舊唐書

巻197

巻197

舊唐書

原文舊唐書

卷一百九十七

原文卷一百九十七

列傳第一百四十七 南蠻 西南蠻

原文列傳第一百四十七 南蠻 西南蠻

林邑国

原文林邑國

林邑国は、漢代の日南郡象林の地であり、交州の南千余里にある。その国は延袤数千里に及び、北は皛州と接する。地気は冬も温暖で、冰雪を知らず、常に霧雨が多い。その王の居城は、木を立てて柵とする。王は白氈古貝を着け、斜めに膊に絡め、腰に巻き、その上に真珠金鎖を加えて瓔珞とし、髪を巻いて花を戴く。夫人は朝霞古貝を服して短裙とし、首に金花を戴き、身を金鎖真珠瓔珞で飾る。王の侍衛は、兵五千人あり、弩及び䂎を用いることができ、藤を以て甲とし、竹を以て弓とし、象に乗って戦う。王が出れば象千頭を列ね、馬四百匹を分かち前後とする。その人は拳髪で色黒く、俗は皆徒跣であり、麝香を得て以て身を塗り、一日のうちに、再び塗り再び洗う。拝謁は皆合掌頓顙する。嫁娶の法は、同姓を娶ることを得る。俗に文字あり、特に仏法を信じ、人多く出家す。父母死すれば、子は髪を剔ぎて哭し、棺を以て屍を盛り、柴を積みて柩を燔き、その灰を収め、金瓶に蔵し、これを水中に送る。俗は十二月を以て歳首とし、稲は歳に再熟す。ここより以南は、草木冬に栄え、四時皆生菜を食し、檳榔汁を以て酒とする。結遼鳥あり、人の語を解く。

原文林邑國,漢日南象林之地,在交州南千餘里。其國延袤數千里,北與皛州接。地氣冬溫,不識冰雪,常多霧雨。其王所居城,立木為柵。王著白氈古貝,斜絡膊,繞腰,上加真珠金鎖,以為瓔珞,卷髮而戴花。夫人服朝霞古貝以為短裙,首戴金花,身飾以金鎖真珠瓔珞。王之侍衛,有兵五千人,能用弩及䂎,以藤為甲,以竹為弓,乘象而戰。王出則列象千頭,馬四百匹,分為前後。其人拳髮色黑,俗皆徒跣,得麝香以塗身,一日之中,再塗再洗。拜謁皆合掌頓顙。嫁娶之法,得取同姓。俗有文字,尤信佛法,人多出家。父母死,子則剔髮而哭,以棺盛屍,積柴燔柩,收其灰,藏於金瓶,送之水中。俗以十二月為歲首,稻歲再熟。自此以南,草木冬榮,四時皆食生菜,以檳榔汁為酒。有結遼鳥,能解人語。

林邑より以南は、皆髪を巻き身は黒く、通号して「崑崙」とす。

原文自林邑以南,皆卷髮黑身,通號為「崑崙」。

婆利国

原文婆利國

婆利国は、林邑の東南海上の洲上にある。その地は延袤数千里に及び、交州より南に海を渡り、林邑・扶南・赤土・丹丹数国を経て至る。その人は皆黒色で、耳を穿ち榼を附す。王の姓は剎利耶伽、名は護路那婆、世々その位を有す。王は花を戴くこと皮弁の如く、真珠瓔珞を以て装い、身は金床に坐す。侍女は金花宝縷の飾りあり、或いは白拂・孔雀扇を持つ。行くときは則ち象を駕し、金を鳴らし鼓を撃ち蠡を吹きて楽とす。男子は皆拳髪で、古貝を被り、布の横幅を以て腰を繞る。風気は暑熱で、常に中国の盛夏の如し。穀は一歳に再熟す。古貝草あり、その花を緝めて布を作り、粗きものは名づけて古貝とし、細きものは名づけて白赩とす。貞観四年、その王は使者を遣わし林邑使に随って方物を献ず。

原文婆利國,在林邑東南海中洲上。其地延袤數千里,自交州南渡海,經林邑、扶南、赤土、丹丹數國乃至焉。其人皆黑色,穿耳附榼。王姓剎利耶伽,名護路那婆,世有其位。王戴花形如皮弁,裝以真珠瓔珞,身坐金床。侍女有金花寶縷之飾,或持白拂孔雀扇。行則駕象,鳴金擊鼓吹蠡為樂。男子皆拳髮,被古貝,布橫幅以繞腰。風氣暑熱,恆如中國之盛夏。谷一歲再熟。有古貝草,緝其花以作布,粗者名古貝,細者名白赩。貞觀四年,其王遣使隨林邑使獻方物。

盤盤国

原文盤盤國

盤盤国は、林邑の西南海曲中にあり、北は林邑と小海を隔て、交州より船行四十日にして至る。その国は狼牙修国と隣り、人は皆婆羅門書を学び、甚だしく仏法を敬う。貞観九年、使者を遣わして来朝し、方物を貢ぐ。

原文盤盤國,在林邑西南海曲中,北與林邑隔小海,自交州船行四十日乃至,其國與狼牙修國為鄰,人皆學婆羅門書,甚敬佛法。貞觀九年,遣使來朝,貢方物。

貞臘国

原文貞臘國

貞臘国は、林邑の西北にあり、本来扶南の属国、「昆侖」の類である。京師の南二万七百里にあり、北は愛州に至るに六十日行く。その王の姓は剎利氏。大城三十余所あり、王都は伊奢那城、風俗被服は林邑と同じ。地は瘴癘毒に富む。海中の大魚時に半ば出で、これを望むこと山の如し。毎に五・六月中、毒気流行すれば、即ち牛豕を以てこれを祠り、しなければ則ち五穀登らず。その俗は東に向かって戸を開き、東を以て上とす。戦象五千頭あり、特に好ましきものには飯肉を飼う。隣国と戦えば、則ち象隊を前にし、その背上に木を以て楼を作り、上に四人あり、皆弓箭を持つ。国は仏道及び天神を尚び、天神を大とし、仏道これに次ぐ。

原文貞臘國,在林邑西北,本扶南之屬國,「昆侖」之類。在京師南二萬七百里,北至愛州六十日行。其王姓剎利氏。有大城三十餘所,王都伊奢那城,風俗被服與林邑同。地饒瘴癘毒。海中大魚有時半出,望之如山。每五六月中,毒氣流行,即以牛豕祠之,不者則五谷不登。其俗東向開戶,以東為上。有戰象五千頭,尤好者飼以飯肉。與鄰國戰,則象隊在前,於背上以木作樓,上有四人,皆持弓箭。國尚佛道及天神,天神為大,佛道次之。

水真臘国

原文水真臘國

水真臘国は、その境東西南北およそ員八百里、東は奔陀浪州に至り、西は墮羅缽底国に至り、南は小海に至り、北は即ち陸真臘である。その王の居城は号して婆羅提拔という。国の東界に小城あり、皆これを国と謂う。その国は象多く、元和八年、李摩那等を遣わして来朝す。

原文水真臘國,其境東西南北約員八百里,東至奔陀浪州,西至墮羅缽底國,南至小海,北即陸真臘。其王所居城號婆羅提拔。國之東界有小城,皆謂之國。其國多象,元和八年,遣李摩那等來朝。

陁洹国

原文陁洹國

陁洹国は、林邑の西南大海中にあり、東南は墮和羅と接し、交阯を去ること三月余日行く。墮和羅に賓服す。その王の姓は察失利、字は婆末婆那。土に蚕桑なく、白氈朝霞布を以て衣とす。俗は皆楼居し、これを「干欄」と謂う。貞観十八年、使者を遣わして来朝す。二十一年、また使者を遣わして白鸚鵡及び婆律膏を献じ、なお馬及び銅鐘を請う、詔して並びにこれを給う。

原文陁洹國,在林邑西南大海中,東南與墮和羅接,去交阯三月餘日行。賓服於墮和羅。其王姓察失利,字婆末婆那。土無蠶桑,以白氈朝霞布為衣。俗皆樓居,謂之「干欄」。貞觀十八年,遣使來朝。二十一年,又遣使獻白鸚鵡及婆律膏,仍請馬及銅鐘,詔並給之。

訶陵国

原文訶陵國

訶陵国は、南方の海中の洲上にあり、東は婆利、西は墮婆登、北は真臘と接し、南は大海に臨む。木を立てて城とし、大屋の重閣を作り、棕櫚の皮で覆う。王はその中に坐し、悉く象牙を以て床とする。食するに匙箸を用いず、手を以て掬う。また文字あり、星暦を頗る識る。俗に椰樹の花を以て酒とし、その樹は花を生じ、長さ三尺余、人の膊の如く大にして、これを割りて汁を取り酒を成す。味は甘く、これを飲めば亦酔う。

原文訶陵國,在南方海中洲上居,東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接,南臨大海。豎木為城,作大屋重閣,以棕櫚皮覆之。王坐其中,悉用象牙為床。食不用匙箸,以手而撮。亦有文字,頗識星曆。俗以椰樹花為酒,其樹生花,長三尺餘,大如人膊,割之取汁以成酒,味甘,飲之亦醉。

墮和羅国

原文墮和羅國

墮和羅国は、南は盤盤、北は迦羅舍佛、東は真臘と接し、西は大海に隣る。広州より五月の行程。貞観十二年、その王は使いを遣わして方物を貢す。二十三年、また使いを遣わして象牙・火珠を献じ、好馬を賜わることを請う。詔してこれを許す。

原文墮和羅國,南與盤盤、北與迦羅舍佛、東與真臘接,西鄰大海。去廣州五月日行。貞觀十二年,其王遣使貢方物。二十三年,又遣使獻象牙、火珠,請賜好馬,詔許之。

墮婆登国

原文墮婆登國

墮婆登国は、林邑の南にあり、海行二月、東は訶陵、西は迷黎車と接し、北は大海を界とする。風俗は訶陵と略同。その国は稲を植え、毎月一熟す。また文字あり、これを貝多葉に書す。その死者は、口に金を実し、また金釧を以て四肢に貫き、然る後に婆律膏及び龍脳等の香を加え、柴を積みてこれを燔く。貞観二十一年、その王は使いを遣わして古貝・象牙・白檀を献ず。太宗、璽書を以てこれに報い、並びに雑物を賜う。

原文墮婆登國,在林邑南,海行二月,東與訶陵、西與迷黎車接,北界大海。風俗與訶陵略同。其國種稻,每月一熟。亦有文字,書之於貝多葉。其死者,口實以金,又以金釧貫於四肢,然後加以婆律膏及龍腦等香,積柴以燔之。貞觀二十一年,其王遣使獻古貝、象牙、白檀,太宗璽書報之,並賜以雜物。

東謝蛮

原文東謝蠻

東謝蛮は、その地は黔州の西数百里に在り、南は守宮獠に接し、西は夷子に連なり、北は蛮に至る。土は五穀に宜しく、牛耕を用いず、ただ畬田と為し、毎歳易える。俗に文字無く、木を刻みて契と為す。山洞の間に散居し、樹に依りて層巣を為して居り、流れを汲みて飲む。皆自ら生業を営み、賦税の事無し。貴人に謁見するには、皆鞭を執りて拝す。功労有る者は、牛馬銅鼓を以てこれを賞す。犯罪有る者は、小事は杖罰し、大事はこれを殺し、物を盗めば贓を倍にして還す。婚姻の礼は、牛酒を以て聘と為す。女が夫家に嫁ぐには、皆母自らこれを送る。女の夫は慚じて、逃避し旬日を経て乃ち出づ。宴聚すれば則ち銅鼓を撃ち、大角を吹き、歌舞を以て楽と為す。刀剣を帯ぶるを好み、未だ嘗て捨離せず。丈夫の衣服は、衫襖大口袴有り、綿綢及び布を以てこれを為す。右肩上に斜めに皮帯を束ね、螺殻・虎豹猿狖及び犬羊の皮を以て装い、外飾と為す。坐するは皆蹲踞す。男女は椎髻し、緋を以てこれを束ね、後ろに垂れて下に向かう。その首領謝元深は、既に世々酋長たり、その部落は皆これを尊畏す。謝氏一族は、法として女を育たず、自ら云う、高姓なるを以て下嫁すべからざるが故なりと。

原文東謝蠻,其地在黔州之西數百里,南接守宮獠,西連夷子,北至蠻。土宜五谷,不以牛耕,但為畬田,每歲易。俗無文字,刻木為契。散在山洞間,依樹為層巢而居,汲流以飲。皆自營生業,無賦稅之事。謁見貴人,皆執鞭而拜;有功勞者,以牛馬銅鼓賞之。有犯罪者,小事杖罰之,大事殺之,盜物倍還其贓。婚姻之禮,以牛酒為聘。女婦夫家,皆母自送之。女夫慚,逃避經旬乃出。宴聚則擊銅鼓,吹大角,歌舞以為樂。好帶刀劍,未嘗舍離。丈夫衣服,有衫襖大口褲,以綿綢及布為之。右肩上斜束皮帶,裝以螺殼、虎豹猿狖及犬羊之皮,以為外飾。坐皆蹲踞。男女椎髻,以緋束之,後垂向下。其首領謝元深,既世為酋長,其部落皆尊畏之。謝氏一族,法不育女,自云高姓不可下嫁故也。

西趙蛮

原文西趙蠻

西趙蛮は、東謝の南に在り、その界は東は夷子に至り、西は昆明に至り、南は西洱河に至る。山洞阻深にして、道里を知ること莫し。南北十八日の行程、東西二十三日の行程。その風俗物産は東謝と同し。首領は趙氏。世々酋長たり。戸万余有り。貞観三年、使いを遣わして朝に入る。二十一年、その地を以て明州を置き、首領趙磨を以て刺史と為す。

原文西趙蠻,在東謝之南,其界東至夷子,西至昆明,南至西洱河。山洞阻深,莫知道里。南北十八日行,東西二十三日行。其風俗物產與東謝同。首領趙氏。世為酋長。有戶萬餘。貞觀三年,遣使入朝。二十一年,以其地置明州,以首領趙磨為刺史。

牂牁蛮

原文牂牁蠻

牂牁蛮は、首領も亦た謝氏を姓とす。その地は北は兗州を去ること一百五十里、東は辰州に至ること二千四百里、南は交州に至ること一千五百里、西は昆明に至ること九百里。城壁無く、散じて部落と為して居る。土気は郁熱にして、霖雨多し。稻粟は再熟す。徭役無く、唯だ征戦の時のみ、乃ち相い屯聚す。木を刻みて契と為す。その法は、劫盗する者は贓を二倍にして還す。人を殺す者は牛馬三十頭を出だし、乃ち死を贖い得て、以て死家に納む。風俗物産は、略く東謝と同し。その首領謝龍羽は、大業末にその地を拠り、勝兵数万人。

原文牂牁蠻,首領亦姓謝氏。其地北去兗州一百五十里,東至辰州二千四百里,南至交州一千五百里,西至昆明九百里。無城壁,散為部落而居。土氣郁熱,多霖雨。稻粟再熟。無徭役,唯征戰之時,乃相屯聚。刻木為契。其法:劫盜者二倍還贓;殺人者出牛馬三十頭,乃得贖死,以納死家。風俗物產,略與東謝同。其首領謝龍羽,大業末據其地,勝兵數萬人。

南平獠

原文南平獠

南平獠は、東は智州、南は渝州、西は南州、北は涪州と接す。部落四千余戸。土気は瘴癘多く、山には毒草及び沙虱・蝮蛇有り。人並びに楼居し、梯を登りて上る。「干欄」と号す。男子は左衽にして髪を露わし徒跣す。婦人は横布両幅を、中を穿ちてその首を貫き、「通裙」と名づく。その人は美髪にして、髻鬟を為して後ろに垂る。竹筒を筆の如く、長さ三四寸、斜めにその耳を貫き、貴き者も亦た珠榼有り。土は女多く男少なく、婚を為すの法は、女氏必ず先ず貨を以て男族を求め、貧しき者は嫁ぐに以て無く、多く富人に売りて婢と為す。俗は皆婦人が役を執る。その王は朱氏を姓とし、剣荔王と号し、使いを遣わして内附し、その地を以て渝州に隷せしむ。

原文南平獠者,東與智州、南與渝州、西與南州、北與涪州接。部落四千餘戶。土氣多瘴癘,山有毒草及沙虱、蝮蛇。人並樓居,登梯而上。號為「干欄」。男子左衽露髮徒跣;婦人橫布兩幅,穿中而貫其首,名為「通裙」。其人美髮,為髻鬟垂於後。以竹筒如筆,長三四寸,斜貫其耳,貴者亦有珠榼。土多女少男,為婚之法,女氏必先貨求男族,貧者無以嫁女,多賣與富人為婢。俗皆婦人執役。其王姓硃氏,號為劍荔王,遣使內附,以其地隸於渝州。

東女国

原文東女國

東女国は、西羌の別種なり。西海中に復た女国有るを以て、故に東女と称す。俗に女を以て王と為す。東は茂州・党項に接し、東南は雅州に接し、界は羅女蛮及び白狼夷を隔つ。その境は東西九日の行程、南北二十日の行程。大小八十余城有り。その王の居る所を康延川と名づけ、中に弱水南に流れ、牛皮を以て船と為して渡る。戸四万余衆、勝兵万余人、山谷の間に散ず。女王は「賓就」と号す。女官有り、「高霸は」と曰い、国事を平議す。外の官僚は、並びに男夫これを為す。その王の侍女数百人、五日に一度政を聴く。女王若し死せば、国中多く金銭を斂め、動くこと数万に至り、更に王族に令女二人を求めてこれを立てる。大なる者を王と為し、其次を小王と為す。若し大王死せば、即ち小王嗣立し、或いは姑死して婦継ぐも、篡奪有ること無し。その居る所は、皆重屋を起し、王は九層に至り、国人は六層に至る。その王は青毛綾の裙を服し、下に衫を領け、上に青袍を披き、その袖は地に委す。冬は則ち羔裘、紋錦を以て飾る。小鬟髻を為し、金を以てこれを飾る。耳に榼を垂れ、足に𩌈𩍜を履く。俗は婦人を重んじて丈夫を軽んず。文字は天竺に同じ。十一月を以て正と為す。その俗は毎に十月に至れば、巫者をして楮を賫し山中に詣らしめ、糟麥を空に散じ、大いに鳥を咒呼す。俄にして鳥有り、鶏の如く、飛んで巫者の懐に入る。因りて腹を剖いてこれを視るに、毎に一穀有れば、来歳必ず登り、若し霜雪有れば、必ず多く災異有り。その俗これを信じ、鳥卜と名づく。その居喪は、服飾改めず、父母の為には則ち三年櫛沐せず。貴人死すれば、或いはその皮を剥ぎてこれを蔵し、骨を瓶中に内し、金屑を糅してこれを埋む。国王将に葬らんとすれば、その大臣親属殉死する者数十人。

原文東女國,西羌之別種,以西海中復有女國,故稱東女焉。俗以女為王。東與茂州、党項接,東南與雅州接,界隔羅女蠻及白狼夷。其境東西九日行,南北二十日行。有大小八十餘城。其王所居名康延川,中有弱水南流,用牛皮為船以渡。戶四萬餘眾,勝兵萬餘人,散在山谷間。女王號為「賓就」。有女官,曰「高霸」,平議國事。在外官僚,並男夫為之。其王侍女數百人,五日一聽政。女王若死,國中多斂金錢,動至數萬,更於王族求令女二人而立之。大者為王,其次為小王。若大王死,即小王嗣立,或姑死而婦繼,無有篡奪。其所居,皆起重屋,王至九層,國人至六層。其王服青毛綾裙,下領衫,上披青袍,其袖委地。冬則羔裘,飾以紋錦。為小鬟髻,飾之以金。耳垂榼,足履𩌈𩍜。俗重婦人而輕丈夫。文字同於天竺。以十一月為正。其俗每至十月,令巫者賫楮詣山中,散糟麥於空,大咒呼鳥。俄而有鳥如雞,飛入巫者之懷,因剖腹而視之,每有一谷,來歲必登,若有霜雪,必多災異。其俗信之,名為鳥卜。其居喪,服飾不改,為父母則三年不櫛沐。貴人死者,或剝其皮而藏之,內骨於瓶中,糅以金屑而埋之。國王將葬,其大臣親屬殉死者數十人。

隋の大業年間、蜀しょく王秀が使者を遣わして招いたが、拒絶して受けなかった。武徳年間、女王湯滂氏が初めて使者を遣わして地方の産物を貢ぎ、高祖こうそは手厚く物資を与えて帰国させた。帰途隴右に至った時、突厥が侵入したのに遭い、虜庭で掠奪された。及び頡利が平定されると、その使者が再び来朝した。太宗は命じて帰国させ、璽書を下して慰撫した。垂拱二年、その王斂臂が大臣湯劍左を遣わして来朝し、官号を請うた。則天は斂臂を左玉鈐衛員外将軍に冊拝し、瑞錦で蕃服を製して賜った。

原文隋大業中,蜀王秀遣使招之,拒而不受。武德中,女王湯滂氏始遣使貢方物,高祖厚資而遣之。還至隴右,會突厥入寇,被掠於虜庭。及頡利平,其使復來入朝。太宗送令反國,並降璽書慰撫之。垂拱二年,其王斂臂遣大臣湯劍左來朝,仍請官號。則天冊拜斂臂為左玉鈐衛員外將軍,仍以瑞錦制蕃服以賜之。

その年、西山松州の生羌など二万余戸が相次いで内附した。その粘信部落の主董夢蔥、龍諾部落の主董辟忽は、皆試衛尉卿を授けられた。立悉らは皆翌年の元会に赴き終わり、金帛を賜って各々帰国させられた。まもなく詔して韋臯に近界の羌・蛮及び西山八国使を統押させた。その部落は刺史などの官を代襲したが、また密かに吐蕃と通じたので、「両面羌」と称された。

原文其年,西山松州生羌等二萬餘戶,相繼內附。其粘信部落主董夢蔥,龍諾部落主董辟忽,皆授試衛尉卿。立悉等並赴明年元會訖,錫以金帛,各遣還。尋詔加韋臯統押近界羌、蠻及西山八國使。其部落代襲刺史等官,然亦潛通吐蕃,故謂之「兩面羌」。

南詔蛮

原文南詔蠻

南詔蛮は、本来烏蛮の別種であり、姓は蒙氏である。蛮は王を「詔」と謂う。自ら哀牢の後裔と称し、代々蒙舎州に居住して渠帥となり、漢の永昌故郡の東、姚州の西に在った。その先代の渠帥は六人あり、自ら「六詔」と号し、兵力は互角で、各々君長がおり、統帥はいなかった。蜀の時は諸葛亮に征伐され、皆臣服した。国初に蒙舎龍がおり、迦独龐を生んだ。迦独は細奴邏を生み、高宗の時に来朝した。細奴邏は邏盛を生み、武后の時に来朝した。その妻が妊娠中、邏盛は姚州に滞在し、妻が子を産んだと聞き、「我に子あり、唐の地に死すとも足る」と言った。子の名を盛邏皮と曰う。邏盛は京師に至り、錦袍金帯を賜って帰国した。

原文南詔蠻,本烏蠻之別種也,姓蒙氏。蠻謂王為「詔。」自言哀牢之後,代居蒙舍州為渠帥,在漢永昌故郡東,姚州之西。其先渠帥有六,自號「六詔」,兵力相埒,各有君長,無統帥。蜀時為諸葛亮所征,皆臣服之。國初有蒙舍龍,生迦獨龐。迦獨生細奴邏,高宗時來朝。細奴邏生邏盛,武後時來朝。其妻方娠,邏盛次姚州,聞妻生子,曰:「吾且有子,死於唐地足矣。」子名曰盛邏皮。邏盛至京師,賜錦袍金帶歸國。

開元初年、邏盛が死に、子の盛邏皮が立った。盛邏皮が死に、子の皮邏閣が立った。二十六年、詔して特進を授け、越国公に封じ、名を帰義と賜った。その後洱河蛮を破り、功により策授して雲南王とした。帰義は次第に強盛となり、残る五詔は次第に弱まった。先に、剣南節度使王昱が帰義の賄賂を受け、六詔を合して一詔とするよう上奏した。帰義は既に五詔を併せ、群蛮を服従させ、吐蕃の衆を破り、兵力は日に日に驕大となった。毎回入覲する際、朝廷も礼遇を加えた。

原文開元初,邏盛死,子盛邏皮立。盛邏皮死,子皮邏閣立。二十六年,詔授特進,封越國公,賜名曰歸義。其後破洱河蠻,以功策授雲南王。歸義漸強盛,餘五詔浸弱。先是,劍南節度使王昱受歸義賂,奏六詔合為一詔。歸義既並五詔,服群蠻,破吐蕃之眾,兵日以驕大。每入覲,朝廷亦加禮異。

二十七年、大和城に移り住んだ。天宝四載、帰義は孫の鳳迦異を遣わして来朝させ、鴻臚卿を授けた。帰国に際し、恩賜は甚だ厚く、帰義の意望もまた高かった。時に剣南節度使章仇兼瓊が使者を雲南に遣わしたが、帰義と言葉が合わず、帰義は常にこれを恨んだ。

原文二十七年,徙居大和城。天寶四載,歸義遣孫鳳迦異來朝,授鴻臚卿。歸國,恩賜甚厚,歸義意望亦高。時劍南節度使章仇兼瓊遣使至雲南,與歸義言語不相得,歸義常銜之。

七年、帰義が卒し、詔して子の閣羅鳳を立てて雲南王を襲封させた。間もなく、鮮于仲通が剣南節度使となり、張虔陀が雲南太守となった。仲通は偏狭で急燥で謀略に乏しく、虔陀は偽り欺き、礼をもって遇さなかった。旧例では、南詔は常に妻子を伴って都督ととくに謁見したが、虔陀は皆私した。求めるところがあっても、閣羅鳳は多く応じず、虔陀は人を遣わして罵り辱め、密かにその罪悪を上奏した。閣羅鳳は憤怨し、兵を発して反攻し、虔陀を包囲して殺した。時に天宝九年である。

原文七年,歸義卒,詔立子閣羅鳳襲雲南王。無何,鮮于仲通為劍南節度使,張虔陀為雲南太守。仲通褊急寡謀,虔陀矯詐,待之不以禮。舊事,南詔常與其妻子謁見都督,虔陀皆私之。有所征求,閣羅鳳多不應,虔陀遣人罵辱之,仍密奏其罪惡。閣羅鳳忿怨,因發兵反攻,圍虔陀,殺之,時天寶九年也。

翌年、仲通は兵を率いて戎州・巂州より出撃した。閣羅鳳は使者を遣わして謝罪し、雲南録事参軍姜如芝と共に来て、掠奪したものを返還するよう請い、且つ言うには、「吐蕃の大兵が国境を圧している。もし許されなければ、吐蕃に帰命すべきであり、雲南の地は唐の所有ではなくなるであろう」と。仲通は許さず、その使者を囚え、進軍して大和城に迫ったが、南詔に敗れた。ここにおいて閣羅鳳は北面して吐蕃に臣従した。吐蕃は閣羅鳳をして贊普鐘たらしめ、東帝と号し、金印を与えた。蛮は弟を「鐘」と謂う。時に天宝十一年である。

原文明年,仲通率兵出戎、巂州。閣羅鳳遣使謝罪,仍與雲南錄事參軍姜如芝俱來,請還其所虜掠,且言:「吐蕃大兵壓境,若不許,當歸命吐蕃,雲南之地,非唐所有也。」仲通不許,囚其使,進兵逼大和城,為南詔所敗。自是閣羅鳳北臣吐蕃。吐蕃令閣羅鳳為贊普鐘,號曰東帝,給以金印。蠻謂弟為「鐘」,時天寶十一年也。

十二年、剣南節度使楊国忠が国政を執り、天下の兵を徴発するよう上奏し、留後・侍御史李宓に十余万を将帥させ、糧秣を運ぶ者は別にいた。海を渡り、瘴気で死ぬ者が路上に相継ぎ、天下は初めて騒然とこれを苦しんだ。宓はまた大和城北で敗れ、死者は十のうち八、九に及んだ。時に安禄山が反し、閣羅鳳は隙に乗じて巂州及び会同軍を攻め陥とし、西ではまた尋伝蛮を降した。

原文十二年,劍南節度使楊國忠執國政,仍奏征天下兵,俾留後、侍御史李宓將十餘萬,輦餉者在外。涉海,瘴死者相屬於路,天下始騷然苦之。宓復敗於大和城北,死者十八、九。會安祿山反,閣羅鳳乘釁攻陷巂州及會同軍,西復降尋傳蠻。

七年、また間使を遣わして書を持たせてこれを諭した。道は磨些蛮を通り、その魁主が密かに吐蕃に告げ、使者は雲南に至った。吐蕃は既にこれを知り、牟尋を詰問させた。牟尋は恐れ、吐蕃を欺いて言うには、「唐の使者は本来蛮であり、韋臯がその帰国を求めることを許しただけで、他に謀はない」と。遂に捕えて吐蕃に送った。吐蕃はますます疑い、多く南詔の大臣の子を人質として召し、牟尋はますます怨んだ。

原文七年,又遣間使持書喻之。道出磨些蠻,其魁主潛告吐蕃,使至雲南。吐蕃已知之,令詰牟尋。牟尋懼,因紿吐蕃曰:「唐使,本蠻也,韋臯許其求歸,無他謀。」遂執送吐蕃。吐蕃益疑之,多召南詔大臣之子為質,牟尋愈怨。

九年四月、牟尋は酋長と計を定めて使者を遣わした。趙莫羅眉は両川より、楊大和堅は黔中より、あるいは安南より。使者は凡そ三輩、韋臯に書を致し、各々生金と丹砂を贄として携えた。以前に韋臯が牟尋に与えた書を三分し、各々その一つを持たせて信とした。年の内に、三使は皆京師に至り、且つ言うには、「牟尋は大国に帰順し、永く藩国となることを請う。献ずる生金は、北に向かう意が金の如くであることを喩え、丹砂はその赤心を示すものである」と。上はこれを嘉し、牟尋に詔書を賜い、韋臯に命じて使者を遣わしその情を観察させた。韋臯は遂に巡官崔佐時を命じて牟尋の都する陽苴咩城に至らせた。南は太和城より十余里、東北は成都より二千四百里、東は安南より成都に至るが如く、水陸の行路を通ず。この時、吐蕃の使者数百人が、佐時に先立って南詔にいた。牟尋は諸種落を悉く召して帰化を議したが、或いは未だ全員至らず、公言することを敢えず、密かに佐時に牂牁使と称させ、牂牁の服を着て入るよう命じた。佐時は肯わず、言うには、「我は大唐の使者である。どうして小夷の服を着られようか」と。牟尋は已むなく、夜に佐時を迎え、位を設け灯燭を陳べた。佐時は大いに詔書を宣した。牟尋は吐蕃に知られることを恐れ、左右を顧みて顔色なく、既に唐に帰順した業であるが、久しくして歔欷して涙を流し、皆俯伏して命を受けた。

原文九年四月,牟尋乃與酋長定計遣使:趙莫羅眉由兩川,楊大和堅由黔中,或由安南。使凡三輩,致書與韋臯,各賫生金丹砂為贄。三分前臯所與牟尋書,各持其一為信。歲中,三使皆至京師,且曰:「牟尋請歸大國,永為籓國。所獻生金,以喻向北之意如金也;丹砂,示其赤心耳。」上嘉之,乃賜牟尋詔書,因命韋臯遣使以觀其情。臯遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴咩城,南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行。是時也,吐蕃使數百人,先佐時在南詔。牟尋悉召諸種落與議歸化,或未畢至,未敢公言,密令佐時稱牂牁使,衣以牂牁服而入。佐時不肯,曰:「我大唐使,安得服小夷之服。」牟尋不得已,乃夜迎佐時,設位陳燈燭。佐時乃大宣詔書。牟尋恐吐蕃知,顧左右無色,而業已歸唐,久之,歔欷流涕,皆俯伏受命。

その翌年正月、異牟尋はその子閣勸及び清平官らを崔佐時と共に遣わし、点蒼山の神祠で盟を結んだ。盟書は一つを神室に蔵め、一つを西洱河に沈め、一つを祖廟に置き、一つを天子に進めた。閣勸は即ち尋夢湊である。鄭回は佐時に会い、多く指導したので、佐時はその内情を探り得た。乃ち牟尋に請うて吐蕃の使者数人を斬り、唐に帰順することを示させた。また吐蕃が与えた金印を得た。牟尋はまもなく佐時を帰国させ、金契を刻んで献じた。閣勸は詩を賦してこれを餞った。牟尋は乃ち吐蕃が立てた帝号を去り、佐時に私的に、南詔の旧名を復することを請うた。佐時は盟を結び終わり、二十六日間留まって帰った。

原文其明年正月,異牟尋使其子閣勸及清平官等與佐時,盟於點蒼山神祠。盟書一藏於神室,一沈於西洱河,一置祖廟,一以進天子。閣勸即尋夢湊也。鄭回見佐時,多所指導,故佐時探得其情。乃請牟尋斬吐蕃使數人,以示歸唐。又得其吐蕃所與金印。牟尋尋遣佐時歸,仍刻金契以獻。閣勸賦詩以餞之。牟尋乃去吐蕃所立帝號,私於佐時,請復南詔舊名。佐時與盟訖,留二旬有六日而歸。

初めに、吐蕃は北庭を争うことにより、回鶻と大戦し、死傷甚だ衆多であった。そこで牟尋に徴兵を求め、一万人を必要とした。牟尋は既に我に帰順する計略を定め、徴兵に乗じてこれを襲おうとした。そこで寡弱を示し、吐蕃に告げて言うには、「蛮軍は元より少なく、僅かに三千人を発することができるのみ」と。吐蕃はこれを少なしとし、五千に増やすよう請うたので、ようやく許諾した。牟尋は急ぎ兵五千人を遣わして吐蕃を戍らせ、自ら数万を将いてその後を踵き、昼夜兼行して、その無備に乗じ、神川において吐蕃を大破した。ついに鉄橋を断ち切り、使者を遣わして捷報を告げた。かつ韋臯にその虜獲したもの及び城堡を検閲させ、以て信を取らんことを請うた。時に韋臯が上言するには、「牟尋は鉄橋以来の城塁十六を収め、その王五人を擒にし、その衆十余万を降した」と。祠部郎中兼御史中丞袁滋を持節として南詔を冊立させ、なお牟尋に印を賜い、黄金を用いて鋳造し、銀を以て窠とした。文に曰く「貞元冊南詔印」。これに先立ち、韋臯が奏上して言うには、南詔が先に清平官尹仇寛を遣わして受けた吐蕃の印五方を献じ、そのうち二方は黄金を用いている。今賜うには黄金を以てせんことを請い、蛮夷の重んずる所に従い、伝示して窮まりなからしめんと。韋臯の請いに従ったのである。

原文初,吐蕃因爭北庭,與回鶻大戰,死傷頗眾。乃征兵於牟尋,須萬人。牟尋既定計歸我,欲因征兵以襲之。乃示寡弱,謂吐蕃曰:「蠻軍素少,僅可發三千人。」吐蕃少之,請益至五千,乃許。牟尋遽遣兵五千人戍吐蕃,乃自將數萬踵其後,晝夜兼行,乘其無備,大破吐蕃於神川。遂斷鐵橋,遣使告捷。且請韋臯使閱其所虜獲及城堡,以取信焉。時韋臯上言:「牟尋收鐵橋已來城壘一十六,擒其王五人,降其眾十餘萬。」以祠部郎中兼御史中丞袁滋持節冊南詔,仍賜牟尋印,鑄用黃金,以銀為窠。文曰:「貞元冊南詔印。」先是,韋臯奏南詔前遣清平官尹仇寬獻所受吐蕃印五,二用黃金,今賜請以黃金,從蠻夷所重,傳示無窮。從臯之請也。

十年八月、使者蒙湊羅棟及び尹仇寛を遣わして来朝し、鐸槊・浪人剣及び吐蕃の印八組を献じた。湊羅棟は牟尋の弟である。錫賚甚だ厚く、尹仇寛を検校左散騎常侍さんきじょうじとし、その余は各々官を授けること差等あり。まもなくまた尹仇寛を高渓郡王に封じた。十一年三月、清平官尹輔酋を袁滋に随わせて来朝させた。また先に没蕃した将衛景升・韓演等を得、併せて南詔の獲たる吐蕃の将帥の俘馘百人を京師に至らせた。湊羅棟が帰国する途中で卒したので、右散騎常侍を贈られた。尹輔酋に検校太子詹事兼御史中丞を授け、その余もまた差次して官を授けた。また勅書を降して異牟尋及び子の閣勧、清平官鄭回・尹仇寛等に各々一書を賜い、書の左に中書三官の宣奉行するを列し、旧制に復したのである。九月、異牟尋は使者を遣わして馬六十匹を献じた。

原文十年八月,遣使蒙湊羅棟及尹仇寬來獻鐸槊、浪人劍及吐蕃印八紐。湊羅棟,牟尋之弟也,錫賚甚厚,以尹仇寬為檢校左散騎常侍,餘各授官有差。俄又封尹仇寬為高溪郡王。十一年三月,遣清平官尹輔酋隨袁滋來朝。又得先沒蕃將衛景升、韓演等,並南詔所獲吐蕃將帥俘馘百人至京師。湊羅棟歸國,在道而卒,贈右散騎常侍。授尹輔酋檢校太子詹事兼御史中丞,餘亦差次授官。又降敕書賜異牟尋及子閣勸,清平官鄭回、尹仇寬等各一書,書左列中書三官宣奉行,復舊制也。九月,異牟尋遣使獻馬六十匹。

十二年、韋臯は雅州会野路において投降した蛮の首領高万唐等六十九人、戸約七千を招收し得、兼ねて万唐等は先に吐蕃の金字告身五十片を受けていた。十四年、異牟尋は酋望大将軍王丘各等を遣わして賀正し、兼ねて方物を献じた。十九年正月旦、上は含元殿に御して南詔の朝賀を受けた。その使楊鏌龍武を試太僕少卿とし、黎州廓清道蛮首領襲恭化郡王劉志寧に試太常卿を授けた。二十年、南詔は使者を遣わして朝貢した。元和二年八月、使者鄧傍伝を遣わして来朝し、試殿中監を授けた。三年十二月、異牟尋の卒により、朝を廃すること三日とした。四年正月、太常少卿武少儀を以て吊祭使と充て、なお牟尋の子の驃信苴蒙閣勧を南詔王に冊立し、なお「元和冊南詔印」を鋳ることを命じた。七年十月、皆使者を遣わして朝貢した。

原文十二年,韋臯於雅州會野路招收得投降蠻首領高萬唐等六十九人,戶約七千,兼萬唐等先受吐蕃金字告身五十片。十四年,異牟尋遣酋望大將軍王丘各等賀正,兼獻方物。十九年正月旦,上御含元殿受南詔朝賀。以其使楊鏌龍武為試太僕少卿,授黎州廓清道蠻首領襲恭化郡王劉志寧試太常卿。二十年,南詔遣使朝貢。元和二年八月,遣使鄧傍傳來朝,授試殿中監。三年十二月,以異牟尋卒,廢朝三日。四年正月,以太常少卿武少儀充吊祭使,仍冊牟尋之子驃信苴蒙閣勸為南詔王,仍命鑄「元和冊南詔印」。七年十月,皆遣使朝貢。

十一年五月、龍蒙盛の卒により、朝を廃すること三日とした。使者を遣わして来り、その君長の冊立を請うた。少府少監李銑を以て冊立吊祭使と充て、左賛善大夫許堯佐を副えとした。十二年至十五年、比年使者を遣わして来朝し、或いは年内に二三度至ることもあった。宝暦三年、大和元年にもまた使者を遣わして来た。三年、杜元穎が西川を鎮め、文儒を以て自ら高しとし、戎事を練らなかった。南蛮は我が無備に乗じ、大いに諸部を挙げて入寇した。牧守屡々陳べるも、またこれを信じなかった。十一月、蜀川出軍してこれと戦い、利あらず。我が邛州を陥とし、成都府に逼り、梓州西郭に入り、玉帛子女を駆劫して去った。上これを聞き、大いに怒り、再び元穎を循州司馬に貶した。明年正月、その王蒙嵯顛が表を以て自ら陳べて罪を請い、兼ねて元穎の過失を疏した。国家は方に遠方を柔撫することを事とし、尋いでその罪を釈し、また使者を遣わして来朝させた。五年、八年にもまた使者を遣わして方物を貢した。開成四年、五年、会昌二年、皆使者を遣わして来朝した。

原文十一年五月,以龍蒙盛卒,廢朝三日。遣使來請冊立其君長。以少府少監李銑充冊立吊祭使,左贊善大夫許堯佐副之。十二年至十五年,比年遣使來朝,或年內二三至者。寶歷三年、大和元年,亦遣使來。三年,杜元穎鎮西川,以文儒自高,不練戎事。南蠻乘我無備,大舉諸部入寇。牧守屢陳,亦不之信。十一月,蜀川出軍與戰,不利。陷我邛州,逼成都府,入梓州西郭,驅劫玉帛子女而去。上聞之,大怒,再貶元穎為循州司馬。明年正月,其王蒙嵯顛以表自陳請罪,兼疏元穎過失。國家方事柔遠,尋釋其罪,復遣使來朝。五年、八年,亦遣使來貢方物。開成四年、五年,會昌二年,皆遣使來朝。

驃国

原文驃國

驃国は、永昌故郡の南二千余里に在り、上都を去ること一万四千里。その国の境は、東西三千里、南北三千五百里。東は真臘国に隣り、西は東天竺国に接し、南は溟海に尽き、北は南詔の些楽城界に通じ、東北は陽苴咩城に拒むこと六千八百里。往来通聘するは迦羅婆提等二十国、役属する者は道林王等九城、境土を食む者は羅君潜等二百九十部落。

原文驃國,在永昌故郡南二千餘里,去上都一萬四千里。其國境,東西三千里,南北三千五百里。東鄰真臘國,西接東天竺國,南盡溟海,北通南詔些樂城界,東北拒陽苴咩城六千八百里。往來通聘迦羅婆提等二十國,役屬者道林王等九城,食境土者羅君潛等二百九十部落。

その王は姓は困没長、名は摩羅惹。その国相は名は摩訶思那。その王は近く適う時は金縄床に舁がれ、遠く適う時は象に乗る。嬪妹甚だ衆く、常に数百人。その羅城は塼甃を以て構え、周囲一百六十里、濠岸もまた塼を構え、伝えに本は舎利仏城と為す。城内には居人数万家、仏寺百余区有り。その堂宇は皆金銀を錯し、丹彩を塗り、地は紫鑛を以てし、錦罽を以て覆う。その俗は生を好み殺を悪む。その土は菽粟稻梁に宜しく、麻麦無し。その理めには刑名桎梏の具無く、犯罪する者は竹五十本を以てこれを束ね、再び犯す者はその背を撻ち、数は五に止まり、軽き者は三に止まる。人を殺す者はこれを戮す。男女七歳にして則ち髪を落とし、寺舎に止まり、桑門に依る。二十に至りて仏理を悟らざれば、乃ち復た長髪して居人と為す。その衣服は悉く白赩を以て朝霞と為し、腰を繞るのみ。繒帛を衣せず、蚕より出づる云い、その生を傷つくる故と為す。君臣父子長幼序有り。華言これを驃と謂い、自らは突羅成阇婆と謂い、人はこれを徒里掘と謂う。

原文其王姓困沒長,名摩羅惹。其國相名摩訶思那。其王近適則舁以金繩床,遠適則乘象。嬪妹甚眾,常數百人。其羅城構以塼甃,周一百六十里,濠岸亦構塼,相傳本是舍利佛城。城內有居人數萬家,佛寺百餘區。其堂宇皆錯以金銀,塗以丹彩,地以紫鑛,覆以錦罽。其俗好生惡殺。其土宜菽粟稻梁,無麻麥。其理無刑名桎梏之具,犯罪者以竹五十本束之,復犯者撻其背,數止五,輕者止三,殺人者戮之。男女七歲則落髮,止寺舍,依桑門,至二十不悟佛理,乃復長髮為居人。其衣服悉以白赩為朝霞,繞腰而已。不衣繒帛,云出於蠶,為其傷生故也。君臣父子長幼有序。華言謂之驃,自謂突羅成阇婆,人謂之徒里掘。

古より未だ嘗て中国に通ぜず。貞元中、その王は南詔の異牟尋が帰附したことを聞き、心にこれを慕う。八年、乃ちその弟悉利移を遣わし、南詔の重訳に因り来朝し、またその国の楽凡そ十曲を献じ、楽工三十五人と俱にした。楽曲は皆釈氏の経論の詞意を演ず。尋いで悉利移を試太僕卿と為す。

原文古未嘗通中國。貞元中,其王聞南詔異牟尋歸附,心慕之。八年,乃遣其弟悉利移因南詔重譯來朝,又獻其國樂凡十曲,與樂工三十五人俱。樂曲皆演釋氏經論之詞意。尋以悉利移為試太僕卿。

史臣曰く、禹は九州を画し、周は六服を分かち、長を断ち短を補い、止むところ方七千里。国賦の均むる所、王教の備わる所、これを華夏と謂う。円蓋方輿の広きを以てし、広谷大川の多きを以てせば、其の間に民生る、胡ぞ勝え道わん、これを蕃国と謂う。西南の蛮夷少なからず、言語通ぜずと雖も、嗜欲同じからずと雖も、亦よく律を候い風を瞻み、遠く職貢を修む。但だ己の徳無きを患うるも、人の来らざるを患えず。何を以てこれを験すや。貞観・開元の盛んなる時、来朝する者多きなり。

原文史臣曰:禹畫九州,周分六服,斷長補短,止方七千。國賦之所均,王教之所備,此謂華夏者也。以圓蓋方輿之廣,廣谷大川之多,民生其間,胡可勝道,此謂蕃國者也。西南之蠻夷不少矣,雖言語不通,嗜欲不同,亦能候律瞻風,遠修職貢。但患己之不德,不患人之不來。何以驗之?貞觀、開元之盛,來朝者多也!

賛して曰く、五方気を異にし、稟くる所同じからず。維れ南は海に極まり、曰く蛮と戎。我を悪めば則ち叛き、我を好めば則ち通ず。徳せざるべからず、して其の風を瞻ましむ。

原文贊曰:五方異氣,所稟不同。維南極海,曰蠻與戎。惡我則叛,好我則通。不可不德,使其瞻風。