卷一百九十四上
突厥の始まりは、啓民可汗以前のことであり、『隋書』に詳しく記載されているので、ただ入国した事柄のみを述べる。
始畢可汗咄吉は、啓民可汗の子である。隋の大業年間に位を嗣ぎ、天下が大乱に陥った時に当たり、中国人で彼のもとに奔る者が多かった。その族は強盛となり、東は契丹・室韋から、西は吐谷渾・高昌の諸国に至るまで、皆これに臣属した。弓を引く者百余万を控え、北狄の盛んなこと、未だかってこのようなことはなかった。陰山を高く見下ろし、中夏を軽んずる志があった。
可汗とは、古の単于に等しく、妻は可賀敦と号し、古の閼氏に等しい。その子弟を特勒と謂い、別部で兵を領く者は皆これを設と謂う。その大官は屈律啜、次は阿波、次は頡利発、次は吐屯、次は俟斤であり、代々その官に居り員数はなく、父兄が死ねば子弟がこれを承襲する。
頡利が初めて位を嗣いだ時、父兄の資産を承け、兵馬は強盛であった。中国を凌駕する志があった。高祖は中原が初めて定まったばかりで、外征に遑がなく、常に寛容に扱い、賜与すること数え切れなかった。頡利の言辞は傲慢で、求め請うことに厭きることがなかった。四年四月、頡利は自ら万余騎を率い、馬邑の賊苑君璋の将兵六千人とともに雁門を攻めた。定襄王李大恩がこれを撃退した。先に漢陽公蘇瑰・太常卿鄭元璹・左驍衛大将軍長孫順徳らがそれぞれ突厥に使いし、頡利は皆これを拘束した。我が方もまたその使者を留め、前後数輩に及んだ。ここに至り大恩に挫かれたため、ここにおいてようやく懼れ、やがて順徳を放還し、改めて和好を請うた。魚膠数十斤を献じ、二国がこの膠のように同体であることを充たさんとした。高祖はこれを嘉し、その使者の特勒熱寒・阿史徳らを放って蕃に還らせ、金帛を賜った。
五年春、李大恩が上奏して言うには、突厥は饑饉にあり、馬邑は攻略できると。詔して大恩と殿内少監独孤晟に師を率いて苑君璋を討たせ、二月に馬邑で会することを期した。晟は期日に遅れて至らず、大恩は独り進むことができず、兵を新城に頓してこれを待った。頡利は数万騎を派遣して劉黒闥と合軍し、進んで大恩を包囲した。王師は敗れ、大恩は陣に歿し、死者数千人に及んだ。六月、劉黒闥はまた突厥万余騎を引き入れて河北に侵入し掠奪した。頡利はまた自ら五万騎を率いて南侵し、汾州に至った。また数千騎を派遣して西の霊・原等州に入らせた。詔して隠太子に豳州道より出で、太宗に蒲州道より出でてこれを討たしめた。時に頡利は并州を攻囲し、また兵を分けて汾・潞等州に入り、男女五千余口を掠奪したが、太宗の兵が蒲州に至ったと聞き、乃ち兵を率いて塞外に出た。
七年八月、頡利・突利の二可汗が国を挙げて入寇し、道は原州より取り、営を連ねて南上した。太宗は詔を受けて北討し、斉王元吉がこれに隷属した。初め、関中に長雨が降り、糧食の輸送が途絶え、太宗は甚だこれを憂い、諸将の憂色が顔に現れ、兵を豳州に頓した。頡利・突利が万余騎を率いて急に城西に至り、高きに乗じて陣し、将士は大いに驚いた。太宗は乃ち自ら百騎を率いて馳せ虜陣に詣り、これに告げて言うには、「国家と可汗は誓って互いに背かぬと約したのに、何故に約を背き深く我が地に入るのか。我は秦王なり、故に来たりて一決せん。可汗若し自ら来るならば、我は可汗と二人だけで戦わん。若し兵馬を総べて来るならば、我は唯百騎をもって防ぐのみ」と。頡利はこれを測りかね、笑って答えなかった。太宗はまた前に進み、騎に命じて突利に告げさせて言うには、「爾は往時に我と盟し、急難には相救うと約した。爾今兵を率いて来るとは、何ぞ香火の情なきや。亦た早く出でて、一決勝負すべし」と。突利もまた答えなかった。太宗は前に進み、溝水を渡らんとした。頡利は太宗が軽々しく出でたのを見、又香火の言を聞き、乃ち密かに突利を猜疑した。そこで使者を遣わして言うには、「王は渡るに及ばず、我に悪意は無く、更に王と共に自ら断じ当たらんと欲するのみ」と。ここにおいて少し引き退き、各々軍を収めて退いた。太宗はそこで反間を突利に施し、突利は喜んで心を帰し、遂に戦わんと欲しなくなった。その叔侄は内に離れ、頡利は戦いたくともできず、そこで突利および夾畢特勒阿史那思摩を遣わして奉見させ和を請うたので、これを許した。突利はそこで自ら太宗に託し、兄弟となることを願って結んだ。思摩が初めて奉見した時、高祖は引き上げて御榻に就かせようとしたが、額を地に叩いて固く辞した。高祖はこれに謂って言うには、「頡利が誠心を以て特勒を遣わして朝拝せしむ。今特勒を見るは、頡利を見るが如し」と。固く引き上げ、乃ち座に就かせ、間もなく思摩を和順王に封じた。
八年七月、頡利は兵十余万を集め、朔州を大いに掠め、また太原において将軍張瑾を襲う。張瑾は全軍ともに没し、身一つで李靖のもとに奔る。出師して拒戦す。頡利は進むを得ず、并州に屯す。太宗は師を帥いてこれを討ち、蒲州に次ぐ。頡利は兵を引いて去り、太宗は師を旋す。
九年七月、頡利みずから十余万騎を率いて武功に進み寇し、京師は戒厳す。己卯、高陵に進み寇す。行軍総管左武候大将軍尉遅敬徳これと涇陽において戦い、大いにこれを破り、俟斤阿史徳烏没啜を獲、首千余級を斬る。癸未、頡利はその腹心執失思力を遣わし入朝して覘と為し、みずから形勢を張りて云う、「二可汗総兵百万、今すでに至れり」と。太宗これに謂いて曰く、「我と突厥は面を自ら和親す、汝はすなわちこれを背く、我は実に愧ずるところなし。また義軍京に入るの初め、爾父子ともに親しく従い、我は汝に玉帛を賜う、前後極めて多し、何の故にか輒ち兵を将いて我が畿県に入るや。爾は突厥と雖も、また須らく頗る人心あるべし、何の故にか大恩を全く忘れ、みずから強盛を誇るや。我まさに先ず爾を戮さん」と。思力は懼れて命を請う。太宗は許さず、門下省においてこれを縶ぐ。
太宗は侍中高士廉・中書令房玄齢・将軍周範と馳せて六騎、渭水の上に幸し、頡利と津を隔てて語り、負約を責む。その酋帥大いに驚き、皆下馬して羅拝す。俄にして、衆軍継いて至る。頡利は軍容の大いに盛んなるを見、また思力の就拘せらるるを知り、ここにおいて大いに懼る。太宗は独り頡利と臨水して交言し、諸軍を麾して却きて陣せしむ。蕭瑀は軽敵を以て固く馬前に諫む。上曰く、「吾すでにこれを籌う、卿の知る所に非ざるなり。突厥の所以にその境内を掃い、直ちに渭濱に入るは、応に我が国家初めに内難有り、朕また新たに九五に登り、将に敢えてこれに拒まざるを謂うを聞くべし。朕もし門を閉ざさば、虜必ず大いに掠め、強弱の勢、今に一挙に在り。朕故に独り出で、以てこれを軽んずるを示す。また軍容を耀かし、必ず戦うを知らしむ。事出ずるに意に不ならば、その本図に乖く。虜入ること既に深ければ、理当に自ら懼るべし。これと戦えば則ち必ず克ち、これと和すれば則ち必ず固し。匈奴を制服するは、ここより始まる」と。この日、頡利は和を請う。詔してこれを許す。車駕は即日宮に還る。乙酉、また城西に幸し、白馬を刑して頡利と便橋の上に同盟す。頡利は兵を引いて退く。蕭瑀進みて曰く、「初め、頡利の未だ和せざるや、謀臣猛将多く戦を請う。而るに陛下納れず、臣疑いを為す。既にして虜自ら退く、その策いずくにか在る」と。上曰く、「我、突厥の兵を観るに、衆と雖も整わず、君臣の計、唯だ財利を視る。可汗独り水西に在り、酋帥皆来たりて我を謁す。我よってその衆を襲撃せば、勢朽を拉ぐに同じ。然れども我すでに無忌・李靖に令して幽州に伏を設けてこれを待たしむ。虜もし奔還せば、伏兵その前を邀え、大軍その後を躡えば、これを覆すこと掌を反すが如し。我の所以に戦わざる者は、即位日浅く、国の道と為すに、安静を務めと為す。一たび虜と戦えば、必ず死傷有り。また匈虜一敗すれば、或いは懼れて徳を修め、我に怨を結び、患い小さからず。我今甲を巻き戈を韜み、玉帛を以てこれを陷る。頑虜驕恣す、必ずここより始まる。破亡の漸、それここに在るか。将にこれを取らんと欲すれば、必ず固くこれに与う、これをこれと謂う」と。九月、頡利は馬三千匹・羊一万口を献ず。上受けず。詔して頡利の掠めし中国戸口の者、悉くこれを帰せしむ。
四年正月、李靖は進みて悪陽嶺に屯し、夜に定襄を襲う。頡利驚擾し、よって牙を磧口に徙す。胡酋康蘇密等、ここにおいて隋の蕭後及び楊政道を以て来降す。二月、頡利計窮まり、鉄山に竄る。兵なお数万、執失思力をして入朝して謝罪せしめ、挙国して内附せんことを請う。太宗は鴻臚卿唐儉・将軍安修仁を遣わし、節を持してこれを安撫せしむ。頡利稍々自ら安んず。靖は間を乗じて襲撃し、大いにこれを破り、ここにおいてその国を滅ぼす。頡利は千里馬に乗り、独り騎して従姪沙缽羅の部落に奔る。三月、行軍副総管張宝相、衆を率いて奄に沙缽羅の営に至り、生け捕りに頡利をして京師に送る。太宗これに謂いて曰く、「凡そ我に功有る者は、必ず忘れず、我に悪有る者は、終にも記さず。爾が罪状を論ずれば、誠に小さからず。但だ渭水にて曾て面を為して盟し、ここより以来、深く犯すこと未だ有らず。所以にこれを録し、相責めず耳」と。仍て詔してその家口を還し、太僕に館し、食を稟かしむ。頡利郁郁として志を得ず、その家人と或いは相対して悲歌して泣く。帝は羸憊を見て、虢州刺史を授け、彼の土は多く麞鹿有るを以て、その畋猟を縦し、庶くは物性を失わざらしむ。頡利は往くを願わずと辞す。ここにおいて右衛大将軍を授け、田宅を賜う。
五年、太宗は侍臣に謂いて曰く、「天道は善に福し淫に禍す、事は猶お影の響に似たり。昔、啓民は国を亡ぼして隋に奔る。文帝は粟帛を吝しまず、大いに士衆を興し、営衛して安置し、ここにおいて存立を得たり。既にして強盛に当たり、須らく子子孫孫思念して徳に報ずべし。才に始畢に至りて、即ち兵を起して雁門において煬帝を囲み、及び隋国将に乱れんとするや、また強を恃みて深く入り、ここにおいて昔その家国を安立せし者、身及び子孫、並びに頡利兄弟の屠戮する所と為る。今、頡利破亡す、豈に背恩忘義の致す所に非ざらんや」と。
八年に卒去し、詔してその国の人に葬らせ、その俗礼に従い、屍を灞水の東で焚き、帰義王を贈り、諡して荒と曰う。その旧臣胡祿達官吐谷渾邪は自刎して殉じた。
渾邪は、頡利の母婆施氏の媵臣なり。頡利の初誕の時、渾邪に託し、ここに至り哀慟して死す。太宗聞きてこれを異とし、中郎将を贈り、なお頡利の墓側に葬り、碑を樹ててこれを紀す。
突利可汗什缽苾は、始畢可法の嫡子、頡利の甥なり。隋の大業中、突利は数歳の年、始畢遣わしてその東牙の兵を領せしめ、号して泥歩設とす。隋の淮南公主の北するや、遂にこれを妻とす。頡利嗣位し、以て突利可汗と為し、牙を幽州の北に直す。突利は東偏に在り、奚、〓等数十部を管し、征稅度なく、諸部多くこれを怨む。貞観初、奚、〓等並びに来り帰附す。頡利その衆を失えるを怒り、遣わして北に延陀を征せしめ、また師を喪い、遂に囚えて撻つ。
四年、右衛大将軍を授け、北平郡王に封じ、食邑封七百戸とし、その下の兵衆を以て順祐等州を置き、部落を帥いて蕃に還らしむ。太宗これに謂いて曰く、「昔爾が祖啓民は兵馬を亡失し、一身隋に投ず。隋家これを翌立し、遂に強盛に至る。隋の恩に荷い、未だ徳を報いず。爾が父始畢に至りて、乃ち隋家の患と為る。爾已後より、歳無く中国を侵擾せず。天実に淫を禍し、大いに災変を降す。爾が衆散乱し、死亡略く尽きんとす。事窮したる後、乃ち来たり我に投ず。我が爾を立てて可汗と為さざる所以の者は、正に啓民の前事の故なり。前法を改変し、中国の久安を欲し、爾が宗族の永固を図る。是を以て爾に都督を授く。当に須らく我が国法に依り、所部を整斉し、妄りに相侵掠すること得ず。もし違う所あらば、当に重罪を獲ん」と。
五年、征して入朝せしむ。并州に至り、道中病みて卒す。年二十九。太宗この為に哀を挙げ、詔して中書侍郎岑文本にその碑文を為さしむ。子賀邏鶻嗣ぐ。
頡利の敗るるや、その部落は或いは薛延陀に走り、或いは西域に走り、来り降る者甚だ衆し。詔して辺を安んずるの術を議す。朝士多く言う、突厥は強を恃み、中国を擾乱すること日久し。今天実にこれを喪わしめ、窮して我に帰す。本より義を慕うの心に非ず。その帰命に因り、その種落を分かち、これを河南の兗・豫の地に俘え、州県に散居せしめ、各々耕織せしめば、百万の胡虜も百姓と化すべく、則ち中国に戸を加うるの利あり、塞北は常に空しきを得んと。唯だ中書令温彦博議して、漢の建武の時に準い、降匈奴を五原塞下に置くことを請う。その部落を全うし、捍蔽と為るを得しめ、またその土俗を離れず、これに因りて撫でば、一には則ち空虚の地を実にし、二には則ち猜心無きを示す。もし河南の兗・豫に向かわしむれば、則ち物性に乖き、故に含育の道に非ずと。太宗将にこれに従わんとす。秘書監魏征奏して言う、「突厥は古今より今に至るまで、斯の如き破敗あること未だ有らず。これは上天の剿絶、宗廟の神武なり。且つその世に中国を寇し、百姓の冤仇たり。陛下その降伏するを以て、誅滅すること能わず、即ち宜しく河北に遣い還し、その故土に居らしむべし。匈奴は人面獣心、我が族類に非ず。強ければ必ず寇盗し、弱ければ則ち卑服す。恩義を顧みず、その天性なり。秦・漢その若きを患い、故に猛将を発してこれを撃ち、河南を収取して郡県と為す。陛下奈何ぞ内地にこれを居らしむるや!且つ今降る者幾十万に至らんとす。数年之間に、孳息百倍し、我が肘腋に居り、密邇王畿、心腹の疾、将に後患と為らんとす。尤も河南に処すべからず」と。温彦博奏して曰く、「天子の物に於けるや、天覆い地載す。我に帰する者有らば、則ち必ずこれを養う。今突厥破滅の余、心を帰して降附す。陛下憐湣を加えず、棄てて納れざれば、天地の道に非ず、四夷の意を阻ぐ。臣愚甚だ謂う、不可なりと。河南に遣い居らしむるは、いわゆる死してこれを生かし、亡してこれを存するなり。我が徳恵を懐い、終に叛逆無からん」と。魏征また曰く、「晋代に魏の時胡落有り、近郡に分居す。呉を平げたる已後、郭欽・江統武帝を勧めて塞外に逐い出す。欽等の言を用いず、数年之後、遂に瀍・洛を傾く。前代の覆車、殷鑒遠からず。陛下必ず彦博の言を用い、河南に遣い居らしむれば、いわゆる獣を養いて自ら患いを遺すなり!」彦博また曰く、「聖人の道を聞くに、通ぜざる所無し。古先の哲王、類無きを教う有り。突厥の余魂、命を以て我に帰す。我これを援護し、内地に収め居らしめ、我が指麾に稟き、礼法を教えれば、数年之後、尽く農民と為らん。その酋首を選び、宿衛に遣い居らしめ、威を畏れ徳を懐えば、何の患いか有らん。光武南単于を内郡に居らしめ、漢の籓翰と為し、一代を終うるまで、叛逆有ること無し」と。彦博既に口給にして、類を引きて百端す。太宗遂にその計を用い、朔方の地に於いて、幽州より霊州に至るまで順・祐・化・長の四州都督府を置き、また頡利の地六州を分かち、左に定襄都督府を置き、右に雲中都督府を置き、以てその部衆を統べしむ。その酋首至る者は、皆将軍・中郎将等の官に拝し、朝廷に布列す。五品以上百余り、これに因りて長安に入居する者数千家。結社率の反するより、太宗始めてこれを患う。また上書する者多く雲う、突厥を中国に処するは、殊に便に非ずと謂う。乃ち河北に徙し、右武候大将軍・化州都督・懷化郡王思摩を立てて乙彌泥孰侯利苾可汗と為し、姓を李氏に賜い、所部を率いて河北に牙を建てしむ。
思摩は、頡利の族の者である。始畢可汗・処羅可汗はその容貌が胡人に似て、突厥に類せず、阿史那の族類に非ざるを疑い、故に処羅・頡利の世を歴て、常に夾畢特勒と為り、終に兵を典として設たるを得ず。武徳初め、数たび来朝貢し、高祖は和順郡王に封ず。其の国乱るるに及び、諸部多く中国に帰すも、唯だ思摩は頡利に随逐し、竟に同じく擒らわる。太宗其の忠を嘉し、右武候大将軍・化州都督を除し、頡利の旧部落を河南の地に統せしめ、尋いで封を改めて懐化郡王と為す。
将に白道の北に徙らんとするに及び、思摩等は皆薛延陀を憚り、塞を出でんことを肯わず。太宗は司農卿郭嗣本を遣わし、延陀に璽書を賜うて曰く、
「突厥頡利可汗未だ破れざる以前、自ら強盛を恃み、中国を抄掠し、百姓其の殺される者は、勝紀すべからず。我兵を発して之を撃破し、諸部落悉く帰化す。我其の旧過を略し、其の善に従うを嘉し、並びに官爵を授け、我が百僚と同じくし、所有の部落は、之を子の如く愛し、我が百姓と異ならず。但だ中国の礼義は、爾が国を滅さず、前に突厥を破るは、止だ頡利一人が百姓の害と為るを為すのみ。故に之を廃して黜くは、実に其の土地を貪らず、其の人馬を利せざるなり。頡利を黜廃して以後、恒に更に可汗を立てんと欲す。是を以て降る所の部落等を並びに河南に置き、其の放牧に任せ、今戸口羊馬日に向かって滋多し。元より冊立を許す、信を失うべからず。即ち突厥を遣わして河を渡らしめ、其の国土を復せんと欲す。我爾が延陀を策す、日月前に在り、今突厥後に居る。後者は小と為り、前者は大と為る。爾は磧北に在り、突厥は磧南に居り、各土境を守り、部落を鎮撫せよ。若し其の逾越し、故に相抄掠せば、我即ち兵を将いて各其の罪を問わん。此の約既に定まるは、便を爾が身に有するのみならず、厥の子孫に貽り、長く富貴を守らんとす。」
ここに於いて礼部尚書趙郡王孝恭を命じ、書を賫して思摩部落に就き、壇を河上に築きて之を拝し、並びに之に鼓纛を賜う。突厥及び胡にして諸州に安置する者を、並びに河を渡りて北にせしめ、其の旧部に還らしむ。又た左屯衛将軍阿史那忠を以て左賢王と為し、左武衛将軍阿史那泥孰を以て右賢王と為す。以て之に貳わしむ。
薛延陀は太宗が思摩を遣わして河北に渡らしむるを聞き、其の部落の翻って磧北に附かんことを慮り、預め軽騎を蓄え、至るを伺いて之を撃たんとす。太宗は勅を遣わして之に曰く、「擅に相侵す者は、国に常刑有り。」延陀曰く、「至尊相侵掠する莫れと遣わす、敢えて詔を奉ぜざらんや。然れども突厥は翻覆信じ難し。其の未だ破れざる前、連年中国人を殺し、動もすれば千万を以て計う。至尊突厥を破り、須らく収めて奴婢と為し、将に百姓に与うべくして、反って之を養うこと子の如し。結社率竟に反す。此の輩は獣心、信ずべからず。臣恩を荷うこと甚だ深し、請う、至尊の為に之を誅せん。」時に思摩の下部衆河を渡る者は凡そ十万、勝兵四万人、思摩其の衆を撫する能わず、皆愜服せず。十七年に至り、相率いて之に叛き、南に河を渡り、勝・夏二州の間に分処せんことを請う。詔して之を許す。思摩遂に軽騎を以て朝に入り、尋いで右武衛将軍を授けられ、遼東に従征し、流矢に中らる。太宗親しく血を吮い、其の顧遇せらるること此の如し。未だ幾ばくもせず、京師に卒す。兵部尚書・夏州都督を贈られ、昭陵に陪葬し、墳を立てて白道山に象り、詔して化州に碑を立てしむ。
車鼻既に破れたる後、突厥尽く封疆の臣と為り、ここに於いて単于・瀚海の二都護府を分置す。単于都護は狼山・雲中・桑乾の三都督、蘇農等一十四州を領し、瀚海都護は瀚海・金微・新黎等七都督、仙萼・賀蘭等八州を領す。各其の首領を以て都督・刺史と為す。高宗東に泰山を封ずるに、狼山都督葛邏祿社利等の首領三十余人、並びに扈従して嶽下に至り、封禅の碑に名を勒す。永徽以後より、殆ど三十年、北鄙事無し。
骨咄祿は、頡利の遠縁の親族であり、また阿史那氏を姓とする。その祖父はもともと単于右雲中都督舍利元英の配下の首領であり、代々吐屯啜を世襲した。伏念が既に敗れた後、骨咄祿は逃亡・離散した者を集め、総材山に入り、群盗となって集まり、五千余人の徒党を有した。また九姓を掠奪し、羊馬を非常に多く得て、次第に強盛となり、ついに自ら可汗と称した。その弟の默啜を設とし、咄悉匐を葉護とした。時に阿史德元珍という者がおり、単于において降戸部落を検校していたが、かつて罪に坐して単于長史王本立に拘束されていた。折しも骨咄祿が侵入したので、元珍は旧例に従って部落を検校することを請うと、本立はこれを許し、それによって便ち骨咄祿に投じた。骨咄祿は彼を得て、大いに喜び、阿波達干に立て、兵馬の事を専ら統べることを命じた。
その年、則天は魏王武承嗣・その子の淮陽王延秀に命じてその娘を妃として迎え入れさせ、右豹韜衛大將軍閻知微に春官尚書を摂行させ、右武威衛郎將楊鸞莊に司賓卿を摂行させ、金帛を大いに賜り、虜庭に送り届けさせた。黒沙南庭まで行軍した時、默啜は知微らに言った。「我が娘は李家の天子の子に嫁がせようとしていたのに、あなたは今武家の子を連れてきた。これは天子の子なのか?我が突厥は代々積み重ねて以来、李家に降附してきた。今聞くところでは李家の天子の種はことごとく尽き、ただ二人の子がいるだけだ。我は今兵を率いて助けて立てよう。」ついに延秀らを収め、別の場所に拘束した。知微を偽って可汗と号し、これとともに十余万の徒党を率いて、我が静難軍および平狄・清夷等の軍を襲撃した。静難軍使左正鋒衛將軍慕容玄皦は兵五千人を率いてこれに降った。やがて進んで媯州・檀州などを寇掠した。則天は司属卿武重規を天兵中道大總管とし、右武威衛將軍沙咤忠義を天兵西道前軍總管とし、幽州都督張仁亶を天兵東道總管とし、兵三十万を率いてこれを撃たせた。右羽林衛大將軍閻敬容を天兵西道後軍總管とし、兵十五万を統率して後援とした。默啜はまた恒嶽道から出て、蔚州を寇掠し、飛狐県を陥落させた。やがて進んで定州を攻め、刺史孫彦高を殺し、百姓の廬舎を焼き払い、男女を虜掠し、少長を問わずことごとく殺した。則天は大いに怒り、默啜を斬る者に賞を懸けて王に封じ、默啜の号を斬啜と改めた。まもなくまた趙州を包囲逼迫し、長史唐波若が城を翻してこれに応じ、刺史高睿は節を抗して従わず、ついに害に遇った。則天はついに廬陵王を皇太子とし、河北道行軍大元帥を充てさせた。軍が未だ発しないうちに、默啜は趙州・定州などの男女八九万人をことごとく掠奪し、五回道から去り、過ぎ行くところで残殺し、数えきれないほどであった。沙咤忠義および後軍總管李多祚らは皆重兵を持ちながら、賊と相望んで、敢えて戦わなかった。河北道元帥・納言狄仁傑が兵十万を総べてこれを追ったが、追いつくことはなかった。
中宗が即位すると、默啜はまた霊州鳴沙県を寇掠した。霊武軍大総管沙咤忠義が防戦すること久しく、官軍は敗北し、死者六千余人に及んだ。賊は進んで原州・会州などを寇掠し、隴右の群牧の馬一万余匹を掠めて去り、忠義は罪に坐して免官された。中宗は制を下してその請婚を絶ち、なお能く默啜を斬獲する者を募り、国王に封じ、諸衛大將軍を授け、賞物二千段を与えることとした。また内外の官に命じて各々突厥を破る諸策を進めさせた。右補闕盧俌が上疏して曰く、
臣聞く、有虞が咸熙のとき、苗人が命に逆らい、殷宗が大化のとき、鬼方が賓服せず、則ち戎狄の交侵は、その来ること遠しと。漢の高帝は婁敬の議を納れ、匈奴と和親し、宗女を妻とし、鉅万を賂して、冒頓は益々驕り、辺寇止まず。則ち遠荒の地、凶悍の俗は、徳を以て綏撫するは難く、威を以て制するべく、而して三代より降り、上策を聞かず。今匈奴は臣せず、我が亭障を擾し、皇赫斯に怒り、将に元戎を整えんとす。臣聞く、方叔が師を帥い、功周の《雅》に歌われ、去病が武を耀かし、勲燕山に勒す、則ち万里の折衝は、将を択ぶに在りと。《春秋》は元帥を謀り、その《礼楽》を説き、《詩書》を敦むるを取る。晋の臣杜預は、射劄を穿たずして、平呉の勲を建つ、是れ知る、中権制謀は、一夫の勇に在らざるを。その蕃将沙咤忠義等は身は驍悍なれども、志に遠図無く、此れ乃ち騎将の材にして、本より大任に当たるべからず。且つ師は律を以て出で、将軍は綏に死す。秦は長平に克ち、趙括は戮せられ、胡は馬邑を去り、王恢は坐して誅せらる、則ち軍を棄つるは刑有り、古の常典なり。近き者鳴沙の役、主将先ず逃げ、軽く国威を挫き、須らく邦憲を正すべし。又たその中軍既に敗れ、陣乱れ矢尽き、義勇の士は、猶能く死戦し、功は合わざるも記録し、以て戎行を勧むべし、賞罰既に明らかなれば、将士節を尽くし、此れ敵を擒えるの術なり。
臣聞く、蛮夷を以て蛮夷を攻むるは、中国の長算なり。故に陳湯は西域を統べて郅支滅び、常惠は烏孫を用いて匈奴敗る。請う、弁勇の士を購募し、班・傅の儔、旁らに諸蕃を結び、与に攻取を図らしむ、此れ又た掎角の勢なり。
臣聞く、昔新秦を置きて以て塞下を実にす、宜しく古法に因り、人を募りて辺に徙し、その勝兵を選び、その行役を免じ、廬伍に次ぎ、教令を明らかにすれば、則ち戎事に狃習し、夷情を究識し、その虜獲する所、因りて之を賞す。近く戦えば則ち家を守り、遠く戦えば則ち貨に利し、鋒鏑に趨赴し、訓誓を労せず、朝に「楊柳」を賦し、夕に《杕杜》を歌い、十年の後、以て久安を得べし。
臣聞く、漢は郅都を拝し、匈奴境を避け、趙は李牧を命じ、林胡遠く竄く。則ち朔方の安危、辺城の勝負、地方千里、制すること一賢に在り。その辺州刺史は慎みて択ぶべからず、その人を得て之を任ずべし。乗を蒐め兵を訓え、田を屯し粟を積み、謹みて烽燧を設け、精しく戈矛を飾り、来れば則ち懲らしめて之を禦ぎ、去れば則ち備えて之を守る、此れ又た古の善経なり。去歳亢陽、天下稔らず、利は境を保つに在り、兵を窮むべからず。内郡の黔黎をして各々その業に安んぜしめ、宰牧を共に択び、その賦徭を軽くし、事に過挙無く、爵を以て私せず。人の財を愛し、その徭役を節し、人の力を惜しみ、台榭を広めず。地利天時を察して以て耕獲に趨り、秋狝冬狩を命じて以て戦陣を教う。則ち数年之後、勇有りて方を知り、帑蔵山の如く積み、金革犀利ならん。然る後に六軍を整え、大漠を絶ち、雷撃すること万里、風掃すること二庭、蹛林の酋を斬り、槁街の邸に懸け、百蛮をして震怖せしめ、五兵載せて戢わしめば、則ち上は天時に合し、下は人事に順う。内を理めて以て外に及び、近きを綏めて以て遠きを来たし、以て中国を恵み、以て四方を静めん。臣少くより文儒を慕い、軍旅に習わず、奇正の術、多く前良に愧じ、献替は是れ司どころ、軽く瞽議を陳ず。
上覧めて之を善しとす。默啜は是に於いて我が行人仮鴻臚卿臧思言を殺す。思言は賊に対し節を屈せず、特だ鴻臚卿を贈り、仍て左屯衛大將軍張仁亶をして右御史臺大夫を摂せしめ、朔方道大総管を充てて以て之を禦がしむ。仁亶は始めて河外に三受降城を築き、その南寇の路を絶つ。
睿宗が践祚すると、默啜はまた使を遣わして和親を請う。制を以て宋王成器の女を金山公主と為し、之に許嫁す。默啜は乃ちその男楊我支特勒を遣わして来朝せしめ、右驍衛員外大將軍を授く。俄にして睿宗位を伝え、親事竟に成らず。
四年、默啜はまた北に九姓拔曳固を討ち、独楽河に戦い、拔曳固大いに敗る。默啜は勝に負うて軽く帰り、而して設備せず。拔曳固の迸卒頡質略に柳林中に遇い、突出して默啜を撃ち、之を斬る。便ち入蕃使郝霊荃と与に默啜の首を伝えて京師に至る。骨咄祿の子闕特勒は旧部を鳩合し、默啜の子小可汗及び諸弟並びに親信を略ぼ尽く殺し、その兄左賢王默棘連を立て、是を毗伽可汗と為す。
毗伽可汗は開元四年に即位し、本蕃では小殺と号す。性仁友にして、自ら国を得るは闕特勒の功なりと以て、固く之を譲る。闕特勒受けず、遂に左賢王と為し、専ら兵馬を掌る。是の時、奚・契丹相率いて塞に款き、突騎施蘇祿自立して可汗と為り、突厥部落頗る多く携貳す。乃ち默啜の時の衙官暾欲谷を召して謀主と為す。初め、默啜の下の衙官尽く闕特勒に殺さる。暾欲谷は女を小殺の可敦と為すにより、遂に死を免る。廃れて部落に帰し、乃ち復用いられ、年已に七十余、蕃人甚だ之を敬伏す。
やがて降戸の阿悉爛・睟跌思泰らがまた河曲から叛いて帰った。初め、降戸が南に至って単于に至ると、左衛大將軍単于副都護張知運は、その武器をことごとく取り上げ、河を渡って南に行かせたので、蕃人は怨み怒った。御史中丞姜晦が巡辺使となると、蕃人は弓矢がなくて狩りができないと訴えたので、姜晦はことごとく返してやった。それ故に抗敵の具を得たのである。張知運は備えを設けず、降戸と青剛嶺で戦い、降戸に敗れた。陣中で張知運を生け捕りにし、突厥に送ろうとした。朔方総管薛納が兵を率いて追討した。賊は大斌県に至り、また将軍郭知運に撃たれた。賊の衆は大いに潰散し、黒山の呼延谷に投じ、張知運を釈放して去った。上は張知運が軍を喪ったとして、斬って衆に示した。小殺は降戸を得ると、謀って南に入り寇掠しようとした。暾欲谷は言った、「唐の主は英武で、人和年豊であり、隙がないので動くことはできません。我が衆は新たに集まったばかりで、まだ疲れ弱っています。しばらく三数年養息し、ようやく変を観て挙兵すべきです」と。小殺はまた城壁を修築し、寺観を造立しようとした。暾欲谷は言った、「いけません。突厥の人戸は寡少で、唐家の百分の一にも敵いません。常に抗し得るのは、正に水草に随い逐い、居処常ならず、射獵を業とし、また皆武に習熟しているからです。強ければ進兵して抄掠し、弱ければ山林に竄伏し、唐兵は多くとも用いる所がありません。もし城を築いて住めば、旧俗を改め、一朝にして利を失えば、必ず唐に併せられるでしょう。かつ寺観の法は、人を仁弱に教え、もとより武を用いて強を争う道ではありません。置くべきではありません」と。小殺らは深くその策に同意した。
八年の冬、御史大夫王晙が朔方大総管となり、西は抜悉密を征し、東は奚・契丹の両蕃を発し、来年の秋初を期して、朔方兵を数道より俱に入れ、稽落河上で突厥の衙帳を掩うことを奏請した。小殺はこれを聞いて大いに恐れた。暾欲谷は言った、「抜悉密は今北庭におり、両蕃とは東西極めて遠く離れており、勢い合うことはできません。王晙の兵馬も、計らってもここに至ることはできないでしょう。もし来ることができたとしても、その臨到を待って、即ち衙帳を北に三日移せば、唐兵は糧尽きて自然に去ります。かつ抜悉密は軽率で利を好み、命令を聞けば必ず先に来るでしょう。王晙と張嘉貞は協わず、奏請に不満があれば、必ず敢えて動かないでしょう。もし王晙の兵馬が来ず、抜悉密が独り至れば、即ち撃ち取るべきで、勢い易きを為すことができます」と。
九年の秋、抜悉密は果たして突厥の衙帳に臨んだが、王晙の兵及び両蕃は至らなかった。抜悉密は懼れて引き退いた。突厥はこれを撃とうとしたが、暾欲谷は言った、「この衆は家を去ること千里、必ず死戦するでしょう。撃つべからず、兵を以てこれに躡うよりは不如です」と。北庭より二百里去ったところで、暾欲谷は兵を分けて間道より先に北庭を掩い、因って卒を縱して抜悉密の還る衆を撃った。遂に散走して北庭に投じたが、城は陥ちて入ることができず、ことごとく突厥に擒えられ、その男女を虜にして還った。暾欲谷は兵を回し、因って赤亭より出て涼州の羊馬を掠めた。時に楊敬述が涼州都督であり、副将盧公利・判官元澄を遣わして出兵邀撃させた。暾欲谷は言った、「敬述がもし城を守って自ら固くすれば、即ちこれと連和し、もし出兵して相応すれば、即ち決戦すべきです。我今乗勝すれば、必ず功有りましょう」と。公利らの兵は刪丹に至り、賊に遇った。元澄は兵士に臂を揎て弓を引き絞らせ、なお急ぎその袖を結ばせたが、風雪凍烈に会い、ことごとく弓矢を墜とした。これにより官軍は大敗し、元澄は身を脱して走った。敬述は官爵を削除され、白衣のまま涼州事を検校した。小殺はこれにより大いに振るい、默啜の衆をことごとく有した。やがてまた使を遣わして和を請い、玄宗を子と為すことを乞うた。上はこれを許した。なお公主を尚ぐことを請うたが、上は厚く賜りてこれを遣わしたのみであった。
玄宗は都を発ち、嘉会頓に至り、頡利発及び諸蕃の酋長を仗に引き入れ、なおこれに弓箭を与えた。時に兔が御馬の前に起った。上は弓を引き傍らより射て、一発にしてこれを獲た。頡利発は便ち下馬して兔を捧げ蹈舞して言った、「聖人の神武超絶、もし天上ならば知らず、人間には無し」と。上は因って饑えているかと問わせた。対えて言った、「聖武を仰ぎ観ること此の如く、十日食せずとも、猶お飽きたりと為すべし」と。これより常に突厥を仗に入れ馳射せしめた。起居舍人呂向が上疏して言った、
臣聞く、鴟梟鳴かざるも、未だ瑞鳥と為さず、猛虎伏すと雖も、豈に仁獣に齊せん、是れ醜性毒行、久しく務めて常に積むによる故なり。今夫れ突厥は、正に此の類と与にし、安んじて殘賊を忍び、君親を顧みること莫し。陛下武義を以てこれに臨み、文德を修めてこれを来たす。既に威霊に懾し、また声教に沐す。力を以てし勢を以てすれば、庭せざるを得ず。故に稽顙して臣と称し、奔命して使を遣わす。陛下乃ち能くその傾效を収め、従官に雑えて、封禅の礼に赴き、玉帛の会に参せしむ。此れ德業自ら盛んなり、固より名づくべからず。因って復た詔して侍遊を許し、禁仗に召し入る。英姿の四照を仰ぎ、神藝の百発を送り、恩意俱に極まり、誠に逾ゆる無し。乃ち更に馳逐を賜い、弓矢を操らせ、前において鏃を競って飛ばし、獣を獲るの楽を同じくす。是れ屑略過ぎたり、未だ敢えて取らざるなり。聖胸豁達と雖も、物と猜る無く、而して愚心徘徊し、時と与に栗を加う。儻し此等各お犬吠を懐き、交々に盗憎を肆わし、荊卿詭動し、何羅窃かに至り、暫く厳蹕に逼り、稍く清塵を冒せば、縦い即ち玄方を殪し、幽土を墟とし、単于を醢と為し、穹廬を汚と為すとも、何を以てか過責を塞がん。特ね願わくは陛下復た親近せず、分限を知らしめ、常を失わずして待ち、得所に帰せしめ、以て両曜の鑒を回らし、九宇の憂を祛ることを謂わん。孰れか幸甚ならざらん。
上はその言を納れ、遂に諸蕃をして先に発たしめた。東封より回り、上は頡利発のために宴を設け、厚く賜りてこれを遣わし、竟にその和親を許さなかった。
十五年、小殺はその大臣梅錄啜を使わして来朝せしめ、名馬三十匹を献上した。時に吐蕃は小殺に書を送り、計議して同時に寇すべく、小殺は併せてその書を献上した。上はその誠を嘉し、梅錄啜を紫宸殿に引いて宴し、厚く賞賚を加え、なお朔方軍の西受降城を互市の所とすべく許し、毎年縑帛数十万匹を賫して辺境に就きてこれを遺わしむ。
二十年、闕特勒死す。詔して金吾将軍張去逸・都官郎中呂向をして、璽書を賫して蕃に入りて吊祭せしめ、併せて碑を立てしむ。上自ら碑文を作り、なお祠廟を立て、石を刻んで像とし、四壁にその戦陣の状を画かしむ。
二十年、小殺はその大臣梅錄啜に毒せられ、薬発して未だ死せず、先ず梅錄啜を討ち斬り、その党を尽く滅ぼす。既に卒す。国人その子を立てて伊然可汗とす。詔して宗正卿李佺をして往きて吊祭を申さしめ、併せて伊然を冊立し、碑廟を立てしむ。なお史官起居舎人李融をしてその碑文を作らしむ。幾ばくもなく、伊然病卒す。またその弟を立てて登利可汗とす。