卷一百九十四下
西突厥は本来北突厥と同祖である。初め、木桿可汗と沙鉢略可汗との間に不和があり、それによって二つに分かれた。その国は即ち烏孫の故地であり、東は突厥国に至り、西は雷翥海に至り、南は疏勒に至り、北は瀚海に至る。長安の北七千里にある。焉耆国より西北へ七日の行程でその南庭に至り、また真北へ八日の行程でその北庭に至る。鉄勒・亀茲及び西域の諸胡国は皆これに帰附した。その人々は都陸及び弩失畢・歌邏禄・処月・処密・伊吾等の諸種族が雑居している。風俗は大体突厥と同じであるが、ただ言語が少し異なる。その官には葉護があり、特勒があり、常に可汗の子弟及び宗族がこれに任じられる。また乙斤・屈利啜・閻洪達・頡利発・吐屯・俟斤等の官があり、皆代々その位を世襲する。
処羅可汗は、隋の煬帝大業年間にその弟の闕達設及び特勒の大奈と共に入朝した。引き続き煬帝に従って高麗を征し、号を曷薩那可汗と賜った。江都の乱に遭遇し、宇文化及に従って河北に至った。化及が敗れると、長安に帰り、高祖は彼のために座を降ろし、引き寄せて同座させ、帰義郡王に封じた。高祖に大珠を献上した。高祖は彼を労って言った、「珠は確かに宝ではあるが、朕が重んじるのは赤心である。珠は用いるところがない」と。ついにそれを受け取らなかった。以前より始畢可汗と不和があり、京師にいた時、始畢が使者を遣わして彼を殺すよう請うたが、高祖は許さなかった。群臣が諫めて言った、「今もしこれに応じなければ、一人を生かして一国を失うことになり、後必ず禍いとなろう」と。太宗は言った、「人が困窮して我に帰ってきたのに、殺すのは不義である」と。高祖に繰り返し諫めたため、これによって長らく躊躇した。やむを得ず、曷薩那を内殿に引き入れ、彼と酒を酌み交わし、やがて中書省に送り届け、北突厥の使者に殺させた。太宗が即位すると、礼をもって改葬するよう命じた。
闕達設は初め会寧に居住し、三千余騎の部落を有していた。隋末に至り、自ら闕達可汗と称した。武徳初年、使者を遣わして内属し、吐烏過拔闕可汗に拝され、手厚く慰撫された。まもなく李軌に滅ぼされた。
射匱可汗は、達頭可汗の孫である。即位した後、初めて領土を拡大し、東は金山に至り、西は海に至り、玉門より西の諸国は皆これに服属した。遂に北突厥と敵対し、亀茲の北の三弥山に庭を建てた。まもなく卒去した。弟の統葉護可汗が代わって立った。
統葉護可汗は、勇猛で謀略があり、攻戦に長けていた。遂に北は鉄勒を併合し、西は波斯を拒み、南は罽賓に接し、皆これを帰服させた。数十万の兵を統率し、西域を覇有し、旧烏孫の地を占拠した。また庭を石国の北の千泉に移した。その西域諸国の王には悉く頡利発を授け、併せて吐屯一人を遣わしてこれを監統させ、その徴賦を監督させた。西戎の盛んなこと、これまでになかった。
莫賀咄侯屈利俟毗可汗は、先に突厥の種族を分統して小可汗となっていたが、ここに至って自ら大可汗と称した。国人は従わなかった。弩失畢部は共に泥孰莫賀設を推戴して可汗としたが、泥孰は従わなかった。当時統葉護の子の咥力特勒が莫賀咄の難を避け、康居に亡命していた。泥孰は遂にこれを迎えて立てた。これを乙毗缽羅肆葉護可汗という。連年兵争が止まず、共に使者を遣わして来朝し、それぞれ我が国に婚姻を請うた。太宗はこれに答えて言った、「汝の国は擾乱し、君臣未だ定まらず、戦争止まず、どうして婚姻を言えようか」と。ついに許さなかった。引き続き諭してそれぞれその部を保ち、互いに征伐しないよう命じた。その西域諸国及び鉄勒で先に西突厥に服属していた者は、皆これに叛き、国内は空虚で消耗した。
肆葉護は既に旧主の子であり、衆心の帰するところであったため、その西面の都陸可汗及び莫賀咄可汗部の豪帥が多く来てこれに附いた。また兵を興して莫賀咄を撃ち、これを大破した。莫賀咄は金山に逃れたが、まもなく咄陸可汗に害された。国人は乃ち肆葉護を奉って大可汗とした。肆葉護可汗が立つと、大いに兵を発して北征し鉄勒を討ったが、薛延陀が逆撃し、かえって敗北した。肆葉護は猜疑心が強く残忍で讒言を信じ、統御の才略がなかった。乙利可汗という者がおり、肆葉護に対して功績が最も多かったが、これによって小可汗に任じられ、罪のないのに一族を滅ぼされた。群下は震え恐れ、自ら安んじることができなかった。肆葉護は元より泥孰を恐れており、密かにこれを除こうと図ったため、泥孰は遂に焉耆に赴いた。その後、没卑達幹と突厥の弩失畢二部の豪帥が密かに謀ってこれを撃とうとした。肆葉護は軽騎で康居に逃れたが、まもなく卒去した。国人は泥孰を焉耆から迎えて立てた。これを咄陸可汗という。
咄陸可汗泥孰は、また大渡可汗とも称される。父は莫賀設で、もと統葉護に隷属していた。武徳年間、かつて京師に至った。時に太宗は藩王の身分にあり、懐柔に努め、彼と盟を結んで兄弟となった。推戴されて可汗となると、使者を遣わして朝廷に降伏を請うた。太宗は使者を遣わして名号と鼓纛を賜った。貞観七年、鴻臚少卿劉善因をその国に遣わし、冊授して吞阿婁拔奚利邲咄陸可汗とした。翌年、泥孰が卒去し、その弟の同娥設が立ち、これが沙鉢羅咥利失可汗である。
沙鉢羅咥利失可汗は、貞観九年に上表して婚姻を請い、馬五百匹を献じた。朝廷はただ厚く慰撫を加えただけで、その婚姻は許さなかった。やがてその国は十部に分かれ、各部に一人ずつ統率者を置き、十設と号した。各設には一箭を賜ったので、十箭と称したのである。また十箭を左右の廂に分け、一廂ごとにそれぞれ五箭を置いた。左廂は五咄六部落と号し、五大啜を置き、一啜が一箭を管轄した。右廂は五弩失畢と号し、五大俟斤を置き、一俟斤が一箭を管轄し、総称して十箭と号した。その後、一箭を一部落、大箭頭を大首領と称することもあった。五咄六部落は碎葉以東に居住し、五弩失畢部落は碎葉以西に居住し、ここより皆十姓部落と号した。
咥利失はもはや衆望を集めず、部衆は離反し、その統吐屯に襲撃され、麾下は逃亡散逸した。咥利失は左右百余騎をもってこれを防ぎ、数度戦って統吐屯は不利となり退いた。咥利失はその弟の歩利設のもとに奔り、焉耆を保った。その阿悉吉闕俟斤と統吐屯らが国人を召集し、欲谷設を大可汗に立てようとした。咥利失を小可汗とした。統吐屯は人に殺され、欲谷設の兵もまたその俟斤に撃破され、咥利失は旧地を回復し、弩失畢、処密などはともに咥利失に帰した。
乙毗沙鉢羅葉護可汗が立つと、睢合水の北に庭を建て、これを南庭と称した。東は伊列河を境界とし、龜茲、鄯善、且末、吐火羅、焉耆、石国、史国、何国、穆国、康国より、皆その節度を受けた。累次使者を遣わして朝貢し、太宗は璽書を降して慰勉した。
貞観十五年、左領軍將軍張大師を遣わしてこれを授け、鼓纛を賜った。この時、咄陸可汗と葉護はしばしば相攻撃した。ちょうど咄陸が使者を朝廷に遣わしたので、太宗は和睦の道を諭した。咄陸はこの時兵衆が次第に強盛となり、西域諸国がまた帰附してきた。間もなく、咄陸は石国の吐屯を遣わして葉護を攻め、これを捕らえ、咄陸のもとに送り、やがて殺害された。
咄陸可汗はその国を併せると、弩失畢諸姓は心服せず、皆これに叛いた。咄陸はまた兵を率いて吐火羅を撃ち、これを破った。その強さを恃み、西域を専断した。兵を遣わして伊州を寇し、安西都護郭恪が軽騎二千を率いて烏骨より邀撃し、これを敗った。咄陸はまた処月、処密などを遣わして天山県を包囲したが、郭恪はまたこれを撃退した。郭恪は勝ちに乗じて進み、処月俟斤の居城を陥落させ、追撃して遏索山に及び、千余級を斬首し、その処密の衆を降して帰還した。咄陸は初め泥孰啜が自ら専断して部の物を取ったことを理由に、これを斬って衆に示した。やがて泥孰啜の部将胡祿居に襲撃され、衆多く逃亡し、その国は大乱した。
貞観十五年、部下の屋利啜らが咄陸を廃そうと謀り、それぞれ使者を朝廷に遣わし、可汗を立てることを請うた。太宗は使者を遣わし璽書を齎して莫賀咄乙毗可汗の子を立てた。これが乙毗射匱可汗である。
乙毗射匱可汗が立つと、弩失畢の兵を発して白水に就き咄陸を撃った。咄陸は自ら衆に附されざるを知り、西に走って吐火羅国に入った。中国の使者で先に咄陸に拘禁されていた者を、射匱は悉く礼を尽くして資送し長安に帰し、また使者を遣わして方物を貢ぎ、婚姻を請うた。太宗はこれを許し、詔して龜茲、於闐、疏勒、硃俱波、蔥嶺などの五国を割いて聘礼とせよと命じた。太宗が崩ずると、賀魯が反叛し、射匱の部落はこれに併合された。
賀魯は咥運と鼠耨設に投ぜんと欲し、石国の蘇咄城の傍に至る。人馬飢乏す。城主伊涅達幹は詐りて酒食を将い出迎えんとし、賀魯其の言を信じて城に入る。遂に拘執せらる。蕭嗣業既に石国に至る。鼠耨設乃ち賀魯を以て之に属す。賀魯嗣業に謂ひて曰く、「我は破亡の虜なる耳。先帝我を厚くす。而るに我之に背く。今日の敗は、天我を怒るなり。旧く漢法を聞く、人を殺すは皆都市に於てす。京に至り我を殺さば、請ふ昭陵に向はん。以て先帝に謝罪するを得しめよ。是れ本願なり」と。高宗聞きて之を湣む。賀魯を俘へて京師に至らしむるに及び、昭陵及び太廟に献ぜしめ、詔して特に死を免ず。其の種落を分ちて昆陵・濛池の二都護府を置く。其の役属する諸国は、皆州府を分置し、西は波斯に尽き、並びに安西都護府に隷す。四年、賀魯卒す。詔して頡利の墓の側に葬り、石を刻み以て其の事を紀す。
西蕃乱に罹りてより、三十余年。比者賀魯猖狂し、百姓重ねて劫掠せらる。朕四海に君臨し、情均しく養育す。兇狡の虜をして恣に侵漁を行はしめ、辜なき氓をして久しく塗炭に遭はしむべからず。故に右屯衛将軍蘇定方等を遣わし騎勇を統率し、北路より討逐せしむ。卿等は朝風を宣暢し、南道より撫育す。遂に兇渠をして威を畏れしめ、夷人をして徳を慕はしめ、叛を伐ち服を柔げ、西域総べて平ぐ。賀魯父子既に擒獲せられ、諸頭部落須らく統領有るべし。卿早く闕庭に帰し、久しく宿衛に参じ、深く恩義を感じ、甚だ法式を知る。所以に卿等を冊立し各一部の可汗と為す。但だ諸姓賀魯に従ふは、其の本情に非ず。卿等纔に至れば即ち降るも、亦是れ赤心国に向ふなり。卿宜しく盧承慶等と其の部落の大小、位望の高下に準ひ、節級を以て刺史以下の官を授くべし。
龍朔中、また彌射・歩真に令し所部を率い釭海道大総管蘇海政に従ひ亀茲を討たしむ。歩真嘗て彌射の部落を併せんと欲し、遂に密かに海政に告げて云く、「彌射謀反せんと欲す。請ふ計を以て之を誅せん」と。時に海政の兵纔に数千、師を懸けて彌射の境内に在り。遂に軍吏を集めて謀りて曰く、「彌射若し反せば、我輩即ち噍類無からん。今宜しく先づ事を挙ぐべし。則ち克捷すべし」と。乃ち偽りて勅有ると称し、大総管に令して物数百万段を賫し、可汗及び諸首領に分賜せしむ。是れにより彌射其の麾下を率い、例に随ひ物を請ふ。海政尽く之を収め斬る。其の後西蕃盛んに言ふ、彌射は反に非ず、歩真に誣はるる所と為り、而して海政審察すること能はず、誅戮を行ふに濫りたりと。
則天朝に臨み、十姓主無きこと数年、部落多く散失す。垂拱初、遂に彌射の子左豹韜衛翊府中郎将元慶を擢授して左玉鈐衛将軍兼昆陵都護と為し、令して興昔亡可汗を襲はしめ、五咄六部落を押さしむ。歩真の子斛瑟羅を右玉鈐衛将軍兼濛池都護と為し、五弩失畢部落を押さしむ。尋で元慶に左衛大将軍を進授す。
突騎施烏質勒は、西突厥の別種なり。初め斛瑟羅の下に隷し、莫賀達幹と号す。後に斛瑟羅の用刑厳酷なるを以て、衆皆之を畏る。尤も能く其の部落を撫恤す。是れにより遠近諸胡の帰附する所と為る。其の下に都督二十員を置き、各兵七千人を統ぶ。嘗て碎葉西北界に屯聚し、後漸く碎葉を攻め陥れ、其の牙帳を徙して之に居る。東北は突厥と鄰り、西南は諸胡と相接し、東南は西廷州に至る。斛瑟羅は部衆の削弱を以て、則天の時より入朝し、敢へて還蕃せず。其の地並びに烏質勒に併せらる。
初めに、娑葛が父に代わって兵を統べると、烏質勒の下部将闕啜忠節はこれを甚だ忌み、兵部尚書宗楚客が朝廷で権勢を任せているのを以て、密かに使者を遣わして金七百両を齎らせて楚客に賂り、娑葛の兵統べを停めんことを請うた。楚客は乃ち御史中丞馮嘉賓を使いとしてその境に充て、陰に忠節とこの事を籌謀し、併せて自ら書を致して意を申し述べた。路において娑葛の遊兵に捕らえられ、遂に嘉賓を斬り、仍いて兵を進めて火焼等の城を攻め陥とし、使者を遣わして上表し、楚客の首を求めんことを以てした。
時に杜暹は安西都護たり、公主は牙官を遣わして馬千疋を齎らせ安西に詣りて互市せしむ。使者公主の教を宣べて暹に与う、暹怒りて曰く、「阿史那氏の女、豈に宣教して吾が節度に与うるに合わんや」と。その使者を杖ち、留めて遣わさず、その馬雪を経て、寒さに死に並びに尽くす。蘇祿大いに怒り、兵を発して分かち四鎮を寇す。会に杜暹入りて政事を知り、趙頤貞代わりて安西都護と為り、城を守ること久しく、これによりて四鎮の貯積及び人畜並びに蘇祿の掠めるところと為り、安西僅かに全うす。蘇祿既に杜暹の相に入るを聞き、稍々引き退き、俄かに又使者を遣わして入朝し方物を献ず。
十八年、蘇祿の使者京師に至る、玄宗丹鳳楼に御して宴を設く。突厥先ず使者を遣わして入朝し、是日亦来たりて宴に預かり、蘇祿の使者と長を争う。突厥の使曰く、「突騎施国小さく、本是れ突厥の臣、上に居るに宜しからず」と。蘇祿の使曰く、「今日この宴は、乃ち我が為に設くるもの、下に居るに合わず」と。ここにおいて中書門下及び百僚議し、遂に東西の幕下両処に分かち坐し、突厥の使は東に在り、突騎施の使は西に在り。宴訖り、厚く齎らしてこれを遣わす。
蘇祿の性は尤も清儉にして、毎に戦伐するに、克獲する所有れば、尽く将士及び諸部落に分かち与う。その下これ愛し、甚だその用を為す。潜かに又使者を遣わして南は吐蕃に通じ、東は突厥に附す。突厥及び吐蕃も亦女を嫁して蘇祿に与う。既に三国の女を以て可敦と為し、又数子を分かち立てて葉護と為す、費用漸く広し。先ず既に積貯を為さず、晚年抄掠して得る所のものは、留めてこれを分かたず。又風病に因り、一手攣縮す、その下諸部、心始めて携貳す。
大首領莫賀達幹・都摩度の両部落有り、最も強盛なり。百姓又黄姓・黒姓の二種に分かれ、互いに猜阻す。
二十六年夏、莫賀達幹兵を勒して夜蘇祿を攻め、これを殺す。都摩度初め莫賀達幹と連謀す、俄かに又相背き、蘇祿の子咄火仙を立てて可汗と為し、以てその余衆を輯め、莫賀達幹と自ら相攻擊す。莫賀達幹使者を遣わして安西都護蓋嘉運に告ぐ。嘉運兵を率いてこれを討ち、大いに都摩度の衆を敗り、陣に臨みて咄火仙を擒らえ、併せて金河公主を得て還る。又史懷道の子昕を立てて可汗と為し以てこれを鎮撫せんと欲す、莫賀達幹肯わず、曰く、「蘇祿を討平するは、本是れ我が元謀、若し史昕を立てて主と為さば、則ち国家何を以て我に酬賞せん」と。乃ち史昕を立てず、便ち莫賀達幹に衆を統べしむ。
二十七年二月、嘉運将士を率いて闕に詣り俘を献ず、玄宗花萼楼に御して以てこれに宴し、仍いて吐火仙を将いて太廟に献ぜしむ。俄かに又黄姓・黒姓自ら相屠殺し、各使者を遣わして降附す。
史臣曰く、中原多事にして、外国辺を窺う、周の獫狁・漢の匈奴の後、その類実に繁し、前史これを論じて備わりたり。突厥は隋の文が王道を修め、軍容を肅め、恩威を示して以てこれを羈縻し、煬帝は政教を失い、戎心を生じ、乱離を肇めて以てこれを啓発す。高祖はその力を借りて入り京師を平げ、群賊はその強きに附いて叠に河朔を拠す。高祖は同じ御榻にて以てその使を延べ、太宗は便橋に幸して以てその和を約す。その時に当たりて、その盛ならざらんや!竟にその族を滅ぼして身国に死するは、何ぞや?咸に太宗に夷狄を馭するの道有り、李勣に戡定の功著しと謂う。深く知らず、突厥の始めは、賞罰明らかにして将士戮力す。煬帝の乱に遇い、亡命蓄怒する者既にこれに附く、その興るや宜なるかな!頡利の衰ゆるは、兄弟扌勾隙にして部族心を離す。太宗の理に当たり、謀臣猛将これを討逐す、その亡ぶや宜なるかな!武後朝を乱すに洎り、默啜塞を犯し、玄宗嗣を纂ぎ、首を伝えて京師に至り、東は太山を封じ、西戎は蹕を扈し、開元の代、踵を継ぎて来降す。西突厥諸族、その理に遇えば、則ち衆心悦附して甲兵興り、その乱に遇えば、則ち族類怨怒して本根破る!理乱の二道、華夷一途なり。或いは盛衰倚伏に質言するも、未だ確論と為さず。
贊に曰く、中国政を失い、辺夷災を幸う。理乱の道、将来に鑒を取る。