舊唐書

巻196上

巻196上

舊唐書

原文舊唐書

卷一百九十六上

原文卷一百九十六上

列傳第一百四十六上 吐蕃上

原文列傳第一百四十六上 吐蕃上

吐蕃は、長安ちょうあんの西八千里の地にあり、本来は漢代の西羌の地である。その種族の出自は知られていないが、ある説では南涼の禿髪利鹿孤の後裔であるという。利鹿孤に子がいて樊尼と名乗り、利鹿孤が没した時、樊尼はまだ幼く、弟の傉檀が位を継ぎ、樊尼を安西将軍とした。後魏の神瑞元年、傉檀が西秦の乞仏熾盤に滅ぼされると、樊尼は残った兵を集めて沮渠蒙遜に投じ、蒙遜は彼を臨松太守とした。蒙遜が滅びると、樊尼は兵を率いて西へ奔り、黄河を渡り、積石山を越え、羌の中に国を建て、千里の地を開拓した。樊尼は威厳と恩恵が早くから顕著で、群羌の心をつかみ、皆を恩信をもって撫で、市が立つように帰順させた。そこで姓を窣勃野と改め、禿髪を国号としたが、言葉が訛って吐蕃と呼ばれるようになった。その後、子孫は繁栄し、また侵攻をやめず、領土は次第に広がった。周から隋の時代を経ても、なお諸羌に隔てられ、中国とは通じていなかった。

原文吐蕃,在長安之西八千里,本漢西羌之地也。其種落莫知所出也,或云南涼禿發利鹿孤之後也。利鹿孤有子曰樊尼,及利鹿孤卒,樊尼尚幼,弟傉檀嗣位,以樊尼為安西將軍。後魏神瑞元年,傉檀為西秦乞佛熾盤所滅,樊尼招集余眾,以投沮渠蒙遜,蒙遜以為臨松太守。及蒙遜滅,樊尼乃率眾西奔,濟黃河,逾積石,於羌中建國,開地千里。樊尼威惠夙著,為群羌所懷,皆撫以恩信,歸之如市。遂改姓為窣勃野,以禿發為國號,語訛謂之吐蕃,其後子孫繁昌,又侵伐不息,土宇漸廣。歷周及隋,猶隔諸羌,未通於中國。

その国の人は王を賛普と呼び、宰相を大論・小論と呼び、国事を統治する。文字はなく、木に刻み縄を結んで契約とする。官職はあるが、常に職務に就くわけではなく、臨時に統領する。徴兵には金の矢を用い、敵が来れば烽火を上げ、百里ごとに亭を置く。刑罰は厳しく、軽い罪でも目や鼻をえぐり、あるいは皮鞭で打つが、ただ喜怒に従うだけで一定の規定はない。囚人を数丈の深さの地下牢に閉じ込め、二、三年してから出す。異国の賓客を宴する時は、必ず牦牛を追い立て、客に自ら射させて供物とする。臣下と一年に一度小さな盟約を結び、羊・犬・猿を殺し、まず足を折ってから殺し、続いて腸を裂いて屠る。巫者に命じて天地山川日月星辰の神に告げて言う、「もし心が変わり、奸計を抱き裏切るならば、神明よこれを見よ、羊や犬のようになるであろう」と。三年に一度大きな盟約を結び、夜に壇の上で皆と供物を並べ、犬・馬・牛・驢を殺して犠牲とし、呪文を唱える、「汝らは皆心を一つにして力を尽くし、共に我が家を守れ、ただ天神地祇のみが汝らの志を知る。この盟約に背くならば、汝らの身体が屠り裂かれるように、この犠牲のようになるであろう」と。

原文其國人號其王為贊普,相為大論、小論,以統理國事。無文字,刻木結繩為約。雖有官,不常厥職,臨時統領。征兵用金箭,寇至舉烽燧,百里一亭。用刑嚴峻,小罪剜眼鼻,或皮鞭鞭之,但隨喜怒而無常科。囚人於地牢,深數丈,二三年方出之。宴異國賓客,必驅牦牛,令客自射牲以供饌。與其臣下一年一小盟,刑羊狗獼猴,先折其足而殺之,繼裂其腸而屠之。令巫者告於天地山川日月星辰之神云:「若心遷變,懷奸反覆,神明鑒之,同於羊狗。」三年一大盟,夜於壇墠之上與眾陳設肴饌,殺犬馬牛驢以為牲,咒曰:「爾等鹹須同心戮力,共保我家,惟天神地祇,共知爾誌。有負此盟,使爾身體屠裂,同於此牲。」

その地の気候は非常に寒く、粳稲は生えず、青稞麦・褭豆・小麦・蕎麦がある。家畜は牦牛・豚・犬・羊・馬が多い。また天鼠があり、雀鼠のようで、猫ほどの大きさがあり、皮は裘にできる。また金・銀・銅・錫が多い。その人は牧畜に従って定住せず、しかし城郭はかなりある。その国の都城は邏些城と呼ばれる。家屋は皆平らな屋根で、高いものは数十尺に至る。貴人は大きな氈帳に住み、これを拂廬と呼ぶ。寝床は汚れ、まったく髪を梳らず体を洗わない。手を合わせて酒を飲み、氈を盤とし、撚鋋を碗とし、羹や酪を盛って共に食べる。羱羝の神を多く祀り、人は巫覡を信じる。季節を知らず、麦が熟すのを歳首とする。囲碁や六博をし、蠡を吹き鼓を鳴らして遊び、弓剣を身から離さない。壮年を重んじ老人を軽んじ、母が子に拝礼し、子が父に傲然とし、出入りは皆若者が先で、老人はその後ろにいる。軍令は厳しく整っており、戦うたびに、前隊が皆死ぬと、後隊が進む。戦死を重んじ、病没を嫌う。代々戦死した家は、甲門とされる。戦場で敗走した者は、狐の尾をその頭に懸け、狐のような臆病さを示し、人の多い所で必ず示衆し、その風習はこれを恥とし、死に次ぐものとする。拝礼は必ず両手を地につけ、狗の吠えるような声を立て、身を二度揖して止める。父母の喪に服する時は、髪を切り、青黛で顔を塗り、衣服は皆黒とし、葬るとすぐに吉に戻る。その賛普が死ぬと、人を殉葬し、衣服・珍玩およびかつて乗った馬・弓・剣の類は、皆ことごとく埋める。なお墓の上に大きな室を建て、土の堆を立て、雑木を挿して祠祭の場所とする。

原文其地氣候大寒,不生秔稻,有青稞麥、褭豆、小麥、喬麥。畜多牦牛豬犬羊馬。又有天鼠,狀如雀鼠,其大如貓,皮可為裘。又多金銀銅錫。其人或隨畜牧而不常厥居,然頗有城郭。其國都城號為邏些城。屋皆平頭,高者至數十尺。貴人處於大氈帳,名為拂廬。寢處汙穢,絕不櫛沐。接手飲酒,以氈為盤,撚鋋為碗,實以羹酪,並而食之。多事羱羝之神,人信巫覡。不知節候,麥熟為歲首。圍棋陸博,吹蠡鳴鼓為戲,弓劍不離身。重壯賤老,母拜於子,子倨於父,出入皆少者在前,老者居其後。軍令嚴肅,每戰,前隊皆死,後隊方進。重兵死,惡病終。累代戰沒,以為甲門。臨陣敗北者,懸狐尾於其首,表其似狐之怯,稠人廣眾,必以徇焉,其俗恥之,以為次死。拜必兩手據地,作狗吠之聲,以身再揖而止。居父母喪,截發,青黛塗面,衣服皆黑,既葬即吉。其贊普死,以人殉葬,衣服珍玩及嘗所乘馬弓劍之類,皆悉埋之。仍於墓上起大室,立土堆,插雜木為祠祭之所。

貞観八年、その賛普棄宗弄贊が初めて使者を遣わして朝貢した。弄贊は弱冠で位を継ぎ、性質は勇猛で武に優れ、英知と謀略が多く、その隣国の羊同および諸羌は皆服従した。太宗は行人馮德遐を遣わして慰撫させた。弄贊は徳遐に会い、大いに喜んだ。突厥および吐谷渾が皆公主を娶ったと聞き、使者を徳遐に従わせて入朝させ、多くの金宝を携え、上表して婚姻を請うたが、太宗はこれを許さなかった。使者が帰還し、弄贊に言うには、「初めて大国に至り、我らを厚く遇し、公主を嫁がせると約束された。ところが吐谷渾王が入朝し、離間工作があり、これによって礼が薄くなり、ついに嫁がせないことになった」と。弄贊はそこで羊同と連合し、兵を発して吐谷渾を撃った。吐谷渾は支えきれず、青海のほとりに逃れてその鋒を避けた。その国の人畜は共に吐蕃に掠奪された。ここにおいて進軍して党項および白蘭の諸羌を撃ち破り、その兵二十万余りを率いて松州の西境に駐屯した。使者を遣わして金帛を貢ぎ、公主を迎えに来たと言った。またその配下に言うには、「もし大国が公主を我に嫁がせなければ、すぐに侵入するであろう」と。そこで松州を攻撃し、都督ととく韓威が軽騎で賊を偵察したが、かえって敗れ、辺境の民は大いに騒いだ。太宗は吏部尚書侯君集を当弥道行営大総管とし、右領軍大将軍執失思力を白蘭道行軍総管とし、左武衛将軍牛進達を闊水道行軍総管とし、右領軍将軍劉蘭を洮河道行軍総管とし、歩騎五万を率いてこれを撃たせた。進達の先鋒が松州から夜襲してその陣営を襲い、千余級を斬った。弄贊は大いに恐れ、兵を引いて退き、使者を遣わして罪を謝した。そこで再び婚姻を請うと、太宗はこれを許した。弄贊はそこでその宰相祿東贊に礼を尽くさせ、金五千両を献上し、その他の宝玩数百点を献じた。

原文貞觀八年,其贊普棄宗弄贊始遣使朝貢。弄贊弱冠嗣位,性驍武,多英略,其鄰國羊同及諸羌並賓伏之。太宗遣行人馮德遐往撫慰之。見德遐,大悅。聞突厥及吐谷渾皆尚公主,乃遣使隨德遐入朝,多賫金寶,奉表求婚,太宗未之許。使者既返,言於弄贊曰:「初至大國,待我甚厚,許嫁公主。會吐谷渾王入朝,有相離間,由是禮薄,遂不許嫁。」弄贊遂與羊同連,發兵以擊吐谷渾。吐谷渾不能支,遁於青海之上,以避其鋒。其國人畜並為吐蕃所掠。於是進兵攻破党項及白蘭諸羌,率其眾二十余萬,頓於松州西境。遣使貢金帛,雲來迎公主。又謂其屬曰:「若大國不嫁公主與我,即當入寇。」遂進攻松州,都督韓威輕騎覘賊,反為所敗,邊人大擾。太宗遣吏部尚書侯君集為當彌道行營大總管,右領軍大將軍執失思力為白蘭道行軍總管,左武衛將軍牛進達為闊水道行軍總管,右領軍將軍劉蘭為洮河道行軍總管,率步騎五萬以擊之。進達先鋒自松州夜襲其營,斬千余級。弄贊大懼,引兵而退,遣使謝罪。因復請婚,太宗許之。弄贊乃遣其相祿東贊致禮,獻金五千兩,自余寶玩數百事。

貞観十五年、太宗は文成公主を以てその妻とし、礼部尚書・江夏郡王李道宗に婚姻の主とならせ、節を持って公主を吐蕃に送らせた。弄贊はその部兵を率いて柏海に駐屯し、河源で自ら出迎えた。道宗に会い、子婿の礼を執って甚だ恭しかった。やがて大国の服飾と礼儀の美しさに嘆息し、俯仰して恥じ入る様子があった。公主と共に帰国すると、親しい者に言うには、「我が父祖には上国と通婚した者はなかったが、今私は大唐の公主を娶ることができ、幸い実に多い。公主のために一城を築き、後代に誇示しよう」と。そこで城邑を築き、棟宇を立てて住まわせた。公主はその人の赭面を嫌ったので、弄贊は国中に命じて暫くこれを止めさせ、自らも氈裘を脱ぎ、紈綺を着て、次第に華風を慕うようになった。なお酋豪の子弟を遣わし、国子学に入って『詩経』・『書経』を学ばせることを請うた。また中国の文を識る者を請い、その上奏文を執り行わせた。

原文貞觀十五年,太宗以文成公主妻之,令禮部尚書、江夏郡王道宗主婚,持節送公主於吐蕃。弄贊率其部兵次柏海,親迎於河源。見道宗,執子婿之禮甚恭。既而嘆大國服飾禮儀之美,俯仰有愧沮之色。及與公主歸國,謂所親曰:「我父祖未有通婚上國者,今我得尚大唐公主,為幸實多。當為公主築一城,以誇示後代。」遂築城邑,立棟宇以居處焉。公主惡其人赭面,弄贊令國中權且罷之,自亦釋氈裘,襲紈綺,漸慕華風。仍遣酋豪子弟,請入國學以習《詩》、《書》。又請中國識文之人典其表疏。

太宗が遼東を征伐して帰還すると、祿東贊を遣わして来賀させた。上表して言うには、「聖天子が四方を平定され、日月の照らす国は、皆臣妾となりましたが、高麗は遠いことを恃み、臣礼を欠いております。天子自ら百万を率い、遼を渡って討伐され、城を陥し陣を陷し、指日にして凱旋されました。夷狄は陛下が出発されたと聞くや、少し進む間に、すでに帰国されたと聞きました。雁が飛んで速く越えるも、陛下の迅速さには及びません。奴は子婿に預かる身として、喜びは常の夷狄の百倍です。鵝は雁の類ですので、金の鵝を作って奉献いたします」と。その鵝は黄金で鋳造され、高さ七尺、中に三斛の酒を盛ることができる。

原文太宗伐遼東還,遣祿東贊來賀。奉表曰:「聖天子平定四方,日月所照之國,並為臣妾,而高麗恃遠,闕於臣禮。天子自領百萬,度遼致討,隳城陷陣,指日凱旋。夷狄才聞陛下發駕,少進之間,已聞歸國。雁飛迅越,不及陛下速疾。奴忝預子婿,喜百常夷。夫鵝,猶雁也,故作金鵝奉獻。」其鵝黃金鑄成,其高七尺,中可實酒三斛。

二十二年、右衛率府長史王玄策が西域に使いしたが、中天竺に掠奪された。吐蕃は精兵を発して玄策と共に天竺を撃ち、これを大破し、使者を遣わして勝利を献上した。

原文二十二年,右衛率府長史王玄策使往西域,為中天竺所掠。吐蕃發精兵與玄策擊天竺,大破之,遣使來獻捷。

高宗が即位すると、弄贊を駙馬都尉に任じ、西海郡王に封じ、賜物二千段を賜う。弄贊はこれにより司徒しと長孫無忌らに書を致して云う、「天子が初めて即位された。もし臣下に不忠の心ある者あらば、兵を率いて国に赴き除討すべし」と。併せて金銀珠寶十五種を献じ、太宗の霊座の前に置くことを請う。高宗はこれを嘉し、賓王に進封し、雑彩三千段を賜う。これにより蚕種及び酒、碾、硙、紙、墨を造る工匠を請うと、併せてこれを許す。乃ち石を刊してその形を像り、昭陵の玄闕の下に列ねる。

原文高宗嗣位,授弄贊為駙馬都尉,封西海郡王,賜物二千段。弄贊因致書於司徒長孫無忌等云:「天子初即位,若臣下有不忠之心者,當勒兵以赴國除討。」並獻金銀珠寶十五種,請置太宗靈座之前。高宗嘉之,進封為賓王,賜雜彩三千段。因請蠶種及造酒、碾、硙、紙、墨之匠,並許焉。乃刊石像其形,列昭陵玄闕之下。

永徽元年、弄贊卒す。高宗これがために挙哀し、右武候将軍鮮于臣済を遣わし、節を持ち璽書を賫して吊祭せしむ。弄贊の子は早く死に、その孫が継いで立ち、復た贊普と号す。時に幼く、国事は皆祿東贊に委ぬ。祿東は姓はMS氏、文記を識らずといえども、性明毅にして嚴重、兵を講じ師を訓え、雅に節制有り、吐蕃の諸羌を併せ、本土を雄霸はするは、多くその謀いなり。

原文永徽元年,弄贊卒。高宗為之舉哀,遣右武候將軍鮮于臣濟持節賫璽書吊祭。弄贊子早死,其孫繼立,復號贊普,時年幼,國事皆委祿東贊。祿東姓MS氏,雖不識文記,而性明毅嚴重,講兵訓師,雅有節制,吐蕃之並諸羌,雄霸本土,多其謀也。

初め、太宗が文成公主の降嫁を許すや、贊普は祿東贊を使わして来迎せしめ、召見して顧問す。進対して旨に合い、太宗はこれを礼し、諸蕃に異なり、乃ち祿東贊を右衛大将軍に拝し、また瑯邪長公主の外孫女段氏を以てこれに妻せんとす。祿東贊辞して曰く、「臣が本国に婦有り、父母の聘いし所、情忍びずして乖かん。且つ贊普未だ公主に謁せず、陪臣安んぞ輒ち娶らんや」と。太宗これを嘉し、厚恩を以て撫せんと欲す。その答を奇とすれども、その請いを遂げず。祿東贊に子五人あり。長は贊悉若、早く死す。次は欽陵、次は贊婆、次は悉多幹、次は勃論。東贊の死するに及び、欽陵兄弟復たその国を専らにす。

原文初,太宗既許降文成公主,贊普使祿東贊來迎,召見顧問,進對合旨,太宗禮之,有異諸蕃,乃拜祿東贊為右衛大將軍,又以瑯邪長公主外孫女段氏妻之。祿東贊辭曰:「臣本國有婦,父母所聘,情不忍乖。且贊普未謁公主,陪臣安敢輒娶。」太宗嘉之,欲撫以厚恩,雖奇其答而不遂其請。祿東贊有子五人:長曰贊悉若,早死;次欽陵,次贊婆,次悉多幹,次勃論。及東贊死,欽陵兄弟復專其國。

後に吐谷渾と和せず、龍朔・麟徳中に遞相に表奏し、各々曲直を論ず。国家は依違し、未だ与奪を為さず。吐蕃怨怒し、遂に兵を率いて吐谷渾を撃つ。吐谷渾大いに敗れ、河源王慕容諾曷缽及び弘化公主は身を脱して涼州に走り投ず。使を遣わして告急す。

原文後與吐谷渾不和,龍朔、麟德中遞相表奏,各論曲直,國家依違,未為與奪。吐蕃怨怒,遂率兵以擊吐谷渾。吐谷渾大敗,河源王慕容諾曷缽及弘化公主脫身走投涼州,遣使告急。

咸亨元年四月、詔して右威衛大将軍薛仁貴を邏婆道行軍大総管と為し、左衛員外大将軍阿史那道真・右衛将軍郭待封を副とし、衆十余万を率いてこれを討たしむ。軍大非川に至り、吐蕃の大将論欽陵に敗れられる。仁貴等並びに坐して除名せらる。吐谷渾全国尽く没し、唯だ慕容諾曷缽及びその親信数千帳来たりて内属し、仍って霊州に徙す。是より吐蕃連年辺を寇し、当・悉等州の諸羌尽くこれに降る。

原文咸亨元年四月,詔以右威衛大將軍薛仁貴為邏婆道行軍大總管,左衛員外大將軍阿史那道真、右衛將軍郭待封為副,率眾十余萬以討之。軍至大非川,為吐蕃大將論欽陵所敗,仁貴等並坐除名。吐谷渾全國盡沒,唯慕容諾曷缽及其親信數千帳來內屬,仍徙於靈州。自是吐蕃連歲寇邊,當、悉等州諸羌盡降之。

上元三年、進んで鄯・廓等州を寇し、人吏を殺掠す。高宗は尚書左僕射劉仁軌を命じて洮河軍に往き鎮守し、以てこれを禦がしむ。儀鳳三年、また中書令李敬玄を命じ、鄯州都督を兼ね、洮河の鎮守において仁軌に代わり往かしむ。仍って関内・河東及び諸州の驍ぎょう勇を募り、以て猛士と為し、色役を簡ばず。また嘗て文武官に任ぜし者あり、殿庭に召入れて宴を賜い、遣わしてこれを撃たしむ。また益州長史李孝逸・巂州都督拓王奉等に令し、剣南・山南の兵募を発して以てこれを防禦せしむ。その年秋、敬玄は工部尚書劉審礼と、兵を率いて吐蕃と青海に戦う。官軍敗績し、審礼は陣に没す。敬玄は軍を按じて敢えて救わず。俄かに軍を収めて却出し、承風嶺に頓し、泥溝に阻まれて動く能わず。賊は高岡に屯して以てこれを圧す。偏将左領軍員外将軍黒歯常之は敢死の士五百人を率い、夜に賊営を斫ち、賊遂に潰乱し、自ら相蹂躙し、死者三百余人。敬玄遂に衆を擁して鄯州に至り、坐して衡州刺史に改めらる。往く剣南の兵募は、茂州の西南に安戎城を築きて以てその境を圧す。俄かに生羌有りて吐蕃の郷導と為り、その城を攻め陥し、遂に兵を引いてこれを守る。時に吐蕃は羊同・党項及び諸羌の地を尽く収め、東は涼・松・茂・巂等州と相接し、南は婆羅門に至り、西はまた亀茲・疏勒等の四鎮を攻め陥し、北は突厥に抵り、地方万余里。漢・魏已来、西戎の盛んなる、未だこれ有らざるなり。

原文上元三年,進寇鄯、廓等州,殺掠人吏,高宗命尚書左僕射劉仁軌往洮河軍鎮守以禦之。儀鳳三年,又命中書令李敬玄兼鄯州都督,往代仁軌於洮河鎮守。仍召募關內、河東及諸州驍勇,以為猛士,不簡色役。亦有嘗任文武官者召入殿庭賜宴,遣往擊之。又令益州長史李孝逸、巂州都督拓王奉等發劍南、山南兵募以防禦之。其年秋,敬玄與工部尚書劉審禮,率兵與吐蕃戰於青海。官軍敗積,審禮沒於陣,敬玄按軍不敢救。俄而收軍卻出,頓於承風嶺,阻泥溝不能動,賊屯於高岡以壓之。偏將左領軍員外將軍黑齒常之率敢死之士五百人,夜斫賊營,賊遂潰亂,自相蹂踐,死者三百余人。敬玄遂擁眾鄯州,坐改為衡州刺史。往劍南兵募,於茂州之西南築安戎城以壓其境。俄有生羌為吐蕃鄉導,攻陷其城,遂引兵守之。時吐蕃盡收羊同、党項及諸羌之地,東與涼、松、茂、巂等州相接,南至婆羅門,西又攻陷龜茲、疏勒等四鎮,北抵突厥,地方萬餘里,自漢、魏已來,西戎之盛,未之有也。

高宗は審礼等の敗没を聞き、侍臣を召して綏禦の策を問う。中書舎人郭正一曰く、「吐蕃が梗を作すこと、年歳已に深し。将を命じ師を興すこと、相継ぎて絶えず。空しく士馬を労し、虚しく糧儲を費やす。近く討つは則ち徒らに兵威を損ない、深く入るは則ち未だ巣穴を窮めず。望むらくは少しく兵募を発し、且つ辺を備えしめ、烽堠を明らかにし、侵抄せしむること勿からしむ。国用を豊足にし、人心を葉同にせしめ、これを数年寛ぐれば、一挙にして滅ぼすべし」と。給事中劉斉賢・皇甫文亮等皆、厳守するの便を言う。尋いて黒歯常之が吐蕃の大将贊婆及び素和貴を良非川に破り、二千余級を殺獲す。吐蕃遂に引き退く。詔して常之を河源軍使と為し、以てこれを鎮禦せしむ。

原文高宗聞審禮等敗沒,召侍臣問綏禦之策,中書舍人郭正一曰:「吐蕃作梗,年歲已深,命將興師,相繼不絕。空勞士馬,虛費糧儲,近討則徒損兵威,深入則未窮巢穴,望少發兵募,且遣備邊,明烽堠,勿令侵抄。使國用豐足,人心葉同,寬之數年,可一舉而滅。」給事中劉齊賢、皇甫文亮等皆言嚴守之便。尋而黑齒常之破吐蕃大將贊婆及素和貴於良非川,殺獲二千余級,吐蕃遂引退。詔以常之為河源軍使以鎮禦之。

儀鳳四年、贊普卒す。その子器弩悉弄が嗣いで立ち、復た贊普と号す。時に年八歳、国政復た欽陵に委ぬ。その大臣論寒調傍を遣わして喪を告げ、且つ和を請う。高宗は郎将宋令文を遣わし、蕃に入りて葬に会わしむ。永隆元年、文成公主薨ず。高宗また使を遣わしてこれを吊祭す。

原文儀鳳四年,贊普卒,其子器弩悉弄嗣位,復號贊普,時年八歲,國政復委於欽陵。遣其大臣論寒調傍來告喪。且請和。高宗遣郎將宋令文入蕃會葬。永隆元年,文成公主薨,高宗又遣使吊祭之。

則天朝に臨み、文昌右相韋待価を安息道大総管と為し、安西大都護閻温古を副とす。永昌元年、兵を率いて往きて吐蕃を征す。遅留して進まず、待価は坐して浦州に流され、温古は斬に処せらる。待価は素より統禦の才無く、遂に狼狽して拠る所を失い、士卒饑饉し、皆転じて溝壑に死す。明年、また文昌右相岑長倩を武威道行軍大総管と為し、以て吐蕃を討たしむ。中路に退き還り、軍竟に行わず。如意元年、吐蕃の大首領曷蘇がその所属並びに貴川部落を率いて降を請う。則天は右玉鈐衛大将軍張玄遇を令し、精卒二万を率いて安撫使に充て、以てこれを納れしむ。師は大渡水に次ぐ。曷蘇の事泄れ、本国に擒えらる。また大首領昝捶有りて羌蛮部落八千余人を率い、玄遇に詣り内附す。玄遇はその部落を以て葉川州を置き、昝捶を刺史と為す。仍って大度西山に於いて石を勒して功を紀し還る。長寿元年、武威軍総管王孝傑が吐蕃の衆を大破し、亀茲・於闐・疏勒・碎葉等の四鎮を克復す。乃ち亀茲に安西都護府を置き、兵を発して以てこれを鎮守せしむ。万歳登封元年、孝傑復た肅邊道大総管と為り、副総管婁師徳を率いて吐蕃の将論欽陵・贊婆と素羅汗山に戦う。官軍敗績し、孝傑は坐して官を免ぜらる。万歳通天元年、吐蕃四万衆奄に涼州城下に至る。都督許欽明初めこれを覚えず、軽く出でて部を按ず。遂に賊に遇い、拒戦すること久しく、力屈して賊に殺さる。時に吐蕃また使を遣わして和を請う。則天将にこれを許さんとす。論欽陵乃ち安西四鎮の兵を去り、仍って十姓の地を分かつことを請う。則天竟にこれを許さず。

原文則天臨朝,命文昌右相韋待價為安息道大總管,安西大都護閻溫古為副。永昌元年,率兵往征吐蕃,遲留不進,待價坐流浦州,溫古處斬。待價素無統禦之才,遂狼狽失據,士卒饑饉,皆轉死溝壑。明年,又命文昌右相岑長倩為武威道行軍大總管以討吐蕃,中路退還,軍竟不行。如意元年,吐蕃大首領曷蘇率其所屬並貴川部落請降,則天令右玉鈐衛大將軍張玄遇率精卒二萬充安撫使以納之。師次大渡水,曷蘇事泄,為本國所擒,又有大首領昝捶率羌蠻部落八千余人詣玄遇內附。玄遇以其部落置葉川州,以昝捶為刺史。仍於大度西山勒石紀功而還。長壽元年,武威軍總管王孝傑大破吐蕃之眾,克復龜茲、於闐、疏勒、碎葉等四鎮,乃於龜茲置安西都護府,發兵以鎮守之。萬歲登封元年,孝傑復為肅邊道大總管,率副總管婁師德與吐蕃將論欽陵、贊婆戰於素羅汗山。官軍敗績,李傑坐免官。萬歲通天元年,吐蕃四萬眾奄至涼州城下,都督許欽明初不之覺,輕出按部,遂遇賊,拒戰久之,力屈為賊所殺。時吐蕃又遣使請和,則天將許之;論欽陵乃請去安西四鎮兵,仍索分十姓之地,則天竟不許之。

吐蕃は論欽陵兄弟の兵馬を専統するより、欽陵は毎に中に居りて事を用い、諸弟は方面に分かれて拠る。贊婆は則ち専らに東境に在り、中国と鄰り、三十余年、常に辺患と為る。その兄弟皆才略有り、諸蕃これを憚る。

原文吐蕃自論欽陵兄弟專統兵馬,欽陵每居中用事,諸弟分據方面,贊婆則專在東境,與中國為鄰,三十余年,常為邊患。其兄弟皆有才略,諸蕃憚之。

聖暦二年、その賛普器弩悉弄は年齢が次第に長ずるに及び、乃ちその大臣論巖らと密かにこれを図る。時に欽陵は外にあり、賛普は乃ち偽りに狩猟せんと宣言し、兵を召して欽陵の親党二千余人を捕え、これを殺す。使者を発して欽陵・賛婆らを召すも、欽陵は兵を挙げて召しに応ぜず、賛普自ら衆を率いてこれを討つ。欽陵は未だ戦わずして潰え、遂に自殺す。その親信左右、同日に自殺する者百余人。賛婆は率いる所の部衆千余人及びその兄の子莽布支らを率いて来降す。則天は羽林飛騎を遣わして郊外にこれを迎えさせ、賛婆に輔国大将軍・行右衛大将軍を授け、帰徳郡王に封じ、優れた賜物を甚だ厚くし、仍ってその部兵を率いさせて洪源谷において討撃せしむ。尋いで卒す。特進・安西大都護を贈る。

原文聖歷二年,其贊普器弩悉弄年漸長,乃與其大臣論巖等密圖之。時欽陵在外,贊普乃佯言將獵,召兵執欽陵親黨二千余人,殺之。發使召欽陵、贊婆等,欽陵舉兵不受召,贊普自帥眾討之,欽陵未戰而潰,遂自殺,其親信左右同日自殺者百余人。贊婆率所部千余人及其兄子莽布支等來降,則天遣羽林飛騎郊外迎之,授贊婆輔國大將軍、行右衛大將軍,封歸德郡王,優賜甚厚,仍令領其部兵於洪源谷討擊。尋卒,贈特進、安西大都護。

久視元年、吐蕃はまたその将趨莽布支を遣わして涼州を寇し、昌松県を囲み逼る。隴右諸軍州大使唐休璟は莽布支と洪源谷において戦い、その副将二人を斬り、首級二千五百を獲る。長安二年、賛普は衆万余人を率いて悉州を寇す。都督陳大慈は賊と凡そ四度戦い、皆これを破り、首級千余を斬る。ここにおいて吐蕃は使者論弥薩らを遣わして入朝し和を請う。則天はこれを麟徳殿において宴し、殿庭に百戯を奏す。論弥薩曰く、「臣は辺荒に生まれ、由来中国の音楽を識らず。乞うらくは臣を放ちて親しく観覧せしめよ」と。則天はこれを許す。ここにおいて論弥薩らは相視て笑い忭び拝謝して曰く、「臣自ら聖朝に帰投して以来、前後礼数優渥なり。又た奇楽を親しく観ることを得、一生未だ見ざる所なり。自ら顧みるに微瑣、何をもってか天恩に仰ぎ答えん。区々たる褊心、唯だ大家の万歳を願うのみ」と。明年、また使者を遣わして馬千匹・金二千両を献じ、もって婚を求めしむ。則天はこれを許す。

原文久視元年,吐蕃又遣其將趨莽布支寇涼州,圍逼昌松縣。隴右諸軍州大使唐休璟與莽布支戰於洪源谷,斬其副將二人,獲首二千五百級。長安二年,贊普率眾萬余人寇悉州,都督陳大慈與賊凡四戰,皆破之,斬首千余級。於是吐蕃遣使論彌薩等入朝請求和,則天宴之於麟德殿,奏百戲於殿庭。論彌薩曰:「臣生於邊荒,由來不識中國音樂,乞放臣親觀。」則天許之。於是論彌薩等相視笑忭拜謝曰:「臣自歸投聖朝,前後禮數優渥,又得親觀奇樂,一生所未見。自顧微瑣,何以仰答天恩,區區褊心,唯願大家萬歲。」明年,又遣使獻馬千匹、金二千兩以求婚,則天許之。

時に吐蕃の南境の属国泥婆羅門ら皆叛く。賛普自ら往きてこれを討ち、軍中に卒す。諸子争いて立つこと久しく、国人器弩悉弄の子棄隷蹜賛を立てて賛普と為す。時に年七歳。中宗神龍元年、吐蕃の使い来たりて喪を告ぐ。中宗このために哀を挙げ、朝を廃すること一日。俄かに賛普の祖母その大臣悉薰然を遣わして方物を献じ、その孫のために婚を請う。中宗、養う所の雍王守礼の女を以て金城公主と為し、これに許嫁す。ここより頻りに歳貢す。景龍三年十一月、またその大臣尚賛吐らを遣わして来たりて女を迎えしむ。中宗これを苑内の球場において宴し、駙馬都尉楊慎交に命じて吐蕃の使と打球せしむ。中宗侍臣を率いてこれを観る。四年正月、制して曰く、

原文時吐蕃南境屬國泥婆羅門等皆叛,贊普自往討之,卒於軍中。諸子爭立,久之,國人立器弩悉弄之子棄隸蹜贊為贊普,時年七歲。中宗神龍元年,吐蕃使來告喪,中宗為之舉哀,廢朝一日。俄而贊普之祖母遣其大臣悉薰然來獻方物,為其孫請婚,中宗以所養雍王守禮女為金城公主許嫁之。自是頻歲貢獻。景龍三年十一月,又遣其大臣尚贊吐等來迎女,中宗宴之於苑內球場,命駙馬都尉楊慎交與吐蕃使打球,中宗率侍臣觀之。四年正月,制曰:

聖人は化を布くに、百姓を以て心と為し、王者は仁を垂るるに、八荒を以て外無きを為す。故に能く遐邇に光宅し、品物を裁成す。ここより隆周は暦を理め、遠きを柔らぐるの図を恢め、強漢は時に乗じ、和親の議を建つ。これ蓋し宇内の長策、邦を経る茂範なり。朕は上霊の命を受け、洪業を克く纂ぎ、幾くば前烈に庶い、永く和平を致さんことを。彼の吐蕃を睠みれば、西服に僻在す。皇運の始め、早く朝貢を申す。太宗文武聖皇帝の徳は覆載に侔しく、情は億兆に深く、兵甲を偃げんと思い、遂に姻好を通ず。数十年の間、一方清浄たり。文成公主化を往かせしより、その国因って多く変革す。我が辺隅は亟に師旅を興し、彼の蕃落は頗る凋弊を聞く。頃者賛普及び祖母可敦・酋長ら、屡び誠款を披き、歳時を積む。旧親に托さんと思い、新好を崇めんことを請う。金城公主は朕の少女、豈に鐘念せざらんや。但だ人として父母たる、志す所は黎元を息ましむるにあり。若し乃ち誠祈を允し、更に和好を敦くせば、則ち辺土寧晏し、兵役服息せん。遂に深慈を割き、国の大計と為し、この外館を築き、聿に嘉礼を膺け、彼の吐蕃賛普に降す。即ち今月を以て進発せしむ。朕は自ら郊外に送らんことを想う。

原文聖人布化,用百姓為心;王者垂仁,以八荒無外。故能光宅遐邇,裁成品物。由是隆周理歷,恢柔遠之圖;強漢乘時,建和親之議。斯蓋宇長策,經邦茂範。朕受命上靈,克纂洪業,庶幾前烈,永致和平。睠彼吐蕃,僻在西服,皇運之始,早申朝貢。太宗文武聖皇帝德侔覆載,情深億兆,思偃兵甲,遂通姻好,數十年間,一方清凈。自文成公主化往,其國因多變革。我之邊隅,亟興師旅,彼之蕃落,頗聞雕弊。頃者贊普及祖母可敦、酋長等,屢披誠款,積有歲時,思托舊親,請崇新好。金城公主,朕之少女,豈不鐘念,但為人父母,誌息黎元,若允乃誠祈,更敦和好,則邊土寧晏,兵役服息。遂割深慈,為國大計,築茲外館,聿膺嘉禮,降彼吐蕃贊普,即以今月進發,朕想自送於郊外。

中宗は侍中紀処訥を召して謂いて曰く、「昔、文成公主出降するときは、則ち江夏王これを送る。卿は雅に蕃情を識り、辺を安んずるの略あり。朕がために吐蕃使を充つべし」と。処訥拝謝す。既にして辺事に練れざるを以て固く辞す。上また中書侍郎趙彦昭に命じて使を充たしむ。彦昭、既に外使を充つるを以て、その権寵を失わんことを恐れ、殊に悦ばず。司農卿趙履温私かにこれに謂いて曰く、「公は国の宰輔たり。而して一介の使と為るは、亦た鄙しからずや」と。彦昭曰く、「然らば計いずくんか出づべき」と。履温、因って陰に安楽公主に托して密奏しこれを留めしむ。ここにおいて左衛大将軍楊矩を以て使と為す。その月、帝は始平県に幸して以て公主を送り、帳殿を百頃泊の側に設け、王公宰相及び吐蕃使を引き入れ宴す。中座酒闌け、吐蕃使を命じて進ましめ、公主孩幼なること、慈を割き遠く嫁すの旨を諭す。上悲泣歔欷すること久し。因って従臣に命じて詩を賦し餞別せしむ。曲げて始平県の大辟の罪以下を赦し、百姓に復を給すること一年。始平県を改めて金城県と為し、又その地を改めて鳳池鄉愴別裏と為す。公主既に吐蕃に至り、別に一城を築き以てこれに居らしむ。

原文中宗召侍中紀處訥謂曰:「昔文成公主出降,則江夏王送之。卿雅識蕃情,有安邊之略,可為朕充吐蕃使也。」處訥拜謝,既而以不練邊事固辭。上又令中書侍郎趙彥昭充使。彥昭以既充外使,恐失其權寵,殊不悅。司農卿趙履溫私謂之曰:「公國之宰輔,而為一介之使,不亦鄙乎?」彥昭曰:「然計將安出?」履溫因陰托安樂公主密奏留之。於是以左衛大將軍楊矩使焉。其月,帝幸始平縣以送公主,設帳殿於百頃泊側,引王公宰相及吐蕃使入宴,中坐酒闌,命吐蕃使進前,諭以公主孩幼,割慈遠嫁之旨,上悲泣歔欷久之。因命從臣賦詩餞別,曲赦始平縣大辟罪已下,百姓給復一年,改始平縣為金城縣,又改其地為鳳池鄉愴別裏。公主既至吐蕃,別築一城以居之。

睿宗即位す。摂監察御史李知古上言して曰く、「姚州の諸蛮は先に吐蕃に属す。兵を発してこれを撃たんことを請う」と。遂に知古に令して剣南の兵募を征し往きてこれを経略せしむ。蛮酋傍名は乃ち吐蕃を引きて知古を攻め、これを殺し、仍ってその屍を断ちて以て天に祭る。時に張玄表は安西都護たり。又た吐蕃と境を比し、互いに攻掠す。吐蕃内に怨怒すと雖も、外には和好を敦くす。時に楊矩は鄯州都督たり。吐蕃は使者を遣わして厚くこれに遺い、因って河西九曲の地を請うて以て金城公主の湯沐の所と為さんことを求む。矩遂に奏してこれを与う。吐蕃既に九曲を得るや、その地肥良にして、兵を頓え畜牧に堪え、又た唐の境に接近す。ここより復た叛き、始めて兵を率いて入寇す。

原文睿宗即位,攝監察御史李知古上言:「姚州諸蠻,先屬吐蕃,請發兵擊之。」遂令知古征劍南兵募往經略之。蠻酋傍名乃引吐蕃攻知古,殺之,仍斷其屍以祭天。時張玄表為安西都護,又與吐蕃比境,互相攻掠,吐蕃內雖怨怒,外敦和好。時楊矩為鄯州都督,吐蕃遣使厚遺之,因請河西九曲之地以為金城公主湯沐之所,矩遂奏與之。吐蕃既得九曲,其地肥良,堪頓兵畜牧,又與唐境接近,自是復叛,始率兵入寇。

開元二年秋、吐蕃の大将闉達焉・乞力徐ら衆十余万を率いて臨洮軍を寇し、又た進んで蘭・渭等州を寇し、監牧の羊馬を掠めて去る。楊矩悔い懼れて、薬を飲みて死す。玄宗は摂左羽林将軍薛訥及び太僕少卿王晙に命じて兵を率いてこれを邀撃せしむ。仍って詔を下して将に大挙親征せんとし、将士を召募し、期を克して進発せしむ。俄にして晙ら賊と渭源の武階駅において相遇う。前軍王海賓力戦してこれに死す。晙ら兵を率いて進み、大いに吐蕃の衆を破り、数万人を殺し、掠められたる羊馬を尽く収復す。賊の余党奔北し、相枕藉して死に、洮水これがために流れず。上遂に親征を罷め、紫微舎人倪若水を命じて往きて軍実を按じ、仍って王海賓を吊祭して還らしむ。吐蕃はその大臣宗俄因子を遣わして洮河に至りその死亡の士を祭らしめ、仍って塞に款き和を請う。上これを許さず。ここより連年辺を犯す。郭知運・王君㚟相次いで河西節度使と為り以てこれを捍ぐ。

原文開元二年秋,吐蕃大將闉達焉、乞力徐等率眾十余萬寇臨洮軍,又進寇蘭、渭等州,掠監牧羊馬而去。楊矩悔懼,飲藥而死。玄宗令攝左羽林將軍薛訥及太仆少卿王晙率兵邀擊之。仍下詔將大舉親征,召募將士,克期進發。俄而晙等與賊相遇於渭源之武階驛,前軍王海賓力戰死之,晙等率兵而進,大破吐蕃之眾,殺數萬人,盡收復所掠羊馬。賊余黨奔北,相枕藉而死,洮水為之不流。上遂罷親征,命紫微舍人倪若水往按軍實,仍吊祭王海賓而還。吐蕃遣其大臣宗俄因子至洮河祭其死亡之士,仍款塞請和,不上許之。自是連年犯邊,郭知運、王君㚟相次為河西節度使以捍之。

吐蕃は既に兵強きを自恃し、表疏を通ずる毎に、敵国の礼を求め、言詞悖慢なり。上甚だこれを怒る。封禅の礼畢りしに及び、中書令張説奏言して曰く、「吐蕃醜逆、誠に万誅に負う。然れども又た事征討すれば、実に労弊たり。且つ十数年甘・涼・河・鄯において征発息まず。縦令属勝すと雖も、亦た補う能わず。その悔過して和を請うを聞く。惟うらくは陛下使者を遣わし、その稽顙内属を許し、以て辺境を息ましめられんことを。則ち蒼生幸甚なり」と。上曰く、「吾が王君㚟とこれを籌するを待て」と。説出でて、源乾曜に謂いて曰く、「君㚟は勇にして謀無く、常に僥幸を思う。両国和好すれば、何を以てか労と為さん。若し入りて謀を陳ぜば、則ち吾が計遂げられず」と。尋いで君㚟入朝して事を奏し、遂に兵を率いて深入し以てこれを討たんことを請う。

原文吐蕃既自恃兵強,每通表疏,求敵國之禮,言詞悖慢,上甚怒之。及封禪禮畢,中書令張說奏言:「吐蕃醜逆,誠負萬誅,然又事征討,實為勞弊。且十數年甘、涼、河、鄯征發不息,縱令屬勝,亦不能補。聞其悔過請和,惟陛下遣使。許其稽顙內屬,以息邊境,則蒼生幸甚。」上曰:「待吾與王君㚟籌之。」說出,謂源乾曜曰:「君㚟勇而無謀,常思僥幸,兩國和好,何以為勞?若入陳謀,則吾計不遂矣。」尋而君㚟入朝奏事,遂請率兵深入以討之。

十五年正月、王君㚟は兵を率いて青海の西において吐蕃を破り、その輜重及び羊馬を鹵獲して還った。先に、吐蕃の大将悉諾邏が衆を率いて大斗谷に攻め入り、また転じて甘州を攻め、市裏を焼き払った。君㚟はその鋒鋭を畏れ、敢えて出戦しなかった。時に大雪に会い、賊は凍死者甚だ多く、遂に積石軍の西路を取って還った。君㚟は先に人を潜めて賊の境内に入らせ、その帰路において草を焼かせた。悉諾邏の軍が還って大非山に至ると、将士は甲を休め馬を牧したが、野草は皆尽き、馬の死は過半に及んだ。君㚟は秦州都督張景順等と衆を率いてその背後を襲い、青海の西に入った。時に海水は氷結し、将士は並びに氷を乗って渡った。時に悉諾邏は既に大非川を渡り、輜重及び疲兵は尚青海の側に在った。君㚟は兵を放ってこれを俘獲して還った。その年九月、吐蕃の大将悉諾邏恭祿及び燭龍莽布支が瓜州城を攻め陥とし、刺史田元献及び王君㚟の父王寿を捕らえ、城中の軍資及び倉糧を悉く取り、なおその城を毀って去った。また玉門軍及び常楽県を進攻し、県令賈師順が城に拠って固く守り、凡そ八十日、賊は遂に引き退いた。俄にして王君㚟が回紇の余党に殺された。乃ち兵部尚書蕭嵩を河西節度使と為し、建康軍使・左金吾将軍張守珪を以て瓜州刺史と為し、州城を修築し、百姓を招輯して、その復業を令した。時に悉諾邏恭祿の威名甚だ振るい、蕭嵩は乃ち反間を吐蕃に放ち、その中国と潜かに通ずると云い、贊普は遂に召してこれを誅した。

原文十五年正月,君㚟率兵破吐蕃於青海之西,虜其輜重及羊馬而還。先是,吐蕃大將悉諾邏率眾入攻大鬥谷,又移攻甘州,焚燒市裏。君㚟畏其鋒,不敢出戰。會大雪,賊凍死者甚眾,遂取積石軍西路而還。君㚟先令人潛入賊境,於其歸路燒草。悉諾邏軍還至大非山,將士息甲牧馬,而野草皆盡,馬死過半。君㚟與秦州都督張景順等率眾襲其後,入至青海之西,時海水冰合,將士並乘冰而渡。會悉諾邏已渡大非川,輜重及疲兵尚在青海之側,君㚟縱兵俘之而還。其年九月,吐蕃大將悉諾邏恭祿及燭龍莽布支攻陷瓜州城,執刺史田元獻及王君㚟之父壽,盡取城中軍資及倉糧,仍毀其城而去。又進攻玉門軍及常樂縣,縣令賈師順嬰城固守,凡八十日,賊遂引退。俄而王君㚟為回紇余黨所殺,乃命兵部尚書蕭嵩為河西節度使,以建康軍使、左金吾將軍張守珪為瓜州刺史,修築州城,招輯百姓,令其復業。時悉諾邏恭祿威名甚振,蕭嵩乃縱反間於吐蕃,雲其與中國潛通,贊普遂召而誅之。

明年秋、吐蕃の大将悉末朗が復た衆を率いて瓜州を攻め、守珪は出兵してこれを撃ち走らせた。隴右節度使・鄯州都督張忠亮が兵を引いて青海西南の渇波谷に至り、吐蕃と接戦し、これを大破した。俄にして積石・莫門両軍の兵馬が総じて至り、忠亮と合勢して追討し、その大莫門城を破り、千余人を生擒し、馬一千匹・牦牛五百頭を獲、器仗衣資甚だ多く、またその駱駝橋を焼いて還った。八月、蕭嵩はまた副将杜賓客に弩手四千人を率いさせて吐蕃と祁連城下で戦わせ、辰より暮に至るまで、散じて復た合し、賊徒大いに潰え、陣に臨んでその副将一人を斬った。賊敗れて散走し山に投じ、哭聲四方に合した。初め、上は吐蕃が重ねて入寇したと聞き、侍臣に謂いて曰く、「吐蕃驕暴なり。力を恃んで来たり、朕今地図を按じ、利害を審らかにし、将帥に親しく指授す、これを破ること必ずや!」数日にして露布至る。

原文明年秋,吐蕃大將悉末朗復率眾攻瓜州,守珪出兵擊走之。隴右節度使、鄯州都督張忠亮引兵至青海西南渴波谷,與吐蕃接戰,大破之。俄而積石、莫門兩軍兵馬總至,與忠亮合勢追討,破其大莫門城,生擒千余人,獲馬一千匹、牦牛五百頭,器仗衣資甚眾,又焚其駱駝橋而還。八月,蕭嵩又遣副將杜賓客率弩手四千人與吐蕃戰於祁連城下,自辰至暮,散而復合,賊徒大潰,臨陣斬其副將一人。賊敗,散走投山,哭聲四合。初,上聞吐蕃重來入寇,謂侍臣曰:「吐蕃驕暴。恃力而來,朕今按地圖。審利害,親指授將帥,破之必矣!」數日而露布至。

十七年、朔方大総管信安王李禕がまた兵を率いて隴右に赴き、その石堡城を抜き、首四百余級を斬り、二百余口を生擒し、遂に石堡城に振武軍を置き、なおその俘囚を太廟に献じた。ここにおいて吐蕃頻りに使を遣わして和を請う。忠王友皇甫惟明が奏事に因り面して通和の便を陳べた。上曰く、「吐蕃の贊普往年嘗て朕に書を与え、悖慢にして礼無し。朕の意これを討たんと欲す、何ぞ和を得んや!」惟明曰く、「開元の初、贊普幼稚なり、豈に能くかくの如くせんや。必ずや辺境の軍将に在りて務めて一時の功を邀え、偽りにこの書を作り、陛下を激怒せしむるなり。両国既に闘い、師を興し衆を動かし、利に因り便に乗じ、公行して隠盗し、偽りに功状を作り、以て勲爵を希う、損ずる所鉅万、何ぞ国家に益せん!今河西・隴右、百姓疲竭す、事皆これに由る。若し陛下使を遣わして金城公主を視せしめ、因りて贊普と面約して通和し、その稽顙して臣と称し、永く辺境を息ましめば、これ永代安人の道なり。」上その言を然りとし、因りて惟明及び内侍張元方を使いに充てて吐蕃に往き問わしむ。惟明・元方等吐蕃に至り、既に贊普及公主に謁見し、上意を具に宣べた。贊普等欣然として和を請い、貞観以来前後の勅書を尽く出して惟明等に示し、その重臣名悉獵に惟明等に随って入朝せしめ、上表して曰く、

原文十七年,朔方大總管信安王祎又率兵赴隴右,拔其石堡城,斬首四百余級,生擒二百余口,遂於石堡城置振武軍,仍獻其俘囚於太廟。於是吐蕃頻遣使請和,忠王友皇甫惟明因奏事面陳通和之便。上曰:「吐蕃贊普往年嘗與朕書,悖慢無禮,朕意欲討之,何得和也!」惟明曰:「開元之初,贊普幼稚,豈能如此。必是在邊軍將務邀一時之功,偽作此書,激怒陛下。兩國既鬥,興師動眾,因利乘便,公行隱盜,偽作功狀,以希勛爵,所損鉅萬,何益國家!今河西、隴右,百姓疲竭,事皆由此。若陛下遣使往視金城公主,因與贊普面約通和,令其稽顙稱臣,永息邊境,此永代安人之道也。」上然其言,因令惟明及內侍張元方充使往問吐蕃。惟明、元方等至吐蕃,既見贊普及公主,具宣上意。贊普等欣然請和,盡出貞觀以來前後敕書以示惟明等,令其重臣名悉獵隨惟明等入朝,上表曰:

外甥は先皇帝の舅宿親にして、又降嫁の金城公主を蒙り、遂に和同して一家と為り、天下の百姓、普く皆安楽たり。中間張玄表・李知古等の東西両処に先だって兵馬を動かし、吐蕃を侵抄せしめ、辺将の所以に互いに征討し、今日に至るまで、遂に釁隙を成す。外甥は先代の文成公主・今の金城公主の故に、深く尊卑を識り、豈に敢えて礼を失せんや!又年小なるに縁り、枉く辺将の讒抅闘乱に被り、舅をして怪しましむ。伏して乞う、垂察して追留を察せられんことを、死して万足たるべし。前数度人を使いに入朝せしむるも、皆辺将に許さず、所以に敢えて自ら奏せず。去冬公主人を使い婁衆失若に将状を専ら往かしめ、降使の公主を見に来るを蒙り、外甥喜荷に勝えず。謹みて諭名悉獵及び副使押衙将軍浪些紇夜悉獵を遣わして入朝せしめ、進止を奏取す。両国の事意、悉獵の知る所なり。外甥蕃中に已に辺将を処分し、抄掠を許さず、若し漢人の来投する有らば、便ち卻送せしむ。伏して望む、皇帝舅遠く赤心を察し、旧好に許し、長く百姓をして快樂せしめんことを。聖恩を蒙ること如くんば、千年万歳、外甥終に敢えて先ず盟誓に違わず。謹みて金胡瓶一・金盤一・金碗一・馬脳杯一・零羊衫段一を奉り、謹みて微国の礼に充つ。

原文外甥是先皇帝舅宿親,又蒙降金城公主,遂和同為一家,天下百姓,普皆安樂。中間為張玄表、李知古等東西兩處先動兵馬,侵抄吐蕃,邊將所以互相征討,迄至今日,遂成釁隙。外甥以先代文成公主、今金城公主之故,深識尊卑,豈敢失禮!又緣年小,枉被邊將讒抅鬥亂,令舅致怪。伏乞垂察追留,死將萬足。前數度使人入朝,皆被邊將不許,所以不敢自奏。去冬公主遣使人婁眾失若將狀專往,蒙降使看公主來,外甥不勝喜荷。謹遣諭名悉獵及副使押衙將軍浪些紇夜悉獵入朝,奏取進止。兩國事意,悉獵所知。外甥蕃中已處分邊將,不許抄掠,若有漢人來投,便令卻送。伏望皇帝舅遠察赤心,許依舊好,長令百姓快樂。如蒙聖恩,千年萬歲,外甥終不敢先違盟誓。謹奉金胡瓶一、金盤一、金碗一、馬腦杯一、零羊衫段一,謹充微國之禮。

金城公主は又別に金鴨盤盞雑器物等を進む。十八年十月、名悉獵等京師に至る。上宣政殿に御し、羽林仗を列べて以てこれを見る。悉獵頗る書記に暁け、先に曾て金城公主を迎えて長安に至らしめ、当時朝廷皆その才弁を称す。是に及び上内宴に引入れ、語らうに、甚だこれを礼す。紫袍金帯及び魚袋を賜い、並びに時服・繒彩・銀盤・胡瓶を賜い、なお別館において供擬甚だ厚し。悉獵袍帯器物を受けて却って魚袋を進め、辞して曰く、「本国にこの章服無し、敢えて殊異の賞に当たらず。」上嘉してこれを許す。詔して御史大夫崔琳を使いに充てて報聘せしむ。なお赤嶺において各々分界の碑を豎て、更に相侵さざるを約す。

原文金城公主又別進金鴨盤盞雜器物等。十八年十月,名悉獵等至京師,上御宣政殿,列羽林仗以見之。悉獵頗曉書記,先曾迎金城公主至長安,當時朝廷皆稱其才辯。及是上引入內宴,與語,甚禮之。賜紫袍金帶及魚袋,並時服、繒彩、銀盤、胡瓶,仍於別館供擬甚厚。悉獵受袍帶器物而卻進魚袋,辭曰:「本國無此章服,不敢當殊異之賞。」上嘉而許之。詔御史大夫崔琳充使報聘。仍於赤嶺各豎分界之碑,約以更不相侵。

時に吐蕃の使奏して云く、「公主『毛詩』・『礼記』・『左伝』・『文選』各一部を請う。」制して秘書省に令して写してこれに与う。正字於休烈上疏して請いて曰く、

原文時吐蕃使奏云:「公主請《毛詩》、《禮記》、《左傳》《文選》各一部。」制令秘書省寫與之。正字於休烈上疏請曰:

臣聞く、戎狄は国の寇なり。経籍は国の典なり。戎の心を生ずるは、以て備え無かるべからず。典に恒制有り、以て人に仮すべからず。『伝』に曰く、「裔は夏を謀らず、夷は華を乱さず。」と。その非心を格する所以は、備え有りて患い無きに在り。昔東平王入朝して『史記しき』・諸子を求めしも、漢帝与えず。蓋し『史記』は兵謀多く、諸子は詭術雑なり。東平を以てすら、漢の懿戚、尚お征戦の書を示さんと欲せず、今西戎は国の寇讎、豈に經典の事を貽すべけんや!

原文臣聞戎狄,國之寇也;經籍,國之典也。戎之生心,不可以無備;典有恆制,不可以假人。《傳》曰:「裔不謀夏,夷不亂華。」所以格其非心,在乎有備無患。昔東平王入朝求《史記》、諸子,漢帝不與。蓋以《史記》多兵謀,諸子雜詭術。夫以東平,漢之懿戚,尚不欲示征戰之書,今西戎,國之寇讎,豈可貽經典之事!

且つ臣聞く、吐蕃の性、剽悍果決、情に敏にして鋭を持し、善く学びて回らず。若し書に達せば、必ず能く戦を知らん。『詩』に深ければ、則ち武夫に師幹の試有るを知らん。『礼』に深ければ、則ち月令に興廃の兵有るを知らん。『伝』に深ければ、則ち用師に詭詐の計多きを知らん。『文』に深ければ、則ち往来に書檄の制有るを知らん。何ぞ寇に兵を借し盗に糧を資するに異ならんや!

原文且臣聞吐蕃之性,剽悍果決,敏情持銳,善學不回。若達於書,必能知戰。深於《詩》,則知武夫有師幹之試;深於《禮》,則知月令有興廢之兵;深於《傳》,則知用師多詭詐之計;深於《文》,則知往來有書檄之制。何異借寇兵而資盜糧也!

臣聞く、魯は周禮を秉り、齊は兵を加えず。吳は乘車を獲、楚は奔命に疲る。一は典を守りて國を存し、一は法を喪ひて邦を危うくす。以て鑒とすべきなり。且つ公主は下嫁して人に從ひ、遠く異國に適す。夷禮を慕ひ合はせ、返りて良書を求む。愚臣之を料るに、恐らくは公主の本意に非ざるならん。奔北の類有らんことを慮り、中に勸教せんとす。若し陛下蕃情を失はんことを慮ひ、以て國信を備へんとせば、必ず已むを得ずば、請ふ《春秋》を去らん。周德既に衰へ、諸侯強盛なるに當り、禮樂自ら出で、戰伐交ひに興り、情偽是より乎生じ、變詐是より乎起これば、則ち臣を以て君を召すの事有り、威を取り霸を定むるの名有り。若し此の書を與ふれば、國の患ひなり。《傳》に曰く「於奚曲縣鞶纓を請ふ。仲尼曰く『惜しむなり、邑を多く與ふるに如かず。惟だ名と器とは、人に假すべからず』と。」狄は固より貪婪、貨を貴び土を易ふ。正に錦綺を錫ひ、厚く玉帛を以てすべし。何ぞ必ずしも其の求に率從し、以て其の智を資けんや。臣列位に忝叨し、職は秘籍を刊す。實に經典の戎夷に棄てらるるを痛む。昧死して上聞す。惟ふに陛下深く察せよ。

原文臣聞魯秉周禮,齊不加兵;吳獲乘車,楚疲奔命。一以守典存國,一以喪法危邦,可取鑒也。且公主下嫁從人,遠適異國,合慕夷禮,返求良書,愚臣料之,恐非公主本意也。慮有奔北之類,勸教於中。若陛下慮失蕃情,以備國信,必不得已,請去《春秋》。當周德既衰,諸侯強盛,禮樂自出,戰伐交興,情偽於是乎生,變詐於是乎起,則有以臣召君之事,取威定霸之名。若與此書,國之患也。《傳》曰:「於奚請曲縣鞶纓,仲尼曰:『惜也,不如多與之邑。惟名與器,不可假人。』」狄固貪婪,貴貨易土,正可錫之錦綺,厚以玉帛,何必率從其求,以資其智!臣忝叨列位,職刊秘籍,實痛經典,棄在戎夷。昧死上聞,惟陛下深察。

疏を奏すれど省みられず。二十一年、又制して工部尚書李皓をして吐蕃に往聘せしむ。唐使の入境する毎に、所在甲兵及び騎馬を盛んに陳べて、以て其の精銳を矜る。二十二年、將軍李佺を遣はして赤嶺に於て吐蕃と分界し碑を立つ。二十四年正月、吐蕃使を遣はし方物金銀器玩數百事を貢ぐ。皆形制奇異なり。上令して提象門外に列ねしめ、以て百僚に示す。

原文疏奏不省。二十一年,又制工部尚書李皓往聘吐蕃。每唐使入境,所在盛陳甲兵及騎馬,以矜其精銳。二十二年,遣將軍李佺於赤嶺與吐蕃分界立碑。二十四年正月,吐蕃遣使貢方物金銀器玩數百事,皆形制奇異。上令列於提象門外,以示百僚。

其の年、吐蕃西に勃律を撃ち、使を遣はして來り急を告ぐ。上吐蕃に報じて、其の兵を罷めしむ。吐蕃詔を受かず、遂に勃律國を攻め破る。上之を甚だ怒る。時に散騎常侍さんきじょうじ崔希逸、河西節度使と為り、涼州に於て鎮守す。時に吐蕃と漢と柵を樹てて界と為し、守捉使を置く。希逸吐蕃の將乞力徐に謂ひて曰く「兩國和好す、何ぞ須ひん守捉を、人の耕種を妨ぐるを。請ふ皆之を罷め、以て一家を成さば豈に善からずや」と。乞力徐報じて曰く「常侍忠厚、必ず是れ誠言ならん。但だ朝廷必ずしも皆相信任せざらんことを恐る。萬一交抅する人有り、吾が不備を掩はば、後悔益無し」と。希逸固く之を請ふ。遂に使を發して乞力徐と白狗を殺して盟を為し、各守備を去る。是に於て吐蕃畜牧野に被る。俄にして希逸の傔人孫誨朝に入り事を奏す。誨自ら其の功を邀へんと欲し、因りて奏して言ふ「吐蕃備無し。若し兵を發して之を掩はば、必ず克捷す」と。上内給事趙惠琮をして孫誨と馳せ往きて事宜を觀察せしむ。惠琮等涼州に至り、遂に詔を矯ひて希逸に之を掩襲せしむ。希逸已むを得ずして之に從ひ、大いに吐蕃を青海の上に破り、殺獲甚だ衆し。乞力徐身を輕くして遁逸す。惠琮・孫誨皆厚く賞を加へらる。吐蕃是より復た朝貢を絕つ。希逸失信を以て怏怏とし、軍に在りて志を得ず。俄に遷りて河南尹と為る。京師に行き至り、趙惠琮と俱に白狗の祟りを見、相次いで死す。孫誨亦罪を以て戮せらる。詔して岐州刺史蕭炅を以て戶部侍郎と為し涼州事を判せしめ、希逸に代はりて河西節度使と為す。鄯州都督杜希望を隴右節度使と為す。太僕卿王昊を益州長史・劍南節度使と為し、道を分ちて經略し、以て吐蕃を討たしむ。仍て其の分界の碑を毀たしむ。

原文其年,吐蕃西擊勃律,遣使來告急。上使報吐蕃,令其罷兵。吐蕃不受詔,遂攻破勃律國,上甚怒之。時散騎常侍崔希逸為河西節度使,於涼州鎮守。時吐蕃與漢樹柵為界,置守捉使。希逸謂吐蕃將乞力徐曰:「兩國和好,何須守捉,妨人耕種。請皆罷之,以成一家豈不善也?」乞力徐報曰:「常侍忠厚,必是誠言。但恐朝廷未必皆相信任。萬一有人交抅,掩吾不備,後悔無益也。」希逸固請之,遂發使與乞力徐殺白狗為盟,各去守備。於是吐蕃畜牧被野。俄而希逸傔人孫誨入朝奏事,誨欲自邀其功,因奏言「吐蕃無備,若發兵掩之,必克捷。」上使內給事趙惠琮與孫誨馳往觀察事宜。惠琮等至涼州,遂矯詔令希逸掩襲之,希逸不得已而從之,大破吐蕃於青海之上,殺獲甚眾,乞力徐輕身遁逸。惠琮、孫誨皆加厚賞,吐蕃自是復絕朝貢。希逸以失信怏怏,在軍不得誌。俄遷為河南尹,行至京師,與趙惠琮俱見白狗為祟,相次而死。孫誨亦以罪被戮。詔以岐州刺史蕭炅為戶部侍郎判涼州事,代希逸為河西節度使;鄯州都督杜希望為隴右節度使;太仆卿王昊為益州長史、劍南節度使,分道經略,以討吐蕃。仍令毀其分界之碑。

二十六年四月、杜希望衆を率ひて吐蕃の新城を攻め、之を拔く。其の城を以て威武軍と為し、兵一千を發して以て之を鎮む。其の年七月、希望又鄯州より兵を發して吐蕃の河橋を奪ひ、河左に鹽泉城を築く。吐蕃將兵三萬人以て官軍を拒ぐ。希望衆を引きて之を撃ち破り、因りて鹽泉城に鎮西軍を置く。時に王昊又劍南の兵募を率ひて其の安戎城を攻む。先づ安戎城の左右に兩城を築き、以て攻拒の所と為し、兵を蓬婆嶺下に頓し、劍南道の資糧を運びて以て之を守る。其の年九月、吐蕃銳を悉くして以て安戎城を救ふ。官軍大いに敗れ、兩城並びに賊の陷す所と為る。昊身を脫して走り免る。將士已下數萬人及び軍糧資仗等並びに賊に沒す。昊坐して括州刺史に左遷せらる。初め、昊の軍に在りし時、謬りて其の子に錢帛萬計を賞し、並びに擅に紫袍等を與ふ。費す所鉅萬、坐する是に尋いで又重く貶せられて端州高要尉と為りて死す。

原文二十六年四月,杜希望率眾攻吐蕃新城,拔之。以其城為威武軍,發兵一千以鎮之。其年七月,希望又從鄯州發兵奪吐蕃河橋,於河左築鹽泉城。吐蕃將兵三萬人以拒官軍,希望引眾擊破之,因於鹽泉城置鎮西軍。時王昊又率劍南兵募攻其安戎城。先於安戎城左右築兩城,以為攻拒之所,頓兵於蓬婆嶺下,運劍南道資糧以守之。其年九月,吐蕃悉銳以救安戎城,官軍大敗,兩城並為賊所陷,昊脫身走免,將士已下數萬人及軍糧資仗等並沒於賊。昊坐左遷括州刺史。初,昊之在軍,謬賞其子錢帛萬計,並擅與紫袍等,所費鉅萬,坐是尋又重貶為端州高要尉而死。

二十七年七月、吐蕃又白草・安人等軍を寇す。勅して臨洮・朔方等軍に分兵して救援せしむ。時に吐蕃中路に兵を屯し、臨洮軍の路を斷つ。白水軍守捉使高柬於拒守連旬、俄にして賊退く。蕭炅偏將を遣はして其の後を掩はしめ、之を撃ち破る。王昊既に敗れたる後、詔して華州刺史張宥を以て益州長史・劍南防禦使と為し、主客員外郎章仇兼瓊を益州司馬・防禦副使と為す。宥既に文吏、素より攻戰の策無し。兼瓊遂に其の戎事を專らにす。俄にして兼瓊入奏し、盛んに安戎を攻め取るの策を陳ぶ。上甚だ悅び、張宥を徙めて光祿卿と為し、兼瓊を拔きて益州長史事を知らしめ、張宥に代はりて節度せしめ、仍て之が爲に親しく城を取るの計を畫く。

原文二十七年七月,吐蕃又寇白草、安人等軍,敕臨洮、朔方等軍分兵救援。時吐蕃於中路屯兵,斷臨洮軍之路。白水軍守捉使高柬於拒守連旬,俄而賊退,蕭炅遣偏將掩其後,擊破之。王昊既敗之後,詔以華州刺史張宥為益州長史、劍南防禦使,主客員外郎章仇兼瓊為益州司馬、防禦副使。宥既文吏,素無攻戰之策,兼瓊遂專其戎事。俄而兼瓊入奏,盛陳攻取安戎之策。上甚悅,徙張宥為光祿卿,拔兼瓊令知益州長史事,代張宥節度,仍為之親畫取城之計。

二十八年春、兼瓊密かに安戎城中の吐蕃翟都局及び維州別駕董承宴等と謀を通ず。都局等遂に城を翻して款に歸し、因りて官軍を引きて城に入れ、盡く吐蕃の將士を殺し、監察御史許遠に兵を率ひて鎮守せしむ。上之を聞き、甚だ悅ぶ。中書令李林甫等表を上りて曰く「伏して惟ふに吐蕃此の城、正に沖要に當り、險に憑りて自ら固くし、恃みて以て邊を窺ふ。積年以來、蟻聚して患ひと為り、縱ひ百萬の衆有りと雖も、功を施し難し。陛下親しく秘策を紆め、師旅を興さず。頃に中使李思敬を令して羌族に曉喻せしむ。懷恩せざる莫く、翻然として圖を改め、自ら謀りて陷る。神算測るべからざるに運らされ、睿略未然に通ず。累載逋誅するもの、一朝に蕩滅す。又臣等今日事を奏す。陛下從容として臣等に問ひて曰く『卿等但だ四夷の久からず當に漸く摧喪すべしと看よ』と。德音纔に降り、遽かに戎捷を聞く。則ち知る聖天と合ひ、應へ響の至るが如し。前古以來、未だ有らざる所なり。請ふ百僚に宣示し、史策に編せん」と。手制を以て答へて曰く「此の城儀鳳年中羌吐蕃を引き、遂に固守せらる。歲月既に久しく、攻伐亦多し。其の地險阻、力の制する所に非ず。朝廷群議、之を取るに合はず。朕小蕃の無知なるを慮ひ、事須く處置すべし。奇計を授けて以て之を行はしむ。彼の戎心を獲、我が城守に歸す。足りて慰むべき有り」と。其の年十月、吐蕃又衆を引いて安戎城及び維州を寇す。章仇兼瓊裨將を遣はして衆を率ひて之を禦がしめ、仍て關中の彍騎を發して以て救援せしむ。時に凝寒に屬し、賊久しくして自ら引退す。詔して安戎城を改めて平戎城と為す。

原文二十八年春,兼瓊密與安戎城中吐蕃翟都局及維州別駕董承宴等通謀。都局等遂翻城歸款,因引官軍入城,盡殺吐蕃將士,使監察御史許遠率兵鎮守。上聞之,甚悅。中書令李林甫等上表曰:「伏以吐蕃此城,正當沖要,憑險自固,恃以窺邊。積年以來,蟻聚為患,縱有百萬之眾,難以施功。陛下親紆秘策,不興師旅,頃令中使李思敬曉喻羌族,莫不懷恩,翻然改圖,自相謀陷。神算運於不測,睿略通於未然,累載逋誅,一朝蕩滅。又臣等今日奏事,陛下從容問臣等曰:『卿等但看四夷不久當漸摧喪。』德音才降,遽聞戎捷,則知聖與天合,應如響至,前古以來,所未有也。請宣示百僚,編諸史策。」手制答曰:「此城儀鳳年中羌引吐蕃,遂被固守,歲月既久,攻伐亦多。其地險阻,非力所制。朝廷群議,不合取之。朕以小蕃無知,事須處置,授以奇計,所以行之,獲彼戎心,歸我城守,有足為慰也。」其年十月,吐蕃又引眾寇安戎城及維州,章仇兼瓊遣裨將率眾禦之,仍發關中彍騎以救援焉。時屬凝寒,賊久之自引退。詔改安戎城為平戎城。

二十九年の春、金城公主が薨去し、吐蕃は使者を遣わして哀悼を告げ、なお和睦を請うたが、上はこれを許さなかった。使者が到着して数か月後、ようやく光順門外で公主の哀悼の儀を行い、三日間朝政を停止した。六月、吐蕃四十万が承風堡を攻め、河源軍に至り、西に長寧橋に入り、安仁軍に至ったが、渾崖峰の騎将盛希液が五千の兵を率いてこれを攻め破った。十二月、吐蕃はまた石堡城を襲撃し、節度使蓋嘉運は守ることができず、玄宗はこれを憤った。天宝初め、皇甫惟明・王忠嗣を隴右節度と命じたが、いずれもこれを克服できなかった。七載、哥舒翰を隴右節度使とし、攻めてこれを陥落させ、石堡城を神武軍と改称した。

原文二十九年春,金城公主薨,吐蕃遣使來告哀,仍請和,上不許之。使到數月後,始為公主舉哀於光順門外,輟朝三日。六月,吐蕃四十萬攻承風堡,至河源軍,西入長寧橋,至安仁軍,渾崖峰騎將盛希液以眾五千攻而破之。十二月,吐蕃又襲石堡城,節度使蓋嘉運不能守,玄宗憤之。天寶初,令皇甫惟明、王忠嗣為隴右節度,皆不能克。七載,以哥舒翰為隴右節度使,攻而拔之,改石堡城為神武軍。

天宝十四載、贊普乞黎蘇籠獵贊が死去し、大臣がその子婆悉籠獵贊を立てて主とし、また贊普とした。玄宗は京兆少尹崔光遠を御史中丞を兼ねさせ、節を持ち国信を携えて冊命し弔祭させた。帰還する頃には、安禄山がすでに洛陽らくようを窃拠し、河・隴の兵募を以て哥舒翰を将と命じ、潼関に駐屯させた。

原文天寶十四載,贊普乞黎蘇籠獵贊死,大臣立其子婆悉籠獵贊為主,復為贊普。玄宗遣京兆少尹崔光遠兼御史中丞,持節賫國信冊命吊祭之。及還,而安祿山已竊據洛陽,以河、隴兵募令哥舒翰為將,屯潼關。

昔、秦は隴山以西を隴西郡とした。漢は匈奴を河右に懐柔し、姑臧・張掖・酒泉・伊吾等の郡を置き、また磧外に西域都護を置いて胡国を控え引き、また隴西を分けて金城・西平等の郡とし、氐・羌を雑居させた。歴代の喪乱にあっては、賢豪によって占拠されなければ、遠夷によって侵され廃された。千年に及んだ。武徳初め、薛仁杲は隴上の地を奄有し、河虜に至った。李敷は涼州の領域をことごとく有し、磧外に通じた。貞観中、李靖は吐谷渾を破り、侯君集は高昌を平定し、阿史那社爾は西域を開拓し、四鎮を置いた。前王の未だ服従させなかった所は、ことごとく臣妾となり、秦・漢の封域は、その土境を論議するを得るようになった。ここにおいて毎年山東の丁男を徴発して戍卒とし、繒帛を軍資とし、屯田を設けて糗糧を賄い、牧使を置いて羊馬を養った。大軍は万人、小軍は千人、烽戍の邏卒は万里相継ぎ、以て強敵を退けた。隴右鄯州を節度とし、河西涼州を節度とし、安西・北庭にもまた節度を置き、関内では霊州に朔方節度を置き、また受降城・単於都護庭をその藩衛とした。潼関が失守し、河洛が兵に阻まれるに及んで、ここにおいて河隴・朔方の将鎮兵をことごとく徴発して国難を靖んじ、これを行営と称した。かつての軍営辺州には備えがなくなった。乾元の後、吐蕃は我が間隙に乗じ、日に日に辺城を侵し、あるいは虜掠傷殺され、あるいは溝壑に転死した。数年後には、鳳翔の西、邠州の以北は、ことごとく蕃戎の境となり、数十州が陥没した。

原文昔秦以隴山已西為隴西郡。漢懷匈奴於河右,置姑臧、張掖、酒泉、伊吾等郡;又於磧外置西域都護,控引胡國;又分隴西為金城、西平等郡,雜以氐、羌居之。歷代喪亂,不為賢豪所據,則為遠夷侵廢;迨千年矣。武德初。薛仁杲奄有隴上之地,至於河虜。李敷盡有涼州之域,通於磧外。貞觀中,李靖破吐谷渾,侯君集平高昌,阿史那社爾開西域,置四鎮。前王之所未伏,盡為臣妾,秦、漢之封域,得議其土境耶!於是歲調山東丁男為戍卒,繒帛為軍資,有屯田以資糗糧,牧使以娩羊馬。大軍萬人,小軍千人,烽戍邏卒,萬里相繼,以卻於強敵。隴右鄯州為節度。河西涼州為節度。安西、北庭亦置節度,關內則於靈州置朔方節度,又有受降城、單於都護庭為之籓衛。及潼關失守,河洛阻兵,於是盡征河隴、朔方之將鎮兵入靖國難,謂之行營。曩時軍營邊州無備預矣。乾元之後,吐蕃乘我間隙,日蹙邊城,或為虜掠傷殺,或轉死溝壑。數年之後,鳳翔之西,邠州之北,盡蕃戎之境,淹沒者數十州。

粛宗元年建寅月甲辰、吐蕃は使者を遣わして来朝し和睦を請い、勅して宰相郭子儀・蕭華・裴遵慶等を中書に設宴させた。光宇寺に赴いて盟誓せんとしたが、使者が言うには、蕃法の盟誓は三牲の血を取ってこれを歃し、仏寺に向かうことはない、明日鴻臚寺において血を歃し、以て蕃戎の礼を申すことを請う、と。これに従った。宝応元年六月、吐蕃の使者燭番・莽耳等二人が方物を貢いで入朝し、延英殿において引見し、労賜それぞれ差があった。剣南西山はまた吐蕃・氐・羌と隣接し、武徳以来、州県を開置し、軍防を立てたが、これは漢の笮路であり、乾元の後、また吐蕃に陥落した。宝慶二年三月、左散騎常侍兼御史大夫李之芳・左庶子兼御史中丞崔倫を吐蕃に使わしたが、その境に至って留め置かれた。

原文肅宗元年建寅月甲辰,吐蕃遣使來朝請和,敕宰相郭子儀、蕭華、裴遵慶等於中書設宴。將詣光宇寺為盟誓,使者云:蕃法盟誓,取三牲血歃之,無向佛寺之事,請明日須於鴻臚寺歃血,以申蕃戎之禮。從之。寶應元年六月,吐蕃使燭番、莽耳等二人貢方物入朝,乃於延英殿引見,勞賜各有差。而劍南西山又與吐蕃、氐、羌鄰接,武德以來,開置州縣,立軍防,即漢之笮路,乾元之後,亦陷於吐蕃。寶慶二年三月,遣左散騎常侍兼御史大夫李之芳、左庶子兼御史中丞崔倫使於吐蕃,至其境而留之。

広徳元年九月、吐蕃が涇州を寇して陥落させた。十月、邠州を寇し、また奉天県を陥落させた。中書令郭子儀を派遣して西に防がせた。吐蕃は吐谷渾・党項羌の衆二十余万を以て、龍光度より東に向かった。郭子儀は退軍し、車駕は陝州に幸し、京師は失守した。降将高暉が吐蕃を導いて上都城に入り、吐蕃の大将馬重英等と故邠王の男広武王承宏を立てて帝とし、年号を立て、大赦し、官員を署置し、まもなく司封崔瑰等を相とした。郭子儀は退軍して南に商州を保ち、吐蕃は城に十五日居て退き、官軍が上都を収め、郭子儀を留守とした。

原文廣德元年九月,吐蕃寇陷涇州。十月,寇邠州,又陷奉天縣。遣中書令郭子儀西禦。吐蕃以吐谷渾、党項羌之眾二十余萬,自龍光度而東。郭子儀退軍,車駕幸陜州,京師失守。降將高暉引吐蕃入上都城,與吐蕃大將馬重英等立故邠王男廣武王承宏為帝,立年號,大赦,署置官員,尋以司封崔瑰等為相。郭子儀退軍南保商州,吐蕃居城十五日退,官軍收上都,以郭子儀為留守。

初め、車駕が東幸した時、衣冠の戚裏はことごとく南に荊襄に投じ、あるいは山谷に隠竄し、ここにおいて六軍の将士は兵を持って剽劫し、所在阻絶した。郭子儀は部曲数百人とその妻子仆従を率いて南に牛心谷に入り、駝馬車牛数百両、子儀は遅留して、赴く所を知らなかった。行軍判官・中書舎人王延昌・監察御史李萼が子儀に言うには、「令公は身をもって元帥たり、主上は外に蒙塵し、家国の事、ここに至る。今吐蕃の勢い日に逼り、谷中に安んずるを得んや、何ぞ南に商州に趨き、漸く行在に赴かざる」と。子儀は急ぎこれに従った。延昌は言う、「吐蕃は令公の南行を知れば、必ず兵を分けて来逼せん、もし大路に当たれば、事即ち危うし。玉山路を取って去るに如かず、その不意に出づる」と。子儀はまたこれに従った。延昌と李萼は皆子儀に従い、子儀の隊千余人、山路狭隘にして、百余里に連延し、人は馳するを得ず。延昌と萼は狭径で追われることを恐れ、前後相救わず、倒回口に至り、遂に子儀と別れて行き、絶澗を逾え、七盤を登り、商州に趨いた。先に、六軍の将張知節が麾下数百人とともに京城より商州に奔り、避難の朝官・士庶及び居人の資財鞍馬を大掠し、すでに日があった。延昌と萼が至ると、知節に説いて言うには、「将軍は身をもって禁兵を掌り、軍敗れて行在に赴かず、またその下の虜掠を恣にす、何に帰せんとするか。今郭令公は元帥なり、すでに洛南に至らんと欲す。将軍もし士卒を整頓し、禍福を以て諭し、令公を請い来たりてこれを撫せしめ、以て長安を収めんと図らば、これ将軍の非常の功なり」と。知節は大いに悦んだ。その時諸軍の将臧希譲・高升・彭体盈・李惟詵等数人、各々部曲あり、その数十騎を率い、相次いで至り、またその計に従い、皆相率いて軍と為し、侵暴せざることを約した。延昌は軍中に留まって約を主とし、萼は数騎を以て子儀を迎えに行き、洛南を去ること十余里にしてこれに及び、遂に子儀とともに商州に回った。諸将は大いに喜び、皆その約束を遵った。

原文初,車駕東幸,衣冠戚裏盡南投荊襄及隱竄山谷,於是六軍將士持兵剽劫,所在阻絕。郭子儀領部曲數百人及其妻子仆從南入牛心谷,駝馬車牛數百兩,子儀遲留,未知所適。行軍判官、中書舍人王延昌、監察御史李萼謂子儀曰:「令公身為元帥,主上蒙塵於外,家國之事,一至於此。今吐蕃之勢日逼,豈可懷安於谷中,何不南趨商州,漸赴行在。」子儀遽從之。延昌曰:「吐蕃知令公南行,必分兵來逼,若當大路,事即危矣。不如取玉山路而去,出其不意。」子儀又從之。延昌與李萼皆從子儀,子儀之隊千余人,山路狹隘,連延百餘里,人不得馳。延昌與萼恐狹徑被追,前後不相救,至倒回口,遂與子儀別行,逾絕澗,登七盤,趨於商州。先是,六軍將張知節與麾下數百人自京城奔於商州,大掠避難朝官、士庶及居人資財鞍馬,已有日矣。延昌與萼既至,說知節曰:「將軍身掌禁兵,軍敗而不赴行在,又恣其下虜掠,何所歸乎?今郭令公元帥也,已欲至洛南,將軍若整頓士卒,喻以禍福,請令公來撫之,以圖收長安,此則將軍非常之功也。」知節大悅。其時諸軍將臧希讓、高升、彭體盈、李惟詵等數人,各有部曲,率其數十騎,相次而至,又從其計,皆相率為軍,約不侵暴。延昌留於軍中主約,萼以數騎往迎子儀,去洛南十餘里,及之,遂與子儀回至商州。諸將大喜,皆遵其約束。

吐蕃の将が京師に入らんとするや、前光禄卿殷仲卿は難を逃れて出奔し、鞍馬衣服はことごとく土賊に掠奪された。仲卿は藍田に至り、散兵及び諸々の驍勇で従うを願う者百余りを糾合し、南は藍田を保ち、以て吐蕃に拒ぎ、その衆は次第に振るい、千人に至った。子儀は既に商州に至ったが、仲卿の挙動を知らず、人を募って賊の勢いを探らしめた。羽林将軍長孫全緒が行くことを請い、二百騎をこれに隷属させた。また太子賓客第五琦に京兆尹を摂させ、ともに長安を収めしめた。全緒は韓公堆に至り、昼は鼓を撃ち、広く旗幟を張り、夜は多く火を燃やし、以て吐蕃を疑わしめた。仲卿は官軍を探知し、その勢い益々壮んになった。遂に相い表裏となり、その状を子儀に聞かせた。仲卿は二百余騎を率いて遊奕し、直ちに浐水を渡った。吐蕃は懼れ、百姓に問うと、百姓は皆これに欺いて曰く、「郭令公が商州より衆を率いて却って長安を収めんとし、大軍はその数を知らず」と。賊はこれを然りとし、遂に軍を抽いて還り、余衆は尚城に在り。軍将王撫及び御史大夫王仲升は兵を頓えて苑中より入り、鼓を椎き大呼し、仲卿の師もまた城に入り、吐蕃は皆奔走し、乃ち上都を収めた。郭子儀はこれに乗じ、鼓行して長安に入り、人心乃ち安んじた。

原文吐蕃將入京師也,前光祿卿殷仲卿逃難而出,鞍馬衣服盡為土賊所掠。仲卿至藍田,糾合散兵及諸驍勇願從者百余人,南保藍田,以拒吐蕃,其眾漸振,至於千人。子儀既至商州,未知仲卿之舉,募人往探賊勢。羽林將軍長孫全緒請行,以二百騎隸之。又令太子賓客第五琦攝京兆尹,同收長安。全緒至韓公堆,晝則擊鼓,廣張旗幟,夜則多燃火,以疑吐蕃。仲卿探知官軍,其勢益壯。遂相為表裏,以狀聞於子儀。仲卿帥二百余騎遊奕,直渡浐水。吐蕃懼,問百姓,百姓皆紿之曰:「郭令公自商州領眾卻收長安,大軍不知其數。」賊以為然,遂抽軍而還,余眾尚在城。軍將王撫及御史大夫王仲升頓兵自苑中入,椎鼓大呼,仲卿之師又入城,吐蕃皆奔走,乃收上都。郭子儀乘之,鼓行入長安,人心乃安。

吐蕃は退いて鳳翔に至り、節度孫誌直は門を閉じてこれを拒ぎ、吐蕃は数日間囲んで守った。時に鎮西節度、兼御史中丞馬璘が精騎千余りを率いて河西より楊誌烈を救い回り、兵を引いて城に入った。夜明け近く、単騎で弓を引き絞り、直ちに賊衆に沖し、左右で従うを願う者百余騎。璘は奮撃して大呼し、賊徒は披靡し、敢えて当たる者なく、賊は疲れて帰った。賊衆はその驍勇を恃み、翌日また城に逼って戦いを請うた。璘は甲を披き懸門を開くと、賊は乃ち抽いて退いた。皆曰く、「この将は死を惜しまず当たるべからず、且くこれを避けよ」と。また復た原・会・成・渭の地に居した。

原文吐蕃退至鳳翔,節度孫誌直閉門拒之,吐蕃圍守數日。會鎮西節度、兼御史中丞馬璘領精騎千余自河西救楊誌烈回,引兵入城。遲明,單騎持滿,直沖賊眾,左右願從者百余騎。璘奮擊大呼,賊徒披靡,無敢當者,賊疲而歸。賊眾恃其驍勇,翌日又逼城請戰。璘披甲開懸門,賊乃抽退。皆曰:「此將不惜死不可當,且避之。」又復居原、會、成、渭之地。

十二月、乗輿は上都に還る。二年五月、李之芳を放って還す。九月、叛将僕射、大寧郡王仆固懐恩は霊武よりその党範誌誠・任敷等を遣わし、吐蕃・吐谷渾の衆を引き来たりて王畿を犯す。十月、懐恩の衆は邠州に至り挑戦し、節度白孝徳及び副元帥先鋒郭鋒は城を嬰いてこれを拒ぎ、以てその鋒を挫いた。賊衆は遂に奉天県西二十里に逼って営と為し、郭子儀は奉天に屯し、また軍を按じて戦わず。郭鋒は邠州西三十里に於いて、精騎二百五十人・歩卒五十人を令して懐恩の営を斫らしめ、五千の衆を破り、首千余級を斬り、八十五人を生擒し、その大将四人を降し、馬五百匹を得た。十一月、仆固懐恩は吐蕃の衆を引いて退く。

原文十二月,乘輿還上都。二年五月,放李之芳還。九月,叛將僕射、大寧郡王仆固懷恩自靈武遣其黨範誌誠、任敷等引吐蕃、吐谷渾之眾來犯王畿。十月,懷恩之眾至邠州挑戰,節度白孝德及副元帥先鋒郭鋒嬰城拒之,以挫其鋒。賊眾遂逼奉天縣西二十里為營,郭子儀屯於奉天,又按軍不戰。郭鋒於邠州西三十里,令精騎二百五十人、步卒五十人斫懷恩營,破五千眾,斬首千余級,生擒八十五人,降其大將四人,為五百匹。十一月,仆固懷恩引吐蕃之眾退。

広徳二年、河西節度楊誌烈は囲まれ、数年守ったが、孤城にして援け無きを以て、乃ち身を跳ねて西に甘州に投じ、涼州はまた寇に陥った。

原文廣德二年,河西節度楊誌烈被圍,守數年,以孤城無援,乃跳身西投甘州,涼州又陷於寇。

永泰元年三月、吐蕃は和を請い、宰相元載・杜鴻漸等を遣わして興唐寺に於いてこれと盟して罷む。秋九月、仆固懐恩は吐蕃・回紇の衆を誘い、南に王畿を犯す。吐蕃大将尚結息贊磨・尚息東贊・尚野息及び馬重英は二十万の衆を率いて奉天界に至り、邠州節度使白孝徳は禦ぐこと能わず、京城戒厳す。先んずること、朔方先鋒兵馬使渾日進・孫守亮は軍を奉天に屯して以てこれを拒ぎ、ここに於いて詔して副元帥郭子儀を河中府より追い、衆を領して赴援せしめ、涇陽に屯し、諸将は各要害を屯守す。初め、吐蕃は奉天に営を列ね、渾日進は単騎でこれに沖し、驍騎二百人が継いで進み、その営を沖突し、左右に撃刺し、賊徒は驚駭し、応弦に斃れざる者無し。日進は一蕃将を挟み、馬を躍らせて帰り、蕃将は身を奮い、その撒飯一を失う。日進の衆に、鋒鏑に中る者無く、軍中これを望みて益々振るう。明日、吐蕃は悉く衆をしてこれを囲み、日進は命じて拋車に石を夾んでこれを投ぜしめ、弓弩を雑え、賊は死傷衆し。数日、軍を斂めて営に回る。尋いでまた日進は夜に賊営を梁母神の下に於いて斫り、千余人を殺し、五百人を生擒し、駝馬器械を獲る。

原文永泰元年三月,吐蕃請和,遣宰相元載、杜鴻漸等於興唐寺與之盟而罷。秋九月,仆固懷恩誘吐蕃、回紇之眾,南犯王畿。吐蕃大將尚結息贊磨、尚息東贊、尚野息及馬重英率二十萬眾至奉天界,邠州節度使白孝德不能禦,京城戒嚴。先是,朔方先鋒兵馬使渾日進、孫守亮屯軍於奉天以拒之,於是詔追副元帥郭子儀於河中府領眾赴援,屯於涇陽,諸將各屯守要害。初,吐蕃列營奉天,渾日進單騎沖之,驍騎二百人繼進,沖突其營,左右擊刺,賊徒驚駭,無不應弦而斃。日進挾一蕃將,躍馬而歸,蕃將奮身,失其撒飯一。日進之眾,無中鋒鏑者,軍中望而益振。明日,吐蕃悉眾圍之,日進命拋車夾石投之,雜以弓弩,賊死傷眾。數日,斂軍回營。尋又日進夜斫賊營於梁母神下,殺千余人,生擒五百人,獲駝馬器械。

上はまた詔を下して親征し、朝官の馬を括り、京城に団練を置く。鎮西節度馬璘は武功東原に於いて吐蕃の遊奕四百余人に遇い、五十人をして撃たしめて尽くこれを殺し、噍類無し。十七日より二十五日の晩際に至るまで始めて止み、議者は天の助けと為す。吐蕃は営を醴泉県九飗山の北に移し、因って醴泉を攻掠す。京城大いに駭き、人は皆室を空にし、大戸は竇を鑿ちて以て出づ。逆党任敷は兵五千余人を以て白水県を犯す。渾日進の露布至り、奉天馬嵬店に屯す。今月十九日已後より二十五日已前に至るまで、二百余陣を交戦し、吐蕃一万余の衆を破り、首五千級を斬り、一百六十人を生擒し、馬一千二百四十二匹、駝一百十五頭、器械・幡旗合わせて三万余事を得たり。朝官震懼し、家口回避する者十室に八九、これを禁むるも止まず。前年吐蕃が王畿を犯した後、中渭橋鄠豊城に於いて兵を営し、ここに至って功畢る。

原文上又下詔親征,括朝官馬,京城置團練。鎮西節度馬璘遇吐蕃遊奕四百余人於武功東原,使五十人擊而盡殺之,無噍類。自十七日至二十五日晚際始止,議者以為天助。吐蕃移營於醴泉縣九飗山北,因攻掠醴泉。京城大駭,人皆空室,大戶鑿竇以出。逆黨任敷以兵五千余人犯白水縣。渾日進露布而至,屯於奉天馬嵬店。今月十九日已後至二十五日已前,交戰二百余陣,破吐蕃一萬余眾,斬首五千級,生擒一百六十人,馬一千二百四十二匹,駝一百一十五頭,器械、幡旗共三萬余事。朝官震懼,家口回避者十室八九,禁之不止。自前年吐蕃犯王畿後,於中渭橋鄠豐城以營兵,至是功畢。

吐蕃は退いて永寿の北に至り、回紇の衆に遇う。懐恩の死を聞くも、皆その衆を悖り、相い誘って奔り、復た来たりて寇す。奉天に至り、両蕃は猜貳して長を争い、別に営壘を為す。吐蕃の遊奕は窯底に至り、吐蕃はまた馬嵬店に至り、因って火を放ち居人の廬舎を焚いて退く。回紇三千騎は涇陽に詣り降款し、吐蕃を撃って効と為さんことを請い、子儀これを許す。ここに於いて朔方先鋒兵馬使開府南陽郡王白元光は回紇と涇陽霊台県東五十里に於いて合し、吐蕃を攻破る。斬首及び生擒し獲る駝馬牛羊甚だ衆し。上は親征を停め、京師は戒厳を解き、宰相は表を上して賀す。

原文吐蕃退至永壽北,遇回紇之眾,雖聞懷恩死,皆悖其眾,相誘而奔,復來寇。至奉天,兩蕃猜貳爭長,別為營壘。吐蕃遊奕至窯底,吐蕃又至馬嵬店,因縱火焚居人廬舍而退。回紇三千騎詣涇陽降款,請擊吐蕃為效,子儀許之。於是朔方先鋒兵馬使開府南陽郡王白元光與回紇合於涇陽靈臺縣東五十里,攻破吐蕃。斬首及生擒獲駝馬牛羊甚眾。上停親征,京師解嚴,宰相上表稱賀。