舊唐書

巻196下

巻196下

舊唐書

原文舊唐書

卷一百九十六下

原文卷一百九十六下

列傳第一百四十六下 吐蕃下

原文列傳第一百四十六下 吐蕃下

八年の秋、吐蕃の六万騎が霊武を寇し、我が禾稼を蹂躙して去る。十月、涇州・邠州等を寇す。郭子儀は先鋒将渾瑊を遣わして賊と宜禄にて戦う。我が師利あらず、副将史籍等三人これに死し、村墅の居人、駆掠せらるる者凡そ千余人。この夜、瑊は散卒を収合して賊営を襲い、時に馬璘もまたその輜重を襲う。凡そ数千人を殺し、賊遂に潰く。子儀、吐蕃の十余万の衆を大いに破る。

原文八年秋,吐蕃六萬騎寇靈武,蹂踐我禾稼而去。十月,寇涇、邠等州,郭子儀遣先鋒將渾瑊與賊戰於宜祿,我師不利,副將史籍等三人死之,村墅居人為驅掠者凡千餘人。是夜,瑊收合散卒襲賊營,會馬璘亦襲其輜重,凡殺數千人,賊遂潰。子儀大破吐蕃十餘萬眾。

初め、吐蕃が我が邠郊を犯すや、馬璘は精卒二千余人を以て潜かに夜に賊営を掩い、賊の豹皮将を射て目に中つ。賊衆これを扶けて号泣し、遂に営を挙げて遁去す。璘、因って朔方の兵健二百余人、百姓七百余人、駝馬数百匹を収獲す。

原文初,吐蕃犯我邠郊,馬璘以精卒二千餘人潛夜掩賊營,射賊豹皮將中目,賊眾扶之號泣,遂舉營遁去。璘因收獲朔方兵健二百餘人,百姓七百餘人,駝馬數百匹。

九年四月、吐蕃の侵擾に因り、辺備を預め為すべく、乃ち勅を降す。

原文九年四月,以吐蕃侵擾,預為邊備,乃降敕:

宜しく子儀に上郡・北地・四塞・五原・義渠・稽胡・鮮卑の雑種歩馬五万の衆を以て、厳かに栒邑に会し、旧軍を克く壮ならしむべし。抱玉は晋の高都、韓の上党、河・湟の義徒、汧・隴の少年、凡そ三万の衆を以て、高壁を横絶し、斜めに界して連営すべし。馬璘は西域の前庭、車師の後部、兼ねて広武の戍、下蔡の徭、凡そ三万の衆を以て、泗中に屯し、大軍の援を張るべし。忠誠は武落別授、右地奇鋒、凡そ二万の衆を以て、岐陽より出でて北に会すべし。希譲は三輔太常の徒、六郡良家の子、渭上より西して汴宋・淄青・河陽・幽薊を合し、総べて四万の衆を以て、前後に分列すべし。魏博・成徳・昭義・永平総べて六万の衆、左右を大いに舒くべし。朕内に禁旅を整え、親しく諸将に誓い、千金の費を資し、六牧の馬を錫う。その戎装戦器、軍用辺儲は、各司存有り、素より皆精辦せり。咨う爾ら将相文武宣力の臣、夫れ師克つは和に在り、善く戦う者は陣せず、各宜しく疆界を保拠し、要衝に屯拠し、斥候惟だ明らかに、首尾相応ずべし。若し既に過ちを悔い改むれば、何ぞ必ずしも人を労せん。如し或いは恭しからざれば、自ら伐罪すべし。然る後に眷求して統一し、以て諸軍を制す。進取の宜は、後命を俟つ。

原文宜令子儀以上郡、北地、四塞、五原、義渠、稽胡、鮮卑雜種步馬五萬眾,嚴會栒邑,克壯舊軍。抱玉以晉之高都,韓之上黨,河、湟義徒,汧、隴少年,凡三萬眾,橫絕高壁,斜界連營。馬璘以西域前庭,車師後部,兼廣武之戍,下蔡之徭,凡三萬眾,屯於泗中,張大軍之援。忠誠以武落別授,右地奇鋒,凡二萬眾,出岐陽而北會。希讓以三輔太常之徒,六郡良家之子,自渭上而西合汴宋、淄青、河陽、幽薊,總四萬眾,分列前後。魏博、成德、昭義、永平總六萬眾,大舒左右。朕內整禁旅,親誓諸將,資以千金之費,錫以六牧之馬。其戎裝戰器,軍用邊儲,各有司存,素皆精辦。咨爾將相文武宣力之臣,夫師克在和,善戰不陣,各宜保據疆界,屯據要沖,斥堠惟明,首尾相應。若既悔過,何必勞人;如或不恭,自當伐罪。然後眷求統一,以制諸軍。進取之宜,俟於後命。

十一年正月、剣南節度使崔寧、吐蕃の故洪等四節度兼ねて突厥・吐渾・氐・蛮・羌・党項等二十余万の衆を大いに破り、首級万余を斬り、𪃸葛城兵馬使一千三百五十人を生擒し、闕下に献ず。牛羊及び軍資器械、勝げて紀すべからず。十二年九月、坊州に入寇し、党項の羊馬を掠めて去る。十月、崔寧、吐蕃の望漢城を破る。十四年八月、太常少卿韋倫に命じて節を持ちて吐蕃に使わし、蕃俘五百人を統べてこれを帰す。十月、吐蕃、南蛮の衆二十万を率いて来寇す。一は茂州に入り、汶川及び灌口を過ぎ、一は扶州・文州に入り、方維・白壩を過ぎ、一は黎州・雅州より邛峡関を過ぎ、連ねて郡邑を陥す。乃ち禁兵四千人及び幽州兵五千人を発して同く討ち、大いにこれを破る。

原文十一年正月,劍南節度使崔寧大破吐蕃故洪等四節度兼突厥、吐渾、氐、蠻、羌、党項等二十餘萬眾,斬首萬餘級,生擒{{!|𪃸|⿰枼鳥}}葛城兵馬使一千三百五十人,獻於闕下。牛羊及軍資器械,不可勝紀。十二年九月,入寇坊州,掠党項羊馬而去。十月,崔寧破吐蕃望漢城。十四年八月,命太常少卿韋倫持節使吐蕃,統蕃俘五百人歸之。十月,吐蕃率南蠻眾二十萬來寇:一入茂州,過汶川及灌口;一入扶、文,過方維、白壩;一自黎、雅過邛峽關,連陷郡邑。乃發禁兵四千人及幽州兵五千人同討,大破之。

二年十二月、入蕃使判官常魯と吐蕃使論悉諾羅等、蕃中より至る。初め、魯とその使崔漢衡が列館に至るや、贊普はこれを止めしめ、先ず国信の勅を取らしむ。既にして使、漢衡に謂いて曰く、「来たる勅に云う、『所貢の献物、並びに領り訖う。今外甥に少信物を賜う、至りて領取せよ』と。我が大蕃と唐とは舅甥の国なるのみ。何ぞ臣礼を以て見処せん。又、定めんと欲する界は、雲州の西、賀蘭山を以て界とせんことを請う。その盟約は、景龍二年の勅書に云う『唐使彼に到れば、外甥先ず盟誓す。蕃使此に到れば、阿舅も亦親しく盟す』に依らんことを請う」と。乃ち漢衡を邀えて使を遣わし奏定せしむ。魯、使として還り奏す。勅書を改め、「貢献」を「進」とし、「賜」を「寄」とし、「領取」を「領之」と為す。且つ謂いて曰く、「前相楊炎、故事に循わず、この誤りを致せり」と。その定界盟は、並びにこれに従う。

原文二年十二月,入蕃使判官常魯與吐蕃使論悉諾羅等至自蕃中。初,魯與其使崔漢衡至列館,贊普令止之,先命取國信敕。既而使謂漢衡曰:「來敕云:『所貢獻物,並領訖;今賜外甥少信物,至領取。』我大蕃與唐舅甥國耳,何得以臣禮見處?又所欲定界,雲州之西,請以賀蘭山為界。其盟約,請依景龍二年敕書云:『唐使到彼,外甥先與盟誓;蕃使到此,阿舅亦親與盟。』」乃邀漢衡遣使奏定。魯使還奏焉,為改敕書,以「貢獻」為「進」,以「賜」為「寄」,以「領取」為「領之」。且謂曰:「前相楊炎不循故事,致此誤爾。」其定界盟,並從之。

三年四月、先に没したる蕃の将士僧尼等八百人を放ちて帰還せしむ。蕃俘を帰すに報ゆるなり。九月、和蕃使・殿中少監兼御史中丞崔漢衡と蕃使区類贊至る。時に吐蕃の大相尚結息は忍びて好殺し、嘗て剣南に覆敗せられたるを以て、その恥を刷がんと思い、約和を肯ぜず。その次相尚結贊は材略有り、因って贊普に言い、界を定め約を明らかにし、以て辺人を息まんことを請う。贊普これを然りとし、竟に結贊を以て結息に代えて大相と為し、終に和好を約し、期して十月十五日に境上に会盟す。崔漢衡を鴻臚卿と為し、都官員外郎樊沢を以て御史中丞を兼ね、入蕃計会使に充てしむ。初め、漢衡、吐蕃と月日を約定して盟誓す。漢衡到るも、商量未だ決せず、已にその期を過ぐ。遂に沢に命じて結贊に詣り盟会の期を復定せしめ、且つ隴右節度使張鎰を遣わしてこれと同盟せんことを告ぐ。沢、故原州に至り、結贊と相見え、来年正月十五日に清水の西に会盟せんとす。

原文三年四月,放先沒蕃將士僧尼等八百人歸還,報歸蕃俘也。九月,和蕃使、殿中少監、兼御史中丞崔漢衡與蕃使區類贊至。時吐蕃大相尚結息忍而好殺,以嘗覆敗於劍南,思刷其恥,不肯約和。其次相尚結贊有材略,因言於贊普,請定界明約,以息邊人。贊普然之,竟以結贊代結息為大相,終約和好,期以十月十五日會盟於境上。以崔漢衡為鴻臚卿,以都官員外郎樊澤兼御史中丞、充入蕃計會使。初,漢衡與吐蕃約定月日盟誓,漢衡到,商量未決,已過其期,遂命澤詣結贊復定盟會期,且告遣隴右節度使張鎰與之同盟,澤至故原州,與結贊相見,以來年正月十五日會盟於清水西。

四年正月、張鎰に詔して尚結贊と清水にて盟せしむ。将に盟せんとす。鎰と結贊と約す。各二千人を以て壇の所に赴き、兵を執る者はその半ば、壇外二百歩に列し、散従する者はその半ば、壇下に分立す。鎰と賓佐の斉映・斉抗及び会盟官の崔漢衡・樊沢・常魯・于頔等七人皆朝服す。結贊とその本国の将相論悉頰蔵・論臧熱・論利陀・斯官者・論力徐等も亦七人、倶に壇に陞りて盟す。初め漢は牛を以てし、蕃は馬を以てすと約す。鎰、これと盟するを恥じ、その礼を殺さんとし、乃ち結贊に謂いて曰く、「漢は牛なくして田せず、蕃は馬なくして行かず。今は羊・豕・犬の三物を以てこれに代えんことを請う」と。結贊許諾す。塞外に豕無し。結贊は羝羊を出さんことを請う。鎰は犬及び羊を出す。乃ち壇の北にこれを刑し、雑血二器にして盟に歃す。文に曰く。

原文四年正月,詔張鎰與尚結贊盟於清水。將盟,鎰與結贊約,各以二千人赴壇所,執兵者半之,列於壇外二百步,散從者半之,分立壇下。鎰與賓佐齊映、齊抗及會盟官崔漢衡、樊澤、常魯、于頔等七人皆朝服;結贊與其本國將相論悉頰藏、論臧熱、論利陀、斯官者、論力徐等亦七人,俱陞壇為盟。初約漢以牛,蕃以馬,鎰恥與之盟,將殺其禮,乃謂結贊曰:「漢非牛不田,蕃非馬不行,今請以羊、豕、犬三物代之。」結贊許諾。塞外無豕,結贊請出羝羊,鎰出犬及羊,乃於壇北刑之,雜血二器而歃盟。文曰:

唐は天下を有し、禹の跡を恢奄し、舟車の至る所、率俾せざるは莫し。累聖の重光を以て、歴年惟れ永く、王者の丕業を彰し、四海の声教に被る。吐蕃の贊普と、代わりに婚姻を為し、固く鄰好を結び、安危同体、甥舅の国、将に二百年。其の間或いは小忿に因り、恵を棄てて讎と為し、封疆騒然として、寧歳有ること靡し。皇帝践祚し、茲の黎元を湣み、俘隷を釈せしめて、以て蕃落に帰せしむ。蕃国礼を展べ、茲に葉和を同じくし、行人往復し、累ねて成命を布く。是れ必ず詐謀起こらず、兵車用いざるべし。彼猶以て両国の要を以て、之を永久に求め、古に結盟有り、今請う之を用いんと。国家務めて辺人を息め、其の故地を外にし、利を棄て義に蹈み、盟を堅くし約に従う。今国家の守る所の界は、涇州西は弾箏峡西口に至り、隴州西は清水県に至り、鳳州西は同谷県に至り、暨び剣南西山大渡河東、漢界と為す。蕃国の守鎮は蘭・渭・原・会に在り、西は臨洮に至り、東は成州に至り、剣南西界磨些諸蛮に抵し、大渡水西南、蕃界と為す。其の兵馬鎮守の処、州県に見有る居人、彼此両辺に見属する漢諸蛮、以て今の分かつ所の見住処に依り、前に依りて定と為す。其の黄河以北、故新泉軍より、直に北は大磧に至り、直に南は賀蘭山駱駝嶺に至り界と為し、中間悉く閑田と為す。盟文に載せざる所有る者は、蕃に兵馬有る処は蕃守り、漢に兵馬有る処は漢守り、並びに見守に依り、侵越すべからず。其の先に兵馬無き処は、新たに置くべからず、並びに城堡を築き耕種すべからず。今二国の将相辞を受けて会し、斎戒して将に事せんとし、天地山川の神に告ぐ。惟れ神照臨し、愆墜無からんことを。其の盟文は宗廟に蔵し、副は有司に在り、二国の成、其れ永く之を保たん。

原文唐有天下,恢奄禹跡,舟車所至,莫不率俾。以累聖重光,歷年惟永,彰王者之丕業,被四海之聲教。與吐蕃贊普,代為婚姻,固結鄰好,安危同體,甥舅之國,將二百年。其間或因小忿,棄惠為讎,封疆騷然,靡有寧歲。皇帝踐祚,湣茲黎元,俾釋俘隸,以歸蕃落。蕃國展禮,同茲葉和,行人往復,累布成命。是必詐謀不起,兵車不用矣。彼猶以兩國之要,求之永久,古有結盟,今請用之。國家務息邊人,外其故地,棄利蹈義,堅盟從約。今國家所守界:涇州西至彈箏峽西口,隴州西至清水縣,鳳州西至同谷縣,暨劍南西山大渡河東,為漢界。蕃國守鎮在蘭、渭、原、會,西至臨洮,東至成州,抵劍南西界磨些諸蠻,大渡水西南,為蕃界。其兵馬鎮守之處,州縣見有居人,彼此兩邊見屬漢諸蠻,以今所分見住處,依前為定。其黃河以北,從故新泉軍,直北至大磧,直南至賀蘭山駱駝嶺為界,中間悉為閑田。盟文有所不載者,蕃有兵馬處蕃守,漢有兵馬處漢守,並依見守,不得侵越。其先未有兵馬處,不得新置,並築城堡耕種。今二國將相受辭而會,齊戒將事,告天地山川之神,惟神照臨,無得愆墜。其盟文藏於宗廟,副在有司,二國之成,其永保之。

結贊も亦た盟文を出だすも、坎に加えず、但だ牲を埋むるのみ。盟畢りて、結贊鎰に請うて壇の西南隅の仏幄中に就き香を焚きて誓いを為さしむ。誓畢りて、復た壇に陞りて酒を飲む。献酬の礼、各其の物を用い、以て厚意を将てて帰る。

原文結贊亦出盟文,不加於坎,但埋牲而已。盟畢,結贊請鎰就壇之西南隅佛幄中焚香為誓。誓畢,復陞壇飲酒。獻酬之禮,各用其物,以將厚意而歸。

二月、崔漢衡に命じて節を持ちて蕃に答えしめ、区頰贊等を遣わして帰らしむ。上初めに宰相・尚書を令して蕃相区頰贊と豊邑ほうゆう裏壇所に盟せしめんとす。将に盟せんとす、清水の会に疆埸定まらずと以て、遂に罷む。因りて頰贊を留めて未だ遣わさず、復た漢衡を令して贊普に使わしむ。六月、答蕃使判官於頔と蕃使論頰没蔵等、青海より至る。七月、礼部尚書李揆を以て御史大夫を加え、入蕃会盟使と為す。又た宰相李忠臣・盧杞・関播、右僕射崔寧、工部尚書喬琳、御史大夫於頎、太府卿張献恭、司農卿段秀実、少府監李昌夔、京兆尹王翃、左金吾衛将軍渾瑊等を命じて区頰贊等と壇所に会盟せしむ。初め、於頔蕃中より至り、尚結贊と約す、「疆場既に定まりたらば、請う其の使を帰せ」と。之に従う。豊邑坊の盟壇は京城の内に在りて便ならずと以て、請うて壇を京城の西に卜せんとす。其の礼は清水の儀の如し。盟に先だつこと二日、有司を命じて太廟に告げしめ、監官斎を致す。三日、朝服して壇に升り、関播跪いて盟文を読む。盟畢りて、宴賜して之を遣わす。

原文二月,命崔漢衡持節答蕃,遣區頰贊等歸。上初令宰相、尚書與蕃相區頰贊盟於豐邑裏壇所。將盟,以清水之會疆埸不定,遂罷。因留頰贊未遣,復令漢衡使於贊普。六月,答蕃使判官於頔與蕃使論頰沒藏等至自青海。七月,以禮部尚書李揆加御史大夫,為入蕃會盟使。又命宰相李忠臣、盧杞、關播、右僕射崔寧、工部尚書喬琳、御史大夫於頎、太府卿張獻恭、司農卿段秀實、少府監李昌夔、京兆尹王翃、左金吾衛將軍渾瑊等與區頰贊等會盟於壇所。初,於頔至自蕃中,與尚結贊約:「疆場既定,請歸其使。」從之。以豐邑坊盟壇在京城之內非便,請卜壇於京城之西。其禮如清水之儀。先盟二日,命有司告太廟,監官致齋。三日,朝服升壇,關播跪讀盟文。盟畢,宴賜而遣之。

是の月、鳳翔節度使李晟、吐蕃の侵軼を以て、其の将王佖を遣わして夜に賊営を襲わしめ、驍ぎょう勇三千人を率いて汧陽に入らしむ。之を誡めて曰く、「賊の大衆、当に城下を過ぐべし、其の首尾を撃つこと無かれ。首尾雖も敗るとも、中軍力全く、若し勢を合して之を攻めば、汝必ず其の弊を受くべし。但だ其の前軍の已に過ぐるを候え。五方旗・虎豹衣を見れば、則ち其の中軍なり。其の意に出でず、乃ち是れ奇功なり」と。佖其の言の如く出撃す、賊衆果たして敗れ、副将史廷玉力戦して之に死す。又た鳳翔城下を寇す、李晟兵を出して之を禦ぎ、一夕にして退く。十月、李晟兵を遣わして吐蕃の沙堡を襲わし、大いに之を破る。其の帰積を焚き、蕃酋扈屈律設贊等七人を斬り、首を伝えて京師に至らしむ。

原文是月,鳳翔節度使李晟以吐蕃侵軼,遣其將王佖夜襲賊營,率驍勇三千人入汧陽。誡之曰:「賊之大眾,當過城下,無擊其首尾。首尾雖敗,中軍力全,若合勢攻之,汝必受其弊。但候其前軍已過。見五方旗、虎豹衣,則其中軍也。出其不意,乃是奇功。」佖如其言出擊之,賊眾果敗,副將史廷玉力戰死之。又寇鳳翔城下,李晟出兵禦之,一夕而退。十月,李晟遣兵襲吐蕃之沙堡,大破之。焚其歸積,斬蕃酋扈屈律設贊等七人,傳首京師。

十一月、吐蕃塩州を陥す。初め、賊の来るや、刺史杜彦光使いをして以て牛酒を以て之を犒わしむ。吐蕃之に謂いて曰く、「我州城に居らんと欲す、爾が其の人を率いて去るを聴け」と。彦光乃ち衆を悉くして鄜州に奔る。十二月、夏州を陥し、刺史拓拔乾暉衆を率いて去り、復た其の城を拠す。又た銀州を寇す、素より城壁無く、人皆奔散す。

原文十一月,吐蕃陷鹽州。初,賊之來也,刺史杜彥光使以牛酒犒之。吐蕃謂曰:「我欲州城居之,聽爾率其人而去。」彥光乃悉眾奔鄜州。十二月,陷夏州,刺史拓拔乾暉率眾而去,復據其城。又寇銀州,素無城壁,人皆奔散。

三年春、検校左庶子・兼御史中丞崔浣を命じて入吐蕃使と為し、相次いで又た左庶子李銛を遣わして之に使わしむ。河東・保寧等道節度使馬燧朝に来る。初め、尚結贊既に塩・夏等州を陥し、各千余人を留めて之を守らしめ、結贊の大衆は鳴沙に屯す。去冬より春に及び、羊馬多く死に、糧餉給せず。時に詔を遣わして華州・潼関節度駱元光、邠寧節度韓遊瑰に衆を統べさせ、鳳翔・鄜・邠及び諸道の戍卒と、塞上に屯せしめ、又た燧を命じて師を率い石州に次がしめ、兵を分かち河を隔てて元光等と掎角し之を討たしむ。結贊聞きて大いに懼れ、累ねて使を遣わして和を請い、仍ち盟会を約す。上皆許さず。又た其の大将論頰熱を遣わし厚礼卑詞を以て燧に求めて盟を請わしむ、燧以て之を奏す、上又た許さず。惟だ其の勢を合して討逐するを促すのみ。燧は賂を喜び詐を信じ、乃ち頰熱と俱に朝に入り、盛んに其の保信すべきを言い、盟約を許す、上是に於いて之に従う。燧既に朝に赴くや、諸軍但だ壁を閉ずるのみ。結贊遽かに其の衆を悉くして夏州を棄てて帰る、馬既に多く死に、徒歩する者有り。是に及びて夏の平涼の会、竟に盟を渝え、馬燧も亦た此より兵柄を失い朝請を奉ず。

原文三年春,命檢校左庶子、兼御史中丞崔浣為入吐蕃使,相次又遣左庶子李銛使之。河東、保寧等道節度使馬燧來朝。初,尚結贊既陷鹽、夏等州,各留千餘人守之,結贊大眾屯於鳴沙。自去冬及春,羊馬多死,糧餉不給。時詔遣華州、潼關節度駱元光、邠寧節度韓遊瑰統眾與鳳翔、鄜、邠及諸道戍卒,屯於塞上,又命燧率師次於石州,分兵隔河與元光等掎角討之。結贊聞而大懼,累遣使請和,仍約盟會。上皆不許。又遣其大將論頰熱厚禮卑詞求燧請盟,燧以奏焉,上又不許。惟促其合勢討逐。燧喜賂信詐,乃與頰熱俱入朝,盛言其可保信,許盟約,上於是從之。燧既赴朝也,諸軍但閉壁而已。結贊遽悉其眾棄夏州而歸,馬既多死,有徒行者。及是夏平涼之會,竟渝盟,馬燧亦由此失兵柄而奉朝請矣。

四月、崔浣鳴沙より至る。初め、浣鳴沙に至り、尚結贊と相見え、其の約に違いて塩・夏州を陥せる故を詢問す。対えて曰く、

原文四月,崔浣至自鳴沙。初,浣至鳴沙,與尚結贊相見,詢問其違約陷鹽、夏州之故。對曰:

本は定界碑の牽倒せらるるを以て、恐らくは二国盟に背き相侵さんと、故に境上に造りて旧好を修めんことを請う。又た蕃軍は頃年武功に於いて朱泚の衆を破るも、未だ酬償を得ず、是を以て来るのみ。涇州に徙るに及び、其の節度使は城を閉じて自ら守り、音問達すること莫し。又た鳳翔に徙り、李令公に通使せんことを請うも、亦た見納せられず。康成・王真之を遣わして来らしむるに及び、皆大国の命を達すること能わず。日々大臣の使を充てんことを望み、兼ねて情礼を展べんとすれど、実に至る者無く、乃ち軍を引いて還る。塩・夏二州の師に及び、二州は我が衆を懼れ、以て城を我に与え、全きを求めて帰らんことを請う、我の攻め陥す所に非ず。今君国親として命を将う、若し好を結び盟を復せば、蕃の願いなり。盟会の期及び定界の所、唯命を是れ聴く。君帰りて奏決せば、定めて塩・夏を以て相還すべし。

原文本以定界碑被牽倒,恐二國背盟相侵,故造境上請修舊好。又蕃軍頃年破朱泚之眾於武功,未獲酬償,所以來耳。及徙涇州,其節度使閉城自守,音問莫達。又徙鳳翔,請通使於李令公,亦不見納。及遣康成、王真之來,皆不能達大國之命。日望大臣充使,兼展情禮,實無至者,乃引軍還。及鹽、夏二州之師,二州懼我之眾,請以城與我,求全而歸,非我所攻陷也。今君以國親將命,若結好復盟。蕃之願也。盟會之期及定界之所,唯命是聽。君歸奏決,定當以鹽、夏相還也。

又た云く、

原文又云:

清水の会は、同盟者少なく、是を以て和好軽慢にして成らず。今蕃相及び元帥已下凡そ二十一人赴かん。霊州節度使杜希全は稟性和善、外境の知る所、請う令して盟会を主たらしめよ。涇州節度李観も、亦た同く之を主たることを請う。

原文清水之會,同盟者少,是以和好輕慢不成。今蕃相及元帥已下凡二十一人赴。靈州節度使杜希全稟性和善,外境所知,請令主盟會。涇州節度李觀,亦請同主之。

又た章表を同じくして上聞す。浣は蕃中に給役する者を誘賂し、其の人馬の真数を求めしむ、凡そ五万九千余人・馬八万六千余匹、戦う可き者は僅かに三万人、余は悉く童幼、数を備うるのみ。

原文又同章表上聞。浣誘賂蕃中給役者,求其人馬真數,凡五萬九千餘人、馬八萬六千餘匹,可戰者僅三萬人,餘悉童幼,備數而已。

この日、崔浣を鴻臚卿に改め、再び吐蕃に入らしむ。浣に命じて尚結贊に報ぜしむるに、「杜希全は職は霊州にあり、境を出づべからず。李観は今や既に官を改め、侍中渾瑊を以て盟会使に充てん」と。五月二十四日に清水にて再び盟をなすことを約す。また、塩・夏の二州を我に帰せしむれば、初めて盟会に就くべしと告げしむ。上は蕃情の実ならざるを疑い、州を得ることを以て信とせんとす。五月、渾瑊、盟会使に充てらるるを以て来たりて辞し、且つ命を受く。兵部尚書崔漢衡を以て盟会副使とし、司勛員外郎鄭叔矩を判官とす。渾瑊、会盟の所に赴かんとす。上、瑊に命じて衆二万余人を統べしめ、華州潼関節度駱元光を遣わして之に赴かしむ。上、宰臣に命じて吐蕃使論泣贊等を中書に召し、会盟の所を議せしむ。

原文是日,改崔浣為鴻臚卿,再入吐蕃。令浣報尚結贊曰:「杜希全職在靈州,不可出境。李觀今已改官,以侍中渾瑊充盟會使。」約以五月二十四日復盟於清水。又令告以鹽、夏二州歸於我,才就盟會。上疑蕃情不實,以得州為信焉。五月,渾瑊以充盟會使來辭,且受命。以兵部尚書崔漢衡為盟會副使,司勛員外郎鄭叔矩為判官。渾瑊赴會盟所,上令瑊統眾二萬餘人,遣華州潼關節度駱元光赴之。上令宰臣召吐蕃使論泣贊等於中書議會盟之所。

初め崔浣は尚結贊と清水にて再会することを約し、且つ先ず我に塩・夏の二州を帰せしめんとす。結贊云く、「清水は吉地に非ず、原州の土梨樹にて会せんことを請う」と。また盟を畢えて二州を帰すことを請う。浣、使者を遣わし、泣贊等と共に奏す。上は遠人を懐柔せんことを務め、皆之に従う。五月十五日に土梨樹にて盟することを約す。上、宰臣を召して之を謀る。先に左神策将馬有麟奏す、「土梨樹の地は険隘多く、恐らくは蕃軍の隠伏するありて、我に利あらず。平涼川は四隅坦平にして、且つ涇州に近し。之に就くは便なり」と。是れより乃ち盟所を平涼川に定む。時に蕃使論泣贊は既に復命し、遽かに追い還し、告げて之を遣わす。

原文初崔浣與尚結贊約復會於清水,且先歸我鹽、夏二州,結贊云:「清水非吉地,請會於原州之土梨樹。」又請盟畢歸二州。浣遣使與泣贊等同奏,上務懷柔遠人,皆從之。約以五月十五日盟於土梨樹,上召宰臣謀之。先是左神策將馬有麟奏:「土梨樹地多險隘,恐蕃軍隱伏,不利於我。平涼川四隅坦平,且近涇州。就之為便。」由是乃定盟所於平涼川。時蕃使論泣贊已復命,遽追還,告而遣之。

渾瑊と尚結贊、平涼にて会す。初め、瑊と結贊は約す、兵三千人を壇の東西に列ね、散手四百人を壇下に至らしむ。盟せんと将るに及び、又各々遊軍を益し相い覘伺すべしと約す。結贊は精騎数万を壇の西に擁し、蕃の遊軍は我が師を貫穿す。瑊の将梁奉貞、六十騎を率いて遊軍と為る。纔に蕃中に至るや、皆執留せられ、瑊は虞わざるなり。結贊又人を遣わして瑊に請う、「侍中以下、衣冠剣珮を服して命を俟たんことを請う」と。蓋し其の下馬を誘い、将に劫持せんとす。瑊と崔漢衡、監軍特進宋鳳朝等は皆幕次に入り、坦として他慮無し。結贊、鼓を伐ちて三声すと命ず。其の衆呼噪して至る。瑊、遽かに幕後より出で、偶々他馬を得て、跨りて奔帰す。時に馬に銜を加えず、瑊は鬣に伏して手を以て之を加う。凡そ十余里を馳すに、銜方に口に及び、故に追騎の矢は過ぎて傷つけず。唯だ瑊の裨将辛栄、数百人を招合し、北阜に拠りて賊と接戦す。須臾にして賊衆四面より合し、栄、力屈して降る。鳳朝及び瑊の判官韓弇、並びに乱兵に殺さる。漢衡及び中官劉延邕、俱文珍、李清朝、漢衡の判官鄭叔矩、路泌、掌書記袁同直、大将扶餘準、馬寧及び神策・鳳翔・河東の大将孟日華、李至言、楽演明、范澄、馬弇等六十余人、皆焉に陥る。余の将士及び夫役の死者四五百人、駆掠せらるる者千余人、咸く其の衣を解奪せらる。

原文渾瑊與尚結贊會於平涼。初,瑊與結贊約,以兵三千人列於壇之東西,散手四百人至壇下。及將盟,又約各益遊軍相覘伺。結贊擁精騎數萬於壇西,蕃之遊軍貫穿我師。瑊之將梁奉貞率六十騎為遊軍,才至蕃中,皆被執留,瑊不虞也。結贊又遣人請瑊曰:「請侍中以下服衣冠劍珮以俟命。」蓋誘其下馬,將劫持之。瑊與崔漢衡、監軍特進宋鳳朝等皆入幕次,坦無他慮,結贊命伐鼓三聲,其眾呼噪而至。瑊遽出自幕後,偶得他馬,跨而奔歸。時馬不加銜,瑊伏於鬣而手加之,凡馳十餘里,銜方及口,故追騎之矢,過而不傷焉。唯瑊之裨將辛榮招合數百人,據北阜與賊接戰,須臾賊眾四合,榮力屈而降。鳳朝及瑊判官韓弇,並為亂兵所殺。漢衡及中官劉延邕、俱文珍、李清朝,漢衡判官鄭叔矩、路泌,掌書記袁同直,大將扶餘準、馬寧及神策、鳳翔、河東大將孟日華、李至言、樂演明、范澄、馬弇等六十餘人皆陷焉。餘將士及夫役死者四五百人,驅掠者千餘人,咸被解奪其衣。

初め、漢衡は乱軍に撃たれ、其の従吏呂温、身を以て之を蔽い、刃温に中りて漢衡は免るるを得たり。漢衡乃ち夷言を以て執る者に謂いて曰く、「我は漢使崔尚書なり。結贊は我と善し。若し我を殺さば、結贊も亦汝を殺さん」と。乃ち之を拾て、尽く駆りて西す。既に面縛せられ、各々一木を以て自ら領より趾に至り身に約し、毛繩を以て三たび之を束ね、又毛繩を以て其の髪を連ねて之を約す。夜は皆地に踣ち、髪繩を以て各々一橛に繫ぎ、又毛罽を以て都て之を覆う。守衛者は其の上に臥し、以て其の亡逸を防ぐ。故原州に至り、結贊は帳中に坐し、召して相見え、数え国家を譲り、因りて渾瑊に怒りて曰く、「武功の捷は、皆我が力なり。涇州・霊州を以て相報せんことを許すも、皆其の言を食らう。我に負うこと深し。挙国の忿る所なり。本や是の盟を劫かすは、瑊を擒うに在り。吾は金飾の桎梏を以て瑊を待たしめ、将に贊普に献ぜんとす。既に之を失う。虚しく君等を致すのみ。当に君輩三人を帰遣せん」と。呂温、瘡を帯びて亦至る。結贊、其の義を嘉し、厚く賫を与う。結贊、其の衆を率いて石門に至り、中官俱文珍、渾瑊の将馬寧、馬燧の将馬弇を我に帰せしむ。遂に漢衡、叔矩等を河州に囚し、辛栄、扶餘準等を故廓州・鄯州に分かち囚す。結贊は本や杜希全・李観に盟を問わんことを請い、将に二節将を執らんとし、其の鋭師を率いて来たり京師を犯さんとす。希全等既に行かず、又渾瑊を執らんと欲し、長駆して入寇せんとす。其の謀や此の如し。上、中官王子恆を遣わし、詔書を賫して以て結贊に遺わす。蕃界は納れずして還る。

原文初,漢衡為亂軍所擊,其從吏呂溫以身蔽之,刃中溫而漢衡獲免。漢衡乃夷言謂執者曰:「我漢使崔尚書也,結贊與我善,如若殺我,結贊亦殺汝。」乃拾之,盡驅而西。既已面縛,各以一木自領至趾約於身,以毛繩三束之,又以毛繩連其髮而約之。夜皆踣於地,以髮繩各繫一橛,又以毛罽都覆之,守衛者臥其上,以防其亡逸也。至故原州,結贊坐於帳中,召與相見,數讓國家,因怒渾瑊曰:「武功之捷,皆我之力,許以涇州、靈州相報,皆食其言。負我深矣,舉國所忿。本劫是盟,在擒瑊也。吾遣以金飾桎梏待瑊,將獻贊普。既以失之,虛致君等耳,當遣君輩三人歸也。」呂溫帶瘡亦至,結贊嘉其義,厚給賫之。結贊率其眾於石門,遣中官俱文珍、渾瑊之將馬寧、馬燧之將馬弇歸於我。遂送漢衡、叔矩等囚於河州,辛榮、扶餘準等於故廓州、鄯州分囚之。結贊本請杜希全、李觀問盟,將執二節將,率其銳師來犯京師,希全等既不行,又欲執渾瑊長驅入寇,其謀也如此。上遣中官王子恆賫詔書以遺結贊,蕃界不納而還。

初め、瑊と駱元光、将に涇州を発せんとす。元光、瑊に謂いて曰く、「本や詔を奉じて潘原堡に営し、以て侍中に応援せんと令せらる。窃かに潘原の盟所を去ること六七十里、蕃情は詐り多し。侍中倘いに急あらば、何に由りて之を知らん。侍中に次いで営せんことを請い、以て其の変を虞わん」と。瑊、詔旨に非ざるを以て、固く之を止む。元光、同じく進む。瑊の営は西に盟所を去ること二十余里、元光の営は之に次ぐ。其の濠柵は頗る深固なり。瑊の濠柵は踰越すべし。瑊の単騎にて奔帰するに及び、未だ其の営に及ばず、守将李朝彩は衆を整うること能わず、多く已に奔散す。瑊の至るに、空営のみ。器械資糧悉く之を棄つ。元光の衆の営中に陣するに頼り、瑊既に入るや、賊の追騎方に退く。元光乃ち先ず輜重を遣わし、次いで瑊と俱に其の号令を申し、其の部伍を厳にして還る。瑊復た奉天に鎮す。

原文初,瑊與駱元光將發涇州,元光謂瑊曰:「本奉詔令營於潘原堡,以應援侍中。竊以潘原去盟所六七十里,蕃情多詐,侍中倘有急,何由知之?請次侍中為營,以虞其變。」瑊以非詔旨,固止之。元光與同進。瑊之營西去盟所二十餘里,元光之營次之。其濠柵頗深固,瑊之濠柵可逾越焉。及瑊單騎奔歸,未及其營,守將李朝彩不能整眾,多已奔散。瑊至,空營而已,器械資糧悉棄之,賴元光之眾陣於營中,瑊既入,賊追騎方退。元光乃先遣輜重,次與瑊俱申其號令,嚴其部伍而還。瑊復鎮於奉天。

六月、塩・夏の二州にて吐蕃は城門及び廬舎を焚き、城壁を毀ちて帰る。七月、詔して曰く、

原文六月,鹽、夏二州吐蕃焚城門及廬舍,毀城壁而歸。七月,詔曰:

乃者吐蕃塞を犯し、我が生霊を毒し、隴東を俶擾し、河曲に深入す。朕は兵戈粗く定まり、傷夷未だ瘳えず、戦伐の謀を息ましむるを務め、遂に通和の請に従う。亦た戎醜の志は貪婪に在るを知るも、重ねて修睦の辞に違わず、乃ち尋盟の会を允す。果たして隠匿を為し、変は壝宮に発す。犬羊兇狡の群を縦し、文武信誠の衆に乗ず。蒼黄淪陷し、深く用て惻然たり。此れ皆朕の明らかならざるに由り、其の此に至らしむ。既に万衆に徳無く、亦四方に愧あり。宵旰憂を貽す、何ぞ嗟いて及ばん。今、兵部尚書崔漢衡等は、皆国の良士、朝の藎臣、窮廬に嬰縶せられ、眇然として殊域に在り。其の家室を念えば、或いは未だ屢空に周らざるあらん。息男を以て録すれば、庶幾くは薄俸に資せん。漢衡は宜しく一子に七品官を与うべし。司勛員外郎鄭叔矩、検校戸部郎中路泌、殿中侍御史韓弇及び大将孟日華、辛栄、李至言、范澄、王良賁、楽演明、陽昔、権交成等は、各々一子に八品官を与うべし。試左金吾兵曹参そうしん軍袁同直、榆次尉裴颋及び副兵馬使以下は、各々一子に九品官を与うべし。仍って並びに正員官とす。余の将幹は各々一子に官を与うべし。仍って本使に委ねて即ち名銜を具して聞奏せしむ。

原文乃者吐蕃犯塞,毒我生靈,俶擾隴東,深入河曲。朕以兵戈粗定,傷夷未瘳,務息戰伐之謀,遂從通和之請。亦知戎醜,誌在貪婪,重違修睦之辭,乃允尋盟之會。果為隱匿,變發壝宮,縱犬羊兇狡之群,乘文武信誠之眾,蒼黃淪陷,深用惻然。此皆由朕之不明,致其至此。既無德於萬眾,亦有愧於四方,宵旰貽憂,何嗟而及。今兵部尚書崔漢衡等,皆國之良士,朝之藎臣,嬰縶窮廬,眇然殊域。念其家室,或未周於屢空;錄以息男,庶或資於薄俸。漢衡宜與一子七品官,司勛員外郎鄭叔矩、檢校戶部郎中路泌、殿中侍御史韓弇及大將孟日華、辛榮、李至言、範澄、王良賁、樂演明、陽昔、權交成等,各與一子八品官;試左金吾兵曹參軍袁同直、榆次尉裴颋及副兵馬使以下,各與一子九品官。仍並與正員官。餘將幹各與一子官,仍委本使即具名銜聞奏。

是に於いて決勝軍使唐良臣を遣わし、衆六百人を以て潘原堡を戍らしめ、神策副将蘇太平に其の衆五百人を率いしめて隴州を戍らしむ。

原文於是遣決勝軍使唐良臣以眾六百人戍潘原堡,神策副將蘇太平率其眾五百人戍隴州。

八月、崔漢衡が吐蕃より至る。初め、漢衡は同じく陥落した者と共に河州に至り、尚結贊は漢衡と神策将の孟日華・中官の劉延邕を召して、共に石門に至らせてこれを遣わした。結贊は五十騎をして境上まで送らせ、且つ表を携えて進上を請わしむ。潘原に至り、李観は使者を止めて曰く、「詔あり、更に蕃使を受け入れざるべし」と。その表を受け、その人を返す。是より以降、吐蕃は羌・渾の衆を率いて塞を犯し、潘口及び青石嶺に分かれて屯す。先に、吐蕃の衆は潘口より東に分かれて三道と為す。その一は隴州に向かい、その一は汧陽の東に向かい、その一は釣竿原に向かう。この日、相次いで向かう所の地に屯し、連営すること数十里。その汧陽の賊営は、鳳翔より四十里に距たり、京師は震恐し、士庶は奔駭す。賊は羌・渾の衆を遣わし、漢の戎服を衣て、偽りに邢君牙の衆と称し、奄かにして吳山及び寶雞の北界に至り、廬舎を焚焼し、人畜を駆掠し、吳山の神の首を断ち、百姓の丁壮なる者はこれを駆りて帰し、羸老なる者は皆これを殺し、或いは手を断ち目を鑿ち、これを棄てて去る。初め、李晟が鳳翔に在りて、大木を伐ちて安化峽を塞がしむ。是に及んで、賊はこれを併せて焚く。

原文八月,崔漢衡至自吐蕃。初,漢衡與同陷者並至河州,尚結贊令召漢衡與神策將孟日華、中官劉延邕,俱至石門而遣之。結贊令五十騎送至境上,且賫表請進。及潘原,李觀使止曰:「有詔不許更納蕃使。」受其表而返其人。自是吐蕃率羌、渾之眾犯塞,分屯於潘口及青石嶺。先是,吐蕃之眾自潘口東分為三道:其一趨隴州,其一趨汧陽之東,其一趨釣竿原。是日,相次屯於所趨之地,連營數十里。其汧陽賊營,距鳳翔四十里,京師震恐,士庶奔駭。賊遣羌、渾之眾,衣漢戎服,偽稱邢君牙之眾,奄至吳山及寶雞北界,焚燒廬舍,驅掠人畜,斷吳山神之首,百姓丁壯者驅之以歸,羸老者咸殺之,或斷手鑿目,棄之而去。初,李晟在鳳翔,令伐大木塞安化峽,及是,賊並焚之。

九月、詔して神策軍将の石季章に衆三千を以て武宮を戍らしめ、唐良臣を召して潘原より百里城を戍らしむ。この月、吐蕃は大いに汧陽・吳山・華亭等の界の人庶男女万余口を掠め、悉く安化峽の西に送り、将に羌・渾等に分かれて隷せんとす。乃ち曰く、「爾輩に従いて東に向かい郷国に哭辞せよ」と。衆遂に大いに哭す。その時一慟して絶ゆる者数百人、崖谷に投じて死傷する者千余人、聞く者これが為に痛心す。渾瑊はその将の任蒙主に衆三千を以て好疇を戍らしむ。この月、吐蕃の衆復た至り、豊義及び華亭に分かれて屯す。百僚入計して以て吐蕃の囲みを破らんとす。隴州刺史の韓清沔は蘇太平と夜に出兵して大像龕に伏す。夜半に及び、城中及び龕に各々火を挙げて相応ぜしむ。賊大いに驚き、因ってその営を襲う。賊乃ち退散す。時に吐蕃は華亭を攻め陥す。

原文九月,詔神策軍將石季章以眾三千戍武宮,召唐良臣自潘原戍百里城。是月,吐蕃大掠汧陽、吳山、華亭等界人庶男女萬餘口,悉送至安化峽西,將分隸羌、渾等。乃曰:「從爾輩東向哭辭鄉國。」眾遂大哭。其時一慟而絕者數百人,投崖谷死傷者千餘人,聞者為之痛心焉。渾瑊遣其將任蒙主以眾三千戍好疇。是月,吐蕃之眾復至,分屯於豐義及華亭。百僚入計以破吐蕃圍。隴州刺史韓清沔與蘇太平夜出兵伏於大像龕。及夜半,令城中及龕各舉火相應,賊大驚,因襲其營,賊乃退散。時吐蕃攻陷華亭。

初め、賊の華亭を囲むや、先ずその汲水の道を絶つ。その守将の王仙鶴及び鎮兵百姓凡そ三千人、皆囲みの中に在り。人をして間道より隴州に請救せしむ。刺史の韓清沔は蘇太平に一千五百人を率いてこれに赴かしむ。中路に及び、その遊騎百余が賊に没す。太平は素より懦怯にして謀寡く、遽かに衆を引いて退帰す。賊是より以降毎日遊騎千余をして隴州に至らしむ。州兵敢えて復た出でず。凡そ四日、囲みの中水絶え、援軍至らず。賊又た柴を城下に積み、将にこれを焚かんとす。仙鶴遂に賊に降る。賊は併せて廬舎を焚き、城壁を毀ち、士衆十三四を虜とし、丁壮を収め老を棄てて去る。北に連雲堡を攻め、又た陥す。堡の三面は頗る峭峻、唯だ北面のみ原に連なり、濠を以て固しと為す。賊その北より拋楼七具を建て、堡中を撃つ。堡中唯一の井有り、石を投ずれば俄かに満つ。又た飛梁を架して濠を過ぎ、苦しくこれを攻む。堡将の張明遂にその衆男女千余口と共に東に向かい慟哭して降る。涇州の西、唯だ連雲堡のみ毎に賊の進退を偵候す。是に及びて堡陥つ。涇州敢えて西門を啓かず。西門外皆賊の境と為り、樵蘇殆ど絶え、禾稼を収刈するには必ず野に陣を布してこれを収獲す。獲既に時を失い、得る所多く空穂なり。ここに於いて涇人に饑憂有り。吐蕃は連雲堡の衆及び邠・涇の編戸にして山谷に逃竄する者を駆掠し、併せて牛畜万計、その衆を悉くして弾箏峽に送る。是より以降、涇・隴・邠等賊の至る所、俘掠殆ど尽きる。この秋、数州の人積聚する者無し。辺将唯だ使者を遣わして表賀し賊退くのみ。

原文初,賊之圍華亭也,先絕其汲水道。其守將王仙鶴及鎮兵百姓凡三千人,皆在圍中。使人間道請救於隴州,刺史韓清沔令蘇太平率一千五百人赴之。及中路,其遊騎百餘沒於賊,太平素懦怯寡謀,遽引眾退歸。賊自是每日令遊騎千餘至隴州,州兵不敢復出。凡四日,圍中絕水,援軍不至,賊又積柴城下,將焚之,仙鶴遂降於賊。賊並焚廬舍,毀城壁,虜士眾十三四,收丁壯棄老而去。北攻連雲堡,又陷。堡之三面頗峭峻,唯北面連原,以濠為固。賊自其北建拋樓七具,擊堡中,堡中唯一井,投石俄而滿焉。又飛梁架濠而過,苦攻之。堡將張明遂與其眾男女千餘口東向慟哭而降。涇州之西,唯有連雲堡每偵候賊之進退,及是堡陷,涇州不敢啟西門,西門外皆為賊境,樵蘇殆絕,收刈禾稼,必布陣於野而收獲之。獲既失時,所得多空穗。於是涇人有饑憂焉。吐蕃驅掠連雲堡之眾及邠、涇編戶逃竄山谷者,並牛畜萬計,悉其眾送至彈箏峽。自是涇、隴、邠等賊之所至,俘掠殆盡。是秋,數州人無積聚者,邊將唯遣使表賀賊退而已。

十月、吐蕃数千騎復た長武城に至る。韓全義は衆を率いてこれを禦ぐ。韓遊瑰の将、衆を以てこれを助けんことを請う。遊瑰許さず。暮に及び、賊退く。全義も亦た引き還る。是より以降、賊の騎常に涇・邠の間に往来し、諸城の西門敢えて啓く者莫し。賊又た故原州城を修し、その大衆ここに屯す。

原文十月,吐蕃數千騎復至長武城,韓全義率眾禦之。韓遊瑰之將請以眾助之,遊瑰不許。及暮,賊退,全義亦引還。自是賊之騎常往來涇、邠之間,諸城西門莫敢啟者。賊又修故原州城,其大眾屯焉。

四年五月、吐蕃三万余騎塞を犯し、分かれて涇・邠・寧・慶・麟等州に入り、彭原県の廨舎を焚き、至る所廬舎を焼き、人畜没する者約二三万、計ること凡そ二旬にして方に退く。陳許行営将の韓全義は長武城より衆を率いてこれに抗す。功無くして還る。遊瑰は素より軍政無く、且つ疾有りて興ること能わず、城を閉じて自ら守り、敢えて禦ぐ者莫し。先に、吐蕃入寇するや、恒に秋冬を以てし、春に及べば多く疾疫に遇いて退く。是の来たりしや、方に盛暑にして患い無し。蓋し華人の陥ちたる者、その資産を厚くし、その妻子を質とし、戎虜に将いられて侵軛せらるるなり。九月、吐蕃の将の尚悉董星・論莽羅等寧州を寇す。節度使の張献甫は衆を率いてこれを禦ぎ、首百余級を斬る。賊転じて麟坊等州を寇し、掠めを縦にして去る。

原文四年五月,吐蕃三萬餘騎犯塞,分入涇、邠、寧、慶、麟等州,焚彭原縣廨舍,所至燒廬舍,人畜沒者約二三萬,計凡二旬方退。陳許行營將韓全義自長武城率眾抗之,無功而還。遊瑰素無軍政,且疾不能興,閉城自守,莫敢禦也。先是,吐蕃入寇,恆以秋冬,及春則多遇疾疫而退。是來也,方盛暑而無患。蓋華人陷者,厚其資產,質其妻子,為戎虜所將而侵軼焉。九月,吐蕃將尚悉董星、論莽羅等寇寧州,節度使張獻甫率眾禦之,斬首百餘級,賊轉寇麟坊等州,縱掠而去。

五年十月、剣南節度使の韋臯は将の王有道等を遣わし、東蛮の両林苴那時・勿鄧夢沖等と兵を帥い、故巂州の臺登北谷に於いて吐蕃の青海・獵城の二節度を大破し、その大兵馬使の乞臧遮遮・悉多楊硃を殺し、首二千余級を斬り、その崖谷に投じ水に赴きて死する者勝えず、籠官四十五人を生擒し、器械一万余事・馬牛羊一万余頭匹を収獲す。遮遮は、吐蕃の驍勇なる者なり。或いは云う、尚結贊の子なりと。頻りに辺患と為る。その死するより、官軍の攻むる城柵、降下せざる莫し。蕃衆日々に却き、数年の間、巂州の境を尽く復す。

原文五年十月,劍南節度使韋臯遣將王有道等與東蠻兩林苴那時、勿鄧夢沖等帥兵於故巂州臺登北谷大破吐蕃青海、獵城二節度,殺其大兵馬使乞臧遮遮、悉多楊硃,斬首二千餘級,其投崖谷赴水死者不可勝數,生擒籠官四十五人,收獲器械一萬餘事、馬牛羊一萬餘頭匹。遮遮者,吐蕃驍勇者也,或云尚結贊之子,頻為邊患。自其死也,官軍所攻城柵,無不降下。蕃眾日卻,數年間,盡復巂州之境。

六年、吐蕃我が北庭都護府を陥す。初め、北庭・安西は、既に回紇に仮道して朝奏し、因ってこれに附庸す。蕃の性貪狠にして、征求度無し。北庭は羌に近く、凡そ服用食物の資する所、必ず強いてこれを取り、人の生を卿ぶること無し。又た沙陀部六千余帳有りて北庭と相依い、亦た回紇に属す。回紇はその抄奪を肆にし、尤も厭苦す。その葛祿部及び白服突厥は素より回紇と通和す。亦たその奪掠を憾み、吐蕃の厚賂を見誘わるるに因りて、遂にこれに附す。ここに於いて吐蕃は葛祿・白服の衆を率い、去歳各々来たりて北庭を寇す。回紇の大相頡幹迦斯は衆を率いてこれを援く。頻りに戦いて敗績す。吐蕃は攻囲頗る急なり。北庭の人は既に回紇を苦しむ。この歳乃ち城を挙げて吐蕃に降り、沙陀部落も亦た降る。北庭節度使の楊襲古は麾下二千余人と共に出奔して西州に奔る。頡幹迦斯は利あらずして還る。

原文六年,吐蕃陷我北庭都護府。初,北庭、安西,既假道於回紇朝奏,因附庸焉。蕃性貪狠,征求無度。北庭近羌,凡服用食物所資,必強取之,人不卿生矣。又有沙陀部六千餘帳與北庭相依,亦屬於回紇。回紇肆其抄奪,尤所厭苦。其葛祿部及白服突厥素與回紇通和,亦憾其奪掠,因吐蕃厚賂見誘。遂附之。於是吐蕃率葛祿、白服之眾,去歲各來寇北庭,回紇大相頡幹迦斯率眾援之,頻戰敗績,吐蕃攻圍頗急。北庭之人既苦回紇,是歲乃舉城降於吐蕃,沙陀部落亦降焉。北庭節度使楊襲古與麾下二千餘人出奔西州,頡幹迦斯不利而還。

七年秋、又たその丁壮五六万人を悉くし、将に北庭を復せんとし、仍って襲古を召して偕に行かしむ。俄かに吐蕃・葛祿等に撃たれ、大敗し、死者大半。頡幹迦斯これを紿いて曰く、「且く我と同に牙帳に至らば、当に君を本朝に送らん」と。襲古これに従う。牙帳に及び、留めて遣わさず、竟にこれを殺す。是より以降、安西阻絶し、存否を知る莫し。唯だ西州の人、猶固く守る。頡幹迦斯既に敗恤し、慕祿の衆は乗勝して回紇の浮図川を取る。回紇震恐し、悉く西北部落の羊馬を牙帳の南に遷して以てこれを避く。

原文七年秋,又悉其丁壯五六萬人,將復北庭,仍召襲古偕行,俄為吐蕃、葛祿等所擊,大敗,死者大半。頡幹迦斯紿之曰:「且與我同至牙帳,當送君歸本朝也。」襲古從之,及牙帳,留而不遣,竟殺之。自是安西阻絕,莫知存否。唯西州之人,猶固守焉。頡幹迦斯既敗恤,慕祿之眾乘勝取回紇之浮圖川。回紇震恐,悉遷西北部落羊馬於牙帳之南以避之。

八年四月、吐蕃が霊州を寇し、人畜を掠め、水口城を攻め落とし、進んで州城を包囲し、水口及び支渠を塞いで営田とした。詔して河東・振武に分兵して援けと為し、また神策六軍の卒三千余人を分かちて定遠・懐遠の二城に戍らしめ、上は神武楼に御して労い遣わす。吐蕃は引き去る。六月、吐蕃数千騎が青石嶺より涇州を寇し、田軍千余人を掠めて還り、連雲堡に及ぶと、守捉使唐朝臣が兵を遣わして出戦し、大将王進用これに死す。九月、西川節度使韋臯が吐蕃の維州を攻め、大将論贊熱及び首領を獲て京師に献ず。十一月、山南西道節度厳震が芳州及び黒水堡に於いて吐蕃を撃ち破り、その積聚を焚き、併せて首虜を献ず。

原文八年四月,吐蕃寇靈州,掠人畜,攻陷水口城,進圍州城,塞水口及支渠以營田。詔河東、振武分兵為援,又分神策六軍之卒三千餘人戍於定遠、懷遠二城,上御神武樓勞遣之。吐蕃引去。六月,吐蕃數千騎由青石嶺寇涇州,掠田軍千餘人還,及連雲堡,守捉使唐朝臣遣兵出戰,大將王進用死之。九月,西川節度使韋臯攻吐蕃之維州,獲大將論贊熱及首領獻於京師。十一月,山南西道節度嚴震擊破吐蕃於芳州及黑水堡,焚其積聚,並獻首虜。

九年二月、詔して塩州を城す。是の州は先に吐蕃に毀たれ、此より塞外に堡障無し。霊武は勢隔たり、西は鄜坊に逼り、甚だ辺患と為る。故に命じてこれを城し、二旬にして畢る。また詔して兼御史大夫紇幹遂に兵五千を統べさせ、兼御史中丞杜彦光の衆とともにこれを戍らしむ。是の役、上将士の労を念い、厚く度支に令して供給せしむ。また詔して涇原・湖南・山南諸軍に吐蕃を深く討たしめ、その力を分かたしむ。ここにより板築の際、虜塞を犯す者無し。畢るに及び、中外咸に賀す。是の月、西川韋臯が獲たる吐蕃の首虜・器械・旗幟・牛馬を闕下に献ず。

原文九年二月,詔城鹽州。是州先為吐蕃所毀,自此塞外無堡障。靈武勢隔,西逼鄜坊,甚為邊患,故命城之,二旬而畢。又詔兼御史大夫紇幹遂統兵五千與兼御史中丞杜彥光之眾戍之。是役也,上念將士之勞,厚令度支供給。又詔涇原、湖南、山南諸軍深討吐蕃,以分其力。由是板築之際,虜無犯塞者。及畢,中外咸稱賀焉。是月,西川韋臯獻獲吐蕃首虜。器械、旗幟、牛馬於闕下。

初め、将に塩州を城せんとす。上は韋臯に出師して吐蕃の兵を分かたしむるを命ず。韋臯は大将董勔・張芬を遣わして西山及び南道より出で、俄和城・通鶴軍を破る。吐蕃南道元帥論莽熱が衆を率いて来援す、またこれを破り、殺傷数千人、定廉故城を焚く。凡そ柵堡五十余所を平らぐ。

原文初,將城鹽州,上命臯出師以分吐蕃之兵,臯遣大將董勔、張芬出西山及南道,破俄和城、通鶴軍。吐蕃南道元帥論莽熱率眾來援,又破之,殺傷數千人,焚定廉故城。凡平柵堡五十餘所。

十年、南詔蛮蒙異牟尋が神川に於いて吐蕃を大破し、使いを来して捷を献ず。語は『南詔伝』に在り。十一年八月、黄少卿が欽・横・潯・貴の四州を攻め陥す。吐蕃渠帥論乞髯蕩没蔵悉諾律がその家属を以て来降す。明年、並びに帰徳将軍と為す。十二年九月、吐蕃が慶州及び華池県を寇し、殺傷頗る甚だし。

原文十年,南詔蠻蒙異牟尋大破吐蕃於神川,使來獻捷,語在《南詔傳》。十一年八月,黃少卿攻陷欽、橫、潯、貴四州,吐蕃渠帥論乞髯蕩沒藏悉諾律以其家屬來降。明年,並以為歸德將軍。十二年九月,吐蕃寇慶州及華池縣,殺傷頗甚。

十三年正月、邢君牙が隴州西七十里に城を築きて西戎に備えんことを奏請し、永信城と名づく。吐蕃贊普が使い農桑昔を遣わし表を賫して和好を修めんことを請う。辺将以て聞す。上はその豺狼の性、数たび恩に負き約に背くを以て、表状を受けず、その使いを任せて却って帰らしむ。五月十七日、吐蕃が剣山・馬嶺の三処に路を開き、軍を分かちて下営し、僅かに一月を経て、進軍して臺登城に逼る。巂州刺史曹高任が諸軍将士並びに東蛮子弟を率い勢を合わせて接戦し、朝より午に至り、これを大破し、大籠官七人を生擒し、陣上にて三百人を殺獲し、余は刀箭に被る者勝げて紀すべからず、馬畜五百余頭匹・器械二千余事を収獲す。十四年十月、夏州節度使韓全義が塩州西北に於いて吐蕃を破る。十六年六月、塩州が烏蘭橋下に於いて吐蕃を破る。

原文十三年正月,邢君牙奏請於隴州西七十里築城以備西戎,名永信城。吐蕃贊普遣使農桑昔賫表請修和好,邊將以聞。上以其豺狼之性,數負恩背約,不受表狀,任其使卻歸。五月十七日,吐蕃於劍山、馬嶺三處開路,分軍下營,僅經一月,進軍逼臺登城。巂州刺史曹高任率領諸軍將士並東蠻子弟合勢接戰,自朝至午,大破之,生擒大籠官七人,陣上殺獲三百人,餘被刀箭者不可勝紀,收獲馬畜五百餘頭匹、器械二千餘事。十四年十月,夏州節度使韓全義破吐蕃於鹽州西北。十六年六月,鹽州破吐蕃於烏蘭橋下。

十七年七月、吐蕃が塩州を寇し、また麟州を陥し、刺史郭鋒を殺し、城隍を毀ち、居人を大掠し、党項部落を駆りて去る。次いで塩州西九十里横槽烽に軍を頓し、延州の僧延素輩七人を呼び、徐舎人の召すと称す。その火隊の吐蕃没勒が遽かに延素等を引き疾く趨って帳前に至らしむ。皆馬革にて手を梏し、毛繩にて頸を縲す。一の吐蕃の年少を見る。身長六尺余、赤き髭大なる目、乃ち徐舎人なり。縛を解かしめ、帳中に坐せしめ、曰く「師懼るる勿れ。余本は漢人、司空しくう英国公の五代孫なり。武后が王室を斫喪するに属し、高祖こうそ建義中に泯び、子孫絶域に流播し、今三代なり。代々職位に居り、世々兵要を掌るといえども、本を思う心涯り無く、顧みるに血族自ら抜くる由無きのみ。此れ蕃・漢の交境なり。復た九十里にして安楽州に至らば、師東に帰る由無からん」。延素曰く「僧身孤にして親老い、懇に全活を祈る」。悲しみ自ら勝えず。又曰く「余命を奉じて師を率い辺に備え、資食を求むるにより、遂に漢疆に渉り、展転東進して麟州に至る。城既に備え無く、援兵又絶ゆ。是を以てこれを抜く。郭使君は勲臣の子孫なるを知り、必ずやこれを活かさんとす。不幸にして乱兵に害せらる」。適た飛鳥使至る。飛鳥は猶中国の駅騎のごとし。云く「術者上変し、軍を召し亟に還れ」。遂にこれを帰す。時に詔して韋臯に偏将を分遣して歩騎を勒し二万を合せ、成都西山より出で、南北九道並びに進み、棲鶏・老翁・故維州・保州・松州諸城に逼り、以て北辺を紡ぐ故なり。九月、韋臯が維州に於いて吐蕃を大破す。

原文十七年七月,吐蕃寇鹽州,又陷麟州,殺刺史郭鋒,毀城隍,大掠居人,驅党項部落而去。次鹽州西九十里橫槽烽頓軍,呼延州僧延素輩七人,稱徐舍人召。其火隊吐蕃沒勒遽引延素等疾趨至帳前,皆馬革梏手,毛繩縲頸。見一吐蕃年少,身長六尺餘,赤髭大目,乃徐舍人也。命解縛,坐帳中,曰:「師勿懼。余本漢人,司空英國公五代孫也。屬武后斫喪王室,高祖建義中泯,子孫流播絕域,今三代矣。雖代居職位,世掌兵要,思本之心無涯,顧血族無由自拔耳!此蕃、漢交境也,復九十里至安樂州,師無由歸東矣。」延素曰:「僧身孤親老,懇祈全活。」悲不自勝。又曰:「余奉命率師備邊,因求資食,遂涉漢疆,展轉東進至麟州。城既無備,援兵又絕,是以拔之。知郭使君是勛臣子孫,必將活之,不幸為亂兵所害。」適有飛鳥使至,飛鳥,猶中國驛騎也,云:「術者上變,召軍亟還。」遂歸之。時詔韋臯分遣偏將勒步騎合二萬,出成都西山,南北九道並進,逼棲雞、老翁、故維州、保州、松州諸城,以紓北邊故也。九月,韋臯大破吐蕃於維州。

十八年正月、韋臯が吐蕃の大首領論莽熱を捕らえて献上したので、崇仁里の邸宅を賜り住まわせた。莽熱は吐蕃の内大相である。先だって貞元十六年、韋臯が累次にわたり黎州・巂州において吐蕃の二万余りの軍勢を破ると、吐蕃は大いに兵を徴発し、堡塁を築き舟を造り、ひそかに辺境を侵すことを謀ったが、韋臯はことごとくこれを挫いた。そこで吐蕃の酋帥で監統を兼ねる曩貢・臘城などの九節度の嬰嬰、籠官の馬定徳とその大将八十七人が、部落を挙げて降伏してきた。定徳には計略があり、嬰嬰は兵法及び山川地形に通暁しており、吐蕃が用兵するたびに、定徳は常に駅伝に乗って作戦を協議し、諸将はその成算に従った。この時に至り、自ら辺境での功績が立てられず、罪を得ることを恐れて帰順したのである。その翌年、吐蕃の昆明城管下の磨些蛮千余戸がまた降伏してきた。吐蕃はその衆が外に離散したため、ついに北の霊州・朔州を侵し、麟州を陥落させた。詔により韋臯に成都の西山より出兵して北辺の圧迫を緩和させた。韋臯は鎮静軍兵馬使陳洎らに命じ、兵一万を率いて三奇路より出撃させ、威戎軍使崔堯臣に兵一千を率いて龍溪石門路の南より出撃させ、維州・保州の兵馬使仇冕、保州・霸は州の両州刺史董振らに兵二千を率いて吐蕃の維州城に迫らせ、北路兵馬使邢玼および諸州刺史董懐愕らに兵四千を率いて棲鶏・老翁などの城を攻撃させ、都将高倜・王英俊らに兵二千を率いて故松州に迫らせ、隴東路兵馬使元膺および諸将郝宗らにまた兵八千を分けて南道の雅州・邛州・黎州・巂州などの路より出撃させた。また邛州鎮南軍使・御史大夫韋良金に命じて鎮兵一千三百を発し続いて進軍させ、雅州経略使路惟明に三部落の首長趙日進らと兵三千を率いて逋租・偏松などの城を攻撃させ、黎州経略使王有道に三部落の郝金信ら二千を率いて大渡河を渡り吐蕃の境界深く侵入させ、巂州経略使陳孝陽に行営兵馬使何大海・韋義らおよび磨些蛮三部落の首長苴那時と兵四千を率いて昆明・諾済城を攻撃させた。八月より十二月に至るまで、累次にわたり十六万の軍勢を破り、その七城・五軍鎮を陥落させ、三千余戸の降伏を受け、六千人余りを生け捕りにし、一万余りの首級を斬り、ついに維州を包囲した。救援軍が再び到来し、転戦すること千余里、吐蕃は連敗し、霊州・朔州を侵していた軍勢は衆を率いて南下した。そこで賛普は莽熱を遣わし、内大相兼東境五道節度兵馬使・都統群牧大使として雑虜十万の衆を率い、維州の包囲を解こうとやって来た。王師一万余りの衆は、険阻な地に拠り伏兵を設けてこれを待った。まず千人で挑戦すると、莽熱は我が軍の少ないのを見て、全軍で追撃し、伏兵の中に入った。諸将が四方から急撃し、ついに莽熱を捕らえ、虜の軍勢は大いに潰走した。

原文十八年正月,韋臯擒吐蕃大首領論莽熱來獻,賜崇仁裏宅以居之。莽熱,吐蕃內大相也。先貞元十六年,韋臯累破吐蕃二萬餘眾於黎州、巂州,吐蕃遂大搜閱,築壘造舟,潛謀寇邊,臯悉挫之。於是吐蕃酋帥兼監統曩貢、臘城等九節度嬰嬰、籠官馬定德與其大將八十七人,舉部落來降。定德有計畫,嬰嬰習知兵法及山川地形,吐蕃每用兵,定德常乘驛計議,諸將稟其成算。至是自以邊功不立,懼得罪而歸心焉。其明年,吐蕃昆明城管磨些蠻千餘戶又來降。吐蕃以其眾外潰,遂北寇靈、朔,陷麟州。詔韋臯出兵成都西山以紓北邊。臯遂命鎮靜軍兵馬使陳洎等,統兵萬人出三奇路,威戎軍使崔堯臣率兵一千出龍溪石門路南,維保二州兵馬使仇冕、保霸兩州刺史董振等,率兵二千進逼吐蕃維州城中,北路兵馬使邢玼並諸州刺史董懷愕等率兵四千進攻棲雞、老翁等城,都將高倜、王英俊等率兵二千進逼故松州,隴東路兵馬使元膺並諸將郝宗等復分兵八千出南道雅、邛、黎、巂等路。又令邛州鎮南軍使、御史大夫韋良金發鎮兵一千三百續進,雅州經略使路惟明與三部落主趙日進等率兵三千進攻逋租、偏松等城,黎州經略使王有道率三部落郝金信等二千過大渡河深入吐蕃界,巂州經略使陳孝陽與行營兵馬使何大海、韋義等及磨些蠻三部落主苴那時率兵四千進攻昆明、諾濟城。自八月至於十二月,累破十六萬眾,拔其七城、五軍鎮,受降三千餘戶,生擒六千餘人,斬首一萬餘級,遂圍維州。救軍再至,轉戰千餘里,吐蕃連敗,靈、朔之寇引眾南下。於是贊普遣莽熱以內大相兼東境五道節度兵馬使、都統群牧大使率雜虜十萬眾,來解維州之圍。王師萬餘眾,據險設伏以待之。先以千人挑戰,莽熱見我師之少也,悉眾來追,入於伏中,請將四面疾擊,遂擒莽熱,虜眾大潰。

十九年五月、吐蕃の使者論頰熱が到着した。六月、右龍武大将軍薛伾を兼御史大夫とし、吐蕃に派遣した。二十年三月上旬、賛普が卒去したため、三日間朝政を停止し、工部侍郎張薦を命じて弔祭させた。賛普は貞元十三年四月に卒去し、長子が立ったが、一年で卒去し、次子が継いだ。文武三品以上の官を命じてその使者を弔問させた。四月、吐蕃の使者で河南観察使の論乞冉および僧の南撥特計波ら五十四人が来朝した。十二月、使者の論襲執・郭志崇を遣わして来朝した。

原文十九年五月,吐蕃使論頰熱至。六月,以右龍武大將軍薛伾兼御史大夫,使於吐蕃。二十年三月上旬,贊普卒,廢朝三日,命工部侍郎張薦吊祭之。贊普以貞元十三年四月卒,長子立;一歲卒,次子嗣立。命文武三品以上官弔其使。四月,吐蕃使臧河南觀察使論乞冉及僧南撥特計波等五十四人來朝。十二月,遣使論襲執、郭誌崇來朝。

二十一年二月、順宗は左金吾衛将軍兼御史中丞田景度を命じて節を持ち吐蕃に喪を告げさせ、庫部員外郎兼御史中丞熊執易を副使とした。七月、吐蕃の使者論悉諾らが来朝した。永貞元年十月、賛普は使者の論乞縷勃蔵を遣わして貢ぎ物を献上し、徳宗の山陵のための金銀・衣服・牛馬などを助けた。十一月、衛尉少卿兼御史中丞侯幼平を充てて吐蕃に入り冊立などを告げる使とした。

原文二十一年二月,順宗命佐金吾衛將軍、兼御史中丞田景度持節告哀於吐蕃,以庫部員外郎、兼御史中丞熊執易為副使。七月,吐蕃使論悉諾等來朝。永貞元年十月,贊普使論乞縷勃藏來貢,助德宗山陵金銀、衣服、牛馬等。十一月,以衛尉少卿、兼御史中丞侯幼平充入蕃告冊立等使。

十三年十月、吐蕃が我が宥州・鳳翔を包囲し、上書して使者を遣わし和好を修めると言った。この月、霊武が定遠城において吐蕃二万人を破り、二千人を殺戮し、節度副使一人・判官長行三十九人を生け捕りにし、羊馬を多く獲得した。平涼鎮遏使郝玼が二万余りの衆を破り、原州城を収復し、羊馬はその数を知れなかった。夏州節度使田縉も霊武において三千余人を破った。十一月、塩州が上奏した。吐蕃が河曲に入り、夏州が五万余人を破った。霊武が長楽州の羅城を破り、その屋宇器械を焼いた。西川節度使王播が峨和・棲鶏などの城を攻め落とした。

原文十三年十月,吐蕃圍我宥州、鳳翔,上言遣使修好。是月,靈武於定遠城破吐蕃二萬人,殺戮二千人,生擒節度副使一人、判官長行三十九人,獲羊馬甚眾。平涼鎮遏使郝玼破二萬餘眾,收復原州城,獲羊馬不知其數。夏州節度田縉於靈武亦破三千餘人。十一月,鹽州上言:吐蕃入河曲,夏州破五萬餘人。靈武破長樂州羅城,焚其屋宇器械。西川節度使王播攻拔峨和、棲雞等城。

十四年正月、詔を下した。

原文十四年正月,敕曰:

朕は万邦を統治し、誠信を推し広める。西戎が帰順してから、すでに年月を経ているが、その中で違背することもあったときも、かつては寛大に許した。我に特別な徳があれば、これを思わないことがあろうか。重訳して珍宝を貢ぎ、道中に相継ぎ、恩を申し礼を示すことに、欠けたことはなかった。先ごろ蕃使が奏章を奉じて、また京師に至り、君長の命を奉じ、和好の誠意を述べた。軒前に召見し、館での待遇を厚くし、また信幣を与え、簡書をもって諭した。すでに帰途につき、ようやく近郊に至ったところ、たちまち蟻のごとく集まり、封疆を侵犯し、河曲の間で、甚だ暴擾を加えたと聞く。恩恵に背き約束を棄てる、これは無名というべきである。公議も人情も、みな誅絶を請うている。朕は深く徳化がまだ行き渡っていないことを思い、どうして夷俗が賓服しないことを慮ろうか。その国が信を失うも、その使者に何の罪があろう。その縄目を解き放って本性に従わせ、広く覆うことを示して忘れさせよう。我が真心がもし信じられるなら、おそらく彼らに感ずることを知らしめよう。蕃使の論矩立蔵らおよび後に来た使者は、みな宜しく本国に放ち帰すべきである。なお鳳翔節度使に委ねてこの意を以て諭させよ。

原文朕臨禦萬邦,推布誠信。西戎納款,積有歲時,中或虧違,亦嘗苞貸。我有殊德,寧不是思,重譯貢珍,道途相繼,申恩示禮,曾無闕焉。昨者蕃使奉章,又至京輦,將君長之命,陳和好之誠。臨軒召見,館氣加厚,復以信幣,諭之簡書。亦既言旋,才及近甸,遽聞蟻聚,來犯封陲,河曲之間,頗為暴擾。背惠棄約,斯謂無名,公議物情,咸請誅絕。朕深惟德化之未被,豈慮夷俗不之賓,其國失信,其使何罪!釋其維縶以遂性,示之弘覆以忘懷。予衷茍孚,庶使知感。其蕃使論矩立藏等並後般來使,並宜放歸本國。仍委鳳翔節度使以此意曉喻。

八月、吐蕃が慶州方渠に営を置き、大軍が河州の境界に至った。十月、吐蕃の節度論三摩および宰相尚塔蔵・中書令尚綺心児が共に軍を率いて約十五万の衆、我が塩州を数重に包囲した。党項の首領もまた兵を発し羊馬を駆って助けた。三十日を経過し、賊は飛梯・鵞車・木驢などで四面から一斉に攻撃し、城が陥落しそうになること数回に及んだ。刺史李文悦が兵士を率いて城に乗り力戦し、城壁が破損して守れなくなると、家屋の板を撤去して防禦に用い、昼夜防戦し、あるときはひそかに兵を出して敵営を襲い、城門を開いて出戦し、約一万余りの賊を殺した。諸道の救兵は来る者なかった。凡そ二十七日、賊はようやく退いた。

原文八月,吐蕃營於慶州方渠,大軍至河州界。十月,吐蕃節度論三摩及宰相尚塔藏、中書令尚綺心兒共領軍約十五萬眾,圍我鹽州數重。党項首領亦發兵驅羊馬以助。閱歷三旬,賊以飛梯、鵝車、木驢等四面齊攻,城欲陷者數四。刺史李文悅率兵士乘城力戰,城穿壞不可守,撤屋版以禦之,晝夜防拒,或潛兵斫營,開城出戰,約殺賊萬餘眾。諸道救兵無至者。凡二十七日,賊乃退。

十五年二月、秘書少監兼御史中丞田洎を吐蕃に入らせ喪を告げさせ、併せて冊立を告げさせた。三月、我が青塞堡を攻撃掠奪した。七月、使者を遣わして弔祭した。十月、涇州に侵攻逼迫した。右軍中尉梁守謙を充てて左右神策・京西・京北行営都監とし、神策兵四千人を統率し、併せて八鎮の全軍を発して救援に向かわせた。太府少卿兼御史中丞邵同に節を持たせ吐蕃に入り、答請和好使を充てた。前の吐蕃入り使・秘書少監田洎を郴州司戸に貶した。

原文十五年二月,以秘書少監兼御史中丞田洎入吐蕃告哀,並告冊立。三月,攻掠我青塞堡。七月,遣使來吊祭。十月,侵逼涇州。命右軍中尉梁守謙充左右神策、京西、京北行營都監,統神策兵四千人,並發八鎮全軍往救援。以太府少卿、兼御史中丞邵同持節入吐蕃,充答請和好使。貶前入吐蕃使、秘書少監田洎郴州司戶。

初めに、田洎が蕃に赴き弔祭使となった時、蕃は長武城下で会盟することを請うた。田洎は懦怯で、帰還できぬことを恐れ、唯々諾々と承諾するのみであった。この度、西戎が侵入し、かつ「田洎は我らに兵馬を統率して盟誓に赴くことを許した」と言った。そこで彼を貶したのである。戎人は実際には辺境の将が侵擾したことに憤りを生じたのであり、ただ田洎を口実にしたに過ぎない。涇州が上言して言うには、「吐蕃の大将が皆退いた」と。ここにおいて神策行営の兵を罷めた。田縉が夏州を統べるようになってから、貪婪で侵擾を繰り返し、党項はこれを苦しみ、しばしば西戎を引き入れて塞を犯させた。この度大軍が侵入し、辺将の郝玼が幾度も蕃の堡塁を襲撃し、殺戮すること甚だ多く、邠州の李光顔もまた全軍を率いて到着したので、戎人は恐れて退いた。蓋し田縉が初めて国の患いを生じさせ、李光顔・郝玼の駆逐殺戮に頼ったのである。十一月、夏州節度使李佑は自ら兵を率いて長沢鎮に赴き、霊武節度使李聴は自ら兵を率いて長楽州に赴き、共に詔を奉じて吐蕃を討った。十二月、吐蕃千余人が烏池・白池を包囲した。

原文初,洎入蕃為吊祭使,蕃請於長武城下會盟。洎懦怯,恐不得還,唯唯而已。至是西戎入寇,且曰:「田洎許我統兵馬赴盟誓。」遂貶之。戎人實以邊將擾之致忿,徒假洎為辭也。涇州上言:「吐蕃大將並退。」於是罷神策行營兵。自田縉統夏州,以貪狠侵擾,党項苦之,屢引西戎犯塞。及是大兵入寇,邊將郝玼數襲擊蕃壘,殺戮甚眾,邠州李光顏復以全師而至,戎人懼而退。蓋田縉始生國患,而賴光顏、郝玼之驅戮也。十一月,夏州節度使李佑自領兵赴長澤鎮,靈武節度使李聽自領兵赴長樂州,並奉詔討吐蕃也。十二月,吐蕃千餘人圍烏、白池。

維れ唐は天を承け、八紘を撫有し、声教の至る所、廷に来らざるはなし。兢業として斉栗し、その顛隕を懼れ、武を纘ぎ文を紹ぎ、慶を疊ね光を重ね、浚哲を克く彰わし、洪緒を忝かしむることなく、十有二葉、二百有四載。則ち我が太祖、権めて明号を建てて不抜とし、鴻名を鋪して永久に垂る。上帝に類して嘉応に答え、皇霊を享けて景福に酬い、何ぞ怠ることあらんや。歳を癸丑に越え、冬十月癸酉、文武孝徳皇帝、詔して丞相臣植・臣播・臣元穎等に、大将和蕃使礼部尚書訥羅論等と、京師に会盟せしめ、壇を城の西郊にし、坎を壇の北にす。凡そ誓を読み、牲を刑し、書を加え、壌を復し、陟降・周旋の礼、動くに違うことなきは、蓋し兵を偃げ人を息め、姻を崇め好を継ぎ、遠略を懋建し、長利を規恢する故なり。

原文維唐承天,撫有八纮,聲教所臻,靡不來廷。兢業齊栗,懼其隕顛,纘武紹文,疊慶重光,克彰浚哲,罔忝洪緒,十有二葉,二百有四載。則我太祖,權明號而建不拔,鋪鴻名而垂永久。類上帝以答嘉應,享皇靈以酬景福,曷有怠已?越歲在癸丑,冬十月癸酉,文武孝德皇帝詔丞相臣植、臣播、臣元穎等,與大將和蕃使禮部尚書訥羅論等,會盟於京師,壇於城之西郊,坎於壇北。凡讀誓、刑牲、加書、復壤、陟降、周旋之禮,動無違者,蓋所以偃兵息人,崇姻繼好,懋建遠略,規恢長利故也。

そもそも昊穹は上に臨み、黄祗は下に載せ、茫茫たる蠢蠢たるの類、必ず官司を資り、その宰臣と為る。苟も統紀なければ、則ち相滅絶す。中夏の見管するは、維れ唐を君とし、西裔一方は、大蕃を主とす。今より後、兵革を屏去し、宿忿旧悪、廓焉として消除し、舅甥を追崇し、曩昔の結援を懐う。辺堠は警を撤し、戍烽は煙を韜み、患難は相恤い、暴掠は作さず、亭障甌脱、その交侵を絶つ。襟帯要害、謹んで守ること故の如く、彼に此の詐なく、此に彼の虞なし。嗚呼、人を愛するを仁と為し、境を保つを信と為し、天を畏るるを智と為し、是を神とするを礼と為す。一至らざるあれば、災を躬に構う。塞山は崇崇たり、河水は湯湯たり、日は吉く辰は良し、その両疆を奠め、西は大蕃と為し、東は実に巨唐なり。大臣は簡を執り、秋方に播告す。

原文原夫昊穹上臨,黃祗下載,茫茫蠢蠢之類,必資官司,為厥宰臣,茍無統紀,則相滅絕。中夏見管,維唐是君;西裔一方,大蕃為主。自今而後,屏去兵革,宿忿舊惡,廓焉消除,追崇舅甥,曩昔結援。邊堠撤警,戍烽韜煙,患難相恤,暴掠不作,亭障甌脫,絕其交侵。襟帶要害,謹守如故,彼無此詐,此無彼虞。嗚呼!愛人為仁,保境為信,畏天為智,是神為禮,有一不至,抅災於躬。塞山崇崇,河水湯湯,日吉辰良,奠其兩疆,西為大蕃,東實巨唐。大臣執簡,播告秋方。

大蕃の贊普及び宰相缽闡布・尚綺心児等、先に盟文の要節を寄せて云う、「蕃・漢両邦、各々見管の本界を守り、彼此征することなく、討つことなく、相寇讎と為ることなく、境上を侵謀することなし。若し疑う所あらば、或いは生を捉えて事を問わんと要すれば、便ち衣糧を与えて放還す」と。今並びに依従し、更に添改することなし。

原文大蕃贊普及宰相缽闡布、尚綺心兒等,先寄盟文要節云:「蕃、漢兩邦,各守見管本界,彼此不得征,不得討,不得相為寇讎,不得侵謀境上。若有所疑,或要捉生問事,便給衣糧放還。」今並依從,更無添改。

盟に預かる官十七人、皆名を列ねたり。その劉元鼎等は論訥羅と共に吐蕃本国に赴き就いて盟し、仍ち元鼎をして彼に到らしめ、宰相已下に各々盟文の後に自ら名を書かしむ。霊武節度使李進誠、太石山下に於いて吐蕃三千騎を破る。

原文預盟之官十七人,皆列名焉。其劉元鼎等與論訥羅同赴吐蕃本國就盟,仍敕元鼎到彼,令宰相已下各於盟文後自書名。靈武節度使李進誠於太石山下破吐蕃三千騎。

二年二月、使いを遣わして界を定めることを請う。六月、復た使いを遣わして朝す。塩州が奏す、「吐蕃千余人が霊武界に入り、兵を遣わして便に随って邀截す」と。又言う、「党項に書信を送る吐蕃一百五十人を擒え得たり」と。是の月、劉元鼎、吐蕃より使いして回り、奏して云う、「去る四月二十四日に吐蕃の牙帳に到り、五月六日に会盟すみ」と。

原文二年二月,遣使來請定界。六月,復遣使來朝。鹽州奏:「吐蕃千餘人入靈武界,遣兵逐便邀截。」又言:「擒得與党項送書信吐蕃一百五十人。」是月劉元鼎自吐蕃使回,奏云:「去四月二十四日到吐蕃牙帳,以五月六日會盟訖。」

初め、元鼎は往来して蕃中にあり、並びに路は河州を経たり。その都元帥・尚書令しょうしょれい尚騎心児に会い、云う、「回紇は小国なり。我は丙申年に磧を逾えて討逐し、その城郭より二日の行程に去り、計らく到れば即ち破滅せんとす。会うに我が本国に喪あるを聞きて還る。回紇の弱きこと此の如し。而るに唐国は我に厚くするよりも之を待つ。何ぞや」と。元鼎云う、「回紇は国家に救難の勲あり。而して又曾て分寸の土地を侵奪せず。豈に厚からざらんや」と。是の時、元鼎は往来し、黄河の上流を渡る。洪済橋の西南二千余里に在り。その水極めて浅狭く、春は掲げて渉り、秋夏は則ち船を以て渡る。その南三百余里に三山あり。山形は鏃の如し。河源はその間に在り。水は甚だ清冷にして、諸水を経て流るるに、色遂に赤くなり、続いて諸水の注ぐ所となり、漸く黄濁す。又その源は西に去ること蕃の列館に約す四駅、毎駅は約す二百余里。東北に去ること莫賀延磧の尾に、闊さ五十里、南に向かって漸く狭小にす。北は沙州の西よりす。乃ち南に吐渾国に入り、此に至って微かに転ず。故に磧尾と号す。その地理を計るに、当に剣南の直西に当たるべし。元鼎、初めて贊普に悶懼盧川に於いて見ゆ。蓋し贊普の夏衙の所なり。その川は邏娑川の南百里に在り、臧河の流るる所なり。時に吐蕃は使いの論悉諾息等を遣わし、元鼎に随いて来り謝す。命じて太仆少卿杜載を使いと為し以て之に答う。

原文初,元鼎往來蕃中,並路經河州,見其都元帥、尚書令尚騎心兒云:「回紇,小國也。我以丙申年逾磧討逐,去其城郭二日程,計到即破滅矣,會我聞本國有喪而還。回紇之弱如此,而唐國待之厚於我,何哉?」元鼎云:「回紇於國家有救難之勛,而又不曾侵奪分寸土地,豈得不厚乎!」是時元鼎往來,渡黃河上流,在洪濟橋西南二千餘里,其水極為淺狹,春可揭涉,秋夏則以船渡。其南三百餘里有三山,山形如𨫼,河源在其間,水甚清冷,流經諸水,色遂赤,續為諸水所註,漸既黃濁。又其源西去蕃之列館約四驛,每驛約二百餘里。東北去莫賀延磧尾,闊五十里,向南漸狹小,北自沙州之西。乃南入吐渾國,至此轉微,故號磧尾。計其地理,當劍南之直西。元鼎初見贊普於悶懼盧川,蓋贊普夏衙之所,其川在邏娑川南百里,臧河之所流也。時吐蕃遣使論悉諾息等隨元鼎來謝,命太仆少卿杜載使以答之。

三年正月、使いの論答熱を遣わして来朝賀す。四年九月、使いを遣わして『五台山図』を求む。十月、牦牛及び銀を鋳て成したる犀牛・羊・鹿各一を貢ぐ。宝暦元年三月、使いの尚綺立熱を遣わして来朝す。且つ和好を請う。九月、光禄卿李鋭を使いと為して以て之に答う。太和五年より八年に至る。使いを遣わして朝貢絶えず、我も亦時に使いを遣わして之に報ず。開成元年・二年、皆使いを遣わして来る。

原文三年正月,遣使論答熱來朝賀。四年九月,遣使求《五臺山圖》。十月,貢牦牛及銀鑄成犀牛、羊、鹿各一。寶歷元年三月,遣使尚綺立熱來朝。且請和好。九月,遣光祿卿李銳為使以答之。太和五年至八年。遣使朝貢不絕,我亦時遣使報之。開成元年、二年,皆遣使來。

史臣曰く、戎狄の患いを為すこと久し。秦・漢已還より、載籍大いに備わり、詳にすべし。但だ世は小康に罕にして、君は常の聖無し。我衰うれば則ち彼盛んにし、我盛んなれば則ち彼衰う。盛んなれば則ち我が郊圻を侵し、衰うれば則ち我が声教に服す。懐柔の道、備預の方、儒臣は多く和親を議し、武将は唯戦勝を期す。此れその大較なり。彼の吐蕃なるもの、西陲に国を開き、歳年を積み、隣蕃を蚕食し、以て土宇を恢む。高宗の朝、地方万里、我と抗衡す。近代以来、これと盛んなるは莫し。式遏辺境、命を制して出師するが如きに至っては、一彼一此、或いは勝ち或いは負け、労と謂うべし。迨うて幽陵の盗起こり、乗輿播遷し、戍卒咸く帰り、河・湟守を失う。此れ又天の之を仮すなり。茲より京邑に密邇し、時に寇掠を縦す。毎に行人を遣わし、旧好を来り修すと雖も、玉帛纔かに上国に至るや、烽燧已に近郊に及ぶ。恵に背き言を食らい、礼義を顧みず。即ち知るべし。夫れ要は神明に在り、貴ぶはその誠信に在り。平涼の会、その詐謀を畜う。此れ又忠信を以て禦うべからざるなり。孔子曰く、「夷狄に君有りとも、諸夏の亡きに如かず」と。誠に是の言なるかな。

原文史臣曰:戎狄之為患也久矣!自秦、漢已還,載籍大備,可得而詳也。但世罕小康,君無常聖,我衰則彼盛,我盛則彼衰,盛則侵我郊圻,衰則服我聲教。懷柔之道,備預之方,儒臣多議於和親,武將唯期於戰勝,此其大較也。彼吐蕃者,西陲開國,積有歲年,蠶食鄰蕃,以恢土宇。高宗朝,地方萬里,與我抗衡;近代以來,莫之與盛。至如式遏邊境,命制出師,一彼一此,或勝或負,可謂勞矣!迨至幽陵盜起,乘輿播遷,戍卒咸歸,河、湟失守,此又天假之也。自茲密邇京邑,時縱寇掠,雖每遣行人,來修舊好,玉帛才至於上國,烽燧已及於近郊,背惠食言,不顧禮義,即可知也。夫要以神明,貴其誠信,平涼之會,畜其詐謀,此又不可以忠信而禦也。孔子曰:「夷狄之有君,不如諸夏之亡也。」誠哉是言!

賛に曰く、西戎の地、吐蕃是れ強し。隣国を蚕食し、漢疆に鷹揚す。乍には叛き乍には服し、或いは弛み或いは張る。礼義は摂すと雖も、その心は豺狼なり。

原文贊曰:西戎之地,吐蕃是強。蠶食鄰國,鷹揚漢疆。乍叛乍服,或弛或張。禮義雖攝。其心豺狼。