旧唐書 八年の秋、吐蕃の六万騎が霊武を寇し、我が禾稼を蹂躙して去る。十月、涇州・邠州等を寇す。郭子儀は先鋒将渾瑊を遣わして賊と宜禄にて戦う。我が師利あらず、副将史籍等三人これに死し、村墅の居人、駆掠せらるる者凡そ千余人。この夜、瑊は散卒を収合して賊営を襲い、時に馬璘もまたその輜重を襲う。凡そ数千人を殺し、賊遂に潰く。子儀、吐蕃の十余万の衆を大いに破る。

旧唐書

八年の秋、吐蕃の六万騎が霊武を寇し、我が禾稼を蹂躙して去る。十月、涇州・邠州等を寇す。郭子儀は先鋒将渾瑊を遣わして賊と宜禄にて戦う。我が師利あらず、副将史籍等三人これに死し、村墅の居人、駆掠せらるる者凡そ千余人。この夜、瑊は散卒を収合して賊営を襲い、時に馬璘もまたその輜重を襲う。凡そ数千人を殺し、賊遂に潰く。子儀、吐蕃の十余万の衆を大いに破る。

初め、吐蕃が我が邠郊を犯すや、馬璘は精卒二千余人を以て潜かに夜に賊営を掩い、賊の豹皮将を射て目に中つ。賊衆これを扶けて号泣し、遂に営を挙げて遁去す。璘、因って朔方の兵健二百余人、百姓七百余人、駝馬数百匹を収獲す。

九年四月、吐蕃の侵擾に因り、辺備を預め為すべく、乃ち勅を降す。

宜しく子儀に上郡・北地・四塞・五原・義渠・稽胡・鮮卑の雑種歩馬五万の衆を以て、厳かに栒邑に会し、旧軍を克く壮ならしむべし。抱玉は晋の高都、韓の上党、河・湟の義徒、汧・隴の少年、凡そ三万の衆を以て、高壁を横絶し、斜めに界して連営すべし。馬璘は西域の前庭、車師の後部、兼ねて広武の戍、下蔡の徭、凡そ三万の衆を以て、泗中に屯し、大軍の援を張るべし。忠誠は武落別授、右地奇鋒、凡そ二万の衆を以て、岐陽より出でて北に会すべし。希譲は三輔太常の徒、六郡良家の子、渭上より西して汴宋・淄青・河陽・幽薊を合し、総べて四万の衆を以て、前後に分列すべし。魏博・成徳・昭義・永平総べて六万の衆、左右を大いに舒くべし。朕内に禁旅を整え、親しく諸将に誓い、千金の費を資し、六牧の馬を錫う。その戎装戦器、軍用辺儲は、各司存有り、素より皆精辦せり。咨う爾ら将相文武宣力の臣、夫れ師克つは和に在り、善く戦う者は陣せず、各宜しく疆界を保拠し、要衝に屯拠し、斥候惟だ明らかに、首尾相応ずべし。若し既に過ちを悔い改むれば、何ぞ必ずしも人を労せん。如し或いは恭しからざれば、自ら伐罪すべし。然る後に眷求して統一し、以て諸軍を制す。進取の宜は、後命を俟つ。

十一年正月、剣南節度使崔寧、吐蕃の故洪等四節度兼ねて突厥・吐渾・氐・蛮・羌・党項等二十余万の衆を大いに破り、首級万余を斬り、𪃸葛城兵馬使一千三百五十人を生擒し、闕下に献ず。牛羊及び軍資器械、勝げて紀すべからず。十二年九月、坊州に入寇し、党項の羊馬を掠めて去る。十月、崔寧、吐蕃の望漢城を破る。十四年八月、太常少卿韋倫に命じて節を持ちて吐蕃に使わし、蕃俘五百人を統べてこれを帰す。十月、吐蕃、南蛮の衆二十万を率いて来寇す。一は茂州に入り、汶川及び灌口を過ぎ、一は扶州・文州に入り、方維・白壩を過ぎ、一は黎州・雅州より邛峡関を過ぎ、連ねて郡邑を陥す。乃ち禁兵四千人及び幽州兵五千人を発して同く討ち、大いにこれを破る。

二年十二月、入蕃使判官常魯と吐蕃使論悉諾羅等、蕃中より至る。初め、魯とその使崔漢衡が列館に至るや、贊普はこれを止めしめ、先ず国信の勅を取らしむ。既にして使、漢衡に謂いて曰く、「来たる勅に云う、『所貢の献物、並びに領り訖う。今外甥に少信物を賜う、至りて領取せよ』と。我が大蕃と唐とは舅甥の国なるのみ。何ぞ臣礼を以て見処せん。又、定めんと欲する界は、雲州の西、賀蘭山を以て界とせんことを請う。その盟約は、景龍二年の勅書に云う『唐使彼に到れば、外甥先ず盟誓す。蕃使此に到れば、阿舅も亦親しく盟す』に依らんことを請う」と。乃ち漢衡を邀えて使を遣わし奏定せしむ。魯、使として還り奏す。勅書を改め、「貢献」を「進」とし、「賜」を「寄」とし、「領取」を「領之」と為す。且つ謂いて曰く、「前相楊炎、故事に循わず、この誤りを致せり」と。その定界盟は、並びにこれに従う。

三年四月、先に没したる蕃の将士僧尼等八百人を放ちて帰還せしむ。蕃俘を帰すに報ゆるなり。九月、和蕃使・殿中少監兼御史中丞崔漢衡と蕃使区類贊至る。時に吐蕃の大相尚結息は忍びて好殺し、嘗て剣南に覆敗せられたるを以て、その恥を刷がんと思い、約和を肯ぜず。その次相尚結贊は材略有り、因って贊普に言い、界を定め約を明らかにし、以て辺人を息まんことを請う。贊普これを然りとし、竟に結贊を以て結息に代えて大相と為し、終に和好を約し、期して十月十五日に境上に会盟す。崔漢衡を鴻臚卿と為し、都官員外郎樊沢を以て御史中丞を兼ね、入蕃計会使に充てしむ。初め、漢衡、吐蕃と月日を約定して盟誓す。漢衡到るも、商量未だ決せず、已にその期を過ぐ。遂に沢に命じて結贊に詣り盟会の期を復定せしめ、且つ隴右節度使張鎰を遣わしてこれと同盟せんことを告ぐ。沢、故原州に至り、結贊と相見え、来年正月十五日に清水の西に会盟せんとす。

四年正月、張鎰に詔して尚結贊と清水にて盟せしむ。将に盟せんとす。鎰と結贊と約す。各二千人を以て壇の所に赴き、兵を執る者はその半ば、壇外二百歩に列し、散従する者はその半ば、壇下に分立す。鎰と賓佐の斉映・斉抗及び会盟官の崔漢衡・樊沢・常魯・于頔等七人皆朝服す。結贊とその本国の将相論悉頰蔵・論臧熱・論利陀・斯官者・論力徐等も亦七人、倶に壇に陞りて盟す。初め漢は牛を以てし、蕃は馬を以てすと約す。鎰、これと盟するを恥じ、その礼を殺さんとし、乃ち結贊に謂いて曰く、「漢は牛なくして田せず、蕃は馬なくして行かず。今は羊・豕・犬の三物を以てこれに代えんことを請う」と。結贊許諾す。塞外に豕無し。結贊は羝羊を出さんことを請う。鎰は犬及び羊を出す。乃ち壇の北にこれを刑し、雑血二器にして盟に歃す。文に曰く。

唐は天下を有し、禹の跡を恢奄し、舟車の至る所、率俾せざるは莫し。累聖の重光を以て、歴年惟れ永く、王者の丕業を彰し、四海の声教に被る。吐蕃の贊普と、代わりに婚姻を為し、固く鄰好を結び、安危同体、甥舅の国、将に二百年。其の間或いは小忿に因り、恵を棄てて讎と為し、封疆騒然として、寧歳有ること靡し。皇帝践祚し、茲の黎元を湣み、俘隷を釈せしめて、以て蕃落に帰せしむ。蕃国礼を展べ、茲に葉和を同じくし、行人往復し、累ねて成命を布く。是れ必ず詐謀起こらず、兵車用いざるべし。彼猶以て両国の要を以て、之を永久に求め、古に結盟有り、今請う之を用いんと。国家務めて辺人を息め、其の故地を外にし、利を棄て義に蹈み、盟を堅くし約に従う。今国家の守る所の界は、涇州西は弾箏峡西口に至り、隴州西は清水県に至り、鳳州西は同谷県に至り、暨び剣南西山大渡河東、漢界と為す。蕃国の守鎮は蘭・渭・原・会に在り、西は臨洮に至り、東は成州に至り、剣南西界磨些諸蛮に抵し、大渡水西南、蕃界と為す。其の兵馬鎮守の処、州県に見有る居人、彼此両辺に見属する漢諸蛮、以て今の分かつ所の見住処に依り、前に依りて定と為す。其の黄河以北、故新泉軍より、直に北は大磧に至り、直に南は賀蘭山駱駝嶺に至り界と為し、中間悉く閑田と為す。盟文に載せざる所有る者は、蕃に兵馬有る処は蕃守り、漢に兵馬有る処は漢守り、並びに見守に依り、侵越すべからず。其の先に兵馬無き処は、新たに置くべからず、並びに城堡を築き耕種すべからず。今二国の将相辞を受けて会し、斎戒して将に事せんとし、天地山川の神に告ぐ。惟れ神照臨し、愆墜無からんことを。其の盟文は宗廟に蔵し、副は有司に在り、二国の成、其れ永く之を保たん。

結贊も亦た盟文を出だすも、坎に加えず、但だ牲を埋むるのみ。盟畢りて、結贊鎰に請うて壇の西南隅の仏幄中に就き香を焚きて誓いを為さしむ。誓畢りて、復た壇に陞りて酒を飲む。献酬の礼、各其の物を用い、以て厚意を将てて帰る。

二月、崔漢衡に命じて節を持ちて蕃に答えしめ、区頰贊等を遣わして帰らしむ。上初めに宰相・尚書を令して蕃相区頰贊と豊邑裏壇所に盟せしめんとす。将に盟せんとす、清水の会に疆埸定まらずと以て、遂に罷む。因りて頰贊を留めて未だ遣わさず、復た漢衡を令して贊普に使わしむ。六月、答蕃使判官於頔と蕃使論頰没蔵等、青海より至る。七月、礼部尚書李揆を以て御史大夫を加え、入蕃会盟使と為す。又た宰相李忠臣・盧杞・関播、右僕射崔寧、工部尚書喬琳、御史大夫於頎、太府卿張献恭、司農卿段秀実、少府監李昌夔、京兆尹王翃、左金吾衛将軍渾瑊等を命じて区頰贊等と壇所に会盟せしむ。初め、於頔蕃中より至り、尚結贊と約す、「疆場既に定まりたらば、請う其の使を帰せ」と。之に従う。豊邑坊の盟壇は京城の内に在りて便ならずと以て、請うて壇を京城の西に卜せんとす。其の礼は清水の儀の如し。盟に先だつこと二日、有司を命じて太廟に告げしめ、監官斎を致す。三日、朝服して壇に升り、関播跪いて盟文を読む。盟畢りて、宴賜して之を遣わす。

是の月、鳳翔節度使李晟、吐蕃の侵軼を以て、其の将王佖を遣わして夜に賊営を襲わしめ、驍勇三千人を率いて汧陽に入らしむ。之を誡めて曰く、「賊の大衆、当に城下を過ぐべし、其の首尾を撃つこと無かれ。首尾雖も敗るとも、中軍力全く、若し勢を合して之を攻めば、汝必ず其の弊を受くべし。但だ其の前軍の已に過ぐるを候え。五方旗・虎豹衣を見れば、則ち其の中軍なり。其の意に出でず、乃ち是れ奇功なり」と。佖其の言の如く出撃す、賊衆果たして敗れ、副将史廷玉力戦して之に死す。又た鳳翔城下を寇す、李晟兵を出して之を禦ぎ、一夕にして退く。十月、李晟兵を遣わして吐蕃の沙堡を襲わし、大いに之を破る。其の帰積を焚き、蕃酋扈屈律設贊等七人を斬り、首を伝えて京師に至らしむ。

十一月、吐蕃塩州を陥す。初め、賊の来るや、刺史杜彦光使いをして以て牛酒を以て之を犒わしむ。吐蕃之に謂いて曰く、「我州城に居らんと欲す、爾が其の人を率いて去るを聴け」と。彦光乃ち衆を悉くして鄜州に奔る。十二月、夏州を陥し、刺史拓拔乾暉衆を率いて去り、復た其の城を拠す。又た銀州を寇す、素より城壁無く、人皆奔散す。

三年春、検校左庶子・兼御史中丞崔浣を命じて入吐蕃使と為し、相次いで又た左庶子李銛を遣わして之に使わしむ。河東・保寧等道節度使馬燧朝に来る。初め、尚結贊既に塩・夏等州を陥し、各千余人を留めて之を守らしめ、結贊の大衆は鳴沙に屯す。去冬より春に及び、羊馬多く死に、糧餉給せず。時に詔を遣わして華州・潼関節度駱元光、邠寧節度韓遊瑰に衆を統べさせ、鳳翔・鄜・邠及び諸道の戍卒と、塞上に屯せしめ、又た燧を命じて師を率い石州に次がしめ、兵を分かち河を隔てて元光等と掎角し之を討たしむ。結贊聞きて大いに懼れ、累ねて使を遣わして和を請い、仍ち盟会を約す。上皆許さず。又た其の大将論頰熱を遣わし厚礼卑詞を以て燧に求めて盟を請わしむ、燧以て之を奏す、上又た許さず。惟だ其の勢を合して討逐するを促すのみ。燧は賂を喜び詐を信じ、乃ち頰熱と俱に朝に入り、盛んに其の保信すべきを言い、盟約を許す、上是に於いて之に従う。燧既に朝に赴くや、諸軍但だ壁を閉ずるのみ。結贊遽かに其の衆を悉くして夏州を棄てて帰る、馬既に多く死に、徒歩する者有り。是に及びて夏の平涼の会、竟に盟を渝え、馬燧も亦た此より兵柄を失い朝請を奉ず。

四月、崔浣鳴沙より至る。初め、浣鳴沙に至り、尚結贊と相見え、其の約に違いて塩・夏州を陥せる故を詢問す。対えて曰く、

本は定界碑の牽倒せらるるを以て、恐らくは二国盟に背き相侵さんと、故に境上に造りて旧好を修めんことを請う。又た蕃軍は頃年武功に於いて朱泚の衆を破るも、未だ酬償を得ず、是を以て来るのみ。涇州に徙るに及び、其の節度使は城を閉じて自ら守り、音問達すること莫し。又た鳳翔に徙り、李令公に通使せんことを請うも、亦た見納せられず。康成・王真之を遣わして来らしむるに及び、皆大国の命を達すること能わず。日々大臣の使を充てんことを望み、兼ねて情礼を展べんとすれど、実に至る者無く、乃ち軍を引いて還る。塩・夏二州の師に及び、二州は我が衆を懼れ、以て城を我に与え、全きを求めて帰らんことを請う、我の攻め陥す所に非ず。今君国親として命を将う、若し好を結び盟を復せば、蕃の願いなり。盟会の期及び定界の所、唯命を是れ聴く。君帰りて奏決せば、定めて塩・夏を以て相還すべし。

又た云く、

清水の会は、同盟者少なく、是を以て和好軽慢にして成らず。今蕃相及び元帥已下凡そ二十一人赴かん。霊州節度使杜希全は稟性和善、外境の知る所、請う令して盟会を主たらしめよ。涇州節度李観も、亦た同く之を主たることを請う。

又た章表を同じくして上聞す。浣は蕃中に給役する者を誘賂し、其の人馬の真数を求めしむ、凡そ五万九千余人・馬八万六千余匹、戦う可き者は僅かに三万人、余は悉く童幼、数を備うるのみ。

この日、崔浣を鴻臚卿に改め、再び吐蕃に入らしむ。浣に命じて尚結贊に報ぜしむるに、「杜希全は職は霊州にあり、境を出づべからず。李観は今や既に官を改め、侍中渾瑊を以て盟会使に充てん」と。五月二十四日に清水にて再び盟をなすことを約す。また、塩・夏の二州を我に帰せしむれば、初めて盟会に就くべしと告げしむ。上は蕃情の実ならざるを疑い、州を得ることを以て信とせんとす。五月、渾瑊、盟会使に充てらるるを以て来たりて辞し、且つ命を受く。兵部尚書崔漢衡を以て盟会副使とし、司勛員外郎鄭叔矩を判官とす。渾瑊、会盟の所に赴かんとす。上、瑊に命じて衆二万余人を統べしめ、華州潼関節度駱元光を遣わして之に赴かしむ。上、宰臣に命じて吐蕃使論泣贊等を中書に召し、会盟の所を議せしむ。

初め崔浣は尚結贊と清水にて再会することを約し、且つ先ず我に塩・夏の二州を帰せしめんとす。結贊云く、「清水は吉地に非ず、原州の土梨樹にて会せんことを請う」と。また盟を畢えて二州を帰すことを請う。浣、使者を遣わし、泣贊等と共に奏す。上は遠人を懐柔せんことを務め、皆之に従う。五月十五日に土梨樹にて盟することを約す。上、宰臣を召して之を謀る。先に左神策将馬有麟奏す、「土梨樹の地は険隘多く、恐らくは蕃軍の隠伏するありて、我に利あらず。平涼川は四隅坦平にして、且つ涇州に近し。之に就くは便なり」と。是れより乃ち盟所を平涼川に定む。時に蕃使論泣贊は既に復命し、遽かに追い還し、告げて之を遣わす。

渾瑊と尚結贊、平涼にて会す。初め、瑊と結贊は約す、兵三千人を壇の東西に列ね、散手四百人を壇下に至らしむ。盟せんと将るに及び、又各々遊軍を益し相い覘伺すべしと約す。結贊は精騎数万を壇の西に擁し、蕃の遊軍は我が師を貫穿す。瑊の将梁奉貞、六十騎を率いて遊軍と為る。纔に蕃中に至るや、皆執留せられ、瑊は虞わざるなり。結贊又人を遣わして瑊に請う、「侍中以下、衣冠剣珮を服して命を俟たんことを請う」と。蓋し其の下馬を誘い、将に劫持せんとす。瑊と崔漢衡、監軍特進宋鳳朝等は皆幕次に入り、坦として他慮無し。結贊、鼓を伐ちて三声すと命ず。其の衆呼噪して至る。瑊、遽かに幕後より出で、偶々他馬を得て、跨りて奔帰す。時に馬に銜を加えず、瑊は鬣に伏して手を以て之を加う。凡そ十余里を馳すに、銜方に口に及び、故に追騎の矢は過ぎて傷つけず。唯だ瑊の裨将辛栄、数百人を招合し、北阜に拠りて賊と接戦す。須臾にして賊衆四面より合し、栄、力屈して降る。鳳朝及び瑊の判官韓弇、並びに乱兵に殺さる。漢衡及び中官劉延邕、俱文珍、李清朝、漢衡の判官鄭叔矩、路泌、掌書記袁同直、大将扶餘準、馬寧及び神策・鳳翔・河東の大将孟日華、李至言、楽演明、范澄、馬弇等六十余人、皆焉に陥る。余の将士及び夫役の死者四五百人、駆掠せらるる者千余人、咸く其の衣を解奪せらる。

初め、漢衡は乱軍に撃たれ、其の従吏呂温、身を以て之を蔽い、刃温に中りて漢衡は免るるを得たり。漢衡乃ち夷言を以て執る者に謂いて曰く、「我は漢使崔尚書なり。結贊は我と善し。若し我を殺さば、結贊も亦汝を殺さん」と。乃ち之を拾て、尽く駆りて西す。既に面縛せられ、各々一木を以て自ら領より趾に至り身に約し、毛繩を以て三たび之を束ね、又毛繩を以て其の髪を連ねて之を約す。夜は皆地に踣ち、髪繩を以て各々一橛に繫ぎ、又毛罽を以て都て之を覆う。守衛者は其の上に臥し、以て其の亡逸を防ぐ。故原州に至り、結贊は帳中に坐し、召して相見え、数え国家を譲り、因りて渾瑊に怒りて曰く、「武功の捷は、皆我が力なり。涇州・霊州を以て相報せんことを許すも、皆其の言を食らう。我に負うこと深し。挙国の忿る所なり。本や是の盟を劫かすは、瑊を擒うに在り。吾は金飾の桎梏を以て瑊を待たしめ、将に贊普に献ぜんとす。既に之を失う。虚しく君等を致すのみ。当に君輩三人を帰遣せん」と。呂温、瘡を帯びて亦至る。結贊、其の義を嘉し、厚く賫を与う。結贊、其の衆を率いて石門に至り、中官俱文珍、渾瑊の将馬寧、馬燧の将馬弇を我に帰せしむ。遂に漢衡、叔矩等を河州に囚し、辛栄、扶餘準等を故廓州・鄯州に分かち囚す。結贊は本や杜希全・李観に盟を問わんことを請い、将に二節将を執らんとし、其の鋭師を率いて来たり京師を犯さんとす。希全等既に行かず、又渾瑊を執らんと欲し、長駆して入寇せんとす。其の謀や此の如し。上、中官王子恆を遣わし、詔書を賫して以て結贊に遺わす。蕃界は納れずして還る。

初め、瑊と駱元光、将に涇州を発せんとす。元光、瑊に謂いて曰く、「本や詔を奉じて潘原堡に営し、以て侍中に応援せんと令せらる。窃かに潘原の盟所を去ること六七十里、蕃情は詐り多し。侍中倘いに急あらば、何に由りて之を知らん。侍中に次いで営せんことを請い、以て其の変を虞わん」と。瑊、詔旨に非ざるを以て、固く之を止む。元光、同じく進む。瑊の営は西に盟所を去ること二十余里、元光の営は之に次ぐ。其の濠柵は頗る深固なり。瑊の濠柵は踰越すべし。瑊の単騎にて奔帰するに及び、未だ其の営に及ばず、守将李朝彩は衆を整うること能わず、多く已に奔散す。瑊の至るに、空営のみ。器械資糧悉く之を棄つ。元光の衆の営中に陣するに頼り、瑊既に入るや、賊の追騎方に退く。元光乃ち先ず輜重を遣わし、次いで瑊と俱に其の号令を申し、其の部伍を厳にして還る。瑊復た奉天に鎮す。

六月、塩・夏の二州にて吐蕃は城門及び廬舎を焚き、城壁を毀ちて帰る。七月、詔して曰く、

乃者吐蕃塞を犯し、我が生霊を毒し、隴東を俶擾し、河曲に深入す。朕は兵戈粗く定まり、傷夷未だ瘳えず、戦伐の謀を息ましむるを務め、遂に通和の請に従う。亦た戎醜の志は貪婪に在るを知るも、重ねて修睦の辞に違わず、乃ち尋盟の会を允す。果たして隠匿を為し、変は壝宮に発す。犬羊兇狡の群を縦し、文武信誠の衆に乗ず。蒼黄淪陷し、深く用て惻然たり。此れ皆朕の明らかならざるに由り、其の此に至らしむ。既に万衆に徳無く、亦四方に愧あり。宵旰憂を貽す、何ぞ嗟いて及ばん。今、兵部尚書崔漢衡等は、皆国の良士、朝の藎臣、窮廬に嬰縶せられ、眇然として殊域に在り。其の家室を念えば、或いは未だ屢空に周らざるあらん。息男を以て録すれば、庶幾くは薄俸に資せん。漢衡は宜しく一子に七品官を与うべし。司勛員外郎鄭叔矩、検校戸部郎中路泌、殿中侍御史韓弇及び大将孟日華、辛栄、李至言、范澄、王良賁、楽演明、陽昔、権交成等は、各々一子に八品官を与うべし。試左金吾兵曹参軍袁同直、榆次尉裴颋及び副兵馬使以下は、各々一子に九品官を与うべし。仍って並びに正員官とす。余の将幹は各々一子に官を与うべし。仍って本使に委ねて即ち名銜を具して聞奏せしむ。

是に於いて決勝軍使唐良臣を遣わし、衆六百人を以て潘原堡を戍らしめ、神策副将蘇太平に其の衆五百人を率いしめて隴州を戍らしむ。

八月、崔漢衡が吐蕃より至る。初め、漢衡は同じく陥落した者と共に河州に至り、尚結贊は漢衡と神策将の孟日華・中官の劉延邕を召して、共に石門に至らせてこれを遣わした。結贊は五十騎をして境上まで送らせ、且つ表を携えて進上を請わしむ。潘原に至り、李観は使者を止めて曰く、「詔あり、更に蕃使を受け入れざるべし」と。その表を受け、その人を返す。是より以降、吐蕃は羌・渾の衆を率いて塞を犯し、潘口及び青石嶺に分かれて屯す。先に、吐蕃の衆は潘口より東に分かれて三道と為す。その一は隴州に向かい、その一は汧陽の東に向かい、その一は釣竿原に向かう。この日、相次いで向かう所の地に屯し、連営すること数十里。その汧陽の賊営は、鳳翔より四十里に距たり、京師は震恐し、士庶は奔駭す。賊は羌・渾の衆を遣わし、漢の戎服を衣て、偽りに邢君牙の衆と称し、奄かにして吳山及び寶雞の北界に至り、廬舎を焚焼し、人畜を駆掠し、吳山の神の首を断ち、百姓の丁壮なる者はこれを駆りて帰し、羸老なる者は皆これを殺し、或いは手を断ち目を鑿ち、これを棄てて去る。初め、李晟が鳳翔に在りて、大木を伐ちて安化峽を塞がしむ。是に及んで、賊はこれを併せて焚く。

九月、詔して神策軍将の石季章に衆三千を以て武宮を戍らしめ、唐良臣を召して潘原より百里城を戍らしむ。この月、吐蕃は大いに汧陽・吳山・華亭等の界の人庶男女万余口を掠め、悉く安化峽の西に送り、将に羌・渾等に分かれて隷せんとす。乃ち曰く、「爾輩に従いて東に向かい郷国に哭辞せよ」と。衆遂に大いに哭す。その時一慟して絶ゆる者数百人、崖谷に投じて死傷する者千余人、聞く者これが為に痛心す。渾瑊はその将の任蒙主に衆三千を以て好疇を戍らしむ。この月、吐蕃の衆復た至り、豊義及び華亭に分かれて屯す。百僚入計して以て吐蕃の囲みを破らんとす。隴州刺史の韓清沔は蘇太平と夜に出兵して大像龕に伏す。夜半に及び、城中及び龕に各々火を挙げて相応ぜしむ。賊大いに驚き、因ってその営を襲う。賊乃ち退散す。時に吐蕃は華亭を攻め陥す。

初め、賊の華亭を囲むや、先ずその汲水の道を絶つ。その守将の王仙鶴及び鎮兵百姓凡そ三千人、皆囲みの中に在り。人をして間道より隴州に請救せしむ。刺史の韓清沔は蘇太平に一千五百人を率いてこれに赴かしむ。中路に及び、その遊騎百余が賊に没す。太平は素より懦怯にして謀寡く、遽かに衆を引いて退帰す。賊是より以降毎日遊騎千余をして隴州に至らしむ。州兵敢えて復た出でず。凡そ四日、囲みの中水絶え、援軍至らず。賊又た柴を城下に積み、将にこれを焚かんとす。仙鶴遂に賊に降る。賊は併せて廬舎を焚き、城壁を毀ち、士衆十三四を虜とし、丁壮を収め老を棄てて去る。北に連雲堡を攻め、又た陥す。堡の三面は頗る峭峻、唯だ北面のみ原に連なり、濠を以て固しと為す。賊その北より拋楼七具を建て、堡中を撃つ。堡中唯一の井有り、石を投ずれば俄かに満つ。又た飛梁を架して濠を過ぎ、苦しくこれを攻む。堡将の張明遂にその衆男女千余口と共に東に向かい慟哭して降る。涇州の西、唯だ連雲堡のみ毎に賊の進退を偵候す。是に及びて堡陥つ。涇州敢えて西門を啓かず。西門外皆賊の境と為り、樵蘇殆ど絶え、禾稼を収刈するには必ず野に陣を布してこれを収獲す。獲既に時を失い、得る所多く空穂なり。ここに於いて涇人に饑憂有り。吐蕃は連雲堡の衆及び邠・涇の編戸にして山谷に逃竄する者を駆掠し、併せて牛畜万計、その衆を悉くして弾箏峽に送る。是より以降、涇・隴・邠等賊の至る所、俘掠殆ど尽きる。この秋、数州の人積聚する者無し。辺将唯だ使者を遣わして表賀し賊退くのみ。

十月、吐蕃数千騎復た長武城に至る。韓全義は衆を率いてこれを禦ぐ。韓遊瑰の将、衆を以てこれを助けんことを請う。遊瑰許さず。暮に及び、賊退く。全義も亦た引き還る。是より以降、賊の騎常に涇・邠の間に往来し、諸城の西門敢えて啓く者莫し。賊又た故原州城を修し、その大衆ここに屯す。

四年五月、吐蕃三万余騎塞を犯し、分かれて涇・邠・寧・慶・麟等州に入り、彭原県の廨舎を焚き、至る所廬舎を焼き、人畜没する者約二三万、計ること凡そ二旬にして方に退く。陳許行営将の韓全義は長武城より衆を率いてこれに抗す。功無くして還る。遊瑰は素より軍政無く、且つ疾有りて興ること能わず、城を閉じて自ら守り、敢えて禦ぐ者莫し。先に、吐蕃入寇するや、恒に秋冬を以てし、春に及べば多く疾疫に遇いて退く。是の来たりしや、方に盛暑にして患い無し。蓋し華人の陥ちたる者、その資産を厚くし、その妻子を質とし、戎虜に将いられて侵軛せらるるなり。九月、吐蕃の将の尚悉董星・論莽羅等寧州を寇す。節度使の張献甫は衆を率いてこれを禦ぎ、首百余級を斬る。賊転じて麟坊等州を寇し、掠めを縦にして去る。

五年十月、剣南節度使の韋臯は将の王有道等を遣わし、東蛮の両林苴那時・勿鄧夢沖等と兵を帥い、故巂州の臺登北谷に於いて吐蕃の青海・獵城の二節度を大破し、その大兵馬使の乞臧遮遮・悉多楊硃を殺し、首二千余級を斬り、その崖谷に投じ水に赴きて死する者勝えず、籠官四十五人を生擒し、器械一万余事・馬牛羊一万余頭匹を収獲す。遮遮は、吐蕃の驍勇なる者なり。或いは云う、尚結贊の子なりと。頻りに辺患と為る。その死するより、官軍の攻むる城柵、降下せざる莫し。蕃衆日々に却き、数年の間、巂州の境を尽く復す。

六年、吐蕃我が北庭都護府を陥す。初め、北庭・安西は、既に回紇に仮道して朝奏し、因ってこれに附庸す。蕃の性貪狠にして、征求度無し。北庭は羌に近く、凡そ服用食物の資する所、必ず強いてこれを取り、人の生を卿ぶること無し。又た沙陀部六千余帳有りて北庭と相依い、亦た回紇に属す。回紇はその抄奪を肆にし、尤も厭苦す。その葛祿部及び白服突厥は素より回紇と通和す。亦たその奪掠を憾み、吐蕃の厚賂を見誘わるるに因りて、遂にこれに附す。ここに於いて吐蕃は葛祿・白服の衆を率い、去歳各々来たりて北庭を寇す。回紇の大相頡幹迦斯は衆を率いてこれを援く。頻りに戦いて敗績す。吐蕃は攻囲頗る急なり。北庭の人は既に回紇を苦しむ。この歳乃ち城を挙げて吐蕃に降り、沙陀部落も亦た降る。北庭節度使の楊襲古は麾下二千余人と共に出奔して西州に奔る。頡幹迦斯は利あらずして還る。

七年秋、又たその丁壮五六万人を悉くし、将に北庭を復せんとし、仍って襲古を召して偕に行かしむ。俄かに吐蕃・葛祿等に撃たれ、大敗し、死者大半。頡幹迦斯これを紿いて曰く、「且く我と同に牙帳に至らば、当に君を本朝に送らん」と。襲古これに従う。牙帳に及び、留めて遣わさず、竟にこれを殺す。是より以降、安西阻絶し、存否を知る莫し。唯だ西州の人、猶固く守る。頡幹迦斯既に敗恤し、慕祿の衆は乗勝して回紇の浮図川を取る。回紇震恐し、悉く西北部落の羊馬を牙帳の南に遷して以てこれを避く。

八年四月、吐蕃が霊州を寇し、人畜を掠め、水口城を攻め落とし、進んで州城を包囲し、水口及び支渠を塞いで営田とした。詔して河東・振武に分兵して援けと為し、また神策六軍の卒三千余人を分かちて定遠・懐遠の二城に戍らしめ、上は神武楼に御して労い遣わす。吐蕃は引き去る。六月、吐蕃数千騎が青石嶺より涇州を寇し、田軍千余人を掠めて還り、連雲堡に及ぶと、守捉使唐朝臣が兵を遣わして出戦し、大将王進用これに死す。九月、西川節度使韋臯が吐蕃の維州を攻め、大将論贊熱及び首領を獲て京師に献ず。十一月、山南西道節度厳震が芳州及び黒水堡に於いて吐蕃を撃ち破り、その積聚を焚き、併せて首虜を献ず。

九年二月、詔して塩州を城す。是の州は先に吐蕃に毀たれ、此より塞外に堡障無し。霊武は勢隔たり、西は鄜坊に逼り、甚だ辺患と為る。故に命じてこれを城し、二旬にして畢る。また詔して兼御史大夫紇幹遂に兵五千を統べさせ、兼御史中丞杜彦光の衆とともにこれを戍らしむ。是の役、上将士の労を念い、厚く度支に令して供給せしむ。また詔して涇原・湖南・山南諸軍に吐蕃を深く討たしめ、その力を分かたしむ。ここにより板築の際、虜塞を犯す者無し。畢るに及び、中外咸に賀す。是の月、西川韋臯が獲たる吐蕃の首虜・器械・旗幟・牛馬を闕下に献ず。

初め、将に塩州を城せんとす。上は韋臯に出師して吐蕃の兵を分かたしむるを命ず。韋臯は大将董勔・張芬を遣わして西山及び南道より出で、俄和城・通鶴軍を破る。吐蕃南道元帥論莽熱が衆を率いて来援す、またこれを破り、殺傷数千人、定廉故城を焚く。凡そ柵堡五十余所を平らぐ。

十年、南詔蛮蒙異牟尋が神川に於いて吐蕃を大破し、使いを来して捷を献ず。語は『南詔伝』に在り。十一年八月、黄少卿が欽・横・潯・貴の四州を攻め陥す。吐蕃渠帥論乞髯蕩没蔵悉諾律がその家属を以て来降す。明年、並びに帰徳将軍と為す。十二年九月、吐蕃が慶州及び華池県を寇し、殺傷頗る甚だし。

十三年正月、邢君牙が隴州西七十里に城を築きて西戎に備えんことを奏請し、永信城と名づく。吐蕃贊普が使い農桑昔を遣わし表を賫して和好を修めんことを請う。辺将以て聞す。上はその豺狼の性、数たび恩に負き約に背くを以て、表状を受けず、その使いを任せて却って帰らしむ。五月十七日、吐蕃が剣山・馬嶺の三処に路を開き、軍を分かちて下営し、僅かに一月を経て、進軍して臺登城に逼る。巂州刺史曹高任が諸軍将士並びに東蛮子弟を率い勢を合わせて接戦し、朝より午に至り、これを大破し、大籠官七人を生擒し、陣上にて三百人を殺獲し、余は刀箭に被る者勝げて紀すべからず、馬畜五百余頭匹・器械二千余事を収獲す。十四年十月、夏州節度使韓全義が塩州西北に於いて吐蕃を破る。十六年六月、塩州が烏蘭橋下に於いて吐蕃を破る。

十七年七月、吐蕃が塩州を寇し、また麟州を陥し、刺史郭鋒を殺し、城隍を毀ち、居人を大掠し、党項部落を駆りて去る。次いで塩州西九十里横槽烽に軍を頓し、延州の僧延素輩七人を呼び、徐舎人の召すと称す。その火隊の吐蕃没勒が遽かに延素等を引き疾く趨って帳前に至らしむ。皆馬革にて手を梏し、毛繩にて頸を縲す。一の吐蕃の年少を見る。身長六尺余、赤き髭大なる目、乃ち徐舎人なり。縛を解かしめ、帳中に坐せしめ、曰く「師懼るる勿れ。余本は漢人、司空英国公の五代孫なり。武后が王室を斫喪するに属し、高祖建義中に泯び、子孫絶域に流播し、今三代なり。代々職位に居り、世々兵要を掌るといえども、本を思う心涯り無く、顧みるに血族自ら抜くる由無きのみ。此れ蕃・漢の交境なり。復た九十里にして安楽州に至らば、師東に帰る由無からん」。延素曰く「僧身孤にして親老い、懇に全活を祈る」。悲しみ自ら勝えず。又曰く「余命を奉じて師を率い辺に備え、資食を求むるにより、遂に漢疆に渉り、展転東進して麟州に至る。城既に備え無く、援兵又絶ゆ。是を以てこれを抜く。郭使君は勲臣の子孫なるを知り、必ずやこれを活かさんとす。不幸にして乱兵に害せらる」。適た飛鳥使至る。飛鳥は猶中国の駅騎のごとし。云く「術者上変し、軍を召し亟に還れ」。遂にこれを帰す。時に詔して韋臯に偏将を分遣して歩騎を勒し二万を合せ、成都西山より出で、南北九道並びに進み、棲鶏・老翁・故維州・保州・松州諸城に逼り、以て北辺を紡ぐ故なり。九月、韋臯が維州に於いて吐蕃を大破す。

十八年正月、韋臯が吐蕃の大首領論莽熱を捕らえて献上したので、崇仁里の邸宅を賜り住まわせた。莽熱は吐蕃の内大相である。先だって貞元十六年、韋臯が累次にわたり黎州・巂州において吐蕃の二万余りの軍勢を破ると、吐蕃は大いに兵を徴発し、堡塁を築き舟を造り、ひそかに辺境を侵すことを謀ったが、韋臯はことごとくこれを挫いた。そこで吐蕃の酋帥で監統を兼ねる曩貢・臘城などの九節度の嬰嬰、籠官の馬定徳とその大将八十七人が、部落を挙げて降伏してきた。定徳には計略があり、嬰嬰は兵法及び山川地形に通暁しており、吐蕃が用兵するたびに、定徳は常に駅伝に乗って作戦を協議し、諸将はその成算に従った。この時に至り、自ら辺境での功績が立てられず、罪を得ることを恐れて帰順したのである。その翌年、吐蕃の昆明城管下の磨些蛮千余戸がまた降伏してきた。吐蕃はその衆が外に離散したため、ついに北の霊州・朔州を侵し、麟州を陥落させた。詔により韋臯に成都の西山より出兵して北辺の圧迫を緩和させた。韋臯は鎮静軍兵馬使陳洎らに命じ、兵一万を率いて三奇路より出撃させ、威戎軍使崔堯臣に兵一千を率いて龍溪石門路の南より出撃させ、維州・保州の兵馬使仇冕、保州・霸州の両州刺史董振らに兵二千を率いて吐蕃の維州城に迫らせ、北路兵馬使邢玼および諸州刺史董懐愕らに兵四千を率いて棲鶏・老翁などの城を攻撃させ、都将高倜・王英俊らに兵二千を率いて故松州に迫らせ、隴東路兵馬使元膺および諸将郝宗らにまた兵八千を分けて南道の雅州・邛州・黎州・巂州などの路より出撃させた。また邛州鎮南軍使・御史大夫韋良金に命じて鎮兵一千三百を発し続いて進軍させ、雅州経略使路惟明に三部落の首長趙日進らと兵三千を率いて逋租・偏松などの城を攻撃させ、黎州経略使王有道に三部落の郝金信ら二千を率いて大渡河を渡り吐蕃の境界深く侵入させ、巂州経略使陳孝陽に行営兵馬使何大海・韋義らおよび磨些蛮三部落の首長苴那時と兵四千を率いて昆明・諾済城を攻撃させた。八月より十二月に至るまで、累次にわたり十六万の軍勢を破り、その七城・五軍鎮を陥落させ、三千余戸の降伏を受け、六千人余りを生け捕りにし、一万余りの首級を斬り、ついに維州を包囲した。救援軍が再び到来し、転戦すること千余里、吐蕃は連敗し、霊州・朔州を侵していた軍勢は衆を率いて南下した。そこで賛普は莽熱を遣わし、内大相兼東境五道節度兵馬使・都統群牧大使として雑虜十万の衆を率い、維州の包囲を解こうとやって来た。王師一万余りの衆は、険阻な地に拠り伏兵を設けてこれを待った。まず千人で挑戦すると、莽熱は我が軍の少ないのを見て、全軍で追撃し、伏兵の中に入った。諸将が四方から急撃し、ついに莽熱を捕らえ、虜の軍勢は大いに潰走した。

十九年五月、吐蕃の使者論頰熱が到着した。六月、右龍武大将軍薛伾を兼御史大夫とし、吐蕃に派遣した。二十年三月上旬、賛普が卒去したため、三日間朝政を停止し、工部侍郎張薦を命じて弔祭させた。賛普は貞元十三年四月に卒去し、長子が立ったが、一年で卒去し、次子が継いだ。文武三品以上の官を命じてその使者を弔問させた。四月、吐蕃の使者で河南観察使の論乞冉および僧の南撥特計波ら五十四人が来朝した。十二月、使者の論襲執・郭志崇を遣わして来朝した。

二十一年二月、順宗は左金吾衛将軍兼御史中丞田景度を命じて節を持ち吐蕃に喪を告げさせ、庫部員外郎兼御史中丞熊執易を副使とした。七月、吐蕃の使者論悉諾らが来朝した。永貞元年十月、賛普は使者の論乞縷勃蔵を遣わして貢ぎ物を献上し、徳宗の山陵のための金銀・衣服・牛馬などを助けた。十一月、衛尉少卿兼御史中丞侯幼平を充てて吐蕃に入り冊立などを告げる使とした。

十三年十月、吐蕃が我が宥州・鳳翔を包囲し、上書して使者を遣わし和好を修めると言った。この月、霊武が定遠城において吐蕃二万人を破り、二千人を殺戮し、節度副使一人・判官長行三十九人を生け捕りにし、羊馬を多く獲得した。平涼鎮遏使郝玼が二万余りの衆を破り、原州城を収復し、羊馬はその数を知れなかった。夏州節度使田縉も霊武において三千余人を破った。十一月、塩州が上奏した。吐蕃が河曲に入り、夏州が五万余人を破った。霊武が長楽州の羅城を破り、その屋宇器械を焼いた。西川節度使王播が峨和・棲鶏などの城を攻め落とした。

十四年正月、詔を下した。

朕は万邦を統治し、誠信を推し広める。西戎が帰順してから、すでに年月を経ているが、その中で違背することもあったときも、かつては寛大に許した。我に特別な徳があれば、これを思わないことがあろうか。重訳して珍宝を貢ぎ、道中に相継ぎ、恩を申し礼を示すことに、欠けたことはなかった。先ごろ蕃使が奏章を奉じて、また京師に至り、君長の命を奉じ、和好の誠意を述べた。軒前に召見し、館での待遇を厚くし、また信幣を与え、簡書をもって諭した。すでに帰途につき、ようやく近郊に至ったところ、たちまち蟻のごとく集まり、封疆を侵犯し、河曲の間で、甚だ暴擾を加えたと聞く。恩恵に背き約束を棄てる、これは無名というべきである。公議も人情も、みな誅絶を請うている。朕は深く徳化がまだ行き渡っていないことを思い、どうして夷俗が賓服しないことを慮ろうか。その国が信を失うも、その使者に何の罪があろう。その縄目を解き放って本性に従わせ、広く覆うことを示して忘れさせよう。我が真心がもし信じられるなら、おそらく彼らに感ずることを知らしめよう。蕃使の論矩立蔵らおよび後に来た使者は、みな宜しく本国に放ち帰すべきである。なお鳳翔節度使に委ねてこの意を以て諭させよ。

八月、吐蕃が慶州方渠に営を置き、大軍が河州の境界に至った。十月、吐蕃の節度論三摩および宰相尚塔蔵・中書令尚綺心児が共に軍を率いて約十五万の衆、我が塩州を数重に包囲した。党項の首領もまた兵を発し羊馬を駆って助けた。三十日を経過し、賊は飛梯・鵞車・木驢などで四面から一斉に攻撃し、城が陥落しそうになること数回に及んだ。刺史李文悦が兵士を率いて城に乗り力戦し、城壁が破損して守れなくなると、家屋の板を撤去して防禦に用い、昼夜防戦し、あるときはひそかに兵を出して敵営を襲い、城門を開いて出戦し、約一万余りの賊を殺した。諸道の救兵は来る者なかった。凡そ二十七日、賊はようやく退いた。

十五年二月、秘書少監兼御史中丞田洎を吐蕃に入らせ喪を告げさせ、併せて冊立を告げさせた。三月、我が青塞堡を攻撃掠奪した。七月、使者を遣わして弔祭した。十月、涇州に侵攻逼迫した。右軍中尉梁守謙を充てて左右神策・京西・京北行営都監とし、神策兵四千人を統率し、併せて八鎮の全軍を発して救援に向かわせた。太府少卿兼御史中丞邵同に節を持たせ吐蕃に入り、答請和好使を充てた。前の吐蕃入り使・秘書少監田洎を郴州司戸に貶した。

初めに、田洎が蕃に赴き弔祭使となった時、蕃は長武城下で会盟することを請うた。田洎は懦怯で、帰還できぬことを恐れ、唯々諾々と承諾するのみであった。この度、西戎が侵入し、かつ「田洎は我らに兵馬を統率して盟誓に赴くことを許した」と言った。そこで彼を貶したのである。戎人は実際には辺境の将が侵擾したことに憤りを生じたのであり、ただ田洎を口実にしたに過ぎない。涇州が上言して言うには、「吐蕃の大将が皆退いた」と。ここにおいて神策行営の兵を罷めた。田縉が夏州を統べるようになってから、貪婪で侵擾を繰り返し、党項はこれを苦しみ、しばしば西戎を引き入れて塞を犯させた。この度大軍が侵入し、辺将の郝玼が幾度も蕃の堡塁を襲撃し、殺戮すること甚だ多く、邠州の李光顔もまた全軍を率いて到着したので、戎人は恐れて退いた。蓋し田縉が初めて国の患いを生じさせ、李光顔・郝玼の駆逐殺戮に頼ったのである。十一月、夏州節度使李佑は自ら兵を率いて長沢鎮に赴き、霊武節度使李聴は自ら兵を率いて長楽州に赴き、共に詔を奉じて吐蕃を討った。十二月、吐蕃千余人が烏池・白池を包囲した。

維れ唐は天を承け、八紘を撫有し、声教の至る所、廷に来らざるはなし。兢業として斉栗し、その顛隕を懼れ、武を纘ぎ文を紹ぎ、慶を疊ね光を重ね、浚哲を克く彰わし、洪緒を忝かしむることなく、十有二葉、二百有四載。則ち我が太祖、権めて明号を建てて不抜とし、鴻名を鋪して永久に垂る。上帝に類して嘉応に答え、皇霊を享けて景福に酬い、何ぞ怠ることあらんや。歳を癸丑に越え、冬十月癸酉、文武孝徳皇帝、詔して丞相臣植・臣播・臣元穎等に、大将和蕃使礼部尚書訥羅論等と、京師に会盟せしめ、壇を城の西郊にし、坎を壇の北にす。凡そ誓を読み、牲を刑し、書を加え、壌を復し、陟降・周旋の礼、動くに違うことなきは、蓋し兵を偃げ人を息め、姻を崇め好を継ぎ、遠略を懋建し、長利を規恢する故なり。

そもそも昊穹は上に臨み、黄祗は下に載せ、茫茫たる蠢蠢たるの類、必ず官司を資り、その宰臣と為る。苟も統紀なければ、則ち相滅絶す。中夏の見管するは、維れ唐を君とし、西裔一方は、大蕃を主とす。今より後、兵革を屏去し、宿忿旧悪、廓焉として消除し、舅甥を追崇し、曩昔の結援を懐う。辺堠は警を撤し、戍烽は煙を韜み、患難は相恤い、暴掠は作さず、亭障甌脱、その交侵を絶つ。襟帯要害、謹んで守ること故の如く、彼に此の詐なく、此に彼の虞なし。嗚呼、人を愛するを仁と為し、境を保つを信と為し、天を畏るるを智と為し、是を神とするを礼と為す。一至らざるあれば、災を躬に構う。塞山は崇崇たり、河水は湯湯たり、日は吉く辰は良し、その両疆を奠め、西は大蕃と為し、東は実に巨唐なり。大臣は簡を執り、秋方に播告す。

大蕃の贊普及び宰相缽闡布・尚綺心児等、先に盟文の要節を寄せて云う、「蕃・漢両邦、各々見管の本界を守り、彼此征することなく、討つことなく、相寇讎と為ることなく、境上を侵謀することなし。若し疑う所あらば、或いは生を捉えて事を問わんと要すれば、便ち衣糧を与えて放還す」と。今並びに依従し、更に添改することなし。

盟に預かる官十七人、皆名を列ねたり。その劉元鼎等は論訥羅と共に吐蕃本国に赴き就いて盟し、仍ち元鼎をして彼に到らしめ、宰相已下に各々盟文の後に自ら名を書かしむ。霊武節度使李進誠、太石山下に於いて吐蕃三千騎を破る。

二年二月、使いを遣わして界を定めることを請う。六月、復た使いを遣わして朝す。塩州が奏す、「吐蕃千余人が霊武界に入り、兵を遣わして便に随って邀截す」と。又言う、「党項に書信を送る吐蕃一百五十人を擒え得たり」と。是の月、劉元鼎、吐蕃より使いして回り、奏して云う、「去る四月二十四日に吐蕃の牙帳に到り、五月六日に会盟すみ」と。

初め、元鼎は往来して蕃中にあり、並びに路は河州を経たり。その都元帥・尚書令尚騎心児に会い、云う、「回紇は小国なり。我は丙申年に磧を逾えて討逐し、その城郭より二日の行程に去り、計らく到れば即ち破滅せんとす。会うに我が本国に喪あるを聞きて還る。回紇の弱きこと此の如し。而るに唐国は我に厚くするよりも之を待つ。何ぞや」と。元鼎云う、「回紇は国家に救難の勲あり。而して又曾て分寸の土地を侵奪せず。豈に厚からざらんや」と。是の時、元鼎は往来し、黄河の上流を渡る。洪済橋の西南二千余里に在り。その水極めて浅狭く、春は掲げて渉り、秋夏は則ち船を以て渡る。その南三百余里に三山あり。山形は鏃の如し。河源はその間に在り。水は甚だ清冷にして、諸水を経て流るるに、色遂に赤くなり、続いて諸水の注ぐ所となり、漸く黄濁す。又その源は西に去ること蕃の列館に約す四駅、毎駅は約す二百余里。東北に去ること莫賀延磧の尾に、闊さ五十里、南に向かって漸く狭小にす。北は沙州の西よりす。乃ち南に吐渾国に入り、此に至って微かに転ず。故に磧尾と号す。その地理を計るに、当に剣南の直西に当たるべし。元鼎、初めて贊普に悶懼盧川に於いて見ゆ。蓋し贊普の夏衙の所なり。その川は邏娑川の南百里に在り、臧河の流るる所なり。時に吐蕃は使いの論悉諾息等を遣わし、元鼎に随いて来り謝す。命じて太仆少卿杜載を使いと為し以て之に答う。

三年正月、使いの論答熱を遣わして来朝賀す。四年九月、使いを遣わして『五台山図』を求む。十月、牦牛及び銀を鋳て成したる犀牛・羊・鹿各一を貢ぐ。宝暦元年三月、使いの尚綺立熱を遣わして来朝す。且つ和好を請う。九月、光禄卿李鋭を使いと為して以て之に答う。太和五年より八年に至る。使いを遣わして朝貢絶えず、我も亦時に使いを遣わして之に報ず。開成元年・二年、皆使いを遣わして来る。

史臣曰く、戎狄の患いを為すこと久し。秦・漢已還より、載籍大いに備わり、詳にすべし。但だ世は小康に罕にして、君は常の聖無し。我衰うれば則ち彼盛んにし、我盛んなれば則ち彼衰う。盛んなれば則ち我が郊圻を侵し、衰うれば則ち我が声教に服す。懐柔の道、備預の方、儒臣は多く和親を議し、武将は唯戦勝を期す。此れその大較なり。彼の吐蕃なるもの、西陲に国を開き、歳年を積み、隣蕃を蚕食し、以て土宇を恢む。高宗の朝、地方万里、我と抗衡す。近代以来、これと盛んなるは莫し。式遏辺境、命を制して出師するが如きに至っては、一彼一此、或いは勝ち或いは負け、労と謂うべし。迨うて幽陵の盗起こり、乗輿播遷し、戍卒咸く帰り、河・湟守を失う。此れ又天の之を仮すなり。茲より京邑に密邇し、時に寇掠を縦す。毎に行人を遣わし、旧好を来り修すと雖も、玉帛纔かに上国に至るや、烽燧已に近郊に及ぶ。恵に背き言を食らい、礼義を顧みず。即ち知るべし。夫れ要は神明に在り、貴ぶはその誠信に在り。平涼の会、その詐謀を畜う。此れ又忠信を以て禦うべからざるなり。孔子曰く、「夷狄に君有りとも、諸夏の亡きに如かず」と。誠に是の言なるかな。

賛に曰く、西戎の地、吐蕃是れ強し。隣国を蚕食し、漢疆に鷹揚す。乍には叛き乍には服し、或いは弛み或いは張る。礼義は摂すと雖も、その心は豺狼なり。