旧唐書
吐蕃は、長安の西八千里の地にあり、本来は漢代の西羌の地である。その種族の出自は知られていないが、ある説では南涼の禿髪利鹿孤の後裔であるという。利鹿孤に子がいて樊尼と名乗り、利鹿孤が没した時、樊尼はまだ幼く、弟の傉檀が位を継ぎ、樊尼を安西将軍とした。後魏の神瑞元年、傉檀が西秦の乞仏熾盤に滅ぼされると、樊尼は残った兵を集めて沮渠蒙遜に投じ、蒙遜は彼を臨松太守とした。蒙遜が滅びると、樊尼は兵を率いて西へ奔り、黄河を渡り、積石山を越え、羌の中に国を建て、千里の地を開拓した。樊尼は威厳と恩恵が早くから顕著で、群羌の心をつかみ、皆を恩信をもって撫で、市が立つように帰順させた。そこで姓を窣勃野と改め、禿髪を国号としたが、言葉が訛って吐蕃と呼ばれるようになった。その後、子孫は繁栄し、また侵攻をやめず、領土は次第に広がった。周から隋の時代を経ても、なお諸羌に隔てられ、中国とは通じていなかった。
その国の人は王を賛普と呼び、宰相を大論・小論と呼び、国事を統治する。文字はなく、木に刻み縄を結んで契約とする。官職はあるが、常に職務に就くわけではなく、臨時に統領する。徴兵には金の矢を用い、敵が来れば烽火を上げ、百里ごとに亭を置く。刑罰は厳しく、軽い罪でも目や鼻をえぐり、あるいは皮鞭で打つが、ただ喜怒に従うだけで一定の規定はない。囚人を数丈の深さの地下牢に閉じ込め、二、三年してから出す。異国の賓客を宴する時は、必ず牦牛を追い立て、客に自ら射させて供物とする。臣下と一年に一度小さな盟約を結び、羊・犬・猿を殺し、まず足を折ってから殺し、続いて腸を裂いて屠る。巫者に命じて天地山川日月星辰の神に告げて言う、「もし心が変わり、奸計を抱き裏切るならば、神明よこれを見よ、羊や犬のようになるであろう」と。三年に一度大きな盟約を結び、夜に壇の上で皆と供物を並べ、犬・馬・牛・驢を殺して犠牲とし、呪文を唱える、「汝らは皆心を一つにして力を尽くし、共に我が家を守れ、ただ天神地祇のみが汝らの志を知る。この盟約に背くならば、汝らの身体が屠り裂かれるように、この犠牲のようになるであろう」と。
その地の気候は非常に寒く、粳稲は生えず、青稞麦・褭豆・小麦・蕎麦がある。家畜は牦牛・豚・犬・羊・馬が多い。また天鼠があり、雀鼠のようで、猫ほどの大きさがあり、皮は裘にできる。また金・銀・銅・錫が多い。その人は牧畜に従って定住せず、しかし城郭はかなりある。その国の都城は邏些城と呼ばれる。家屋は皆平らな屋根で、高いものは数十尺に至る。貴人は大きな氈帳に住み、これを拂廬と呼ぶ。寝床は汚れ、まったく髪を梳らず体を洗わない。手を合わせて酒を飲み、氈を盤とし、撚鋋を碗とし、羹や酪を盛って共に食べる。羱羝の神を多く祀り、人は巫覡を信じる。季節を知らず、麦が熟すのを歳首とする。囲碁や六博をし、蠡を吹き鼓を鳴らして遊び、弓剣を身から離さない。壮年を重んじ老人を軽んじ、母が子に拝礼し、子が父に傲然とし、出入りは皆若者が先で、老人はその後ろにいる。軍令は厳しく整っており、戦うたびに、前隊が皆死ぬと、後隊が進む。戦死を重んじ、病没を嫌う。代々戦死した家は、甲門とされる。戦場で敗走した者は、狐の尾をその頭に懸け、狐のような臆病さを示し、人の多い所で必ず示衆し、その風習はこれを恥とし、死に次ぐものとする。拝礼は必ず両手を地につけ、狗の吠えるような声を立て、身を二度揖して止める。父母の喪に服する時は、髪を切り、青黛で顔を塗り、衣服は皆黒とし、葬るとすぐに吉に戻る。その賛普が死ぬと、人を殉葬し、衣服・珍玩およびかつて乗った馬・弓・剣の類は、皆ことごとく埋める。なお墓の上に大きな室を建て、土の堆を立て、雑木を挿して祠祭の場所とする。
貞観八年、その賛普棄宗弄贊が初めて使者を遣わして朝貢した。弄贊は弱冠で位を継ぎ、性質は勇猛で武に優れ、英知と謀略が多く、その隣国の羊同および諸羌は皆服従した。太宗は行人馮德遐を遣わして慰撫させた。弄贊は徳遐に会い、大いに喜んだ。突厥および吐谷渾が皆公主を娶ったと聞き、使者を徳遐に従わせて入朝させ、多くの金宝を携え、上表して婚姻を請うたが、太宗はこれを許さなかった。使者が帰還し、弄贊に言うには、「初めて大国に至り、我らを厚く遇し、公主を嫁がせると約束された。ところが吐谷渾王が入朝し、離間工作があり、これによって礼が薄くなり、ついに嫁がせないことになった」と。弄贊はそこで羊同と連合し、兵を発して吐谷渾を撃った。吐谷渾は支えきれず、青海のほとりに逃れてその鋒を避けた。その国の人畜は共に吐蕃に掠奪された。ここにおいて進軍して党項および白蘭の諸羌を撃ち破り、その兵二十万余りを率いて松州の西境に駐屯した。使者を遣わして金帛を貢ぎ、公主を迎えに来たと言った。またその配下に言うには、「もし大国が公主を我に嫁がせなければ、すぐに侵入するであろう」と。そこで松州を攻撃し、都督韓威が軽騎で賊を偵察したが、かえって敗れ、辺境の民は大いに騒いだ。太宗は吏部尚書侯君集を当弥道行営大総管とし、右領軍大将軍執失思力を白蘭道行軍総管とし、左武衛将軍牛進達を闊水道行軍総管とし、右領軍将軍劉蘭を洮河道行軍総管とし、歩騎五万を率いてこれを撃たせた。進達の先鋒が松州から夜襲してその陣営を襲い、千余級を斬った。弄贊は大いに恐れ、兵を引いて退き、使者を遣わして罪を謝した。そこで再び婚姻を請うと、太宗はこれを許した。弄贊はそこでその宰相祿東贊に礼を尽くさせ、金五千両を献上し、その他の宝玩数百点を献じた。
貞観十五年、太宗は文成公主を以てその妻とし、礼部尚書・江夏郡王李道宗に婚姻の主とならせ、節を持って公主を吐蕃に送らせた。弄贊はその部兵を率いて柏海に駐屯し、河源で自ら出迎えた。道宗に会い、子婿の礼を執って甚だ恭しかった。やがて大国の服飾と礼儀の美しさに嘆息し、俯仰して恥じ入る様子があった。公主と共に帰国すると、親しい者に言うには、「我が父祖には上国と通婚した者はなかったが、今私は大唐の公主を娶ることができ、幸い実に多い。公主のために一城を築き、後代に誇示しよう」と。そこで城邑を築き、棟宇を立てて住まわせた。公主はその人の赭面を嫌ったので、弄贊は国中に命じて暫くこれを止めさせ、自らも氈裘を脱ぎ、紈綺を着て、次第に華風を慕うようになった。なお酋豪の子弟を遣わし、国子学に入って『詩経』・『書経』を学ばせることを請うた。また中国の文を識る者を請い、その上奏文を執り行わせた。
太宗が遼東を征伐して帰還すると、祿東贊を遣わして来賀させた。上表して言うには、「聖天子が四方を平定され、日月の照らす国は、皆臣妾となりましたが、高麗は遠いことを恃み、臣礼を欠いております。天子自ら百万を率い、遼を渡って討伐され、城を陥し陣を陷し、指日にして凱旋されました。夷狄は陛下が出発されたと聞くや、少し進む間に、すでに帰国されたと聞きました。雁が飛んで速く越えるも、陛下の迅速さには及びません。奴は子婿に預かる身として、喜びは常の夷狄の百倍です。鵝は雁の類ですので、金の鵝を作って奉献いたします」と。その鵝は黄金で鋳造され、高さ七尺、中に三斛の酒を盛ることができる。
二十二年、右衛率府長史王玄策が西域に使いしたが、中天竺に掠奪された。吐蕃は精兵を発して玄策と共に天竺を撃ち、これを大破し、使者を遣わして勝利を献上した。
高宗が即位すると、弄贊を駙馬都尉に任じ、西海郡王に封じ、賜物二千段を賜う。弄贊はこれにより司徒長孫無忌らに書を致して云う、「天子が初めて即位された。もし臣下に不忠の心ある者あらば、兵を率いて国に赴き除討すべし」と。併せて金銀珠寶十五種を献じ、太宗の霊座の前に置くことを請う。高宗はこれを嘉し、賓王に進封し、雑彩三千段を賜う。これにより蚕種及び酒、碾、硙、紙、墨を造る工匠を請うと、併せてこれを許す。乃ち石を刊してその形を像り、昭陵の玄闕の下に列ねる。
永徽元年、弄贊卒す。高宗これがために挙哀し、右武候将軍鮮于臣済を遣わし、節を持ち璽書を賫して吊祭せしむ。弄贊の子は早く死に、その孫が継いで立ち、復た贊普と号す。時に幼く、国事は皆祿東贊に委ぬ。祿東は姓はMS氏、文記を識らずといえども、性明毅にして嚴重、兵を講じ師を訓え、雅に節制有り、吐蕃の諸羌を併せ、本土を雄霸するは、多くその謀いなり。
初め、太宗が文成公主の降嫁を許すや、贊普は祿東贊を使わして来迎せしめ、召見して顧問す。進対して旨に合い、太宗はこれを礼し、諸蕃に異なり、乃ち祿東贊を右衛大将軍に拝し、また瑯邪長公主の外孫女段氏を以てこれに妻せんとす。祿東贊辞して曰く、「臣が本国に婦有り、父母の聘いし所、情忍びずして乖かん。且つ贊普未だ公主に謁せず、陪臣安んぞ輒ち娶らんや」と。太宗これを嘉し、厚恩を以て撫せんと欲す。その答を奇とすれども、その請いを遂げず。祿東贊に子五人あり。長は贊悉若、早く死す。次は欽陵、次は贊婆、次は悉多幹、次は勃論。東贊の死するに及び、欽陵兄弟復たその国を専らにす。
後に吐谷渾と和せず、龍朔・麟徳中に遞相に表奏し、各々曲直を論ず。国家は依違し、未だ与奪を為さず。吐蕃怨怒し、遂に兵を率いて吐谷渾を撃つ。吐谷渾大いに敗れ、河源王慕容諾曷缽及び弘化公主は身を脱して涼州に走り投ず。使を遣わして告急す。
咸亨元年四月、詔して右威衛大将軍薛仁貴を邏婆道行軍大総管と為し、左衛員外大将軍阿史那道真・右衛将軍郭待封を副とし、衆十余万を率いてこれを討たしむ。軍大非川に至り、吐蕃の大将論欽陵に敗れられる。仁貴等並びに坐して除名せらる。吐谷渾全国尽く没し、唯だ慕容諾曷缽及びその親信数千帳来たりて内属し、仍って霊州に徙す。是より吐蕃連年辺を寇し、当・悉等州の諸羌尽くこれに降る。
上元三年、進んで鄯・廓等州を寇し、人吏を殺掠す。高宗は尚書左僕射劉仁軌を命じて洮河軍に往き鎮守し、以てこれを禦がしむ。儀鳳三年、また中書令李敬玄を命じ、鄯州都督を兼ね、洮河の鎮守において仁軌に代わり往かしむ。仍って関内・河東及び諸州の驍勇を募り、以て猛士と為し、色役を簡ばず。また嘗て文武官に任ぜし者あり、殿庭に召入れて宴を賜い、遣わしてこれを撃たしむ。また益州長史李孝逸・巂州都督拓王奉等に令し、剣南・山南の兵募を発して以てこれを防禦せしむ。その年秋、敬玄は工部尚書劉審礼と、兵を率いて吐蕃と青海に戦う。官軍敗績し、審礼は陣に没す。敬玄は軍を按じて敢えて救わず。俄かに軍を収めて却出し、承風嶺に頓し、泥溝に阻まれて動く能わず。賊は高岡に屯して以てこれを圧す。偏将左領軍員外将軍黒歯常之は敢死の士五百人を率い、夜に賊営を斫ち、賊遂に潰乱し、自ら相蹂躙し、死者三百余人。敬玄遂に衆を擁して鄯州に至り、坐して衡州刺史に改めらる。往く剣南の兵募は、茂州の西南に安戎城を築きて以てその境を圧す。俄かに生羌有りて吐蕃の郷導と為り、その城を攻め陥し、遂に兵を引いてこれを守る。時に吐蕃は羊同・党項及び諸羌の地を尽く収め、東は涼・松・茂・巂等州と相接し、南は婆羅門に至り、西はまた亀茲・疏勒等の四鎮を攻め陥し、北は突厥に抵り、地方万余里。漢・魏已来、西戎の盛んなる、未だこれ有らざるなり。
高宗は審礼等の敗没を聞き、侍臣を召して綏禦の策を問う。中書舎人郭正一曰く、「吐蕃が梗を作すこと、年歳已に深し。将を命じ師を興すこと、相継ぎて絶えず。空しく士馬を労し、虚しく糧儲を費やす。近く討つは則ち徒らに兵威を損ない、深く入るは則ち未だ巣穴を窮めず。望むらくは少しく兵募を発し、且つ辺を備えしめ、烽堠を明らかにし、侵抄せしむること勿からしむ。国用を豊足にし、人心を葉同にせしめ、これを数年寛ぐれば、一挙にして滅ぼすべし」と。給事中劉斉賢・皇甫文亮等皆、厳守するの便を言う。尋いて黒歯常之が吐蕃の大将贊婆及び素和貴を良非川に破り、二千余級を殺獲す。吐蕃遂に引き退く。詔して常之を河源軍使と為し、以てこれを鎮禦せしむ。
儀鳳四年、贊普卒す。その子器弩悉弄が嗣いで立ち、復た贊普と号す。時に年八歳、国政復た欽陵に委ぬ。その大臣論寒調傍を遣わして喪を告げ、且つ和を請う。高宗は郎将宋令文を遣わし、蕃に入りて葬に会わしむ。永隆元年、文成公主薨ず。高宗また使を遣わしてこれを吊祭す。
則天朝に臨み、文昌右相韋待価を安息道大総管と為し、安西大都護閻温古を副とす。永昌元年、兵を率いて往きて吐蕃を征す。遅留して進まず、待価は坐して浦州に流され、温古は斬に処せらる。待価は素より統禦の才無く、遂に狼狽して拠る所を失い、士卒饑饉し、皆転じて溝壑に死す。明年、また文昌右相岑長倩を武威道行軍大総管と為し、以て吐蕃を討たしむ。中路に退き還り、軍竟に行わず。如意元年、吐蕃の大首領曷蘇がその所属並びに貴川部落を率いて降を請う。則天は右玉鈐衛大将軍張玄遇を令し、精卒二万を率いて安撫使に充て、以てこれを納れしむ。師は大渡水に次ぐ。曷蘇の事泄れ、本国に擒えらる。また大首領昝捶有りて羌蛮部落八千余人を率い、玄遇に詣り内附す。玄遇はその部落を以て葉川州を置き、昝捶を刺史と為す。仍って大度西山に於いて石を勒して功を紀し還る。長寿元年、武威軍総管王孝傑が吐蕃の衆を大破し、亀茲・於闐・疏勒・碎葉等の四鎮を克復す。乃ち亀茲に安西都護府を置き、兵を発して以てこれを鎮守せしむ。万歳登封元年、孝傑復た肅邊道大総管と為り、副総管婁師徳を率いて吐蕃の将論欽陵・贊婆と素羅汗山に戦う。官軍敗績し、孝傑は坐して官を免ぜらる。万歳通天元年、吐蕃四万衆奄に涼州城下に至る。都督許欽明初めこれを覚えず、軽く出でて部を按ず。遂に賊に遇い、拒戦すること久しく、力屈して賊に殺さる。時に吐蕃また使を遣わして和を請う。則天将にこれを許さんとす。論欽陵乃ち安西四鎮の兵を去り、仍って十姓の地を分かつことを請う。則天竟にこれを許さず。
吐蕃は論欽陵兄弟の兵馬を専統するより、欽陵は毎に中に居りて事を用い、諸弟は方面に分かれて拠る。贊婆は則ち専らに東境に在り、中国と鄰り、三十余年、常に辺患と為る。その兄弟皆才略有り、諸蕃これを憚る。
聖暦二年、その賛普器弩悉弄は年齢が次第に長ずるに及び、乃ちその大臣論巖らと密かにこれを図る。時に欽陵は外にあり、賛普は乃ち偽りに狩猟せんと宣言し、兵を召して欽陵の親党二千余人を捕え、これを殺す。使者を発して欽陵・賛婆らを召すも、欽陵は兵を挙げて召しに応ぜず、賛普自ら衆を率いてこれを討つ。欽陵は未だ戦わずして潰え、遂に自殺す。その親信左右、同日に自殺する者百余人。賛婆は率いる所の部衆千余人及びその兄の子莽布支らを率いて来降す。則天は羽林飛騎を遣わして郊外にこれを迎えさせ、賛婆に輔国大将軍・行右衛大将軍を授け、帰徳郡王に封じ、優れた賜物を甚だ厚くし、仍ってその部兵を率いさせて洪源谷において討撃せしむ。尋いで卒す。特進・安西大都護を贈る。
久視元年、吐蕃はまたその将趨莽布支を遣わして涼州を寇し、昌松県を囲み逼る。隴右諸軍州大使唐休璟は莽布支と洪源谷において戦い、その副将二人を斬り、首級二千五百を獲る。長安二年、賛普は衆万余人を率いて悉州を寇す。都督陳大慈は賊と凡そ四度戦い、皆これを破り、首級千余を斬る。ここにおいて吐蕃は使者論弥薩らを遣わして入朝し和を請う。則天はこれを麟徳殿において宴し、殿庭に百戯を奏す。論弥薩曰く、「臣は辺荒に生まれ、由来中国の音楽を識らず。乞うらくは臣を放ちて親しく観覧せしめよ」と。則天はこれを許す。ここにおいて論弥薩らは相視て笑い忭び拝謝して曰く、「臣自ら聖朝に帰投して以来、前後礼数優渥なり。又た奇楽を親しく観ることを得、一生未だ見ざる所なり。自ら顧みるに微瑣、何をもってか天恩に仰ぎ答えん。区々たる褊心、唯だ大家の万歳を願うのみ」と。明年、また使者を遣わして馬千匹・金二千両を献じ、もって婚を求めしむ。則天はこれを許す。
時に吐蕃の南境の属国泥婆羅門ら皆叛く。賛普自ら往きてこれを討ち、軍中に卒す。諸子争いて立つこと久しく、国人器弩悉弄の子棄隷蹜賛を立てて賛普と為す。時に年七歳。中宗神龍元年、吐蕃の使い来たりて喪を告ぐ。中宗このために哀を挙げ、朝を廃すること一日。俄かに賛普の祖母その大臣悉薰然を遣わして方物を献じ、その孫のために婚を請う。中宗、養う所の雍王守礼の女を以て金城公主と為し、これに許嫁す。ここより頻りに歳貢す。景龍三年十一月、またその大臣尚賛吐らを遣わして来たりて女を迎えしむ。中宗これを苑内の球場において宴し、駙馬都尉楊慎交に命じて吐蕃の使と打球せしむ。中宗侍臣を率いてこれを観る。四年正月、制して曰く、
聖人は化を布くに、百姓を以て心と為し、王者は仁を垂るるに、八荒を以て外無きを為す。故に能く遐邇に光宅し、品物を裁成す。ここより隆周は暦を理め、遠きを柔らぐるの図を恢め、強漢は時に乗じ、和親の議を建つ。これ蓋し宇内の長策、邦を経る茂範なり。朕は上霊の命を受け、洪業を克く纂ぎ、幾くば前烈に庶い、永く和平を致さんことを。彼の吐蕃を睠みれば、西服に僻在す。皇運の始め、早く朝貢を申す。太宗文武聖皇帝の徳は覆載に侔しく、情は億兆に深く、兵甲を偃げんと思い、遂に姻好を通ず。数十年の間、一方清浄たり。文成公主化を往かせしより、その国因って多く変革す。我が辺隅は亟に師旅を興し、彼の蕃落は頗る凋弊を聞く。頃者賛普及び祖母可敦・酋長ら、屡び誠款を披き、歳時を積む。旧親に托さんと思い、新好を崇めんことを請う。金城公主は朕の少女、豈に鐘念せざらんや。但だ人として父母たる、志す所は黎元を息ましむるにあり。若し乃ち誠祈を允し、更に和好を敦くせば、則ち辺土寧晏し、兵役服息せん。遂に深慈を割き、国の大計と為し、この外館を築き、聿に嘉礼を膺け、彼の吐蕃賛普に降す。即ち今月を以て進発せしむ。朕は自ら郊外に送らんことを想う。
中宗は侍中紀処訥を召して謂いて曰く、「昔、文成公主出降するときは、則ち江夏王これを送る。卿は雅に蕃情を識り、辺を安んずるの略あり。朕がために吐蕃使を充つべし」と。処訥拝謝す。既にして辺事に練れざるを以て固く辞す。上また中書侍郎趙彦昭に命じて使を充たしむ。彦昭、既に外使を充つるを以て、その権寵を失わんことを恐れ、殊に悦ばず。司農卿趙履温私かにこれに謂いて曰く、「公は国の宰輔たり。而して一介の使と為るは、亦た鄙しからずや」と。彦昭曰く、「然らば計いずくんか出づべき」と。履温、因って陰に安楽公主に托して密奏しこれを留めしむ。ここにおいて左衛大将軍楊矩を以て使と為す。その月、帝は始平県に幸して以て公主を送り、帳殿を百頃泊の側に設け、王公宰相及び吐蕃使を引き入れ宴す。中座酒闌け、吐蕃使を命じて進ましめ、公主孩幼なること、慈を割き遠く嫁すの旨を諭す。上悲泣歔欷すること久し。因って従臣に命じて詩を賦し餞別せしむ。曲げて始平県の大辟の罪以下を赦し、百姓に復を給すること一年。始平県を改めて金城県と為し、又その地を改めて鳳池鄉愴別裏と為す。公主既に吐蕃に至り、別に一城を築き以てこれに居らしむ。
睿宗即位す。摂監察御史李知古上言して曰く、「姚州の諸蛮は先に吐蕃に属す。兵を発してこれを撃たんことを請う」と。遂に知古に令して剣南の兵募を征し往きてこれを経略せしむ。蛮酋傍名は乃ち吐蕃を引きて知古を攻め、これを殺し、仍ってその屍を断ちて以て天に祭る。時に張玄表は安西都護たり。又た吐蕃と境を比し、互いに攻掠す。吐蕃内に怨怒すと雖も、外には和好を敦くす。時に楊矩は鄯州都督たり。吐蕃は使者を遣わして厚くこれに遺い、因って河西九曲の地を請うて以て金城公主の湯沐の所と為さんことを求む。矩遂に奏してこれを与う。吐蕃既に九曲を得るや、その地肥良にして、兵を頓え畜牧に堪え、又た唐の境に接近す。ここより復た叛き、始めて兵を率いて入寇す。
開元二年秋、吐蕃の大将闉達焉・乞力徐ら衆十余万を率いて臨洮軍を寇し、又た進んで蘭・渭等州を寇し、監牧の羊馬を掠めて去る。楊矩悔い懼れて、薬を飲みて死す。玄宗は摂左羽林将軍薛訥及び太僕少卿王晙に命じて兵を率いてこれを邀撃せしむ。仍って詔を下して将に大挙親征せんとし、将士を召募し、期を克して進発せしむ。俄にして晙ら賊と渭源の武階駅において相遇う。前軍王海賓力戦してこれに死す。晙ら兵を率いて進み、大いに吐蕃の衆を破り、数万人を殺し、掠められたる羊馬を尽く収復す。賊の余党奔北し、相枕藉して死に、洮水これがために流れず。上遂に親征を罷め、紫微舎人倪若水を命じて往きて軍実を按じ、仍って王海賓を吊祭して還らしむ。吐蕃はその大臣宗俄因子を遣わして洮河に至りその死亡の士を祭らしめ、仍って塞に款き和を請う。上これを許さず。ここより連年辺を犯す。郭知運・王君㚟相次いで河西節度使と為り以てこれを捍ぐ。
吐蕃は既に兵強きを自恃し、表疏を通ずる毎に、敵国の礼を求め、言詞悖慢なり。上甚だこれを怒る。封禅の礼畢りしに及び、中書令張説奏言して曰く、「吐蕃醜逆、誠に万誅に負う。然れども又た事征討すれば、実に労弊たり。且つ十数年甘・涼・河・鄯において征発息まず。縦令属勝すと雖も、亦た補う能わず。その悔過して和を請うを聞く。惟うらくは陛下使者を遣わし、その稽顙内属を許し、以て辺境を息ましめられんことを。則ち蒼生幸甚なり」と。上曰く、「吾が王君㚟とこれを籌するを待て」と。説出でて、源乾曜に謂いて曰く、「君㚟は勇にして謀無く、常に僥幸を思う。両国和好すれば、何を以てか労と為さん。若し入りて謀を陳ぜば、則ち吾が計遂げられず」と。尋いで君㚟入朝して事を奏し、遂に兵を率いて深入し以てこれを討たんことを請う。
十五年正月、王君㚟は兵を率いて青海の西において吐蕃を破り、その輜重及び羊馬を鹵獲して還った。先に、吐蕃の大将悉諾邏が衆を率いて大斗谷に攻め入り、また転じて甘州を攻め、市裏を焼き払った。君㚟はその鋒鋭を畏れ、敢えて出戦しなかった。時に大雪に会い、賊は凍死者甚だ多く、遂に積石軍の西路を取って還った。君㚟は先に人を潜めて賊の境内に入らせ、その帰路において草を焼かせた。悉諾邏の軍が還って大非山に至ると、将士は甲を休め馬を牧したが、野草は皆尽き、馬の死は過半に及んだ。君㚟は秦州都督張景順等と衆を率いてその背後を襲い、青海の西に入った。時に海水は氷結し、将士は並びに氷を乗って渡った。時に悉諾邏は既に大非川を渡り、輜重及び疲兵は尚青海の側に在った。君㚟は兵を放ってこれを俘獲して還った。その年九月、吐蕃の大将悉諾邏恭祿及び燭龍莽布支が瓜州城を攻め陥とし、刺史田元献及び王君㚟の父王寿を捕らえ、城中の軍資及び倉糧を悉く取り、なおその城を毀って去った。また玉門軍及び常楽県を進攻し、県令賈師順が城に拠って固く守り、凡そ八十日、賊は遂に引き退いた。俄にして王君㚟が回紇の余党に殺された。乃ち兵部尚書蕭嵩を河西節度使と為し、建康軍使・左金吾将軍張守珪を以て瓜州刺史と為し、州城を修築し、百姓を招輯して、その復業を令した。時に悉諾邏恭祿の威名甚だ振るい、蕭嵩は乃ち反間を吐蕃に放ち、その中国と潜かに通ずると云い、贊普は遂に召してこれを誅した。
明年秋、吐蕃の大将悉末朗が復た衆を率いて瓜州を攻め、守珪は出兵してこれを撃ち走らせた。隴右節度使・鄯州都督張忠亮が兵を引いて青海西南の渇波谷に至り、吐蕃と接戦し、これを大破した。俄にして積石・莫門両軍の兵馬が総じて至り、忠亮と合勢して追討し、その大莫門城を破り、千余人を生擒し、馬一千匹・牦牛五百頭を獲、器仗衣資甚だ多く、またその駱駝橋を焼いて還った。八月、蕭嵩はまた副将杜賓客に弩手四千人を率いさせて吐蕃と祁連城下で戦わせ、辰より暮に至るまで、散じて復た合し、賊徒大いに潰え、陣に臨んでその副将一人を斬った。賊敗れて散走し山に投じ、哭聲四方に合した。初め、上は吐蕃が重ねて入寇したと聞き、侍臣に謂いて曰く、「吐蕃驕暴なり。力を恃んで来たり、朕今地図を按じ、利害を審らかにし、将帥に親しく指授す、これを破ること必ずや!」数日にして露布至る。
十七年、朔方大総管信安王李禕がまた兵を率いて隴右に赴き、その石堡城を抜き、首四百余級を斬り、二百余口を生擒し、遂に石堡城に振武軍を置き、なおその俘囚を太廟に献じた。ここにおいて吐蕃頻りに使を遣わして和を請う。忠王友皇甫惟明が奏事に因り面して通和の便を陳べた。上曰く、「吐蕃の贊普往年嘗て朕に書を与え、悖慢にして礼無し。朕の意これを討たんと欲す、何ぞ和を得んや!」惟明曰く、「開元の初、贊普幼稚なり、豈に能くかくの如くせんや。必ずや辺境の軍将に在りて務めて一時の功を邀え、偽りにこの書を作り、陛下を激怒せしむるなり。両国既に闘い、師を興し衆を動かし、利に因り便に乗じ、公行して隠盗し、偽りに功状を作り、以て勲爵を希う、損ずる所鉅万、何ぞ国家に益せん!今河西・隴右、百姓疲竭す、事皆これに由る。若し陛下使を遣わして金城公主を視せしめ、因りて贊普と面約して通和し、その稽顙して臣と称し、永く辺境を息ましめば、これ永代安人の道なり。」上その言を然りとし、因りて惟明及び内侍張元方を使いに充てて吐蕃に往き問わしむ。惟明・元方等吐蕃に至り、既に贊普及公主に謁見し、上意を具に宣べた。贊普等欣然として和を請い、貞観以来前後の勅書を尽く出して惟明等に示し、その重臣名悉獵に惟明等に随って入朝せしめ、上表して曰く、
外甥は先皇帝の舅宿親にして、又降嫁の金城公主を蒙り、遂に和同して一家と為り、天下の百姓、普く皆安楽たり。中間張玄表・李知古等の東西両処に先だって兵馬を動かし、吐蕃を侵抄せしめ、辺将の所以に互いに征討し、今日に至るまで、遂に釁隙を成す。外甥は先代の文成公主・今の金城公主の故に、深く尊卑を識り、豈に敢えて礼を失せんや!又年小なるに縁り、枉く辺将の讒抅闘乱に被り、舅をして怪しましむ。伏して乞う、垂察して追留を察せられんことを、死して万足たるべし。前数度人を使いに入朝せしむるも、皆辺将に許さず、所以に敢えて自ら奏せず。去冬公主人を使い婁衆失若に将状を専ら往かしめ、降使の公主を見に来るを蒙り、外甥喜荷に勝えず。謹みて諭名悉獵及び副使押衙将軍浪些紇夜悉獵を遣わして入朝せしめ、進止を奏取す。両国の事意、悉獵の知る所なり。外甥蕃中に已に辺将を処分し、抄掠を許さず、若し漢人の来投する有らば、便ち卻送せしむ。伏して望む、皇帝舅遠く赤心を察し、旧好に許し、長く百姓をして快樂せしめんことを。聖恩を蒙ること如くんば、千年万歳、外甥終に敢えて先ず盟誓に違わず。謹みて金胡瓶一・金盤一・金碗一・馬脳杯一・零羊衫段一を奉り、謹みて微国の礼に充つ。
金城公主は又別に金鴨盤盞雑器物等を進む。十八年十月、名悉獵等京師に至る。上宣政殿に御し、羽林仗を列べて以てこれを見る。悉獵頗る書記に暁け、先に曾て金城公主を迎えて長安に至らしめ、当時朝廷皆その才弁を称す。是に及び上内宴に引入れ、語らうに、甚だこれを礼す。紫袍金帯及び魚袋を賜い、並びに時服・繒彩・銀盤・胡瓶を賜い、なお別館において供擬甚だ厚し。悉獵袍帯器物を受けて却って魚袋を進め、辞して曰く、「本国にこの章服無し、敢えて殊異の賞に当たらず。」上嘉してこれを許す。詔して御史大夫崔琳を使いに充てて報聘せしむ。なお赤嶺において各々分界の碑を豎て、更に相侵さざるを約す。
時に吐蕃の使奏して云く、「公主『毛詩』・『礼記』・『左伝』・『文選』各一部を請う。」制して秘書省に令して写してこれに与う。正字於休烈上疏して請いて曰く、
臣聞く、戎狄は国の寇なり。経籍は国の典なり。戎の心を生ずるは、以て備え無かるべからず。典に恒制有り、以て人に仮すべからず。『伝』に曰く、「裔は夏を謀らず、夷は華を乱さず。」と。その非心を格する所以は、備え有りて患い無きに在り。昔東平王入朝して『史記』・諸子を求めしも、漢帝与えず。蓋し『史記』は兵謀多く、諸子は詭術雑なり。東平を以てすら、漢の懿戚、尚お征戦の書を示さんと欲せず、今西戎は国の寇讎、豈に經典の事を貽すべけんや!
且つ臣聞く、吐蕃の性、剽悍果決、情に敏にして鋭を持し、善く学びて回らず。若し書に達せば、必ず能く戦を知らん。『詩』に深ければ、則ち武夫に師幹の試有るを知らん。『礼』に深ければ、則ち月令に興廃の兵有るを知らん。『伝』に深ければ、則ち用師に詭詐の計多きを知らん。『文』に深ければ、則ち往来に書檄の制有るを知らん。何ぞ寇に兵を借し盗に糧を資するに異ならんや!
臣聞く、魯は周禮を秉り、齊は兵を加えず。吳は乘車を獲、楚は奔命に疲る。一は典を守りて國を存し、一は法を喪ひて邦を危うくす。以て鑒とすべきなり。且つ公主は下嫁して人に從ひ、遠く異國に適す。夷禮を慕ひ合はせ、返りて良書を求む。愚臣之を料るに、恐らくは公主の本意に非ざるならん。奔北の類有らんことを慮り、中に勸教せんとす。若し陛下蕃情を失はんことを慮ひ、以て國信を備へんとせば、必ず已むを得ずば、請ふ《春秋》を去らん。周德既に衰へ、諸侯強盛なるに當り、禮樂自ら出で、戰伐交ひに興り、情偽是より乎生じ、變詐是より乎起これば、則ち臣を以て君を召すの事有り、威を取り霸を定むるの名有り。若し此の書を與ふれば、國の患ひなり。《傳》に曰く「於奚曲縣鞶纓を請ふ。仲尼曰く『惜しむなり、邑を多く與ふるに如かず。惟だ名と器とは、人に假すべからず』と。」狄は固より貪婪、貨を貴び土を易ふ。正に錦綺を錫ひ、厚く玉帛を以てすべし。何ぞ必ずしも其の求に率從し、以て其の智を資けんや。臣列位に忝叨し、職は秘籍を刊す。實に經典の戎夷に棄てらるるを痛む。昧死して上聞す。惟ふに陛下深く察せよ。
疏を奏すれど省みられず。二十一年、又制して工部尚書李皓をして吐蕃に往聘せしむ。唐使の入境する毎に、所在甲兵及び騎馬を盛んに陳べて、以て其の精銳を矜る。二十二年、將軍李佺を遣はして赤嶺に於て吐蕃と分界し碑を立つ。二十四年正月、吐蕃使を遣はし方物金銀器玩數百事を貢ぐ。皆形制奇異なり。上令して提象門外に列ねしめ、以て百僚に示す。
其の年、吐蕃西に勃律を撃ち、使を遣はして來り急を告ぐ。上吐蕃に報じて、其の兵を罷めしむ。吐蕃詔を受かず、遂に勃律國を攻め破る。上之を甚だ怒る。時に散騎常侍崔希逸、河西節度使と為り、涼州に於て鎮守す。時に吐蕃と漢と柵を樹てて界と為し、守捉使を置く。希逸吐蕃の將乞力徐に謂ひて曰く「兩國和好す、何ぞ須ひん守捉を、人の耕種を妨ぐるを。請ふ皆之を罷め、以て一家を成さば豈に善からずや」と。乞力徐報じて曰く「常侍忠厚、必ず是れ誠言ならん。但だ朝廷必ずしも皆相信任せざらんことを恐る。萬一交抅する人有り、吾が不備を掩はば、後悔益無し」と。希逸固く之を請ふ。遂に使を發して乞力徐と白狗を殺して盟を為し、各守備を去る。是に於て吐蕃畜牧野に被る。俄にして希逸の傔人孫誨朝に入り事を奏す。誨自ら其の功を邀へんと欲し、因りて奏して言ふ「吐蕃備無し。若し兵を發して之を掩はば、必ず克捷す」と。上内給事趙惠琮をして孫誨と馳せ往きて事宜を觀察せしむ。惠琮等涼州に至り、遂に詔を矯ひて希逸に之を掩襲せしむ。希逸已むを得ずして之に從ひ、大いに吐蕃を青海の上に破り、殺獲甚だ衆し。乞力徐身を輕くして遁逸す。惠琮・孫誨皆厚く賞を加へらる。吐蕃是より復た朝貢を絕つ。希逸失信を以て怏怏とし、軍に在りて志を得ず。俄に遷りて河南尹と為る。京師に行き至り、趙惠琮と俱に白狗の祟りを見、相次いで死す。孫誨亦罪を以て戮せらる。詔して岐州刺史蕭炅を以て戶部侍郎と為し涼州事を判せしめ、希逸に代はりて河西節度使と為す。鄯州都督杜希望を隴右節度使と為す。太僕卿王昊を益州長史・劍南節度使と為し、道を分ちて經略し、以て吐蕃を討たしむ。仍て其の分界の碑を毀たしむ。
二十六年四月、杜希望衆を率ひて吐蕃の新城を攻め、之を拔く。其の城を以て威武軍と為し、兵一千を發して以て之を鎮む。其の年七月、希望又鄯州より兵を發して吐蕃の河橋を奪ひ、河左に鹽泉城を築く。吐蕃將兵三萬人以て官軍を拒ぐ。希望衆を引きて之を撃ち破り、因りて鹽泉城に鎮西軍を置く。時に王昊又劍南の兵募を率ひて其の安戎城を攻む。先づ安戎城の左右に兩城を築き、以て攻拒の所と為し、兵を蓬婆嶺下に頓し、劍南道の資糧を運びて以て之を守る。其の年九月、吐蕃銳を悉くして以て安戎城を救ふ。官軍大いに敗れ、兩城並びに賊の陷す所と為る。昊身を脫して走り免る。將士已下數萬人及び軍糧資仗等並びに賊に沒す。昊坐して括州刺史に左遷せらる。初め、昊の軍に在りし時、謬りて其の子に錢帛萬計を賞し、並びに擅に紫袍等を與ふ。費す所鉅萬、坐する是に尋いで又重く貶せられて端州高要尉と為りて死す。
二十七年七月、吐蕃又白草・安人等軍を寇す。勅して臨洮・朔方等軍に分兵して救援せしむ。時に吐蕃中路に兵を屯し、臨洮軍の路を斷つ。白水軍守捉使高柬於拒守連旬、俄にして賊退く。蕭炅偏將を遣はして其の後を掩はしめ、之を撃ち破る。王昊既に敗れたる後、詔して華州刺史張宥を以て益州長史・劍南防禦使と為し、主客員外郎章仇兼瓊を益州司馬・防禦副使と為す。宥既に文吏、素より攻戰の策無し。兼瓊遂に其の戎事を專らにす。俄にして兼瓊入奏し、盛んに安戎を攻め取るの策を陳ぶ。上甚だ悅び、張宥を徙めて光祿卿と為し、兼瓊を拔きて益州長史事を知らしめ、張宥に代はりて節度せしめ、仍て之が爲に親しく城を取るの計を畫く。
二十八年春、兼瓊密かに安戎城中の吐蕃翟都局及び維州別駕董承宴等と謀を通ず。都局等遂に城を翻して款に歸し、因りて官軍を引きて城に入れ、盡く吐蕃の將士を殺し、監察御史許遠に兵を率ひて鎮守せしむ。上之を聞き、甚だ悅ぶ。中書令李林甫等表を上りて曰く「伏して惟ふに吐蕃此の城、正に沖要に當り、險に憑りて自ら固くし、恃みて以て邊を窺ふ。積年以來、蟻聚して患ひと為り、縱ひ百萬の衆有りと雖も、功を施し難し。陛下親しく秘策を紆め、師旅を興さず。頃に中使李思敬を令して羌族に曉喻せしむ。懷恩せざる莫く、翻然として圖を改め、自ら謀りて陷る。神算測るべからざるに運らされ、睿略未然に通ず。累載逋誅するもの、一朝に蕩滅す。又臣等今日事を奏す。陛下從容として臣等に問ひて曰く『卿等但だ四夷の久からず當に漸く摧喪すべしと看よ』と。德音纔に降り、遽かに戎捷を聞く。則ち知る聖天と合ひ、應へ響の至るが如し。前古以來、未だ有らざる所なり。請ふ百僚に宣示し、史策に編せん」と。手制を以て答へて曰く「此の城儀鳳年中羌吐蕃を引き、遂に固守せらる。歲月既に久しく、攻伐亦多し。其の地險阻、力の制する所に非ず。朝廷群議、之を取るに合はず。朕小蕃の無知なるを慮ひ、事須く處置すべし。奇計を授けて以て之を行はしむ。彼の戎心を獲、我が城守に歸す。足りて慰むべき有り」と。其の年十月、吐蕃又衆を引いて安戎城及び維州を寇す。章仇兼瓊裨將を遣はして衆を率ひて之を禦がしめ、仍て關中の彍騎を發して以て救援せしむ。時に凝寒に屬し、賊久しくして自ら引退す。詔して安戎城を改めて平戎城と為す。
二十九年の春、金城公主が薨去し、吐蕃は使者を遣わして哀悼を告げ、なお和睦を請うたが、上はこれを許さなかった。使者が到着して数か月後、ようやく光順門外で公主の哀悼の儀を行い、三日間朝政を停止した。六月、吐蕃四十万が承風堡を攻め、河源軍に至り、西に長寧橋に入り、安仁軍に至ったが、渾崖峰の騎将盛希液が五千の兵を率いてこれを攻め破った。十二月、吐蕃はまた石堡城を襲撃し、節度使蓋嘉運は守ることができず、玄宗はこれを憤った。天宝初め、皇甫惟明・王忠嗣を隴右節度と命じたが、いずれもこれを克服できなかった。七載、哥舒翰を隴右節度使とし、攻めてこれを陥落させ、石堡城を神武軍と改称した。
天宝十四載、贊普乞黎蘇籠獵贊が死去し、大臣がその子婆悉籠獵贊を立てて主とし、また贊普とした。玄宗は京兆少尹崔光遠を御史中丞を兼ねさせ、節を持ち国信を携えて冊命し弔祭させた。帰還する頃には、安禄山がすでに洛陽を窃拠し、河・隴の兵募を以て哥舒翰を将と命じ、潼関に駐屯させた。
昔、秦は隴山以西を隴西郡とした。漢は匈奴を河右に懐柔し、姑臧・張掖・酒泉・伊吾等の郡を置き、また磧外に西域都護を置いて胡国を控え引き、また隴西を分けて金城・西平等の郡とし、氐・羌を雑居させた。歴代の喪乱にあっては、賢豪によって占拠されなければ、遠夷によって侵され廃された。千年に及んだ。武徳初め、薛仁杲は隴上の地を奄有し、河虜に至った。李敷は涼州の領域をことごとく有し、磧外に通じた。貞観中、李靖は吐谷渾を破り、侯君集は高昌を平定し、阿史那社爾は西域を開拓し、四鎮を置いた。前王の未だ服従させなかった所は、ことごとく臣妾となり、秦・漢の封域は、その土境を論議するを得るようになった。ここにおいて毎年山東の丁男を徴発して戍卒とし、繒帛を軍資とし、屯田を設けて糗糧を賄い、牧使を置いて羊馬を養った。大軍は万人、小軍は千人、烽戍の邏卒は万里相継ぎ、以て強敵を退けた。隴右鄯州を節度とし、河西涼州を節度とし、安西・北庭にもまた節度を置き、関内では霊州に朔方節度を置き、また受降城・単於都護庭をその藩衛とした。潼関が失守し、河洛が兵に阻まれるに及んで、ここにおいて河隴・朔方の将鎮兵をことごとく徴発して国難を靖んじ、これを行営と称した。かつての軍営辺州には備えがなくなった。乾元の後、吐蕃は我が間隙に乗じ、日に日に辺城を侵し、あるいは虜掠傷殺され、あるいは溝壑に転死した。数年後には、鳳翔の西、邠州の以北は、ことごとく蕃戎の境となり、数十州が陥没した。
粛宗元年建寅月甲辰、吐蕃は使者を遣わして来朝し和睦を請い、勅して宰相郭子儀・蕭華・裴遵慶等を中書に設宴させた。光宇寺に赴いて盟誓せんとしたが、使者が言うには、蕃法の盟誓は三牲の血を取ってこれを歃し、仏寺に向かうことはない、明日鴻臚寺において血を歃し、以て蕃戎の礼を申すことを請う、と。これに従った。宝応元年六月、吐蕃の使者燭番・莽耳等二人が方物を貢いで入朝し、延英殿において引見し、労賜それぞれ差があった。剣南西山はまた吐蕃・氐・羌と隣接し、武徳以来、州県を開置し、軍防を立てたが、これは漢の笮路であり、乾元の後、また吐蕃に陥落した。宝慶二年三月、左散騎常侍兼御史大夫李之芳・左庶子兼御史中丞崔倫を吐蕃に使わしたが、その境に至って留め置かれた。
広徳元年九月、吐蕃が涇州を寇して陥落させた。十月、邠州を寇し、また奉天県を陥落させた。中書令郭子儀を派遣して西に防がせた。吐蕃は吐谷渾・党項羌の衆二十余万を以て、龍光度より東に向かった。郭子儀は退軍し、車駕は陝州に幸し、京師は失守した。降将高暉が吐蕃を導いて上都城に入り、吐蕃の大将馬重英等と故邠王の男広武王承宏を立てて帝とし、年号を立て、大赦し、官員を署置し、まもなく司封崔瑰等を相とした。郭子儀は退軍して南に商州を保ち、吐蕃は城に十五日居て退き、官軍が上都を収め、郭子儀を留守とした。
初め、車駕が東幸した時、衣冠の戚裏はことごとく南に荊襄に投じ、あるいは山谷に隠竄し、ここにおいて六軍の将士は兵を持って剽劫し、所在阻絶した。郭子儀は部曲数百人とその妻子仆従を率いて南に牛心谷に入り、駝馬車牛数百両、子儀は遅留して、赴く所を知らなかった。行軍判官・中書舎人王延昌・監察御史李萼が子儀に言うには、「令公は身をもって元帥たり、主上は外に蒙塵し、家国の事、ここに至る。今吐蕃の勢い日に逼り、谷中に安んずるを得んや、何ぞ南に商州に趨き、漸く行在に赴かざる」と。子儀は急ぎこれに従った。延昌は言う、「吐蕃は令公の南行を知れば、必ず兵を分けて来逼せん、もし大路に当たれば、事即ち危うし。玉山路を取って去るに如かず、その不意に出づる」と。子儀はまたこれに従った。延昌と李萼は皆子儀に従い、子儀の隊千余人、山路狭隘にして、百余里に連延し、人は馳するを得ず。延昌と萼は狭径で追われることを恐れ、前後相救わず、倒回口に至り、遂に子儀と別れて行き、絶澗を逾え、七盤を登り、商州に趨いた。先に、六軍の将張知節が麾下数百人とともに京城より商州に奔り、避難の朝官・士庶及び居人の資財鞍馬を大掠し、すでに日があった。延昌と萼が至ると、知節に説いて言うには、「将軍は身をもって禁兵を掌り、軍敗れて行在に赴かず、またその下の虜掠を恣にす、何に帰せんとするか。今郭令公は元帥なり、すでに洛南に至らんと欲す。将軍もし士卒を整頓し、禍福を以て諭し、令公を請い来たりてこれを撫せしめ、以て長安を収めんと図らば、これ将軍の非常の功なり」と。知節は大いに悦んだ。その時諸軍の将臧希譲・高升・彭体盈・李惟詵等数人、各々部曲あり、その数十騎を率い、相次いで至り、またその計に従い、皆相率いて軍と為し、侵暴せざることを約した。延昌は軍中に留まって約を主とし、萼は数騎を以て子儀を迎えに行き、洛南を去ること十余里にしてこれに及び、遂に子儀とともに商州に回った。諸将は大いに喜び、皆その約束を遵った。
吐蕃の将が京師に入らんとするや、前光禄卿殷仲卿は難を逃れて出奔し、鞍馬衣服はことごとく土賊に掠奪された。仲卿は藍田に至り、散兵及び諸々の驍勇で従うを願う者百余りを糾合し、南は藍田を保ち、以て吐蕃に拒ぎ、その衆は次第に振るい、千人に至った。子儀は既に商州に至ったが、仲卿の挙動を知らず、人を募って賊の勢いを探らしめた。羽林将軍長孫全緒が行くことを請い、二百騎をこれに隷属させた。また太子賓客第五琦に京兆尹を摂させ、ともに長安を収めしめた。全緒は韓公堆に至り、昼は鼓を撃ち、広く旗幟を張り、夜は多く火を燃やし、以て吐蕃を疑わしめた。仲卿は官軍を探知し、その勢い益々壮んになった。遂に相い表裏となり、その状を子儀に聞かせた。仲卿は二百余騎を率いて遊奕し、直ちに浐水を渡った。吐蕃は懼れ、百姓に問うと、百姓は皆これに欺いて曰く、「郭令公が商州より衆を率いて却って長安を収めんとし、大軍はその数を知らず」と。賊はこれを然りとし、遂に軍を抽いて還り、余衆は尚城に在り。軍将王撫及び御史大夫王仲升は兵を頓えて苑中より入り、鼓を椎き大呼し、仲卿の師もまた城に入り、吐蕃は皆奔走し、乃ち上都を収めた。郭子儀はこれに乗じ、鼓行して長安に入り、人心乃ち安んじた。
吐蕃は退いて鳳翔に至り、節度孫誌直は門を閉じてこれを拒ぎ、吐蕃は数日間囲んで守った。時に鎮西節度、兼御史中丞馬璘が精騎千余りを率いて河西より楊誌烈を救い回り、兵を引いて城に入った。夜明け近く、単騎で弓を引き絞り、直ちに賊衆に沖し、左右で従うを願う者百余騎。璘は奮撃して大呼し、賊徒は披靡し、敢えて当たる者なく、賊は疲れて帰った。賊衆はその驍勇を恃み、翌日また城に逼って戦いを請うた。璘は甲を披き懸門を開くと、賊は乃ち抽いて退いた。皆曰く、「この将は死を惜しまず当たるべからず、且くこれを避けよ」と。また復た原・会・成・渭の地に居した。
十二月、乗輿は上都に還る。二年五月、李之芳を放って還す。九月、叛将僕射、大寧郡王仆固懐恩は霊武よりその党範誌誠・任敷等を遣わし、吐蕃・吐谷渾の衆を引き来たりて王畿を犯す。十月、懐恩の衆は邠州に至り挑戦し、節度白孝徳及び副元帥先鋒郭鋒は城を嬰いてこれを拒ぎ、以てその鋒を挫いた。賊衆は遂に奉天県西二十里に逼って営と為し、郭子儀は奉天に屯し、また軍を按じて戦わず。郭鋒は邠州西三十里に於いて、精騎二百五十人・歩卒五十人を令して懐恩の営を斫らしめ、五千の衆を破り、首千余級を斬り、八十五人を生擒し、その大将四人を降し、馬五百匹を得た。十一月、仆固懐恩は吐蕃の衆を引いて退く。
広徳二年、河西節度楊誌烈は囲まれ、数年守ったが、孤城にして援け無きを以て、乃ち身を跳ねて西に甘州に投じ、涼州はまた寇に陥った。
永泰元年三月、吐蕃は和を請い、宰相元載・杜鴻漸等を遣わして興唐寺に於いてこれと盟して罷む。秋九月、仆固懐恩は吐蕃・回紇の衆を誘い、南に王畿を犯す。吐蕃大将尚結息贊磨・尚息東贊・尚野息及び馬重英は二十万の衆を率いて奉天界に至り、邠州節度使白孝徳は禦ぐこと能わず、京城戒厳す。先んずること、朔方先鋒兵馬使渾日進・孫守亮は軍を奉天に屯して以てこれを拒ぎ、ここに於いて詔して副元帥郭子儀を河中府より追い、衆を領して赴援せしめ、涇陽に屯し、諸将は各要害を屯守す。初め、吐蕃は奉天に営を列ね、渾日進は単騎でこれに沖し、驍騎二百人が継いで進み、その営を沖突し、左右に撃刺し、賊徒は驚駭し、応弦に斃れざる者無し。日進は一蕃将を挟み、馬を躍らせて帰り、蕃将は身を奮い、その撒飯一を失う。日進の衆に、鋒鏑に中る者無く、軍中これを望みて益々振るう。明日、吐蕃は悉く衆をしてこれを囲み、日進は命じて拋車に石を夾んでこれを投ぜしめ、弓弩を雑え、賊は死傷衆し。数日、軍を斂めて営に回る。尋いでまた日進は夜に賊営を梁母神の下に於いて斫り、千余人を殺し、五百人を生擒し、駝馬器械を獲る。
上はまた詔を下して親征し、朝官の馬を括り、京城に団練を置く。鎮西節度馬璘は武功東原に於いて吐蕃の遊奕四百余人に遇い、五十人をして撃たしめて尽くこれを殺し、噍類無し。十七日より二十五日の晩際に至るまで始めて止み、議者は天の助けと為す。吐蕃は営を醴泉県九飗山の北に移し、因って醴泉を攻掠す。京城大いに駭き、人は皆室を空にし、大戸は竇を鑿ちて以て出づ。逆党任敷は兵五千余人を以て白水県を犯す。渾日進の露布至り、奉天馬嵬店に屯す。今月十九日已後より二十五日已前に至るまで、二百余陣を交戦し、吐蕃一万余の衆を破り、首五千級を斬り、一百六十人を生擒し、馬一千二百四十二匹、駝一百十五頭、器械・幡旗合わせて三万余事を得たり。朝官震懼し、家口回避する者十室に八九、これを禁むるも止まず。前年吐蕃が王畿を犯した後、中渭橋鄠豊城に於いて兵を営し、ここに至って功畢る。
吐蕃は退いて永寿の北に至り、回紇の衆に遇う。懐恩の死を聞くも、皆その衆を悖り、相い誘って奔り、復た来たりて寇す。奉天に至り、両蕃は猜貳して長を争い、別に営壘を為す。吐蕃の遊奕は窯底に至り、吐蕃はまた馬嵬店に至り、因って火を放ち居人の廬舎を焚いて退く。回紇三千騎は涇陽に詣り降款し、吐蕃を撃って効と為さんことを請い、子儀これを許す。ここに於いて朔方先鋒兵馬使開府南陽郡王白元光は回紇と涇陽霊台県東五十里に於いて合し、吐蕃を攻破る。斬首及び生擒し獲る駝馬牛羊甚だ衆し。上は親征を停め、京師は戒厳を解き、宰相は表を上して賀す。