卷一百九十五
初め、特健俟斤死し、子有りて菩薩と曰い、部落以て賢と為して之を立てる。貞観の初め、菩薩は薛延陀とともに突厥の北辺を侵し、突厥の頡利可汗は子の欲谷設を遣わし、十万騎を率いてこれを討たしむ。菩薩は騎五千を領いて戦い、これを馬鬣山に破る。因って北に逐いて天山に至り、また進撃し、大いにこれを破り、その部衆を俘え、回紇はここより大いに振う。因ってその衆を率いて薛延陀に附き、菩薩を「活頡利発」と号し、仍って使を遣わして朝貢す。
菩薩は勁勇にして、胆気有り、籌策に長じ、毎に対敵臨陣するに、必ず身士卒に先んじ、以て少を以て衆を制し、常に戦陣射猟を務めとす。その母烏羅渾は、争訟の事を知り主り、平反厳明にして、部内斉粛なり。回紇の盛んなるは、菩薩の興るによる。
貞観の中、突厥の頡利等の可汗を擒え降した後、北虜は唯だ菩薩・薛延陀盛んなり。太宗は北突厥の莫賀咄を冊して可汗と為し、回紇・仆骨・同羅・思結・阿跌等の部を統べしめ、回紇の酋帥吐迷度は諸部とともに薛延陀の多弥可汗を大破し、遂にその部曲を併せ、その地を奄有す。
貞観二十年、南に賀蘭山を過ぎ、黄河に臨み、使を遣わして入貢し、薛延陀を破った功を以て、内殿に宴を賜う。太宗は霊武に幸し、その降款を受け、因って回鶻の已南に郵遞を置き、北方を通管せんことを請う。太宗は為に六府七州を置き、府には都督を置き、州には刺史を置き、府州皆長史・司馬已下の官を置いてこれを主らしむ。回紇部を以て瀚海府と為し、その俟利発吐迷度を拝して懐化大将軍と為し、瀚海都督を兼ねしむ。時に吐迷度は已に自ら可汗と称し、署官号は皆突厥の故事の如し。多覧を以て燕然府と為し、仆骨を金徽府と為し、抜野古を幽陵府と為し、同羅を亀林府と為し、思結を盧山府と為し、渾都を臯蘭州と為し、斛薩を高闕州と為し、阿跌を鶏田州と為し、契苾を楡渓州と為し、跌結を鶏鹿州と為し、阿布思を帰林州と為し、白〓を寘顔州と為す。また回紇の西北の結骨を以て堅昆府と為し、その北の骨利幹を玄闕州と為し、東北の俱羅勃を燭竜州と為す。故の単于台に於いて燕然都護府を置きてこれを統べ、以て賓貢を導く。
太宗は回紇部落の携離を恐れ、十月、兵部尚書崔敦礼を遣わして往きてこれを安撫せしめ、仍って敦礼を金山道副将軍と為す。吐迷度に左衛大将軍を贈り、賻物及び衣服を設け祭ること甚だ厚し。吐迷度の子で前左屯衛大将軍の翊・左郎将の婆閏を以て左驍衛大将軍・大俟利発・使持節回紇部落諸軍事・瀚海都督と為す。後に俱羅勃来朝す、太宗はこれを留めて遣わさず。詔して西突厥可汗阿史那賀魯に五啜・五俟斤二十余部を統べしめ、多くは多羅斯水の南に居し、西州を去ること馬行十五日の程。回紇は西に属して突厥に肯ぜず。
永徽六年、回鶻は兵を遣わして蕭嗣業に随い高麗を討つ。龍朔の中、婆閏死す。妹の比粟毒が回鶻を主領し、同羅・仆固とともに辺を犯す。高宗は鄭仁泰に命じて仆固等を討平せしめ、比粟毒は敗走す。因って鉄勒の本部を以て天山県と為す。永隆の中、独解支、嗣聖の中、伏帝匐。開元の中、承宗・伏帝難、並びに継いで酋長と為り、皆都督の号を受け、以て蕃州を統べ、左殺右殺は諸部を分かち管す。
開元の中、回鶻漸く盛んとなり、涼州都督王君掞を殺し、安西諸国の長安に入る路を断つ。玄宗は郭知運等に命じて討逐せしめ、退きて烏徳健山に保ち、南は西城を去ること一千七百里。西城は即ち漢の高闕塞なり。西城の北は磧石口を去ること三百里。
十一都督有り、本は九姓部落なり。一に曰く薬羅葛、即ち可汗の姓。二に曰く胡咄葛。三に曰く咄羅勿。四に曰く貊歌息訖。五に曰く阿勿嘀。六に曰く葛薩。七に曰く斛嗢素。八に曰く薬勿葛。九に曰く奚耶勿。一つの部落ごとに一都督。抜悉密を破り、一部落を収め、葛邏禄を破り、一部落を収め、各都督五人を置き、統めて十一部落と号す。毎に行止闘戦するに、常に二つの客部落を以て軍鋒と為す。
天寶の初め、その酋長葉護頡利吐發が使いを遣わして入朝し、奉義王に封ぜられた。三載、拔悉密を撃破し、自ら骨咄祿毗伽闕可汗と称した。また使いを遣わして入朝し、これにより冊して懷仁可汗とした。至德元載七月に至り、肅宗は靈武において即位した。故邠王の子承采を遣わし、燉煌王に封じ、將軍石定番を回紇に使いさせ、よしみを修め兵を徴した。その牙に至ると、可汗は女を承采に嫁がせ、首領を遣わして来朝し、和親を請い、回紇公主を毗伽公主に封じた。肅宗は彭原におり、これを厚く遇した。二載二月、回紇はまた首領大將軍多攬ら十五人を入朝させた。九月戊寅、承采に開府儀同三司を加え、宗正卿に拝し、回紇公主を妃として納れた。回紇はその太子葉護に将帝德ら兵馬四千余衆を率いさせ、国を助けて逆を討たしめた。肅宗は宴賜すること甚だ厚かった。また元帥廣平王に命じて葉護に会わせ、兄弟と約し、これを接するに頗る恩義があった。葉護は大いに喜び、王を兄と称した。
戊子、回紇の大首領達幹ら十三人が先に扶風に至り、朔方の将士とともに僕射郭子儀に会った。これを留め、三日間宴を設けた。葉護太子は言った、「国家に難あり、遠くより来りて相助く、何ぞ食する暇あらんや!」子儀は固くこれを留めたが、宴が終わると便ち発った。その軍には毎日羊二百口、牛二十頭、米四十碩を与えた。元帥廣平王が郭子儀らを率いて香積寺の東二十里に至り、西は澧水に臨んだ。賊は精騎を大営の東に埋め、我が軍の背を襲わんとした。朔方左廂兵馬使仆固懷恩が回紇を指して馳せ救わせ、匹馬も帰らず、これにより西京を収めた。十月、廣平王、副元帥郭子儀は回紇の兵馬を率い、賊と陜西において戦った。
初め、曲沃に次いだ時、葉護はその將軍車鼻施吐撥裴羅らに命じて南山の傍らを東進させ、谷中に賊の伏兵に遇い、これを尽く殪した。子儀は新店に至り、賊に遇って戦い、軍は数里退いた。回紇はこれを見て、山を逾え西嶺の上より白旗を曳いて趨り撃ち、直ちにその後に出で、賊衆は大いに敗れ、軍して北に坑い、北に逐うこと二十余里、人馬相枕藉し、蹂踐して死する者数え勝えず、首を斬ること十余万、屍を伏すこと三十里に及んだ。賊党の嚴莊は馳せて安慶緒に告げ、その党を率いて東京を背に北走し河を渡った。そして葉護は廣平王、僕射郭子儀に従って東京に入った。
秋七月丁亥、詔して幼女を封じて寧國公主と為し降嫁せしむ。その降蕃の日、仍り堂弟漢中郡王瑀を特進、試太常卿、摂御史大夫と為し、冊命英武威遠毗伽可汗使を充てしむ;堂侄左司郎中巽を兵部郎中、摂御史中丞、鴻臚卿と為し、これを副え、兼ねて寧國公主禮會使を充てしむ。特に関府儀同三司、行尚書右僕射、冀國公裴冕を重臣として差し界首まで送らしめた。癸巳、回紇英武威遠毗伽可汗を冊立するに当たり、上は宣政殿に御し、漢中王瑀が冊命を受けた。甲午、肅宗は寧國公主を咸陽磁門驛まで送り、公主は泣いて言った、「国家の事重し、死すとも且つ恨み無し!」上は流涕して還った。瑀がその牙帳に至ると、毗伽闕可汗は赭黄袍を衣、胡帽を戴き、帳中の榻上に坐し、儀衛甚だ盛んで、瑀を引いて帳外に立たせ、瑀に謂って言った、「王は天可汗の何の親ぞ?」瑀は言った、「是れ唐天子の堂弟なり。」また問う、「王の上に立つ者は誰ぞ?」瑀は言った、「中使雷盧俊なり。」可汗はまた報じて言った、「中使は奴なり、何ぞ郎君の上に立つを得んや?」雷盧俊は竦懼し、跳身して下に立ち定まった。瑀は拝せずして立った。可汗は報じて言った、「両国の主君臣に礼有り、何ぞ拝せざるを得んや?」瑀は言った、「唐天子は可汗に功有るを以て、故に女を嫁がせ可汗と姻好を結ばしむ。比者中国と外蕃と親しむは、皆宗室の子女にして、名を公主と為す。今の寧國公主は、天子の真の女にして、又才貌有り、万里を嫁して可汗に与う。可汗は唐家の天子の女婿なり、礼数合う有るべし。豈に榻上に坐して詔命を受くべきや!」可汗は乃ち起ちて詔を奉じ、便ち冊命を受けた。翼日、公主を冊して可敦と為す。蕃酋歓欣して曰く、「唐國の天子貴重にして、真の女を来たらしむ。」瑀の送る所の国信繒彩衣服金銀器皿は、可汗尽く衙官、酋長らに分け与えた。瑀の回るに及び、可汗は馬五百匹、貂裘、白赩を献じた。八月、回紇は王子骨啜特勒及び宰相帝德ら驍将三千人を遣わし国を助けて逆を討たしめた。肅宗はその遠く至るを嘉し、宴を賜い、朔方行營使仆固懷恩に命じてこれを押させた。九月甲申、回紇の使い大首領蓋将らが公主の下降を謝し、兼ねて堅昆五万人を破ったことを奏し、紫宸殿において宴し、物を賜うこと差等有り。十二月甲午、回紇の使い三婦人が、寧國公主の聘を謝し、紫宸殿において宴を賜った。
先に、毗伽闕可汗子を以て婚せんことを請ひ、粛宗は仆固懐恩の女を以てこれに嫁す。及て是に至り可敦と為り、可汗と同しく来たり、懐恩及び懐恩の母の相見ゆることを請ふ。上は勅して懐恩をして汾州より太原においてこれを見えしむ。懐恩又国家の恩信は違背すべからざるを諫む。初め蒲関より入り、沙苑の路を取り、潼関より東に向ひ賊を破らんと欲す。子昂これを説きて云く、「国家頻りに寇逆に遭ひ、州県虚乏、供擬に難し、恐らくは可汗失望せん、土門の路を取りて入り、直ちに邢・洺・衛・懷を取るに如かず。賊中の兵馬尽く東京に在り、可汗その財帛を収め、装を束ねて南に向はば、最も上策なり。」可汗従はず。又説く、「懐州太行の路を取り、南に河陰の険に拠り、直ちに賊の喉を扼せば、亦上策なり。」可汗又従はず。又説く、「陜州太陽津の路を取り、太原倉の粟を食みて東し、沢潞・河南・懐鄭節度と同しく入らば、亦上策なり。」可汗これに従ふ。子昂因りて入奏す。上は雍王適を兵馬元帥と為し、懐恩に同中書門下平章事を加ふ。又子昂をして御史中丞を兼ねしめ、前潞府兼御史中丞魏琚を左右廂兵馬使と為し、中書舎人韋少華を以て元帥判官・兼掌書記を充て、給事中李進を御史中丞を兼ねしめ、元帥行軍司馬を充て、東に回紇を会せしむ。登裏可汗は陜州黄河の北に営す。
元帥雍王は子昂らを領して従ひこれを見ゆ。可汗は雍王が帳前において舞蹈せざるを責め、礼倨なり。子昂は元帥は嫡孫にて、両宮殯に在り、舞蹈有るべからざるを以て辞す。回紇の宰相及び車鼻将軍庭に詰して曰く、「唐天子と登裏可汗は兄弟と約し、今可汗は即ち雍王の叔なり、叔侄に礼数有り、何ぞ舞蹈せざるを得ん。」子昂苦しく辞して身に喪礼有り、合はずとす。又報じて云く、「元帥は即ち唐の太子なり、太子は即ち儲君なり、豈に中国の儲君外国の可汗の前に舞蹈する有らんや。」相拒すること久しく、車鼻遂に子昂・李進・少華・魏琚を引き各搒捶一百、少華・琚は搒捶に因り、一宿にして死す。王は年少にして事に諳らざるを以て、本営に放ち帰す。而して懐恩は回紇右殺と先鋒と為り、及び諸節度と同しく賊を攻め、これを破り、史朝義は残寇を率いて走る。元帥雍王は霊宝に退き帰る。回紇可汗は継いで河陽に進み、営を列ねて数箇月止まる。営を去ること百余里、人剽劫逼辱せられ、その弊に勝へず。懐恩は常に軍の殿と為る。及び諸節度河北の州県を収むるに及び、仆固瑒は回紇の衆と追躡すること二千余里、平州石城県に至り、朝義の首を梟して帰り、河北悉く平ぐ。懐恩は相州より西に出で崞口路より西し、可汗は河陽より北に出で沢・潞より懐恩と会し、太原を歴る。使い抜賀那を遣わして表を上げ東京収むるを賀し、並びに逆賊史朝義の旌旗等の物を進む。辞して蕃に還らんとす。代宗は内殿に引き見え、彩二百段を賜ふ。
初め、回紇東京に至り、賊平ぐるを以て、恣に行ひ残忍、士女これに懼れ、皆聖善寺及び白馬寺の二閣に登り以てこれを避く。回紇は火を放ち二閣を焚き、傷死する者万計、累旬火焰止まず。及て是に朝賀し、又縦横に大いに官吏を辱しむ。陜州節度使郭英乂を以て権知東都留守とす。時に東都再び賊乱を経、朔方軍及び郭英乂・魚朝恩等の軍は暴を禁ずる能はず、回紇と与に坊市及び汝・鄭等州を掠め、比屋蕩尽し、人悉く紙を以て衣と為し、或は経を衣とする者有り。
代宗は宣政殿に御し、冊文を出だし、可汗に加冊して登裏頡咄登密施含俱録英義建功毗伽可汗と為し、可敦に加冊して婆墨光親麗華毗伽可敦と為す。「頡咄」は華言に「社稷法用」;「登密施」は華言に「封竟」;「含俱録」は華言に「婁羅」;「毗伽」は華言に「足意智」。「婆墨」は華言に「得憐」。散騎常侍兼御史大夫王翊を使いと充て、就きて可汗の行営に行き冊命す。可汗・可敦及び左右殺・諸都督・内外宰相已下、共に実封二千戸を加へ、王翊をして牙帳前において礼冊せしむ。左殺を封じて雄朔王と為し、右殺を封じて寧朔王と為し、胡禄都督を封じて金河王と為し、抜覧将軍を封じて静漠王と為し、諸都督十一人並びに国公に封ず。
また五日、朔方先鋒兵馬使・開府・南陽郡王白元光が回紇の兵馬と涇州霊台県西五十里の赤山嶺において合し、共に吐蕃ら十余万の衆を破り、斬首五万余級、生擒一万余人、駱駝・馬・牛・羊凡そ百里相継ぎ、勝えて紀すべからず、蕃落五千余人を得て収む。初め白元光らが霊台県西に到り、賊の勢いを探知し、月明の為、少しく陰晦を思う。回紇は巫師を使い便ち風雪を致す。遅明に戦うに及び、吐蕃は尽く寒凍し、弓矢皆廃れ、氈を披いて徐かに進む。元光と回紇はこれに随いてこれを殺し野を蔽う。僕固名臣は懐恩の甥、特に驍将たり、また千余騎を領して来降す。まもなく子儀また回紇の宰相護地毘伽将軍・宰相梅録大将軍・開府儀同三司・試太常卿羅達幹ら一百九十六人を使わして来見せしむ。上は延英殿において宴を賜い、錫賚甚だ厚し。閏月、子儀は涇陽より僕固名臣を領いて入奏し、回紇は馬を進め、及び宴別、前後繒彩十万匹を賚して還る。時に帑蔵空虚し、朝官に禄俸無く、月に随いて手力を給し、これを資課銭と謂う。朝官の閏十月・十一月・十二月の課を税して以てこれを供す。
大暦六年正月、回紇は鴻臚寺より擅に出でて坊市し、人の子女を掠め、所在の官これを奪い返す。殴り怒り、三百騎を以て金光門・朱雀門を犯す。是の日、皇城諸門尽く閉じ、上は中使劉清潭を使わして宣慰せしむ。乃ち止む。
七年七月、回紇は鴻臚寺より出で、坊市に入り強暴し、長安令邵説を含光門の街に逐い、説の乗る馬を奪い将ち去らんとす。説は身を脱して避走す。有司禁むること能わず。
八年十一月、回紇一百四十人還蕃す。信物一千余乗を以てす。回紇は功を恃み、乾元の後より、屡に使を遣わして馬を以て繒帛と市し、仍く歳ごとに来市し、馬一匹を以て絹四十匹に易え、動もすれば数万馬に至る。その使は遣わされるを候い継ぎて鴻臚寺に留まる者一にあらず。蕃は帛を得て厭うこと無く、我は馬を得て用無し。朝廷甚だこれを苦しむ。是の時、特詔を以て厚く賜い遣わし、広恩を示し、且つ愧を知らしめんとす。是の月、回紇は使赤心を使わして馬一万匹を領せしめて来たり市を求む。代宗は馬価の租賦より出づるを以て、重ねて民に困らしむるを欲せず、命じて有司に入るを量り計い六千匹を許し市せしむ。
十年九月、回紇は白昼東市において人を刺す。市人これを執り、万年県に拘す。その首領赤心これを聞き、鴻臚寺より馳せて県獄に入り、囚を劫いて出で、獄吏を斬り傷つく。
徳宗初め即位し、中官梁文秀を使わして回紇に告哀し、且つ旧好を修めんとす。可汗移地健は礼を為さず。而して九姓胡の素より回紇に属する者、また中国の便利を陳べて以てその心を誘う。可汗は乃ち国を挙げて南下し、将に我が喪に乗ぜんとす。その宰相頓莫賀達幹諫めて曰く、「唐は大国なり、且つ我に負うこと無し。前年太原に入り、羊馬数万計を獲、大捷と謂うべし。道途艱阻を以て、国に比するに及び、傷耗殆んど尽く。今若し挙げて捷からずんば、将に安くにか帰らん。」可汗聴かず。頓莫賀は人の心に乗じ、因りてこれを撃殺し、並びにその親信及び九姓胡の誘い来たる者凡そ二千人を殺す。
貞元六年六月、回紇の使者移職伽達幹が帰蕃し、馬価の絹三十万匹を賜うた。鴻臚卿郭鋒を御史大夫を兼ねさせ、冊回紇忠貞可汗使を充てさせた。この年の四月、忠貞可汗はその弟に殺され、簒立された。時に回紇の大将頡幹迦斯は吐蕃を西撃して未だ帰らず、その次相が国中の人々を率いて簒立者を殺し、忠貞の子を立てて可汗とした。年は十六七であった。六月に至り、頡幹迦斯が西討より帰還し、牙帳に将到せんとするに及び、次相等はその後に廃立があることを恐れ、漢使に知らせまいとし、郭鋒を数か月留めて帰らせた。頡幹迦斯が至ると、可汗らは郊野に出迎え、郭鋒の送った国信の器幣を陳列し、可汗と次将相等は皆俯伏して自ら廃立の由を説き、かつ命を請うて「大相の生死に任す」と言った。陳列した器幣を悉く頡幹迦斯に贈ってこれを喜ばせた。可汗はまた拝泣して「児は愚幼にして知る所なく、今幸いに立つを得たり、ただ阿爹に仰ぎ食らうのみ」と言った。可汗は子としてこれに事え、頡幹迦斯はその卑遜に感じて、遂に相い抱き号哭し、臣子の礼を執った。陳列した器幣を左右の諸従行将兵に頒賜し、自らは取るところなく、これよりその国はやや安んじ、達比特勒梅録将軍を遣わして忠貞可汗の哀を我が朝に告げ、かつ新君の冊封を請うた。使者が至り、三日間朝を廃し、なお三品以上の官に命じて鴻臚寺に赴きその使者を弔問させた。この年、吐蕃が北庭都護府を陥落させた。
初め、北庭・安西は既に回紇を仮道して朝奏し、これに附庸していた。回紇は征求飽くことなく、北庭はやや近く、凡そ生事の資は必ず強取した。また沙陀部落六千余帳あり、北庭と相依り、これも回紇に属し、肆行して抄奪し、特に苦しめられた。その先の葛禄部落及び白服突厥は素より回紇と通和していたが、その侵掠を憾み、吐蕃の厚賂による誘いに因り、遂にこれに附いた。ここにおいて吐蕃は葛禄・白服の衆を率いて去冬北庭を寇し、回紇の大相頡幹迦斯が衆を率いてこれを援けたが、頻りに敗れた。吐蕃が急攻するに及び、北庭の人は既に回紇に苦しめられていたので、城を挙げて降伏し、沙陀部落もまた降った。節度使・検校工部尚書楊襲古は麾下二千余衆を将いて西州に奔り出で、頡幹迦斯もまた還った。十年秋、その国の丁壮五万人を悉くし、楊襲古を召して、将にこれを回復せんとした。俄かに敗れ、死者は大半であった。頡幹迦斯は余燼を収め合せ、晨夜奔還した。楊襲古の余衆は僅か百六十、将に西州に入らんとしたが、頡幹迦斯はこれを欺いて「ただ我と共に牙帳に至らば、当に君を本朝に送らん」と言った。牙帳に及ぶと、留めて遣わさず、遂にこれを殺した。これより安西は阻絶し、存亡を知る莫く、ただ西州の人々のみが、なお固く守った。頡幹迦斯が敗れると、葛禄は勝に乗じて回紇の浮図川を取った。回紇は震恐し、西北部落の羊馬を悉く牙帳の南に遷してこれを避けた。
貞元七年五月庚申朔、鴻臚少卿庾鋌を御史大夫を兼ねさせ、冊回紇可汗及び吊祭使とした。この月、回紇は使者律支達幹らを遣わして来朝し、小寧国公主の薨去を告げた。三日間朝を廃した。故に、粛宗は寧国公主を回紇に降嫁し、また栄王の女を媵とした。寧国が帰朝すると、栄王の女が可敦となり、回紇はこれを小寧国公主と号し、英武・英義の二可汗に歴配した。天親可汗が立つと、外に出居し、英武可汗の二子を生んだが、天親可汗に殺された。間もなく薨じた。七年八月、回紇は使者を遣わし、北庭において吐蕃・葛禄を破った捷報及びその俘虜・牲畜を献じた。先に、吐蕃が霊州に入ったが、回紇に敗れ、夜に火攻めを以てし、駭いて退いた。十二月、回紇は殺支将軍を遣わして吐蕃の俘虜大首領結心を献じ、徳宗は延喜門に臨んでこれを見た。八年七月、回紇の薬羅葛霊を検校右僕射とした。霊は本は唐人で、姓は呂氏、回紇に入り、可汗の養子となったため、遂に可汗の姓を以て薬羅葛霊とし、国中で権勢を用いた。来朝に因り、寵賚甚だ厚く、なお市馬の絹七万匹を与えた。九年九月、使者を遣わして来朝貢した。
貞元十一年六月庚寅、回紇の騰裏邏羽録没密施合禄胡毗迦懐信可汗を冊拝した。元和四年、藹徳曷裏禄没弭施合密毗迦可汗は使者を遣わして回鶻と改称した。その義は回旋軽捷なること鶻の如きを取る。八年四月、回鶻は和親を請い、使者伊難珠を帰蕃させ、三殿で宴し、銀器・繒帛を賜うた。この年、回鶻数千騎が䴙鵜泉に至り、辺軍は戒厳した。十二月二日、帰国する回鶻の摩尼八人を宴し、中書に至らせて宰臣に謁見させた。先に、回鶻が和親を請うたので、憲宗は有司に計らせた。礼費は約五百万貫、方内に誅討あり、その親を任せず、摩尼は回鶻が信奉するところであるため、宰臣に言わせてその不可を諭した。ここにおいて詔して宗正少卿李孝誠を回鶻に使わし、太常博士殷侑を副えさせ、その来請の意を諭させた。
初め、黠戛斯回鶻を破り、太和公主を得たり。黠戛斯自ら李陵の後と称し、国と姓を同じくす。遂に達幹十人をして公主を送り塞上に至らしむ。烏介途に黠戛斯の使に遇い、達幹等並びに殺さる。太和公主却って烏介可汗に帰す。乃ち公主を質とし同行し、南に大磧を渡る。天徳界に至り、天徳城を請いて太和公主と居らしむ。回鶻の相に赤心なる者有り、連位の相に姓仆固なる者と、及び特勤那頡啜と部衆を擁し、烏介に賓せず。赤心塞を犯さんと欲す。烏介其の属の霡沒斯を遣わし先ず天徳軍使田牟に誠を布き、然る後に赤心の宰相同じく烏介可汗を謁せしめ、赤心を可汗帳下に於いて戮し、並びに仆固二人を戮す。那頡戦いに勝ち、赤心の下七千帳を全く占め、東に振武・大同を瞰り、室韋・黒沙・榆林に拠り、東南に幽州雄武軍西北界に入る。幽州節度使張仲武、弟仲至を遣わし兵を率いて大いに那頡の衆を破り、七千帳を全く収め、殺戮収擒老小近く九万人。那頡箭に中り、駝群を透して潜かに脱す。烏介獲て之を殺す。
史臣曰く、三代以前、両漢以後、西羌・北狄、互いに部族を興し、其の名異なるも、患いを為すは一なり。蔡邕云う、「辺陲の患いは手足の疥の如く、中国の困は胸背の疽の如し。突厥煬帝の患い深し、隋竟に滅ぶ。中国の困、其の理昭然たり。」太宗突厥を平げ、延陀を破りて、而して回紇興る。太宗霊武に幸いて以て之を降し、州府を置きて以て之を安んじ、名爵玉帛を以て以て之を恩す。其の義何ぞや。蓋し狄は尽くすべからず、而して威恵を以て之を羈縻するなり。開元中、三綱正しく、百姓足り、四夷八蛮、翕然として化に向い、要荒の外、威を畏れ恵を懐き、其れ盛んならずや。天宝末、奸臣内に権を弄び、逆臣外に跋扈し、内外釁を結びて車駕遽かに遷り、華夷心を生じて神器将に墜んとす。粛宗回紇を誘いて以て京畿を復す。代宗回紇を誘いて以て河朔を平ぐ。難を戡ぎ中興の功、大なるは即ち大なり。然れども生霊の膏血已に乾き、能く其の求取に供せず。朝廷の法令並びに弛み、以て其の憑陵を抑うる無し。恥を忍びて和親し、姑息暇あらず。仆固懐恩叛を為し、尤も阽危に甚だし。郭子儀の能く軍するも、終に侵軼を免る。昔の諸戎に比し、国に於ける功最も大なり、民に為す害亦深し。勢利日に隆く及び、盛衰時に変じ、氷消瓦解し、存するが若く亡ぶが若く、竟に手足の疥と為る。僖・昭の世、黄・硃迭りに興り、竟に胸背の疽と為る。手の疥背の疽、誠に確論たり。
賛に曰く、土徳初めに隆く、比屋封すべし。朝綱中に否み、辺鄙戎を興す。安・史国を乱し、回紇功に恃む。功に恃むこと伊何ぞ、皆姑息を議す。民聊生する無く、国其の力を殫す。華夷截然たり、盛衰織るが如し。彼既に悪を長ず、我乃ち徳を修む。疽疥の義、百代則とすべし。