちて合帰国する学生ら合わせて一百五人を、皆還す。会昌元年七月、勅した、「帰国新羅官・前入新羅宣慰副使・前充兗州都督府司馬・賜緋魚袋金雲卿は、淄州長史とすべし」。

原文長慶二年十二月,遣使金柱弼朝貢。寶曆元年,其王子金昕來朝。太和元年四月,皆遣使朝貢。五年,金彥升卒,以嗣子金景徽爲開府儀同三司、檢校太尉、使侍節大都督雞林州諸軍事,兼持節充甯海軍使、新羅王;景徽母樸氏爲太妃,妻朴氏爲妃。命太子左諭德、兼御史中丞源寂持節弔祭冊立。開成元年,王子金義琮來謝恩,兼宿衛。二年四月,放還籓,賜物遣之。五年四月,鴻臚寺奏:新羅國告哀,質子及年滿合歸國學生等共一百五人,並放還。會昌元年七月,敕:「歸國新羅官、前入新羅宣慰副使、前充兗州都督府司馬、賜緋魚袋金雲卿,可淄州長史。」

倭国

原文倭國

京師を去ること一万四千里、新羅の東南の大海中にあり、山島に依って居住する。

原文去京師一萬四千里,在新羅東南大海中,依山島而居。

東西は五月行、南北は三月行。代々中国と通ず。

原文東西五月行,南北三月行。世與中國通。

その国は、居住するに城郭なく、木をもって柵とし、草をもって屋となす。

原文其國,居無城郭,以木爲柵,以草爲屋。

四面の小島五十余国は、皆これに附属す。

原文四面小島五十餘國,皆附屬焉。