舊唐書

巻195

巻195

舊唐書

原文舊唐書

卷一百九十五

原文卷一百九十五

列傳第一百四十五 迴紇

原文列傳第一百四十五 迴紇

回紇は、その祖先は匈奴の裔である。後魏の時に至り、鉄勒部落と号す。その姿は小さく、その習俗は驍ぎょう勇にして強く、高車に依托し、突厥に臣属し、近世ではこれを特勒と謂う。君長なく、居所に恒常性なく、水草に随って流移す。人性は兇忍にして、騎射に長じ、貪婪ことのほか甚だしく、寇抄を以て生業とす。突厥が国を有して以来、東西征討するに、皆その力を資として、以て北荒を制す。隋の開皇の末、晋王広が北征して突厥を討ち、歩迦可汗を大破し、特勒はここにおいて分散す。大業元年、突厥の処羅可汗が特勒諸部を撃ち、その物を厚く徴収す。また薛延陀を猜忌し、変を為すを恐れ、遂にその渠帥数百人を集めて尽く誅し、特勒はここより叛く。特勒には始め仆骨・同羅・回紇・抜野古・覆羅歩あり、俟斤と号し、後に回紇と称す。薛延陀の北境に在り、娑陵水の側に居し、長安ちょうあんを去ること六千九百里。水草に随い逐い、勝兵五万、人口十万人。

原文回紇,其先匈奴之裔也。在後魏時,號鐵勒部落。其象微小,其俗驍強,依托高車,臣屬突厥,近謂之特勒。無君長,居無恆所,隨水草流移。人性兇忍,善騎射,貪婪尤甚,以寇抄為生。自突厥有國,東西征討,皆資其用,以制北荒。隋開皇末,晉王廣北征突厥,大破步迦可汗,特勒於是分散。大業元年,突厥處羅可汗擊特勒諸部,厚斂其物。又猜忌薛延陀,恐為變,遂集其渠帥數百人盡誅之,特勒由是叛。特勒始有仆骨、同羅、回紇、拔野古、覆羅步,號俟斤,後稱回紇焉。在薛延陀北境,居娑陵水側,去長安六千九百里。隨逐水草,勝兵五萬,人口十萬人。

初め、特健俟斤死し、子有りて菩薩と曰い、部落以て賢と為して之を立てる。貞観の初め、菩薩は薛延陀とともに突厥の北辺を侵し、突厥の頡利可汗は子の欲谷設を遣わし、十万騎を率いてこれを討たしむ。菩薩は騎五千を領いて戦い、これを馬鬣山に破る。因って北に逐いて天山に至り、また進撃し、大いにこれを破り、その部衆を俘え、回紇はここより大いに振う。因ってその衆を率いて薛延陀に附き、菩薩を「活頡利発」と号し、仍って使を遣わして朝貢す。

原文初,有特健俟斤死,有子曰菩薩,部落以為賢而立之。貞觀初,菩薩與薛延陀侵突厥北邊,突厥頡利可汗遣子欲谷設率十萬騎討之。菩薩領騎五千與戰,破之於馬鬣山。因逐北至於天山,又進擊,大破之,俘其部眾,回紇由是大振。因率其眾附於薛延陀,號菩薩為「活頡利發」,仍遣使朝貢。

菩薩は勁勇にして、胆気有り、籌策に長じ、毎に対敵臨陣するに、必ず身士卒に先んじ、以て少を以て衆を制し、常に戦陣射猟を務めとす。その母烏羅渾は、争訟の事を知り主り、平反厳明にして、部内斉粛なり。回紇の盛んなるは、菩薩の興るによる。

原文菩薩勁勇,有膽氣,善籌策,每對敵臨陣,必身先士卒,以少制眾,常以戰陣射獵為務。其母烏羅渾,主知爭訟之事,平反嚴明,部內齊肅。回紇之盛,由菩薩之興焉。

貞観の中、突厥の頡利等の可汗を擒え降した後、北虜は唯だ菩薩・薛延陀盛んなり。太宗は北突厥の莫賀咄を冊して可汗と為し、回紇・仆骨・同羅・思結・阿跌等の部を統べしめ、回紇の酋帥吐迷度は諸部とともに薛延陀の多弥可汗を大破し、遂にその部曲を併せ、その地を奄有す。

原文貞觀中,擒降突厥頡利等可汗之後,北虜唯菩薩、薛延陀為盛。太宗冊北突厥莫賀咄為可汗,遣統回紇、仆骨、同羅、思結、阿跌等部,回紇酋帥吐迷度與諸部大破薛延陀多彌可汗,遂並其部曲,奄有其地。

貞観二十年、南に賀蘭山を過ぎ、黄河に臨み、使を遣わして入貢し、薛延陀を破った功を以て、内殿に宴を賜う。太宗は霊武に幸し、その降款を受け、因って回鶻の已南に郵遞を置き、北方を通管せんことを請う。太宗は為に六府七州を置き、府には都督ととくを置き、州には刺史を置き、府州皆長史・司馬已下の官を置いてこれを主らしむ。回紇部を以て瀚海府と為し、その俟利発吐迷度を拝して懐化大将軍と為し、瀚海都督を兼ねしむ。時に吐迷度は已に自ら可汗と称し、署官号は皆突厥の故事の如し。多覧を以て燕然府と為し、仆骨を金徽府と為し、抜野古を幽陵府と為し、同羅を亀林府と為し、思結を盧山府と為し、渾都を臯蘭州と為し、斛薩を高闕州と為し、阿跌を鶏田州と為し、契苾を楡渓州と為し、跌結を鶏鹿州と為し、阿布思を帰林州と為し、白〓を寘顔州と為す。また回紇の西北の結骨を以て堅昆府と為し、その北の骨利幹を玄闕州と為し、東北の俱羅勃を燭竜州と為す。故の単于台に於いて燕然都護府を置きてこれを統べ、以て賓貢を導く。

原文貞觀二十年,南過賀蘭山,臨黃河,遣使入貢,以破薛延陀功,賜宴內殿。太宗幸靈武,受其降款,因請回鶻已南置郵遞,通管北方。太宗為置六府七州,府置都督,州置刺史,府州皆置長史、司馬已下官主之。以回紇部為瀚海府,拜其俟利發吐迷度為懷化大將軍,兼瀚海都督。時吐迷度已自稱可汗,署官號皆如突厥故事。以多覽為燕然府,仆骨為金徽府,拔野古為幽陵府,同羅為龜林府,思結為盧山府,渾都為臯蘭州,斛薩為高闕州,阿跌為雞田州,契苾為榆溪州,跌結為雞鹿州,阿布思為歸林州,白〓為寘顏州。又以回紇西北結骨為堅昆府,其北骨利幹為玄闕州,東北俱羅勃為燭龍州。於故單於臺置燕然都護府統之,以導賓貢。

貞観二十二年、吐迷度はその甥の烏紇に殺さる。初め、烏紇はその叔母と淫し、遂に俱陸莫賀達幹の俱羅勃と潜かに謀りて吐迷度を殺し、以て車鼻に帰らんとす。烏紇・俱羅勃は、並びに車鼻の婿なり、烏紇は遂に夜騎十余を領いて吐迷度を劫い、これを殺す。燕然副都護の元礼臣は人を遣わして烏紇を紿いて云く、「将に汝を奏して都督と為し、吐迷度に替えんとす」と。烏紇は軽騎にて礼臣の所に至り、跪拝して謝す。礼臣はこれを擒えて斬り、以て聞かしむ。

原文貞觀二十二年,吐迷度為其侄烏紇所殺。初,烏紇蒸其叔母,遂與俱陸莫賀達幹俱羅勃潛謀殺吐迷度以歸車鼻。烏紇、俱羅勃,並車鼻之婿也,烏紇遂夜領騎十余劫吐迷度,殺之。燕然副都護元禮臣遣人紿烏紇云:「將奏而為都督,替吐迷度也。」烏紇輕騎至禮臣所,跪拜致謝;禮臣擒而斬之以聞。

太宗は回紇部落の携離を恐れ、十月、兵部尚書崔敦礼を遣わして往きてこれを安撫せしめ、仍って敦礼を金山道副将軍と為す。吐迷度に左衛大将軍を贈り、賻物及び衣服を設け祭ること甚だ厚し。吐迷度の子で前左屯衛大将軍の翊・左郎将の婆閏を以て左驍衛大将軍・大俟利発・使持節回紇部落諸軍事・瀚海都督と為す。後に俱羅勃来朝す、太宗はこれを留めて遣わさず。詔して西突厥可汗阿史那賀魯に五啜・五俟斤二十余部を統べしめ、多くは多羅斯水の南に居し、西州を去ること馬行十五日の程。回紇は西に属して突厥に肯ぜず。

原文太宗恐回紇部落攜離,十月,遣兵部尚書崔敦禮往安撫之,仍以敦禮為金山道副將軍。贈吐迷度左衛大將軍,賻物及衣服設祭甚厚。以吐迷度子前左屯衛大將軍翊、左郎將婆閏為左驍衛大將軍、大俟利發、使持節回紇部落諸軍事、瀚海都督。後俱羅勃來朝,太宗留之不遣。詔西突厥可汗阿史那賀魯統五啜、五俟斤二十余部,居多羅斯水南,去西州馬行十五日程。回紇不肯西屬突厥。

永徽二年、賀魯は北庭を破る。詔して将軍梁建方・契苾何力に兵二万を領かしめ、回紇の五万騎を取って、賀魯を大破し、北庭を収復す。顕慶元年、賀魯また辺を犯す。詔して程知節・蘇定方・任雅相・蕭嗣業に兵を領かしめ、並びに回紇とともに賀魯を陰山に大破し、再び金牙山に破り、占拠せし所の地を尽く収め、西は遂に耶羅川に至る。賀魯は西に石国に奔る。婆閏は蘇定方に随い賀魯を逐って石国の西北の蘇咄城に至る。城主の伊涅達幹は賀魯を執りて洛陽らくように送る。その地を以て濛池・昆陵の二府を置き、阿史那弥射・阿史那歩真を二府の都督と為し、十姓の左廂五弩失畢・右廂五咄陸を統べしむ。賀魯の種落を以て州県を分置し、西は波斯に尽くす。婆閏に右衛大将軍を加え、瀚海都督を兼ねしむ。

原文永徽二年,賀魯破北庭,詔將軍梁建方、契苾何力領兵二萬,取回紇五萬騎,大破賀魯,收復北庭。顯慶元年,賀魯又犯邊。詔程知節、蘇定方、任雅相、蕭嗣業領兵並回紇大破賀魯於陰山,再破於金牙山,盡收所據之地,西遂至耶羅川。賀魯西奔石國,婆閏隨蘇定方逐賀魯至石國西北蘇咄城,城主伊涅達幹執賀魯送洛陽。以其地置濛池、昆陵府,以阿史那彌射、阿史那步真為二府都督,統十姓左廂五弩失畢、右廂五咄陸。以賀魯種落分置州縣,西盡波斯。加婆閏右衛大將軍、兼瀚海都督。

永徽六年、回鶻は兵を遣わして蕭嗣業に随い高麗を討つ。龍朔の中、婆閏死す。妹の比粟毒が回鶻を主領し、同羅・仆固とともに辺を犯す。高宗は鄭仁泰に命じて仆固等を討平せしめ、比粟毒は敗走す。因って鉄勒の本部を以て天山県と為す。永隆の中、独解支、嗣聖の中、伏帝匐。開元の中、承宗・伏帝難、並びに継いで酋長と為り、皆都督の号を受け、以て蕃州を統べ、左殺右殺は諸部を分かち管す。

原文永徽六年,回鶻遣兵隨蕭嗣業討高麗。龍朔中,婆閏死,妹比粟毒主領回鶻,與同羅、仆固犯邊。高宗命鄭仁泰討平仆固等,比粟毒敗走,因以鐵勒本部為天山縣。永隆中,獨解支,嗣聖中,伏帝匐。開元中,承宗、伏帝難,並繼為酋長,皆受都督號,以統蕃州,左殺右殺分管諸部。

開元の中、回鶻漸く盛んとなり、涼州都督王君掞を殺し、安西諸国の長安に入る路を断つ。玄宗は郭知運等に命じて討逐せしめ、退きて烏徳健山に保ち、南は西城を去ること一千七百里。西城は即ち漢の高闕塞なり。西城の北は磧石口を去ること三百里。

原文開元中,回鶻漸盛,殺涼州都督王君掞,斷安西諸國入長安路。玄宗命郭知運等討逐,退保烏德健山,南去西城一千七百里。西城即漢之高闕塞也。西城北去磧石口三百里。

十一都督有り、本は九姓部落なり。一に曰く薬羅葛、即ち可汗の姓。二に曰く胡咄葛。三に曰く咄羅勿。四に曰く貊歌息訖。五に曰く阿勿嘀。六に曰く葛薩。七に曰く斛嗢素。八に曰く薬勿葛。九に曰く奚耶勿。一つの部落ごとに一都督。抜悉密を破り、一部落を収め、葛邏禄を破り、一部落を収め、各都督五人を置き、統めて十一部落と号す。毎に行止闘戦するに、常に二つの客部落を以て軍鋒と為す。

原文有十一都督,本九姓部落:一曰藥羅葛,即可汗之姓;二曰胡咄葛;三曰咄羅勿;四曰貊歌息訖;五曰阿勿嘀;六曰葛薩;七曰斛嗢素;八曰藥勿葛;九曰奚耶勿。每一部落一都督。破拔悉密,收一部落,破葛邏祿,收一部落,各置都督五人,統號十一部落。每行止鬥戰,常以二客部落為軍鋒。

天寶の初め、その酋長葉護頡利吐發が使いを遣わして入朝し、奉義王に封ぜられた。三載、拔悉密を撃破し、自ら骨咄祿毗伽闕可汗と称した。また使いを遣わして入朝し、これにより冊して懷仁可汗とした。至德元載七月に至り、肅宗は靈武において即位した。故邠王の子承采を遣わし、燉煌王に封じ、將軍石定番を回紇に使いさせ、よしみを修め兵を徴した。その牙に至ると、可汗は女を承采に嫁がせ、首領を遣わして来朝し、和親を請い、回紇公主を毗伽公主に封じた。肅宗は彭原におり、これを厚く遇した。二載二月、回紇はまた首領大將軍多攬ら十五人を入朝させた。九月戊寅、承采に開府儀同三司を加え、宗正卿に拝し、回紇公主を妃として納れた。回紇はその太子葉護に将帝德ら兵馬四千余衆を率いさせ、国を助けて逆を討たしめた。肅宗は宴賜すること甚だ厚かった。また元帥廣平王に命じて葉護に会わせ、兄弟と約し、これを接するに頗る恩義があった。葉護は大いに喜び、王を兄と称した。

原文天寶初,其酋長葉護頡利吐發遣使入朝,封奉義王。三載,擊破拔悉密,自稱骨咄祿毗伽闕可汗。又遣使入朝,因冊為懷仁可汗。及至德元載七月,肅宗於靈武即位。遣故邠王男承采,封為燉煌王,將軍石定番,使於回紇,以修好征兵。及至其牙,可汗以女嫁於承采,遣首領來朝,請和親,封回紇公主為毗伽公主。肅宗在彭原,遇之甚厚。二載二月,回紇又使首領大將軍多攬等十五人入朝。九月戊寅,加承采開府儀同三司,拜宗正卿,納回紇公主為妃。回紇遣其太子葉護領其將帝德等兵馬四千余眾,助國討逆。肅宗宴賜甚厚。又命元帥廣平王見葉護,約為兄弟,接之頗有恩義。葉護大喜,謂王為兄。

戊子、回紇の大首領達幹ら十三人が先に扶風に至り、朔方の将士とともに僕射郭子儀に会った。これを留め、三日間宴を設けた。葉護太子は言った、「国家に難あり、遠くより来りて相助く、何ぞ食する暇あらんや!」子儀は固くこれを留めたが、宴が終わると便ち発った。その軍には毎日羊二百口、牛二十頭、米四十碩を与えた。元帥廣平王が郭子儀らを率いて香積寺の東二十里に至り、西は澧水に臨んだ。賊は精騎を大営の東に埋め、我が軍の背を襲わんとした。朔方左廂兵馬使仆固懷恩が回紇を指して馳せ救わせ、匹馬も帰らず、これにより西京を収めた。十月、廣平王、副元帥郭子儀は回紇の兵馬を率い、賊と陜西において戦った。

原文戊子,回紇大首領達幹等一十三人先至扶風,與朔方將士見僕射郭子儀。留之,宴設三日。葉護太子曰:「國家有難,遠來相助,何暇食為!」子儀固留之,宴畢便發。其軍每日給羊二百口、牛二十頭、米四十碩。及元帥廣平王率郭子儀等至香積寺東二十里,西臨澧水。賊埋精騎於大營東,將襲我軍之背。朔方左廂兵馬使仆固懷恩指回紇馳救之,匹馬不歸,因收西京。十月,廣平王、副元帥郭子儀領回紇兵馬,與賊戰於陜西。

初め、曲沃に次いだ時、葉護はその將軍車鼻施吐撥裴羅らに命じて南山の傍らを東進させ、谷中に賊の伏兵に遇い、これを尽く殪した。子儀は新店に至り、賊に遇って戦い、軍は数里退いた。回紇はこれを見て、山を逾え西嶺の上より白旗を曳いて趨り撃ち、直ちにその後に出で、賊衆は大いに敗れ、軍して北に坑い、北に逐うこと二十余里、人馬相枕藉し、蹂踐して死する者数え勝えず、首を斬ること十余万、屍を伏すこと三十里に及んだ。賊党の嚴莊は馳せて安慶緒に告げ、その党を率いて東京を背に北走し河を渡った。そして葉護は廣平王、僕射郭子儀に従って東京に入った。

原文初,次於曲沃,葉護使其將軍車鼻施吐撥裴羅等旁南山而東,遇賊伏兵於谷中,盡殪之。子儀至新店,遇賊戰,軍卻數里。回紇望見,逾山西嶺上曳白旗而趨擊之,直出其後,賊眾大敗,軍而北坑,逐北二十餘里,人馬相枕藉,蹂踐而死者不可勝數,斬首十余萬,伏屍三十里。賊黨嚴莊馳告安慶緒,率其黨背東京北走渡河,而葉護從廣平王、僕射郭子儀入東京。

初め、西京を収めた時、回紇は城に入り劫掠せんとしたが、廣平王が固くこれを止めた。東京を収めるに及んで、回紇は遂に府庫に入り財帛を収め、市井村坊において剽掠すること三日にして止んだ。財物は数え勝えず、廣平王はまた錦罽寶貝を以てこれを賫したので、葉護は大いに喜んだ。肅宗が西京に還ると、十一月癸酉、葉護は東京より至った。百官に勅して長樂驛で迎えさせ、上は宣政殿に御して宴労した。葉護は殿に昇り、その余の酋長は階下に列し、錦繍繒彩金銀器皿を賜った。蕃に帰るに辞するに当たり、上はこれに謂って言った、「国家の為に大事を就け義勇を成すこと能うは、卿らの力なり。」葉護は奏して言った、「回紇の戦兵は沙苑に留まりております。今しばらく帰り霊夏に馬を取り、更に范陽を収め、残賊を討ち除かんと欲します。」己丑、詔して曰く、「艱難を済す功、邦国に存する義、万里の絶域、一徳同心、古今にこれを求めても、未だ聞かざる所なり。回紇の葉護は、特り英姿を稟け、奇略を挺生し、言は必ず忠信、行いは温良を表し、才は万人の敵たり、位は諸蕃の長に列す。匈醜の常を乱すに属し、中原未だ靖まらず、可汗に兄弟の約有るを以て、国家と父子の軍を興し、その智謀を奮い、かの兇逆を討ち、一鼓の気を揚げ、万里の鋒を摧き、二旬の間に、両京克く定まる。力は山嶽を抜き、精は風雲に貫き、蒙犯するも以てその労を辞せず、急難も以てその分を逾えず。固より日月に懸け、子孫に伝うべく、豈に裂土の封、誓河の賞のみならんや!夫れ位の崇き者は、司空しくう第一;名の大なる者は、封王最高。司空と為すべく、仍り忠義王に封じ、毎載絹二万匹を朔方軍に送り至らしむべし。宜しく使を差し受領せしむべし。」

原文初,收西京,回紇欲入城劫掠,廣平王固止之。及收東京,回紇遂入府庫收財帛,於市井村坊剽掠三日而止。財物不可勝計,廣平王又賫之以錦罽寶貝,葉護大喜。及肅宗還西京,十一月癸酉,葉護自東京至。敕百官於長樂驛迎,上御宣政殿宴勞之。葉護升殿,其余酋長列於階下,賜錦繡繒彩金銀器皿。及辭歸蕃,上謂曰:「能為國家就大事成義勇者,卿等力也。」葉護奏曰:「回紇戰兵,留在沙苑,今且須歸靈夏取馬,更收范陽,討除殘賊。」己丑,詔曰:「功濟艱難,義存邦國,萬里絕域,一德同心,求之古今,所未聞也。回紇葉護,特稟英姿,挺生奇略,言必忠信,行表溫良,才為萬人之敵,位列諸蕃之長。屬匈醜亂常,中原未靖,以可汗有兄弟之約,與國家興父子之軍,奮其智謀,討彼兇逆,一鼓作氣,萬里摧鋒,二旬之間,兩京克定。力拔山嶽,精貫風雲,蒙犯不以辭其勞,急難無以逾其分。固可懸之日月,傳之子孫,豈惟裂土之封,誓河之賞而已矣!夫位之崇者,司空第一;名之大者,封王最高。可司空、仍封忠義王,每載送絹二萬匹至朔方軍,宜差使受領。」

乾元元年五月壬申朔、回紇の使い多亥阿波八十人、黑衣大食の酋長閣之ら六人並びに朝見し、閣門に至り長を争う。通事舍人は乃ち左右に分け、東西の門より並びに入らしめた。六月戊戌、回紇の使いを紫宸殿前において宴した。

原文乾元元年五月壬申朔,回紇使多亥阿波八十人,黑衣大食酋長閣之等六人並朝見,至閣門爭長,通事舍人乃分為左右,從東西門並入。六月戊戌,宴回紇使於紫宸殿前。

秋七月丁亥、詔して幼女を封じて寧國公主と為し降嫁せしむ。その降蕃の日、仍り堂弟漢中郡王瑀を特進、試太常卿、摂御史大夫と為し、冊命英武威遠毗伽可汗使を充てしむ;堂侄左司郎中巽を兵部郎中、摂御史中丞、鴻臚卿と為し、これを副え、兼ねて寧國公主禮會使を充てしむ。特に関府儀同三司、行尚書右僕射、冀國公裴冕を重臣として差し界首まで送らしめた。癸巳、回紇英武威遠毗伽可汗を冊立するに当たり、上は宣政殿に御し、漢中王瑀が冊命を受けた。甲午、肅宗は寧國公主を咸陽磁門驛まで送り、公主は泣いて言った、「国家の事重し、死すとも且つ恨み無し!」上は流涕して還った。瑀がその牙帳に至ると、毗伽闕可汗は赭黄袍を衣、胡帽を戴き、帳中の榻上に坐し、儀衛甚だ盛んで、瑀を引いて帳外に立たせ、瑀に謂って言った、「王は天可汗の何の親ぞ?」瑀は言った、「是れ唐天子の堂弟なり。」また問う、「王の上に立つ者は誰ぞ?」瑀は言った、「中使雷盧俊なり。」可汗はまた報じて言った、「中使は奴なり、何ぞ郎君の上に立つを得んや?」雷盧俊は竦懼し、跳身して下に立ち定まった。瑀は拝せずして立った。可汗は報じて言った、「両国の主君臣に礼有り、何ぞ拝せざるを得んや?」瑀は言った、「唐天子は可汗に功有るを以て、故に女を嫁がせ可汗と姻好を結ばしむ。比者中国と外蕃と親しむは、皆宗室の子女にして、名を公主と為す。今の寧國公主は、天子の真の女にして、又才貌有り、万里を嫁して可汗に与う。可汗は唐家の天子の女婿なり、礼数合う有るべし。豈に榻上に坐して詔命を受くべきや!」可汗は乃ち起ちて詔を奉じ、便ち冊命を受けた。翼日、公主を冊して可敦と為す。蕃酋歓欣して曰く、「唐國の天子貴重にして、真の女を来たらしむ。」瑀の送る所の国信繒彩衣服金銀器皿は、可汗尽く衙官、酋長らに分け与えた。瑀の回るに及び、可汗は馬五百匹、貂裘、白赩を献じた。八月、回紇は王子骨啜特勒及び宰相帝德ら驍将三千人を遣わし国を助けて逆を討たしめた。肅宗はその遠く至るを嘉し、宴を賜い、朔方行營使仆固懷恩に命じてこれを押させた。九月甲申、回紇の使い大首領蓋将らが公主の下降を謝し、兼ねて堅昆五万人を破ったことを奏し、紫宸殿において宴し、物を賜うこと差等有り。十二月甲午、回紇の使い三婦人が、寧國公主の聘を謝し、紫宸殿において宴を賜った。

原文秋七月丁亥,詔以幼女封為寧國公主出降。其降蕃日,仍以堂弟漢中郡王瑀為特進、試太常卿、攝御史大夫,充冊命英武威遠毗伽可汗使;以堂侄左司郎中巽為兵部郎中、攝御史中丞、鴻臚卿,副之,兼充寧國公主禮會使。特差重臣開府儀同三司、行尚書右僕射、冀國公裴冕送至界首。癸巳,以冊立回紇英武威遠毗伽可汗,上御宣政殿,漢中王瑀受冊命。甲午,肅宗送寧國公主至咸陽磁門驛,公主泣而言曰:「國家事重,死且無恨!」上流涕而還。及瑀至其牙帳,毗伽闕可汗衣赭黃袍,胡帽,坐於帳中榻上,儀衛甚盛,引瑀立於帳外,謂瑀曰:「王是天可汗何親?」瑀曰:「是唐天子堂弟。」又問:「於王上立者為誰?」瑀曰:「中使雷盧俊。」可汗又報曰:「中使是奴,何得向郎君上立?」雷盧俊竦懼,跳身向下立定。瑀不拜而立。可汗報曰:「兩國主君臣有禮,何得不拜?」瑀曰:「唐天子以可汗有功,故將女嫁與可汗結姻好,比者中國與外蕃親,皆宗室子女,名為公主。今寧國公主,天子真女,又有才貌,萬里嫁與可汗。可汗是唐家天子女婿,合有禮數。豈得坐於榻上受詔命耶!」可汗乃起奉詔,便受冊命。翼日,冊公主為可敦,蕃酋歡欣曰:「唐國天子貴重,將真女來。」瑀所送國信繒彩衣服金銀器皿,可汗盡分與衙官、酋長等。及瑀回,可汗獻馬五百匹、貂裘、白赩。八月,回紇使王子骨啜特勒及宰相帝德等驍將三千人助國討逆。肅宗嘉其遠至,賜宴,命隨朔方行營使仆固懷恩押之。九月甲申,回紇使大首領蓋將等謝公主下降,兼奏破堅昆五萬人,宴於紫宸殿,賜物有差。十二月甲午,回紇使三婦人,謝寧國公主之聘也,賜宴紫宸殿。

乾元二年、回紇の骨啜特勒らが衆を率いて郭子儀に従い、九節度と相州城下で戦い、利あらず。三月壬子、回紇王子骨啜特勒及び宰相帝徳ら十五人が相州より西京に奔り、粛宗は紫宸殿において彼らを宴し、賞物に差等あり。その月庚寅、回紇特勒は辞して行営に還らんとし、上は紫宸殿において彼を宴し、賜物に差等あり。乙未、回紇王子を新たに左羽林軍大将軍・員外置とし、骨啜特勒を銀青光禄大夫・鴻臚卿・員外置とする。

原文乾元二年,回紇骨啜特勒等率眾從郭子儀與九節度於相州城下戰,不利。三月壬子,回紇王子骨啜特勒及宰相帝德等十五人自相州奔於西京,肅宗宴之於紫宸殿,賞物有差。其月庚寅,回紇特勒辭還行營,上宴之於紫宸殿,賜物有差。乙未,以回紇王子新除左羽林軍大將軍、員外置,骨啜特勒為銀青光祿大夫、鴻臚卿、員外置。

夏四月、回紇の毗伽闕可汗死す。長子葉護は先に殺されしにより、乃ちその少子登裏可汗を立て、その妻を可敦とす。六月丙午、左金吾衛将軍李通を試鴻臚卿・摂御史中丞とし、回紇弔祭使を充てる。毗伽闕可汗の初めて死せしとき、その牙官・都督らは寧国公主を以て殉葬せんと欲す。公主曰く、「我が中国の法、婿死すれば、即ち喪を持ち、朝夕哭臨し、三年服を行ふ。今回紇婦を娶るに、須らく中国の礼を慕ふべし。若し今本国の法に依らば、何ぞ万里を須ひて結婚せん。」然れども公主も亦回紇の法に依り、剺面して大いに哭し、竟に子無きを以て帰るを得たり。秋八月、寧国公主回紇より還り、詔して百官を明鳳門外にてこれを迎えしむ。

原文夏四月,回紇毗伽闕可汗死。長子葉護先被殺,乃立其少子登裏可汗,其妻為可敦。六月丙午,以左金吾衛將軍李通為試鴻臚卿、攝御史中丞,充吊祭回紇使。毗伽闕可汗初死,其牙官、都督等欲以寧國公主殉葬。公主曰:「我中國法,婿死,即持喪,朝夕哭臨,三年行服。今回紇娶婦,須慕中國禮。若今依本國法,何須萬里結婚。」然公主亦依回紇法,剺面大哭,竟以無子得歸。秋八月,寧國公主自回紇還,詔百官於明鳳門外迎之。

上元元年九月己丑、回紇九姓可汗、大臣俱陸莫達幹らを使わしめて入朝し、表を奉り起居す。乙卯、回紇の使い二十人、延英殿において通謁し、賜物に差等あり。十一月戊辰、回紇の使い延支伽羅ら十人、延英殿において謁見し、賜物に差等あり。

原文上元元年九月己丑,回紇九姓可汗使大臣俱陸莫達幹等入朝奉表起居。乙卯,回紇使二十人於延英殿通謁,賜物有差。十一月戊辰,回紇使延支伽羅等十人於延英殿謁見,賜物有差。

宝応元年、代宗初めて即位し、史朝義なお河洛に在るを以て、中使劉清潭を遣わして回紇に兵を徴し、又旧好を修む。その秋、清潭回紇の庭に入る。回紇は既に史朝義に誘はれ、唐家の天子頻りに大喪有り、国乱れて主無しと云ひ、兵を発して来たり府庫を収めんことを請ふ。可汗乃ち衆を領して南す、既に八月なり。清潭勅書国信を賫して至る。可汗曰く、「我聞く唐家已に主無しと、何為れぞ更に勅書有る。」中使対へて曰く、「我が唐家の天子万国を棄つと雖も、嗣天子広平王は天生の英武、往年回紇葉護の兵馬と同しく両京を収め、安慶緒を破り、可汗と故有り。又毎年可汗に繒絹数万匹を与ふ、可汗豈に之を忘れんや。」然れども回紇は業に発して三城の北に至り、荒城に戍卒無く、州県尽く空壘と為るを見て、唐を軽んずる色有り、乃ち使いを遣わして北に単於の兵馬倉糧を収め、又大いに清潭を辱しむ。清潭使いを発して来たり奏して云く、「回紇登裏可汗国を傾けて自ら来たり、衆十万有り、羊馬その数を知らず。」京師大いに駭く。上は殿中監薬子昂をして馳せてこれを労せしむ。太原の北忻州の南に及び、子昂密かにその丁壮を数ふるに、四千人を得、老小婦人相兼ねて万余人、戦馬四万匹、牛羊紀すべからず。

原文寶應元年,代宗初即位,以史朝義尚在河洛,遣中使劉清潭征兵於回紇,又修舊好。其秋,清潭入回紇庭,回紇已為史朝義所誘,雲唐家天子頻有大喪,國亂無主,請發兵來收府庫。可汗乃領眾而南,已八月矣。清潭賫敕書國信至,可汗曰:「我聞唐家已無主,何為更有敕書?」中使對曰:「我唐家天子雖棄萬國,嗣天子廣平王天生英武,往年與回紇葉護兵馬同收兩京,破安慶緒,與可汗有故。又每年與可汗繒絹數萬匹,可汗豈忘之耶?」然回紇業已發至三城北,見荒城無戍卒,州縣盡為空壘,有輕唐色,乃遣使北收單於兵馬倉糧,又大辱清潭。清潭發使來奏云:「回紇登裏可汗傾國自來,有眾十萬,羊馬不知其數。」京師大駭。上使殿中監藥子昂馳勞之。及於太原北忻州南,子昂密數其丁壯,得四千人,老小婦人相兼萬余人,戰馬四萬匹,牛羊不紀。

先に、毗伽闕可汗子を以て婚せんことを請ひ、粛宗は仆固懐恩の女を以てこれに嫁す。及て是に至り可敦と為り、可汗と同しく来たり、懐恩及び懐恩の母の相見ゆることを請ふ。上は勅して懐恩をして汾州より太原においてこれを見えしむ。懐恩又国家の恩信は違背すべからざるを諫む。初め蒲関より入り、沙苑の路を取り、潼関より東に向ひ賊を破らんと欲す。子昂これを説きて云く、「国家頻りに寇逆に遭ひ、州県虚乏、供擬に難し、恐らくは可汗失望せん、土門の路を取りて入り、直ちに邢・洺・衛・懷を取るに如かず。賊中の兵馬尽く東京に在り、可汗その財帛を収め、装を束ねて南に向はば、最も上策なり。」可汗従はず。又説く、「懐州太行の路を取り、南に河陰の険に拠り、直ちに賊の喉を扼せば、亦上策なり。」可汗又従はず。又説く、「陜州太陽津の路を取り、太原倉の粟を食みて東し、沢潞・河南・懐鄭節度と同しく入らば、亦上策なり。」可汗これに従ふ。子昂因りて入奏す。上は雍王適を兵馬元帥と為し、懐恩に同中書門下平章事を加ふ。又子昂をして御史中丞を兼ねしめ、前潞府兼御史中丞魏琚を左右廂兵馬使と為し、中書舎人韋少華を以て元帥判官・兼掌書記を充て、給事中李進を御史中丞を兼ねしめ、元帥行軍司馬を充て、東に回紇を会せしむ。登裏可汗は陜州黄河の北に営す。

原文先是,毗伽闕可汗請以子婚,肅宗以仆固懷恩女嫁之。及是為可敦,與可汗同來,請懷恩及懷恩母相見。上敕懷恩自汾州見之於太原。懷恩又諫國家恩信不可違背。初欲自蒲關入,取沙苑路,由潼關東向破賊,子昂說之云:「國家頻遭寇逆,州縣虛乏,難為供擬,恐可汗失望,不如取土門路入,直取邢、洺、衛、懷。賊中兵馬盡在東京,可汗收其財帛,束裝南向,最為上策。」可汗不從。又說:「取懷州太行路,南據河陰之險,直扼賊之喉,亦上策也。」可汗又不從。又說:「取陜州太陽津路,食太原倉粟而東,與澤潞、河南、懷鄭節度同入,亦上策也。」可汗從之。子昂因入奏,上以雍王適為兵馬元帥,加懷恩同中書門下平章事。又以子昂兼御史中丞,與前潞府兼御史中丞魏琚為左右廂兵馬使,以中書舍人韋少華充元帥判官、兼掌書記,給事中李進兼御史中丞,充元帥行軍司馬,東會回紇。登裏可汗營於陜州黃河北。

元帥雍王は子昂らを領して従ひこれを見ゆ。可汗は雍王が帳前において舞蹈せざるを責め、礼倨なり。子昂は元帥は嫡孫にて、両宮殯に在り、舞蹈有るべからざるを以て辞す。回紇の宰相及び車鼻将軍庭に詰して曰く、「唐天子と登裏可汗は兄弟と約し、今可汗は即ち雍王の叔なり、叔侄に礼数有り、何ぞ舞蹈せざるを得ん。」子昂苦しく辞して身に喪礼有り、合はずとす。又報じて云く、「元帥は即ち唐の太子なり、太子は即ち儲君なり、豈に中国の儲君外国の可汗の前に舞蹈する有らんや。」相拒すること久しく、車鼻遂に子昂・李進・少華・魏琚を引き各搒捶一百、少華・琚は搒捶に因り、一宿にして死す。王は年少にして事に諳らざるを以て、本営に放ち帰す。而して懐恩は回紇右殺と先鋒と為り、及び諸節度と同しく賊を攻め、これを破り、史朝義は残寇を率いて走る。元帥雍王は霊宝に退き帰る。回紇可汗は継いで河陽に進み、営を列ねて数箇月止まる。営を去ること百余里、人剽劫逼辱せられ、その弊に勝へず。懐恩は常に軍の殿と為る。及び諸節度河北の州県を収むるに及び、仆固瑒は回紇の衆と追躡すること二千余里、平州石城県に至り、朝義の首を梟して帰り、河北悉く平ぐ。懐恩は相州より西に出で崞口路より西し、可汗は河陽より北に出で沢・潞より懐恩と会し、太原を歴る。使い抜賀那を遣わして表を上げ東京収むるを賀し、並びに逆賊史朝義の旌旗等の物を進む。辞して蕃に還らんとす。代宗は内殿に引き見え、彩二百段を賜ふ。

原文元帥雍王領子昂等從而見之。可汗責雍王不於帳前舞蹈,禮倨。子昂辭以元帥是嫡孫,兩宮在殯,不合有舞蹈,回紇宰相及車鼻將軍庭詰曰:「唐天子與登裏可汗約為兄弟,今可汗即雍王叔,叔侄有禮數,何得不舞蹈?」子昂苦辭以身有喪禮,不合。又報云:「元帥即唐太子也,太子即儲君也,豈有中國儲君向外國可汗前舞蹈。」相拒久之,車鼻遂引子昂、李進、少華、魏琚各搒捶一百,少華、琚因搒捶,一宿而死。以王少年未諳事,放歸本營。而懷恩與回紇右殺為先鋒,及諸節度同攻賊,破之,史朝義率殘寇而走。元帥雍王退歸靈寶。回紇可汗繼進於河陽,列營而止數月。去營百餘里,人被剽劫逼辱,不勝其弊。懷恩常為軍殿。及諸節度收河北州縣,仆固瑒與回紇之眾追躡二千餘里,至平州石城縣,梟朝義首而歸,河北悉平。懷恩自相州西出崞口路而西,可汗自河陽北出澤、潞與懷恩會,歷太原。遣使拔賀那上表賀收東京,並進逆賊史朝義旌旗等物。辭還蕃,代宗引見於內殿,賜彩二百段。

初め、回紇東京に至り、賊平ぐるを以て、恣に行ひ残忍、士女これに懼れ、皆聖善寺及び白馬寺の二閣に登り以てこれを避く。回紇は火を放ち二閣を焚き、傷死する者万計、累旬火焰止まず。及て是に朝賀し、又縦横に大いに官吏を辱しむ。陜州節度使郭英乂を以て権知東都留守とす。時に東都再び賊乱を経、朔方軍及び郭英乂・魚朝恩等の軍は暴を禁ずる能はず、回紇と与に坊市及び汝・鄭等州を掠め、比屋蕩尽し、人悉く紙を以て衣と為し、或は経を衣とする者有り。

原文初,回紇至東京,以賊平,恣行殘忍,士女懼之,皆登聖善寺及白馬寺二閣以避之。回紇縱火焚二閣,傷死者萬計,累旬火焰不止。及是朝賀,又縱橫大辱官吏。以陜州節度使郭英乂權知東都留守。時東都再經賊亂,朔方軍及郭英乂、魚朝恩等軍不能禁暴,與回紇縱掠坊市及汝、鄭等州,比屋蕩盡,人悉以紙為衣,或有衣經者。

代宗は宣政殿に御し、冊文を出だし、可汗に加冊して登裏頡咄登密施含俱録英義建功毗伽可汗と為し、可敦に加冊して婆墨光親麗華毗伽可敦と為す。「頡咄」は華言に「社稷法用」;「登密施」は華言に「封竟」;「含俱録」は華言に「婁羅」;「毗伽」は華言に「足意智」。「婆墨」は華言に「得憐」。散騎常侍さんきじょうじ兼御史大夫王翊を使いと充て、就きて可汗の行営に行き冊命す。可汗・可敦及び左右殺・諸都督・内外宰相已下、共に実封二千戸を加へ、王翊をして牙帳前において礼冊せしむ。左殺を封じて雄朔王と為し、右殺を封じて寧朔王と為し、胡禄都督を封じて金河王と為し、抜覧将軍を封じて静漠王と為し、諸都督十一人並びに国公に封ず。

原文代宗禦宣政殿,出冊文,加冊可汗為登裏頡咄登密施含俱錄英義建功毗伽可汗,可敦加冊為婆墨光親麗華毗伽可敦。「頡咄」,華言「社稷法用」;「登密施」,華言「封竟」;「含俱錄」,華言「婁羅」;「毗伽」,華言「足意智」。「婆墨」,華言「得憐」。以散騎常侍兼御史大夫王翊充使,就可汗行營行冊命焉。可汗、可敦及左右殺、諸都督、內外宰相已下,共加實封二千戶,令王翊就牙帳前禮冊。左殺封為雄朔王,右殺封為寧朔王,胡祿都督封金河王,拔覽將軍封為靜漠王,諸都督一十一人並封國公。

まもなく僕固懐恩は叛き、霊武に奔った。朔方の旧将任敷・張韶らが余燼を収拾し、衆は数万に至った。広徳二年秋、ついに吐蕃の衆数万人を奉天県に引き寄せたが、朔方節度使郭子儀が衆を率いてこれを防ぎ退けた。永泰元年秋、懐恩は兵馬使範至誠・任敷に兵を将わせ、また回紇・吐蕃・吐谷渾・党項・奴刺の衆二十余万を誘い、奉天・醴泉・鳳翔・同州などを犯し、その逆命を被った。先に郭子儀を涇陽に屯させ、渾日進を奉天に屯させ、数度その鋒を摧いた。また懐恩の死を聞き、吐蕃の将馬重英らが十月に引き退き、邠州の旧路を取って帰った。回紇の首領羅達幹らがその衆二千余騎を率い、涇陽に詣でて降伏を請うた。子儀はこれを許し、衆を率いて甲を被り満を持すこと数千人。回紇の訳者が曰く、「此度来たるは悪心にあらず、令公に会わんと要す。」子儀曰く、「我れ令公なり。」回紇曰く、「甲を去らんことを請う。」子儀すなわち兜鍪槍甲を脱ぎ、策馬して挺身して前に進む。回紇の酋長相顧みて曰く、「是なり。」時に太子太保李光進・兼御史大夫路嗣恭、戎装して介馬し子儀の側に在り。子儀指して回紇に視せて曰く、「此れは渭北節度李太保なり。」また曰く、「此れは朔方軍糧使路大夫なり。」回紇すなわち下馬して羅拝し、子儀もまた下馬す。回紇の衆は左右の翼と為り、各数百人、漸く進む。子儀の麾下も馳せ至り、子儀麾してこれを退かしむ。子儀命じて酒を与えてこれと飲み、纏頭彩三千匹を贈る。子儀は回紇の大将可汗の弟合胡祿都督薬羅葛らの手を執り、責めて曰く、「我が国家は汝回紇に功あるを知り、汝に報いること大いに厚し。汝何ぞ約を背き信を負い、我が王畿を犯すや。我れ須らく汝と戦わんとす、何ぞ乃ち降るを為さんや。我が一身挺んで汝の営に入り、汝に拘縛せしむるに任す。我が麾下の将士は、須らく汝と戦わん。」回紇また訳して曰く、「懐恩は心を負い、来たりて可汗に報じ、唐国の天子今すでに江淮に向かい、令公もまた兵を主とせず、我ら是を以て敢えて来たる。今知る天可汗は上郭に在り、令公は将たり、懐恩は天またこれを殺す。今請う吐蕃を追殺し、その羊馬を収め、以て国恩に報ぜん。然れども懐恩の子、可敦の兄弟は、請う殺さざらんことを。」合胡祿都督らと宰相磨咄莫賀達幹・宰相暾莫賀達幹・宰相護都毘伽将軍・宰相掲拉裴羅達幹・宰相梅録大将軍羅達幹・平章事海盈闕達幹ら、子儀先ず杯を執る。合胡祿都督、呪を請う。子儀呪して曰く、「大唐天子万々歳。回紇可汗も亦万歳。両国の将相も亦万歳。若し負心を起こし盟約に違背する者は、身は陣前に死し、家口は屠戮せられん。」合胡祿都督ら色を失い、杯の至るに及んで、即ち訳して曰く、「令公の盟約の如し。」皆喜んで曰く、「初め本部を発する日、巫師二人を将いて来たり、云う『此の行いは大いに安穏なり、然れども唐家の兵馬と闘わず、一の大人を見て即ち帰らん』と。今日兵を領して令公を見る。令公は疑いを為さず、衣甲を脱ぎ去り、単騎相見す。誰か此の心胆あらんや。是れ闘わずして一の大人を見る、巫師に徴あり。」歓躍すること久し。子儀その背を撫で、首領ら纏頭彩を分かち以て巫師を賞す。諸将と共に吐蕃を撃たんことを請う。子儀その約の如くす。翌日、回紇の首領開府古野那ら六人を領して京に入り朝見せしむ。

原文尋而懷恩叛,投靈武,有朔方舊將任敷、張韶等,收合余燼,眾至數萬。廣德二年秋,乃引吐蕃之眾數萬人至奉天縣,朔方節度郭子儀率眾拒之而退。永泰元年秋,懷恩遣兵馬使範至誠、任敷將兵,又誘回紇、吐蕃、吐谷渾、党項、奴刺之眾二十余萬,以犯奉天、醴泉、鳳翔、同州等處,被其逆命。先以郭子儀屯涇陽,渾日進屯奉天,數摧其鋒。又聞懷恩死,吐蕃將馬重英等十月初引退,取邠州舊路而歸。回紇首領羅達幹等率其眾二千余騎,詣涇陽請降。子儀許之,率眾被甲持滿數千人。回紇譯曰:「此來非惡心,要見令公。」子儀曰:「我令公也。」回紇曰:「請去甲。」子儀便脫兜鍪槍甲,策馬挺身而前。回紇酋長相顧曰:「是也。」時太子太保李光進、兼御史大夫路嗣恭戎裝介馬在子儀之側。子儀指視回紇曰:「此是渭北節度李太保。」又曰:「此是朔方軍糧使路大夫。」回紇便下馬羅拜,子儀亦下馬。回紇之眾為左右翼,各數百人,漸進;子儀麾下亦馳而至,子儀麾退之。子儀命酒與之飲,贈之纏頭彩三千匹。子儀執回紇大將可汗弟合胡祿都督藥羅葛等手,責讓之曰:「我國家知汝回紇有功,報汝大厚,汝何背約負信,犯我王畿?我須與汝戰,何乃降為!我一身挺入汝營,任汝拘縶,我麾下將士,須與汝戰。」回紇又譯曰:「懷恩負心,來報可汗,雲唐國天子今已向江淮,令公亦不主兵,我是以敢來。今知天可汗見在上郭,令公為將,懷恩天又殺之。今請追殺吐蕃,收其羊馬,以報國恩。然懷恩子,可敦兄弟,請勿殺之。」合胡祿都督等與宰相磨咄莫賀達幹、宰相暾莫賀達幹、宰相護都毗伽將軍、宰相揭拉裴羅達幹、宰相梅錄大將軍羅達幹、平章事海盈闕達幹等,子儀先執杯,合胡祿都督請咒,子儀咒曰:「大唐天子萬萬歲!回紇可汗亦萬歲!兩國將相亦萬歲!若起負心違背盟約者,身死陣前,家口屠戮。」合胡祿都督等失色,及杯至,即譯曰:「如令公盟約。」皆喜曰:「初發本部來日,將巫師兩人來,云:『此行大安穩,然不與唐家兵馬鬥,見一大人即歸。』今日領兵見令公,令公不為疑,脫去衣甲,單騎相見,誰有此心膽!是不戰鬥見一大人,巫師有征矣!」歡躍久之。子儀撫其背,首領等分纏頭彩以賞巫師,請諸將同擊吐蕃,子儀如其約。翌日,使領回紇首領開府古野那等六人入京朝見。

また五日、朔方先鋒兵馬使・開府・南陽郡王白元光が回紇の兵馬と涇州霊台県西五十里の赤山嶺において合し、共に吐蕃ら十余万の衆を破り、斬首五万余級、生擒一万余人、駱駝・馬・牛・羊凡そ百里相継ぎ、勝えて紀すべからず、蕃落五千余人を得て収む。初め白元光らが霊台県西に到り、賊の勢いを探知し、月明の為、少しく陰晦を思う。回紇は巫師を使い便ち風雪を致す。遅明に戦うに及び、吐蕃は尽く寒凍し、弓矢皆廃れ、氈を披いて徐かに進む。元光と回紇はこれに随いてこれを殺し野を蔽う。僕固名臣は懐恩の甥、特に驍将たり、また千余騎を領して来降す。まもなく子儀また回紇の宰相護地毘伽将軍・宰相梅録大将軍・開府儀同三司・試太常卿羅達幹ら一百九十六人を使わして来見せしむ。上は延英殿において宴を賜い、錫賚甚だ厚し。閏月、子儀は涇陽より僕固名臣を領いて入奏し、回紇は馬を進め、及び宴別、前後繒彩十万匹を賚して還る。時に帑蔵空虚し、朝官に禄俸無く、月に随いて手力を給し、これを資課銭と謂う。朝官の閏十月・十一月・十二月の課を税して以てこれを供す。

原文又五日,朔方先鋒兵馬使、開府、南陽郡王白元光與回紇兵馬合於涇州靈臺縣西五十里赤山嶺,共破吐蕃等十余萬眾,斬首五萬余級,生擒一萬余人,駝馬牛羊凡百里相繼,不可勝紀,收得蕃落五千余人。初白元光等到靈臺縣西,探知賊勢,為月明,思少陰晦,回紇使巫師便致風雪。及遲明戰,吐蕃盡寒凍,弓矢皆廢,披氈徐進,元光與回紇隨而殺之蔽野。仆固名臣,懷恩之侄,尤為驍將,亦領千余騎來降。尋而子儀又使回紇宰相護地毗伽將軍,宰相梅錄大將軍、開府儀同三司、試太常卿羅達幹等一百九十六人來見。上賜宴於延英殿,錫賫甚厚。閏月,子儀自涇陽領仆固名臣入奏,回紇進馬,及宴別,前後賫繒彩十萬匹而還。時帑藏空虛,朝官無祿俸,隨月給手力,謂之資課錢。稅朝官閏十月、十一月、十二月課以供之。

大暦六年正月、回紇は鴻臚寺より擅に出でて坊市し、人の子女を掠め、所在の官これを奪い返す。殴り怒り、三百騎を以て金光門・朱雀門を犯す。是の日、皇城諸門尽く閉じ、上は中使劉清潭を使わして宣慰せしむ。乃ち止む。

原文大歷六年正月,回紇於鴻臚寺擅出坊市,掠人子女,所在官奪返,毆怒,以三百騎犯金光門、硃雀門。是日,皇城諸門盡閉,上使中使劉清潭宣慰,乃止。

七年七月、回紇は鴻臚寺より出で、坊市に入り強暴し、長安令邵説を含光門の街に逐い、説の乗る馬を奪い将ち去らんとす。説は身を脱して避走す。有司禁むること能わず。

原文七年七月,回紇出鴻臚寺,入坊市強暴,逐長安令邵說於含光門之街,奪說所乘馬將去。說脫身避走,有司不能禁。

八年十一月、回紇一百四十人還蕃す。信物一千余乗を以てす。回紇は功を恃み、乾元の後より、屡に使を遣わして馬を以て繒帛と市し、仍く歳ごとに来市し、馬一匹を以て絹四十匹に易え、動もすれば数万馬に至る。その使は遣わされるを候い継ぎて鴻臚寺に留まる者一にあらず。蕃は帛を得て厭うこと無く、我は馬を得て用無し。朝廷甚だこれを苦しむ。是の時、特詔を以て厚く賜い遣わし、広恩を示し、且つ愧を知らしめんとす。是の月、回紇は使赤心を使わして馬一万匹を領せしめて来たり市を求む。代宗は馬価の租賦より出づるを以て、重ねて民に困らしむるを欲せず、命じて有司に入るを量り計い六千匹を許し市せしむ。

原文八年十一月,回紇一百四十人還蕃,以信物一千余乘。回紇恃功,自乾元之後,屢遣使以馬和市繒帛,仍歲來市,以馬一匹易絹四十匹,動至數萬馬。其使候遣繼留於鴻臚寺者非一,蕃得帛無厭,我得馬無用,朝廷甚苦之。是時特詔厚賜遣之,示以廣恩,且俾知愧也。是月,回紇使使赤心領馬一萬匹來求市,代宗以馬價出於租賦,不欲重困於民,命有司量入計許市六千匹。

十年九月、回紇は白昼東市において人を刺す。市人これを執り、万年県に拘す。その首領赤心これを聞き、鴻臚寺より馳せて県獄に入り、囚を劫いて出で、獄吏を斬り傷つく。

原文十年九月,回紇白晝刺人於東市,市人執之,拘於萬年縣。其首領赤心聞之,自鴻臚寺馳入縣獄,劫囚而出,斫傷獄吏。

十三年正月、回紇は太原を寇し、榆次・太谷を過ぎ、河東節度留後・太原尹・兼御史大夫鮑防が回紇と陽曲において戦い、我が師敗績し、死者千余人。代州都督張光晟が回紇と羊武谷において戦い、これを破り、回紇引き退く。先に、辛雲京が太原を守りし時、回紇は雲京を懼れ、敢えて並・代を窺わず。鮑防に武略無きを知り、乃ち敢えて淩逼す。光晟の邀え戦いてこれを勝つに頼り、北人は乃ち安んず。

原文十三年正月,回紇寇太原,過榆次、太谷,河東節度留後、太原尹、兼御史大夫鮑防與回紇戰於陽曲,我師敗績,死者千余人。代州都督張光晟與回紇戰於羊武谷,破之,回紇引退。先是,辛雲京守太原,回紇懼雲京,不敢窺並、代,知鮑防無武略,乃敢淩逼,賴光晟邀戰勝之,北人乃安。

徳宗初め即位し、中官梁文秀を使わして回紇に告哀し、且つ旧好を修めんとす。可汗移地健は礼を為さず。而して九姓胡の素より回紇に属する者、また中国の便利を陳べて以てその心を誘う。可汗は乃ち国を挙げて南下し、将に我が喪に乗ぜんとす。その宰相頓莫賀達幹諫めて曰く、「唐は大国なり、且つ我に負うこと無し。前年太原に入り、羊馬数万計を獲、大捷と謂うべし。道途艱阻を以て、国に比するに及び、傷耗殆んど尽く。今若し挙げて捷からずんば、将に安くにか帰らん。」可汗聴かず。頓莫賀は人の心に乗じ、因りてこれを撃殺し、並びにその親信及び九姓胡の誘い来たる者凡そ二千人を殺す。

原文德宗初即位,使中官梁文秀告哀於回紇,且修舊好,可汗移地健不為禮。而九姓胡素屬於回紇者,又陳中國便利以誘其心,可汗乃舉國南下,將乘我喪。其宰相頓莫賀達幹諫曰:「唐,大國也,且無負於我。前年入太原,獲羊馬數萬計,可謂大捷矣。以道途艱阻,比及國,傷耗殆盡。今若舉而不捷,將安歸乎?」可汗不聽。頓莫賀乘人之心,因擊殺之,並殺其親信及九姓胡所誘來者凡二千人。

頓莫賀は自立して合骨咄禄毗伽可汗と号し、その酋長建達幹を文秀に随行させて来朝させた。京兆尹源休に命じて節を持たせ、武義成功可汗として冊封した。貞元三年八月、回紇可汗は首領墨啜達幹・多覧将軍合闕達幹らを遣わして方物を貢ぎ、和親を請うた。四年十月、回紇の公主と使者が蕃より至り、徳宗は延喜門に臨んでこれに接見した。時に回紇可汗は和親を喜び、その礼は甚だ恭しく、上言して「昔は兄弟たりしが、今は子婿たり、半子なり」と言った。また吐蕃の使者を罵り辱め、大首領らの妻妾合わせて五十六人の婦人を遣わして可敦を迎えさせ、総計千人余りを遣わし、聘礼の馬二千匹を納めた。徳宗は朔州・太原に分けて七百人を留めさせ、その宰相・首領は皆至り、鴻臚寺・将作監に分宿させた。癸巳、宣政殿で接見した。乙未、徳宗は回紇の公主を召し出し、使者を麟徳殿で応対させ、それぞれに賜物を与えた。庚子、詔して咸安公主を回紇可汗に降嫁せしめ、なお府官属を置いて親王の例に準じた。殿中監・嗣滕王湛然を咸安公主婚礼使とし、関播を検校右僕射・咸安公主送使及び冊回紇可汗使とした。貞元五年十二月、回紇の汨咄禄長寿天親毗伽可汗が薨じ、三日間朝を廃し、文武三品以上の官が鴻臚寺に赴きその来使を弔問した。

原文頓莫賀自立號為合骨咄祿毗伽可汗,使其酋長建達幹隨文秀來朝。命京兆尹源休持節冊為武義成功可汗。貞元三年八月,回紇可汗遣首領墨啜達幹、多覽將軍合闕達幹等來貢方物,且請和親。四年十月,回紇公主及使至自蕃,德宗禦延喜門見之。時回紇可汗喜於和親,其禮甚恭,上言:「昔為兄弟,今為子婿,半子也。」又詈辱吐蕃使者,及使大首領等妻妾凡五十六婦人來迎可敦,凡遣人千余,納聘馬二千。德宗令朔州、太原分留七百人,其宰相首領皆至,分館鴻臚,將作。癸巳,見於宣政殿。乙未,德宗召回紇公主出,使者對於麟德殿,各有頒賜。庚子,詔鹹安公主降回紇可汗,仍置府官屬視親王例。以殿中監、嗣滕王湛然為鹹安公主婚禮使,關播檢校右僕射、送鹹安公主及冊回紇可汗使。貞元五年十二月,回紇汨咄祿長壽天親毗伽可汗薨,廢朝三日,文武三品已上就鴻臚寺吊其來使。

貞元六年六月、回紇の使者移職伽達幹が帰蕃し、馬価の絹三十万匹を賜うた。鴻臚卿郭鋒を御史大夫を兼ねさせ、冊回紇忠貞可汗使を充てさせた。この年の四月、忠貞可汗はその弟に殺され、簒さん立された。時に回紇の大将頡幹迦斯は吐蕃を西撃して未だ帰らず、その次相が国中の人々を率いて簒立者を殺し、忠貞の子を立てて可汗とした。年は十六七であった。六月に至り、頡幹迦斯が西討より帰還し、牙帳に将到せんとするに及び、次相等はその後に廃立があることを恐れ、漢使に知らせまいとし、郭鋒を数か月留めて帰らせた。頡幹迦斯が至ると、可汗らは郊野に出迎え、郭鋒の送った国信の器幣を陳列し、可汗と次将相等は皆俯伏して自ら廃立の由を説き、かつ命を請うて「大相の生死に任す」と言った。陳列した器幣を悉く頡幹迦斯に贈ってこれを喜ばせた。可汗はまた拝泣して「児は愚幼にして知る所なく、今幸いに立つを得たり、ただ阿爹に仰ぎ食らうのみ」と言った。可汗は子としてこれに事え、頡幹迦斯はその卑遜に感じて、遂に相い抱き号哭し、臣子の礼を執った。陳列した器幣を左右の諸従行将兵に頒賜し、自らは取るところなく、これよりその国はやや安んじ、達比特勒梅録将軍を遣わして忠貞可汗の哀を我が朝に告げ、かつ新君の冊封を請うた。使者が至り、三日間朝を廃し、なお三品以上の官に命じて鴻臚寺に赴きその使者を弔問させた。この年、吐蕃が北庭都護府を陥落させた。

原文貞元六年六月,回紇使移職伽達幹歸蕃,賜馬價絹三十萬匹。以鴻臚卿郭鋒兼御史大夫,充冊回紇忠貞可汗使。是歲四月,忠貞可汗為其弟所殺而篡立。時回紇大將頡幹迦斯西擊吐蕃未回,其次相率國人縱殺纂者而立忠貞之子為可汗,年方十六七。及六月,頡幹迦斯西討回,將至牙帳,次相等懼其後有廢立,不欲漢使知之,留鋒數月而回。頡幹迦斯之至也,可汗等出迎郊野,陳郭鋒所送國信器幣,可汗與次將相等皆俯伏自說廢立之由,且請命曰:「惟大相生死之。」悉以所陳器幣贈頡幹迦斯以悅之。可汗又拜泣曰:「兒愚幼無知,今幸得立,惟仰食於阿爹。」可汗以子事之,頡幹迦斯以卑遜興感,乃相持號哭,遂執臣子之禮焉。盡以所陳器幣頒賜左右諸從行將士,己無所取,自是其國稍安,乃遣達比特勒梅錄將軍告忠貞可汗之哀於我,且請冊新君。使至,廢朝三日,仍令三品已上官就鴻臚寺吊其使。是歲,吐蕃陷北庭都護府。

初め、北庭・安西は既に回紇を仮道して朝奏し、これに附庸していた。回紇は征求飽くことなく、北庭はやや近く、凡そ生事の資は必ず強取した。また沙陀部落六千余帳あり、北庭と相依り、これも回紇に属し、肆行して抄奪し、特に苦しめられた。その先の葛禄部落及び白服突厥は素より回紇と通和していたが、その侵掠を憾み、吐蕃の厚賂による誘いに因り、遂にこれに附いた。ここにおいて吐蕃は葛禄・白服の衆を率いて去冬北庭を寇し、回紇の大相頡幹迦斯が衆を率いてこれを援けたが、頻りに敗れた。吐蕃が急攻するに及び、北庭の人は既に回紇に苦しめられていたので、城を挙げて降伏し、沙陀部落もまた降った。節度使・検校工部尚書楊襲古は麾下二千余衆を将いて西州に奔り出で、頡幹迦斯もまた還った。十年秋、その国の丁壮五万人を悉くし、楊襲古を召して、将にこれを回復せんとした。俄かに敗れ、死者は大半であった。頡幹迦斯は余燼を収め合せ、晨夜奔還した。楊襲古の余衆は僅か百六十、将に西州に入らんとしたが、頡幹迦斯はこれを欺いて「ただ我と共に牙帳に至らば、当に君を本朝に送らん」と言った。牙帳に及ぶと、留めて遣わさず、遂にこれを殺した。これより安西は阻絶し、存亡を知る莫く、ただ西州の人々のみが、なお固く守った。頡幹迦斯が敗れると、葛禄は勝に乗じて回紇の浮図川を取った。回紇は震恐し、西北部落の羊馬を悉く牙帳の南に遷してこれを避けた。

原文初,北庭、安西既假道於回紇以朝奏,因附庸焉。回紇征求無厭,北庭差近,凡生事之資,必強取之。又有沙陀部落六千余帳,與北庭相依,亦屬於回紇,肆行抄奪,尤所厭苦。其先葛祿部落及白服突厥素與回紇通和,亦憾其侵掠。因吐蕃厚賂見誘,遂附之。於是吐蕃率葛祿、白服之眾去冬寇北庭,回紇大相頡幹迦斯率眾援之,頻敗。吐蕃急攻之,北庭之人既苦回紇,乃舉城降焉,沙陀部落亦降。節度使、檢校工部尚書楊襲古將麾下二千余眾出奔西州,頡幹利亦還。十年秋,悉其國丁壯五萬人,召襲古,將復焉。俄為所敗,死者大半。頡幹利收合余燼,晨夜奔還。襲古余眾僅百六十,將復入西州,頡幹迦斯紿之曰:「第與我同至牙帳,當送君歸本朝。」既及牙帳,留而不遣,竟殺之。自是安西阻絕,莫知存亡,唯西州之人,猶固守焉。頡士迦斯敗,葛祿乘勝取回紇之浮圖川,回紇震恐,悉遷西北部落羊馬於牙帳之南以避之。

貞元七年五月庚申朔、鴻臚少卿庾鋌を御史大夫を兼ねさせ、冊回紇可汗及び吊祭使とした。この月、回紇は使者律支達幹らを遣わして来朝し、小寧国公主の薨去を告げた。三日間朝を廃した。故に、粛宗は寧国公主を回紇に降嫁し、また栄王の女を媵とした。寧国が帰朝すると、栄王の女が可敦となり、回紇はこれを小寧国公主と号し、英武・英義の二可汗に歴配した。天親可汗が立つと、外に出居し、英武可汗の二子を生んだが、天親可汗に殺された。間もなく薨じた。七年八月、回紇は使者を遣わし、北庭において吐蕃・葛禄を破った捷報及びその俘虜・牲畜を献じた。先に、吐蕃が霊州に入ったが、回紇に敗れ、夜に火攻めを以てし、駭いて退いた。十二月、回紇は殺支将軍を遣わして吐蕃の俘虜大首領結心を献じ、徳宗は延喜門に臨んでこれを見た。八年七月、回紇の薬羅葛霊を検校右僕射とした。霊は本は唐人で、姓は呂氏、回紇に入り、可汗の養子となったため、遂に可汗の姓を以て薬羅葛霊とし、国中で権勢を用いた。来朝に因り、寵賚甚だ厚く、なお市馬の絹七万匹を与えた。九年九月、使者を遣わして来朝貢した。

原文貞元七年五月庚申朔,以鴻臚少卿庾鋌兼御史大夫,冊回紇可汗及吊祭使。是月,回紇遣使律支達幹等來朝,告小寧國公主薨。廢朝三日,故,肅宗以寧國公主降回紇,又以榮王女媵之;及寧國來歸,榮王女為可敦,回紇號為小寧國公主,歷配英武、英義二可汗。及天親可汗立,出居於外,生英武二子,為天親可汗所殺。無幾薨。七年八月,回紇遣使獻敗吐蕃、葛祿於北庭所捷及其俘畜。先是,吐蕃入靈州,為回紇所敗,夜以火攻,駭而退。十二月,回紇遣殺支將軍獻吐蕃俘大首領結心,德宗禦延喜門觀之。八年七月,以回紇藥羅葛靈檢校右僕射。靈本唐人,姓呂氏,因入回紇,為可汗養子,遂以可汗姓為藥羅葛靈,在國用事。因來朝,寵賚甚厚,仍給市馬絹七萬匹。九年九月,遣使來朝貢。

貞元十一年六月庚寅、回紇の騰裏邏羽録没密施合禄胡毗迦懐信可汗を冊拝した。元和四年、藹徳曷裏禄没弭施合密毗迦可汗は使者を遣わして回鶻と改称した。その義は回旋軽捷なること鶻の如きを取る。八年四月、回鶻は和親を請い、使者伊難珠を帰蕃させ、三殿で宴し、銀器・繒帛を賜うた。この年、回鶻数千騎が䴙鵜泉に至り、辺軍は戒厳した。十二月二日、帰国する回鶻の摩尼八人を宴し、中書に至らせて宰臣に謁見させた。先に、回鶻が和親を請うたので、憲宗は有司に計らせた。礼費は約五百万貫、方内に誅討あり、その親を任せず、摩尼は回鶻が信奉するところであるため、宰臣に言わせてその不可を諭した。ここにおいて詔して宗正少卿李孝誠を回鶻に使わし、太常博士殷侑を副えさせ、その来請の意を諭させた。

原文貞元十一年六月庚寅,冊拜回紇騰裏邏羽錄沒密施合祿胡毗迦懷信可汗。元和四年,藹德曷裏祿沒弭施合密毗迦可汗遣使改為回鶻,義取回旋輕捷如鶻也。八年四月,回鶻請和親,使伊難珠還蕃,宴於三殿,賜以銀器繒帛。是歲,回鶻數千騎至䴙鵜泉,邊軍戒嚴。十二月二日,宴歸國回鶻摩尼八人,令至中書見宰臣。先是,回鶻請和親,憲宗使有司計之。禮費約五百萬貫,方內有誅討,未任其親,以摩尼為回鶻信奉,故使宰臣言其不可。乃詔宗正少卿李孝誠使於回鶻,太常博士殷侑副之,諭其來請之意。

長慶元年、毗迦保義可汗薨じ、三日間朝を輟め、また諸司の三品以上の官を鴻臚寺に赴かせてその使者を弔わしむ。四月、正衙にて回鶻の君長を登羅羽錄密施句主錄毗伽可汗として冊立し、少府監裴通を検校左散騎常侍・兼御史大夫とし、節を持ち冊立・兼吊祭使と為す。五月、回鶻の宰相・都督・公主・摩尼等五百七十三人が入朝して公主を迎え、鴻臚寺に安置す。勅す、「太和公主を回鶻に出降せしめて可敦と為すべし、中書舍人王起を鴻臚寺に赴かせて宣示せしむべし。左金吾衛大將軍胡證を検校戸部尚書とし、節を持ち公主を回鶻に送り及び可汗を冊立する使を充てしむ。光祿卿李憲に御史中丞を兼ねさせ、副使を充てしむ。太常博士殷侑を殿中侍御史に改め、判官を充てしむ。」吐蕃が青塞堡を犯すは、回紇と和親する故なり。鹽州刺史李文悦兵を発してこれを撃退す。回鶻奏す、「一万騎を以て北庭より出で、一万騎を以て安西より出で、吐蕃を拓きて太和公主を迎え帰国せん。」その月勅す、「太和公主を回紇に出降せしむるに、宜しく府を置くべく、その官属は親王の例に視るべし。」

原文長慶元年,毗迦保義可汗薨,輟朝三日,仍令諸司三品已上官就鴻臚寺吊其使者。四月,正衙冊回鶻君長為登羅羽錄密施句主錄毗伽可汗,以少府監裴通為檢校左散騎常侍、兼御史大夫,持節冊立、兼吊祭使。五月,回鶻宰相、都督、公主、摩尼等五百七十三人入朝迎公主,於鴻臚寺安置。敕:「太和公主出降回鶻為可敦,宜令中書舍人王起赴鴻臚寺宣示;以左金吾衛大將軍胡證檢校戶部尚書,持節充送公主入回鶻及冊可汗使;光祿卿李憲加兼御史中丞,充副使;太常博士殷侑改殿中侍御史,充判官。」吐蕃犯青塞堡,以回紇和親故也。鹽州刺史李文悅發兵擊退之。回鶻奏:「以一萬騎出北庭,一萬騎出安西,拓吐蕃以迎太和公主歸國。」其月敕:「太和公主出降回紇,宜持置府,其官屬宜視親王例。」

回紇は鹹安公主歿後のち、しばしば帰款して前の好を継がんことを請うも、久しくこれを許さず。元和の末に至り、その請い弥切にして、憲宗は北虜が王室に勲労あるを以て、また西戎が比歳辺患を為すにより、遂に妻するを許す。既に許して憲宗崩ず。穆宗即位し、年を逾えて乃ち第十妹を太和公主と封じ、将に出降せんとす。回紇の登邏骨沒密施合毗伽可汗、使伊難珠・句錄都督思結を遣わし、並びに外宰相・駙馬・梅錄司馬、兼ねて公主一人・葉護公主一人、及び達幹並びに駝馬千余を以て来り迎う。太和公主発して回紇国に赴く。穆宗通化門左個に御して臨送し、百僚をして章敬寺前に班を立たしむ。儀衛甚だ盛んにして、士女傾城観る。十一月、振武節度張惟清奏す、「詔に準いて兵三千を発して蔚州に赴かしむ。数内既に一千人を発し訖る。余二千人は、太和公主が界を出づるを待ちて即ち発遣す。」また奏す、「天徳の転牒に云う、回鶻七百六十人、駝馬及び車を将いて、相次いで黄蘆泉に至り公主を迎え候う。」豊州刺史李祐奏す、「太和公主を迎える回鶻三千、卿泉に於いて下営し吐蕃を拓く。」

原文回紇自鹹安公主歿後,屢歸款請繼前好,久未之許。至元和末,其請彌切,憲宗以北虜有勛勞於王室,又西戎比歲為邊患,遂許以妻之。既許而憲宗崩。穆宗即位,逾年乃封第十妹為太和公主,將出降,回紇登邏骨沒密施合毗伽可汗遣使伊難珠、句錄都督思結並外宰相、駙馬、梅錄司馬,兼公主一人、葉護公主一人,及達幹並駝馬千余來迎。太和公主發赴回紇國,穆宗禦通化門左個臨送,使百僚章敬寺前立班,儀衛甚盛,士女傾城觀焉。十一月,振武節度張惟清奏:「準詔發兵三千赴蔚州,數內已發一千人訖,余二千人,待太和公主出界即發遣。」又奏:「天德轉牒云:回鶻七百六十人將駝馬及車,相次至黃蘆泉迎候公主。」豐州刺史李祐奏:「迎太和公主回鶻三千於卿泉下營拓吐蕃。」

二年二月、回紇に馬価の絹五万匹を賜う。三月、また馬価の絹七万匹を賜う。是の月、裴度幽・鎮の乱を招討す。回鶻兵を以て従い度に付き討伐せんことを請う。朝議、宝応初め回紇が両京を収復し、功を恃み驕恣にして制し難きを以て、皆以て不可と為す。遂に中使を命じて回鶻を止め帰らしむ。会に其れ既に豊州北界に上るに及び、従わず。上詔して繒帛七万匹を発しこれを賜い、方に還る。五月、使を命じて登啰骨沒密施合毗伽礼可汗を冊立し、品官田務豊を遣わして国信十二車を領し回鶻に使わしめ、可汗及び太和公主に賜う。

原文二年二月,賜回紇馬價絹五萬匹。三月,又賜馬價絹七萬匹。是月,裴度招討幽、鎮之亂,回鶻請以兵從度討伐。朝議以寶應初回紇收復兩京,恃功驕恣難制,鹹以為不可,遂命中使止回紇令歸。會其已上豐州北界,不從。上詔發繒帛七萬匹賜之,方還。五月,命使冊立登啰骨沒密施合毗伽禮可汗,遣品官田務豐領國信十二車使回鶻,賜可汗及太和公主。

長慶二年閏十月、金吾大將軍胡證・副使光祿卿李憲・婚禮使衛尉卿李銳・副使宗正少卿李子鴻・判官虞部郎中張敏・太常博士殷侑、太和公主を送り回紇より至る。皆云う、初め、公主回紇の牙帳を去ること尚お信宿すべし。可汗数百騎を遣わし来たりて公主と先に他道より去らんことを請う。胡證曰く、「不可なり。」虜使曰く、「前の鹹安公主来たりし時、花門を去ること数百里にして即ち先に行けり。今何ぞ独り我を拒むや。」證曰く、「我が天子、詔して公主を送り以て可汗に投ぜしむ。今未だ可汗を見ず、豈に先に往くべけんや。」虜使乃ち止む。既に虜庭に至り、乃ち吉日を択び、公主を冊して回鶻可敦と為す。可汗先ず楼に升り東に向かって坐し、氈幄を楼下に設けて以て公主を居らしむ。群胡をして主と為し公主に胡法を教えしむ。公主始めて唐服を解きて胡服を衣、一嫗を以て侍らしめ、楼前に出で西に向かって拝す。可汗坐して視る。公主再び俯拝し訖り、復た氈幄中に入り、前の服する所を解きて可敦服を披く。裾を通したる大襦、皆茜色、金飾の冠は角の如く、前に指し後に出で楼し、可汗を俯拝すること初めの礼の如し。虜先ず大輿曲扆を設け、前に小座を設く。相者公主を引きて輿に升らしむ。回紇九姓の相分かちて其の輿を負い、日に随い右に庭に転ずること九、公主乃ち輿を降り楼に升り、可汗と俱に東に向かって坐す。此より臣下朝謁し、並びに可敦を拝す。可敦自ら牙帳有り、二相を命じて帳中に出入せしむ。證等将に帰らんとす。可敦帳中に之を宴し、留連号啼すること竟日す。可汗因り漢使に厚貺を贈る。

原文長慶二年閏十月,金吾大將軍胡證、副使光祿卿李憲、婚禮使衛尉卿李銳、副使宗正少卿李子鴻、判官虞部郎中張敏、太常博士殷侑送太和公主至自回紇,皆云:初,公主去回紇牙帳尚可信宿,可汗遣數百騎來請與公主先從他道去。胡證曰:「不可。」虜使曰:「前鹹安公主來時,去花門數百里即先去,今何獨拒我?」證曰:「我天子詔送公主以投可汗,今未見可汗,豈宜先往!」虜使乃止。既至虜庭,乃擇吉日,冊公主為回鶻可敦。可汗先升樓東向坐,設氈幄於樓下以居公主,使群胡主教公主以胡法。公主始解唐服而衣胡服,以一嫗侍,出樓前西向拜。可汗坐而視,公主再俯拜訖,復入氈幄中,解前所服而披可敦服,通裾大襦,皆茜色,金飾冠如角,前指後出樓,俯拜可汗如初禮。虜先設大輿曲扆,前設小座,相者引公主升輿,回紇九姓相分負其輿,隨日右轉於庭者九,公主乃降輿升樓,與可汗俱東向坐。自此臣下朝謁,並拜可敦。可敦自有牙帳,命二相出入帳中。證等將歸,可敦宴之帳中,留連號啼者竟日,可汗因贈漢使以厚貺。

太和元年、中使を命じて絹二十万匹を以て鴻臚寺に付し宣賜して回鶻に充て馬価と為す。三年正月、中使絹二十三万匹を以て回紇に賜い馬価に充つ。七年三月、回紇の李義節等駝馬を将いて到り、且つ可汗三月二十七日薨じ、既に親弟薩特勒を冊すと報ず。三日間朝を廃し、仍って諸司文武三品・尚書省四品以上の官を鴻臚寺に就かせて其の使者を弔わしむ。左驍衛将軍・皇城留守唐弘実を金吾将軍兼御史大夫とし、節を持ち回鶻に入り吊祭冊立使を充てしむ。九年六月、入朝の回鶻、太和公主の献ずる所の馬射女子七人、沙陀小児二人を進む。開成初め、其の相に安允合なる者有り、特勒柴草と与に薩特勒可汗を篡せんと欲す。薩特勒可汗覚り、柴草及び安允合を殺す。又回鶻の相に掘羅勿なる者有り、兵を擁して外に在り、柴草・安允合を誅せしを怨み、又薩特勒可汗を殺し、〓馺特勒を以て可汗と為す。将軍句錄末賀有りて掘羅勿を恨み、走りて黠戛斯を引きて十万騎を領し回鶻城を破り、〓馺を殺し、掘羅勿を斬り、焼蕩殆んど尽くす。回鶻散り奔りて諸蕃に赴く。回鶻の相に馺職なる者有り、甥の龐特勒及び男鹿並びに遏粉等兄弟五人・一十五部を擁して西に奔り葛邏祿に投ず。一支は吐蕃に投じ、一支は安西に投ず。又近く可汗牙の十三部有り、特勒烏介を以て可汗と為し、南来して漢に附す。

原文太和元年,命中使以絹二十萬匹付鴻臚寺宣賜回鶻充馬價。三年正月,中使以絹二十三萬匹賜回紇充馬價。七年三月,回紇李義節等將駝馬到,且報可汗三月二十七日薨,已冊親弟薩特勒。廢朝三日,仍令諸司文武三品、尚書省四品以上官就鴻臚寺吊其使者。以左驍衛將軍、皇城留守唐弘實為金吾將軍兼御史大夫,持節充入回鶻吊祭冊立使。九年六月,入朝回鶻進太和公主所獻馬射女子七人,沙陀小兒二人。開成初,其相有安允合者,與特勒柴草欲篡薩特勒可汗,薩特勒可汗覺,殺柴草及安允合。又有回鶻相掘羅勿者,擁兵在外,怨誅柴草、安允合,又殺薩特勒可汗,以〓馺特勒為可汗。有將軍句錄末賀恨掘羅勿,走引黠戛斯領十萬騎破回鶻城,殺〓馺,斬掘羅勿,燒蕩殆盡,回鶻散奔諸蕃。有回鶻相馺職者,擁外甥龐特勒及男鹿並遏粉等兄弟五人、一十五部西奔葛邏祿,一支投吐蕃,一支投安西,又有近可汗牙十三部,以特勒烏介為可汗,南來附漢。

初め、黠戛斯回鶻を破り、太和公主を得たり。黠戛斯自ら李陵の後と称し、国と姓を同じくす。遂に達幹十人をして公主を送り塞上に至らしむ。烏介途に黠戛斯の使に遇い、達幹等並びに殺さる。太和公主却って烏介可汗に帰す。乃ち公主を質とし同行し、南に大磧を渡る。天徳界に至り、天徳城を請いて太和公主と居らしむ。回鶻の相に赤心なる者有り、連位の相に姓仆固なる者と、及び特勤那頡啜と部衆を擁し、烏介に賓せず。赤心塞を犯さんと欲す。烏介其の属の霡沒斯を遣わし先ず天徳軍使田牟に誠を布き、然る後に赤心の宰相同じく烏介可汗を謁せしめ、赤心を可汗帳下に於いて戮し、並びに仆固二人を戮す。那頡戦いに勝ち、赤心の下七千帳を全く占め、東に振武・大同を瞰り、室韋・黒沙・榆林に拠り、東南に幽州雄武軍西北界に入る。幽州節度使張仲武、弟仲至を遣わし兵を率いて大いに那頡の衆を破り、七千帳を全く収め、殺戮収擒老小近く九万人。那頡箭に中り、駝群を透して潜かに脱す。烏介獲て之を殺す。

原文初,黠戛斯破回鶻,得太和公主。黠戛斯自稱李陵之後,與國同姓,遂令達幹十人送公主至塞上。烏介途遇黠戛斯使,達幹等並被殺。太和公主卻歸烏介可汗,乃質公主同行,南渡大磧。至天德界,奏請天德城與太和公主居。有回鶻相赤心者,與連位相姓仆固者,與特勤那頡啜擁部眾,不賓烏介。赤心欲犯塞,烏介遣其屬霡沒斯先布誠於天德軍使田牟,然後誘赤心宰相同謁烏介可汗,戮赤心於可汗帳下並仆固二人。那頡戰勝,全占赤心下七千帳,東瞰振武、大同,據室韋、黑沙、榆林,東南入幽州雄武軍西北界。幽州節度使張仲武遣弟仲至率兵大破那頡之眾,全收七千帳,殺戮收擒老小近九萬人。那頡中箭,透駝群潛脫,烏介獲而殺之。

烏介の諸部はなお十万の衆と称し、牙を大同軍の北閭門山に駐め、時に会昌二年の秋、頻りに東陜以北、天徳・振武・雲朔を劫略し、相次いで俘虜・殺戮に罹る。詔して諸道の兵を悉く至らしめて防禦せしめ、河東節度使劉沔を以て南面招撫回鶻使と為し、幽州節度使張仲武を以て東面招撫回鶻使と為す。

原文烏介諸部猶稱十萬眾,駐牙大同軍北閭門山,時會昌二年秋,頻劫東陜已北,天德、振武、雲朔,比罹俘戮。詔諸道兵悉至防捍,以河東節度使劉沔充南面招控回鶻使;以幽州節度使張仲武充東面招控回鶻使。

二年の冬、三年の春、回鶻の特勒龐俱遮・阿敦寧の二部、回鶻公主密羯可敦の一部、外相諸洛固阿跌の一部、及び牙帳の大将曹磨你等七部、合わせて三万の衆、相次いで幽州に降り、詔して諸道に配す。特勒霡没斯・阿歴支・習勿啜の三部有り、回鶻の相愛耶勿弘順・回鶻尚書呂衡等の諸部は振武に降る。三部の首領は皆李氏の姓を賜わり、名を思忠・思貞・思恵・思恩と為し、帰義使を充てる。特勒葉被沽兄李の二部有りて南に奔り吐蕃に至り、特勒可質力の二部有りて東北に奔り大室韋に至り、特勒荷勿啜有りて東に契丹を討ち、戦死す。

原文二年冬,三年春,回鶻特勒龐俱遮、阿敦寧二部,回鶻公主密羯可敦一部,外相諸洛固阿跌一部,及牙帳大將曹磨你等七部,共三萬眾,相次降於幽州,詔配諸道。有特勒霡沒斯、阿歷支、習勿啜三部,回鶻相愛耶勿弘順、回鶻尚書呂衡等諸部降振武,三部首領皆賜姓李氏,及名思忠、思貞、思惠、思恩,充歸義使。有特勒葉被沽兄李二部南奔吐蕃,有特勒可質力二部東北奔大室韋,有特勒荷勿啜東討契丹,戰死。

会昌三年、回鶻尚書仆固繹幽州に到り、太和公主を以て幽州に帰するを約す。烏介幽州の界を去ること八十里に下営す。其の親信骨肉及び摩尼誌浄等四人は已に先んじて振武軍に入る。是の夜、河東の劉沔兵を率いて奄に烏介の営に至る。烏介驚き走り東北約四百里外に至り、和解室韋に依りて下営し、太和公主を将いて同じく走るに及ばず。豊州刺史石雄の兵太和公主の帳に遇い、因りて迎えて国に帰す。烏介の部衆大中元年に至り幽州に詣でて降り、留まる者は漂流餓凍し、衆十万、存する者は三千以下に止まる。烏介妹を室韋に嫁し、之に托附す。回鶻の相美権者逸隠啜の回鶻を逼りて烏介を金山に殺すに為り、其の弟の特勒遏撚を以て可汗と為し、復た衆五千以上有り、其の食用糧羊は皆奚王碩舍朗に取り給す。

原文會昌三年,回鶻尚書仆固繹到幽州,約以太和公主歸幽州,烏介去幽州界八十里下營。其親信骨肉及摩尼誌凈等四人已先入振武軍。是夜,河東劉沔率兵奄至烏介營,烏介驚走東北約四百里外,依和解室韋下營,不及將太和公主同走。豐州刺史石雄兵遇太和公主帳,因迎歸國。烏介部眾至大中元年詣幽州降,留者漂流餓凍,眾十萬,所存止三千已下。烏介嫁妹與室韋,托附之。為回鶻相美權者逸隱啜逼諸回鶻殺烏介於金山,以其弟特勒遏撚為可汗,復有眾五千以上,其食用糧羊皆取給於奚王碩舍朗。

大中元年春、張仲武大いに奚の衆を破る。其の回鶻取るに給する所無く、日に耗散有り。二年の春に至り、唯だ名王貴臣五百人以下存し、室韋に依る。張仲武賀正の室韋幽州を経過するに因り、仲武却って還蕃せしめ、遏撚等を遣送して幽州に向かわしむ。遏撚等懼れ、是の夜妻葛祿・子の特勒毒斯等九騎とともに西走し、余衆之に奔るも及ばず。回鶻の諸相達官老幼大いに哭す。室韋回鶻の余衆を分かちて七分と為し、七姓の室韋各一分を占む。三宿を経て、黠戛斯の相阿播諸蕃の兵を領し七万と称し、西南天徳の北界より来たりて遏撚及び諸回鶻を取り、大いに室韋を敗る。室韋に在る回鶻は、阿播皆磧北に収め帰す。外に猶数帳在り、諸山の深林に散蔵し、諸蕃を盗劫し、皆西に向かい心を傾けて安西の龐勒の到るを望む。龐勒已に自ら可汗と称し、磧西の諸城有り。其の後嗣君弱く臣強く、甘州に居り、復た昔時の盛んなること無し。今時に至り使を遣わし朝に入り、玉馬二物及び本土の産する所を進め、交易して返る。

原文大中元年春,張仲武大破奚眾,其回鶻無所取給,日有耗散。至二年春,唯存名王貴臣五百人已下,依室韋。張鐘武因賀正室韋經過幽州,仲武卻令還蕃,遣送遏撚等來向幽州,遏撚等懼,是夜與妻葛祿、子特勒毒斯等九騎西走,余眾奔之不及,回鶻諸相達官老幼大哭。室韋分回鶻余眾為七分,七姓室韋各占一分。經三宿,黠戛斯相阿播領諸蕃兵稱七萬,從西南天德北界來取遏撚及諸回鶻,大敗室韋。回鶻在室韋者,阿播皆收歸磧北。在外猶數帳,散藏諸山深林,盜劫諸蕃,皆西向傾心望安西龐勒之到。龐勒已自稱可汗,有磧西諸城。其後嗣君弱臣強,居甘州,無復昔時之盛。到今時遣使入朝,進玉馬二物及本土所產,交易而返。

史臣曰く、三代以前、両漢以後、西羌・北狄、互いに部族を興し、其の名異なるも、患いを為すは一なり。蔡邕云う、「辺陲の患いは手足の疥の如く、中国の困は胸背の疽の如し。突厥煬帝の患い深し、隋竟に滅ぶ。中国の困、其の理昭然たり。」太宗突厥を平げ、延陀を破りて、而して回紇興る。太宗霊武に幸いて以て之を降し、州府を置きて以て之を安んじ、名爵玉帛を以て以て之を恩す。其の義何ぞや。蓋し狄は尽くすべからず、而して威恵を以て之を羈縻するなり。開元中、三綱正しく、百姓足り、四夷八蛮、翕然として化に向い、要荒の外、威を畏れ恵を懐き、其れ盛んならずや。天宝末、奸臣内に権を弄び、逆臣外に跋扈し、内外釁を結びて車駕遽かに遷り、華夷心を生じて神器将に墜んとす。粛宗回紇を誘いて以て京畿を復す。代宗回紇を誘いて以て河朔を平ぐ。難を戡ぎ中興の功、大なるは即ち大なり。然れども生霊の膏血已に乾き、能く其の求取に供せず。朝廷の法令並びに弛み、以て其の憑陵を抑うる無し。恥を忍びて和親し、姑息暇あらず。仆固懐恩叛を為し、尤も阽危に甚だし。郭子儀の能く軍するも、終に侵軼を免る。昔の諸戎に比し、国に於ける功最も大なり、民に為す害亦深し。勢利日に隆く及び、盛衰時に変じ、氷消瓦解し、存するが若く亡ぶが若く、竟に手足の疥と為る。僖・昭の世、黄・硃迭りに興り、竟に胸背の疽と為る。手の疥背の疽、誠に確論たり。

原文史臣曰:自三代以前,兩漢之後,西羌、北狄,互興部族,其名不同,為患一也。蔡邕云:「邊陲之患,為手足之疥;中國之困,為胸背之疽。突厥為煬帝之患深矣,隋竟滅;中國之困,其理昭然。」自太宗平突厥,破延陀,而回紇興焉。太宗幸靈武以降之,置州府以安之,以名爵玉帛以恩之。其義何哉?蓋以狄不可盡,而以威惠羈縻之。開元中,三綱正,百姓足,四夷八蠻,翕然向化,要荒之外,畏威懷惠,不其盛矣!天寶末,奸臣弄權於內,逆臣跋扈於外,內外結釁而車駕遽遷,華夷生心而神器將墜。肅宗誘回紇以復京畿。代宗誘回紇以平河朔。戡難中興之功,大即大矣!然生靈之膏血已幹,不能供其求取;朝廷之法令並弛,無以抑其憑陵。忍恥和親,姑息不暇。仆固懷恩為叛,尤甚阽危;郭子儀之能軍,終免侵軼。比昔諸戎,於國之功最大,為民之害亦深。及勢利日隆,盛衰時變,冰消瓦解,如存若亡,竟為手足之疥焉。僖、昭之世,黃、硃叠興,竟為胸背之疽焉。手疥背疽,誠為確論。

賛に曰く、土徳初めに隆く、比屋封すべし。朝綱中に否み、辺鄙戎を興す。安・史国を乱し、回紇功に恃む。功に恃むこと伊何ぞ、皆姑息を議す。民聊生する無く、国其の力を殫す。華夷截然たり、盛衰織るが如し。彼既に悪を長ず、我乃ち徳を修む。疽疥の義、百代則とすべし。

原文贊曰:土德初隆,比屋可封。朝綱中否,邊鄙興戎。安、史亂國,回紇恃功。恃功伊何?咸議姑息。民不聊生,國殫其力。華夷有截,盛衰如織。彼既長惡,我乃修德,疽疥之義,百代可則。