旧唐書
列伝第一百四十八 西戎
泥婆羅国
泥婆羅国は、吐蕃の西にある。その風俗は髪と眉を切り揃え、耳に穴を穿ち、竹筒や牛角を挿して肩まで垂らすのを美しいとする。食事は手を用い、匙や箸はない。器物はすべて銅製である。商人が多く、農耕は少ない。銅で銭を作り、表面には人の文様、裏面には馬や牛の文様があり、穴は穿たない。衣服は一幅の布で身を覆い、日に数度沐浴する。板で家屋を造り、壁にはすべて彫刻や絵画を施す。風俗として博戯を重んじ、ほら貝を吹き鼓を打つのを好む。盈虚を推測することにやや通じ、また暦術にも通じている。五天神を祀り、石を刻んで像とし、毎日清水で神を沐浴させ、羊を煮て祭る。その王那陵提婆は、真珠・玻璃・車渠・珊瑚・琥珀・瓔珞を身につけ、耳には金の鉤と玉の榼を垂らし、宝飾の伏突を佩き、獅子の床に座り、その堂内には花を散らし香を焚く。大臣および諸々の側近たちは皆地面に座り、数百の兵士が武器を持ってその側に列して侍る。宮中には七層の楼があり、銅瓦で覆い、欄干・檻・柱・梁にはすべて珠玉宝飾を施している。楼の四隅にはそれぞれ銅の槽を懸け、下には金の龍があり、水を汲み上げて楼に送り、槽に注ぎ、龍の口から流れ出る様は、飛泉のようである。那陵提婆の父は、その叔父に位を奪われ、那陵提婆は外に逃れて難を避け、吐蕃がこれを受け入れて、その位を回復させたので、ついに吐蕃に属することとなった。
貞観年間、衛尉丞李義表が天竺に使いとして赴く途中、その国を通りかかると、那陵提婆はこれに会い、大いに喜び、義表とともに出て阿耆婆沴池を見物した。周囲二十余歩、水は常に沸き立ち、たとえ流れや洪水が激しく集まっても、石を熔かし金を焦がすほどで、増減することはなかった。物を投げ込むと、たちまち煙と炎が生じ、釜を懸けて炊くと、すぐに熟した。その後、王玄策が天竺に掠われたとき、泥婆羅は騎兵を発し、吐蕃と共に天竺を破り功を立てた。永徽二年、その王屍利那連陀羅はまた使者を遣わして朝貢した。
党項羌
党項羌は、古の析支の地にあり、漢代の西羌の別種である。魏・晋の後、西羌は微弱となり、ある者は中国に臣従し、ある者は山野に逃れた。周が宕昌・鄧至を滅ぼして後、党項はようやく強盛となった。その境界は東は松州に至り、西は葉護に接し、南は舂桑・迷桑などの羌と雑居し、北は吐谷渾に連なり、山谷の間に処り、互いに三千里である。その種族はそれぞれの姓ごとに別々に部落をなし、一姓のうちでもさらに小部落に分かれ、大きいものは万余騎、小さいものは数千騎で、統一されていない。細封氏・費聴氏・往利氏・頗超氏・野辞氏・房当氏・米擒氏・拓拔氏があり、拓拔氏が最も強族である。風俗は皆土着し、住居には棟や宇があり、その屋根は牦牛の尾や羊毛を織って覆い、毎年取り替える。風俗は武を尚び、法令や賦役はない。その人々は長寿で、年一百五六十歳に至る。産業に従事せず、盗みを好み、互いに凌ぎ奪い合う。特に復讐を重んじ、もし仇人が得られなければ、必ず蓬頭垢面で跣足となり粗食をとり、仇人を斬り取って後にはじめて平常に戻る。男女ともに裘褐を衣とし、なお大氈を被る。牦牛・馬・驢・羊を飼い、その食を供する。農耕を知らず、土地に五穀はない。気候は風寒が多く、五月に草がようやく生え、八月には霜雪が降る。他界に大麦を求め、醸して酒とする。庶母や伯叔母・嫂・子弟の妻を妻とし、淫穢で蒸し褻なることは、諸夷の中で最も甚だしいが、しかし同姓とは婚姻しない。老いて死ぬのは天寿を全うしたとし、親戚は哭かない。若くして死ぬのは夭折したと言い、悲しんで哭く。死ねば屍を焼き、これを火葬と名付ける。文字はなく、ただ草木の候を待って歳時を記す。三年に一度集まり、牛羊を殺して天を祭る。周から隋に至るまで、あるいは叛きあるいは朝し、常に辺境の患いとなった。
貞観三年、南会州都督鄭元璹が使者を遣わして招諭すると、その酋長細封歩頼が部を挙げて内附し、太宗は璽書を降して慰撫した。歩頼はこれにより来朝し、宴と賜物は甚だ厚く、その地を軌州として列し、歩頼を刺史に拝した。なお歩頼は自らその部を率いて吐谷渾を討つことを請うた。その後、諸姓の酋長が相次いで部落を率いて皆来て内属した。編戸と同じにされることを請うと、太宗は厚く撫慰を加え、その地を崌・奉・巌・遠の四州として列し、それぞれその首領を刺史に拝した。
羌の酋長に拓拔赤辞という者がいた。初め吐谷渾に臣属し、渾主の伏允に甚だ親昵され、婚姻を結んだ。貞観初年に至り、諸羌が帰附したが、赤辞は至らなかった。李靖が吐谷渾を撃つとき、赤辞は狼道坡に屯して官軍に抗した。廓州刺史の久且洛生が使者を遣わして禍福を諭すと、赤辞は言った、「私は渾主の親戚の恩を受け、腹心として寄せられ、生死をかえりみず、他のことを知る由もない。汝は速やかに去れ、我が刀を汚すな。」洛生はその悟らざるを知り、そこで軽騎を率いてこれを襲い、粛遠山において赤辞を撃破し、数百級を斬首し、雑畜六千を虜にして還った。太宗はまた岷州都督李道彦に命じて説諭させると、赤辞の従子の思頭が密かに誠意を送り、その党の拓拔細豆もまたその部を率いて来降した。赤辞はその宗党が離反するのを見て、初めて帰化の意を抱いた。後に岷州都督劉師立がまた人を遣わして招誘すると、ここにおいて思頭とともに衆を率いて内属し、赤辞を西戎州都督に拝し、李氏の姓を賜った。ここより職貢は絶えなかった。その後、吐蕃が強盛となり、拓拔氏は次第にその逼迫を受けるようになり、ついに内徙を請うて、初めてその部落を慶州に移し、静辺等の州を置いてこれらを処した。その故地は吐蕃に陥ち、その地に留まる者はその役属となり、吐蕃はこれを「弭薬」と呼んだ。
また黒党項があり、赤水の西にある。李靖が吐谷渾を撃ったとき、渾主の伏允は黒党項に奔り、空閑の地に居を定めた。吐谷渾が国を挙げて内属すると、黒党項の酋長で敦善王と号する者が方物を貢いだ。また雪山党項があり、姓は破醜氏で、雪山の下に居住し、白狗・舂桑・白蘭などの諸羌とともに、龍朔以後、ことごとく吐蕃に破られて臣属した。
その西北辺に在る者は、天授三年に内附し、凡そ二十万口、その地を分けて朝・呉・浮・帰等十州を置き、なお霊・夏などの界内に散居させた。至徳以後、常に吐蕃に誘われ、密かに官告を授けられ、偵道とさせられたので、時に侵叛することがあったが、まもなくまた平定した。宝応初年、その首領が来朝し、国を助けて霊州の軍糧を供することを請うたので、優詔を下して褒め称えた。
その涇・隴州の界に在る者は、上元元年にその衆十余万を率いて、鳳翔節度使崔光遠のもとに詣でて降伏を請うた。宝応元年十二月、その帰順州部落・乾封州部落・帰義州部落・順化州部落・和寧州部落・和義州部落・保善州部落・寧定州部落・羅雲州部落・朝鳳州部落は、ともに山南西道都防禦使・梁州刺史臧希讓のもとに詣でて州印を請うた。希讓はこれを上聞し、許された。
貞元三年十二月、初めて商賈が牛・馬・器械を党項部落にて貿易することを禁ず。十五年二月、六州党項は石州より河西に奔り過ぐ。党項には六府部落あり、野利越詩・野利龍兒・野利厥律・兒黃・野海・野窣等と曰う。慶州に居る者は東山部落と号し、夏州に居る者は平夏部落と号す。永泰・大暦以後、石州に居り、水草に依る。ここに至りて永安城鎮将阿史那思昧その部落を擾し、駝馬を求めて取ること厭うことなく、中使またその事を賛成す。党項その弊に堪えず、遂に部落を率いて河を奔り過ぐ。元和九年五月、復た宥州を置きて党項を護る。
十五年十一月、太子中允李寮を命じて宣撫党項使と為す。部落繁富なるを以て、時に遠近の商賈、繒貨を賫して入り羊馬を貿う。太和・開成の際に至り、その藩鎮統領緒なく、その貪婪を恣にし、危亡を顧みず、或いは強いてその羊馬を市し、その直を酬いず。ここを以て部落これを苦しみ、遂い相率いて盗を為し、霊・塩の路小に梗む。会昌初、上頻りに使を命じてこれを安撫し、兼ねて憲臣を命じて使と為し、三印を分かちてこれを統ぶ。邠・寧・延にある者は、侍御史・内供奉崔君会を以てこれを主とし、塩・夏・長・沢にある者は、侍御史・内供奉李鄠を以てこれを主とし、霊・武・麟・勝にある者は、侍御史・内供奉鄭賀を以てこれを主とす。仍って各々緋魚を賜いてその事を重んず。久しくして状なく、尋いで皆これを罷む。
高昌
高昌は、漢の車師前王の庭、後漢の戊己校尉の故地なり。京師の西四千三百里に在り。その国に二十一城あり、王都は高昌なり。その交河城は、前王の庭なり。田地城は、校尉の城なり。勝兵且つ万人。その土良く沃にして、穀麦歳に再熟す。蒲萄酒あり、五果に宜し。草有り名けて白疊と曰い、国人その花を采り、織りて布と為す。文字有り、書計を知り、置く所の官も亦た中国の号を采る。その王麹伯雅は、即ち後魏の時の高昌王嘉の六世の孫なり。隋の煬帝の時に入朝し、左光禄大夫・車師太守に拝し、弁国公に封ぜられ、仍って戚属宇文氏の女を以て華容公主と為し、これを妻とす。
武徳二年、伯雅死す。子の文泰嗣ぎ、使いを遣わして哀を告ぐ。高祖前河州刺史朱恵表を遣わして往きてこれを弔わしむ。七年、文泰また狗雄雌各一を献ず。高さ六寸、長さ尺余、性甚だ慧にして、よく馬を曳き燭を銜む。本は拂菻国に出づと云う。中国に拂菻狗有るは、ここより始まる。太宗位を嗣ぎ、復た玄狐裘を貢ぐ。因ってその妻宇文氏に花鈿一具を賜う。宇文氏復た玉盤を貢ぐ。西域諸国の所有の動静、輒ち以て奏聞す。貞観四年冬、文泰来朝す。及び将に蕃に帰らんとす、賜遺甚だ厚し。その妻宇文氏宗親に預からんことを請う。詔して李氏を賜い、常楽公主に封じ、詔を下してこれを慰諭す。
時に西戎諸国朝貢に来る者、皆ち塗りて高昌を経る。文泰後稍々これを壅絶す。伊吾先ず西突厥に臣す、ここに至りて内属す。文泰また葉護と連結し、将に伊吾を撃たんとす。太宗その反覆を以て、書を下して切に譲り、その大臣冠軍阿史那矩を征して入朝せしめ、将に事を議せんとす。文泰竟に遣わさず、乃ちその長史麹雍を遣わして来たりて罪を謝す。
初め、大業の乱、中国人多く突厥に投ず。及び頡利敗るるや、或いは高昌に奔るる者有り。文泰皆ち拘留して遣わさず。太宗詔して括め送らしむるを令す。文泰尚おこれを隠蔽す。又た尋いで西突厥の乙毗設と与に焉耆の三城を撃ち破り、その男女を虜いて去る。焉耆王表を上りてこれを訴う。太宗虞部郎中李道裕を遣わして往きてその状を問わしむ。十三年、太宗その使に謂いて曰く、「高昌数年来朝貢脱略し、藩臣の礼無し。国中官号を署置するに、我が百僚に準ず。人に臣と称して、豈にこの如くならんや。今茲歳首、万国来朝す。而るに文泰至らず。城を増し塹を深くし、討伐を預備す。日者我が人をして彼に至らしむ。文泰云く、『鷹は天に飛び、雉は蒿に竄り、猫は堂に遊び、鼠は穴に安んず。各々その所を得れば、豈に活かざらんや』と。又た西域の使来たらんと欲する者、文泰悉くこれを拘留す。又た使いを遣わして薛延陀に謂いて云く、『既に自ら可汗と為る以上は、漢の天子と敵なり。何ぞその使を拝謁せん須らんや』と。人に事うるに礼を闕き、隣好を離間す。悪にして誅せざれば、善なる者何をか勧めん。明年、当に兵馬を発して爾を撃たん」と。是の時薛延陀可汗表を上りて軍の向導と為り、以て高昌を撃たんことを請う。太宗これを許す。民部尚書唐儉をして延陀に至らしめ、与に進取を謀らしむ。太宗その悔過を冀い、復た璽書を下し、禍福を示し、これを征して入朝せしむ。文泰疾有りと称して至らず。太宗乃ち吏部尚書侯君集を命じて交河道大総管と為し、左屯衛大将軍薛万均及び突厥・契・苾の衆を率い、歩騎数万の衆を以てこれを撃たしむ。時に公卿近臣、皆ち行くに沙磧を経、万里に兵を用うるは、恐らく志を得難からんとし、又た界絶域に居り、縦えこれを得るとも、以て守るべからずと。競いて以て諫む。太宗皆ち聴かず。文泰親しむ所の者に謂いて曰く、「吾往者朝覲し、秦・隴の北を見るに、城邑蕭條にして、復た隋の比に非ず。設い今我を伐たんとすとも、兵を発すること多ければ則ち糧運給せず。若し三万以下を発せば、吾能くこれを制す。加以うるに磧路艱険、自然疲頓す。吾は逸を以て労を待ち、坐してその弊を収む。何ぞ憂うるに足らんや」と。及び王師の磧口に臨むを聞き、惶駭して計る所無く、病を発して死す。
その子智盛嗣ぎて立つ。既にして君集の兵奄に柳谷に至り、進みて田地城に趨る。将軍契苾何力を前軍と為し、これと接戦して退く。大軍これに継ぎ、その城を攻め抜き、男女七千余口を虜う。進みてその都を逼る。智盛君集に書を移して曰く、「天子に罪有る者は先王なり。咎深く譴積り、身已に喪亡す。智盛位を襲ぐこと幾ばくも無し。君其れ諸を赦せよや」と。君集これに謂いて曰く、「若し禍を悔い改めんとすれば、当に面を縛して軍門に至るべし」と。又た諸軍を命じて沖車・拋車を引きて以てこれを逼り、飛石雨の如く下る。城中大いに懼る。智盛窮蹙し、城を出でて降る。君集兵を分かち地を掠め、その三郡・五県・二十二城を下す。戸八千、口三万七千七百、馬四千三百匹。その界東西八百里、南北五百里。先ず是れ、その国に童謡有りて云く、「高昌の兵馬は霜雪の如く、漢家の兵馬は日月の如し。日月霜雪を照らせば、回手自ら消滅す」と。文泰人をしてその初めに唱うる者を捕えしむるも、能わず得ず。
初め、文泰西突厥の欲谷設と通和し、その金帛を遺し、約して急有らば相い表裏と為らんとす。及び君集の兵至るを聞き、欲谷設懼れて西走し、敢えて救わず。君集尋いで使いを遣わして捷を告ぐ。太宗大いに悦び、白僚に宴し、班賜各々差有り。曲めて高昌部内の軍兵に従うる士已上、父子死罪を犯す已下、期親流を犯す已下、大功徒を犯す已下、小功緦麻杖罪を犯す者を赦し、悉くこれを原ゆ。
時に太宗は高昌を州県とせんと欲し、特進魏征諫めて曰く、「陛下初めて天下に臨み給ふに、高昌の夫婦先づ来朝謁す。その後数箇月、商胡その貢献を遏絶せられ、加之大国に礼せず、遂に五誅を載加せしむ。若し罪を文泰に止むれば、これも亦た可なり、その人を撫でてその子を立てるに若かず、所謂罪を伐ちて民を吊ひ、威徳遐外に被り、国の善き者と為すなり。今若しその土壤を利して、以て州県と為さば、常に千余人を須ひて鎮守せしめ、数年一易し、毎に交蕃に及べば、死者十に三四有り、衣資を遣辦し、親戚を離別し、十年の後、隴右空虚ならん。陛下終に高昌の撮谷尺布を得て以て中国を助くること能はず、所謂有用を散じて無用に事ふるなり、臣其れ可なるを見ず」と。太宗従はず、竟にその地を以て西州を置き、又安西都護府を置き、兵を留めて以て之を鎮む。初め、西突厥その葉護を遣はし、兵を可汗浮図城に屯し、高昌と相影響す、是に至り懼れて来降し、その地を以て庭州と為す。ここに於て石を勒して功を紀し而して旋る。その智盛君臣及びその豪右は、皆中国に徙す。
麹氏国を有つこと、智盛に至る凡そ九世、一百三十四年にして滅ぶ。尋で智盛を拝して左武衛将軍と為し、金城郡公に封じ、弟智湛を右武衛中郎将、天山県公と為す。及び太宗崩じ、石を刊して智盛の形を像り、昭陵玄闕の下に列す。智湛は、麟徳中に左驍衛大将軍・西州刺史に終る。天授初め、その子崇裕左武衛大将軍を授かり、交阿郡王と為る。卒し、封襲遂に絶ゆ。
吐谷渾
吐谷渾は、その先徒河の清山に居り、晋の乱に属し、始めて隴を度り、甘松の南、洮水の西に止まり、南は白蘭に極まり、地数千里。城郭有りて而も居らず、水草に随ひ逐ひ、廬帳を室と為し、肉酪を糧と為す。その官初め長史・司馬・将軍有り。近代已来、王公・僕射・尚書・郎中あり。その俗頗る文字を識る。男子は通じて長裙繒帽を服し、或は冪苾を戴き、婦人は金花を以て首飾と為し、辮髮を後に縈ぎ、珠貝を以て綴る。その婚姻は富家厚く聘財を出だし、貧人は女を窃みて去る。父卒すれば、その庶母を妻とし、兄亡すれば、その諸嫂を妻とす。喪に服制有り、葬訖りて除く。国に常税無く、用度給はざれば、輒ち富室商人を斂めて、以て足るを取るに止む。人を殺し及び馬を盗む者は罪死し、他の犯すは則ち物を征して以て罪を贖ふ。気候多く寒く、土は大麦・蔓菁に宜しく、頗る菽粟有り。良馬・牦牛・銅・鉄・硃砂の類を出す。青海有り、周回八百里、中に小山有り、冬に至り、牝馬を其上に放てば、龍種を得と云ふ。嘗て波斯馬を得て、海に放入れ、因りて驄駒を生ず、能く日千里を行く、故に代に「青海驄」と称す。地は鄯善・且沫を兼ぬ。西北に流沙数百里有り、夏に熱風有りて、行旅を傷弊す、風の将に至らんとするに、老駝便ち之を知り、則ち項を引いて鳴き、以て口鼻を沙中に埋む。人以て候と為し、即ち氈を以て口鼻を擁蔽してその患を避く。
隋の煬帝の時、その王伏允来たりて塞を犯す、煬帝親しく六軍を総べて以て之を討つ、伏允数十騎を以て潜かに泥嶺に在りて遁る、その仙頭王男女十余万口を率いて来降す。煬帝その質子順を立てて王と為し、本国に送り、余衆を統べしむ、尋で復た追ひ還す。大業の末、伏允悉く故地を収め、復た辺患と為る。高祖禅を受く、順江都より来たりて長安に帰す。時に李軌未だ涼州を拠る、高祖使いを遣はして伏允と通和し、軌を撃たしめて以て自ら効はしむべく、当に順を放ちて国に返さむとす。伏允大いに悦び、兵を興して之を撃ち、庫門に戦ひ、綏を交へて退く。頻りに使いを遣はして朝貢し、順を以て請ふ、高祖乃ち之を遣はす。
太宗即位す、伏允その洛陽公を遣はして来朝す。使い未だ返らざるに、大いに鄯州を掠めて去る。太宗使いを遣はして責めて之を譲り、伏允を征して入朝せしむ、疾と称して至らず。仍てその子尊王の為に婚を求め、ここに於てその親迎を責めて以て之を羈縻せんとす。尊王又た疾と称して肯へて入朝せず、詔有りて婚を停め、中郎将康処直を遣はして以て禍福を諭す。伏允兵を遣はして蘭・廓二州を寇す。
時に鄯州刺史李玄運上言す、「吐谷渾の良馬悉く青海に牧す、軽兵を以て之を掩へば、大利を致す可し」と。ここに於て左驍衛大将軍段誌玄を遣はして辺兵及び契苾・党項の衆を率いて以て之を撃たしむ。青海を去ること三十里、誌玄と左驍衛将軍梁洛仁戦はんと欲せず、軍を頓して遅留し進まず、吐谷渾遂に青海の牧馬を駆りて遁る。亜将李君羨精騎を率いて別路し、賊に及びて青海の南懸水鎮に於て、之を撃破し、牛羊二万余頭を虜ひて還る。時に伏允年老ひて昏耄し、その邪臣天柱王之を惑乱し、我が行人鴻臚丞趙徳楷を拘す。太宗頻りに宣諭を遣はし、使者十余返すも、竟に悛心無し。
貞観九年、詔して特進李靖を西海道行軍大総管と為し、兵部尚書侯君集を積石道行軍総管と為し、任城王道宗を鄯州道行軍総管と為し、仍て靖の副と為し、涼州都督李大亮を且沫道行軍総管と為し、岷州都督李道彦を赤水道行軍総管と為し、利州刺史高甑生を塩沢道行軍総管と為し、並びに突厥・契苾の衆を以て之を撃たしむ。諸将頻りに賊と遇ひ、連戦して之を破り、その高昌王慕容孝雋を獲る。孝雋雄略有り、伏允の心膂の臣なり。靖等進みて赤海に至り、その天柱三部落に遇ひ、撃ちて大いに之を破り、遂に河源に歴る。李大亮又たその名王二十人を俘へ、雑畜数万、且沫の西境に至り、或は伏允西走し、図倫磧を渡り、于闐に入らんと欲すと伝ふ。将軍薛万均軽鋭を率いて奔を追ひ、磧に入ること数百里、及びその余党、之を破る。磧中水乏しく、将士皆馬血を刺して之を飲む。侯君集と江夏王道宗南路に趣き、漢哭山に登り、烏海に馬を飲ましめ、その名王梁屈忽を獲る。経塗二千余里の空虚の地、盛夏霜を降し、多く雪を積み、その地水草乏しく、将士氷を啖ひ、馬皆雪を食ふ。又た柏梁に達し、北に積石山を望み、河源の出づる所を観る。両軍大非川に会し、破邏貞谷に至り、伏允の子大寧王順窮蹙し、その国相天柱王を斬り、国を挙げて来降す。伏允大いに懼れ、千余騎とともに磧中に遁れ、衆稍く亡散し、之に属すること能ふ者纔か百余騎、乃ち自縊して死す。国人乃ち順を立てて可汗と為し、臣と称して内附す。
順は、即ち伏允の嫡子なり。初め侍子として隋に在り、金紫光禄大夫を拝し、久しく帰るを得ず、伏允遂に他の子を立てて太子と為す、及び国に返るを得て、意常に怏怏たり。会ふに李靖等諸軍の向ふ所克捷するに、自ら失位を以て、此に因りて功を立てんと欲し、由是にして遂に降る。乃ち詔して曰く、
吐谷渾は勝手に君長を立て、荒遠の地を窃拠し、その志は凶徳にあり、政は権門より出づ。酋渠は携貳し、種落は怨憤し、悪を長じて悛わず、野心ますます熾なり。藩臣の礼を顧みず、曾て事上の節無く、疆場を草窃し、兆庶を虐割し、積悪既に稔り、天亡の徴有り。朕は四海に君臨し、万類を含育す。一物も所を失えば、責は深く予に在り。爰に六軍を命じ、茲に九伐を申す所以は、義は存国に在り、情は黷武に非ず。その子の大寧王慕容順は、隋氏の甥にして、志は明悟を懐き、長じて中土より出で、幸いに華風を慕い、時に機を見て、深く逆順を識る。その諫を愎くし衆に違い、独り迷途に陥るを以て、遂に邪臣を誅し、茲に大計を存す。翻然として轍を改め、父に代わりて罪に帰す。忠孝の美、深く嘉すべし。子能く功を立て、以て過を補うに足る。既往の釁は、特ば宜しく原免すべし。然れども其の西鄙に建国し、既に年代を歴たり。即ち廃絶に従うは、情に未だ忍びず。其の宗祀を継ぐは、允に命胤に帰すべし。順を西平郡王に封じ、仍って趉胡呂烏甘豆可汗を授くべし。
太宗は順がその国を静め得ざるを恐れ、仍って李大亮に精兵数千を率いさせ、その声援と為す。順は既に久しく隋に質す、国人附かず、未だ幾ばくもせずして臣下の殺す所と為る。その子の燕王諾曷缽嗣立す。
諾曷缽既に幼く、大臣権を争い、国中大乱す。太宗兵を遣わしてこれを援け、河源郡王に封ず。仍って烏地也拔勒豆可汗を授け、淮陽王道明を遣わし節を持ちて冊拝し、鼓纛を賜う。諾曷缽因り入朝して婚を請う。十四年、太宗は弘化公主を以てこれに妻せしめ、資送甚だ厚し。十五年、諾曷缽の部する丞相王権を専らにし、陰謀難を作さんとす。将に兵を徴せんとし、詐りて山神を祭ると言い、因りて公主を襲撃し、諾曷缽を劫いて吐蕃に奔らんと欲す。期すべき日有り。諾曷缽知りて大いに懼れ、軽騎を率いて鄯善城に走る。その威信王兵を以てこれを迎う。鄯州刺史杜鳳挙は威信王と軍を合して丞相王を撃ち、これを破り、その兄弟三人を殺し、使いを遣わして状を言う。太宗は民部尚書唐儉に命じ節を持ちてこれを撫慰せしむ。太宗崩じ、石を刻み諾曷缽の形を図り、昭陵の下に列す。
高宗位を嗣ぎ、その主を尚ぶを以て、駙馬都尉に拝し、物四十段を賜う。その後吐蕃と互いに攻伐し、各使いを遣わし兵を請い救援を求む。高宗皆これを許さず。吐蕃大いに怒り、兵を率いて吐谷渾を撃たんとす。諾曷缽既に禦ぐ能わず、身を脱し及び弘化公主涼州に走り投ず。高宗は右威衛大將軍薛仁貴等を遣わし吐谷渾を救わしむ。吐蕃に敗られる。ここに於いて吐谷渾遂に吐蕃に併さる。諾曷缽は親信数千帳を以て来たり内属す。詔して左武衛大將軍蘇定方を安置大使と為し、始めてその部衆を霊州の地に徙し、安楽州を置き、諾曷缽を刺史と為し、その安くして且つ楽しまんことを欲す。
垂拱四年、諾曷缽卒す。子の忠嗣ぐ。忠卒す。子の宣趙嗣ぐ。聖暦三年、宣趙に左豹韜衛員外大將軍を授け、仍って父の烏地也拔勒豆可汗を襲わしむ。宣趙卒す。子の曦皓嗣ぐ。曦皓卒す。子の兆嗣ぐ。及び吐蕃我が安楽州を陥す。その部衆また東に徙り、朔方・河東の境に散ず。今俗多くこれを退渾と謂う。蓋し語急にして然るなり。貞元十四年十二月、朔方節度副使・左金吾衛大將軍同正慕容復を以て長楽州都督・青海国王・烏地也拔勒豆可汗を襲わしむ。未だ幾ばくもせずして卒す。その封襲遂に絶ゆ。
吐谷渾は晋の永嘉の末より始めて西に洮水を渡り、群羌の故地に建国し、龍朔三年に至り吐蕃に滅ぼさるるまで、凡そ三百五十年。
焉耆国
焉耆国は、京師の西四千三百里に在り、東は高昌に接し、西は亀茲に隣り、即ち漢時の故地なり。その王は龍氏に姓し、名は突騎支。勝兵二千余人、常に西突厥に役属す。その地良沃にして、蒲萄多く、頗る魚塩の利有り。
貞観六年、突騎支使いを遣わし方物を貢ぎ、復た大磧路を開きて行李を便にせんことを請う。太宗これを許す。隋末の罹乱より、磧路遂に閉ざされ、西域朝貢する者皆高昌よりす。是に及び、高昌大いに怒り、遂に焉耆と怨を結び、兵を遣わし焉耆を襲い、大いに掠めて去る。西突厥の莫賀設は咄陸・弩失畢と協せず、焉耆に奔る。咄陸復た来たりてこれを攻む。
六年、使いを遣わし状を言い、並びに名馬を貢ぐ。時に西突厥国乱る。太宗は中郎将桑孝彦に左右胄曹韋弘機を領せしめて往きてこれを安撫せしめ、仍って咥利失可汗を冊立す。可汗既に立ち、素より焉耆に善く、焉耆と与に援たることを令す。十二年、処月・処密は高昌と与に焉耆の五城を攻め陥し、男女一千五百人を掠め、その廬舎を焚きて去る。十四年、侯君集高昌を討つ。使いを遣わしこれと相結ぶ。焉耆王大いに喜び、声援たることを請う。高昌を破るに及び、その王軍門に詣りて謁を称す。焉耆の人先に高昌の虜と為りし者は、悉くこれを帰す。ここに由りて使いを遣わし恩を謝し、並びに方物を貢ぐ。
その年、西突厥の重臣屈利啜その弟の為に焉耆王の女を娶る。ここに由りて相い脣歯と為り、朝貢遂に闕く。安西都護郭孝恪これを撃たんことを請う。太宗これを許す。会に焉耆王の弟頡鼻葉護兄弟三人西州に来至す。孝恪は歩騎三千を選び銀山道より出で、頡鼻の弟栗婆準を以て郷導と為す。焉耆の都城する所は、四面水有り、険固を恃み、我を虞わず。孝恪は道を倍し兼ねて行き、夜城下に至り、潜かに将士を遣わし水を浮かびて渡る。暁に至り、一時に堞を攀じ、鼓角斉しく震い、城中大いに擾る。孝恪は兵を縦ちてこれを撃ち、その王突騎支を虜い、首虜千余級。栗婆準軍を導く功有るを以て、留めて国事を摂せしめて還る。時に駕は洛陽宮に幸す。孝恪は突騎支並びにその妻子を鎖し行在所に送る。詔してこれを宥す。初め、西突厥の屈利啜兵を将いて来たり焉耆を援けんとす。孝恪師を還すこと三日、屈利啜乃ち栗婆準を囚う。而して西突厥の処般啜その吐屯を令して来たり焉耆を摂せしめ、使いを遣わし朝貢す。太宗これを数えて曰く、「焉耆は、我が兵撃ち得たり。汝何人ぞ、輒ち来たり統摂せん。」吐屯懼れて国に返る。焉耆また栗婆準の従父兄薛婆阿那支を立てて王と為す。処般啜乃ち栗婆準を執り亀茲に送る。殺さるる所と為る。薛婆阿那支既に処般啜を援と為すを得、遂に国を有つ。及び阿史那社爾の亀茲を討つに及び、阿那支大いに懼れ、遂に亀茲に奔り、その東城を保ち、以て官軍を禦ぐ。社爾これを撃ち擒にし、その罪を数えて斬る。阿那支の従父弟先那準を求め得て、王と為し、以て職貢を修めしむ。及び太宗昭陵に葬らる。乃ち石を刻み龍突騎支の形を像り、玄闕の下に列す。是より朝貢絶えず。
亀茲国
亀茲国は、即ち漢西域の旧地なり。京師の西七千五百里に在り。その王は白氏に姓す。城郭屋宇有り、耕田畜牧を業と為す。男女皆髪を翦り、項と斉しきに垂る。唯だ王は髪を翦らず。胡書及び婆羅門書・算計の事を学び、尤も佛法を重んず。その王は錦を以て項を蒙り、錦袍金宝帯を著け、金獅子床に坐す。良馬・封牛有り。蒲萄酒に饒け、富室は数百碩に至る。
高祖が即位すると、その主蘇伐勃駃が使者を派遣して来朝した。勃駃はまもなく卒去し、子の蘇伐疊が代わって立ち、号して時健莫賀俟利發といった。貞観四年、また使者を派遣して馬を献上し、太宗は璽書を賜って、慰撫すること甚だ厚く、これより歳貢は絶えなかったが、しかし西突厥に臣従していた。安西都護郭孝恪が焉耆を討伐しに来ると、亀茲は兵を派遣して援助し、これより職貢は頗る欠けるようになった。伐疊が死ぬと、その弟の訶黎布失畢が代わって立ち、次第に藩臣の礼を失った。
二十年、太宗は左驍衛大將軍阿史那社爾を昆山道行軍大總管とし、安西都護郭孝恪・司農卿楊弘禮とともに五将軍を率い、また鉄勒十三部の兵十余万騎を発して、亀茲を討伐させた。社爾は西蕃の処月・処密を破ると、進軍してその北境に向かい、不意を衝いて、西突厥が任命した焉耆王は城を棄てて逃げ、社爾は軽騎を派遣して追捕した。亀茲は大いに震駭し、守将の多くは城を棄てて逃走した。社爾は進軍して積石に駐屯し、その都城から三百里の地点に至った。伊州刺史韓威に千余騎を率いて前鋒とさせ、右驍衛将軍曹継叔がこれに次いだ。西へ多褐城に至り、亀茲王と遭遇し、その相那利・将羯獵顛らとともに、五万の兵衆があり、王師を迎え撃った。韓威は偽って退却してこれを誘い、その王俟利發は韓威の兵が少ないのを見て、全軍を率いて来た。韓威は三十里退却して行き、曹継叔の軍と合流し、合撃してこれを大破した。その王は退いて都城を守り、社爾は進軍してこれを脅かすと、王は軽騎で逃走し、ついにその城を陥落させ、郭孝恪に守備させた。沙州刺史蘇海政・尚輦奉禦薛萬備に精騎を率いて追撃させ、六百里を行き、その王は窮迫し、撥換城に退いて守った。社爾らは進軍してこれを包囲し、その王及び大将羯獵顛らを捕らえた。その相那利はただ一身で免れ、ひそかに西突厥の兵衆とその国の兵一万余人を引き連れて来襲し、郭孝恪を殺害し、官軍は大いに混乱した。倉部郎中崔義起が曹継叔・韓威らとともにこれを撃ち、那利は敗走した。まもなく亀茲人に捕らえられて軍に連行された。前後してその大城五か所を破り、男女数万口を捕虜とした。社爾はそこでその王の弟の葉護を立てて王とし、石に功績を刻んで凱旋した。その王訶黎布失畢及び那利・羯獵顛らを捕虜として社廟に献上した。まもなく訶黎布失畢を左武翊衛中郎将とし、那利以下はそれぞれ官を授けられた。太宗が昭陵に葬られた時、石にその姿を刻んで像とし、玄闕の前に並べた。永徽元年、また訶黎布失畢を右驍衛大將軍とし、まもなく蕃に帰還させ、その余衆を慰撫し、従前通り亀茲王とし、賜物一千段を賜った。
先に、太宗が亀茲を破ると、安西都護府をその国の都城に移し置き、郭孝恪を都護とし、兼ねて于闐・疏勒・碎葉を統轄し、これを「四鎮」といった。高宗が位を嗣ぐと、広く土地を求め民を労することを欲せず、また命じて有司に亀茲等の四鎮を放棄させ、安西を従前通り西州に移した。その後吐蕃が大挙して侵入し、焉耆以西の四鎮の城砦は、ともに賊に陥落させられた。則天が朝政に臨むと、長寿元年、武威軍総管王孝傑・阿史那忠節が吐蕃を大破し、亀茲・于闐等の四鎮を回復し、これより再び亀茲に安西都護府を設置し、漢兵三万人を用いてこれを鎮守させた。すでに内地の精兵を徴発し、遠く砂礫を越えた。また衣糧などを支給して派遣するのは、甚だ百姓を苦しめた。事を言う者の多くはこれを放棄するよう請うたが、則天はついに許さなかった。その安西都護は、則天の時には田揚名がおり、中宗の時には郭元振がおり、開元の初めには張孝暠・杜暹がおり、いずれも政績があり、夷人に服せられた。
疏勒国
疏勒国は、すなわち漢の時の旧地である。西は葱嶺を帯び、京師の西九千三百里にある。その王の姓は裴氏である。貞観年中、突厥が娘を王に娶せた。勝兵二千人。俗に祅神を祀り、胡書の文字がある。貞観九年、使者を派遣して名馬を献上し、これより朝貢は絶えなかった。開元十六年、玄宗は使者を派遣してその王裴安定を冊立して疏勒王とした。
于闐国
于闐国は、西南は葱嶺を帯び、亀茲と接し、京師の西九千七百里にある。勝兵四千人。その国は美玉を産する。俗に機巧多く、祅神を好み祀り、仏教を崇敬する。先に西突厥に臣従していた。その王の姓は尉遅氏、名は屈密。
貞観六年、使者を派遣して玉帯を献上し、太宗は優詔でこれに答えた。十三年、また子を入侍させた。阿史那社爾が亀茲を討伐した時、その王伏闍信は大いに恐れ、その子に駱駝一万三百匹を持たせて軍に贈った。まさに凱旋しようとする時、行軍長史薛萬備が社爾に請うて言った、「今すでに亀茲を破り、国威はすでに振るっています。この機に乗じて、軽騎で于闐の王を捕らえることを願います」。社爾はそこで薛萬備に五十騎を率いて于闐の国に至らせ、薛萬備は国の威霊を述べ、天子に謁見するよう勧めると、伏闍信はこれに従って薛萬備とともに来朝した。
高宗が位を嗣ぐと、右驍衛大將軍に拝し、またその子の葉護玷を右驍衛将軍に授け、ともに金帯・錦袍・布帛六十段を賜い、また邸宅一区を与え、数か月留めてから帰国させ、そこで子弟を留めて宿衛させるよう請うた。太宗が昭陵に葬られた時、石にその姿を刻んで像とし、玄闕の下に並べた。
垂拱三年、その王伏闍雄がまた来朝した。天授三年、伏闍雄が卒去すると、則天はその子の璥を于闐国王に封じた。開元十六年、また尉遅伏師を冊立して于闐王とし、たびたび使者を派遣して朝貢した。乾元三年、于闐王尉遅勝の弟で左監門衛率葉護曜を守らせた者を太僕員外卿とし、なお四鎮節度副使を兼ねさせた。本国の事を権知させた。勝が至徳の初めに兵を率いて国難に赴き、固く請うて宿衛に留まったため、この命があったのであり、事は勝の伝にある。
天竺国
天竺国は、すなわち漢の身毒国、あるいは婆羅門の地という。葱嶺の西北(あるいは南)にあり、周囲三万余里。その中は五天竺に分かれる。第一は中天竺、第二は東天竺、第三は南天竺、第四は西天竺、第五は北天竺である。土地はそれぞれ数千里、城邑は数百。南天竺は大海に臨み、北天竺は雪山に阻まれ、四周に山があって壁と為し、南面に一つの谷があり、国の門と通じる。東天竺は東は大海に臨み、扶南・林邑と隣接する。西天竺は罽賓・波斯と相接する。中天竺は四天竺の交会する地にあり、その都城の周囲は七十余里、北は禅連河に臨む。昔、婆羅門が徒衆千人を率いて樹下で学業に励んでいると、樹神が降りてきて、ついに夫婦となった。宮室は自然に立ち、僮僕は甚だ盛んであった。そこで百神を使役し、城を築いてこれを統治し、一日で完成したという。この後、阿育王があり、また鬼神を使役し、石を積んで宮闕と為し、すべて彫文刻鏤が施されていた。人力の及ぶところではなかった。阿育王は頗る苛政を行い、砲烙の刑を設け、これを地獄と称し、今も城中にその跡が見られるという。
中天竺の王は乞利咥氏を姓とし、あるいは刹利氏とも云う。代々その国を有し、互いに簒奪弑逆することはない。その土地は低湿で暑熱であり、稲は年に四度実る。金剛あり、紫石英に似て、百たび鍛えても銷えず、玉を切ることができる。また旃檀・鬱金などの諸香がある。大秦に通じるので、その宝物は時に扶南・交趾に至って貿易する。百姓は殷楽で、俗に簿籍なく、王の地を耕す者は地利を納める。歯貝を以て貨と為す。人皆深目長鼻なり。敬意を極める者は、足を舐め踵を撫でる。家に奇楽・倡伎あり。その王と大臣は多く錦罽を服す。上は頂に螺髻を為し、余りの髪はこれを翦りて拳らしむ。俗は皆徒跣なり。衣は白色を重んじ、ただ梵志種姓のみ白疊を披いて以て異と為す。死者は或いは屍を焚いて灰を取り、以て浮図と為し、或いはこれを野中に委ね、以て禽獣に施し、或いはこれを河に流し、以て魚鼈に飼う。喪紀の文なし。謀反する者は幽閉して殺し、小犯は銭を罰して以て罪を贖う。不孝ならば手を断ち足を刖ぎ、耳を截り鼻を割き、辺外に放逐す。文字あり、天文算暦の術に善し。その人皆『悉曇章』を学び、云う是れ梵天の法なりと。貝多樹の葉に書して以て事を紀す。生を殺し酒を飲まず。国中往々にして旧仏跡あり。
隋の煬帝の時、裴矩を遣わして西蕃を応接せしむると、諸国多く至る者あり、ただ天竺通ぜず、帝これを恨みとす。武徳中に当たり、その国大いに乱る。その嗣王尸羅逸多、兵を練り衆を聚め、向かう所敵なし。象は鞍を解かず、人は甲を釈さず、六載を居て四天竺の君皆北面して以てこれに臣し、威勢遠く振い、刑政甚だ粛なり。貞観十五年、尸羅逸多自ら摩伽陀王と称し、使いを遣わして朝貢す。太宗璽書を降して慰問す、尸羅逸多大いに驚き、諸国の人に問いて曰く「古より曾て摩訶震旦の使人吾が国に至ること有りや」と。皆曰く「未だこれ有らざるなり」と。乃ち膜拜して詔書を受け、因りて使いを遣わして朝貢す。太宗その地遠きを以て、これを礼すること厚く、復た衛尉丞李義表を遣わして使いに報ず。尸羅逸多大臣を遣わして郊迎せしめ、城邑を傾けて以て縱観せしめ、香を焚きて道を夾し、逸多その臣下を率いて東面し敕書を拝受し、復た使いを遣わして火珠及び鬱金香・菩提樹を献ず。
貞観十年、沙門玄奘その国に至り、梵本の経論六百余部を将て帰る。先に右率府長史王玄策を遣わして天竺に使わす、その四天竺国王咸使いを遣わして朝貢す。会に中天竺王尸羅逸多死し、国中大いに乱る、その臣那伏帝阿羅那順簒立し、乃ち尽く胡兵を発して以て玄策を拒ぐ。玄策従騎三十人と胡と禦戦す、敵せず、矢尽き、悉く擒えらる。胡並びに諸国の貢献の物を掠む。玄策乃ち身を挺して宵遁し、走りて吐蕃に至り、精鋭一千二百人を発し、並びに泥婆羅国の七千余騎を以て、玄策に従わしむ。玄策副使蔣師仁と二国の兵を率いて進み中天竺国の城に至り、三日連戦し、大いにこれを破り、首三千余級を斬り、水に赴き溺死する者且つ万人、阿羅那順城を棄てて遁ぐ、師仁進みてこれを擒獲す。男女万二千人を虜にし、牛馬三万余頭匹。ここに於て天竺震懼し、阿羅那順を俘えて以て帰る。二十二年京師に至る、太宗大いに悦び、有司に命じて宗廟に告げ、而して群臣に謂いて曰く「夫人の耳目は声色に玩び、口鼻は臭味に耽る、これ乃ち徳を敗るの源なり。若し婆羅門我が使人を劫掠せざれば、豈に俘虜と為らんや。昔、中山は宝を貪りて以て弊を取り、蜀侯は金牛に以て致して滅び、これに由らざるは莫し」と。玄策を朝散大夫に拝す。是の時その国に就きて方士那羅邇娑婆寐を得たり、自ら言う寿二百歳、長生の術有りと云う。太宗深く礼敬を加え、これを金飈門内に館す。延年の薬を造る。兵部尚書崔敦礼に令してこれを監主せしめ、使いを天下に発し、諸の奇薬異石を採らしむ、称すべからざる数なり。歳月を延べ、薬成るも、服して竟に効なく、後に本国に放還す。太宗の昭陵に葬るや、石に阿羅那順の形を刻み像し、玄闕の下に列す。
五天竺の所属する国数十、風俗物産略同なり。伽沒路国あり、その俗東門を開きて以て日に向かう。王玄策至るに、その王使いを発して奇珍異物及び地図を貢し、因りて老子の像及び『道德経』を請う。那掲陀国、醯羅城あり、中に重閣あり、仏頂骨及び錫杖を蔵す。貞観二十年、使いを遣わして方物を貢す。天授二年、東天竺王摩羅枝摩・西天竺王尸羅逸多・南天竺王遮婁其拔羅婆・北天竺王婁其那那・中天竺王地婆西那、並びに来朝し献ず。景龍四年、南天竺国復た使いを遣わして来朝す。景雲元年、復た使いを遣わして方物を貢す。開元二年、西天竺復た使いを遣わして方物を貢す。八年、南天竺国使いを遣わして五色能言鸚鵡を献ず。その年、南天竺国王尸利那羅僧伽、戦象及び兵馬を以て大食及び吐蕃等を討たんことを請い、仍て有及びその軍に名づくることを求む。玄宗甚だこれを嘉し、軍を名づけて懐徳軍と為す。九月、南天竺王尸利那羅僧伽宝多枝摩、国の為に寺を造り、上表して寺額を乞う、勅して帰化を以て名と為しこれを賜う。十一月、使いを遣わして利那羅伽宝多を冊して南天竺国王と為し、使いを遣わして来朝す。十七年六月、北天竺国(三)蔵沙門僧密多、質汗等の薬を献ず。十九年十月、中天竺国王伊沙伏摩、その大徳僧を遣わして来朝貢す。二十九年三月、中天竺王子李承恩来朝し、遊撃将軍を授け、放還す。天宝中、累ね使いを遣わして来る。
罽賓国
罽賓国は、葱嶺の南に在り、京師を去ること一万二千二百里。常に大月氏に役属す。その地は暑湿、人皆象に乗り、土は秔稻に宜しく、草木は寒を淩いで死せず。その俗は特に仏法を信ず。隋の煬帝の時、西域を引致し、前後至る者三十余国、ただ罽賓至らず。
貞観十一年、使いを遣わして名馬を献ず、太宗その誠款を嘉し、繒彩を以て賜う。十六年、又使いを遣わして褥特鼠を献ず、喙尖くして尾赤く、蛇を食う能く、蛇に螫さるる者有れば、鼠輒ち嗅ぎてこれに尿し、その瘡立ちて愈ゆ。顕慶三年、その国俗を訪うれば、云う「王の始祖馨孽、今に至るまで曷擷支、父子位を伝え、已に十二代」と。その年、その城を改めて修鮮都督府と為す。龍朔初、その王に修鮮等十一州諸軍事兼修鮮都督を授く。
開元七年、使いを遣わして来朝し、天文経一夾・秘要方並びに蕃薬等の物を進む、詔して使いを遣わしてその王を冊して葛羅達支特勒と為す。二十七年、その王烏散特勒灑、年老を以て、上表して子の拂菻罽婆を以て嗣位せんことを請い、これを許し、仍て使いを降して冊命す。天宝四年、又その子勃匐準を冊して襲罽賓及び烏萇国王と為し、仍て左驍衛将軍を授く。乾元元年、又使いを遣わして朝貢す。
勃律国
また勃律国あり、罽賓・吐蕃の間に在り。開元中頻りに使いを遣わして朝献す。八年、その王蘇麟陀逸之を冊立して勃律国王と為し、朝貢絶えず。二十二年、吐蕃の為に破らる。
康国
康国は、すなわち漢代の康居の国である。その王の姓は温、月氏の人である。かつて張掖の祁連山北の昭武城に居住していたが、突厥に撃破され、南に葱嶺に依拠し、ついにその地を有した。分家した庶子たちは皆、昭武を姓氏とし、本を忘れないのである。その人々は皆、目が深く鼻が高く、ひげやあごひげが多い。男子は髪を切るか、あるいは弁髪にする。その王は氈帽を冠り、金や宝石で飾る。婦人は髷を結い、黒い布で覆い、金の花で飾る。人々は多く酒を好み、道で歌舞を楽しむ。子を生めば必ず石蜜を口の中に入れ、明膠を掌の中に置く。成長して口には常に甘い言葉があり、掌には銭を持つことが膠が物を粘着させるようにあることを望むのである。習俗として胡書を用いる。商売に長け、分銖の利を争う。男子は二十歳になると、すぐに遠くの隣国へ行き、中夏にやって来る。利のあるところには、至らないところはない。十二月を歳首とする。婆羅門がいて、星を占い気候を観測し、吉凶を定める。かなり仏法がある。十一月になると、鼓舞して寒さを乞い、水を掛け合い、盛大に遊び楽しむ。
隋の煬帝の時、その王屈術支が西突厥の葉護可汗の娘を娶り、ついに西突厥に臣従した。武徳十年、屈術支は使者を遣わして名馬を献上した。貞観九年、また使者を遣わして獅子を貢献し、太宗はその遠来を嘉し、秘書監虞世南に命じてそのための賦を作らせた。これ以降、朝貢は毎年のように行われた。十一年、また金桃・銀桃を献上し、詔して苑囿に植えさせた。
万歳通天年間、則天武后はその大首領篤婆缽提を康国王に封じ、さらに左驍衛大將軍に拝した。缽提はまもなく卒去し、またその子の泥涅師師を冊立して康国王とした。師師は神龍年間に卒去し、国人はまた突昏を立てて王とした。開元六年、使者を遣わして鎖子甲・水精杯・馬脳瓶・駝鳥卵および越諾の類を貢献した。十九年、その王烏勒が上表し、その子の咄曷を曹国王に、默啜を米国王に封じることを請い、許された。二十七年、烏勒が卒去し、使者を遣わして咄曷を冊立し父の位を継がせた。天宝三年、また欽化王に封じ、その母の可敦を郡夫人に封じた。十一載、十三載、ともに使者を遣わして朝貢した。
波斯国
波斯国は、京師の西一万五千三百里にあり、東は吐火羅・康国と接し、北は突厥の可薩部に隣接し、西北は拂菻に面し、正西および南はともに大海に臨む。戸数は数十万。その王の居所には二つの城があり、また大城が十余りあり、中国の離宮のようである。その王は初めて位を嗣ぐと、密かに子のうち才能が統治を継ぐに堪える者を選び、その名前を書き、封をして蔵めておく。王が死んだ後、大臣と王の諸子が共に封を開けて見て、書き記された名の者を奉じて主とする。その王は金花冠をかぶり、獅子の床に座し、錦の袍を着、瓔珞を加える。習俗として天地日月水火の諸神を祀り、西域の諸胡で火祅を祀る者は、皆波斯に赴いて法を受ける。その神を祀るには、麝香を蘇で練り、ひげや額に塗り点じ、および耳や鼻に塗り、もって敬意を表し、拝礼は必ず股を交差させる。文字は諸胡と同じ。男女ともに裸足である。男子は髪を切り、白い皮の帽子をかぶり、衣は襟を開かず、ともに巾帔があり、多くは蘇方の青白色を用いて作り、両辺を織成錦で縁取る。婦人もまた巾帔と裙衫を着け、弁髪を後ろに垂らし、金銀で飾る。その国は象に乗って戦い、一頭の象ごとに、戦士百人を乗せ、敗れて憐れむ者があれば皆殺しにする。国中で女児を生み、十歳以上で容姿の優れた者がいれば、その王が収容して養育し、功績のある臣下に褒美として与える。習俗として右を尊び左を卑しむ。六月一日を歳首とする。裁判は文書による制約をせず、口頭で庭で決する。その囚人は年限がなく、ただ王の代替わりがあれば釈放する。その叛逆の罪は、火祅の前で鉄を焼きその舌を灼き、瘡が白ければ理が直であり、瘡が黒ければ罪があるとする。その刑罰には、手を断つ、足を刖つ、髪を剃り首枷をはめる、鼻や足を削ぐ、があり、軽罪はひげを切るか、あるいは首に札を掛けて標識とし、一定の月日を経て釈放する。強盗は一度獄に入れば、老いるまで再び出ることはなく、小盗は銀銭で罰する。死亡すれば山に棄て、喪服は一月で除く。気候は暑熱で、土地は広く平らであり、耕作を知り、牧畜が多い。橐駝に似た形の鳥がおり、高く飛べず、草や肉を食べ、また犬を噛み羊を攫うこともでき、土人は非常にこれを患いとする。また白馬・駿犬が多く、あるいは赤く日に七百里走る駁、金犬は今いわゆる波斯犬である。䮫および大驢・師子・白象・一二尺の高さの珊瑚樹、琥珀・車渠・瑪瑙・火珠・玻璃・琉璃・無食子・香附子・訶黎勒・胡椒・蓽撥・石蜜・千年棗・甘露桃を産する。
隋の大業末年、西突厥の葉護可汗が頻りにその国を撃破し、波斯王庫薩和は西突厥に殺され、その子の施利が立った。葉護はそこでその部帥を分けて、その国を監察統治させ、波斯はついに葉護に臣従した。葉護可汗が死ぬと、その命じて監統させていた者が波斯で勝手に振る舞い、再び西突厥に隷属しなくなった。施利は立って一年で卒去し、そこで庫薩和の娘を立てて王としたが、突厥がまたこれを殺した。施利の子の単羯はちょうど拂菻に奔っていたが、そこで国人が迎えてこれを立て、これが尹恆支である。在位二年で卒去した。兄の子の伊嗣候が立った。
二十一年、伊嗣候は使者を遣わして一獣を献上した。名は活褥蛇といい、形は鼠に似て色は青く、身長は八九寸で、穴に入って鼠を取ることができる。伊嗣候は懦弱で、大首領に追放され、ついに吐火羅に奔ったが、到着しないうちに、また大食の兵に殺された。その子の名は卑路斯といい、また吐火羅の葉護に投じ、難を免れた。卑路斯は龍朔元年に上奏して、頻りに大食の侵擾を受けているので、兵を派遣して救援を請うた。詔して隴州南由県令の王名遠を西域充使とし、州県を分置させ、そこでその地の疾陵城を波斯都督府とし、卑路斯を都督に授けた。この後、数回使者を遣わして貢献した。咸亨年間、卑路斯は自ら来朝し、高宗は大いに恩賜を加え、右武衛将軍に拝した。
儀鳳三年、吏部侍郎裴行儉に命じて兵を率い、卑路斯を波斯王として冊立し送り届けさせた。行儉はその道のりが遠いため、安西の碎葉まで行って引き返し、卑路斯は独りで帰還したが、その国に入ることができず、次第に大食に侵され、吐火羅国に客居すること二十余年、数千人の部落を有していたが、後には次第に離散した。景龍二年に至り、また来朝し、左威衛将軍に拝せられたが、まもなく病没し、その国はついに滅びたが、部衆はなお存続した。
開元十年から天宝六載に至るまで、合わせて十回使者を遣わして来朝し、ともに方物を献上した。四月、使者を遣わして瑪瑙床を献上した。九年四月、火毛繡舞筵・長毛繡舞筵・無孔真珠を献上した。乾元元年、波斯は大食とともに広州を寇し、倉庫を掠奪し、家屋を焼き、海を渡って去った。大暦六年、使者を遣わして来朝し、真珠などを献上した。
拂菻国
拂菻国は、一名を大秦といい、西海の上にあり、東南は波斯と境を接し、その土地は万余里に及び、城を四百列ね、邑居は連なり属している。その宮殿の柱や櫳は、多く水晶や瑠璃で造られている。貴臣十二人がいて共に国政を治め、常に一人に袋を持たせて王の車に随行させ、百姓に訴え事がある者は、すなわち書状を袋に投じ入れ、王が宮に還ってこれを開き省み、その曲直を理する。その王には常人がおらず、賢者を選んでこれを立てる。国中に災異や風雨の時ならざることがあると、すなわち廃して更に立てる。その王の冠の形は鳥が翼を挙げたようであり、冠および瓔珞には、皆珠寶を綴じ、錦繍の衣を着け、前は襟を開かず、金の花の床に坐す。一羽の鳥がいて鵝に似て、その毛は緑色で、常に王の傍らにいて枕の上に坐り、毎度食事に毒があれば、その鳥はすなわち鳴く。その都城は石を積んで造り、特に高峻で、凡そ十万余戸あり、南は大海に臨む。城の東面に大門があり、その高さ二十余丈、上から下まで黄金で飾り、光輝燦爛として、数里に連なって輝く。外から王室に至るまで、凡そ大門が三重あり、異寶を列ねて彫飾する。第二の門の楼の中に、大きな金の秤を懸け、金の丸十二枚を衡の端に属し、以て日の十二時を候う。一つの金の人形があり、その大きさは人の如く、側に立ち、毎時になるごとに、その金の丸はすなわち落ち、鏗然と音を発し、唱えて以て日時を記し、毫厘の誤りもない。その殿は瑟瑟を柱とし、黄金を地とし、象牙を門扇とし、香木を棟梁とする。その風俗に瓦はなく、白石を搗いて末とし、これを羅いて屋上に塗り、その堅密光潤なること、還って玉石の如し。盛暑の季節に至っては、人は喧噪と暑さに厭い、すなわち水を引き潜流させ、上に屋宇に遍く行き渡らせ、その機構は巧みで密であり、人はこれを知らない。観る者はただ屋上の泉の鳴るのを聞き、やがて四つの檐に飛溜するのを見、懸波は瀑の如く、気を激して涼風と成す。その巧妙この如し。
風俗は、男子は髪を切り、帔を披ぎて右を袒ぎ、婦人は襟を開かず、錦を頭巾とする。家の資産が億に満てば、上位に封ぜられる。羊の羔が土の中に生じ、その国の人はその萌えんとするのを待ち、すなわち牆を築いてこれを院し、外獣に食われるのを防ぐ。しかしその臍は地と連なり、これを割れば則ち死ぬ。ただ人が甲を着け馬を走らせ、また鼓を撃って以てこれを驚かすと、その羔は驚いて鳴き臍が絶え、便ち水草に就く。俗は皆髪を剃りて繍の衣を着け、輜軿の白蓋の小車に乗り、出入りには鼓を撃ち、旌旗幡幟を建てる。土地には金銀の奇寶多く、夜光の璧、明月の珠、駭雞の犀、大貝、車渠、瑪瑙、孔翠、珊瑚、琥珀があり、凡そ西域の諸珍異は多くこの国より出る。隋の煬帝は常に拂菻に通ぜんとし、竟に致すことができなかった。
貞観十七年、拂菻王波多力が使いを遣わして赤玻璃、緑金精等の物を献じ、太宗は璽書を降して答慰し、綾綺を賜うた。大食が強盛になってより、漸く諸国を陵ぎ、すなわち大将軍摩栧を遣わしてその都城を伐ち、因って和好を約し、毎年これに金帛を輸することを請う、遂に大食に臣属した。乾封二年、使いを遣わして底也伽を献ず。大足元年、また使いを遣わして来朝す。開元七年正月、その主が吐火羅の大首領を遣わして獅子、羚羊を各二頭献ず。数ヶ月も経たず、また大徳僧を遣わして来朝貢す。
大食国
大食国は、本来波斯の西にある。大業年中、波斯の胡人が俱紛摩地那の山で駱駝を牧していたところ、突然獅子が人語でこれに謂うには、「この山の西に三つの穴あり、穴の中に大いに兵器あり、汝これ取るべし。穴の中には並びに黒石に白文あり、これを読めば便ち王位に就く」と。胡人は言に依り、果たして穴の中に石及び槊刃甚だ多くあるを見、上に文があり、その反叛を教える。ここにおいて亡命の徒を糾合し、恆曷水を渡り、商旅を劫奪し、その衆漸く盛んとなり、遂に波斯の西境を割拠し、自ら王と立つ。波斯、拂菻各々兵を遣わしてこれを討つも、皆これに敗れた。
永徽二年、始めて使いを遣わして朝貢す。その王は姓は大食氏、名は噉密莫末膩、自ら云うには国を持つこと已に三十四年、三主を歴たりと。その国の男児は色黒くして鬚多く、鼻大きくして長く、婆羅門に似る。婦人は白皙なり。また文字あり。駱駝馬を産出し、諸国より大なり。兵刃は勁利なり。その俗は戦闘に勇み、天神を事とす。土地は沙石多く、耕種に堪えず、ただ駱駝馬等の肉を食う。俱紛摩地那山は国の西南にあり、大海に隣り、その王は穴中の黒石を移して国中に置く。また嘗て人を遣わし船に乗せ、衣糧を将いて海に入り、八年を経て未だ西岸に及ばず。海中に一方石を見、石の上に樹あり、幹は赤く葉は青く、樹の上に総べて小児を生ず。長さ六七寸、人を見れば皆笑い、その手脚を動かし、頭は樹枝に着く。その使は一枝を摘み取れば、小児は便ち死に、大食の王宮に収む。また女国あり、その西北に在り、相去ること三月の行程。
龍朔の初め、波斯を撃破し、また拂菻を破り、始めて米面の類あり。また兵を将いて南に婆羅門を侵し、諸胡国を併呑し、勝兵四十余万。長安年中、使いを遣わして良馬を献ず。景雲二年、また方物を献ず。開元の初め、使いを遣わして来朝し、馬及び宝鈿帯等の方物を進む。その使の謁見するや、ただ平立して拝せず、憲司これ糾さんと欲す。中書令張説奏して曰く、「大食は殊俗にして、義を慕いて遠く来たり、罪に置くべからず」と。上特にこれを許す。尋いでまた使いを遣わして朝献し、自ら云うには本国においてはただ天神を拝し、王を見るもまた拝するの法なしと。所司屡々これを詰責するに、その使遂いに漢法に依りて拝することを請う。その時西域の康国、石国の類は、皆これに臣属す。その境は東西万里、東は突騎施と相接す。
一に云う、隋の開皇年中、大食族の中に孤列種あり代々酋長と為る。孤列種の中にまた両姓あり。一号を盆泥奚深、一号を盆泥末換という。その奚深の後に摩訶末という者あり、勇健にして智多く、衆これを立てて主と為す。東西征伐し、地を三千里開き、兼ねて夏臘を克ち、一名を釤城という。摩訶末の後十四代、末換に至る。末換その兄伊疾を殺して自ら立ち、また残忍にして、その下これに怨む。呼羅珊の木粗人並波悉林義兵を挙げ、応ずる者に悉く黑衣を着せしむ。旬月の間に衆数万に盈つ。鼓行して西し、生け捕りに末換を得て、これを殺す。遂いに奚深種の阿蒲羅拔を求め得て、これを立てる。末換以前を「白衣大食」と謂い、阿蒲羅拔以後「黑衣大食」と改む。阿蒲羅拔卒し、その弟阿蒲恭拂を立てる。至徳の初め使いを遣わして朝貢し、代宗の時元帥と為り、またその国の兵を用いて以て両都を収む。
宝応、大曆年中頻りに使いを遣わして来る。恭拂卒し、子の迷地立つ。迷地卒し、子の牟棲立つ。牟棲卒し、弟の訶論立つ。貞元年中、吐蕃と勍敵と為る。蕃軍の大半西に大食を防ぐ、故に辺患と為ること鮮なく、その力足らざるなり。十四年、詔して以て黑衣大食の使含嵯、焉雞、沙北の三人並びに中郎将と為し、各々還蕃せしむ。
史臣曰く
史臣曰く、西方の国は山川に綿亘し、張騫が使を奉じて以来、介子が功を立てた後、中国に通ずるもの多し。
賛に曰く、大蒙の人、西方の国、時に盛衰し、世に通塞す。戎心と謂うなかれ、我が徳を懐かざるを。貞観・開元、槁街充塞す。