旧唐書 女子は陰柔の質を稟け、人に従うの義あり。前代は貞婦烈女を誌し、蓋しその礼を以て自ら防ぐ能を善くす。至りて身を賊庭に失い、非義に汚れず、白刃に臨んで慷慨し、丹衷を誓って激発す。粉身顧みず、死を視ること帰するが如し。壮夫に在りと雖も、恐らく節を守り難からん。窈窕の操、其れ賢ならずや。次に梁鴻の妻、偕に隠るるを辞せず、共姜の誓い、二庭を践まず。婦道母儀、克く図史に彰れ、又その長なり。末代風靡し、貞行寂寥たり。聊か椒蘭を播き、以て閨壺に貽す。彤管の職、幸いに忽せざらんことを。

旧唐書

女子は陰柔の質を稟け、人に従うの義あり。前代は貞婦烈女を誌し、蓋しその礼を以て自ら防ぐ能を善くす。至りて身を賊庭に失い、非義に汚れず、白刃に臨んで慷慨し、丹衷を誓って激発す。粉身顧みず、死を視ること帰するが如し。壮夫に在りと雖も、恐らく節を守り難からん。窈窕の操、其れ賢ならずや。次に梁鴻の妻、偕に隠るるを辞せず、共姜の誓い、二庭を践まず。婦道母儀、克く図史に彰れ、又その長なり。末代風靡し、貞行寂寥たり。聊か椒蘭を播き、以て閨壺に貽す。彤管の職、幸いに忽せざらんことを。

李德武の妻裴氏

李德武の妻裴氏、字は淑英、戸部尚書・安邑公矩の女なり。性婉順にして容徳あり、父母に事えて孝を以て聞こゆ。徳武に適す。一年を経て徳武、従父金才の事に坐して嶺表に徙る。矩、時に黄門侍郎たり、徳武の離婚を奏請し、よう帝之を許す。徳武将に裴と別れんとし、謂ひて曰く、「燕婉始めて爾り、便ち分離に事ふ。方に遠く瘴癘に投ぜんとす。還る理無からんことを恐る。尊君留めんと奏す。必ずや改嫁せんと欲するのみ。此に於いて即ち事長く訣せん。」裴泣きて対へて曰く、「婦人の夫に事ふるは、再醮の礼無し。夫は天なり。何ぞ背くべけんや。之を死を以て守り、必ず他志無からん。」因りて刀を操り耳を割きて自ら誓はんとす。保者之を禁め、乃ち止む。

裴、徳武と別れたる後、容貌毀悴し、常に仏経を読み、膏沢を御せず。李氏の姊妹都邑に在る者、歳時の朔望には、必ず左右を命じて致敬して之を省みしむ。裴又嘗て『烈女伝』を読み、改嫁せざる者を称述するを見て、乃ち親する所に謂ひて曰く、「二庭を践まずは、婦人の常理なり。何を以てか此を記伝に載すや。」後十余年の間、徳武と音信断絶す。矩其の志を奪はんと欲す。時に柳直求婚有り、之を許す。期定日有り、乃ち翦刀を以て其の髪を断ち、悲泣して粒を絶つ。矩奪ふ可からず、乃ち止む。徳武既に嶺表に於いて爾朱氏を娶りて妻と為す。及び赦に遇ひて還るを得、襄州に至り、裴の節を守るを聞き、乃ち其の後妻を出し、重ねて裴と合ふ。三男四女を生む。貞観中、徳武終に鹿城令に終はり、裴歳余りにして亦卒す。

楊慶の妻王氏(独孤師仁の乳母王氏を附す)

楊慶の妻王氏、世充の兄の女なり。慶は即ち隋の河間王弘の子なり。大業末、郇王に封ぜられ、滎陽けいよう太守と為る。後世充に陷る。世充兄の女を以て之に妻せしめ、管州刺史を授く。及び太宗洛陽を攻囲す。慶謀りて世充に背き、其の妻と俱に来りて国に帰らんと欲す。妻慶に謂ひて曰く、「鄭国妾を以て箕帚を公に奉る者は、以て公の心を結ばんとす。今既に其の行二三たり。恩を負き義に背き、自ら身の為に謀る。妾将に奈何せん。若し長安に至らば、則ち公家の婢のみ。願くは東都に送ることを得ん。公の恵なり。」慶聴かず。慶の出でたる後を伺ひ、侍者に謂ひて曰く、「唐兵若し勝たば、我が家則ち戚たり。鄭国危ふからず、吾が夫又死せば、進退谷に維る。何を以てか生かん。」乃ち薬を飲みて卒す。慶既に朝に入り、官宜州刺史に至る。

時に又独孤武都有り、謀りて王世充に叛きて国に帰らんとす。事覚え誅死す。武都の子師仁、年始めて三歳、世充其の年幼きを以て殺さず、使ひて禁掌せしむ。乳母王氏、号して蘭英、髡鉗を請ひ、入りて保養せんことを求む。世充之を許す。蘭英撫育提携し、備く筋力を尽くす。時に喪乱年饑え、人多く鋨死す。蘭英路を扶け乞丐捃拾す。遇ふ所の有るを得れば、便ち帰りて師仁に与ふ。蘭英唯だ土を啖ひ水を飲むのみ。後詐りて采拾し、乃ち窃かに師仁を帰して京師に就く。高祖其の義を嘉し、詔を下して曰く、「師仁の乳母王氏、慈恵聞こえ有り、撫鞠倦むこと無く、遺幼を提携し、逆を背きて朝に帰す。宜しく褒隆有るべく、以て其の号を錫すべし。永寿郡君に封ず可し。」

楊三安の妻李氏

楊三安の妻李氏、雍州涇陽の人なり。舅姑に事えて孝を以て聞こゆ。及び舅姑亡没し、三安亦死す。二子孩童、家貧窶に至る。李昼は則ち田に力を尽くし、夜は紡緝す。数年の間、舅姑及び夫の叔侄兄弟なる者七喪を葬り、深く遠近の嗟尚する所と為る。太宗聞きて之を異とし、帛二百段を賜ひ、州県の所在に遣りて之を存恤せしむ。

魏衡の妻王氏

魏衡の妻王氏、梓州郪の人なり。武徳初、薛仁杲の旧将房企地、梁郡を侵掠し、因りて王氏を獲、逼めて之を妻とす。後企地漸く強盛なり。衡謀りて城を以て賊に応ぜんとす。企地衆を領ひて将に梁州に趨らんとす。未だ数千里に至らざるに、酒を飲みて醉ひ臥す。王氏其の佩刀を取って之を斬り、其の首を携へて城に入る。賊衆乃ち散ず。高祖大いに悦び、崇義夫人に封じ、衡の賊と同きの罪を捨つ。

樊会仁の母敬氏

樊会仁の母敬氏、字は像子、蒲州河東の人なり。年十五、樊氏に適し、会仁を生みて夫喪ふ。舅姑姊姒に事えて謹順を以て聞こゆ。及び服終り、母兄其の盛年を以て、将に其の志を奪はんとす。微かに諷諭を加ふれば、便ち悲恨嗚咽す。此の如き者数四。母兄乃ち潜かに人に許して婚と為し、矯りて母の患ふと称して以て之を召す。凡そ営具する所は、皆之を鄰里に寄す。像子既に至り、母を省みて疾無し。鄰家復た肴善を具す。像子欺かれたるを知り、佯りて悟らざる者と為す。其の嫂復た像子に沐浴を請ふ。像子私かに会仁に謂ひて曰く、「吾不幸にして孀居す。誓って汝が父と同穴せん。所以に死せざる者は、徒だ我が母羸老、汝身幼弱なるを以てす。今汝が舅吾が志を奪はんと欲し、将に逼迫を加へんとす。汝に於いて何如。」会仁声を失ひて啼泣す。像子之を撫でて曰く、「汝啼く勿れ。吾向ひ偽りて覚えざる者は、汝が舅我を意とせざらしめんとす。汝の啼くを聞けば、吾覚悟するを知り、必ず妨備を加へん。則ち吾計を為し難からん。」会仁便ち佯りて睡る。像子是に於いて隙を伺ひて之を携へ遁れ帰る。中路、兄使いて追ひ之に及び、将に逼めて俱に返らしめんとす。像子必死を以て誓ひ、辞情甚だ切なり。其の兄感嘆して止む。后会仁年十八病卒す。時に像子の母已に終る。既に葬り、像子其の親する所に謂ひて曰く、「吾が老母不幸、又夫死し子亡ぶ。義久しく活く無し。」是に於いて号慟して食はず、数日にして死す。

絳州の孝女衛氏

絳州の孝女衛氏、字は無忌、夏県の人である。初め、その父が郷人の衛長則に殺された。無忌は六歳の時、母はまた再嫁し、兄弟もいなかった。成長するに及んで、常に復讐を思った。無忌の従伯が常に宴を設けて楽しんでいたが、長則も時に座に預かっていた。無忌は磚(煉瓦)でこれを撃ち殺した。やがて役所に赴き、父の仇は既に報いたと称し、刑戮に就くことを請うた。巡察大使・黄門侍郎の褚遂良がこれを聞き、太宗はその孝烈を嘉し、特に罪を免じ、伝駅の車馬を与えて雍州に移住させ、併せて田宅を与え、なお州県に命じて礼をもって嫁がせた。

濮州の孝女賈氏

孝女賈氏は、濮州鄄城の人である。年十五にして、その父が同族の賈玄基に害された。その弟の強仁は幼く、賈氏はこれを養育し、嫁がざることを誓った。強仁が成童に及んで、共に復讐を思うようになり、玄基を待ち伏せてこれを殺し、その心肝を取って父の墓に祭った。強仁をして自ら県に申し出させたところ、司法は極刑を断じた。賈氏は朝廷に赴き自ら己が行いを陳べ、強仁に代わって死ぬことを請うた。高宗はこれを哀れみ、特に詔を下して賈氏及び強仁を免罪とし、その家を洛陽に移した。

鄭義宗の妻盧氏

鄭義宗の妻盧氏は、幽州范陽の人、盧彦衡の女である。書史を少しばかり読み、舅姑に仕えて甚だ婦道を得ていた。嘗て夜に強盗数十人が杖を持ち騒ぎ立て、垣を越えて入って来た。家人は皆逃げ散ったが、姑のみが室にいた。盧氏は白刃を冒して姑の側に赴き、賊に殴打され、死に至らんとした。賊が去った後、家人が問うて曰く、「群兇が乱れ横暴に及ぶや、人は皆奔逃す。何ぞ独り懼れざるや」と。答えて曰く、「人の禽獣に異なる所以は、その仁義によるなり。昔、宋の伯姬は義を守って火に赴き、その称えは今に流る。吾は不敏なりと雖も、安んぞ義を忘れんや。且つ隣里に急あれば、尚お相赴き救う。況んや姑に在りて、而して委棄すべけんや。若し万一危禍あらば、豈に独り生きんや宜しからん」と。その姑は常に嘆いて云う、「古人は歳寒くして然る後に松柏の後凋を知ると称す。吾は今乃ち盧新婦の心を知る」と。貞観年中に卒す。

劉寂の妻夏侯氏

劉寂の妻夏侯氏は、滑州胙城の人、字は碎金。父の長雲は塩城県丞となり、疾いにより目を喪った。碎金は乃ち夫と離縁を求め、以て終生侍養せんとした。十五年を経て、後母にも仕え、至孝をもって聞こえた。父の卒するに及んで、毀瘠殆ど喪に堪えず、髪を振り乱し跣足で、土を負って墳を成し、墓の側に廬し、日に一食し、かくの如きこと積年を経た。貞観年中、詔有りてその門閭を表彰し、粟帛を賜う。

楚王霊亀の妃上官氏

楚王霊亀の妃上官氏は、秦州上邽の人。父は懐仁、右金吾将軍。上官氏は年十八、霊亀に嫁ぎ、楚哀王の後を継いだ。本生の父母(実父母)健在にして、朝夕侍奉し、恭謹ますます甚だし。凡そ新味有れば、舅姑の啖い終わらざれば、未だ嘗て先に嘗めず。数載を経て、霊亀薨ず。将に葬らんとするに及び、その前妃閻氏は、嫁して一年を逾えずして卒し、又近族無し。衆議これを挙げざらんと欲す。上官氏曰く、「必ずや神にして霊ならん。寧んぞ孤魂をして托する所無からしめんや」と。ここに於いて礼を備えて同葬し、聞く者嘉嘆せざるは莫し。服喪終わりて、諸兄姉謂いて曰く、「妃は年尚お少く、又所生無し。改めて異門に醮(再嫁)するは、礼儀の常範なり。妃はこれを思うべし」と。妃は涙を押し隠して対えて曰く、「丈夫は義烈を以て名を標し、婦人は節を守るを以て行いと為す。未だ即ち先ず犬馬に、以て溝壑に殉ぜずんば、寧んぞ復た妝服を飾り、他志有らんや」と。遽かに刀を将いて鼻を截り耳を割き以て自ら誓う。諸兄姉その志奪うべからざるを知り、嘆息して止む。尋いで卒す。

楊紹宗の妻王氏

楊紹宗の妻王氏は、華州華陰の人である。初め、年二歳にして、生母亡くなり、継母に養育された。十五歳に至り、父はまた遼東に出征して歿した。継母も尋いで卒した。王氏は乃ち生母及び継母の屍柩を収め、併せて父の形像を立て、招魂して遷葬し終え、墓の側に廬し、その祖父母及び父母の墳に陪した。永徽年中、詔して曰く、「故楊紹宗の妻王氏は、心に因りて孝と為し、性に率いて道を成す。年は桑楡に迫り、筋力衰謝す。往時に在りて隋朝に、父は遼左に歿し、招魂遷葬し、土を負って墳を成し、又その祖父母等を葬る。この老年をおかし、親しく板築を加う。痛みは晨昏に結び、哀しみは行路を感ず。永くその志行を言えば、嘉尚すること良く深し。宜しくその門閭を標し、以て敏徳を旌せ」と。物三十段、粟五十石を賜う。

于敏直の妻張氏

于敏直の妻張氏は、営州都督・皖城公の于儉の女である。数歳の時、父母が暫し疾い有れば、即ち顔色を観察し、左右を離れず、昼夜省み侍り、宛も成人の如し。稍々成長するに及び、恭順ますます甚だし。延寿公于欽明の子敏直に嫁す。初めて儉の疾い有るを聞けば、便ち即ち号踊自傷し、必ず死せんことを期す。儉の卒したる後、凶問至れば、号哭一慟して絶ゆ。高宗詔を下し、物百段を賜い、なお史官に録せしむ。

冀州の女子王氏

冀州鹿城の女子王阿足は、早く孤となり、兄弟無く、唯だ姉一人有り。阿足は初め同県の李氏に嫁し、未だ子無くして夫亡くなる。時に年尚お少く、人多くこれを聘せんとす。姉が年老いて孤寡なるを以て、捨て去ること能わず、乃ち嫁がざることを誓い、以てその姉を養う。毎晝は田業を営み、夜は便ち紡績し、衣食の須う所、阿足の出さざるは無く、かくの如く二十余年。姉の喪に及び、葬送を礼を以てす。郷人その節行を称えざるは莫く、競いて妻女をして相識ることを求めしむ。後数年、竟に家に終わる。

樊彥琛の妻魏氏

樊彥琛の妻魏氏は、楚州淮陰の人である。彦琛が病篤く、まさに死のうとしたとき、魏は泣いて言うには、「幸いにも愚陋の身をもって、明徳に身を寄せ、衣裳を奉じ侍ること二十余年に及んだ。まさか禍いが招き寄せたもので、急にこの禍に遭おうとは。ともに黄泉に入るのが、私の願いである」と。彦琛は答えて言うには、「死生は常の道であり、とくに恨むことはない。あなたは努めて励み、諸々の孤児を養い、彼らを成立させるがよい。もし私に従って死ねば、かえって累を残すことになり、私の望むところではない」と。彦琛が死んだ後、李敬業の乱に遭遇し、賊に捕らえられた。賊党は彼女がもとより弦楽器に通じていることを知り、箏を弾くことを強要した。魏氏は嘆いて言うには、「我が夫は不幸にも亡くなり、私は自ら命を絶つことができず、しばらく生き永らえているに過ぎない。今、あなたがたに管弦を強要されれば、これこそ禍が手から発するというものではないか」と。そこで刀を引いて指を切り、それを地に棄てた。賊党はまた彼女を妻にしようとしたが、魏は必ず死ぬと決めて固く守った。賊らは怒り、刃を頸に当てて言うには、「もし私に従わなければ、ただちに命を絶つぞ」と。そこで魏は声を張り上げて罵って言うには、「お前ら狗盗の輩が、よくも善人を汚辱しようとするものだ。今、速やかに死ぬことができれば、私の本志に叶う」と。賊はそこで彼女を斬った。聞く者は誰もが傷み惜しまなかった。

鄒保英の妻奚氏(古玄應の妻高氏を付載す)

鄒保英の妻奚氏は、どこの人か知らない。萬歳通天年間、契丹の賊李盡忠が平州を寇掠しに来た。保英は当時刺史の任にあり、兵を率いて討撃した。やがて城は孤立し援けは寡なく、情勢は陥落しようとしていた。奚氏はそこで家僮および城内の女丁を率いて、守りを固めるのを助けた。賊が退いた後、所司がこれを上聞し、優詔をもって誠節夫人に封じられた。

時に古玄應の妻高氏もまた、飛狐県城を固守することができ、ついに突厥に陥とされるのを免れた。詔を下して言うには、「近ごろ默啜が城を攻めた際、皆が陥没を憂えた。丈夫が固守しても、なお堅く保つことができなかったのに、婦人が忠を懐き、流れ矢をも恐れなかった。これによって感激し、危城は重ねて安泰となった。もし褒め上げなければ、どうして奨励できようか。古玄應の妻は徇忠県君に封ぜよ」と。

宋庭瑜の妻魏氏

宋庭瑜の妻魏氏は、定州鼓城の人で、隋の著作郎彦泉の後裔である。代々山東の士族であった。父の克己は詞学に優れ、則天の時に天官侍郎となった。魏氏は文章をよくした。先天年中、庭瑜は司農少卿から左遷されて涪州別駕となった。魏氏は夫に従って任地に赴く途中、『南征賦』を作って志を述べた。言葉は甚だ典雅で美しかった。開元年中、庭瑜は累遷して慶州都督となった。初め、中書令張説は若い時に克己に重んじられていた。魏氏は夫が外職にあるのを恨み、そこで張説に手紙を書き、亡父がかつて交わったことを述べ、併せて庭瑜のことを弁明し、『南征賦』を書き写して張説に送った。張説は嘆じて言うには、「曹大家の『東征賦』の流れである」と。庭瑜はまもなく転じて広州都督となったが、道中で病没した。魏氏も十日ほどで亡くなった。当時の人は誰もがこれを傷んだ。

崔繪の妻盧氏

崔繪の妻盧氏は、幽州范陽の人で、山東の著姓である。祖父は幼孫で、常州刺史であった。父の献は美名があり、則天の時に歴任して鸞臺侍郎・文昌左丞となった。天授年中、酷吏来俊臣に陥れられ、左遷されて西郷令となり、その任で没した。

繪は早くに亡くなり、盧はまだ若かったので、諸兄は常に彼女を再嫁させようとした。盧はいつも病気と称して固く辞した。盧の亡き姉の夫である李思沖は、神龍初年に工部侍郎となり、また縁組を継ぐことを求めた。当時、思沖は朝廷の美職にあり、諸兄はこれを拒まなかった。婚礼の前夜になって、ようやく盧に告げた。盧はまた固く辞して承知せず、なお人をしてその門を守らせた。盧は左右の者に言うには、「私の誓いはとっくに定まっている」と。そこで夜中に壁の穴から出て、崔氏の家に駆け戻った。髪も顔も糞穢で汚れていた。宗族でこれを見た者は皆、涙を流した。そこで出家して尼となり、諸尼はその操行を欽んで、皆尊んで仕えた。開元年中、老病によって没した。

奉天県の竇氏の二女

奉天県の竇氏の二女、伯娘と仲娘は、村野に育ったとはいえ、幼い時から志操があった。住まいは邠州と境を接していた。永泰年中、草賊数千人が兵刃を持ってその村落に入り、掠奪を行った。二女に容色があると聞き、姉は十九歳、妹は十六歳で、岩窟の間に隠れていた。賊徒は逼辱しようと企て、まず伯娘を引きずり出し、数十歩行くと、また仲娘を引きずり出した。賊は互いに顔を見合わせて自ら喜んだ。深い谷に臨んで行くと、伯娘は言うには、「私はどうして賊の汚辱を受けようか」と。そこで谷に身を投げた。賊がちょうど驚いていると、仲娘もまた谷に投じた。谷は深さ数百尺あり、姉はまもなく死んだ。仲娘は足を折り顔を破り、血が体を覆い流れ、気絶して久しくしてから蘇った。賊はその義を感じて去った。京兆尹第五琦はその貞烈に感じ、これを上奏した。詔して門閭を旌表し、長く丁役を免じ、二女の葬事は官が給した。京兆尹曹陸海が賦を著してこれを称えた。

盧甫の妻李氏(王泛の妻裴氏)

原武尉盧甫の妻李氏は、隴西成紀の人である。父の瀾は、永泰元年春に蘄県令に任じられた。管内には先に草賊二千余人がいた。瀾は身を挺して賊の中に入り、誠信をもって結びつけ、賊は皆降伏し帰附し、百姓で旧業に復した者は二百余家に及んだ。時に曹升が徐州刺史に任じられ、賊が降伏したことを知り、兵を率いて不意に襲撃した。賊が脱出した後、県に入って瀾を殺した。瀾が殺されようとしたとき、父方の従弟の渤が賊のもとに赴き瀾を救い、兄に代わって死ぬことを請うた。瀾はまた弟を残すことを請い、兄弟は死を争った。瀾の娘で盧甫の妻もまた、泣いて父に代わって死ぬことを請うた。三人とも賊に害され、宣慰使・吏部侍郎李季卿がその節義を上聞した。

また尉氏尉王泛の妻裴氏がいた。儀王傅巨卿の娘である。平素から容姿に優れていたが、賊に捕らえられ、賊が彼女を迫った。裴は言うには、「私は衣冠の子である。死すべき時には死ぬべきであり、終に一時の命を苟めに全うし、賊に汚されることはない」と。賊は兵で脅し、罵って迫ったが、裴は力を尽くして抵抗した。賊は怒り、裴氏を四肢を切り離す刑に処したが、死に至るまで屈しなかった。季卿もまたその事跡を上聞した。

詔して曰く、「鄭州原武県の尉盧甫の亡妻李氏、汴州尉氏県の尉王泛の亡妻裴氏等は、懿範家に伝わり、柔明性に植え付けられたり。頃に寇難に因り、克く義烈を彰わす。或いは父に代わりて死せんことを請い、因心の孝を表し、或いは夫に逐いて亡ぜんことを誓い、奪い難き節を標す。宜しく贈律に膺り、休美を俾ち光らすべし。李氏は孝昌県君を贈るべく、裴氏は河東県君を贈るべし。仍って史冊に編入せよ。」瀾、渤も亦官秩を贈らる。

鄒待徵の妻簿氏

鄒待徵の妻簿氏。待徵は、大暦年中に常州江陰県の尉たり。其の妻は海賊に掠め取らる。薄氏は節を守り、待徵の官誥を懐中より出だし、村人に托付し、使いて待徵に謂わしめて曰く、「義、辱を受けず」と。乃ち江に投じて死す。賊退き潮落ちて、待徵は江岸に於いて妻の屍を得たり。江左の文士、多く節婦の文を著して以て之を紀す。

李湍の妻

李湍の妻。湍は、呉元済の軍人なり。元和年中、淮南未だ平らかならず、湍は心に順に向かうことを懐き、乃ち急ぎ溵河を渡り、東に烏重胤に降る。其の妻遂に賊の為めに束縛せられ樹に在り、臠と為されて食らわる。死に至るまで、其の夫を叫んで曰く、「善く烏僕射に事えよ」と。観る者之を義とす。是に至り、重胤其の事を以て史冊に列せんことを請う。十三年、憲宗詔を下して之に従う。

董昌齢の母楊氏

董昌齢の母楊氏。昌齢は嘗て泗州長史たり。世に蔡に居す。少くして孤となり、母に訓を受けしむ。累ねて呉少誠・少陽に事え、元済の時に至り、呉房令と為る。楊氏潜かに誡めて曰く、「逆順の理、成敗知るべし。汝宜しく之を図るべし」と。昌齢志未だ果たさず、元濟又署して郾城令と為す。楊氏復た誡めて曰く、「逆党天を欺く、天の福さざる所なり。汝当に速やかに降るべし。以前の敗を以て慮いと為す無く、老母を以て念いと為す無かれ。汝忠臣と為らば、吾雖も歿すとも恨み無し」と。王師郾城に逼るに及び、昌齢乃ち城を以て降り、且つ賊将鄧懐金を説きて李光顔に帰款せしむ。憲宗之を聞きて喜び、急ぎ昌齢を召し闕に至らしめ、直に郾城令・兼監察御史を授け、仍って緋魚を賜う。昌齢泣いて謝して曰く、「此れ皆老母の訓なり」と。憲宗嗟嘆すること良久し。元濟楊氏を囚え、之を殺さんと欲す。而して止むる者数たびす。蔡平らぎ、楊氏幸いに恙無し。元和十五年、陳許節度使李遜楊氏の強明節義を疏して以て聞かしむ。乃ち北平郡太君に封ず。

韋雍の妻蘭陵県君蕭氏

韋雍の妻蕭氏。雍は故に太子賓客。張弘靖幽州を鎮むる日、奏して観察判官を授け、監察御史を摂せしむ。時に朝廷の制置未だ備わらず、幽州の俗本より兇悍にして、尤も文儒を以て主帥と為すを楽しまず、賓佐常態に習い、其の変通に忿り、議論密ならず、卒然として乱を起こす。雍時に家も亦劫に従う。蕭氏難を聞きて号呼し、専ら夫の袂を執る。左右格て去るも、以て死すとも従わず。雍刃に臨むに及び、蕭氏涕して告げて曰く、「妾不幸にして年少なり。義苟も活くことをせず。今日の事、願わくは先ず死に就かん」と。刃を執る者其の臂を断ちて雍を殺す。蕭氏詞気撓まず。兇悍圜視すと雖も、嗟嘆せざる無し。其の夕、蕭氏亦卒す。太和六年、節度使楊志誠其の事を表明す。因って勅を降して追封し蘭陵県君と為す。

衡方厚の妻昌県君程氏

衡方厚の妻程氏。方厚は、太和中に邕州都督府録事参軍に任じ、招討使董昌齢の為めに誣え枉げられて殺さる。程氏力を以て免れ能わず、乃ち其の哀を抑え、冤に非ざるが如くす。昌齢雅に疑慮せず、其の帰葬を聴す。程氏故に以て徒行して闕に詣り、右銀台門に於いて耳を截ち、夫の殺されたる冤を告ぐることを得たり。御史台之を鞫くに、実を得たり。諫官も亦章疏有り。故に昌齢再び譴逐を受く。

程氏に、開成元年勅を降して曰く、「乃ち者吏道に非ず、虐げて爾が夫を殺す。闕に詣りて冤を申す。徒行万里、崎嶇として逼畏し、危亡に濱す。血誠即ち昭らかにし、幽憤果たして雪がる。古の烈婦と雖も、何を以てか之に加えん!聞くに孤孀依る所無く、晝哭して尽きんことを待つと。禄養を栄えしめ、仍って疏封を賜う。武昌県君に封ずべく、仍って一子に九品正員官を賜うべし」と。

女道士李玄真

女道士李玄真は、越王貞の玄孫なり。曾祖珍子は、越王張の第六男なり。先天中に得罪し、配流して嶺南す。玄真の祖・父、皆亡歿すること嶺外に於いてす。嘗て恩赦に経ると雖も、未だ昭雪せず。玄真状を進めて曰く、「去る開成三年十二月内に、嶺南節度使盧鈞の俸銭を出だして接措するを得、妾が三代の旅櫬の暴露するを哀れみ、各一方に在るを、特と発遣し、大塋に帰り就きて合祔せしむ。今四喪を護り、已に長楽の旅店に到り権下す。未だ故越王の墳の所在を委ねず。伏して天恩を乞い、妾の奏する所を允し、大塋に帰るを許さんことを。妾年已に六十三、孤露家貧しく、更に依倚する所無し」と。詔して曰く、「越王の事跡は、国史に著明なり。枉く非辜に陥れられ、尋いで已に洗雪せり。其の珍子は他事に坐し配流し、数代漂零し、京国に還らず。玄真弱女、孝節卓然たり。四喪を啓護し、綿歴万里。況んや是れ近族なれば、必ず恩を加うべし。行路猶或いは嗟称し、朝廷固より恤助すべし。宗正寺・京兆府に委ねて越王の墳墓を訪ね報知せしむべし。陪陵に非ざれば、任せて塋次に祔し卜葬せしむべし。其の葬事は仍って京兆府に接措せしめ、必ず礼を備えしむべし。葬畢りて、玄真願わくは京城に住まば、便ち咸宜観に配して安置せしむべし」と。

孝女王和子(鄭神佐の女を附す)

孝女王和子は、徐州の人である。その父と兄は防秋の兵卒となり、涇州を守備していた。元和年中、吐蕃が辺境を侵し、父と兄は戦死し、男子がなく、母は先に亡くなっていた。和子は時に十七歳、父と兄が辺境で死んだと聞き、髪を振り乱し、裸足で喪服を着て、ただ一人涇州へ向かった。行きながら物乞いをして父と兄の遺骸を取り、徐州に帰って葬儀を営んだ。手ずから松柏を植え、髪を切り形を損ない、墓の傍らに庵を結んだ。節度使王智興がその状況を上聞し、詔によって旌表された。

また大中五年、兗州瑕丘県の人鄭神佐の娘は、二十四歳で、先に馳雄牙官李玄慶に嫁ぐことを許されていた。神佐もまた官健として、慶州を守備していた。時に党項が叛き、神佐は戦死し、その母は先に亡く、男子がいなかった。娘は父が辺城で戦死し、帰還する由もないのを、髪を切り形を損ない、自ら慶州へ赴き父の遺骸を護って帰り、瑕丘県進賢郷馬青村に至り、母と合葬した。すなわち墓の傍らに庵を結び、手ずから松檜を植え、決して人に嫁がないと誓った。節度使蕭椒がその状況を奏上して言うには、「伏して考えるに、閭里の中では、礼教を知ることは稀であり、女子の性質は、特に義方に暗いものである。鄭氏の娘は痛みが窮泉に結び、哀しみは『陟岵』の詩のように深く、身を沙磧に投じ、父の遺骸を帰し、遠く辺陲より、閭里に還り得た。『蓼莪』の詩に感じて恨みを積み、丘墓を守って心を誓う。孝理の仁をよく顕わし、貞方の節を励ますに足る。」詔によって門閭を旌表した。

賛して言う。政教が隆平であれば、男は忠、女は貞である。礼をもって自ら防ぎ、義をもって苟しくも生きない。彤管には煒なるものあり、蘭閨には声を振るう。『関雎』が『雅』に合い、始めて文明と号す。