舊唐書

巻193

巻193

舊唐書

原文舊唐書

卷一百九十三

原文卷一百九十三

列傳第一百四十三 列女

原文列傳第一百四十三 列女

女子は陰柔の質を稟け、人に従うの義あり。前代は貞婦烈女を誌し、蓋しその礼を以て自ら防ぐ能を善くす。至りて身を賊庭に失い、非義に汚れず、白刃に臨んで慷慨し、丹衷を誓って激発す。粉身顧みず、死を視ること帰するが如し。壮夫に在りと雖も、恐らく節を守り難からん。窈窕の操、其れ賢ならずや。次に梁鴻の妻、偕に隠るるを辞せず、共姜の誓い、二庭を践まず。婦道母儀、克く図史に彰れ、又その長なり。末代風靡し、貞行寂寥たり。聊か椒蘭を播き、以て閨壺に貽す。彤管の職、幸いに忽せざらんことを。

原文女子稟陰柔之質,有從人之義。前代誌貞婦烈女,蓋善其能以禮自防。至若失身賊庭,不汙非義;臨白刃而慷慨,誓丹衷而激發;粉身不顧,視死如歸,雖在壯夫,恐難守節,窈窕之操,不其賢乎!其次梁鴻之妻,無辭偕隱,共姜之誓,不踐二庭,婦道母儀,克彰圖史,又其長也。末代風靡,貞行寂寥,聊播椒蘭,以貽閨壺,彤管之職,幸無忽焉!

李德武の妻裴氏

原文李德武妻裴氏

李德武の妻裴氏、字は淑英、戸部尚書・安邑公矩の女なり。性婉順にして容徳あり、父母に事えて孝を以て聞こゆ。徳武に適す。一年を経て徳武、従父金才の事に坐して嶺表に徙る。矩、時に黄門侍郎たり、徳武の離婚を奏請し、煬帝之を許す。徳武将に裴と別れんとし、謂ひて曰く、「燕婉始めて爾り、便ち分離に事ふ。方に遠く瘴癘に投ぜんとす。還る理無からんことを恐る。尊君留めんと奏す。必ずや改嫁せんと欲するのみ。此に於いて即ち事長く訣せん。」裴泣きて対へて曰く、「婦人の夫に事ふるは、再醮の礼無し。夫は天なり。何ぞ背くべけんや。之を死を以て守り、必ず他志無からん。」因りて刀を操り耳を割きて自ら誓はんとす。保者之を禁め、乃ち止む。

原文李德武妻裴氏,字淑英,戶部尚書、安邑公矩之女也。性婉順有容德,事父母以孝聞。適德武,經一年而德武坐從父金才事徙嶺表。矩時為黃門侍郎,奏請德武離婚,煬帝許之。德武將與裴別,謂曰:「燕婉始爾,便事分離,方遠投瘴癘,恐無還理。尊君奏留,必欲改嫁耳,於此即事長訣矣!」裴泣而對曰:「婦人事夫,無再醮之禮。夫者,天也,何可背乎!守之以死,必無他志!」因操刀欲割耳自誓,保者禁之,乃止。

裴、徳武と別れたる後、容貌毀悴し、常に仏経を読み、膏沢を御せず。李氏の姊妹都邑に在る者、歳時の朔望には、必ず左右を命じて致敬して之を省みしむ。裴又嘗て『烈女伝』を読み、改嫁せざる者を称述するを見て、乃ち親する所に謂ひて曰く、「二庭を践まずは、婦人の常理なり。何を以てか此を記伝に載すや。」後十余年の間、徳武と音信断絶す。矩其の志を奪はんと欲す。時に柳直求婚有り、之を許す。期定日有り、乃ち翦刀を以て其の髪を断ち、悲泣して粒を絶つ。矩奪ふ可からず、乃ち止む。徳武既に嶺表に於いて爾朱氏を娶りて妻と為す。及び赦に遇ひて還るを得、襄州に至り、裴の節を守るを聞き、乃ち其の後妻を出し、重ねて裴と合ふ。三男四女を生む。貞観中、徳武終に鹿城令に終はり、裴歳余りにして亦卒す。

原文裴與德武別後,容貌毀悴,常讀佛經,不御膏澤。李氏之姊妹在都邑者,歲時朔望,必命左右致敬而省焉。裴又嘗讀《烈女傳》,見稱述不改嫁者,乃謂所親曰:「不踐二庭,婦人常理,何為以此載於記傳乎?」後十餘年間,與德武音信斷絕。矩欲奪其志。時有柳直求婚,許之。期有定日,乃以翦刀斷其髮,悲泣絕粒。矩不可奪,乃止。德武已於嶺表娶爾硃氏為妻,及遇赦得還,至襄州,聞裴守節,乃出其後妻,重與裴合。生三男四女。貞觀中,德武終於鹿城令,裴歲餘亦卒。

楊慶の妻王氏(独孤師仁の乳母王氏を附す)

原文楊慶妻王氏獨孤師仁乳母王氏附

楊慶の妻王氏、世充の兄の女なり。慶は即ち隋の河間王弘の子なり。大業末、郇王に封ぜられ、滎陽けいよう太守と為る。後世充に陷る。世充兄の女を以て之に妻せしめ、管州刺史を授く。及び太宗洛陽らくようを攻囲す。慶謀りて世充に背き、其の妻と俱に来りて国に帰らんと欲す。妻慶に謂ひて曰く、「鄭国妾を以て箕帚を公に奉る者は、以て公の心を結ばんとす。今既に其の行二三たり。恩を負き義に背き、自ら身の為に謀る。妾将に奈何せん。若し長安ちょうあんに至らば、則ち公家の婢のみ。願くは東都に送ることを得ん。公の恵なり。」慶聴かず。慶の出でたる後を伺ひ、侍者に謂ひて曰く、「唐兵若し勝たば、我が家則ち戚たり。鄭国危ふからず、吾が夫又死せば、進退谷に維る。何を以てか生かん。」乃ち薬を飲みて卒す。慶既に朝に入り、官宜州刺史に至る。

原文楊慶妻王氏,世充兄之女也。慶即隋河間王弘之子。大業末,封郇王,為滎陽太守。後陷於世充。世充以兄女妻之,授管州刺史。及太宗攻圍洛陽,慶謀背世充,欲與其妻俱來歸國。妻謂慶曰:「鄭國以妾奉箕帚於公者,所以結公心耳。今既二三其行,負恩背義,自為身謀,妾將奈何?若至長安,則公家之婢耳!願送至東都,公之惠也。」慶不聽。伺慶出後,謂侍者曰:「唐兵若勝,我家則戚。鄭國無危,吾夫又死,進退維谷。何以生焉?」乃飲藥而卒。慶既入朝,官至宜州刺史。

時に又独孤武都有り、謀りて王世充に叛きて国に帰らんとす。事覚え誅死す。武都の子師仁、年始めて三歳、世充其の年幼きを以て殺さず、使ひて禁掌せしむ。乳母王氏、号して蘭英、髡鉗を請ひ、入りて保養せんことを求む。世充之を許す。蘭英撫育提携し、備く筋力を尽くす。時に喪乱年饑え、人多く鋨死す。蘭英路を扶け乞丐捃拾す。遇ふ所の有るを得れば、便ち帰りて師仁に与ふ。蘭英唯だ土を啖ひ水を飲むのみ。後詐りて采拾し、乃ち窃かに師仁を帰して京師に就く。高祖こうそ其の義を嘉し、詔を下して曰く、「師仁の乳母王氏、慈恵聞こえ有り、撫鞠倦むこと無く、遺幼を提携し、逆を背きて朝に帰す。宜しく褒隆有るべく、以て其の号を錫すべし。永寿郡君に封ず可し。」

原文時又有獨孤武都,謀叛王世充歸國,事覺誅死。武都子師仁,年始三歲,世充以其年幼不殺,使禁掌之。乳母王氏,號蘭英,請髡鉗,求入保養,世充許之。蘭英撫育提攜,備盡筋力。時喪亂年饑,人多鋨死,蘭英扶路乞丐捃拾。遇有所得,便歸與師仁;蘭英唯啖土飲水而已。後詐采拾,乃竊師仁歸於京師。高祖嘉其義,下詔曰:「師仁乳母王氏,慈惠有聞,撫鞠無倦,提攜遺幼,背逆歸朝。宜有褒隆,以錫其號。可封永壽郡君」。

楊三安の妻李氏

原文楊三安妻李氏

楊三安の妻李氏、雍州涇陽の人なり。舅姑に事えて孝を以て聞こゆ。及び舅姑亡没し、三安亦死す。二子孩童、家貧窶に至る。李昼は則ち田に力を尽くし、夜は紡緝す。数年の間、舅姑及び夫の叔侄兄弟なる者七喪を葬り、深く遠近の嗟尚する所と為る。太宗聞きて之を異とし、帛二百段を賜ひ、州県の所在に遣りて之を存恤せしむ。

原文楊三安妻李氏,雍州涇陽人也。事舅姑以孝聞。及舅姑亡沒,三安亦死,二子孩童,家至貧窶。李晝則力田,夜紡緝,數年間葬舅姑及夫之叔侄兄弟者七喪,深為遠近所嗟尚。太宗聞而異之,賜帛二百段,遣州縣所在存恤之。

魏衡の妻王氏

原文魏衡妻王氏

魏衡の妻王氏、梓州郪の人なり。武徳初、薛仁杲の旧将房企地、梁郡を侵掠し、因りて王氏を獲、逼めて之を妻とす。後企地漸く強盛なり。衡謀りて城を以て賊に応ぜんとす。企地衆を領ひて将に梁州に趨らんとす。未だ数千里に至らざるに、酒を飲みて醉ひ臥す。王氏其の佩刀を取って之を斬り、其の首を携へて城に入る。賊衆乃ち散ず。高祖大いに悦び、崇義夫人に封じ、衡の賊と同きの罪を捨つ。

原文魏衡妻王氏,梓州郪人也。武德初,薛仁杲舊將房企地侵掠梁郡,因獲王氏,逼而妻之。後企地漸強盛,衡謀以城應賊。企地領眾將趨梁州,未至數十里,飲酒醉臥。王氏取其佩刀斬之,攜其首入城,賊眾乃散。高祖大悅,封為崇義夫人,舍衡同賊之罪。

樊会仁の母敬氏

原文樊會仁母敬氏

樊会仁の母敬氏、字は像子、蒲州河東の人なり。年十五、樊氏に適し、会仁を生みて夫喪ふ。舅姑姊姒に事えて謹順を以て聞こゆ。及び服終り、母兄其の盛年を以て、将に其の志を奪はんとす。微かに諷諭を加ふれば、便ち悲恨嗚咽す。此の如き者数四。母兄乃ち潜かに人に許して婚と為し、矯りて母の患ふと称して以て之を召す。凡そ営具する所は、皆之を鄰里に寄す。像子既に至り、母を省みて疾無し。鄰家復た肴善を具す。像子欺かれたるを知り、佯りて悟らざる者と為す。其の嫂復た像子に沐浴を請ふ。像子私かに会仁に謂ひて曰く、「吾不幸にして孀居す。誓って汝が父と同穴せん。所以に死せざる者は、徒だ我が母羸老、汝身幼弱なるを以てす。今汝が舅吾が志を奪はんと欲し、将に逼迫を加へんとす。汝に於いて何如。」会仁声を失ひて啼泣す。像子之を撫でて曰く、「汝啼く勿れ。吾向ひ偽りて覚えざる者は、汝が舅我を意とせざらしめんとす。汝の啼くを聞けば、吾覚悟するを知り、必ず妨備を加へん。則ち吾計を為し難からん。」会仁便ち佯りて睡る。像子是に於いて隙を伺ひて之を携へ遁れ帰る。中路、兄使いて追ひ之に及び、将に逼めて俱に返らしめんとす。像子必死を以て誓ひ、辞情甚だ切なり。其の兄感嘆して止む。后会仁年十八病卒す。時に像子の母已に終る。既に葬り、像子其の親する所に謂ひて曰く、「吾が老母不幸、又夫死し子亡ぶ。義久しく活く無し。」是に於いて号慟して食はず、数日にして死す。

原文樊會仁母敬氏,字像子,蒲州河東人也。年十五,適樊氏,生會仁而夫喪,事舅姑姊姒以謹順聞。及服終,母兄以其盛年,將奪其志。微加諷諭,便悲恨嗚咽,如此者數四。母兄乃潛許人為婚,矯稱母患以召之。凡所營具,皆寄之鄰里。像子既至,省母無疾,鄰家復具肴善,像子知為所欺,佯為不悟者。其嫂復請像子沐浴。像子私謂會仁曰:「吾不幸孀居,誓與汝父同穴。所以不死者,徒以我母羸老,汝身幼弱。今汝舅欲奪吾志,將加逼迫,於汝何如!」會仁失聲啼泣。像子撫之曰:「汝勿啼。吾向偽不覺者,令汝舅不我為意。聞汝啼,知吾覺悟,必加妨備,則吾難為計矣!」會仁便佯睡,像子於是伺隙攜之遁歸。中路,兄使追及之,將逼與俱返。像子誓以必死,辭情甚切,其兄感嘆而止。後會仁年十八病卒,時像子母已終。既葬,像子謂其所親曰:「吾老母不幸,又夫死子亡,義無久活。」於是號慟不食,數日而死。

絳州の孝女衛氏

原文絳州孝女衛氏

絳州の孝女衛氏、字は無忌、夏県の人である。初め、その父が郷人の衛長則に殺された。無忌は六歳の時、母はまた再嫁し、兄弟もいなかった。成長するに及んで、常に復讐を思った。無忌の従伯が常に宴を設けて楽しんでいたが、長則も時に座に預かっていた。無忌は磚(煉瓦)でこれを撃ち殺した。やがて役所に赴き、父の仇は既に報いたと称し、刑戮に就くことを請うた。巡察大使・黄門侍郎の褚遂良がこれを聞き、太宗はその孝烈を嘉し、特に罪を免じ、伝駅の車馬を与えて雍州に移住させ、併せて田宅を与え、なお州県に命じて礼をもって嫁がせた。

原文絳州孝女衛氏,字無忌,夏縣人也。初,其父為鄉人衛長則所殺。無忌年六歲,母又改嫁,無兄弟。及長,常思復仇。無忌從伯常設宴為樂,長則時亦預坐,無忌以磚擊殺之。既而詣吏,稱父仇既報,請就刑戮。巡察大使、黃門侍郎褚遂良以聞,太宗嘉其孝烈,特令免罪,給傳乘徙於雍州,並給田宅,仍令州縣以禮嫁之。

濮州の孝女賈氏

原文濮州孝女賈氏

孝女賈氏は、濮州鄄城の人である。年十五にして、その父が同族の賈玄基に害された。その弟の強仁は幼く、賈氏はこれを養育し、嫁がざることを誓った。強仁が成童に及んで、共に復讐を思うようになり、玄基を待ち伏せてこれを殺し、その心肝を取って父の墓に祭った。強仁をして自ら県に申し出させたところ、司法は極刑を断じた。賈氏は朝廷に赴き自ら己が行いを陳べ、強仁に代わって死ぬことを請うた。高宗はこれを哀れみ、特に詔を下して賈氏及び強仁を免罪とし、その家を洛陽に移した。

原文孝女賈氏,濮州鄄城人也。年始十五,其父為宗人玄基所害。其弟強仁年幼,賈氏撫育之,誓以不嫁。及強仁成童,思共報復,乃俟玄基殺之;取其心肝,以祭父墓。遣強仁自列於縣,司斷以極刑。賈氏詣闕自陳己為,請代強仁死。高宗哀之,特下制賈氏及強仁免罪,移其家於洛陽。

鄭義宗の妻盧氏

原文鄭義宗妻盧氏

鄭義宗の妻盧氏は、幽州范陽の人、盧彦衡の女である。書史を少しばかり読み、舅姑に仕えて甚だ婦道を得ていた。嘗て夜に強盗数十人が杖を持ち騒ぎ立て、垣を越えて入って来た。家人は皆逃げ散ったが、姑のみが室にいた。盧氏は白刃を冒して姑の側に赴き、賊に殴打され、死に至らんとした。賊が去った後、家人が問うて曰く、「群兇が乱れ横暴に及ぶや、人は皆奔逃す。何ぞ独り懼れざるや」と。答えて曰く、「人の禽獣に異なる所以は、その仁義によるなり。昔、宋の伯姬は義を守って火に赴き、その称えは今に流る。吾は不敏なりと雖も、安んぞ義を忘れんや。且つ隣里に急あれば、尚お相赴き救う。況んや姑に在りて、而して委棄すべけんや。若し万一危禍あらば、豈に独り生きんや宜しからん」と。その姑は常に嘆いて云う、「古人は歳寒くして然る後に松柏の後凋を知ると称す。吾は今乃ち盧新婦の心を知る」と。貞観年中に卒す。

原文鄭義宗妻盧氏,幽州范陽人,盧彥衡之女也。略涉書史,事舅姑甚得婦道。嘗夜有強盜數十人,持杖鼓噪,逾垣而入,家人悉奔竄,唯有姑獨在室。盧冒白刃往至姑側,為賊捶擊之,幾至於死。賊去後,家人問曰:「群兇擾橫,人盡奔逃,何獨不懼?」答曰:「人所以異於禽獸者,以其仁義也。昔宋伯姬守義赴火,流稱至今。吾雖不敏,安敢忘義!且鄰里有急,尚相赴救,況在於姑,而可委棄!若萬一危禍,豈宜獨生!」其姑每嘆云:「古人稱歲寒然後知松柏之後雕也,吾今乃知盧新婦之心矣!」貞觀中卒。

劉寂の妻夏侯氏

原文劉寂妻夏侯氏

劉寂の妻夏侯氏は、滑州胙城の人、字は碎金。父の長雲は塩城県丞となり、疾いにより目を喪った。碎金は乃ち夫と離縁を求め、以て終生侍養せんとした。十五年を経て、後母にも仕え、至孝をもって聞こえた。父の卒するに及んで、毀瘠殆ど喪に堪えず、髪を振り乱し跣足で、土を負って墳を成し、墓の側に廬し、日に一食し、かくの如きこと積年を経た。貞観年中、詔有りてその門閭を表彰し、粟帛を賜う。

原文劉寂妻夏侯氏,滑州胙城人,字碎金。父長雲,為鹽城縣丞,因疾喪明。碎金乃求離其夫,以終侍養。經十五年,兼事後母,以至孝聞。及父卒,毀瘠殆不勝喪,被髮徒跣,負土成墳,廬於墓側,每日一食,如此者積年。貞觀中,有制表其門閭,賜以粟帛。

楚王霊亀の妃上官氏

原文楚王靈龜妃上官氏

楚王霊亀の妃上官氏は、秦州上邽の人。父は懐仁、右金吾将軍。上官氏は年十八、霊亀に嫁ぎ、楚哀王の後を継いだ。本生の父母(実父母)健在にして、朝夕侍奉し、恭謹ますます甚だし。凡そ新味有れば、舅姑の啖い終わらざれば、未だ嘗て先に嘗めず。数載を経て、霊亀薨ず。将に葬らんとするに及び、その前妃閻氏は、嫁して一年を逾えずして卒し、又近族無し。衆議これを挙げざらんと欲す。上官氏曰く、「必ずや神にして霊ならん。寧んぞ孤魂をして托する所無からしめんや」と。ここに於いて礼を備えて同葬し、聞く者嘉嘆せざるは莫し。服喪終わりて、諸兄姉謂いて曰く、「妃は年尚お少く、又所生無し。改めて異門に醮(再嫁)するは、礼儀の常範なり。妃はこれを思うべし」と。妃は涙を押し隠して対えて曰く、「丈夫は義烈を以て名を標し、婦人は節を守るを以て行いと為す。未だ即ち先ず犬馬に、以て溝壑に殉ぜずんば、寧んぞ復た妝服を飾り、他志有らんや」と。遽かに刀を将いて鼻を截り耳を割き以て自ら誓う。諸兄姉その志奪うべからざるを知り、嘆息して止む。尋いで卒す。

原文楚王靈龜妃上官氏,秦州上邽人。父懷仁,右金吾將軍。上官年十八,歸於靈龜,繼楚哀王後。本生具存,朝夕侍奉,恭謹彌甚。凡有新味,非舅姑啖訖,未曾先嘗。經數載,靈龜薨。及將葬,其前妃閻氏,嫁不逾年而卒,又無近族,眾議欲不舉之。上官氏曰:「必神而靈,寧可使孤魂無托!」於是備禮同葬,聞者莫不嘉嘆。服終,諸兄姊謂曰:「妃年尚少,又無所生,改醮異門,禮儀常範,妃可思之。」妃掩泣對曰:「丈夫以義烈標名,婦人以守節為行。未能即先犬馬,以殉溝壑,寧可復飾妝服,有他志乎!」遽將刀截鼻割耳以自誓,諸兄姊知其志不可奪,嘆息而止。尋卒。

楊紹宗の妻王氏

原文楊紹宗妻王氏

楊紹宗の妻王氏は、華州華陰の人である。初め、年二歳にして、生母亡くなり、継母に養育された。十五歳に至り、父はまた遼東に出征して歿した。継母も尋いで卒した。王氏は乃ち生母及び継母の屍柩を収め、併せて父の形像を立て、招魂して遷葬し終え、墓の側に廬し、その祖父母及び父母の墳に陪した。永徽年中、詔して曰く、「故楊紹宗の妻王氏は、心に因りて孝と為し、性に率いて道を成す。年は桑楡に迫り、筋力衰謝す。往時に在りて隋朝に、父は遼左に歿し、招魂遷葬し、土を負って墳を成し、又その祖父母等を葬る。この老年を遏おかし、親しく板築を加う。痛みは晨昏に結び、哀しみは行路を感ず。永くその志行を言えば、嘉尚すること良く深し。宜しくその門閭を標し、以て敏徳を旌せ」と。物三十段、粟五十石を賜う。

原文楊紹宗妻王氏,華州華陰人也。初,年二歲,所生母亡,為繼母鞠養。至年十五,父又征遼而歿。繼母尋亦卒。王乃收所生及繼母屍柩,並立父形像,招魂遷葬訖,廬於墓側,陪其祖父母及父母墳。永徽中,詔曰:「故楊紹宗妻王氏,因心為孝,率性成道。年迫桑榆,筋力衰謝。以往在隋朝,父歿遼左,招魂遷葬,負土成墳,又葬其祖父母等,遏此老年,親加板築。痛結晨昏,哀感行路。永言志行,嘉尚良深。宜標其門閭,用旌敏德。」賜物三十段、粟五十石。

于敏直の妻張氏

原文于敏直妻張氏

于敏直の妻張氏は、営州都督ととく・皖城公の于儉の女である。数歳の時、父母が暫し疾い有れば、即ち顔色を観察し、左右を離れず、昼夜省み侍り、宛も成人の如し。稍々成長するに及び、恭順ますます甚だし。延寿公于欽明の子敏直に嫁す。初めて儉の疾い有るを聞けば、便ち即ち号踊自傷し、必ず死せんことを期す。儉の卒したる後、凶問至れば、号哭一慟して絶ゆ。高宗詔を下し、物百段を賜い、なお史官に録せしむ。

原文于敏直妻張氏,營州都督、皖城公儉之女也。數歲時父母權有疾,即觀察顏色,不離左右,晝夜省侍,宛若成人。及稍成長,恭順彌甚。適延壽公於欽明子敏直。初聞儉有疾,便即號踴自傷,期於必死。儉卒後,兇問至,號哭一慟而絕。高宗下詔,賜物百段,仍令史官錄之。

冀州の女子王氏

原文冀州女子王氏

冀州鹿城の女子王阿足は、早く孤となり、兄弟無く、唯だ姉一人有り。阿足は初め同県の李氏に嫁し、未だ子無くして夫亡くなる。時に年尚お少く、人多くこれを聘せんとす。姉が年老いて孤寡なるを以て、捨て去ること能わず、乃ち嫁がざることを誓い、以てその姉を養う。毎晝は田業を営み、夜は便ち紡績し、衣食の須う所、阿足の出さざるは無く、かくの如く二十余年。姉の喪に及び、葬送を礼を以てす。郷人その節行を称えざるは莫く、競いて妻女をして相識ることを求めしむ。後数年、竟に家に終わる。

原文冀州鹿城女子王阿足者,早孤,無兄弟,唯姊一人。阿足初適同縣李氏,未有子而夫亡。時年尚少,人多聘之。為姊年老孤寡,不能舍去,乃誓不嫁,以養其姊。每晝營田業,夜便紡績,衣食所須,無非阿足出者,如此二十餘年。及姊喪,葬送以禮。鄉人莫不稱其節行,競令妻女求與相識。後數歲,竟終於家。

樊彥琛の妻魏氏

原文樊彥琛妻魏氏

樊彥琛の妻魏氏は、楚州淮陰の人である。彦琛が病篤く、まさに死のうとしたとき、魏は泣いて言うには、「幸いにも愚陋の身をもって、明徳に身を寄せ、衣裳を奉じ侍ること二十余年に及んだ。まさか禍いが招き寄せたもので、急にこの禍に遭おうとは。ともに黄泉に入るのが、私の願いである」と。彦琛は答えて言うには、「死生は常の道であり、とくに恨むことはない。あなたは努めて励み、諸々の孤児を養い、彼らを成立させるがよい。もし私に従って死ねば、かえって累を残すことになり、私の望むところではない」と。彦琛が死んだ後、李敬業の乱に遭遇し、賊に捕らえられた。賊党は彼女がもとより弦楽器に通じていることを知り、箏を弾くことを強要した。魏氏は嘆いて言うには、「我が夫は不幸にも亡くなり、私は自ら命を絶つことができず、しばらく生き永らえているに過ぎない。今、あなたがたに管弦を強要されれば、これこそ禍が手から発するというものではないか」と。そこで刀を引いて指を切り、それを地に棄てた。賊党はまた彼女を妻にしようとしたが、魏は必ず死ぬと決めて固く守った。賊らは怒り、刃を頸に当てて言うには、「もし私に従わなければ、ただちに命を絶つぞ」と。そこで魏は声を張り上げて罵って言うには、「お前ら狗盗の輩が、よくも善人を汚辱しようとするものだ。今、速やかに死ぬことができれば、私の本志に叶う」と。賊はそこで彼女を斬った。聞く者は誰もが傷み惜しまなかった。

原文樊彥琛妻魏氏,楚州淮陰人。彥琛病篤,將卒,魏泣而言曰:「幸以愚陋,托身明德,奉侍衣裳,二十餘載。豈意釁妨所招,遽見此禍。同入黃泉,是其願也。」彥琛答曰:「死生常道,無所多恨。君宜勉勵,養諸孤,使其成立。若相從而死,適足貽累,非吾所取也。」彥琛卒後,屬李敬業之亂,乃為賊所獲。賊黨知其素解絲竹,逼令彈箏。魏氏嘆曰:「我夫不幸亡歿,未能自盡,茍復偷生。今爾見逼管弦,豈非禍從手發耶?」乃引刀斬指,棄之於地。賊黨又欲妻之,魏以必死自固。賊等忿怒,以刃加頸,語云:「若不從我,即當殞命。」乃厲聲罵曰:「爾等狗盜,乃欲汙辱好人,今得速死,會我本志。」賊乃斬之,聞者莫不傷惜。

鄒保英の妻奚氏(古玄應の妻高氏を付載す)

原文鄒保英妻奚氏古玄應妻高氏附

鄒保英の妻奚氏は、どこの人か知らない。萬歳通天年間、契丹の賊李盡忠が平州を寇掠しに来た。保英は当時刺史の任にあり、兵を率いて討撃した。やがて城は孤立し援けは寡なく、情勢は陥落しようとしていた。奚氏はそこで家僮および城内の女丁を率いて、守りを固めるのを助けた。賊が退いた後、所司がこれを上聞し、優詔をもって誠節夫人に封じられた。

原文鄒保英妻奚氏,不知何許人也。萬歲通天年,契丹賊李盡忠來寇平州。保英時任刺史,領兵討擊。既而城孤援寡,勢將欲陷。奚氏乃率家僮及城內女丁相助固守。賊退,所司以聞,優制封為誠節夫人。

時に古玄應の妻高氏もまた、飛狐県城を固守することができ、ついに突厥に陥とされるのを免れた。詔を下して言うには、「近ごろ默啜が城を攻めた際、皆が陥没を憂えた。丈夫が固守しても、なお堅く保つことができなかったのに、婦人が忠を懐き、流れ矢をも恐れなかった。これによって感激し、危城は重ねて安泰となった。もし褒め上げなければ、どうして奨励できようか。古玄應の妻は徇忠県君に封ぜよ」と。

原文時有古玄應妻高氏,亦能固守飛狐縣城,卒免為突厥所陷。下詔曰:「頃屬默啜攻城,咸憂陷沒。丈夫固守,猶不能堅,婦人懷忠,不憚流矢;由茲感激,危城重安。如不褒升,何以獎勸!古玄應妻可封為徇忠縣君。」

宋庭瑜の妻魏氏

原文宋庭瑜妻魏氏

宋庭瑜の妻魏氏は、定州鼓城の人で、隋の著作郎彦泉の後裔である。代々山東の士族であった。父の克己は詞学に優れ、則天の時に天官侍郎となった。魏氏は文章をよくした。先天年中、庭瑜は司農少卿から左遷されて涪州別駕となった。魏氏は夫に従って任地に赴く途中、『南征賦』を作って志を述べた。言葉は甚だ典雅で美しかった。開元年中、庭瑜は累遷して慶州都督となった。初め、中書令張説は若い時に克己に重んじられていた。魏氏は夫が外職にあるのを恨み、そこで張説に手紙を書き、亡父がかつて交わったことを述べ、併せて庭瑜のことを弁明し、『南征賦』を書き写して張説に送った。張説は嘆じて言うには、「曹大家の『東征賦』の流れである」と。庭瑜はまもなく転じて広州都督となったが、道中で病没した。魏氏も十日ほどで亡くなった。当時の人は誰もがこれを傷んだ。

原文宋庭瑜妻魏氏,定州鼓城人,隋著作郎彥泉之後也。世為山東士族。父克己,有詞學,則天時為天官侍郎。魏氏善屬文。先天中,庭瑜自司農少卿左遷涪州別駕。魏氏隨夫之任,中路作《南征賦》以敘志,詞甚典美。開元中,庭瑜累遷慶州都督。初,中書令張說年少時為克己所重,魏氏恨其夫為外職,乃作書與說,敘亡父疇昔之事,並為庭瑜申理,乃錄《南征賦》寄說。說嘆曰:「曹大家《東征》之流也。」庭瑜尋轉廣州都督,道病卒。魏氏旬日亦殞,時人莫不傷之。

崔繪の妻盧氏

原文崔繪妻盧氏

崔繪の妻盧氏は、幽州范陽の人で、山東の著姓である。祖父は幼孫で、常州刺史であった。父の献は美名があり、則天の時に歴任して鸞臺侍郎・文昌左丞となった。天授年中、酷吏来俊臣に陥れられ、左遷されて西郷令となり、その任で没した。

原文崔繪妻盧氏,幽州范陽人也,為山東著姓。祖幼孫,常州刺史。父獻,有美名,則天時歷鸞臺侍郎、文昌左丞。天授中為酷吏來俊臣所陷,左遷西鄉令而卒。

繪は早くに亡くなり、盧はまだ若かったので、諸兄は常に彼女を再嫁させようとした。盧はいつも病気と称して固く辞した。盧の亡き姉の夫である李思沖は、神龍初年に工部侍郎となり、また縁組を継ぐことを求めた。当時、思沖は朝廷の美職にあり、諸兄はこれを拒まなかった。婚礼の前夜になって、ようやく盧に告げた。盧はまた固く辞して承知せず、なお人をしてその門を守らせた。盧は左右の者に言うには、「私の誓いはとっくに定まっている」と。そこで夜中に壁の穴から出て、崔氏の家に駆け戻った。髪も顔も糞穢で汚れていた。宗族でこれを見た者は皆、涙を流した。そこで出家して尼となり、諸尼はその操行を欽んで、皆尊んで仕えた。開元年中、老病によって没した。

原文繪早終,盧既年少,諸兄常欲嫁之。盧輒稱病固辭。盧亡姊之夫李思沖,神龍初為工部侍郎,又求續親。時思沖當朝美職,諸兄不之拒。將婚之夕,方以告盧;盧又固辭不可,仍令人防其門。盧謂左右曰:「吾自誓久已定矣!」乃夜中出自竇中,奔歸崔氏,髮面盡為糞穢所汙。宗族見者皆為之垂淚。因出家為尼,諸尼欽其操行,皆尊事之。開元中,以老病而卒。

奉天県の竇氏の二女

原文奉天縣竇氏二女

奉天県の竇氏の二女、伯娘と仲娘は、村野に育ったとはいえ、幼い時から志操があった。住まいは邠州と境を接していた。永泰年中、草賊数千人が兵刃を持ってその村落に入り、掠奪を行った。二女に容色があると聞き、姉は十九歳、妹は十六歳で、岩窟の間に隠れていた。賊徒は逼辱しようと企て、まず伯娘を引きずり出し、数十歩行くと、また仲娘を引きずり出した。賊は互いに顔を見合わせて自ら喜んだ。深い谷に臨んで行くと、伯娘は言うには、「私はどうして賊の汚辱を受けようか」と。そこで谷に身を投げた。賊がちょうど驚いていると、仲娘もまた谷に投じた。谷は深さ数百尺あり、姉はまもなく死んだ。仲娘は足を折り顔を破り、血が体を覆い流れ、気絶して久しくしてから蘇った。賊はその義を感じて去った。京兆尹第五琦はその貞烈に感じ、これを上奏した。詔して門閭を旌表し、長く丁役を免じ、二女の葬事は官が給した。京兆尹曹陸海が賦を著してこれを称えた。

原文奉天縣竇氏二女伯娘、仲娘,雖長於村野,而幼有志操。住與邠州接界。永泰中,草賊數千人,持兵刃入其村落行剽劫,聞二女有容色,姊年十九,妹年十六,藏於巖窟間。賊徒擬為逼辱,乃先曳伯娘出,行數十步,又曳仲娘出,賊相顧自慰。行臨深谷,伯娘曰:「我豈受賊汙辱!」乃投之於谷。賊方驚駭,仲娘又投於谷。谷深數百尺,姊尋卒;仲娘腳折面破,血流被體,氣絕良久而蘇,賊義之而去。京兆尹第五琦感其貞烈,奏之;詔旌表門閭,長免丁役,二女葬事官給。京兆尹曹陸海著賦以美之。

盧甫の妻李氏(王泛の妻裴氏)

原文盧甫妻李氏王泛妻裴氏

原武尉盧甫の妻李氏は、隴西成紀の人である。父の瀾は、永泰元年春に蘄県令に任じられた。管内には先に草賊二千余人がいた。瀾は身を挺して賊の中に入り、誠信をもって結びつけ、賊は皆降伏し帰附し、百姓で旧業に復した者は二百余家に及んだ。時に曹升が徐州刺史に任じられ、賊が降伏したことを知り、兵を率いて不意に襲撃した。賊が脱出した後、県に入って瀾を殺した。瀾が殺されようとしたとき、父方の従弟の渤が賊のもとに赴き瀾を救い、兄に代わって死ぬことを請うた。瀾はまた弟を残すことを請い、兄弟は死を争った。瀾の娘で盧甫の妻もまた、泣いて父に代わって死ぬことを請うた。三人とも賊に害され、宣慰使・吏部侍郎李季卿がその節義を上聞した。

原文原武尉盧甫妻李氏,隴西成紀人也。父瀾,永泰元年春任蘄縣令。界內先有草賊二千餘人。瀾挺身入賊,結以誠信,賊並降附,百姓復業者二百餘家。時曹升任徐州刺史,知賊降,領兵掩襲。賊得脫後,入縣殺瀾。瀾將被殺,從父弟渤,詣賊救瀾,請代兄死。瀾又請留弟,弟兄爭死。瀾女盧甫妻,又泣請代父死。並為賊所害,宣慰使、吏部侍郎李季卿以節義聞。

また尉氏尉王泛の妻裴氏がいた。儀王傅巨卿の娘である。平素から容姿に優れていたが、賊に捕らえられ、賊が彼女を迫った。裴は言うには、「私は衣冠の子である。死すべき時には死ぬべきであり、終に一時の命を苟めに全うし、賊に汚されることはない」と。賊は兵で脅し、罵って迫ったが、裴は力を尽くして抵抗した。賊は怒り、裴氏を四肢を切り離す刑に処したが、死に至るまで屈しなかった。季卿もまたその事跡を上聞した。

原文又有尉氏尉王泛妻裴氏,儀王傅巨卿之女也。素有容範,為賊所俘,賊逼之。裴曰:「吾衣冠之子,當死即死,終不茍全一命,受汙於賊。」賊脅之以兵,逼之以罵,裴堅力抗之。賊怒,乃支解裴氏,至死不屈。季卿亦以狀跡聞。

詔して曰く、「鄭州原武県の尉盧甫の亡妻李氏、汴州尉氏県の尉王泛の亡妻裴氏等は、懿範家に伝わり、柔明性に植え付けられたり。頃に寇難に因り、克く義烈を彰わす。或いは父に代わりて死せんことを請い、因心の孝を表し、或いは夫に逐いて亡ぜんことを誓い、奪い難き節を標す。宜しく贈律に膺り、休美を俾ち光らすべし。李氏は孝昌県君を贈るべく、裴氏は河東県君を贈るべし。仍って史冊に編入せよ。」瀾、渤も亦官秩を贈らる。

原文詔曰:「鄭州原武縣尉盧甫亡妻李氏、汴州尉氏縣尉王泛亡妻裴氏等,懿範傳家,柔明植性;頃因寇難,克彰義烈。或請代父死,表因心之孝;或誓逐夫亡,標難奪之節。宜膺贈律,俾光休美。李氏可贈孝昌縣君,裴氏可贈河東縣君,仍編入史冊。」瀾、渤亦贈官秩。

鄒待徵の妻簿氏

原文鄒待徵妻簿氏

鄒待徵の妻簿氏。待徵は、大暦年中に常州江陰県の尉たり。其の妻は海賊に掠め取らる。薄氏は節を守り、待徵の官誥を懐中より出だし、村人に托付し、使いて待徵に謂わしめて曰く、「義、辱を受けず」と。乃ち江に投じて死す。賊退き潮落ちて、待徵は江岸に於いて妻の屍を得たり。江左の文士、多く節婦の文を著して以て之を紀す。

原文鄒待徵妻簿氏。待徵,大歷中為常州江陰縣尉,其妻為海賊所掠。薄氏守節,出待徵官誥於懷中,托付村人,使謂待徵曰:「義不受辱。」乃投江而死。賊退潮落,待徵於江岸得妻屍焉。江左文士,多著節婦文以紀之。

李湍の妻

原文李湍妻

李湍の妻。湍は、呉元済の軍人なり。元和年中、淮南未だ平らかならず、湍は心に順に向かうことを懐き、乃ち急ぎ溵河を渡り、東に烏重胤に降る。其の妻遂に賊の為めに束縛せられ樹に在り、臠と為されて食らわる。死に至るまで、其の夫を叫んで曰く、「善く烏僕射に事えよ」と。観る者之を義とす。是に至り、重胤其の事を以て史冊に列せんことを請う。十三年、憲宗詔を下して之に従う。

原文李湍妻。湍,吳元濟之軍人也。元和中,淮南未平,湍心懷向順,乃急渡溵河,東降烏重胤。其妻遂為賊束縛在樹,臠而食之,至死,叫其夫曰:「善事烏僕射。」觀者義之。至是,重胤以其事請列史冊。十三年,憲宗下詔從之。

董昌齢の母楊氏

原文董昌齡母楊氏

董昌齢の母楊氏。昌齢は嘗て泗州長史たり。世に蔡に居す。少くして孤となり、母に訓を受けしむ。累ねて呉少誠・少陽に事え、元済の時に至り、呉房令と為る。楊氏潜かに誡めて曰く、「逆順の理、成敗知るべし。汝宜しく之を図るべし」と。昌齢志未だ果たさず、元濟又署して郾城令と為す。楊氏復た誡めて曰く、「逆党天を欺く、天の福さざる所なり。汝当に速やかに降るべし。以前の敗を以て慮いと為す無く、老母を以て念いと為す無かれ。汝忠臣と為らば、吾雖も歿すとも恨み無し」と。王師郾城に逼るに及び、昌齢乃ち城を以て降り、且つ賊将鄧懐金を説きて李光顔に帰款せしむ。憲宗之を聞きて喜び、急ぎ昌齢を召し闕に至らしめ、直に郾城令・兼監察御史を授け、仍って緋魚を賜う。昌齢泣いて謝して曰く、「此れ皆老母の訓なり」と。憲宗嗟嘆すること良久し。元濟楊氏を囚え、之を殺さんと欲す。而して止むる者数たびす。蔡平らぎ、楊氏幸いに恙無し。元和十五年、陳許節度使李遜楊氏の強明節義を疏して以て聞かしむ。乃ち北平郡太君に封ず。

原文董昌齡母楊氏。昌齡常為泗州長史,世居於蔡。少孤,受訓於母。累事吳少誠、少陽,至元濟時,為吳房令。楊氏潛誡曰:「逆順之理,成敗可知,汝宜圖之。」昌齡志未果,元濟又署為郾城令。楊氏復誡曰:「逆黨欺天,天所不福。汝當速降,無以前敗為慮,無以老母為念。汝為忠臣,吾雖歿無恨矣!」及王師逼郾城,昌齡乃以城降,且說賊將鄧懷金歸款於李光顏。憲宗聞之喜,急召昌齡至闕,直授郾城令、兼監察御史,仍賜緋魚。昌齡泣謝曰:「此皆老母之訓。」憲宗嗟嘆良久。元濟囚楊氏,欲殺之,而止者數矣。蔡平,楊氏幸無恙。元和十五年,陳許節度使李遜疏楊氏之強明節義以聞,乃封北平郡太君。

韋雍の妻蘭陵県君蕭氏

原文韋雍妻蘭陵縣君蕭氏

韋雍の妻蕭氏。雍は故に太子賓客。張弘靖幽州を鎮むる日、奏して観察判官を授け、監察御史を摂せしむ。時に朝廷の制置未だ備わらず、幽州の俗本より兇悍にして、尤も文儒を以て主帥と為すを楽しまず、賓佐常態に習い、其の変通に忿り、議論密ならず、卒然として乱を起こす。雍時に家も亦劫に従う。蕭氏難を聞きて号呼し、専ら夫の袂を執る。左右格て去るも、以て死すとも従わず。雍刃に臨むに及び、蕭氏涕して告げて曰く、「妾不幸にして年少なり。義苟も活くことをせず。今日の事、願わくは先ず死に就かん」と。刃を執る者其の臂を断ちて雍を殺す。蕭氏詞気撓まず。兇悍圜視すと雖も、嗟嘆せざる無し。其の夕、蕭氏亦卒す。太和六年、節度使楊志誠其の事を表明す。因って勅を降して追封し蘭陵県君と為す。

原文韋雍妻蕭氏。雍,故太子賓客。張弘靖鎮幽州日,奏授觀察判官,攝監察御史。時屬朝廷制置未備,幽州俗本兇悍,尤不樂文儒為主帥,賓佐習於常態,忿其變通,議論不密,卒然起亂。雍時家亦從劫,蕭氏聞難號呼,專執夫袂,左右格去,以死不從。及雍臨刃,蕭氏涕而告曰:「妾不幸年少,義不茍活;今日之事,願先就死!」執刃者斷其臂而殺雍,蕭氏詞氣不撓,雖兇悍圜視,無不嗟嘆。其夕,蕭氏亦卒。太和六年,節度使楊志誠表明其事,因降敕追封蘭陵縣君。

衡方厚の妻昌県君程氏

原文衡方厚妻昌縣君程氏

衡方厚の妻程氏。方厚は、太和中に邕州都督府録事参軍に任じ、招討使董昌齢の為めに誣え枉げられて殺さる。程氏力を以て免れ能わず、乃ち其の哀を抑え、冤に非ざるが如くす。昌齢雅に疑慮せず、其の帰葬を聴す。程氏故に以て徒行して闕に詣り、右銀台門に於いて耳を截ち、夫の殺されたる冤を告ぐることを得たり。御史台之を鞫くに、実を得たり。諫官も亦章疏有り。故に昌齢再び譴逐を受く。

原文衡方厚妻程氏。方厚,太和中任邕州都督府錄事參軍,為招討使董昌齡誣枉殺之。程氏力不能免,乃抑其哀,如非冤者。昌齡雅不疑慮,聽其歸葬。程氏故得以徒行詣闕,截耳於右銀臺門,告夫被殺之冤。御史臺鞫之,得實,諫官亦有章疏,故昌齡再受譴逐。

程氏に、開成元年勅を降して曰く、「乃ち者吏道に非ず、虐げて爾が夫を殺す。闕に詣りて冤を申す。徒行万里、崎嶇として逼畏し、危亡に濱す。血誠即ち昭らかにし、幽憤果たして雪がる。古の烈婦と雖も、何を以てか之に加えん!聞くに孤孀依る所無く、晝哭して尽きんことを待つと。禄養を栄えしめ、仍って疏封を賜う。武昌県君に封ずべく、仍って一子に九品正員官を賜うべし」と。

原文程氏,開成元年降敕曰:「乃者吏為不道,虐殺爾夫,詣闕申冤,徒行萬里,崎嶇逼畏,濱於危亡。血誠即昭,幽憤果雪,雖古之烈婦,何以加焉!如聞孤孀無依,晝哭待盡,俾榮祿養,仍賜疏封。可封武昌縣君,仍賜一子九品正員官。」

女道士李玄真

原文女道士李玄真

女道士李玄真は、越王貞の玄孫なり。曾祖珍子は、越王張の第六男なり。先天中に得罪し、配流して嶺南す。玄真の祖・父、皆亡歿すること嶺外に於いてす。嘗て恩赦に経ると雖も、未だ昭雪せず。玄真状を進めて曰く、「去る開成三年十二月内に、嶺南節度使盧鈞の俸銭を出だして接措するを得、妾が三代の旅櫬の暴露するを哀れみ、各一方に在るを、特と発遣し、大塋に帰り就きて合祔せしむ。今四喪を護り、已に長楽の旅店に到り権下す。未だ故越王の墳の所在を委ねず。伏して天恩を乞い、妾の奏する所を允し、大塋に帰るを許さんことを。妾年已に六十三、孤露家貧しく、更に依倚する所無し」と。詔して曰く、「越王の事跡は、国史に著明なり。枉く非辜に陥れられ、尋いで已に洗雪せり。其の珍子は他事に坐し配流し、数代漂零し、京国に還らず。玄真弱女、孝節卓然たり。四喪を啓護し、綿歴万里。況んや是れ近族なれば、必ず恩を加うべし。行路猶或いは嗟称し、朝廷固より恤助すべし。宗正寺・京兆府に委ねて越王の墳墓を訪ね報知せしむべし。陪陵に非ざれば、任せて塋次に祔し卜葬せしむべし。其の葬事は仍って京兆府に接措せしめ、必ず礼を備えしむべし。葬畢りて、玄真願わくは京城に住まば、便ち咸宜観に配して安置せしむべし」と。

原文女道士李玄真,越王貞之玄孫。曾祖珍子,越王張六男也。先天中得罪,配流嶺南。玄真祖、父,皆亡歿於嶺外。雖曾經恩赦,而未昭雪。玄真進狀曰:「去開成三年十二月內得嶺南節度使盧鈞出俸錢接措,哀妾三代旅櫬暴露,各在一方,特與發遣,歸就大塋合祔。今護四喪,已到長樂旅店權下,未委故越王墳所在,伏乞天恩,允妾所奏,許歸大塋。妾年已六十三,孤露家貧,更無依倚。」詔曰:「越王事跡,國史著明,枉陷非辜,尋已洗雪。其珍子他事配流,數代漂零,不還京國。玄真弱女,孝節卓然,啟護四喪,綿歷萬里;況是近族,必可加恩。行路猶或嗟稱,朝廷固須恤助。委宗正寺、京兆府與訪越王墳墓報知。如不是陪陵,任祔塋次卜葬。其葬事仍令京兆府接措,必使備禮。葬畢,玄真如願住京城,便配咸宜觀安置。」

孝女王和子(鄭神佐の女を附す)

原文孝女王和子鄭神佐女附

孝女王和子は、徐州の人である。その父と兄は防秋の兵卒となり、涇州を守備していた。元和年中、吐蕃が辺境を侵し、父と兄は戦死し、男子がなく、母は先に亡くなっていた。和子は時に十七歳、父と兄が辺境で死んだと聞き、髪を振り乱し、裸足で喪服を着て、ただ一人涇州へ向かった。行きながら物乞いをして父と兄の遺骸を取り、徐州に帰って葬儀を営んだ。手ずから松柏を植え、髪を切り形を損ない、墓の傍らに庵を結んだ。節度使王智興がその状況を上聞し、詔によって旌表された。

原文孝女王和子者,徐州人。其父及兄為防秋卒,戍涇州。元和中,吐蕃寇邊,父兄戰死,無子,母先亡。和子時年十七,聞父兄歿於邊上,被髮徒跣缞裳,獨往涇州。行丐取父兄之喪,歸徐營葬。手植松柏,剪髮壞形,廬於墓所。節度使王智興以狀聞,詔旌表之。

また大中五年、兗州瑕丘県の人鄭神佐の娘は、二十四歳で、先に馳雄牙官李玄慶に嫁ぐことを許されていた。神佐もまた官健として、慶州を守備していた。時に党項が叛き、神佐は戦死し、その母は先に亡く、男子がいなかった。娘は父が辺城で戦死し、帰還する由もないのを、髪を切り形を損ない、自ら慶州へ赴き父の遺骸を護って帰り、瑕丘県進賢郷馬青村に至り、母と合葬した。すなわち墓の傍らに庵を結び、手ずから松檜を植え、決して人に嫁がないと誓った。節度使蕭椒がその状況を奏上して言うには、「伏して考えるに、閭里の中では、礼教を知ることは稀であり、女子の性質は、特に義方に暗いものである。鄭氏の娘は痛みが窮泉に結び、哀しみは『陟岵』の詩のように深く、身を沙磧に投じ、父の遺骸を帰し、遠く辺陲より、閭里に還り得た。『蓼莪』の詩に感じて恨みを積み、丘墓を守って心を誓う。孝理の仁をよく顕わし、貞方の節を励ますに足る。」詔によって門閭を旌表した。

原文又大中五年,兗州瑕丘縣人鄭神佐女,年二十四,先許適馳雄牙官李玄慶。神佐亦為官健,戍慶州。時党項叛,神佐戰死,其母先亡,無子。女以父戰歿邊城,無由得還,乃剪髮壞形,自往慶州護父喪還,至瑕丘縣進賢鄉馬青村,與母合葬。便廬於墳所,手植松檜,誓不適人。節度使蕭椒以狀奏之曰:「伏以閭里之中,罕知禮教,女子之性,尤昧義方。鄭氏女痛結窮泉,哀深《陟岵》,投身沙磧,歸父遺骸,遠自邊陲,得還閭里。感《蓼莪》以積恨,守丘墓以誓心。克彰孝理之仁,足厲貞方之節。」詔旌表門閭。

賛して言う。政教が隆平であれば、男は忠、女は貞である。礼をもって自ら防ぎ、義をもって苟しくも生きない。彤管には煒なるものあり、蘭閨には声を振るう。『関雎』が『雅』に合い、始めて文明と号す。

原文贊曰:政教隆平,男忠女貞。禮以自防,義不茍生。彤管有煒,蘭閨振聲。《關雎》合《雅》,始號文明。