舊唐書

巻194下

巻194下

舊唐書

原文舊唐書

卷一百九十四下

原文卷一百九十四下

列傳第一百四十四下 突厥下

原文列傳第一百四十四下 突厥下

西突厥は本来北突厥と同祖である。初め、木桿可汗と沙鉢略可汗との間に不和があり、それによって二つに分かれた。その国は即ち烏孫の故地であり、東は突厥国に至り、西は雷翥海に至り、南は疏勒に至り、北は瀚海に至る。長安ちょうあんの北七千里にある。焉耆国より西北へ七日の行程でその南庭に至り、また真北へ八日の行程でその北庭に至る。鉄勒・亀茲及び西域の諸胡国は皆これに帰附した。その人々は都陸及び弩失畢・歌邏禄・処月・処密・伊吾等の諸種族が雑居している。風俗は大体突厥と同じであるが、ただ言語が少し異なる。その官には葉護があり、特勒があり、常に可汗の子弟及び宗族がこれに任じられる。また乙斤・屈利啜・閻洪達・頡利発・吐屯・俟斤等の官があり、皆代々その位を世襲する。

原文西突厥本與北突厥同祖。初,木桿與沙缽略可汗有隙,因分為二。其國即烏孫之故地,東至突厥國,西至雷翥海,南至疏勒,北至瀚海,在長安北七千里。自焉耆國西北七日行,至其南庭;又正北八日行,至其北庭。鐵勒、龜茲及西域諸胡國,皆歸附之。其人雜有都陸及弩失畢、歌邏祿、處月、處密,伊吾等諸種。風俗大抵與突厥同,唯言語微差。其官有葉護,有特勒,常以可汗子弟及宗族為之;又有乙斤、屈利啜、閻洪達、頡利發、吐屯、俟斤等官,皆代襲其位。

処羅可汗は、隋の煬帝大業年間にその弟の闕達設及び特勒の大奈と共に入朝した。引き続き煬帝に従って高麗を征し、号を曷薩那可汗と賜った。江都の乱に遭遇し、宇文化及に従って河北に至った。化及が敗れると、長安に帰り、高祖こうそは彼のために座を降ろし、引き寄せて同座させ、帰義郡王に封じた。高祖に大珠を献上した。高祖は彼を労って言った、「珠は確かに宝ではあるが、朕が重んじるのは赤心である。珠は用いるところがない」と。ついにそれを受け取らなかった。以前より始畢可汗と不和があり、京師にいた時、始畢が使者を遣わして彼を殺すよう請うたが、高祖は許さなかった。群臣が諫めて言った、「今もしこれに応じなければ、一人を生かして一国を失うことになり、後必ず禍いとなろう」と。太宗は言った、「人が困窮して我に帰ってきたのに、殺すのは不義である」と。高祖に繰り返し諫めたため、これによって長らく躊躇した。やむを得ず、曷薩那を内殿に引き入れ、彼と酒を酌み交わし、やがて中書省に送り届け、北突厥の使者に殺させた。太宗が即位すると、礼をもって改葬するよう命じた。

原文處羅可汗,隋煬帝大業中與其弟闕達設及特勒大奈入朝。仍從煬帝征高麗,賜號為曷薩那可汗。遇江都之亂,從宇文化及至河北。化及敗,歸長安,高祖為之降榻,引與同坐,封歸義郡王。獻大珠於高祖。高祖勞之曰:「珠信為寶,朕所重者赤心,珠無所用。」竟不受之。先與始畢有隙,及在京師,始畢遣使請殺之,高祖不許。群臣諫曰:「今若不與,則是存一人而失一國也,後必為患。」太宗曰:「人窮來歸我,殺之不義。」驟諫於高祖,由是遲回者久之。不得已,乃引曷薩那於內殿,與之縱酒,既而送至中書省,縱北突厥使殺之。太宗即位,令以禮改葬。

闕達設は初め会寧に居住し、三千余騎の部落を有していた。隋末に至り、自ら闕達可汗と称した。武徳初年、使者を遣わして内属し、吐烏過拔闕可汗に拝され、手厚く慰撫された。まもなく李軌に滅ぼされた。

原文闕達設初居於會寧,有部落三千余騎。至隋末,自稱闕達可汗。武德初,遣使內屬,拜吐烏過拔闕可汗,厚加撫慰。尋為李軌所滅。

特勒の大奈は、隋の大業年間に曷薩那可汗と共に中国に帰った。煬帝に従って遼東を討った時、功により金紫光禄大夫を授けられた。後にその部落を楼煩に分置した。高祖が挙兵すると、大奈はその衆を率いて従った。隋の将軍桑顕和が飲馬泉で義軍を襲撃した時、諸軍は多く既に敗走退却していたが、大奈は数百騎を率いて顕和の背後に出て、その不意を衝き、撃って大破し、諸軍は再び奮い立った。光禄大夫に拝された。京城平定の時、力戦の功により、賞賜品五千段を賜り、史の姓を賜った。武徳初年、太宗に従って薛挙を破った。また王世充平定に従い、竇建徳・劉黒闥を破り、いずれも殊勲があった。宮女三人、雑彩一万余段を賜った。貞観三年、累進して右武衛大将軍・検校豊州都督ととくとなり、竇国公に封ぜられ、実封三百戸を与えられた。十二年、卒去し、輔国大将軍を追贈された。初め、曷薩那が隋に朝した時、煬帝に拘束され、その国人は遂に薩那の叔父を立てた。これを射匱可汗という。

原文特勒大奈,隋大業中與曷薩那可汗同歸中國。及從煬帝討遼東,以功授金紫光祿大夫。後分其部落於樓煩。會高祖舉兵,大奈率其眾以從。隋將桑顯和襲義軍於飲馬泉,諸軍多已奔退,大奈將數百騎出顯和後,掩其不備,擊,大破之,諸軍復振。拜光祿大夫。及平京城,以力戰功,賞物五千段,賜姓史氏。武德初,從太宗破薛舉。又從平王世充,破竇建德、劉黑闥,並有殊功。賜宮女三人,雜彩萬余段。貞觀三年,累遷右武衛大將軍、檢校豐州都督,封竇國公,實封三百戶。十二年卒,贈輔國大將軍。初,曷薩那之朝隋也,為煬帝所拘,其國人遂立薩那之叔父,曰射匱可汗。

射匱可汗は、達頭可汗の孫である。即位した後、初めて領土を拡大し、東は金山に至り、西は海に至り、玉門より西の諸国は皆これに服属した。遂に北突厥と敵対し、亀茲の北の三弥山に庭を建てた。まもなく卒去した。弟の統葉護可汗が代わって立った。

原文射匱可汗者,達頭可汗之孫也。既立後,始開土宇,東至金山,西至海,自玉門已西諸國皆役屬之。遂與北突厥為敵,乃建庭於龜茲北三彌山,尋卒。弟統葉護可汗代立。

統葉護可汗は、勇猛で謀略があり、攻戦に長けていた。遂に北は鉄勒を併合し、西は波斯を拒み、南は罽賓に接し、皆これを帰服させた。数十万の兵を統率し、西域を覇有し、旧烏孫の地を占拠した。また庭を石国の北の千泉に移した。その西域諸国の王には悉く頡利発を授け、併せて吐屯一人を遣わしてこれを監統させ、その徴賦を監督させた。西戎の盛んなこと、これまでになかった。

原文統葉護可汗,勇而有謀,善攻戰。遂北並鐵勒,西拒波斯,南接罽賓,悉歸之。控弦數十萬,霸有西域,據舊烏孫之地。又移庭於石國北之千泉。其西域諸國王悉授頡利發,並遣吐屯一人監統之,督其征賦。西戎之盛,未之有也。

武徳三年、使者を遣わして条支の巨卵を貢いだ。当時北突厥が患いをなしていたため、高祖は手厚く慰撫して結びつけ、これと力を合わせて北蕃を図ろうとした。統葉護は五年の冬を期すことを承諾した。大軍が発そうとした時、頡利可汗がこれを聞き、大いに恐れ、再び統葉護と通和し、互いに征伐しないこととした。統葉護はまもなく使者を遣わして婚姻を請うた。高祖は侍臣に言った、「西突厥は我が国から遠く懸隔しており、緊急の時には力を合わせることができない。今婚姻を請うているが、その計略はどこにあるのか」と。封徳彜が答えて言った、「当今の急務は、遠くに交わり近くを攻めるに如くはない。正にその婚姻を一時的に許し、以て北狄を威圧すべきです。数年待って、中国が盛大で完全になった後、ゆっくりとその適宜を考えるべきです」と。高祖は遂にその婚姻を許し、高平王の道立をその国に至らせた。統葉護は大いに喜んだ。頡利可汗が頻繁に侵入寇掠したため、西蕃への道が阻害され、これによって婚姻は実現しなかった。

原文武德三年,遣使貢條支巨卵。時北突厥作患,高祖厚加撫結,與之並力以圖北蕃,統葉護許以五年冬。大軍將發,頡利可汗聞之,大懼,復與統葉護通和,無相征伐。統葉護尋遣使來請婚。高祖謂侍臣曰:「西突厥去我懸遠,急疾不相得力,今請婚,其計安在?」封德彜對曰:「當今之務,莫若遠交而近攻,正可權許其婚,以威北狄。待之數年後,中國盛全,徐思其宜。」高祖遂許之婚,令高平王道立至其國,統葉護大悅。遇頡利可汗頻歲入寇,西蕃路梗,由是未果為婚。

貞観元年、真珠統俟斤を遣わし高平王の道立と共に来朝し、万釘宝鈿金帯、馬五千匹を献上した。当時統葉護は自ら強盛を恃み、国に恩恵を施さず、部衆は皆怨み、歌邏禄種は多くこれに叛いた。頡利可汗は中国がこれと和親するのを快く思わず、しばしば兵を遣わして侵入寇掠し、また人を遣わして統葉護に言った、「もし唐家の公主を迎えるならば、必ず我が国中を経由して通らねばならない」と。統葉護はこれを憂い、婚姻を果たせなかった。その伯父に殺されて自ら立ち、これを莫賀咄侯屈利俟毗可汗という。太宗は統葉護の死を聞き、甚だこれを悼み、使者に玉帛を持たせてその死所に至らせ、祭って焼かせた。その国が乱れていたため、果たして至らずに止んだ。

原文貞觀元年,遣真珠統俟斤與高平王道立來獻萬釘寶鈿金帶,馬五千匹。時統葉護自負強盛,無恩於國,部眾鹹怨,歌邏祿種多叛之。頡利可汗不悅中國與之和親,數遣兵入寇,又遣人謂統葉護曰:「汝若迎唐家公主,要須經我國中而過。」統葉護患之,未克婚。為其伯父所殺而自立,是為莫賀咄侯屈利俟毗可汗。太宗聞統葉護之死,甚悼之,遣賫玉帛至其死所祭而焚之。會其國亂,不果至而止。

莫賀咄侯屈利俟毗可汗は、先に突厥の種族を分統して小可汗となっていたが、ここに至って自ら大可汗と称した。国人は従わなかった。弩失畢部は共に泥孰莫賀設を推戴して可汗としたが、泥孰は従わなかった。当時統葉護の子の咥力特勒が莫賀咄の難を避け、康居に亡命していた。泥孰は遂にこれを迎えて立てた。これを乙毗缽羅肆葉護可汗という。連年兵争が止まず、共に使者を遣わして来朝し、それぞれ我が国に婚姻を請うた。太宗はこれに答えて言った、「汝の国は擾乱し、君臣未だ定まらず、戦争止まず、どうして婚姻を言えようか」と。ついに許さなかった。引き続き諭してそれぞれその部を保ち、互いに征伐しないよう命じた。その西域諸国及び鉄勒で先に西突厥に服属していた者は、皆これに叛き、国内は空虚で消耗した。

原文莫賀咄侯屈利俟毗可汗,先分統突厥種類為小可汗,及此自稱大可汗,國人不附。弩失畢部共推泥孰莫賀設為可汗,泥孰不從。時統葉護之子咥力特勒避莫賀咄之難,亡在康居,泥孰遂迎而立之,是為乙毗缽羅肆葉護可汗。連兵不息,俱遣使來朝,各請婚於我。太宗答之曰:「汝國擾亂,君臣未定,戰爭不息,何得言婚!」竟不許。仍諷令各保所部,無相征伐。其西域諸國及鐵勒先役屬於西突厥者,悉叛之,國內虛耗。

肆葉護は既に旧主の子であり、衆心の帰するところであったため、その西面の都陸可汗及び莫賀咄可汗部の豪帥が多く来てこれに附いた。また兵を興して莫賀咄を撃ち、これを大破した。莫賀咄は金山に逃れたが、まもなく咄陸可汗に害された。国人は乃ち肆葉護を奉って大可汗とした。肆葉護可汗が立つと、大いに兵を発して北征し鉄勒を討ったが、薛延陀が逆撃し、かえって敗北した。肆葉護は猜疑心が強く残忍で讒言を信じ、統御の才略がなかった。乙利可汗という者がおり、肆葉護に対して功績が最も多かったが、これによって小可汗に任じられ、罪のないのに一族を滅ぼされた。群下は震え恐れ、自ら安んじることができなかった。肆葉護は元より泥孰を恐れており、密かにこれを除こうと図ったため、泥孰は遂に焉耆に赴いた。その後、没卑達幹と突厥の弩失畢二部の豪帥が密かに謀ってこれを撃とうとした。肆葉護は軽騎で康居に逃れたが、まもなく卒去した。国人は泥孰を焉耆から迎えて立てた。これを咄陸可汗という。

原文肆葉護既是舊主之子,為眾心所歸,其西面都陸可汗及莫賀咄可汗部豪帥,多來附之。又興兵以擊莫賀咄,大敗之。莫賀咄遁於金山,尋為咄陸可汗所害,國人乃奉肆葉護為大可汗。肆葉護可汗立,大發兵北征鐵勒,薛延陀逆擊之,反為所敗。肆葉護性猜狠信讒,無統馭之略。有乙利可汗者,於肆葉護功最多,由是授小可汗,以非罪族滅之。群下震駭,莫能自固。肆葉護素憚泥孰,而陰欲圖之,泥孰遂適焉耆。其後沒卑達幹與突厥弩失畢二部豪帥潛謀擊之,肆葉護以輕騎遁於康居,尋卒。國人迎泥孰於焉耆而立之,是為咄陸可汗。

咄陸可汗泥孰は、また大渡可汗とも称される。父は莫賀設で、もと統葉護に隷属していた。武徳年間、かつて京師に至った。時に太宗は藩王の身分にあり、懐柔に努め、彼と盟を結んで兄弟となった。推戴されて可汗となると、使者を遣わして朝廷に降伏を請うた。太宗は使者を遣わして名号と鼓纛を賜った。貞観七年、鴻臚少卿劉善因をその国に遣わし、冊授して吞阿婁拔奚利邲咄陸可汗とした。翌年、泥孰が卒去し、その弟の同娥設が立ち、これが沙鉢羅咥利失可汗である。

原文咄陸可汗泥孰者,亦稱大渡可汗。父莫賀設,本隸統葉護。武德中,嘗至京師。時太宗居籓,務加懷輯,與之結盟為兄弟。既被推為可汗,遣使詣闕請降。太宗遣使賜以名號及鼓纛。貞觀七年,遣鴻臚少卿劉善因至其國,冊授為吞阿婁拔奚利邲咄陸可汗。明年,泥孰卒,其弟同娥設立,是為沙缽羅咥利失可汗。

沙鉢羅咥利失可汗は、貞観九年に上表して婚姻を請い、馬五百匹を献じた。朝廷はただ厚く慰撫を加えただけで、その婚姻は許さなかった。やがてその国は十部に分かれ、各部に一人ずつ統率者を置き、十設と号した。各設には一箭を賜ったので、十箭と称したのである。また十箭を左右の廂に分け、一廂ごとにそれぞれ五箭を置いた。左廂は五咄六部落と号し、五大啜を置き、一啜が一箭を管轄した。右廂は五弩失畢と号し、五大俟斤を置き、一俟斤が一箭を管轄し、総称して十箭と号した。その後、一箭を一部落、大箭頭を大首領と称することもあった。五咄六部落は碎葉以東に居住し、五弩失畢部落は碎葉以西に居住し、ここより皆十姓部落と号した。

原文沙缽羅咥利失可汗,以貞觀九年上表請婚,獻馬五百疋。朝廷唯厚加撫慰,未許其婚。俄而其國分為十部,每部令一人統之,號為十設。每設賜以一箭,故稱十箭焉。又分十箭為左右廂,一廂各置五箭。其左廂號五咄六部落,置五大啜,一啜管一箭;其右廂號為五弩失畢,置五大俟斤,一俟斤管一箭,都號為十箭。其後或稱一箭為一部落,大箭頭為大首領。五咄六部落居於碎葉已東,五弩失畢部落居於碎葉已西,自是都號為十姓部落。

咥利失はもはや衆望を集めず、部衆は離反し、その統吐屯に襲撃され、麾下は逃亡散逸した。咥利失は左右百余騎をもってこれを防ぎ、数度戦って統吐屯は不利となり退いた。咥利失はその弟の歩利設のもとに奔り、焉耆を保った。その阿悉吉闕俟斤と統吐屯らが国人を召集し、欲谷設を大可汗に立てようとした。咥利失を小可汗とした。統吐屯は人に殺され、欲谷設の兵もまたその俟斤に撃破され、咥利失は旧地を回復し、弩失畢、処密などはともに咥利失に帰した。

原文咥利失既不為眾所歸,部眾攜貳,為其統吐屯所襲,麾下亡散。咥利失以左右百余騎拒之,戰數合,統吐屯不利而去。咥利失奔其弟步利設,與保焉耆。其阿悉吉闕俟斤與統吐屯等召國人,將立欲谷設為大可汗。以咥利失為小可汗。統吐屯為人所殺,欲谷設兵又為其俟斤所破,咥利失復得舊地,弩失畢、處密等並歸咥利失。

十二年、西部はついに欲谷設を立てて乙毗咄陸可汗とした。乙毗咄陸可汗が立つと、咥利失と大戦し、両軍多く死傷し、それぞれ引き去った。そこで咥利失と中分し、伊列河以西を咄陸に属し、以東を咥利失に属させた。咄陸可汗はまた鏃曷山の西に庭を建て、北庭と称した。厥越失、拔悉彌、駁馬、結骨、火燅、觸水昆諸国は皆これに臣従した。

原文十二年,西部竟立欲谷設為乙毗咄陸可汗。乙毗咄陸可汗既立,與咥利失大戰,兩軍多死,各引去。因與咥利失中分,自伊列河已西屬咄陸,已東屬咥利失。咄陸可汗又建庭於鏃曷山西,謂為北庭。自厥越失、拔悉彌、駁馬、結骨、火燅、觸水昆諸國皆臣之。

十三年、咥利失はその吐屯俟利発が欲谷設と通謀して乱を起こしたため、窮迫し、拔汗那に奔って死んだ。弩失畢部落の酋帥は咥利失の弟伽那の子である薄布特勒を迎えて立てた。これが乙毗沙鉢羅葉護可汗である。

原文十三年,咥利失為其吐屯俟利發與欲谷設通謀作難,咥利失窮蹙,奔拔汗那而死。弩失畢部落酋帥迎咥利失弟伽那之子薄布特勒而立之,是為乙毗沙缽羅葉護可汗。

乙毗沙鉢羅葉護可汗が立つと、睢合水の北に庭を建て、これを南庭と称した。東は伊列河を境界とし、龜茲、鄯善、且末、吐火羅、焉耆、石国、史国、何国、穆国、康国より、皆その節度を受けた。累次使者を遣わして朝貢し、太宗は璽書を降して慰勉した。

原文乙毗沙缽羅葉護可汗既立,建庭於睢合水北,謂之南庭。東以伊列河為界,自龜茲、鄯善,且末、吐火羅、焉耆、石國、史國、何國、穆國、康國,皆受其節度。累遣使朝貢,太宗降璽書慰勉。

貞観十五年、左領軍將軍張大師を遣わしてこれを授け、鼓纛を賜った。この時、咄陸可汗と葉護はしばしば相攻撃した。ちょうど咄陸が使者を朝廷に遣わしたので、太宗は和睦の道を諭した。咄陸はこの時兵衆が次第に強盛となり、西域諸国がまた帰附してきた。間もなく、咄陸は石国の吐屯を遣わして葉護を攻め、これを捕らえ、咄陸のもとに送り、やがて殺害された。

原文貞觀十五年,令左領軍將軍張大師往授焉,賜以鼓纛。於時咄陸可汗與葉護頗相攻擊。會咄陸遣使詣闕,太宗諭以敦睦之道。咄陸於時兵眾漸強,西域諸國復來歸附。未幾,咄陸遣石國吐屯攻葉護,擒之,送於咄陸,尋為所殺。

咄陸可汗はその国を併せると、弩失畢諸姓は心服せず、皆これに叛いた。咄陸はまた兵を率いて吐火羅を撃ち、これを破った。その強さを恃み、西域を専断した。兵を遣わして伊州を寇し、安西都護郭恪が軽騎二千を率いて烏骨より邀撃し、これを敗った。咄陸はまた処月、処密などを遣わして天山県を包囲したが、郭恪はまたこれを撃退した。郭恪は勝ちに乗じて進み、処月俟斤の居城を陥落させ、追撃して遏索山に及び、千余級を斬首し、その処密の衆を降して帰還した。咄陸は初め泥孰啜が自ら専断して部の物を取ったことを理由に、これを斬って衆に示した。やがて泥孰啜の部将胡祿居に襲撃され、衆多く逃亡し、その国は大乱した。

原文咄陸可汗既並其國,弩失畢諸姓心不服咄陸,皆叛之。咄陸復率兵擊吐火羅,破之。自恃其強,專擅西域。遣兵寇伊州,安西都護郭恪率輕騎二千自烏骨邀擊,敗之。咄陸又遣處月、處密等圍天山縣,郭恪又擊走之。恪乘勝進拔處月俟斤所居之城,追奔及於遏索山,斬首千余級,降其處密之眾而歸。咄陸初以泥孰啜自擅取所部物,斬之以徇;尋為泥孰啜部將胡祿居所襲,眾多亡逸,其國大亂。

貞観十五年、部下の屋利啜らが咄陸を廃そうと謀り、それぞれ使者を朝廷に遣わし、可汗を立てることを請うた。太宗は使者を遣わし璽書を齎して莫賀咄乙毗可汗の子を立てた。これが乙毗射匱可汗である。

原文貞觀十五年,部下屋利啜等謀欲廢咄陸,各遣使詣闕,請立可汗。太宗遣使賫璽書立莫賀咄乙毗可汗之子,是為乙毗射匱可汗。

乙毗射匱可汗が立つと、弩失畢の兵を発して白水に就き咄陸を撃った。咄陸は自ら衆に附されざるを知り、西に走って吐火羅国に入った。中国の使者で先に咄陸に拘禁されていた者を、射匱は悉く礼を尽くして資送し長安に帰し、また使者を遣わして方物を貢ぎ、婚姻を請うた。太宗はこれを許し、詔して龜茲、於闐、疏勒、硃俱波、蔥嶺などの五国を割いて聘礼とせよと命じた。太宗が崩ずると、賀魯が反叛し、射匱の部落はこれに併合された。

原文乙毗射匱可汗立,乃發弩失畢兵就白水擊咄陸。自知不為眾所附,乃西走吐火羅國。中國使人先為咄陸所拘者,射匱悉以禮資送歸長安,復遣使貢方物,請賜婚。太宗許之,詔令割龜茲、於闐、疏勒、硃俱波、蔥嶺等五國為聘禮。及太宗崩,賀魯反叛,射匱部落為其所並。

阿史那賀魯は、曳歩利設射匱特勒の子である。初め、阿史那歩真が帰国した後、咄陸可汗は賀魯を立てて葉護とし、歩真の後を継がせた。多邏斯川に居住し、西州の真北一千五百里にあり、処密、処月、姑蘇、歌羅祿、弩失畢の五姓の衆を統率した。その後、咄陸が西走して吐火羅国に入ると、射匱可汗が兵を遣わして追撃したため、賀魯は定住せず、貞観二十二年、ついにその部落を率いて内属し、詔により廷州に居住した。間もなく左驍ぎょう衛將軍、瑤池都督に任じられた。高宗が即位すると、左驍衛大將軍に進み、瑤池都督はもとのままとした。

原文阿史那賀魯者,曳步利設射匱特勒之子也。初,阿史那步真既來歸國,咄陸可汗乃立賀魯為葉護,以繼步真。居於多邏斯川,在西州直北一千五百里,統處密、處月、姑蘇、歌羅祿、弩失畢五姓之眾。其後,咄陸西走吐火羅國,射匱可汗遣兵迫逐,賀魯不常厥居。貞觀二十二年,乃率其部落內屬,詔居廷州。尋授左驍衛將軍、瑤池都督。高宗即位,進拜左驍衛大將軍,瑤池都督如故。

永徽二年、その子咥運とともに衆を率いて西遁し、咄陸可汗の旧地を占拠し、西域諸郡を総有し、牙を雙河及び千泉に建て、自ら沙鉢羅可汗と号し、咄陸、弩失畢の十姓を統轄した。その咄陸には五啜がある。第一は処木昆律啜、第二は胡祿居闕啜(賀魯は娘を娶わせた)、第三は攝舍提暾啜、第四は突騎施賀邏施啜、第五は鼠尼施処半啜である。弩失畢には五俟斤がある。第一は阿悉結闕俟斤(最も強盛)、第二は哥舒闕俟斤、第三は拔塞幹暾沙鉢俟斤、第四は阿悉結泥孰俟斤、第五は哥舒処半俟斤である。それぞれ部を有し、勝兵数十万、ともに賀魯に羈属した。西域諸国も多く附隷した。

原文永徽二年,與其子咥運率眾西遁,據咄陸可汗之地,總有西域諸郡,建牙於雙河及千泉,自號沙缽羅可汗,統攝咄陸、弩失畢十姓。其咄陸有五啜:一曰處木昆律啜;二曰胡祿居闕啜,賀魯以女妻之;三曰攝舍提暾啜;四曰突騎施賀邏施啜;五曰鼠尼施處半啜。弩失畢有五俟斤:一曰阿悉結闕俟斤,最為強盛;二曰哥舒闕俟斤;三曰拔塞幹暾沙缽俟斤,四曰阿悉結泥孰俟斤;五曰哥舒處半俟斤。各有所部,勝兵數十萬,並羈屬賀魯。西域諸國,亦多附隸焉。

賀魯は間もなく咥運を立てて莫賀咄葉護とし、しばしば西蕃諸部を侵擾し、また進んで廷州を寇した。三年、詔して左武候大將軍梁建方、右驍衛大將軍契苾何力を遣わし、燕然都護の所部である回紇兵五万騎を率いて討伐させ、前後五千級を斬首し、渠帥六十余人を虜にした。四年、咄陸可汗が死に、その子真珠護と五弩失畢が賀魯を撃つことを請い、その牙帳を破り、千余級を斬首した。

原文賀魯尋立咥運為莫賀咄葉護,數侵擾西蕃諸部,又進寇廷州。三年,詔遣左武候大將軍梁建方、右驍衛大將軍契苾何力率燕然都護所部回紇兵五萬騎討之,前後斬首五千級,虜渠帥六十余人。四年,咄陸可汗死,其子真珠護與五弩失畢請擊賀魯,破其牙帳,斬首千余級。

顕慶二年、右屯衛将軍蘇定方、燕然都護任雅相、副都護蕭嗣業、左驍衛大将軍・瀚海都督回紇婆閏等を遣わして師を率い討撃せしめ、また右武衛大将軍阿史那彌射・左屯衛大将軍阿史那歩真を安撫大使と為す。定方は行きて曳咥河西に至る。賀魯は胡禄居闕啜等を率い二万余騎を以て陣を列ねて待つ。定方は副総管任雅相等を率いて之と交戦し、賊衆大いに敗れ、大首領都搭達幹等二百余人を斬る。賀魯及び闕啜は軽騎にて奔竄し、伊麗河を渡る。兵馬溺死する者甚だ衆し。嗣業は千泉賀魯の牙を下すの処に至り、彌射は進軍して伊麗水に至る。処月・処密等の部各々衆を率いて来降す。彌射はまた進みて双河に次ぐ。賀魯は先に歩失達幹を使わし散卒を鳩集し、柵を拠りて拒戦せしむ。彌射・歩真之を攻め、大いに潰ゆ。また蘇定方と共に賀魯を碎葉水に攻め、大いに之を破る。

原文顯慶二年,遣右屯衛將軍蘇定方,燕然都護任雅相,副都護蕭嗣業,左驍衛大將軍、瀚海都督回紇婆閏等率師討擊,仍使右武衛大將軍阿史那彌射、左屯衛大將軍阿史那步真為安撫大使。定方行至曳咥河西,賀魯率胡祿居闕啜等二萬余騎列陣而待。定方率副總管任雅相等與之交戰,賊眾大敗,斬大首領都搭達幹等二百余人。賀魯及闕啜輕騎奔竄,渡伊麗河,兵馬溺死者甚眾。嗣業至千泉賀魯下牙之處,彌射進軍至伊麗水,處月、處密等部各率眾來降。彌射又進次雙河,賀魯先使步失達幹鳩集散卒,據柵拒戰。彌射、步真攻之,大潰;又與蘇定方攻賀魯於碎葉水,大破之。

賀魯は咥運と鼠耨設に投ぜんと欲し、石国の蘇咄城の傍に至る。人馬飢乏す。城主伊涅達幹は詐りて酒食を将い出迎えんとし、賀魯其の言を信じて城に入る。遂に拘執せらる。蕭嗣業既に石国に至る。鼠耨設乃ち賀魯を以て之に属す。賀魯嗣業に謂ひて曰く、「我は破亡の虜なる耳。先帝我を厚くす。而るに我之に背く。今日の敗は、天我を怒るなり。旧く漢法を聞く、人を殺すは皆都市に於てす。京に至り我を殺さば、請ふ昭陵に向はん。以て先帝に謝罪するを得しめよ。是れ本願なり」と。高宗聞きて之を湣む。賀魯を俘へて京師に至らしむるに及び、昭陵及び太廟に献ぜしめ、詔して特に死を免ず。其の種落を分ちて昆陵・濛池の二都護府を置く。其の役属する諸国は、皆州府を分置し、西は波斯に尽き、並びに安西都護府に隷す。四年、賀魯卒す。詔して頡利の墓の側に葬り、石を刻み以て其の事を紀す。

原文賀魯與咥運欲投鼠耨設,至石國之蘇咄城傍,人馬饑乏,城主伊涅達幹詐將酒食出迎,賀魯信其言入城,遂被拘執。蕭嗣業既至石國,鼠耨設乃以賀魯屬之。賀魯謂嗣業曰:「我破亡虜耳!先帝厚我,而我背之,今日之敗,天怒我也。舊聞漢法,殺人皆於都市,至京殺我,請向昭陵,使得謝罪於先帝,是本願也。」高宗聞而湣之。及俘賀魯至京師,令獻於昭陵及太廟,詔特免死。分其種落置昆陵、濛池二都護府,其所役屬諸國,皆分置州府,西盡於波斯,並隸安西都護府。四年,賀魯卒。詔葬於頡利墓側,刻石以紀其事。

阿史那彌射は、室点密可汗の五代孫なり。初め、室点密は単于に従ひ十大首領を統領し、兵十万衆有り、往きて西域諸胡国を平げ、自ら可汗と為り、十姓部落と号し、世々其の衆を統ぶ。彌射は本蕃に在りて莫賀咄葉護と為る。貞観六年、詔して鴻臚少卿劉善因を遣わし就蕃して立つるに奚利邲咄陸可汗と為し、鼓纛・彩帛万段を賜ふ。其の族兄歩真は自立して可汗たらんと欲し、遂に彌射の弟侄二十余人を謀殺せんとす。彌射既に歩真と隙有り、貞観十三年を以て所部の処月・処密部落を率いて入朝し、右監門大将軍を授けらる。其の後歩真は遂に自立して咄陸葉護と為る。其の部落多く服せず、之を委ねて遁去す。歩真は復た家属を携へて入朝し、左屯衛大将軍を授けらる。

原文阿史那彌射者,室點密可汗五代孫也。初,室點密從單於統領十大首領,有兵十萬眾,往平西域諸胡國,自為可汗,號十姓部落,世統其眾。彌射在本蕃為莫賀咄葉護。貞觀六年,詔遣鴻臚少卿劉善因就蕃立為奚利邲咄陸可汗,賜以鼓纛、彩帛萬段。其族兄步真欲自立為可汗,遂謀殺彌射弟侄二十余人。彌射既與步真有隙,以貞觀十三年率所部處月、處密部落入朝,授右監門大將軍。其後步真遂自立為咄陸葉護,其部落多不服,委之遁去。步真復攜家屬入朝,授左屯衛大將軍。

彌射は後に太宗に従ひ高麗を征し功有り、平襄県伯に封ぜらる。顕慶二年、右武衛大将軍に転ず。賀魯を討平するに及び、乃ち彌射を冊立して興昔亡可汗兼右衛大将軍・昆陵都護と為し、賀魯の下の五咄六部落を分押せしむ。歩真は継往絶可汗を授けられ、右衛大将軍・濛池都護を兼ね、仍て五弩失畢部落を分押す。因りて詔を下して曰く、

原文彌射後從太宗征高麗有功,封平襄縣伯。顯慶二年,轉右武衛大將軍。及討平賀魯,乃冊立彌射為興昔亡可汗兼右衛大將軍、昆陵都護,分押賀魯下五咄六部落。步真授繼往絕可汗,兼右衛大將軍、濛池都護,仍分押五弩失畢部落。因下詔曰:

西蕃乱に罹りてより、三十余年。比者賀魯猖狂し、百姓重ねて劫掠せらる。朕四海に君臨し、情均しく養育す。兇狡の虜をして恣に侵漁を行はしめ、辜なき氓をして久しく塗炭に遭はしむべからず。故に右屯衛将軍蘇定方等を遣わし騎勇を統率し、北路より討逐せしむ。卿等は朝風を宣暢し、南道より撫育す。遂に兇渠をして威を畏れしめ、夷人をして徳を慕はしめ、叛を伐ち服を柔げ、西域総べて平ぐ。賀魯父子既に擒獲せられ、諸頭部落須らく統領有るべし。卿早く闕庭に帰し、久しく宿衛に参じ、深く恩義を感じ、甚だ法式を知る。所以に卿等を冊立し各一部の可汗と為す。但だ諸姓賀魯に従ふは、其の本情に非ず。卿等纔に至れば即ち降るも、亦是れ赤心国に向ふなり。卿宜しく盧承慶等と其の部落の大小、位望の高下に準ひ、節級を以て刺史以下の官を授くべし。

原文自西蕃罹亂,三十余年。比者賀魯猖狂,百姓重被劫掠。朕君臨四海,情均養育。不可使兇狡之虜,恣行侵漁,無辜之氓,久遭塗炭。故遣右屯衛將軍蘇定方等統率騎勇,北路討逐。卿等宣暢朝風,南道撫育。遂使兇渠畏威,夷人慕德,伐叛柔服,西域總平。賀魯父子既已擒獲,諸頭部落須有統領。卿早歸闕庭,久參宿衛,深感恩義,甚知法式,所以冊立卿等各為一部可汗。但諸姓從賀魯,非其本情,卿等才至即降,亦是赤心向國。卿宜與盧承慶等準其部落大小,位望高下,節級授刺史以下官。

龍朔中、また彌射・歩真に令し所部を率い釭海道大総管蘇海政に従ひ亀茲を討たしむ。歩真嘗て彌射の部落を併せんと欲し、遂に密かに海政に告げて云く、「彌射謀反せんと欲す。請ふ計を以て之を誅せん」と。時に海政の兵纔に数千、師を懸けて彌射の境内に在り。遂に軍吏を集めて謀りて曰く、「彌射若し反せば、我輩即ち噍類無からん。今宜しく先づ事を挙ぐべし。則ち克捷すべし」と。乃ち偽りて勅有ると称し、大総管に令して物数百万段を賫し、可汗及び諸首領に分賜せしむ。是れにより彌射其の麾下を率い、例に随ひ物を請ふ。海政尽く之を収め斬る。其の後西蕃盛んに言ふ、彌射は反に非ず、歩真に誣はるる所と為り、而して海政審察すること能はず、誅戮を行ふに濫りたりと。

原文龍朔中,又令彌射、步真率所部從釭海道大總管蘇海政討龜茲。步真嘗欲並彌射部落,遂密告海政云:「彌射欲謀反,請以計誅之。」時海政兵才數千,懸師在彌射境內,遂集軍吏而謀曰:「彌射若反,我輩即無噍類。今宜先舉事,則可克捷。」乃偽稱有敕,令大總管賫物數百萬段分賜可汗及諸首領。由是彌射率其麾下,隨例請物,海政盡收斬之。共後西蕃盛言彌射非反,為步真所誣,而海政不能審察,濫行誅戮。

則天朝に臨み、十姓主無きこと数年、部落多く散失す。垂拱初、遂に彌射の子左豹韜衛翊府中郎将元慶を擢授して左玉鈐衛将軍兼昆陵都護と為し、令して興昔亡可汗を襲はしめ、五咄六部落を押さしむ。歩真の子斛瑟羅を右玉鈐衛将軍兼濛池都護と為し、五弩失畢部落を押さしむ。尋で元慶に左衛大将軍を進授す。

原文則天臨朝,十姓無主數年,部落多散失。垂拱初,遂擢授彌射子左豹韜衛翊府中郎將元慶為左玉鈐衛將軍兼昆陵都護,令襲興昔亡可汗,押五咄六部落。步真子斛瑟羅為右玉鈐衛將軍,兼濛池都護,押五弩失畢部落。尋進授元慶左衛大將軍。

如意元年、来俊臣に誣られ謀反を以て害せらる。其の子献は、崖州に配流せらる。長安三年、召還さる。累ねて右驍衛大将軍を授けられ、父の興昔亡可汗を襲ひ、安撫招慰十姓大使を充つ。献の本蕃は漸く默啜及び烏質勒に侵さる。遂に敢へて還国せず。開元中、累遷して右金吾大将軍と為る。長安に卒す。

原文如意元年,為來俊臣誣謀反被害。其子獻,配流崖州。長安三年,召還。累授右驍衛大將軍,襲父興昔亡可汗,充安撫招慰十姓大使。獻本蕃漸為默啜及烏質勒所侵。遂不敢還國。開元中,累遷右金吾大將軍。卒於長安。

阿史那歩真は、本蕃に在りて左屯衛大将軍を授けらる。彌射と共に賀魯を討平し、驃騎大将軍・行右衛大将軍・濛池都護・継往絶可汗を加授され、五弩失畢部落を押す。尋で卒す。其の子斛瑟羅は、本蕃にて歩利設と為る。垂拱初、右玉鈐衛将軍兼濛池都護を授けられ、継往絶可汗を襲ひ、五弩失畢部落を押す。天授元年、左衛大将軍を拝し、竭忠事主可汗に改封せられ、仍て濛池都護を賜ふ。尋で卒す。子の懐道は、神龍年累ねて右屯衛大将軍・光禄卿を授けられ、太仆卿兼濛池都護・十姓可汗に転ず。垂拱已後より、十姓部落頻りに突厥默啜の侵掠を受け、死散殆んど尽く。斛瑟羅に随ふに及びて纔に六七万人、内に徙居す。西突厥阿史那氏は是に於て遂に絶つ。

原文阿史那步真者,在本蕃授左屯衛大將軍。與彌射討平賀魯,加授驃騎大將軍、行右衛大將軍、濛池都護、繼往絕可汗,押五弩失畢部落。尋卒。其子斛瑟羅,本蕃為步利設,垂拱初,授右玉鈐衛將軍兼濛池都護、襲繼往絕可汗,押五弩失畢部落。天授元年,拜左衛大將軍,改封竭忠事主可汗,仍賜濛池都護。尋卒。子懷道,神龍年累授右屯衛大將軍、光祿卿,轉太仆卿兼濛池都護、十姓可汗。自垂拱已後,十姓部落頻被突厥默啜侵掠,死散殆盡。及隨斛瑟羅才六七萬人,徙居內地,西突厥阿史那氏於是遂絕。

突騎施烏質勒は、西突厥の別種なり。初め斛瑟羅の下に隷し、莫賀達幹と号す。後に斛瑟羅の用刑厳酷なるを以て、衆皆之を畏る。尤も能く其の部落を撫恤す。是れにより遠近諸胡の帰附する所と為る。其の下に都督二十員を置き、各兵七千人を統ぶ。嘗て碎葉西北界に屯聚し、後漸く碎葉を攻め陥れ、其の牙帳を徙して之に居る。東北は突厥と鄰り、西南は諸胡と相接し、東南は西廷州に至る。斛瑟羅は部衆の削弱を以て、則天の時より入朝し、敢へて還蕃せず。其の地並びに烏質勒に併せらる。

原文突騎施烏質勒者,西突厥之別種也。初隸在斛瑟羅下,號為莫賀達幹。後以斛瑟羅用刑嚴酷,眾皆畏之,尤能撫恤其部落,由是為遠近諸胡所歸附。其下置都督二十員,各統兵七千人。嘗屯聚碎葉西北界,後漸攻陷碎葉,徙其牙帳居之。東北與突厥為鄰,西南與諸胡相接,東南至西廷州。斛瑟羅以部眾削弱,自則天時入朝,不敢還蕃,其地並為烏質勒所並。

景龍二年、詔して西河郡王に封じ、摂御史大夫を令し、解琬をして就きて冊立を加へしむ。未だ至らざるに、烏質勒卒す。其の長子娑葛其の衆を代統す。詔して便ち娑葛を立てて金河郡王と為し、仍て宮女四人を賜ふ。

原文景龍二年,詔封為西河郡王,令攝御史大夫,解琬就加冊立。未至,烏質勒卒。其長子娑葛代統其眾,詔便立娑葛為金河郡王,仍賜以宮女四人。

初めに、娑葛が父に代わって兵を統べると、烏質勒の下部将闕啜忠節はこれを甚だ忌み、兵部尚書宗楚客が朝廷で権勢を任せているのを以て、密かに使者を遣わして金七百両を齎らせて楚客に賂り、娑葛の兵統べを停めんことを請うた。楚客は乃ち御史中丞馮嘉賓を使いとしてその境に充て、陰に忠節とこの事を籌謀し、併せて自ら書を致して意を申し述べた。路において娑葛の遊兵に捕らえられ、遂に嘉賓を斬り、仍いて兵を進めて火焼等の城を攻め陥とし、使者を遣わして上表し、楚客の首を求めんことを以てした。

原文初,娑葛代父統兵,烏質勒下部將闕啜忠節甚忌之,以兵部尚書宗楚客當朝任勢,密遣使賫金七百兩以賂楚客,請停娑葛統兵。楚客乃遣御史中丞馮嘉賓充使至其境,陰與忠節籌其事,並自致書以申意。在路為娑葛遊兵所獲,遂斬嘉賓,仍進兵攻陷火燒等城,遣使上表以索楚客頭。

景龍三年、娑葛の弟遮弩は分け与えられた部落がその兄より少ないことを恨み、遂に叛いて突厥に入り、郷導たらんことを請い、以て娑葛を討たんとした。默啜は乃ち遮弩を留め、兵二万人を遣わしてその左右と共に来たりて娑葛を討ち、これを擒らえて還った。默啜は顧みて遮弩に謂いて曰く、「汝は兄弟に尚お和協せず、豈に能く心を尽くして我に於いんや」と。遂に娑葛と俱にこれを殺した。默啜の兵還るや、娑葛の下部将蘇祿が余衆を鳩集し、自ら立って可汗と為る。

原文景龍三年,娑葛弟遮弩恨所分部落少於其兄,遂叛入突厥,請為鄉導,以討娑葛。默啜乃留遮弩,遣兵二萬人與其左右來討娑葛,擒之而還。默啜顧謂遮弩曰:「汝於兄弟尚不和協,豈能盡心於我。」遂與娑葛俱殺之。默啜兵還,娑葛下部將蘇祿鳩集余眾,自立為可汗。

蘇祿は、突騎施の別種なり。頗る綏撫に善く、十姓部落漸くこれに帰附し、衆二十万、遂に西域の地に雄たり、尋いで使者を遣わして来朝す。開元三年、制して蘇祿を左羽林軍大将軍・金方道経略大使に授け、進めて特勒と為し、侍御史解忠順を遣わして璽書を齎らせ冊立して忠順可汗と為す。是より毎年使者を遣わして朝献す。上は乃ち史懷道の女を立てて金河公主と為し、以てこれに妻せしむ。

原文蘇祿者,突騎施別種也。頗善綏撫,十姓部落漸歸附之,眾二十萬,遂雄西域之地,尋遣使來朝。開元三年,制授蘇祿為左羽林軍大將軍、金方道經略大使,進為特勒,遣侍御史解忠順賫璽書冊立為忠順可汗。自是每年遣使朝獻。上乃立史懷道女為金河公主以妻之。

時に杜暹は安西都護たり、公主は牙官を遣わして馬千疋を齎らせ安西に詣りて互市せしむ。使者公主の教を宣べて暹に与う、暹怒りて曰く、「阿史那氏の女、豈に宣教して吾が節度に与うるに合わんや」と。その使者を杖ち、留めて遣わさず、その馬雪を経て、寒さに死に並びに尽くす。蘇祿大いに怒り、兵を発して分かち四鎮を寇す。会に杜暹入りて政事を知り、趙頤貞代わりて安西都護と為り、城を守ること久しく、これによりて四鎮の貯積及び人畜並びに蘇祿の掠めるところと為り、安西僅かに全うす。蘇祿既に杜暹の相に入るを聞き、稍々引き退き、俄かに又使者を遣わして入朝し方物を献ず。

原文時杜暹為安西都護,公主遣牙官賫馬千疋詣安西互市。使者宣公主教與暹,暹怒曰:「阿史那氏女,豈合宣教與吾節度耶!」杖其使者,留而不遣,其馬經雪,寒死並盡。蘇祿大怒,發兵分寇四鎮。會杜暹入知政事,趙頤貞代為安西都護,城守久之,由是四鎮貯積及人畜並為蘇祿所掠,安西僅全。蘇祿既聞杜暹入相,稍引退,俄又遣使入朝獻方物。

十八年、蘇祿の使者京師に至る、玄宗丹鳳楼に御して宴を設く。突厥先ず使者を遣わして入朝し、是日亦来たりて宴に預かり、蘇祿の使者と長を争う。突厥の使曰く、「突騎施国小さく、本是れ突厥の臣、上に居るに宜しからず」と。蘇祿の使曰く、「今日この宴は、乃ち我が為に設くるもの、下に居るに合わず」と。ここにおいて中書門下及び百僚議し、遂に東西の幕下両処に分かち坐し、突厥の使は東に在り、突騎施の使は西に在り。宴訖り、厚く齎らしてこれを遣わす。

原文十八年,蘇祿使至京師,玄宗禦丹鳳樓設宴。突厥先遣使入朝,是日亦來預宴,與蘇祿使爭長。突厥使曰:「突騎施國小,本是突厥之臣,不宜居上。」蘇祿使曰:「今日此宴,乃為我設,不合居下。」於是中書門下及百僚議,遂於東西幕下兩處分坐,突厥使在東,突騎施使在西。宴訖,厚賫而遣之。

蘇祿の性は尤も清儉にして、毎に戦伐するに、克獲する所有れば、尽く将士及び諸部落に分かち与う。その下これ愛し、甚だその用を為す。潜かに又使者を遣わして南は吐蕃に通じ、東は突厥に附す。突厥及び吐蕃も亦女を嫁して蘇祿に与う。既に三国の女を以て可敦と為し、又数子を分かち立てて葉護と為す、費用漸く広し。先ず既に積貯を為さず、晚年抄掠して得る所のものは、留めてこれを分かたず。又風病に因り、一手攣縮す、その下諸部、心始めて携貳す。

原文蘇祿性尤清儉,每戰伐,有所克獲,盡分與將士及諸部落。其下愛之,甚為其用。潛又遣使南通吐蕃,東附突厥。突厥及吐蕃亦嫁女與蘇祿。既以三國女為可敦,又分立數子為葉護,費用漸廣。先既不為積貯,晚年抄掠所得者,留不分之。又因風病,一手攣縮,其下諸部,心始攜貳。

大首領莫賀達幹・都摩度の両部落有り、最も強盛なり。百姓又黄姓・黒姓の二種に分かれ、互いに猜阻す。

原文有大首領莫賀達幹、都摩度兩部落,最為強盛。百姓又分為黃姓、黑姓兩種,互相猜阻。

二十六年夏、莫賀達幹兵を勒して夜蘇祿を攻め、これを殺す。都摩度初め莫賀達幹と連謀す、俄かに又相背き、蘇祿の子咄火仙を立てて可汗と為し、以てその余衆を輯め、莫賀達幹と自ら相攻擊す。莫賀達幹使者を遣わして安西都護蓋嘉運に告ぐ。嘉運兵を率いてこれを討ち、大いに都摩度の衆を敗り、陣に臨みて咄火仙を擒らえ、併せて金河公主を得て還る。又史懷道の子昕を立てて可汗と為し以てこれを鎮撫せんと欲す、莫賀達幹肯わず、曰く、「蘇祿を討平するは、本是れ我が元謀、若し史昕を立てて主と為さば、則ち国家何を以て我に酬賞せん」と。乃ち史昕を立てず、便ち莫賀達幹に衆を統べしむ。

原文二十六年夏,莫賀達幹勒兵夜攻蘇祿,殺之。都摩度初與莫賀達幹連謀,俄又相背,立蘇祿之子咄火仙為可汗,以輯其余眾,與莫賀達幹自相攻擊。莫賀達幹遣使告安西都護蓋嘉運。嘉運率兵討之,大敗都摩度之眾,臨陣擒咄火仙,並收得金河公主而還。又欲立史懷道之子昕為可汗以鎮撫之,莫賀達幹不肯,曰:「討平蘇祿,本是我之元謀,若立史昕為主,則國家何以酬賞於我?」乃不立史昕,便令莫賀達幹統眾。

二十七年二月、嘉運将士を率いて闕に詣り俘を献ず、玄宗花萼楼に御して以てこれに宴し、仍いて吐火仙を将いて太廟に献ぜしむ。俄かに又黄姓・黒姓自ら相屠殺し、各使者を遣わして降附す。

原文二十七年二月,嘉運率將士詣闕獻俘,玄宗禦花萼樓以宴之,仍令將吐火仙獻於太廟。俄又黃姓、黑姓自相屠殺,各遣使降附。

史臣曰く、中原多事にして、外国辺を窺う、周の獫狁・漢の匈奴の後、その類実に繁し、前史これを論じて備わりたり。突厥は隋の文が王道を修め、軍容を肅め、恩威を示して以てこれを羈縻し、煬帝は政教を失い、戎心を生じ、乱離を肇めて以てこれを啓発す。高祖はその力を借りて入り京師を平げ、群賊はその強きに附いて叠に河朔を拠す。高祖は同じ御榻にて以てその使を延べ、太宗は便橋に幸して以てその和を約す。その時に当たりて、その盛ならざらんや!竟にその族を滅ぼして身国に死するは、何ぞや?咸に太宗に夷狄を馭するの道有り、李勣に戡定の功著しと謂う。深く知らず、突厥の始めは、賞罰明らかにして将士戮力す。煬帝の乱に遇い、亡命蓄怒する者既にこれに附く、その興るや宜なるかな!頡利の衰ゆるは、兄弟扌勾隙にして部族心を離す。太宗の理に当たり、謀臣猛将これを討逐す、その亡ぶや宜なるかな!武後朝を乱すに洎り、默啜塞を犯し、玄宗嗣を纂ぎ、首を伝えて京師に至り、東は太山を封じ、西戎は蹕を扈し、開元の代、踵を継ぎて来降す。西突厥諸族、その理に遇えば、則ち衆心悦附して甲兵興り、その乱に遇えば、則ち族類怨怒して本根破る!理乱の二道、華夷一途なり。或いは盛衰倚伏に質言するも、未だ確論と為さず。

原文史臣曰:中原多事,外國窺邊,周獫狁、漢匈奴之後,其類實繁,前史論之備矣。突厥自隋文修王道,肅軍容,示恩威以羈縻之;煬帝失政教,生戎心,肇亂離以啟發之。高祖借其力而入平京師,群賊附其強而叠據河朔。高祖同禦榻以延其使,太宗幸便橋以約其和。當其時焉,不其盛矣!竟滅其族而身死於國者,何也?咸謂太宗有馭夷狄之道,李勣著戡定之功。殊不知突厥之始也,賞罰明而將士戮力。遇煬帝之亂,亡命蓄怒者既附之,其興也宜哉!頡利之衰也,兄弟扌勾隙而部族離心。當太宗之理,謀臣猛將討逐之,其亡也宜哉!洎武後亂朝,默啜犯塞,玄宗纂嗣,傳首京師,東封太山,西戎扈蹕,開元之代,繼踵來降。西突厥諸族,遇其理,則眾心悅附而甲兵興焉;遇其亂,則族類怨怒而本根破矣!理亂二道,華夷一途。或質言於盛衰倚伏,未為確論。

贊に曰く、中国政を失い、辺夷災を幸う。理乱の道、将来に鑒を取る。

原文贊曰:中國失政,邊夷幸災。理亂之道,取鑒將來。