卷一百九十九上
高麗
その居る所は必ず山谷に依り、皆茅草を以て舎を葺く。唯だ仏寺・神廟及び王宮・官府のみ瓦を用う。その俗、貧窶なる者多く、冬月は皆長坑を作り、下に燃え、煴火を以て暖を取る。田を種え蚕を養うこと、略中国に同じ。その法、謀反叛する者有らば、則ち衆を集めて火炬を持ち競って焼灼し、燋爛備体にして然る後に首を斬り、家は悉く籍没す。城を守りて敵に降り、陣に臨みて敗北し、人を殺し行劫する者は、斬る。物を盗む者は、十二倍を以て贓に酬う。牛馬を殺す者は、身を没して奴婢と為す。大いに法を用いること厳峻にして、犯す者少なく、乃ち路に遺物を拾わざるに至る。その俗、淫祀多く、霊星神・日神・可汗神・箕子神を事う。国城の東に大穴有り、神隧と名づく。皆十月を以て、王自らこれを祭る。
俗に書籍を愛し、衡門廝養の家に至るまで、各々街衢に大屋を造り、扃堂と謂う。子弟未婚の前、昼夜ここに於いて書を読み射を習う。その書に『五経』及び『史記』・『漢書』・范曄『後漢書』・『三国志』・孫盛『晋春秋』・『玉篇』・『字統』・『字林』有り。又『文選』有り、尤もこれを愛重す。
朕恭しく宝命を膺け、率土を君臨し、三霊に祗順し、万国を綏柔す。普天の下、情均しく撫字し、日月の照らす所、咸しく乂安せしむ。王既に遼左を統摂し、世々藩服に居り、正朔を稟け、遠く職貢を循うるを思う。故に使者を遣わし、山川を跋渉せしめ、誠懇を申布す。朕甚だ嘉とす。方今六合寧晏し、四海清平し、玉帛既に通じ、道路壅ぐこと無し。方に輯睦を申し、永く聘好を敦くし、各々疆蕣を保たんこと、豈に盛美に非ずや。但だ隋氏の季年、兵を連ねて難を構え、攻戦の所、各々その民を失う。遂に骨肉を乖離せしめ、室家を分析せしめ、多年歳を歴て、怨曠申さず。今二国通和し、義阻異無し。此に在る所有の高麗人等は、已に追括を令し、尋いで即ち遣送す。彼処に此の国の人有らば、王放還すべし。務めて撫育の方尽くし、共に仁恕の道を弘めん。
ここにおいて建武、悉く華人を捜括し、礼を以て賓送す。前後至る者万数、高祖大いに喜ぶ。
七年、前刑部尚書沈叔安を遣わし往きて建武を冊し、上柱国・遼東郡王・高麗王と為す。仍って天尊像及び道士を将いて彼に往き、之が為に『老子』を講ぜしむ。その王及び道俗等観聴する者数千人。高祖嘗て侍臣に謂いて曰く、「名実の間、理須らく相副うべし。高麗、隋に臣と称し、終に煬帝を拒む。此れ亦何の臣か有らん。朕、万物に敬して、驕貴せんと欲せず。但だ土宇を有するに拠り、務めて人を安んずるを共にす。何ぞ必ずしも其の臣と称せしめて、以て自ら尊大せん。即ち詔を為して朕が此の懐を述べよ。」侍中裴矩・中書侍郎温彦博曰く、「遼東の地、周は箕子の国、漢家は玄菟郡のみ。魏・晋已前、近く提封の内に在り。以て不臣を許すべからず。且つ中国の夷狄に対するは、猶お太陽の列星に対するが如し。理に降尊無く、俯して藩服に同じくすべからず。」高祖乃ち止む。
九年、新羅・百済、使を遣わして建武を訟え、其の道路を閉ざし、朝に入るを得ずと云う。又相与に隙有り、屡相侵掠す。詔して員外散騎侍郎朱子奢を遣わし往きて和解せしむ。建武、表を奉じて罪を謝し、新羅と対使会盟せんことを請う。
十六年、西部大人蓋蘇文、職を摂して犯す有り。諸大臣、建武と議して之を誅せんと欲す。事泄る。蘇文乃ち悉く部兵を召し、将に校閲せんと云い、並びに盛んに酒饌を城南に陳べ、諸大臣皆来り臨視す。蘇文、兵を勒して尽く之を殺す。死者百余人。倉庫を焚き、因って馳せて王宮に入り、建武を殺し、建武の弟大陽の子蔵を立てて王と為す。自ら莫離支と立ち、猶お中国の兵部尚書兼中書令の職なり。是より国政を専らにす。蘇文は姓は銭氏、須貌甚だ偉く、形体魁傑、身に五刀を佩き、左右敢えて仰ぎ視る者無し。恒に其の属官をして地に俯伏せしめ、之を践みて馬に上り、及び馬を下るるも、亦之が如し。出ずるには必ず先ず隊仗を布き、導く者は長呼して以て行人を辟く。百姓畏避し、皆自ら坑谷に投ず。
太宗、建武の死を聞き、之が為に哀を挙げ、節を持する者をして弔祭せしむ。十七年、其の嗣王蔵を封じて遼東郡王・高麗王と為す。又司農丞相里玄奨を遣わし、璽書を齎して往き高麗を説諭し、新羅を攻めざるを令す。蓋蘇文、玄奨に謂いて曰く、「高麗・新羅、怨隙已久し。往者隋室相侵す。新羅、釁に乗じて高麗五百里の地を奪い、城邑新羅皆之を据え有つ。自ら地を反し城を還さざれば、此の兵恐らく未だ已む能わざるべし。」玄奨曰く、「既往の事、焉ぞ追論すべけんや。」蘇文竟に従わず。太宗顧みて侍臣に謂いて曰く、「莫離支、賊として其の主を弑し、尽く大臣を殺し、刑を用いること坑阱に同じ。百姓動転すれば輒ち死し、怨痛心に在り、道路目を以てす。夫れ師を出して吊伐するは、須らく其の名有るべし。其の君を弑し下を虐ぐるに因りて之を敗るは、甚だ易し。」
十九年、刑部尚書張亮を平壤道行軍大總管と命じ、將軍常何等を率いて江・淮・嶺・硤の精兵四万、戦船五百艘を以て、萊州より海を渡り平壤に向かわせた。また特進英國公李勣を遼東道行軍大總管とし、禮部尚書江夏王李道宗を副将とし、將軍張士貴等を率いて歩騎六万を以て遼東に向かわせた。両軍は合流し、太宗自ら六軍を統率してこれに会した。
夏四月、李勣の軍は遼水を渡り、蓋牟城を攻撃してこれを陥落させた。捕虜二万を得て、その城に蓋州を置いた。五月、張亮の副将程名振が沙卑城を攻撃してこれを陥落させ、男女八千口を捕虜とした。この日、李勣は遼東城に進軍した。帝は遼沢に駐留し、詔して言うには、「かつて隋の軍が遼を渡った時は、天の助けがなく、従軍した士卒の骸骨が相望み、原野に満ちているのは、まことに哀れむべきである。骸骨を埋葬する義は、まことに先人の典範である。その骸骨をことごとく収容して埋葬せよ」と。国内及び新城より歩騎四万が遼東を救援に来たので、江夏王李道宗が騎兵四千を率いて迎撃し、これを大いに破り、千余級を斬首した。帝は遼水を渡り、橋梁を撤去するよう詔して、士卒の志を堅固にした。帝は遼東城下に至った。士卒が土嚢を担いで塹壕を埋めるのを見て、帝は特に重いものを分け取り、自ら馬上で持った。従官は恐れ動き、争って土嚢を運んで城下に送った。時に李勣は既に兵を率いて遼東城を攻撃していた。高麗は我が方に拋車(投石機)があり、三百斤の石を一里の外に飛ばすと聞き、非常に恐れた。そこで城上に木材を積んで戦楼を築き、飛石に備えた。李勣は車を並べて石を発射してその城を撃ち、当たる所はことごとく崩壊した。また撞車を推し進めてその楼閣を撞き、倒れないものはなかった。帝は自ら甲騎万余を率いて李勣と会し、その城を包囲した。やがて南風が非常に強くなったので、命じて火を放ってその西南の楼を焼き、火は城中に燃え広がり、屋宇は全て焼き尽くされた。戦士が城に登ると、賊は大いに潰走し、焼死者は万余人、その精兵万余口を捕虜とし、その城を以て遼州とした。初め、帝は定州より、数十里毎に烽火台を置き、遼城まで連ね、太子と約束して、遼東を平定したならば烽火を上げるとした。この日、帝は命じて烽火を上げさせ、塞内に伝えさせた。
軍は白崖城に駐留し、攻撃を命じた。右衛大將軍李思摩が弩の矢に当たり、帝は自らその血をすすった。将士はこれを聞き、感奮しない者はなかった。その城は山に因り水に臨み、四面が険絶していた。李勣が撞車でこれを撞くと、飛石流矢が雨のように城中に集まった。六月、帝はその西北に臨み、城主孫伐音が密かに使者を遣わして降伏を請い、言うには、「臣は既に降伏を願っていますが、中には二心を抱く者もおります」と。詔して旗幟を賜い、言うには、「必ず降伏するなら、これを城上に立てよ」と。伐音が城上に幟を挙げると、高麗兵は唐兵が登城したと思い、ことごとく降伏した。初め、遼東が陥落した時、伐音は降伏を乞うたが、やがて心変わりした。帝はその反覆を怒り、城中の人物を戦士に分け与えることを許していた。この時、李勣が帝に言うには、「戦士が奮い立って争先し、矢石を顧みないのは、捕虜と略奪を貪るからです。今、城は陥落寸前です。どうして再びその降伏を許し、将士の心を裏切るようなことをなさいますか」と。帝は言うには、「将軍の言う通りである。しかし兵を放って殺戮し、その妻子を捕虜とするのは、朕の忍ぶところではない。将軍の麾下で功ある者には、朕が庫物を以て賞する。どうか将軍によってこの一城を贖いたい」と。そこで降伏を受け入れ、士女一万、精兵二千四百を得て、その城に岩州を置き、孫伐音を岩州刺史に任じた。我が軍が遼を渡った時、莫離支が加屍城の七百人を遣わして蓋牟城を守らせていたが、李勣がこれをことごとく捕虜とした。その人々は皆、軍に従って自ら尽力したいと請うた。太宗は彼らに言うには、「誰がお前たちの力を望まないことがあろうか。しかしお前たちの家は皆、加屍にある。お前たちが我がために戦えば、彼らは殺されるであろう!一家の妻子を破って、一人の力を求めるのは、朕の忍ぶところではない」と。ことごとく放還させた。
車駕は安市城の北に進んで駐留し、陣営を並べて進軍し、これを攻撃した。高麗の北部傉薩高延寿・南部耨薩高惠貞が高麗・靺鞨の兵十五万を率いて安市城を救援に来た。賊の中に対盧(高官)がおり、年老いて世事に通じ、延寿に言うには、「私は聞く、中国が大乱し、英雄が並び起きた。秦王(太宗)は神武にして、向かう所敵なく、遂に天下を平定し、南面して帝となり、北夷は服従を請い、西戎は貢物を献じた。今、国を挙げて来たり、猛将鋭卒が悉くここに集結している。その鋒は当たるべからざるものである。今、計を為すには、兵を留めて戦わず、日を費やして持久し、驍雄を分遣してその糧道を断つに如くはない。十日と経たずして、軍糧は必ず尽き、戦いを求めても得られず、帰ろうにも路がなく、これこそ戦わずして勝ちを取る策である」と。延寿は従わず、軍を率いて直ちに進んだ。太宗は夜に諸将を召し、自ら指揮を執った。李勣に歩騎一万五千を率いさせて城西の嶺に陣を布かせ、長孫無忌に牛進達等の精兵一万一千を率いさせて奇兵とし、山北より狭い谷を出てその背後を衝かせた。太宗は自ら歩騎四千を将い、ひそかに鼓角を鳴らし、旌幟を伏せて、賊の陣営の北の高峰の上に向かった。諸軍に鼓角の声を聞いて一斉に進撃するよう命じた。そこで所司に命じて朝堂の側に降伏を受け入れる幕を張らせ、言うには、「明日の午時に、ここで降虜を受け入れよう」と。遂に軍を率いて進んだ。
翌日、延寿は李勣の兵だけを見て、戦おうとした。太宗は遥かに無忌の軍の塵の立ち上がるのを望み、鼓角を一斉に鳴らし、旗幟を一斉に挙げるよう命じた。賊衆は大いに恐れ、兵を分けて防ごうとしたが、その陣は既に乱れていた。李勣が歩卒の長槍一万でこれを撃つと、延寿の衆は敗れた。無忌が兵を放ってその背後を衝き、太宗もまた山から下り、軍を率いてこれに臨むと、賊は大いに潰走し、万余級を斬首した。延寿等はその残党を率いて、山に依って自らを守った。そこで無忌・李勣等に命じて兵を率いてこれを包囲させ、東川の橋梁を撤去して帰路を断った。太宗は轡を押さえてゆっくりと進み、賊の営塁を観察し、侍臣に言うには、「高麗が国を挙げて来たのは、存亡がかかっているからである。一麾(指揮)して敗れたのは、天が我を佑けたのである」と。そこで下馬して再拝して天に感謝した。延寿等は膝行して進み、手を拝して命を請うた。太宗は傉薩以下の酋長三千五百人を選び、武官の官位を授けて内地に移した。靺鞨三千三百を捕らえ、ことごとく坑(穴埋め刑)にし、残りの衆は平壤に放還した。馬三万匹・牛五万頭・明光甲五千領を獲得し、その他の器械もこれに相当した。高麗国は震駭し、後に黄城及び銀城は共に自ら陥ち、数百里に再び人煙は無かった。そこで幸いした山を駐蹕山と名付け、将作監に命じて『破陣図』を作らせ、中書侍郎許敬宗に文を撰ばせて石に刻み、その功績を記念させた。高延寿を鴻臚卿に、高惠真を司農卿に任じた。張亮はまた高麗と建安城下で再戦し、ことごとくこれを破り、そこで長い包囲陣を布いて攻撃した。
八月、軍営を安市城の東に移し、李勣は遂に安市を攻め、高延寿等の降伏した兵衆を擁してその城下に営を構え、以て城中を招かんとした。城中の者は堅く守って動かず、太宗の旌旗を見る毎に、必ず城に乗じて鼓噪して以て拒んだ。帝は甚だ怒った。李勣は言う、「破った日には、男子を尽く誅すことを請う」と。城中これを聞き、人皆死戦した。乃ち江夏王李道宗に命じて土山を築かせ、その城の東南隅を攻めさせた。高麗もまた城壁を高くし、雉堞を増して以て相抗した。李勣はその西面を攻め、石を抛ち撞車を以てその楼櫓雉堞を壊すことを命じた。城中はその崩壊に随い、即ち木を立てて柵とした。道宗は樹条で土を包み、積み上げて以て山とし、その中間に五つの道を設け木を加え、その上に土を被せ、昼夜を分かたず、漸次に城に逼った。道宗は果毅都尉傅伏愛に隊兵を率いさせて山頂に駐屯させ、敵を防がせた。土山は高く聳え、城に迫り、城は崩れた。時に伏愛が私に所部を離れた折、高麗兵百人が崩れた城から戦い出で、遂に土山を占拠し、塹壕を断って以て守り、火を積み盾を巡らして以て自らを固めた。太宗は大いに怒り、伏愛を斬って以て衆に示した。諸将に命じてこれを撃たせたが、三日にして克つことができなかった。
太宗は遼東の倉庫に蓄えが少なく、士卒が寒凍に苦しむのを以て、乃ち詔して軍を返すことを命じた。その城の傍を通る時、城中は皆声を潜め旗を伏せ、城主は城に登り手を拱いて辞を奉った。太宗はその堅守を嘉し、絹百匹を賜い、以て君に事える節義を励ました。
初め、遼東城を攻め陥れた時、その中で王師に抵抗し、没して奴婢とすべき者一万四千人を、先ず幽州に集めさせ、将に将士に分け賞わんとした。太宗はその父母妻子が一朝にして分散するを哀れみ、役所に命じてその価に準じ、布帛を以てこれを贖い、赦して百姓とさせた。その衆の歓呼の声は、三日止まなかった。高延寿は降伏して後、常に嘆息を積み、尋いで憂い死した。高恵真は遂に長安に至った。
二十年、高麗は使を遣わして来朝し謝罪し、併せて二人の美女を献じた。太宗はその使に謂いて言う、「帰って爾が主に謂え、美色は人の重んずる所である。爾の献ずる所は、確かに美麗である。その本国において父母兄弟を離れるを憫れみ、その身を留めてその親を忘れ、その色を愛してその心を傷つけるは、我取らざる所なり」と。併せてこれを還した。
高麗国は旧く五部に分かれ、城百七十六、戸六十九万七千有り。乃ちその地を分けて都督府九、州四十一、県一百を置き、また安東都護府を置いて以てこれを統べさせた。その酋渠で功有る者を抜擢して都督・刺史及び県令を授け、華人と参理して百姓を治めさせた。乃ち左武衛将軍薛仁貴を遣わし兵を総べてこれを鎮めさせた。その後頗る逃散する者あり。
儀鳳年中、高宗は高蔵に開府儀同三司・遼東都督を授け、朝鮮王に封じ、安東に居らせ、本蕃を鎮めて主と為らしめた。高蔵は安東に至り、潜かに靺鞨と相通じ謀叛を図った。事覚り、召還され、邛州に配流され、併せてその人を分徙し、河南・隴右諸州に散らし、その貧弱なる者は安東城の傍に留めた。
時に酷吏来俊臣が嘗て献誠に財貨を求めたが、献誠は拒んで答えず、遂に俊臣に構えられ、その謀反を誣い、縊り殺した。則天武后はその冤を知り、右羽林衛大将軍を贈り、礼を以て改葬させた。
百済
百済国は、もとまた扶余の別種であり、かつて馬韓の故地であった。京師の東六千二百里にあり、大海の北に処り、小海の南にある。東北は新羅に至り、西は海を渡って越州に至り、南は海を渡って倭国に至り、北は海を渡って高麗に至る。その王の居る所に東西の両城がある。設置する内官は内臣佐平といい、宣納の事を掌る。内頭佐平といい、庫蔵の事を掌る。内法佐平といい、礼儀の事を掌る。衛士佐平といい、宿衛兵事を掌る。朝廷佐平といい、刑獄の事を掌る。兵官佐平といい、在外の兵馬の事を掌る。また外に六帯方を置き、十郡を管す。その用法は、叛逆者は死に、その家を籍没す。人を殺す者は、奴婢三人をもって罪を贖う。官人が財を受け及び盗む者は、贓物を三倍追徴し、なお終身禁錮す。凡そ諸の賦税及び風土の産する所は、多く高麗と同じ。その王は大袖の紫袍を服し、青錦の袴、烏羅の冠、金花を以て飾りとし、素皮の帯、烏革の履を着す。官人は尽く緋を衣とし、銀花を以て冠を飾る。庶人は緋紫を衣とすべからず。歳時の伏臘は、中国と同じ。その書籍に『五経』、子、史あり、また表疏は並びに中華の法に依る。
武徳四年、その王扶余璋、使を遣わして来たり果下馬を献ず。七年、また大臣を遣わし表を奉じて朝貢す。高祖その誠款を嘉し、使を遣わし就いて冊して帯方郡王・百済王とす。是より歳ごとに朝貢を遣わし、高祖撫労すること甚だ厚し。高麗がその道路を閉ざし、来たりて中国に通ずることを許さずと訟うるにより、詔して朱子奢を遣わし往いてこれを和せしむ。また新羅と相い世に仇敵たり、数相い侵伐す。
十五年、璋卒す。その子義慈、使を遣わし表を奉じて哀を告ぐ。太宗素服してこれを哭し、光禄大夫を贈り、賻物二百段を賜い、使を遣わし義慈を冊命して柱国とし、帯方郡王・百済王に封ず。
至れり海東の三国、基を開くこと久しより自り、並びに疆界を列ね、地は実に犬牙たり。近代已来、遂に嫌隙を構う。戦争交り起り、略々寧歳無し。遂に三韓の氓をして、命は刀俎に懸かり、戈を尋ねて憤りを肆にし、朝夕相い仍らしむ。朕天に代わりて物を理むるに、載せて深く矜湣す。去歳王及び高麗・新羅等の使並びに来たり入朝す。朕命じてこの讎怨を釈し、更に款穆を敦くせしむ。新羅の使金法敏書を奏して曰く、「高麗・百済は、脣歯相依り、競い兵戈を挙げ、侵逼交り至る。大城重鎮、並びに百済に併せらる。疆宇日蹙し、威力並びに謝ゆ。詔を百済に乞い、侵しし所の城を帰せしめよ。若し詔を奉ぜずんば、即ち自ら兵を興して打ち取りたまえ。但だ故地を得ば、即ち交和を請わん」と。朕その言既に順なれば、許さざるべからず。昔斉桓諸侯に土を列ね、尚お亡国を存す。況んや朕万国の主、豈に危籓を恤わざらんや。王の兼ねる所の新羅の城は、並びに宜しくその本国に還すべし。新羅の獲る所の百済の俘虜も、また遣わして王に還すべし。然る後に患を解き紛を釈し、戈を韜み革を偃げ、百姓息肩の願いを獲、三蕃戦争の労無からしめん。夫れ辺亭に血を流し、疆場に屍を積み、耕織並びに廃れ、士女聊か無きに比ぶれば、豈に同年にして語らんや。王若し進止に従わずんば、朕すでに法敏の請う所に依り、その王と決戦するに任せん。また高麗を約束し、遠く相い救恤するを許さず。高麗若し命を承けずんば、即ち契丹諸蕃をして遼沢を渡り入り抄掠せしめん。王朕が言を深く思い、自ら多福を求め、良策を審らかに図り、後悔を貽すこと無かれ」。
六年、新羅王金春秋また表を称して、百済が高麗・靺鞨と其の北界を侵し、すでに三十余城を没せりとす。顕慶五年、左衛大将軍蘇定方を命じ兵を統べてこれを討たしむ。大いに其の国を破る。義慈及び太子隆・小王孝演・偽将五十八人等を虜らえて京師に送る。上責めてこれを宥す。其の国旧く五部に分かれ、郡三十七を統べ、城二百、戸七十六万。是に至りて乃ち其の地を分ちて熊津・馬韓・東明等五都督府を置き、各州県を統べ、其の酋渠を立てて都督・刺史及び県令とす。右衛郎将王文度を命じて熊津都督とし、兵を総べて以てこれを鎮めしむ。義慈は親に事うるに孝行を以て聞こえ、兄弟に友あり、時人「海東の曾・閔」と号す。京に至るに及び、数日にして卒す。金紫光禄大夫・衛尉卿を贈り、特許して其の旧臣をして赴き哭せしむ。孫皓・陳叔宝の墓側に送り葬らしめ、並びに碑を豎つ。
ここにおいて道琛自ら領軍将軍と称し、福信自ら霜岑将軍と称し、叛亡を招誘し、其の勢い益々張る。使して仁軌に告げて曰く、「大唐と新羅と約誓し、百済は老少を問わず、一切これを殺し、然る後に国を新羅に与うるを聞く。死を受くるに、豈に戦いて亡ぶるに若かんや。故に聚結して自ら固守するのみ」と。仁軌書を作り、具に禍福を陳べ、使を遣わしてこれを諭す。道琛等衆に恃み驕倨し、仁軌の使を外館に置く。伝語して謂いて曰く、「使人官職小なり。我は一国の大将なり、自ら参ずるに合わず」と。書に答えずしてこれを遣わす。尋いで福信道琛を殺し、並びに其の兵衆を併せ、扶余豊は但だ祭を主るのみ。
往者百済の先王は、逆順に迷い、鄰好を敦くせず、親姻を睦まじくせず。高麗に結托し、倭国に交通し、共に残暴を為し、新羅を侵削し、邑を破り城を屠り、略々寧歳無し。天子は一物の失所を憫み、百姓の無辜を憐れみ、頻りに行人を命じ、其の和好を遣わす。険を負い遠きを恃み、天経を侮慢す。皇赫斯く怒り、恭しく吊伐を行い、旌旗の指す所、一戎大いに定まる。固より宮を瀦し宅を汚し、来裔に誡めを作し、源を塞ぎ本を抜き、後昆に訓を垂るべし。然れども叛を懐柔伐つは、前王の令典;亡を興し絶を継ぐは、往哲の通規。事必ず古に師い、曩冊に伝う。故に前百済太子司稼正卿扶余隆を立てて熊津都督と為し、其の祭祀を守り、其の桑梓を保たしむ。新羅に依倚し、長く与国と為り、各々宿憾を除き、好を結び和親す。恭しく詔命を承け、永く籓服と為る。仍って使人右威衛将軍魯城県公劉仁願を遣わし親臨して勧諭せしめ、具に成旨を宣べ、之に婚姻を約し、之に盟誓を申す。牲を刑し血を歃い、共に終始を敦くす;災を分かち患を恤み、恩弟兄の若し。祗しく綸言を奉り、敢えて失墜せず、既に盟の後は、共に歳寒を保つ。若し信を棄てて恒ならず、其の徳を二三にし、兵を興し衆を動かし、辺陲を侵犯せば、明神之を鑒み、百殃是れ降り、子孫昌からず、社稷守る無く、禋祀磨滅し、遺余有ること罔し。故に金書鉄契を作り、之を宗廟に蔵し、子孫万代、或いは敢えて犯すこと無からしむ。神之を聴き之を饗い是れ福す。
劉仁軌の辞なり。歃い訖り、幣帛を壇下の吉地に埋め、其の盟書を新羅の廟に蔵す。仁願・仁軌ら既に還り、隆は新羅を懼れ、尋いで京師に帰る。
其の孫敬は、則天朝に帯方郡王を襲封し、衛尉卿を授かる。其の地は此より新羅及び渤海靺鞨に分たれ、百済の種遂に絶ゆ。
新羅
新羅国は、本弁韓の苗裔なり。其の国は漢時の楽浪の地に在り、東及び南方は俱に大海に限られ、西は百済に接し、北は高麗に隣る。東西千里、南北二千里。城邑村落有り。王の居る所を金城と曰い、周囲七八里。衛兵三千人、獅子隊を設く。文武官凡そ十七等有り。其の王金真平は、隋の文帝の時に上開府・楽浪郡公・新羅王を授かる。武徳四年、使を遣わし朝貢す。高祖親しく労問し、通直散騎侍郎庾文素を遣わし往き使せしめ、璽書及び画屏風・錦彩三百段を賜い、此より朝貢絶えず。其の風俗・刑法・衣服は、高麗・百濟と略々同じく、而して朝服は白を尚ぶ。山神を祭るを好む。其の食器は柳杯を作り、亦銅及び瓦を用う。国人多く金・樸の両姓、異姓は婚せず。元日を重んじ、相慶賀燕饗し、毎に其の日を以て日月神を拝す。又八月十五日を重んじ、楽を設け飲宴し、群臣に賚い、其の庭に射る。婦人の髪は頭に繞り、彩及び珠を以て飾りと為し、髪甚だ長く美し。
高祖は既に海東三国の旧く怨隙を結び、互いに攻伐するを聞き、其の俱に蕃附と為るを以て、務めて和睦に在り、乃ち其の使に怨の由を問う。対えて曰く、「先ず是れ百済往きて高麗を伐ち、新羅に詣で救いを請う、新羅兵を発し大いに百済国を破る、此に因りて怨と為り、毎に相攻伐す。新羅百済王を得て、之を殺す、怨此より始まる。」七年、使を遣わし冊拝して金真平を柱国と為し、楽浪郡王・新羅王に封ず。
貞観五年、使を遣わし女楽二人を献ず、皆鬒髪美色なり。太宗侍臣に謂いて曰く、「朕聞く声色の娛は、徳を好むに如かずと。且つ山川阻遠、土を懐うこと知るべし。近日林邑白鸚鵡を献ず、尚お郷を思うことを解し、訴えて還国を請う。鳥猶お此くの如し、況んや人情においてをや!朕其の遠来を湣み、必ず親戚を思わん、宜しく使者に付し、遣わして家に還るを聴くべし。」
是歳、真平卒し、子無く、其の女善德を立てて王と為し、宗室大臣乙祭国政を総知す。詔して真平に左光禄大夫を贈り、賻物二百段を賜う。九年、使を遣わし節を持ちて善德を冊命し柱国と為し、楽浪郡王・新羅王に封ず。十七年、使を遣わし上言す、「高麗・百濟、累り相攻襲し、数十城を亡失し、両国兵を連ね、意臣が社稷を滅さんとす。謹みて陪臣を遣わし、大國に帰命し、偏師の救助を乞う。」太宗相里玄獎を遣わし璽書を齎し高麗に賜いて曰く、「新羅国家に委命し、朝献を闕かず。爾と百濟は、宜しく即ち兵を戢むべし。若し更に之を攻めば、明年当に出師して爾が国を撃たん!」太宗将に親しく高麗を伐たんとし、詔して新羅に士馬を纂集し、大軍に応接せしむ。新羅大臣を遣わし兵五万人を領し、高麗の南界に入り、水口城を攻め、之を降す。
二十一年、善德卒し、光禄大夫を贈り、余の官封並びに故の如し。因りて其の妹真德を立てて王と為し、柱国を加授し、楽浪郡王に封ず。
二十五年、興光が卒したので、詔して太子太保を追贈した。また左賛善大夫邢璹を遣わし、鴻臚少卿を摂行させ、新羅に赴いて弔祭させ、併せてその子の承慶に父の開府儀同三司・新羅王を襲封させる冊立を行わせた。璹が発進しようとするとき、上は詩序を制作し、太子以下および百官が皆詩を賦してこれを送った。上は璹に言った、「新羅は君子の国と号し、書記をよく知り、中華に類する。卿の学術をもって、よく講論するに足るゆえ、選んで使節に充てる。到着したならば宜しく経典を闡揚し、大国の儒教の盛んなることを知らしめよ」。またその国の人が多く囲碁を善くすると聞き、これにより善棋人である率府兵曹楊季鷹を璹の副使とした。璹らが到着すると、大いに蕃人から敬われた。その国の棋者は皆季鷹の下にあり、ここに厚く璹らに金宝および薬物などを賄賂として贈った。
十四年、敬信が卒し、その子は先に敬信より亡くなっていたので、国人は敬信の嫡孫の俊邕を立てて王とした。
七年、重興が卒し、その相の金彦升を立てて王とし、使者の金昌南らを遣わして来朝し哀を告げさせた。その年七月、彦升に開府儀同三司・検校太尉・持節大都督鶏林州諸軍事、兼持節充甯海軍使・上柱国・新羅国王を授け、彦升の妻貞氏を妃に冊立し、またその宰相の金崇斌ら三人に戟を賜い、本国にも准例して給うことを命じた。また職方員外郎・摂御史中丞崔廷に命じて節を持たせ弔祭冊立を行わせ、その質子の金士信を副使とした。
十一年十一月、その入朝した王子の金士信らが悪風に遇い、楚州塩城県の界に漂着した。淮南節度使李鄘がこれを上聞した。この年、新羅は飢饉に遭い、その衆一百七十人が浙東に食を求めた。十五年十一月、使者を遣わして朝貢した。
倭国
京師を去ること一万四千里、新羅の東南の大海中にあり、山島に依って居住する。
東西は五月行、南北は三月行。代々中国と通ず。
その国は、居住するに城郭なく、木をもって柵とし、草をもって屋となす。
四面の小島五十余国は、皆これに附属す。