旧唐書 林邑国

旧唐書

林邑国

林邑国は、漢代の日南郡象林の地であり、交州の南千余里にある。その国は延袤数千里に及び、北は皛州と接する。地気は冬も温暖で、冰雪を知らず、常に霧雨が多い。その王の居城は、木を立てて柵とする。王は白氈古貝を着け、斜めに膊に絡め、腰に巻き、その上に真珠金鎖を加えて瓔珞とし、髪を巻いて花を戴く。夫人は朝霞古貝を服して短裙とし、首に金花を戴き、身を金鎖真珠瓔珞で飾る。王の侍衛は、兵五千人あり、弩及び䂎を用いることができ、藤を以て甲とし、竹を以て弓とし、象に乗って戦う。王が出れば象千頭を列ね、馬四百匹を分かち前後とする。その人は拳髪で色黒く、俗は皆徒跣であり、麝香を得て以て身を塗り、一日のうちに、再び塗り再び洗う。拝謁は皆合掌頓顙する。嫁娶の法は、同姓を娶ることを得る。俗に文字あり、特に仏法を信じ、人多く出家す。父母死すれば、子は髪を剔ぎて哭し、棺を以て屍を盛り、柴を積みて柩を燔き、その灰を収め、金瓶に蔵し、これを水中に送る。俗は十二月を以て歳首とし、稲は歳に再熟す。ここより以南は、草木冬に栄え、四時皆生菜を食し、檳榔汁を以て酒とする。結遼鳥あり、人の語を解く。

林邑より以南は、皆髪を巻き身は黒く、通号して「崑崙」とす。

婆利国

婆利国は、林邑の東南海上の洲上にある。その地は延袤数千里に及び、交州より南に海を渡り、林邑・扶南・赤土・丹丹数国を経て至る。その人は皆黒色で、耳を穿ち榼を附す。王の姓は剎利耶伽、名は護路那婆、世々その位を有す。王は花を戴くこと皮弁の如く、真珠瓔珞を以て装い、身は金床に坐す。侍女は金花宝縷の飾りあり、或いは白拂・孔雀扇を持つ。行くときは則ち象を駕し、金を鳴らし鼓を撃ち蠡を吹きて楽とす。男子は皆拳髪で、古貝を被り、布の横幅を以て腰を繞る。風気は暑熱で、常に中国の盛夏の如し。穀は一歳に再熟す。古貝草あり、その花を緝めて布を作り、粗きものは名づけて古貝とし、細きものは名づけて白赩とす。貞観四年、その王は使者を遣わし林邑使に随って方物を献ず。

盤盤国

盤盤国は、林邑の西南海曲中にあり、北は林邑と小海を隔て、交州より船行四十日にして至る。その国は狼牙修国と隣り、人は皆婆羅門書を学び、甚だしく仏法を敬う。貞観九年、使者を遣わして来朝し、方物を貢ぐ。

貞臘国

貞臘国は、林邑の西北にあり、本来扶南の属国、「昆侖」の類である。京師の南二万七百里にあり、北は愛州に至るに六十日行く。その王の姓は剎利氏。大城三十余所あり、王都は伊奢那城、風俗被服は林邑と同じ。地は瘴癘毒に富む。海中の大魚時に半ば出で、これを望むこと山の如し。毎に五・六月中、毒気流行すれば、即ち牛豕を以てこれを祠り、しなければ則ち五穀登らず。その俗は東に向かって戸を開き、東を以て上とす。戦象五千頭あり、特に好ましきものには飯肉を飼う。隣国と戦えば、則ち象隊を前にし、その背上に木を以て楼を作り、上に四人あり、皆弓箭を持つ。国は仏道及び天神を尚び、天神を大とし、仏道これに次ぐ。

水真臘国

水真臘国は、その境東西南北およそ員八百里、東は奔陀浪州に至り、西は墮羅缽底国に至り、南は小海に至り、北は即ち陸真臘である。その王の居城は号して婆羅提拔という。国の東界に小城あり、皆これを国と謂う。その国は象多く、元和八年、李摩那等を遣わして来朝す。

陁洹国

陁洹国は、林邑の西南大海中にあり、東南は墮和羅と接し、交阯を去ること三月余日行く。墮和羅に賓服す。その王の姓は察失利、字は婆末婆那。土に蚕桑なく、白氈朝霞布を以て衣とす。俗は皆楼居し、これを「干欄」と謂う。貞観十八年、使者を遣わして来朝す。二十一年、また使者を遣わして白鸚鵡及び婆律膏を献じ、なお馬及び銅鐘を請う、詔して並びにこれを給う。

訶陵国

訶陵国は、南方の海中の洲上にあり、東は婆利、西は墮婆登、北は真臘と接し、南は大海に臨む。木を立てて城とし、大屋の重閣を作り、棕櫚の皮で覆う。王はその中に坐し、悉く象牙を以て床とする。食するに匙箸を用いず、手を以て掬う。また文字あり、星暦を頗る識る。俗に椰樹の花を以て酒とし、その樹は花を生じ、長さ三尺余、人の膊の如く大にして、これを割りて汁を取り酒を成す。味は甘く、これを飲めば亦酔う。

墮和羅国

墮和羅国は、南は盤盤、北は迦羅舍佛、東は真臘と接し、西は大海に隣る。広州より五月の行程。貞観十二年、その王は使いを遣わして方物を貢す。二十三年、また使いを遣わして象牙・火珠を献じ、好馬を賜わることを請う。詔してこれを許す。

墮婆登国

墮婆登国は、林邑の南にあり、海行二月、東は訶陵、西は迷黎車と接し、北は大海を界とする。風俗は訶陵と略同。その国は稲を植え、毎月一熟す。また文字あり、これを貝多葉に書す。その死者は、口に金を実し、また金釧を以て四肢に貫き、然る後に婆律膏及び龍脳等の香を加え、柴を積みてこれを燔く。貞観二十一年、その王は使いを遣わして古貝・象牙・白檀を献ず。太宗、璽書を以てこれに報い、並びに雑物を賜う。

東謝蛮

東謝蛮は、その地は黔州の西数百里に在り、南は守宮獠に接し、西は夷子に連なり、北は蛮に至る。土は五穀に宜しく、牛耕を用いず、ただ畬田と為し、毎歳易える。俗に文字無く、木を刻みて契と為す。山洞の間に散居し、樹に依りて層巣を為して居り、流れを汲みて飲む。皆自ら生業を営み、賦税の事無し。貴人に謁見するには、皆鞭を執りて拝す。功労有る者は、牛馬銅鼓を以てこれを賞す。犯罪有る者は、小事は杖罰し、大事はこれを殺し、物を盗めば贓を倍にして還す。婚姻の礼は、牛酒を以て聘と為す。女が夫家に嫁ぐには、皆母自らこれを送る。女の夫は慚じて、逃避し旬日を経て乃ち出づ。宴聚すれば則ち銅鼓を撃ち、大角を吹き、歌舞を以て楽と為す。刀剣を帯ぶるを好み、未だ嘗て捨離せず。丈夫の衣服は、衫襖大口袴有り、綿綢及び布を以てこれを為す。右肩上に斜めに皮帯を束ね、螺殻・虎豹猿狖及び犬羊の皮を以て装い、外飾と為す。坐するは皆蹲踞す。男女は椎髻し、緋を以てこれを束ね、後ろに垂れて下に向かう。その首領謝元深は、既に世々酋長たり、その部落は皆これを尊畏す。謝氏一族は、法として女を育たず、自ら云う、高姓なるを以て下嫁すべからざるが故なりと。

西趙蛮

西趙蛮は、東謝の南に在り、その界は東は夷子に至り、西は昆明に至り、南は西洱河に至る。山洞阻深にして、道里を知ること莫し。南北十八日の行程、東西二十三日の行程。その風俗物産は東謝と同し。首領は趙氏。世々酋長たり。戸万余有り。貞観三年、使いを遣わして朝に入る。二十一年、その地を以て明州を置き、首領趙磨を以て刺史と為す。

牂牁蛮

牂牁蛮は、首領も亦た謝氏を姓とす。その地は北は兗州を去ること一百五十里、東は辰州に至ること二千四百里、南は交州に至ること一千五百里、西は昆明に至ること九百里。城壁無く、散じて部落と為して居る。土気は郁熱にして、霖雨多し。稻粟は再熟す。徭役無く、唯だ征戦の時のみ、乃ち相い屯聚す。木を刻みて契と為す。その法は、劫盗する者は贓を二倍にして還す。人を殺す者は牛馬三十頭を出だし、乃ち死を贖い得て、以て死家に納む。風俗物産は、略く東謝と同し。その首領謝龍羽は、大業末にその地を拠り、勝兵数万人。

南平獠

南平獠は、東は智州、南は渝州、西は南州、北は涪州と接す。部落四千余戸。土気は瘴癘多く、山には毒草及び沙虱・蝮蛇有り。人並びに楼居し、梯を登りて上る。「干欄」と号す。男子は左衽にして髪を露わし徒跣す。婦人は横布両幅を、中を穿ちてその首を貫き、「通裙」と名づく。その人は美髪にして、髻鬟を為して後ろに垂る。竹筒を筆の如く、長さ三四寸、斜めにその耳を貫き、貴き者も亦た珠榼有り。土は女多く男少なく、婚を為すの法は、女氏必ず先ず貨を以て男族を求め、貧しき者は嫁ぐに以て無く、多く富人に売りて婢と為す。俗は皆婦人が役を執る。その王は朱氏を姓とし、剣荔王と号し、使いを遣わして内附し、その地を以て渝州に隷せしむ。

東女国

東女国は、西羌の別種なり。西海中に復た女国有るを以て、故に東女と称す。俗に女を以て王と為す。東は茂州・党項に接し、東南は雅州に接し、界は羅女蛮及び白狼夷を隔つ。その境は東西九日の行程、南北二十日の行程。大小八十余城有り。その王の居る所を康延川と名づけ、中に弱水南に流れ、牛皮を以て船と為して渡る。戸四万余衆、勝兵万余人、山谷の間に散ず。女王は「賓就」と号す。女官有り、「高霸」と曰い、国事を平議す。外の官僚は、並びに男夫これを為す。その王の侍女数百人、五日に一度政を聴く。女王若し死せば、国中多く金銭を斂め、動くこと数万に至り、更に王族に令女二人を求めてこれを立てる。大なる者を王と為し、其次を小王と為す。若し大王死せば、即ち小王嗣立し、或いは姑死して婦継ぐも、篡奪有ること無し。その居る所は、皆重屋を起し、王は九層に至り、国人は六層に至る。その王は青毛綾の裙を服し、下に衫を領け、上に青袍を披き、その袖は地に委す。冬は則ち羔裘、紋錦を以て飾る。小鬟髻を為し、金を以てこれを飾る。耳に榼を垂れ、足に𩌈𩍜を履く。俗は婦人を重んじて丈夫を軽んず。文字は天竺に同じ。十一月を以て正と為す。その俗は毎に十月に至れば、巫者をして楮を賫し山中に詣らしめ、糟麥を空に散じ、大いに鳥を咒呼す。俄にして鳥有り、鶏の如く、飛んで巫者の懐に入る。因りて腹を剖いてこれを視るに、毎に一穀有れば、来歳必ず登り、若し霜雪有れば、必ず多く災異有り。その俗これを信じ、鳥卜と名づく。その居喪は、服飾改めず、父母の為には則ち三年櫛沐せず。貴人死すれば、或いはその皮を剥ぎてこれを蔵し、骨を瓶中に内し、金屑を糅してこれを埋む。国王将に葬らんとすれば、その大臣親属殉死する者数十人。

隋の大業年間、蜀王秀が使者を遣わして招いたが、拒絶して受けなかった。武徳年間、女王湯滂氏が初めて使者を遣わして地方の産物を貢ぎ、高祖は手厚く物資を与えて帰国させた。帰途隴右に至った時、突厥が侵入したのに遭い、虜庭で掠奪された。及び頡利が平定されると、その使者が再び来朝した。太宗は命じて帰国させ、璽書を下して慰撫した。垂拱二年、その王斂臂が大臣湯劍左を遣わして来朝し、官号を請うた。則天は斂臂を左玉鈐衛員外将軍に冊拝し、瑞錦で蕃服を製して賜った。

その年、西山松州の生羌など二万余戸が相次いで内附した。その粘信部落の主董夢蔥、龍諾部落の主董辟忽は、皆試衛尉卿を授けられた。立悉らは皆翌年の元会に赴き終わり、金帛を賜って各々帰国させられた。まもなく詔して韋臯に近界の羌・蛮及び西山八国使を統押させた。その部落は刺史などの官を代襲したが、また密かに吐蕃と通じたので、「両面羌」と称された。

南詔蛮

南詔蛮は、本来烏蛮の別種であり、姓は蒙氏である。蛮は王を「詔」と謂う。自ら哀牢の後裔と称し、代々蒙舎州に居住して渠帥となり、漢の永昌故郡の東、姚州の西に在った。その先代の渠帥は六人あり、自ら「六詔」と号し、兵力は互角で、各々君長がおり、統帥はいなかった。蜀の時は諸葛亮に征伐され、皆臣服した。国初に蒙舎龍がおり、迦独龐を生んだ。迦独は細奴邏を生み、高宗の時に来朝した。細奴邏は邏盛を生み、武后の時に来朝した。その妻が妊娠中、邏盛は姚州に滞在し、妻が子を産んだと聞き、「我に子あり、唐の地に死すとも足る」と言った。子の名を盛邏皮と曰う。邏盛は京師に至り、錦袍金帯を賜って帰国した。

開元初年、邏盛が死に、子の盛邏皮が立った。盛邏皮が死に、子の皮邏閣が立った。二十六年、詔して特進を授け、越国公に封じ、名を帰義と賜った。その後洱河蛮を破り、功により策授して雲南王とした。帰義は次第に強盛となり、残る五詔は次第に弱まった。先に、剣南節度使王昱が帰義の賄賂を受け、六詔を合して一詔とするよう上奏した。帰義は既に五詔を併せ、群蛮を服従させ、吐蕃の衆を破り、兵力は日に日に驕大となった。毎回入覲する際、朝廷も礼遇を加えた。

二十七年、大和城に移り住んだ。天宝四載、帰義は孫の鳳迦異を遣わして来朝させ、鴻臚卿を授けた。帰国に際し、恩賜は甚だ厚く、帰義の意望もまた高かった。時に剣南節度使章仇兼瓊が使者を雲南に遣わしたが、帰義と言葉が合わず、帰義は常にこれを恨んだ。

七年、帰義が卒し、詔して子の閣羅鳳を立てて雲南王を襲封させた。間もなく、鮮于仲通が剣南節度使となり、張虔陀が雲南太守となった。仲通は偏狭で急燥で謀略に乏しく、虔陀は偽り欺き、礼をもって遇さなかった。旧例では、南詔は常に妻子を伴って都督に謁見したが、虔陀は皆私した。求めるところがあっても、閣羅鳳は多く応じず、虔陀は人を遣わして罵り辱め、密かにその罪悪を上奏した。閣羅鳳は憤怨し、兵を発して反攻し、虔陀を包囲して殺した。時に天宝九年である。

翌年、仲通は兵を率いて戎州・巂州より出撃した。閣羅鳳は使者を遣わして謝罪し、雲南録事参軍姜如芝と共に来て、掠奪したものを返還するよう請い、且つ言うには、「吐蕃の大兵が国境を圧している。もし許されなければ、吐蕃に帰命すべきであり、雲南の地は唐の所有ではなくなるであろう」と。仲通は許さず、その使者を囚え、進軍して大和城に迫ったが、南詔に敗れた。ここにおいて閣羅鳳は北面して吐蕃に臣従した。吐蕃は閣羅鳳をして贊普鐘たらしめ、東帝と号し、金印を与えた。蛮は弟を「鐘」と謂う。時に天宝十一年である。

十二年、剣南節度使楊国忠が国政を執り、天下の兵を徴発するよう上奏し、留後・侍御史李宓に十余万を将帥させ、糧秣を運ぶ者は別にいた。海を渡り、瘴気で死ぬ者が路上に相継ぎ、天下は初めて騒然とこれを苦しんだ。宓はまた大和城北で敗れ、死者は十のうち八、九に及んだ。時に安禄山が反し、閣羅鳳は隙に乗じて巂州及び会同軍を攻め陥とし、西ではまた尋伝蛮を降した。

七年、また間使を遣わして書を持たせてこれを諭した。道は磨些蛮を通り、その魁主が密かに吐蕃に告げ、使者は雲南に至った。吐蕃は既にこれを知り、牟尋を詰問させた。牟尋は恐れ、吐蕃を欺いて言うには、「唐の使者は本来蛮であり、韋臯がその帰国を求めることを許しただけで、他に謀はない」と。遂に捕えて吐蕃に送った。吐蕃はますます疑い、多く南詔の大臣の子を人質として召し、牟尋はますます怨んだ。

九年四月、牟尋は酋長と計を定めて使者を遣わした。趙莫羅眉は両川より、楊大和堅は黔中より、あるいは安南より。使者は凡そ三輩、韋臯に書を致し、各々生金と丹砂を贄として携えた。以前に韋臯が牟尋に与えた書を三分し、各々その一つを持たせて信とした。年の内に、三使は皆京師に至り、且つ言うには、「牟尋は大国に帰順し、永く藩国となることを請う。献ずる生金は、北に向かう意が金の如くであることを喩え、丹砂はその赤心を示すものである」と。上はこれを嘉し、牟尋に詔書を賜い、韋臯に命じて使者を遣わしその情を観察させた。韋臯は遂に巡官崔佐時を命じて牟尋の都する陽苴咩城に至らせた。南は太和城より十余里、東北は成都より二千四百里、東は安南より成都に至るが如く、水陸の行路を通ず。この時、吐蕃の使者数百人が、佐時に先立って南詔にいた。牟尋は諸種落を悉く召して帰化を議したが、或いは未だ全員至らず、公言することを敢えず、密かに佐時に牂牁使と称させ、牂牁の服を着て入るよう命じた。佐時は肯わず、言うには、「我は大唐の使者である。どうして小夷の服を着られようか」と。牟尋は已むなく、夜に佐時を迎え、位を設け灯燭を陳べた。佐時は大いに詔書を宣した。牟尋は吐蕃に知られることを恐れ、左右を顧みて顔色なく、既に唐に帰順した業であるが、久しくして歔欷して涙を流し、皆俯伏して命を受けた。

その翌年正月、異牟尋はその子閣勸及び清平官らを崔佐時と共に遣わし、点蒼山の神祠で盟を結んだ。盟書は一つを神室に蔵め、一つを西洱河に沈め、一つを祖廟に置き、一つを天子に進めた。閣勸は即ち尋夢湊である。鄭回は佐時に会い、多く指導したので、佐時はその内情を探り得た。乃ち牟尋に請うて吐蕃の使者数人を斬り、唐に帰順することを示させた。また吐蕃が与えた金印を得た。牟尋はまもなく佐時を帰国させ、金契を刻んで献じた。閣勸は詩を賦してこれを餞った。牟尋は乃ち吐蕃が立てた帝号を去り、佐時に私的に、南詔の旧名を復することを請うた。佐時は盟を結び終わり、二十六日間留まって帰った。

初めに、吐蕃は北庭を争うことにより、回鶻と大戦し、死傷甚だ衆多であった。そこで牟尋に徴兵を求め、一万人を必要とした。牟尋は既に我に帰順する計略を定め、徴兵に乗じてこれを襲おうとした。そこで寡弱を示し、吐蕃に告げて言うには、「蛮軍は元より少なく、僅かに三千人を発することができるのみ」と。吐蕃はこれを少なしとし、五千に増やすよう請うたので、ようやく許諾した。牟尋は急ぎ兵五千人を遣わして吐蕃を戍らせ、自ら数万を将いてその後を踵き、昼夜兼行して、その無備に乗じ、神川において吐蕃を大破した。ついに鉄橋を断ち切り、使者を遣わして捷報を告げた。かつ韋臯にその虜獲したもの及び城堡を検閲させ、以て信を取らんことを請うた。時に韋臯が上言するには、「牟尋は鉄橋以来の城塁十六を収め、その王五人を擒にし、その衆十余万を降した」と。祠部郎中兼御史中丞袁滋を持節として南詔を冊立させ、なお牟尋に印を賜い、黄金を用いて鋳造し、銀を以て窠とした。文に曰く「貞元冊南詔印」。これに先立ち、韋臯が奏上して言うには、南詔が先に清平官尹仇寛を遣わして受けた吐蕃の印五方を献じ、そのうち二方は黄金を用いている。今賜うには黄金を以てせんことを請い、蛮夷の重んずる所に従い、伝示して窮まりなからしめんと。韋臯の請いに従ったのである。

十年八月、使者蒙湊羅棟及び尹仇寛を遣わして来朝し、鐸槊・浪人剣及び吐蕃の印八組を献じた。湊羅棟は牟尋の弟である。錫賚甚だ厚く、尹仇寛を検校左散騎常侍とし、その余は各々官を授けること差等あり。まもなくまた尹仇寛を高渓郡王に封じた。十一年三月、清平官尹輔酋を袁滋に随わせて来朝させた。また先に没蕃した将衛景升・韓演等を得、併せて南詔の獲たる吐蕃の将帥の俘馘百人を京師に至らせた。湊羅棟が帰国する途中で卒したので、右散騎常侍を贈られた。尹輔酋に検校太子詹事兼御史中丞を授け、その余もまた差次して官を授けた。また勅書を降して異牟尋及び子の閣勧、清平官鄭回・尹仇寛等に各々一書を賜い、書の左に中書三官の宣奉行するを列し、旧制に復したのである。九月、異牟尋は使者を遣わして馬六十匹を献じた。

十二年、韋臯は雅州会野路において投降した蛮の首領高万唐等六十九人、戸約七千を招收し得、兼ねて万唐等は先に吐蕃の金字告身五十片を受けていた。十四年、異牟尋は酋望大将軍王丘各等を遣わして賀正し、兼ねて方物を献じた。十九年正月旦、上は含元殿に御して南詔の朝賀を受けた。その使楊鏌龍武を試太僕少卿とし、黎州廓清道蛮首領襲恭化郡王劉志寧に試太常卿を授けた。二十年、南詔は使者を遣わして朝貢した。元和二年八月、使者鄧傍伝を遣わして来朝し、試殿中監を授けた。三年十二月、異牟尋の卒により、朝を廃すること三日とした。四年正月、太常少卿武少儀を以て吊祭使と充て、なお牟尋の子の驃信苴蒙閣勧を南詔王に冊立し、なお「元和冊南詔印」を鋳ることを命じた。七年十月、皆使者を遣わして朝貢した。

十一年五月、龍蒙盛の卒により、朝を廃すること三日とした。使者を遣わして来り、その君長の冊立を請うた。少府少監李銑を以て冊立吊祭使と充て、左賛善大夫許堯佐を副えとした。十二年至十五年、比年使者を遣わして来朝し、或いは年内に二三度至ることもあった。宝暦三年、大和元年にもまた使者を遣わして来た。三年、杜元穎が西川を鎮め、文儒を以て自ら高しとし、戎事を練らなかった。南蛮は我が無備に乗じ、大いに諸部を挙げて入寇した。牧守屡々陳べるも、またこれを信じなかった。十一月、蜀川出軍してこれと戦い、利あらず。我が邛州を陥とし、成都府に逼り、梓州西郭に入り、玉帛子女を駆劫して去った。上これを聞き、大いに怒り、再び元穎を循州司馬に貶した。明年正月、その王蒙嵯顛が表を以て自ら陳べて罪を請い、兼ねて元穎の過失を疏した。国家は方に遠方を柔撫することを事とし、尋いでその罪を釈し、また使者を遣わして来朝させた。五年、八年にもまた使者を遣わして方物を貢した。開成四年、五年、会昌二年、皆使者を遣わして来朝した。

驃国

驃国は、永昌故郡の南二千余里に在り、上都を去ること一万四千里。その国の境は、東西三千里、南北三千五百里。東は真臘国に隣り、西は東天竺国に接し、南は溟海に尽き、北は南詔の些楽城界に通じ、東北は陽苴咩城に拒むこと六千八百里。往来通聘するは迦羅婆提等二十国、役属する者は道林王等九城、境土を食む者は羅君潜等二百九十部落。

その王は姓は困没長、名は摩羅惹。その国相は名は摩訶思那。その王は近く適う時は金縄床に舁がれ、遠く適う時は象に乗る。嬪妹甚だ衆く、常に数百人。その羅城は塼甃を以て構え、周囲一百六十里、濠岸もまた塼を構え、伝えに本は舎利仏城と為す。城内には居人数万家、仏寺百余区有り。その堂宇は皆金銀を錯し、丹彩を塗り、地は紫鑛を以てし、錦罽を以て覆う。その俗は生を好み殺を悪む。その土は菽粟稻梁に宜しく、麻麦無し。その理めには刑名桎梏の具無く、犯罪する者は竹五十本を以てこれを束ね、再び犯す者はその背を撻ち、数は五に止まり、軽き者は三に止まる。人を殺す者はこれを戮す。男女七歳にして則ち髪を落とし、寺舎に止まり、桑門に依る。二十に至りて仏理を悟らざれば、乃ち復た長髪して居人と為す。その衣服は悉く白赩を以て朝霞と為し、腰を繞るのみ。繒帛を衣せず、蚕より出づる云い、その生を傷つくる故と為す。君臣父子長幼序有り。華言これを驃と謂い、自らは突羅成阇婆と謂い、人はこれを徒里掘と謂う。

古より未だ嘗て中国に通ぜず。貞元中、その王は南詔の異牟尋が帰附したことを聞き、心にこれを慕う。八年、乃ちその弟悉利移を遣わし、南詔の重訳に因り来朝し、またその国の楽凡そ十曲を献じ、楽工三十五人と俱にした。楽曲は皆釈氏の経論の詞意を演ず。尋いで悉利移を試太僕卿と為す。

史臣曰く、禹は九州を画し、周は六服を分かち、長を断ち短を補い、止むところ方七千里。国賦の均むる所、王教の備わる所、これを華夏と謂う。円蓋方輿の広きを以てし、広谷大川の多きを以てせば、其の間に民生る、胡ぞ勝え道わん、これを蕃国と謂う。西南の蛮夷少なからず、言語通ぜずと雖も、嗜欲同じからずと雖も、亦よく律を候い風を瞻み、遠く職貢を修む。但だ己の徳無きを患うるも、人の来らざるを患えず。何を以てこれを験すや。貞観・開元の盛んなる時、来朝する者多きなり。

賛して曰く、五方気を異にし、稟くる所同じからず。維れ南は海に極まり、曰く蛮と戎。我を悪めば則ち叛き、我を好めば則ち通ず。徳せざるべからず、して其の風を瞻ましむ。