舊唐書

巻194上

巻194上

舊唐書

原文舊唐書

卷一百九十四上

原文卷一百九十四上

列傳第一百四十四上 突厥上

原文列傳第一百四十四上 突厥上

突厥の始まりは、啓民可汗以前のことであり、『隋書』に詳しく記載されているので、ただ入国した事柄のみを述べる。

原文○突厥之始,啟民之前,《隋書》載之備矣,只以入國之事而述之。

始畢可汗咄吉は、啓民可汗の子である。隋の大業年間に位を嗣ぎ、天下が大乱に陥った時に当たり、中国人で彼のもとに奔る者が多かった。その族は強盛となり、東は契丹・室韋から、西は吐谷渾・高昌の諸国に至るまで、皆これに臣属した。弓を引く者百余万を控え、北狄の盛んなこと、未だかってこのようなことはなかった。陰山を高く見下ろし、中夏を軽んずる志があった。

原文始畢可汗咄吉者,啟民可汗子也。隋大業中嗣位,值天下大亂,中國人奔之者眾。其族強盛,東自契丹、室韋,西盡吐谷渾、高昌諸國,皆臣屬焉。控弦百餘萬,北狄之盛,未之有也。高視陰山,有輕中夏之志。

可汗とは、古の単于に等しく、妻は可賀敦と号し、古の閼氏に等しい。その子弟を特勒と謂い、別部で兵を領く者は皆これを設と謂う。その大官は屈律啜、次は阿波、次は頡利発、次は吐屯、次は俟斤であり、代々その官に居り員数はなく、父兄が死ねば子弟がこれを承襲する。

原文可汗者,猶古之單于;妻號可賀敦,猶古之閼氏也。其子弟謂之特勒,別部領兵者皆謂之設。其大官屈律啜,次阿波,次頡利發,次吐屯,次俟斤,並代居其官而無員數,父兄死則子弟承襲。

高祖こうそが太原で挙兵した時、大将軍府司馬劉文静を始畢のもとに派遣して聘問し、援けと為さんことを求めた。始畢はその特勒康稍利らを遣わして馬千匹を献上させ、絳郡で会した。また二千騎を派遣して軍を助けさせ、京城平定に従った。高祖が即位すると、前後して賞賜すること、数え切れないほどであった。始畢は自らその功を恃み、ますます驕慢横暴となった。使者を長安ちょうあんに遣わすごとに、甚だ横暴で恣にすることが多かった。高祖は中原が未だ定まっていないため、常に寛容に扱った。

原文高祖起義太原,遣大將軍府司馬劉文靜聘於始畢,引以為援。始畢遣其特勒康稍利等獻馬千匹,會於絳郡。又遣二千騎助軍,從平京城。及高祖即位,前後賞賜,不可勝紀。始畢自恃其功,益驕踞;每遣使者至長安,頗多橫恣。高祖以中原未定,每優容之。

武徳元年、始畢は骨咄禄特勒を使者として来朝させ、太極殿で宴を開き、『九部楽』を奏し、錦・彩・布・絹をそれぞれ差等を付けて賜った。二年二月、始畢は兵を率いて河を渡り、夏州に至り、賊帥梁師都が兵を出してこれと会し、侵入して掠奪を謀った。馬邑の賊帥劉武周に兵五百余騎を与え、句注に入らせ、また兵を追って大いに集め、太原を侵さんとした。この月、始畢が卒し、その子の什缽苾は幼くして位を嗣ぐに堪えず、泥歩設に立て、東の辺りに居らせ、幽州の北に当たらせた。その弟の俟利弗設を立て、これが処羅可汗である。

原文武德元年,始畢使骨咄祿特勒來朝,宴於太極殿,奏《九部樂》,賚錦彩布絹各有差。二年二月,始畢帥兵渡河,至夏州,賊帥梁師都出兵會之,謀入抄掠。授馬邑賊帥劉武周兵五百餘騎,遣入句註,又追兵大集,欲侵太原。是月,始畢卒,其子什缽苾以年幼不堪嗣位,立為泥步設,使居東偏,直幽州之北。立其弟俟利弗設,是為處羅可汗。

処羅可汗が位を嗣ぎ、また隋の義成公主を妻とし、使者を入朝させて喪を告げた。高祖はこのために哀悼の意を示し、三日間朝を停め、詔して百官に館に赴きその使者を弔問させ、また内史舎人鄭徳挺を派遣して処羅を弔問し、物三万段を賜った。処羅はこの後頻りに使者を派遣して朝貢した。先に、隋の煬帝の蕭后および斉王暕の子の政道が、竇建徳に陥っていた。三年二月、処羅はこれを迎え、牙の在所に至り、政道を隋王に立てた。隋末に中国人で虜庭にいた者は、全て政道に隷属させ、隋の正朔を行い、百官を置き、定襄城に居住し、徒一万を有した。時に太宗は藩国におり、詔を受けて劉武周を討ち、軍は太原に駐屯した。処羅はその弟の歩利設を遣わして二千騎を率いさせ官軍と会した。六月、処羅は并へい州に至り、総管李仲文が出迎えて労った。三日留まり、城中の美しい婦人の多くが掠奪され、仲文は制止できなかった。間もなく、処羅が卒し、義成公主はその子の奥射設が醜く弱いとして、廃して立てず、遂に処羅の弟の咄苾を立て、これが頡利可汗である。

原文處羅可汗嗣位,又以隋義成公主為妻,遣使入朝告喪。高祖為之舉哀,廢朝三日,詔百官就館吊其使者,又遣內史舍人鄭德挺往吊處羅,賜物三萬段。處羅此後頻遣使朝貢。先是,隋煬帝蕭後及齊王暕之子政道,陷於竇建德。三年二月,處羅迎之,至於牙所,立政道為隋王。隋末中國人在虜庭者,悉隸於政道,行隋正朔,置百官,居於定襄城,有徒一萬。時太宗在籓,受詔討劉武周,師次太原,處羅遣其弟步利設率二千騎與官軍會。六月,處羅至并州,總管李仲文出迎勞之。留三日,城中美婦人多為所掠,仲文不能制。俄而,處羅卒,義成公主以其子奧射設醜弱,廢不立之,遂立處羅之弟咄苾,是為頡利可汗。

頡利可汗は、啓民可汗の第三子である。初め莫賀咄設となり、牙を五原の北に置いた。高祖が長安に入った時、薛挙がなお隴右を拠り、その将の宗羅〓を遣わして平涼郡を攻め陥れ、北は頡利と連結した。高祖はこれを憂い、光禄卿宇文歆を派遣して金帛を携えさせ頡利を賂った。歆はこれを説き、薛挙との交わりを絶たしめた。初め、隋の五原太守張長遜は、乱に乗じてその管轄する五原城を突厥に隷属させていた。歆はまた頡利を説き、長遜を入朝させ、五原の地を我が方に帰属させた。頡利はともにこれに従い、突厥の兵および長遜の衆を発して、ともに太宗の軍の在所で会した。武徳三年、頡利はまた義城公主を納れて妻とし、始畢の子の什缽苾を突利可汗とし、使者を入朝させ、処羅の死を告げた。高祖はこのために一日朝を停め、詔して百官に館に赴きその使者を弔問させた。

原文頡利可汗者,啟民可汗第三子也。初為莫賀咄設,牙直五原之北。高祖入長安,薛舉猶據隴右,遣其將宗羅〓攻陷平涼郡,北與頡利連結。高祖患之,遣光祿卿宇文歆賫金帛以賂頡利。歆說之,令絕交於薛舉。初,隋五原太守張長遜,因亂以其所部五原城隸於突厥。歆又說頡利遣長遜入朝,以五原地歸於我。頡利並從之,因發突厥兵及長遜之眾,並會於太宗軍所。武德三年,頡利又納義城公主為妻,以始畢之子什缽苾為突利可汗,遣使入朝,告處羅死。高祖為之罷朝一日,詔百官就館吊其使。

頡利が初めて位を嗣いだ時、父兄の資産を承け、兵馬は強盛であった。中国を凌駕する志があった。高祖は中原が初めて定まったばかりで、外征に遑がなく、常に寛容に扱い、賜与すること数え切れなかった。頡利の言辞は傲慢で、求め請うことに厭きることがなかった。四年四月、頡利は自ら万余騎を率い、馬邑の賊苑君璋の将兵六千人とともに雁門を攻めた。定襄王李大恩がこれを撃退した。先に漢陽公蘇瑰・太常卿鄭元璹・左驍ぎょう衛大将軍長孫順徳らがそれぞれ突厥に使いし、頡利は皆これを拘束した。我が方もまたその使者を留め、前後数輩に及んだ。ここに至り大恩に挫かれたため、ここにおいてようやく懼れ、やがて順徳を放還し、改めて和好を請うた。魚膠数十斤を献じ、二国がこの膠のように同体であることを充たさんとした。高祖はこれを嘉し、その使者の特勒熱寒・阿史徳らを放って蕃に還らせ、金帛を賜った。

原文頡利初嗣立,承父兄之資,兵馬強盛。有憑陵中國之志。高祖以中原初定,不遑外略,每優容之,賜與不可勝計。頡利言辭悖傲,求請無厭。四年四月,頡利自率萬餘騎,與馬邑賊苑君璋將兵六千人共攻雁門。定襄王李大恩擊走之。先是漢陽公蘇瑰、太常卿鄭元璹、左驍衛大將軍長孫順德等各使於突厥,頡利並拘之。我亦留其使,前後數輩。至是為大恩所挫,於是乃懼,仍放順德還,更請和好。獻魚膠數十斤,欲充二國同於此膠。高祖嘉之,放其使者特勒熱寒、阿史德等還蕃,賜以金帛。

五年春、李大恩が上奏して言うには、突厥は饑饉にあり、馬邑は攻略できると。詔して大恩と殿内少監独孤晟に師を率いて苑君璋を討たせ、二月に馬邑で会することを期した。晟は期日に遅れて至らず、大恩は独り進むことができず、兵を新城に頓してこれを待った。頡利は数万騎を派遣して劉黒闥と合軍し、進んで大恩を包囲した。王師は敗れ、大恩は陣に歿し、死者数千人に及んだ。六月、劉黒闥はまた突厥万余騎を引き入れて河北に侵入し掠奪した。頡利はまた自ら五万騎を率いて南侵し、汾州に至った。また数千騎を派遣して西の霊・原等州に入らせた。詔して隠太子に豳州道より出で、太宗に蒲州道より出でてこれを討たしめた。時に頡利は并州を攻囲し、また兵を分けて汾・潞等州に入り、男女五千余口を掠奪したが、太宗の兵が蒲州に至ったと聞き、乃ち兵を率いて塞外に出た。

原文五年春,李大恩奏言突厥饑荒,馬邑可圖。詔大恩與殿內少監獨孤晟帥師討苑君璋,期以二月會於馬邑。晟後期不至,大恩不能獨進,頓兵新城以待之。頡利遣數萬騎與劉黑闥合軍,進圍大恩。王師敗績,大恩歿於陣,死者數千人。六月,劉黑闥又引突厥萬餘騎入抄河北。頡利復自率五萬騎南侵,至於汾州。又遣數千騎西入靈、原等州,詔隱太子出豳州道,太宗出蒲州道以討之。時頡利攻圍并州,又分兵入汾、潞等州,掠男女五千餘口,聞太宗兵至蒲州,乃引兵出塞。

七年八月、頡利・突利の二可汗が国を挙げて入寇し、道は原州より取り、営を連ねて南上した。太宗は詔を受けて北討し、斉王元吉がこれに隷属した。初め、関中に長雨が降り、糧食の輸送が途絶え、太宗は甚だこれを憂い、諸将の憂色が顔に現れ、兵を豳州に頓した。頡利・突利が万余騎を率いて急に城西に至り、高きに乗じて陣し、将士は大いに驚いた。太宗は乃ち自ら百騎を率いて馳せ虜陣に詣り、これに告げて言うには、「国家と可汗は誓って互いに背かぬと約したのに、何故に約を背き深く我が地に入るのか。我は秦王なり、故に来たりて一決せん。可汗若し自ら来るならば、我は可汗と二人だけで戦わん。若し兵馬を総べて来るならば、我は唯百騎をもって防ぐのみ」と。頡利はこれを測りかね、笑って答えなかった。太宗はまた前に進み、騎に命じて突利に告げさせて言うには、「爾は往時に我と盟し、急難には相救うと約した。爾今兵を率いて来るとは、何ぞ香火の情なきや。亦た早く出でて、一決勝負すべし」と。突利もまた答えなかった。太宗は前に進み、溝水を渡らんとした。頡利は太宗が軽々しく出でたのを見、又香火の言を聞き、乃ち密かに突利を猜疑した。そこで使者を遣わして言うには、「王は渡るに及ばず、我に悪意は無く、更に王と共に自ら断じ当たらんと欲するのみ」と。ここにおいて少し引き退き、各々軍を収めて退いた。太宗はそこで反間を突利に施し、突利は喜んで心を帰し、遂に戦わんと欲しなくなった。その叔侄は内に離れ、頡利は戦いたくともできず、そこで突利および夾畢特勒阿史那思摩を遣わして奉見させ和を請うたので、これを許した。突利はそこで自ら太宗に託し、兄弟となることを願って結んだ。思摩が初めて奉見した時、高祖は引き上げて御榻に就かせようとしたが、額を地に叩いて固く辞した。高祖はこれに謂って言うには、「頡利が誠心を以て特勒を遣わして朝拝せしむ。今特勒を見るは、頡利を見るが如し」と。固く引き上げ、乃ち座に就かせ、間もなく思摩を和順王に封じた。

原文七年八月,頡利、突利二可汗舉國入寇,道自原州,連營南上。太宗受詔北討,齊王元吉隸焉。初,關中霖雨,糧運阻絕,太宗頗患之,諸將憂見於色,頓兵於豳州。頡利、突利率萬餘騎奄至城西,乘高而陣,將士大駭。太宗乃親率百騎馳詣虜陣,告之曰:「國家與可汗誓不相負,何為背約深入吾地?我秦王也,故來一決。可汗若自來,我當與可汗兩人獨戰;若欲兵馬總來,我唯百騎相禦耳。」頡利弗之測,笑而不對。太宗又前,令騎告突利曰:「爾往與我盟,急難相救;爾今將兵來,何無香火之情也?亦宜早出,一決勝負。」突利亦不對。太宗前,將渡溝水,頡利見太宗輕出,又聞香火之言,乃陰猜突利。因遣使曰:「王不須渡,我無惡意,更欲共王自斷當耳。」於是稍引卻,各斂軍而退。太過因縱反間於突利,突利悅而歸心焉,遂不欲戰。其叔侄內離,頡利欲戰不可,因遣突利及夾畢特勒阿史那思摩奉見請和,許之。突利因自托於太宗,願結為兄弟。思摩初奉見,高祖引升禦榻,頓顙固辭。高祖謂曰:「頡利誠心遣特勒朝拜,今見特勒,如見頡利。」固引之,乃就坐,尋封思摩為和順王。

八年七月、頡利は兵十余万を集め、朔州を大いに掠め、また太原において将軍張瑾を襲う。張瑾は全軍ともに没し、身一つで李靖のもとに奔る。出師して拒戦す。頡利は進むを得ず、并州に屯す。太宗は師を帥いてこれを討ち、蒲州に次ぐ。頡利は兵を引いて去り、太宗は師を旋す。

原文八年七月,頡利集兵十餘萬,大掠朔州,又襲將軍張瑾於太原。瑾全軍並沒,脫身奔於李靖。出師拒戰,頡利不得進,屯於并州。太宗帥師討之,次蒲州;頡利引兵而去,太宗旋師。

九年七月、頡利みずから十余万騎を率いて武功に進み寇し、京師は戒厳す。己卯、高陵に進み寇す。行軍総管左武候大将軍尉遅敬徳これと涇陽において戦い、大いにこれを破り、俟斤阿史徳烏没啜を獲、首千余級を斬る。癸未、頡利はその腹心執失思力を遣わし入朝して覘と為し、みずから形勢を張りて云う、「二可汗総兵百万、今すでに至れり」と。太宗これに謂いて曰く、「我と突厥は面を自ら和親す、汝はすなわちこれを背く、我は実に愧ずるところなし。また義軍京に入るの初め、爾父子ともに親しく従い、我は汝に玉帛を賜う、前後極めて多し、何の故にか輒ち兵を将いて我が畿県に入るや。爾は突厥と雖も、また須らく頗る人心あるべし、何の故にか大恩を全く忘れ、みずから強盛を誇るや。我まさに先ず爾を戮さん」と。思力は懼れて命を請う。太宗は許さず、門下省においてこれを縶ぐ。

原文九年七月,頡利自率十餘萬騎進寇武功,京師戒嚴。己卯,進寇高陵,行軍總管左武候大將軍尉遲敬德與之戰於涇陽,大破之,獲俟斤阿史德烏沒啜,斬首千餘級。癸未,頡利遣其腹心執失思力入朝為覘,自張形勢云:「二可汗總兵百萬,今已至矣。」太宗謂之曰:「我與突厥面自和親,汝則背之,我實無愧。又義軍入京之初,爾父子並親從,我賜汝玉帛,前後極多,何故輒將兵入我畿縣?爾雖突厥,亦須頗有人心,何故全忘大恩,自誇強盛?我當先戮爾矣!」思力懼而請命,太宗不許,縶之於門下省。

太宗は侍中高士廉・中書令房玄齢・将軍周範と馳せて六騎、渭水の上に幸し、頡利と津を隔てて語り、負約を責む。その酋帥大いに驚き、皆下馬して羅拝す。俄にして、衆軍継いて至る。頡利は軍容の大いに盛んなるを見、また思力の就拘せらるるを知り、ここにおいて大いに懼る。太宗は独り頡利と臨水して交言し、諸軍を麾して却きて陣せしむ。蕭瑀は軽敵を以て固く馬前に諫む。上曰く、「吾すでにこれを籌う、卿の知る所に非ざるなり。突厥の所以にその境内を掃い、直ちに渭濱に入るは、応に我が国家初めに内難有り、朕また新たに九五に登り、将に敢えてこれに拒まざるを謂うを聞くべし。朕もし門を閉ざさば、虜必ず大いに掠め、強弱の勢、今に一挙に在り。朕故に独り出で、以てこれを軽んずるを示す。また軍容を耀かし、必ず戦うを知らしむ。事出ずるに意に不ならば、その本図に乖く。虜入ること既に深ければ、理当に自ら懼るべし。これと戦えば則ち必ず克ち、これと和すれば則ち必ず固し。匈奴を制服するは、ここより始まる」と。この日、頡利は和を請う。詔してこれを許す。車駕は即日宮に還る。乙酉、また城西に幸し、白馬を刑して頡利と便橋の上に同盟す。頡利は兵を引いて退く。蕭瑀進みて曰く、「初め、頡利の未だ和せざるや、謀臣猛将多く戦を請う。而るに陛下納れず、臣疑いを為す。既にして虜自ら退く、その策いずくにか在る」と。上曰く、「我、突厥の兵を観るに、衆と雖も整わず、君臣の計、唯だ財利を視る。可汗独り水西に在り、酋帥皆来たりて我を謁す。我よってその衆を襲撃せば、勢朽を拉ぐに同じ。然れども我すでに無忌・李靖に令して幽州に伏を設けてこれを待たしむ。虜もし奔還せば、伏兵その前を邀え、大軍その後を躡えば、これを覆すこと掌を反すが如し。我の所以に戦わざる者は、即位日浅く、国の道と為すに、安静を務めと為す。一たび虜と戦えば、必ず死傷有り。また匈虜一敗すれば、或いは懼れて徳を修め、我に怨を結び、患い小さからず。我今甲を巻き戈を韜み、玉帛を以てこれを陷る。頑虜驕恣す、必ずここより始まる。破亡の漸、それここに在るか。将にこれを取らんと欲すれば、必ず固くこれに与う、これをこれと謂う」と。九月、頡利は馬三千匹・羊一万口を献ず。上受けず。詔して頡利の掠めし中国戸口の者、悉くこれを帰せしむ。

原文太宗與侍中高士廉、中書令房玄齡、將軍周範馳六騎幸渭水之上,與頡利隔津而語,責以負約。其酋帥大驚,皆下馬羅拜。俄而,眾軍繼至,頡利見軍容大盛,又知思力就拘,由是大懼。太宗獨與頡利臨水交言,麾諸軍卻而陣焉。蕭瑀以輕敵固諫於馬前,上曰:「吾已籌之,非卿所知也。突厥所以掃其境內,直入渭濱,應是聞我國家初有內難,朕又新登九五,將謂不敢拒之。朕若閉門,虜必大掠,強弱之勢,在今一舉。朕故獨出,以示輕之;又耀軍容,使知必戰。事出不意,乖其本圖,虜入既深,理當自懼。與戰則必克,與和則必固,制服匈奴,自茲始矣!」是日,頡利請和,詔許焉。車駕即日還宮。乙酉,又幸城西,刑白馬與頡利同盟於便橋之上,頡利引兵而退。蕭瑀進曰:「初,頡利之未和也,謀臣猛將多請戰,而陛下不納,臣以為疑。既而虜自退,其策安在?」上曰:「我觀突厥之兵,雖眾而不整,君臣之計,唯財利是視。可汗獨在水西,酋帥皆來謁我,我因而襲擊其眾,勢同拉朽。然我已令無忌、李靖設伏於幽州以待之,虜若奔還,伏兵邀其前,大軍躡其後,覆之如反掌矣!我所以不戰者,即位日淺,為國之道,安靜為務,一與虜戰,必有死傷;又匈虜一敗,或當懼而修德,結怨於我,為患不細。我今卷甲韜戈,陷以玉帛,頑虜驕恣,必自此始,破亡之漸,其在茲乎!將欲取之,必固與之,此之謂也!」九月,頡利獻馬三千匹,羊萬口,上不受;詔頡利所掠中國戶口者悉令歸之。

貞観元年、陰山已北の薛延陀・回紇・抜也古等の部、皆相率いて背叛し、その欲谷設を撃走す。頡利は突利を遣わしてこれを討たしむ。師また敗績し、軽騎して奔還す。頡利怒り、これを拘すること十余日。突利ここにより怨望し、内にこれを背かんと欲す。その国大雪、平地数尺、羊馬皆死し、人大いに饑え、ここにおいて我が師の出でてその弊に乗ずるを懼る。兵を引いて朔州に入り、会猟と揚言し、実に設備す。侍臣咸に曰く、「夷狄に信無く、先ず自ら猜疑し、盟後に兵を将い、忽ち疆境を践む。その便に乗じ、数たび背約を以て、よってこれを討つべし」と。太宗曰く、「匹夫一言、尚お須らく信を存す、況や天下の主をや。豈に親しくこれと和し、その災禍を利して危険に乗じてこれを滅ぼすことあらんや。諸公は可と為すも、朕は為さず。縦え突厥部落叛き尽くし、六畜皆死すとも、朕終に信を示し、妄りにこれを討たず。その無礼を待ちて、方に擒取るのみ」と。

原文貞觀元年,陰山已北薛延陀、回紇、拔也古等部皆相率背叛,擊走其欲谷設。頡利遣突利討之,師又敗績,輕騎奔還。頡利怒,拘之十餘日;突利由是怨望,內欲背之。其國大雪,平地數尺,羊馬皆死,人大饑,乃懼我師出乘其弊。引兵入朔州,揚言會獵,實設備焉。侍臣咸曰:「夷狄無信,先自猜疑,盟後將兵,忽踐疆境。可乘其便,數以背約,因而討之。」太宗曰:「匹夫一言,尚須存信,何況天下主乎!豈有親與之和,利其災禍而乘危迫險以滅之耶?諸公為可,朕不為也。縱突厥部落叛盡,六畜皆死,朕終示以信,不妄討之;待其無禮,方擒取耳。」

二年、突利は使いを遣わし奏言して頡利と隙有るを奏し、これを撃つことを請う。詔して秦武通に并州兵馬を以て便宜応接せしむ。三年、薛延陀はみずから漠北において可汗と称し、使いを遣わし来たりて方物を貢す。頡利始めて臣を称し、公主を尚び、婿礼を修めんことを請う。頡利は毎に諸胡を委任し、族類を疏遠にす。胡人は貪冒にして、性多く翻覆す。以て故に法令滋しく彰れ、兵革歳ごとに動き、国人これを患い、諸部携貳す。頻年大雪、六畜多く死し、国中大いに餒え、頡利の用度給わず、また諸部に重く斂む。ここにより下命に堪えず、内外多くこれに叛く。上はその和を請い、後にまた梁師都を援けるを以て、詔して兵部尚書李靖・代州都督ととく張公謹に出でて定襄道を、并州都督李勣・右武衛将軍丘行恭に出でて通漢道を、左武衛大将軍柴紹に出でて金河道を、衛孝節に出でて恆安道を、薛万徹に出でて暢武道を、並びに靖の節度を受けてこれを討たしむ。十二月、突利可汗及び郁射設・廕奈特勒等、並びにその部を帥いて来奔す。

原文二年,突利遣使奏言與頡利有隙,奏請擊之,詔秦武通以并州兵馬隨便應接。三年,薛延陀自稱可汗於漠北,遣使來貢方物。頡利始稱臣,尚公主,請修婿禮。頡利每委任諸胡,疏遠族類,胡人貪冒,性多翻覆,以故法令滋彰,兵革歲動,國人患之,諸部攜貳。頻年大雪,六畜多死,國中大餒,頡利用度不給,復重斂諸部,由是下不堪命,內外多叛之。上以其請和,後復援梁師都,詔兵部尚書李靖、代州都督張公謹出定襄道。并州都督李勣、右武衛將軍丘行恭出通漢道,左武衛大將軍柴紹出金河道,衛孝節出恆安道,薛萬徹出暢武道,並受靖節度以討之。十二月,突利可汗及郁射設、廕奈特勒等,並帥所部來奔。

四年正月、李靖は進みて悪陽嶺に屯し、夜に定襄を襲う。頡利驚擾し、よって牙を磧口に徙す。胡酋康蘇密等、ここにおいて隋の蕭後及び楊政道を以て来降す。二月、頡利計窮まり、鉄山に竄る。兵なお数万、執失思力をして入朝して謝罪せしめ、挙国して内附せんことを請う。太宗は鴻臚卿唐儉・将軍安修仁を遣わし、節を持してこれを安撫せしむ。頡利稍々自ら安んず。靖は間を乗じて襲撃し、大いにこれを破り、ここにおいてその国を滅ぼす。頡利は千里馬に乗り、独り騎して従姪沙缽羅の部落に奔る。三月、行軍副総管張宝相、衆を率いて奄に沙缽羅の営に至り、生け捕りに頡利をして京師に送る。太宗これに謂いて曰く、「凡そ我に功有る者は、必ず忘れず、我に悪有る者は、終にも記さず。爾が罪状を論ずれば、誠に小さからず。但だ渭水にて曾て面を為して盟し、ここより以来、深く犯すこと未だ有らず。所以にこれを録し、相責めず耳」と。仍て詔してその家口を還し、太僕に館し、食を稟かしむ。頡利郁郁として志を得ず、その家人と或いは相対して悲歌して泣く。帝は羸憊を見て、虢州刺史を授け、彼の土は多く麞鹿有るを以て、その畋猟を縦し、庶くは物性を失わざらしむ。頡利は往くを願わずと辞す。ここにおいて右衛大将軍を授け、田宅を賜う。

原文四年正月,李靖進屯惡陽嶺,夜襲定襄,頡利驚擾,因徙牙於磧口。胡酋康蘇密等遂以隋蕭後及楊政道來降。二月,頡利計窘,竄於鐵山,兵尚數萬,使執失思力入朝謝罪,請舉國內附。太宗遣鴻臚卿唐儉、將軍安修仁持節安撫之,頡利稍自安。靖乘間襲擊,大破之,遂滅其國。頡利乘千里馬,獨騎奔於從侄沙缽羅部落。三月,行軍副總管張寶相率眾奄至沙缽羅營,生擒頡利送於京師。太宗謂曰:「凡有功於我者,必不能忘,有惡於我者,終亦不記。論爾之罪狀,誠為不小,但自渭水曾面為盟,從此以來,未有深犯,所以錄此,不相責耳!」仍詔還其家口,館於太僕,稟食之。頡利郁郁不得志,與其家人或相對悲歌而泣。帝見羸憊,授虢州刺史,以彼土多麞鹿,縱其畋獵,庶不失物性。頡利辭不願往,遂授右衛大將軍,賜以田宅。

五年、太宗は侍臣に謂いて曰く、「天道は善に福し淫に禍す、事は猶お影の響に似たり。昔、啓民は国を亡ぼして隋に奔る。文帝は粟帛を吝しまず、大いに士衆を興し、営衛して安置し、ここにおいて存立を得たり。既にして強盛に当たり、須らく子子孫孫思念して徳に報ずべし。才に始畢に至りて、即ち兵を起して雁門において煬帝を囲み、及び隋国将に乱れんとするや、また強を恃みて深く入り、ここにおいて昔その家国を安立せし者、身及び子孫、並びに頡利兄弟の屠戮する所と為る。今、頡利破亡す、豈に背恩忘義の致す所に非ざらんや」と。

原文五年,太宗謂侍臣曰:「天道福善禍淫,事猶影響。昔啟民亡國奔隋,文帝不吝粟帛,大興士眾,營衛安置,乃得存立。既而強盛,當須子子孫孫思念報德。才至始畢,即起兵圍煬帝於雁門,及隋國將亂,又恃強深入,遂使昔安立其家國者,身及子孫,並為頡利兄弟之所屠戮。今頡利破亡,豈非背恩忘義所致也!」

八年に卒去し、詔してその国の人に葬らせ、その俗礼に従い、屍を灞水の東で焚き、帰義王を贈り、諡して荒と曰う。その旧臣胡祿達官吐谷渾邪は自刎して殉じた。

原文八年卒,詔其國人葬之,從其俗禮,焚屍於灞水之東,贈歸義王,謚曰荒。其舊臣胡祿達官吐谷渾邪自刎以殉。

渾邪は、頡利の母婆施氏の媵臣なり。頡利の初誕の時、渾邪に託し、ここに至り哀慟して死す。太宗聞きてこれを異とし、中郎将を贈り、なお頡利の墓側に葬り、碑を樹ててこれを紀す。

原文渾邪者,頡利之母婆施氏之媵臣也。頡利初誕,以付渾邪,至是哀慟而死。太宗聞而異之,贈中郎將,仍葬於頡利墓側,樹碑以紀之。

突利可汗什缽苾は、始畢可法の嫡子、頡利の甥なり。隋の大業中、突利は数歳の年、始畢遣わしてその東牙の兵を領せしめ、号して泥歩設とす。隋の淮南公主の北するや、遂にこれを妻とす。頡利嗣位し、以て突利可汗と為し、牙を幽州の北に直す。突利は東偏に在り、奚、〓等数十部を管し、征稅度なく、諸部多くこれを怨む。貞観初、奚、〓等並びに来り帰附す。頡利その衆を失えるを怒り、遣わして北に延陀を征せしめ、また師を喪い、遂に囚えて撻つ。

原文突利可汗什缽苾者,始畢可法之嫡子,頡利之侄也。隋大業中,突利年數歲,始畢遣領其東牙之兵,號為泥步設。隋淮南公主之北也,遂妻之。頡利嗣位,以為突利可汗,牙直幽州之北。突利在東偏,管奚、〓等數十部,征稅無度,諸部多怨之。貞觀初,奚,〓等並來歸附,頡利怒其失眾,遣北征延陀,又喪師,遂囚而撻焉。

突利は初め武徳の時より、深く自ら太宗に結び、太宗もまた恩義を以てこれを撫で、兄弟と結び、盟して去る。後ち頡利の政乱し、驟に兵を突利に征すも、拒んで与えず、ここによりて隙あり。貞観三年、表して入朝を請う。上侍臣に謂いて曰く、「朕前代国を為す者を観るに、心を労して万姓を憂うれば、世祚乃ち長し。人を役してその身を奉らしむれば、社稷必ず滅ぶ。今北蕃の百姓喪亡す。誠にその君君たらずの故なり。至って突利をして情願入朝せしむるは、困迫に非ざれば、何ぞ能くここに至らんや。夷狄弱ければ則ち辺境虞無く、また甚だ慰むべきなり。然れどもその顛狽を見れば、また懼れざるを得ず。然る所以の者は、己に逮わざる有るを慮り、禍変もまた爾らんことを恐るるなり。朕今視て遠く見ること能わず、聴いて遠く聞くこと能わず、唯だ公等の忠を尽くして匡弼するを藉るのみ。諫諍に惰ること無かれ」と。突利尋いで頡利に攻められ、使いを遣わして来たり師を乞う。太宗近臣に謂いて曰く、「朕は突利と兄弟を結ぶ、救わざるべからず」と。杜如晦進みて曰く、「夷狄に信無く、その来ること久し。国家と雖も約を守るも、彼必ずこれを背く。その乱に因りてこれを取るに若かず、いわゆる乱を取り亡を侮るの道なり」と。太宗これを然りとす。因って将軍周範に令して太原に屯せしめ、以て進取を図らしむ。突利乃ちその衆を率いて来奔す。太宗これを礼すること甚だ厚く、頻りに御膳を賜う。

原文突利初自武德時,深自結於太宗;太宗亦以恩義撫之,結為兄弟,與盟而去。後頡利政亂,驟征兵於突利,拒之不與,由是有隙。貞觀三年,表請入朝。上謂侍臣曰:「朕觀前代為國者,勞心以憂萬姓,世祚乃長;役人以奉其身,社稷必滅。今北蕃百姓喪亡。誠由其君不君之故也。至使突利情願入朝,若非困迫,何能至此?夷狄弱則邊境無虞,亦甚為慰。然見其顛狽,又不能不懼,所以然者,慮己有不逮,恐禍變亦爾。朕今視不能遠見,聽不能遠聞,唯藉公等盡忠匡弼,無得惰於諫諍也。」突利尋為頡利所攻,遣使來乞師。太宗謂近臣曰:「朕與突利結為兄弟,不可以不救。」杜如晦進曰:「夷狄無信,其來自久,國家雖為守約,彼必背之。不若因其亂而取之,所謂取亂侮亡之道。」太宗然之。因令將軍周範屯太原,以圖進取。突利乃率其眾來奔,太宗禮之甚厚,頻賜以禦膳。

四年、右衛大将軍を授け、北平郡王に封じ、食邑封七百戸とし、その下の兵衆を以て順祐等州を置き、部落を帥いて蕃に還らしむ。太宗これに謂いて曰く、「昔爾が祖啓民は兵馬を亡失し、一身隋に投ず。隋家これを翌立し、遂に強盛に至る。隋の恩に荷い、未だ徳を報いず。爾が父始畢に至りて、乃ち隋家の患と為る。爾已後より、歳無く中国を侵擾せず。天実に淫を禍し、大いに災変を降す。爾が衆散乱し、死亡略く尽きんとす。事窮したる後、乃ち来たり我に投ず。我が爾を立てて可汗と為さざる所以の者は、正に啓民の前事の故なり。前法を改変し、中国の久安を欲し、爾が宗族の永固を図る。是を以て爾に都督を授く。当に須らく我が国法に依り、所部を整斉し、妄りに相侵掠すること得ず。もし違う所あらば、当に重罪を獲ん」と。

原文四年,授右衛大將軍,封北平郡王,食邑封七百戶,以其下兵眾置順祐等州,帥部落還蕃。太宗謂曰:「昔爾祖啟民亡失兵馬,一身投隋,隋家翌立,遂至強盛,荷隋之恩,未嘗報德。至爾父始畢,乃為隋家之患,自爾已後,無歲不侵擾中國。天實禍淫,大降災變,爾眾散亂,死亡略盡。既事窮後,乃來投我,我所以不立爾為可汗者,正為啟民前事故也。改變前法,欲中國久安,爾宗族永固,是以授爾都督。當須依我國法,整齊所部,不得妄相侵掠,如有所違,當獲重罪。」

五年、征して入朝せしむ。并州に至り、道中病みて卒す。年二十九。太宗この為に哀を挙げ、詔して中書侍郎岑文本にその碑文を為さしむ。子賀邏鶻嗣ぐ。

原文五年,征入朝,至并州,道病卒,年二十九。太宗為之舉哀,詔中書侍郎岑文本為其碑文。子賀邏鶻嗣。

突利の弟結社率、貞観初に入朝し、歴位して中郎将。十三年、幸に従いて九成宮に至る。陰に部落を結びて四十余人を得、並びに賀邏鶻を擁し、相与に夜御営を犯し、第四重の幕を逾え、弓を引きて乱発し、衛士数十人を殺す。折衝孫武開兵を率いて奮撃し、乃ち退く。北走して渭水を渡り、その部落に奔らんと欲す。尋いで皆捕らえてこれを斬る。詔して賀邏鶻を原し、嶺外に流す。

原文突利弟結社率,貞觀初入朝,歷位中郎將。十三年,從幸九成宮,陰結部落得四十餘人,並擁賀邏鶻,相與夜犯御營,逾第四重幕,引弓亂發,殺衛士數十人。折沖孫武開率兵奮擊,乃退。北走渡渭水,欲奔其部落。尋皆捕而斬之,詔原賀邏鶻,流於嶺外。

頡利の敗るるや、その部落は或いは薛延陀に走り、或いは西域に走り、来り降る者甚だ衆し。詔して辺を安んずるの術を議す。朝士多く言う、突厥は強を恃み、中国を擾乱すること日久し。今天実にこれを喪わしめ、窮して我に帰す。本より義を慕うの心に非ず。その帰命に因り、その種落を分かち、これを河南の兗・豫よの地に俘え、州県に散居せしめ、各々耕織せしめば、百万の胡虜も百姓と化すべく、則ち中国に戸を加うるの利あり、塞北は常に空しきを得んと。唯だ中書令温彦博議して、漢の建武の時に準い、降匈奴を五原塞下に置くことを請う。その部落を全うし、捍蔽と為るを得しめ、またその土俗を離れず、これに因りて撫でば、一には則ち空虚の地を実にし、二には則ち猜心無きを示す。もし河南の兗・豫に向かわしむれば、則ち物性に乖き、故に含育の道に非ずと。太宗将にこれに従わんとす。秘書監魏征奏して言う、「突厥は古今より今に至るまで、斯の如き破敗あること未だ有らず。これは上天の剿絶、宗廟の神武なり。且つその世に中国を寇し、百姓の冤仇たり。陛下その降伏するを以て、誅滅すること能わず、即ち宜しく河北に遣い還し、その故土に居らしむべし。匈奴は人面獣心、我が族類に非ず。強ければ必ず寇盗し、弱ければ則ち卑服す。恩義を顧みず、その天性なり。秦・漢その若きを患い、故に猛将を発してこれを撃ち、河南を収取して郡県と為す。陛下奈何ぞ内地にこれを居らしむるや!且つ今降る者幾十万に至らんとす。数年之間に、孳息百倍し、我が肘腋に居り、密邇王畿、心腹の疾、将に後患と為らんとす。尤も河南に処すべからず」と。温彦博奏して曰く、「天子の物に於けるや、天覆い地載す。我に帰する者有らば、則ち必ずこれを養う。今突厥破滅の余、心を帰して降附す。陛下憐湣を加えず、棄てて納れざれば、天地の道に非ず、四夷の意を阻ぐ。臣愚甚だ謂う、不可なりと。河南に遣い居らしむるは、いわゆる死してこれを生かし、亡してこれを存するなり。我が徳恵を懐い、終に叛逆無からん」と。魏征また曰く、「晋代に魏の時胡落有り、近郡に分居す。呉を平げたる已後、郭欽・江統武帝を勧めて塞外に逐い出す。欽等の言を用いず、数年之後、遂に瀍・洛を傾く。前代の覆車、殷鑒遠からず。陛下必ず彦博の言を用い、河南に遣い居らしむれば、いわゆる獣を養いて自ら患いを遺すなり!」彦博また曰く、「聖人の道を聞くに、通ぜざる所無し。古先の哲王、類無きを教う有り。突厥の余魂、命を以て我に帰す。我これを援護し、内地に収め居らしめ、我が指麾に稟き、礼法を教えれば、数年之後、尽く農民と為らん。その酋首を選び、宿衛に遣い居らしめ、威を畏れ徳を懐えば、何の患いか有らん。光武南単于を内郡に居らしめ、漢の籓翰と為し、一代を終うるまで、叛逆有ること無し」と。彦博既に口給にして、類を引きて百端す。太宗遂にその計を用い、朔方の地に於いて、幽州より霊州に至るまで順・祐・化・長の四州都督府を置き、また頡利の地六州を分かち、左に定襄都督府を置き、右に雲中都督府を置き、以てその部衆を統べしむ。その酋首至る者は、皆将軍・中郎将等の官に拝し、朝廷に布列す。五品以上百余り、これに因りて長安に入居する者数千家。結社率の反するより、太宗始めてこれを患う。また上書する者多く雲う、突厥を中国に処するは、殊に便に非ずと謂う。乃ち河北に徙し、右武候大将軍・化州都督・懷化郡王思摩を立てて乙彌泥孰侯利苾可汗と為し、姓を李氏に賜い、所部を率いて河北に牙を建てしむ。

原文頡利之敗也,其部落或走薛延陀,或走西域,而來降者甚眾。詔議安邊之術。朝士多言突厥恃強,擾亂中國,為日久矣。今天實喪之,窮來歸我,本非慕義之心。因其歸命,分其種落,俘之河南兗、豫之地,散居州縣,各使耕織,百萬胡虜可得化為百姓,則中國有加戶之利,塞北可常空矣。唯中書令溫彥博議請準漢建武時置降匈奴於五原塞下。全其部落,得為捍蔽,又不離其土俗,因而撫之,一則實空虛之地,二則示無猜心。若遣向河南兗、豫,則乖物性,故非含育之道。太宗將從之。秘書監魏征奏言:「突厥自古至今,未有如斯之破敗者也,此是上天剿絕,宗廟神武。且其世寇中國,百姓冤仇,陛下以其降伏,不能誅滅,即宜遣還河北,居其故土。匈奴人面獸心,非我族類,強必寇盜,弱則卑服,不顧恩義,其天性也。秦、漢患其若是,故發猛將以擊之,收取河南,以為郡縣,陛下奈何以內地居之!且今降者幾至十萬,數年之間,孳息百倍,居我肘腋,密邇王畿,心腹之疾,將為後患,尤不可河南處也。」溫彥博奏曰:「天子之於物也,天覆地載,有歸我者,則必養之。今突厥破滅之余,歸心降附,陛下不加憐湣,棄而不納,非天地之道,阻四夷之意,臣愚甚謂不可。遣居河南,所謂死而生之,亡而存之,懷我德惠,終無叛逆。」魏征又曰:「晉代有魏時胡落,分居近郡,平吳已後,郭欽、江統勸武帝逐出塞外;不用欽等言,數年之後,遂傾瀍、洛。前代覆車,殷鑒不遠,陛下必用彥博之言,遣居河南,所謂養獸自遺患也!」彥博又曰:「聞聖人之道,無所不通,古先哲王,有教無類。突厥余魂,以命歸我,我援護之,收居內地,稟我指麾,教以禮法,數年之後,盡為農民。選其酋首,遣居宿衛,畏威懷德,何患之有?光武居南單于內郡,為漢籓翰,終乎一代,不有叛逆。」彥博既口給,引類百端,太宗遂用其計,於朔方之地,自幽州至靈州置順、祐、化、長四州都督府,又分頡利之地六州,左置定襄都督府,右置雲中都督府,以統其部眾。其酋首至者,皆拜為將軍、中郎將等官,布列朝廷,五品以上百餘人,因而入居長安者數千家。自結社率之反也,太宗始患之。又上書者多雲處突厥於中國,殊謂非便,乃徙於河北,立右武候大將軍、化州都督、懷化郡王思摩為乙彌泥孰侯利苾可汗,賜姓李氏,率所部建牙於河北。

思摩は、頡利の族の者である。始畢可汗・処羅可汗はその容貌が胡人に似て、突厥に類せず、阿史那の族類に非ざるを疑い、故に処羅・頡利の世を歴て、常に夾畢特勒と為り、終に兵を典として設たるを得ず。武徳初め、数たび来朝貢し、高祖は和順郡王に封ず。其の国乱るるに及び、諸部多く中国に帰すも、唯だ思摩は頡利に随逐し、竟に同じく擒らわる。太宗其の忠を嘉し、右武候大将軍・化州都督を除し、頡利の旧部落を河南の地に統せしめ、尋いで封を改めて懐化郡王と為す。

原文思摩者,頡利族人也。始畢、處羅以其貌似胡人,不類突厥,疑非阿史那族類,故歷處羅、頡利世,常為夾畢特勒,終不得典兵為設。武德初,數來朝貢,高祖封為和順郡王。及其國亂,諸部多歸中國,唯思摩隨逐頡利,竟與同擒。太宗嘉其忠,除右武候大將軍、化州都督,令統頡利舊部落於河南之地,尋改封懷化郡王。

将に白道の北に徙らんとするに及び、思摩等は皆薛延陀を憚り、塞を出でんことを肯わず。太宗は司農卿郭嗣本を遣わし、延陀に璽書を賜うて曰く、

原文及將徙於白道之北,思摩等咸憚薛延陀,不肯出塞。太宗遣司農卿郭嗣本賜延陀璽書曰:

「突厥頡利可汗未だ破れざる以前、自ら強盛を恃み、中国を抄掠し、百姓其の殺される者は、勝紀すべからず。我兵を発して之を撃破し、諸部落悉く帰化す。我其の旧過を略し、其の善に従うを嘉し、並びに官爵を授け、我が百僚と同じくし、所有の部落は、之を子の如く愛し、我が百姓と異ならず。但だ中国の礼義は、爾が国を滅さず、前に突厥を破るは、止だ頡利一人が百姓の害と為るを為すのみ。故に之を廃して黜くは、実に其の土地を貪らず、其の人馬を利せざるなり。頡利を黜廃して以後、恒に更に可汗を立てんと欲す。是を以て降る所の部落等を並びに河南に置き、其の放牧に任せ、今戸口羊馬日に向かって滋多し。元より冊立を許す、信を失うべからず。即ち突厥を遣わして河を渡らしめ、其の国土を復せんと欲す。我爾が延陀を策す、日月前に在り、今突厥後に居る。後者は小と為り、前者は大と為る。爾は磧北に在り、突厥は磧南に居り、各土境を守り、部落を鎮撫せよ。若し其の逾越し、故に相抄掠せば、我即ち兵を将いて各其の罪を問わん。此の約既に定まるは、便を爾が身に有するのみならず、厥の子孫に貽り、長く富貴を守らんとす。」

原文突厥頡利可汗未破已前,自恃強盛,抄掠中國,百姓被其殺者,不可勝紀。我發兵擊破之,諸部落悉歸化。我略其舊過,嘉其從善,並授官爵,同我百僚,所有部落,愛之如子,與我百姓不異。但中國禮義,不滅爾國,前破突厥,止為頡利一人為百姓之害,所以廢而黜之,實不貪其土地,利其人馬也。自黜廢頡利以後,恆欲更立可汗,是以所降部落等並置河南,任其放牧,今戶口羊馬日向滋多。元許冊立,不可失信,即欲遣突厥渡河,復其國土。我策爾延陀,日月在前,今突厥居後,後者為小,前者為大。爾在磧北,突厥居磧南,各守土境,鎮撫部落。若其逾越,故相抄掠,我即將兵各問其罪。此約既定,非但有便爾身,貽厥子孫,長守富貴也。」

ここに於いて礼部尚書趙郡王孝恭を命じ、書を賫して思摩部落に就き、壇を河上に築きて之を拝し、並びに之に鼓纛を賜う。突厥及び胡にして諸州に安置する者を、並びに河を渡りて北にせしめ、其の旧部に還らしむ。又た左屯衛将軍阿史那忠を以て左賢王と為し、左武衛将軍阿史那泥孰を以て右賢王と為す。以て之に貳わしむ。

原文於是命禮部尚書趙郡王孝恭賫書就思摩部落,築壇於河上以拜之,並賜之鼓纛。突厥及胡在諸州安置者,並令渡河北,還其舊部。又以左屯衛將軍阿史那忠為左賢王,左武衛將軍阿史那泥孰為右賢王。以貳之。

薛延陀は太宗が思摩を遣わして河北に渡らしむるを聞き、其の部落の翻って磧北に附かんことを慮り、預め軽騎を蓄え、至るを伺いて之を撃たんとす。太宗は勅を遣わして之に曰く、「擅に相侵す者は、国に常刑有り。」延陀曰く、「至尊相侵掠する莫れと遣わす、敢えて詔を奉ぜざらんや。然れども突厥は翻覆信じ難し。其の未だ破れざる前、連年中国人を殺し、動もすれば千万を以て計う。至尊突厥を破り、須らく収めて奴婢と為し、将に百姓に与うべくして、反って之を養うこと子の如し。結社率竟に反す。此の輩は獣心、信ずべからず。臣恩を荷うこと甚だ深し、請う、至尊の為に之を誅せん。」時に思摩の下部衆河を渡る者は凡そ十万、勝兵四万人、思摩其の衆を撫する能わず、皆愜服せず。十七年に至り、相率いて之に叛き、南に河を渡り、勝・夏二州の間に分処せんことを請う。詔して之を許す。思摩遂に軽騎を以て朝に入り、尋いで右武衛将軍を授けられ、遼東に従征し、流矢に中らる。太宗親しく血を吮い、其の顧遇せらるること此の如し。未だ幾ばくもせず、京師に卒す。兵部尚書・夏州都督を贈られ、昭陵に陪葬し、墳を立てて白道山に象り、詔して化州に碑を立てしむ。

原文薛延陀聞太宗遣思摩渡河北,慮其部落翻附磧北,預蓄輕騎,伺至而擊之。太宗遣敕之曰:「擅相侵者,國有常刑。」延陀曰:「至尊遣莫相侵掠,敢不奉詔。然突厥翻覆難信,其未破前,連年殺中國人,動以千萬計。至尊破突厥,須收為奴婢,將與百姓,而反養之如子,結社率竟反,此輩獸心,不可信也。臣荷恩甚深,請為至尊誅之。」時思摩下部眾渡河者凡十萬,勝兵四萬人,思摩不能撫其眾,皆不愜服。至十七年,相率叛之,南渡河,請分處於勝、夏二州之間,詔許之。思摩遂輕騎入朝,尋授右武衛將軍,從征遼東,為流矢所中;太宗親為吮血,其見顧遇如此。未幾,卒於京師。贈兵部尚書、夏州都督,陪葬昭陵,立墳以象白道山,詔為立碑於化州。

是に先立ち、貞観中、突厥の別部に車鼻と為る者有り、亦た阿史那の族なり。代々小可汗と為り、牙を金山の北にす。頡利可汗の敗るるや、北荒諸部将に推して大可汗と為さんとすも、薛延陀が可汗と為るに遇い、車鼻敢えて当たらず、遂に率いる所の部を以て延陀に帰す。人と為り勇烈、謀略有り、頗る衆の附く所と為る。延陀悪みて将に之を誅せんとす。車鼻密かに其の謀を知り、旧所に竄帰す。其の地京師を去ること万里、勝兵三万人、自ら乙註車鼻可汗と称す。西に歌羅祿有り、北に結骨有り、皆附隷す。延陀の破れたる後より、其の子沙鉢羅特勒を遣わして来朝し、方物を貢し、又た身を入朝せんことを請う。太宗将軍郭広敬を遣わして之を征すも、竟に至らず。太宗大いに怒る。貞観二十三年、右驍衛郎将高侃を遣わし、潜かに回紇・仆骨等の兵衆を引きて之を襲撃せしむ。其の酋長歌邏祿泥孰闕俟利発及び抜塞匐処木昆莫賀咄俟斤等、部落を率いて車鼻に背き、相継いて来降す。永徽元年、侃の軍阿息山に次る。車鼻王師の至るを聞き、召す所の兵は皆赴かず、遂に其の妻子を携え、数百騎に従いて遁る。其の衆尽く降る。侃精騎を率いて車鼻を追い、之を獲て、京師に送る。仍って社廟に献じ、又た昭陵に献ず。高宗其の罪を数えて之を赦し、左武衛将軍に拝し、長安に宅を賜い、其の余衆を郁督軍山に処し、狼山都督を置きて之を統せしむ。車鼻の長子羯漫陀は、先に抜悉密部を統ぶ。車鼻未だ敗れざる前、其の子庵鑠を遣わして入朝せしむ。太宗之を嘉し、左屯衛将軍に拝し、更に新黎州を置きて其の衆を統せしむ。

原文先是,貞觀中,突厥別部有車鼻者,亦阿史那之族也。代為小可汗,牙於金山之北。頡利可汗之敗,北荒諸部將推為大可汗,遇薛延陀為可汗,車鼻不敢當,遂率所部歸於延陀。為人勇烈,有謀略,頗為眾附。延陀惡而將誅之,車鼻密知其謀,竄歸於舊所,其地去京師萬里,勝兵三萬人,自稱乙註車鼻可汗。西有歌羅祿,北有結骨,皆附隸之。自延陀破後,遣其子沙缽羅特勒來朝,貢方物,又請身入朝。太宗遣將軍郭廣敬征之,竟不至。太宗大怒。貞觀二十三年,遣右驍衛郎將高侃潛引回紇、仆骨等兵眾襲擊之,其酋長歌邏祿泥孰闕俟利發及拔塞匐處木昆莫賀咄俟斤等,率部落背車鼻,相繼來降。永徽元年,侃軍次阿息山。車鼻聞王師至,召所部兵,皆不赴,遂攜其妻子從數百騎而遁,其眾盡降。侃率精騎追車鼻,獲之,送於京師。仍獻於社廟,又獻於昭陵。高宗數其罪而赦之,拜左武衛將軍,賜宅於長安,處其餘眾於郁督軍山,置狼山都督以統之。車鼻長子羯漫陀,先統拔悉密部。車鼻未敗前,遣其子庵鑠入朝,太宗嘉之,拜左屯衛將軍,更置新黎州,以統其眾。

車鼻既に破れたる後、突厥尽く封疆の臣と為り、ここに於いて単于・瀚海の二都護府を分置す。単于都護は狼山・雲中・桑乾の三都督、蘇農等一十四州を領し、瀚海都護は瀚海・金微・新黎等七都督、仙萼・賀蘭等八州を領す。各其の首領を以て都督・刺史と為す。高宗東に泰山を封ずるに、狼山都督葛邏祿社利等の首領三十余人、並びに扈従して嶽下に至り、封禅の碑に名を勒す。永徽以後より、殆ど三十年、北鄙事無し。

原文車鼻既破之後,突厥盡為封疆之臣,於是分置單于、瀚海二都護府。單于都護領狼山、雲中、桑乾三都督、蘇農等一十四州;瀚海都護領瀚海、金微、新黎等七都督、仙萼、賀蘭等八州,各以其首領為都督、刺史。高宗東封泰山,狼山都督葛邏祿社利等首領三十餘人,並扈從至嶽下,勒名於封禪之碑。自永徽已後,殆三十年,北鄙無事。

調露元年、単于管内の突厥首領阿史徳温傅・奉職の二部落、始めて相率いて反叛し、泥孰匐を立てて可汗と為す。二十四州並びに叛きて之に応ず。高宗は鴻臚卿蕭嗣業・右千牛将軍李景嘉を遣わし、衆を率いて之を討たしむも、反って温傅に敗られ、兵士死する者万余人。又た詔して礼部尚書裴行儉を定襄道行軍大総管と為し、太僕少卿李思文・営州都督周道務等を率い、衆三十余万を統べて温傅を討撃し、大いに之を破る。泥孰匐は其の下の為に殺され、並びに奉職を擒えて還る。

原文調露元年,單于管內突厥首領阿史德溫傅、奉職二部落,始相率反叛,立泥孰匐為可汗,二十四州並叛應之。高宗遣鴻臚卿蕭嗣業、右千牛將軍李景嘉率眾討之,反為溫傅所敗,兵士死者萬餘人。又詔禮部尚書裴行儉為定襄道行軍大總管,率太僕少卿李思文、營州都督周道務等統眾三十餘萬,討擊溫傅,大破之。泥孰匐為其下所殺,並擒奉職而還。

永隆元年、突厥又た頡利の従兄の子阿史那伏念を夏州に迎え、将に河を渡りて立て可汗と為さんとす。諸部落復た響応して之に従う。又た詔して裴行儉に将軍曹継叔・程務挺・李崇直・李文暕等を率いしめて之を討たしむ。伏念窘急し、行儉に詣でて降る。行儉遂に伏念を虜えて京師に詣らしめ、東市に斬る。永淳二年、突厥阿史那骨咄祿復た反叛す。

原文永隆元年,突厥又迎頡利從兄之子阿史那伏念於夏州,將渡河立為可汗,諸部落復響應從之。又詔裴行儉率將軍曹繼叔、程務挺、李崇直、李文暕等討之。伏念窘急,詣行儉降。行儉遂虜伏念詣京師,斬於東市。永淳二年,突厥阿史那骨咄祿復反叛。

骨咄祿は、頡利の遠縁の親族であり、また阿史那氏を姓とする。その祖父はもともと単于右雲中都督舍利元英の配下の首領であり、代々吐屯啜を世襲した。伏念が既に敗れた後、骨咄祿は逃亡・離散した者を集め、総材山に入り、群盗となって集まり、五千余人の徒党を有した。また九姓を掠奪し、羊馬を非常に多く得て、次第に強盛となり、ついに自ら可汗と称した。その弟の默啜を設とし、咄悉匐を葉護とした。時に阿史德元珍という者がおり、単于において降戸部落を検校していたが、かつて罪に坐して単于長史王本立に拘束されていた。折しも骨咄祿が侵入したので、元珍は旧例に従って部落を検校することを請うと、本立はこれを許し、それによって便ち骨咄祿に投じた。骨咄祿は彼を得て、大いに喜び、阿波達干に立て、兵馬の事を専ら統べることを命じた。

原文骨咄祿者,頡利之疏屬,亦姓阿史那氏。其祖父本是單于右雲中都督舍利元英下首領也,世襲吐屯啜。伏念既破,骨咄祿鳩集亡散,入總材山,聚為群盜,有眾五千餘人。又抄掠九姓,得羊馬甚多,漸至強盛,乃自立為可汗。以其弟默啜為設,咄悉匐為葉護。時有阿史德元珍,在單于檢校降戶部落,嘗坐事為單于長史王本立所拘縶,會骨咄祿入寇,元珍請依舊檢校部落,本立許之,因而便投骨咄祿。骨咄祿得之,甚喜,立為阿波達干,令專統兵馬事。

永淳二年、進んで蔚州を寇掠した。豊州都督崔智辯がこれを撃ったが、かえって賊に殺された。文明元年、また朔州を寇掠し、人吏を殺掠した。則天は左武威衛大將軍程務挺を単于道安撫大使とし、これに備えさせた。垂拱二年、骨咄祿はまた朔州・代州などを寇掠し、左玉鈐衛中郎將淳於處平が陽曲道總管となり、副將の中郎將蒲英節とともに兵を率いて救援に赴いた。忻州まで行軍し、賊と戦って大敗し、死者五千余人を出した。三年、骨咄祿および元珍はまた昌平を寇掠し、詔により左鷹揚衛大將軍黑齒常之がこれを撃退した。その年の八月、また朔州を寇掠したので、再び常之を燕然道大總管とし、黄花堆において賊を撃ち、これを大破した。四十余里にわたって敗走を追撃し、賊の徒党はついに磧北に散走した。右監門衛中郎將爨寶璧はまた精兵一万三千人を率いて塞外に出て窮追したが、かえって骨咄祿に敗れ、全軍がことごとく覆没し、寶璧は軽騎で遁走して帰還した。初め、寶璧は常之が賊を破ったのを見て、急いで上表してその残党を窮めることを請うた。則天は常之に寶璧と計議させ、遠くから声援とするよう詔した。寶璧は賊を破るのは朝夕のうちにあると思い、功を貪って先に行った。また人を出塞させて二千余里を偵察させ、元珍らの部落が皆守備をしていないのを見て、ついに徒党を率いて急襲した。既に到着した後、また人を遣わして賊に報せ、守備を整えて出戦することを許させたため、ついに賊に覆滅され、寶璧はこれに坐して誅殺された。則天は大いに怒り、これにより骨咄祿を不卒祿と改めた。元珍は後に兵を率いて突騎施を討ち、陣に臨んで戦死した。骨咄祿は、天授年間に病没した。

原文永淳二年,進寇蔚州。豐州都督崔智辯擊之,反為賊所殺。文明元年,又寇朔州,殺掠人吏,則天詔左武威衛大將軍程務挺為單于道安撫大使以備之。垂拱二年,骨咄祿又寇朔、代等州,左玉鈐衛中郎將淳於處平為陽曲道總管,與副將中郎將蒲英節率兵赴援,行至忻州,與賊戰,大敗,死者五千餘人。三年,骨咄祿及元珍又寇昌平,詔左鷹揚衛大將軍黑齒常之擊卻之。其年八月,又寇朔州,復以常之為燕然道大總管,擊賊於黃花堆,大破之。追奔四十餘里,賊眾遂散走磧北。右監門衛中郎將爨寶璧又率精兵一萬三千人出塞窮追,反為骨咄祿所敗,全軍盡沒,寶璧輕騎遁歸。初,寶璧見常之破賊,遽表請窮其餘黨,則天詔常之與寶璧計議,遙為聲援。寶璧以為破賊在朝夕,貪功先行。又令人出塞二千餘里覘候,見元珍等部落皆不設備,遂率眾掩襲之。既至,又遣人報賊,令得設備出戰,遂為賊所覆,寶璧坐此伏誅。則天大怒,因改骨咄祿為不卒祿。元珍後率兵討突騎施,臨陣戰死。骨咄祿,天授中病卒。

默啜は、骨咄祿の弟である。骨咄祿が死んだ時、その子はまだ幼かったので、默啜はついにその位を簒さん奪さんだつし、自ら可汗と称した。長寿二年、徒党を率いて霊州を寇掠し、人吏を殺掠した。則天は白馬寺の僧薛懷義を代北道行軍大總管とし、十大將軍を率いさせてこれを討たせたが、既に賊に遭遇せず、まもなく軍を返した。默啜はやがて使者を遣わして来朝し、則天は大いに喜び、左衛大將軍に冊授し、帰国公に封じ、物五千段を賜った。明年、また使者を遣わして和を請い、さらに遷善可汗を加授された。

原文默啜者,骨咄祿之弟也。骨咄祿死時,其子尚幼,默啜遂篡其位,自立為可汗。長壽二年,率眾寇靈州,殺掠人吏。則天遣白馬寺僧薛懷義為代北道行軍大總管,領十大將軍以討之,既不遇賊,尋班師焉。默啜俄遣使來朝,則天大悅,冊授左衛大將軍,封歸國公,賜物五千段。明年,復遣使請和,又加授遷善可汗。

萬歳通天元年、契丹の首領李盡忠・孫萬榮が反叛し、営府を陥落させた。默啜は使者を遣わして上言した。「河西の降戸を還付していただければ、直ちに部落の兵馬を率いて国家のために契丹を討撃いたします。」制を下してこれを許した。默啜はついに契丹を攻撃討伐し、その部衆は大いに潰え、その家口をことごとく捕獲した。默啜はこれより兵衆が次第に盛んとなった。則天はまもなく使者を遣わして默啜を特進・頡跌利施大単于・立功報国可汗に冊立した。聖暦元年、默啜は上表して則天の子となることを請い、また娘がいることを言って和親を請うた。初め、咸亨年間に、突厥の諸部落で降附してきた者は、多くを豊・勝・霊・夏・朔・代の六州に処置し、これを降戸と称した。默啜はこの時に至り、またこの降戸および単于都護府の地を要求し、兼ねて農器・種子を請うた。則天は初めは許さず、默啜は大いに怨み怒り、言辞が甚だ傲慢で、我が使人の司賓卿田帰道を拘束し、害そうとした。時に朝廷はその兵勢を恐れ、納言姚璹・鸞臺侍郎楊再思が建議してその和親を許すよう請うた。ついに六州の降戸数千帳をことごとく駆り立て、併せて種子四万余碩・農器三千事を与えた。默啜が次第に強くなったのはこれによるのである。

原文萬歲通天元年,契丹首領李盡忠、孫萬榮反叛,攻陷營府。默啜遣使上言:「請還河西降戶,即率部落兵馬為國家討擊契丹。」制許之。默啜遂攻討契丹,部眾大潰,盡獲其家口,默啜自此兵眾漸盛。則天尋遣使冊立默啜為特進、頡跌利施大單于、立功報國可汗。聖歷元年,默啜表請與則天為子,並言有女,請和親。初,咸亨中,突厥諸部落來降附者,多處之豐、勝、靈、夏、朔、代等六州,謂之降戶。默啜至是,又索此降戶及單于都護府之地,兼請農器、種子。則天初不許,默啜大怨怒,言辭甚慢,拘我使人司賓卿田歸道,將害之。時朝廷懼其兵勢,納言姚璹、鸞臺侍郎楊再思建議請許其和親,遂盡驅六州降戶數千帳,並種子四萬餘碩、農器三千事以與之,默啜浸強由此也。

その年、則天は魏王武承嗣・その子の淮陽王延秀に命じてその娘を妃として迎え入れさせ、右豹韜衛大將軍閻知微に春官尚書を摂行させ、右武威衛郎將楊鸞莊に司賓卿を摂行させ、金帛を大いに賜り、虜庭に送り届けさせた。黒沙南庭まで行軍した時、默啜は知微らに言った。「我が娘は李家の天子の子に嫁がせようとしていたのに、あなたは今武家の子を連れてきた。これは天子の子なのか?我が突厥は代々積み重ねて以来、李家に降附してきた。今聞くところでは李家の天子の種はことごとく尽き、ただ二人の子がいるだけだ。我は今兵を率いて助けて立てよう。」ついに延秀らを収め、別の場所に拘束した。知微を偽って可汗と号し、これとともに十余万の徒党を率いて、我が静難軍および平狄・清夷等の軍を襲撃した。静難軍使左正鋒衛將軍慕容玄皦は兵五千人を率いてこれに降った。やがて進んで媯州・檀州などを寇掠した。則天は司属卿武重規を天兵中道大總管とし、右武威衛將軍沙咤忠義を天兵西道前軍總管とし、幽州都督張仁亶を天兵東道總管とし、兵三十万を率いてこれを撃たせた。右羽林衛大將軍閻敬容を天兵西道後軍總管とし、兵十五万を統率して後援とした。默啜はまた恒嶽道から出て、蔚州を寇掠し、飛狐県を陥落させた。やがて進んで定州を攻め、刺史孫彦高を殺し、百姓の廬舎を焼き払い、男女を虜掠し、少長を問わずことごとく殺した。則天は大いに怒り、默啜を斬る者に賞を懸けて王に封じ、默啜の号を斬啜と改めた。まもなくまた趙州を包囲逼迫し、長史唐波若が城を翻してこれに応じ、刺史高睿は節を抗して従わず、ついに害に遇った。則天はついに廬陵王を皇太子とし、河北道行軍大元帥を充てさせた。軍が未だ発しないうちに、默啜は趙州・定州などの男女八九万人をことごとく掠奪し、五回道から去り、過ぎ行くところで残殺し、数えきれないほどであった。沙咤忠義および後軍總管李多祚らは皆重兵を持ちながら、賊と相望んで、敢えて戦わなかった。河北道元帥・納言狄仁傑が兵十万を総べてこれを追ったが、追いつくことはなかった。

原文其年,則天令魏王武承嗣、男淮陽王延秀就納其女為妃,遣右豹韜衛大將軍閻知微攝春官尚書,右武威衛郎將楊鸞莊攝司賓卿,大賫金帛,送赴虜庭。行至黑沙南庭,默啜謂知微等曰:「我女擬嫁與李家天子兒,你今將武家兒來,此是天子兒否?我突厥積代已來,降附李家,今聞李家天子種末總盡,唯有兩兒在,我今將兵助立。」遂收延秀等,拘之別所。偽號知微為可汗,與之率眾十餘萬,襲我靜難及平狄、清夷等軍。靜難軍使左正鋒衛將軍慕容玄皦以兵五千人降之。俄進寇媯、檀等州,則天令司屬卿武重規為天兵中道大總管,右武威衛將軍沙咤忠義為天兵西道前軍總管,幽州都督張仁亶為天兵東道總管,率兵三十萬擊之。右羽林衛大將軍閻敬容為天兵西道後軍總管,統兵十五萬以為後援。默啜又出自恆嶽道,寇蔚州,陷飛狐縣。俄進攻定州,殺刺史孫彥高,焚燒百姓廬舍,虜掠男女,無少長皆殺之。則天大怒,購斬默啜者,封王,改默啜號為斬啜。尋又圍逼趙州,長史唐波若翻城應之,刺史高睿抗節不從,遂遇害。則天乃立廬陵王為皇太子,令充河北道行軍大元帥。軍未發而默啜盡抄掠趙、定等州男女八九萬人,從五回道而去,所過殘殺,不可勝紀。沙咤忠義及後軍總管李多祚等皆持重兵,與賊相望,不敢戰。河北道元帥、納言狄仁傑總兵十萬追之,無所及。

二年、默啜はその弟の咄悉匐を左廂察とし、骨咄祿の子の默矩を右廂察とし、各々兵馬二万余人を主とさせた。またその子の匐俱を小可汗とし、位を両察の上に置き、なお処木昆等十姓の兵馬四万余人を主とさせた。また拓西可汗と号し、これより連年辺境を寇掠した。久視元年、隴右の諸監の馬一万余匹を掠奪して去った。制を下して右肅政御史大夫魏元忠を霊武道行軍大總管とし、これに備えさせ、また安北大都督相王旦を天兵道元帥と命じ、諸軍を統率して討撃させたが、結局行軍しないうちに賊は退いた。

原文二年,默啜立其弟咄悉匐為左廂察,骨咄祿子默矩為右廂察,各主兵馬二萬餘人。又立其子匐俱為小可汗,位在兩察之上,仍主處木昆等十姓兵馬四萬餘人。又號為拓西可汗,自是連歲寇邊。久視元年,掠隴右諸監馬萬餘匹而去。制右肅政御史大夫魏元忠為靈武道行軍大總管,以備之,又命安北大都督相王旦為天兵道元帥,統諸軍討擊,竟未行而賊退。

長安三年、默啜は使者の莫賀達干を遣わし、娘を皇太子の子に娶せたいと請うた。則天は太子の子である平恩王重俊・義興王重明に朝廷に立ってこれに会見させた。默啜は大酋の移力貪汗を遣わして入朝させ、馬千匹および方物を献上して、親許しの意に謝した。則天は宿羽亭においてこれを宴し、太子・相王および朝集使の三品以上が皆参席し、重く賜与してこれを送り遣わした。

原文長安三年,默啜遣使莫賀達干,請以女妻皇太子之子。則天令太子男平恩王重俊、義興王重明廷立見之。默啜遣大酋移力貪汗入朝,獻馬千匹,及方物以謝許親之意。則天宴之於宿羽亭,太子、相王及朝集使三品以上並預會,重賜以遣之。

中宗が即位すると、默啜はまた霊州鳴沙県を寇掠した。霊武軍大総管沙咤忠義が防戦すること久しく、官軍は敗北し、死者六千余人に及んだ。賊は進んで原州・会州などを寇掠し、隴右の群牧の馬一万余匹を掠めて去り、忠義は罪に坐して免官された。中宗は制を下してその請婚を絶ち、なお能く默啜を斬獲する者を募り、国王に封じ、諸衛大將軍を授け、賞物二千段を与えることとした。また内外の官に命じて各々突厥を破る諸策を進めさせた。右補闕盧俌が上疏して曰く、

原文中宗即位,默啜又寇靈州鳴沙縣。靈武軍大總管沙咤忠義拒戰久之,官軍敗績,死者六千餘人。賊遂進寇原、會等州,掠隴右群牧馬萬餘匹而去,忠義坐免。中宗下制絕其請婚,仍購募能斬獲默啜者封國王,授諸衛大將軍,賞物二千段。又命內外官各進破突厥諸策。右補闕盧俌上疏曰:

臣聞く、有虞が咸熙のとき、苗人が命に逆らい、殷宗が大化のとき、鬼方が賓服せず、則ち戎狄の交侵は、その来ること遠しと。漢の高帝は婁敬の議を納れ、匈奴と和親し、宗女を妻とし、鉅万を賂して、冒頓は益々驕り、辺寇止まず。則ち遠荒の地、凶悍の俗は、徳を以て綏撫するは難く、威を以て制するべく、而して三代より降り、上策を聞かず。今匈奴は臣せず、我が亭障を擾し、皇赫斯に怒り、将に元戎を整えんとす。臣聞く、方叔が師を帥い、功周の《雅》に歌われ、去病が武を耀かし、勲燕山に勒す、則ち万里の折衝は、将を択ぶに在りと。《春秋》は元帥を謀り、その《礼楽》を説き、《詩書》を敦むるを取る。晋の臣杜預は、射劄を穿たずして、平呉の勲を建つ、是れ知る、中権制謀は、一夫の勇に在らざるを。その蕃将沙咤忠義等は身は驍悍なれども、志に遠図無く、此れ乃ち騎将の材にして、本より大任に当たるべからず。且つ師は律を以て出で、将軍は綏に死す。秦は長平に克ち、趙括は戮せられ、胡は馬邑を去り、王恢は坐して誅せらる、則ち軍を棄つるは刑有り、古の常典なり。近き者鳴沙の役、主将先ず逃げ、軽く国威を挫き、須らく邦憲を正すべし。又たその中軍既に敗れ、陣乱れ矢尽き、義勇の士は、猶能く死戦し、功は合わざるも記録し、以て戎行を勧むべし、賞罰既に明らかなれば、将士節を尽くし、此れ敵を擒えるの術なり。

原文臣聞有虞咸熙,苗人逆命,殷宗大化,鬼方不賓,則戎狄交侵,其來遠矣。漢高帝納婁敬之議,與匈奴和親,妻以宗女,賂以鉅萬,冒頓益驕,邊寇不止。則遠荒之地,凶悍之俗,難以德綏,可以威制,而降自三代,無聞上策。今匈奴不臣,擾我亭障,皇赫斯怒,將整元戎。臣聞方叔帥師,功歌周《雅》;去病耀武,勛勒燕山,則萬里折沖,在於擇將。《春秋》謀元帥,取其說《禮樂》、敦《詩書》。晉臣杜預,射不穿劄,而建平吳之勛,是知中權制謀,不在一夫之勇。其蕃將沙咤忠義等身雖驍悍,誌無遠圖,此乃騎將之材,本不可當大任。且師出以律,將軍死綏。秦克長平,趙括受戮;胡去馬邑,王恢坐誅,則棄軍有刑,古之常典。近者鳴沙之役,主將先逃,輕挫國威,須正邦憲。又其中軍既敗,陳亂矢窮,義勇之士,猶能死戰,功合紀錄,以勸戎行,賞罰既明,將士盡節,此擒敵之術也。

臣聞く、蛮夷を以て蛮夷を攻むるは、中国の長算なり。故に陳湯は西域を統べて郅支滅び、常惠は烏孫を用いて匈奴敗る。請う、弁勇の士を購募し、班・傅の儔、旁らに諸蕃を結び、与に攻取を図らしむ、此れ又た掎角の勢なり。

原文臣聞以蠻夷攻蠻夷,中國之長算。故陳湯統西域而郅支滅,常惠用烏孫而匈奴敗。請購辯勇之士,班、傅之儔,旁結諸蕃,與圖攻取,此又掎角之勢也。

臣聞く、昔新秦を置きて以て塞下を実にす、宜しく古法に因り、人を募りて辺に徙し、その勝兵を選び、その行役を免じ、廬伍に次ぎ、教令を明らかにすれば、則ち戎事に狃習し、夷情を究識し、その虜獲する所、因りて之を賞す。近く戦えば則ち家を守り、遠く戦えば則ち貨に利し、鋒鏑に趨赴し、訓誓を労せず、朝に「楊柳」を賦し、夕に《杕杜》を歌い、十年の後、以て久安を得べし。

原文臣聞昔置新秦以實塞下,宜因古法,募人徙邊,選其勝兵,免其行役,次廬伍,明教令,則狃習戎事,究識夷情,其所虜獲,因而賞之。近戰則守家,遠戰則利貨,趨赴鋒鏑,不勞訓誓,朝賦「楊柳」,夕歌《杕杜》,十年之後,可以久安。

臣聞く、漢は郅都を拝し、匈奴境を避け、趙は李牧を命じ、林胡遠く竄く。則ち朔方の安危、辺城の勝負、地方千里、制すること一賢に在り。その辺州刺史は慎みて択ぶべからず、その人を得て之を任ずべし。乗を蒐め兵を訓え、田を屯し粟を積み、謹みて烽燧を設け、精しく戈矛を飾り、来れば則ち懲らしめて之を禦ぎ、去れば則ち備えて之を守る、此れ又た古の善経なり。去歳亢陽、天下稔らず、利は境を保つに在り、兵を窮むべからず。内郡の黔黎をして各々その業に安んぜしめ、宰牧を共に択び、その賦徭を軽くし、事に過挙無く、爵を以て私せず。人の財を愛し、その徭役を節し、人の力を惜しみ、台榭を広めず。地利天時を察して以て耕獲に趨り、秋狝冬狩を命じて以て戦陣を教う。則ち数年之後、勇有りて方を知り、帑蔵山の如く積み、金革犀利ならん。然る後に六軍を整え、大漠を絶ち、雷撃すること万里、風掃すること二庭、蹛林の酋を斬り、槁街の邸に懸け、百蛮をして震怖せしめ、五兵載せて戢わしめば、則ち上は天時に合し、下は人事に順う。内を理めて以て外に及び、近きを綏めて以て遠きを来たし、以て中国を恵み、以て四方を静めん。臣少くより文儒を慕い、軍旅に習わず、奇正の術、多く前良に愧じ、献替は是れ司どころ、軽く瞽議を陳ず。

原文臣聞漢拜郅都,匈奴避境;趙命李牧,林胡遠竄。則朔方之安危,邊城之勝負,地方千里,制在一賢。其邊州刺史不可不慎擇,得其人而任之。蒐乘訓兵,屯田積粟,謹設烽燧,精飾戈矛,來則懲而禦之,去則備而守之,此又古之善經也。去歲亢陽,天下不稔,利在保境,不可窮兵。使內郡黔黎,各安其業,擇共宰牧,輕其賦徭,事無過舉,爵不以私。愛人之財,節其徭役;惜人之力,不廣臺榭。察地利天時以趨耕獲,命秋狝冬狩以教戰陣。則數年之後,有勇知方,帑藏山積,金革犀利。然後整六軍,絕大漠,雷擊萬里,風掃二庭,斬蹛林之酋,懸槁街之邸,使百蠻震怖,五兵載戢,則上合天時,下順人事。理內以及外,綏近以來遠,以惠中國,以靜四方。臣少慕文儒,不習軍旅,奇正之術,多愧前良,獻替是司,輕陳瞽議。

上覧めて之を善しとす。默啜は是に於いて我が行人仮鴻臚卿臧思言を殺す。思言は賊に対し節を屈せず、特だ鴻臚卿を贈り、仍て左屯衛大將軍張仁亶をして右御史臺大夫を摂せしめ、朔方道大総管を充てて以て之を禦がしむ。仁亶は始めて河外に三受降城を築き、その南寇の路を絶つ。

原文上覽而善之。默啜於是殺我行人假鴻臚卿臧思言。思言對賊不屈節,特贈鴻臚卿,仍命左屯衛大將軍張仁亶攝右御史臺大夫,充朔方道大總管以禦之。仁亶始於河外築三受降城,絕其南寇之路。

睿宗が践祚すると、默啜はまた使を遣わして和親を請う。制を以て宋王成器の女を金山公主と為し、之に許嫁す。默啜は乃ちその男楊我支特勒を遣わして来朝せしめ、右驍衛員外大將軍を授く。俄にして睿宗位を伝え、親事竟に成らず。

原文睿宗踐祚,默啜又遣使請和親。制以宋王成器女為金山公主許嫁之。默啜乃遣其男楊我支特勒來朝,授右驍衛員外大將軍。俄而睿宗傳位,親竟不成。

初め、默啜は景雲中に兵を率いて西に娑葛を撃ち、之を破滅す。契丹及び奚は、神功の後より、常にその征役を受け、その地東西万余里、控弦四十万、頡利の後最も強盛たり。兵威を恃み、その衆を虐用す。默啜既に老い、部落漸く多く逃散す。開元二年、その子移涅可汗及び同俄特勒・妹婿火拔頡利發石阿失畢を遣わして精騎を率い北庭を囲逼す。右驍衛將軍郭虔瓘は城に嬰り固守し、俄にして兵を出して同俄特勒を城下に擒え、之を斬る。虜因りて退縮し、火拔は懼れて敢えて帰らず、その妻を携えて来奔す。制を以て左衛大將軍を授け、燕北郡王に封じ、その妻を金山公主に封じ、宅一区・奴婢十人・馬十匹・物千段を賜う。明年、十姓部落左廂五咄六啜・右廂五弩失畢五俟斤及び子婿高麗莫離支高文簡・睟跌都督崿跌思泰等各々その衆を率い、相継いで来降し、前後総べて万余帳。制して河南の旧地に居らしむ。高文簡に左衛員外大將軍を授け、遼西郡王に封じ、睟跌思泰を特進・右衛員外大將軍兼睟跌都督と為し、楼煩郡公に封ず。自余の首領、封拜賜物各々差有り。默啜の女婿阿史德胡祿、俄にして又朝に帰し、特進を以て之を授く。その秋、默啜は九姓の首領阿布思等と磧北に戦う。九姓大いに潰え、人畜多く死し、阿布思は衆を率いて来降す。

原文初,默啜景雲中率兵西擊娑葛,破滅之。契丹及奚,自神功之後,常受其征役,其地東西萬餘里,控弦四十萬,自頡利之後最為強盛。自恃兵威,虐用其眾。默啜既老,部落漸多逃散。開元二年,遣其子移涅可汗及同俄特勒、妹婿火拔頡利發石阿失畢率精騎圍逼北庭。右驍衛將軍郭虔瓘嬰城固守,俄而出兵擒同俄特勒於城下,斬之。虜因退縮,火拔懼不敢歸,攜其妻來奔,制授左衛大將軍,封燕北郡王,封其妻為金山公主,賜宅一區,奴婢十人,馬十匹,物千段。明年,十姓部落左廂五咄六啜、右廂五弩失畢五俟斤及子婿高麗莫離支高文簡、睟跌都督崿跌思泰等各率其眾,相繼來降,前後總萬餘帳。制令居河南之舊地。授高文簡左衛員外大將軍,封遼西郡王;睟跌思泰為特進、右衛員外大將軍兼睟跌都督,封樓煩郡公。自余首領,封拜賜物各有差。默啜女婿阿史德胡祿,俄又歸朝,授以特進。其秋,默啜與九姓首領阿布思等戰於磧北。九姓大潰,人畜多死,阿布思率眾來降。

四年、默啜はまた北に九姓拔曳固を討ち、独楽河に戦い、拔曳固大いに敗る。默啜は勝に負うて軽く帰り、而して設備せず。拔曳固の迸卒頡質略に柳林中に遇い、突出して默啜を撃ち、之を斬る。便ち入蕃使郝霊荃と与に默啜の首を伝えて京師に至る。骨咄祿の子闕特勒は旧部を鳩合し、默啜の子小可汗及び諸弟並びに親信を略ぼ尽く殺し、その兄左賢王默棘連を立て、是を毗伽可汗と為す。

原文四年,默啜又北討九姓拔曳固,戰於獨樂河,拔曳固大敗。默啜負勝輕歸,而不設備。遇拔曳固迸卒頡質略於柳林中,突出擊默啜,斬之。便與入蕃使郝靈荃傳默啜首至京師。骨咄祿之子闕特勒鳩合舊部,殺默啜子小可汗及諸弟並親信略盡,立其兄左賢王默棘連,是為毗伽可汗。

毗伽可汗は開元四年に即位し、本蕃では小殺と号す。性仁友にして、自ら国を得るは闕特勒の功なりと以て、固く之を譲る。闕特勒受けず、遂に左賢王と為し、専ら兵馬を掌る。是の時、奚・契丹相率いて塞に款き、突騎施蘇祿自立して可汗と為り、突厥部落頗る多く携貳す。乃ち默啜の時の衙官暾欲谷を召して謀主と為す。初め、默啜の下の衙官尽く闕特勒に殺さる。暾欲谷は女を小殺の可敦と為すにより、遂に死を免る。廃れて部落に帰し、乃ち復用いられ、年已に七十余、蕃人甚だ之を敬伏す。

原文毗伽可汗以開元四年即位,本蕃號為小殺。性仁友,自以得國是闕特勒之功,固讓之。闕特勒不受,遂以為左賢王,專掌兵馬。是時奚、契丹相率款塞,突騎施蘇祿自立為可汗,突厥部落頗多攜貳,乃召默啜時衙官暾欲谷為謀主。初,默啜下衙官盡為闕特勒所殺,暾欲谷以女為小殺可敦,遂免死。廢歸部落,乃復用,年已七十餘,蕃人甚敬伏之。

やがて降戸の阿悉爛・睟跌思泰らがまた河曲から叛いて帰った。初め、降戸が南に至って単于に至ると、左衛大將軍単于副都護張知運は、その武器をことごとく取り上げ、河を渡って南に行かせたので、蕃人は怨み怒った。御史中丞姜晦が巡辺使となると、蕃人は弓矢がなくて狩りができないと訴えたので、姜晦はことごとく返してやった。それ故に抗敵の具を得たのである。張知運は備えを設けず、降戸と青剛嶺で戦い、降戸に敗れた。陣中で張知運を生け捕りにし、突厥に送ろうとした。朔方総管薛納が兵を率いて追討した。賊は大斌県に至り、また将軍郭知運に撃たれた。賊の衆は大いに潰散し、黒山の呼延谷に投じ、張知運を釈放して去った。上は張知運が軍を喪ったとして、斬って衆に示した。小殺は降戸を得ると、謀って南に入り寇掠しようとした。暾欲谷は言った、「唐の主は英武で、人和年豊であり、隙がないので動くことはできません。我が衆は新たに集まったばかりで、まだ疲れ弱っています。しばらく三数年養息し、ようやく変を観て挙兵すべきです」と。小殺はまた城壁を修築し、寺観を造立しようとした。暾欲谷は言った、「いけません。突厥の人戸は寡少で、唐家の百分の一にも敵いません。常に抗し得るのは、正に水草に随い逐い、居処常ならず、射獵を業とし、また皆武に習熟しているからです。強ければ進兵して抄掠し、弱ければ山林に竄伏し、唐兵は多くとも用いる所がありません。もし城を築いて住めば、旧俗を改め、一朝にして利を失えば、必ず唐に併せられるでしょう。かつ寺観の法は、人を仁弱に教え、もとより武を用いて強を争う道ではありません。置くべきではありません」と。小殺らは深くその策に同意した。

原文俄而降戶阿悉爛、睟跌思泰等復自河曲叛歸。初,降戶南至單于,左衛大將軍單于副都護張知運,盡收其器仗,令渡河而南,蕃人怨怒。御史中丞姜晦為巡邊使,蕃人訴無弓矢。不得射獵,晦悉給還之。故有抗敵之具。張知運既不設備,與降戶戰於青剛嶺,為降戶所敗。臨陣生擒知運,擬送與突厥。朔方總管薛納率兵追討之。賊至大斌縣,又為將軍郭知運所擊。賊眾大潰散,投黑山呼延谷,釋張知運而去。上以張知運喪師,斬之以徇。小殺既得降戶,謀欲南入為寇。暾欲谷曰:「唐主英武,人和年豐,未有間隙,不可動也。我眾新集,猶尚疲羸,須且息養三數年,始可觀變而舉。」小殺又欲修築城壁,造立寺觀。暾欲谷曰:「不可。突厥人戶寡少,不敵唐家百分之一,所以常能抗拒者,正以隨逐水草,居處無常,射獵為業,又皆習武。強則進兵抄掠,弱則竄伏山林,唐兵雖多,無所施用。若築城而居,改變舊俗,一朝失利,必將為唐所並。且寺觀之法,教人仁弱,本非用武爭強之道,不可置也。」小殺等深然其策。

八年の冬、御史大夫王晙が朔方大総管となり、西は抜悉密を征し、東は奚・契丹の両蕃を発し、来年の秋初を期して、朔方兵を数道より俱に入れ、稽落河上で突厥の衙帳を掩うことを奏請した。小殺はこれを聞いて大いに恐れた。暾欲谷は言った、「抜悉密は今北庭におり、両蕃とは東西極めて遠く離れており、勢い合うことはできません。王晙の兵馬も、計らってもここに至ることはできないでしょう。もし来ることができたとしても、その臨到を待って、即ち衙帳を北に三日移せば、唐兵は糧尽きて自然に去ります。かつ抜悉密は軽率で利を好み、命令を聞けば必ず先に来るでしょう。王晙と張嘉貞は協わず、奏請に不満があれば、必ず敢えて動かないでしょう。もし王晙の兵馬が来ず、抜悉密が独り至れば、即ち撃ち取るべきで、勢い易きを為すことができます」と。

原文八年冬,御史大夫王晙俊為朔方大總管,奏請西征拔悉密,東發奚、契丹兩蕃,期以明年秋初,引朔方兵數道俱入,掩突厥衙帳於稽落河上。小殺聞之,大恐。暾欲谷曰:「拔悉密今在北庭,與兩蕃東、西相去極遠,勢必不合。王晙兵馬,計亦無能至此。必若能來,候其臨到,即移衙帳向北三日,唐兵糧盡,自然去矣。且拔悉密輕而好利,聞命必是先來,王晙與張嘉貞不協,奏請有所不愜,必不敢動。若王晙兵馬不來,拔悉密獨至,即須擊取之,勢易為也!」

九年の秋、抜悉密は果たして突厥の衙帳に臨んだが、王晙の兵及び両蕃は至らなかった。抜悉密は懼れて引き退いた。突厥はこれを撃とうとしたが、暾欲谷は言った、「この衆は家を去ること千里、必ず死戦するでしょう。撃つべからず、兵を以てこれに躡うよりは不如です」と。北庭より二百里去ったところで、暾欲谷は兵を分けて間道より先に北庭を掩い、因って卒を縱して抜悉密の還る衆を撃った。遂に散走して北庭に投じたが、城は陥ちて入ることができず、ことごとく突厥に擒えられ、その男女を虜にして還った。暾欲谷は兵を回し、因って赤亭より出て涼州の羊馬を掠めた。時に楊敬述が涼州都督であり、副将盧公利・判官元澄を遣わして出兵邀撃させた。暾欲谷は言った、「敬述がもし城を守って自ら固くすれば、即ちこれと連和し、もし出兵して相応すれば、即ち決戦すべきです。我今乗勝すれば、必ず功有りましょう」と。公利らの兵は刪丹に至り、賊に遇った。元澄は兵士に臂を揎て弓を引き絞らせ、なお急ぎその袖を結ばせたが、風雪凍烈に会い、ことごとく弓矢を墜とした。これにより官軍は大敗し、元澄は身を脱して走った。敬述は官爵を削除され、白衣のまま涼州事を検校した。小殺はこれにより大いに振るい、默啜の衆をことごとく有した。やがてまた使を遣わして和を請い、玄宗を子と為すことを乞うた。上はこれを許した。なお公主を尚ぐことを請うたが、上は厚く賜りてこれを遣わしたのみであった。

原文九年秋,拔悉密果臨突厥衙帳,而王晙兵及兩蕃不至。拔悉密懼而引退。突厥欲擊之,暾欲谷曰:「此眾去家千里,必將死戰,未可擊也,不如以兵躡之。」去北庭二百里,暾欲谷分兵間道先掩北庭,因縱卒擊拔悉密之還眾。遂散走投北庭,而城陷不得入,盡為突厥所擒,並虜其男女而還。暾欲谷回兵,因而出赤亭以掠涼州羊馬。時楊敬述為涼州都督,遣副將盧公利、判官元澄,出兵邀擊之。暾欲谷曰:「敬述若守城自固,即與連和;若出兵相當,即須決戰。我今乘勝,必有功矣!」公利等兵至刪丹,遇賊,元澄令兵士揎臂持滿,仍急結其袖,會風雪凍烈,盡墜弓矢。由是官軍大敗,元澄脫身而走。敬述坐削除官爵,白衣檢校涼州事。小殺由是大振,盡有默啜之眾。俄又遣使請和,乞與玄宗為子,上許之。仍請尚公主,上但厚賜而遣之。

十三年、玄宗が東巡しようとしたとき、中書令張説は兵を加えて突厥に備えようと謀った。兵部郎中裴光庭は言った、「封禅は成を告げる事です。この征発を忽せにするのは、名実相い乖くことではありますまいか」と。張説は言った、「突厥は近ごろ和を請うたが、獣の心は測り難い。かつ小殺は仁にして人を愛し、衆これを用い、闕特勒は驍武にして戦を善くし、向かう所前に敵無く、暾欲谷は深沈にして謀有り、老いてますます智あり、李靖・徐勣の流れです。三虜心を協せば、動くに遺策無く、我が国を挙げて東巡するを知り、万一辺を窺えば、何を以てかこれを禦がん」と。光庭は使を遣わしてその大臣を征し扈従させれば、突厥は敢えて従わず、また挙動を為し難からんことを請うた。張説はその言に同意し、乃ち中書直省袁振をして鴻臚卿を摂せしめ、突厥に往かせてその意を告げさせた。小殺はその妻及び闕特勒・暾欲谷らと環坐して帳中に宴を設け、振に謂って言った、「吐蕃は狗種なり、唐国はこれと婚を為し、奚及び契丹は旧より突厥の奴なり、また唐家の公主を尚ぐ。突厥は前後和親を結ぶことを請うたが、独り許されず、何ぞや」と。袁振は言った、「可汗は既に皇帝を子と為す、父子豈に婚姻を合すべきや」と。小殺らは言った、「両蕃もまた賜姓を蒙り、なお公主を尚ぐことを得る。ただこの例に依れば、何ぞ不可あらん。かつ聞くに入蕃の公主は皆天子の女に非ずと。今求めるところは、豈に真假を問わんや。頻りに請うて得ず、実にまた諸蕃に見るに羞ず」と。振は奏請することを許した。小殺は乃ちその大臣阿史德頡利発を遣わして入朝貢献せしめ、因って東巡に扈従させた。

原文十三年,玄宗將東巡,中書令張說謀欲加兵以備突厥。兵部郎中裴光庭曰:「封禪者,告成之事,忽此征發,豈非名實相乖?」說曰:「突厥比雖請和,獸心難測。且小殺者仁而愛人,眾為之用;闕特勒驍武善戰,所向無前;暾欲谷深沈有謀,老而益智,李靖、徐勣之流也。三虜協心,動無遺策,知我舉國東巡,萬一窺邊,何以禦之?」光庭請遣使征其大臣扈從,則突厥不敢不從,又亦難為舉動。說然其言,乃遣中書直省袁振攝鴻臚卿,往突厥以告其意。小殺與其妻及闕特勒、暾欲谷等環坐帳中設宴,謂振曰:「吐蕃狗種,唐國與之為婚;奚及契丹,舊是突厥之奴,亦尚唐家公主;突厥前後請結和親,獨不蒙許,何也?」袁振曰:「可汗既與皇帝為子,父子豈合為婚姻?」小殺等曰:「兩蕃亦蒙賜姓,猶得尚主,但依此例,有何不可?且聞入蕃公主,皆非天子之女,今之所求,豈問真假,頻請不得,實亦羞見諸蕃。」振許為奏請。小殺乃遣其大臣阿史德頡利發入朝貢獻,因扈從東巡。

玄宗は都を発ち、嘉会頓に至り、頡利発及び諸蕃の酋長を仗に引き入れ、なおこれに弓箭を与えた。時に兔が御馬の前に起った。上は弓を引き傍らより射て、一発にしてこれを獲た。頡利発は便ち下馬して兔を捧げ蹈舞して言った、「聖人の神武超絶、もし天上ならば知らず、人間には無し」と。上は因って饑えているかと問わせた。対えて言った、「聖武を仰ぎ観ること此の如く、十日食せずとも、猶お飽きたりと為すべし」と。これより常に突厥を仗に入れ馳射せしめた。起居舍人呂向が上疏して言った、

原文玄宗發都,至嘉會頓,引頡利發及諸蕃酋長入仗,仍與之弓箭。時有兔起於御馬之前,上引弓傍射,一發獲之。頡利發便下嘛捧兔蹈舞曰:「聖人神武超絕,若天上則不知,人間無也。」上因令問饑否。對曰:「仰觀聖武如此.十日不食,猶為飽也!」自是常令突厥入仗馳射。起居舍人呂向上疏曰:

臣聞く、鴟梟鳴かざるも、未だ瑞鳥と為さず、猛虎伏すと雖も、豈に仁獣に齊せん、是れ醜性毒行、久しく務めて常に積むによる故なり。今夫れ突厥は、正に此の類と与にし、安んじて殘賊を忍び、君親を顧みること莫し。陛下武義を以てこれに臨み、文德を修めてこれを来たす。既に威霊に懾し、また声教に沐す。力を以てし勢を以てすれば、庭せざるを得ず。故に稽顙して臣と称し、奔命して使を遣わす。陛下乃ち能くその傾效を収め、従官に雑えて、封禅の礼に赴き、玉帛の会に参せしむ。此れ德業自ら盛んなり、固より名づくべからず。因って復た詔して侍遊を許し、禁仗に召し入る。英姿の四照を仰ぎ、神藝の百発を送り、恩意俱に極まり、誠に逾ゆる無し。乃ち更に馳逐を賜い、弓矢を操らせ、前において鏃を競って飛ばし、獣を獲るの楽を同じくす。是れ屑略過ぎたり、未だ敢えて取らざるなり。聖胸豁達と雖も、物と猜る無く、而して愚心徘徊し、時と与に栗を加う。儻し此等各お犬吠を懐き、交々に盗憎を肆わし、荊卿詭動し、何羅窃かに至り、暫く厳蹕に逼り、稍く清塵を冒せば、縦い即ち玄方を殪し、幽土を墟とし、単于を醢と為し、穹廬を汚と為すとも、何を以てか過責を塞がん。特ね願わくは陛下復た親近せず、分限を知らしめ、常を失わずして待ち、得所に帰せしめ、以て両曜の鑒を回らし、九宇の憂を祛ることを謂わん。孰れか幸甚ならざらん。

原文臣聞鴟梟不鳴,未為瑞鳥,猛虎雖伏,豈齊仁獸,是由醜性毒行,久務常積故也。今夫突厥者,正與此類,安忍殘賊,莫顧君親!陛下持武義臨之,修文德來之,既懾威靈,又沐聲教;以力以勢,不得不庭。故稽顙稱臣,奔命遣使。陛下乃能收其傾效,雜以從官,赴封禪之禮,參玉帛之會,此德業自盛,固不可名焉。因復詔許侍遊,召入禁仗。仰英姿之四照,送神藝之百發,恩意俱極,誠無得逾焉。乃更賜以馳逐,使操弓矢,競飛鏃於前,同獲獸之樂,是屑略太過,未敢取也。雖聖胸豁達,與物無猜,而愚心徘徊,與時加栗。儻此等各懷犬吠,交肆盜憎,荊卿詭動,何羅竊至,暫逼嚴蹕,稍冒清塵,縱即殪玄方,墟幽土,單于為醢,穹廬為汙,何塞過責?特願陛下勿復親近,使知分限。待不失常,歸於得所,以謂回兩曜之鑒,祛九宇之憂,孰不幸甚!

上はその言を納れ、遂に諸蕃をして先に発たしめた。東封より回り、上は頡利発のために宴を設け、厚く賜りてこれを遣わし、竟にその和親を許さなかった。

原文上納其言,遂令諸蕃先發。東封回,上為頡利發設宴,厚賜而遣之,竟不許其和親。

十五年、小殺はその大臣梅錄啜を使わして来朝せしめ、名馬三十匹を献上した。時に吐蕃は小殺に書を送り、計議して同時に寇すべく、小殺は併せてその書を献上した。上はその誠を嘉し、梅錄啜を紫宸殿に引いて宴し、厚く賞賚を加え、なお朔方軍の西受降城を互市の所とすべく許し、毎年縑帛数十万匹を賫して辺境に就きてこれを遺わしむ。

原文十五年,小殺使其大臣梅錄啜來朝,獻名馬三十匹。時吐蕃與小殺書,將計議同時入寇,小殺並獻其書。上嘉其誠,引梅錄啜宴於紫宸殿,厚加賞賚,仍許於朔方軍西受降城為互市之所,每年賫縑帛數十萬匹就邊以遺之。

二十年、闕特勒死す。詔して金吾将軍張去逸・都官郎中呂向をして、璽書を賫して蕃に入りて吊祭せしめ、併せて碑を立てしむ。上自ら碑文を作り、なお祠廟を立て、石を刻んで像とし、四壁にその戦陣の状を画かしむ。

原文二十年,闕特勒死,詔金吾將軍張去逸、都官郎中呂向,賫璽書入蕃吊祭,並為立碑。上自為碑文,仍立祠廟,刻石為像,四壁畫其戰陣之狀。

二十年、小殺はその大臣梅錄啜に毒せられ、薬発して未だ死せず、先ず梅錄啜を討ち斬り、その党を尽く滅ぼす。既に卒す。国人その子を立てて伊然可汗とす。詔して宗正卿李佺をして往きて吊祭を申さしめ、併せて伊然を冊立し、碑廟を立てしむ。なお史官起居舎人李融をしてその碑文を作らしむ。幾ばくもなく、伊然病卒す。またその弟を立てて登利可汗とす。

原文二十年,小殺為其大臣梅錄啜所毒,藥發,未死,先討斬梅錄啜,盡滅其黨。既卒,國人立其子為伊然可汗。詔宗正卿李佺往申吊祭,並冊立伊然,為立碑廟。仍令史官起居舍人李融為其碑文。無幾,伊然病卒,又立其弟為登利可汗。

登利とは、猶ほ華言の果報なり。登利は年齢幼く、その母は即ち暾欲谷の女にして、その小臣飲斯達干と姦通し、国政に干預し、蕃人の服せざる所なり。登利の従叔父二人兵馬を分掌し、東に在る者を左殺と号し、西に在る者を右殺と号す。その精鋭は皆両殺の下に分かたる。二十八年、上は右金吾将軍李質を遣わし璽書を賫し、また登利を冊立して可汗とす。俄にして登利はその母と謀り西殺を誘い斬り、その衆を尽く併せたり。而して左殺は禍の己に及ぶを懼れ、兵を勒して登利を攻め、これを殺す。自立して烏蘇米施可汗と号す。左殺はまた国人の附かざる所となり、抜悉密部落兵を起こしてこれを撃つ。左殺大敗し、身を脱して遁走す。国中大乱す。西殺の妻子及び默啜の孫勃德支特勒・毗伽可汗の女大洛公主・伊然可汗の小妻余塞匐・登利可汗の女余燭公主及び阿布思頡利発等、併せてその部衆を率いて相次いで来降す。天宝元年八月、降虜京師に至る。上は先ず太廟に謁せしめ、なお殿庭に引見し、華萼楼に御してこれを宴し、上は詩を賦してその事を紀す。

原文登利者,猶華言果報也。登利年幼,其母即暾欲谷之女,與其小臣飲斯達干奸通,干預國政,不為蕃人所伏。登利從叔父二人分掌兵馬,在東者號為左殺,在西者號為右殺,其精銳皆分在兩殺之下。二十八年,上遣右金吾將軍李質賫璽書,又冊立登利為可汗。俄而登利與其母誘斬西殺,盡並其眾。而左殺懼禍及己,勒兵攻登利,殺之。自立,號烏蘇米施可汗。左殺又不為國人所附,拔悉密部落起兵擊之。左殺大敗,脫身遁走,國中大亂。西殺妻子及默啜之孫勃德支特勒、毗伽可汗女大洛公主、伊然可汗小妻余塞匐、登利可汗女余燭公主及阿布思頡利發等,並率其部眾相次來降。天寶元年八月,降虜至京師,上令先謁太廟,仍於殿庭引見,禦華萼樓以宴之,上賦詩以紀其事。